2章
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新学期が始まったホグワーツの城は、いつもの賑わいを取り戻していた。
シリウスは最終学年となり、闇払いへの道を目指すための実践訓練で、城の外に出ることが増えているようだった。
会えない日々は以前にも増して長く感じられた。
大広間で食事をしながら、アランは無意識にシリウスの姿を探してしまう。
グリフィンドールのテーブルを見渡しても、あの黒い髪と温かな瞳は見つからない。
その度に胸に静かな落胆が降りかかった。
「アラン、どうしました?」
レギュラスの声に、ハッと現実に引き戻される。
慌てて首を振り、何でもないのだと示そうとした。
最近、城内の空気がどこかざわついている。
石造りの廊下に響く囁き声は、冷たい風よりも鋭く心を刺した。
レギュラス・ブラックが、ついに“あの集会”に出席したのだという。
デスイーター——闇の帝王に忠誠を誓った者たちの集い。
その腕には、闇の印が刻まれたのだと。
荒唐無稽な噂のはずだった。
けれど、それを耳にした瞬間、アランの胸はきゅうっと潰れそうになった。
息を呑み、手にしていたフォークの先が皿の縁に触れて小さな音を立てる。
食堂のざわめきが一瞬遠のいたように感じられた。
――まさか、そんなはずはない。
レギュラスがデスイーターだなんて。
あの夜、彼の寝室で目にした純血主義の記事や、マグルを蔑む思想の断片が脳裏をかすめる。
白い指先で整然と並べられた新聞の切り抜き。そこには確かに、彼が興味を抱いている証があった。
だが、同時に思い出す。
庭師に礼を述べ、廊下を掃除する使用人に微笑みかける、あの穏やかな声。
たとえ人前では冷たく振る舞っていても、その内には優しさが確かにあった。
そんな彼が、どうして。
マグルというだけで命を奪うような集団に、自ら足を踏み入れるだなんて。
信じられない。
けれど、それ以上に——信じたくなかった。
胸の奥に重く沈むものを抱えたまま、アランは俯いた。
目の前のスープはすでに冷え、湯気ひとつ立たない。
震える指先がフォークを握りしめ、力の加減を忘れる。
銀の食器がかすかに軋む音が、心のざわめきをそのまま映していた。
本当は、すぐにでも彼に問いただしたかった。
真実を、彼の口から聞きたかった。
でもできなかった。
怖かった。
もし、その噂が本当だったら。
もし、彼がすでに闇に身を委ねているのだとしたら。
レギュラスが、もう自分の知っているレギュラスではないのだとしたら——。
胸の奥からせり上がる恐怖と哀しみが、喉を締めつける。
声にならない吐息だけが、静かな食堂にこぼれ落ちた。
灯りの下、白い手が微かに震える。
アランは、ただ黙ってその手を見つめていた。
信じたかった。どんな噂よりも、彼の優しさを。
それだけが、彼女をかろうじて支えていた。
それでもレギュラスは、アランに対して何ひとつ変わらなかった。
大広間では必ずアランと並んで食事をし、授業でも必ず隣の席に座る。
談話室で眠りにつく直前まで、必ずアランと共に過ごしていた。
その変わらなさの中に、どこか自分の知らない恐ろしい顔が潜んでいる気がして——
アランはずっと、その綻びを探すようにレギュラスを見つめてしまう。
談話室の暖炉の前、ソファに並んで座りながら静かに話していた。
レギュラスの手が、アランの横顔にかかる髪をそっと掬い上げる。
その指先で、マグルを殺めようとするのだろうか——
そんな想像が頭をよぎった瞬間、思わず身がすくんだ。
「?」
レギュラスは首を傾げる。
「レギュラス……約束してくれますか?」
どこまで想いが届くのか分からないが、アランは震える声で言った。
この手が、人を殺めるためのものにならないでほしいと、心から願った。
「何なりと」
アランの願いならば、というように美しく微笑むレギュラス。
その笑顔にアランは胸が痛んだ。
「マグルを殺めたり……しないでください。あなたの手は、使用人にさえ手を差し伸べるような優しい手です。この優しさを忘れない人であってほしいのです」
抽象的な言い方になってしまった。
噂のことを気にしていると思われたくなくて、遠回しになってしまった。
レギュラスはアランの頬にそっと手を添えて微笑む。
整った美しい笑顔でありながら、どこか冷酷さも混じり合っているような、読めない表情に思えた。
「アラン、心配はいりません。あなたに怖い思いは絶対にさせませんから」
その返答は、アランが求めていたものとは、はっきりとずれていた。
少しずつこうして、レギュラスと受け取るものや感じるものがずれていく感覚を、もうずっと前から感じていた。
同じものを見て、同じものに触れてきたと思っていたのに。
いつのまにか変わっていくのは、自分の方なのか、それともレギュラスの方なのか。
どこまで巻き戻せば、少しずつ噛み合わなくなった歯車を治せたのだろう。
もう、分からなかった。
レギュラスは五年生に進級したと同時に、監督生の役目を任されていた。
デスイーターに加わり、クィディッチ選手としての最後の年となる多忙な日々。
それらが重なり合い、アランとの時間は少しずつ、確実に削られていった。
できる限り隣で受けたかった授業も、クィディッチの練習が入るたびに欠席せざるを得ず、また食事の席も監督生の集まりに駆り出されて、共に過ごせる時間は減少していった。
夜遅くまで寮の見回りをこなし、談話室に戻る頃にはアランはもう自室へと向かっていることも少なくなかった。
恋しいその時間を求めながらも、現実は遠ざかっていく。
そのすれ違いが、レギュラスの胸を追い詰めていた。
アランがどこか遠くへ行ってしまいそうな気がしてならなかった。
ある日、アランの隣に違う生徒が座り、楽しげに話しながら授業を受けているのを目撃した時の鋭い痛みは、まるで内臓を掴まれたように、胸に焼き付いて離れなかった。
そんな夜、レギュラスは静かに声をかける。
「アラン、今夜はゆっくり一緒に過ごしましょう」
問いかけるような口調に見えたが、断られることを許す気はなかった。
「連日の飛行術で疲れているでしょう?早く休んだ方がいいわ」
アランは優しく返す。
「ええ。早めに休みますが、それでも一緒にいてほしいのです」
彼の願いには切実さが込められていた。
隣で過ごす時間をもっと多くしたいというただ一つの想い。
それが静かに、部屋の空気を満たしていった。
久しぶりにアランを自室へ招き入れた夜、レギュラスの胸は深く、静かに満たされていた。
石造りの壁の内側に灯る淡い燭火が、ふたりの影をゆらゆらと壁に映し出す。
長いあいだ閉ざされていた心の奥に、ようやく温もりが戻ってきたような気がした。
この「満たされる」という感覚こそが、彼にとって何よりの安堵だった。
それは歓喜のような激しい感情ではなく、波打つように静かに広がる幸福。
彼女がそばにいる。それだけで、世界がきちんと形を保つ。
本当は、このまま互いの最奥で結び合う行為に至ってもよかった。
彼女を抱きしめ、その体温を確かめ、すべてを重ねてしまっても構わない。
だが、今夜のレギュラスはそれを望まなかった。
欲望よりも、ただアランの目を見つめ、肩を抱き、心と心をゆっくりと寄せる時間を求めていた。
肉体の快楽はあまりにも一瞬だ。
けれど、理性と感情のあわいに生まれるこの静かな結びつきこそが、レギュラスにはかけがえのないものに思えた。
彼は、自分の中にある“男”としての衝動を抑え、ただ“人”として彼女に寄り添うことを選んだのだ。
「今年はかなり腕のいいビーターが入ってきましたから、次の試合が楽しみですよ」
レギュラスが穏やかに切り出す。
アランは微笑んで、彼の横顔を見つめた。
「あなたは教えるのが上手だから、きっと慕われているでしょうね」
その言葉に、レギュラスの瞳が少し和らぐ。
「監督生の見回りのとき、たまに廊下で蝋燭がふっと消える瞬間があるんです。あれは、何度経験しても背筋が凍りますね」
アランが目を丸くし、くすりと笑った。
「絶対、霊的な何かですよね? よく平然としていられますね」
その笑い声があまりに柔らかくて、レギュラスはつられて微笑んだ。
久しく忘れていた――ただの若者として笑い合う夜。
ふたりは他にもたくさんの話をした。
授業のこと、最近入荷した魔法道具の話、クィディッチの戦術、監督生としての苦労。
話題が尽きることはなかった。
気づけば夜は深く、暖炉の火は小さくなっていた。
どちらが先に眠りに落ちたのかは分からない。
ただ、最後に覚えているのは、互いの手のぬくもりと、重なり合う呼吸の音だけだった。
翌朝。
レギュラスが目を開けると、柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
腕の中には、穏やかな寝息を立てるアランの姿がある。
その翡翠の瞳は閉じられ、白い頬がほんのりと赤らんでいる。
唇がわずかに動き、夢の中で何かを呟いているようだった。
レギュラスは息を呑んだ。
この瞬間ほど、美しいと思える光景を、自分は生涯に何度見られるだろうか。
触れたら壊れてしまいそうなほど儚く、けれど、確かにそこに在る“生”の輝き。
指先で、アランの髪をそっと撫でた。
その一筋一筋が、光を吸い込んで淡く輝く。
胸の奥から、熱く満ちるものがこみ上げた。
——どうか、この朝が永遠に続けばいい。
レギュラスは静かに目を閉じ、彼女の肩に頬を寄せた。
その瞬間、世界のすべてが、穏やかで優しい呼吸に溶けていった。
その夜、アランはこれまでにないほど穏やかで、心から安らげる時間を過ごしていた。
レギュラスに「今夜は一緒に過ごしたい」と告げられた瞬間、胸の奥が一瞬だけ強く跳ねた。
彼の言葉の意味を、アランは本能的に“肉体的な求め”だと思い込んでいた。
その覚悟を胸の奥に忍ばせながら、彼の部屋の扉をくぐった。
だが——そうではなかった。
レギュラスは、触れることよりも先に、言葉を紡いだ。
クィディッチの戦術のこと、監督生としての責任の重さ、アランの知らない自分の世界の話。
その一つひとつを、まるで宝石を磨くように丁寧に語ってくれた。
離れていたあいだに起きた出来事。
ホグワーツの中に隠された、彼だけが知る秘密。
そのどれもが興味深くて、どこか懐かしかった。
アランは不思議なほど心を奪われ、耳を傾けていた。
彼の声は、深夜の暖炉の火よりも穏やかで、心に沁みわたる。
その音の粒が、胸の奥の不安や噂を、少しずつ遠ざけていった。
デスイーターという不吉な言葉も、この瞬間だけは、どこか遠くの世界の話のように感じられた。
レギュラスは時折、彼女の肩を抱いた。
その手は静かに温かく、力強さよりも優しさを帯びている。
頬に軽いキスが落ちるたびに、アランは不思議な安心を覚えた。
それ以上のことは何もなかった。
ただひたすらに、言葉を交わし、笑い合い、頷き合いながら、夜が少しずつ更けていった。
こんなにもゆったりとした時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。
彼の話をこんなにたくさん聞いたのも、今日が初めてかもしれない。
今になって初めて、レギュラスという人が“語る人”なのだと、アランは知った。
「ぶっ通しで練習しても、よく倒れませんね」
「鍛えられてますからね」
「見回り中、眠くなりませんか?」
「見回りの名目で仮眠を取っている者もいるみたいですよ」
「監督生専用の大浴場があるんです。すごく広くて、まるで別世界のようなんですよ」
「そんなところがあるんですね」
そのやりとりの合間に、ふたりの笑い声が小さく重なった。
外の風が窓を叩くたび、暖炉の炎がぱちりと揺れる。
その橙の光が、レギュラスの横顔を柔らかく照らしていた。
アランはその光景を、夢のように眺めながら微笑んだ。
最初に「一緒に過ごしたい」と言われたときは、身構えていた自分がいた。
だが今は、自然に彼の声を聞き、頷き、優しく笑うことができている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
——この人は、マグルを排除しようとするような冷酷な人ではない。
そう信じたい。
いや、今夜だけは、本当に信じられる気がする。
胸の奥に、静かに、温かいものが満ちていく。
恐れでも、疑いでもない。
それは、信頼という名の小さな灯。
夜が深まるほどに、その光は柔らかく広がっていった。
ふと、アランは彼の肩にもたれた。
レギュラスは何も言わず、ただ微笑みながらその肩に頬を寄せた。
言葉もいらなかった。
ただ、この穏やかな夜が、いつまでも終わらなければいいと、二人は同じ想いで息を合わせていた。
この日、アランはレギュラスに頼まれていた。
「見に来てほしい」と。
五年生最後のクィディッチの試合――彼にとっても、きっと特別な日だった。
アランはその願いを、迷いなく「もちろん」と笑って約束したのだ。
けれど、運命は少しだけ意地悪だった。
同じ日、シリウスから誘いが届いた。
課外授業のない貴重な休日に、城の中を探検しようという誘い。
その声音には、少年のような無邪気さと、抗いがたい熱があった。
「なぁ、アラン。今日くらい、サボってもいいだろ?」
その言葉と同時に、太陽を閉じ込めたような瞳がまっすぐにアランを見つめていた。
胸の奥で何かが弾け、理性の糸がほどけていく。
「今日は……」
口を開いたが、その先が出てこなかった。
本当は、レギュラスの試合を見ると約束していた。
でも――それを“シリウスに向かって言えなかった”。
彼の瞳がまっすぐ過ぎて、正直で、心をすべて見透かしてくるから。
差し出された手。
その温もりに触れた瞬間、罪の意識よりも先に心が震えた。
アランはその手を取ってしまった。
シリウスが笑う。まるで陽光が溢れるように。
その笑顔を見た瞬間、胸の中の小さな抵抗は音もなく溶けた。
二人の足音が響く廊下は、薄明るい午後の日差しで満たされていた。
シリウスは嬉々として先を歩き、アランは少し遅れてその背を追う。
古い石壁に差し込む光が揺れ、魔法の影が生きているように動く。
隠し通路を抜け、動く階段の裏にある秘密の扉を開けるたび、アランは息を呑んだ。
「ねぇ、シリウス、こんなところ初めて」
「だろ? お前に見せたかったんだ」
その一言が胸を打つ。
この人は、自分に“見せたかった”という――ただそれだけで、世界が光を増す。
彼が案内する場所はどれも魔法めいていた。
肖像画の裏にある小部屋。
誰も知らない塔の最上階。
そして、そこから見下ろすホグワーツの全景は息を呑むほどに美しかった。
遠くにクィディッチの観客席が見える。
胸がちくりと痛む。レギュラスの姿が、きっとあの中にある。
でも、隣で笑うシリウスの横顔に目を奪われ、痛みはすぐに霞んでいった。
そして、たどり着いたのは“必要の部屋”。
何もない壁が扉へと変わり、その向こうに広がる空間は、まるで二人のために用意されたようだった。
柔らかな光に満ちた部屋、深紅の絨毯、温かな炎を揺らす暖炉。
アランは目を見開き、思わず息を呑む。
「よくこんな場所を見つけたわね」
「だてに散策してねぇからな」
シリウスが悪戯っぽく笑う。
その笑顔に、また心が揺れる。
“罪”と“幸福”の境界が曖昧になる瞬間だった。
ソファに腰を下ろした途端、部屋の空気が変わった。
沈黙が甘く、熱を帯びていく。
シリウスが隣に座る。その距離は、息を吸えば触れあってしまいそうなほど近い。
彼の瞳がまっすぐアランを見つめていた。
――ああ、昔からずっと、この瞳が好きだった。
真っ直ぐで、奔放で、誰よりも自由な光を宿している。
それが今、自分だけを映している。
唇が触れた瞬間、世界が静まり返った。
鼓動だけがやけに大きく響き、時間がゆっくりと溶けていく。
何度も、何度も触れ合うたびに、罪悪感は遠ざかり、代わりに確かな幸福が胸を満たしていった。
深くなる口づけに、理性は跡形もなく消えた。
求めることも、求められることも怖くなかった。
ただ、この瞬間を手放したくなかった。
シリウスの手が、頬を撫でる。
その指先に導かれるように、アランは彼に身を委ねた。
心が、身体が、ひとつになるたび、涙がこぼれそうになるほどの幸福が胸を満たした。
――この瞬間だけは、何もかもを忘れていた。
レギュラスの存在も、約束も、罪も。
ただ、シリウスの笑顔とぬくもりだけが現実で、
それ以外のすべては、夢のように遠ざかっていった。
すべてが終わった後、部屋の中に漂うのは、ただ静かな息づかいだけだった。
燃え残る暖炉の火が、ゆるやかに揺れ、オレンジの光が壁を撫でるように広がっていく。
その光が、シリウスの輪郭を柔らかく包み、まるで彼の存在そのものが光を放っているように見えた。
アランはソファに半ば横たわるようにしていた。
乱れた衣服の隙間から、肌に触れる空気のひやりとした感触が、現実を静かに思い出させる。
シリウスは何も言わず、傍らに置いていた柔らかな布で、アランの腕を、肩を、ゆっくりと拭っていった。
その仕草には乱暴さなど一つもなく、まるで宝物に触れるような優しさがあった。
「自分でできるわ」
照れくささを隠すように、アランは小さく呟いた。
シリウスは手を止めて、少しだけ目を細めた。
「こういうのは、男がやってやるもんなんだよ」
その声は低く穏やかで、優しい余韻を持っていた。
その言葉に胸が温かくなる。
そして同時に、恥ずかしさと嬉しさがないまぜになって、どうしようもなく心が揺れた。
服を着せてもらいながら、シリウスがひとつひとつ丁寧にブラウスのボタンを留めていく。
ボタンが小さく鳴るたびに、時間が静かに積み重なっていくようだった。
手と手がふと触れ合う。
アランが顔を上げると、シリウスの瞳がまっすぐに彼女を捉えた。
その瞬間、二人の間に言葉は必要なかった。
唇がそっと触れ合い、触れた途端、微笑みが生まれた。
それは確かな幸福の証のように、互いの心を静かに満たしていった。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
その音を合図にするように、アランはシリウスの肩に頭を預けた。
シリウスの胸の鼓動が耳に届く。一定のリズムが、心を落ち着かせ、眠気のような安らぎを誘う。
「アラン」
ふいに、シリウスが小さく呟いた。
「もし俺たちの子どもが男だったら、一緒に箒で飛び回りてぇな」
アランはその言葉にくすりと笑った。
「じゃあ、女の子だったら?」
シリウスは少し考えるように目を細め、そして照れくさそうに笑った。
「そんときは、箒なんか乗せられねぇよ。落ちたら危ねぇだろ。――箱入り娘にするに決まってる」
その冗談めいた言葉に、アランも自然と笑みを零した。
彼と未来の話をするのはいつだって楽しかった。
彼の声には、不思議と「明日」を信じさせてくれる力がある。
アランは思った。
――この人となら、どんな未来でも恐れずに歩けるかもしれない。
切なさよりも愛が勝り、不安よりも希望が勝る。
そう信じられる瞬間だった。
けれど、ふと胸の奥に影が落ちた。
心の底に沈んでいた名が、そっと浮かび上がる。
――レギュラス。
今ごろ、あの人は空を翔けているのだろう。
五年生最後の大切な試合。
「見に来てほしい」と言われたあの声が、耳の奥で甦る。
勝ったのだろうか。
それとも、負けて悔しがっているのだろうか。
観客席を見回したとき、自分の姿がないことに気づいたのだろうか。
胸の奥が、静かに締めつけられる。
シリウスの肩に頭を預けながらも、心の片隅では、どうしようもない罪悪感がじわじわと広がっていった。
幸福と苦しみ、そのどちらもが、同じ熱を持って胸の奥で溶け合っていた。
暖炉の火が小さくはぜる音だけが、二人の沈黙を包み込んでいた。
その瞬間、風が切り裂かれた。
スニッチの金色の羽根が陽光を弾き、レギュラスの掌に収まる。
次の瞬間、観客席から歓声が湧き上がった。
スリザリンの緑の旗が一斉に翻り、スタンドのあちこちで生徒たちが叫び声を上げる。
仲間たちが駆け寄り、肩を抱きしめ、歓喜の声を重ねていく。
レギュラスは笑った。
この瞬間を、どれほど待ち望んでいたことだろう。
五年生として迎える最後の試合。
努力のすべてが報われ、名実ともにスリザリンの誇りとなる勝利。
けれど、その胸に浮かんだのは、喜びよりも先に“伝えたい人の顔”だった。
――アラン。
この勝利を、真っ先に伝えたい。
スニッチを掴んだ手の感触が冷たいうちに、彼女に見せたい。
誰よりも先に、あの笑顔が見たかった。
観客席を見上げる。
歓声の中、緑のローブが揺れる。
だが――そこにアランの姿はなかった。
彼女は約束してくれた。「必ず見に行く」と。
信じて疑わなかったその言葉が、静かに胸の奥でひび割れていく。
どれほど目を凝らしても、あの淡い髪も、翡翠の瞳も見つからない。
胸の奥にざらつくような違和感が生まれ、それが次第に熱を帯びて不安へと変わっていった。
仲間たちが肩を叩き、トロフィーを掲げる声が響く。
レギュラスも笑みを返そうとした。
けれど唇の端に浮かんだ笑顔は、うまく形にならなかった。
スニッチを握る指先に、まだ金属の冷たさが残っている。
それがまるで、心の奥に沈む不安の重さのようだった。
試合後、歓喜に包まれたフィールドを早々に抜け出し、レギュラスは駆け出した。
祝杯の声を背に、誰よりも先に談話室へ向かう。
彼女はきっと、そこにいるはずだ。
試合が終わるのを待って、迎えてくれるはずだ。
そう信じて。
けれど、煌びやかなランプが灯る談話室にも、アランの姿はなかった。
緑の炎が暖炉の中で揺れている。
その光に照らされた椅子の列を見渡しても、どこにも、彼女はいない。
胸の中に、冷たい風が吹き抜けた。
レギュラスは誰かを呼び止めた。
「アランを見なかったです?」
しかし返ってくるのは首を振るばかりの答え。
「知らない」「見てない」――その言葉が、ひとつずつ胸に刺さっていく。
焦りが喉を塞ぎ、息が荒くなる。
どうしても諦めきれず、次に向かったのは図書館だった。
静寂が支配する図書館の扉を開けると、紙の匂いがふわりと広がった。
夕暮れの光が窓辺に淡く差し込み、埃が舞う。
棚と棚の間をゆっくりと歩き、視線を滑らせていく。
いつも彼女が座っている机を覗く。
けれど、そこには誰もいなかった。
羽根ペンを走らせる音、ページをめくる音。
周囲の静けさが、逆に孤独を際立たせる。
アランがノートを広げ、真剣に筆を走らせる姿が、脳裏に浮かんだ。
その幻のような光景を振り払うように、レギュラスは奥の通路まで足を進めた。
しかし――いくら探しても、見つからない。
最後に辿り着いたのは、大広間だった。
祝勝の残り香が漂い、まだ笑い声が遠くから響いてくる。
長いテーブルの上には食べ残されたパイとジュースのグラス。
それらの間を抜けながら、レギュラスは一つひとつの席を確かめるように歩いた。
グリフィンドールの席にも、レイブンクローの席にも、アランの姿はない。
どれほど目を凝らしても、あの細い肩も、柔らかな髪も見当たらなかった。
足が止まった。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
――いったい、どこへ行ってしまったのか。
あの日、自分を見上げて笑ってくれたあの瞳は、今どこを見ているのだろう。
不安と焦燥が、胸の内で渦を巻きながら膨らんでいく。
それは、勝利の歓喜とは正反対の、冷たく重い感情だった。
仲間たちの笑い声が遠ざかり、拍手の音が遠くに霞む。
勝利の夜の中で、レギュラスだけが、静かな孤独に取り残されていた。
寮の扉を開けた瞬間、温かな灯りと笑い声が迎えてくれた。
けれど、その明るさはアランの胸には届かなかった。
部屋に入ると、ルームメイトの一人が興奮気味に言った。
「アラン、レギュラスがあなたを探してたわよ! 試合のあとずっと!」
その言葉に、全身から血の気が引いた。
――探していた? 私を?
何かが崩れるように心が震えた。
五年生最後の試合。
レギュラスにとって、きっと一生忘れられない大切な日だった。
それを、自分は――裏切ってしまった。
「勝ったんだって! スリザリンが!」
弾むような声が、今のアランには痛みとしてしか届かない。
嬉しいはずなのに、喜びは胸のどこにも見当たらなかった。
代わりに湧き上がってくるのは、激しい後悔と、押し寄せる懺悔の波。
あのとき、シリウスの笑顔に溺れた自分を思い出し、
心の底から自分を罵りたくなった。
――なんて愚かなんだろう。
どうして、あの約束を破ってしまったのだろう。
立っていられなくなりそうなほどの罪悪感に駆られ、
アランは気づけば走り出していた。
夜のホグワーツは静まり返っていた。
石造りの廊下には冷たい風が吹き抜け、松明の灯りがゆらめくたびに影が長く伸びる。
アランはその影を踏むようにして、走り続けた。
変身術の教室――扉を開けると、机の上には授業で使った羽根ペンが転がっている。
「……いない」
呟いてすぐにまた走る。
魔法薬学の地下室は暗く、薬瓶の並ぶ棚が光を反射してぼんやりと輝いている。
そこにも彼の姿はない。
魔法史の講義室、占い学の塔の円形教室、天文学の塔の階段。
どこを探しても、レギュラスの姿はなかった。
胸の奥で焦燥が膨らみ、涙が滲んだ。
「どこなの、レギュラス……」
声に出すたび、空気が冷たく喉に刺さる。
息は荒く、足は震えているのに、それでも止まれなかった。
闇の魔術に対する防衛術の教室の前で立ち止まる。
扉を押し開けるが、そこにもただ静寂があるだけだった。
何度も深呼吸して、また廊下に飛び出した。
松明の灯りが揺れ、石の床が涙で滲んで見えた。
そのとき――。
「アラン!!!」
背後から呼ばれた声に、身体がびくりと震えた。
振り返ると、廊下の向こうにレギュラスが立っていた。
荒い息をつき、肩を上下させながら、彼はこちらを見つめていた。
髪は乱れ、頬には冷たい汗が光っている。
それでも、その灰色の瞳は真っすぐにアランを捉えて離さなかった。
――探してくれていた。
ずっと、自分を。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
息を呑むようにしてアランは一歩、二歩と近づく。
唇が震えて、ようやく言葉になった。
「レギュラス……ごめんなさい」
小さな声だった。
けれど、その一言には、約束を破ってしまった後悔も、
今日一日分の罪も、全部詰め込まれていた。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと歩み寄り、アランの手を取った。
冷たい指先が、彼の温もりに包まれる。
そして、その手を、ぎゅっと強く握りしめた。
その瞬間、アランの中で、ようやく何かがほどけた。
安堵と、苦しみと、愛しさが混ざり合って涙になり、頬を伝って落ちる。
言葉にならない想いが、静かな夜の廊下に溶けていった。
ふたりの影が松明の光の中で重なり、揺れる。
それは、まるで夜の中に浮かぶ、ひとつの儚い祈りのようだった。
アランはレギュラスに握られた手を、力強く握り返した。
その行為には、勝利を祝福する意味が込められていた。
「おめでとうございます、レギュラス。素晴らしい試合だったと聞いています」
震える声ながらも真摯な言葉を紡ぐ。
「そんなことより、あなたの方は平気ですか?」
レギュラスの瞳が真剣にアランを捉える。
アランは静かに頷いた。
責められないことが逆に苦しく、少し具合が悪くて休んでいたと告げる。
「今は少しは平気ですか?」
その灰色の瞳は、つい先程情を交わしたシリウスのものと不意に重なり、欺かれたような背徳感が胸を締めつけた。
「今からでも宴に出ませんか?主役のあなたがいなくては盛り上がりませんから」
アランはそのままレギュラスの手を引き、宴の広間へと向かおうとした。
だが、すぐにその手は優しく引き止められる。
「いいんです。あくまでスリザリンの勝利を祝う宴ですから。
それよりも、あなたの体の方が心配です。部屋で休みましょう」
レギュラスの手に引かれ、二人は談話室へと戻った。
みなが宴の席に向かっているせいか、広く静かな談話室には、レギュラスとアランの二人きりだった。
「レギュラス、本当に、今日はごめんなさい」
アランは申し訳なさを込めて謝る。
「もういいんですよ、そんなことは」
柔らかく返すレギュラスは、アランの手を優しく握りしめ、親指で手の甲を緩やかに撫でる癖を自然と見せた。
その温かな所作に、アランの胸は少しだけ軽くなっていくのを感じた。
その夜、レギュラスは数名のデスイーターと共に闇の帝王の命を受けて集まっていた。
下された命令は容赦のないものだった。
狙いは、一族の血を裏切った者。
デスイーターとなりながら純血主義を貫かず、混血の魔法使いと情を交わした混血の娘を殺すこと。
理由は明確だった。
闇の帝王の根強い理念──血筋と祖先の誇りを汚す者は、仲間であろうと容赦しない。
純血の魔法使いであるはずのデスイーターが、混血の血を家に招き入れ、交わったことで、組織の秩序が脅かされているとみなされた。
その裏切りを断ち切ることで純血主義の結束と恐怖を改めて示す。それが闇の帝王の思惑だった。
混血であろうと、マグルであろうと――命であることに変わりはないのに。
レギュラスは心の奥底で、良心が痛むのを自覚していた。
そもそも女に手をかけること自体、彼自身の倫理や理想から大きくはずれていた。
「レギュラス、決心がつかないか?」
横でルシウスが低く問いかける。
「いいえ、そういうわけでは」
短く、鋭く跳ね返すように応じる。
ここでデスイーターの中で自分が動揺しているなど知られるわけにはいかなかった。
意志の揺れなど、許されるはずもない。
冷たい夜、命じられた魔法使いの娘を、数人のデスイーターと襲撃し、殺す手順が無言で共有された。
果たしてそれが本当に正しいことなのか――その答えは心に見つけられないまま、ただやり遂げるしかなかった。
レギュラス自身が直接手を下したわけではない。
それでも、目の前で静かに命を奪われていく魔法使いの女を見ていた。
彼女はアランと同じように長い髪を持ち、背丈もアランと似ていた。
それだけで、胸が刺すように痛んだ。
まるでアラン自身を手にかけたかのような、ざわつきと恐ろしさが内側で広がっていく。
デスイーターとなった以上、徹底した純血主義を貫くことが求められている。
元来レギュラスにも、純血の魔法使いの血筋に誇りはあった。
この血は選ばれたものであり、マグルに脅かされるべきではない。
高貴な血筋は継がれるべきだと。
魔力ある魔法族こそ、マグルよりも優遇されるべきだと──
その思想が、排他的だと非難されようとも、魔法の力を持つ者が持たない者に迫害され続けた中世の歴史だけは繰り返したくなかった。
けれど。
マグルや混血の魔法使いを殺してまわりたいわけではない。
特に、女性や子供にまで杖を向けることだけは――
自分の中で、それだけは拒みたいという強い思いがあった。
裏切り者という理由だけで、命を絶たれてしまった彼女の姿が頭から離れず、胸を痛めて仕方がなかった。
自分はこれから先、いくつもの人間をこうして奪っていくのだろうか。
そう思うと、底知れぬ恐怖が襲ってきた。
「レギュラス、同情する心は持つなよ」
ルシウスの声は冷たい。
「ええ、そうします」
レギュラスは抑えた声で返す。
この残酷な世界の中でも、アランさえ無事であれば――
それでいいと自分に言い聞かせた。
一つの命の終わりを目にした衝撃から、引き裂かれそうな心を守るために、そう思うことしかできなかった。
重苦しい夜の出来事を終え、レギュラスはホグワーツに戻った。
談話室には灯りが残り、アランが静かにソファで本を読んでいた。
そのただ一人の存在が、心を痛みに蓋をしてくれるようだった。
さっき命を奪われた女と同じくらいの背丈、同じくらいの髪の長さ。
アランはソファに小さく座り、ページをめくっている。
つい先ほどまでの酷い現実も、彼女の隣にいるとすべて夢のように遠く感じられた。
「アラン、起きてたんですね」
「ええ、あなたの姿が見えませんでしたから」
自分を探してくれていたことが、心をじんわりと温める。
何の説明も要らないまま、レギュラスはそっとアランの隣に腰を下ろし、肩を抱いた。
「どこか行ってたんですね?」
アランの問いに、ぎくりと胸が騒ぐ。何かを見抜かれそうな不安が走る。
「少し、出てました……」
どことまでは言わない。何のためにとも言わない。
それでも、どこか外に出ていたことを察しているようなアランに、言い訳は通じないと思った。
抱き寄せる腕に、自然と力が込められる。
アランはその腕に手をそっと添えた。
そして、腕をふわりとほどくようにしてレギュラスの顔を見つめた。
「一人で背負わないでくださいね、レギュラス」
翡翠の瞳はどこまでも澄んでいて、美しかった。
ずっとその瞳を見ていたいと思うほどに、心が引き寄せられる。
アランの声は耳に心地よく響いた。
先ほどまで壊れかけていた心が、少しずつ、少しずつ、元通りになろうと、懸命にアランの愛しさを求めていた。
最近、レギュラスの姿を見かけない夜が続いていた。
談話室に戻っても、いつも空いているはずの彼の席が静かに冷えている。
暖炉の火が燃えていても、その不在が夜の空気にぽっかりと穴をあけていた。
監督生としての見回りがある日ならまだしも、そうでない夜にまで彼が姿を消す。
理由を尋ねても、どこか焦点の定まらない言葉で誤魔化され、
最後にはいつも、抱擁や口づけで会話が終わってしまう。
その唇の温もりに安心したふりをしながら、
胸の奥では、少しずつ恐れが芽を育てていた。
まるで、触れた指先の下に隠された秘密を感じ取ってしまうように。
――彼は、何を背負っているのだろう。
外では、レギュラスが「デスイーターに加わったらしい」という噂が流れ始めていた。
最初は笑って聞き流していた。
けれど、夜が深まるごとにその噂が真実味を帯びていくようで、息が苦しくなっていった。
信じたい。
あの優しい瞳を、誇り高い彼の背中を。
信じたいのに――信じるための確かな手応えが、夜ごと薄れていく。
寝台の上で、アランはカーテンの隙間から月を見上げた。
冷たい光が頬に落ち、心の奥の不安を照らし出す。
レギュラスの姿を思い浮かべれば浮かべるほど、その不安は形を持って迫ってくるようだった。
翌朝、アランはいつものように食堂へ向かった。
長いテーブルに並ぶ銀の皿、香ばしいパンの匂い。
けれど、そのすべてが遠くに感じられる。
新聞を広げると、黒い見出しが目に飛び込んできた。
――混血の魔法使いと情を交わし、デスイーターを抜けようとした女、粛清される。
紙面の文字が滲んで見えた。
昨日、理由も言わずに姿を消したレギュラスのことが、脳裏に閃く。
偶然なのか、それとも――。
胸の奥がひどくざわついた。
手が震えて、新聞の端を掴む指が白くなる。
そっと視線を上げると、レギュラスが向かい側に座っていた。
彼は珍しく、朝刊を手に取ろうともしなかった。
ナイフでパンを切り分け、何事もなかったかのように皿にバターを塗っている。
あまりにも静かで、完璧すぎて、不自然だった。
その沈黙の中に、何かが隠されているような気がした。
アランが口を開こうとしたその瞬間、レギュラスが柔らかく微笑んで言った。
「アラン、冷えますよ」
彼はアランの手から新聞をそっと抜き取り、代わりに紅茶のカップを差し出した。
まるで、真実から彼女を遠ざけるように。
その笑顔は、いつも通りの完璧さだった。
整った横顔、冷静な所作、穏やかな声。
けれど、アランの目には見えてしまった。
その奥に、わずかに揺れる影が。
それが罪なのか、苦悩なのか、あるいは覚悟なのか、彼女には分からなかった。
午前の授業。
スラグホーン教授に呼び出されたレギュラスと別れ、アランは一人で廊下を歩いていた。
薄い霧のような光が窓から差し込み、石畳の床を白く染めている。
足音が静かに反響し、心臓の鼓動と重なって聞こえた。
そのときだった。
「やあ、セシール嬢。久しぶりだね」
背後からかけられた声に振り返る。
ジェームズ・ポッターが立っていた。
いつも快活な笑顔を浮かべる彼の顔に、今日はどこか影があった。
「少し話せるかい?」
アランは一瞬ためらった。
彼の言葉には、避けて通れない何かがあると直感した。
けれど、逃げたくはなかった。
小さく頷き、二人は人のいない空き教室へと入った。
古い木の机と、埃をかぶった黒板。
静寂が支配するその空間に、緊張が張りつめる。
ジェームズがゆっくりと口を開いた。
「単刀直入に聞かせてほしい。きっと、シリウスは君には聞けないだろうから」
その名を出された瞬間、アランの心が小さく跳ねた。
「レギュラス・ブラックは――デスイーターに加わったそうだね」
その一言が、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
世界が一瞬、音を失う。
アランはただ首を振った。
「違うわ……そんなこと、あるはずがない」
震える声が掠れる。
願いと否定が混ざり合い、形を失った言葉だった。
ジェームズは静かに言葉を続けた。
「調べはついている。……君が彼を引き戻せるなら、できる限りそうしてほしい」
“調べがついている”――その言葉が、氷のように冷たく胸に突き刺さる。
彼は、アランの知らない何かを知っている。
それを問い詰める勇気が出なかった。
真実を聞いたら、もう後戻りできなくなる。
それが怖かった。
ジェームズは、優しい目で彼女を見つめた。
「僕も、シリウスも、卒業したら騎士団に入る予定なんだ。
兄弟で杖を向け合うようなことはしてほしくない。
だから――もし君がレギュラス・ブラックを引き戻せるなら、お願いだ」
アランは唇を噛み、うつむいた。
喉が詰まり、声が出ない。
目の前の現実が、静かに崩れていく音がした。
ジェームズが教室を出て行った後、アランはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
涙が指の隙間からこぼれ、机の脚に落ちる。
目を閉じれば、レギュラスの姿が浮かぶ。
優しく微笑む彼。
夜の廊下で肩を抱いてくれた彼。
真面目で、誇り高く、誰よりも繊細だった彼――。
そのすべての姿が、今、信じたい気持ちと信じられない現実の狭間で滲んでいく。
「レギュラス……」
小さく呟いた声が、静まり返った教室に消えていった。
窓の外では風が吹き、秋の葉がひとひら、音もなく落ちていった。
シリウスは最終学年となり、闇払いへの道を目指すための実践訓練で、城の外に出ることが増えているようだった。
会えない日々は以前にも増して長く感じられた。
大広間で食事をしながら、アランは無意識にシリウスの姿を探してしまう。
グリフィンドールのテーブルを見渡しても、あの黒い髪と温かな瞳は見つからない。
その度に胸に静かな落胆が降りかかった。
「アラン、どうしました?」
レギュラスの声に、ハッと現実に引き戻される。
慌てて首を振り、何でもないのだと示そうとした。
最近、城内の空気がどこかざわついている。
石造りの廊下に響く囁き声は、冷たい風よりも鋭く心を刺した。
レギュラス・ブラックが、ついに“あの集会”に出席したのだという。
デスイーター——闇の帝王に忠誠を誓った者たちの集い。
その腕には、闇の印が刻まれたのだと。
荒唐無稽な噂のはずだった。
けれど、それを耳にした瞬間、アランの胸はきゅうっと潰れそうになった。
息を呑み、手にしていたフォークの先が皿の縁に触れて小さな音を立てる。
食堂のざわめきが一瞬遠のいたように感じられた。
――まさか、そんなはずはない。
レギュラスがデスイーターだなんて。
あの夜、彼の寝室で目にした純血主義の記事や、マグルを蔑む思想の断片が脳裏をかすめる。
白い指先で整然と並べられた新聞の切り抜き。そこには確かに、彼が興味を抱いている証があった。
だが、同時に思い出す。
庭師に礼を述べ、廊下を掃除する使用人に微笑みかける、あの穏やかな声。
たとえ人前では冷たく振る舞っていても、その内には優しさが確かにあった。
そんな彼が、どうして。
マグルというだけで命を奪うような集団に、自ら足を踏み入れるだなんて。
信じられない。
けれど、それ以上に——信じたくなかった。
胸の奥に重く沈むものを抱えたまま、アランは俯いた。
目の前のスープはすでに冷え、湯気ひとつ立たない。
震える指先がフォークを握りしめ、力の加減を忘れる。
銀の食器がかすかに軋む音が、心のざわめきをそのまま映していた。
本当は、すぐにでも彼に問いただしたかった。
真実を、彼の口から聞きたかった。
でもできなかった。
怖かった。
もし、その噂が本当だったら。
もし、彼がすでに闇に身を委ねているのだとしたら。
レギュラスが、もう自分の知っているレギュラスではないのだとしたら——。
胸の奥からせり上がる恐怖と哀しみが、喉を締めつける。
声にならない吐息だけが、静かな食堂にこぼれ落ちた。
灯りの下、白い手が微かに震える。
アランは、ただ黙ってその手を見つめていた。
信じたかった。どんな噂よりも、彼の優しさを。
それだけが、彼女をかろうじて支えていた。
それでもレギュラスは、アランに対して何ひとつ変わらなかった。
大広間では必ずアランと並んで食事をし、授業でも必ず隣の席に座る。
談話室で眠りにつく直前まで、必ずアランと共に過ごしていた。
その変わらなさの中に、どこか自分の知らない恐ろしい顔が潜んでいる気がして——
アランはずっと、その綻びを探すようにレギュラスを見つめてしまう。
談話室の暖炉の前、ソファに並んで座りながら静かに話していた。
レギュラスの手が、アランの横顔にかかる髪をそっと掬い上げる。
その指先で、マグルを殺めようとするのだろうか——
そんな想像が頭をよぎった瞬間、思わず身がすくんだ。
「?」
レギュラスは首を傾げる。
「レギュラス……約束してくれますか?」
どこまで想いが届くのか分からないが、アランは震える声で言った。
この手が、人を殺めるためのものにならないでほしいと、心から願った。
「何なりと」
アランの願いならば、というように美しく微笑むレギュラス。
その笑顔にアランは胸が痛んだ。
「マグルを殺めたり……しないでください。あなたの手は、使用人にさえ手を差し伸べるような優しい手です。この優しさを忘れない人であってほしいのです」
抽象的な言い方になってしまった。
噂のことを気にしていると思われたくなくて、遠回しになってしまった。
レギュラスはアランの頬にそっと手を添えて微笑む。
整った美しい笑顔でありながら、どこか冷酷さも混じり合っているような、読めない表情に思えた。
「アラン、心配はいりません。あなたに怖い思いは絶対にさせませんから」
その返答は、アランが求めていたものとは、はっきりとずれていた。
少しずつこうして、レギュラスと受け取るものや感じるものがずれていく感覚を、もうずっと前から感じていた。
同じものを見て、同じものに触れてきたと思っていたのに。
いつのまにか変わっていくのは、自分の方なのか、それともレギュラスの方なのか。
どこまで巻き戻せば、少しずつ噛み合わなくなった歯車を治せたのだろう。
もう、分からなかった。
レギュラスは五年生に進級したと同時に、監督生の役目を任されていた。
デスイーターに加わり、クィディッチ選手としての最後の年となる多忙な日々。
それらが重なり合い、アランとの時間は少しずつ、確実に削られていった。
できる限り隣で受けたかった授業も、クィディッチの練習が入るたびに欠席せざるを得ず、また食事の席も監督生の集まりに駆り出されて、共に過ごせる時間は減少していった。
夜遅くまで寮の見回りをこなし、談話室に戻る頃にはアランはもう自室へと向かっていることも少なくなかった。
恋しいその時間を求めながらも、現実は遠ざかっていく。
そのすれ違いが、レギュラスの胸を追い詰めていた。
アランがどこか遠くへ行ってしまいそうな気がしてならなかった。
ある日、アランの隣に違う生徒が座り、楽しげに話しながら授業を受けているのを目撃した時の鋭い痛みは、まるで内臓を掴まれたように、胸に焼き付いて離れなかった。
そんな夜、レギュラスは静かに声をかける。
「アラン、今夜はゆっくり一緒に過ごしましょう」
問いかけるような口調に見えたが、断られることを許す気はなかった。
「連日の飛行術で疲れているでしょう?早く休んだ方がいいわ」
アランは優しく返す。
「ええ。早めに休みますが、それでも一緒にいてほしいのです」
彼の願いには切実さが込められていた。
隣で過ごす時間をもっと多くしたいというただ一つの想い。
それが静かに、部屋の空気を満たしていった。
久しぶりにアランを自室へ招き入れた夜、レギュラスの胸は深く、静かに満たされていた。
石造りの壁の内側に灯る淡い燭火が、ふたりの影をゆらゆらと壁に映し出す。
長いあいだ閉ざされていた心の奥に、ようやく温もりが戻ってきたような気がした。
この「満たされる」という感覚こそが、彼にとって何よりの安堵だった。
それは歓喜のような激しい感情ではなく、波打つように静かに広がる幸福。
彼女がそばにいる。それだけで、世界がきちんと形を保つ。
本当は、このまま互いの最奥で結び合う行為に至ってもよかった。
彼女を抱きしめ、その体温を確かめ、すべてを重ねてしまっても構わない。
だが、今夜のレギュラスはそれを望まなかった。
欲望よりも、ただアランの目を見つめ、肩を抱き、心と心をゆっくりと寄せる時間を求めていた。
肉体の快楽はあまりにも一瞬だ。
けれど、理性と感情のあわいに生まれるこの静かな結びつきこそが、レギュラスにはかけがえのないものに思えた。
彼は、自分の中にある“男”としての衝動を抑え、ただ“人”として彼女に寄り添うことを選んだのだ。
「今年はかなり腕のいいビーターが入ってきましたから、次の試合が楽しみですよ」
レギュラスが穏やかに切り出す。
アランは微笑んで、彼の横顔を見つめた。
「あなたは教えるのが上手だから、きっと慕われているでしょうね」
その言葉に、レギュラスの瞳が少し和らぐ。
「監督生の見回りのとき、たまに廊下で蝋燭がふっと消える瞬間があるんです。あれは、何度経験しても背筋が凍りますね」
アランが目を丸くし、くすりと笑った。
「絶対、霊的な何かですよね? よく平然としていられますね」
その笑い声があまりに柔らかくて、レギュラスはつられて微笑んだ。
久しく忘れていた――ただの若者として笑い合う夜。
ふたりは他にもたくさんの話をした。
授業のこと、最近入荷した魔法道具の話、クィディッチの戦術、監督生としての苦労。
話題が尽きることはなかった。
気づけば夜は深く、暖炉の火は小さくなっていた。
どちらが先に眠りに落ちたのかは分からない。
ただ、最後に覚えているのは、互いの手のぬくもりと、重なり合う呼吸の音だけだった。
翌朝。
レギュラスが目を開けると、柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
腕の中には、穏やかな寝息を立てるアランの姿がある。
その翡翠の瞳は閉じられ、白い頬がほんのりと赤らんでいる。
唇がわずかに動き、夢の中で何かを呟いているようだった。
レギュラスは息を呑んだ。
この瞬間ほど、美しいと思える光景を、自分は生涯に何度見られるだろうか。
触れたら壊れてしまいそうなほど儚く、けれど、確かにそこに在る“生”の輝き。
指先で、アランの髪をそっと撫でた。
その一筋一筋が、光を吸い込んで淡く輝く。
胸の奥から、熱く満ちるものがこみ上げた。
——どうか、この朝が永遠に続けばいい。
レギュラスは静かに目を閉じ、彼女の肩に頬を寄せた。
その瞬間、世界のすべてが、穏やかで優しい呼吸に溶けていった。
その夜、アランはこれまでにないほど穏やかで、心から安らげる時間を過ごしていた。
レギュラスに「今夜は一緒に過ごしたい」と告げられた瞬間、胸の奥が一瞬だけ強く跳ねた。
彼の言葉の意味を、アランは本能的に“肉体的な求め”だと思い込んでいた。
その覚悟を胸の奥に忍ばせながら、彼の部屋の扉をくぐった。
だが——そうではなかった。
レギュラスは、触れることよりも先に、言葉を紡いだ。
クィディッチの戦術のこと、監督生としての責任の重さ、アランの知らない自分の世界の話。
その一つひとつを、まるで宝石を磨くように丁寧に語ってくれた。
離れていたあいだに起きた出来事。
ホグワーツの中に隠された、彼だけが知る秘密。
そのどれもが興味深くて、どこか懐かしかった。
アランは不思議なほど心を奪われ、耳を傾けていた。
彼の声は、深夜の暖炉の火よりも穏やかで、心に沁みわたる。
その音の粒が、胸の奥の不安や噂を、少しずつ遠ざけていった。
デスイーターという不吉な言葉も、この瞬間だけは、どこか遠くの世界の話のように感じられた。
レギュラスは時折、彼女の肩を抱いた。
その手は静かに温かく、力強さよりも優しさを帯びている。
頬に軽いキスが落ちるたびに、アランは不思議な安心を覚えた。
それ以上のことは何もなかった。
ただひたすらに、言葉を交わし、笑い合い、頷き合いながら、夜が少しずつ更けていった。
こんなにもゆったりとした時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。
彼の話をこんなにたくさん聞いたのも、今日が初めてかもしれない。
今になって初めて、レギュラスという人が“語る人”なのだと、アランは知った。
「ぶっ通しで練習しても、よく倒れませんね」
「鍛えられてますからね」
「見回り中、眠くなりませんか?」
「見回りの名目で仮眠を取っている者もいるみたいですよ」
「監督生専用の大浴場があるんです。すごく広くて、まるで別世界のようなんですよ」
「そんなところがあるんですね」
そのやりとりの合間に、ふたりの笑い声が小さく重なった。
外の風が窓を叩くたび、暖炉の炎がぱちりと揺れる。
その橙の光が、レギュラスの横顔を柔らかく照らしていた。
アランはその光景を、夢のように眺めながら微笑んだ。
最初に「一緒に過ごしたい」と言われたときは、身構えていた自分がいた。
だが今は、自然に彼の声を聞き、頷き、優しく笑うことができている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
——この人は、マグルを排除しようとするような冷酷な人ではない。
そう信じたい。
いや、今夜だけは、本当に信じられる気がする。
胸の奥に、静かに、温かいものが満ちていく。
恐れでも、疑いでもない。
それは、信頼という名の小さな灯。
夜が深まるほどに、その光は柔らかく広がっていった。
ふと、アランは彼の肩にもたれた。
レギュラスは何も言わず、ただ微笑みながらその肩に頬を寄せた。
言葉もいらなかった。
ただ、この穏やかな夜が、いつまでも終わらなければいいと、二人は同じ想いで息を合わせていた。
この日、アランはレギュラスに頼まれていた。
「見に来てほしい」と。
五年生最後のクィディッチの試合――彼にとっても、きっと特別な日だった。
アランはその願いを、迷いなく「もちろん」と笑って約束したのだ。
けれど、運命は少しだけ意地悪だった。
同じ日、シリウスから誘いが届いた。
課外授業のない貴重な休日に、城の中を探検しようという誘い。
その声音には、少年のような無邪気さと、抗いがたい熱があった。
「なぁ、アラン。今日くらい、サボってもいいだろ?」
その言葉と同時に、太陽を閉じ込めたような瞳がまっすぐにアランを見つめていた。
胸の奥で何かが弾け、理性の糸がほどけていく。
「今日は……」
口を開いたが、その先が出てこなかった。
本当は、レギュラスの試合を見ると約束していた。
でも――それを“シリウスに向かって言えなかった”。
彼の瞳がまっすぐ過ぎて、正直で、心をすべて見透かしてくるから。
差し出された手。
その温もりに触れた瞬間、罪の意識よりも先に心が震えた。
アランはその手を取ってしまった。
シリウスが笑う。まるで陽光が溢れるように。
その笑顔を見た瞬間、胸の中の小さな抵抗は音もなく溶けた。
二人の足音が響く廊下は、薄明るい午後の日差しで満たされていた。
シリウスは嬉々として先を歩き、アランは少し遅れてその背を追う。
古い石壁に差し込む光が揺れ、魔法の影が生きているように動く。
隠し通路を抜け、動く階段の裏にある秘密の扉を開けるたび、アランは息を呑んだ。
「ねぇ、シリウス、こんなところ初めて」
「だろ? お前に見せたかったんだ」
その一言が胸を打つ。
この人は、自分に“見せたかった”という――ただそれだけで、世界が光を増す。
彼が案内する場所はどれも魔法めいていた。
肖像画の裏にある小部屋。
誰も知らない塔の最上階。
そして、そこから見下ろすホグワーツの全景は息を呑むほどに美しかった。
遠くにクィディッチの観客席が見える。
胸がちくりと痛む。レギュラスの姿が、きっとあの中にある。
でも、隣で笑うシリウスの横顔に目を奪われ、痛みはすぐに霞んでいった。
そして、たどり着いたのは“必要の部屋”。
何もない壁が扉へと変わり、その向こうに広がる空間は、まるで二人のために用意されたようだった。
柔らかな光に満ちた部屋、深紅の絨毯、温かな炎を揺らす暖炉。
アランは目を見開き、思わず息を呑む。
「よくこんな場所を見つけたわね」
「だてに散策してねぇからな」
シリウスが悪戯っぽく笑う。
その笑顔に、また心が揺れる。
“罪”と“幸福”の境界が曖昧になる瞬間だった。
ソファに腰を下ろした途端、部屋の空気が変わった。
沈黙が甘く、熱を帯びていく。
シリウスが隣に座る。その距離は、息を吸えば触れあってしまいそうなほど近い。
彼の瞳がまっすぐアランを見つめていた。
――ああ、昔からずっと、この瞳が好きだった。
真っ直ぐで、奔放で、誰よりも自由な光を宿している。
それが今、自分だけを映している。
唇が触れた瞬間、世界が静まり返った。
鼓動だけがやけに大きく響き、時間がゆっくりと溶けていく。
何度も、何度も触れ合うたびに、罪悪感は遠ざかり、代わりに確かな幸福が胸を満たしていった。
深くなる口づけに、理性は跡形もなく消えた。
求めることも、求められることも怖くなかった。
ただ、この瞬間を手放したくなかった。
シリウスの手が、頬を撫でる。
その指先に導かれるように、アランは彼に身を委ねた。
心が、身体が、ひとつになるたび、涙がこぼれそうになるほどの幸福が胸を満たした。
――この瞬間だけは、何もかもを忘れていた。
レギュラスの存在も、約束も、罪も。
ただ、シリウスの笑顔とぬくもりだけが現実で、
それ以外のすべては、夢のように遠ざかっていった。
すべてが終わった後、部屋の中に漂うのは、ただ静かな息づかいだけだった。
燃え残る暖炉の火が、ゆるやかに揺れ、オレンジの光が壁を撫でるように広がっていく。
その光が、シリウスの輪郭を柔らかく包み、まるで彼の存在そのものが光を放っているように見えた。
アランはソファに半ば横たわるようにしていた。
乱れた衣服の隙間から、肌に触れる空気のひやりとした感触が、現実を静かに思い出させる。
シリウスは何も言わず、傍らに置いていた柔らかな布で、アランの腕を、肩を、ゆっくりと拭っていった。
その仕草には乱暴さなど一つもなく、まるで宝物に触れるような優しさがあった。
「自分でできるわ」
照れくささを隠すように、アランは小さく呟いた。
シリウスは手を止めて、少しだけ目を細めた。
「こういうのは、男がやってやるもんなんだよ」
その声は低く穏やかで、優しい余韻を持っていた。
その言葉に胸が温かくなる。
そして同時に、恥ずかしさと嬉しさがないまぜになって、どうしようもなく心が揺れた。
服を着せてもらいながら、シリウスがひとつひとつ丁寧にブラウスのボタンを留めていく。
ボタンが小さく鳴るたびに、時間が静かに積み重なっていくようだった。
手と手がふと触れ合う。
アランが顔を上げると、シリウスの瞳がまっすぐに彼女を捉えた。
その瞬間、二人の間に言葉は必要なかった。
唇がそっと触れ合い、触れた途端、微笑みが生まれた。
それは確かな幸福の証のように、互いの心を静かに満たしていった。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
その音を合図にするように、アランはシリウスの肩に頭を預けた。
シリウスの胸の鼓動が耳に届く。一定のリズムが、心を落ち着かせ、眠気のような安らぎを誘う。
「アラン」
ふいに、シリウスが小さく呟いた。
「もし俺たちの子どもが男だったら、一緒に箒で飛び回りてぇな」
アランはその言葉にくすりと笑った。
「じゃあ、女の子だったら?」
シリウスは少し考えるように目を細め、そして照れくさそうに笑った。
「そんときは、箒なんか乗せられねぇよ。落ちたら危ねぇだろ。――箱入り娘にするに決まってる」
その冗談めいた言葉に、アランも自然と笑みを零した。
彼と未来の話をするのはいつだって楽しかった。
彼の声には、不思議と「明日」を信じさせてくれる力がある。
アランは思った。
――この人となら、どんな未来でも恐れずに歩けるかもしれない。
切なさよりも愛が勝り、不安よりも希望が勝る。
そう信じられる瞬間だった。
けれど、ふと胸の奥に影が落ちた。
心の底に沈んでいた名が、そっと浮かび上がる。
――レギュラス。
今ごろ、あの人は空を翔けているのだろう。
五年生最後の大切な試合。
「見に来てほしい」と言われたあの声が、耳の奥で甦る。
勝ったのだろうか。
それとも、負けて悔しがっているのだろうか。
観客席を見回したとき、自分の姿がないことに気づいたのだろうか。
胸の奥が、静かに締めつけられる。
シリウスの肩に頭を預けながらも、心の片隅では、どうしようもない罪悪感がじわじわと広がっていった。
幸福と苦しみ、そのどちらもが、同じ熱を持って胸の奥で溶け合っていた。
暖炉の火が小さくはぜる音だけが、二人の沈黙を包み込んでいた。
その瞬間、風が切り裂かれた。
スニッチの金色の羽根が陽光を弾き、レギュラスの掌に収まる。
次の瞬間、観客席から歓声が湧き上がった。
スリザリンの緑の旗が一斉に翻り、スタンドのあちこちで生徒たちが叫び声を上げる。
仲間たちが駆け寄り、肩を抱きしめ、歓喜の声を重ねていく。
レギュラスは笑った。
この瞬間を、どれほど待ち望んでいたことだろう。
五年生として迎える最後の試合。
努力のすべてが報われ、名実ともにスリザリンの誇りとなる勝利。
けれど、その胸に浮かんだのは、喜びよりも先に“伝えたい人の顔”だった。
――アラン。
この勝利を、真っ先に伝えたい。
スニッチを掴んだ手の感触が冷たいうちに、彼女に見せたい。
誰よりも先に、あの笑顔が見たかった。
観客席を見上げる。
歓声の中、緑のローブが揺れる。
だが――そこにアランの姿はなかった。
彼女は約束してくれた。「必ず見に行く」と。
信じて疑わなかったその言葉が、静かに胸の奥でひび割れていく。
どれほど目を凝らしても、あの淡い髪も、翡翠の瞳も見つからない。
胸の奥にざらつくような違和感が生まれ、それが次第に熱を帯びて不安へと変わっていった。
仲間たちが肩を叩き、トロフィーを掲げる声が響く。
レギュラスも笑みを返そうとした。
けれど唇の端に浮かんだ笑顔は、うまく形にならなかった。
スニッチを握る指先に、まだ金属の冷たさが残っている。
それがまるで、心の奥に沈む不安の重さのようだった。
試合後、歓喜に包まれたフィールドを早々に抜け出し、レギュラスは駆け出した。
祝杯の声を背に、誰よりも先に談話室へ向かう。
彼女はきっと、そこにいるはずだ。
試合が終わるのを待って、迎えてくれるはずだ。
そう信じて。
けれど、煌びやかなランプが灯る談話室にも、アランの姿はなかった。
緑の炎が暖炉の中で揺れている。
その光に照らされた椅子の列を見渡しても、どこにも、彼女はいない。
胸の中に、冷たい風が吹き抜けた。
レギュラスは誰かを呼び止めた。
「アランを見なかったです?」
しかし返ってくるのは首を振るばかりの答え。
「知らない」「見てない」――その言葉が、ひとつずつ胸に刺さっていく。
焦りが喉を塞ぎ、息が荒くなる。
どうしても諦めきれず、次に向かったのは図書館だった。
静寂が支配する図書館の扉を開けると、紙の匂いがふわりと広がった。
夕暮れの光が窓辺に淡く差し込み、埃が舞う。
棚と棚の間をゆっくりと歩き、視線を滑らせていく。
いつも彼女が座っている机を覗く。
けれど、そこには誰もいなかった。
羽根ペンを走らせる音、ページをめくる音。
周囲の静けさが、逆に孤独を際立たせる。
アランがノートを広げ、真剣に筆を走らせる姿が、脳裏に浮かんだ。
その幻のような光景を振り払うように、レギュラスは奥の通路まで足を進めた。
しかし――いくら探しても、見つからない。
最後に辿り着いたのは、大広間だった。
祝勝の残り香が漂い、まだ笑い声が遠くから響いてくる。
長いテーブルの上には食べ残されたパイとジュースのグラス。
それらの間を抜けながら、レギュラスは一つひとつの席を確かめるように歩いた。
グリフィンドールの席にも、レイブンクローの席にも、アランの姿はない。
どれほど目を凝らしても、あの細い肩も、柔らかな髪も見当たらなかった。
足が止まった。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
――いったい、どこへ行ってしまったのか。
あの日、自分を見上げて笑ってくれたあの瞳は、今どこを見ているのだろう。
不安と焦燥が、胸の内で渦を巻きながら膨らんでいく。
それは、勝利の歓喜とは正反対の、冷たく重い感情だった。
仲間たちの笑い声が遠ざかり、拍手の音が遠くに霞む。
勝利の夜の中で、レギュラスだけが、静かな孤独に取り残されていた。
寮の扉を開けた瞬間、温かな灯りと笑い声が迎えてくれた。
けれど、その明るさはアランの胸には届かなかった。
部屋に入ると、ルームメイトの一人が興奮気味に言った。
「アラン、レギュラスがあなたを探してたわよ! 試合のあとずっと!」
その言葉に、全身から血の気が引いた。
――探していた? 私を?
何かが崩れるように心が震えた。
五年生最後の試合。
レギュラスにとって、きっと一生忘れられない大切な日だった。
それを、自分は――裏切ってしまった。
「勝ったんだって! スリザリンが!」
弾むような声が、今のアランには痛みとしてしか届かない。
嬉しいはずなのに、喜びは胸のどこにも見当たらなかった。
代わりに湧き上がってくるのは、激しい後悔と、押し寄せる懺悔の波。
あのとき、シリウスの笑顔に溺れた自分を思い出し、
心の底から自分を罵りたくなった。
――なんて愚かなんだろう。
どうして、あの約束を破ってしまったのだろう。
立っていられなくなりそうなほどの罪悪感に駆られ、
アランは気づけば走り出していた。
夜のホグワーツは静まり返っていた。
石造りの廊下には冷たい風が吹き抜け、松明の灯りがゆらめくたびに影が長く伸びる。
アランはその影を踏むようにして、走り続けた。
変身術の教室――扉を開けると、机の上には授業で使った羽根ペンが転がっている。
「……いない」
呟いてすぐにまた走る。
魔法薬学の地下室は暗く、薬瓶の並ぶ棚が光を反射してぼんやりと輝いている。
そこにも彼の姿はない。
魔法史の講義室、占い学の塔の円形教室、天文学の塔の階段。
どこを探しても、レギュラスの姿はなかった。
胸の奥で焦燥が膨らみ、涙が滲んだ。
「どこなの、レギュラス……」
声に出すたび、空気が冷たく喉に刺さる。
息は荒く、足は震えているのに、それでも止まれなかった。
闇の魔術に対する防衛術の教室の前で立ち止まる。
扉を押し開けるが、そこにもただ静寂があるだけだった。
何度も深呼吸して、また廊下に飛び出した。
松明の灯りが揺れ、石の床が涙で滲んで見えた。
そのとき――。
「アラン!!!」
背後から呼ばれた声に、身体がびくりと震えた。
振り返ると、廊下の向こうにレギュラスが立っていた。
荒い息をつき、肩を上下させながら、彼はこちらを見つめていた。
髪は乱れ、頬には冷たい汗が光っている。
それでも、その灰色の瞳は真っすぐにアランを捉えて離さなかった。
――探してくれていた。
ずっと、自分を。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
息を呑むようにしてアランは一歩、二歩と近づく。
唇が震えて、ようやく言葉になった。
「レギュラス……ごめんなさい」
小さな声だった。
けれど、その一言には、約束を破ってしまった後悔も、
今日一日分の罪も、全部詰め込まれていた。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと歩み寄り、アランの手を取った。
冷たい指先が、彼の温もりに包まれる。
そして、その手を、ぎゅっと強く握りしめた。
その瞬間、アランの中で、ようやく何かがほどけた。
安堵と、苦しみと、愛しさが混ざり合って涙になり、頬を伝って落ちる。
言葉にならない想いが、静かな夜の廊下に溶けていった。
ふたりの影が松明の光の中で重なり、揺れる。
それは、まるで夜の中に浮かぶ、ひとつの儚い祈りのようだった。
アランはレギュラスに握られた手を、力強く握り返した。
その行為には、勝利を祝福する意味が込められていた。
「おめでとうございます、レギュラス。素晴らしい試合だったと聞いています」
震える声ながらも真摯な言葉を紡ぐ。
「そんなことより、あなたの方は平気ですか?」
レギュラスの瞳が真剣にアランを捉える。
アランは静かに頷いた。
責められないことが逆に苦しく、少し具合が悪くて休んでいたと告げる。
「今は少しは平気ですか?」
その灰色の瞳は、つい先程情を交わしたシリウスのものと不意に重なり、欺かれたような背徳感が胸を締めつけた。
「今からでも宴に出ませんか?主役のあなたがいなくては盛り上がりませんから」
アランはそのままレギュラスの手を引き、宴の広間へと向かおうとした。
だが、すぐにその手は優しく引き止められる。
「いいんです。あくまでスリザリンの勝利を祝う宴ですから。
それよりも、あなたの体の方が心配です。部屋で休みましょう」
レギュラスの手に引かれ、二人は談話室へと戻った。
みなが宴の席に向かっているせいか、広く静かな談話室には、レギュラスとアランの二人きりだった。
「レギュラス、本当に、今日はごめんなさい」
アランは申し訳なさを込めて謝る。
「もういいんですよ、そんなことは」
柔らかく返すレギュラスは、アランの手を優しく握りしめ、親指で手の甲を緩やかに撫でる癖を自然と見せた。
その温かな所作に、アランの胸は少しだけ軽くなっていくのを感じた。
その夜、レギュラスは数名のデスイーターと共に闇の帝王の命を受けて集まっていた。
下された命令は容赦のないものだった。
狙いは、一族の血を裏切った者。
デスイーターとなりながら純血主義を貫かず、混血の魔法使いと情を交わした混血の娘を殺すこと。
理由は明確だった。
闇の帝王の根強い理念──血筋と祖先の誇りを汚す者は、仲間であろうと容赦しない。
純血の魔法使いであるはずのデスイーターが、混血の血を家に招き入れ、交わったことで、組織の秩序が脅かされているとみなされた。
その裏切りを断ち切ることで純血主義の結束と恐怖を改めて示す。それが闇の帝王の思惑だった。
混血であろうと、マグルであろうと――命であることに変わりはないのに。
レギュラスは心の奥底で、良心が痛むのを自覚していた。
そもそも女に手をかけること自体、彼自身の倫理や理想から大きくはずれていた。
「レギュラス、決心がつかないか?」
横でルシウスが低く問いかける。
「いいえ、そういうわけでは」
短く、鋭く跳ね返すように応じる。
ここでデスイーターの中で自分が動揺しているなど知られるわけにはいかなかった。
意志の揺れなど、許されるはずもない。
冷たい夜、命じられた魔法使いの娘を、数人のデスイーターと襲撃し、殺す手順が無言で共有された。
果たしてそれが本当に正しいことなのか――その答えは心に見つけられないまま、ただやり遂げるしかなかった。
レギュラス自身が直接手を下したわけではない。
それでも、目の前で静かに命を奪われていく魔法使いの女を見ていた。
彼女はアランと同じように長い髪を持ち、背丈もアランと似ていた。
それだけで、胸が刺すように痛んだ。
まるでアラン自身を手にかけたかのような、ざわつきと恐ろしさが内側で広がっていく。
デスイーターとなった以上、徹底した純血主義を貫くことが求められている。
元来レギュラスにも、純血の魔法使いの血筋に誇りはあった。
この血は選ばれたものであり、マグルに脅かされるべきではない。
高貴な血筋は継がれるべきだと。
魔力ある魔法族こそ、マグルよりも優遇されるべきだと──
その思想が、排他的だと非難されようとも、魔法の力を持つ者が持たない者に迫害され続けた中世の歴史だけは繰り返したくなかった。
けれど。
マグルや混血の魔法使いを殺してまわりたいわけではない。
特に、女性や子供にまで杖を向けることだけは――
自分の中で、それだけは拒みたいという強い思いがあった。
裏切り者という理由だけで、命を絶たれてしまった彼女の姿が頭から離れず、胸を痛めて仕方がなかった。
自分はこれから先、いくつもの人間をこうして奪っていくのだろうか。
そう思うと、底知れぬ恐怖が襲ってきた。
「レギュラス、同情する心は持つなよ」
ルシウスの声は冷たい。
「ええ、そうします」
レギュラスは抑えた声で返す。
この残酷な世界の中でも、アランさえ無事であれば――
それでいいと自分に言い聞かせた。
一つの命の終わりを目にした衝撃から、引き裂かれそうな心を守るために、そう思うことしかできなかった。
重苦しい夜の出来事を終え、レギュラスはホグワーツに戻った。
談話室には灯りが残り、アランが静かにソファで本を読んでいた。
そのただ一人の存在が、心を痛みに蓋をしてくれるようだった。
さっき命を奪われた女と同じくらいの背丈、同じくらいの髪の長さ。
アランはソファに小さく座り、ページをめくっている。
つい先ほどまでの酷い現実も、彼女の隣にいるとすべて夢のように遠く感じられた。
「アラン、起きてたんですね」
「ええ、あなたの姿が見えませんでしたから」
自分を探してくれていたことが、心をじんわりと温める。
何の説明も要らないまま、レギュラスはそっとアランの隣に腰を下ろし、肩を抱いた。
「どこか行ってたんですね?」
アランの問いに、ぎくりと胸が騒ぐ。何かを見抜かれそうな不安が走る。
「少し、出てました……」
どことまでは言わない。何のためにとも言わない。
それでも、どこか外に出ていたことを察しているようなアランに、言い訳は通じないと思った。
抱き寄せる腕に、自然と力が込められる。
アランはその腕に手をそっと添えた。
そして、腕をふわりとほどくようにしてレギュラスの顔を見つめた。
「一人で背負わないでくださいね、レギュラス」
翡翠の瞳はどこまでも澄んでいて、美しかった。
ずっとその瞳を見ていたいと思うほどに、心が引き寄せられる。
アランの声は耳に心地よく響いた。
先ほどまで壊れかけていた心が、少しずつ、少しずつ、元通りになろうと、懸命にアランの愛しさを求めていた。
最近、レギュラスの姿を見かけない夜が続いていた。
談話室に戻っても、いつも空いているはずの彼の席が静かに冷えている。
暖炉の火が燃えていても、その不在が夜の空気にぽっかりと穴をあけていた。
監督生としての見回りがある日ならまだしも、そうでない夜にまで彼が姿を消す。
理由を尋ねても、どこか焦点の定まらない言葉で誤魔化され、
最後にはいつも、抱擁や口づけで会話が終わってしまう。
その唇の温もりに安心したふりをしながら、
胸の奥では、少しずつ恐れが芽を育てていた。
まるで、触れた指先の下に隠された秘密を感じ取ってしまうように。
――彼は、何を背負っているのだろう。
外では、レギュラスが「デスイーターに加わったらしい」という噂が流れ始めていた。
最初は笑って聞き流していた。
けれど、夜が深まるごとにその噂が真実味を帯びていくようで、息が苦しくなっていった。
信じたい。
あの優しい瞳を、誇り高い彼の背中を。
信じたいのに――信じるための確かな手応えが、夜ごと薄れていく。
寝台の上で、アランはカーテンの隙間から月を見上げた。
冷たい光が頬に落ち、心の奥の不安を照らし出す。
レギュラスの姿を思い浮かべれば浮かべるほど、その不安は形を持って迫ってくるようだった。
翌朝、アランはいつものように食堂へ向かった。
長いテーブルに並ぶ銀の皿、香ばしいパンの匂い。
けれど、そのすべてが遠くに感じられる。
新聞を広げると、黒い見出しが目に飛び込んできた。
――混血の魔法使いと情を交わし、デスイーターを抜けようとした女、粛清される。
紙面の文字が滲んで見えた。
昨日、理由も言わずに姿を消したレギュラスのことが、脳裏に閃く。
偶然なのか、それとも――。
胸の奥がひどくざわついた。
手が震えて、新聞の端を掴む指が白くなる。
そっと視線を上げると、レギュラスが向かい側に座っていた。
彼は珍しく、朝刊を手に取ろうともしなかった。
ナイフでパンを切り分け、何事もなかったかのように皿にバターを塗っている。
あまりにも静かで、完璧すぎて、不自然だった。
その沈黙の中に、何かが隠されているような気がした。
アランが口を開こうとしたその瞬間、レギュラスが柔らかく微笑んで言った。
「アラン、冷えますよ」
彼はアランの手から新聞をそっと抜き取り、代わりに紅茶のカップを差し出した。
まるで、真実から彼女を遠ざけるように。
その笑顔は、いつも通りの完璧さだった。
整った横顔、冷静な所作、穏やかな声。
けれど、アランの目には見えてしまった。
その奥に、わずかに揺れる影が。
それが罪なのか、苦悩なのか、あるいは覚悟なのか、彼女には分からなかった。
午前の授業。
スラグホーン教授に呼び出されたレギュラスと別れ、アランは一人で廊下を歩いていた。
薄い霧のような光が窓から差し込み、石畳の床を白く染めている。
足音が静かに反響し、心臓の鼓動と重なって聞こえた。
そのときだった。
「やあ、セシール嬢。久しぶりだね」
背後からかけられた声に振り返る。
ジェームズ・ポッターが立っていた。
いつも快活な笑顔を浮かべる彼の顔に、今日はどこか影があった。
「少し話せるかい?」
アランは一瞬ためらった。
彼の言葉には、避けて通れない何かがあると直感した。
けれど、逃げたくはなかった。
小さく頷き、二人は人のいない空き教室へと入った。
古い木の机と、埃をかぶった黒板。
静寂が支配するその空間に、緊張が張りつめる。
ジェームズがゆっくりと口を開いた。
「単刀直入に聞かせてほしい。きっと、シリウスは君には聞けないだろうから」
その名を出された瞬間、アランの心が小さく跳ねた。
「レギュラス・ブラックは――デスイーターに加わったそうだね」
その一言が、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
世界が一瞬、音を失う。
アランはただ首を振った。
「違うわ……そんなこと、あるはずがない」
震える声が掠れる。
願いと否定が混ざり合い、形を失った言葉だった。
ジェームズは静かに言葉を続けた。
「調べはついている。……君が彼を引き戻せるなら、できる限りそうしてほしい」
“調べがついている”――その言葉が、氷のように冷たく胸に突き刺さる。
彼は、アランの知らない何かを知っている。
それを問い詰める勇気が出なかった。
真実を聞いたら、もう後戻りできなくなる。
それが怖かった。
ジェームズは、優しい目で彼女を見つめた。
「僕も、シリウスも、卒業したら騎士団に入る予定なんだ。
兄弟で杖を向け合うようなことはしてほしくない。
だから――もし君がレギュラス・ブラックを引き戻せるなら、お願いだ」
アランは唇を噛み、うつむいた。
喉が詰まり、声が出ない。
目の前の現実が、静かに崩れていく音がした。
ジェームズが教室を出て行った後、アランはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
涙が指の隙間からこぼれ、机の脚に落ちる。
目を閉じれば、レギュラスの姿が浮かぶ。
優しく微笑む彼。
夜の廊下で肩を抱いてくれた彼。
真面目で、誇り高く、誰よりも繊細だった彼――。
そのすべての姿が、今、信じたい気持ちと信じられない現実の狭間で滲んでいく。
「レギュラス……」
小さく呟いた声が、静まり返った教室に消えていった。
窓の外では風が吹き、秋の葉がひとひら、音もなく落ちていった。
