1章
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夜の名残を引きずる屋敷は、まだ深い静寂に沈んでいた。
外の空はゆっくりと明け始めていたが、夜と朝の境はまだ曖昧で、世界そのものが呼吸を止めているような時間だった。
窓辺から差し込む薄明かりが、広い厨房の冷たい石床を斜めに照らし出す。
その光はまるで、誰かの夢の残り香のように淡く揺れている。
アランはひとり、朝食の支度に取りかかっていた。
鍋の中でバターが静かに溶け、卵を割るたびに柔らかな音が響く。
ナイフの刃がまな板を軽く叩くたび、空気の中にかすかなリズムが生まれ、
それがまるで音楽のように室内を満たしていた。
彼女の動きには無駄がなく、静かで、流れるようだった。
しなやかな指先が器を扱うたびに、どこか神聖な静謐が漂う。
まるで朝という一日の始まりを、丁寧に祈るように整えているかのようだった。
火の上に鍋を置き、手際よくスープを煮立てていたとき――
背後で、かすかな足音がした。
控えめだが、確かに人の気配を含んだ音。
アランが振り返るより早く、落ち着いた声が響いた。
「手伝います。何からすればいいんでしょうか」
その声に、アランの手がふっと止まった。
いつもならまだ夢の中にいるはずの時間。
振り向けば、レギュラスがそこに立っていた。
整った寝癖もつけぬ髪、白いシャツの袖をまくり上げ、
どこか少年めいた表情で立っている。
彼の瞳には、珍しく柔らかい光が宿っていた。
「レギュラス……もう少しお休みになっていればよかったのに」
驚きと呆れが半分ずつ混じった声で言うと、彼は少し照れたように微笑んだ。
「アランが働いているのに、自分だけ休んでいられませんよ」
その口調は真剣で、けれどどこか誇らしげだった。
まるで何か大切な約束を果たすかのように、彼はキッチンの中央に立つ。
アランはため息を飲み込んだ。
決闘呪文でも護身魔法でも、彼は誰よりも的確で、冷静で、強い。
だが包丁やフライパンを手にした瞬間、彼の動きはまるで雛鳥のようにぎこちない。
案の定、杖を振るう手には繊細さが欠け、鍋の火は一瞬で強く燃え上がった。
「レギュラス、それでは――あっ、パンが焦げています!」
小さな黒煙が上がり、香ばしさを通り越して焦げた匂いが立ちこめた。
「すみません……そんなに火力を上げたつもりはないんですが、勝手に……」
彼は困惑した表情で、黒くなったフライパンを見下ろす。
「強すぎる魔力が反応してしまうんですよ。少し抑えて……」
そう言う間にも、彼は次の作業に取りかかろうとしていた。
「そんなに入れてはいけません。辛くなりますから」
「これくらいなら大丈夫かと……」
「鍋の中、もう真っ赤ですよ」
「……本当だ」
煮込みの中から立ち上る湯気が、朝の光をぼんやりと染めた。
彼は額にかかる前髪を掻き上げながら、苦笑いを浮かべる。
その表情には、少年らしいあどけなさが滲んでいた。
「水をかけるときは優しく。圧を弱めないと――」
「わかっています」
だが次の瞬間、魔法の水流が勢いよく弾け、台の上を奔った。
整然と並べていた皿たちが、一斉に悲鳴をあげるようにヒビを入れた。
静寂が落ちる。
二人とも言葉を失い、しばらくその光景を見つめた。
やがて、レギュラスがゆっくりとため息をつき、苦笑を漏らした。
「……この家の水圧は、どうやら強すぎるようですね」
その場違いな冗談に、アランは唇の端をゆるめる。
笑うつもりではなかった。
けれど、どうしても笑ってしまった。
朝の空気がわずかに柔らかく揺れる。
「……レギュラス、もう座っていてください。あとは私がやりますから」
「ですが……」
「座っていてくれたら、それで十分です」
アランはそう言って、壊れた皿に杖を向けた。
修復の呪文を静かに唱えると、皿の割れ目を光が走り抜け、
一枚一枚がもとの形を取り戻していく。
淡い輝きの中で、陶器の白が朝の光を受けて柔らかく輝いた。
「……美しいですね」
レギュラスが、無意識にその光景を呟いた。
アランは手を止め、わずかに頬を染める。
「何が、ですか」
「あなたの手元です。……いや、全部が」
その言葉はまるで息のようにかすかで、
彼女が答える前に、光はふっと消えた。
「他にできることがあれば、何でも言ってください」
どこか照れたような声。
アランは振り返り、ふんわりと微笑んだ。
「座っていてくれたら、それで構いません」
その声は柔らかく、まるで温かな毛布のように静かだった。
拒むでもなく、叱るでもなく、ただ優しく包み込む響き。
レギュラスの肩の力が抜け、彼は素直に椅子へ腰を下ろす。
窓の外では、夜と朝のあわいが完全にほどけていく。
薄明の光が静かに射し込み、厨房の床を金色に染めた。
焦げたパンの匂いも、割れた皿の跡も、すべてが朝の柔らかさに溶けていく。
二人の間に漂う空気は、穏やかで、静かで、どこか切なかった。
言葉にならない安らぎが、そこには確かにあった。
束の間のこの時間だけは、何もかもが遠く、
ただ二人の笑い声だけが、優しく屋敷の奥へと響いていた。
朝の光がほんのりと差し込む厨房。
アランは湯気の立つカップを両手に抱え、慎ましい所作でレギュラスの前にそっと置いた。淡い琥珀色の液面がわずかに揺れ、香り高い紅茶の芳香が二人を柔らかに包む。
眉を和らげたレギュラスは、その一杯に指先を触れながら小さく苦笑した。
「すみません、仕事を増やしてしまいましたね」
前夜から重なる失敗の数々を思えば、それは当然の言葉だった。厨房の床にはまだ修復魔法の無数の痕が残り、割れて元に戻された皿が微かに軋む音さえ立てている。
けれどアランは、ごく自然に、肩を揺らす程度の穏やかな微笑で応じた。
「どうぞ、召し上がってくださいませ」
彼女は本来なら人目を憚り、決して一使用人として主に椅子を差し向けることなどなかった。しかしこの早朝の、まだ誰も目覚めぬ屋敷の中では、わずかな安らぎと親しみが許されたような錯覚に包まれてしまうのだ。
レギュラスは紅茶を一口含み、深く吐息を落とした。早起きしてまで彼女と片時を共にしたいと思ったその気持ちと、結局は足手まといにしかならなかった己の不器用さに、どこか照れくささを覚える。
その時だった。
「……随分と賑やかだな」
低く落ち着いた声が、不意に背後から割り込んだ。二人の肩が同時に跳ね、アランは慌てて立ち上がり、片膝を折るように深く礼を取る。
「おはようございます、オリオン様」
彼女の声は丁寧で淀みなくとも、剣が横切るような緊張が喉を締め上げているのが自分でも分かった。
「おはようございます、父上」
レギュラスも短く、しかし整った礼を返す。
袖を揺らしながら入ってきたオリオンは、重苦しい威圧そのものの存在感を部屋に広げた。彼の眼光は鋭いが、声はあくまで静謐だ。
「ロズィエ家の令嬢を招待しているのだから、くれぐれも失礼のないように」
その言葉は、一見すれば当たり前の忠告。しかしわずかに皮肉めいた影がそこに潜んでいた。意識すればするほど、アランとレギュラスの間に見えぬ線を引き、踏み越える危うさを示している。
アランの胃はその瞬間きりきりと痛みを覚えた。肩を正しく落として息を吸い込むが、胸の奥に残る硬い重みは消えない。彼女がレギュラスと交わす小さな言葉や、ささやかな笑みが、いつ監視する眼によって裁かれるか分からぬ恐怖がそこにはあった。
オリオンは視線を逸らし、背を向けた。
「レギュラス、少し話そう」
ただ一言、静かな声。だがその歩む背は重圧と威命に満ち、階段を上がるその動作ひとつが「来い」と告げているのは明らかだった。
レギュラスは短く頷き、逡巡の欠片すら見せずにその後を追った。
室内に残されたのは、ただアランひとり。
静まり返った空気に、自分の心臓の鼓動だけが痛いほど響く。椅子に腰を戻し、両手を固く組むと、胸の奥に沈んでゆく重い感覚を誤魔化すことはできなかった。
目を落とした視線の先では、まだ紅茶の表面に、小さく波紋が残っていた。
その小さなゆらめきは、彼女の心のざわめきそのもののようにも見えた。
ブラック家の威厳を凝縮した書斎は、訪れるたびに息を詰めるような重圧を放っていた。
磨き上げられた黒檀の机には、幾筋もの光沢が鋭く走り、整然と並ぶ革装の書物が壁一面を覆い尽くしている。
そのすべてが、この家の歴史と権威を象徴していた。
高い天井には古いシャンデリアが吊るされ、蝋燭の光が揺らめくたび、影が壁を這う。
壁面を支配する一族の肖像画たちは、誰もが無言のまま、冷ややかにこちらを見下ろしている。
彼らの眼差しの中に足を踏み入れれば、誰であれ一瞬でその意志を試されるような錯覚に囚われた。
ここは、思想と血の系譜が支配する場所。
正義や愛情といったものは、一歩たりとも許されぬ領域だった。
レギュラスはその中心に立っていた。
背筋を伸ばし、正面に座る父オリオンの視線を真正面から受け止める。
その眼差しは冷たい刃のように研ぎ澄まされ、まるで息子の心を切り裂いて覗き込もうとするかのようだった。
微動だにしない沈黙。
暖炉の火がぱちりと爆ぜた音が、異様なほど響く。
部屋の空気は重く凝り固まり、肺に吸い込むたび痛みを覚えるほどだった。
「レギュラス」
オリオンの声は低く、まるで石を擦るように重い。
「何を考えているのか、聞きたい」
主語のない問い。
しかし、レギュラスには理解できた。
その言葉の矢が向けられているのは――たった一人、アラン・セシール。
彼女の名を口に出さずとも、父の意図は明白だった。
喉の奥がかすかに鳴る。
予感はあった。
いずれこの話題を避けては通れぬことを。
本来なら、もう少し時を待つつもりでいた。
ホグワーツを卒業し、功績を立て、誰もが認めざるを得ない地位を築いた上で――父に話すつもりだった。
だが、今この瞬間、父の前に立ってしまった以上、退く道はなかった。
手のひらの中で血が巡る音を感じる。
恐怖はある。
けれど、それ以上に譲れぬものが胸の奥に燃えていた。
レギュラスは息を深く吸い、言葉を鋭く研いで吐き出した。
「アラン・セシールを、妻として迎えたいと思っています。
……その見返りに、何を成し遂げればよいでしょうか」
言葉が放たれた瞬間、空気が凍った。
書斎の中に響いたのは、彼自身の声の残響だけ。
それが、やけに大きく反響して聞こえた。
沈黙。
父の眼差しは微動だにしない。
その沈黙の重さが、刃物のように彼の神経を削っていく。
息をすれば砕けてしまいそうなほどの緊張。
だが、レギュラスは姿勢を崩さなかった。
恐怖を押し殺し、ただ誇りだけを支えに立ち続けた。
――そして、長い時間の果てに、オリオンの唇がわずかに動いた。
短く、冷たい笑いが漏れる。
「……妻に、だと?」
視線がわずかに逸れ、息を吐くように続けられる。
「まるでロイクのようなことを言い出したな」
ロイク――その名を聞いた瞬間、レギュラスの胸が強く打った。
かつての一族の男。忠誠と功績を積み重ね、ついには身分を越えて愛する女を妻とした人物。
だが、彼は決して本家筋ではなかった。
自らの血に誇りを持つオリオンにとって、その名を引き合いに出されることは、侮辱にも等しい。
父の声は、氷のように冷たく澄んでいた。
「お前はまだ何一つ、成し遂げてはいない。……だが」
一拍置いて、言葉が鋭く空気を切り裂く。
「闇の帝王が、新たな忠実な僕を求めておられる。デスイーターとしてふさわしい者を、私が推薦するつもりだ。お前に、その覚悟があるか?」
静寂が落ちた。
火のはぜる音さえ遠く聞こえる。
胸の奥が凍りつく。
それは想定の外――だが、避けられぬ運命のように感じられた。
父の黒い瞳が、再び息子を貫く。
試されている。
この瞬間に、彼のすべてが測られている。
恐れも、迷いも、許されない。
レギュラスはわずかに顎を上げ、声を放った。
「はい。必ずや、闇の帝王の信頼を得てみせます。このブラック家の名誉にかけて」
その声は若さの中に鋼の芯を帯びていた。
恐怖も、迷いも、すべてを飲み込んだ確信の音。
父の前で、彼は初めて自らの命を取引に差し出す覚悟を見せた。
オリオンの口元が、ゆっくりと釣り上がった。
それは、笑みとも、勝利の証ともつかぬ曖昧なもの。
「……良いだろう。お前はあの方の忠実な僕となれるだろう。期待しているぞ、レギュラス」
その言葉は、祝福ではなく命令だった。
承認と同時に、重く冷たい鎖が彼の足元に絡みつくのを感じる。
レギュラスは深く頭を垂れた。
背後の肖像画たちの視線が、一斉に自分へと注がれる気がした。
それはまるで、彼が新たな血の誓いを立てた証人のように。
胸の内で静かに響く。
――これが、父の愛の形なのだと。
――これが、ブラック家に生まれた者の宿命なのだと。
握りしめた拳の中で、指先が白くなる。
アランの名を思い浮かべた。
その面影が、唯一の光のように心の闇を照らした。
だが同時に、その光さえ、今まさに闇へと呑み込まれていく気がした。
炎がぱち、と鳴った。
揺れる灯が、レギュラスの瞳の奥で滲む。
その決意は、もはや少年のそれではなかった。
――父に認められるために。
――彼女を手に入れるために。
そして、彼は静かにその運命へと歩み出した。
レギュラスは深く頭を垂れたまま、父の視線から逃れるように身を翻した。
音を立てぬよう扉を押し開き、重く閉ざされた書斎の冷気から、夜明けの廊下へと足を踏み出す。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
まるで氷の鎖が断たれたように、肺の奥まで一気に空気が流れ込み、抑え込まれていた鼓動が暴れるように高鳴った。
息が乱れる。膝がかすかに震える。
それでも、彼は歩みを止めなかった。
廊下の両脇には、古い肖像画がいくつも並び、夜の名残を背に沈黙を保っている。
どの顔も、代々のブラック家の威光を象徴するように冷たく、誇り高く、見下ろすようなまなざしを投げかけていた。
しかし今の彼は、そこに怯むことはなかった。
胸の奥には、確かな熱が灯っていたからだ。
――闇の帝王。
父の口から出たその名は、恐怖を孕んでいた。
純血を掲げ、力こそが正義とする思想。
魔法使いの中の魔法使い。
ほんの一つの過ちで命を落とす世界。
多くがその名に跪き、畏れ、狂気と忠誠の境に沈む。
けれど、今のレギュラスにとっては、もはや恐れる理由はなかった。
それどころか、その「闇」でさえ、彼には救いに見えた。
――忠誠を捧げ、その信頼を勝ち得れば、アランを「妻」と呼べる。
その未来が開かれるのならば、どんな代償も惜しくはない。
血も光も、すべて燃やして構わない。
彼女を抱くことができるなら――それが、自分の生きる意味だと。
廊下を進む彼の足取りは、震えを秘めながらも確かだった。
壁を滑る月明かりが、彼の横顔を淡く照らし出す。
その瞳の奥には、恐れを超えた決意の炎が宿っていた。
闇を受け入れ、なお光を掴み取ろうとする、若きブラックの炎だった。
書斎から離れたレギュラスの足取りは、次第に軽やかになっていく。
廊下の冷気が肌を撫でても、胸の中には奇妙な温もりが広がっていた。
あの重圧、あの冷たい空気の中で交わされた父の言葉が、今では希望の証に変わっている。
――叶う。
その確信があった。
父は否定しなかった。
条件を突きつけられたとはいえ、息子の願いを真っ向から退けはしなかった。
それは、許されたということだ。
闇の帝王への忠誠。命を賭すに等しい誓い。
だが、それさえ果たせば―― アランを「妻」として迎えることができる。
父が、あのオリオン・ブラックが、自ら口を閉ざしながらも事実上の承認を与えたのだ。
その意味は、レギュラスにとって天啓にも等しかった。
もう、何も恐れることはない。
隠れる理由も、遠慮する理由もない。
胸を張っていい。
彼はブラック家の嫡子として、愛を貫く権利を得たのだ。
自室へ戻ると、窓から柔らかな朝の光が差し込み始めていた。
カーテンの隙間を縫って、銀色に近い薄明かりが床を滑る。
その光の中で、アランが静かに布を畳んでいた。
規則正しく動く指先。
髪の先が肩を滑り、頬にかかる。
その何気ない仕草さえ、彼には愛おしくてたまらなかった。
レギュラスは思わず歩を速め、その背へと手を伸ばす。
そっと、彼女の肩に腕を回した。
「レギュラス、いけません……」
小さな声が震えた。
拒絶というよりも、恐怖に似た響き。
その声の奥にあるのは、昨日までに積み上げられた不安の残滓。
カサンドラの牽制。屋敷の視線。
それらが、まだ彼女の中に深く刺さっているのだ。
だが、レギュラスの声音は静かで揺るぎなかった。
「アラン、もう気にしなくていい。全て、終わりました」
アランは驚いたように顔を上げた。
長く伏せられていた翡翠の瞳が、戸惑いに揺れる。
彼女の視線が問いかけている。――「何が?」
その問いを受け、レギュラスの胸は満ちた。
どう言葉にすれば、この歓びと安堵が伝わるだろう。
あの父の厳格さを、彼女は知らない。
一言の承認がどれほどの重みを持つのか、きっと理解できない。
だが、それでも伝えたかった。
この瞬間を、誰よりも早く彼女に告げたかった。
「父が、あなたを妻として迎えることを許してくれました」
その言葉は、祈りにも似ていた。
声は穏やかだったが、その奥に震えるような熱がこもっていた。
彼にとって、それは生涯を賭けて勝ち取った赦しだった。
――もう、あなたは従者ではない。
――誰にも怯えず、私の隣に立てばいい。
そのすべての意味が、短い一言の中に詰まっていた。
アランの唇がわずかに震えた。
呼吸を忘れたように、目を見開く。
驚き、困惑、そして理解を拒むような沈黙。
頬に血の気が引き、瞳の奥で光が迷う。
青ざめたわけでも、泣き出すわけでもない。
ただ、「現実」として受け止めるには、あまりにも重すぎる事実が胸に落ちた。
レギュラスには、そのすべての表情が愛おしかった。
彼女が震えるその瞬間も、目を泳がせる仕草さえも。
どんな言葉よりも、その動揺が、彼にとっては確かな存在の証だった。
――これが始まりだ。
闇をくぐり抜け、ようやく掴んだ未来。
どんな犠牲も厭わない。
この女性を「自分のもの」として抱き寄せるためならば。
レギュラスはその手を取り、指先を強く絡めた。
翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめる。
その眼差しには、もはや迷いの影はなかった。
ただ、若き当主としての確信と、愛を誓う男の情熱だけが宿っていた。
そしてアランは――その決意の重さに息を呑み、胸の奥を冷たい手で掴まれたように感じていた。
彼の愛の中にあるものが、あまりにも強く、熱く、そして危ういことを、
まだ言葉にできないまま、ただ静かに見つめ返していた。
朝の光が二人の間に落ち、淡い影を交錯させる。
その光はあたたかく、それでいてどこか冷たい。
祝福のようでありながら、予感めいた痛みを孕んでいた。
――愛が始まる音がした。
だがそれは同時に、終わりの始まりでもあった。
レギュラスの声は、夜明けの光のように澄んでいた。
「――父が、あなたを妻に迎えることを許可してくださった」
その言葉は、まるで祈りを告げる聖句のように静かで、揺るぎなかった。
彼の瞳には一片の曇りもなく、頬には少年のような輝きが宿っている。
そこに疑念の影はなく、ただ純粋な歓びだけがあった。
世界のすべてが祝福に満ちていると信じて疑わない者の声音だった。
しかし、その響きが空気を震わせるたび、アランの胸の奥には、ひとしずくずつ冷たいものが落ちていった。
凍えるような静けさが、体の芯にまで染み込んでいく。
言葉を発することさえ躊躇われるほどの、深い絶望に似た感情。
――妻として迎えることを、許した?
あの、オリオン・ブラックが?
思考が追いつかない。
レギュラスの幸福に満ちた表情が、かえって現実味を失わせていく。
その笑顔はまぶしいほどに清らかで、けれど、現実の常識からあまりにもかけ離れていた。
名門ブラック家。
純血を誇りとする、英国でも最も古い血統。
正妻にはロズィエ家の令嬢――カサンドラが約束されている。
その家に仕えるただの従者にすぎぬ自分を「妻」に?
そんなことがあり得るはずがない。
彼女は自分がどんな身分で、どんな立場のもとにいるのか、痛いほど理解していた。
常識を超え、理屈を無視した奇跡。
だが、その奇跡には必ず代償が伴う。
オリオンが何の見返りもなく承諾するなど、あり得ない。
アランの胸の奥で、その確信が氷のように冷たく沈んでいく。
――何を差し出したの、レギュラス。
その問いが喉元まで上がる。だが声にならない。
唇を噛み、胸の内で必死に思考を追う。
この屋敷で一族の名を汚すことは、死よりも重い罪だ。
そんな父が、息子の恋情ひとつで心を動かすはずがない。
だからこそ、何かが差し出されたに違いない。
命に等しい代償が。
――もしかして。
頭の奥に、ひとつの言葉が閃く。
「闇の帝王」――
ぞっとするほど冷たい予感が背筋を撫でた。
オリオンが一族の名誉を保つために選ぶとしたら、その道しかない。
息子を、闇の側へと差し出すこと。
その忠誠と引き換えに、許しを与える。
それこそが「取引」だ。
胸の奥が締めつけられ、息が詰まった。
まるで心臓を氷の手で掴まれたように、鼓動が痛い。
喉が乾く。言葉を吐くことが、苦行のように感じられた。
――自分には、何もない。
身分も、誇りも、何ひとつ差し出せるものなどない。
だからこそ、彼が払った代償の重さが想像できてしまう。
それが怖かった。
そして何より、胸の奥にひそむ別の罪――
決して消せぬ、シリウスへの想いが、血のように疼いた。
この心を裏切ることは、死んでもできない。
だから、レギュラスがそこまでして自分を求めることが、ただ恐ろしかった。
「……一体、どんな取引をされたのですか」
やっとの思いで、アランは問うた。
声はかすれていた。
震えながらも、祈るような響きを帯びていた。
どうか――どうか、取り返しのつかないものではありませんように、と。
レギュラスはそんな彼女の恐れを見抜いたのか、優しく微笑んだ。
その笑みは春の陽光のようで、何の濁りもない。
「心配しなくて大丈夫です」
穏やかな声。まっすぐな眼差し。
「取るに足らないものでしたから」
その瞬間、彼はためらうことなく彼女を抱きしめた。
驚く間もなく、強い腕がアランの細い体を包み込む。
胸板に押しつけられた頬から、鼓動が伝わってくる。
その音は確かに生命の証であり、同時に彼の熱情そのものだった。
温かい。
けれど、その温もりの奥に、形の見えない影が蠢いている。
安堵よりも、胸をざわめかせる不安が増していく。
レギュラスの言葉が優しいほどに、その背後に隠された「何か」が際立っていく。
――取るに足らない?
そんなはずはない。
あのオリオンが、命を賭けぬ者に承認を与えるわけがない。
アランの視界がわずかに滲む。
目の奥が熱いのに、涙は落ちなかった。
ただ静かに、彼の肩に手を添え、言葉にならない悲鳴を胸の奥で押し殺した。
彼の胸に顔を埋めるほどに、愛しさと恐怖が同時にせり上がってくる。
この人は、きっともう戻れない。
その確信が、彼女の背を冷たくなぞった。
外では、朝の光がゆっくりと屋敷を照らし始めていた。
けれど、その光の下に立つ二人の影は、なお深く絡み合い、離れなかった。
あたたかいはずの抱擁が、どこまでも静かで、どこまでも残酷だった。
それからのレギュラスは、まるで全ての枷を解き放たれたかのようだった。父に認められたという事実は、彼から慎みを奪い去り、屋敷の中でさえもアランに遠慮なく寄り添わせた。
人目を気にする素振りは消え、誰であろうと隠さなくなった。その様子が、アランの心に恐ろしさを刻んだ。
――ヴァルブルガの冷たい視線も、カサンドラの射るようなまなざしも。
――それらが、彼には届かないのだ。
とりわけ鮮烈に思い出されたのは、カサンドラの忠告だった。
「レギュラス様を愛さないように」――
あの冷静な言葉が耳に蘇るたび、アランは胸を締め付けられた。まるで誓約を破ったかのように思われはしまいか。
その恐怖が、息をする余裕を奪った。
屋敷の日常は変わらない。アランは静かに仕事をこなしていた。魔法を用いた掃除は彼女にとって日々の習いであり、救いでもあった。
床に散らばる塵へ、小さな風の精霊を送り込む。淡い光を帯びた羽虫のような存在が舞い、柔らかに埃を払っていく。
棚を磨くときは、指先から灯す光で汚れを浮かび上がらせ、布でそっと拭い取る。手際よく、確実に。彼女自身の胸の動揺さえ、それで拭き清められるように思いたかった。
しかし、そんな彼女に当たり前のように寄り添う影がある。
「アラン、重たいものは浮遊呪文を使いましょう」
すっと彼女の手から物を取り上げ、何の曇りもなく代わりに呪文を放つレギュラス。
その声は優しく響くが、同時に確信に満ちていた。
アランが床にしゃがみ込み、長く垂れた髪をまとめようとする。指が乱れを整える前に、背後からレギュラスの手が伸びる。
そっと、その髪を掬い上げ、優しくまとめる。
触れ方は柔らかだが、拒む隙などなかった。
――もう、どんな言葉で制止しても彼には届かないのだろう。
彼は自らの信じる未来を疑うことなく、二人で歩む日々を揺るぎなく思い描いている。
アランはただ、静かにそこに立つしかなかった。
声も出せず、理も尽くせず。
押し寄せる信念の力の前で、彼女は小さな葉のように震えて立ち尽くしていた。
そして心の奥底で、誰にも伝えられぬ恐怖と痛みにひそかに身を固くしていた。
屋敷の上階。
夜の名残を漂わせた薄暗い廊下に、アランの小さな足音と、磨き布の擦れる微かな音が続いていた。
ランプに照らされる大理石の床は寸分の汚れも許されず、彼女は黙々とその務めに専念していた。
ふと、前方の重厚な扉が目に入る。オリオンとヴァルブルガの寝室――屋敷の中でもっとも近づきたくない場所の一つ。
普段ならば足早に過ぎ去るのだが、その日は違った。
扉の向こうから、激しい声が突如として耳を打ってきたのだ。
「だから言ったのよ! リシェルの娘をこの屋敷に連れてくることは反対だと!」
ヴァルブルガの金切り声。
耳を突き破るようなその叫びに、アランは思わず磨き布を取り落としそうになった。
「母親の血が純血であるならば、あとは男児さえ産んでくれれば家の名は保たれる」
冷たく抑制されたオリオンの声が返じる。
その声に怒りの火花が散るのではなく、氷の塊が床に投げつけられるような重みがあった。
「そんな……あんな卑しい女の娘が、子供の母でいいというのですか!」
ヴァルブルガの言葉は毒針のように鋭く、アランの耳を刺した。
思考の奥にまで侵入してくる蔑みの響き。
耳を塞ぎたいほどの苦痛を伴い、心臓を直接掴まれるようだった。
「男児の誕生に代えられるものなど、存在しない」
オリオンの声は一点の揺らぎもなく、断言を突きつけてきた。
――母が、罵られている。
その事実に気づいた瞬間、アランの身体は強張った。
自分の母、リシェル。
彼女は確かに高位の貴族の生まれではなかった。
だが、父の目に見初められ、誇りを持ってセシール家へ迎えられた。アランは幼い頃からそのことを心の支えにしてきた。
自分は「卑しい娘」ではない。
母は堂々と夫に選ばれ、愛された――その事実が自分の生きる根であり誇りだった。
それなのに。
ヴァルブルガの毒を含んだ声は、その誇りを容易く切り裂いてしまう。
母を「卑しい女」と呼ぶその冷酷な言葉が、胸を引き裂き、血の滲むような痛みとなって押し寄せた。
喉に熱がこみ上げ、目の奥が焼ける。
唇を強く噛んでも、込み上げる悔しさを抑えることはできない。
――私の母は卑しくなんかない。
――胸を張って生きた、誇りある人なのに。
拳をぎゅっと握りしめる。
指先が爪で痛むほど強く。
それでも痛みの方がまだ救いに思えた。
この場に立ち続ければ、声を荒げてしまいそうだった。
主に背くなどあり得ない。あってはならない。
だからこそ、アランは足を震わせながらも、静かにその場を離れた。
背中に残り続けるのは、まだ交錯を繰り返す夫婦の声。
廊下は薄暗く、息苦しいほど冷たく硬い。
けれど胸の内に燃えるのは、絶望に似た痛みと、消せぬ怒りだった。
その炎は声にも涙にもならず、ただ固く結ばれた唇の奥で燃えるほかなかった。
重苦しい扉がゆっくりと開かれると、そこには常闇に沈んだ広間が広がっていた。
高い天井は闇に溶け、明かりを灯す炎さえも異様なほど細く震えている。
中央には、薄闇をも支配するかのように「何者か」が鎮座していた。
空気そのものが圧縮され、震え、咽喉を締め上げる。
言葉を発するよりも早く、魂の奥底が本能的に屈服を強いられる。
ほとばしる威圧感は、レギュラスの背筋を冷たく縛り付け、全身の血を凍らせた。
傍らにいるのは父オリオン。その瞳に一片の迷いもなく、彼とともにゆっくりと前進する。
二人は中央に至り、その場で跪いた。
硬い石床が膝を突き抜けるように痛む。
しかし、その痛みは心を奮い立たせるよりも、畏怖ゆえの震えを一層際立たせた。
「これはこれは――」
闇を引き裂く低い声が降る。
「我が友、オリオンの息子ならば、信頼に足る者であること間違いなしだな」
影に覆われた存在の声は、嗜虐的な甘美さを孕みながらも、聞くものからすべての選択肢を奪い去る残酷さを持っていた。
その一言で、抗うなどという可能性が粉々に砕け散る。
――この場で、ひれ伏す以外に生きる道はない。
「レギュラス・ブラックと言ったな」
低い笑いとともに名を呼ぶ声が、鋭い鞭のように鼓膜を打つ。
「どうだ、俺様のために働けるか?」
問いかけは優しくすら聞こえるのに、その実、答えが一つしかないのは明白だった。
圧倒的な支配の下で、「否」という言葉を発する者は即座に消される――そんな確信が空気に充満していた。
胸の奥底まで震え、呼吸さえ上手くできない。冷や汗が頬を伝い、それでもレギュラスは唇を開いた。
「……はい。命をかけて忠誠を誓います」
声はかすかに震えていたが、それ以上の決意がその言葉に宿っていた。
恐れを超えて。
死の気配の淵を超えて。
――何よりも、アランを失うことなど比べ物にならないほど恐ろしい。
その一念が彼の心を支えていた。彼女を守り、彼女を妻とする。
その未来のためならば、どのような闇にも屈す。
誇りも命も差し出して構わない。
傍らのオリオンが静かに横顔を傾ける。闇に濡れるその表情には、満足と誇りの色が確かに灯っていた。
ヴァルブルガと激しく衝突し続け、声を荒らげられるたびに決断が揺らぐ父の姿を、レギュラスは知っていた。
母の執拗な反対に押され、せっかく結んだ取引が撤回されるのでは――そんな疑念に胸を締め付けられた日々もあった。
だが今――父は確かに、息子を誇らしげに見つめている。
闇の帝王を前にして、忠誠を誓う姿を。
我が子が選ばれたことを、揺るがない事実として認めている。
取引は成り立った。約束は守られたのだ。
その実感が、レギュラスの心の底にどっと安堵を流し込む。
冷たい石床に跪いたままでも、その胸中は燃えるように熱く、未来を掴み取ったという確信に満ちていた。
――これで良い。アランを守れるなら、闇すらも我が力としよう。
彼の瞳には恐怖と決意が入り混じり、しかしその炎は揺らぐことなく、まっすぐに燃え続けていた。
闇の帝王の広間を後にし、冷気をまとった夜の風に押されるようにしてブラック家の屋敷へ戻った時、レギュラスの歩みは迷うことなくまっすぐアランの部屋へ向かっていた。
胸の奥で燃え立つものがあまりに強く、父と並んでいた足が自然と先を急いていた。
けれど、その歩みをふと止めた瞬間があった。
背後から、低く静かな声が背中を打ったからだ。
「レギュラス。言っておくがな」
オリオンの声音は熱も怒りも孕まず、それ故に一層の重みを持って響く。
「アランのことは確かに認めた。だが、ロズィエ家の令嬢を雑に扱って良いわけではない。その意味はわかっているのか」
振り返れば、父の瞳は暗がりにあってもなお微塵の揺らぎを見せない。
凍るように冷たい眼差しの奥には、「誇りと血筋を損なわぬこと」という一族の鉄則が刻まれているのが感じられた。
「もちろんです」
レギュラスは即座に返事をした。
その響きは揺るがず、誓約にも似た強さを帯びていた。
だが、胸の奥底では複雑な思いが燻り続けていた。
――アランへの想いは、誰とも比べられぬ唯一無二のものだ。
しかし同時に、名門ロズィエ家から迎え入れられるカサンドラに対しては、決して無礼を犯してはならない。
その敬意と尊厳を守ることは、自分の背負った名と責務の一部でもある。
矛盾する二つの重み。
その狭間で、レギュラスは火のような愛情と氷のような義務を抱えながらも、決壊させぬよう自らを律していた。
父の沈黙の視線をそのまま背に受け、彼は再び歩を進めた。
深い廊下の果て――アランの部屋の扉の前へ。
ゆっくりとノブを回し、扉が開かれる。
そこにいたのは、小さなランプの光に縁取られたアランだった。
透き通るような翡翠色の瞳が、静かな驚きを帯びて彼を見上げている。
その視線の奥に自分が映っているのを見た途端、レギュラスは胸の奥から大きな解放と充足が溢れ出すのを抑えきれなくなった。
言葉を交わすよりも先に、一歩、また一歩と彼女へ近づく。
アランが息を呑むよりも早く、その唇へそっと触れた。
「……戻りました」
押し殺した囁きが、口付けの間際に絡んだ。
そこには一日のすべてを終え、帰り着いた安らぎを伝える意味があった。
「愛している」
息を吐くように心の底から零れ落ちた。
声として形にならなくても、そのすべての思いが口付けの中に注ぎ込まれていた。
唇に重なる温かさには、言葉では尽くせない熱情と、穏やかで揺るぎなき誓いが溶け込んでいた。
彼女を守る。手放さない。
共に歩む未来を掴み取る――その決意が、沈黙の深奥にまで染みていった。
ランプの炎が小さく揺れ、二人の影を一つに重ねる。
その静謐な光景の中で、レギュラスの胸にはただ甘美な充足が募り、アランの胸には言葉にならないざわめきが深く広がっていった。
屋敷の門を背にした瞬間、アランの胸の奥にふわりと広がる解放感があった。
石畳を踏みしめる足どりは、まるで知らず知らず浮かんでしまう羽根のように軽い。
ずっと張りついていたヴァルブルガの冷たい監視の瞳も、オリオンの圧し掛かる警告も、そしてなによりレギュラスの息苦しい執着さえも――すべてがこの門の外に置き去りにされたのだ。
腕に提げた買い物かごが少し揺れるたび、アランは深呼吸をするように伸びやかさを感じていた。
ひとときの自由。
せめて食材を求めるこの時間だけでも、自分は自分であってよい――そう信じたかった。
そのとき、不意に手を引かれた。
「ひゃっ……」
思わず小さな声を上げて振り向いた瞬間、目に飛び込んだのは見慣れた灰色の瞳。
「……シリウス」
思考が一瞬だけ恐怖に凍り付いたが、彼の目に宿る温かい光に触れた途端、心臓はどくんと大きな鼓動を打ち、頰に熱が上がった。
恐怖は溶け、胸がきゅんと締め付けられる。
「会いに来た」
その何気ないひとことが、どんなに待ち望んだものだったか。
アランの胸いっぱいに幸せが押し寄せ、堰を切ったように笑みが浮かんだ。
二人は並んで、食材を選びながら歩いた。
仲良く並んで大根の白さや果物の色を楽しげに眺め、その一歩一歩を宝石のように感じた。
ありふれたはずの買い物が、屋敷では決して得られない自由と幸福を輝かせていた。
「ちょっとだけ、寄り道しよう」
無邪気な誘いに、アランは夢中になって頷いた。
小さなカフェの窓際。
午後の陽射しが室内に差し込み、テーブルの上に落ちた光は淡い金色の輪郭を描いている。
紅茶の湯気が立ちのぼり、ガラスの向こうで人々が笑いながら行き交う。
目の前にはシリウス。彼の指先が滑らかにカップを傾けるたび、陽の光が彼を優美に縁取り、まるで永遠にその姿を焼きつけたい衝動が込み上げた。
「リーマスから聞いたんだ」
彼は笑いながら、新しい菓子のことを説明する。
アランは初めて見るような小さな可憐なケーキを口に運び、瞳を輝かせた。
「すごく美味しいわ」
ふたりはただ、恋人のように談笑する。
純血主義も、家柄も、義務も――すべてが置き去りにされた時間。
ここに存在しているのは、ただ「シリウスとアラン」という二人だけだった。
甘い菓子の香りと、紅茶の芳醇な温もりに包まれながら、アランは思った。
――こんな日常が、永遠に続けばいい。
シリウスがふと眼差しを真剣にし、カップをテーブルにそっと置いた。
視線を逃さずに、彼はアランの横顔を見つめる。
「なあ、アラン――いま幸せか?」
唐突に落とされた問い。けれどそこに揺らぎはなく、真摯さだけが澄み渡っていた。
「……うん。すごく幸せよ」
アランはとびきりの笑顔で応えた。それは誇張でも、偽りでもない。本当の心からあふれた言葉だった。
たとえ一瞬であっても、この瞬間を心に刻んでおきたい。
この笑顔を、この温もりを、この穏やかな午後を。
後にどんな苦難が待っていようとも、この時だけは揺るがぬ宝石のように抱きしめたい。
シリウスはそっとアランの手を握った。
指先から伝わる温かさに、彼女は目を伏せ、頬を染める。微笑みが自然と漏れた。
繋がれた手の中にあったのは、名も、身分も、血筋もいらないただの「絆」。
愛しい人と人とを結ぶ、確かな温もりだった。
窓の外では陽がゆるやかに傾き始め、黄金色の光が店内を満たしていく。
小さなテーブルを挟んで互いを見つめる二人の姿は、その光に照らされ、いつまでも消えぬひとつの絵画のように輝いていた。
アランの胸いっぱいに、小さな幸せが眩しいほど満ちあふれていた。
屋敷に戻ったアランは、そのまま厨房へと足を踏み入れた。
広い大理石のカウンターに材料を並べ、白いエプロンの紐を腰にきゅっと結ぶ。
その所作ひとつにも、彼女の心の奥に染みついた「仕える者の矜持」が宿っていた。
まずは仔牛肉に塩を振り、砕いた香草を丁寧にすり込んでいく。
指先が淡く魔力を宿し、肉に馴染む度にほのかな香りが立ちのぼった。
香草の清涼な香りが空気を浸し、わずかに重苦しい屋敷の匂いを和らげる。
玉ねぎ、人参、セロリを用意すると、魔法の包丁を一振り。
すっと舞うように動く刃が、一枚一枚を均一に薄切りへと整えていく。
鍋にバターを落とし、音もなく広がる黄金色の泡の中へ野菜を送り込むと、芳醇な香りが立ち上った。
アランは杖を軽く振り、オリーブオイルを均等に降らせ、木べらで丁寧に炒め続ける。
白ワインの瓶を取り、瞬時に魔法で冷やすと、鍋に注ぐ。
ふわりと広がる香りは優しく、儚い。続いてバターでソテーされた根菜、瑞々しく魔法で鮮度を保ちシャキリと音を立てるルッコラやパプリカ……。
ひと手順ごとに心を込め、アランはひたすら手を動かしていた。
それは一種の祈りにも似ていた。自分にできるのは、ここで精一杯の務めを果たすことだけ。
扉が静かに開く。
アランが顔を上げると、カサンドラが軽やかに歩み寄ってきていた。
ドレスの裾が床にさらりと音を立てる。
「申し訳ないわ、手間のかかる料理を頼んでしまったわね」
その声音は穏やかに聞こえた。
だがアランの胸には、ほんの少し抑え込まれた棘のような気配が突き刺さる。
「いえ、とんでもございません」
深く頭を下げて答える。
だが視線を戻した手元はわずかに震えていた。
カサンドラは、アランの瞳を見つめながら、わずかに声音を低めた。
「レギュラス様が大切になさっているあなたに頼んではいけませんわね」
突きつけられた言葉に、アランの胸がきゅっと凍りつく。
どう返すべきか……何を言えば敵意を煽らずに済むのか。
まるで答えのない難題を突き付けられたようで、曖昧に微笑むことしかできなかった。
きっと、カサンドラにはもう知られている。
――レギュラスが父オリオンと取引し、「妻」として自分を求めたことを。
それがどれほど彼女の誇りを傷つけることか、簡単に想像がついた。だが口にされてしまうと、申し訳なさと居た堪れなさで胸が潰れるように苦しかった。
その時、足音。レギュラスが現れる。
「カサンドラ、お手柔らかにお願いします」
柔らかく笑った声音。
しかし、アランにはそれが挑発にも聞こえた。
カサンドラは唇の端を上げ、穏やかに応じる。
「もちろんです。レギュラス様が目をかけていらっしゃる方ですもの。私にとっても大切にしたい方ですわ」
「ええ、そうしてくださると僕も安心です」
静かに交わされたやり取り。
だが、アランの胸には冷たい重みが広がっていった。
――もうやめてほしい。
レギュラスが無邪気に挑発のような態度を取ることも。
カサンドラが真心とは思えぬ言葉を柔らかな笑顔で重ねることも。
その二人の間に挟まれて、自分はいったい何者なのか。
ただの従者でしかない自分。
彼らの視線の交錯は常に自分をすり減らし、自分の意志など存在する余白すら見つからない。
胸の奥を締めつける虚しさと苦しさ。
それでもアランは鍋の中を見つめながら、表情ひとつ動かさず、ただ食材をかき混ぜ続けた。
咳払いひとつで壊れそうなこの均衡の中、唯一確かなのは、言葉のすべてが剣となり、自分に突き刺さっているという痛みだった。
それを呑み込みながら、アランは今日も黙々と料理を進めていた。
外の空はゆっくりと明け始めていたが、夜と朝の境はまだ曖昧で、世界そのものが呼吸を止めているような時間だった。
窓辺から差し込む薄明かりが、広い厨房の冷たい石床を斜めに照らし出す。
その光はまるで、誰かの夢の残り香のように淡く揺れている。
アランはひとり、朝食の支度に取りかかっていた。
鍋の中でバターが静かに溶け、卵を割るたびに柔らかな音が響く。
ナイフの刃がまな板を軽く叩くたび、空気の中にかすかなリズムが生まれ、
それがまるで音楽のように室内を満たしていた。
彼女の動きには無駄がなく、静かで、流れるようだった。
しなやかな指先が器を扱うたびに、どこか神聖な静謐が漂う。
まるで朝という一日の始まりを、丁寧に祈るように整えているかのようだった。
火の上に鍋を置き、手際よくスープを煮立てていたとき――
背後で、かすかな足音がした。
控えめだが、確かに人の気配を含んだ音。
アランが振り返るより早く、落ち着いた声が響いた。
「手伝います。何からすればいいんでしょうか」
その声に、アランの手がふっと止まった。
いつもならまだ夢の中にいるはずの時間。
振り向けば、レギュラスがそこに立っていた。
整った寝癖もつけぬ髪、白いシャツの袖をまくり上げ、
どこか少年めいた表情で立っている。
彼の瞳には、珍しく柔らかい光が宿っていた。
「レギュラス……もう少しお休みになっていればよかったのに」
驚きと呆れが半分ずつ混じった声で言うと、彼は少し照れたように微笑んだ。
「アランが働いているのに、自分だけ休んでいられませんよ」
その口調は真剣で、けれどどこか誇らしげだった。
まるで何か大切な約束を果たすかのように、彼はキッチンの中央に立つ。
アランはため息を飲み込んだ。
決闘呪文でも護身魔法でも、彼は誰よりも的確で、冷静で、強い。
だが包丁やフライパンを手にした瞬間、彼の動きはまるで雛鳥のようにぎこちない。
案の定、杖を振るう手には繊細さが欠け、鍋の火は一瞬で強く燃え上がった。
「レギュラス、それでは――あっ、パンが焦げています!」
小さな黒煙が上がり、香ばしさを通り越して焦げた匂いが立ちこめた。
「すみません……そんなに火力を上げたつもりはないんですが、勝手に……」
彼は困惑した表情で、黒くなったフライパンを見下ろす。
「強すぎる魔力が反応してしまうんですよ。少し抑えて……」
そう言う間にも、彼は次の作業に取りかかろうとしていた。
「そんなに入れてはいけません。辛くなりますから」
「これくらいなら大丈夫かと……」
「鍋の中、もう真っ赤ですよ」
「……本当だ」
煮込みの中から立ち上る湯気が、朝の光をぼんやりと染めた。
彼は額にかかる前髪を掻き上げながら、苦笑いを浮かべる。
その表情には、少年らしいあどけなさが滲んでいた。
「水をかけるときは優しく。圧を弱めないと――」
「わかっています」
だが次の瞬間、魔法の水流が勢いよく弾け、台の上を奔った。
整然と並べていた皿たちが、一斉に悲鳴をあげるようにヒビを入れた。
静寂が落ちる。
二人とも言葉を失い、しばらくその光景を見つめた。
やがて、レギュラスがゆっくりとため息をつき、苦笑を漏らした。
「……この家の水圧は、どうやら強すぎるようですね」
その場違いな冗談に、アランは唇の端をゆるめる。
笑うつもりではなかった。
けれど、どうしても笑ってしまった。
朝の空気がわずかに柔らかく揺れる。
「……レギュラス、もう座っていてください。あとは私がやりますから」
「ですが……」
「座っていてくれたら、それで十分です」
アランはそう言って、壊れた皿に杖を向けた。
修復の呪文を静かに唱えると、皿の割れ目を光が走り抜け、
一枚一枚がもとの形を取り戻していく。
淡い輝きの中で、陶器の白が朝の光を受けて柔らかく輝いた。
「……美しいですね」
レギュラスが、無意識にその光景を呟いた。
アランは手を止め、わずかに頬を染める。
「何が、ですか」
「あなたの手元です。……いや、全部が」
その言葉はまるで息のようにかすかで、
彼女が答える前に、光はふっと消えた。
「他にできることがあれば、何でも言ってください」
どこか照れたような声。
アランは振り返り、ふんわりと微笑んだ。
「座っていてくれたら、それで構いません」
その声は柔らかく、まるで温かな毛布のように静かだった。
拒むでもなく、叱るでもなく、ただ優しく包み込む響き。
レギュラスの肩の力が抜け、彼は素直に椅子へ腰を下ろす。
窓の外では、夜と朝のあわいが完全にほどけていく。
薄明の光が静かに射し込み、厨房の床を金色に染めた。
焦げたパンの匂いも、割れた皿の跡も、すべてが朝の柔らかさに溶けていく。
二人の間に漂う空気は、穏やかで、静かで、どこか切なかった。
言葉にならない安らぎが、そこには確かにあった。
束の間のこの時間だけは、何もかもが遠く、
ただ二人の笑い声だけが、優しく屋敷の奥へと響いていた。
朝の光がほんのりと差し込む厨房。
アランは湯気の立つカップを両手に抱え、慎ましい所作でレギュラスの前にそっと置いた。淡い琥珀色の液面がわずかに揺れ、香り高い紅茶の芳香が二人を柔らかに包む。
眉を和らげたレギュラスは、その一杯に指先を触れながら小さく苦笑した。
「すみません、仕事を増やしてしまいましたね」
前夜から重なる失敗の数々を思えば、それは当然の言葉だった。厨房の床にはまだ修復魔法の無数の痕が残り、割れて元に戻された皿が微かに軋む音さえ立てている。
けれどアランは、ごく自然に、肩を揺らす程度の穏やかな微笑で応じた。
「どうぞ、召し上がってくださいませ」
彼女は本来なら人目を憚り、決して一使用人として主に椅子を差し向けることなどなかった。しかしこの早朝の、まだ誰も目覚めぬ屋敷の中では、わずかな安らぎと親しみが許されたような錯覚に包まれてしまうのだ。
レギュラスは紅茶を一口含み、深く吐息を落とした。早起きしてまで彼女と片時を共にしたいと思ったその気持ちと、結局は足手まといにしかならなかった己の不器用さに、どこか照れくささを覚える。
その時だった。
「……随分と賑やかだな」
低く落ち着いた声が、不意に背後から割り込んだ。二人の肩が同時に跳ね、アランは慌てて立ち上がり、片膝を折るように深く礼を取る。
「おはようございます、オリオン様」
彼女の声は丁寧で淀みなくとも、剣が横切るような緊張が喉を締め上げているのが自分でも分かった。
「おはようございます、父上」
レギュラスも短く、しかし整った礼を返す。
袖を揺らしながら入ってきたオリオンは、重苦しい威圧そのものの存在感を部屋に広げた。彼の眼光は鋭いが、声はあくまで静謐だ。
「ロズィエ家の令嬢を招待しているのだから、くれぐれも失礼のないように」
その言葉は、一見すれば当たり前の忠告。しかしわずかに皮肉めいた影がそこに潜んでいた。意識すればするほど、アランとレギュラスの間に見えぬ線を引き、踏み越える危うさを示している。
アランの胃はその瞬間きりきりと痛みを覚えた。肩を正しく落として息を吸い込むが、胸の奥に残る硬い重みは消えない。彼女がレギュラスと交わす小さな言葉や、ささやかな笑みが、いつ監視する眼によって裁かれるか分からぬ恐怖がそこにはあった。
オリオンは視線を逸らし、背を向けた。
「レギュラス、少し話そう」
ただ一言、静かな声。だがその歩む背は重圧と威命に満ち、階段を上がるその動作ひとつが「来い」と告げているのは明らかだった。
レギュラスは短く頷き、逡巡の欠片すら見せずにその後を追った。
室内に残されたのは、ただアランひとり。
静まり返った空気に、自分の心臓の鼓動だけが痛いほど響く。椅子に腰を戻し、両手を固く組むと、胸の奥に沈んでゆく重い感覚を誤魔化すことはできなかった。
目を落とした視線の先では、まだ紅茶の表面に、小さく波紋が残っていた。
その小さなゆらめきは、彼女の心のざわめきそのもののようにも見えた。
ブラック家の威厳を凝縮した書斎は、訪れるたびに息を詰めるような重圧を放っていた。
磨き上げられた黒檀の机には、幾筋もの光沢が鋭く走り、整然と並ぶ革装の書物が壁一面を覆い尽くしている。
そのすべてが、この家の歴史と権威を象徴していた。
高い天井には古いシャンデリアが吊るされ、蝋燭の光が揺らめくたび、影が壁を這う。
壁面を支配する一族の肖像画たちは、誰もが無言のまま、冷ややかにこちらを見下ろしている。
彼らの眼差しの中に足を踏み入れれば、誰であれ一瞬でその意志を試されるような錯覚に囚われた。
ここは、思想と血の系譜が支配する場所。
正義や愛情といったものは、一歩たりとも許されぬ領域だった。
レギュラスはその中心に立っていた。
背筋を伸ばし、正面に座る父オリオンの視線を真正面から受け止める。
その眼差しは冷たい刃のように研ぎ澄まされ、まるで息子の心を切り裂いて覗き込もうとするかのようだった。
微動だにしない沈黙。
暖炉の火がぱちりと爆ぜた音が、異様なほど響く。
部屋の空気は重く凝り固まり、肺に吸い込むたび痛みを覚えるほどだった。
「レギュラス」
オリオンの声は低く、まるで石を擦るように重い。
「何を考えているのか、聞きたい」
主語のない問い。
しかし、レギュラスには理解できた。
その言葉の矢が向けられているのは――たった一人、アラン・セシール。
彼女の名を口に出さずとも、父の意図は明白だった。
喉の奥がかすかに鳴る。
予感はあった。
いずれこの話題を避けては通れぬことを。
本来なら、もう少し時を待つつもりでいた。
ホグワーツを卒業し、功績を立て、誰もが認めざるを得ない地位を築いた上で――父に話すつもりだった。
だが、今この瞬間、父の前に立ってしまった以上、退く道はなかった。
手のひらの中で血が巡る音を感じる。
恐怖はある。
けれど、それ以上に譲れぬものが胸の奥に燃えていた。
レギュラスは息を深く吸い、言葉を鋭く研いで吐き出した。
「アラン・セシールを、妻として迎えたいと思っています。
……その見返りに、何を成し遂げればよいでしょうか」
言葉が放たれた瞬間、空気が凍った。
書斎の中に響いたのは、彼自身の声の残響だけ。
それが、やけに大きく反響して聞こえた。
沈黙。
父の眼差しは微動だにしない。
その沈黙の重さが、刃物のように彼の神経を削っていく。
息をすれば砕けてしまいそうなほどの緊張。
だが、レギュラスは姿勢を崩さなかった。
恐怖を押し殺し、ただ誇りだけを支えに立ち続けた。
――そして、長い時間の果てに、オリオンの唇がわずかに動いた。
短く、冷たい笑いが漏れる。
「……妻に、だと?」
視線がわずかに逸れ、息を吐くように続けられる。
「まるでロイクのようなことを言い出したな」
ロイク――その名を聞いた瞬間、レギュラスの胸が強く打った。
かつての一族の男。忠誠と功績を積み重ね、ついには身分を越えて愛する女を妻とした人物。
だが、彼は決して本家筋ではなかった。
自らの血に誇りを持つオリオンにとって、その名を引き合いに出されることは、侮辱にも等しい。
父の声は、氷のように冷たく澄んでいた。
「お前はまだ何一つ、成し遂げてはいない。……だが」
一拍置いて、言葉が鋭く空気を切り裂く。
「闇の帝王が、新たな忠実な僕を求めておられる。デスイーターとしてふさわしい者を、私が推薦するつもりだ。お前に、その覚悟があるか?」
静寂が落ちた。
火のはぜる音さえ遠く聞こえる。
胸の奥が凍りつく。
それは想定の外――だが、避けられぬ運命のように感じられた。
父の黒い瞳が、再び息子を貫く。
試されている。
この瞬間に、彼のすべてが測られている。
恐れも、迷いも、許されない。
レギュラスはわずかに顎を上げ、声を放った。
「はい。必ずや、闇の帝王の信頼を得てみせます。このブラック家の名誉にかけて」
その声は若さの中に鋼の芯を帯びていた。
恐怖も、迷いも、すべてを飲み込んだ確信の音。
父の前で、彼は初めて自らの命を取引に差し出す覚悟を見せた。
オリオンの口元が、ゆっくりと釣り上がった。
それは、笑みとも、勝利の証ともつかぬ曖昧なもの。
「……良いだろう。お前はあの方の忠実な僕となれるだろう。期待しているぞ、レギュラス」
その言葉は、祝福ではなく命令だった。
承認と同時に、重く冷たい鎖が彼の足元に絡みつくのを感じる。
レギュラスは深く頭を垂れた。
背後の肖像画たちの視線が、一斉に自分へと注がれる気がした。
それはまるで、彼が新たな血の誓いを立てた証人のように。
胸の内で静かに響く。
――これが、父の愛の形なのだと。
――これが、ブラック家に生まれた者の宿命なのだと。
握りしめた拳の中で、指先が白くなる。
アランの名を思い浮かべた。
その面影が、唯一の光のように心の闇を照らした。
だが同時に、その光さえ、今まさに闇へと呑み込まれていく気がした。
炎がぱち、と鳴った。
揺れる灯が、レギュラスの瞳の奥で滲む。
その決意は、もはや少年のそれではなかった。
――父に認められるために。
――彼女を手に入れるために。
そして、彼は静かにその運命へと歩み出した。
レギュラスは深く頭を垂れたまま、父の視線から逃れるように身を翻した。
音を立てぬよう扉を押し開き、重く閉ざされた書斎の冷気から、夜明けの廊下へと足を踏み出す。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
まるで氷の鎖が断たれたように、肺の奥まで一気に空気が流れ込み、抑え込まれていた鼓動が暴れるように高鳴った。
息が乱れる。膝がかすかに震える。
それでも、彼は歩みを止めなかった。
廊下の両脇には、古い肖像画がいくつも並び、夜の名残を背に沈黙を保っている。
どの顔も、代々のブラック家の威光を象徴するように冷たく、誇り高く、見下ろすようなまなざしを投げかけていた。
しかし今の彼は、そこに怯むことはなかった。
胸の奥には、確かな熱が灯っていたからだ。
――闇の帝王。
父の口から出たその名は、恐怖を孕んでいた。
純血を掲げ、力こそが正義とする思想。
魔法使いの中の魔法使い。
ほんの一つの過ちで命を落とす世界。
多くがその名に跪き、畏れ、狂気と忠誠の境に沈む。
けれど、今のレギュラスにとっては、もはや恐れる理由はなかった。
それどころか、その「闇」でさえ、彼には救いに見えた。
――忠誠を捧げ、その信頼を勝ち得れば、アランを「妻」と呼べる。
その未来が開かれるのならば、どんな代償も惜しくはない。
血も光も、すべて燃やして構わない。
彼女を抱くことができるなら――それが、自分の生きる意味だと。
廊下を進む彼の足取りは、震えを秘めながらも確かだった。
壁を滑る月明かりが、彼の横顔を淡く照らし出す。
その瞳の奥には、恐れを超えた決意の炎が宿っていた。
闇を受け入れ、なお光を掴み取ろうとする、若きブラックの炎だった。
書斎から離れたレギュラスの足取りは、次第に軽やかになっていく。
廊下の冷気が肌を撫でても、胸の中には奇妙な温もりが広がっていた。
あの重圧、あの冷たい空気の中で交わされた父の言葉が、今では希望の証に変わっている。
――叶う。
その確信があった。
父は否定しなかった。
条件を突きつけられたとはいえ、息子の願いを真っ向から退けはしなかった。
それは、許されたということだ。
闇の帝王への忠誠。命を賭すに等しい誓い。
だが、それさえ果たせば―― アランを「妻」として迎えることができる。
父が、あのオリオン・ブラックが、自ら口を閉ざしながらも事実上の承認を与えたのだ。
その意味は、レギュラスにとって天啓にも等しかった。
もう、何も恐れることはない。
隠れる理由も、遠慮する理由もない。
胸を張っていい。
彼はブラック家の嫡子として、愛を貫く権利を得たのだ。
自室へ戻ると、窓から柔らかな朝の光が差し込み始めていた。
カーテンの隙間を縫って、銀色に近い薄明かりが床を滑る。
その光の中で、アランが静かに布を畳んでいた。
規則正しく動く指先。
髪の先が肩を滑り、頬にかかる。
その何気ない仕草さえ、彼には愛おしくてたまらなかった。
レギュラスは思わず歩を速め、その背へと手を伸ばす。
そっと、彼女の肩に腕を回した。
「レギュラス、いけません……」
小さな声が震えた。
拒絶というよりも、恐怖に似た響き。
その声の奥にあるのは、昨日までに積み上げられた不安の残滓。
カサンドラの牽制。屋敷の視線。
それらが、まだ彼女の中に深く刺さっているのだ。
だが、レギュラスの声音は静かで揺るぎなかった。
「アラン、もう気にしなくていい。全て、終わりました」
アランは驚いたように顔を上げた。
長く伏せられていた翡翠の瞳が、戸惑いに揺れる。
彼女の視線が問いかけている。――「何が?」
その問いを受け、レギュラスの胸は満ちた。
どう言葉にすれば、この歓びと安堵が伝わるだろう。
あの父の厳格さを、彼女は知らない。
一言の承認がどれほどの重みを持つのか、きっと理解できない。
だが、それでも伝えたかった。
この瞬間を、誰よりも早く彼女に告げたかった。
「父が、あなたを妻として迎えることを許してくれました」
その言葉は、祈りにも似ていた。
声は穏やかだったが、その奥に震えるような熱がこもっていた。
彼にとって、それは生涯を賭けて勝ち取った赦しだった。
――もう、あなたは従者ではない。
――誰にも怯えず、私の隣に立てばいい。
そのすべての意味が、短い一言の中に詰まっていた。
アランの唇がわずかに震えた。
呼吸を忘れたように、目を見開く。
驚き、困惑、そして理解を拒むような沈黙。
頬に血の気が引き、瞳の奥で光が迷う。
青ざめたわけでも、泣き出すわけでもない。
ただ、「現実」として受け止めるには、あまりにも重すぎる事実が胸に落ちた。
レギュラスには、そのすべての表情が愛おしかった。
彼女が震えるその瞬間も、目を泳がせる仕草さえも。
どんな言葉よりも、その動揺が、彼にとっては確かな存在の証だった。
――これが始まりだ。
闇をくぐり抜け、ようやく掴んだ未来。
どんな犠牲も厭わない。
この女性を「自分のもの」として抱き寄せるためならば。
レギュラスはその手を取り、指先を強く絡めた。
翡翠の瞳を真っ直ぐに見つめる。
その眼差しには、もはや迷いの影はなかった。
ただ、若き当主としての確信と、愛を誓う男の情熱だけが宿っていた。
そしてアランは――その決意の重さに息を呑み、胸の奥を冷たい手で掴まれたように感じていた。
彼の愛の中にあるものが、あまりにも強く、熱く、そして危ういことを、
まだ言葉にできないまま、ただ静かに見つめ返していた。
朝の光が二人の間に落ち、淡い影を交錯させる。
その光はあたたかく、それでいてどこか冷たい。
祝福のようでありながら、予感めいた痛みを孕んでいた。
――愛が始まる音がした。
だがそれは同時に、終わりの始まりでもあった。
レギュラスの声は、夜明けの光のように澄んでいた。
「――父が、あなたを妻に迎えることを許可してくださった」
その言葉は、まるで祈りを告げる聖句のように静かで、揺るぎなかった。
彼の瞳には一片の曇りもなく、頬には少年のような輝きが宿っている。
そこに疑念の影はなく、ただ純粋な歓びだけがあった。
世界のすべてが祝福に満ちていると信じて疑わない者の声音だった。
しかし、その響きが空気を震わせるたび、アランの胸の奥には、ひとしずくずつ冷たいものが落ちていった。
凍えるような静けさが、体の芯にまで染み込んでいく。
言葉を発することさえ躊躇われるほどの、深い絶望に似た感情。
――妻として迎えることを、許した?
あの、オリオン・ブラックが?
思考が追いつかない。
レギュラスの幸福に満ちた表情が、かえって現実味を失わせていく。
その笑顔はまぶしいほどに清らかで、けれど、現実の常識からあまりにもかけ離れていた。
名門ブラック家。
純血を誇りとする、英国でも最も古い血統。
正妻にはロズィエ家の令嬢――カサンドラが約束されている。
その家に仕えるただの従者にすぎぬ自分を「妻」に?
そんなことがあり得るはずがない。
彼女は自分がどんな身分で、どんな立場のもとにいるのか、痛いほど理解していた。
常識を超え、理屈を無視した奇跡。
だが、その奇跡には必ず代償が伴う。
オリオンが何の見返りもなく承諾するなど、あり得ない。
アランの胸の奥で、その確信が氷のように冷たく沈んでいく。
――何を差し出したの、レギュラス。
その問いが喉元まで上がる。だが声にならない。
唇を噛み、胸の内で必死に思考を追う。
この屋敷で一族の名を汚すことは、死よりも重い罪だ。
そんな父が、息子の恋情ひとつで心を動かすはずがない。
だからこそ、何かが差し出されたに違いない。
命に等しい代償が。
――もしかして。
頭の奥に、ひとつの言葉が閃く。
「闇の帝王」――
ぞっとするほど冷たい予感が背筋を撫でた。
オリオンが一族の名誉を保つために選ぶとしたら、その道しかない。
息子を、闇の側へと差し出すこと。
その忠誠と引き換えに、許しを与える。
それこそが「取引」だ。
胸の奥が締めつけられ、息が詰まった。
まるで心臓を氷の手で掴まれたように、鼓動が痛い。
喉が乾く。言葉を吐くことが、苦行のように感じられた。
――自分には、何もない。
身分も、誇りも、何ひとつ差し出せるものなどない。
だからこそ、彼が払った代償の重さが想像できてしまう。
それが怖かった。
そして何より、胸の奥にひそむ別の罪――
決して消せぬ、シリウスへの想いが、血のように疼いた。
この心を裏切ることは、死んでもできない。
だから、レギュラスがそこまでして自分を求めることが、ただ恐ろしかった。
「……一体、どんな取引をされたのですか」
やっとの思いで、アランは問うた。
声はかすれていた。
震えながらも、祈るような響きを帯びていた。
どうか――どうか、取り返しのつかないものではありませんように、と。
レギュラスはそんな彼女の恐れを見抜いたのか、優しく微笑んだ。
その笑みは春の陽光のようで、何の濁りもない。
「心配しなくて大丈夫です」
穏やかな声。まっすぐな眼差し。
「取るに足らないものでしたから」
その瞬間、彼はためらうことなく彼女を抱きしめた。
驚く間もなく、強い腕がアランの細い体を包み込む。
胸板に押しつけられた頬から、鼓動が伝わってくる。
その音は確かに生命の証であり、同時に彼の熱情そのものだった。
温かい。
けれど、その温もりの奥に、形の見えない影が蠢いている。
安堵よりも、胸をざわめかせる不安が増していく。
レギュラスの言葉が優しいほどに、その背後に隠された「何か」が際立っていく。
――取るに足らない?
そんなはずはない。
あのオリオンが、命を賭けぬ者に承認を与えるわけがない。
アランの視界がわずかに滲む。
目の奥が熱いのに、涙は落ちなかった。
ただ静かに、彼の肩に手を添え、言葉にならない悲鳴を胸の奥で押し殺した。
彼の胸に顔を埋めるほどに、愛しさと恐怖が同時にせり上がってくる。
この人は、きっともう戻れない。
その確信が、彼女の背を冷たくなぞった。
外では、朝の光がゆっくりと屋敷を照らし始めていた。
けれど、その光の下に立つ二人の影は、なお深く絡み合い、離れなかった。
あたたかいはずの抱擁が、どこまでも静かで、どこまでも残酷だった。
それからのレギュラスは、まるで全ての枷を解き放たれたかのようだった。父に認められたという事実は、彼から慎みを奪い去り、屋敷の中でさえもアランに遠慮なく寄り添わせた。
人目を気にする素振りは消え、誰であろうと隠さなくなった。その様子が、アランの心に恐ろしさを刻んだ。
――ヴァルブルガの冷たい視線も、カサンドラの射るようなまなざしも。
――それらが、彼には届かないのだ。
とりわけ鮮烈に思い出されたのは、カサンドラの忠告だった。
「レギュラス様を愛さないように」――
あの冷静な言葉が耳に蘇るたび、アランは胸を締め付けられた。まるで誓約を破ったかのように思われはしまいか。
その恐怖が、息をする余裕を奪った。
屋敷の日常は変わらない。アランは静かに仕事をこなしていた。魔法を用いた掃除は彼女にとって日々の習いであり、救いでもあった。
床に散らばる塵へ、小さな風の精霊を送り込む。淡い光を帯びた羽虫のような存在が舞い、柔らかに埃を払っていく。
棚を磨くときは、指先から灯す光で汚れを浮かび上がらせ、布でそっと拭い取る。手際よく、確実に。彼女自身の胸の動揺さえ、それで拭き清められるように思いたかった。
しかし、そんな彼女に当たり前のように寄り添う影がある。
「アラン、重たいものは浮遊呪文を使いましょう」
すっと彼女の手から物を取り上げ、何の曇りもなく代わりに呪文を放つレギュラス。
その声は優しく響くが、同時に確信に満ちていた。
アランが床にしゃがみ込み、長く垂れた髪をまとめようとする。指が乱れを整える前に、背後からレギュラスの手が伸びる。
そっと、その髪を掬い上げ、優しくまとめる。
触れ方は柔らかだが、拒む隙などなかった。
――もう、どんな言葉で制止しても彼には届かないのだろう。
彼は自らの信じる未来を疑うことなく、二人で歩む日々を揺るぎなく思い描いている。
アランはただ、静かにそこに立つしかなかった。
声も出せず、理も尽くせず。
押し寄せる信念の力の前で、彼女は小さな葉のように震えて立ち尽くしていた。
そして心の奥底で、誰にも伝えられぬ恐怖と痛みにひそかに身を固くしていた。
屋敷の上階。
夜の名残を漂わせた薄暗い廊下に、アランの小さな足音と、磨き布の擦れる微かな音が続いていた。
ランプに照らされる大理石の床は寸分の汚れも許されず、彼女は黙々とその務めに専念していた。
ふと、前方の重厚な扉が目に入る。オリオンとヴァルブルガの寝室――屋敷の中でもっとも近づきたくない場所の一つ。
普段ならば足早に過ぎ去るのだが、その日は違った。
扉の向こうから、激しい声が突如として耳を打ってきたのだ。
「だから言ったのよ! リシェルの娘をこの屋敷に連れてくることは反対だと!」
ヴァルブルガの金切り声。
耳を突き破るようなその叫びに、アランは思わず磨き布を取り落としそうになった。
「母親の血が純血であるならば、あとは男児さえ産んでくれれば家の名は保たれる」
冷たく抑制されたオリオンの声が返じる。
その声に怒りの火花が散るのではなく、氷の塊が床に投げつけられるような重みがあった。
「そんな……あんな卑しい女の娘が、子供の母でいいというのですか!」
ヴァルブルガの言葉は毒針のように鋭く、アランの耳を刺した。
思考の奥にまで侵入してくる蔑みの響き。
耳を塞ぎたいほどの苦痛を伴い、心臓を直接掴まれるようだった。
「男児の誕生に代えられるものなど、存在しない」
オリオンの声は一点の揺らぎもなく、断言を突きつけてきた。
――母が、罵られている。
その事実に気づいた瞬間、アランの身体は強張った。
自分の母、リシェル。
彼女は確かに高位の貴族の生まれではなかった。
だが、父の目に見初められ、誇りを持ってセシール家へ迎えられた。アランは幼い頃からそのことを心の支えにしてきた。
自分は「卑しい娘」ではない。
母は堂々と夫に選ばれ、愛された――その事実が自分の生きる根であり誇りだった。
それなのに。
ヴァルブルガの毒を含んだ声は、その誇りを容易く切り裂いてしまう。
母を「卑しい女」と呼ぶその冷酷な言葉が、胸を引き裂き、血の滲むような痛みとなって押し寄せた。
喉に熱がこみ上げ、目の奥が焼ける。
唇を強く噛んでも、込み上げる悔しさを抑えることはできない。
――私の母は卑しくなんかない。
――胸を張って生きた、誇りある人なのに。
拳をぎゅっと握りしめる。
指先が爪で痛むほど強く。
それでも痛みの方がまだ救いに思えた。
この場に立ち続ければ、声を荒げてしまいそうだった。
主に背くなどあり得ない。あってはならない。
だからこそ、アランは足を震わせながらも、静かにその場を離れた。
背中に残り続けるのは、まだ交錯を繰り返す夫婦の声。
廊下は薄暗く、息苦しいほど冷たく硬い。
けれど胸の内に燃えるのは、絶望に似た痛みと、消せぬ怒りだった。
その炎は声にも涙にもならず、ただ固く結ばれた唇の奥で燃えるほかなかった。
重苦しい扉がゆっくりと開かれると、そこには常闇に沈んだ広間が広がっていた。
高い天井は闇に溶け、明かりを灯す炎さえも異様なほど細く震えている。
中央には、薄闇をも支配するかのように「何者か」が鎮座していた。
空気そのものが圧縮され、震え、咽喉を締め上げる。
言葉を発するよりも早く、魂の奥底が本能的に屈服を強いられる。
ほとばしる威圧感は、レギュラスの背筋を冷たく縛り付け、全身の血を凍らせた。
傍らにいるのは父オリオン。その瞳に一片の迷いもなく、彼とともにゆっくりと前進する。
二人は中央に至り、その場で跪いた。
硬い石床が膝を突き抜けるように痛む。
しかし、その痛みは心を奮い立たせるよりも、畏怖ゆえの震えを一層際立たせた。
「これはこれは――」
闇を引き裂く低い声が降る。
「我が友、オリオンの息子ならば、信頼に足る者であること間違いなしだな」
影に覆われた存在の声は、嗜虐的な甘美さを孕みながらも、聞くものからすべての選択肢を奪い去る残酷さを持っていた。
その一言で、抗うなどという可能性が粉々に砕け散る。
――この場で、ひれ伏す以外に生きる道はない。
「レギュラス・ブラックと言ったな」
低い笑いとともに名を呼ぶ声が、鋭い鞭のように鼓膜を打つ。
「どうだ、俺様のために働けるか?」
問いかけは優しくすら聞こえるのに、その実、答えが一つしかないのは明白だった。
圧倒的な支配の下で、「否」という言葉を発する者は即座に消される――そんな確信が空気に充満していた。
胸の奥底まで震え、呼吸さえ上手くできない。冷や汗が頬を伝い、それでもレギュラスは唇を開いた。
「……はい。命をかけて忠誠を誓います」
声はかすかに震えていたが、それ以上の決意がその言葉に宿っていた。
恐れを超えて。
死の気配の淵を超えて。
――何よりも、アランを失うことなど比べ物にならないほど恐ろしい。
その一念が彼の心を支えていた。彼女を守り、彼女を妻とする。
その未来のためならば、どのような闇にも屈す。
誇りも命も差し出して構わない。
傍らのオリオンが静かに横顔を傾ける。闇に濡れるその表情には、満足と誇りの色が確かに灯っていた。
ヴァルブルガと激しく衝突し続け、声を荒らげられるたびに決断が揺らぐ父の姿を、レギュラスは知っていた。
母の執拗な反対に押され、せっかく結んだ取引が撤回されるのでは――そんな疑念に胸を締め付けられた日々もあった。
だが今――父は確かに、息子を誇らしげに見つめている。
闇の帝王を前にして、忠誠を誓う姿を。
我が子が選ばれたことを、揺るがない事実として認めている。
取引は成り立った。約束は守られたのだ。
その実感が、レギュラスの心の底にどっと安堵を流し込む。
冷たい石床に跪いたままでも、その胸中は燃えるように熱く、未来を掴み取ったという確信に満ちていた。
――これで良い。アランを守れるなら、闇すらも我が力としよう。
彼の瞳には恐怖と決意が入り混じり、しかしその炎は揺らぐことなく、まっすぐに燃え続けていた。
闇の帝王の広間を後にし、冷気をまとった夜の風に押されるようにしてブラック家の屋敷へ戻った時、レギュラスの歩みは迷うことなくまっすぐアランの部屋へ向かっていた。
胸の奥で燃え立つものがあまりに強く、父と並んでいた足が自然と先を急いていた。
けれど、その歩みをふと止めた瞬間があった。
背後から、低く静かな声が背中を打ったからだ。
「レギュラス。言っておくがな」
オリオンの声音は熱も怒りも孕まず、それ故に一層の重みを持って響く。
「アランのことは確かに認めた。だが、ロズィエ家の令嬢を雑に扱って良いわけではない。その意味はわかっているのか」
振り返れば、父の瞳は暗がりにあってもなお微塵の揺らぎを見せない。
凍るように冷たい眼差しの奥には、「誇りと血筋を損なわぬこと」という一族の鉄則が刻まれているのが感じられた。
「もちろんです」
レギュラスは即座に返事をした。
その響きは揺るがず、誓約にも似た強さを帯びていた。
だが、胸の奥底では複雑な思いが燻り続けていた。
――アランへの想いは、誰とも比べられぬ唯一無二のものだ。
しかし同時に、名門ロズィエ家から迎え入れられるカサンドラに対しては、決して無礼を犯してはならない。
その敬意と尊厳を守ることは、自分の背負った名と責務の一部でもある。
矛盾する二つの重み。
その狭間で、レギュラスは火のような愛情と氷のような義務を抱えながらも、決壊させぬよう自らを律していた。
父の沈黙の視線をそのまま背に受け、彼は再び歩を進めた。
深い廊下の果て――アランの部屋の扉の前へ。
ゆっくりとノブを回し、扉が開かれる。
そこにいたのは、小さなランプの光に縁取られたアランだった。
透き通るような翡翠色の瞳が、静かな驚きを帯びて彼を見上げている。
その視線の奥に自分が映っているのを見た途端、レギュラスは胸の奥から大きな解放と充足が溢れ出すのを抑えきれなくなった。
言葉を交わすよりも先に、一歩、また一歩と彼女へ近づく。
アランが息を呑むよりも早く、その唇へそっと触れた。
「……戻りました」
押し殺した囁きが、口付けの間際に絡んだ。
そこには一日のすべてを終え、帰り着いた安らぎを伝える意味があった。
「愛している」
息を吐くように心の底から零れ落ちた。
声として形にならなくても、そのすべての思いが口付けの中に注ぎ込まれていた。
唇に重なる温かさには、言葉では尽くせない熱情と、穏やかで揺るぎなき誓いが溶け込んでいた。
彼女を守る。手放さない。
共に歩む未来を掴み取る――その決意が、沈黙の深奥にまで染みていった。
ランプの炎が小さく揺れ、二人の影を一つに重ねる。
その静謐な光景の中で、レギュラスの胸にはただ甘美な充足が募り、アランの胸には言葉にならないざわめきが深く広がっていった。
屋敷の門を背にした瞬間、アランの胸の奥にふわりと広がる解放感があった。
石畳を踏みしめる足どりは、まるで知らず知らず浮かんでしまう羽根のように軽い。
ずっと張りついていたヴァルブルガの冷たい監視の瞳も、オリオンの圧し掛かる警告も、そしてなによりレギュラスの息苦しい執着さえも――すべてがこの門の外に置き去りにされたのだ。
腕に提げた買い物かごが少し揺れるたび、アランは深呼吸をするように伸びやかさを感じていた。
ひとときの自由。
せめて食材を求めるこの時間だけでも、自分は自分であってよい――そう信じたかった。
そのとき、不意に手を引かれた。
「ひゃっ……」
思わず小さな声を上げて振り向いた瞬間、目に飛び込んだのは見慣れた灰色の瞳。
「……シリウス」
思考が一瞬だけ恐怖に凍り付いたが、彼の目に宿る温かい光に触れた途端、心臓はどくんと大きな鼓動を打ち、頰に熱が上がった。
恐怖は溶け、胸がきゅんと締め付けられる。
「会いに来た」
その何気ないひとことが、どんなに待ち望んだものだったか。
アランの胸いっぱいに幸せが押し寄せ、堰を切ったように笑みが浮かんだ。
二人は並んで、食材を選びながら歩いた。
仲良く並んで大根の白さや果物の色を楽しげに眺め、その一歩一歩を宝石のように感じた。
ありふれたはずの買い物が、屋敷では決して得られない自由と幸福を輝かせていた。
「ちょっとだけ、寄り道しよう」
無邪気な誘いに、アランは夢中になって頷いた。
小さなカフェの窓際。
午後の陽射しが室内に差し込み、テーブルの上に落ちた光は淡い金色の輪郭を描いている。
紅茶の湯気が立ちのぼり、ガラスの向こうで人々が笑いながら行き交う。
目の前にはシリウス。彼の指先が滑らかにカップを傾けるたび、陽の光が彼を優美に縁取り、まるで永遠にその姿を焼きつけたい衝動が込み上げた。
「リーマスから聞いたんだ」
彼は笑いながら、新しい菓子のことを説明する。
アランは初めて見るような小さな可憐なケーキを口に運び、瞳を輝かせた。
「すごく美味しいわ」
ふたりはただ、恋人のように談笑する。
純血主義も、家柄も、義務も――すべてが置き去りにされた時間。
ここに存在しているのは、ただ「シリウスとアラン」という二人だけだった。
甘い菓子の香りと、紅茶の芳醇な温もりに包まれながら、アランは思った。
――こんな日常が、永遠に続けばいい。
シリウスがふと眼差しを真剣にし、カップをテーブルにそっと置いた。
視線を逃さずに、彼はアランの横顔を見つめる。
「なあ、アラン――いま幸せか?」
唐突に落とされた問い。けれどそこに揺らぎはなく、真摯さだけが澄み渡っていた。
「……うん。すごく幸せよ」
アランはとびきりの笑顔で応えた。それは誇張でも、偽りでもない。本当の心からあふれた言葉だった。
たとえ一瞬であっても、この瞬間を心に刻んでおきたい。
この笑顔を、この温もりを、この穏やかな午後を。
後にどんな苦難が待っていようとも、この時だけは揺るがぬ宝石のように抱きしめたい。
シリウスはそっとアランの手を握った。
指先から伝わる温かさに、彼女は目を伏せ、頬を染める。微笑みが自然と漏れた。
繋がれた手の中にあったのは、名も、身分も、血筋もいらないただの「絆」。
愛しい人と人とを結ぶ、確かな温もりだった。
窓の外では陽がゆるやかに傾き始め、黄金色の光が店内を満たしていく。
小さなテーブルを挟んで互いを見つめる二人の姿は、その光に照らされ、いつまでも消えぬひとつの絵画のように輝いていた。
アランの胸いっぱいに、小さな幸せが眩しいほど満ちあふれていた。
屋敷に戻ったアランは、そのまま厨房へと足を踏み入れた。
広い大理石のカウンターに材料を並べ、白いエプロンの紐を腰にきゅっと結ぶ。
その所作ひとつにも、彼女の心の奥に染みついた「仕える者の矜持」が宿っていた。
まずは仔牛肉に塩を振り、砕いた香草を丁寧にすり込んでいく。
指先が淡く魔力を宿し、肉に馴染む度にほのかな香りが立ちのぼった。
香草の清涼な香りが空気を浸し、わずかに重苦しい屋敷の匂いを和らげる。
玉ねぎ、人参、セロリを用意すると、魔法の包丁を一振り。
すっと舞うように動く刃が、一枚一枚を均一に薄切りへと整えていく。
鍋にバターを落とし、音もなく広がる黄金色の泡の中へ野菜を送り込むと、芳醇な香りが立ち上った。
アランは杖を軽く振り、オリーブオイルを均等に降らせ、木べらで丁寧に炒め続ける。
白ワインの瓶を取り、瞬時に魔法で冷やすと、鍋に注ぐ。
ふわりと広がる香りは優しく、儚い。続いてバターでソテーされた根菜、瑞々しく魔法で鮮度を保ちシャキリと音を立てるルッコラやパプリカ……。
ひと手順ごとに心を込め、アランはひたすら手を動かしていた。
それは一種の祈りにも似ていた。自分にできるのは、ここで精一杯の務めを果たすことだけ。
扉が静かに開く。
アランが顔を上げると、カサンドラが軽やかに歩み寄ってきていた。
ドレスの裾が床にさらりと音を立てる。
「申し訳ないわ、手間のかかる料理を頼んでしまったわね」
その声音は穏やかに聞こえた。
だがアランの胸には、ほんの少し抑え込まれた棘のような気配が突き刺さる。
「いえ、とんでもございません」
深く頭を下げて答える。
だが視線を戻した手元はわずかに震えていた。
カサンドラは、アランの瞳を見つめながら、わずかに声音を低めた。
「レギュラス様が大切になさっているあなたに頼んではいけませんわね」
突きつけられた言葉に、アランの胸がきゅっと凍りつく。
どう返すべきか……何を言えば敵意を煽らずに済むのか。
まるで答えのない難題を突き付けられたようで、曖昧に微笑むことしかできなかった。
きっと、カサンドラにはもう知られている。
――レギュラスが父オリオンと取引し、「妻」として自分を求めたことを。
それがどれほど彼女の誇りを傷つけることか、簡単に想像がついた。だが口にされてしまうと、申し訳なさと居た堪れなさで胸が潰れるように苦しかった。
その時、足音。レギュラスが現れる。
「カサンドラ、お手柔らかにお願いします」
柔らかく笑った声音。
しかし、アランにはそれが挑発にも聞こえた。
カサンドラは唇の端を上げ、穏やかに応じる。
「もちろんです。レギュラス様が目をかけていらっしゃる方ですもの。私にとっても大切にしたい方ですわ」
「ええ、そうしてくださると僕も安心です」
静かに交わされたやり取り。
だが、アランの胸には冷たい重みが広がっていった。
――もうやめてほしい。
レギュラスが無邪気に挑発のような態度を取ることも。
カサンドラが真心とは思えぬ言葉を柔らかな笑顔で重ねることも。
その二人の間に挟まれて、自分はいったい何者なのか。
ただの従者でしかない自分。
彼らの視線の交錯は常に自分をすり減らし、自分の意志など存在する余白すら見つからない。
胸の奥を締めつける虚しさと苦しさ。
それでもアランは鍋の中を見つめながら、表情ひとつ動かさず、ただ食材をかき混ぜ続けた。
咳払いひとつで壊れそうなこの均衡の中、唯一確かなのは、言葉のすべてが剣となり、自分に突き刺さっているという痛みだった。
それを呑み込みながら、アランは今日も黙々と料理を進めていた。
