2章
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侵入者の名が判明するのに、そう時間はかからなかった。
アラン・セシール。
その名を耳にした途端、部屋の空気が変わった。
彼女がブラック家当主オリオン・ブラックの屋敷に仕える者であると知れるや、
デスイーターたちの間に、わずかなざわめきが走る。
ひとりの少女に過ぎないはずの存在が、思いもよらぬ影を背負っていた。
「……ブラック家の使用人だと?」
誰かが低く呟くと、場の緊張が静かに波紋を描いた。
そして間もなく、闇の館の扉が音もなく開いた。
そこに現れたのは、黒衣を纏ったひとりの男——オリオン・ブラックだった。
冷え切った空気の中、その姿は圧倒的な存在感を放っていた。
長身で、動作の一つひとつが研ぎ澄まされている。
表情は、氷のように整っていた。
感情というものが、彼の顔から完全に削ぎ落とされている。
「——すまない。我が家の者が、誤解を招く真似をしてしまったようだ」
その声は穏やかだったが、静かな深みを持つ低音が、空間全体を支配した。
謝罪の言葉でありながら、そこに柔らかさは一片もなかった。
まるで自らの権威を再確認させるような、冷たい威圧。
その一言で、デスイーターたちは頭を垂れ、誰一人逆らうことはなかった。
アランは呆然と立ち尽くしていた。
自らが仕える主人が、闇の中で最も恐れられる者たちに囲まれながらも、一歩も退かぬ姿。
その光景は、尊敬ではなく、純粋な恐怖を呼び起こした。
彼が謝罪の言葉を口にしているという事実が、むしろ息苦しかった。
——その謝罪は、自分を庇うためのものではない。
屋敷の名を汚さぬためのものだ。
「……すみません、オリオン様」
震える声が喉から漏れた。
かすれた音に、自分でも驚く。
オリオンはゆっくりと視線を落とした。
その灰色の瞳には、怒りでも憐憫でもない。
ただ、冷徹な静寂が宿っていた。
「立ちなさい、アラン」
命令は静かでありながら、拒絶を許さぬ硬質さを含んでいた。
アランは震える膝に力を込め、床を押して立ち上がる。
その動作の一つひとつが、痛みに軋み、呼吸を詰まらせた。
オリオンは一瞥するだけで状況を測り、何も問わなかった。
そこに「何があったのか」など、彼にとっては取るに足らないことだった。
重要なのは、ブラック家の名に瑕をつけないこと——それだけだ。
「行くぞ」
短い言葉とともに、彼は杖を軽く振る。
空気が一瞬ねじれ、視界が歪んだ。
姿くらましの魔法が発動し、アランの身体はふわりと浮くような感覚に包まれた。
耳鳴りが広がり、次の瞬間には、屋敷の廊下の床に転がっていた。
身体の中が、まだ現実についていけない。
床に手をつこうとしたが、力が入らなかった。
膝が崩れ、意識が白く滲む。
そのすぐ傍に、靴音が近づく。
「これ以上、私を失望させるな」
その声は、低く抑えられていたが、刃のように鋭かった。
怒鳴り声よりも、遥かに冷たく、深く突き刺さる響き。
まるで言葉そのものが罰であるかのようだった。
アランの背筋が自然と震え、息が浅くなる。
——助けられたのではない。
ただ、“引き戻された”のだ。
オリオンの瞳には、情けも救いもない。
彼にとってアランは、家の管理下から外れた駒。
一度外れた駒を拾い戻すのは、秩序のためであり、慈悲のためではない。
冷たい沈黙が二人を包む。
屋敷の空気は凍るように張りつめ、時間さえ動かなくなったようだった。
アランは床に膝をついたまま、顔を上げることができなかった。
胸の奥が、何か鋭いもので締めつけられる。
それは、痛みではなく——羞恥と絶望の混ざった、静かな苦しみ。
オリオンは一度も彼女に触れなかった。
ただ、背を向けて歩き去る。
その背中は完璧で、恐ろしく、そして遠かった。
アランは、崩れ落ちるように床に手をつき、冷たい石の感触を指先で確かめた。
その冷たさこそが、唯一確かな現実のように思えた。
自分がまだ“ここに戻された”ということを、
まるで罪の烙印のように、皮膚の下で感じていた。
夜の特急は、静寂を纏って走り続けていた。
窓の外では闇が流れ、時折、森の木々の影が光の筋に切り裂かれては遠ざかっていく。
アランはその移ろう景色を、ただ無言で見つめていた。
瞼の裏にはまだ、あの夜の残滓がこびりついている。
冷たい石の床、焼けるような痛み、誰かの笑い声、そして——沈黙。
それでも列車は進む。
ホグワーツへ向かうこの鉄の道は、変わらず光へと続いているはずなのに、
アランの胸の中では、どこにも辿り着けないような深い闇が渦巻いていた。
これから、彼にどんな顔を向ければいいのだろう。
レギュラスの前で、どんな言葉を紡げばいいのだろう。
あの人が自分の知らぬ間に、どれほど深く闇に手を伸ばしてしまったのか——
知ってしまった今、もう、かつてのようには微笑めない。
彼の手は、誰かの命を奪ってしまったかもしれない。
あるいは、これから奪うのかもしれない。
かつて自分を抱きしめてくれたその優しい指が、
いまでは、冷たい呪文を放つために握られているのだろうか。
胸の奥から、どうしようもない嫌悪と悲しみがせり上がる。
——それでも。
シリウスのように陽気で眩しい光ではなく、
レギュラスの愛は、静かで、繊細で、どこまでも深かった。
その優しさに何度救われたか、もう数えきれない。
小さな仕草、言葉の端に滲む思いやり、目を合わせたときの柔らかな眼差し。
その一つ一つが、アランの孤独を溶かしてくれた。
だからこそ、もう戻れない。
彼が、あの世界に属しているという事実があまりにも痛い。
寝室の壁に貼られていた闇の帝王の切り抜き。
純血主義を讃える雑誌の切り抜き。
いつからだろう——
それを見ても何も言えなくなってしまったのは。
彼の瞳に曇りを感じながら、気づかぬふりをして笑っていた自分が、
いまでは一番、愚かしく思えた。
ホグワーツ特急が緩やかに速度を落とし、蒸気の音が夜気を震わせた。
ホームに降り立った瞬間、夜の冷気が頬を撫でる。
アランはふと立ち止まり、吐いた息が白くほどけるのを見つめた。
そのとき——
「アラン!」
名前を呼ぶ声に振り向く。
そこに、レギュラスがいた。
いつものように整った髪、上品な制服姿。
だが、その瞳の奥に宿る光は、どこか焦燥に滲んでいた。
彼は迷いもためらいもなく駆け寄り、アランを抱きしめた。
「アラン、心配しました……!」
声が震えていた。
その腕の中は温かいはずなのに、アランの体は硬直したまま動けなかった。
反射的に背に手を回そうとしたが、指先が途中で止まる。
抱き返すことが、どうしてもできなかった。
「すみません……本当に。あなたがあの場所にいたなんて知らなかった……」
レギュラスの声は苦しげで、必死だった。
だが、アランの心には何の安らぎも生まれなかった。
——知らなかった。
その言葉が、胸の奥で痛く響く。
知らなかったのは本当かもしれない。
けれど、“あの場所”に彼がいたという事実が、
もう二人の世界を決定的に隔ててしまった。
アランは小さく息を吐いた。
ため息とも、泣き声ともつかない、脆い音だった。
謝ってほしかったわけではない。
誰かを責めたいわけでもなかった。
ただ、自分の真意——彼を救いたかったその想いが、
まるで別の形にねじ曲がって彼に届いていることが、
あまりにも悲しかった。
レギュラスの胸の奥で鼓動が強く打つ。
その音を聞きながら、アランは目を閉じた。
その鼓動が、生きている証のようで、
同時に、闇の中で遠ざかっていく音のようでもあった。
「レギュラス……」
言葉を紡ごうとしたが、続く言葉が見つからなかった。
もし何かを言ってしまえば、この人の中にあるわずかな光を壊してしまいそうだった。
代わりに、静かに顔を上げる。
彼の瞳の奥に、自分の姿が小さく映っていた。
その中の自分は、もう以前のアランではなかった。
傷つき、壊れ、冷たくなった影のような自分。
それを見た瞬間、胸の奥で音もなく何かが砕けた。
レギュラスの腕の中で、アランはそっと目を伏せる。
彼の温もりに触れながら、その優しさに手が届かなくなっていく現実を悟る。
夜の風が二人の間を吹き抜け、
蒸気が静かに昇っていく。
まるでその煙が、過去の幸福を包み込み、空へと連れ去っていくようだった。
夜の冷気が、駅の構内を包み込んでいた。
列車の蒸気が静かに立ちのぼり、月光を透かして揺れている。
闇の中に白く広がるその光景の中で、レギュラスは息を詰めたまま立ち尽くしていた。
ホームの先に、アランの姿が見える。
いつもなら軽やかにこちらへ歩み寄ってきたはずのその足取りは、今夜は重く、まるで影を引きずるように遅かった。
父から告げられた報せが、何度も頭の中で反響していた。
——“あの女が、あの場にいた”
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが強く弾けた。
言葉にできない感情が渦巻き、いても立ってもいられず、気づけば駅へ向かって走っていた。
息が荒くなるほどの焦燥。
何かを取り戻さなければならない。
けれど、何を、どこから、どうすれば——答えが出る前に、夜風が頬を刺した。
「アラン……」
その名を呼んだ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
アランはゆっくりと振り返る。
その顔に、安堵も微笑もなかった。
ただ、深い疲労と痛みが滲んでいた。
その目を見た瞬間、レギュラスの胸の奥で、何かが静かに崩れた。
「アラン、体は……平気ですか?」
言葉を紡ぎながら、そっと頬に触れようと手を伸ばす。
だが、アランは小さく身を捻り、距離を取った。
その動作はほんの一瞬だったのに、永遠の拒絶のように感じられた。
指先に触れたのは、彼女の髪のわずかな風の匂いだけ。
まるで「触れないで」と言われたかのような、その沈黙が胸を裂いた。
——違う、そんなつもりじゃない。
彼女を苦しめるつもりなんて、一度もなかった。
でも、もう何を言っても遅いのだと、心のどこかで理解していた。
「アラン、ちゃんと話さねばと思っていました……」
言葉を絞り出すようにして告げる。
声が震え、吐く息が白く滲んで夜気に溶けた。
アランは俯いたまま、何も言わなかった。
その沈黙が、彼をどれほど追い詰めるかを知っていながら、彼女は何も言わない。
レギュラスは、恐る恐る彼女の手を取った。
冷たい。
まるで氷のように冷たい指先だった。
彼はその手をぎゅっと握りしめる。
けれど、アランの手は微動だにしない。
握り返してはくれなかった。
その一方的な温度差が、胸の奥に冷たい痛みを残した。
「……僕は、父の望みを継いでいるんです」
声がかすれ、夜の風にかき消されそうになる。
「闇の帝王の信頼を得て、ブラック家の地位を確立すること。それが——父の願いでした」
言葉を吐くたびに、自分の声が誰か別の人間のもののように聞こえた。
口にした瞬間に、それがどれほど残酷で、
どれほどアランを遠ざける言葉なのかを、痛いほど理解していた。
それでも言わずにはいられなかった。
沈黙のままでは、彼女の瞳がますます遠くへ行ってしまう。
たとえ、言葉で橋が崩れたとしても。
アランは、何も返さなかった。
その横顔は、まるで光を拒むように影の中に沈んでいる。
長いまつげが揺れ、その下に閉じた瞳の奥で、彼女が何を思っているのか、
レギュラスにはもう見えなかった。
「アラン……僕は——」
その先の言葉が出てこなかった。
謝罪なのか、弁解なのか、祈りなのか、もう自分でもわからなかった。
ただ、胸の奥で焦りだけが膨れ上がっていく。
彼女の手を放せば、二度と届かなくなる気がした。
でも、握ったままでも、もう温もりは戻らなかった。
駅舎の明かりが遠ざかり、風が二人の間を抜けていく。
月が傾き、夜の静けさが世界を包み込んだ。
列車の汽笛が遠くで鳴り、その音がレギュラスの胸に深く響いた。
その響きがまるで告げているようだった。
——もう戻れない、と。
アランの頬に一筋の髪がかかり、レギュラスは思わず手を伸ばしかけた。
けれど、途中でその手を止めた。
彼女は微動だにしなかった。
その沈黙の中に、どんな言葉よりも明確な拒絶があった。
「……行きましょう、アラン」
そう呟いて歩き出したレギュラスの声は、
彼自身の心の底に沈むほど小さかった。
隣にいるのに、彼女が遠い。
指先ひとつで触れられる距離なのに、
どんな魔法でも埋められないほどの隔たりがあった。
それでも彼は歩き続けた。
——彼女を失わないために。
そして、
——もう失ってしまったことを、認めないために。
ホグワーツの夜は、静まり返っていた。
窓の外では雪がちらつき、石造りの壁を白く染めながら、
月明かりが淡く差し込んでいる。
談話室の暖炉には、わずかに残った火が赤く揺らめき、
その光が、アランとレギュラスの影を床に長く落としていた。
アランはずっと黙っていた。
帰りの列車でも、屋敷を出てからも、そしていまも——。
まるで心そのものを封じるように、沈黙を貫いていた。
その沈黙が、言葉よりも重く、痛々しく、
レギュラスの胸を締めつけていた。
「アラン、少し話しましょう」
耐えかねたように、レギュラスは静かに声をかけた。
その声には、どうしようもない焦りと祈りが滲んでいた。
彼女の名を呼ぶだけで、喉が焼けるように熱かった。
けれど、アランはその手をすり抜けるように滑らせた。
「もう遅いです。寝ましょう」
その言葉は柔らかかったが、拒絶の響きを孕んでいた。
冷たさと優しさが入り混じる声音に、
レギュラスの心は痛みを通り越して、空洞を抱えたように静まり返った。
「アラン、このまま寝たくないんです。話を聞いてください」
思わず声が震えた。
自分でも制御できないほど、切実だった。
だがその必死さが、かえって哀れで、弱々しく響いた。
アランは目を伏せたまま、短く息を吐いた。
「……もういいのです。だから、今夜は休みましょう」
その言葉の奥には、疲れ切った心の影があった。
戦いを終えた者のような、静かな諦め。
彼女は、レギュラスの横を通り過ぎようとする。
その一歩を、レギュラスは許せなかった。
すれ違う風の中で、彼は思わずアランの手を掴んでいた。
冷たい。
その冷たさは、氷ではなく——決意の温度だった。
「話したいんです。聞いてほしいんです」
本当は、「行かないでほしい」と言いたかった。
けれどその言葉を口にした瞬間、
自分の弱さが露わになる気がして、言えなかった。
アランは俯いたまま、小さく身を固くした。
握られた手の中から、彼女の体温が少しずつ失われていく。
まるで魂そのものが遠ざかっていくようで、
レギュラスはどうしようもなく怖くなった。
掴んだ手首を引き、彼女をこちらへ向かせる。
目の前には、かつて愛した翡翠の瞳。
だが、その瞳はもう自分を映してはいなかった。
光を宿さず、深く、静かに、どこか遠い場所を見ている。
その虚ろな色が、レギュラスの心に深い傷を刻んだ。
——どうして。
——僕は、ただあなたを守りたかったのに。
その想いが言葉になる前に、レギュラスの手が動いた。
頬を包み、無理やり顔を上げさせる。
震える指が彼女の頬をなぞり、
熱に浮かされたように、唇を重ねた。
それは激情ではなかった。
切羽詰まった焦燥と、壊れていく心の最後の抵抗だった。
距離を埋めたくて、
冷たくなっていく彼女の心に自分を刻みつけたくて——。
けれど、アランは何も返さなかった。
ただ静かに、耐えるようにそこにいた。
その無抵抗が、レギュラスの錯覚を生んだ。
彼は、受け入れられたのだと思い込んだ。
唇を離した瞬間、
乾いた音が談話室に響いた。
「——パチン」
平手打ちの音が、火の弾ける音よりも鋭く空気を裂いた。
レギュラスの頬に、熱が走る。
目の前で、アランの瞳が涙に濡れていた。
その涙は怒りのものではなかった。
悲しみでもなく、もう何も残らない人間の涙だった。
絶望の奥にある、静かな哀れみのような光。
言葉もなく、アランは踵を返した。
その背が遠ざかる。
ドアが静かに閉まる音がした。
レギュラスは、動けなかった。
頬に残る熱だけが、確かな現実だった。
その熱が、愛の証なのか、拒絶の証なのか、もう分からなかった。
火の残り香が、まだ部屋に漂っている。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、顔を覆った。
唇の端に、彼女の涙の味が残っている気がした。
夜を徹して眠れぬまま、レギュラスは朝の光の中に立っていた。
冷たい石畳の上を踏みしめるたび、微かな音が大広間に響く。
夜の名残がまだ漂う空気はひんやりとしていて、吐く息がうっすら白い。
窓から差し込む光は淡く、冬の朝のように脆く頼りない。
——胸の奥で、何かが音もなく沈んでいくのを感じていた。
大広間にはすでに生徒たちのざわめきがあった。
だが、そのざわめきの中でも、アランの姿だけが鮮やかに目に飛び込んできた。
緑の装飾が揺れるスリザリンの長卓。
その中ほどに、静かに座るアランの背。
背筋はまっすぐで、姿勢に乱れひとつない。
まるで何事もなかったように、淡々と朝食を取っていた。
レギュラスは立ち尽くした。
昨日までなら、何のためらいもなくその隣に腰を下ろしていたはずだった。
パンを分け合い、紅茶を注ぎ合い、他愛もない言葉で一日の始まりを告げていた。
けれど今は、わずか一歩の距離が、永遠の隔たりのように感じられた。
足が前に出ない。
喉の奥に、何か重たいものが詰まったままだった。
それでも彼女の名前を呼ぶ。
「…… アラン」
声は震えていた。
それだけで、昨夜の痛みがふたたび胸に蘇る。
「おはようございます」
アランは短くそう答えた。
声に怒りも冷たさもなかった。ただ、ひどく静かだった。
視線を合わせることもなく、淡々と皿に料理を取り分ける。
パン、スクランブルエッグ、果実の欠片。
彼女の手は丁寧で、まるで礼儀そのもののようだった。
だが、その動作のどこにも“感情”がなかった。
レギュラスの前に次々と並べられていく皿。
それは気遣いなのか、それともただの習慣なのか。
どちらにも見えたし、どちらでもなかった。
彼女の沈黙の中には、言葉よりも深い距離があった。
フォークを手に取り、レギュラスは食事を口に運んだ。
だが、味がしなかった。
舌の上を通るすべてが灰のように無味で、
咀嚼する音だけが、妙に大きく響いた。
「アラン……やっぱり、少し話したいんです」
声をかけた瞬間、胸が締めつけられた。
彼女はまた、答えなかった。
けれどその沈黙が、彼の焦燥を燃やす。
「あなたが想像しているようなことはしていません。誓って」
彼の言葉はまるで壁にぶつかったように虚空に消えた。
アランはナイフを静かに皿の縁に置き、ゆっくりと紅茶を口にした。
その仕草のどこにも怒りはなかった。
ただ、何も感じていないように見えた。
それが、何よりも恐ろしかった。
「これから先も、あなたが危惧しているようなことは起こりません。
だから、安心してください……」
必死に言葉を探しながら、レギュラスはかすれた声を重ねた。
自分でも、何を守りたいのか分からなかった。
彼女か、自分か、それとも“もう戻らない昨日”か。
しばらくして、アランがようやく口を開いた。
「レギュラス……そういうことじゃないんです」
その声はかすかに震えていた。
だが、怒りではなく、疲れ果てた諦めの色を帯びていた。
「どうしてこうも伝わらないのでしょう……」
静かな言葉。
だがその静けさは、叫びよりも痛かった。
レギュラスは顔を上げた。
胸が痛む。呼吸が浅くなる。
焦燥が、体の隅々まで行き渡っていた。
「じゃあ、何ですか?」
声が裏返る。
「話してください。あなたが伝えたいことは何です?
話してくれないと、わかりません!」
その瞬間、大広間の空気がぴたりと止まった。
ナイフとフォークの音が途絶え、
ざわめきが波のように引いていく。
百人もの生徒がいるはずなのに、
この広い空間には、二人の声だけが響いていた。
レギュラスの瞳は潤み、焦点が定まらない。
感情が溢れて止まらなかった。
ただ、どうしても伝えたかった。
怒鳴りたくなんてなかった。
ただ、彼女の沈黙に押し潰されそうだった。
アランはゆっくりと顔を上げた。
その翡翠の瞳が、真っ直ぐにレギュラスを見た。
けれどそこに映る自分は、もう「愛する人」ではなかった。
理解しようと焦る少年でもなく、
ただ、遠く離れた“ひとりのデスイーター”として見られていた。
レギュラスの喉の奥で、何かが詰まったように言葉が途切れた。
手の中でフォークが震える。
光が差し込む大広間の中、
レギュラスの影とアランの影は、長く、交わることなく伸びていた。
朝の大広間は、いつもよりも騒がしかった。
香ばしいパンの匂いと紅茶の湯気が漂い、
生徒たちの笑い声や椅子を引く音が重なり合っている。
煌びやかなシャンデリアの光が揺れ、
窓から差し込む朝日が金色の埃を宙に散らしていた。
——けれど、その喧騒の中で、アランの世界だけは静まり返っていた。
彼女の耳には、どの声も遠く、
まるでガラスの壁越しに見ているかのように、
色も音も温度も薄れていた。
目の前の光景が現実であるという実感さえ、
どこか霞んでいた。
ふと、レギュラスの声が届く。
「…… アラン」
その一言が、波紋のように胸の奥へ広がっていく。
その声は確かに真剣で、誠実で、
届いてほしいと願う気持ちが滲んでいた。
——けれどもう、届かない。
アランはゆっくりと顔を上げた。
多くの生徒たちが、二人の方を振り向いている。
その数の多さに、息が詰まるようだった。
好奇の目、囁き声、視線の波。
それらが全て、自分たちの過去をさらけ出す鏡のように感じられた。
レギュラスの表情は、痛々しいほど真っ直ぐだった。
必死に何かを伝えようとするその姿が、
アランには、もはや悲しく見えた。
彼はいつだって、誠実であろうとした。
自分の中にある闇を正当化するような人ではなかった。
——だからこそ、余計に苦しかった。
「朝から大広間で、人目があるのに……」
心の中でそう呟く。
どうして、こんな場所で。
どうして、みんなの視線の中で、
終わってしまったものをまだ繋ぎ止めようとするのだろう。
言葉を交わすたび、噂が広まる。
生徒たちの興味は残酷で、
ほんの一言で、誰かを孤立させることができる。
自分はそれを知りすぎていた。
それでも彼は、真っ直ぐにこちらを見ている。
その瞳には、まだ希望が残っているように見えた。
——でも、自分の中にはもう何も残っていない。
夜を越えて、涙は乾き、
怒りも悲しみも風化し、
残ったのは、静かな諦めだけ。
彼に何を言われても、もう心は動かない。
どんなに美しい言葉を並べられても、
胸の奥の裂け目は塞がらない。
アランはため息をひとつこぼした。
その吐息が、自分の中の残り火を吹き消すようだった。
「レギュラス、後で話しましょう」
そう告げた声は、あまりに冷静で、
自分のものではないように感じられた。
波立つこともなく、淡々とした響き。
まるで他人に話すように。
言葉が出た瞬間、
心の奥で何かが崩れ落ちた。
その声の中に、優しさが一欠片も残っていないことを、
アラン自身が一番わかっていた。
彼女の声には冷静が宿っていた。
だがそれは、痛みを超えた人間の声だった。
悲しみや怒りを通り越したその先にある、
“もう何も期待しない”という静かな境地。
——絶望の形は、泣き叫ぶことではない。
何も感じなくなることだ。
レギュラスはその言葉を受け止め、
しばらくの間、何も言わなかった。
彼の唇が小さく動きかけて、止まる。
そして、ほんの少しだけ目を伏せ、深く頷いた。
その頷きが、まるで「もう遅い」と自分に言い聞かせているように見えた。
周囲のざわめきが再び戻ってくる。
笑い声、カップの音、羽ペンの走る音。
世界は動いているのに、二人だけが取り残されている。
アランは席を立ち、静かに背を向けた。
テーブルの上に残る湯気が、儚く揺れている。
レギュラスは動けなかった。
その背を追いたくても、もう追えないと分かっていた。
光が差し込む窓の向こうで、
雪のような白い朝日が、
アランの影を薄く溶かしていった。
——もう届かない。
その一言が、胸の奥で何度も響いた。
そしてレギュラスは、残された静けさの中で、
ただ彼女の去った方角を見つめていた。
夜の帳が完全に降りた監督生の部屋は、
暖炉の火だけがわずかな灯を投げかけていた。
重厚なカーテンが風を遮り、外の世界を切り離している。
その静けさは、まるで誰かが世界の音をすべて奪い去ったかのようだった。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろし、背を丸めるようにして俯いた。
指先に残る微かな震えを押さえつけるように、両手を膝の上で組む。
視線の先には、テーブルの椅子に座るアランの姿。
彼女は背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いたまま、
じっと一点を見つめていた。
隣に来ることすら拒む距離。
それはわずか数歩のはずなのに、
レギュラスには果てしなく遠い隔たりに感じられた。
その距離が、彼の誇りと愛のあいだに引かれた一本の裂け目のようだった。
「アラン……黙っていたことは、僕が悪かったです」
声を絞り出すようにして言葉を吐き出す。
空気が震えるほどの静けさの中、その音だけがやけに響いた。
だがアランは顔を上げない。
まるで何かを見つめるようでいて、何も見ていない瞳。
彼女のまわりだけ時間が止まっているようだった。
「いいんです」
短く、冷たく、しかし不思議なほど穏やかな声。
「あなたの選択は、あなただけのものですから」
その言葉には、怒りでも悲しみでもない、
氷のように澄んだ拒絶が宿っていた。
優しさの欠片もないのに、痛いほど静かだった。
その静寂こそが、レギュラスにとって最も残酷だった。
胸の奥がひどく軋んだ。
声を出すたび、心の奥で何かが削られていくようだった。
彼はゆっくり立ち上がり、アランの傍らまで歩み寄る。
彼女の髪が微かに揺れ、蝋燭の光がその輪郭をやさしく縁取った。
跪き、手を伸ばす。
冷たい彼女の手を包み込むように握った。
「アラン……どうしたら許してくれます?」
答えはない。
沈黙が、息苦しいほど長く続いた。
暖炉の薪が弾ける音が、やけに遠くで聞こえる。
その一音ごとに、焦りが胸の奥で燃え広がっていく。
いつもなら、笑いながら顔を寄せ合っていた。
どんなすれ違いも、ひとつの抱擁でほどけた。
だが今夜、彼女はまるで別の人間のように、
目の前でゆっくりと遠ざかっていく。
「レギュラス……」
ようやく口を開いたアランの声が、静かに部屋に落ちた。
「シリウスは卒業後、騎士団に入るそうです」
シリウス――。
兄の名を聞いた瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。
なぜ、今ここでその名を出すのか。
彼は一瞬、答えを見失う。
「……そう、みたいですね」
それだけを言うのが精一杯だった。
アランは静かに続ける。
「デスイーターは騎士団を攻撃しますし……騎士団も応戦します」
その声が震えていた。
翡翠の瞳が光を宿し、涙の粒が零れ落ちる寸前に揺れている。
「兄とは今も昔も……これからも、対立は避けられませんから」
レギュラスは低く呟いた。
それは事実であり、宿命だった。
だが、その宿命を、アランがここで持ち出したことに、
どこか言いようのない苦味が込み上げる。
そして、アランの声が震えた。
「私は……あの人に、あなたに杖を向けてほしくないの。
あなたも、あの人を殺そうとしないでほしいの……」
その言葉が、刃のように胸を貫いた。
アランの涙が手の甲に落ち、
その温かさが、痛みに変わって滲んでいく。
だが、涙よりも重く心に沈んだのは、
その涙がシリウスのために流されたものであるという事実だった。
アランのすべての言葉が、
“シリウス”という名を中心に紡がれていた。
「シリウスを殺そうとしないで」
「シリウスに弟を殺させないで」
「シリウスと対立しないで」
——そのすべてが、自分を通して兄を想っている。
胸の奥がひりついた。
息を吸うたびに、心のどこかが裂けていく。
彼女の声は悲しみを帯びているのに、
その悲しみの中心に自分はいなかった。
怒りとも悲しみともつかない感情が渦を巻いた。
誇りを、心を、愛を、
そのすべてを踏みにじられたような痛み。
どんなに努力しても、どんなに想いを注いでも、
アランの心の奥にはシリウスが生き続けている。
——自分は、影なのだ。
彼女の光を照らす兄の影。
そう思った瞬間、胸の奥にあった何かが静かに崩れた。
アランの涙を見つめながら、
レギュラスは、自分が決して届かない場所にいるのだと悟った。
愛しているのに、理解されない。
守りたくて、信じられない。
その矛盾の中で、彼はただ一人の少年として、
ゆっくりと孤独の底へ沈んでいった。
蝋燭の灯がゆらゆらと揺れていた。
夜風がカーテンをわずかに揺らし、炎がひととき細くなって、また膨らむ。
その光が、部屋の壁に映るレギュラスの影をゆっくりと伸ばした。
彼は立ったまま、アランを見つめていた。
机の上には開きかけの書物と、冷めた紅茶。
アランは背筋を伸ばしたまま、視線を落としている。
手の甲に残る涙の跡は、もう乾いていた。
けれど、その沈黙が、涙よりも痛々しかった。
「アラン……シリウスのことばかりですね」
レギュラスの声は、静かで、低く、かすかに震えていた。
皮肉ではなかった。責める響きでもなかった。
ただ、胸の奥で何かがゆっくり崩れていく音が、その声に混じっていた。
求めれば、アランはいつも応えてくれた。
差し出せば、微笑んで受け入れてくれた。
触れた指先の温もりも、重ねた唇のやわらかさも、
確かに“愛の形”だと信じてきた。
信じることでしか、自分を保てなかった。
だが、アランの瞳が向かう先は、いつも――兄だった。
そのことを認めたくなくて、何度も言い聞かせてきた。
今夜だけは違う、
今夜こそ、自分を見てくれているのだと。
なのに、その名が再び彼女の唇からこぼれた瞬間、
レギュラスの胸に、氷の棘が突き刺さったようだった。
息が詰まり、指先が震えた。
彼女の心が、決して自分には触れない場所にあるのだと、
思い知らされた気がした。
「シリウスとは……どこまでしてるんです?」
その言葉は、抑えきれぬ感情の隙間から零れ落ちた。
口にした瞬間、後悔が喉を焦がした。
だがもう取り消せなかった。
問いは空気の中に漂い、
蝋燭の炎を震わせ、沈黙の海に落ちていった。
アランは何も言わなかった。
ただ、瞳を伏せたまま、微動だにしない。
けれどその沈黙が、
言葉よりも雄弁に答えを告げていた。
レギュラスの胸の奥で、何かが軋んだ。
痛みというより、鈍い虚脱。
想像が、勝手に形をとって膨らんでいく。
——二人は、確かにつながっていたのだろう。
兄の腕の中で、アランは笑っていたのだろう。
あの人の声で名を呼ばれ、
あの人の手で髪を撫でられ、
あの人の唇で涙を拭われたのだろう。
思考がそこまで辿り着いた瞬間、
膝が震えた。
それでも崩れ落ちまいと、両手を固く握りしめる。
唇を噛んだ。血の味がした。
——裏切り、なのだろうか。
その言葉を浮かべて、すぐにかぶりを振る。
違う。
アランは何も変わっていない。
ずっと、同じように兄を想っていた。
自分がそれを見ないふりをして、
都合のいい夢を信じ続けていただけなのだ。
それでも、苦しかった。
誇りが、静かに砕けていく音がした。
自分という存在が、彼女の人生のどこにも位置を持たないという現実。
愛された記憶があるのに、
それが“代わり”でしかなかったという残酷な事実。
アランの沈黙が、世界を包み込んでいた。
暖炉の火が小さく揺れるたびに、
彼女の頬の影がわずかに動く。
その小さな光と影の変化が、
レギュラスには、永遠の拒絶のように見えた。
「……そうですか」
絞り出すようにそう言うと、声が震えた。
どれほど冷静を装っても、感情が声ににじみ出てしまう。
それを隠すように、彼はゆっくりと立ち上がる。
光の中に立つアランの姿が、まるで別世界の人のように見えた。
届かない。
手を伸ばしても、その指先は永遠に届かない。
静かに背を向ける。
歩み出そうとした足が、一瞬だけ止まった。
胸の奥で、小さく、誰にも聞こえぬほどの声が零れる。
——僕は、ただあなたに愛されたかっただけなんです。
それは祈りでも懺悔でもなく、
たった一人の少年の、壊れかけた願いの残響だった。
アラン・セシール。
その名を耳にした途端、部屋の空気が変わった。
彼女がブラック家当主オリオン・ブラックの屋敷に仕える者であると知れるや、
デスイーターたちの間に、わずかなざわめきが走る。
ひとりの少女に過ぎないはずの存在が、思いもよらぬ影を背負っていた。
「……ブラック家の使用人だと?」
誰かが低く呟くと、場の緊張が静かに波紋を描いた。
そして間もなく、闇の館の扉が音もなく開いた。
そこに現れたのは、黒衣を纏ったひとりの男——オリオン・ブラックだった。
冷え切った空気の中、その姿は圧倒的な存在感を放っていた。
長身で、動作の一つひとつが研ぎ澄まされている。
表情は、氷のように整っていた。
感情というものが、彼の顔から完全に削ぎ落とされている。
「——すまない。我が家の者が、誤解を招く真似をしてしまったようだ」
その声は穏やかだったが、静かな深みを持つ低音が、空間全体を支配した。
謝罪の言葉でありながら、そこに柔らかさは一片もなかった。
まるで自らの権威を再確認させるような、冷たい威圧。
その一言で、デスイーターたちは頭を垂れ、誰一人逆らうことはなかった。
アランは呆然と立ち尽くしていた。
自らが仕える主人が、闇の中で最も恐れられる者たちに囲まれながらも、一歩も退かぬ姿。
その光景は、尊敬ではなく、純粋な恐怖を呼び起こした。
彼が謝罪の言葉を口にしているという事実が、むしろ息苦しかった。
——その謝罪は、自分を庇うためのものではない。
屋敷の名を汚さぬためのものだ。
「……すみません、オリオン様」
震える声が喉から漏れた。
かすれた音に、自分でも驚く。
オリオンはゆっくりと視線を落とした。
その灰色の瞳には、怒りでも憐憫でもない。
ただ、冷徹な静寂が宿っていた。
「立ちなさい、アラン」
命令は静かでありながら、拒絶を許さぬ硬質さを含んでいた。
アランは震える膝に力を込め、床を押して立ち上がる。
その動作の一つひとつが、痛みに軋み、呼吸を詰まらせた。
オリオンは一瞥するだけで状況を測り、何も問わなかった。
そこに「何があったのか」など、彼にとっては取るに足らないことだった。
重要なのは、ブラック家の名に瑕をつけないこと——それだけだ。
「行くぞ」
短い言葉とともに、彼は杖を軽く振る。
空気が一瞬ねじれ、視界が歪んだ。
姿くらましの魔法が発動し、アランの身体はふわりと浮くような感覚に包まれた。
耳鳴りが広がり、次の瞬間には、屋敷の廊下の床に転がっていた。
身体の中が、まだ現実についていけない。
床に手をつこうとしたが、力が入らなかった。
膝が崩れ、意識が白く滲む。
そのすぐ傍に、靴音が近づく。
「これ以上、私を失望させるな」
その声は、低く抑えられていたが、刃のように鋭かった。
怒鳴り声よりも、遥かに冷たく、深く突き刺さる響き。
まるで言葉そのものが罰であるかのようだった。
アランの背筋が自然と震え、息が浅くなる。
——助けられたのではない。
ただ、“引き戻された”のだ。
オリオンの瞳には、情けも救いもない。
彼にとってアランは、家の管理下から外れた駒。
一度外れた駒を拾い戻すのは、秩序のためであり、慈悲のためではない。
冷たい沈黙が二人を包む。
屋敷の空気は凍るように張りつめ、時間さえ動かなくなったようだった。
アランは床に膝をついたまま、顔を上げることができなかった。
胸の奥が、何か鋭いもので締めつけられる。
それは、痛みではなく——羞恥と絶望の混ざった、静かな苦しみ。
オリオンは一度も彼女に触れなかった。
ただ、背を向けて歩き去る。
その背中は完璧で、恐ろしく、そして遠かった。
アランは、崩れ落ちるように床に手をつき、冷たい石の感触を指先で確かめた。
その冷たさこそが、唯一確かな現実のように思えた。
自分がまだ“ここに戻された”ということを、
まるで罪の烙印のように、皮膚の下で感じていた。
夜の特急は、静寂を纏って走り続けていた。
窓の外では闇が流れ、時折、森の木々の影が光の筋に切り裂かれては遠ざかっていく。
アランはその移ろう景色を、ただ無言で見つめていた。
瞼の裏にはまだ、あの夜の残滓がこびりついている。
冷たい石の床、焼けるような痛み、誰かの笑い声、そして——沈黙。
それでも列車は進む。
ホグワーツへ向かうこの鉄の道は、変わらず光へと続いているはずなのに、
アランの胸の中では、どこにも辿り着けないような深い闇が渦巻いていた。
これから、彼にどんな顔を向ければいいのだろう。
レギュラスの前で、どんな言葉を紡げばいいのだろう。
あの人が自分の知らぬ間に、どれほど深く闇に手を伸ばしてしまったのか——
知ってしまった今、もう、かつてのようには微笑めない。
彼の手は、誰かの命を奪ってしまったかもしれない。
あるいは、これから奪うのかもしれない。
かつて自分を抱きしめてくれたその優しい指が、
いまでは、冷たい呪文を放つために握られているのだろうか。
胸の奥から、どうしようもない嫌悪と悲しみがせり上がる。
——それでも。
シリウスのように陽気で眩しい光ではなく、
レギュラスの愛は、静かで、繊細で、どこまでも深かった。
その優しさに何度救われたか、もう数えきれない。
小さな仕草、言葉の端に滲む思いやり、目を合わせたときの柔らかな眼差し。
その一つ一つが、アランの孤独を溶かしてくれた。
だからこそ、もう戻れない。
彼が、あの世界に属しているという事実があまりにも痛い。
寝室の壁に貼られていた闇の帝王の切り抜き。
純血主義を讃える雑誌の切り抜き。
いつからだろう——
それを見ても何も言えなくなってしまったのは。
彼の瞳に曇りを感じながら、気づかぬふりをして笑っていた自分が、
いまでは一番、愚かしく思えた。
ホグワーツ特急が緩やかに速度を落とし、蒸気の音が夜気を震わせた。
ホームに降り立った瞬間、夜の冷気が頬を撫でる。
アランはふと立ち止まり、吐いた息が白くほどけるのを見つめた。
そのとき——
「アラン!」
名前を呼ぶ声に振り向く。
そこに、レギュラスがいた。
いつものように整った髪、上品な制服姿。
だが、その瞳の奥に宿る光は、どこか焦燥に滲んでいた。
彼は迷いもためらいもなく駆け寄り、アランを抱きしめた。
「アラン、心配しました……!」
声が震えていた。
その腕の中は温かいはずなのに、アランの体は硬直したまま動けなかった。
反射的に背に手を回そうとしたが、指先が途中で止まる。
抱き返すことが、どうしてもできなかった。
「すみません……本当に。あなたがあの場所にいたなんて知らなかった……」
レギュラスの声は苦しげで、必死だった。
だが、アランの心には何の安らぎも生まれなかった。
——知らなかった。
その言葉が、胸の奥で痛く響く。
知らなかったのは本当かもしれない。
けれど、“あの場所”に彼がいたという事実が、
もう二人の世界を決定的に隔ててしまった。
アランは小さく息を吐いた。
ため息とも、泣き声ともつかない、脆い音だった。
謝ってほしかったわけではない。
誰かを責めたいわけでもなかった。
ただ、自分の真意——彼を救いたかったその想いが、
まるで別の形にねじ曲がって彼に届いていることが、
あまりにも悲しかった。
レギュラスの胸の奥で鼓動が強く打つ。
その音を聞きながら、アランは目を閉じた。
その鼓動が、生きている証のようで、
同時に、闇の中で遠ざかっていく音のようでもあった。
「レギュラス……」
言葉を紡ごうとしたが、続く言葉が見つからなかった。
もし何かを言ってしまえば、この人の中にあるわずかな光を壊してしまいそうだった。
代わりに、静かに顔を上げる。
彼の瞳の奥に、自分の姿が小さく映っていた。
その中の自分は、もう以前のアランではなかった。
傷つき、壊れ、冷たくなった影のような自分。
それを見た瞬間、胸の奥で音もなく何かが砕けた。
レギュラスの腕の中で、アランはそっと目を伏せる。
彼の温もりに触れながら、その優しさに手が届かなくなっていく現実を悟る。
夜の風が二人の間を吹き抜け、
蒸気が静かに昇っていく。
まるでその煙が、過去の幸福を包み込み、空へと連れ去っていくようだった。
夜の冷気が、駅の構内を包み込んでいた。
列車の蒸気が静かに立ちのぼり、月光を透かして揺れている。
闇の中に白く広がるその光景の中で、レギュラスは息を詰めたまま立ち尽くしていた。
ホームの先に、アランの姿が見える。
いつもなら軽やかにこちらへ歩み寄ってきたはずのその足取りは、今夜は重く、まるで影を引きずるように遅かった。
父から告げられた報せが、何度も頭の中で反響していた。
——“あの女が、あの場にいた”
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かが強く弾けた。
言葉にできない感情が渦巻き、いても立ってもいられず、気づけば駅へ向かって走っていた。
息が荒くなるほどの焦燥。
何かを取り戻さなければならない。
けれど、何を、どこから、どうすれば——答えが出る前に、夜風が頬を刺した。
「アラン……」
その名を呼んだ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
アランはゆっくりと振り返る。
その顔に、安堵も微笑もなかった。
ただ、深い疲労と痛みが滲んでいた。
その目を見た瞬間、レギュラスの胸の奥で、何かが静かに崩れた。
「アラン、体は……平気ですか?」
言葉を紡ぎながら、そっと頬に触れようと手を伸ばす。
だが、アランは小さく身を捻り、距離を取った。
その動作はほんの一瞬だったのに、永遠の拒絶のように感じられた。
指先に触れたのは、彼女の髪のわずかな風の匂いだけ。
まるで「触れないで」と言われたかのような、その沈黙が胸を裂いた。
——違う、そんなつもりじゃない。
彼女を苦しめるつもりなんて、一度もなかった。
でも、もう何を言っても遅いのだと、心のどこかで理解していた。
「アラン、ちゃんと話さねばと思っていました……」
言葉を絞り出すようにして告げる。
声が震え、吐く息が白く滲んで夜気に溶けた。
アランは俯いたまま、何も言わなかった。
その沈黙が、彼をどれほど追い詰めるかを知っていながら、彼女は何も言わない。
レギュラスは、恐る恐る彼女の手を取った。
冷たい。
まるで氷のように冷たい指先だった。
彼はその手をぎゅっと握りしめる。
けれど、アランの手は微動だにしない。
握り返してはくれなかった。
その一方的な温度差が、胸の奥に冷たい痛みを残した。
「……僕は、父の望みを継いでいるんです」
声がかすれ、夜の風にかき消されそうになる。
「闇の帝王の信頼を得て、ブラック家の地位を確立すること。それが——父の願いでした」
言葉を吐くたびに、自分の声が誰か別の人間のもののように聞こえた。
口にした瞬間に、それがどれほど残酷で、
どれほどアランを遠ざける言葉なのかを、痛いほど理解していた。
それでも言わずにはいられなかった。
沈黙のままでは、彼女の瞳がますます遠くへ行ってしまう。
たとえ、言葉で橋が崩れたとしても。
アランは、何も返さなかった。
その横顔は、まるで光を拒むように影の中に沈んでいる。
長いまつげが揺れ、その下に閉じた瞳の奥で、彼女が何を思っているのか、
レギュラスにはもう見えなかった。
「アラン……僕は——」
その先の言葉が出てこなかった。
謝罪なのか、弁解なのか、祈りなのか、もう自分でもわからなかった。
ただ、胸の奥で焦りだけが膨れ上がっていく。
彼女の手を放せば、二度と届かなくなる気がした。
でも、握ったままでも、もう温もりは戻らなかった。
駅舎の明かりが遠ざかり、風が二人の間を抜けていく。
月が傾き、夜の静けさが世界を包み込んだ。
列車の汽笛が遠くで鳴り、その音がレギュラスの胸に深く響いた。
その響きがまるで告げているようだった。
——もう戻れない、と。
アランの頬に一筋の髪がかかり、レギュラスは思わず手を伸ばしかけた。
けれど、途中でその手を止めた。
彼女は微動だにしなかった。
その沈黙の中に、どんな言葉よりも明確な拒絶があった。
「……行きましょう、アラン」
そう呟いて歩き出したレギュラスの声は、
彼自身の心の底に沈むほど小さかった。
隣にいるのに、彼女が遠い。
指先ひとつで触れられる距離なのに、
どんな魔法でも埋められないほどの隔たりがあった。
それでも彼は歩き続けた。
——彼女を失わないために。
そして、
——もう失ってしまったことを、認めないために。
ホグワーツの夜は、静まり返っていた。
窓の外では雪がちらつき、石造りの壁を白く染めながら、
月明かりが淡く差し込んでいる。
談話室の暖炉には、わずかに残った火が赤く揺らめき、
その光が、アランとレギュラスの影を床に長く落としていた。
アランはずっと黙っていた。
帰りの列車でも、屋敷を出てからも、そしていまも——。
まるで心そのものを封じるように、沈黙を貫いていた。
その沈黙が、言葉よりも重く、痛々しく、
レギュラスの胸を締めつけていた。
「アラン、少し話しましょう」
耐えかねたように、レギュラスは静かに声をかけた。
その声には、どうしようもない焦りと祈りが滲んでいた。
彼女の名を呼ぶだけで、喉が焼けるように熱かった。
けれど、アランはその手をすり抜けるように滑らせた。
「もう遅いです。寝ましょう」
その言葉は柔らかかったが、拒絶の響きを孕んでいた。
冷たさと優しさが入り混じる声音に、
レギュラスの心は痛みを通り越して、空洞を抱えたように静まり返った。
「アラン、このまま寝たくないんです。話を聞いてください」
思わず声が震えた。
自分でも制御できないほど、切実だった。
だがその必死さが、かえって哀れで、弱々しく響いた。
アランは目を伏せたまま、短く息を吐いた。
「……もういいのです。だから、今夜は休みましょう」
その言葉の奥には、疲れ切った心の影があった。
戦いを終えた者のような、静かな諦め。
彼女は、レギュラスの横を通り過ぎようとする。
その一歩を、レギュラスは許せなかった。
すれ違う風の中で、彼は思わずアランの手を掴んでいた。
冷たい。
その冷たさは、氷ではなく——決意の温度だった。
「話したいんです。聞いてほしいんです」
本当は、「行かないでほしい」と言いたかった。
けれどその言葉を口にした瞬間、
自分の弱さが露わになる気がして、言えなかった。
アランは俯いたまま、小さく身を固くした。
握られた手の中から、彼女の体温が少しずつ失われていく。
まるで魂そのものが遠ざかっていくようで、
レギュラスはどうしようもなく怖くなった。
掴んだ手首を引き、彼女をこちらへ向かせる。
目の前には、かつて愛した翡翠の瞳。
だが、その瞳はもう自分を映してはいなかった。
光を宿さず、深く、静かに、どこか遠い場所を見ている。
その虚ろな色が、レギュラスの心に深い傷を刻んだ。
——どうして。
——僕は、ただあなたを守りたかったのに。
その想いが言葉になる前に、レギュラスの手が動いた。
頬を包み、無理やり顔を上げさせる。
震える指が彼女の頬をなぞり、
熱に浮かされたように、唇を重ねた。
それは激情ではなかった。
切羽詰まった焦燥と、壊れていく心の最後の抵抗だった。
距離を埋めたくて、
冷たくなっていく彼女の心に自分を刻みつけたくて——。
けれど、アランは何も返さなかった。
ただ静かに、耐えるようにそこにいた。
その無抵抗が、レギュラスの錯覚を生んだ。
彼は、受け入れられたのだと思い込んだ。
唇を離した瞬間、
乾いた音が談話室に響いた。
「——パチン」
平手打ちの音が、火の弾ける音よりも鋭く空気を裂いた。
レギュラスの頬に、熱が走る。
目の前で、アランの瞳が涙に濡れていた。
その涙は怒りのものではなかった。
悲しみでもなく、もう何も残らない人間の涙だった。
絶望の奥にある、静かな哀れみのような光。
言葉もなく、アランは踵を返した。
その背が遠ざかる。
ドアが静かに閉まる音がした。
レギュラスは、動けなかった。
頬に残る熱だけが、確かな現実だった。
その熱が、愛の証なのか、拒絶の証なのか、もう分からなかった。
火の残り香が、まだ部屋に漂っている。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、顔を覆った。
唇の端に、彼女の涙の味が残っている気がした。
夜を徹して眠れぬまま、レギュラスは朝の光の中に立っていた。
冷たい石畳の上を踏みしめるたび、微かな音が大広間に響く。
夜の名残がまだ漂う空気はひんやりとしていて、吐く息がうっすら白い。
窓から差し込む光は淡く、冬の朝のように脆く頼りない。
——胸の奥で、何かが音もなく沈んでいくのを感じていた。
大広間にはすでに生徒たちのざわめきがあった。
だが、そのざわめきの中でも、アランの姿だけが鮮やかに目に飛び込んできた。
緑の装飾が揺れるスリザリンの長卓。
その中ほどに、静かに座るアランの背。
背筋はまっすぐで、姿勢に乱れひとつない。
まるで何事もなかったように、淡々と朝食を取っていた。
レギュラスは立ち尽くした。
昨日までなら、何のためらいもなくその隣に腰を下ろしていたはずだった。
パンを分け合い、紅茶を注ぎ合い、他愛もない言葉で一日の始まりを告げていた。
けれど今は、わずか一歩の距離が、永遠の隔たりのように感じられた。
足が前に出ない。
喉の奥に、何か重たいものが詰まったままだった。
それでも彼女の名前を呼ぶ。
「…… アラン」
声は震えていた。
それだけで、昨夜の痛みがふたたび胸に蘇る。
「おはようございます」
アランは短くそう答えた。
声に怒りも冷たさもなかった。ただ、ひどく静かだった。
視線を合わせることもなく、淡々と皿に料理を取り分ける。
パン、スクランブルエッグ、果実の欠片。
彼女の手は丁寧で、まるで礼儀そのもののようだった。
だが、その動作のどこにも“感情”がなかった。
レギュラスの前に次々と並べられていく皿。
それは気遣いなのか、それともただの習慣なのか。
どちらにも見えたし、どちらでもなかった。
彼女の沈黙の中には、言葉よりも深い距離があった。
フォークを手に取り、レギュラスは食事を口に運んだ。
だが、味がしなかった。
舌の上を通るすべてが灰のように無味で、
咀嚼する音だけが、妙に大きく響いた。
「アラン……やっぱり、少し話したいんです」
声をかけた瞬間、胸が締めつけられた。
彼女はまた、答えなかった。
けれどその沈黙が、彼の焦燥を燃やす。
「あなたが想像しているようなことはしていません。誓って」
彼の言葉はまるで壁にぶつかったように虚空に消えた。
アランはナイフを静かに皿の縁に置き、ゆっくりと紅茶を口にした。
その仕草のどこにも怒りはなかった。
ただ、何も感じていないように見えた。
それが、何よりも恐ろしかった。
「これから先も、あなたが危惧しているようなことは起こりません。
だから、安心してください……」
必死に言葉を探しながら、レギュラスはかすれた声を重ねた。
自分でも、何を守りたいのか分からなかった。
彼女か、自分か、それとも“もう戻らない昨日”か。
しばらくして、アランがようやく口を開いた。
「レギュラス……そういうことじゃないんです」
その声はかすかに震えていた。
だが、怒りではなく、疲れ果てた諦めの色を帯びていた。
「どうしてこうも伝わらないのでしょう……」
静かな言葉。
だがその静けさは、叫びよりも痛かった。
レギュラスは顔を上げた。
胸が痛む。呼吸が浅くなる。
焦燥が、体の隅々まで行き渡っていた。
「じゃあ、何ですか?」
声が裏返る。
「話してください。あなたが伝えたいことは何です?
話してくれないと、わかりません!」
その瞬間、大広間の空気がぴたりと止まった。
ナイフとフォークの音が途絶え、
ざわめきが波のように引いていく。
百人もの生徒がいるはずなのに、
この広い空間には、二人の声だけが響いていた。
レギュラスの瞳は潤み、焦点が定まらない。
感情が溢れて止まらなかった。
ただ、どうしても伝えたかった。
怒鳴りたくなんてなかった。
ただ、彼女の沈黙に押し潰されそうだった。
アランはゆっくりと顔を上げた。
その翡翠の瞳が、真っ直ぐにレギュラスを見た。
けれどそこに映る自分は、もう「愛する人」ではなかった。
理解しようと焦る少年でもなく、
ただ、遠く離れた“ひとりのデスイーター”として見られていた。
レギュラスの喉の奥で、何かが詰まったように言葉が途切れた。
手の中でフォークが震える。
光が差し込む大広間の中、
レギュラスの影とアランの影は、長く、交わることなく伸びていた。
朝の大広間は、いつもよりも騒がしかった。
香ばしいパンの匂いと紅茶の湯気が漂い、
生徒たちの笑い声や椅子を引く音が重なり合っている。
煌びやかなシャンデリアの光が揺れ、
窓から差し込む朝日が金色の埃を宙に散らしていた。
——けれど、その喧騒の中で、アランの世界だけは静まり返っていた。
彼女の耳には、どの声も遠く、
まるでガラスの壁越しに見ているかのように、
色も音も温度も薄れていた。
目の前の光景が現実であるという実感さえ、
どこか霞んでいた。
ふと、レギュラスの声が届く。
「…… アラン」
その一言が、波紋のように胸の奥へ広がっていく。
その声は確かに真剣で、誠実で、
届いてほしいと願う気持ちが滲んでいた。
——けれどもう、届かない。
アランはゆっくりと顔を上げた。
多くの生徒たちが、二人の方を振り向いている。
その数の多さに、息が詰まるようだった。
好奇の目、囁き声、視線の波。
それらが全て、自分たちの過去をさらけ出す鏡のように感じられた。
レギュラスの表情は、痛々しいほど真っ直ぐだった。
必死に何かを伝えようとするその姿が、
アランには、もはや悲しく見えた。
彼はいつだって、誠実であろうとした。
自分の中にある闇を正当化するような人ではなかった。
——だからこそ、余計に苦しかった。
「朝から大広間で、人目があるのに……」
心の中でそう呟く。
どうして、こんな場所で。
どうして、みんなの視線の中で、
終わってしまったものをまだ繋ぎ止めようとするのだろう。
言葉を交わすたび、噂が広まる。
生徒たちの興味は残酷で、
ほんの一言で、誰かを孤立させることができる。
自分はそれを知りすぎていた。
それでも彼は、真っ直ぐにこちらを見ている。
その瞳には、まだ希望が残っているように見えた。
——でも、自分の中にはもう何も残っていない。
夜を越えて、涙は乾き、
怒りも悲しみも風化し、
残ったのは、静かな諦めだけ。
彼に何を言われても、もう心は動かない。
どんなに美しい言葉を並べられても、
胸の奥の裂け目は塞がらない。
アランはため息をひとつこぼした。
その吐息が、自分の中の残り火を吹き消すようだった。
「レギュラス、後で話しましょう」
そう告げた声は、あまりに冷静で、
自分のものではないように感じられた。
波立つこともなく、淡々とした響き。
まるで他人に話すように。
言葉が出た瞬間、
心の奥で何かが崩れ落ちた。
その声の中に、優しさが一欠片も残っていないことを、
アラン自身が一番わかっていた。
彼女の声には冷静が宿っていた。
だがそれは、痛みを超えた人間の声だった。
悲しみや怒りを通り越したその先にある、
“もう何も期待しない”という静かな境地。
——絶望の形は、泣き叫ぶことではない。
何も感じなくなることだ。
レギュラスはその言葉を受け止め、
しばらくの間、何も言わなかった。
彼の唇が小さく動きかけて、止まる。
そして、ほんの少しだけ目を伏せ、深く頷いた。
その頷きが、まるで「もう遅い」と自分に言い聞かせているように見えた。
周囲のざわめきが再び戻ってくる。
笑い声、カップの音、羽ペンの走る音。
世界は動いているのに、二人だけが取り残されている。
アランは席を立ち、静かに背を向けた。
テーブルの上に残る湯気が、儚く揺れている。
レギュラスは動けなかった。
その背を追いたくても、もう追えないと分かっていた。
光が差し込む窓の向こうで、
雪のような白い朝日が、
アランの影を薄く溶かしていった。
——もう届かない。
その一言が、胸の奥で何度も響いた。
そしてレギュラスは、残された静けさの中で、
ただ彼女の去った方角を見つめていた。
夜の帳が完全に降りた監督生の部屋は、
暖炉の火だけがわずかな灯を投げかけていた。
重厚なカーテンが風を遮り、外の世界を切り離している。
その静けさは、まるで誰かが世界の音をすべて奪い去ったかのようだった。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろし、背を丸めるようにして俯いた。
指先に残る微かな震えを押さえつけるように、両手を膝の上で組む。
視線の先には、テーブルの椅子に座るアランの姿。
彼女は背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いたまま、
じっと一点を見つめていた。
隣に来ることすら拒む距離。
それはわずか数歩のはずなのに、
レギュラスには果てしなく遠い隔たりに感じられた。
その距離が、彼の誇りと愛のあいだに引かれた一本の裂け目のようだった。
「アラン……黙っていたことは、僕が悪かったです」
声を絞り出すようにして言葉を吐き出す。
空気が震えるほどの静けさの中、その音だけがやけに響いた。
だがアランは顔を上げない。
まるで何かを見つめるようでいて、何も見ていない瞳。
彼女のまわりだけ時間が止まっているようだった。
「いいんです」
短く、冷たく、しかし不思議なほど穏やかな声。
「あなたの選択は、あなただけのものですから」
その言葉には、怒りでも悲しみでもない、
氷のように澄んだ拒絶が宿っていた。
優しさの欠片もないのに、痛いほど静かだった。
その静寂こそが、レギュラスにとって最も残酷だった。
胸の奥がひどく軋んだ。
声を出すたび、心の奥で何かが削られていくようだった。
彼はゆっくり立ち上がり、アランの傍らまで歩み寄る。
彼女の髪が微かに揺れ、蝋燭の光がその輪郭をやさしく縁取った。
跪き、手を伸ばす。
冷たい彼女の手を包み込むように握った。
「アラン……どうしたら許してくれます?」
答えはない。
沈黙が、息苦しいほど長く続いた。
暖炉の薪が弾ける音が、やけに遠くで聞こえる。
その一音ごとに、焦りが胸の奥で燃え広がっていく。
いつもなら、笑いながら顔を寄せ合っていた。
どんなすれ違いも、ひとつの抱擁でほどけた。
だが今夜、彼女はまるで別の人間のように、
目の前でゆっくりと遠ざかっていく。
「レギュラス……」
ようやく口を開いたアランの声が、静かに部屋に落ちた。
「シリウスは卒業後、騎士団に入るそうです」
シリウス――。
兄の名を聞いた瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。
なぜ、今ここでその名を出すのか。
彼は一瞬、答えを見失う。
「……そう、みたいですね」
それだけを言うのが精一杯だった。
アランは静かに続ける。
「デスイーターは騎士団を攻撃しますし……騎士団も応戦します」
その声が震えていた。
翡翠の瞳が光を宿し、涙の粒が零れ落ちる寸前に揺れている。
「兄とは今も昔も……これからも、対立は避けられませんから」
レギュラスは低く呟いた。
それは事実であり、宿命だった。
だが、その宿命を、アランがここで持ち出したことに、
どこか言いようのない苦味が込み上げる。
そして、アランの声が震えた。
「私は……あの人に、あなたに杖を向けてほしくないの。
あなたも、あの人を殺そうとしないでほしいの……」
その言葉が、刃のように胸を貫いた。
アランの涙が手の甲に落ち、
その温かさが、痛みに変わって滲んでいく。
だが、涙よりも重く心に沈んだのは、
その涙がシリウスのために流されたものであるという事実だった。
アランのすべての言葉が、
“シリウス”という名を中心に紡がれていた。
「シリウスを殺そうとしないで」
「シリウスに弟を殺させないで」
「シリウスと対立しないで」
——そのすべてが、自分を通して兄を想っている。
胸の奥がひりついた。
息を吸うたびに、心のどこかが裂けていく。
彼女の声は悲しみを帯びているのに、
その悲しみの中心に自分はいなかった。
怒りとも悲しみともつかない感情が渦を巻いた。
誇りを、心を、愛を、
そのすべてを踏みにじられたような痛み。
どんなに努力しても、どんなに想いを注いでも、
アランの心の奥にはシリウスが生き続けている。
——自分は、影なのだ。
彼女の光を照らす兄の影。
そう思った瞬間、胸の奥にあった何かが静かに崩れた。
アランの涙を見つめながら、
レギュラスは、自分が決して届かない場所にいるのだと悟った。
愛しているのに、理解されない。
守りたくて、信じられない。
その矛盾の中で、彼はただ一人の少年として、
ゆっくりと孤独の底へ沈んでいった。
蝋燭の灯がゆらゆらと揺れていた。
夜風がカーテンをわずかに揺らし、炎がひととき細くなって、また膨らむ。
その光が、部屋の壁に映るレギュラスの影をゆっくりと伸ばした。
彼は立ったまま、アランを見つめていた。
机の上には開きかけの書物と、冷めた紅茶。
アランは背筋を伸ばしたまま、視線を落としている。
手の甲に残る涙の跡は、もう乾いていた。
けれど、その沈黙が、涙よりも痛々しかった。
「アラン……シリウスのことばかりですね」
レギュラスの声は、静かで、低く、かすかに震えていた。
皮肉ではなかった。責める響きでもなかった。
ただ、胸の奥で何かがゆっくり崩れていく音が、その声に混じっていた。
求めれば、アランはいつも応えてくれた。
差し出せば、微笑んで受け入れてくれた。
触れた指先の温もりも、重ねた唇のやわらかさも、
確かに“愛の形”だと信じてきた。
信じることでしか、自分を保てなかった。
だが、アランの瞳が向かう先は、いつも――兄だった。
そのことを認めたくなくて、何度も言い聞かせてきた。
今夜だけは違う、
今夜こそ、自分を見てくれているのだと。
なのに、その名が再び彼女の唇からこぼれた瞬間、
レギュラスの胸に、氷の棘が突き刺さったようだった。
息が詰まり、指先が震えた。
彼女の心が、決して自分には触れない場所にあるのだと、
思い知らされた気がした。
「シリウスとは……どこまでしてるんです?」
その言葉は、抑えきれぬ感情の隙間から零れ落ちた。
口にした瞬間、後悔が喉を焦がした。
だがもう取り消せなかった。
問いは空気の中に漂い、
蝋燭の炎を震わせ、沈黙の海に落ちていった。
アランは何も言わなかった。
ただ、瞳を伏せたまま、微動だにしない。
けれどその沈黙が、
言葉よりも雄弁に答えを告げていた。
レギュラスの胸の奥で、何かが軋んだ。
痛みというより、鈍い虚脱。
想像が、勝手に形をとって膨らんでいく。
——二人は、確かにつながっていたのだろう。
兄の腕の中で、アランは笑っていたのだろう。
あの人の声で名を呼ばれ、
あの人の手で髪を撫でられ、
あの人の唇で涙を拭われたのだろう。
思考がそこまで辿り着いた瞬間、
膝が震えた。
それでも崩れ落ちまいと、両手を固く握りしめる。
唇を噛んだ。血の味がした。
——裏切り、なのだろうか。
その言葉を浮かべて、すぐにかぶりを振る。
違う。
アランは何も変わっていない。
ずっと、同じように兄を想っていた。
自分がそれを見ないふりをして、
都合のいい夢を信じ続けていただけなのだ。
それでも、苦しかった。
誇りが、静かに砕けていく音がした。
自分という存在が、彼女の人生のどこにも位置を持たないという現実。
愛された記憶があるのに、
それが“代わり”でしかなかったという残酷な事実。
アランの沈黙が、世界を包み込んでいた。
暖炉の火が小さく揺れるたびに、
彼女の頬の影がわずかに動く。
その小さな光と影の変化が、
レギュラスには、永遠の拒絶のように見えた。
「……そうですか」
絞り出すようにそう言うと、声が震えた。
どれほど冷静を装っても、感情が声ににじみ出てしまう。
それを隠すように、彼はゆっくりと立ち上がる。
光の中に立つアランの姿が、まるで別世界の人のように見えた。
届かない。
手を伸ばしても、その指先は永遠に届かない。
静かに背を向ける。
歩み出そうとした足が、一瞬だけ止まった。
胸の奥で、小さく、誰にも聞こえぬほどの声が零れる。
——僕は、ただあなたに愛されたかっただけなんです。
それは祈りでも懺悔でもなく、
たった一人の少年の、壊れかけた願いの残響だった。
