1章
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レギュラスの寝室は、昼の光を受けた窓辺とは異なり、薄暗い夜の静寂に包まれていた。
サイドテーブルには相も変わらず、闇の帝王を讃える記事や切り抜きが、積み上げられるように置かれている。その厚みを目にするだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
――この人の未来は、やはりあの闇と共にある。
シリウスが示してくれた、自由で柔らかく温かい世界とは、明らかに対照的な場所。ここにあるのは秩序と権力、冷徹に築かれた規律だけ。自分は、本当に導かれたいと思う未来を知りながらも、その希望は遠く手の届かぬ場所にある。
何度繰り返しても、この空間には慣れることができなかった。嫌悪感を押さえることはできても、それだけで抗えるわけではない。目を閉じると、錯覚がわずかに現れる。レギュラスの手の感触が、瞬間的にシリウスのものだと錯覚するのだ。触れる感覚が欲しくて、アランは意識的に目を閉じ続けてしまう。――その虚構にすら、心が縋っていた。
「…… アラン。こっちを見てください」
低く落ち着いた声に、ハッと息を飲み、瞳を開ける。
そこに映るのは、鋭く光る灰色の瞳。光は冷たく、まるで全てを見透かすかのように深く射抜いてくる。視線を受けた瞬間、全身の血が凍りつくようで、内臓がぎゅっと握られるような痛みと、言葉にならない恐怖が同時に押し寄せた。
呼吸さえも乱れ、口を開けば声が漏れてしまうだろう――そう考えると、声を出すことが恐ろしくなった。だから、首を小さく縦に振る。言葉に代わる微かな同意の意思を示すように。心の奥底では、愛を信じているかのように見せかけるしかない。
その瞬間、唇が重なり、強く押し付けられる。口を塞がれ、声は完全に閉ざされる。苦しいはずなのに、皮肉にも安堵が胸に広がった。逃げ場のない状況で、自らの声を封じられることが、逆に守られているように思えたのだ。
――逃げるための手段。
本意ではない。しかし、追い詰められた心が選んだ唯一の逃げ道。
アランの指先に小さな力が入り、手のひらを硬く握る。心臓は荒く脈打ち、頭の中は混沌としている。胸の中の恐怖と、自己嫌悪の感覚が交錯し、息をするたびに胸を突き上げてくる。
そして、恐ろしいことに、この口づけをレギュラスはきっと愛情の返答だと受け取っている。錯覚の中で示した自分の承認が、彼の確かな愛をさらに強固にしてしまう。逃げれば逃げるほど、与えられた愛と錯覚の重さは、まるで鎖のように絡みついて離れない。
その重みに気づきながらも、アランは動けなかった。凍りついたように立ち尽くし、手の中の温もりを受け止めながら、自らを責め続ける。胸には恐怖、後悔、そして皮肉にも安堵が混ざり合い、まるで心が二つに引き裂かれたかのようだった。
――どうしてこんなにも、私はずるく、弱いのだろう。
揺れる心を抱え、アランはそっと息を吐いた。暗闇に包まれた部屋の隅々まで、抑えきれぬ感情が静かに震え、レギュラスの確かな手の温もりとともに、胸の奥で複雑な渦を巻き続けていた。
すべてが終わったあとの寝室には、乱れた布団と散乱した衣服だけが静かに残っていた。
レギュラスは無言のまま、ふと床やベッドの間に落ちたアランの衣服を拾い集める。小さな下着、袖のほつれたローブ、外れたボタンのついたブラウス。ひとつひとつ手に取り、まるで壊れやすい繭を扱うかのように、そっと差し出してくる。
――どちらが守る者で、どちらが守られるべき存在なのか。そんな境界が曖昧になる瞬間だった。
「……自分で、できます」
小さな声で首を振り、アランは受け取ろうとする。しかし、腕は思うように通らず、指先はボタンの穴を何度も逃す。疲労が全身に重くのしかかっている。
本当は、このまま目を閉じて眠ってしまいたい――それほどの倦怠と安堵が体を覆っていた。
その様子を見つめ、レギュラスは何も言わず、静かに膝をついて隣に座る。滑らかな指先がそっと袖を正し、ボタンをひとつずつ丁寧に留めていく。手際は決して器用ではない。むしろ拙い。しかしそのひとつひとつの仕草は、異様なまでに慎重で、まるで慈悲深い儀式のように温かく、優しかった。
「……すみません」
やっと絞り出す言葉に、レギュラスは静かに首を振る。
「いいえ。僕の方こそ、無理をさせましたね」
その声は柔らかく、深く慈しみに満ちていて、まるで空気ごと包み込まれるようだった。
しかし、アランの胸は裏切るようにざわめき続ける。
――自分への嫌悪で。
与えられる優しさに応えることができず、ただ罪悪感だけを重ねていく。体は疲れ切っているのに、心は乱れ、逃れられぬ迷路の中に置かれたように思えた。
「……もう寝ますか?」
囁くような声に、アランは小さく首を振ることしかできない。
本当なら、ひとりで静かに眠りたい。だけど、従者として培った習い性が働く。彼が何を求め、何を必要としているのかを、先回りして汲み取ろうとしてしまうのだ。
横目で見たレギュラスは、まだ眠気をまとっていない。昼間のクィディッチ練習、そしてその後の出来事にもかかわらず、息は整い、体の奥にはなお活力が漲っているように見える。底知れぬ体力――その事実に、思わず感心してしまう自分がいた。
しかし胸に残るのは、単なる尊敬ではなかった。
圧倒的な差を、唐突に突きつけられる感覚。
体格、身長、力の強さ。勉学における理解力、魔法の才……すべてにおいて、レギュラスはどんどん自分から離れていく。置き去りにされたような孤独感が、胸に鋭く刺さる。
――それでも、シリウスとなら、こんな風には感じなかった。
身長差も力の差も、知識量の差も、すべてが守られている安心感に変わるだけだった。憧れと尊敬が混ざり合い、温かく、居心地の良い存在感となって胸に満ちる。なのに、どうして同じ血を分けたレギュラスからは、ただの隔たりとしてしか映らないのだろうか。
答えは見つからなかった。沈黙の中で、レギュラスが最後のボタンを留め終える。指先が袖にふわりと触れ、静かに微笑む。灰色の瞳に迷いは一切なく、ただ冷静に、確実に、自分を見つめている。
――そして、アランはひとり、その足元で、自分の心が静かに、しかし確実に闇に落ちていくのを感じていた。
昨日の余韻がまだ体の奥に沈殿するようにして迎えた朝。
大広間には、焼き立てのパンの香ばしい匂いが静かに広がり、湯気を立てるカップの熱気が朝の冷気と混ざり合っていた。窓の外から差し込む光は柔らかく、石造りの壁を淡く照らす。
アランはいつもの所作で、静かに皿に料理を盛り付けていた。
トーストには軽く蜂蜜を垂らし、卵料理には好みに応じた香草を添える。手の動きは無意識のようでいて、どこか繊細で、丁寧な感覚が指先に宿っていた。
日常のルーティン。はずの動作が、彼女にとっては「仕えている」という感覚を超えて、自然で当たり前のものになっていた。
朝の光に包まれ、穏やかで、満たされた時間。けれど、レギュラスの胸に、説明のつかないざわめきが静かに生まれる。
――あの指輪。
アランの華奢な指に輝く、銀のリング。
母――リシェルから贈られたと聞かされていたその指輪は、彼女の日常に自然に溶け込み、外されることはない。母と娘の絆の象徴かもしれない。しかし、レギュラスの胸をざわつかせるのは、理屈ではない何かだった。
――なぜ、そんなにも大切そうに。
――誰が、いつ、どのように渡したのか。
疑念が静かに、しかし確実に心の奥を締めつけていく。嫌悪に近い違和感が、胸の内で静かに渦巻いた。
レギュラスは低く、落ち着いた声で言った。
「…… アラン、手を」
その呼びかけに、アランは一瞬だけ戸惑いを見せた。しかしすぐに、差し出された片方の手を素直に受け取る。指輪のない方の手。
「……いえ、反対側を」
小さく首を振り、そっと促す。アランは疑問の影を瞳に宿しつつも、両手を差し出す。
銀のリングが光を反射する。レギュラスの指先がそっと触れ、迷いなく、静かにその指輪を抜き取った。
「……っ」
アランの顔に一瞬、揺らぎが走る。困惑と戸惑いが入り混じり、目の奥に波紋のような動揺が広がった。
その顔を真っ直ぐ見つめ、レギュラスは静かに言う。
「やはり……指輪は、僕が贈ります」
アランの瞳はなおも揺れ続け、唇は返事の言葉を作らず、ただ呆然としたままだった。
レギュラスは柔らかく微笑む。慈しみを含んだ声が、静かに告げる。
「お母様からの指輪は、大切に取っておきましょう」
返答はない。否定も肯定もされぬまま、二人の間に沈黙が落ちる。だが、レギュラスはその沈黙こそが暗黙の承諾だと受け止めていた。灰色の瞳には、既に確信めいた光が揺らめいている。
皿の上で湯気を立てるスープの香りだけが、淡々と朝の時間を告げていた。
その穏やかな時間の中で、アランの胸は深い沈黙の中に凍りついたまま、何かを失った感覚だけを抱えていた。
月明かりに包まれた湖の辺り。水面は鏡のように空を映して揺れていた。
夜更けに呼ばれ、アランはひとりそこに駆け出してきた。
待っていたシリウスの手には、確かにあの指輪が輝いている。
――互いの誓いのしるし。
それを見た瞬間、胸が苦しく締めつけられた。
……お揃いのはずだったのに。二人を繋ぐはずだったのに。
自分の指にはもうない。
まるで未来そのものをもぎ取られてしまったような感覚に、呼吸が乱れそうになった。
「……シリウス……!」
声にならぬまま、熱い涙が頬を伝った。
次の瞬間、崩れるようにして彼の胸に飛び込む。
温かくて、優しくて――滝のように涙が溢れ止まらなかった。
「おい、どうした……泣くなよ、俺の可愛いアラン!」
シリウスが、笑いながらも困ったように背中を抱き締めてくれる。
その言葉が、幸せの鈴音のように胸へ落ちた。
――わたしは“可愛い”と呼ばれていい。彼の隣で。
「アラン、ほら見ろ……」
指先が夜空を示す。
「――あれが俺の星だ」
涙に霞む視界の先、ひときわ力強く輝く星があった。
「……あなたみたいに、力強く光ってる」
呟く声はまだ震えている。
シリウスはそっと頬に触れ、微笑んだ。
「お前が一人で泣かなくていいようにな。――ずっと照らしてる」
その一言が、じわりと広がる光になって胸を温めた。
固くこわばった心の塊が、少しずつ解けていく感覚。
並んで星を仰ぎながら、彼はふいに問いかけた。
「……卒業したら、どんな家に住みたい?」
アランは涙の中に笑みを咲かせて応える。
「……あなたと私の写真を、たくさん飾りたいわ」
「そしたら、子どもが生まれたらその写真も飾ろう」
屈託なく言うその未来予想図。
未来を語ることが、こんなにも楽しいなんて。
離れている間は押し寄せる不安に押し潰されそうになるのに。
こうして共にいる時間だけは、不安も痛みも溶けて、胸の奥まで満たされていく。
夜空いっぱいの星々の中で輝くただひとつの約束。
――それを信じていられる限り、アランはまた歩いていけるのだと思えた。
真夜中、寮の談話室にはまだ温かな焔が燃えていた。
分厚いラグに寝転んでいたジェームズとリーマスが、シリウスの姿を見ると同時に顔を上げる。
まるで待ち伏せしていたかのような眼差し――「話せ」と言わんばかりに期待に満ちていた。
ジェームズが真っ先に問いかける。
「……どうだったんだい、親友?」
シリウスは笑いを堪えきれず、口元がにやりと歪んだ。
温かくて、幸せで――胸いっぱいに詰め込んだものがあふれそうで。
誰かに分け与えたいようで、けれど本当は、自分ひとりで抱きしめていたい。
そんな感覚を、どう伝えればよいのだろう。
「僕らの将来の話をしたんだ。……卒業したら、二人で住みたい家の話を」
その言葉に、ジェームズもリーマスも顔を見合わせて笑みを浮かべる。
彼らにとって、シリウスがあれほど真剣な未来を口にすること自体、胸を温めるものだった。
だが、すぐにジェームズの瞳がいたずらめいて細まる。
「……それで? そろそろ次のステップには進んだのかい?」
予想していた質問。
シリウスは軽くため息をひとつついた。
自分でも思う。
なぜまだ、あの美しい存在に甘えて、深い関係へと踏み込めないのか。
キスを交わした後、そのまま流れるように彼女と一つになれたはずだった。
けれど――できなかった。
その理由を、誰よりも自分が知っている。
あんなにも大切な子を、ただ自分の生理的な欲求を満たすために扱うなど、とても考えられなかった。
アランを思う気持ちは、もっと神聖で、触れれば砕けてしまうほど尊いものだった。
――だから、焦る必要はない。
アランと歩んでいくこれからの人生の中で、きっといくらでも時間はある。
ゆっくりと、互いのための時間を育てていけばいい。
それが彼女を守ることでもあるのだから。
誰かが意気地なしと囁こうとも。
男の風上にも置けないと笑おうとも。
構わない。
この思いは彼らの言葉よりも、はるかに重く確かなものだ。
――僕はアランを「奪う」ためにいるんじゃない。
「共に歩む」ためにここにいるのだ。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その小さな音の中で、シリウスの瞳だけは澄み切って揺らいでいなかった。
談話室の片隅でまだ炉火がぱちぱちと燃え続けていた。
「まあ、座れよ」
ジェームズがにやりと笑いながら肩を抱き、ソファへと押し込む。
「そろそろ君が踏み込んであげないと……逆にセシール嬢にも失礼ってもんじゃないのか?」
不躾ではあるが、親友が本気で心配している響きを帯びていた。
リーマスが隣で穏やかに微笑して続ける。
「それはあるかもしれないね。あれだけ二人きりで過ごす時間がありながら、君ほどの人が何もしないなんて……女性としては不安になるかもだよ」
二人の親友は気さくに、好き放題に口にする。
だがシリウスの胸中は違っていた。
性行為をアランが待ち望んでいる――そんな風に思ったことは一度もない。
マグルの街に出かけたときですら、軽く飲んで雰囲気を作ろうという下心を抱えていた。
けれど彼女は酔い潰れてしまった。
……その瞬間、心のどこかに「まだ時じゃない」と線を引いたのだ。
もし二人で一線を越えるとしたら。
それはアランが卒業し、二人で一つの家に暮らし始めてからでも遅くない。
そう思えてならない。
たしかにそういった欲求はある。
彼女を求めたい気持ちが日ごとに強まるのも事実。
それでも、上回るのは――「傷つけたくない」という切実な想いだった。
過ごした時間の中に残るのは、甘く優しい記憶ばかり。
その状態だけでも、心はもう十分に満たされていた。
「……ヤることしか考えない男じゃねぇんだ、俺は」
シリウスは正直に吐き出すように言った。
ジェームズは肩を竦めて、しかし食い下がる。
「そこまで言うつもりはないさ。ただな、次のステップは考えておかないと……」
からかい交じりの声音に、心配の色がにじむ。
リーマスもまた、黙って笑みを浮かべながら頷いていた。
シリウスはふっと視線を落とす。
胸の奥に広がるのは、友情の温かさだった。
――彼らがこうして一生懸命に考えてくれること自体が、嬉しくて仕方がなかった。
心底くだらないと思えるやり取りの中でも、背中を預けあえる安心感は揺らぎようがなかった。
炉火がまたぱちりと弾け、赤い火の粉が瞬いた。
その明かりの下でシリウスは、アランと未来をゆっくり歩んでいく決意を再び心に深く刻んだ。
防衛術の授業は、この学年から実践形式が加わった。
互いに杖を構え、呪文を放ち、防御して。机上の学びを実際に体で刻んでいく時間だ。
当然のようにレギュラスは、隣に立つアランをパートナーに指名した。
本来であれば同性同士でペアを組むことが多いが、彼はいついかなる時もアランを選ぶ。
周囲もそれを承知していて、誰も彼に異を唱えようとすらしなかった。
「始め!」
教師の合図に、レギュラスは杖を軽く振る。
ほんの一撃。力を込めたわけではない。
アランが防護の呪文を唱え、きっと守りきれる程度の――そのつもりだった。
だが、現実はまるで違った。
「Protego!」
とっさに構えたアランの呪文。だが薄い膜のように震え、貫かれる。
レギュラスの軽い一撃すら防ぎきれず、青白い閃光に貫通されたアランは大きく弓なりに吹き飛ばされる。
空中に舞う緑のローブの裾――。続けて床に叩きつけられる鈍い音が響き、授業場はどよめきに包まれた。
「アラン!」
レギュラスは慌てて駆け寄る。身体を支え、急ぎ起こさせた。
「すみません、大丈夫ですか」
「……ええ、全然、平気よ」
震えながらもかすかに笑みを作る。
だが受け身も取れずに落ちたのだ、痛みが走っていないはずはなかった。
レギュラスの胸を灼くのは後悔だった。
威力は抑えたつもりだった。ほんの軽い凪ぎ。
それだけで、ここまで吹き飛ばしてしまうなんて。
――自分と彼女の力の差を、見誤っていた。
別に彼女を蔑むつもりはない。
それでも――あまりにも違いすぎた。
レギュラスは黙ってアランの背を撫でた。撫で続けるしかなかった。
彼女は痛みを隠し、瞳に笑顔を宿そうとしていたが、その奥にかすかな悔しさと諦念が見え隠れしていた。
「……レギュラス。あなたの実力なら、他の人とペアを組んだ方がいいわ」
震える息の中、アランは小さく言った。
「その方が絶対に、あなたのためになるもの」
まっすぐな灰色の瞳が即座に彼女に返る。
「……いいえ。これからは、僕の方が気をつけます」
その言葉の優しさが、むしろ胸を締め付けた。
違う。
気をつけ合ってかける呪文では、何も身につかない。
互いに本気で放ち合うことでしか、魔法は伸びないのだ。
それを分かっているからこそ、アランは唇を噛んだ。
――自分はレギュラスの足枷になっている。
痛む身体を支えられながら、彼女はひそかにそう感じずにはいられなかった。
教師の「医務室へ連れて行きなさい」という指示を受けて、レギュラスはためらわなかった。
アランの小柄な体を、横抱きに抱え上げる。
「っ……!」
ふいに身体が宙に浮き、驚きの声をもらすアラン。
緑のローブの裾がふわりと揺れる。
だがレギュラスは気にしていなかった。
――この状態で無理に歩かせる方がどうかしている。そう思ったからだ。
「レギュラス……。医務室までは行かなくてもいいわ」
「では……僕の寝室に行きましょう」
答えは穏やかでも、瞳は真剣そのもの。
変な意味ではなかった。
ただ――打ちつけた場所を確かめ、内出血を起こしていないか確認したかった。
もし自分のせいで、あの雪のように白い肌に痕を残してしまっていたら。
――そう思うだけで堪らなかった。
やがて、彼女を自室の寝台に横たえる。
「もう大丈夫よ。本当に大したことはないもの」
アランはそう言って微笑を作った。
「ええ。……わかりました」
レギュラスも頷いた。
けれど――その言葉と裏腹に、彼の手はアランのローブにかかっていた。
布を静かにずらし、衣擦れの音を響かせる。
「……レ、レギュラス、待って……」
声が震える。
「アラン……心配なんです」
彼の声音は低く切実だった。
「……恥ずかしいわ。こんな時間に……」
昼下がりの静かな館。外ではまだ授業が続く。
そんな時間に、服を乱されること自体――羞恥を避けられなかった。
たしかに。彼も一瞬、我に返る。
今の自分の行為の意味を。
怪我を案じているはずなのに、そこに混じる別の熱が、むくむくと胸に立ち上っていくのを自覚した。
「……そういうつもりではありません。……本当に」
誰に向けたものか、自分自身に言い聞かせるように言葉を落とす。
布の下から現れた背中には、青黒い痕がいくつも浮いていた。
左の肩から腕にかけて走る打ち身の跡。
――どれほど強く、あの呪文を当ててしまったのか。
後悔が鋭く胸を抉る。
「……本当に、すみません、アラン」
「いいんです。私が至らないだけですから」
慰めのように返すその声が、余計に彼を痛ませる。
杖を握り直し、治癒の呪文を唱える。
患部がひやりと冷え、アランの身体がぴくりと震えた。小さな吐息が零れる。
――その仕草が。
痛みに耐える反応であるはずが、レギュラスにはひどく艶めかしく映ってしまった。
青痕に指先を添え、冷却の魔法を続けながら。
理性の奥に、抑えきれない欲望が顔を出す。
彼の唇が、ごく自然にその痣へと近づいていた。
触れるか触れぬかの位置で、ため息に似た熱を残す。
「……ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪なのか。
怪我を負わせてしまった彼女にか。
触れてはいけないとわかりながら、触れずにいられなかった自分にか。
黙して答えぬアランの横顔は、抗おうともせず、ただ目を伏せていた。
杖先から滲み広がる冷たい光がアランの皮膚を撫でていく。
ひやりとした感触に身を震わせた、そのすぐ傍で、レギュラスの唇が柔らかく触れる。
――冷たさと温かさ。
境目が曖昧になり、何が自分の体の感覚なのかさえ分からなくなる。
ふと脳裏に蘇るのは、先刻の授業だった。
防護呪文を弾かれ、吹き飛ばされた自分。
ざわめき立つ生徒たちの視線。
――きっと、もう噂になる。
もともとアランは、人目に上がることが苦手だった。
できるだけ目立たず、関心の輪の中心に登らず、ひっそりと日々を過ごしたかった。
けれどレギュラスは違う。
毅然とした態度で、あらゆる場面で「彼女」を隣に置き、特別扱いをやめようとしなかった。
最初の頃は、そのたびに周囲の好奇心の視線に晒され、息苦しく感じていた。
だが数年が過ぎるうち、周囲も「そういうものだ」と受け入れ、騒ぎ立てる声も少しずつ消えていった――はずだった。
それなのに。
今回、勝負にならぬほどに吹き飛ばされる姿を見せてしまった。
きっとまた囁かれる。
「弱さ」も、「特別扱い」も。
思うだけでうんざりした。
「…… アラン、痛みは少しは引きましたか?」
気遣う灰色の瞳。
「……ええ、ありがとう、レギュラス。もう部屋に戻るわ」
はだけた衣服を急ぎ正し、立ち上がろうとした瞬間。
腕を引かれる。
振り返ると、彼の瞳が間近に迫る。
その灰色に、普段よりも強い熱が宿っていた。
ただの心配――そう言い切れない色。
胸の奥に、ぞわりとした恐怖が走る。
「……もう少し、ゆっくりしていましょう。アラン」
穏やかな声だからこそ、その言葉が孕む意味を悟りたくなかった。
「……部屋で少し、休みたいわ」
掠れる声と共に、アランはそっと腕を引き抜いた。
逃げるように、階段へと足を向ける。
男子寮の部屋から出てくるところを見られぬよう、注意深く歩みを早めた。
広がる静けさの中、背後にはなお熱を帯びた視線を感じる気がした。
それに背を向けながら、アランは自室への廊下を急ぎ降りていった。
その日の授業から戻り、自室の扉を閉じたときだった。
カーテンの奥に影が動いた。
「……っ!」
胸が跳ねる。
暗がりにいたのは黒い大きな犬。
懐かしくも頼もしいその姿。
以前初めて目にしたときは息を呑んだほど驚いたけれど、今はすぐにわかる。
「……どうして急に?」
問いかけに答えるように、犬の姿がすっと揺らめき、青年の立ち姿へと変わった。
シリウス・ブラック――彼の姿に、一気に胸が安堵で満たされる。
先ほど受けた治癒の呪文でさえ拭えなかった、胸の内の痛みや不安。
そのすべてが、彼の姿を見ただけで和らいでいく気がした。
「おい……お前、レギュラスに“やられた”んだって?」
強い声音に、アランははっと首を振る。
「ち、違うの。やられたなんて言い方は、あの人にあまりに失礼だわ」
必死に言葉を重ねる。
――あれは事故。ただ、彼と私の実力の差が大きすぎただけ。
シリウスは腕を組み、じっと睨むように見ていた。
「でもよ、相手がアラン……お前だって分かってるなら、吹き飛ぶほどの呪文なんか普通はしねえだろ」
その言葉が、胸に鋭く突き刺さった。
ずきん、と痛む。
――でも違う。
レギュラスはきっと、手加減してくれていた。
ほんの一振りのはずだった。
それさえ防げなかったのは自分の至らなさだ。
「……違うの、シリウス。本当に、私が至らなかったの。防護呪文を、きちんと張れなかっただけ」
伏せた瞳が震える。
情けなさと悔しさが、込み上げてやまなかった。
――手加減されてなお防げなかった。
その事実が、何より苦い屈辱だった。
けれど双眸を向ければ、彼はただまっすぐに見つめ返している。
黒曜石の瞳の奥で燃えるのは、責める激しさよりも、守りたいという熱そのものだった。
その熱が、冷えた心を覆い尽くす。
レギュラスの灰色の瞳に感じた恐ろしさとは、正反対の光。
その違いを咄嗟に思い知りながら、アランは唇を結んだ。
涙がこぼれそうになり、ぎりぎりのところでそれを堪えた。
シリウスがふいに、アランの手を取った。
温もりが、指先からじんわり染み込んでくる。
――この手が好き。
そう思った。
強くて、熱を持ち、けれど決して縛りつけない。
必要な時、迷わず差し伸べてくれる。
その温かさに包まれるたび、胸の奥の固い結び目が解けていく気がした。
「……俺と少しでも練習しないか?」
シリウスの声は真剣そのものだった。
「保護呪文だけじゃなくて……色々あるだろ。これからもっと実践の授業が増える。……お前に怪我してほしくねえから。俺が教えられるもんは、全部教えてやりたいんだ」
胸の奥に、柔らかな光がじわりと広がった。
これまで知らなかった種類の優しさ――。
引き綱を強く引くのではなく、ただ隣に並んで歩くように導いてくれる感覚。
そこに支配も強制もなかった。
あるのはただ、純粋な思いやりだけ。
「……あなたが、教えてくれるの?」
小さく問いかけると、彼はほんのり照れくさそうに笑った。
「……お前が嫌じゃなかったら、な」
思わず頬が緩む。
自然に浮かんできた笑みは、心の奥から晴れたもの。
久しぶりに――心からの笑顔だった。
シリウスから教わる魔法。
それは自分の弱さを責めるためではなく、希望に変える未来の訓練。
想像するだけで心臓が軽やかに跳ね、胸が躍った。
「……お願いしたいわ。――シリウス先生」
いたずらっぽく付け足すと、彼の耳がほんの少し赤く染まった。
「先生……か。響きがなんかいいな」
頬を掻きながら照れるシリウス。
その姿に、アランの胸はまた温かく満ちていった。
――彼となら、何度だって立ち上がれる。
そう強く、思えた。
誰にも見つからぬようにと、ふたりは夜更けの中庭に立っていた。
月光が廊下の影を長く落とし、石畳を白く照らしている。
「じゃあ、構えてみろ」
シリウスが杖を顎で示す。
アランは少し緊張しながら、胸の前で構えた。
ただ守るために唱えていた呪文を、今度は彼と共に練習する。
――何もかも、少し違う。
「いいか。守るだけじゃなくて、相手の力を見て、流すんだ。受け止めるんじゃなくて、逃がす。……やってみろ」
彼の声はいつもより落ち着いていた。
授業中の教師のように的確で、それでいて柔らか。
「Expelliarmus!」
シリウスの放った呪文が、赤い閃光となってまっすぐに飛ぶ。
「Protego!」
必死に唱えた防護の壁は弾かれ、アランはよろめいて後ずさった。
その瞬間、背後に回り込んでくれたシリウスが肩を支える。
「大丈夫か?」
温かい声がすぐ耳元を揺らす。
「ええ……でも、やっぱり難しいわ」
悔しさを滲ませる。
「いいんだ。初めからできる奴なんていない」
シリウスは真剣な瞳で見つめ、微笑んだ。
「でもお前はきっとできる。焦るな。何度でも俺が相手になる」
その言葉が胸に沁み入った。
レギュラスの時には感じられなかった温もり。
そこには上下も強弱もなく、ただ「一緒に強くなろう」という眼差しだけがあった。
もう一度深呼吸し、杖を構える。
心に浮かぶのは、負けないという意地よりも――ただ、シリウスに応えたい気持ち。
次の呪文は、少しだけ、先ほどよりも強く空気を振るわせた。
「……すごいじゃないか」
シリウスの驚き混じりの声に、アランはふわりと笑顔を浮かべた。
それは本当に――心の底から溢れた笑みだった。
彼と一緒なら、自分でも変われるのだと初めて強く信じられた。
数度、呪文を繰り返し、月下の空気は光と風に満たされていった。
アランの息は少し荒く、掌に握る杖は熱を帯びているように感じた。
「……もう限界か?」
シリウスが笑みを浮かべて声をかける。
「……いえ、もう一度……」
悔しげに首を振ろうとしたが、足元がふらついた。
すかさず腕を伸ばされ、彼の胸に支えられる。
その瞬間、アランは苦笑を洩らした。
「……ふふ、やっぱり疲れちゃったみたい」
「だろうな。だが、よく頑張ったぞ」
シリウスの手は力強くも優しかった。
彼の言葉が胸の奥にじんわりと広がり、疲労すら幸福に思える。
ふと顔を上げれば、黒曜の瞳に月が映っている。
まるで夜空そのものを抱えているようで、思わず見惚れてしまった。
「ねえ、シリウス」
呼びかける声は息のように細い。
「ありがとう。本当に……今夜が、すごく特別に思える」
「当たり前だろ。これは俺たちだけの秘密の稽古だ」
彼はイタズラっぽく笑い、アランの額に優しく触れる。
「誰にも教えねえ。俺とお前だけの場所、俺たちだけの時間だ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
孤独に押し潰されそうになる日常の中で、こうして「二人だけの秘密」が確かに存在する。
それは何より強い光となり、心を照らしてくれる。
ふたりは石畳に腰を下ろし、月を仰いだ。
全身を包む夜風が涼しく、頬を撫でた。
「……疲れたな」
シリウスがぽつりと呟く。
アランも笑って頷いた。
「ええ、でも、とても楽しかった」
視線が交わる。
それだけで笑みがまた溢れてしまった。
秘密を共有する喜びと、心からの安らぎ。
夜は、二人の頬を紅く染めていった。
あの日の事故は、やはり噂になっていた。
大きく吹き飛ばされ、床に叩きつけられたアラン。
その光景を見ていた数十名のざわめきは、瞬く間に姿を変え、校舎の隅々に散ってゆく。
「普段はいつも一緒なのに、仲違いでもしたんじゃないか?」
「わざとあんな強い呪文を放ったんだろう」
「いいや、普通ならあんな威力で誰かを狙うはずがない……」
「セシール嬢の側にいつもべったりだし、鬱陶しくなったのかもよ」
「いやでも、あの二人はもうそういう関係らしいから――」
言葉は湾曲し、真実の色を遠く離れた影に塗り替えていく。
聞きたくなくても耳に届くその囁き。アランは、うんざりと胸を押さえるしかなかった。
けれど――レギュラスの態度は変わらなかった。
食堂ではいつも傍らに腰を下ろし、談話室でも隣に位置を取り、授業でも必ずアランを選んで立った。
その揺るぎなさこそが、無言の反論となっていた。
「噂など、取るに足らない」と、その背中が語っていた。
次の防衛術の授業。
レギュラスは前回と同じ轍は踏むまいと心に誓っていた。
自分にとっては軽い一撃だと思っていたあの呪文も、彼女にはあまりに重すぎた。
今度は、さらに一段階威力を引き落とし、慎重に制御して放つことを決める。
杖を構える直前―― アランが小さく呟いた。
「……レギュラス。本当に、私でいいんですか?」
それは不安の裏返し。
彼と自分の差を誰よりも痛感しているからこその問いかけ。
レギュラスは迷いなく目を細め、静かに答える。
「ええ。――あなたがいいんですよ」
「でも、あなたほどの腕なら……あなたと組みたいって生徒は多くいると思うわ」
アランの声は震えていた。
自分が足を引っ張るのではないか、彼の成長を妨げてしまうのではないか――そう思っているのだろう。
たしかに。
幼い頃から家庭教師をつけられ、呪文の実践形式の訓練を重ね続けてきた。
その経験は周りの生徒の比ではなく、むしろ一部の教師すら凌ぐ自負がある。
だから、対戦の相手として自分を望む者はきっと多い。
その方が、互いに本気で技を磨き合えることを知っているから。
それでも。
――優先はただ、一人。
アランだった。
彼女が他の生徒と組むのを想像するだけで、胸にざわつきが広がる。
交友が広がり、自分の知らぬ顔を見せること。
あるいは、無用に彼女を傷つける呪文を放たれるのを見ること。
どちらも耐え難かった。
だから彼は、静かに杖を構える。
「僕が目を配ります。あなたは、僕といればいい」
灰色の瞳に宿るのは確信。
慈しみをまとわせながら、その奥で燃えているのは――揺るぎない独占の炎だった。
再び向かい合ったレギュラスを前に、アランの手はわずかに震えていた。
――また吹き飛ばされるかもしれない。
その恐怖は簡単には消えない。
だが、あの夜を思い出す。
湖のほとり、月の下でシリウスが手を取ってくれた。
「受け止めるんじゃなく、流すんだ」
あの声の優しさと強さが、今も胸に残っている。
「……いきます」
レギュラスが杖を振る。
前よりも弱められた光が、ゆるやかに迫った。
アランはすかさず防御の呪文を唱える。
「Protego!」
展開した魔法障壁は揺れながらも、今度は破られなかった。
衝撃は全体に広がり、力が抜け落ちていくように空気の中に消えた。
「っ……!」
無事に立っている――それだけで胸がいっぱいになった。
レギュラスが僅かに目を見開いた。
まさか受け止め切れるとは思わなかったのだろう。
「……よくできましたね」
声は静かで、それでも驚きが隠せていない。
アランの胸には、小さな灯がともった気がした。
――訓練の成果だ。
シリウスと何度も繰り返した稽古。
笑い合い、支え合い、そして掴み取った感覚が、今こうして実を結んでいる。
まだ弱い。
まだ頼りない。
けれど確かに前よりも、ほんの少し強くなれている。
「……やっぱり、あなたは僕の隣がいい」
安堵の息を混じらせながら、レギュラスが呟いた。
その言葉に、アランはかすかに笑みを浮かべる。
だが心の奥では――胸を灯す光の名が、別の誰かのものだと知っていた。
夜の石畳を伝って、息を弾ませながら今日の出来事を語る。
アランが防護呪文を保てたこと――ほんの小さな一歩。
それを口にした瞬間、シリウスはぱっと笑顔を輝かせた。
「やったな!」
そして何の前触れもなく、彼女を強く抱き寄せ、そのままくるりと回す。
「きゃっ……!」
驚きの声が小さく零れる。
子ども扱いされているようで、頬がわずかに赤くなる。
けれど、胸の底から嬉しくて、楽しくて――幸せだった。
彼と一緒に回った世界は、夜空さえ味方して輝いて見えた。
「……さすがだな。俺のアラン」
弾む声が耳に焼きつく。
「先生のおかげね」
頬を染め、照れ隠しのように言った。
次の瞬間、両の頬を大きな手が掴んでいた。
逃がさぬようにすくい上げ、視線をまっすぐ絡める。
「……っ」
上を向かされ、そのままキスが降りてくる。
強く、確かに――「よくやった」「誇らしい」と、言葉より雄弁に伝える口づけ。
堪らなかった。
胸いっぱいに幸せが広がり、涙が滲みそうになる。
あの瞬間だけは、自分の弱さや不安もすべて溶かされる。
――シリウスに抱き締められ、褒めてもらえる。
ただそれだけで、世界に抗える力が湧くのだと身に沁みて感じていた。
それから幾夜も、シリウスはアランに呪文を教えてくれた。
攻撃呪文、防御呪文、補助の小さなものまで。
習ったばかりの呪文はぎこちなく、最初は杖先の光だけが頼りなく揺れるばかりだった。
けれど。
アランの手の中から、確かに魔法が飛び出す瞬間が増えていった。
打ち放つ光の線は細く、威力も決して強くはない。
それでも「自分の力だけで放てる呪文がある」という事実が、思った以上に心を強くした。
――レギュラスの隣では感じ続けていた劣等感。
いつも自分の無力さを突きつけられるような思いに囚われていた。
けれど今は違う。
強大な力ではなくてもいい。
シリウスが導いてくれたから、覚えた呪文がある。
それだけで胸を張れそうな気がして――そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……すごく強くなれた気分よ」
光を放ち終え、息をついたアランが微笑む。
額には汗が滲んでいたが、瞳は活き活きと輝いていた。
シリウスはその様子を眺め、にやりと笑う。
「おいおい……そんなに強くならなくてもいいんだからな」
軽口の奥に――確かに込められた意味を感じる。
……俺が守るから。
そう告げられたに等しい響きに、胸がじんわりと温かく満たされていった。
「……わかってる。でもね、シリウス」
小さな声で呟きながら、アランはその幸福を心で噛みしめる。
彼がいるから、自分は少しずつ強くなっていける。
彼がいるから、笑って前を向くことができる。
夜風が吹き抜け、月明かりが二人を柔らかく照らした。
その光の中でアランは、弱さも不安もすべて抱え込みながら――ただ幸福に震えていた。
サイドテーブルには相も変わらず、闇の帝王を讃える記事や切り抜きが、積み上げられるように置かれている。その厚みを目にするだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
――この人の未来は、やはりあの闇と共にある。
シリウスが示してくれた、自由で柔らかく温かい世界とは、明らかに対照的な場所。ここにあるのは秩序と権力、冷徹に築かれた規律だけ。自分は、本当に導かれたいと思う未来を知りながらも、その希望は遠く手の届かぬ場所にある。
何度繰り返しても、この空間には慣れることができなかった。嫌悪感を押さえることはできても、それだけで抗えるわけではない。目を閉じると、錯覚がわずかに現れる。レギュラスの手の感触が、瞬間的にシリウスのものだと錯覚するのだ。触れる感覚が欲しくて、アランは意識的に目を閉じ続けてしまう。――その虚構にすら、心が縋っていた。
「…… アラン。こっちを見てください」
低く落ち着いた声に、ハッと息を飲み、瞳を開ける。
そこに映るのは、鋭く光る灰色の瞳。光は冷たく、まるで全てを見透かすかのように深く射抜いてくる。視線を受けた瞬間、全身の血が凍りつくようで、内臓がぎゅっと握られるような痛みと、言葉にならない恐怖が同時に押し寄せた。
呼吸さえも乱れ、口を開けば声が漏れてしまうだろう――そう考えると、声を出すことが恐ろしくなった。だから、首を小さく縦に振る。言葉に代わる微かな同意の意思を示すように。心の奥底では、愛を信じているかのように見せかけるしかない。
その瞬間、唇が重なり、強く押し付けられる。口を塞がれ、声は完全に閉ざされる。苦しいはずなのに、皮肉にも安堵が胸に広がった。逃げ場のない状況で、自らの声を封じられることが、逆に守られているように思えたのだ。
――逃げるための手段。
本意ではない。しかし、追い詰められた心が選んだ唯一の逃げ道。
アランの指先に小さな力が入り、手のひらを硬く握る。心臓は荒く脈打ち、頭の中は混沌としている。胸の中の恐怖と、自己嫌悪の感覚が交錯し、息をするたびに胸を突き上げてくる。
そして、恐ろしいことに、この口づけをレギュラスはきっと愛情の返答だと受け取っている。錯覚の中で示した自分の承認が、彼の確かな愛をさらに強固にしてしまう。逃げれば逃げるほど、与えられた愛と錯覚の重さは、まるで鎖のように絡みついて離れない。
その重みに気づきながらも、アランは動けなかった。凍りついたように立ち尽くし、手の中の温もりを受け止めながら、自らを責め続ける。胸には恐怖、後悔、そして皮肉にも安堵が混ざり合い、まるで心が二つに引き裂かれたかのようだった。
――どうしてこんなにも、私はずるく、弱いのだろう。
揺れる心を抱え、アランはそっと息を吐いた。暗闇に包まれた部屋の隅々まで、抑えきれぬ感情が静かに震え、レギュラスの確かな手の温もりとともに、胸の奥で複雑な渦を巻き続けていた。
すべてが終わったあとの寝室には、乱れた布団と散乱した衣服だけが静かに残っていた。
レギュラスは無言のまま、ふと床やベッドの間に落ちたアランの衣服を拾い集める。小さな下着、袖のほつれたローブ、外れたボタンのついたブラウス。ひとつひとつ手に取り、まるで壊れやすい繭を扱うかのように、そっと差し出してくる。
――どちらが守る者で、どちらが守られるべき存在なのか。そんな境界が曖昧になる瞬間だった。
「……自分で、できます」
小さな声で首を振り、アランは受け取ろうとする。しかし、腕は思うように通らず、指先はボタンの穴を何度も逃す。疲労が全身に重くのしかかっている。
本当は、このまま目を閉じて眠ってしまいたい――それほどの倦怠と安堵が体を覆っていた。
その様子を見つめ、レギュラスは何も言わず、静かに膝をついて隣に座る。滑らかな指先がそっと袖を正し、ボタンをひとつずつ丁寧に留めていく。手際は決して器用ではない。むしろ拙い。しかしそのひとつひとつの仕草は、異様なまでに慎重で、まるで慈悲深い儀式のように温かく、優しかった。
「……すみません」
やっと絞り出す言葉に、レギュラスは静かに首を振る。
「いいえ。僕の方こそ、無理をさせましたね」
その声は柔らかく、深く慈しみに満ちていて、まるで空気ごと包み込まれるようだった。
しかし、アランの胸は裏切るようにざわめき続ける。
――自分への嫌悪で。
与えられる優しさに応えることができず、ただ罪悪感だけを重ねていく。体は疲れ切っているのに、心は乱れ、逃れられぬ迷路の中に置かれたように思えた。
「……もう寝ますか?」
囁くような声に、アランは小さく首を振ることしかできない。
本当なら、ひとりで静かに眠りたい。だけど、従者として培った習い性が働く。彼が何を求め、何を必要としているのかを、先回りして汲み取ろうとしてしまうのだ。
横目で見たレギュラスは、まだ眠気をまとっていない。昼間のクィディッチ練習、そしてその後の出来事にもかかわらず、息は整い、体の奥にはなお活力が漲っているように見える。底知れぬ体力――その事実に、思わず感心してしまう自分がいた。
しかし胸に残るのは、単なる尊敬ではなかった。
圧倒的な差を、唐突に突きつけられる感覚。
体格、身長、力の強さ。勉学における理解力、魔法の才……すべてにおいて、レギュラスはどんどん自分から離れていく。置き去りにされたような孤独感が、胸に鋭く刺さる。
――それでも、シリウスとなら、こんな風には感じなかった。
身長差も力の差も、知識量の差も、すべてが守られている安心感に変わるだけだった。憧れと尊敬が混ざり合い、温かく、居心地の良い存在感となって胸に満ちる。なのに、どうして同じ血を分けたレギュラスからは、ただの隔たりとしてしか映らないのだろうか。
答えは見つからなかった。沈黙の中で、レギュラスが最後のボタンを留め終える。指先が袖にふわりと触れ、静かに微笑む。灰色の瞳に迷いは一切なく、ただ冷静に、確実に、自分を見つめている。
――そして、アランはひとり、その足元で、自分の心が静かに、しかし確実に闇に落ちていくのを感じていた。
昨日の余韻がまだ体の奥に沈殿するようにして迎えた朝。
大広間には、焼き立てのパンの香ばしい匂いが静かに広がり、湯気を立てるカップの熱気が朝の冷気と混ざり合っていた。窓の外から差し込む光は柔らかく、石造りの壁を淡く照らす。
アランはいつもの所作で、静かに皿に料理を盛り付けていた。
トーストには軽く蜂蜜を垂らし、卵料理には好みに応じた香草を添える。手の動きは無意識のようでいて、どこか繊細で、丁寧な感覚が指先に宿っていた。
日常のルーティン。はずの動作が、彼女にとっては「仕えている」という感覚を超えて、自然で当たり前のものになっていた。
朝の光に包まれ、穏やかで、満たされた時間。けれど、レギュラスの胸に、説明のつかないざわめきが静かに生まれる。
――あの指輪。
アランの華奢な指に輝く、銀のリング。
母――リシェルから贈られたと聞かされていたその指輪は、彼女の日常に自然に溶け込み、外されることはない。母と娘の絆の象徴かもしれない。しかし、レギュラスの胸をざわつかせるのは、理屈ではない何かだった。
――なぜ、そんなにも大切そうに。
――誰が、いつ、どのように渡したのか。
疑念が静かに、しかし確実に心の奥を締めつけていく。嫌悪に近い違和感が、胸の内で静かに渦巻いた。
レギュラスは低く、落ち着いた声で言った。
「…… アラン、手を」
その呼びかけに、アランは一瞬だけ戸惑いを見せた。しかしすぐに、差し出された片方の手を素直に受け取る。指輪のない方の手。
「……いえ、反対側を」
小さく首を振り、そっと促す。アランは疑問の影を瞳に宿しつつも、両手を差し出す。
銀のリングが光を反射する。レギュラスの指先がそっと触れ、迷いなく、静かにその指輪を抜き取った。
「……っ」
アランの顔に一瞬、揺らぎが走る。困惑と戸惑いが入り混じり、目の奥に波紋のような動揺が広がった。
その顔を真っ直ぐ見つめ、レギュラスは静かに言う。
「やはり……指輪は、僕が贈ります」
アランの瞳はなおも揺れ続け、唇は返事の言葉を作らず、ただ呆然としたままだった。
レギュラスは柔らかく微笑む。慈しみを含んだ声が、静かに告げる。
「お母様からの指輪は、大切に取っておきましょう」
返答はない。否定も肯定もされぬまま、二人の間に沈黙が落ちる。だが、レギュラスはその沈黙こそが暗黙の承諾だと受け止めていた。灰色の瞳には、既に確信めいた光が揺らめいている。
皿の上で湯気を立てるスープの香りだけが、淡々と朝の時間を告げていた。
その穏やかな時間の中で、アランの胸は深い沈黙の中に凍りついたまま、何かを失った感覚だけを抱えていた。
月明かりに包まれた湖の辺り。水面は鏡のように空を映して揺れていた。
夜更けに呼ばれ、アランはひとりそこに駆け出してきた。
待っていたシリウスの手には、確かにあの指輪が輝いている。
――互いの誓いのしるし。
それを見た瞬間、胸が苦しく締めつけられた。
……お揃いのはずだったのに。二人を繋ぐはずだったのに。
自分の指にはもうない。
まるで未来そのものをもぎ取られてしまったような感覚に、呼吸が乱れそうになった。
「……シリウス……!」
声にならぬまま、熱い涙が頬を伝った。
次の瞬間、崩れるようにして彼の胸に飛び込む。
温かくて、優しくて――滝のように涙が溢れ止まらなかった。
「おい、どうした……泣くなよ、俺の可愛いアラン!」
シリウスが、笑いながらも困ったように背中を抱き締めてくれる。
その言葉が、幸せの鈴音のように胸へ落ちた。
――わたしは“可愛い”と呼ばれていい。彼の隣で。
「アラン、ほら見ろ……」
指先が夜空を示す。
「――あれが俺の星だ」
涙に霞む視界の先、ひときわ力強く輝く星があった。
「……あなたみたいに、力強く光ってる」
呟く声はまだ震えている。
シリウスはそっと頬に触れ、微笑んだ。
「お前が一人で泣かなくていいようにな。――ずっと照らしてる」
その一言が、じわりと広がる光になって胸を温めた。
固くこわばった心の塊が、少しずつ解けていく感覚。
並んで星を仰ぎながら、彼はふいに問いかけた。
「……卒業したら、どんな家に住みたい?」
アランは涙の中に笑みを咲かせて応える。
「……あなたと私の写真を、たくさん飾りたいわ」
「そしたら、子どもが生まれたらその写真も飾ろう」
屈託なく言うその未来予想図。
未来を語ることが、こんなにも楽しいなんて。
離れている間は押し寄せる不安に押し潰されそうになるのに。
こうして共にいる時間だけは、不安も痛みも溶けて、胸の奥まで満たされていく。
夜空いっぱいの星々の中で輝くただひとつの約束。
――それを信じていられる限り、アランはまた歩いていけるのだと思えた。
真夜中、寮の談話室にはまだ温かな焔が燃えていた。
分厚いラグに寝転んでいたジェームズとリーマスが、シリウスの姿を見ると同時に顔を上げる。
まるで待ち伏せしていたかのような眼差し――「話せ」と言わんばかりに期待に満ちていた。
ジェームズが真っ先に問いかける。
「……どうだったんだい、親友?」
シリウスは笑いを堪えきれず、口元がにやりと歪んだ。
温かくて、幸せで――胸いっぱいに詰め込んだものがあふれそうで。
誰かに分け与えたいようで、けれど本当は、自分ひとりで抱きしめていたい。
そんな感覚を、どう伝えればよいのだろう。
「僕らの将来の話をしたんだ。……卒業したら、二人で住みたい家の話を」
その言葉に、ジェームズもリーマスも顔を見合わせて笑みを浮かべる。
彼らにとって、シリウスがあれほど真剣な未来を口にすること自体、胸を温めるものだった。
だが、すぐにジェームズの瞳がいたずらめいて細まる。
「……それで? そろそろ次のステップには進んだのかい?」
予想していた質問。
シリウスは軽くため息をひとつついた。
自分でも思う。
なぜまだ、あの美しい存在に甘えて、深い関係へと踏み込めないのか。
キスを交わした後、そのまま流れるように彼女と一つになれたはずだった。
けれど――できなかった。
その理由を、誰よりも自分が知っている。
あんなにも大切な子を、ただ自分の生理的な欲求を満たすために扱うなど、とても考えられなかった。
アランを思う気持ちは、もっと神聖で、触れれば砕けてしまうほど尊いものだった。
――だから、焦る必要はない。
アランと歩んでいくこれからの人生の中で、きっといくらでも時間はある。
ゆっくりと、互いのための時間を育てていけばいい。
それが彼女を守ることでもあるのだから。
誰かが意気地なしと囁こうとも。
男の風上にも置けないと笑おうとも。
構わない。
この思いは彼らの言葉よりも、はるかに重く確かなものだ。
――僕はアランを「奪う」ためにいるんじゃない。
「共に歩む」ためにここにいるのだ。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
その小さな音の中で、シリウスの瞳だけは澄み切って揺らいでいなかった。
談話室の片隅でまだ炉火がぱちぱちと燃え続けていた。
「まあ、座れよ」
ジェームズがにやりと笑いながら肩を抱き、ソファへと押し込む。
「そろそろ君が踏み込んであげないと……逆にセシール嬢にも失礼ってもんじゃないのか?」
不躾ではあるが、親友が本気で心配している響きを帯びていた。
リーマスが隣で穏やかに微笑して続ける。
「それはあるかもしれないね。あれだけ二人きりで過ごす時間がありながら、君ほどの人が何もしないなんて……女性としては不安になるかもだよ」
二人の親友は気さくに、好き放題に口にする。
だがシリウスの胸中は違っていた。
性行為をアランが待ち望んでいる――そんな風に思ったことは一度もない。
マグルの街に出かけたときですら、軽く飲んで雰囲気を作ろうという下心を抱えていた。
けれど彼女は酔い潰れてしまった。
……その瞬間、心のどこかに「まだ時じゃない」と線を引いたのだ。
もし二人で一線を越えるとしたら。
それはアランが卒業し、二人で一つの家に暮らし始めてからでも遅くない。
そう思えてならない。
たしかにそういった欲求はある。
彼女を求めたい気持ちが日ごとに強まるのも事実。
それでも、上回るのは――「傷つけたくない」という切実な想いだった。
過ごした時間の中に残るのは、甘く優しい記憶ばかり。
その状態だけでも、心はもう十分に満たされていた。
「……ヤることしか考えない男じゃねぇんだ、俺は」
シリウスは正直に吐き出すように言った。
ジェームズは肩を竦めて、しかし食い下がる。
「そこまで言うつもりはないさ。ただな、次のステップは考えておかないと……」
からかい交じりの声音に、心配の色がにじむ。
リーマスもまた、黙って笑みを浮かべながら頷いていた。
シリウスはふっと視線を落とす。
胸の奥に広がるのは、友情の温かさだった。
――彼らがこうして一生懸命に考えてくれること自体が、嬉しくて仕方がなかった。
心底くだらないと思えるやり取りの中でも、背中を預けあえる安心感は揺らぎようがなかった。
炉火がまたぱちりと弾け、赤い火の粉が瞬いた。
その明かりの下でシリウスは、アランと未来をゆっくり歩んでいく決意を再び心に深く刻んだ。
防衛術の授業は、この学年から実践形式が加わった。
互いに杖を構え、呪文を放ち、防御して。机上の学びを実際に体で刻んでいく時間だ。
当然のようにレギュラスは、隣に立つアランをパートナーに指名した。
本来であれば同性同士でペアを組むことが多いが、彼はいついかなる時もアランを選ぶ。
周囲もそれを承知していて、誰も彼に異を唱えようとすらしなかった。
「始め!」
教師の合図に、レギュラスは杖を軽く振る。
ほんの一撃。力を込めたわけではない。
アランが防護の呪文を唱え、きっと守りきれる程度の――そのつもりだった。
だが、現実はまるで違った。
「Protego!」
とっさに構えたアランの呪文。だが薄い膜のように震え、貫かれる。
レギュラスの軽い一撃すら防ぎきれず、青白い閃光に貫通されたアランは大きく弓なりに吹き飛ばされる。
空中に舞う緑のローブの裾――。続けて床に叩きつけられる鈍い音が響き、授業場はどよめきに包まれた。
「アラン!」
レギュラスは慌てて駆け寄る。身体を支え、急ぎ起こさせた。
「すみません、大丈夫ですか」
「……ええ、全然、平気よ」
震えながらもかすかに笑みを作る。
だが受け身も取れずに落ちたのだ、痛みが走っていないはずはなかった。
レギュラスの胸を灼くのは後悔だった。
威力は抑えたつもりだった。ほんの軽い凪ぎ。
それだけで、ここまで吹き飛ばしてしまうなんて。
――自分と彼女の力の差を、見誤っていた。
別に彼女を蔑むつもりはない。
それでも――あまりにも違いすぎた。
レギュラスは黙ってアランの背を撫でた。撫で続けるしかなかった。
彼女は痛みを隠し、瞳に笑顔を宿そうとしていたが、その奥にかすかな悔しさと諦念が見え隠れしていた。
「……レギュラス。あなたの実力なら、他の人とペアを組んだ方がいいわ」
震える息の中、アランは小さく言った。
「その方が絶対に、あなたのためになるもの」
まっすぐな灰色の瞳が即座に彼女に返る。
「……いいえ。これからは、僕の方が気をつけます」
その言葉の優しさが、むしろ胸を締め付けた。
違う。
気をつけ合ってかける呪文では、何も身につかない。
互いに本気で放ち合うことでしか、魔法は伸びないのだ。
それを分かっているからこそ、アランは唇を噛んだ。
――自分はレギュラスの足枷になっている。
痛む身体を支えられながら、彼女はひそかにそう感じずにはいられなかった。
教師の「医務室へ連れて行きなさい」という指示を受けて、レギュラスはためらわなかった。
アランの小柄な体を、横抱きに抱え上げる。
「っ……!」
ふいに身体が宙に浮き、驚きの声をもらすアラン。
緑のローブの裾がふわりと揺れる。
だがレギュラスは気にしていなかった。
――この状態で無理に歩かせる方がどうかしている。そう思ったからだ。
「レギュラス……。医務室までは行かなくてもいいわ」
「では……僕の寝室に行きましょう」
答えは穏やかでも、瞳は真剣そのもの。
変な意味ではなかった。
ただ――打ちつけた場所を確かめ、内出血を起こしていないか確認したかった。
もし自分のせいで、あの雪のように白い肌に痕を残してしまっていたら。
――そう思うだけで堪らなかった。
やがて、彼女を自室の寝台に横たえる。
「もう大丈夫よ。本当に大したことはないもの」
アランはそう言って微笑を作った。
「ええ。……わかりました」
レギュラスも頷いた。
けれど――その言葉と裏腹に、彼の手はアランのローブにかかっていた。
布を静かにずらし、衣擦れの音を響かせる。
「……レ、レギュラス、待って……」
声が震える。
「アラン……心配なんです」
彼の声音は低く切実だった。
「……恥ずかしいわ。こんな時間に……」
昼下がりの静かな館。外ではまだ授業が続く。
そんな時間に、服を乱されること自体――羞恥を避けられなかった。
たしかに。彼も一瞬、我に返る。
今の自分の行為の意味を。
怪我を案じているはずなのに、そこに混じる別の熱が、むくむくと胸に立ち上っていくのを自覚した。
「……そういうつもりではありません。……本当に」
誰に向けたものか、自分自身に言い聞かせるように言葉を落とす。
布の下から現れた背中には、青黒い痕がいくつも浮いていた。
左の肩から腕にかけて走る打ち身の跡。
――どれほど強く、あの呪文を当ててしまったのか。
後悔が鋭く胸を抉る。
「……本当に、すみません、アラン」
「いいんです。私が至らないだけですから」
慰めのように返すその声が、余計に彼を痛ませる。
杖を握り直し、治癒の呪文を唱える。
患部がひやりと冷え、アランの身体がぴくりと震えた。小さな吐息が零れる。
――その仕草が。
痛みに耐える反応であるはずが、レギュラスにはひどく艶めかしく映ってしまった。
青痕に指先を添え、冷却の魔法を続けながら。
理性の奥に、抑えきれない欲望が顔を出す。
彼の唇が、ごく自然にその痣へと近づいていた。
触れるか触れぬかの位置で、ため息に似た熱を残す。
「……ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪なのか。
怪我を負わせてしまった彼女にか。
触れてはいけないとわかりながら、触れずにいられなかった自分にか。
黙して答えぬアランの横顔は、抗おうともせず、ただ目を伏せていた。
杖先から滲み広がる冷たい光がアランの皮膚を撫でていく。
ひやりとした感触に身を震わせた、そのすぐ傍で、レギュラスの唇が柔らかく触れる。
――冷たさと温かさ。
境目が曖昧になり、何が自分の体の感覚なのかさえ分からなくなる。
ふと脳裏に蘇るのは、先刻の授業だった。
防護呪文を弾かれ、吹き飛ばされた自分。
ざわめき立つ生徒たちの視線。
――きっと、もう噂になる。
もともとアランは、人目に上がることが苦手だった。
できるだけ目立たず、関心の輪の中心に登らず、ひっそりと日々を過ごしたかった。
けれどレギュラスは違う。
毅然とした態度で、あらゆる場面で「彼女」を隣に置き、特別扱いをやめようとしなかった。
最初の頃は、そのたびに周囲の好奇心の視線に晒され、息苦しく感じていた。
だが数年が過ぎるうち、周囲も「そういうものだ」と受け入れ、騒ぎ立てる声も少しずつ消えていった――はずだった。
それなのに。
今回、勝負にならぬほどに吹き飛ばされる姿を見せてしまった。
きっとまた囁かれる。
「弱さ」も、「特別扱い」も。
思うだけでうんざりした。
「…… アラン、痛みは少しは引きましたか?」
気遣う灰色の瞳。
「……ええ、ありがとう、レギュラス。もう部屋に戻るわ」
はだけた衣服を急ぎ正し、立ち上がろうとした瞬間。
腕を引かれる。
振り返ると、彼の瞳が間近に迫る。
その灰色に、普段よりも強い熱が宿っていた。
ただの心配――そう言い切れない色。
胸の奥に、ぞわりとした恐怖が走る。
「……もう少し、ゆっくりしていましょう。アラン」
穏やかな声だからこそ、その言葉が孕む意味を悟りたくなかった。
「……部屋で少し、休みたいわ」
掠れる声と共に、アランはそっと腕を引き抜いた。
逃げるように、階段へと足を向ける。
男子寮の部屋から出てくるところを見られぬよう、注意深く歩みを早めた。
広がる静けさの中、背後にはなお熱を帯びた視線を感じる気がした。
それに背を向けながら、アランは自室への廊下を急ぎ降りていった。
その日の授業から戻り、自室の扉を閉じたときだった。
カーテンの奥に影が動いた。
「……っ!」
胸が跳ねる。
暗がりにいたのは黒い大きな犬。
懐かしくも頼もしいその姿。
以前初めて目にしたときは息を呑んだほど驚いたけれど、今はすぐにわかる。
「……どうして急に?」
問いかけに答えるように、犬の姿がすっと揺らめき、青年の立ち姿へと変わった。
シリウス・ブラック――彼の姿に、一気に胸が安堵で満たされる。
先ほど受けた治癒の呪文でさえ拭えなかった、胸の内の痛みや不安。
そのすべてが、彼の姿を見ただけで和らいでいく気がした。
「おい……お前、レギュラスに“やられた”んだって?」
強い声音に、アランははっと首を振る。
「ち、違うの。やられたなんて言い方は、あの人にあまりに失礼だわ」
必死に言葉を重ねる。
――あれは事故。ただ、彼と私の実力の差が大きすぎただけ。
シリウスは腕を組み、じっと睨むように見ていた。
「でもよ、相手がアラン……お前だって分かってるなら、吹き飛ぶほどの呪文なんか普通はしねえだろ」
その言葉が、胸に鋭く突き刺さった。
ずきん、と痛む。
――でも違う。
レギュラスはきっと、手加減してくれていた。
ほんの一振りのはずだった。
それさえ防げなかったのは自分の至らなさだ。
「……違うの、シリウス。本当に、私が至らなかったの。防護呪文を、きちんと張れなかっただけ」
伏せた瞳が震える。
情けなさと悔しさが、込み上げてやまなかった。
――手加減されてなお防げなかった。
その事実が、何より苦い屈辱だった。
けれど双眸を向ければ、彼はただまっすぐに見つめ返している。
黒曜石の瞳の奥で燃えるのは、責める激しさよりも、守りたいという熱そのものだった。
その熱が、冷えた心を覆い尽くす。
レギュラスの灰色の瞳に感じた恐ろしさとは、正反対の光。
その違いを咄嗟に思い知りながら、アランは唇を結んだ。
涙がこぼれそうになり、ぎりぎりのところでそれを堪えた。
シリウスがふいに、アランの手を取った。
温もりが、指先からじんわり染み込んでくる。
――この手が好き。
そう思った。
強くて、熱を持ち、けれど決して縛りつけない。
必要な時、迷わず差し伸べてくれる。
その温かさに包まれるたび、胸の奥の固い結び目が解けていく気がした。
「……俺と少しでも練習しないか?」
シリウスの声は真剣そのものだった。
「保護呪文だけじゃなくて……色々あるだろ。これからもっと実践の授業が増える。……お前に怪我してほしくねえから。俺が教えられるもんは、全部教えてやりたいんだ」
胸の奥に、柔らかな光がじわりと広がった。
これまで知らなかった種類の優しさ――。
引き綱を強く引くのではなく、ただ隣に並んで歩くように導いてくれる感覚。
そこに支配も強制もなかった。
あるのはただ、純粋な思いやりだけ。
「……あなたが、教えてくれるの?」
小さく問いかけると、彼はほんのり照れくさそうに笑った。
「……お前が嫌じゃなかったら、な」
思わず頬が緩む。
自然に浮かんできた笑みは、心の奥から晴れたもの。
久しぶりに――心からの笑顔だった。
シリウスから教わる魔法。
それは自分の弱さを責めるためではなく、希望に変える未来の訓練。
想像するだけで心臓が軽やかに跳ね、胸が躍った。
「……お願いしたいわ。――シリウス先生」
いたずらっぽく付け足すと、彼の耳がほんの少し赤く染まった。
「先生……か。響きがなんかいいな」
頬を掻きながら照れるシリウス。
その姿に、アランの胸はまた温かく満ちていった。
――彼となら、何度だって立ち上がれる。
そう強く、思えた。
誰にも見つからぬようにと、ふたりは夜更けの中庭に立っていた。
月光が廊下の影を長く落とし、石畳を白く照らしている。
「じゃあ、構えてみろ」
シリウスが杖を顎で示す。
アランは少し緊張しながら、胸の前で構えた。
ただ守るために唱えていた呪文を、今度は彼と共に練習する。
――何もかも、少し違う。
「いいか。守るだけじゃなくて、相手の力を見て、流すんだ。受け止めるんじゃなくて、逃がす。……やってみろ」
彼の声はいつもより落ち着いていた。
授業中の教師のように的確で、それでいて柔らか。
「Expelliarmus!」
シリウスの放った呪文が、赤い閃光となってまっすぐに飛ぶ。
「Protego!」
必死に唱えた防護の壁は弾かれ、アランはよろめいて後ずさった。
その瞬間、背後に回り込んでくれたシリウスが肩を支える。
「大丈夫か?」
温かい声がすぐ耳元を揺らす。
「ええ……でも、やっぱり難しいわ」
悔しさを滲ませる。
「いいんだ。初めからできる奴なんていない」
シリウスは真剣な瞳で見つめ、微笑んだ。
「でもお前はきっとできる。焦るな。何度でも俺が相手になる」
その言葉が胸に沁み入った。
レギュラスの時には感じられなかった温もり。
そこには上下も強弱もなく、ただ「一緒に強くなろう」という眼差しだけがあった。
もう一度深呼吸し、杖を構える。
心に浮かぶのは、負けないという意地よりも――ただ、シリウスに応えたい気持ち。
次の呪文は、少しだけ、先ほどよりも強く空気を振るわせた。
「……すごいじゃないか」
シリウスの驚き混じりの声に、アランはふわりと笑顔を浮かべた。
それは本当に――心の底から溢れた笑みだった。
彼と一緒なら、自分でも変われるのだと初めて強く信じられた。
数度、呪文を繰り返し、月下の空気は光と風に満たされていった。
アランの息は少し荒く、掌に握る杖は熱を帯びているように感じた。
「……もう限界か?」
シリウスが笑みを浮かべて声をかける。
「……いえ、もう一度……」
悔しげに首を振ろうとしたが、足元がふらついた。
すかさず腕を伸ばされ、彼の胸に支えられる。
その瞬間、アランは苦笑を洩らした。
「……ふふ、やっぱり疲れちゃったみたい」
「だろうな。だが、よく頑張ったぞ」
シリウスの手は力強くも優しかった。
彼の言葉が胸の奥にじんわりと広がり、疲労すら幸福に思える。
ふと顔を上げれば、黒曜の瞳に月が映っている。
まるで夜空そのものを抱えているようで、思わず見惚れてしまった。
「ねえ、シリウス」
呼びかける声は息のように細い。
「ありがとう。本当に……今夜が、すごく特別に思える」
「当たり前だろ。これは俺たちだけの秘密の稽古だ」
彼はイタズラっぽく笑い、アランの額に優しく触れる。
「誰にも教えねえ。俺とお前だけの場所、俺たちだけの時間だ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
孤独に押し潰されそうになる日常の中で、こうして「二人だけの秘密」が確かに存在する。
それは何より強い光となり、心を照らしてくれる。
ふたりは石畳に腰を下ろし、月を仰いだ。
全身を包む夜風が涼しく、頬を撫でた。
「……疲れたな」
シリウスがぽつりと呟く。
アランも笑って頷いた。
「ええ、でも、とても楽しかった」
視線が交わる。
それだけで笑みがまた溢れてしまった。
秘密を共有する喜びと、心からの安らぎ。
夜は、二人の頬を紅く染めていった。
あの日の事故は、やはり噂になっていた。
大きく吹き飛ばされ、床に叩きつけられたアラン。
その光景を見ていた数十名のざわめきは、瞬く間に姿を変え、校舎の隅々に散ってゆく。
「普段はいつも一緒なのに、仲違いでもしたんじゃないか?」
「わざとあんな強い呪文を放ったんだろう」
「いいや、普通ならあんな威力で誰かを狙うはずがない……」
「セシール嬢の側にいつもべったりだし、鬱陶しくなったのかもよ」
「いやでも、あの二人はもうそういう関係らしいから――」
言葉は湾曲し、真実の色を遠く離れた影に塗り替えていく。
聞きたくなくても耳に届くその囁き。アランは、うんざりと胸を押さえるしかなかった。
けれど――レギュラスの態度は変わらなかった。
食堂ではいつも傍らに腰を下ろし、談話室でも隣に位置を取り、授業でも必ずアランを選んで立った。
その揺るぎなさこそが、無言の反論となっていた。
「噂など、取るに足らない」と、その背中が語っていた。
次の防衛術の授業。
レギュラスは前回と同じ轍は踏むまいと心に誓っていた。
自分にとっては軽い一撃だと思っていたあの呪文も、彼女にはあまりに重すぎた。
今度は、さらに一段階威力を引き落とし、慎重に制御して放つことを決める。
杖を構える直前―― アランが小さく呟いた。
「……レギュラス。本当に、私でいいんですか?」
それは不安の裏返し。
彼と自分の差を誰よりも痛感しているからこその問いかけ。
レギュラスは迷いなく目を細め、静かに答える。
「ええ。――あなたがいいんですよ」
「でも、あなたほどの腕なら……あなたと組みたいって生徒は多くいると思うわ」
アランの声は震えていた。
自分が足を引っ張るのではないか、彼の成長を妨げてしまうのではないか――そう思っているのだろう。
たしかに。
幼い頃から家庭教師をつけられ、呪文の実践形式の訓練を重ね続けてきた。
その経験は周りの生徒の比ではなく、むしろ一部の教師すら凌ぐ自負がある。
だから、対戦の相手として自分を望む者はきっと多い。
その方が、互いに本気で技を磨き合えることを知っているから。
それでも。
――優先はただ、一人。
アランだった。
彼女が他の生徒と組むのを想像するだけで、胸にざわつきが広がる。
交友が広がり、自分の知らぬ顔を見せること。
あるいは、無用に彼女を傷つける呪文を放たれるのを見ること。
どちらも耐え難かった。
だから彼は、静かに杖を構える。
「僕が目を配ります。あなたは、僕といればいい」
灰色の瞳に宿るのは確信。
慈しみをまとわせながら、その奥で燃えているのは――揺るぎない独占の炎だった。
再び向かい合ったレギュラスを前に、アランの手はわずかに震えていた。
――また吹き飛ばされるかもしれない。
その恐怖は簡単には消えない。
だが、あの夜を思い出す。
湖のほとり、月の下でシリウスが手を取ってくれた。
「受け止めるんじゃなく、流すんだ」
あの声の優しさと強さが、今も胸に残っている。
「……いきます」
レギュラスが杖を振る。
前よりも弱められた光が、ゆるやかに迫った。
アランはすかさず防御の呪文を唱える。
「Protego!」
展開した魔法障壁は揺れながらも、今度は破られなかった。
衝撃は全体に広がり、力が抜け落ちていくように空気の中に消えた。
「っ……!」
無事に立っている――それだけで胸がいっぱいになった。
レギュラスが僅かに目を見開いた。
まさか受け止め切れるとは思わなかったのだろう。
「……よくできましたね」
声は静かで、それでも驚きが隠せていない。
アランの胸には、小さな灯がともった気がした。
――訓練の成果だ。
シリウスと何度も繰り返した稽古。
笑い合い、支え合い、そして掴み取った感覚が、今こうして実を結んでいる。
まだ弱い。
まだ頼りない。
けれど確かに前よりも、ほんの少し強くなれている。
「……やっぱり、あなたは僕の隣がいい」
安堵の息を混じらせながら、レギュラスが呟いた。
その言葉に、アランはかすかに笑みを浮かべる。
だが心の奥では――胸を灯す光の名が、別の誰かのものだと知っていた。
夜の石畳を伝って、息を弾ませながら今日の出来事を語る。
アランが防護呪文を保てたこと――ほんの小さな一歩。
それを口にした瞬間、シリウスはぱっと笑顔を輝かせた。
「やったな!」
そして何の前触れもなく、彼女を強く抱き寄せ、そのままくるりと回す。
「きゃっ……!」
驚きの声が小さく零れる。
子ども扱いされているようで、頬がわずかに赤くなる。
けれど、胸の底から嬉しくて、楽しくて――幸せだった。
彼と一緒に回った世界は、夜空さえ味方して輝いて見えた。
「……さすがだな。俺のアラン」
弾む声が耳に焼きつく。
「先生のおかげね」
頬を染め、照れ隠しのように言った。
次の瞬間、両の頬を大きな手が掴んでいた。
逃がさぬようにすくい上げ、視線をまっすぐ絡める。
「……っ」
上を向かされ、そのままキスが降りてくる。
強く、確かに――「よくやった」「誇らしい」と、言葉より雄弁に伝える口づけ。
堪らなかった。
胸いっぱいに幸せが広がり、涙が滲みそうになる。
あの瞬間だけは、自分の弱さや不安もすべて溶かされる。
――シリウスに抱き締められ、褒めてもらえる。
ただそれだけで、世界に抗える力が湧くのだと身に沁みて感じていた。
それから幾夜も、シリウスはアランに呪文を教えてくれた。
攻撃呪文、防御呪文、補助の小さなものまで。
習ったばかりの呪文はぎこちなく、最初は杖先の光だけが頼りなく揺れるばかりだった。
けれど。
アランの手の中から、確かに魔法が飛び出す瞬間が増えていった。
打ち放つ光の線は細く、威力も決して強くはない。
それでも「自分の力だけで放てる呪文がある」という事実が、思った以上に心を強くした。
――レギュラスの隣では感じ続けていた劣等感。
いつも自分の無力さを突きつけられるような思いに囚われていた。
けれど今は違う。
強大な力ではなくてもいい。
シリウスが導いてくれたから、覚えた呪文がある。
それだけで胸を張れそうな気がして――そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……すごく強くなれた気分よ」
光を放ち終え、息をついたアランが微笑む。
額には汗が滲んでいたが、瞳は活き活きと輝いていた。
シリウスはその様子を眺め、にやりと笑う。
「おいおい……そんなに強くならなくてもいいんだからな」
軽口の奥に――確かに込められた意味を感じる。
……俺が守るから。
そう告げられたに等しい響きに、胸がじんわりと温かく満たされていった。
「……わかってる。でもね、シリウス」
小さな声で呟きながら、アランはその幸福を心で噛みしめる。
彼がいるから、自分は少しずつ強くなっていける。
彼がいるから、笑って前を向くことができる。
夜風が吹き抜け、月明かりが二人を柔らかく照らした。
その光の中でアランは、弱さも不安もすべて抱え込みながら――ただ幸福に震えていた。
