2章
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夜は深まり、窓の外には薄い霧が漂っていた。
ランプの灯が淡く部屋の壁を照らし、二人の影を長く伸ばしている。
レギュラスは窓辺に立ち、背後で静かに息を潜めるアランの気配を感じていた。
彼女の沈黙は、もう言葉の代わりだった。
すべてを諦め、受け入れてしまった人のそれ。
シリウス――。
その名を思うたびに、胸が締めつけられる。
嫉妬でも怒りでもなく、もっと根の深い痛み。
どんなに彼女の心が兄の方へ傾こうとも、
現実だけは自分のものだということが、かろうじて彼を支えていた。
彼には確信があった。
セシール家の人間を、魔法省の高官へ就かせるという話はすでに動き出している。
アランの両親も、すでにその道を喜んで受け入れた。
“ブラック家との繋がり”――それがセシール家にとって何よりの安定であり、誇りだった。
たとえアランがシリウスを選びたいと願ったとしても、
それは許されない道だ。
彼女がそれを理解している限り、彼女は自分の傍に留まる。
それで十分だった。
愛されなくとも、失わなければいい。
その確信だけが、いまのレギュラスを辛うじて支えていた。
「アラン」
静かに名前を呼ぶ。
椅子に腰をかけた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
その翡翠の瞳には、どこか疲れた光が宿っている。
「シリウスへの思いは立派ですが……現実的ではないでしょう」
声は穏やかだった。
怒りも皮肉もなく、ただ理性的に。
それでも、その一言が空気を冷たく変えた。
「お父様やお母様のことも、忘れずにいるべきです」
アランの瞳が、かすかに揺れる。
その瞬間の小さな震えを、レギュラスは見逃さなかった。
彼は、彼女のその表情にほっとした。
自分の言葉が、彼女を現実に縛り戻した。
――そのことに、無意識のうちに安堵していた。
「レギュラス……父と母は巻き込みたくないわ」
彼女の声はかすかに震えていた。
抵抗ではなく、痛みの響き。
愛と責任のあいだで、揺れる音。
「そうでしょうね。僕もそんなことはしたくありません」
そう返す彼の声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥には、
“もう道は決まっている”という揺るぎない冷たさが潜んでいた。
アランは口を閉ざした。
沈黙の中で、レギュラスはゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
その手のひらは温かいのに、どこか遠い。
彼女を包みながら、まるで同時に突き放しているような、そんな矛盾した温度だった。
「僕はあなたを守ります」
そう告げる声は柔らかい。
けれど、そこに“自由”はなかった。
守るとは、従わせること。
愛するとは、支配すること。
それが、彼の信じる“正しさ”だった。
アランは静かに目を閉じた。
涙を流すことさえ、もう無意味に思えた。
闇の中で、自分の運命が誰かの意志の中に組み込まれていく感覚。
その冷たさに身を震わせながらも、
彼女はただ静かに受け入れるしかなかった。
レギュラスはその沈黙を“同意”と解釈した。
彼女が拒まなかったことに、わずかな救いを見出した。
「正しい道を選べば、すべてが守られます」
言い聞かせるように、囁く。
それが自分にも言い聞かせている言葉であることに、
彼は気づいていなかった。
暖炉の火がぱちりと音を立てて弾けた。
その瞬間、アランの瞳が一瞬だけ光を宿す。
だが、それは希望の光ではなかった。
決意にも似た、静かな諦め。
――自分の人生はもう、彼の手の中にあるのだと悟る光だった。
レギュラスは、その目に気づかない。
ただ、穏やかな顔で彼女を見つめていた。
まるで世界のすべてが正しい位置に戻ったかのように。
しかし、その“正しさ”が二人をゆっくりと切り裂いていくことを、
このときの彼はまだ知らなかった。
夜気はやわらかく、しかし肌に触れるたびに、どこか張りつめた冷たさを残していった。
休暇の屋敷は、静かで、広く、ひどく孤独な場所に思えた。
高い天井には古いシャンデリアが吊られ、揺らぐ炎が長い影を壁に落とす。
アランは台所に立ち、皿をひとつひとつ洗いながら、外の闇を見ていた。
今夜も、レギュラスは外出の支度を整えている。
黒いローブの裾が床を掠める音が、妙に胸を刺した。
かつて彼が夜に出かけるとき、それは見回りや学院の職務だった。
今は違う。
“集会”と呼ばれる場所へ向かう――その言葉の意味を、アランはもう知っている。
彼が何を誓い、誰と並び、どんな命令に従うのか。
想像するだけで胸が沈んでいった。
彼が外出するたび、心は不安に引きずられる。
今日は誰を裁いてきたのだろう。
誰を痛めつけたのだろう。
自分があの晩、恐怖と絶望の中で見た“あの男”のように、
レギュラスもまた、誰かに同じ痛みを与えたのではないか。
信じたいのに、信じきれない。
その狭間で心は軋み、少しずつひび割れていく。
皿を持つ手の震えが止まらなかった。
「アラン、手伝いますよ」
背後から静かな声がした。
驚いて振り向くと、そこにレギュラスがいた。
いつものように整えられた黒髪、落ち着いた仕草。
まるで何事もなかったかのような穏やかな顔。
その姿だけを見れば、かつて愛した優しい青年のままだった。
レギュラスは無言で皿を受け取り、乾燥の呪文をかけていく。
魔法の風が皿の表面を撫で、白い蒸気がふっと消えた。
何気ない動作に、いつもの穏やかさがあった。
アランの胸の奥で、懐かしい記憶が小さく疼く。
――昔から、こうやって黙って手を貸してくれた。
どんな些細なことにも目を配り、優しい言葉をかけてくれた。
けれど今、その優しさが恐ろしかった。
同じ手が、誰かを苦しめる呪文を放つのだと思うと、
その温もりをどう受け止めていいのかわからなくなる。
触れられるたび、心が遠のいていくようだった。
「アラン、終わったらお茶でも飲みましょう」
彼の声は柔らかく、いつも通りだった。
「淹れますね」
そう返した自分の声が、他人のもののように冷たく聞こえた。
レギュラスはただ頷き、微笑んだ。
きっと、何気ない時間を取り戻したかったのだろう。
アランも、それが分かっていた。
それでも、怖かった。
真正面から彼の灰色の瞳を見つめることが。
――あの瞳が、父や母の名を持ち出し、
「正しい道を」と冷ややかに告げた夜を思い出す。
まるで、自分の心の自由を封じる呪文のようだった。
その言葉の棘が、今も心の奥に刺さったままだ。
湯気の立つカップを前にしても、心はどこか別の場所にいた。
沈黙のなかで、食器の触れ合う小さな音だけが響く。
そのたびに、アランは“今”と“かつて”のあいだを彷徨った。
彼の優しさは変わらない。
それが、かえって痛い。
変わらないということは――彼が何も感じていないということなのかもしれない。
自分が崩れていくこの痛みを、彼は知らないままでいる。
大切な人が闇に染まりながらも、平然と笑っているという現実が、
静かにアランの心を壊していった。
暖炉の火がぱちりと弾けた。
その小さな音に、アランははっと顔を上げる。
レギュラスがこちらを見ていた。
優しい目で、何も問わず、ただ微笑んで。
その瞬間――
胸の奥で、何かがひどく痛んだ。
涙がこぼれそうになる。
けれど、泣くことさえ赦されないような気がして、
唇を固く結んだ。
“優しさと冷たさ”
その境目に立ち尽くすようにして、
アランはただ静かに、壊れかけた心を抱きしめてい
レギュラスの部屋に、湯気の細い筋を立てる紅茶の香りが漂っていた。
アランはトレイを両手で支え、その前に静かに立っていた。
光を柔らかく受け止める白磁のカップには、琥珀の液体が揺れ、そこに映る自分の顔はどこか他人のように見えた。
「アランも一緒に飲みましょう」
レギュラスの声は穏やかで、かすかに微笑みを含んでいた。
それは昔から変わらぬ優しい響きだった。だが、今はその奥に、彼女を逃がすまいとする静かな熱を感じ取ってしまう。
アランは、ほんの少しだけ首を振った。
「まだ、やらなければならない仕事が残っているから」
声は驚くほど冷静で、けれどその裏で胸の奥が痛んでいた。逃げ場を求めているのは自分のほうなのだと、彼女自身がいちばんよく分かっていた。
背を向けようとした瞬間、レギュラスの手が彼女の手を取った。
その掌は、いつもと変わらぬ温もりを持ちながらも、どこか決意を孕んでいた。
「無理はしないで、座ってください」
その言葉に込められたのは、従者を思いやる優しさと、どうしても手放したくないという執着の入り混じった色。
アランはその微妙な境界を敏感に感じ取ってしまう。
彼の隣に座ると、空気が急に重くなった。
シリウスの隣で感じた、あの自由な呼吸とはまるで違う。
レギュラスの隣は、息を潜めていなければ崩れてしまうような、張り詰めた緊張に満ちていた。
その静寂の中で、アランは小さく唇を噛んだ。
紅茶は、まるで二人の時間に取り残されたかのように、テーブルの上で静かに冷めていく。
立ち上る湯気は儚く、すぐに消えて、再び静けさだけが残った。
その瞬間、レギュラスの腕が伸び、アランの身体をやわらかく、けれど逃れられぬ力で押し倒した。
ソファの上、視界が傾き、天井の装飾が歪んで見える。
何が起こっているのかを理解するよりも早く、彼の呼吸の近さが、現実を突きつけてきた。
――逃げられない。
アランは静かに目を閉じ、ただその状況を受け止めた。
悲鳴も拒絶の言葉も、喉の奥で凍りついて動かない。
抵抗しても、レギュラスを傷つけるだけだということを、彼女は知っていた。
「アラン、好きです」
その言葉は、痛いほど真っ直ぐで、どこまでも純粋だった。
けれど、アランの沈黙がその告白に対する唯一の答えだった。
答えないこと、それが彼への拒絶だった。
なのに、彼はその沈黙を「受け入れ」と誤解したのか、優しく、けれど執拗に手を滑らせていく。
ブラウスのリボンが解かれる音が小さく響き、空気が微かに揺れた。
「器用ね……」
かすれた声でつぶやく。
それは皮肉でも挑発でもなく、現実から逃れるための細い糸――自分を保つための最後の言葉だった。
瞼の裏に浮かぶのは、別の人の面影。
――シリウス。
彼の「好きだ」という声、熱を帯びた抱擁。
あの夜に感じた息の混じり合うぬくもり。
優しく、激しく、彼女を一人の女性として愛したその人の姿が、幻のように胸を刺した。
今、この現実のすべてを、どうにかその記憶で上書きしてしまいたかった。
だが、冷たい現実は彼女を突き放す。
足が強引にソファの背もたれにかけられ、身体が無理に開かれる。
羞恥と屈辱とが一気に押し寄せ、目の奥が焼けるように熱くなる。
泣きたい。けれど泣いてしまえば、本当に壊れてしまう気がした。
だから、泣かなかった。
その代わり、心の奥で静かに叫んでいた。
――レギュラス、あなたのそれは「愛」じゃない。
本当の愛を知らないまま、孤独と義務と、幼い憧れを全部混ぜて、それを「愛」と呼んでしまっている。
そう思うと、アランの胸は張り裂けそうだった。
彼を責めたいわけでも、憎みたいわけでもない。
ただ、どうしても、彼の愛し方が間違っているように思えてならなかった。
レギュラスの指先が髪に触れ、頬をなぞる。
その仕草は、まるで宝物を扱うように丁寧だった。
けれどアランの心には、もはや何も響かない。
その優しさが、今はただ、痛かった。
薄闇の中、アランの意識はゆっくりと崩れていった。
思考は同じ場所を何度も何度も巡り、出口を見つけられずに渦を巻いている。
「彼の抱く思いは、本当に愛なのだろうか。それとも――何かの錯覚なのか」
答えを求めてしまうたび、胸の奥が痛く軋んだ。思考の隙間に流れ込む熱が、理性を溶かしていく。
吐息がこぼれるたびに、空気が濡れて頬を撫でた。
自分の声さえ他人のもののようで、その熱にまとわりつかれることが苦しく、逃げたくても逃げられない。
心は抗おうとするのに、身体は命令をきかない。
ただ、与えられる刺激に翻弄されるまま、波の上で掴むものを探していた。
「ああっ……」
小さな悲鳴は、言葉にもならず砕け散った。
込み上げてくる絶頂のような感覚が怖かった。
アランは必死にレギュラスへと腕を回した。
何かを求めてではない。ただ、自分を保つために。
こんなものは知らなくてよかった。
必要ではなかった。
静かな夜、そっと微笑みを交わしながら、互いの呼吸を感じ合うだけで満たされていたあの時間――
シリウスと育んできた愛の記憶が、刹那、胸の奥でひどく輝いた。
それがどれほど尊く、そして儚いものだったのか、今になって骨の髄まで思い知らされる。
レギュラスの指が触れるたび、体の奥に届く感覚が次第に強まり、
逃げ場のない奔流となって押し寄せる。
「やめて……レギュラス……」
震える声が空気を震わせた。
それでも、彼は止まらなかった。
耳元に、穏やかで優しい声が届く。
「怖くないですよ、大丈夫です」
その囁きはあまりにも静かで、優しさの仮面をかぶっていた。
けれど、その優しさの裏にあるものは、容赦のない熱。
甘く、激しく、抗いようもなく、暴力的なほどに官能の波を叩きつける。
アランの意識は遠のいていった。
視界が滲み、光が点滅するように揺れる。
ただその腕の中で、声を上げることしかできなかった。
何かから逃れたいのに、逃げるほど、快楽は深く追いかけてくる。
最後の理性が消える瞬間、アランはレギュラスの肩にすがり、呻くように息を吐いた。
身体の奥で何かが弾け、世界が白く染まる。
それは幸福ではなく、終焉に似た感覚――
胸の奥で涙のような痛みが膨らみ、
心の底から嗄れた声が漏れた。
「こんなものは、愛ではない。」
胸に焼き付いたその言葉が、消え入りそうな意識を縫い止める。
愛を求めていたはずなのに、いつの間にかその姿を見失っていた。
目を閉じれば、微笑むシリウスの幻が浮かび、
その穏やかさに触れた途端、堕ちていく今の自分がひどく惨めに思えた。
熱はまだ身体のどこかに残り、呼吸は乱れたまま。
けれど心だけが、どこまでも冷えていく。
それは、愛に似た痛みの残響。
そして、二度と戻れぬ優しい日々への、果てしない哀惜だった。
行為そのものが、レギュラスにとっては静かな鎮痛剤のようだった。
不安や焦燥が波のように押し寄せるたび、アランの体温だけがその揺れを鎮めてくれた。
彼女の髪に顔を埋めると、心のざわめきがほんの少しだけ遠のく。
自分の存在がここに確かにあるのだと、肌のぬくもりで確かめるように。
アランの中で何かが揺れているのを、彼は感じていた。
それが恐れであることも、ためらいであることも分かっていた。
だが、彼女を手放す勇気など持ち合わせていなかった。
理解されることよりも、今はただ「失わないこと」の方が、何よりも切実だったのだ。
――理解などいらない。
そう心の中で繰り返す。
思想も信念も違っていい。
自分と同じ方向を見なくても構わない。
ただ、この腕の中にいてくれれば、それでいい。
それだけが、唯一レギュラスを人間として繋ぎ止めるものだった。
アランの唇からこぼれた「いや……」というかすかな声が、
彼の胸をかき乱した。
拒絶の響きを含んでいるのに、それでも彼女は逃げようとはしなかった。
その矛盾が、レギュラスには息を呑むほど愛おしかった。
彼女の震えを感じるたび、どうしようもない庇護欲と、同じだけの罪悪感が胸を締めつけた。
何度も重ねた夜があった。
そのたびに、レギュラスは彼女の仕草、息づかい、痛みと快楽の境界を知っていった。
その学びが愛の証のように思えた。
アランが小さく息を呑むたびに、彼の中の「確かさ」が増していった。
言葉で通じ合えないなら、せめて身体で。
抱きしめる力の中で、互いの不安を閉じ込めようとしていた。
――それが、彼の「愛」の形だった。
誰にも教えられなかった愛し方。
与えられず、見たこともない、孤独な模倣の果て。
それでも彼は信じていた。
この行為が、いつかアランの心に自分の影を刻むと。
いつか、彼女の呼吸のどこかに、自分の存在が沁み込むと。
すべてが終わったあと、静寂が部屋を満たす。
遠くで時計の針がひとつ音を立て、冷めた紅茶の香りが微かに漂う。
レギュラスは息を整えながら、アランの肩に顔を寄せた。
その頬は冷たく、どこか遠い世界にいるようだった。
「アラン……好きです」
その言葉は、吐息に紛れて壊れそうに震えた。
腕の中の彼女は、何も答えなかった。
ただ目を閉じ、静かに呼吸をしている。
その沈黙が、拒絶であることを、レギュラスも分かっていた。
それでも、彼女が逃げずにそこにいる――
それだけで、彼の心は満たされてしまったのだ。
愚かしいほどに、切ない安堵。
この瞬間だけは、彼女は確かに自分の腕の中にいる。
だから彼は、静かに微笑んだ。
微笑みながら、自分がどれほど脆く、弱い存在なのかを知っていた。
この愛が、すでに彼の崩壊のはじまりであることにも、気づかぬふりをした。
紅茶の香りが薄れ、夜が深まっていく。
それでも、レギュラスは腕を解かなかった。
彼女を抱きしめるその腕こそが、彼の「生」そのもののように感じられたからだ。
闇の帳が降りるとともに、湿った空気が肌に張りつく夜だった。
レギュラスは数名のデスイーターと共に、任務の地へと足を踏み入れていた。
月は雲に覆われ、街灯の光だけが鈍く濁っている。
風のない夜は、不穏な静けさを湛えていた。
闇の帝王からの命はただ一つ――
「攫われた魔法使いを救い出し、その背後にいるマグルの軍勢を皆殺しにせよ」。
それは命令というよりも、裁きの宣告のように響いた。
レギュラスは、その言葉を歪んだ正義としてではなく、秩序の維持と捉えていた。
魔法を持たぬ者が、魔法使いを捕らえ、兵器として利用する――
その事実が、彼の心の底から冷たい怒りを呼び起こしていた。
「尊き魔法を汚すなど……」
口の中で低く呟くと、杖を握る手に力がこもる。
彼にとって、それはただの戦いではない。
魔法族としての尊厳を賭けた“浄化”だった。
やがて、暗闇の奥からマグルたちの怒号が響く。
機械仕掛けの音が連鎖し、次の瞬間、空気を裂く銃声が飛び交った。
閃光が夜空を裂き、火薬の臭いが鼻を刺す。
地面に散らばった魔法使いの遺骸がまだ温かい。
その血を踏みしめながら、レギュラスは息を整え、冷たい瞳で敵を見据えた。
彼の目に映るマグルたちは、獣にも等しかった。
彼らは躊躇なく引き金を引き、恐怖を撒き散らしながらも快楽に似た笑みを浮かべていた。
倒れた魔法使いの体を踏みつけ、兵士の一人が金属の銃床で顔を砕く。
「これが人間のやり方か……」
レギュラスの胸に、吐き気に似た怒りが広がる。
かつて焚刑台で焼かれ、化け物として扱われた魔法族。
だが今、その“化け物”と呼ばれた者たちを脅かしているのは、
他ならぬ「魔法を持たぬ者」たちの、冷酷な科学だった。
「アヴァダ・ケダブラ」
低く、静かな呪文が夜に溶ける。
閃光が走り、マグルの一人が音もなく崩れ落ちる。
血の飛沫も悲鳴もない。
死の呪文は、あまりに静かで、あまりに純粋だった。
それは“死”を与える行為でありながら、どこか清らかにさえ見えた。
「なんと野蛮なんです」
レギュラスが呟くと、隣にいたバーテミウスが冷ややかに笑う。
「かつて我々が恐怖の象徴だった頃の方が、まだ品がありましたね。
火炙りも、石打ちも、今に比べれば神聖に思える。
だが今のマグルは、魔法を持たぬ代わりに、機械で神を気取っている」
その声には嘲りと諦念が入り混じっていた。
銃弾が再び飛び交う。
仲間のひとりが胸を撃ち抜かれ、背後の木に激しくもたれかかる。
その瞬間、レギュラスの中で何かが弾けた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
ただ、底知れぬ虚しさだった。
人間は何を信じ、何を守ろうとしているのか。
命を奪うその行為に、どんな意味を見出しているのか。
理解したいとは思わない――
だが、理解できぬまま殺すことも、また痛みを伴った。
レギュラスは息を吸い、杖を振り上げた。
光が走り、数人のマグルが次々に崩れ落ちる。
彼らの持っていた銃が地に転がり、乾いた音を立てた。
血が泥と混じり、足元に広がっていく。
その匂いは、鉄錆と火薬、そして焦げた木の香りが入り混じっていた。
「これが人間の作る戦争ですか」
レギュラスの声は低く震えていた。
そこには怒りでも憎しみでもなく、哀しみがあった。
魔法族もまた、こうして滅びゆくのか――
力を持つ者と、持たぬ者。
どちらも互いを恐れ、滅ぼし合うだけの生き物。
それが“世界”の真理だとしたら、何と愚かなことか。
夜明け前、戦場に残ったのは、静まり返った死と煙の匂いだけだった。
レギュラスは杖を下ろし、瓦礫の上に立ち尽くす。
焼けた鉄と硝煙の匂いが、肺の奥まで染みる。
その手はまだ震えていた。
自分が何を守ったのか、もう分からなかった。
だが、闇の帝王の言葉が耳の奥でこだまする。
――「それが、純血の誇りだ」
レギュラスは静かに目を閉じた。
誇りとは、こんなにも重く、苦いものなのだろうか。
胸の奥で、誰にも見せられぬ涙が、ゆっくりと熱を持って滲んでいた。
屋敷の扉を開けた瞬間、灯りの下にアランの姿があった。
その小柄な身体が音もなく立ち上がり、レギュラスの帰還を迎えようとしていた。
だが、次の瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。
視線の先には、レギュラスのローブに飛び散った鮮やかな紅――。
それは血だった。
乾きかけて黒ずんだそれが、月明かりの下で不気味に光っている。
「……レギュラスそれは……」
言葉にならぬ問いが、彼女の唇の震えに宿っていた。
レギュラスは静かに目を伏せた。
あの戦場の光景が、一瞬にして蘇る。
銃声。閃光。崩れ落ちた仲間の身体。
その体を抱き上げたとき、温かい血が飛び散って頬に落ちた。
何度拭っても落ちないその感触が、まだ皮膚の奥に残っている。
「アラン……これは、僕の血じゃありません」
声は掠れていた。
説明しようとする言葉は、喉の奥で何度も詰まった。
「仲間が撃たれて……運んだときに、少し……」
だがアランの瞳は、彼の言葉の奥にある“何か”を読み取ろうとしていた。
その沈黙が、彼の心を鋭く刺す。
否定すればするほど、まるで弁明が罪を深めていくようだった。
「想像しているようなことじゃないんです。……明日、説明しますから」
やっとの思いでそう言ったが、アランの表情は何も変わらなかった。
彼女は無言のまま歩み寄り、慎重に彼のローブを受け取る。
指先に触れた布の冷たさに、一瞬眉を寄せたが、何も言わず踵を返した。
階段の方へ去っていく足音が、静まり返った屋敷に響く。
レギュラスはその背中を追いかけようと、わずかに手を伸ばした。
だが、その手は途中で止まり、空を掴んだまま降ろされた。
ため息が唇の隙間からこぼれ落ちる。
その吐息さえ、血の匂いを帯びているように思えた。
――ああ、また誤解を深めてしまった。
言葉を尽くしても、彼女の胸に届くことはない。
どんなに正義を信じようと、
「マグルを殺した」という事実の重さは、
アランの心を遠ざけるだけだ。
レギュラスはゆっくりと壁にもたれかかった。
長い戦闘の疲労が、全身にのしかかる。
けれどそれ以上に、アランの瞳に映った“恐れ”が、胸を締めつけて離れなかった。
彼女が感じたのは、血の汚れに対する嫌悪ではなく――
人が人を殺すという現実に触れたときの、心の底からの悲しみだった。
そのことを、レギュラスは痛いほど理解していた。
「違うんです、アラン……」
誰にも届かぬ声で呟く。
それでも、何度言葉を並べても、
“殺した”という一点だけが、彼女の胸に残り続けるのだろう。
ローブの袖を見下ろす。
乾いた血が、指先にざらりと引っかかる。
それを落とそうとして、爪で擦るが、簡単には落ちない。
まるで罪そのものが、皮膚に刻み込まれているようだった。
昼間、あれほど必死に身体で埋めようとした距離――
その儚い温もりが、今は幻のように遠かった。
結局、自分は何も埋められなかったのだ。
屋敷の中は深い静寂に包まれていた。
外では冬の風が木々を鳴らし、暖炉の火が静かに揺れている。
だが、その温もりさえ、彼の胸には届かない。
聞こえてくるのは、階上の扉が閉まる音だけ。
レギュラスはそっと目を閉じた。
あの扉の向こうにいる彼女の心が、
自分からどれほど遠ざかってしまったのか、想像するのも恐ろしかった。
――戦場で浴びた血よりも、
アランの沈黙の方が、ずっと痛い。
そう思った瞬間、胸の奥に、
言葉にならぬ熱が、静かに広がっていった。
夜は深く、屋敷はほとんどの灯りを落としていた。
静寂の中で、かすかな水音だけが響いている。
アランは台所の片隅で、レギュラスの黒いローブを洗っていた。
魔法の水がゆっくりと生地を包み、泡が淡く光を反射する。
彼女の指先がその表面をなぞるたび、水は薄い赤を帯びていった。
それは、まるで夜の闇の中で血の記憶が溶け出していくようだった。
黒い布は濡れると一層深い色を宿す。
そのせいで血の染みは見えにくいが、水面が証拠のようにそれを示していた。
――この赤は、誰のものだろう。
アランは、ふとそう思ってしまった。
その問いが胸の奥を鋭く突き、呼吸を乱す。
手のひらがわずかに震え、魔法の水面に波紋が広がった。
思い出すのは、あの夜のレギュラスの瞳だった。
「明日、説明します」と言った時の、どこか怯えたような、苦しげな光。
あの瞳が、今も脳裏にこびりついて離れない。
彼が何を見てきたのか、何を成し遂げ、何を壊してきたのか――。
想像するだけで、胸の奥がきゅっと痛んだ。
血に染まったローブを前に、涙が止まらなくなる。
ぽたり、と一滴が生地の上に落ちて、静かに滲んだ。
アランは慌てて目元を拭ったが、次から次へと涙があふれてくる。
止めようとしても止まらない。
その涙は恐怖のせいでも、怒りのせいでもなかった。
ただ――どうしても届かない場所に行ってしまった彼への、
圧倒的な無力感と喪失のせいだった。
レギュラスを止めることはできない。
闇の道を選んだ彼の背中に、どれほどの痛みが刻まれているのかを思うたび、
アランは息を詰めて泣くしかなかった。
自分は、もう祈ることしかできない。
けれど、その祈りさえ、届かない場所にいる彼を救えるものではない。
彼女の脳裏には、もう一人の人影が浮かぶ。
――シリウス。
あのまっすぐな瞳と、真昼のような笑顔。
その光と、今目の前にある暗闇は、あまりにも対照的だった。
兄弟である彼らが、いずれ敵として向かい合う未来を思うと、
胸の奥が氷のように冷たくなった。
愛しい人と、愛した人の弟。
その二人の間にある運命の亀裂を、どうしても受け入れることができなかった。
やがて、魔法の水が赤を含まなくなった。
アランはそっと手を止める。
乾燥の呪文を唱えると、濡れたローブがふわりと宙に浮き、
静かな風が吹くように水分が蒸発していった。
柔らかな黒い布が再び形を取り戻し、
暖炉の光がその裾を淡く照らす。
「夜中にすみません」
不意に背後から声がした。
アランは振り向いた。
そこには、疲れ切った顔のレギュラスが立っていた。
薄暗い光に照らされた彼の頬はやや青白く、
長い戦いの痕をそのまま引きずっているように見えた。
「誤解があるようです。……話を聞いてください」
レギュラスの声は低く、真剣だった。
だが、その言葉がアランの心を揺らすことはなかった。
彼が何を語ろうと、その根底にある“事実”は変わらない。
マグルを殺した。
闇の帝王の命を受けた。
その二つの事実が、彼の言葉のすべてを覆い尽くしてしまっていた。
「また明日にしましょう」
アランの声は穏やかだったが、その中にははっきりとした拒絶があった。
それは怒りではなく、静かな決意の響き。
これ以上、聞けば心が壊れてしまう。
だから、これ以上はもう――聞かない。
レギュラスが手を伸ばし、アランの手首を掴んだ。
その力は思いのほか強く、彼の焦りが伝わってくる。
「アラン……!」
その一言に、全ての哀しみと懇願が詰まっていた。
だが、アランはそっと彼の手から自分の腕を引き抜いた。
「お休みなさい」
言葉は短く、けれどその声には涙がにじんでいた。
階段を上る足音が遠ざかる。
レギュラスは動けぬまま、静かにその背を見送った。
手のひらには、まだ彼女の温もりが残っている。
だがそれは、掴もうとすればするほど、指の間から零れ落ちていくような温もりだった。
屋敷の中には、もう水音も、風の音もなかった。
ただ、乾いたローブが夜気に揺れ、
その黒が、深い闇と溶け合っていくように見えた。
シリウス・ブラックは、もうホグワーツにはいない。
彼が卒業してから、まだそう時間は経っていないはずなのに、
アランの胸の中では、彼の存在がすでに別の時の流れの彼方にあるように感じられた。
たった二年の差――それだけのはずだった。
けれどその二年という距離は、思いのほか大きく、
まるで永遠のように遠い隔たりに思えた。
彼がいない校舎は広すぎて、談話室の暖炉も、食堂のざわめきも、
どこか色を失ってしまったようだった。
シリウスがいない朝は、風の音がやけに響く。
彼の笑い声が聞こえた気がして振り返っても、
そこには誰もいない。
そのたびに、胸の奥がゆっくりと沈んでいくようだった。
それでもアランは、彼を誇りに思っていた。
卒業と同時に闇払いとしての道を選び、
危険な任務に身を投じながらも信念を貫こうとするその姿が、
誰よりも眩しく見えた。
「マグルも魔法使いも、分け隔てなく生きられる世界を作りたい」
そう語ったときの彼の横顔――
真っ直ぐな瞳の奥には、優しさと決意が同居していた。
アランはその光を、今も心の奥に抱きしめていた。
彼が目指す世界のためなら、自分も何かできるはず。
そう信じて日々を過ごしている。
そして、いつか再び彼と肩を並べられる日が来るように――
その希望が、アランの心を支えていた。
思い出すのは、あの約束。
「いつか、マグルの街で一緒に暮らそう」
ほんの冗談のように言った言葉が、
アランの中では宝石のように輝いていた。
石畳の並ぶ小さな通り、煙突のある煉瓦の家。
洗いたてのリネンが風に揺れ、
窓辺で紅茶を注ぐシリウスの笑顔――。
そんな淡い夢を思い浮かべるだけで、
胸の奥がじんわりと温かくなった。
その日、アランはブラック家の広い台所に立っていた。
夕食の支度を整える音だけが響く。
大理石の調理台の上では、鍋の中のスープが静かに泡立ち、
香草の香りがゆるやかに漂っていた。
外はすでに夕闇で、窓の向こうに見える庭は薄紫に染まっている。
ヴァルブルガ・ブラックは食卓にすでに座っていた。
背筋を伸ばし、手元の銀のカトラリーを整えながら、
その鋭い目がちらりとアランを捉える。
「奥様、紅茶はいかがですか?」
アランが静かに声をかけると、
ヴァルブルガは一拍の間を置いて、冷たく言った。
「結構よ」
短いその一言に、まるで氷の刃のような拒絶が含まれていた。
アランは微かに首を垂れ、黙ってティーポットを下げる。
わかっていた――彼女は、自分とレギュラスの関係を快く思っていない。
その視線の冷たさは、毎日のように突き刺さる。
けれど、もう傷つくこともなくなっていた。
心のどこかで、こう思っていたからだ。
――あと二年。たった二年の辛抱。
その二年を越えた先に、きっと違う空がある。
シリウスが信じたような、温かくて、誰も傷つけない世界。
その世界で、彼と再び笑い合える日がくる。
そう信じていれば、どんな冷たい言葉にも耐えられた。
アランは窓辺に立ち、暮れゆく空を見上げた。
紫と群青が溶け合い、遠くに星が滲み始めている。
シリウスが見上げているであろう同じ空が、
この屋敷の上にも広がっていると思うと、
胸の奥に小さな光が灯った。
彼は今どこで、どんな顔をしているのだろう。
戦場で冷たい風に吹かれながらも、
あの笑顔を忘れてはいないだろうか。
彼の中で、自分という存在が少しでも残っているのだろうか――。
考えるだけで、体の奥が熱くなる。
胸の鼓動が早まり、頬がほんのりと染まった。
アランは慌ててスプーンを持つ手を止め、
深く息を吸い込む。
冷たい空気が肺を満たし、心のざわめきが少しずつ落ち着いていく。
――シリウス。
あなたの光は、まだ私の中で消えていない。
たとえ遠く離れていても、
その輝きがある限り、私は進んでいける。
アランは小さく微笑んだ。
ヴァルブルガの冷たい気配も、レギュラスの影も、
その瞬間だけは遠く感じられた。
彼女の心は、はるか彼方の光――
シリウス・ブラックという名の星に向かって、
静かに伸びていった。
あの日から、アランとの間に横たわる見えない距離は、一度として縮まることはなかった。
互いの指が触れ合い、形式的に身体を重ねることはあっても、
その温もりの奥に、心の不在があることをレギュラスは痛いほど感じていた。
彼女の瞳は、いつもどこか遠くを見ていた。
その遠くの先にあるのが――兄、シリウスであることを、彼は言葉にせずとも悟っていた。
彼女がかつて笑っていた理由も、涙を隠した夜も、
その源は自分ではない。
けれど、それを責めることもできなかった。
シリウスがホグワーツを卒業し、もう戻ってこないと聞いたとき、
レギュラスは胸の奥で静かに安堵した。
彼の知らぬところで、二人だけの時間を紡いでいた“物語”が、
ようやく幕を閉じたのだと信じたかった。
その思いだけで、アランとの間にある溝が、
ほんの少しだけ浅くなった気がした。
――これからの長い時間をかけて、少しずつ埋めていけばいい。
彼女の心を奪うものがもうないのなら、自分の手で温め直せるはずだ。
そんな淡い希望が、レギュラスの胸の奥に小さく灯っていた。
けれど、その希望は一瞬で凍りつく。
父、オリオン・ブラックの呼び出しを受けたのは、
そんな穏やかな夜の翌朝のことだった。
書斎の扉が重い音を立てて閉まる。
外の光は厚いカーテンに遮られ、室内は深い影に沈んでいた。
古い書物とインクの香りが満ちる中、
父と子だけの静寂が広がる。
「闇の帝王からの任務を、そつなく果たしているそうだな」
オリオンの声は低く、冷ややかだった。
その声音には、褒める意図よりも、
試すような冷たい硬質さがあった。
「はい。父上のご期待を裏切らぬよう、務めております」
レギュラスはまっすぐ背筋を伸ばし、頭を垂れた。
自分が従順であることを示すその姿勢が、
父の前では唯一の安全だった。
アランを傍に置き続けるためには、
オリオンの承認が必要だった。
その条件として、闇の帝王から確かな信頼を得ること――
それが父の掲げた、残酷なまでに明確な指針だった。
レギュラスは忠実に従った。
自らの理想も感情も脇に置き、
ただ「ブラック家の子」としての義務を果たすことに徹した。
愛する者を守るために、最も非情な選択を取ること。
それが、この家で生きる唯一の道だった。
「ひとつ聞こう」
オリオンは静かに言った。
灰色の瞳が、獲物を見据える鷹のように鋭く光る。
「もし、あの女がこのブラックの名を貶めるようなことをしたら――
お前はどう責任を取るつもりだ」
言葉の一つ一つが、重い石となって胸に落ちる。
レギュラスは顔を上げ、父の瞳を見た。
その目には、感情の欠片もなかった。
何かを愛したことのない人間の、純粋な冷たさがそこにあった。
何度も向けられてきた視線だった。
だが、そのたびに胸の奥が凍えるような恐怖を覚える。
それは“父の怒り”ではなく、“純血の秩序の守護者”の審判だった。
血の誇りを汚す者には容赦なく鉄槌を下す。
オリオン・ブラックとは、そういう男だった。
―― アランがブラックの名を貶めるとは、どんな行為を指すのか。
たとえば、騎士団への通報。
あるいは、兄シリウスとの密通が明るみに出ること。
考えるだけで、息が詰まった。
父の言葉は、警告であり、同時に暗黙の命令でもあった。
「もしものことがあれば、あの女をどう罰する」
オリオンの声は、鋼のように冷たく、淡々としていた。
そこに私情は一切ない。
それは“家の意志”そのものとして響いていた。
レギュラスは唇を結んだ。
父が求めている答えを理解していた。
だが、その言葉を自分の口から出すことに、
ひどく抵抗を感じた。
「アランに限っては、そのようなことはないと思っています」
そう答える声は、わずかに震えていた。
沈黙が落ちる。
オリオンの瞳が、わずかに細められる。
「だが、もしそうなったら?」
「……父上は、どのような処罰を望まれますか」
問う声は、かすかに掠れていた。
「答えは一つだろう」
その一言に、情けも迷いもなかった。
断罪。
つまり、“死”だった。
空気が一瞬、重く沈む。
レギュラスは目を伏せた。
静かに息を吸い込み、吐き出す。
「従います」
その言葉は、まるで自分の心臓を切り離すように冷たく響いた。
父の表情は動かない。
だが、その沈黙の奥に、満足にも似た静かな肯定があった。
――これでいい。
ブラック家の名に恥じぬ子として、
お前は正しい道を選んだのだ。
そう言われた気がした。
書斎を出たとき、レギュラスの指先はわずかに震えていた。
窓の外では、夜が降り始めている。
星のない暗闇が、屋敷を包み込むように沈黙していた。
父の望む「正しさ」に従うこと――それは、アランを殺すことをも意味する。
愛する人を守るために、彼女を手にかけねばならない。
そんな矛盾が、胸の奥で重く疼いていた。
――父上の望む純血の誇りと、
自分の信じたい愛。
どちらも裏切ることができない。
けれど、どちらかしか選べない。
レギュラスは拳を握りしめた。
その中にあるのは、怒りではなく、恐れだった。
オリオン・ブラックという名の影に縛られたまま、
彼は静かに、自らの運命の重さを噛み締めていた。
ランプの灯が淡く部屋の壁を照らし、二人の影を長く伸ばしている。
レギュラスは窓辺に立ち、背後で静かに息を潜めるアランの気配を感じていた。
彼女の沈黙は、もう言葉の代わりだった。
すべてを諦め、受け入れてしまった人のそれ。
シリウス――。
その名を思うたびに、胸が締めつけられる。
嫉妬でも怒りでもなく、もっと根の深い痛み。
どんなに彼女の心が兄の方へ傾こうとも、
現実だけは自分のものだということが、かろうじて彼を支えていた。
彼には確信があった。
セシール家の人間を、魔法省の高官へ就かせるという話はすでに動き出している。
アランの両親も、すでにその道を喜んで受け入れた。
“ブラック家との繋がり”――それがセシール家にとって何よりの安定であり、誇りだった。
たとえアランがシリウスを選びたいと願ったとしても、
それは許されない道だ。
彼女がそれを理解している限り、彼女は自分の傍に留まる。
それで十分だった。
愛されなくとも、失わなければいい。
その確信だけが、いまのレギュラスを辛うじて支えていた。
「アラン」
静かに名前を呼ぶ。
椅子に腰をかけた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
その翡翠の瞳には、どこか疲れた光が宿っている。
「シリウスへの思いは立派ですが……現実的ではないでしょう」
声は穏やかだった。
怒りも皮肉もなく、ただ理性的に。
それでも、その一言が空気を冷たく変えた。
「お父様やお母様のことも、忘れずにいるべきです」
アランの瞳が、かすかに揺れる。
その瞬間の小さな震えを、レギュラスは見逃さなかった。
彼は、彼女のその表情にほっとした。
自分の言葉が、彼女を現実に縛り戻した。
――そのことに、無意識のうちに安堵していた。
「レギュラス……父と母は巻き込みたくないわ」
彼女の声はかすかに震えていた。
抵抗ではなく、痛みの響き。
愛と責任のあいだで、揺れる音。
「そうでしょうね。僕もそんなことはしたくありません」
そう返す彼の声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥には、
“もう道は決まっている”という揺るぎない冷たさが潜んでいた。
アランは口を閉ざした。
沈黙の中で、レギュラスはゆっくりと彼女の肩に手を置いた。
その手のひらは温かいのに、どこか遠い。
彼女を包みながら、まるで同時に突き放しているような、そんな矛盾した温度だった。
「僕はあなたを守ります」
そう告げる声は柔らかい。
けれど、そこに“自由”はなかった。
守るとは、従わせること。
愛するとは、支配すること。
それが、彼の信じる“正しさ”だった。
アランは静かに目を閉じた。
涙を流すことさえ、もう無意味に思えた。
闇の中で、自分の運命が誰かの意志の中に組み込まれていく感覚。
その冷たさに身を震わせながらも、
彼女はただ静かに受け入れるしかなかった。
レギュラスはその沈黙を“同意”と解釈した。
彼女が拒まなかったことに、わずかな救いを見出した。
「正しい道を選べば、すべてが守られます」
言い聞かせるように、囁く。
それが自分にも言い聞かせている言葉であることに、
彼は気づいていなかった。
暖炉の火がぱちりと音を立てて弾けた。
その瞬間、アランの瞳が一瞬だけ光を宿す。
だが、それは希望の光ではなかった。
決意にも似た、静かな諦め。
――自分の人生はもう、彼の手の中にあるのだと悟る光だった。
レギュラスは、その目に気づかない。
ただ、穏やかな顔で彼女を見つめていた。
まるで世界のすべてが正しい位置に戻ったかのように。
しかし、その“正しさ”が二人をゆっくりと切り裂いていくことを、
このときの彼はまだ知らなかった。
夜気はやわらかく、しかし肌に触れるたびに、どこか張りつめた冷たさを残していった。
休暇の屋敷は、静かで、広く、ひどく孤独な場所に思えた。
高い天井には古いシャンデリアが吊られ、揺らぐ炎が長い影を壁に落とす。
アランは台所に立ち、皿をひとつひとつ洗いながら、外の闇を見ていた。
今夜も、レギュラスは外出の支度を整えている。
黒いローブの裾が床を掠める音が、妙に胸を刺した。
かつて彼が夜に出かけるとき、それは見回りや学院の職務だった。
今は違う。
“集会”と呼ばれる場所へ向かう――その言葉の意味を、アランはもう知っている。
彼が何を誓い、誰と並び、どんな命令に従うのか。
想像するだけで胸が沈んでいった。
彼が外出するたび、心は不安に引きずられる。
今日は誰を裁いてきたのだろう。
誰を痛めつけたのだろう。
自分があの晩、恐怖と絶望の中で見た“あの男”のように、
レギュラスもまた、誰かに同じ痛みを与えたのではないか。
信じたいのに、信じきれない。
その狭間で心は軋み、少しずつひび割れていく。
皿を持つ手の震えが止まらなかった。
「アラン、手伝いますよ」
背後から静かな声がした。
驚いて振り向くと、そこにレギュラスがいた。
いつものように整えられた黒髪、落ち着いた仕草。
まるで何事もなかったかのような穏やかな顔。
その姿だけを見れば、かつて愛した優しい青年のままだった。
レギュラスは無言で皿を受け取り、乾燥の呪文をかけていく。
魔法の風が皿の表面を撫で、白い蒸気がふっと消えた。
何気ない動作に、いつもの穏やかさがあった。
アランの胸の奥で、懐かしい記憶が小さく疼く。
――昔から、こうやって黙って手を貸してくれた。
どんな些細なことにも目を配り、優しい言葉をかけてくれた。
けれど今、その優しさが恐ろしかった。
同じ手が、誰かを苦しめる呪文を放つのだと思うと、
その温もりをどう受け止めていいのかわからなくなる。
触れられるたび、心が遠のいていくようだった。
「アラン、終わったらお茶でも飲みましょう」
彼の声は柔らかく、いつも通りだった。
「淹れますね」
そう返した自分の声が、他人のもののように冷たく聞こえた。
レギュラスはただ頷き、微笑んだ。
きっと、何気ない時間を取り戻したかったのだろう。
アランも、それが分かっていた。
それでも、怖かった。
真正面から彼の灰色の瞳を見つめることが。
――あの瞳が、父や母の名を持ち出し、
「正しい道を」と冷ややかに告げた夜を思い出す。
まるで、自分の心の自由を封じる呪文のようだった。
その言葉の棘が、今も心の奥に刺さったままだ。
湯気の立つカップを前にしても、心はどこか別の場所にいた。
沈黙のなかで、食器の触れ合う小さな音だけが響く。
そのたびに、アランは“今”と“かつて”のあいだを彷徨った。
彼の優しさは変わらない。
それが、かえって痛い。
変わらないということは――彼が何も感じていないということなのかもしれない。
自分が崩れていくこの痛みを、彼は知らないままでいる。
大切な人が闇に染まりながらも、平然と笑っているという現実が、
静かにアランの心を壊していった。
暖炉の火がぱちりと弾けた。
その小さな音に、アランははっと顔を上げる。
レギュラスがこちらを見ていた。
優しい目で、何も問わず、ただ微笑んで。
その瞬間――
胸の奥で、何かがひどく痛んだ。
涙がこぼれそうになる。
けれど、泣くことさえ赦されないような気がして、
唇を固く結んだ。
“優しさと冷たさ”
その境目に立ち尽くすようにして、
アランはただ静かに、壊れかけた心を抱きしめてい
レギュラスの部屋に、湯気の細い筋を立てる紅茶の香りが漂っていた。
アランはトレイを両手で支え、その前に静かに立っていた。
光を柔らかく受け止める白磁のカップには、琥珀の液体が揺れ、そこに映る自分の顔はどこか他人のように見えた。
「アランも一緒に飲みましょう」
レギュラスの声は穏やかで、かすかに微笑みを含んでいた。
それは昔から変わらぬ優しい響きだった。だが、今はその奥に、彼女を逃がすまいとする静かな熱を感じ取ってしまう。
アランは、ほんの少しだけ首を振った。
「まだ、やらなければならない仕事が残っているから」
声は驚くほど冷静で、けれどその裏で胸の奥が痛んでいた。逃げ場を求めているのは自分のほうなのだと、彼女自身がいちばんよく分かっていた。
背を向けようとした瞬間、レギュラスの手が彼女の手を取った。
その掌は、いつもと変わらぬ温もりを持ちながらも、どこか決意を孕んでいた。
「無理はしないで、座ってください」
その言葉に込められたのは、従者を思いやる優しさと、どうしても手放したくないという執着の入り混じった色。
アランはその微妙な境界を敏感に感じ取ってしまう。
彼の隣に座ると、空気が急に重くなった。
シリウスの隣で感じた、あの自由な呼吸とはまるで違う。
レギュラスの隣は、息を潜めていなければ崩れてしまうような、張り詰めた緊張に満ちていた。
その静寂の中で、アランは小さく唇を噛んだ。
紅茶は、まるで二人の時間に取り残されたかのように、テーブルの上で静かに冷めていく。
立ち上る湯気は儚く、すぐに消えて、再び静けさだけが残った。
その瞬間、レギュラスの腕が伸び、アランの身体をやわらかく、けれど逃れられぬ力で押し倒した。
ソファの上、視界が傾き、天井の装飾が歪んで見える。
何が起こっているのかを理解するよりも早く、彼の呼吸の近さが、現実を突きつけてきた。
――逃げられない。
アランは静かに目を閉じ、ただその状況を受け止めた。
悲鳴も拒絶の言葉も、喉の奥で凍りついて動かない。
抵抗しても、レギュラスを傷つけるだけだということを、彼女は知っていた。
「アラン、好きです」
その言葉は、痛いほど真っ直ぐで、どこまでも純粋だった。
けれど、アランの沈黙がその告白に対する唯一の答えだった。
答えないこと、それが彼への拒絶だった。
なのに、彼はその沈黙を「受け入れ」と誤解したのか、優しく、けれど執拗に手を滑らせていく。
ブラウスのリボンが解かれる音が小さく響き、空気が微かに揺れた。
「器用ね……」
かすれた声でつぶやく。
それは皮肉でも挑発でもなく、現実から逃れるための細い糸――自分を保つための最後の言葉だった。
瞼の裏に浮かぶのは、別の人の面影。
――シリウス。
彼の「好きだ」という声、熱を帯びた抱擁。
あの夜に感じた息の混じり合うぬくもり。
優しく、激しく、彼女を一人の女性として愛したその人の姿が、幻のように胸を刺した。
今、この現実のすべてを、どうにかその記憶で上書きしてしまいたかった。
だが、冷たい現実は彼女を突き放す。
足が強引にソファの背もたれにかけられ、身体が無理に開かれる。
羞恥と屈辱とが一気に押し寄せ、目の奥が焼けるように熱くなる。
泣きたい。けれど泣いてしまえば、本当に壊れてしまう気がした。
だから、泣かなかった。
その代わり、心の奥で静かに叫んでいた。
――レギュラス、あなたのそれは「愛」じゃない。
本当の愛を知らないまま、孤独と義務と、幼い憧れを全部混ぜて、それを「愛」と呼んでしまっている。
そう思うと、アランの胸は張り裂けそうだった。
彼を責めたいわけでも、憎みたいわけでもない。
ただ、どうしても、彼の愛し方が間違っているように思えてならなかった。
レギュラスの指先が髪に触れ、頬をなぞる。
その仕草は、まるで宝物を扱うように丁寧だった。
けれどアランの心には、もはや何も響かない。
その優しさが、今はただ、痛かった。
薄闇の中、アランの意識はゆっくりと崩れていった。
思考は同じ場所を何度も何度も巡り、出口を見つけられずに渦を巻いている。
「彼の抱く思いは、本当に愛なのだろうか。それとも――何かの錯覚なのか」
答えを求めてしまうたび、胸の奥が痛く軋んだ。思考の隙間に流れ込む熱が、理性を溶かしていく。
吐息がこぼれるたびに、空気が濡れて頬を撫でた。
自分の声さえ他人のもののようで、その熱にまとわりつかれることが苦しく、逃げたくても逃げられない。
心は抗おうとするのに、身体は命令をきかない。
ただ、与えられる刺激に翻弄されるまま、波の上で掴むものを探していた。
「ああっ……」
小さな悲鳴は、言葉にもならず砕け散った。
込み上げてくる絶頂のような感覚が怖かった。
アランは必死にレギュラスへと腕を回した。
何かを求めてではない。ただ、自分を保つために。
こんなものは知らなくてよかった。
必要ではなかった。
静かな夜、そっと微笑みを交わしながら、互いの呼吸を感じ合うだけで満たされていたあの時間――
シリウスと育んできた愛の記憶が、刹那、胸の奥でひどく輝いた。
それがどれほど尊く、そして儚いものだったのか、今になって骨の髄まで思い知らされる。
レギュラスの指が触れるたび、体の奥に届く感覚が次第に強まり、
逃げ場のない奔流となって押し寄せる。
「やめて……レギュラス……」
震える声が空気を震わせた。
それでも、彼は止まらなかった。
耳元に、穏やかで優しい声が届く。
「怖くないですよ、大丈夫です」
その囁きはあまりにも静かで、優しさの仮面をかぶっていた。
けれど、その優しさの裏にあるものは、容赦のない熱。
甘く、激しく、抗いようもなく、暴力的なほどに官能の波を叩きつける。
アランの意識は遠のいていった。
視界が滲み、光が点滅するように揺れる。
ただその腕の中で、声を上げることしかできなかった。
何かから逃れたいのに、逃げるほど、快楽は深く追いかけてくる。
最後の理性が消える瞬間、アランはレギュラスの肩にすがり、呻くように息を吐いた。
身体の奥で何かが弾け、世界が白く染まる。
それは幸福ではなく、終焉に似た感覚――
胸の奥で涙のような痛みが膨らみ、
心の底から嗄れた声が漏れた。
「こんなものは、愛ではない。」
胸に焼き付いたその言葉が、消え入りそうな意識を縫い止める。
愛を求めていたはずなのに、いつの間にかその姿を見失っていた。
目を閉じれば、微笑むシリウスの幻が浮かび、
その穏やかさに触れた途端、堕ちていく今の自分がひどく惨めに思えた。
熱はまだ身体のどこかに残り、呼吸は乱れたまま。
けれど心だけが、どこまでも冷えていく。
それは、愛に似た痛みの残響。
そして、二度と戻れぬ優しい日々への、果てしない哀惜だった。
行為そのものが、レギュラスにとっては静かな鎮痛剤のようだった。
不安や焦燥が波のように押し寄せるたび、アランの体温だけがその揺れを鎮めてくれた。
彼女の髪に顔を埋めると、心のざわめきがほんの少しだけ遠のく。
自分の存在がここに確かにあるのだと、肌のぬくもりで確かめるように。
アランの中で何かが揺れているのを、彼は感じていた。
それが恐れであることも、ためらいであることも分かっていた。
だが、彼女を手放す勇気など持ち合わせていなかった。
理解されることよりも、今はただ「失わないこと」の方が、何よりも切実だったのだ。
――理解などいらない。
そう心の中で繰り返す。
思想も信念も違っていい。
自分と同じ方向を見なくても構わない。
ただ、この腕の中にいてくれれば、それでいい。
それだけが、唯一レギュラスを人間として繋ぎ止めるものだった。
アランの唇からこぼれた「いや……」というかすかな声が、
彼の胸をかき乱した。
拒絶の響きを含んでいるのに、それでも彼女は逃げようとはしなかった。
その矛盾が、レギュラスには息を呑むほど愛おしかった。
彼女の震えを感じるたび、どうしようもない庇護欲と、同じだけの罪悪感が胸を締めつけた。
何度も重ねた夜があった。
そのたびに、レギュラスは彼女の仕草、息づかい、痛みと快楽の境界を知っていった。
その学びが愛の証のように思えた。
アランが小さく息を呑むたびに、彼の中の「確かさ」が増していった。
言葉で通じ合えないなら、せめて身体で。
抱きしめる力の中で、互いの不安を閉じ込めようとしていた。
――それが、彼の「愛」の形だった。
誰にも教えられなかった愛し方。
与えられず、見たこともない、孤独な模倣の果て。
それでも彼は信じていた。
この行為が、いつかアランの心に自分の影を刻むと。
いつか、彼女の呼吸のどこかに、自分の存在が沁み込むと。
すべてが終わったあと、静寂が部屋を満たす。
遠くで時計の針がひとつ音を立て、冷めた紅茶の香りが微かに漂う。
レギュラスは息を整えながら、アランの肩に顔を寄せた。
その頬は冷たく、どこか遠い世界にいるようだった。
「アラン……好きです」
その言葉は、吐息に紛れて壊れそうに震えた。
腕の中の彼女は、何も答えなかった。
ただ目を閉じ、静かに呼吸をしている。
その沈黙が、拒絶であることを、レギュラスも分かっていた。
それでも、彼女が逃げずにそこにいる――
それだけで、彼の心は満たされてしまったのだ。
愚かしいほどに、切ない安堵。
この瞬間だけは、彼女は確かに自分の腕の中にいる。
だから彼は、静かに微笑んだ。
微笑みながら、自分がどれほど脆く、弱い存在なのかを知っていた。
この愛が、すでに彼の崩壊のはじまりであることにも、気づかぬふりをした。
紅茶の香りが薄れ、夜が深まっていく。
それでも、レギュラスは腕を解かなかった。
彼女を抱きしめるその腕こそが、彼の「生」そのもののように感じられたからだ。
闇の帳が降りるとともに、湿った空気が肌に張りつく夜だった。
レギュラスは数名のデスイーターと共に、任務の地へと足を踏み入れていた。
月は雲に覆われ、街灯の光だけが鈍く濁っている。
風のない夜は、不穏な静けさを湛えていた。
闇の帝王からの命はただ一つ――
「攫われた魔法使いを救い出し、その背後にいるマグルの軍勢を皆殺しにせよ」。
それは命令というよりも、裁きの宣告のように響いた。
レギュラスは、その言葉を歪んだ正義としてではなく、秩序の維持と捉えていた。
魔法を持たぬ者が、魔法使いを捕らえ、兵器として利用する――
その事実が、彼の心の底から冷たい怒りを呼び起こしていた。
「尊き魔法を汚すなど……」
口の中で低く呟くと、杖を握る手に力がこもる。
彼にとって、それはただの戦いではない。
魔法族としての尊厳を賭けた“浄化”だった。
やがて、暗闇の奥からマグルたちの怒号が響く。
機械仕掛けの音が連鎖し、次の瞬間、空気を裂く銃声が飛び交った。
閃光が夜空を裂き、火薬の臭いが鼻を刺す。
地面に散らばった魔法使いの遺骸がまだ温かい。
その血を踏みしめながら、レギュラスは息を整え、冷たい瞳で敵を見据えた。
彼の目に映るマグルたちは、獣にも等しかった。
彼らは躊躇なく引き金を引き、恐怖を撒き散らしながらも快楽に似た笑みを浮かべていた。
倒れた魔法使いの体を踏みつけ、兵士の一人が金属の銃床で顔を砕く。
「これが人間のやり方か……」
レギュラスの胸に、吐き気に似た怒りが広がる。
かつて焚刑台で焼かれ、化け物として扱われた魔法族。
だが今、その“化け物”と呼ばれた者たちを脅かしているのは、
他ならぬ「魔法を持たぬ者」たちの、冷酷な科学だった。
「アヴァダ・ケダブラ」
低く、静かな呪文が夜に溶ける。
閃光が走り、マグルの一人が音もなく崩れ落ちる。
血の飛沫も悲鳴もない。
死の呪文は、あまりに静かで、あまりに純粋だった。
それは“死”を与える行為でありながら、どこか清らかにさえ見えた。
「なんと野蛮なんです」
レギュラスが呟くと、隣にいたバーテミウスが冷ややかに笑う。
「かつて我々が恐怖の象徴だった頃の方が、まだ品がありましたね。
火炙りも、石打ちも、今に比べれば神聖に思える。
だが今のマグルは、魔法を持たぬ代わりに、機械で神を気取っている」
その声には嘲りと諦念が入り混じっていた。
銃弾が再び飛び交う。
仲間のひとりが胸を撃ち抜かれ、背後の木に激しくもたれかかる。
その瞬間、レギュラスの中で何かが弾けた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
ただ、底知れぬ虚しさだった。
人間は何を信じ、何を守ろうとしているのか。
命を奪うその行為に、どんな意味を見出しているのか。
理解したいとは思わない――
だが、理解できぬまま殺すことも、また痛みを伴った。
レギュラスは息を吸い、杖を振り上げた。
光が走り、数人のマグルが次々に崩れ落ちる。
彼らの持っていた銃が地に転がり、乾いた音を立てた。
血が泥と混じり、足元に広がっていく。
その匂いは、鉄錆と火薬、そして焦げた木の香りが入り混じっていた。
「これが人間の作る戦争ですか」
レギュラスの声は低く震えていた。
そこには怒りでも憎しみでもなく、哀しみがあった。
魔法族もまた、こうして滅びゆくのか――
力を持つ者と、持たぬ者。
どちらも互いを恐れ、滅ぼし合うだけの生き物。
それが“世界”の真理だとしたら、何と愚かなことか。
夜明け前、戦場に残ったのは、静まり返った死と煙の匂いだけだった。
レギュラスは杖を下ろし、瓦礫の上に立ち尽くす。
焼けた鉄と硝煙の匂いが、肺の奥まで染みる。
その手はまだ震えていた。
自分が何を守ったのか、もう分からなかった。
だが、闇の帝王の言葉が耳の奥でこだまする。
――「それが、純血の誇りだ」
レギュラスは静かに目を閉じた。
誇りとは、こんなにも重く、苦いものなのだろうか。
胸の奥で、誰にも見せられぬ涙が、ゆっくりと熱を持って滲んでいた。
屋敷の扉を開けた瞬間、灯りの下にアランの姿があった。
その小柄な身体が音もなく立ち上がり、レギュラスの帰還を迎えようとしていた。
だが、次の瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。
視線の先には、レギュラスのローブに飛び散った鮮やかな紅――。
それは血だった。
乾きかけて黒ずんだそれが、月明かりの下で不気味に光っている。
「……レギュラスそれは……」
言葉にならぬ問いが、彼女の唇の震えに宿っていた。
レギュラスは静かに目を伏せた。
あの戦場の光景が、一瞬にして蘇る。
銃声。閃光。崩れ落ちた仲間の身体。
その体を抱き上げたとき、温かい血が飛び散って頬に落ちた。
何度拭っても落ちないその感触が、まだ皮膚の奥に残っている。
「アラン……これは、僕の血じゃありません」
声は掠れていた。
説明しようとする言葉は、喉の奥で何度も詰まった。
「仲間が撃たれて……運んだときに、少し……」
だがアランの瞳は、彼の言葉の奥にある“何か”を読み取ろうとしていた。
その沈黙が、彼の心を鋭く刺す。
否定すればするほど、まるで弁明が罪を深めていくようだった。
「想像しているようなことじゃないんです。……明日、説明しますから」
やっとの思いでそう言ったが、アランの表情は何も変わらなかった。
彼女は無言のまま歩み寄り、慎重に彼のローブを受け取る。
指先に触れた布の冷たさに、一瞬眉を寄せたが、何も言わず踵を返した。
階段の方へ去っていく足音が、静まり返った屋敷に響く。
レギュラスはその背中を追いかけようと、わずかに手を伸ばした。
だが、その手は途中で止まり、空を掴んだまま降ろされた。
ため息が唇の隙間からこぼれ落ちる。
その吐息さえ、血の匂いを帯びているように思えた。
――ああ、また誤解を深めてしまった。
言葉を尽くしても、彼女の胸に届くことはない。
どんなに正義を信じようと、
「マグルを殺した」という事実の重さは、
アランの心を遠ざけるだけだ。
レギュラスはゆっくりと壁にもたれかかった。
長い戦闘の疲労が、全身にのしかかる。
けれどそれ以上に、アランの瞳に映った“恐れ”が、胸を締めつけて離れなかった。
彼女が感じたのは、血の汚れに対する嫌悪ではなく――
人が人を殺すという現実に触れたときの、心の底からの悲しみだった。
そのことを、レギュラスは痛いほど理解していた。
「違うんです、アラン……」
誰にも届かぬ声で呟く。
それでも、何度言葉を並べても、
“殺した”という一点だけが、彼女の胸に残り続けるのだろう。
ローブの袖を見下ろす。
乾いた血が、指先にざらりと引っかかる。
それを落とそうとして、爪で擦るが、簡単には落ちない。
まるで罪そのものが、皮膚に刻み込まれているようだった。
昼間、あれほど必死に身体で埋めようとした距離――
その儚い温もりが、今は幻のように遠かった。
結局、自分は何も埋められなかったのだ。
屋敷の中は深い静寂に包まれていた。
外では冬の風が木々を鳴らし、暖炉の火が静かに揺れている。
だが、その温もりさえ、彼の胸には届かない。
聞こえてくるのは、階上の扉が閉まる音だけ。
レギュラスはそっと目を閉じた。
あの扉の向こうにいる彼女の心が、
自分からどれほど遠ざかってしまったのか、想像するのも恐ろしかった。
――戦場で浴びた血よりも、
アランの沈黙の方が、ずっと痛い。
そう思った瞬間、胸の奥に、
言葉にならぬ熱が、静かに広がっていった。
夜は深く、屋敷はほとんどの灯りを落としていた。
静寂の中で、かすかな水音だけが響いている。
アランは台所の片隅で、レギュラスの黒いローブを洗っていた。
魔法の水がゆっくりと生地を包み、泡が淡く光を反射する。
彼女の指先がその表面をなぞるたび、水は薄い赤を帯びていった。
それは、まるで夜の闇の中で血の記憶が溶け出していくようだった。
黒い布は濡れると一層深い色を宿す。
そのせいで血の染みは見えにくいが、水面が証拠のようにそれを示していた。
――この赤は、誰のものだろう。
アランは、ふとそう思ってしまった。
その問いが胸の奥を鋭く突き、呼吸を乱す。
手のひらがわずかに震え、魔法の水面に波紋が広がった。
思い出すのは、あの夜のレギュラスの瞳だった。
「明日、説明します」と言った時の、どこか怯えたような、苦しげな光。
あの瞳が、今も脳裏にこびりついて離れない。
彼が何を見てきたのか、何を成し遂げ、何を壊してきたのか――。
想像するだけで、胸の奥がきゅっと痛んだ。
血に染まったローブを前に、涙が止まらなくなる。
ぽたり、と一滴が生地の上に落ちて、静かに滲んだ。
アランは慌てて目元を拭ったが、次から次へと涙があふれてくる。
止めようとしても止まらない。
その涙は恐怖のせいでも、怒りのせいでもなかった。
ただ――どうしても届かない場所に行ってしまった彼への、
圧倒的な無力感と喪失のせいだった。
レギュラスを止めることはできない。
闇の道を選んだ彼の背中に、どれほどの痛みが刻まれているのかを思うたび、
アランは息を詰めて泣くしかなかった。
自分は、もう祈ることしかできない。
けれど、その祈りさえ、届かない場所にいる彼を救えるものではない。
彼女の脳裏には、もう一人の人影が浮かぶ。
――シリウス。
あのまっすぐな瞳と、真昼のような笑顔。
その光と、今目の前にある暗闇は、あまりにも対照的だった。
兄弟である彼らが、いずれ敵として向かい合う未来を思うと、
胸の奥が氷のように冷たくなった。
愛しい人と、愛した人の弟。
その二人の間にある運命の亀裂を、どうしても受け入れることができなかった。
やがて、魔法の水が赤を含まなくなった。
アランはそっと手を止める。
乾燥の呪文を唱えると、濡れたローブがふわりと宙に浮き、
静かな風が吹くように水分が蒸発していった。
柔らかな黒い布が再び形を取り戻し、
暖炉の光がその裾を淡く照らす。
「夜中にすみません」
不意に背後から声がした。
アランは振り向いた。
そこには、疲れ切った顔のレギュラスが立っていた。
薄暗い光に照らされた彼の頬はやや青白く、
長い戦いの痕をそのまま引きずっているように見えた。
「誤解があるようです。……話を聞いてください」
レギュラスの声は低く、真剣だった。
だが、その言葉がアランの心を揺らすことはなかった。
彼が何を語ろうと、その根底にある“事実”は変わらない。
マグルを殺した。
闇の帝王の命を受けた。
その二つの事実が、彼の言葉のすべてを覆い尽くしてしまっていた。
「また明日にしましょう」
アランの声は穏やかだったが、その中にははっきりとした拒絶があった。
それは怒りではなく、静かな決意の響き。
これ以上、聞けば心が壊れてしまう。
だから、これ以上はもう――聞かない。
レギュラスが手を伸ばし、アランの手首を掴んだ。
その力は思いのほか強く、彼の焦りが伝わってくる。
「アラン……!」
その一言に、全ての哀しみと懇願が詰まっていた。
だが、アランはそっと彼の手から自分の腕を引き抜いた。
「お休みなさい」
言葉は短く、けれどその声には涙がにじんでいた。
階段を上る足音が遠ざかる。
レギュラスは動けぬまま、静かにその背を見送った。
手のひらには、まだ彼女の温もりが残っている。
だがそれは、掴もうとすればするほど、指の間から零れ落ちていくような温もりだった。
屋敷の中には、もう水音も、風の音もなかった。
ただ、乾いたローブが夜気に揺れ、
その黒が、深い闇と溶け合っていくように見えた。
シリウス・ブラックは、もうホグワーツにはいない。
彼が卒業してから、まだそう時間は経っていないはずなのに、
アランの胸の中では、彼の存在がすでに別の時の流れの彼方にあるように感じられた。
たった二年の差――それだけのはずだった。
けれどその二年という距離は、思いのほか大きく、
まるで永遠のように遠い隔たりに思えた。
彼がいない校舎は広すぎて、談話室の暖炉も、食堂のざわめきも、
どこか色を失ってしまったようだった。
シリウスがいない朝は、風の音がやけに響く。
彼の笑い声が聞こえた気がして振り返っても、
そこには誰もいない。
そのたびに、胸の奥がゆっくりと沈んでいくようだった。
それでもアランは、彼を誇りに思っていた。
卒業と同時に闇払いとしての道を選び、
危険な任務に身を投じながらも信念を貫こうとするその姿が、
誰よりも眩しく見えた。
「マグルも魔法使いも、分け隔てなく生きられる世界を作りたい」
そう語ったときの彼の横顔――
真っ直ぐな瞳の奥には、優しさと決意が同居していた。
アランはその光を、今も心の奥に抱きしめていた。
彼が目指す世界のためなら、自分も何かできるはず。
そう信じて日々を過ごしている。
そして、いつか再び彼と肩を並べられる日が来るように――
その希望が、アランの心を支えていた。
思い出すのは、あの約束。
「いつか、マグルの街で一緒に暮らそう」
ほんの冗談のように言った言葉が、
アランの中では宝石のように輝いていた。
石畳の並ぶ小さな通り、煙突のある煉瓦の家。
洗いたてのリネンが風に揺れ、
窓辺で紅茶を注ぐシリウスの笑顔――。
そんな淡い夢を思い浮かべるだけで、
胸の奥がじんわりと温かくなった。
その日、アランはブラック家の広い台所に立っていた。
夕食の支度を整える音だけが響く。
大理石の調理台の上では、鍋の中のスープが静かに泡立ち、
香草の香りがゆるやかに漂っていた。
外はすでに夕闇で、窓の向こうに見える庭は薄紫に染まっている。
ヴァルブルガ・ブラックは食卓にすでに座っていた。
背筋を伸ばし、手元の銀のカトラリーを整えながら、
その鋭い目がちらりとアランを捉える。
「奥様、紅茶はいかがですか?」
アランが静かに声をかけると、
ヴァルブルガは一拍の間を置いて、冷たく言った。
「結構よ」
短いその一言に、まるで氷の刃のような拒絶が含まれていた。
アランは微かに首を垂れ、黙ってティーポットを下げる。
わかっていた――彼女は、自分とレギュラスの関係を快く思っていない。
その視線の冷たさは、毎日のように突き刺さる。
けれど、もう傷つくこともなくなっていた。
心のどこかで、こう思っていたからだ。
――あと二年。たった二年の辛抱。
その二年を越えた先に、きっと違う空がある。
シリウスが信じたような、温かくて、誰も傷つけない世界。
その世界で、彼と再び笑い合える日がくる。
そう信じていれば、どんな冷たい言葉にも耐えられた。
アランは窓辺に立ち、暮れゆく空を見上げた。
紫と群青が溶け合い、遠くに星が滲み始めている。
シリウスが見上げているであろう同じ空が、
この屋敷の上にも広がっていると思うと、
胸の奥に小さな光が灯った。
彼は今どこで、どんな顔をしているのだろう。
戦場で冷たい風に吹かれながらも、
あの笑顔を忘れてはいないだろうか。
彼の中で、自分という存在が少しでも残っているのだろうか――。
考えるだけで、体の奥が熱くなる。
胸の鼓動が早まり、頬がほんのりと染まった。
アランは慌ててスプーンを持つ手を止め、
深く息を吸い込む。
冷たい空気が肺を満たし、心のざわめきが少しずつ落ち着いていく。
――シリウス。
あなたの光は、まだ私の中で消えていない。
たとえ遠く離れていても、
その輝きがある限り、私は進んでいける。
アランは小さく微笑んだ。
ヴァルブルガの冷たい気配も、レギュラスの影も、
その瞬間だけは遠く感じられた。
彼女の心は、はるか彼方の光――
シリウス・ブラックという名の星に向かって、
静かに伸びていった。
あの日から、アランとの間に横たわる見えない距離は、一度として縮まることはなかった。
互いの指が触れ合い、形式的に身体を重ねることはあっても、
その温もりの奥に、心の不在があることをレギュラスは痛いほど感じていた。
彼女の瞳は、いつもどこか遠くを見ていた。
その遠くの先にあるのが――兄、シリウスであることを、彼は言葉にせずとも悟っていた。
彼女がかつて笑っていた理由も、涙を隠した夜も、
その源は自分ではない。
けれど、それを責めることもできなかった。
シリウスがホグワーツを卒業し、もう戻ってこないと聞いたとき、
レギュラスは胸の奥で静かに安堵した。
彼の知らぬところで、二人だけの時間を紡いでいた“物語”が、
ようやく幕を閉じたのだと信じたかった。
その思いだけで、アランとの間にある溝が、
ほんの少しだけ浅くなった気がした。
――これからの長い時間をかけて、少しずつ埋めていけばいい。
彼女の心を奪うものがもうないのなら、自分の手で温め直せるはずだ。
そんな淡い希望が、レギュラスの胸の奥に小さく灯っていた。
けれど、その希望は一瞬で凍りつく。
父、オリオン・ブラックの呼び出しを受けたのは、
そんな穏やかな夜の翌朝のことだった。
書斎の扉が重い音を立てて閉まる。
外の光は厚いカーテンに遮られ、室内は深い影に沈んでいた。
古い書物とインクの香りが満ちる中、
父と子だけの静寂が広がる。
「闇の帝王からの任務を、そつなく果たしているそうだな」
オリオンの声は低く、冷ややかだった。
その声音には、褒める意図よりも、
試すような冷たい硬質さがあった。
「はい。父上のご期待を裏切らぬよう、務めております」
レギュラスはまっすぐ背筋を伸ばし、頭を垂れた。
自分が従順であることを示すその姿勢が、
父の前では唯一の安全だった。
アランを傍に置き続けるためには、
オリオンの承認が必要だった。
その条件として、闇の帝王から確かな信頼を得ること――
それが父の掲げた、残酷なまでに明確な指針だった。
レギュラスは忠実に従った。
自らの理想も感情も脇に置き、
ただ「ブラック家の子」としての義務を果たすことに徹した。
愛する者を守るために、最も非情な選択を取ること。
それが、この家で生きる唯一の道だった。
「ひとつ聞こう」
オリオンは静かに言った。
灰色の瞳が、獲物を見据える鷹のように鋭く光る。
「もし、あの女がこのブラックの名を貶めるようなことをしたら――
お前はどう責任を取るつもりだ」
言葉の一つ一つが、重い石となって胸に落ちる。
レギュラスは顔を上げ、父の瞳を見た。
その目には、感情の欠片もなかった。
何かを愛したことのない人間の、純粋な冷たさがそこにあった。
何度も向けられてきた視線だった。
だが、そのたびに胸の奥が凍えるような恐怖を覚える。
それは“父の怒り”ではなく、“純血の秩序の守護者”の審判だった。
血の誇りを汚す者には容赦なく鉄槌を下す。
オリオン・ブラックとは、そういう男だった。
―― アランがブラックの名を貶めるとは、どんな行為を指すのか。
たとえば、騎士団への通報。
あるいは、兄シリウスとの密通が明るみに出ること。
考えるだけで、息が詰まった。
父の言葉は、警告であり、同時に暗黙の命令でもあった。
「もしものことがあれば、あの女をどう罰する」
オリオンの声は、鋼のように冷たく、淡々としていた。
そこに私情は一切ない。
それは“家の意志”そのものとして響いていた。
レギュラスは唇を結んだ。
父が求めている答えを理解していた。
だが、その言葉を自分の口から出すことに、
ひどく抵抗を感じた。
「アランに限っては、そのようなことはないと思っています」
そう答える声は、わずかに震えていた。
沈黙が落ちる。
オリオンの瞳が、わずかに細められる。
「だが、もしそうなったら?」
「……父上は、どのような処罰を望まれますか」
問う声は、かすかに掠れていた。
「答えは一つだろう」
その一言に、情けも迷いもなかった。
断罪。
つまり、“死”だった。
空気が一瞬、重く沈む。
レギュラスは目を伏せた。
静かに息を吸い込み、吐き出す。
「従います」
その言葉は、まるで自分の心臓を切り離すように冷たく響いた。
父の表情は動かない。
だが、その沈黙の奥に、満足にも似た静かな肯定があった。
――これでいい。
ブラック家の名に恥じぬ子として、
お前は正しい道を選んだのだ。
そう言われた気がした。
書斎を出たとき、レギュラスの指先はわずかに震えていた。
窓の外では、夜が降り始めている。
星のない暗闇が、屋敷を包み込むように沈黙していた。
父の望む「正しさ」に従うこと――それは、アランを殺すことをも意味する。
愛する人を守るために、彼女を手にかけねばならない。
そんな矛盾が、胸の奥で重く疼いていた。
――父上の望む純血の誇りと、
自分の信じたい愛。
どちらも裏切ることができない。
けれど、どちらかしか選べない。
レギュラスは拳を握りしめた。
その中にあるのは、怒りではなく、恐れだった。
オリオン・ブラックという名の影に縛られたまま、
彼は静かに、自らの運命の重さを噛み締めていた。
