1章
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呪文学の授業。
長机に並んで腰かけると、レギュラスの視線は隣に座るアランに自然と落ちていった。
今日教授が教えるのは、上級の呪文――繊細な魔力制御を要する、難度の高い一つだった。
レギュラスにとってはすでに習得済みのもの。杖を振れば迷いなく発動できる。
だが、アランにとっては未知だろうと考えていた。
……だから自分が導けばいい。
隣で解き方を囁き、力の流し方を正しく教える。
それが当然の役目だと思っていた。
けれど。
「――Aeris Vincio!」
呪文を唱えたアランの杖先から、風の鎖のような光がすっと伸びた。
その動きは滑らかで、形も正確だった。
驚きに、レギュラスは思わず眉を上げる。
「……よく知ってますね」
アランは一瞬きょとんとし、すぐに笑みを浮かべた。
「あ、ええ……先の方まで、一旦目を通していたんです」
「さすがは――勤勉なあなたですね」
軽く皮肉を混ぜた笑みで返しながらも、その瞳の奥では分析が始まっていた。
実際に放った呪文はしっかりと形を成していた。
大きな魔力は要らないが、細やかな練り上げを必要とする魔法――単なる本の知識だけで再現できるものではない。
繰り返し実践を踏まなければ、この正確さは出ない。
……一体、どこで、いつのまにか……誰に。
「いつのまにか、練習されてたんです?」
問いかけに、アランの瞳が一瞬、揺らいだ。
その微細な光の乱れを、レギュラスは見逃さなかった。
「……部屋で。教科書を見ながら……見よう見まねでやってみてたんです」
小さくつぶやく声。
けれど、言葉と表情の裏に残る影は隠せていなかった。
レギュラスは淡く笑って頷いた。
「……それにしては、随分と正確でしたよ。――才能ですね」
「……あなたほどじゃないわ」
アランは微笑んだが、声はどこか掠れていた。
そのやりとりの奥でふたりの思惑は決して重なってはいなかった。
アランは隠し、レギュラスは疑い――それでも言葉は優雅に交わされる。
教室に満ちる光は、変わらず淡々と生徒を照らしていた。
だが二人の間だけに、決して解けない緊張が澱のように残っていた。
飛行術の授業は、晴れ渡る空の下ではじまった。
クィディッチ選手であるレギュラスは教授から補佐を任され、生徒たちを前に指導する立場へと回されていた。
本来ならアランの隣に並び、同じ箒で風を切る姿を見守っていたかった。
だがそれは許されず、周囲に群がる生徒たちへ声をかけなければならなかった。
「腕の力に頼らず、腰と膝で衝撃を吸収して。そうすれば上昇もずっと安定します」
「回転する時は、一度前傾を作ってから。勢いに任せるんじゃなく、自分の体の軸に箒を沿わせるように」
「片手でのバランス練習は、いきなり大きくではなく、まずは小さな動きから。……慣れれば視界が広く使えます」
言葉は自然に口をついて出る。
幼い頃から積み重ねてきた技術なのだから、いくらでも語れた。
だが――心は別だった。
どこかで、アランが誰かと並んで飛んでいるのかもしれない。
自由に駆け回らせるのがこの授業の形式。だからこそ彼女が今どこにいるのか、レギュラスにはわからなかった。
――わからない。
ただそれだけで、不安は容赦なく胸を締めつけていった。
空を自由に舞う飛行術。
本来なら解放の象徴であるはずのその授業が、今日のレギュラスにとっては不安の焔を煽るものにしかならなかった。
背後に気配を感じた。
振り返ると、バーテミウス・クラウチが静かに近づいてきていた。
「……セシール嬢を追いましょうか?」
軽やかに、何でもないことのように告げられた問い。
胸が一瞬、冷たく跳ねた。
――この男は。
飄々とした態度の裏に、人の内を見透かす確かな眼がある。
そしていまも、自分の胸を抉り取るように的を射抜いてきた。
完全に見抜かれている。
不快であり、同時に感心させられるほどの観察眼だった。
しばし沈黙。
それから、息を呑んで言葉を絞る。
「……ええ。お願いできます?」
バーテミウスの瞳がかすかに愉快そうに弧を描いた。
「了解です」
それだけを残し、彼は再び風の中へと溶けていった。
生徒に向かって「落ち着いて」「慌てない」と声をかけながらも、胸の奥にはざわりとした落ち着かない思いが渦を巻いていた。
空を探せどもアランの姿は見えず――ただ、見えない影のように不安だけが残り続けていた。
レギュラス・ブラックは、何でもできた。
勉学においても、魔法の腕においても。
その完璧さは、校内で彼の右に出るものはないと疑われぬほどだった。
飛行術の時間でもそれは例外ではない。
箒を自在に操る身のこなしは完璧で、教授がその姿を見れば――「あとは任せた」と全てを託したくなるだろう。
教え方もまた巧みだった。
群がる生徒たちから尊敬と憧れを一身に集めてしまうのも、不思議ではなかった。
けれど、完璧な男の内面に、今まさに小さな焦りが芽生えていることを、バーテミウスは見抜いていた。
常に彼の隣にあるはずのアラン・セシールの姿がなかった。
レギュラスにとってアランはただの従者ではない。彼の思考と意志の「核」となっている存在であることを、クラウチ家の息子は理解していた。
――あれほど完璧な男が、アランへの想いだけは隠そうともしない。
むしろ露わにし続けている。その歪なアンバランスさこそ、バーテミウスにとって目が離せない理由だった。
ロズィエ家との婚姻が正式に決まっているにも関わらず、態度は変わらぬどころか――
新学期が始まる前に交わした会話の中では、ついに「アランを妻に」とまで言い切ったのだった。
黒髪の兄シリウスが家を飛び出してなお、その弟は己の執着を隠すこともなく進もうとしている。
――ブラック家はきっと荒れ狂う。
だがそれでいい、むしろ愉快だ。これから面白いものが見られる気がしてならない。
確かにアラン・セシールは、その執着を受けるに足る麗しさを備えていた。
華やかに咲く花のように目を引き、長い黒髪は風を孕み、翡翠のような瞳は光を集めていた。
ブラック家の従者にしては、あまりに美しすぎた。使用人という枠に押し込めるには勿体なさすぎる。
魔力や血筋においては凡庸であることは否めない。
それでも――純血であることだけが、最後の救いであった。
そんな彼女は今、湖畔に一人立っていた。
春めく風を胸いっぱいに受けながら、思索するように水面を眺めている。
バーテミウスは音を忍ばせて近づいた。
「……ご一緒しても?」
不意の声に、アランがはっと振り返る。
翡翠の瞳がきらりと揺れ、驚きに大きく見開かれた。
「っ……」
バーテミウスは慌てることもなく、いつもの調子で微笑んだ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですよ」
両手を大げさにあげて見せ、まるで「ほら、害意などない」と演じるように。
その仕草はどこまでも飄々としていて、一歩外せば芝居めいて滑稽ですらある。
アランは小さく息を整えた。
それでも、その翡翠の瞳の奥には警戒の色が僅かに揺れていた。
控えめに顎を動かすようにして、アランは小さく頷いた。
バーテミウスはその仕草を見届けると、湖畔の石に腰を下ろし、少女の隣に座る。
ちらりと視線を流したが、アランは振り返らず、まっすぐに湖面を見つめていた。
波打つ水の光が、翡翠の瞳に映り込む。
それは水面そのものが煌めくのかと見紛うほどに、きらきらと輝き揺れていた。
――これが、レギュラス・ブラックが心酔するほどの美しさか。
バーテミウスは心の裡で淡く笑う。
自分は、こうした美を欲する性分ではない。
けれど、目の前の少女を追い求める男心というものは、いささか理解できてしまう。
心を乱されるほどに、確かに彼女は華やかだった。
「……レギュラスが心配しているようでしたので」
バーテミウスの口から放たれたのは、何でもない調子の一言。
アランはすぐさま顔を伏せ、眉尻をわずかに寄せた。
「……子供じゃありませんから」
小さく吐き出す声には、抗いの色が滲んでいた。
精一杯の強がりのように。
だがバーテミウスはただ、水面に石を投げ込むように笑う。
「……そうでしょうね」
心配、という言葉を彼が口にしたとき、もちろん怪我や迷子などの話をしているわけではない。
レギュラスが不安として膨らませているのは――
アランが、どこで、誰と、何をしているのかを自分が把握できないということ自体だった。
そのことに、この少女はどこまで気づいているのか。
真っ直ぐに光を宿す翡翠の瞳を横目に見ながら、バーテミウスは心中で静かに観察を続けていた。
湖面をなぞる風が、二人の頬を撫でていく。
沈黙ののち、不意にバーテミウスが口を開いた。
「……ところで。どうして、ここを知っているんです?」
声は静かで柔らかい。だが、その眼差しは翡翠の瞳の奥を覗き込むように鋭かった。
ここは普段、授業にも利用されない湖畔の一角だ。
地形も生い茂る木々も入り組んでいて、偶然通りかかることなど稀だろう。
誰かに教えられなければ知りえないような、ひどくマニアックな場所。
人気がなく、誰かと密かに逢うには格好の隠れ家にもなりうる。
アランは小さく息を呑み、言葉を用意した。
「……散策しているときに、たまたま見つけたんです」
バーテミウスはゆるやかに首を傾げ、彼女の口ぶりを観察する。
――回答が弱すぎる。
もっと嘘と事実を交えて答えればよかったものを、とすら思う。
この程度の中途半端な誤魔化しでは、きっとレギュラスを余計に苛立たせるだけだろう。
詰め寄られ、問い詰められる要因になるに違いない。
「……シリウス・ブラックと、ここで呪文の練習をしていましたよね」
今度は淡々と、核心を突いた。
アランの翡翠の瞳が大きく揺れる。
全てを見透かされたように、恐れと驚き、それに不安が一度に表情に浮かぶ。
美しい顔立ちが、動揺によっていっそう際立つのを、バーテミウスは静かに眺めていた。
「……別に、僕が咎める理由はありませんから」
軽く眉を上げ、両手を広げる。
「告げ口をしようなんて思ってもいません」
「……なぜ、それを……」
アランは絞り出すように問いかけた。
――なぜ知っているのか。
それとも、なぜわざわざ告げてきたのか。
問いの芯はそこにあった。
バーテミウスは微笑を薄く残しながら言う。
「ただ……本当に、気をつけた方がいい」
かすかな真剣さが言葉に滲んだ。
「シリウス・ブラックが絡むと、余計に――レギュラスの束縛は強まっていきますよ」
忠告というほど大げさなものではなかった。
けれど、その声はどこか冷ややかな響きを帯びていた。
彼の目には見えていた。
――この少女はまだ、自分の力を正しく使えていない。
従者であるがゆえに、危うい立場に立たされている。だが同時に、もっと賢く、強かに、要領よく生きれば。
いずれは全てを手に入れられるほどの女に昇り詰めても不思議ではない。
「……だから、身の振る舞いには――もう少し気をつけた方がよろしい」
淡い口調で締めくくり、視線を水面へと移す。
湖に映る翡翠の瞳は、彼にとっては脆い宝石であり、同時に奇妙に抗えぬ興味の対象だった。
夕刻の大広間は、膨らむ灯火の下でざわめきに溢れていた。
銀器の音、笑い声、奔放な話題が飛び交い、騒がしくも生き生きとした時間。
その扉から現れた瞬間、レギュラスの視線はただ一人を捉えた。
長卓の一角に座る少女―― アラン。
飛行術の実習のあと、クィディッチの練習に駆り出されていた間、彼女と離れたことが心を波立たせ続けていた。
校舎裏の庭で一人くつろいでいたと、バーテミウスが淡々と告げてくれはしたが――安心などできなかった。
彼にとって「自分の目にない時間」こそが、最も危うく、不安な瞬間だったからだ。
まるで溢れた水を掬うようにして、レギュラスは歩み寄り――駆け寄った。
「…… アラン。心配しました」
真っ直ぐな声。
見上げたアランが小さく微笑んで答える。
「……お疲れ様です、レギュラス」
その視線の先には、自分のために丁寧に用意された一皿があった。
――待ってくれていた。
その日常の仕草ひとつで、胸の奥に安堵が沁みわたっていく。
思考よりも先に、身体が動いていた。
彼女の肩を強く抱き寄せていた。
「っ……」
アランの吐息が小さく弾ける。驚きの音だった。
ざわめく大広間。
一瞬で無数の視線がこちらに向けられた。
けれど、気にならない。
耳に届く笑いや囁きは、今だけすべて遠く霞んでいた。
ほんの数時間。
ただ数時間、目を離しただけだというのに――。
それがこんなにも自分を駆り立て、不安と焦燥を積み上げていたとは。
……どうしたらいいのか、自分でもわからない。
心の奥から噴き上がる想いは、もう制御が効かなくなっていた。
確かめるように抱き寄せる腕には、焦りと渇望と、どうしようもない安心が同居していた。
アランは硬く息を呑みながら、その腕の中に立たされていた。
言葉を交わせないほどに、視線の矢と熱気の中で――。
それでも彼女の心には、「逃げられない」という切実な感覚だけが突き刺さっていた。
ざわめく大広間。
器を打ち合わせる音の間に、抑えた声や含み笑いが混じっていく。
「あれ見た? ブラックに抱き寄せられてた」
「公然と……すごいな」
「ロズィエ家との婚約があるって聞いたけど……じゃあ、あれは?」
「今さら驚くこともないんじゃない? あの二人は前から――」
幾つもの声が、囁きとなって波のように広がっていった。
耳に入れまいとしたところで、届いてしまう。
食堂全体の温度が、少しだけ変わってしまったのをアランも感じ取っていた。
レギュラスの腕はまだ肩を抱いていた。
片手で器用に皿を受け取りながらも、位置だけは譲らない。
それが周囲の好奇の視線をさらに強めているのだと分かっても、彼は平然としていた。
アランは背中に熱い視線を突き刺されるたび、縮こまるように姿勢を小さくした。
本当はただ穏やかに食事をしたいだけだった。
目立たぬように、誰の噂にもならぬように――。
けれどレギュラスと共にいる限り、それは夢にすぎないのだと痛感していた。
「…… アラン」
不意に彼が声をかけてくる。
「少し、落ち着きました」
そっと覗き込むような笑顔。
彼の胸に募っていた焦燥感が、今は安堵に変わっているのが分かる。
――どうして。
どうしてほんの数時間離れただけで。
どうしてこんなにも衝動的になれてしまうのだろう。
問いを返したいのに、口にできなかった。
「……はい」
わずかに笑って見せるしか、できなかった。
その笑顔すら、きっと彼には「肯定」に映るのだろう。
噂と囁きに満ちた大広間の片隅。
誰よりも強く求められることで、アランの心は――温められるのではなく、じわじわと締め付けられていた。
食事を終えると、自然に寮へと戻るものだと思っていた。
けれどレギュラスに手を引かれ、アランは見知った道からどんどん外れていった。
「……どこに向かっているんです?」
問いかけても、彼は振り返らない。
長い廊下を歩き、薄暗い階段を下り、普段足を運ぶことのない回廊を抜ける。
窓枠には蜘蛛の巣がかかり、冷たい風が隙間から忍び込んでいた。
石壁に打ち付けられた燭台の蝋は半ば垂れ落ちて固まり、まるで時を止めたかのように色褪せている。
緊張で胸が締め付けられる。
この先に何があるのか――不安だけが募っていった。
やがて辿り着いたのは、誰の影もない空き部屋だった。
「……ここ、どこです?」
ようやく漏れた声に、レギュラスは淡々と答えた。
「使われていない教室みたいです」
干からびた教材がいくつも乱雑に積み上げられている。
机の上は薄い埃に覆われ、窓辺の瓶には乾燥した薬草が色褪せて転がっていた。
「魔法薬学の……古い教室、だったのかもしれませんね。教科書もありますし」
アランの指が、朽ちかけた背表紙をそっと撫でる。
その瞬間――返事はなかった。
代わりに彼女の背が壁へ押し寄せられ、顔を傾けられる。
呼吸を許さぬほどのキスが重ねられた。
「……っ!」
見たこともない景色。知らない空間。
未知の教材に心を奪われていたわずかな瞬間の興奮は、一気に飲み込まれていった。
現実との境界線が、急激に溶け崩れていく。
口づけは深みを増し、次第に抗う隙を与えなくなる。
衣服の布地をかすめる指が、冷たい空気に浸されたように震えを誘った。
「……まさか、こんな場所で……」
心の奥に抗議の声が浮かんでも。
唇を塞がれている間は、それすら音にできない。
受け入れるしかないのか。
拒む権利など、自分にはないのだろうか。
頭の奥で考えが絡まり合う。
それは彼の愛からくる行為なのか、それとも所有欲の捌け口なのか。
境界は遠ざかり、思考は霞んでいった。
腰の辺りで、布がさぐられる感触。金具が外れる微かな音。
全てが遠い世界の出来事のように耳に届く。
壁際に押し込められた背中には、硬い石の冷たさと粗さが強く当たっていた。
ざらついた壁に背が擦れ、じくりと痛む。
けれど――もっと痛いのは。
「心」そのものが、強張っていた。
硬い石壁に押し付けられながら受ける行為は、アランにとって初めてのことだった。
背に走る擦れや、全身にのしかかる重さ。
膝から力が抜けそうになりながらも、逃げることは許されなかった。
痛みと苦しさに、胸の奥で「もう二度としたくない」と思うほどだった。
細い身体を支える自重が余計に嵩み、奥深くまで繋がれてしまう感覚が全身を震わせる。
その震えを、きっと彼は違う意味で受け止めていたのだろう。
「悦び」と。「応え」と。
否定することもできたかもしれない。
けれどもう、言い訳するのも面倒で――ただ目を閉じて震えをやり過ごすしかなかった。
息は荒いままで、なかなか整わなかった。
肩で大きく呼吸をする自分の隣で、レギュラスは何事もなかったように涼しい顔をしていた。
先ほどまで狂おしいほどの熱で迫ってきた男と、目の前の整った貌が同じだということが信じられなかった。
喉にせり上がる吐息さえ惨めに思える。
衣服は中途半端に乱されたまま、背と腰には未だ硬い壁の痛みが残っている。
全身が余韻に震え続ける一方で、彼の灰色の瞳は無風の水面のように澄んでいた。
「…… アラン。やっと……本当の意味で、落ち着きました」
そう言いながら、レギュラスは背に添えた手でとんとんと優しいリズムを刻む。
まるで幼子を寝かしつけるかのような仕草だった。
その柔らかさが、むしろ胸を冷やした。
愛情なのか、慰撫なのか、それともただ自らの満足の余韻なのか。
どんな意味での「落ち着き」なのか、確かめる気力もなかった。
「……」
返す言葉は、喉の奥で凍りついた。
「そうですか」と答えることすら、声にできなかった。
冷えた心だけが、静かに自らの輪郭を際立たせていた。
夜の談話室は、静かなざわめきに包まれていた。
大きなテーブルの周りには、まだ幾人か生徒が集い、課題の合間にのんびりと言葉を交わしている。
「明日の呪文学、事前課題やってる?」
「全然!だれかノート見せてくれよ」
「クィディッチの試合、来月だろ?ポジションどう変えるんだ?」
「ブラック、練習どうだった?」
適当に話題が振られるたび、アランも静かに返事をしていく。
「ノートはあとで貸しましょうか」
「試合、応援します」
「今日は見学だけでした」
淡々とした、波風立たない返し。
心の奥は今にも溢れそうな痛みで満ちているのに、それを隠して平静を装った。
隣には、レギュラスが腰を下ろしていた。
先ほどの行為などなかったかのように、凛とした顔で会話に加わっている。
その整った横顔が一切動揺せず、平然としている様子に――
自分だけが下腹部に痛みを抱え、情けなさや悲しさに沈むこの対比が余計に胸を締め付けた。
「…… アラン。どこか痛みますか?」
ふいに、レギュラスが低く囁きかけてきた。
何かを察したのか、心配そうな瞳で覗き込む。
……だが、言葉にはできなかった。
さっきのことでお腹が痛い、なんて。
あまりに生々しく、自分で記憶を掘り起こすようで――口にする気力はなかった。
「……いいえ、どこも平気です」
閉じた笑顔で答える。
レギュラスの手はそっと後ろからアランの腰へ添えられた。
人目につかない位置だと分かった瞬間、わずかな安堵を感じる。
この痛みが誰の目にも晒されることがないだけでも、救われる気がした。
談話室の灯りは温かく、静けさの中で笑い声が浮かんでいた。
そのただ中で、アランの心だけが――静かに凍えていた。
4寮合同の魔法格闘授業――
普段とは違い、バディは必ず他寮の生徒から選ぶように指示があった。
それはアランにとって肩の荷が一気に降りた思いだった。
気の遠くなるほど差のある力にずっと圧迫され続けてきた日々から、少しだけ解放される。
教室へ向かう途中、レギュラスは普段よりもゆっくりと歩みを合わせてきた。
「無茶はしないでくださいね、アラン」
そっと目を伏せ、真剣に声をかけてくる。
アランも微笑み、冗談まじりに返す。
「もちろん――あなたの方こそ、あまり強い呪文で他寮の生徒を気絶させないでね」
一瞬の沈黙のあと、レギュラスがわずかに微笑む。
今からしばらく離れることへの不思議な安堵が、アランの胸を軽くした。
教師の合図に従い、皆が杖を構えて対戦場所へ立つ。
アランの相手はハッフルパフ寮の女生徒。
淡い色の髪に優しい瞳をした生徒が、少し緊張した面持ちで向かい合ってくる。
空気は静かで、心地よい緊張感が満ちていた。
アランは深く息を吸い、シリウスが教えてくれた言葉を思い出す。
「力を受け止めるんじゃなく、うまく流して」
「あせらず、指先で感じて」
あの日、月夜の下で手を取ってくれた温度が蘇る。
杖を握る手に、幸福な記憶が宿る。
「自分でもできる」。
小さく微笑み、柔らかな希望を胸に対戦に臨んだ。
教室の騒がしさや周囲のざわめきは、不思議なほど遠く感じられた。
この瞬間だけは――自分の力で、少しずつ前に進めていることを心から嬉しく思えた。
結果は、アランの勝利だった。
シリウスの言葉通り、相手の攻撃呪文を流し受け、跳ね返すことに成功。
最後は一瞬の隙を突いて、ハッフルパフの女生徒の杖を軽やかに奪い取った。
「……これ、どうぞ」
自分の手に残った杖をそっと返す。
ハッフルパフの少女は、ふわっと笑って「ありがとう」と囁く。
アランは、思わず「こちらこそ」と応じていた。
小さな肩越しに、互いに柔らかな空気が流れる。
二人は自然と並んで腰を下ろす。
教室のざわめきが遠ざかり、淡い光だけが二人の輪郭を際立たせていた。
自己紹介を兼ねた会話が始まる。
「……私はリディア・ヘンリー。ハッフルパフよ」
やわらかな金髪と、蜂蜜色の穏やかな瞳が印象的だった。
優しい声と素直な微笑み。アランの胸に清らかな風が吹き込む。
「アラン・セシールです」
そっと名乗ると、リディアはすぐに「知ってるわ。有名だもの」と微笑んだ。
驚きが、胸を弾いた。
自分には才も家柄もない。
有名だと言われるのは――きっとレギュラスの隣にいるから。彼の名で知られているだけ。
優しい声の余韻に、胃の奥がきゅっと締め付けられるような感覚が残った。
それでも今は、少しだけ誇らしい気持ちが心を支えていた。
「自分で勝てた」その実感が、微かな自信となって胸に灯っていた。
アランは次の試合でグリフィンドールの生徒と対戦することになった。
凛とした姿勢で互いに杖を構え、礼儀正しく挨拶を交わす。
「よろしくお願いします」
「どうぞお手柔らかに――」
教師の号令が響いた瞬間。
光が弾けるより早く、アランの手から杖が消えた。
動きは一閃、まるで魔法のような早業だった。
「……アラン・セシールさんですね? 杖をどうぞ」
グリフィンドールの生徒は爽やかな笑みで杖を返す。
「ありがとう。素晴らしかったわ」
アランは屈託ない笑顔を見せ、素直に称賛を贈った。
試合を終えると、先ほどのリディアも駆け寄ってくる。
グリフィンドールの生徒も加わり、自然と輪が生まれる。
「僕はミカエル・フォレスト。グリフィンドールだ」
栗色の髪に快活な瞳、礼儀正しい所作が印象的だった。
リディアは柔らかく、「絶対あなたが優勝だわ!」とミカエルへ声をかける。
「一瞬すぎて、杖を奪われた事さえ見えなかったもの……」とアランも頷いた。
ミカエルは少し照れくさそうに髪をかき上げながら微笑む。
「いや、まだまださ。君たちもかなりよかったよ」
リディアがくすくすと笑い、アランの肩に手を置く。
その輪の中に、寮や家柄などの隔たりはほんのりと溶けていた。
魔法や立場を超えた、確かな友情の芽生え。
爽やかな風が教室を満たし、アランの心も軽くほころんだ。
今日だけは、壁も名前もすべて越えて――
自分の輪郭が希望に染まる瞬間だった。
レギュラス・ブラックは、瞬く間に勝利を積み重ね、学園内の注目の的となっていた。
決闘場の一角から、その鮮やかな勝利の連続が見て取れる。
隣で見守るリディアが口を開いた。
「このままだと、レギュラス・ブラックとの対戦になるのかしら」
ミカエルも軽く肩をすくめて応じる。
「そうなるだろうなあ。アランの恋人だからな」
思わぬ言葉に、アランは慌てて顔を背けた。
「ち、違うわ!決してそんなことはないの」と必死に否定する。
ずっと予感していたとはいえ、他寮の生徒からそう言われると胸の内はざわつくばかりだった。
その日、ミカエルの試合が続いていた。
リディアとともに、それを見守るアランは、見事に勝利していく彼の姿に感嘆して声をかける。
「すごいわね」
リディアは、目を輝かせて続ける。
「ええ。きっと本当に、レギュラス・ブラックとの対戦になるかもしれないわ」
別の場所で激しく絡み合う幻影。
レギュラスの戦いは、ほとんど一瞬で決着がついていた。
彼の鋭い動きと魔法の閃光に、目を奪われる女生徒たちの姿も多く目に映った。
その光景に、アランの胸は絞られてしまう。
あの男が自分の隣にいない、離れた場所からまるで部外者のように眺めることができれば、どれほど楽だろう。
彼女自身もあの女生徒たちと同じように――ただ遠くから彼を見つめるだけの人間でありたかった。
縛られることも、愛されたいと思うことも、望んでなどいなかった。
けれど今は――この離れた時間、自由なこの授業の時間こそが、何より安堵の瞬間だった。
ミカエルは見事に最終決闘まで勝ち残り、スリザリンのレギュラス・ブラックとの対決が実現した。
グリフィンドール対スリザリン――この伝統的な因縁に、周囲の生徒たちは一気に熱狂する。
決闘台に立つ二人の間に、緊張した静寂が漂った。
次の瞬間、呪文が激しく交錯し始める。
「Expelliarmus!」
「Protego!」
「Stupefy!」
「Deflecto!」
赤と青の閃光が宙で絡み合い、弾け散る。
ミカエルの素早い身のこなしと、レギュラスの冷静で正確な呪文が何度も激突した。
観客席からは歓声と息を呑む音が絶え間なく響く。
だが――ミカエルの呪文にわずかな揺らぎが生まれた瞬間。
レギュラスは見逃さなかった。
「Expelliarmus Maxima!」
追い討ちをかける強力な武装解除呪文が、ミカエルの杖を高く宙に舞い上がらせる。
スリザリンの勝利。
緑と銀の旗が一斉に振られ、寮生たちの歓声が響き渡った。
「見事だった!スリザリン寮に50ポイント加算する」
教師の声が場内に響く。
その光景を見つめながら、アランの胸は痛んでいた。
ミカエルが敗れた姿に、なぜか自分も打ちのめされたような気分になる。
リディアが真っ先に駆け寄るのを見て、アランも後に続いた。
「ミカエル、お疲れ様。すごかったわ」
リディアが息を弾ませながら声をかける。
「ええ、本当に」
アランも心からの言葉を添えた。
リディアがミカエルの片手を取って立ち上がらせる。
アランは反対側の手をそっと支える。
二人に挟まれて、ミカエルはゆっくりと身を起こした。
「いや……情けないよ」
苦笑いを浮かべながらも、彼は負けを潔く受け入れていた。
そして振り返ると、レギュラスに向かって深々と礼を捧げる。
その姿に、アランはグリフィンドールらしい勇敢さと誠実さを感じずにはいられなかった。
敗北すら美しく受け入れる強さが、そこに宿っているように思えた。
授業が終わると、リディアが明るい声で提案してきた。
「三人で中庭で昼食はどう? お天気もいいし」
ミカエルも「いいね」と賛同する。
その瞬間、アランの胸に迷いが生まれた。
いつもなら、レギュラスと並んで食堂の長テーブルに座り、彼の分の食事を丁寧に盛り付ける――それが日課だった。
新しい友人たちとの時間と、変わらぬ義務。
どちらを優先すべきなのか、答えが見えなかった。
「ええ……先に二人で行っていてもらえる?すぐに行くわ」
曖昧な笑みで答え、足は自然とレギュラスの方へ向いていた。
勝利者である彼の元へ歩み寄ると、まるで待っていたかのような抱擁で迎えられる。
「おめでとうございます、レギュラス。さすがでした」
心からの祝福を込めて声をかけた。
「あなたも一戦、勝ち進んだそうですね」
彼の灰色の瞳に、わずかな誇らしさが宿る。
手を引かれるまま、いつものように大広間へ足を向けた。
長テーブルに着くと、アランは習慣的にレギュラスの皿へ料理を盛り始める。
スープ、パン、肉料理――彼の好みを熟知した手際の良さで。
自分の分は、簡単なサンドイッチをナプキンに包むだけにとどめた。
「食べないんですか?」
レギュラスが不審そうに眉をひそめる。
「あっ、ええ……まあ……」
言葉が途切れがちになる。
リディアとミカエルとの約束をどう切り出せばいいのか、見当がつかなかった。
歯切れの悪い返事に、自分でも情けなくなってしまう。
彼の視線が、静かにアランの表情を読み取ろうとしていた。
その重さに、胸の奥がきゅっと縮こまる思いだった。
震える声で、アランはぽつりと言った。
「さっき、決闘で一緒になった二人と中庭で昼食を取らないかって誘われたの……」
その告白は、まるで子供が親の許可を待つような、もどかしく切実な感覚に満ちていた。
レギュラスの返事を待つ時間は、心の中に冷たい恐怖がじわりと広がっていくのを感じていた。
ついに彼が口を開く。低く響く、しかし紛れもない強い意志を秘めた声だった。
「行ってほしくないと言えば、どうするつもりです?」
その言葉は重く、胸に切り込んだ。眩暈に似た痛み――恐怖と愛の狭間に揺れる感情が全身に広がる。
言葉は続く。
「だめですか?」とアラン。
「いいか悪いかではなく、僕は行ってほしくないです」
明確な否定の言葉ではなかった。だが、その響きに抗うことができぬ現実があった。
彼の言葉は誓いのように響き、忠誠を誓う者の胸に深く刻まれるものだった。
アランはどうすることもできない迷いの中で立ち尽くした。
きっと中庭では、ミカエルとリディアが自分を待っているのだろう。
自由に、はしゃぐ彼らの姿を。
視線を向けると、レギュラスは静かにこちらを見つめていた。
その瞳はどこまでも澄み、微笑みはきらきらと美しかった。
その完璧な笑みの裏に隠されたものが、アランの心に、ますます絡みついて離れなかった。
「行ってほしくない」と明確に言われ、アランは悟った。
リディアとミカエルと過ごす昼食の時間は、もう自分には許されないのだと。
だからこそ、自らの口で伝えなければならない。
「わかりました。すぐに戻りますから、待っててくださいね」
レギュラスは静かに頷き、微笑みを浮かべた。
その笑みはどこまでも威厳に満ち、勝利者のたたずまいだった。
中庭にはすでにリディアとミカエルがいた。
アランを見つけると、二人はにっこりと手をふり、楽しげに手招きをする。
胸が痛んだ。
彼らはサンドイッチやパイなど、戸外でも食べやすいものを用意していた。
けれど、アランの手には何もない。
「食べないの?」
柔らかい声でリディアが尋ねた。
「あっ、ええ……お腹はあまり空いてなくて……」
声は澄んでいたが、どこかかすれた響きを含んでいた。
少しの間、温かな会話を交わした。
好きな本の話、授業の内容、どんな魔法を学んでいるか。
未来の夢も少しだけ。
リディアとミカエルの笑顔は、優しくアランの心に染み入った。
「じゃあ、そろそろ行かなくちゃ」
そう告げると、二人が驚いたように声を合わせた。
「もう行くのかい?」
ミカエルの問いは、辛く胸に刺さった。
確かにあまりにも短すぎた、自分の時間。
言葉のやり取りでしかなかったのに、そこには確かな温もりがあった。
「話せて良かったわ、アラン」
リディアは優しく微笑んだ。
「僕の方こそ、男子生徒の憧れの的だった君と話せて緊張したけど光栄だった」
ミカエルは真面目にそう言い、少し照れたように笑みを浮かべる。
心の奥で、痛みと柔らかさが寄り添う。
アランは笑顔で二人の手をしっかりと握った。
そしてそのまま、大広間へと足早に戻った。
背中に感じるのは、レギュラスの待つ場の空気。
短くも濃密な時間。儚く消えた自由のような友人たちとのひととき。
それを胸に刻みながら、アランは歩みを進めるのだった。
長机に並んで腰かけると、レギュラスの視線は隣に座るアランに自然と落ちていった。
今日教授が教えるのは、上級の呪文――繊細な魔力制御を要する、難度の高い一つだった。
レギュラスにとってはすでに習得済みのもの。杖を振れば迷いなく発動できる。
だが、アランにとっては未知だろうと考えていた。
……だから自分が導けばいい。
隣で解き方を囁き、力の流し方を正しく教える。
それが当然の役目だと思っていた。
けれど。
「――Aeris Vincio!」
呪文を唱えたアランの杖先から、風の鎖のような光がすっと伸びた。
その動きは滑らかで、形も正確だった。
驚きに、レギュラスは思わず眉を上げる。
「……よく知ってますね」
アランは一瞬きょとんとし、すぐに笑みを浮かべた。
「あ、ええ……先の方まで、一旦目を通していたんです」
「さすがは――勤勉なあなたですね」
軽く皮肉を混ぜた笑みで返しながらも、その瞳の奥では分析が始まっていた。
実際に放った呪文はしっかりと形を成していた。
大きな魔力は要らないが、細やかな練り上げを必要とする魔法――単なる本の知識だけで再現できるものではない。
繰り返し実践を踏まなければ、この正確さは出ない。
……一体、どこで、いつのまにか……誰に。
「いつのまにか、練習されてたんです?」
問いかけに、アランの瞳が一瞬、揺らいだ。
その微細な光の乱れを、レギュラスは見逃さなかった。
「……部屋で。教科書を見ながら……見よう見まねでやってみてたんです」
小さくつぶやく声。
けれど、言葉と表情の裏に残る影は隠せていなかった。
レギュラスは淡く笑って頷いた。
「……それにしては、随分と正確でしたよ。――才能ですね」
「……あなたほどじゃないわ」
アランは微笑んだが、声はどこか掠れていた。
そのやりとりの奥でふたりの思惑は決して重なってはいなかった。
アランは隠し、レギュラスは疑い――それでも言葉は優雅に交わされる。
教室に満ちる光は、変わらず淡々と生徒を照らしていた。
だが二人の間だけに、決して解けない緊張が澱のように残っていた。
飛行術の授業は、晴れ渡る空の下ではじまった。
クィディッチ選手であるレギュラスは教授から補佐を任され、生徒たちを前に指導する立場へと回されていた。
本来ならアランの隣に並び、同じ箒で風を切る姿を見守っていたかった。
だがそれは許されず、周囲に群がる生徒たちへ声をかけなければならなかった。
「腕の力に頼らず、腰と膝で衝撃を吸収して。そうすれば上昇もずっと安定します」
「回転する時は、一度前傾を作ってから。勢いに任せるんじゃなく、自分の体の軸に箒を沿わせるように」
「片手でのバランス練習は、いきなり大きくではなく、まずは小さな動きから。……慣れれば視界が広く使えます」
言葉は自然に口をついて出る。
幼い頃から積み重ねてきた技術なのだから、いくらでも語れた。
だが――心は別だった。
どこかで、アランが誰かと並んで飛んでいるのかもしれない。
自由に駆け回らせるのがこの授業の形式。だからこそ彼女が今どこにいるのか、レギュラスにはわからなかった。
――わからない。
ただそれだけで、不安は容赦なく胸を締めつけていった。
空を自由に舞う飛行術。
本来なら解放の象徴であるはずのその授業が、今日のレギュラスにとっては不安の焔を煽るものにしかならなかった。
背後に気配を感じた。
振り返ると、バーテミウス・クラウチが静かに近づいてきていた。
「……セシール嬢を追いましょうか?」
軽やかに、何でもないことのように告げられた問い。
胸が一瞬、冷たく跳ねた。
――この男は。
飄々とした態度の裏に、人の内を見透かす確かな眼がある。
そしていまも、自分の胸を抉り取るように的を射抜いてきた。
完全に見抜かれている。
不快であり、同時に感心させられるほどの観察眼だった。
しばし沈黙。
それから、息を呑んで言葉を絞る。
「……ええ。お願いできます?」
バーテミウスの瞳がかすかに愉快そうに弧を描いた。
「了解です」
それだけを残し、彼は再び風の中へと溶けていった。
生徒に向かって「落ち着いて」「慌てない」と声をかけながらも、胸の奥にはざわりとした落ち着かない思いが渦を巻いていた。
空を探せどもアランの姿は見えず――ただ、見えない影のように不安だけが残り続けていた。
レギュラス・ブラックは、何でもできた。
勉学においても、魔法の腕においても。
その完璧さは、校内で彼の右に出るものはないと疑われぬほどだった。
飛行術の時間でもそれは例外ではない。
箒を自在に操る身のこなしは完璧で、教授がその姿を見れば――「あとは任せた」と全てを託したくなるだろう。
教え方もまた巧みだった。
群がる生徒たちから尊敬と憧れを一身に集めてしまうのも、不思議ではなかった。
けれど、完璧な男の内面に、今まさに小さな焦りが芽生えていることを、バーテミウスは見抜いていた。
常に彼の隣にあるはずのアラン・セシールの姿がなかった。
レギュラスにとってアランはただの従者ではない。彼の思考と意志の「核」となっている存在であることを、クラウチ家の息子は理解していた。
――あれほど完璧な男が、アランへの想いだけは隠そうともしない。
むしろ露わにし続けている。その歪なアンバランスさこそ、バーテミウスにとって目が離せない理由だった。
ロズィエ家との婚姻が正式に決まっているにも関わらず、態度は変わらぬどころか――
新学期が始まる前に交わした会話の中では、ついに「アランを妻に」とまで言い切ったのだった。
黒髪の兄シリウスが家を飛び出してなお、その弟は己の執着を隠すこともなく進もうとしている。
――ブラック家はきっと荒れ狂う。
だがそれでいい、むしろ愉快だ。これから面白いものが見られる気がしてならない。
確かにアラン・セシールは、その執着を受けるに足る麗しさを備えていた。
華やかに咲く花のように目を引き、長い黒髪は風を孕み、翡翠のような瞳は光を集めていた。
ブラック家の従者にしては、あまりに美しすぎた。使用人という枠に押し込めるには勿体なさすぎる。
魔力や血筋においては凡庸であることは否めない。
それでも――純血であることだけが、最後の救いであった。
そんな彼女は今、湖畔に一人立っていた。
春めく風を胸いっぱいに受けながら、思索するように水面を眺めている。
バーテミウスは音を忍ばせて近づいた。
「……ご一緒しても?」
不意の声に、アランがはっと振り返る。
翡翠の瞳がきらりと揺れ、驚きに大きく見開かれた。
「っ……」
バーテミウスは慌てることもなく、いつもの調子で微笑んだ。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですよ」
両手を大げさにあげて見せ、まるで「ほら、害意などない」と演じるように。
その仕草はどこまでも飄々としていて、一歩外せば芝居めいて滑稽ですらある。
アランは小さく息を整えた。
それでも、その翡翠の瞳の奥には警戒の色が僅かに揺れていた。
控えめに顎を動かすようにして、アランは小さく頷いた。
バーテミウスはその仕草を見届けると、湖畔の石に腰を下ろし、少女の隣に座る。
ちらりと視線を流したが、アランは振り返らず、まっすぐに湖面を見つめていた。
波打つ水の光が、翡翠の瞳に映り込む。
それは水面そのものが煌めくのかと見紛うほどに、きらきらと輝き揺れていた。
――これが、レギュラス・ブラックが心酔するほどの美しさか。
バーテミウスは心の裡で淡く笑う。
自分は、こうした美を欲する性分ではない。
けれど、目の前の少女を追い求める男心というものは、いささか理解できてしまう。
心を乱されるほどに、確かに彼女は華やかだった。
「……レギュラスが心配しているようでしたので」
バーテミウスの口から放たれたのは、何でもない調子の一言。
アランはすぐさま顔を伏せ、眉尻をわずかに寄せた。
「……子供じゃありませんから」
小さく吐き出す声には、抗いの色が滲んでいた。
精一杯の強がりのように。
だがバーテミウスはただ、水面に石を投げ込むように笑う。
「……そうでしょうね」
心配、という言葉を彼が口にしたとき、もちろん怪我や迷子などの話をしているわけではない。
レギュラスが不安として膨らませているのは――
アランが、どこで、誰と、何をしているのかを自分が把握できないということ自体だった。
そのことに、この少女はどこまで気づいているのか。
真っ直ぐに光を宿す翡翠の瞳を横目に見ながら、バーテミウスは心中で静かに観察を続けていた。
湖面をなぞる風が、二人の頬を撫でていく。
沈黙ののち、不意にバーテミウスが口を開いた。
「……ところで。どうして、ここを知っているんです?」
声は静かで柔らかい。だが、その眼差しは翡翠の瞳の奥を覗き込むように鋭かった。
ここは普段、授業にも利用されない湖畔の一角だ。
地形も生い茂る木々も入り組んでいて、偶然通りかかることなど稀だろう。
誰かに教えられなければ知りえないような、ひどくマニアックな場所。
人気がなく、誰かと密かに逢うには格好の隠れ家にもなりうる。
アランは小さく息を呑み、言葉を用意した。
「……散策しているときに、たまたま見つけたんです」
バーテミウスはゆるやかに首を傾げ、彼女の口ぶりを観察する。
――回答が弱すぎる。
もっと嘘と事実を交えて答えればよかったものを、とすら思う。
この程度の中途半端な誤魔化しでは、きっとレギュラスを余計に苛立たせるだけだろう。
詰め寄られ、問い詰められる要因になるに違いない。
「……シリウス・ブラックと、ここで呪文の練習をしていましたよね」
今度は淡々と、核心を突いた。
アランの翡翠の瞳が大きく揺れる。
全てを見透かされたように、恐れと驚き、それに不安が一度に表情に浮かぶ。
美しい顔立ちが、動揺によっていっそう際立つのを、バーテミウスは静かに眺めていた。
「……別に、僕が咎める理由はありませんから」
軽く眉を上げ、両手を広げる。
「告げ口をしようなんて思ってもいません」
「……なぜ、それを……」
アランは絞り出すように問いかけた。
――なぜ知っているのか。
それとも、なぜわざわざ告げてきたのか。
問いの芯はそこにあった。
バーテミウスは微笑を薄く残しながら言う。
「ただ……本当に、気をつけた方がいい」
かすかな真剣さが言葉に滲んだ。
「シリウス・ブラックが絡むと、余計に――レギュラスの束縛は強まっていきますよ」
忠告というほど大げさなものではなかった。
けれど、その声はどこか冷ややかな響きを帯びていた。
彼の目には見えていた。
――この少女はまだ、自分の力を正しく使えていない。
従者であるがゆえに、危うい立場に立たされている。だが同時に、もっと賢く、強かに、要領よく生きれば。
いずれは全てを手に入れられるほどの女に昇り詰めても不思議ではない。
「……だから、身の振る舞いには――もう少し気をつけた方がよろしい」
淡い口調で締めくくり、視線を水面へと移す。
湖に映る翡翠の瞳は、彼にとっては脆い宝石であり、同時に奇妙に抗えぬ興味の対象だった。
夕刻の大広間は、膨らむ灯火の下でざわめきに溢れていた。
銀器の音、笑い声、奔放な話題が飛び交い、騒がしくも生き生きとした時間。
その扉から現れた瞬間、レギュラスの視線はただ一人を捉えた。
長卓の一角に座る少女―― アラン。
飛行術の実習のあと、クィディッチの練習に駆り出されていた間、彼女と離れたことが心を波立たせ続けていた。
校舎裏の庭で一人くつろいでいたと、バーテミウスが淡々と告げてくれはしたが――安心などできなかった。
彼にとって「自分の目にない時間」こそが、最も危うく、不安な瞬間だったからだ。
まるで溢れた水を掬うようにして、レギュラスは歩み寄り――駆け寄った。
「…… アラン。心配しました」
真っ直ぐな声。
見上げたアランが小さく微笑んで答える。
「……お疲れ様です、レギュラス」
その視線の先には、自分のために丁寧に用意された一皿があった。
――待ってくれていた。
その日常の仕草ひとつで、胸の奥に安堵が沁みわたっていく。
思考よりも先に、身体が動いていた。
彼女の肩を強く抱き寄せていた。
「っ……」
アランの吐息が小さく弾ける。驚きの音だった。
ざわめく大広間。
一瞬で無数の視線がこちらに向けられた。
けれど、気にならない。
耳に届く笑いや囁きは、今だけすべて遠く霞んでいた。
ほんの数時間。
ただ数時間、目を離しただけだというのに――。
それがこんなにも自分を駆り立て、不安と焦燥を積み上げていたとは。
……どうしたらいいのか、自分でもわからない。
心の奥から噴き上がる想いは、もう制御が効かなくなっていた。
確かめるように抱き寄せる腕には、焦りと渇望と、どうしようもない安心が同居していた。
アランは硬く息を呑みながら、その腕の中に立たされていた。
言葉を交わせないほどに、視線の矢と熱気の中で――。
それでも彼女の心には、「逃げられない」という切実な感覚だけが突き刺さっていた。
ざわめく大広間。
器を打ち合わせる音の間に、抑えた声や含み笑いが混じっていく。
「あれ見た? ブラックに抱き寄せられてた」
「公然と……すごいな」
「ロズィエ家との婚約があるって聞いたけど……じゃあ、あれは?」
「今さら驚くこともないんじゃない? あの二人は前から――」
幾つもの声が、囁きとなって波のように広がっていった。
耳に入れまいとしたところで、届いてしまう。
食堂全体の温度が、少しだけ変わってしまったのをアランも感じ取っていた。
レギュラスの腕はまだ肩を抱いていた。
片手で器用に皿を受け取りながらも、位置だけは譲らない。
それが周囲の好奇の視線をさらに強めているのだと分かっても、彼は平然としていた。
アランは背中に熱い視線を突き刺されるたび、縮こまるように姿勢を小さくした。
本当はただ穏やかに食事をしたいだけだった。
目立たぬように、誰の噂にもならぬように――。
けれどレギュラスと共にいる限り、それは夢にすぎないのだと痛感していた。
「…… アラン」
不意に彼が声をかけてくる。
「少し、落ち着きました」
そっと覗き込むような笑顔。
彼の胸に募っていた焦燥感が、今は安堵に変わっているのが分かる。
――どうして。
どうしてほんの数時間離れただけで。
どうしてこんなにも衝動的になれてしまうのだろう。
問いを返したいのに、口にできなかった。
「……はい」
わずかに笑って見せるしか、できなかった。
その笑顔すら、きっと彼には「肯定」に映るのだろう。
噂と囁きに満ちた大広間の片隅。
誰よりも強く求められることで、アランの心は――温められるのではなく、じわじわと締め付けられていた。
食事を終えると、自然に寮へと戻るものだと思っていた。
けれどレギュラスに手を引かれ、アランは見知った道からどんどん外れていった。
「……どこに向かっているんです?」
問いかけても、彼は振り返らない。
長い廊下を歩き、薄暗い階段を下り、普段足を運ぶことのない回廊を抜ける。
窓枠には蜘蛛の巣がかかり、冷たい風が隙間から忍び込んでいた。
石壁に打ち付けられた燭台の蝋は半ば垂れ落ちて固まり、まるで時を止めたかのように色褪せている。
緊張で胸が締め付けられる。
この先に何があるのか――不安だけが募っていった。
やがて辿り着いたのは、誰の影もない空き部屋だった。
「……ここ、どこです?」
ようやく漏れた声に、レギュラスは淡々と答えた。
「使われていない教室みたいです」
干からびた教材がいくつも乱雑に積み上げられている。
机の上は薄い埃に覆われ、窓辺の瓶には乾燥した薬草が色褪せて転がっていた。
「魔法薬学の……古い教室、だったのかもしれませんね。教科書もありますし」
アランの指が、朽ちかけた背表紙をそっと撫でる。
その瞬間――返事はなかった。
代わりに彼女の背が壁へ押し寄せられ、顔を傾けられる。
呼吸を許さぬほどのキスが重ねられた。
「……っ!」
見たこともない景色。知らない空間。
未知の教材に心を奪われていたわずかな瞬間の興奮は、一気に飲み込まれていった。
現実との境界線が、急激に溶け崩れていく。
口づけは深みを増し、次第に抗う隙を与えなくなる。
衣服の布地をかすめる指が、冷たい空気に浸されたように震えを誘った。
「……まさか、こんな場所で……」
心の奥に抗議の声が浮かんでも。
唇を塞がれている間は、それすら音にできない。
受け入れるしかないのか。
拒む権利など、自分にはないのだろうか。
頭の奥で考えが絡まり合う。
それは彼の愛からくる行為なのか、それとも所有欲の捌け口なのか。
境界は遠ざかり、思考は霞んでいった。
腰の辺りで、布がさぐられる感触。金具が外れる微かな音。
全てが遠い世界の出来事のように耳に届く。
壁際に押し込められた背中には、硬い石の冷たさと粗さが強く当たっていた。
ざらついた壁に背が擦れ、じくりと痛む。
けれど――もっと痛いのは。
「心」そのものが、強張っていた。
硬い石壁に押し付けられながら受ける行為は、アランにとって初めてのことだった。
背に走る擦れや、全身にのしかかる重さ。
膝から力が抜けそうになりながらも、逃げることは許されなかった。
痛みと苦しさに、胸の奥で「もう二度としたくない」と思うほどだった。
細い身体を支える自重が余計に嵩み、奥深くまで繋がれてしまう感覚が全身を震わせる。
その震えを、きっと彼は違う意味で受け止めていたのだろう。
「悦び」と。「応え」と。
否定することもできたかもしれない。
けれどもう、言い訳するのも面倒で――ただ目を閉じて震えをやり過ごすしかなかった。
息は荒いままで、なかなか整わなかった。
肩で大きく呼吸をする自分の隣で、レギュラスは何事もなかったように涼しい顔をしていた。
先ほどまで狂おしいほどの熱で迫ってきた男と、目の前の整った貌が同じだということが信じられなかった。
喉にせり上がる吐息さえ惨めに思える。
衣服は中途半端に乱されたまま、背と腰には未だ硬い壁の痛みが残っている。
全身が余韻に震え続ける一方で、彼の灰色の瞳は無風の水面のように澄んでいた。
「…… アラン。やっと……本当の意味で、落ち着きました」
そう言いながら、レギュラスは背に添えた手でとんとんと優しいリズムを刻む。
まるで幼子を寝かしつけるかのような仕草だった。
その柔らかさが、むしろ胸を冷やした。
愛情なのか、慰撫なのか、それともただ自らの満足の余韻なのか。
どんな意味での「落ち着き」なのか、確かめる気力もなかった。
「……」
返す言葉は、喉の奥で凍りついた。
「そうですか」と答えることすら、声にできなかった。
冷えた心だけが、静かに自らの輪郭を際立たせていた。
夜の談話室は、静かなざわめきに包まれていた。
大きなテーブルの周りには、まだ幾人か生徒が集い、課題の合間にのんびりと言葉を交わしている。
「明日の呪文学、事前課題やってる?」
「全然!だれかノート見せてくれよ」
「クィディッチの試合、来月だろ?ポジションどう変えるんだ?」
「ブラック、練習どうだった?」
適当に話題が振られるたび、アランも静かに返事をしていく。
「ノートはあとで貸しましょうか」
「試合、応援します」
「今日は見学だけでした」
淡々とした、波風立たない返し。
心の奥は今にも溢れそうな痛みで満ちているのに、それを隠して平静を装った。
隣には、レギュラスが腰を下ろしていた。
先ほどの行為などなかったかのように、凛とした顔で会話に加わっている。
その整った横顔が一切動揺せず、平然としている様子に――
自分だけが下腹部に痛みを抱え、情けなさや悲しさに沈むこの対比が余計に胸を締め付けた。
「…… アラン。どこか痛みますか?」
ふいに、レギュラスが低く囁きかけてきた。
何かを察したのか、心配そうな瞳で覗き込む。
……だが、言葉にはできなかった。
さっきのことでお腹が痛い、なんて。
あまりに生々しく、自分で記憶を掘り起こすようで――口にする気力はなかった。
「……いいえ、どこも平気です」
閉じた笑顔で答える。
レギュラスの手はそっと後ろからアランの腰へ添えられた。
人目につかない位置だと分かった瞬間、わずかな安堵を感じる。
この痛みが誰の目にも晒されることがないだけでも、救われる気がした。
談話室の灯りは温かく、静けさの中で笑い声が浮かんでいた。
そのただ中で、アランの心だけが――静かに凍えていた。
4寮合同の魔法格闘授業――
普段とは違い、バディは必ず他寮の生徒から選ぶように指示があった。
それはアランにとって肩の荷が一気に降りた思いだった。
気の遠くなるほど差のある力にずっと圧迫され続けてきた日々から、少しだけ解放される。
教室へ向かう途中、レギュラスは普段よりもゆっくりと歩みを合わせてきた。
「無茶はしないでくださいね、アラン」
そっと目を伏せ、真剣に声をかけてくる。
アランも微笑み、冗談まじりに返す。
「もちろん――あなたの方こそ、あまり強い呪文で他寮の生徒を気絶させないでね」
一瞬の沈黙のあと、レギュラスがわずかに微笑む。
今からしばらく離れることへの不思議な安堵が、アランの胸を軽くした。
教師の合図に従い、皆が杖を構えて対戦場所へ立つ。
アランの相手はハッフルパフ寮の女生徒。
淡い色の髪に優しい瞳をした生徒が、少し緊張した面持ちで向かい合ってくる。
空気は静かで、心地よい緊張感が満ちていた。
アランは深く息を吸い、シリウスが教えてくれた言葉を思い出す。
「力を受け止めるんじゃなく、うまく流して」
「あせらず、指先で感じて」
あの日、月夜の下で手を取ってくれた温度が蘇る。
杖を握る手に、幸福な記憶が宿る。
「自分でもできる」。
小さく微笑み、柔らかな希望を胸に対戦に臨んだ。
教室の騒がしさや周囲のざわめきは、不思議なほど遠く感じられた。
この瞬間だけは――自分の力で、少しずつ前に進めていることを心から嬉しく思えた。
結果は、アランの勝利だった。
シリウスの言葉通り、相手の攻撃呪文を流し受け、跳ね返すことに成功。
最後は一瞬の隙を突いて、ハッフルパフの女生徒の杖を軽やかに奪い取った。
「……これ、どうぞ」
自分の手に残った杖をそっと返す。
ハッフルパフの少女は、ふわっと笑って「ありがとう」と囁く。
アランは、思わず「こちらこそ」と応じていた。
小さな肩越しに、互いに柔らかな空気が流れる。
二人は自然と並んで腰を下ろす。
教室のざわめきが遠ざかり、淡い光だけが二人の輪郭を際立たせていた。
自己紹介を兼ねた会話が始まる。
「……私はリディア・ヘンリー。ハッフルパフよ」
やわらかな金髪と、蜂蜜色の穏やかな瞳が印象的だった。
優しい声と素直な微笑み。アランの胸に清らかな風が吹き込む。
「アラン・セシールです」
そっと名乗ると、リディアはすぐに「知ってるわ。有名だもの」と微笑んだ。
驚きが、胸を弾いた。
自分には才も家柄もない。
有名だと言われるのは――きっとレギュラスの隣にいるから。彼の名で知られているだけ。
優しい声の余韻に、胃の奥がきゅっと締め付けられるような感覚が残った。
それでも今は、少しだけ誇らしい気持ちが心を支えていた。
「自分で勝てた」その実感が、微かな自信となって胸に灯っていた。
アランは次の試合でグリフィンドールの生徒と対戦することになった。
凛とした姿勢で互いに杖を構え、礼儀正しく挨拶を交わす。
「よろしくお願いします」
「どうぞお手柔らかに――」
教師の号令が響いた瞬間。
光が弾けるより早く、アランの手から杖が消えた。
動きは一閃、まるで魔法のような早業だった。
「……アラン・セシールさんですね? 杖をどうぞ」
グリフィンドールの生徒は爽やかな笑みで杖を返す。
「ありがとう。素晴らしかったわ」
アランは屈託ない笑顔を見せ、素直に称賛を贈った。
試合を終えると、先ほどのリディアも駆け寄ってくる。
グリフィンドールの生徒も加わり、自然と輪が生まれる。
「僕はミカエル・フォレスト。グリフィンドールだ」
栗色の髪に快活な瞳、礼儀正しい所作が印象的だった。
リディアは柔らかく、「絶対あなたが優勝だわ!」とミカエルへ声をかける。
「一瞬すぎて、杖を奪われた事さえ見えなかったもの……」とアランも頷いた。
ミカエルは少し照れくさそうに髪をかき上げながら微笑む。
「いや、まだまださ。君たちもかなりよかったよ」
リディアがくすくすと笑い、アランの肩に手を置く。
その輪の中に、寮や家柄などの隔たりはほんのりと溶けていた。
魔法や立場を超えた、確かな友情の芽生え。
爽やかな風が教室を満たし、アランの心も軽くほころんだ。
今日だけは、壁も名前もすべて越えて――
自分の輪郭が希望に染まる瞬間だった。
レギュラス・ブラックは、瞬く間に勝利を積み重ね、学園内の注目の的となっていた。
決闘場の一角から、その鮮やかな勝利の連続が見て取れる。
隣で見守るリディアが口を開いた。
「このままだと、レギュラス・ブラックとの対戦になるのかしら」
ミカエルも軽く肩をすくめて応じる。
「そうなるだろうなあ。アランの恋人だからな」
思わぬ言葉に、アランは慌てて顔を背けた。
「ち、違うわ!決してそんなことはないの」と必死に否定する。
ずっと予感していたとはいえ、他寮の生徒からそう言われると胸の内はざわつくばかりだった。
その日、ミカエルの試合が続いていた。
リディアとともに、それを見守るアランは、見事に勝利していく彼の姿に感嘆して声をかける。
「すごいわね」
リディアは、目を輝かせて続ける。
「ええ。きっと本当に、レギュラス・ブラックとの対戦になるかもしれないわ」
別の場所で激しく絡み合う幻影。
レギュラスの戦いは、ほとんど一瞬で決着がついていた。
彼の鋭い動きと魔法の閃光に、目を奪われる女生徒たちの姿も多く目に映った。
その光景に、アランの胸は絞られてしまう。
あの男が自分の隣にいない、離れた場所からまるで部外者のように眺めることができれば、どれほど楽だろう。
彼女自身もあの女生徒たちと同じように――ただ遠くから彼を見つめるだけの人間でありたかった。
縛られることも、愛されたいと思うことも、望んでなどいなかった。
けれど今は――この離れた時間、自由なこの授業の時間こそが、何より安堵の瞬間だった。
ミカエルは見事に最終決闘まで勝ち残り、スリザリンのレギュラス・ブラックとの対決が実現した。
グリフィンドール対スリザリン――この伝統的な因縁に、周囲の生徒たちは一気に熱狂する。
決闘台に立つ二人の間に、緊張した静寂が漂った。
次の瞬間、呪文が激しく交錯し始める。
「Expelliarmus!」
「Protego!」
「Stupefy!」
「Deflecto!」
赤と青の閃光が宙で絡み合い、弾け散る。
ミカエルの素早い身のこなしと、レギュラスの冷静で正確な呪文が何度も激突した。
観客席からは歓声と息を呑む音が絶え間なく響く。
だが――ミカエルの呪文にわずかな揺らぎが生まれた瞬間。
レギュラスは見逃さなかった。
「Expelliarmus Maxima!」
追い討ちをかける強力な武装解除呪文が、ミカエルの杖を高く宙に舞い上がらせる。
スリザリンの勝利。
緑と銀の旗が一斉に振られ、寮生たちの歓声が響き渡った。
「見事だった!スリザリン寮に50ポイント加算する」
教師の声が場内に響く。
その光景を見つめながら、アランの胸は痛んでいた。
ミカエルが敗れた姿に、なぜか自分も打ちのめされたような気分になる。
リディアが真っ先に駆け寄るのを見て、アランも後に続いた。
「ミカエル、お疲れ様。すごかったわ」
リディアが息を弾ませながら声をかける。
「ええ、本当に」
アランも心からの言葉を添えた。
リディアがミカエルの片手を取って立ち上がらせる。
アランは反対側の手をそっと支える。
二人に挟まれて、ミカエルはゆっくりと身を起こした。
「いや……情けないよ」
苦笑いを浮かべながらも、彼は負けを潔く受け入れていた。
そして振り返ると、レギュラスに向かって深々と礼を捧げる。
その姿に、アランはグリフィンドールらしい勇敢さと誠実さを感じずにはいられなかった。
敗北すら美しく受け入れる強さが、そこに宿っているように思えた。
授業が終わると、リディアが明るい声で提案してきた。
「三人で中庭で昼食はどう? お天気もいいし」
ミカエルも「いいね」と賛同する。
その瞬間、アランの胸に迷いが生まれた。
いつもなら、レギュラスと並んで食堂の長テーブルに座り、彼の分の食事を丁寧に盛り付ける――それが日課だった。
新しい友人たちとの時間と、変わらぬ義務。
どちらを優先すべきなのか、答えが見えなかった。
「ええ……先に二人で行っていてもらえる?すぐに行くわ」
曖昧な笑みで答え、足は自然とレギュラスの方へ向いていた。
勝利者である彼の元へ歩み寄ると、まるで待っていたかのような抱擁で迎えられる。
「おめでとうございます、レギュラス。さすがでした」
心からの祝福を込めて声をかけた。
「あなたも一戦、勝ち進んだそうですね」
彼の灰色の瞳に、わずかな誇らしさが宿る。
手を引かれるまま、いつものように大広間へ足を向けた。
長テーブルに着くと、アランは習慣的にレギュラスの皿へ料理を盛り始める。
スープ、パン、肉料理――彼の好みを熟知した手際の良さで。
自分の分は、簡単なサンドイッチをナプキンに包むだけにとどめた。
「食べないんですか?」
レギュラスが不審そうに眉をひそめる。
「あっ、ええ……まあ……」
言葉が途切れがちになる。
リディアとミカエルとの約束をどう切り出せばいいのか、見当がつかなかった。
歯切れの悪い返事に、自分でも情けなくなってしまう。
彼の視線が、静かにアランの表情を読み取ろうとしていた。
その重さに、胸の奥がきゅっと縮こまる思いだった。
震える声で、アランはぽつりと言った。
「さっき、決闘で一緒になった二人と中庭で昼食を取らないかって誘われたの……」
その告白は、まるで子供が親の許可を待つような、もどかしく切実な感覚に満ちていた。
レギュラスの返事を待つ時間は、心の中に冷たい恐怖がじわりと広がっていくのを感じていた。
ついに彼が口を開く。低く響く、しかし紛れもない強い意志を秘めた声だった。
「行ってほしくないと言えば、どうするつもりです?」
その言葉は重く、胸に切り込んだ。眩暈に似た痛み――恐怖と愛の狭間に揺れる感情が全身に広がる。
言葉は続く。
「だめですか?」とアラン。
「いいか悪いかではなく、僕は行ってほしくないです」
明確な否定の言葉ではなかった。だが、その響きに抗うことができぬ現実があった。
彼の言葉は誓いのように響き、忠誠を誓う者の胸に深く刻まれるものだった。
アランはどうすることもできない迷いの中で立ち尽くした。
きっと中庭では、ミカエルとリディアが自分を待っているのだろう。
自由に、はしゃぐ彼らの姿を。
視線を向けると、レギュラスは静かにこちらを見つめていた。
その瞳はどこまでも澄み、微笑みはきらきらと美しかった。
その完璧な笑みの裏に隠されたものが、アランの心に、ますます絡みついて離れなかった。
「行ってほしくない」と明確に言われ、アランは悟った。
リディアとミカエルと過ごす昼食の時間は、もう自分には許されないのだと。
だからこそ、自らの口で伝えなければならない。
「わかりました。すぐに戻りますから、待っててくださいね」
レギュラスは静かに頷き、微笑みを浮かべた。
その笑みはどこまでも威厳に満ち、勝利者のたたずまいだった。
中庭にはすでにリディアとミカエルがいた。
アランを見つけると、二人はにっこりと手をふり、楽しげに手招きをする。
胸が痛んだ。
彼らはサンドイッチやパイなど、戸外でも食べやすいものを用意していた。
けれど、アランの手には何もない。
「食べないの?」
柔らかい声でリディアが尋ねた。
「あっ、ええ……お腹はあまり空いてなくて……」
声は澄んでいたが、どこかかすれた響きを含んでいた。
少しの間、温かな会話を交わした。
好きな本の話、授業の内容、どんな魔法を学んでいるか。
未来の夢も少しだけ。
リディアとミカエルの笑顔は、優しくアランの心に染み入った。
「じゃあ、そろそろ行かなくちゃ」
そう告げると、二人が驚いたように声を合わせた。
「もう行くのかい?」
ミカエルの問いは、辛く胸に刺さった。
確かにあまりにも短すぎた、自分の時間。
言葉のやり取りでしかなかったのに、そこには確かな温もりがあった。
「話せて良かったわ、アラン」
リディアは優しく微笑んだ。
「僕の方こそ、男子生徒の憧れの的だった君と話せて緊張したけど光栄だった」
ミカエルは真面目にそう言い、少し照れたように笑みを浮かべる。
心の奥で、痛みと柔らかさが寄り添う。
アランは笑顔で二人の手をしっかりと握った。
そしてそのまま、大広間へと足早に戻った。
背中に感じるのは、レギュラスの待つ場の空気。
短くも濃密な時間。儚く消えた自由のような友人たちとのひととき。
それを胸に刻みながら、アランは歩みを進めるのだった。
