2章
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レギュラスはいつも通り、スラグホーン教授の課題を粛々とこなしていた。
課題を終えるとすぐに、アランがいるはずの隣の授業へ向かった。
本来ならば、正式な理由がなければ授業を欠席することなどありえなかった。
だが、教室に入った瞬間、アランの姿が見えないことに気づき、ゆっくり授業を受ける心の余裕は一気に消え去った。
慌てて校内を探し回る。
魔法薬学の実習室から魔法史の講義室、変容術の教室、夜には静かな廊下の隅まで、その足は震えながらも急いで動いた。
そして、誰もいない小さな教室の隅で、一人で跪き、頭を抱えながら泣き崩れているアランを見つけたその瞬間、胸が張り裂けそうになった。
「アラン、アラン、どうしたんです?」
慌てて駆け寄り、小さな体を力強く抱きしめた。
何があったのか、誰に何を言われたのか。
何を見て、何をされたのか。
暴力的な痕跡はなく、周囲には誰一人人影もなかった。
レギュラスは優しくアランの顔を持ち上げ、頬に残る涙の跡を指でそっと拭う。
揺れる翡翠色の瞳が胸に痛みを刺した。
あまりにも切なくて、見ていられなかった。
「探したんですよ」
力強く伝えるレギュラスに、アランは嗚咽まじりに答えた。
「ごめんなさい、レギュラス」
アランは立ち上がり、涙を無理にぬぐい笑みを浮かべた。
それがまるでペイントのように張り付いた笑顔であることは、一目瞭然だった。
せめてそんな強がりではなく、何に涙しているのか、彼に教えてほしかった。
「アラン、何があったんです?」
レギュラスは優しく問いかける。
「レギュラス、あなたの方こそ、私に言っておきたいことはありませんか?」
アランはまだ乾ききらぬ涙をそのままに、真っ直ぐにレギュラスの目を見つめていた。
そこには、何かを知ってしまったかのような鋭い光が宿っていた。
その視線に、レギュラスは内臓を掴まれたような衝撃を受けた。
「いえ、僕には何も」
レギュラスは言葉を濁らせて答えた。
本当はアランが何に気づいたのか、何を知ってしまったのか、それを確かめたかった。
しかしこれ以上踏み込めば墓穴を掘るような予感がし、逃げるように嘘を重ねてしまった。
嬉しいことに、アランはそれ以上詮索することはなかった。
やはりレギュラスは何も語ろうとしなかった。
彼がもう打ち解けることはなく、すべてを一人で抱え込むだろうことを、アランは悟った。
その瞬間、自分の無力さを深く知らされた気がした。
「少し、一緒に休みましょう」
レギュラスの優しい温度の手がアランの手を引いていく。
温かいはずのその手が、どこか冷たく感じられた。
もしかすると、この手はすでに大切な誰かの命を奪ったのかもしれない――
あるいは、これから奪うかもしれない。
そんな想いが彼女の胸を締めつけ、涙を拭ったはしからまた溢れ出しそうになった。
「授業に戻りましょう、レギュラス」
現実逃避に意味はない。
優しくされ、抱き寄せられても、デスイーターである事実が明らかになれば、全てを裏切りと感じてしまうのではないかと思った。
むしろ、最初から何もしてもらわない方が、心に残る痛みは少なかったかもしれない。
中途半端に良い思い出を持つことなど、願わなかった。
「でも、その顔で授業に出るのは辛いでしょう?少し校内を散策しましょう」
優しく提案するレギュラスに、
「構いません。遅れを取る方が嫌ですから」
アランはそっとレギュラスの手を緩やかに振りほどいた。
レギュラスは何か言いたげに口を開こうとしたが、アランはそれを聞こうとはしなかった。
言葉にはできない想いが、二人の間に静かに降り積もっていくのを感じながら、アランはただ胸の震えを抱え込んだ。
魔法史の授業で、遅れて参加したアランとレギュラスは一番後ろの席に並んだ。
前に立つ教授が黒板にチョークを走らせるたび、前方の文字が少し見えづらくて、アランは自然と目を細めてしまう。
その様子をすぐにレギュラスが見逃すことはなかった。
彼は手早く自分のノートに黒板の内容を写し取り、それを静かにアランの前に差し出した。
「アラン、見にくいでしょう?」
差し出されたノートには、細かな字で黒板の内容が丁寧に書き記されていた。
この人は、本当にささいなことにも目を配り、いつでもさりげなく気遣ってくれる。
その優しさが胸に染みる。
「ありがとう、レギュラス、助かるわ」
アランは微笑んで礼を言い、レギュラスのノートを頼りに自分のノートへも筆を走らせる。
二人並んでノートを取る間、レギュラスはアランの長い髪が顔に落ちてこないように、そっと指先で掬い上げてくれていた。
その手が本当に優しいだけの手なのか――
いっときそう疑いが胸をよぎる。
けれど、その瞬間はただ静かに、細やかな優しさだけがそこにあった。
夜の談話室、ソファに並び肩が触れ合う。
レギュラスが耳元にそっと囁く。
「アラン、ちょっと出ませんか」
「どちらに?」
場所は告げられず、けれどレギュラスは迷いなくアランの手を取った。
談話室を抜け出し、石造りの階段を静かに登る。
普段は使わない西側の廊下をゆるやかに進み、窓からは夜の校庭が遠くに見えている。
アランが目を細めると、壁には今まで見たことのない古い絵画や、黒檀で縁取られた扉がいくつも並んでいた。
「私、来たことないと思います」
「ええ、ここにはあなたを連れてこようと思ってたんです」
扉の奥へと導かれる。
そこは監督生しか足を踏み入れることのできない部屋だった。
想像を遥かに超える広さ。高い天井には大きなシャンデリア。
壁には織物のタペストリーと、重厚な調度品が並ぶ。
部屋の一角には図書室のような書棚もあり、大きな窓からは夜の校庭を一望できる。
暖炉に火がともり、ふかふかのラグが床を覆っている。
何よりも部屋の中心には、寮の自室のベッドの倍はありそうな、真っ白な大きなベッドが置かれていた。
「ホグワーツって、本当にいろんな部屋があるのね……」
ため息混じりにアランは感激を隠せない。
「ええ、あなたを連れてきたかったんです」
アランは大きなベッドに腰掛け、レギュラスも隣に座る。
レギュラスの瞳が熱に揺れていることに、アランはすぐに気づいた。
その微かな光の滲み方、息の整わぬ仕草——そのすべてが雄弁に語っていた。
この部屋へ自分を連れて来た本当の理由も、悟ってしまう。
しばらく触れ合う時間がなかった。互いに追われる日々の中で、言葉よりも沈黙の方が多くなっていた。
だからこそ、今こうして向き合うことに、少しの戸惑いと、少しの安堵が入り混じっていた。
「最近、忙しかったから……」
レギュラスの声は低く、わずかに震えていた。
「ええ、あなたは……忙しそうだったわ」
責めるような響きにならぬよう、アランは静かに微笑む。
本当は問い詰めたい。どこで、誰と、何をしていたのか。
けれど、その問いは彼を遠ざけてしまう気がして、飲み込んだ。
代わりに、レギュラスの手がアランの頬に触れる。冷たくもあり、熱を秘めてもいる指先だった。
唇が触れ合った瞬間、空気がわずかに震えた。
その一瞬に、言葉を失うほどの緊張が宿る。
触れ合いはやがて長く、深く、絡まりながら、どこか悲しみを帯びていった。
豪奢な室内に置かれた燭台の炎が、二人の影を壁に揺らしている。
光が肌の上を這うたびに、アランはその熱を確かめるようにまぶたを伏せた。
愛されているはずなのに、なぜこんなにも胸が締めつけられるのだろう。
レギュラスの腕がアランを抱き寄せる。
求め合う行為は、どこか形式的で、哀しみに似た優しさを纏っていた。
彼の呼吸が耳元で熱を帯びるたび、アランの心は静かに凍えていく。
シリウスと過ごした夜のような、胸の奥を燃やす幸福はそこにはない。
ただ与え、ただ受け取る。
互いの体温が重なるほどに、心は遠のいていくようで、
快楽という名の波に揺れながらも、どこか置き去りにされている感覚があった。
それでも、アランはその腕の中にいた。
彼を拒むことが、もっと大きな痛みを呼ぶと分かっていたから。
レギュラスは最後まで上着を脱がなかった。
その布の隙間から覗く白い肌に、アランの視線が吸い寄せられる。
隠されているものがある。——そう感じた。
闇の印。彼が背負う誓いの証。
見えぬように覆い隠されたその痕が、まるで彼の心そのもののように思えた。
ジェームズの声が脳裏に蘇る。
——君の力で、彼を引き戻してくれ。
けれど、アランには分からなかった。
自分のどこに、そんな力があるのか。
すでに深く闇に沈みゆく彼の手を、掴み戻すことなどできるのだろうか。
「レギュラス……戻ってきて」
声にならぬその願いは、震える唇の奥で散り、
代わりに漏れるのは、熱に溶かされた息と微かな喘ぎだった。
レギュラスの唇が再び重なり、言葉の欠片を奪い取っていく。
「アラン、愛しています」
その響きは、あまりにも静かで、あまりにも痛かった。
“愛している”——その言葉の意味を、アランはどうしても掴めなかった。
愛とは、本当にこんなにも苦しいものなのだろうか。
胸の内側で光を失っていくような感覚。
それでも、どこかで確かに彼を愛している気がした。
シリウスを思う時のような、明るく温かな光ではない。
それは、氷の下に沈むような静けさと、疼くほどの切なさを伴っていた。
闇の奥で輝く月のように、レギュラスは美しく、遠かった。
その月明かりに惹かれながら、アランは静かに瞳を閉じた。
すべてを受け入れるように、ただそっと、彼の胸の鼓動に耳を澄ませた。
痛みと愛が混じり合い、言葉にならない祈りが胸の奥で溶けていく。
形だけの満たされる行為が終わると、部屋は深い静寂に包まれた。
外の世界が遠く霞んでいくように、そこにはただ二人の呼吸だけがあった。
高い天井から吊るされたシャンデリアの灯が、薄金色の光を散らしながら揺れている。
その輝きが、広大なベッドの上に柔らかな影を落とし、シーツの皺の一つ一つまで静かに浮かび上がらせていた。
レギュラスは腕の中にアランを抱き寄せていた。
その仕草は穏やかで、まるで壊れやすいガラス細工を包み込むように優しかった。
けれど、アランの胸の奥では、説明のつかない冷たさがじわじわと広がっていった。
彼の腕は確かに温かい。
頬を撫でる息のぬくもりも、生きている証として肌に触れている。
それなのに——どうしてこんなにも孤独なのだろう。
息を合わせるように胸に顔を寄せると、耳元で微かに響く鼓動が聞こえた。
それは確かに「愛している」と語るようでありながら、どこか遠い。
心の奥で別の世界の音が鳴っているような気がした。
まるでこの温もりが、永遠には続かないことを知っているかのように。
アランはそっと顔を上げ、レギュラスの横顔を見つめた。
閉じられたまつげの影が頬に落ち、穏やかな寝息がその影をわずかに揺らす。
その表情は、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。
けれど、その美しさの奥に、決して触れてはならないものが潜んでいる気がした。
背負っているものの重さを感じるたび、アランの心はきしむように痛んだ。
「アラン……寒くはありませんか?」
その声は夢の中から届くように静かだった。
「……ええ、大丈夫です」
そう答えながら微笑もうとしたが、唇の端がうまく動かなかった。
笑顔を作ろうとするたび、胸の奥で小さなひびが入るような気がした。
再び彼の胸に顔を埋める。
淡い香りと、微かな体温が混ざり合っている。
けれどその温もりが、自分のためのものなのか分からなくなっていた。
この人が抱きしめているのは、いま目の前の自分なのか、
それとも——過去の誰か、あるいはもう戻れぬ理想なのか。
瞳を閉じると、まぶたの裏にシリウスの笑顔が浮かんだ。
陽光をそのまま映したようなあの眼差し。
名前を呼ばれるたびに胸の奥が明るく染まっていくような、あの温かさ。
太陽のようなその愛は、いつだってアランの世界を照らしてくれた。
思い出した瞬間、胸の奥がひどく疼いた。
あの光が、今はどこにもない。
代わりにあるのは、夜のような優しさ。
静かで、深く、底知れない闇の中に沈みゆくような抱擁。
その暗さの中に、かすかな安らぎを感じてしまう自分が、恐ろしかった。
まるで、愛という名の闇に取り込まれていくようで——。
レギュラスの指が髪を梳き、頬に触れた。
その一瞬の温度が、確かに優しい。
それでも、心のどこかで冷たい風が吹いている。
言葉にならない想いが胸の奥に積もっていく。
愛している。
その言葉を、アランは何度も心の中で呟いた。
けれど、それは誰に向けた言葉だったのだろう。
レギュラスか、シリウスか、それとももう戻らない過去の自分にか。
長い沈黙ののち、アランは小さく息を吐いた。
それは安堵にも、諦めにも似た音だった。
レギュラスの胸に頬を寄せ、微かに震えるまつげを閉じる。
静かな暗闇が訪れる。
まるでその闇そのものが、彼の腕の形をしているかのように。
愛に似たぬくもりに抱かれながら、アランはただ静かに沈んでいった。
心の奥底で、消えることのない光を求めながら——。
静かな湖畔に、夜の帳がゆっくりと降りていた。
月光が水面をなぞり、白銀のきらめきが揺れている。
空気はひどく冷たく、吐息さえも淡い白に溶けて消えた。
シリウスはその湖畔で、アランを待っていた。
この場所は二人にとって特別な場所だった。
かつて、何度も呪文の練習をした場所。
笑いながら魔法の光を飛ばし合い、水面を虹色に染めた——そんな無邪気な記憶が、まだそこに息づいている。
やがて、木々の間アランアランが姿を現した。
月明かりが彼女の髪を淡く照らし、その表情を柔らかく包む。
湖面の反射が彼女の頬を照らすたびに、シリウスは思った。
——この闇の色は、彼女には似合わない。
今、アランの瞳にはかすかな翳りがある。
レギュラスの影が、彼女の中に入り込んでいるのを感じた。
あの優しさと美しさが、闇に穢されていくのを見たくなかった。
何より、その闇がアランの心を奪ってしまうことが、恐ろしかった。
「なぁ、アラン」
シリウスはゆっくりと声を出した。
風が二人の間を抜けていく。
「レギュラスと……もう関わるな。アイツは完全に、デスイーターになっちまってる」
アランは小さく首を振った。
その瞳が揺れる。
「レギュラスは……そんなこと、しないわ。人を殺めたりなんて——」
声はかすれ、震えていた。
信じたいのだ。
あの優しかった少年を。自分に“光”を見せてくれた彼を。
けれど、シリウスはその幻想を壊さなければならなかった。
現実は、残酷なほど確かだった。
騎士団の報告では、レギュラスは何度も集会に現れている。
その姿を見た者の証言は、一つ残らず一致していた。
否定できる余地など、もうどこにもなかった。
シリウスは拳を握りしめた。
心の中で叫びたいほどの苛立ちと焦燥が渦巻く。
「アラン、聞いてくれ。あいつはもう昔のアイツじゃねぇ。
今のレギュラスは……マグルを容赦なく殺す軍団の中にいるんだ」
湖の水音が、二人の間の沈黙を埋めた。
アランの目が潤んでいる。
その瞳には、過去の三人の面影が映っていた。
まだ幼く、互いに笑い合っていた日々。
泥にまみれながら呪文を練習した夏の午後。
未来なんて何も知らなかった、あの幸福な時間。
けれど、もう戻れない。
あの温かさは遠い過去に溶け、いま残っているのは闇と痛みだけだ。
それでも彼女は信じようとしている——あの優しい少年のままのレギュラスを。
シリウスは、そんなアランの姿を見つめながら思った。
もしも今、彼女をこの場所から連れ出せるなら。
この湖を越え、遠くの空へと逃げられるなら。
どんな罪を犯しても構わないとさえ思った。
「アラン……」
シリウスの声は掠れていた。
その一言の中に、言い尽くせぬ想いが溶けている。
「頼む。俺のそばにいてくれ。もう、闇の中に行かないでくれ」
アランは何も言わなかった。
ただ、湖を見つめていた。
風が彼女の髪を揺らし、月の光が涙を淡く照らす。
その涙は、静かに彼女の頬を伝い、手の甲へと落ちた。
夜の湖が、それをひとしずく吸い込む。
シリウスはそっと一歩近づき、彼女を抱きしめた。
冷たい空気の中で、彼の体温だけが確かに感じられる。
その抱擁は、言葉ではない願いのようだった。
——どこにも行かないでほしい。
——もう二度と、あの闇に触れないでほしい。
アランの指が震えながら、シリウスの服を掴む。
けれどその手の中にあるのは、今だけの儚い温もりだった。
夜風が二人を包み、湖面の光が静かに揺らめいている。
遠くでフクロウが一声鳴いた。
その音が、どこか切なく、痛いほど静かな夜を裂いた。
シリウスは彼女を腕の中に抱いたまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
もしこの時間を止められるなら——
もう二度と、彼女を闇に渡さないと誓いながら。
夜の談話室は、吐息さえも吸い込んでしまうほど静まり返っていた。
ランプの火がわずかに揺れ、深い緑のカーテンが風もないのに微かに動く。
その静寂の中で、レギュラスが音も立てずに扉を開けた。
黒いローブの裾が床をかすめ、廊下の闇へと溶けていく。
アランは胸の奥に走る痛みを押し殺し、そっと立ち上がった。
この夜、彼の後を追うということは、すべてを知るということ。
——たとえ、その先に見たくない現実が待っていても。
それでも行かなくてはならなかった。
杖を握り、息をひそめる。
小さく呟いた〈静音(サイレンシオ)〉の呪文が自らの足音を奪う。
アランの視線は、闇の中のレギュラスを逃さぬよう鋭く見据えていた。
彼の肩越しに見える横顔には、かつての柔らかな微笑の欠片もない。
光の欠けた瞳が、まるで別の世界を見つめているようだった。
——シリウスの純粋でまっすぐな正義は、きっと容赦なくレギュラスを貫くだろう。
その光は、闇をも焼く。
だからこそ、アランは恐れた。
レギュラスがその光に焼き尽くされる瞬間、シリウスの心までも砕け散ってしまうのではないかと。
それだけは、絶対に見たくなかった。
シリウスのために。
そして、自分自身のために。
アランは決意した。
レギュラスを光へと引き戻す——たとえその光が、自らを焼くものであっても。
校舎の奥、使用されていない通路を抜け、石段を下る。
レギュラスは人気のない回廊の角で、誰かと合流していた。
月明かりを受けて、彼の手に握られた小さなカップが淡く光る。
それは古びたポートキー。魔法陣のような光の紋が浮かび、静かに空気を震わせていた。
アランは息を止め、その光の中心に手を伸ばす。
次の瞬間、世界がぐらりと傾き、足元から引きずり込まれるように空間がねじれた。
光と闇が反転し、音のない風が鼓膜を切り裂く。
——そして、気づけば、そこは別の場所だった。
湿った土の匂い。
冷たい霧が足元を這い、遠くで不気味な囁きがこだましている。
視界に広がるのは、黒いマントを纏った魔法使いたちの群れ。
彼らは円を描くように立ち、顔を覆った仮面の奥から鋭い眼光を光らせていた。
闇を支配するような低い声が響く。
「——マグル生まれの役人が、我々の同胞をアズカバンに投獄したそうだ」
その声は、冷たく、鋭く、骨の髄を刺すようだった。
どこかで聞いた噂が脳裏をよぎる。
“名前を言ってはならないあの人”。
その存在の気配だけで、空気が震えるほどの圧があった。
「マグルごときが、我らを裁くなど……」
別の男が唸るように言った。
その声音は狂気を孕み、焔のように場を包み込む。
「許されると思うものはいるか!」
沈黙が返る。その沈黙そのものが、忠誠の証であるかのように。
「——見せしめだ。あの者を狩れ。血を以て秩序を示せ」
ざわめきが走った。
黒いマントが揺れ、杖を構える音が重なり合う。
アランは息を詰めた。
その場に漂うのは、怒りでも憎しみでもなく、“信仰”に近い狂気だった。
彼らは恐怖に縛られてなどいない。
闇を誇りに思っているのだ。
その確信に満ちた眼差しに、アランの背筋が凍りつく。
胸の奥が悲鳴を上げた。
この闇の中に、レギュラスがいる——。
顔を上げると、黒いローブの列の中に確かにその姿があった。
仮面をつけてはいない。
けれど、その横顔は静かで、凛として、美しかった。
それがかえって、恐ろしかった。
——どうして。
どうしてあなたが、こんな場所にいるの。
言葉にできぬ想いが喉を塞ぎ、息が詰まる。
信じたくない現実が、冷たい夜気の中で確かに形を取っていた。
アランは、暗闇の中で震える手を口元に当て、音を立てぬように祈るように呟いた。
「レギュラス……戻ってきて……」
けれどその声は、夜の底に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。
ただ、湖のように静まり返った闇が、彼女の願いを飲み込み、
遠くでひときわ冷たい笑い声が、夜空を裂いた。
闇が、音もなく押し寄せた。
背後に、誰かの気配。
床に映る影が二つに増えた瞬間、アランの心臓がひとつ、大きく跳ねた。
振り返ったその先に、黒いマントの男が立っていた。
見上げるほどに大柄で、仮面の奥から放たれる視線は氷のように冷たかった。
瞬き一つすれば、その刃のような光が喉を裂くのではないかと錯覚するほどの緊張が走る。
言葉を発する暇もなく、彼の手がアランの口を塞いだ。
息が詰まり、世界が静止する。
耳の奥で、自分の鼓動だけが荒々しく鳴っていた。
まるでその音が、見つかってしまった事実を告げる鐘の音のように。
次の瞬間、見えない鎖が身体を縛る。
腕が動かない。足も、指先も。
光の糸のような拘束が絡みつき、自由という概念が奪われていく。
逃げようとしても、息を呑むたびにその光は強く締め付けた。
男は冷えきった声で何かを告げ、隣室へと姿を消す。
薄い壁越しに、報告の声が聞こえた。
「若い女が一人、紛れ込んでいました」
「騎士団の者か?」
「そこまでは不明ですが……学生のようです」
「そうか。——好きにせよ」
好きにせよ。
その一言が、刃よりも鋭く胸に突き刺さった。
アランは喉の奥まで恐怖がこみ上げ、呼吸が浅くなるのを感じた。
背中を伝う冷たい汗。
喉の奥が渇き、舌が動かない。
世界が音を失い、耳鳴りのような沈黙だけが響いていた。
男が戻ってきた。
闇に濡れた靴音が近づいてくるたび、心臓が体の奥で縮み上がる。
彼はゆっくりと、まるで獲物を観察するようにアランを見下ろした。
その目には一片の情もない。
命ではなく、ただ「存在」を支配するような冷たい好奇心だけが宿っていた。
「誰の差金でここに来た?」
その問いが、冷気のように肌を刺した。
答えなければ——けれど、レギュラスの名を出すことはできなかった。
彼を守りたい。その一心だけが胸の奥で燃えている。
沈黙。
それは勇気でもあり、無謀でもあった。
男の視線が鋭く光り、アランの顎を乱暴に掴んで顔を上げさせる。
「怖いもの知らずだな……」
その声は嗤うようで、同時に獣の低い唸りにも似ていた。
心臓がひどく痛い。
恐怖が血液に溶け込み、体の隅々まで巡っていく。
目の前の男の存在そのものが、現実を歪ませるほどの圧を放っていた。
言葉も、祈りも、何も通じない。
この場所には、理性も慈悲も存在しないのだ。
——こんな世界に、レギュラスが。
その事実が、何よりも苦しかった。
アランの瞳に涙が滲む。
あの優しかった少年の笑顔。
シリウスと並んで見上げた青空。
穏やかに魔法を語り合った日々——すべてが遠い幻のように揺らめく。
そして、悟ってしまった。
彼はもう、戻れないところまで行ってしまったのだと。
闇の中に身を置くということは、心までその色に染めるということ。
レギュラスの白い手が、今はもう光を掴むことはない。
胸の奥で何かが崩れた。
それは絶望の音でもあり、愛の終わりの音でもあった。
アランは震える唇で、誰にも届かぬ祈りを呟いた。
——シリウス、どうか。
あの人を、あなたの光で殺さないで。
目を閉じれば、静かな湖畔が浮かぶ。
あの日、三人で笑い合った声が、遠くの夢のように揺れていた。
だがその光景は、闇の中でゆっくりと滲み、消えていく。
残ったのは、冷たい沈黙と、痛みだけ。
その夜、アランは心の奥で確かに感じた。
——愛しているという言葉が、最も残酷な呪いになる瞬間を。
館の中は、まるで息を潜めたように静まり返っていた。
冷えた石壁が、長い年月を経て湿り気を帯び、蝋燭の光を鈍く反射している。
レギュラスは厚いマントの裾を揺らしながら、石造りの階段をゆっくりと降りていた。
重厚な扉の向こうに広がる闇へと、彼の足音だけが規則的に響く。
夜は深く、外の風は冷たく、遠くでふと梟の声がかすかに木霊した。
その静寂を裂くように、突如、女の悲鳴が上がった。
高く、鋭く、そして耐えがたいほど生々しい声。
響きは階段の石壁に跳ね返り、耳の奥でいつまでも消えない残響となって続く。
レギュラスは一瞬、足を止めた。
だが、その顔には驚きの色も、怒りの影も浮かばなかった。
ただ、目を伏せるようにして、再び歩みを進める。
——拷問が始まったのだろう。
そう理解するまでに、心の中にわずかな間も生まれなかった。
集会に紛れ込み、闇の会合を覗こうとするなど、あまりに愚かだ。
生きて帰れるはずもない。
その女は、己の軽率さの代償を支払っているにすぎない。
レギュラスは、そう自らに言い聞かせた。
胸の奥をかすめた微かな痛みを、冷たい理性で押し殺す。
同情など、もはや意味を持たない。
——女子供が犠牲になる場面に、感情を持ち込む者から先に壊れていく。
それを、彼はもう嫌というほど見てきた。
「侵入者は学生だそうだが、見に行かなくていいのか?」
背後からルシウスの声が響いた。
滑らかでありながら、どこか氷のように張り詰めた響き。
レギュラスは立ち止まり、振り返ることなく静かに答えた。
「ええ、興味はありません。変に同情も、しませんから」
短い沈黙が落ちる。
ルシウスは薄く笑いを漏らし、淡々とした口調で応じた。
「——それがいい。情けは毒になる」
二人の間に、会話の余韻さえ残らなかった。
ただ、蝋燭の炎が壁に長い影を伸ばし、ゆらりと揺れる。
光が少し揺らぐたび、石段の縁が刃のように鋭く見えた。
レギュラスはそのまま階段を降り続ける。
背後で再び、遠くの方から短い悲鳴が上がった。
声の震え方に若い響きがあることを、彼はどこかで感じた。
けれど、それ以上考えようとはしなかった。
その一歩を踏み出せば、情が生まれる。
情は弱さであり、死に至る欠陥だ。
冷たい理性が、心の奥の何かを覆い隠していく。
かつて自分が守りたいと思ったもの——その形さえ、いまはもう思い出せなかった。
螺旋を描く石段の下には、重い扉がひとつ。
その先に広がる夜の空気は、鉄のように冷たく澄んでいた。
外へ出た瞬間、彼は深く息を吸い込む。
血の匂いを混じらせた湿った空気が肺を満たし、胸の奥に重く沈む。
夜空には雲がかかり、星はほとんど見えなかった。
風が黒衣を揺らし、裾が地面を擦る音が微かに響く。
背後の館では、まだ誰かの声が途切れ途切れに響いている。
だがレギュラスは振り返らなかった。
自分とは関係のない出来事。
そう思い込むことで、心の奥に広がるわずかなざらつきを押し潰す。
たとえ、その声がほんの少し——
どこかで聞いたことのある声に似ていたとしても。
「行こう」
ルシウスの声が静かに背後から落ちてきた。
レギュラスは短く頷き、闇の中へ歩み出す。
その瞳は何も映さず、
ただ、冷たい月光だけが彼の横顔を淡く照らしていた。
闇の底に、音が沈んでいった。
微かな蝋燭の光が、広い石壁に滲むように揺れている。
アランは、冷たい石の床に横たえられていた。
鉄の匂いが空気の中に漂い、呼吸をするたび、胸の奥が軋む。
自分の身体が、まるで他人のもののように遠くに感じられた。
痛みというより、もはや感覚そのものが曖昧になっていた。
光も音も、色も意味も、すべてが薄れていく。
ただ、身体のどこかに熱が宿り、冷たさと交互に波打っている。
意識の奥で何かが崩れ、そこに恐怖と絶望がゆっくりと沈んでいった。
「——早く話した方がいい」
低く響く声が、空間を割るように落ちた。
その声には、怒りも激情もない。
ただ、習慣のように冷静で、事務的だった。
その無慈悲な静けさが、かえって胸を凍らせた。
アランは唇を開こうとした。
声が出ない。
喉が焼けつくように乾いている。
それでも、空気を震わせるように、かすれた言葉が漏れた。
「…… アラン・セシール」
名を名乗った瞬間、涙が滲んだ。
それが自分の名前であることを、なぜか信じられなかった。
名前は自分の存在を確かめる印のはずなのに、
その音が空気に溶けるとき、まるで他人の名を呼んだような空虚さが残った。
「スリザリンの学生、か」
男の声が遠くで響く。
理解を示すような調子だったが、そこに安堵はなかった。
その後に訪れる静寂が、何よりも恐ろしかった。
時間の流れが止まったようだった。
自分の鼓動だけが、空間の隅で震えている。
何かが崩れ、何かが奪われ、何かが終わっていく。
それでも、まだ心のどこかで信じていた。
——レギュラスなら、きっと。
彼がこの闇にいることを、どこかで分かっていた。
けれど、もしこの声が届けば、彼は自分を助けようとするだろう。
そしてその瞬間、彼の未来は終わる。
だから、アランは何も叫ばなかった。
助けを求めれば、彼を壊してしまうと分かっていたから。
静かな空気の中で、どこか遠くの部屋から鈍い音が響いた。
世界がわずかに傾き、視界がゆらりと揺れる。
自分が倒れたのか、床が動いたのか、それさえ分からなかった。
意識が薄れていく中で、思考がひとつの形をとる。
——私は、愚かだった。
レギュラスを闇から連れ戻すなどと、どの口で言えたのだろう。
この手一つ動かせない自分が、どうして誰かを救えるというのか。
その滑稽さに、ふっと笑いが漏れた。
声にならない笑みが喉を震わせ、痛みに変わる。
けれど、それはもうどうでもよかった。
笑いは涙に変わり、涙はやがて静かに頬を伝っていった。
世界は静まり返り、蝋燭の炎だけが震えている。
光の揺らぎが、まるで誰かの指先のように頬を撫でていった。
その優しさを、アランは錯覚のように感じた。
——ああ、レギュラス。
あなたがこの闇の中で、光を見失っていませんように。
たとえ私がここで終わっても。
どうか、あなたの心だけは……。
祈るように目を閉じた。
光が滲み、闇と溶け合っていく。
最後に残ったのは、痛みではなく、
ただ静かで、あたたかい記憶の欠片だった。
湖のほとりで笑っていたあの日。
風が揺らした彼の髪。
陽の光を映した灰色の瞳。
そのすべてが、遠い夢のように消えていった。
課題を終えるとすぐに、アランがいるはずの隣の授業へ向かった。
本来ならば、正式な理由がなければ授業を欠席することなどありえなかった。
だが、教室に入った瞬間、アランの姿が見えないことに気づき、ゆっくり授業を受ける心の余裕は一気に消え去った。
慌てて校内を探し回る。
魔法薬学の実習室から魔法史の講義室、変容術の教室、夜には静かな廊下の隅まで、その足は震えながらも急いで動いた。
そして、誰もいない小さな教室の隅で、一人で跪き、頭を抱えながら泣き崩れているアランを見つけたその瞬間、胸が張り裂けそうになった。
「アラン、アラン、どうしたんです?」
慌てて駆け寄り、小さな体を力強く抱きしめた。
何があったのか、誰に何を言われたのか。
何を見て、何をされたのか。
暴力的な痕跡はなく、周囲には誰一人人影もなかった。
レギュラスは優しくアランの顔を持ち上げ、頬に残る涙の跡を指でそっと拭う。
揺れる翡翠色の瞳が胸に痛みを刺した。
あまりにも切なくて、見ていられなかった。
「探したんですよ」
力強く伝えるレギュラスに、アランは嗚咽まじりに答えた。
「ごめんなさい、レギュラス」
アランは立ち上がり、涙を無理にぬぐい笑みを浮かべた。
それがまるでペイントのように張り付いた笑顔であることは、一目瞭然だった。
せめてそんな強がりではなく、何に涙しているのか、彼に教えてほしかった。
「アラン、何があったんです?」
レギュラスは優しく問いかける。
「レギュラス、あなたの方こそ、私に言っておきたいことはありませんか?」
アランはまだ乾ききらぬ涙をそのままに、真っ直ぐにレギュラスの目を見つめていた。
そこには、何かを知ってしまったかのような鋭い光が宿っていた。
その視線に、レギュラスは内臓を掴まれたような衝撃を受けた。
「いえ、僕には何も」
レギュラスは言葉を濁らせて答えた。
本当はアランが何に気づいたのか、何を知ってしまったのか、それを確かめたかった。
しかしこれ以上踏み込めば墓穴を掘るような予感がし、逃げるように嘘を重ねてしまった。
嬉しいことに、アランはそれ以上詮索することはなかった。
やはりレギュラスは何も語ろうとしなかった。
彼がもう打ち解けることはなく、すべてを一人で抱え込むだろうことを、アランは悟った。
その瞬間、自分の無力さを深く知らされた気がした。
「少し、一緒に休みましょう」
レギュラスの優しい温度の手がアランの手を引いていく。
温かいはずのその手が、どこか冷たく感じられた。
もしかすると、この手はすでに大切な誰かの命を奪ったのかもしれない――
あるいは、これから奪うかもしれない。
そんな想いが彼女の胸を締めつけ、涙を拭ったはしからまた溢れ出しそうになった。
「授業に戻りましょう、レギュラス」
現実逃避に意味はない。
優しくされ、抱き寄せられても、デスイーターである事実が明らかになれば、全てを裏切りと感じてしまうのではないかと思った。
むしろ、最初から何もしてもらわない方が、心に残る痛みは少なかったかもしれない。
中途半端に良い思い出を持つことなど、願わなかった。
「でも、その顔で授業に出るのは辛いでしょう?少し校内を散策しましょう」
優しく提案するレギュラスに、
「構いません。遅れを取る方が嫌ですから」
アランはそっとレギュラスの手を緩やかに振りほどいた。
レギュラスは何か言いたげに口を開こうとしたが、アランはそれを聞こうとはしなかった。
言葉にはできない想いが、二人の間に静かに降り積もっていくのを感じながら、アランはただ胸の震えを抱え込んだ。
魔法史の授業で、遅れて参加したアランとレギュラスは一番後ろの席に並んだ。
前に立つ教授が黒板にチョークを走らせるたび、前方の文字が少し見えづらくて、アランは自然と目を細めてしまう。
その様子をすぐにレギュラスが見逃すことはなかった。
彼は手早く自分のノートに黒板の内容を写し取り、それを静かにアランの前に差し出した。
「アラン、見にくいでしょう?」
差し出されたノートには、細かな字で黒板の内容が丁寧に書き記されていた。
この人は、本当にささいなことにも目を配り、いつでもさりげなく気遣ってくれる。
その優しさが胸に染みる。
「ありがとう、レギュラス、助かるわ」
アランは微笑んで礼を言い、レギュラスのノートを頼りに自分のノートへも筆を走らせる。
二人並んでノートを取る間、レギュラスはアランの長い髪が顔に落ちてこないように、そっと指先で掬い上げてくれていた。
その手が本当に優しいだけの手なのか――
いっときそう疑いが胸をよぎる。
けれど、その瞬間はただ静かに、細やかな優しさだけがそこにあった。
夜の談話室、ソファに並び肩が触れ合う。
レギュラスが耳元にそっと囁く。
「アラン、ちょっと出ませんか」
「どちらに?」
場所は告げられず、けれどレギュラスは迷いなくアランの手を取った。
談話室を抜け出し、石造りの階段を静かに登る。
普段は使わない西側の廊下をゆるやかに進み、窓からは夜の校庭が遠くに見えている。
アランが目を細めると、壁には今まで見たことのない古い絵画や、黒檀で縁取られた扉がいくつも並んでいた。
「私、来たことないと思います」
「ええ、ここにはあなたを連れてこようと思ってたんです」
扉の奥へと導かれる。
そこは監督生しか足を踏み入れることのできない部屋だった。
想像を遥かに超える広さ。高い天井には大きなシャンデリア。
壁には織物のタペストリーと、重厚な調度品が並ぶ。
部屋の一角には図書室のような書棚もあり、大きな窓からは夜の校庭を一望できる。
暖炉に火がともり、ふかふかのラグが床を覆っている。
何よりも部屋の中心には、寮の自室のベッドの倍はありそうな、真っ白な大きなベッドが置かれていた。
「ホグワーツって、本当にいろんな部屋があるのね……」
ため息混じりにアランは感激を隠せない。
「ええ、あなたを連れてきたかったんです」
アランは大きなベッドに腰掛け、レギュラスも隣に座る。
レギュラスの瞳が熱に揺れていることに、アランはすぐに気づいた。
その微かな光の滲み方、息の整わぬ仕草——そのすべてが雄弁に語っていた。
この部屋へ自分を連れて来た本当の理由も、悟ってしまう。
しばらく触れ合う時間がなかった。互いに追われる日々の中で、言葉よりも沈黙の方が多くなっていた。
だからこそ、今こうして向き合うことに、少しの戸惑いと、少しの安堵が入り混じっていた。
「最近、忙しかったから……」
レギュラスの声は低く、わずかに震えていた。
「ええ、あなたは……忙しそうだったわ」
責めるような響きにならぬよう、アランは静かに微笑む。
本当は問い詰めたい。どこで、誰と、何をしていたのか。
けれど、その問いは彼を遠ざけてしまう気がして、飲み込んだ。
代わりに、レギュラスの手がアランの頬に触れる。冷たくもあり、熱を秘めてもいる指先だった。
唇が触れ合った瞬間、空気がわずかに震えた。
その一瞬に、言葉を失うほどの緊張が宿る。
触れ合いはやがて長く、深く、絡まりながら、どこか悲しみを帯びていった。
豪奢な室内に置かれた燭台の炎が、二人の影を壁に揺らしている。
光が肌の上を這うたびに、アランはその熱を確かめるようにまぶたを伏せた。
愛されているはずなのに、なぜこんなにも胸が締めつけられるのだろう。
レギュラスの腕がアランを抱き寄せる。
求め合う行為は、どこか形式的で、哀しみに似た優しさを纏っていた。
彼の呼吸が耳元で熱を帯びるたび、アランの心は静かに凍えていく。
シリウスと過ごした夜のような、胸の奥を燃やす幸福はそこにはない。
ただ与え、ただ受け取る。
互いの体温が重なるほどに、心は遠のいていくようで、
快楽という名の波に揺れながらも、どこか置き去りにされている感覚があった。
それでも、アランはその腕の中にいた。
彼を拒むことが、もっと大きな痛みを呼ぶと分かっていたから。
レギュラスは最後まで上着を脱がなかった。
その布の隙間から覗く白い肌に、アランの視線が吸い寄せられる。
隠されているものがある。——そう感じた。
闇の印。彼が背負う誓いの証。
見えぬように覆い隠されたその痕が、まるで彼の心そのもののように思えた。
ジェームズの声が脳裏に蘇る。
——君の力で、彼を引き戻してくれ。
けれど、アランには分からなかった。
自分のどこに、そんな力があるのか。
すでに深く闇に沈みゆく彼の手を、掴み戻すことなどできるのだろうか。
「レギュラス……戻ってきて」
声にならぬその願いは、震える唇の奥で散り、
代わりに漏れるのは、熱に溶かされた息と微かな喘ぎだった。
レギュラスの唇が再び重なり、言葉の欠片を奪い取っていく。
「アラン、愛しています」
その響きは、あまりにも静かで、あまりにも痛かった。
“愛している”——その言葉の意味を、アランはどうしても掴めなかった。
愛とは、本当にこんなにも苦しいものなのだろうか。
胸の内側で光を失っていくような感覚。
それでも、どこかで確かに彼を愛している気がした。
シリウスを思う時のような、明るく温かな光ではない。
それは、氷の下に沈むような静けさと、疼くほどの切なさを伴っていた。
闇の奥で輝く月のように、レギュラスは美しく、遠かった。
その月明かりに惹かれながら、アランは静かに瞳を閉じた。
すべてを受け入れるように、ただそっと、彼の胸の鼓動に耳を澄ませた。
痛みと愛が混じり合い、言葉にならない祈りが胸の奥で溶けていく。
形だけの満たされる行為が終わると、部屋は深い静寂に包まれた。
外の世界が遠く霞んでいくように、そこにはただ二人の呼吸だけがあった。
高い天井から吊るされたシャンデリアの灯が、薄金色の光を散らしながら揺れている。
その輝きが、広大なベッドの上に柔らかな影を落とし、シーツの皺の一つ一つまで静かに浮かび上がらせていた。
レギュラスは腕の中にアランを抱き寄せていた。
その仕草は穏やかで、まるで壊れやすいガラス細工を包み込むように優しかった。
けれど、アランの胸の奥では、説明のつかない冷たさがじわじわと広がっていった。
彼の腕は確かに温かい。
頬を撫でる息のぬくもりも、生きている証として肌に触れている。
それなのに——どうしてこんなにも孤独なのだろう。
息を合わせるように胸に顔を寄せると、耳元で微かに響く鼓動が聞こえた。
それは確かに「愛している」と語るようでありながら、どこか遠い。
心の奥で別の世界の音が鳴っているような気がした。
まるでこの温もりが、永遠には続かないことを知っているかのように。
アランはそっと顔を上げ、レギュラスの横顔を見つめた。
閉じられたまつげの影が頬に落ち、穏やかな寝息がその影をわずかに揺らす。
その表情は、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。
けれど、その美しさの奥に、決して触れてはならないものが潜んでいる気がした。
背負っているものの重さを感じるたび、アランの心はきしむように痛んだ。
「アラン……寒くはありませんか?」
その声は夢の中から届くように静かだった。
「……ええ、大丈夫です」
そう答えながら微笑もうとしたが、唇の端がうまく動かなかった。
笑顔を作ろうとするたび、胸の奥で小さなひびが入るような気がした。
再び彼の胸に顔を埋める。
淡い香りと、微かな体温が混ざり合っている。
けれどその温もりが、自分のためのものなのか分からなくなっていた。
この人が抱きしめているのは、いま目の前の自分なのか、
それとも——過去の誰か、あるいはもう戻れぬ理想なのか。
瞳を閉じると、まぶたの裏にシリウスの笑顔が浮かんだ。
陽光をそのまま映したようなあの眼差し。
名前を呼ばれるたびに胸の奥が明るく染まっていくような、あの温かさ。
太陽のようなその愛は、いつだってアランの世界を照らしてくれた。
思い出した瞬間、胸の奥がひどく疼いた。
あの光が、今はどこにもない。
代わりにあるのは、夜のような優しさ。
静かで、深く、底知れない闇の中に沈みゆくような抱擁。
その暗さの中に、かすかな安らぎを感じてしまう自分が、恐ろしかった。
まるで、愛という名の闇に取り込まれていくようで——。
レギュラスの指が髪を梳き、頬に触れた。
その一瞬の温度が、確かに優しい。
それでも、心のどこかで冷たい風が吹いている。
言葉にならない想いが胸の奥に積もっていく。
愛している。
その言葉を、アランは何度も心の中で呟いた。
けれど、それは誰に向けた言葉だったのだろう。
レギュラスか、シリウスか、それとももう戻らない過去の自分にか。
長い沈黙ののち、アランは小さく息を吐いた。
それは安堵にも、諦めにも似た音だった。
レギュラスの胸に頬を寄せ、微かに震えるまつげを閉じる。
静かな暗闇が訪れる。
まるでその闇そのものが、彼の腕の形をしているかのように。
愛に似たぬくもりに抱かれながら、アランはただ静かに沈んでいった。
心の奥底で、消えることのない光を求めながら——。
静かな湖畔に、夜の帳がゆっくりと降りていた。
月光が水面をなぞり、白銀のきらめきが揺れている。
空気はひどく冷たく、吐息さえも淡い白に溶けて消えた。
シリウスはその湖畔で、アランを待っていた。
この場所は二人にとって特別な場所だった。
かつて、何度も呪文の練習をした場所。
笑いながら魔法の光を飛ばし合い、水面を虹色に染めた——そんな無邪気な記憶が、まだそこに息づいている。
やがて、木々の間アランアランが姿を現した。
月明かりが彼女の髪を淡く照らし、その表情を柔らかく包む。
湖面の反射が彼女の頬を照らすたびに、シリウスは思った。
——この闇の色は、彼女には似合わない。
今、アランの瞳にはかすかな翳りがある。
レギュラスの影が、彼女の中に入り込んでいるのを感じた。
あの優しさと美しさが、闇に穢されていくのを見たくなかった。
何より、その闇がアランの心を奪ってしまうことが、恐ろしかった。
「なぁ、アラン」
シリウスはゆっくりと声を出した。
風が二人の間を抜けていく。
「レギュラスと……もう関わるな。アイツは完全に、デスイーターになっちまってる」
アランは小さく首を振った。
その瞳が揺れる。
「レギュラスは……そんなこと、しないわ。人を殺めたりなんて——」
声はかすれ、震えていた。
信じたいのだ。
あの優しかった少年を。自分に“光”を見せてくれた彼を。
けれど、シリウスはその幻想を壊さなければならなかった。
現実は、残酷なほど確かだった。
騎士団の報告では、レギュラスは何度も集会に現れている。
その姿を見た者の証言は、一つ残らず一致していた。
否定できる余地など、もうどこにもなかった。
シリウスは拳を握りしめた。
心の中で叫びたいほどの苛立ちと焦燥が渦巻く。
「アラン、聞いてくれ。あいつはもう昔のアイツじゃねぇ。
今のレギュラスは……マグルを容赦なく殺す軍団の中にいるんだ」
湖の水音が、二人の間の沈黙を埋めた。
アランの目が潤んでいる。
その瞳には、過去の三人の面影が映っていた。
まだ幼く、互いに笑い合っていた日々。
泥にまみれながら呪文を練習した夏の午後。
未来なんて何も知らなかった、あの幸福な時間。
けれど、もう戻れない。
あの温かさは遠い過去に溶け、いま残っているのは闇と痛みだけだ。
それでも彼女は信じようとしている——あの優しい少年のままのレギュラスを。
シリウスは、そんなアランの姿を見つめながら思った。
もしも今、彼女をこの場所から連れ出せるなら。
この湖を越え、遠くの空へと逃げられるなら。
どんな罪を犯しても構わないとさえ思った。
「アラン……」
シリウスの声は掠れていた。
その一言の中に、言い尽くせぬ想いが溶けている。
「頼む。俺のそばにいてくれ。もう、闇の中に行かないでくれ」
アランは何も言わなかった。
ただ、湖を見つめていた。
風が彼女の髪を揺らし、月の光が涙を淡く照らす。
その涙は、静かに彼女の頬を伝い、手の甲へと落ちた。
夜の湖が、それをひとしずく吸い込む。
シリウスはそっと一歩近づき、彼女を抱きしめた。
冷たい空気の中で、彼の体温だけが確かに感じられる。
その抱擁は、言葉ではない願いのようだった。
——どこにも行かないでほしい。
——もう二度と、あの闇に触れないでほしい。
アランの指が震えながら、シリウスの服を掴む。
けれどその手の中にあるのは、今だけの儚い温もりだった。
夜風が二人を包み、湖面の光が静かに揺らめいている。
遠くでフクロウが一声鳴いた。
その音が、どこか切なく、痛いほど静かな夜を裂いた。
シリウスは彼女を腕の中に抱いたまま、ゆっくりと瞳を閉じた。
もしこの時間を止められるなら——
もう二度と、彼女を闇に渡さないと誓いながら。
夜の談話室は、吐息さえも吸い込んでしまうほど静まり返っていた。
ランプの火がわずかに揺れ、深い緑のカーテンが風もないのに微かに動く。
その静寂の中で、レギュラスが音も立てずに扉を開けた。
黒いローブの裾が床をかすめ、廊下の闇へと溶けていく。
アランは胸の奥に走る痛みを押し殺し、そっと立ち上がった。
この夜、彼の後を追うということは、すべてを知るということ。
——たとえ、その先に見たくない現実が待っていても。
それでも行かなくてはならなかった。
杖を握り、息をひそめる。
小さく呟いた〈静音(サイレンシオ)〉の呪文が自らの足音を奪う。
アランの視線は、闇の中のレギュラスを逃さぬよう鋭く見据えていた。
彼の肩越しに見える横顔には、かつての柔らかな微笑の欠片もない。
光の欠けた瞳が、まるで別の世界を見つめているようだった。
——シリウスの純粋でまっすぐな正義は、きっと容赦なくレギュラスを貫くだろう。
その光は、闇をも焼く。
だからこそ、アランは恐れた。
レギュラスがその光に焼き尽くされる瞬間、シリウスの心までも砕け散ってしまうのではないかと。
それだけは、絶対に見たくなかった。
シリウスのために。
そして、自分自身のために。
アランは決意した。
レギュラスを光へと引き戻す——たとえその光が、自らを焼くものであっても。
校舎の奥、使用されていない通路を抜け、石段を下る。
レギュラスは人気のない回廊の角で、誰かと合流していた。
月明かりを受けて、彼の手に握られた小さなカップが淡く光る。
それは古びたポートキー。魔法陣のような光の紋が浮かび、静かに空気を震わせていた。
アランは息を止め、その光の中心に手を伸ばす。
次の瞬間、世界がぐらりと傾き、足元から引きずり込まれるように空間がねじれた。
光と闇が反転し、音のない風が鼓膜を切り裂く。
——そして、気づけば、そこは別の場所だった。
湿った土の匂い。
冷たい霧が足元を這い、遠くで不気味な囁きがこだましている。
視界に広がるのは、黒いマントを纏った魔法使いたちの群れ。
彼らは円を描くように立ち、顔を覆った仮面の奥から鋭い眼光を光らせていた。
闇を支配するような低い声が響く。
「——マグル生まれの役人が、我々の同胞をアズカバンに投獄したそうだ」
その声は、冷たく、鋭く、骨の髄を刺すようだった。
どこかで聞いた噂が脳裏をよぎる。
“名前を言ってはならないあの人”。
その存在の気配だけで、空気が震えるほどの圧があった。
「マグルごときが、我らを裁くなど……」
別の男が唸るように言った。
その声音は狂気を孕み、焔のように場を包み込む。
「許されると思うものはいるか!」
沈黙が返る。その沈黙そのものが、忠誠の証であるかのように。
「——見せしめだ。あの者を狩れ。血を以て秩序を示せ」
ざわめきが走った。
黒いマントが揺れ、杖を構える音が重なり合う。
アランは息を詰めた。
その場に漂うのは、怒りでも憎しみでもなく、“信仰”に近い狂気だった。
彼らは恐怖に縛られてなどいない。
闇を誇りに思っているのだ。
その確信に満ちた眼差しに、アランの背筋が凍りつく。
胸の奥が悲鳴を上げた。
この闇の中に、レギュラスがいる——。
顔を上げると、黒いローブの列の中に確かにその姿があった。
仮面をつけてはいない。
けれど、その横顔は静かで、凛として、美しかった。
それがかえって、恐ろしかった。
——どうして。
どうしてあなたが、こんな場所にいるの。
言葉にできぬ想いが喉を塞ぎ、息が詰まる。
信じたくない現実が、冷たい夜気の中で確かに形を取っていた。
アランは、暗闇の中で震える手を口元に当て、音を立てぬように祈るように呟いた。
「レギュラス……戻ってきて……」
けれどその声は、夜の底に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。
ただ、湖のように静まり返った闇が、彼女の願いを飲み込み、
遠くでひときわ冷たい笑い声が、夜空を裂いた。
闇が、音もなく押し寄せた。
背後に、誰かの気配。
床に映る影が二つに増えた瞬間、アランの心臓がひとつ、大きく跳ねた。
振り返ったその先に、黒いマントの男が立っていた。
見上げるほどに大柄で、仮面の奥から放たれる視線は氷のように冷たかった。
瞬き一つすれば、その刃のような光が喉を裂くのではないかと錯覚するほどの緊張が走る。
言葉を発する暇もなく、彼の手がアランの口を塞いだ。
息が詰まり、世界が静止する。
耳の奥で、自分の鼓動だけが荒々しく鳴っていた。
まるでその音が、見つかってしまった事実を告げる鐘の音のように。
次の瞬間、見えない鎖が身体を縛る。
腕が動かない。足も、指先も。
光の糸のような拘束が絡みつき、自由という概念が奪われていく。
逃げようとしても、息を呑むたびにその光は強く締め付けた。
男は冷えきった声で何かを告げ、隣室へと姿を消す。
薄い壁越しに、報告の声が聞こえた。
「若い女が一人、紛れ込んでいました」
「騎士団の者か?」
「そこまでは不明ですが……学生のようです」
「そうか。——好きにせよ」
好きにせよ。
その一言が、刃よりも鋭く胸に突き刺さった。
アランは喉の奥まで恐怖がこみ上げ、呼吸が浅くなるのを感じた。
背中を伝う冷たい汗。
喉の奥が渇き、舌が動かない。
世界が音を失い、耳鳴りのような沈黙だけが響いていた。
男が戻ってきた。
闇に濡れた靴音が近づいてくるたび、心臓が体の奥で縮み上がる。
彼はゆっくりと、まるで獲物を観察するようにアランを見下ろした。
その目には一片の情もない。
命ではなく、ただ「存在」を支配するような冷たい好奇心だけが宿っていた。
「誰の差金でここに来た?」
その問いが、冷気のように肌を刺した。
答えなければ——けれど、レギュラスの名を出すことはできなかった。
彼を守りたい。その一心だけが胸の奥で燃えている。
沈黙。
それは勇気でもあり、無謀でもあった。
男の視線が鋭く光り、アランの顎を乱暴に掴んで顔を上げさせる。
「怖いもの知らずだな……」
その声は嗤うようで、同時に獣の低い唸りにも似ていた。
心臓がひどく痛い。
恐怖が血液に溶け込み、体の隅々まで巡っていく。
目の前の男の存在そのものが、現実を歪ませるほどの圧を放っていた。
言葉も、祈りも、何も通じない。
この場所には、理性も慈悲も存在しないのだ。
——こんな世界に、レギュラスが。
その事実が、何よりも苦しかった。
アランの瞳に涙が滲む。
あの優しかった少年の笑顔。
シリウスと並んで見上げた青空。
穏やかに魔法を語り合った日々——すべてが遠い幻のように揺らめく。
そして、悟ってしまった。
彼はもう、戻れないところまで行ってしまったのだと。
闇の中に身を置くということは、心までその色に染めるということ。
レギュラスの白い手が、今はもう光を掴むことはない。
胸の奥で何かが崩れた。
それは絶望の音でもあり、愛の終わりの音でもあった。
アランは震える唇で、誰にも届かぬ祈りを呟いた。
——シリウス、どうか。
あの人を、あなたの光で殺さないで。
目を閉じれば、静かな湖畔が浮かぶ。
あの日、三人で笑い合った声が、遠くの夢のように揺れていた。
だがその光景は、闇の中でゆっくりと滲み、消えていく。
残ったのは、冷たい沈黙と、痛みだけ。
その夜、アランは心の奥で確かに感じた。
——愛しているという言葉が、最も残酷な呪いになる瞬間を。
館の中は、まるで息を潜めたように静まり返っていた。
冷えた石壁が、長い年月を経て湿り気を帯び、蝋燭の光を鈍く反射している。
レギュラスは厚いマントの裾を揺らしながら、石造りの階段をゆっくりと降りていた。
重厚な扉の向こうに広がる闇へと、彼の足音だけが規則的に響く。
夜は深く、外の風は冷たく、遠くでふと梟の声がかすかに木霊した。
その静寂を裂くように、突如、女の悲鳴が上がった。
高く、鋭く、そして耐えがたいほど生々しい声。
響きは階段の石壁に跳ね返り、耳の奥でいつまでも消えない残響となって続く。
レギュラスは一瞬、足を止めた。
だが、その顔には驚きの色も、怒りの影も浮かばなかった。
ただ、目を伏せるようにして、再び歩みを進める。
——拷問が始まったのだろう。
そう理解するまでに、心の中にわずかな間も生まれなかった。
集会に紛れ込み、闇の会合を覗こうとするなど、あまりに愚かだ。
生きて帰れるはずもない。
その女は、己の軽率さの代償を支払っているにすぎない。
レギュラスは、そう自らに言い聞かせた。
胸の奥をかすめた微かな痛みを、冷たい理性で押し殺す。
同情など、もはや意味を持たない。
——女子供が犠牲になる場面に、感情を持ち込む者から先に壊れていく。
それを、彼はもう嫌というほど見てきた。
「侵入者は学生だそうだが、見に行かなくていいのか?」
背後からルシウスの声が響いた。
滑らかでありながら、どこか氷のように張り詰めた響き。
レギュラスは立ち止まり、振り返ることなく静かに答えた。
「ええ、興味はありません。変に同情も、しませんから」
短い沈黙が落ちる。
ルシウスは薄く笑いを漏らし、淡々とした口調で応じた。
「——それがいい。情けは毒になる」
二人の間に、会話の余韻さえ残らなかった。
ただ、蝋燭の炎が壁に長い影を伸ばし、ゆらりと揺れる。
光が少し揺らぐたび、石段の縁が刃のように鋭く見えた。
レギュラスはそのまま階段を降り続ける。
背後で再び、遠くの方から短い悲鳴が上がった。
声の震え方に若い響きがあることを、彼はどこかで感じた。
けれど、それ以上考えようとはしなかった。
その一歩を踏み出せば、情が生まれる。
情は弱さであり、死に至る欠陥だ。
冷たい理性が、心の奥の何かを覆い隠していく。
かつて自分が守りたいと思ったもの——その形さえ、いまはもう思い出せなかった。
螺旋を描く石段の下には、重い扉がひとつ。
その先に広がる夜の空気は、鉄のように冷たく澄んでいた。
外へ出た瞬間、彼は深く息を吸い込む。
血の匂いを混じらせた湿った空気が肺を満たし、胸の奥に重く沈む。
夜空には雲がかかり、星はほとんど見えなかった。
風が黒衣を揺らし、裾が地面を擦る音が微かに響く。
背後の館では、まだ誰かの声が途切れ途切れに響いている。
だがレギュラスは振り返らなかった。
自分とは関係のない出来事。
そう思い込むことで、心の奥に広がるわずかなざらつきを押し潰す。
たとえ、その声がほんの少し——
どこかで聞いたことのある声に似ていたとしても。
「行こう」
ルシウスの声が静かに背後から落ちてきた。
レギュラスは短く頷き、闇の中へ歩み出す。
その瞳は何も映さず、
ただ、冷たい月光だけが彼の横顔を淡く照らしていた。
闇の底に、音が沈んでいった。
微かな蝋燭の光が、広い石壁に滲むように揺れている。
アランは、冷たい石の床に横たえられていた。
鉄の匂いが空気の中に漂い、呼吸をするたび、胸の奥が軋む。
自分の身体が、まるで他人のもののように遠くに感じられた。
痛みというより、もはや感覚そのものが曖昧になっていた。
光も音も、色も意味も、すべてが薄れていく。
ただ、身体のどこかに熱が宿り、冷たさと交互に波打っている。
意識の奥で何かが崩れ、そこに恐怖と絶望がゆっくりと沈んでいった。
「——早く話した方がいい」
低く響く声が、空間を割るように落ちた。
その声には、怒りも激情もない。
ただ、習慣のように冷静で、事務的だった。
その無慈悲な静けさが、かえって胸を凍らせた。
アランは唇を開こうとした。
声が出ない。
喉が焼けつくように乾いている。
それでも、空気を震わせるように、かすれた言葉が漏れた。
「…… アラン・セシール」
名を名乗った瞬間、涙が滲んだ。
それが自分の名前であることを、なぜか信じられなかった。
名前は自分の存在を確かめる印のはずなのに、
その音が空気に溶けるとき、まるで他人の名を呼んだような空虚さが残った。
「スリザリンの学生、か」
男の声が遠くで響く。
理解を示すような調子だったが、そこに安堵はなかった。
その後に訪れる静寂が、何よりも恐ろしかった。
時間の流れが止まったようだった。
自分の鼓動だけが、空間の隅で震えている。
何かが崩れ、何かが奪われ、何かが終わっていく。
それでも、まだ心のどこかで信じていた。
——レギュラスなら、きっと。
彼がこの闇にいることを、どこかで分かっていた。
けれど、もしこの声が届けば、彼は自分を助けようとするだろう。
そしてその瞬間、彼の未来は終わる。
だから、アランは何も叫ばなかった。
助けを求めれば、彼を壊してしまうと分かっていたから。
静かな空気の中で、どこか遠くの部屋から鈍い音が響いた。
世界がわずかに傾き、視界がゆらりと揺れる。
自分が倒れたのか、床が動いたのか、それさえ分からなかった。
意識が薄れていく中で、思考がひとつの形をとる。
——私は、愚かだった。
レギュラスを闇から連れ戻すなどと、どの口で言えたのだろう。
この手一つ動かせない自分が、どうして誰かを救えるというのか。
その滑稽さに、ふっと笑いが漏れた。
声にならない笑みが喉を震わせ、痛みに変わる。
けれど、それはもうどうでもよかった。
笑いは涙に変わり、涙はやがて静かに頬を伝っていった。
世界は静まり返り、蝋燭の炎だけが震えている。
光の揺らぎが、まるで誰かの指先のように頬を撫でていった。
その優しさを、アランは錯覚のように感じた。
——ああ、レギュラス。
あなたがこの闇の中で、光を見失っていませんように。
たとえ私がここで終わっても。
どうか、あなたの心だけは……。
祈るように目を閉じた。
光が滲み、闇と溶け合っていく。
最後に残ったのは、痛みではなく、
ただ静かで、あたたかい記憶の欠片だった。
湖のほとりで笑っていたあの日。
風が揺らした彼の髪。
陽の光を映した灰色の瞳。
そのすべてが、遠い夢のように消えていった。
