1章
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夜の静寂を縫って、アランは寮を抜け出した。
足音を忍ばせ、石畳を踏むたびに冷たい空気が肌を撫でる。吐息が白くほどけ、月の光に淡く溶けていく。胸の奥で、ひそやかに鼓動が高鳴っていた。
――今日の授業で、ついにうまくできたのだ。
あの難しかった呪文を、完璧に。
誰よりも先にシリウスに伝えたくてたまらなかった。褒めてもらえることよりも、ただ彼の笑顔を見たい。その一心で、アランは湖畔へと駆けた。
満月が静かな水面を照らしていた。風に揺れる柳の影が波紋のように広がる。その傍ら、黒髪を夜風に靡かせながら、シリウスが石の上に腰を下ろしていた。月光を受けた横顔が美しく、どこか寂しげに見えた。
「シリウス!」
名を呼ぶより早く、アランは駆け寄ってその胸に飛び込んだ。
「おいおい、お姫様。どうしたんだ?」
柔らかな笑い声とともに、温かな腕がしっかりと受け止めてくれる。その匂いも、声も、何もかもが懐かしい安らぎに満ちていた。
「今日、うまくできたの」
興奮で頬が熱くなる。自分でもわかるほど、瞳が輝いていた。
「……そうか」
シリウスの瞳がふっと細められ、次の瞬間、彼はアランを強く抱き寄せた。
「さすがは俺のアランだ」
その一言に、心の奥まであたたかさが染み込んでいく。自分の努力が報われた喜びよりも、「俺の」という響きが、胸の奥をじんわりと焦がした。
思わず彼の首筋に腕を回し、体を寄せた。バランスを崩した二人は、草の上へと倒れ込む。月明かりが一面を銀色に染め、世界は二人だけのものになった。
「わりぃ、わりぃ」
シリウスが笑いながら体を起こそうとするが、アランはその胸に顔を埋めたまま離れられなかった。
「大丈夫?」
彼の声が優しく落ちる。
見上げた瞬間、月の影が彼の瞳に宿り、夜よりも深い光を湛えていた。
その眼差しがあまりに真っ直ぐで、時間の感覚が遠のいていく。心臓の鼓動がやけに大きく響き、空気のすべてが二人の間に溶けていった。
――次の瞬間、唇が触れた。
どちらからだったのか、もう分からない。ただ、確かに求め合っていた。
今までのどんな口づけよりも深く、熱く、痛いほど切実だった。相手の存在を確かめるように、手が頬を包み、息が混ざり合う。
「アラン……」
名前を呼ばれただけで、全身が震えた。
その声には問いがあった――これ以上進んでもいいか、と。
胸の奥から、溢れるように想いが込み上げる。
――構わない。
――ずっと待っていた。
言葉にできない無数の感情が、涙のように滲んだ。
答えの代わりに、アランは自ら唇を重ねた。
その瞬間、彼の腕が強く背を抱き寄せる。互いの鼓動がひとつになり、夜の冷気が遠のいていく。
「好き……シリウス……大好きよ」
その声は震えていたが、嘘ひとつなかった。
「俺も……ずっと、ずっと好きだ」
囁きながら、シリウスは額に唇を落とした。
世界が優しく溶けていく。
暴力でも支配でもない、ただ愛しさだけで繋がる関係――それがどれほど尊く、奇跡のようなものかを知った。
肌と肌の間に流れる温もりが、確かに命の証のように感じられた。
やがて風が二人の髪を撫で、湖面の波が月を揺らす。
この夜の光の中で、アランは確信していた。
――これが、愛というものの形だと。
シリウスと共に、静かな幸福に包まれながら、アランは目を閉じた。
そのまま、月の下、世界はただ静かに、永遠のように愛に満ちていた。与えられる快感に自己嫌悪を覚える必要のない、純粋な結びつき。
それは夢のような時間で――まさに愛というものの核心に触れた気がした。
シリウスと一緒に、その光に包まれることができた気がした。
月が二人を静かに見守る中、世界はただ愛に満ちていた。
シリウスの顔が、苦痛とも快楽ともつかぬ表情に歪んでいた。
額には細かな汗が滲み、頬を伝って滑り落ちるその雫が、胸の上に落ちて小さな音を立てる。荒く上下する息が、アランの胸の上を震わせ、肌の奥まで熱を移していった。
アランは息を飲んだ。
目の前の光景が、夢の中のように遠くて、それでいて信じられないほど鮮やかだった。指先一つ動かすことすら惜しい。
彼のすべての視線、すべての思考が、ただシリウスの表情に釘付けになっていた。
「見るなよ」――掠れた声が唇の隙間からこぼれ、抗うように彼の名残を残した。
けれどその声すらも、アランには愛しくて、胸の奥に染み渡っていく。
唇が重なり、呼吸が奪われる。
抗議にも似た口付けが、押し寄せる波のように降り注ぎ、全てを攫っていく。
絡み合う舌のぬくもりが、肌の奥で震え、溶けていく。
名前を呼ぶ声も、荒い吐息の隙間に掻き消され、音のすべてが二人の間でひとつに混じり合った。
星の囁きのように微かな音が響く。
空気のわずかな揺らぎさえも、互いの肌に触れるたび、慈しむように空間を震わせていた。
闇の奥からは、わずかに水の音が聞こえる。
どこから流れてくるのかもわからないその響きが、二人の世界を包み込んでいった。
アランは、まるで現実の輪郭が溶けていくような感覚に身を委ねた。
心が満たされ、胸の奥から溢れ出る幸福に飲み込まれていく。
ずっと昔からこんな瞬間を夢見ていた。
誰でもない、シリウスに抱かれることを――。
言葉にすることはあまりにも恐れ多く、無作法に思えて、長い間その想いを押し殺してきた。
けれど今、彼女の中には恐れも迷いもなかった。
温もりが流れ込み、呼吸と鼓動が重なり合い、心と体の境界がゆっくりと溶けていく。
この瞬間のために生まれてきたのだとさえ思えた。
彼の腕に包まれ、世界のすべてが遠のいてゆく。
心も体もすべてをシリウス・ブラックに委ね、彼の存在そのものに飲み込まれていく幸福。
胸の奥で脈打つ鼓動が、互いの生命の証として重なった。
いつかこの世を去る日が訪れても、このぬくもりの中で静かに終わりたい。
そう願うほどに、歓びは深く、果てしなく広がっていた。
アランは自らのすべてを差し出し、そしてシリウスのすべてを受け取った。
それはただの肉体の交わりではなく、魂の奥底で結ばれた確かな繋がり――世界のどんな言葉でも表し得ない、永遠の絆だった。
――すべての行為が終わったあと。
アランとシリウスは、ただ静かに並んで空を仰いでいた。
夜の湖面から吹く風はひんやりと頬を撫で、草の匂いと共に夏の名残を運んでくる。
汗ばむ肌をかすめる風が心地よくて、アランは微かに瞼を閉じた。
まだ胸の奥では心臓の鼓動が荒く鳴り続けている。
その拍動がシリウスの呼吸と交わるたび、互いの存在が確かにこの世にあることを感じた。
少し離れたところで、夜露を帯びた葉がかすかに揺れる。
その音さえも、いまは二人だけの世界を飾る旋律のように思えた。
沈黙の中、シリウスが低く呟く。
「アラン、今、すげぇ幸せだ」
その声は夜気に溶けて、星々の瞬きとともに降り注いだ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
まるで言葉そのものが彼の体温を宿してアランの中に沁み込んでくるようだった。
何かを返したいのに、どんな言葉も薄っぺらに思えた。
“私も幸せ”――そう告げるだけでは、この胸を満たすものの半分も伝わらない。
それでも、彼女は静かに微笑んで囁いた。
「私もよ、シリウス」
夜風に混じって届くその声は、かすかに震えていた。
彼がゆっくりと顔を向ける。灰色の瞳が、優しい光を湛えてアランを見つめていた。
その瞬間、全ての不安も孤独も、まるで遠い昔の幻のように消え去っていく気がした。
アランはそっとシリウスの手を探し、指先を触れ合わせる。
温もりが伝わった途端、彼が力強く握り返してくる。
その手のひらの熱が心の奥まで流れ込み、アランは思わず小さく息を漏らした。
言葉を越えた何かがそこにあった――
たとえ世界がこのまま終わっても、彼と共にいる限り、恐れるものなど何もないと思えるほどの確信。
空には無数の星が散らばり、まるで祝福の光を二人に注いでいるようだった。
その輝きの下で、シリウスが微かに笑う。
アランの髪が風に揺れ、その頬に落ちた星明かりが静かに煌めいた。
彼女は思う――
この瞬間こそが、人生のすべての苦しみや涙を赦すために存在していたのだと。
互いの呼吸が重なり合い、夜はゆっくりと深まっていく。
言葉では語り尽くせない幸福が、二人のあいだに静かに満ちていた。
それはまるで、星空の下で奏でられる、永遠に終わらない愛の旋律のようだった。
広大な屋敷の黒大理石の階段を上り、重厚な扉の内側に足を踏み入れた途端、アランの胸に残る熱が静かに疼きだした。
まだシリウスとの再会の余韻が、皮膚の裏まで沁み込むようにして消えぬままある。
頬に触れた掌の温度、耳をかすめた甘やかな吐息、そして決して他人には語ることのできないやわらかな口づけの重み。
それらすべてが、今なお鮮烈に彼の鼓動とともに脈打っていた。
――失いたくない。
この温もりを、せめてもう少しのあいだ自分だけの胸に抱いていたい。
そう祈るようにして、アランは屋敷の空気を吸いこんだ。
だが、重々しい石造りの壁や絹張りの廊下に漂うのは、記憶を守る優しさではなく、ブラック家特有の硬質で息苦しい磁場だった。
アランの傍らを歩くレギュラスは、そんな空気をものともせず、一歩ごとにアランとの距離を縮めてくる。
手を伸ばせばすぐに触れられるほどの近さ。
それ以上に、彼の眼差しは遮られる壁を持たぬ刃のように鋭く、覆い隠そうとしたアランの内心へと真っ直ぐに迫ってきた。
そして次の瞬間、迷うこともなく彼の手首を掴み、人目のない部屋へと引き入れる。
「レギュラス……」
制止の声を絞り出したときには、もう閉ざされた空間で二人きりになっていた。
厚い絨毯の上で音は吸い取られ、遠くに人の気配ひとつないはずなのに、背後ではオリオンとヴァルブルガの無言の眼差しが絶えず監視しているような緊張感から逃れられない。アランの視線は壁の陰影に怯えるように揺れた。
だが、彼――レギュラスにはその重圧さえ届かぬかのように、しずかに、けれど容赦なく身を寄せてくる。瞬きの合間に、唇が重なった。
熱を含む吐息が潰れるように絡み、空気は湿り気を帯びて震える。抵抗の声が喉で吸い込まれ、震える指先だけが切実に拒絶を訴えた。アランは必死に首を振り、やっとの思いでその唇を引き剝がすことができた。
「……ダメです、レギュラス」
胸を押さえ、息を整える。かすれ声の奥に、必死の説得を縫い込む。
「オリオン様も、ヴァルブルガ様も……きっと、私たちの行動に目を光らせているはずです」
理由を並び立てる言葉が、今は盾となる唯一の手段だった。
本心など口にできはしない。――ただひたすら、シリウスがもたらした温もりを、この身から奪われたくないということ。
その柔らかい感触を、匂いを、瞳を閉じれば甦るすべてを、秘めた宝石のように胸の奥で守り抜きたい。
それがレギュラスの熱を遠ざける、唯一にして切実な願いだった。
アランの視線はかすかに震えながらも、どこか底意地のような固さを帯びていた。拒む声の裏に横たわるものを、レギュラスが察するかどうか――その答えは、重苦しい室内の静寂がのみ込んでゆくばかりだった。
重厚なシャンデリアの下で、銀食器の音だけがわずかに響く朝食の席。ブラック家の食卓は、華やかでありながらも緊張に縛られた沈黙に満ちていた。黒曜石のように艶のある長いテーブルに、整然と並ぶ皿と水差し。アランは腰を正し、姿勢を崩すことなくパンを裂き、控えめに口へ運んでいた。
その静けさを破ったのは、ヴァルブルガのふとした一言だった。
「ロズィエ家のカサンドラ嬢を夕食に招く予定よ」
ゆるぎない声音。彼女の声はいつも通りの冷ややかさで、あたかも決定が既に世界の理として確定しているかのように響いた。それに続いて、鋭くも涼やかな視線がアランにだけ注がれる。
「数日間滞在するそうだから、彼女が使う客室の掃除をちゃんとしておきなさい」
アランは椅子を静かに引き、すぐに深々と頭を垂れた。
「かしこまりました、奥様」
正しく整えられた言葉。
音程や抑揚に迷いの影を一切残さず、ただ従順の形そのものを差し出す。
その瞬間、彼の眼差しを横から追っていたレギュラスの瞳が僅かに細められた。
光が射すと同時に鋭さを帯び、短く閃く苛立ちの色。
そのわずかなかすれは、卓上の白い皿ほどにはっきりとアランに伝わってきた。
しかし、アランの胸を満たしたのは怯えではなかった。むしろ、静かな安堵の波が広がっていった。――数日間、レギュラスの意識は必然的にカサンドラへと向かうのだ。
自らが押しつぶされるように迫られることもなくなる。
それだけで今の彼には、鋼鉄の檻の中に差し込む一条の光を見るような救いがあった。
思考はひそやかに別の夜へと流れてゆく。――シリウスと過ごした時間。
囁き合う声、重なる温もり、手の甲をくすぐる柔らかな吐息。
それらは今や誰にも侵されない宝物だ。
数日間というわずかな空白さえあれば、心の奥でその夜を幾度も繰り返し思い出し、幸福の翳を抱きしめ続けることができる。
食事を終えると、漆黒の陶器が一つひとつ片付けられ、大理石の床に食卓を整える音が微かに反射した。
アランは卓上を拭き終えると、すぐさま身を翻し客間の掃除に取りかかった。
白布を振るように軽やかな呪文を唱えると、ベッドのシーツは徐々にほどけ、柔らかな新しい布地へと変わっていく。布の端に触れた指先から微光が広がり、天蓋はさらさらと波状に揺れながら整えられた。床には、小さな精霊を呼び起こす。
ほうきの羽虫のように羽音を立てたそれらは、魔力を帯びて隅に潜む塵を吸い上げ、粒子のような光の鱗屑を舞わせながら消えていった。棚の上には、指先から伸ばした繊細な光の鞭をすっと走らせる。それが触れた瞬間、古い埃は淡い煙のように宙に漂い、ほどなく消え去った。
部屋全体を清めながら、アランの心もひとしずくずつ澄んでいくように感じられた。
その静けさを破ったのは、ふと背後から飛んできた低い声。
「レギュラス」
振り返ったアランの視線の先ではなく、扉の向こうに立つオリオンの影があった。
険しい眉が鋭く刻まれ、その声音は厳然として動かぬ鉄の枷のように響く。
「ロズィエ家のカサンドラ嬢を駅まで迎えに行ってやれ。昼の便には着くはずだ」
「かしこまりました」
短く、しかし力のある響きが応じる。
返事をした瞬間、レギュラスの輪郭にいつもの鋭さが宿り、彼の全身を走る緊張が視覚にすら伝わる。
アランはその姿を見ようとさえしなかった。
視線を伏せ、ただ青白い指を染み入るように重ね合わせ、掃除の続きに意識を預けた。
胸いっぱいに膨らんでいたのは、恐怖でも羨望でもなく、ほかならぬ静かな安堵だった。
――今だけは、心からの自由を。
その言葉が、息とともにこぼれることはなかった。だが、彼の胸の奥ではしっかりとその感覚が脈打つ。かつてなかったほど確かに。
屋敷へ戻ったその日から、レギュラスの胸の奥には絶え間なく苛立ちが渦巻いていた。
アランの拒絶――それはあまりにも優雅で冷静で、反論の余地を許さぬものだった。
オリオンやヴァルブルガの視線がある。
理屈としては完璧だった。
誰もが納得しうる正論。
けれど、その「正論」が刃のように胸を刺す。
自分の昂ぶりを受けとめることなく、美しく退けられたあの一瞬の虚しさが、しこりのように心臓を締め上げて離さない。
そこへ加わったのは母からの告知。
ロズィエ家の令嬢――カサンドラを屋敷に招くという話だった。
祝宴のような明るさではなく、冷たく決定を突きつけられるその声音に、レギュラスは口の裏側まで苦々しさを覚えた。
さらに父の命令が加わる。
「駅まで迎えに行け」。それは一見すれば何でもない任務だったが、積もり積もった苛立ちにとっては最後の一打であった。
屋敷に帰省したというのに、ひと息も安らげない。
むしろホグワーツの寮の方がよほど自由で、気晴らしに満ちているとすら思えてしまう。
深く息を吸い、怒りを内に押し込んで立つ駅のホーム。
黒いアイアンの屋根が光を反射し、汽笛の名残がまだ空気を振るわせていた。
レギュラスの胸には抑えがたい波が打ち寄せていたが、その顔には一片の乱れも見せない。
「まあ、こんなところまでお迎えに来てくださるなんて」
涼やかで優雅な声。
振り向けば眩しいほどに光沢を放つ金髪、柔らかなカールに縁取られた顔立ち。
ロズィエ家の令嬢、カサンドラが微笑みと共に立っていた。
その仕草すべてが舞台の上の貴婦人のように洗練されている。
レギュラスは、完璧に形作られた笑みを浮かべた。
「ええ。長旅でしたでしょうし、お疲れのことと思います。荷物は先に運ばせましょう」
彼女に一礼し、差し出した手を自然に取らせ、馬車の方へと優雅に導く。
日差しが強いのを見てとると、当たり前のように日傘を取り、彼女の白い肩をかすめる影を丁寧にかけてやる。
「優しいのね、レギュラス様」
喜びを滲ませた声に、彼は一層美しい微笑で応じた。
瞳に映るのは、礼儀と誠実を凝縮させた理想的な紳士の姿。
だが、その仮面の裏で心の波は穏やかさを失ったままだった。
馬車が走り出すと、カサンドラは軽やかな調子で言葉を絶やさない。
「ホグワーツでの生活はいかがですか?」
「順調です。特に問題はありません」
簡潔で、しかし不躾にはならぬ回答。
「クィディッチはまだ続けていらっしゃるの?」
「ええ。来年も選手を続ける予定です」
わずかに声を低めることで、落ち着いた印象を与える。
「ご友人はたくさんいらっしゃるでしょうね」
「適度に。勉学に支障が出ぬ程度には」
完璧な受け答えの連続。
それはまるで磨き上げられた楽器が同じ旋律を繰り返すようだった。だが――心の奥では「少し黙っていてくれ」と叫び出したい自分がいる。
その言葉が口をついて出ることは決してない。
彼はブラック家の息子であり、客人を迎える紳士である。
その役割を越えて「個」としての欲求を吐露することなど、ゆるされるはずがない。
だからこそ言葉は切り揃えられ、表情も完璧に管理される。
カサンドラの屈託のない笑顔が窓に反射する光と溶け合う中、レギュラスはただ仮面を崩さぬよう笑っていた。
しかし胸の奥底では、アランの名を呼びたい衝動、拒絶された重み、そして母や父からの縛りが渦を巻き続ける。
馬車の車輪が石畳を刻む乾いた音が、彼の苛立ちに寸分の慰めも与えてはくれなかった。
レギュラスは、馬車から館へと迎え入れたカサンドラの足取りに合わせ、ゆったりと長い廊下を歩いていた。
黒大理石の床に靴音が規則正しく響き、壁に飾られた肖像画が一斉に彼らを注視するように沈黙している。
屋敷全体が息をひそめ、貴族の血統が受け継いだ閉ざされた歴史を静かに訴えかけているかのようだった。
「カサンドラ嬢、長旅でお疲れでしょう。夕食までお部屋でゆっくりくつろいでいてください」
レギュラスの低い声が、石壁にわずかに反響して広がる。
表情は完璧に整えられ、柔らかな気遣いを湛えつつも、心の奥に沈殿する苛立ちを微塵も感じさせなかった。
彼が指先でドアを押し開けると、その奥に立つひとりの姿が目に入った。
アランだった。
ちょうど客間の仕上げを終えたところで、窓から射す淡い陽光を浴びて立つ彼女の姿は、白布を張り替えたばかりの天蓋と同じくらい清らかで、どこか透けるような気配をまとっていた。
扉が開いた瞬間、彼女の瞳がふと大きく揺らぎ、寸刻の間、時がひきとめられたかのように感じられる。
けれど、次に響いた声は凛然として澄んでいた。
「カサンドラ様、お部屋の準備は整っております」
その声は、使用人としての礼儀を欠かさない――だが、わずかな揺れは確かにあった。
緊張が声の奥にひそんでいる。
それはレギュラスには聞き慣れた震え、けれど他人には決して見抜けぬほど繊細な揺らぎであった。
カサンドラはふわりとドレスの裾を揺らし、微笑を浮かべる。
「まあ、とても美しい使用人ね。さすがはブラック家の血筋」
その言葉は社交の一環に違いなかった。
だが、そこにさらりと織り込まれる含み―― アランを褒めながらも、彼女の立場を明確に刻む響きがあった。
レギュラスは即座に、呼吸を崩さぬ調子で応える。
「代々ブラック家に仕えてくれている一族の娘です」
淡白で、しかし誇りを損なわぬよう計算された言葉。
それは客人への説明であると同時に、アランと自分との間にある境界を強調するものでもあった。
けれど、その無機質な言い方は、アランにとって小さな刃のように響いた。
カサンドラの笑みはさらに深まる。
細めた瞳に、かすかな挑発の光をにじませながら続ける。
「こんなに美しい方とは……レギュラス様も、目移りしてしまいそうですね」
艶やかに投げられた言葉は、柔らかい羽根のように場の空気に舞い落ちる――だが、その羽根には微かな鋭さが潜んでいた。
アランの瞳がぎゅっと揺れた。
理不尽なまでに心がざわつく。
主に仕えるべき立場として感情を顔に出してはならないことはわかっていた。
けれど、この場に込められた皮肉を、女性としての直感が見逃すはずはなかった。
張りつめた胸の奥で、何かがかすかに軋む。
その一方で、レギュラスの意識はすでに別の方向へ逸れていた。
早くこの場を終えたい――ただその一心だった。
カサンドラの言葉の一つひとつに含まれる色合いも、アランの揺らぎも、今の彼にとっては重すぎる。完璧な紳士である振る舞いを保ちながら、心の中では「今すぐ空気を断ち切りたい」と強く願っていた。
「どうぞ、こちらへ」
短く、そつのない声。
冷淡にすら響くその促しと共に、彼はカサンドラを部屋の内へと導いた。
瞬間、空間に漂う微かな緊張が室内いっぱいに広がった。
アランの瞳は細微な揺れを残し、カサンドラの笑みは過不足なく気品を整えている。
レギュラスの声音は淡々としていたが、室内に刻まれた三者三様の気配が重なり合い、空気そのものが歪む。
時の流れがほんの少し、重く軋んで滞ったかのようであった。
部屋にカサンドラを案内し、丁寧な挨拶を交わし終えるや否や、レギュラスは扉を閉め、ぱたりと音を遮断した。
廊下の寂しい空気を切るように、そのまま迷いなくアランの傍らに近づき、彼女の細い手を引いた。
滑らかな指先に指が触れ合った瞬間、微かな震えが互いの鼓動を伝い合う。
「レギュラス、少し危機感を持ってください」
小声で放たれたアランの言葉は、叱責よりも心配の響きを帯びていた。
それは氷の刃のように冷たく胸に落ちるのではなく、静かに厚みを持った苦味となって彼の胸に刺さる。
彼女が本気で、自分の身を案じているからこその声色だった。
一拍、深い呼吸を飲み込んだレギュラスは、真剣な答えを返す代わりに唇の端をわずかに上げた。
冗談を装う、甘すぎる微笑。
「あなたの方こそ、少しくらいは嫉妬でも見せてくれたらどうなんです」
軽い挑発に似たその囁きに、アランの瞳がぴたりと揺れた。
唇に小さな言葉が浮かびかけ、すぐに引き結ばれる。
瞬時に黙り込み、頬にかすかに浮かぶ朱。
それを見た途端、レギュラスは自分の言葉が強すぎたことを感じた。
彼女を試すような物言いは、自分の苛立ちの投影にすぎない。
握っていた手の力をそっと緩め、指の圧を和らげていく。
そして、いつのまにか出てしまう癖――親指で彼女の甲をゆるやかになぞる。
皮膚の下に伝わる鼓動を、その細やかな震えを感じた途端、彼の目尻に陰影がほどけた。
「すみません、帰ってきてすぐなのに……やることが多くて、苛立っていました」
声は、少し拗ねた少年のように不器用だった。
横顔には誇りという仮面も、貴族としての冷徹な響きもなく、ただ一人の青年の本音が滲んでいた。その瞳は、アランだけを凝視している。
「いえ、とんでもないわ……」
アランは、軽く首を振りながらそっと応じた。
その声音には驚きも赦しも溶け合い、不思議と柔らかな光を帯びていた。
「少しだけでいいから、一緒に……ゆっくりしましょう。アラン」
その囁きは、願いとも懇願ともつかない響きで落ちていった。
命令の色はそこにはなく、あるのはただ愛おしく縋る心の重み。
苛立ちも渇望も、自分では処理しきれぬ混沌も、すべてを彼女という存在に委ね、緩めたかった。
アランが小さく頷いた瞬間、レギュラスの胸に溶けるような安堵が広がる。解き放たれた鎖が少しだけ軽くなる感覚。
扉が閉ざされ、肖像画の眼差しも届かぬ静寂が満ちる。
燭台の火が柔らかく壁を照らし、ソファに二人が沈むと、彼の眼差しは迷うことなく彼女へと重なっていった。
そっと触れる――沈黙の中に、唇がアランのものに重なった。
それは拙速でも粗野でもない。
ひとつの所作にすぎぬはずのその動作を、レギュラスは丁寧に、深く、重く味わった。
角度を変え、彼女の唇を確かめるように何度も触れる。
触れる度に、積もり重なった苛立ちが少しずつ溶け落ちていく。
心のさざめきが宥められてゆく。
不安も焦燥も、このキスに封じ込められるようだった。
やがてアランの吐息と自身の吐息が重なり合い、熱を孕んだ空気が狭い空間を満たす。互いの呼吸が混じりあい、その中にかすかな恍惚が生まれていた。
――これ以上はしない。
心に秘めた制御があったからこそ、いま目の前のこの口づけだけが、逆に深く、そして甘美なものとなっていた。
二人を包み込む夜は静かで、どこまでも柔らかく。
まるで屋敷全体が、このひとときだけは彼らを優しく許しているかのようであった。
夕刻、ブラック家の食卓は久々に華やいでいた。
長いテーブルの上に銀の燭台が並び、揺らぐ火が金の装飾を柔らかに照らし出す。
その炎は葡萄酒の深紅やソースの艶めきに映えて、屋敷の厳格な空気をひととき和らげていた。
中央には招かれた客、ロズィエ家のカサンドラが座り、彼女を囲むようにブラック家の人々が穏やかな会話を交わしている。
「カサンドラ嬢、一番得意な科目は何かしら?」
ヴァルブルガ夫人が、興味深げに姿勢をわずかに傾ける。冷ややかに見える眼差しの奥に、好奇心の光がちらりと覗いた。
カサンドラは一度だけ杯の縁を指でなぞり、にこやかに眉を和らげた。
「私は魔法薬学が特に得意ですわ」
艶やかな声が卓上を渡り、周囲を包む炎の揺らぎと調和する。その答えを受けて、オリオンが緩やかに笑みを含む。
「それは心強いな。我々がお世話になることも増えるかもしれん」
場にいた者たちは納得するように頷き合い、話題はさらなる広がりを見せる。
会話は和やかに続き、銀器の軽やかな音や笑い声の断片が次々と宙を舞った。
だが――レギュラスにとって、その全ては耳に届いても心を素通りするものに過ぎなかった。
彼の視線は一箇所に固定されている。
テーブルの端を忙しく行き来する影、黙々と食器を運び、新しい料理を並べ、空いた皿を下げる姿。
責務に忠実でありながら、感情を欠くように淡々と動くアランの姿に。
彼女の手首の細やかな動き、伏せられた横顔、衣擦れのたびに垣間見える白い指先――そのひとつひとつが、レギュラスの網膜に焼きついて離れなかった。
ほんの少し前、誰かが彼に話を振った時もあった。
だが、その時の彼はもはや心ここにあらずだった。
「ええ、そうですね」
「興味深いですね」
「今のところは特に問題なく」
口から出る返答は、型通りの社交辞令。
意味を持たぬ言葉の断片に過ぎなかった。
心はここにはない。
テーブルに並ぶ料理にも、カサンドラの笑みにも、笑い合う声にも興味はなく――ただ一人、アランだけがそこにいる。
彼女は止まらぬ。皿を運び、杯に酒を満たし、笑顔を交わすこともなく作業を続ける。
彼女の静けさが、逆に食卓の喧騒の中で際立っていた。
そこに気づく者はいない。
母も、父も、客であるカサンドラも。
ただ、レギュラスだけが見ていた。
彼の眼差しは執着の熱を帯び、心の内側で静かな苛立ちが膨張していく。
なぜ彼女は、自分に視線を向けないのか。
なぜ彼女は、黙々と義務に身を浸してしまうのか。
満ち溢れた場の喧噪にさえ目を伏せ、ただ「使用人」として振る舞うその冷たさに、どうしようもない焦りと空虚が募るばかりだった。
そして、その空虚の只中で彼の世界は一つの像を浮かべ続ける。
―― アラン。
豪奢な食卓も、笑い声も、重厚な魔法の器も、彼にとっては背景にすぎなかった。
視界の全てを占めていたのは、白布を揺らし、光の中を行き交う彼女の姿。
彼の世界の中心にあるのは、ただ一人、その存在だけだった。
食事の余韻がやわらかく漂い、銀器の音も消えた後の食堂は、微妙な静けさに包まれていた。
燭台に揺らめく炎が壁にほの暗い影を落とし、誰もが満ち足りたひとときを味わいながら椅子に身をもたせかけている。
レギュラスの胸中にも、ひとときの夢があった。――食卓を離れ、アランとひそかに言葉を交わし、短くとも安らぎの時間を紡ぎ出す。
喧騒の裏に隠れるように、彼女と二人だけで過ごす静かな瞬間。
それを思い描きながら呼吸を整えた、その時だった。
「レギュラス様、この後よろしければ、決闘呪文の訓練をお願いしたいのです」
凛と響くカサンドラの声が、空気を切り裂いた。
少女らしい高揚感と気品を帯びたその響きは、食堂の重苦しい調和を一瞬にして別の緊張へと変えた。
オリオンが顔を向け、穏やかな声を重ねる。
「それは良い。レギュラスは幼い頃から鍛錬を受けているだけあり、その腕は折り紙付きだ」
直前まで暖かかった空気が、レギュラスの胸には鋭利な刃のように突き刺さる。
引き攣るほどの苛立ちを覚えたが、それでも彼は表情を整えた。
感情を胸奥に押し込み、唇の端をわずかに持ち上げ、気丈な答えを響かせる。
「ええ、もちろん。無理のない範囲で行いましょう」
やがて屋敷の庭は、訓練の舞台となった。
夜空にはまんまるな月が昇り、銀の光が整えられた芝と石畳を照らす。
木々の影は濃く伸び、風は花壇の薔薇をわずかに揺らしている。
夜気は凛と冷たく澄み、杖を握る指先に緊張が沁み込んでいくようだった。
庭の中央に二人が対峙する。
レギュラスは腰に杖を構え、その姿勢は一分の隙もない。
きびきびとした動作の中に、幼少から鍛えられた規律がにじむ。
対するカサンドラは、緊張を漂わせながらも瞳に確かな光を宿していた。
「そちらから攻撃呪文をどうぞ」
冷ややかに落ちる声。
けれど、それは彼の内心の荒波を掻き消す冷静さの仮面でもあった。
「――エクスペルソームス!」
カサンドラの杖先から、閃光が裂ける。
火花のような赤が夜空に散り、次々に放たれる呪文が弾丸の雨のように舞った。
だが、レギュラスの杖先には透明な盾が瞬時に展開し、攻撃はすべて淡い光に吸い込まれるように無力化されてゆく。
まるで危なげはなかった。
淡々としながらも、彼の声は確かに響いた。
「手首の使い方が硬い気がします。もっとしなやかに。杖を振る時の軌道を意識するといいです」
連続する攻防の中で、彼は観察し、指摘を加える。
カサンドラは真剣な面持ちで頷き、再度杖を構え直した。
「呪文を放つ際の息遣いも重要です。力を込める時には、深く息を吐きながら。魔力は呼吸と連動しています」
カサンドラは促されるまま、深く呼気を整えた。
再び杖を振る角度を変え、光条を走らせる。
すると、同じ呪文でありながら先ほどより遥かに鋭さを増していた。
「威力は十分です。ただ、集中が途切れやすい。心を一点に定め、感覚を研ぎ澄ませることです」
言葉に導かれるように、カサンドラの呪文は安定しはじめる。
杖先から溢れ出る魔力が空気の膜を震わせ、芝の上に赤い光の痕跡を残す。彼女は息を呑み、感嘆を抑えきれずに声を洩らした。
「すごいですわ、レギュラス様……」
その瞳は熱を帯び、その光には尊敬が輝いていた。
わずか一度の対峙で、彼女の未熟な欠点を見抜き、即座に矯正する指摘を与える。
その的確さ、冴え渡る剣士の如き眼差しに、敬意は自然と引き出された。
傍らで見ていたオリオンの眼差しが、ほのかな満足を滲ませる。
目を細め、小さく顎を引いて頷くと、息をひとつ長く抜いた。
その仕草は声にはならぬ言葉――「やはり、我が息子だ」――と伝えているようでもあった。
夜の闇に響く呪文の光。
銀色の月がふたりの影を伸ばし、屋敷の庭は一瞬ごとに閃光の舞台と化した。
だが、レギュラスの胸にはなお、別の焦燥が潜み続けていた。
彼が本当に求めている場所は、この戦場ではなく――漆黒の静寂の中、ただひとりアランと向かい合う時なのだから。
庭での訓練を終え、わずかに火照った身体を抱えて室内へ戻ると、食堂はもうひとつの静けさに満ちていた。
さきほどまでの賑やかな会話は跡形を残すのみで、長卓の上にあるのは片付けを待つ食器と、消えかけた燭台の炎だった。
アランがその中心で立ち働いていた。
背筋をすっと伸ばし、銀器を一枚ずつ丹念に重ね、皿をまとめる指先には無駄がない。
凛とした静謐さが、彼女の動作のひとつひとつに宿っていた。
その瞬間、澄んだ声が空気を撫でた。
「ハーブティーを用意していただけるかしら」
カサンドラだった。訓練を終えても衰えない涼やかな響き。
その眼差しには、当然とする落ち着きと華があった。
命令ではなく、しかし抗えぬ重力のように響く依頼の声。
アランは微かに顔を上げ、すぐさま静かに応じた。
「かしこまりました、カサンドラ様。すぐにお持ちします」
落ち着いた声音。
しかしレギュラスの胸奥には、ひりりと焼けつくような感覚が走った。
確かに、使用人に命令を与えることは正当だった。
主人の妻となる者が、それを行うのも至極自然なことだ。
取り立てておかしなことではない――常識としては。
だが、彼にとっては違った。
アランはただの使用人ではない。
誰よりも強く心を囚える存在であり、誰よりも手放したくない存在だった。
その「特別」に平然と命を下し、彼女の指を使いこごちのように扱ってみせるカサンドラの姿が、レギュラスの胸に静かな怒りを煮え立たせていく。
アランはティーカップを一つ、両手で取り上げた。
光に淡く透ける陶器の白、その縁を確かめるように撫でてから、整然と用意された茶葉の箱を開いた。
薄暗い室内、燭火の陰翳のなかで彼女の指先が淡く浮かび上がる。
細く、繊細な指の動き。
ひとつの所作にまで、彼女の真摯さと儚さが表れていた。
その姿を、レギュラスは思わず凝視していた。手に触れれば壊れてしまいそうなものを、実際にはどんな力からも守り抜きたい。そんな二律背反が胸を掻き乱す。
「やめてください、レギュラス。一人でできます」
アランが、ふと呟いた。
彼が近づいた気配を感じ取っていたのだ。
声は凛としていながらわずかに震えが混じり、ほんの些細な頼りなさを孕んでいた。
「……すみません。あなたの仕事を増やしてしまったようで」
レギュラスは低く応じた。
その声音に、隠しきれない本心が滲む。
彼女を助けたいのに――屋敷の規律の中ではそれはむしろ彼女に負担をかける行為とすら映りかねない。
矛盾した立場に、苦みが胸に広がった。
それでも彼は手を伸ばした。ハーブの芳香に包まれる中、アランの細い指に自らの手を重ねた。
その瞬間、彼女の肩が小さくぴくりと震えた。
冷ややかな磁器とは逆に、温もりを帯びた肉体の触感が二人を結びつける。
アランの翡翠のような瞳が揺らぎ、迷いを映す。
困惑と、わずかな優しさの残滓と、そして抑え込もうとする感情の翳。
煮え滾る感情と、儚さを守りたい想い。
その狭間で揺れ続ける瞳が、何よりも痛切に彼の胸を締め付けた。
燭の炎がまたたき、二人の影を壁に絡ませる。
屋敷の重苦しい空気は変わらぬはずなのに、その一角だけは、脈打つ心臓の音で形を変えるように歪んでいた。
足音を忍ばせ、石畳を踏むたびに冷たい空気が肌を撫でる。吐息が白くほどけ、月の光に淡く溶けていく。胸の奥で、ひそやかに鼓動が高鳴っていた。
――今日の授業で、ついにうまくできたのだ。
あの難しかった呪文を、完璧に。
誰よりも先にシリウスに伝えたくてたまらなかった。褒めてもらえることよりも、ただ彼の笑顔を見たい。その一心で、アランは湖畔へと駆けた。
満月が静かな水面を照らしていた。風に揺れる柳の影が波紋のように広がる。その傍ら、黒髪を夜風に靡かせながら、シリウスが石の上に腰を下ろしていた。月光を受けた横顔が美しく、どこか寂しげに見えた。
「シリウス!」
名を呼ぶより早く、アランは駆け寄ってその胸に飛び込んだ。
「おいおい、お姫様。どうしたんだ?」
柔らかな笑い声とともに、温かな腕がしっかりと受け止めてくれる。その匂いも、声も、何もかもが懐かしい安らぎに満ちていた。
「今日、うまくできたの」
興奮で頬が熱くなる。自分でもわかるほど、瞳が輝いていた。
「……そうか」
シリウスの瞳がふっと細められ、次の瞬間、彼はアランを強く抱き寄せた。
「さすがは俺のアランだ」
その一言に、心の奥まであたたかさが染み込んでいく。自分の努力が報われた喜びよりも、「俺の」という響きが、胸の奥をじんわりと焦がした。
思わず彼の首筋に腕を回し、体を寄せた。バランスを崩した二人は、草の上へと倒れ込む。月明かりが一面を銀色に染め、世界は二人だけのものになった。
「わりぃ、わりぃ」
シリウスが笑いながら体を起こそうとするが、アランはその胸に顔を埋めたまま離れられなかった。
「大丈夫?」
彼の声が優しく落ちる。
見上げた瞬間、月の影が彼の瞳に宿り、夜よりも深い光を湛えていた。
その眼差しがあまりに真っ直ぐで、時間の感覚が遠のいていく。心臓の鼓動がやけに大きく響き、空気のすべてが二人の間に溶けていった。
――次の瞬間、唇が触れた。
どちらからだったのか、もう分からない。ただ、確かに求め合っていた。
今までのどんな口づけよりも深く、熱く、痛いほど切実だった。相手の存在を確かめるように、手が頬を包み、息が混ざり合う。
「アラン……」
名前を呼ばれただけで、全身が震えた。
その声には問いがあった――これ以上進んでもいいか、と。
胸の奥から、溢れるように想いが込み上げる。
――構わない。
――ずっと待っていた。
言葉にできない無数の感情が、涙のように滲んだ。
答えの代わりに、アランは自ら唇を重ねた。
その瞬間、彼の腕が強く背を抱き寄せる。互いの鼓動がひとつになり、夜の冷気が遠のいていく。
「好き……シリウス……大好きよ」
その声は震えていたが、嘘ひとつなかった。
「俺も……ずっと、ずっと好きだ」
囁きながら、シリウスは額に唇を落とした。
世界が優しく溶けていく。
暴力でも支配でもない、ただ愛しさだけで繋がる関係――それがどれほど尊く、奇跡のようなものかを知った。
肌と肌の間に流れる温もりが、確かに命の証のように感じられた。
やがて風が二人の髪を撫で、湖面の波が月を揺らす。
この夜の光の中で、アランは確信していた。
――これが、愛というものの形だと。
シリウスと共に、静かな幸福に包まれながら、アランは目を閉じた。
そのまま、月の下、世界はただ静かに、永遠のように愛に満ちていた。与えられる快感に自己嫌悪を覚える必要のない、純粋な結びつき。
それは夢のような時間で――まさに愛というものの核心に触れた気がした。
シリウスと一緒に、その光に包まれることができた気がした。
月が二人を静かに見守る中、世界はただ愛に満ちていた。
シリウスの顔が、苦痛とも快楽ともつかぬ表情に歪んでいた。
額には細かな汗が滲み、頬を伝って滑り落ちるその雫が、胸の上に落ちて小さな音を立てる。荒く上下する息が、アランの胸の上を震わせ、肌の奥まで熱を移していった。
アランは息を飲んだ。
目の前の光景が、夢の中のように遠くて、それでいて信じられないほど鮮やかだった。指先一つ動かすことすら惜しい。
彼のすべての視線、すべての思考が、ただシリウスの表情に釘付けになっていた。
「見るなよ」――掠れた声が唇の隙間からこぼれ、抗うように彼の名残を残した。
けれどその声すらも、アランには愛しくて、胸の奥に染み渡っていく。
唇が重なり、呼吸が奪われる。
抗議にも似た口付けが、押し寄せる波のように降り注ぎ、全てを攫っていく。
絡み合う舌のぬくもりが、肌の奥で震え、溶けていく。
名前を呼ぶ声も、荒い吐息の隙間に掻き消され、音のすべてが二人の間でひとつに混じり合った。
星の囁きのように微かな音が響く。
空気のわずかな揺らぎさえも、互いの肌に触れるたび、慈しむように空間を震わせていた。
闇の奥からは、わずかに水の音が聞こえる。
どこから流れてくるのかもわからないその響きが、二人の世界を包み込んでいった。
アランは、まるで現実の輪郭が溶けていくような感覚に身を委ねた。
心が満たされ、胸の奥から溢れ出る幸福に飲み込まれていく。
ずっと昔からこんな瞬間を夢見ていた。
誰でもない、シリウスに抱かれることを――。
言葉にすることはあまりにも恐れ多く、無作法に思えて、長い間その想いを押し殺してきた。
けれど今、彼女の中には恐れも迷いもなかった。
温もりが流れ込み、呼吸と鼓動が重なり合い、心と体の境界がゆっくりと溶けていく。
この瞬間のために生まれてきたのだとさえ思えた。
彼の腕に包まれ、世界のすべてが遠のいてゆく。
心も体もすべてをシリウス・ブラックに委ね、彼の存在そのものに飲み込まれていく幸福。
胸の奥で脈打つ鼓動が、互いの生命の証として重なった。
いつかこの世を去る日が訪れても、このぬくもりの中で静かに終わりたい。
そう願うほどに、歓びは深く、果てしなく広がっていた。
アランは自らのすべてを差し出し、そしてシリウスのすべてを受け取った。
それはただの肉体の交わりではなく、魂の奥底で結ばれた確かな繋がり――世界のどんな言葉でも表し得ない、永遠の絆だった。
――すべての行為が終わったあと。
アランとシリウスは、ただ静かに並んで空を仰いでいた。
夜の湖面から吹く風はひんやりと頬を撫で、草の匂いと共に夏の名残を運んでくる。
汗ばむ肌をかすめる風が心地よくて、アランは微かに瞼を閉じた。
まだ胸の奥では心臓の鼓動が荒く鳴り続けている。
その拍動がシリウスの呼吸と交わるたび、互いの存在が確かにこの世にあることを感じた。
少し離れたところで、夜露を帯びた葉がかすかに揺れる。
その音さえも、いまは二人だけの世界を飾る旋律のように思えた。
沈黙の中、シリウスが低く呟く。
「アラン、今、すげぇ幸せだ」
その声は夜気に溶けて、星々の瞬きとともに降り注いだ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
まるで言葉そのものが彼の体温を宿してアランの中に沁み込んでくるようだった。
何かを返したいのに、どんな言葉も薄っぺらに思えた。
“私も幸せ”――そう告げるだけでは、この胸を満たすものの半分も伝わらない。
それでも、彼女は静かに微笑んで囁いた。
「私もよ、シリウス」
夜風に混じって届くその声は、かすかに震えていた。
彼がゆっくりと顔を向ける。灰色の瞳が、優しい光を湛えてアランを見つめていた。
その瞬間、全ての不安も孤独も、まるで遠い昔の幻のように消え去っていく気がした。
アランはそっとシリウスの手を探し、指先を触れ合わせる。
温もりが伝わった途端、彼が力強く握り返してくる。
その手のひらの熱が心の奥まで流れ込み、アランは思わず小さく息を漏らした。
言葉を越えた何かがそこにあった――
たとえ世界がこのまま終わっても、彼と共にいる限り、恐れるものなど何もないと思えるほどの確信。
空には無数の星が散らばり、まるで祝福の光を二人に注いでいるようだった。
その輝きの下で、シリウスが微かに笑う。
アランの髪が風に揺れ、その頬に落ちた星明かりが静かに煌めいた。
彼女は思う――
この瞬間こそが、人生のすべての苦しみや涙を赦すために存在していたのだと。
互いの呼吸が重なり合い、夜はゆっくりと深まっていく。
言葉では語り尽くせない幸福が、二人のあいだに静かに満ちていた。
それはまるで、星空の下で奏でられる、永遠に終わらない愛の旋律のようだった。
広大な屋敷の黒大理石の階段を上り、重厚な扉の内側に足を踏み入れた途端、アランの胸に残る熱が静かに疼きだした。
まだシリウスとの再会の余韻が、皮膚の裏まで沁み込むようにして消えぬままある。
頬に触れた掌の温度、耳をかすめた甘やかな吐息、そして決して他人には語ることのできないやわらかな口づけの重み。
それらすべてが、今なお鮮烈に彼の鼓動とともに脈打っていた。
――失いたくない。
この温もりを、せめてもう少しのあいだ自分だけの胸に抱いていたい。
そう祈るようにして、アランは屋敷の空気を吸いこんだ。
だが、重々しい石造りの壁や絹張りの廊下に漂うのは、記憶を守る優しさではなく、ブラック家特有の硬質で息苦しい磁場だった。
アランの傍らを歩くレギュラスは、そんな空気をものともせず、一歩ごとにアランとの距離を縮めてくる。
手を伸ばせばすぐに触れられるほどの近さ。
それ以上に、彼の眼差しは遮られる壁を持たぬ刃のように鋭く、覆い隠そうとしたアランの内心へと真っ直ぐに迫ってきた。
そして次の瞬間、迷うこともなく彼の手首を掴み、人目のない部屋へと引き入れる。
「レギュラス……」
制止の声を絞り出したときには、もう閉ざされた空間で二人きりになっていた。
厚い絨毯の上で音は吸い取られ、遠くに人の気配ひとつないはずなのに、背後ではオリオンとヴァルブルガの無言の眼差しが絶えず監視しているような緊張感から逃れられない。アランの視線は壁の陰影に怯えるように揺れた。
だが、彼――レギュラスにはその重圧さえ届かぬかのように、しずかに、けれど容赦なく身を寄せてくる。瞬きの合間に、唇が重なった。
熱を含む吐息が潰れるように絡み、空気は湿り気を帯びて震える。抵抗の声が喉で吸い込まれ、震える指先だけが切実に拒絶を訴えた。アランは必死に首を振り、やっとの思いでその唇を引き剝がすことができた。
「……ダメです、レギュラス」
胸を押さえ、息を整える。かすれ声の奥に、必死の説得を縫い込む。
「オリオン様も、ヴァルブルガ様も……きっと、私たちの行動に目を光らせているはずです」
理由を並び立てる言葉が、今は盾となる唯一の手段だった。
本心など口にできはしない。――ただひたすら、シリウスがもたらした温もりを、この身から奪われたくないということ。
その柔らかい感触を、匂いを、瞳を閉じれば甦るすべてを、秘めた宝石のように胸の奥で守り抜きたい。
それがレギュラスの熱を遠ざける、唯一にして切実な願いだった。
アランの視線はかすかに震えながらも、どこか底意地のような固さを帯びていた。拒む声の裏に横たわるものを、レギュラスが察するかどうか――その答えは、重苦しい室内の静寂がのみ込んでゆくばかりだった。
重厚なシャンデリアの下で、銀食器の音だけがわずかに響く朝食の席。ブラック家の食卓は、華やかでありながらも緊張に縛られた沈黙に満ちていた。黒曜石のように艶のある長いテーブルに、整然と並ぶ皿と水差し。アランは腰を正し、姿勢を崩すことなくパンを裂き、控えめに口へ運んでいた。
その静けさを破ったのは、ヴァルブルガのふとした一言だった。
「ロズィエ家のカサンドラ嬢を夕食に招く予定よ」
ゆるぎない声音。彼女の声はいつも通りの冷ややかさで、あたかも決定が既に世界の理として確定しているかのように響いた。それに続いて、鋭くも涼やかな視線がアランにだけ注がれる。
「数日間滞在するそうだから、彼女が使う客室の掃除をちゃんとしておきなさい」
アランは椅子を静かに引き、すぐに深々と頭を垂れた。
「かしこまりました、奥様」
正しく整えられた言葉。
音程や抑揚に迷いの影を一切残さず、ただ従順の形そのものを差し出す。
その瞬間、彼の眼差しを横から追っていたレギュラスの瞳が僅かに細められた。
光が射すと同時に鋭さを帯び、短く閃く苛立ちの色。
そのわずかなかすれは、卓上の白い皿ほどにはっきりとアランに伝わってきた。
しかし、アランの胸を満たしたのは怯えではなかった。むしろ、静かな安堵の波が広がっていった。――数日間、レギュラスの意識は必然的にカサンドラへと向かうのだ。
自らが押しつぶされるように迫られることもなくなる。
それだけで今の彼には、鋼鉄の檻の中に差し込む一条の光を見るような救いがあった。
思考はひそやかに別の夜へと流れてゆく。――シリウスと過ごした時間。
囁き合う声、重なる温もり、手の甲をくすぐる柔らかな吐息。
それらは今や誰にも侵されない宝物だ。
数日間というわずかな空白さえあれば、心の奥でその夜を幾度も繰り返し思い出し、幸福の翳を抱きしめ続けることができる。
食事を終えると、漆黒の陶器が一つひとつ片付けられ、大理石の床に食卓を整える音が微かに反射した。
アランは卓上を拭き終えると、すぐさま身を翻し客間の掃除に取りかかった。
白布を振るように軽やかな呪文を唱えると、ベッドのシーツは徐々にほどけ、柔らかな新しい布地へと変わっていく。布の端に触れた指先から微光が広がり、天蓋はさらさらと波状に揺れながら整えられた。床には、小さな精霊を呼び起こす。
ほうきの羽虫のように羽音を立てたそれらは、魔力を帯びて隅に潜む塵を吸い上げ、粒子のような光の鱗屑を舞わせながら消えていった。棚の上には、指先から伸ばした繊細な光の鞭をすっと走らせる。それが触れた瞬間、古い埃は淡い煙のように宙に漂い、ほどなく消え去った。
部屋全体を清めながら、アランの心もひとしずくずつ澄んでいくように感じられた。
その静けさを破ったのは、ふと背後から飛んできた低い声。
「レギュラス」
振り返ったアランの視線の先ではなく、扉の向こうに立つオリオンの影があった。
険しい眉が鋭く刻まれ、その声音は厳然として動かぬ鉄の枷のように響く。
「ロズィエ家のカサンドラ嬢を駅まで迎えに行ってやれ。昼の便には着くはずだ」
「かしこまりました」
短く、しかし力のある響きが応じる。
返事をした瞬間、レギュラスの輪郭にいつもの鋭さが宿り、彼の全身を走る緊張が視覚にすら伝わる。
アランはその姿を見ようとさえしなかった。
視線を伏せ、ただ青白い指を染み入るように重ね合わせ、掃除の続きに意識を預けた。
胸いっぱいに膨らんでいたのは、恐怖でも羨望でもなく、ほかならぬ静かな安堵だった。
――今だけは、心からの自由を。
その言葉が、息とともにこぼれることはなかった。だが、彼の胸の奥ではしっかりとその感覚が脈打つ。かつてなかったほど確かに。
屋敷へ戻ったその日から、レギュラスの胸の奥には絶え間なく苛立ちが渦巻いていた。
アランの拒絶――それはあまりにも優雅で冷静で、反論の余地を許さぬものだった。
オリオンやヴァルブルガの視線がある。
理屈としては完璧だった。
誰もが納得しうる正論。
けれど、その「正論」が刃のように胸を刺す。
自分の昂ぶりを受けとめることなく、美しく退けられたあの一瞬の虚しさが、しこりのように心臓を締め上げて離さない。
そこへ加わったのは母からの告知。
ロズィエ家の令嬢――カサンドラを屋敷に招くという話だった。
祝宴のような明るさではなく、冷たく決定を突きつけられるその声音に、レギュラスは口の裏側まで苦々しさを覚えた。
さらに父の命令が加わる。
「駅まで迎えに行け」。それは一見すれば何でもない任務だったが、積もり積もった苛立ちにとっては最後の一打であった。
屋敷に帰省したというのに、ひと息も安らげない。
むしろホグワーツの寮の方がよほど自由で、気晴らしに満ちているとすら思えてしまう。
深く息を吸い、怒りを内に押し込んで立つ駅のホーム。
黒いアイアンの屋根が光を反射し、汽笛の名残がまだ空気を振るわせていた。
レギュラスの胸には抑えがたい波が打ち寄せていたが、その顔には一片の乱れも見せない。
「まあ、こんなところまでお迎えに来てくださるなんて」
涼やかで優雅な声。
振り向けば眩しいほどに光沢を放つ金髪、柔らかなカールに縁取られた顔立ち。
ロズィエ家の令嬢、カサンドラが微笑みと共に立っていた。
その仕草すべてが舞台の上の貴婦人のように洗練されている。
レギュラスは、完璧に形作られた笑みを浮かべた。
「ええ。長旅でしたでしょうし、お疲れのことと思います。荷物は先に運ばせましょう」
彼女に一礼し、差し出した手を自然に取らせ、馬車の方へと優雅に導く。
日差しが強いのを見てとると、当たり前のように日傘を取り、彼女の白い肩をかすめる影を丁寧にかけてやる。
「優しいのね、レギュラス様」
喜びを滲ませた声に、彼は一層美しい微笑で応じた。
瞳に映るのは、礼儀と誠実を凝縮させた理想的な紳士の姿。
だが、その仮面の裏で心の波は穏やかさを失ったままだった。
馬車が走り出すと、カサンドラは軽やかな調子で言葉を絶やさない。
「ホグワーツでの生活はいかがですか?」
「順調です。特に問題はありません」
簡潔で、しかし不躾にはならぬ回答。
「クィディッチはまだ続けていらっしゃるの?」
「ええ。来年も選手を続ける予定です」
わずかに声を低めることで、落ち着いた印象を与える。
「ご友人はたくさんいらっしゃるでしょうね」
「適度に。勉学に支障が出ぬ程度には」
完璧な受け答えの連続。
それはまるで磨き上げられた楽器が同じ旋律を繰り返すようだった。だが――心の奥では「少し黙っていてくれ」と叫び出したい自分がいる。
その言葉が口をついて出ることは決してない。
彼はブラック家の息子であり、客人を迎える紳士である。
その役割を越えて「個」としての欲求を吐露することなど、ゆるされるはずがない。
だからこそ言葉は切り揃えられ、表情も完璧に管理される。
カサンドラの屈託のない笑顔が窓に反射する光と溶け合う中、レギュラスはただ仮面を崩さぬよう笑っていた。
しかし胸の奥底では、アランの名を呼びたい衝動、拒絶された重み、そして母や父からの縛りが渦を巻き続ける。
馬車の車輪が石畳を刻む乾いた音が、彼の苛立ちに寸分の慰めも与えてはくれなかった。
レギュラスは、馬車から館へと迎え入れたカサンドラの足取りに合わせ、ゆったりと長い廊下を歩いていた。
黒大理石の床に靴音が規則正しく響き、壁に飾られた肖像画が一斉に彼らを注視するように沈黙している。
屋敷全体が息をひそめ、貴族の血統が受け継いだ閉ざされた歴史を静かに訴えかけているかのようだった。
「カサンドラ嬢、長旅でお疲れでしょう。夕食までお部屋でゆっくりくつろいでいてください」
レギュラスの低い声が、石壁にわずかに反響して広がる。
表情は完璧に整えられ、柔らかな気遣いを湛えつつも、心の奥に沈殿する苛立ちを微塵も感じさせなかった。
彼が指先でドアを押し開けると、その奥に立つひとりの姿が目に入った。
アランだった。
ちょうど客間の仕上げを終えたところで、窓から射す淡い陽光を浴びて立つ彼女の姿は、白布を張り替えたばかりの天蓋と同じくらい清らかで、どこか透けるような気配をまとっていた。
扉が開いた瞬間、彼女の瞳がふと大きく揺らぎ、寸刻の間、時がひきとめられたかのように感じられる。
けれど、次に響いた声は凛然として澄んでいた。
「カサンドラ様、お部屋の準備は整っております」
その声は、使用人としての礼儀を欠かさない――だが、わずかな揺れは確かにあった。
緊張が声の奥にひそんでいる。
それはレギュラスには聞き慣れた震え、けれど他人には決して見抜けぬほど繊細な揺らぎであった。
カサンドラはふわりとドレスの裾を揺らし、微笑を浮かべる。
「まあ、とても美しい使用人ね。さすがはブラック家の血筋」
その言葉は社交の一環に違いなかった。
だが、そこにさらりと織り込まれる含み―― アランを褒めながらも、彼女の立場を明確に刻む響きがあった。
レギュラスは即座に、呼吸を崩さぬ調子で応える。
「代々ブラック家に仕えてくれている一族の娘です」
淡白で、しかし誇りを損なわぬよう計算された言葉。
それは客人への説明であると同時に、アランと自分との間にある境界を強調するものでもあった。
けれど、その無機質な言い方は、アランにとって小さな刃のように響いた。
カサンドラの笑みはさらに深まる。
細めた瞳に、かすかな挑発の光をにじませながら続ける。
「こんなに美しい方とは……レギュラス様も、目移りしてしまいそうですね」
艶やかに投げられた言葉は、柔らかい羽根のように場の空気に舞い落ちる――だが、その羽根には微かな鋭さが潜んでいた。
アランの瞳がぎゅっと揺れた。
理不尽なまでに心がざわつく。
主に仕えるべき立場として感情を顔に出してはならないことはわかっていた。
けれど、この場に込められた皮肉を、女性としての直感が見逃すはずはなかった。
張りつめた胸の奥で、何かがかすかに軋む。
その一方で、レギュラスの意識はすでに別の方向へ逸れていた。
早くこの場を終えたい――ただその一心だった。
カサンドラの言葉の一つひとつに含まれる色合いも、アランの揺らぎも、今の彼にとっては重すぎる。完璧な紳士である振る舞いを保ちながら、心の中では「今すぐ空気を断ち切りたい」と強く願っていた。
「どうぞ、こちらへ」
短く、そつのない声。
冷淡にすら響くその促しと共に、彼はカサンドラを部屋の内へと導いた。
瞬間、空間に漂う微かな緊張が室内いっぱいに広がった。
アランの瞳は細微な揺れを残し、カサンドラの笑みは過不足なく気品を整えている。
レギュラスの声音は淡々としていたが、室内に刻まれた三者三様の気配が重なり合い、空気そのものが歪む。
時の流れがほんの少し、重く軋んで滞ったかのようであった。
部屋にカサンドラを案内し、丁寧な挨拶を交わし終えるや否や、レギュラスは扉を閉め、ぱたりと音を遮断した。
廊下の寂しい空気を切るように、そのまま迷いなくアランの傍らに近づき、彼女の細い手を引いた。
滑らかな指先に指が触れ合った瞬間、微かな震えが互いの鼓動を伝い合う。
「レギュラス、少し危機感を持ってください」
小声で放たれたアランの言葉は、叱責よりも心配の響きを帯びていた。
それは氷の刃のように冷たく胸に落ちるのではなく、静かに厚みを持った苦味となって彼の胸に刺さる。
彼女が本気で、自分の身を案じているからこその声色だった。
一拍、深い呼吸を飲み込んだレギュラスは、真剣な答えを返す代わりに唇の端をわずかに上げた。
冗談を装う、甘すぎる微笑。
「あなたの方こそ、少しくらいは嫉妬でも見せてくれたらどうなんです」
軽い挑発に似たその囁きに、アランの瞳がぴたりと揺れた。
唇に小さな言葉が浮かびかけ、すぐに引き結ばれる。
瞬時に黙り込み、頬にかすかに浮かぶ朱。
それを見た途端、レギュラスは自分の言葉が強すぎたことを感じた。
彼女を試すような物言いは、自分の苛立ちの投影にすぎない。
握っていた手の力をそっと緩め、指の圧を和らげていく。
そして、いつのまにか出てしまう癖――親指で彼女の甲をゆるやかになぞる。
皮膚の下に伝わる鼓動を、その細やかな震えを感じた途端、彼の目尻に陰影がほどけた。
「すみません、帰ってきてすぐなのに……やることが多くて、苛立っていました」
声は、少し拗ねた少年のように不器用だった。
横顔には誇りという仮面も、貴族としての冷徹な響きもなく、ただ一人の青年の本音が滲んでいた。その瞳は、アランだけを凝視している。
「いえ、とんでもないわ……」
アランは、軽く首を振りながらそっと応じた。
その声音には驚きも赦しも溶け合い、不思議と柔らかな光を帯びていた。
「少しだけでいいから、一緒に……ゆっくりしましょう。アラン」
その囁きは、願いとも懇願ともつかない響きで落ちていった。
命令の色はそこにはなく、あるのはただ愛おしく縋る心の重み。
苛立ちも渇望も、自分では処理しきれぬ混沌も、すべてを彼女という存在に委ね、緩めたかった。
アランが小さく頷いた瞬間、レギュラスの胸に溶けるような安堵が広がる。解き放たれた鎖が少しだけ軽くなる感覚。
扉が閉ざされ、肖像画の眼差しも届かぬ静寂が満ちる。
燭台の火が柔らかく壁を照らし、ソファに二人が沈むと、彼の眼差しは迷うことなく彼女へと重なっていった。
そっと触れる――沈黙の中に、唇がアランのものに重なった。
それは拙速でも粗野でもない。
ひとつの所作にすぎぬはずのその動作を、レギュラスは丁寧に、深く、重く味わった。
角度を変え、彼女の唇を確かめるように何度も触れる。
触れる度に、積もり重なった苛立ちが少しずつ溶け落ちていく。
心のさざめきが宥められてゆく。
不安も焦燥も、このキスに封じ込められるようだった。
やがてアランの吐息と自身の吐息が重なり合い、熱を孕んだ空気が狭い空間を満たす。互いの呼吸が混じりあい、その中にかすかな恍惚が生まれていた。
――これ以上はしない。
心に秘めた制御があったからこそ、いま目の前のこの口づけだけが、逆に深く、そして甘美なものとなっていた。
二人を包み込む夜は静かで、どこまでも柔らかく。
まるで屋敷全体が、このひとときだけは彼らを優しく許しているかのようであった。
夕刻、ブラック家の食卓は久々に華やいでいた。
長いテーブルの上に銀の燭台が並び、揺らぐ火が金の装飾を柔らかに照らし出す。
その炎は葡萄酒の深紅やソースの艶めきに映えて、屋敷の厳格な空気をひととき和らげていた。
中央には招かれた客、ロズィエ家のカサンドラが座り、彼女を囲むようにブラック家の人々が穏やかな会話を交わしている。
「カサンドラ嬢、一番得意な科目は何かしら?」
ヴァルブルガ夫人が、興味深げに姿勢をわずかに傾ける。冷ややかに見える眼差しの奥に、好奇心の光がちらりと覗いた。
カサンドラは一度だけ杯の縁を指でなぞり、にこやかに眉を和らげた。
「私は魔法薬学が特に得意ですわ」
艶やかな声が卓上を渡り、周囲を包む炎の揺らぎと調和する。その答えを受けて、オリオンが緩やかに笑みを含む。
「それは心強いな。我々がお世話になることも増えるかもしれん」
場にいた者たちは納得するように頷き合い、話題はさらなる広がりを見せる。
会話は和やかに続き、銀器の軽やかな音や笑い声の断片が次々と宙を舞った。
だが――レギュラスにとって、その全ては耳に届いても心を素通りするものに過ぎなかった。
彼の視線は一箇所に固定されている。
テーブルの端を忙しく行き来する影、黙々と食器を運び、新しい料理を並べ、空いた皿を下げる姿。
責務に忠実でありながら、感情を欠くように淡々と動くアランの姿に。
彼女の手首の細やかな動き、伏せられた横顔、衣擦れのたびに垣間見える白い指先――そのひとつひとつが、レギュラスの網膜に焼きついて離れなかった。
ほんの少し前、誰かが彼に話を振った時もあった。
だが、その時の彼はもはや心ここにあらずだった。
「ええ、そうですね」
「興味深いですね」
「今のところは特に問題なく」
口から出る返答は、型通りの社交辞令。
意味を持たぬ言葉の断片に過ぎなかった。
心はここにはない。
テーブルに並ぶ料理にも、カサンドラの笑みにも、笑い合う声にも興味はなく――ただ一人、アランだけがそこにいる。
彼女は止まらぬ。皿を運び、杯に酒を満たし、笑顔を交わすこともなく作業を続ける。
彼女の静けさが、逆に食卓の喧騒の中で際立っていた。
そこに気づく者はいない。
母も、父も、客であるカサンドラも。
ただ、レギュラスだけが見ていた。
彼の眼差しは執着の熱を帯び、心の内側で静かな苛立ちが膨張していく。
なぜ彼女は、自分に視線を向けないのか。
なぜ彼女は、黙々と義務に身を浸してしまうのか。
満ち溢れた場の喧噪にさえ目を伏せ、ただ「使用人」として振る舞うその冷たさに、どうしようもない焦りと空虚が募るばかりだった。
そして、その空虚の只中で彼の世界は一つの像を浮かべ続ける。
―― アラン。
豪奢な食卓も、笑い声も、重厚な魔法の器も、彼にとっては背景にすぎなかった。
視界の全てを占めていたのは、白布を揺らし、光の中を行き交う彼女の姿。
彼の世界の中心にあるのは、ただ一人、その存在だけだった。
食事の余韻がやわらかく漂い、銀器の音も消えた後の食堂は、微妙な静けさに包まれていた。
燭台に揺らめく炎が壁にほの暗い影を落とし、誰もが満ち足りたひとときを味わいながら椅子に身をもたせかけている。
レギュラスの胸中にも、ひとときの夢があった。――食卓を離れ、アランとひそかに言葉を交わし、短くとも安らぎの時間を紡ぎ出す。
喧騒の裏に隠れるように、彼女と二人だけで過ごす静かな瞬間。
それを思い描きながら呼吸を整えた、その時だった。
「レギュラス様、この後よろしければ、決闘呪文の訓練をお願いしたいのです」
凛と響くカサンドラの声が、空気を切り裂いた。
少女らしい高揚感と気品を帯びたその響きは、食堂の重苦しい調和を一瞬にして別の緊張へと変えた。
オリオンが顔を向け、穏やかな声を重ねる。
「それは良い。レギュラスは幼い頃から鍛錬を受けているだけあり、その腕は折り紙付きだ」
直前まで暖かかった空気が、レギュラスの胸には鋭利な刃のように突き刺さる。
引き攣るほどの苛立ちを覚えたが、それでも彼は表情を整えた。
感情を胸奥に押し込み、唇の端をわずかに持ち上げ、気丈な答えを響かせる。
「ええ、もちろん。無理のない範囲で行いましょう」
やがて屋敷の庭は、訓練の舞台となった。
夜空にはまんまるな月が昇り、銀の光が整えられた芝と石畳を照らす。
木々の影は濃く伸び、風は花壇の薔薇をわずかに揺らしている。
夜気は凛と冷たく澄み、杖を握る指先に緊張が沁み込んでいくようだった。
庭の中央に二人が対峙する。
レギュラスは腰に杖を構え、その姿勢は一分の隙もない。
きびきびとした動作の中に、幼少から鍛えられた規律がにじむ。
対するカサンドラは、緊張を漂わせながらも瞳に確かな光を宿していた。
「そちらから攻撃呪文をどうぞ」
冷ややかに落ちる声。
けれど、それは彼の内心の荒波を掻き消す冷静さの仮面でもあった。
「――エクスペルソームス!」
カサンドラの杖先から、閃光が裂ける。
火花のような赤が夜空に散り、次々に放たれる呪文が弾丸の雨のように舞った。
だが、レギュラスの杖先には透明な盾が瞬時に展開し、攻撃はすべて淡い光に吸い込まれるように無力化されてゆく。
まるで危なげはなかった。
淡々としながらも、彼の声は確かに響いた。
「手首の使い方が硬い気がします。もっとしなやかに。杖を振る時の軌道を意識するといいです」
連続する攻防の中で、彼は観察し、指摘を加える。
カサンドラは真剣な面持ちで頷き、再度杖を構え直した。
「呪文を放つ際の息遣いも重要です。力を込める時には、深く息を吐きながら。魔力は呼吸と連動しています」
カサンドラは促されるまま、深く呼気を整えた。
再び杖を振る角度を変え、光条を走らせる。
すると、同じ呪文でありながら先ほどより遥かに鋭さを増していた。
「威力は十分です。ただ、集中が途切れやすい。心を一点に定め、感覚を研ぎ澄ませることです」
言葉に導かれるように、カサンドラの呪文は安定しはじめる。
杖先から溢れ出る魔力が空気の膜を震わせ、芝の上に赤い光の痕跡を残す。彼女は息を呑み、感嘆を抑えきれずに声を洩らした。
「すごいですわ、レギュラス様……」
その瞳は熱を帯び、その光には尊敬が輝いていた。
わずか一度の対峙で、彼女の未熟な欠点を見抜き、即座に矯正する指摘を与える。
その的確さ、冴え渡る剣士の如き眼差しに、敬意は自然と引き出された。
傍らで見ていたオリオンの眼差しが、ほのかな満足を滲ませる。
目を細め、小さく顎を引いて頷くと、息をひとつ長く抜いた。
その仕草は声にはならぬ言葉――「やはり、我が息子だ」――と伝えているようでもあった。
夜の闇に響く呪文の光。
銀色の月がふたりの影を伸ばし、屋敷の庭は一瞬ごとに閃光の舞台と化した。
だが、レギュラスの胸にはなお、別の焦燥が潜み続けていた。
彼が本当に求めている場所は、この戦場ではなく――漆黒の静寂の中、ただひとりアランと向かい合う時なのだから。
庭での訓練を終え、わずかに火照った身体を抱えて室内へ戻ると、食堂はもうひとつの静けさに満ちていた。
さきほどまでの賑やかな会話は跡形を残すのみで、長卓の上にあるのは片付けを待つ食器と、消えかけた燭台の炎だった。
アランがその中心で立ち働いていた。
背筋をすっと伸ばし、銀器を一枚ずつ丹念に重ね、皿をまとめる指先には無駄がない。
凛とした静謐さが、彼女の動作のひとつひとつに宿っていた。
その瞬間、澄んだ声が空気を撫でた。
「ハーブティーを用意していただけるかしら」
カサンドラだった。訓練を終えても衰えない涼やかな響き。
その眼差しには、当然とする落ち着きと華があった。
命令ではなく、しかし抗えぬ重力のように響く依頼の声。
アランは微かに顔を上げ、すぐさま静かに応じた。
「かしこまりました、カサンドラ様。すぐにお持ちします」
落ち着いた声音。
しかしレギュラスの胸奥には、ひりりと焼けつくような感覚が走った。
確かに、使用人に命令を与えることは正当だった。
主人の妻となる者が、それを行うのも至極自然なことだ。
取り立てておかしなことではない――常識としては。
だが、彼にとっては違った。
アランはただの使用人ではない。
誰よりも強く心を囚える存在であり、誰よりも手放したくない存在だった。
その「特別」に平然と命を下し、彼女の指を使いこごちのように扱ってみせるカサンドラの姿が、レギュラスの胸に静かな怒りを煮え立たせていく。
アランはティーカップを一つ、両手で取り上げた。
光に淡く透ける陶器の白、その縁を確かめるように撫でてから、整然と用意された茶葉の箱を開いた。
薄暗い室内、燭火の陰翳のなかで彼女の指先が淡く浮かび上がる。
細く、繊細な指の動き。
ひとつの所作にまで、彼女の真摯さと儚さが表れていた。
その姿を、レギュラスは思わず凝視していた。手に触れれば壊れてしまいそうなものを、実際にはどんな力からも守り抜きたい。そんな二律背反が胸を掻き乱す。
「やめてください、レギュラス。一人でできます」
アランが、ふと呟いた。
彼が近づいた気配を感じ取っていたのだ。
声は凛としていながらわずかに震えが混じり、ほんの些細な頼りなさを孕んでいた。
「……すみません。あなたの仕事を増やしてしまったようで」
レギュラスは低く応じた。
その声音に、隠しきれない本心が滲む。
彼女を助けたいのに――屋敷の規律の中ではそれはむしろ彼女に負担をかける行為とすら映りかねない。
矛盾した立場に、苦みが胸に広がった。
それでも彼は手を伸ばした。ハーブの芳香に包まれる中、アランの細い指に自らの手を重ねた。
その瞬間、彼女の肩が小さくぴくりと震えた。
冷ややかな磁器とは逆に、温もりを帯びた肉体の触感が二人を結びつける。
アランの翡翠のような瞳が揺らぎ、迷いを映す。
困惑と、わずかな優しさの残滓と、そして抑え込もうとする感情の翳。
煮え滾る感情と、儚さを守りたい想い。
その狭間で揺れ続ける瞳が、何よりも痛切に彼の胸を締め付けた。
燭の炎がまたたき、二人の影を壁に絡ませる。
屋敷の重苦しい空気は変わらぬはずなのに、その一角だけは、脈打つ心臓の音で形を変えるように歪んでいた。
