1章
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スリザリン寮の談話室には、深い湖の底を思わせる翡翠色の光が揺れていた。
低く垂れ込めた天井に反射して、冷たい石造りの壁がかすかな輝きを帯びる。湿り気を含んだ空気はひやりと肌を撫で、耳の奥には遠い水音のような響きがこだましている。
アランはそこでふと足を止めた。
視線の先、ソファの一角に黒髪の少年が腰掛けている。
セブルス・スネイプ――魔法薬学において群を抜く才を持つと噂される同寮生。
彼の名を耳にするたび、アランの胸の奥にはかすかな緊張が走った。
その理由のひとつは、あのレギュラス・ブラックが彼を「素晴らしい」と評していたからだ。
純血主義の渦中にいながら、混血のセブルスを認める――それは容易いことではない。
その理由を、今になって少しだけ理解できる気がした。
恐る恐る隣に腰を下ろす。
近すぎる距離に、思わず胸が固く強張る。
石の冷気がじわりと背を這うのに、彼の存在は研ぎ澄まされた刃物のように際立ち、呼吸を乱すほど鋭い。
ちらりと視線を向けた、その一瞬。
――ばちり、と黒曜石のような瞳とぶつかり合った。
あまりの強さに心臓が跳ね、慌てて視線を逸らす。
喉にかかった言葉が、思わず零れ落ちた。
「……すみません、ミスター・スネイプ」
返ってきた声は、低く短い。
「構わない」
そこには突き放すでも、温めるでもない、研ぎ澄まされた冷鉄のような響きがあった。
逃げ場を失った視線が、彼の膝に広げられた本に落ちる。
革装丁の表紙に金文字が輝く。
《高位調薬の理論と実践》――薬草と鉱石を組み合わせる高度な調合を解説した専門書だ。
熟練の研究者すら唸らせると評判の難解な内容。
ただ頁をめくるだけでも相当な集中力を要する代物を、彼は当たり前のように読み解いていた。
その横顔に見入った瞬間、再び視線が返ってくる。
黒曜石の瞳が深く射抜き、静かに問いかけてきた。
「……興味があるのか」
その問いに、アランは思わず小さく息を呑んだ。
「……あります。けれど、あなたほどの頭脳を持ち合わせてはいませんから」
そう答えながらも、言葉は頼りなく、たどたどしく響く。
セブルスは答えず、ただじっと彼女を見つめた。
その眼差しには、評価と測定と、冷静な判断がないまぜになっている。
彼女という存在を、一つの標本のように観察し、何かを見極めようとしている気配。
その視線を受け止めるたび、不安が胸の奥でふくらんでいった。
――自分は、彼にどう映っているのだろう。
やがて彼は静かに言葉を落とした。
「……レギュラス・ブラックと結婚するのだろう? なら、そこまで勉学に励む理由もない」
淡々とした口調。
ただ思ったままを述べたにすぎないのかもしれない。
けれどその響きは、アランの耳には冷ややかな断定のように届いた。
努力する意味などない――そう告げられた気がして、胸の奥が重く沈んでいく。
彼自身、混血でありながら純血派の中で認められるまでに、どれほどの努力を積み重ねてきただろう。
その厳しい道を、誰よりも知っているのは彼自身のはずだ。
だからこそ、彼の目には、アランが何もせず「レギュラスの庇護によって地位を得ようとする存在」としか映らなかったのだろうか。
そう思うだけで、心臓の奥がずしりと重くなる。
自分の存在が浅はかに思えてならない。
――悲しい。
ただその感情だけが、膨れあがり、胸を圧迫していった。
翡翠色のランプが揺れる談話室に、しんとした沈黙が落ちていた。
アランは胸の奥に重く沈む感情を抱えながらも、ほんのわずかの間を置き、静かな声で返した。
「……そのつもりはありません」
言葉が落ちると、対面に座るセブルスの眉が、かすかに動いた。
その黒曜石の瞳が鋭く光り、冷えた空気をさらに張りつめさせる。
「約束された栄華があるのにか?」
問いはまるで嘲りのようであり、同時に純粋な驚愕のようでもあった。
アランはその目を真っ直ぐに受け止めることはできず、わずかに視線を逸らしながらも、口を開いた。
「そんなものより、大切なものは、この世の中にたくさんありますから」
淡い声で告げた瞬間、彼の瞳に「理解に苦しむ」という影が差した。
魔法薬学の才をもって名を知られ、誰よりも論理的で冷静だと評される人物。
その目に宿る困惑は、まるで異邦人を見るかのようで、アランの胸をじわりと刺す。
――自分が信じる価値は、彼には決して届かない。
その痛ましい隔たりを、改めて突き付けられるようだった。
そして、不意に突き刺すような声が落ちる。
「……シリウス・ブラックを選ぶことはやめておけ」
心臓が激しく跳ねた。
耳に響いたその名が、胸を鋭く抉る。
しかも続けざまに放たれた言葉は、容赦なく彼女を打ち据えた。
「奴には君を守れるだけのものがない」
アランの全身を、冷たい衝撃が駆け抜ける。
彼の断じる声音には、一片の迷いもなかった。
まるでそれが揺るぎない真実であるかのように。
必死に声を保ちながら、アランは唇を震わせる。
「……そんなことはありません」
抑え込んだ声はわずかに揺れ、胸の奥で波打つ痛みを隠し切れなかった。
「シリウスは強くて、誰よりも優しい人です」
どうしても、それだけは言わなければならなかった。
彼は弱くなどない。
強さを権力の道具にせず、人を抑え込まない。
その優しさこそ、真の強さだと、心の奥では確信していた。
――それを『弱さ』と履き違えることこそ、浅はかで脆いのではないか。
心の中で叫ぶが、声にはならなかった。
セブルスは冷ややかに応じる。
「無謀さが強さとは言わない」
鋭い棘のような言葉が、容赦なく胸に突き刺さる。
どうして、ここまで突っ掛かるのか。
理解できない苛立ちと、悲しみに似た感情がないまぜになっていく。
堪え切れず、アランは問いを投げ返した。
「……では、あなたの考える強さとは何です?」
その声には、わずかな怒りと、答えを知りたいという渇望が混じっていた。
彼はどんな立派な理屈を語るのだろう。
冷たい眼差しの奥に、どんな確信が宿っているのだろう。
そう思って尋ねた。
けれど、返ってきたのは予想を裏切るほど短い答えだった。
「レギュラス・ブラックと話したまえ」
一呼吸ののち、彼は淡々とそう告げただけだった。
そしてソファからゆっくりと立ち上がり、ローブの裾を翻す。
振り返ることなく、淡い翡翠色の光に溶けていくように歩み去っていった。
残された談話室には、冷えた静寂だけが残る。
アランの胸を締めつけたのは、その無慈悲な沈黙だった。
――好きにはなれない。
そう思った。
言葉の端々に、必ず「見下ろす響き」を宿してしまう人。
結局は地位や名誉を追い求める匂いを纏い、冷徹さを隠そうともしない人。
そして、その彼を「素晴らしい」と称えたレギュラス。
アランは痛感する。
――自分とレギュラスの間には、想像以上に深い隔たりがあるのかもしれない、と。
――レギュラス・ブラックが熱を上げている女。
アラン・セシール。
その名は、耳にすれば自然と周囲の憧れや羨望を伴って囁かれる。
だが、セブルスにとってはただの噂の一つに過ぎなかった。
少なくとも、今日までは。
初めて真正面から言葉を交わした瞬間――彼は僅かに息を呑んでいた。
確かに、美しいと評判になる理由は理解できた。
形の整った顔立ち。それは絵画のように均整が取れている。だがそれ以上に、彼女の存在全体を包むような柔らかな雰囲気が、人の目を離させない。華美ではなく、押し付けがましくもなく、ただ静かにそこにある温かさ。
けれど、セブルスの視線を決定的に捕らえたのは――翡翠色の瞳だった。
リリーと同じ、あの色。
光を受けて淡く揺れるその緑の奥に、一瞬にして過去と現在が重なり合った。
ただ、その一点だけで、セブルスは意識の半ばを持っていかれた。
目を逸らそうとしながらも、結局は長く見つめすぎてしまった。自覚がある。
その戸惑いを隠すために、口をついて出た言葉は、結果として冷たく刺すようなものになった。彼の常である、壁を作る言い回し――だが今日に限っては、それが妙に空々しく響いた。
スリザリンの内部では、既に広く流れている噂があった。
アラン・セシールはやがて、レギュラス・ブラックの妻になる、と。
彼の隣に立つために、彼女は何もする必要がない。
努力も、犠牲も、戦いも。
ただ「選ばれた」というその事実だけで、栄光も地位も未来も、すべてが約束される。
血統と伝統に守られた、確実で揺るぎない幸運。
――それなのに、この女は、自らその幸運を首を振って退けたのだ。
「……そのつもりはありません」
耳に残るその声を、セブルスは頭の中で繰り返す。
聞き間違いではなかった。
目の前に差し出された幸福を、なぜ拒む?
理解が追いつかない。
そのとき、不意に脳裏を過った記憶があった。
校舎の片隅。
シリウス・ブラックとアラン・セシールが並んでいた光景。
笑っていた。何を話していたのかまでは分からない。軽口か、それとも――もっと深いものか。
ただ、二人の間に流れていた空気は、友情以上のものを含んでいると、感覚で悟れた。
あの微妙な距離感、遠慮のなさ、自然な親密さ。
レギュラスは、それに気づいているのだろうか。
気づけば烈火のごとく怒りを爆発させるに違いない。
だが――仮にそうだとしても。
愚かだ。
セブルスはそう思わずにはいられなかった。
シリウス・ブラック。
空疎な理想を振りかざし、無謀を正義の証と信じ込む傲慢な男。
口先で世界を語り、人を惹きつけ、結局はその熱で燃やし尽くすだけの存在。
そんな男に惹かれるなど、理性では到底説明がつかない。
それでも、彼女は――あの翡翠の瞳で、シリウスを見ていた。
リリーと同じ色を宿しながら。
その事実が、冷たく突き刺さる。
セブルスは唇を固く結び、視線を逸らした。
感情が心の奥で膨れ上がる。冷たい諦念、抑えきれぬ憎悪、そして――ほんの僅かな羨望。
混ざり合って、形を持たないまま胸を満たしていく。
彼女への印象が好意に変わることは、決してなかった。
むしろその眩しさごと、記憶の底に沈め、封じ込めてしまいたい。
そうでなければ、きっとこの心は、また脆く揺らいでしまう。
昼下がりの教室には、ゆるやかな静寂が満ちていた。
羊皮紙の上をペン先が走る乾いた音が、規則正しく並んで響き合う。窓から差し込む光は秋めいて柔らかく、埃の粒子を金色に染めながら教室を漂っていた。生徒たちはそれぞれの課題に没頭し、わずかな咳払いや椅子の軋む音が、かえって一層の静けさを強調している。
その平穏を破るように、不意に風が揺らいだ。
窓辺からひらりと舞い込んだのは、一羽のフクロウ。羽音とともに机の端に小さな巻紙が落とされた。淡い羽毛が宙を漂い、アランの胸の奥を不思議な予感でざわつかせる。
封蝋はない。ただ代わりに、黒犬の小さな落書きが刻まれていた。
その瞬間、息が止まる。誰からの便りか、考えるまでもなかった。
震える指で紙をほどくと、短く急いで綴られた文字が現れる。
――今夜、中庭の石の階段のところで。待ってる。
ただそれだけの文。だが、その言葉は稲妻のように胸を打った。
血の気が指先から溢れるように広がり、鼓動が速くなる。心臓が喉元まで迫り上がり、呼吸さえ浅くなる。思わず紙を握りしめ、机の上に広がる文字の世界が遠のいていった。
「今夜」――ようやく会える。
長く重かった日々を一瞬で吹き飛ばすほどの約束。その思いだけで胸が熱を帯び、視界までが澄み渡るように感じられる。授業中であることを忘れ、心はただ夜を待ち望んでいた。
知らず知らずのうちに、左手の薬指へと指が触れていた。
冷たい銀の輪がそこにある。シリウスと共にマグルの街を歩いたあの日、並んで選んだ指輪。小さな宝飾店の薄暗い灯りと、彼の横顔と、交わした短い言葉が鮮やかによみがえる。
「迎えに行く」「待ち続ける」――二人だけの誓いを込めた小さな指輪。
屋敷に戻っていた間、彼女はそれを外していた。だがホグワーツへ戻った時、シリウスの指に同じものが光っているのを見つけた。その瞬間、胸の奥で失われていたものが戻ってきたように感じ、彼女もまた再び指に通したのだった。
以来、心の支えを確かめるように、無意識に何度も撫でてしまう癖がついていた。
「……その指輪、どうしたんです?」
背中を鋭くなぞるような声。
はっとして顔を上げると、隣にはレギュラスがいた。彼の目が静かに指先を見つめている。
胸の高鳴りが一瞬にして凍りつき、浮かれていた心が過ちに変わる。
気を許した仕草――それを彼が見逃すはずがない。
「……ええ。母から……贈られたものです」
かろうじて紡いだ声は、喉の奥で小さく震えていた。真実を呑み込み、必死に穏やかさを装う。
レギュラスは視線を指輪に落とし、穏やかに微笑んだ。
「リシェル夫人らしい、華奢なデザインですね。あなたによく似合います」
微笑みの裏に、何が隠されているのか。
その優しさが、かえって冷たい恐怖となって胸を締めつけた。誤魔化せただろうか。気づかれてはいないだろうか。
心臓が耳の奥で暴れる。
指の内側にそっと力を込めながら、アランは顔に笑みだけを貼りつけ続けた。
幸福と不安、二つの感情がせめぎ合い、彼女の胸の奥を強く引き裂いていた。
夜が降りてきた。
月は大きく、静かに中庭を見下ろしている。淡い銀の光が石畳を照らし出し、その冷たい青白さは空気ごと凍らせるようで、吐息さえ白く見える気がした。風はなく、ただ夜の匂いだけが濃く漂っている。
授業を終えてからも、アランの胸は一向に落ち着かなかった。
羊皮紙を閉じても、杖を収めても、心臓は一日中軽やかに跳ね続けていた。待ち望む時刻が近づくたびに、胸の内側を小さな火が走る。ついに、長く引き延ばされたように感じられた午後が過ぎ去り、約束の時が訪れた。
――石の階段。
昼間、机に舞い降りたフクロウの姿を思い出す。巻紙の端に描かれていた、黒犬の落書き。たったそれだけで、誰が差し出したのかは明白だった。指先に紙のざらつきを思い出すだけで、胸が温かく震えた。
ホールを抜ける。回廊にはもう生徒の姿はなく、足音だけが石の壁に反響する。松明の炎がぱちぱちと燃え、影が長く床に這い伸びては揺れる。心臓の鼓動と歩調が合わず、はやる気持ちを抑えることができない。自然と足は速まり、歩幅は大きくなっていった。
左手の薬指に触れる。冷たい銀の輪が、月光を思わせる輝きを返す。
「待っている」――そう誓い合った印。
その小さな指輪に触れるたびに、胸の奥で確信が強くなる。今この瞬間、彼もまた、この指輪をはめてここに立っているだろうと。
曲がり角を折れた先に、中庭が広がった。
夜の静寂の中、石の階段が月光を浴びて淡く浮かび上がる。
そして、その上に――待ち続けた人影があった。
黒髪が夜風に揺れ、月明かりにきらめく。背を壁に預けるその姿は、無造作でありながら、どうしようもなく目を引く。
アランの視線が翡翠色の瞳を探すより早く、その笑みが彼女の心を射抜いた。
「…… アラン」
低く掠れた声が夜に溶けた。名を呼ばれただけで、胸がいっぱいになり、声は出なかった。
ただ駆け寄る。
石段を数段飛ばして、息も忘れるほどに近づく。
一歩ごとに、胸を覆っていた不安や孤独が崩れ落ちていく。夜の冷気も、月光の冷ややかさも、もう何ひとつ感じなかった。
ようやく辿り着いて、ほんの少し見上げる形で彼を見つめる。
そこにあったのは、変わらぬ瞳の光。力強さと、優しさと、そして自分だけを映す確かな輝き。
「……会いたかった」
ようやく声になった囁きは、震えるほど小さかった。
次の瞬間、シリウスの腕が迷いなく伸びた。
温もりに包まれる。力強い抱擁は、全ての恐れを押し流し、胸の奥に残っていた影を跡形もなく消し去った。
――ここが、自分の帰る場所。
そう思えたのは、彼の胸に抱かれている時だけだった。
指輪に込めた約束も、彼の声も、腕の温かさも、すべてが自分を現実へ引き戻す。
夜は静まり返っていたが、その沈黙の中で確かに二人の鼓動だけが響き合っていた。
石の階段の影が、夜の静寂に細長く伸びている。
その薄暗い空間に二人は寄り添い、ようやく向かい合った。
月光は淡く二人を照らすだけで、声も吐息も互いの胸の奥に溶け込むようだった。
「……ここ最近は、ろくに寝れてなくてな」
シリウスの声はかすかに掠れていた。
冬の空気の冷たさと相まって、声の輪郭がより柔らかく、そして儚く響く。
「闇払い見習いの課程に進むには、試験が山ほどある。呪文の実演試験や格闘術の実践訓練、魔力耐性を見るために何度も結界の中に押し込まれて……その上で筆記試験だ。夜通しレポートを書かされることもあるんだ」
言葉とともに、彼の灰色の瞳に確かに疲労の影が滲む。赤く充血した瞳は、夜の光の下でも逃げずにこちらを捉えていた。
それでも、その強さは失われてはいなかった。むしろその眼差しの奥には、折れぬ意志と、守ろうとする力が静かに宿っている。
――それほどまでに忙しい日々を送っているのに、今こうして、会いに来てくれた。
その事実だけで、アランの胸を覆っていた寂寞は、まるで夜風に散る霧のように吹き飛んだ。心臓の鼓動が一段と高鳴り、体中の血が熱を帯びるのを感じる。
「……すまねぇ、アラン」
低く、吐息に近い声で囁かれる。
アランはそっと首を振った。
――謝らないで。会いに来てくれた、それだけで十分なの。
言葉にはしなかったが、蕩けるような瞳にすべての想いを込めた。
二人の視線が重なる。言葉は必要ない。
ただ、ここにいる――互いの存在を確かめ合うだけで、夜の冷気も、孤独も、消えてしまうような瞬間だった。
シリウスがそっと顔を近づける。アランも自然に目を閉じる。
唇が触れ合った瞬間、口づけは深く沈むように変化した。
抱き寄せる腕の力には、離れていた日々の寂しさと、今まさに埋め合わせたい祈りがぎっしりと詰まっている。
触れるたび、空白の時間が溶けていく。
唇と唇で交わされる温もりが、夜の冷たさをかき消し、石畳に落ちた月光さえ柔らかく変えてしまう。
幸福の輪郭を、一つひとつ確かめるように丁寧になぞる。
その口づけは、言葉以上にすべてを伝えていた。
――「あなたを信じて、待っている」
――「必ず迎えに行く」
二人の胸に刻まれた小さな約束が、今夜も鮮やかに蘇る。
夜の静寂と、石の階段の影が、二人の幸福をそっと抱きしめるように広がっていた。
広大なホグワーツの夜空は、見渡す限り無数の星に覆われていた。
月光は淡く石畳を染め、吐息が冷たい夜気の中で小さな白に変わり、ふたりの間に静かな温度差を作り出す。
アランとシリウスは肩を寄せ合い、互いの体温を確かめるかのようにひとつの影のように並んで座っていた。
肩先に触れる温もりは、アランにとって心を安定させる唯一の拠り所だった。長く続いた不安も、孤独も、今はその触れ合いで柔らかく溶けてゆく。
「……忙しいのも、悪くねぇな」
シリウスの声が、夜の静けさを裂くように小さく響いた。
夜空を見上げたまま、口角に微かな笑みを漂わせる。
「どうして?」
アランはそっと首を傾ける。わずかに背筋が緊張する。
「お前と……レギュラスが一緒にいるのを見て、妬かなくていいから」
その言葉が胸に直撃する。
思わず心臓が高鳴り、熱が全身にじわりと広がった。
――張り裂けそうなほど、胸がぎゅっと締めつけられる。
まるで温かい火が体の奥で燃え広がるように、感情が洪水のように押し寄せた。
――そんなことを、平気で言えるなんて。
――あまりにも真っ直ぐで、あまりにも無防備で、愛らしい。
月明かりに照らされたシリウスの横顔は、柔らかくも強い光を放っているように見えた。頬だけが赤く染まり、言葉を絞り出すその姿に、アランの胸は胸いっぱいに膨れ上がる。
「……妬いてたの?」
つい、からかうような声音で問い返す。
シリウスは眉をきりりと寄せ、真剣な眼差しで応じる。
「当たり前だ。……早く一緒になりたい。アランの隣は、ずっと俺だけのものにしたい」
その響きは力強く、けれど不器用で、真剣さがぎゅっと詰まっていた。
胸の内で静かに積み重なっていた言葉や想いが、雪崩のように一気にアランを呑み込む。
――忙しい日々の合間に、彼が考えてくれたこと。
――嫉妬を隠さず打ち明けてくれたこと。
――独占したいという願いのすべて。
幸福が一度に押し寄せ、胸の奥に涙が滲む。
泣きそうなほどに、心の奥底から幸福が溢れ出す。
愛おしさが止めどなく湧き上がり、胸を圧迫する。
見上げる夜空の星々ですら、今の二人にとっては遠く、まるで存在しないかのようだった。
この肩の温もり、この互いに赤く染まった横顔こそが、世界でいちばん尊い光だと、アランは心の底から思った。
静寂の中、二人の呼吸と鼓動だけが夜に溶ける。
互いの存在が、言葉を超えて、確かな愛の証となって胸に刻まれていった。
寄り添ったまま、二人はしばしの間、夜空を仰いでいた。
広大なホグワーツの庭は月光に淡く照らされ、石畳にはひんやりとした光が落ちる。夜風は頬に冷たく触れ、髪をかすかに揺らす。けれど隣にいるシリウスの肩先から伝わる温もりが、すべての冷たさを和らげ、世界の中心に静かな安堵の円を作り出していた。
沈黙のなか、ふいにシリウスの視線が落ち、アランを真っ直ぐに見据えた。
黒曜の瞳は深く、夜の暗さを吸い込むように静かでありながら、わずかに疲労の色を帯びていた。それでも、その光は揺らぐことなくまっすぐで、確かな意思を宿していた。
「…… アラン」
低く、夜の空気に溶けるような声で呼ぶ。
その響きには軽口も慰めもなく、言葉の一つ一つに、己の身を削ってでも守るという覚悟が滲んでいた。
「俺は必ず――迎えに行く。どんなことがあっても」
ゆっくりと噛み締めるように告げるその言葉に、アランの胸は跳ねるように高鳴った。鼓動が耳まで響き、手先まで震える。
「……約束、ですか?」
震えた声で問いかける。言葉は小さく、けれど胸の奥からあふれる希望と不安が混じったものだった。
シリウスは力強く頷く。
「約束だ。お前がどこにいても、必ず連れ出す。俺だけの隣に――一生、いてほしい」
胸いっぱいに押し寄せる感情で、言葉は出なかった。
泣きたいほどに幸せで、胸を締めつけるほど切なく、時間がゆっくりと止まったように感じられた。
やっと絞り出した声は、か細くも確かなものだった。
「……信じてるわ」
その瞬間、シリウスの腕が再びアランをしっかりと抱き締める。
温もりと力強さに、迷いも不安も、今日まで胸を覆っていた孤独も、すべて溶かされて消えていく。
夜空に広がる無数の星よりも、今この瞬間の約束の光が、何よりも鮮やかに輝いていた。
アランはそっと指先で、左手の薬指にある小さな銀の指輪を確かめる。
昼間に交わした約束、並んで選んだ思い出、そして二人だけの誓い。
その指輪が、今この夜の言葉と重なり、命綱のように胸に絡みついた。
――必ず、迎えに来てくれる。
その言葉が心の奥底にある限り、どれほど深い闇に覆われようとも、足を止めることはない。
静かに寄り添う二人の瞳は、夜空の星々を映す鏡のように、同じ未来の光を映して燃えていた。
時が止まったかのような中庭に、二人だけの世界が柔らかく、確かに息づいていた。
朝の大広間は、まだ眠気の名残を帯びている空気の中、焼きたてのパンと香ばしいベーコンの匂いが淡く漂っていた。
アラン・セシールは、椅子に腰を下ろしながら小さな欠伸を押し殺す。瞼は重く、何度もこすっては瞬きを繰り返す。トーストを口に運ぶ手がふと止まり、意識は一瞬宙に浮き、羽ペンを握る指も紙の上で動きを止めてしまう。授業が始まっても、彼女の目は重く、顎がゆっくりと落ちていく。
――いけない。
昨夜の幸福な余韻に浸って眠りについたのは、空が白み始める頃だった。星空の下、シリウスと肩を並べて交わした言葉と約束が、胸の奥で熱を帯びたまま残っている。温かく、けれど胸を締めつけるほどに切実で、目覚めた今も尚、意識の片隅を支配していた。
「……昨晩、何かしていたんです?」
穏やかな声に、アランは思わずはっと背筋を伸ばした。隣に座るレギュラス・ブラックの灰色の瞳が、静かに、しかしまっすぐに自分を見据えている。
「……少し遅くまで、勉強を」
わずかに声を震わせず答える。
「……ほどほどにしておかないと」
軽く微笑む彼の言葉には、さりげない指摘のように見せながらも、どこか芯のある圧が含まれていた。
レギュラスの視線は、自然と机の上に置かれた指輪へと落ちる。
銀の輪は淡く光を宿し、アランの無意識な指先の動きに応えて微かに揺れる。昨夜、確かに輝きを交わした二人だけの証――それ以上の意味は誰にも知られてはならない。
「…… アラン」
レギュラスが口を開く。
手に触れるその声は、穏やかでありながら、確かな重みを伴っていた。
「夫人が贈ってくださったその指輪、少し拝見しても?」
言葉に一瞬、アランの表情がこわばる。心臓が跳ね、指先がほんのわずかに震えるのを抑えながら、やっとのことで頷く。
差し出された手を、彼はそっと取り上げる。冷たく硬質な銀の感触が伝わる。指輪の表面を、彼の指が丹念になぞる。その所作は、どこにでもある単なる銀の輪に見えるはずだった。
「……お母様から頂いたのであれば、傷がついたら残念でしょう。箱に入れて、大切に仕舞っておくほうがいいのでは?」
静かで柔らかな声。しかしその奥には、確かに小さな圧が宿っていた。否定を許さない決意と、気遣いを装う強さ。
「母は……付けている方が、きっと喜ぶわ」
アランは冷静に答える。声は震えない。しかし、胸の奥は波立ち、心音は止まることを知らなかった。
レギュラスは微笑む。
「……では、代わりに僕が指輪を贈りましょう。それを付けてくれませんか」
予想していなかった言葉に、アランは戸惑いを隠せず、視線が揺れる。口を開けずに沈黙が続くと、彼はそっとアランの手を包み込む。親指で甲を軽く撫でる――いつもの癖。しかしその柔らかい仕草に、微かな力が込められているのをアランは感じた。否応なく告げられる、「断ることはできない」とでもいうような圧。
磨き上げられた笑顔で、返答を促すように見つめる。
アランは握り締められた手の温もりに、やっとのことで微笑みを返した。
――これ以上、どんな言葉を返せば、この秘密は守れるのだろう。
答えを持たぬまま、ただ心だけが、逃げ場を失ったまま大広間の空気に漂っていた。
外の光に照らされる銀の指輪は、静かに二人の間の微妙な距離と、交錯する心の波を映す鏡のようだった。
授業が終わった後のホグワーツは、昼の喧騒を脱ぎ捨て、ひんやりとした静けさを取り戻していた。
石造りの廊下を歩く足音は、自分の鼓動と重なるように響く。アラン・セシールは気づけば、自然と足をグリフィンドールの寮の方角へ向けていた。心の奥底で、ただひとつ――会いたい――その想いが、自分を動かしていた。
廊下の隅々に冷たい風が吹き抜け、揺れる松明の影が壁に長く伸びる。扉の向こうから現れるはずのシリウスの姿を、息を詰めるように待つ。けれど、いくら時を重ねても彼は戻ってこなかった。耳に届くのは、遠くから響く笑い声や、友人たちの談笑ばかり。胸の奥にぽっかりと空いた穴が、期待の反動となって疼く。
――分かっている。
シリウスは今、闇払いの課外授業や訓練を立て続けに受けている。寮に戻る時間すら限られている。頭では理解している。なのに、心は期待を捨てきれず、落胆の波が胸を大きく揺らした。
視線を下ろすと、緑のスリザリンのローブが自分の体を包んでいる。周囲のグリフィンドール生たちの目が、冷ややかに、あるいは好奇心と軽蔑と訝しさを混ぜて刺さる。まるで、自分の「シリウスの隣にいたい」という想いそのものが、目に見えるかのように否定されている気がした。
胸をひんやりと冷やしながら踵を返し、静かにスリザリン寮への道を戻ろうとしたその瞬間――
「やあ、セシール嬢。……こっちの方面からとは珍しい」
軽やかで、どこか遊び心を含んだ声。振り返ると、そこに立っていたのはバーテミウス・クラウチだった。
「!」
思わず肩が跳ね、身体が一瞬凝り固まる。慌てて返す言葉を探すが、笑みを浮かべる余裕はすでに飛んでいた。
「……こんばんは、バーテミウス」
ぎこちなく、遅れて絞り出すように微笑を貼り付ける。バーテミウスは、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「そんな警戒しなくても。僕がレギュラスに言いつけるなんて思いました?」
――わざわざ“レギュラス”の名を出す。
その響きが、胸の奥でいやらしい刺激となって小さな恐怖を穿った。事実、もし彼に知られれば面倒なことになる。問い詰められ、視線も声も逃げ場を失うだろう。
「……グリフィンドールの子たちに、参考書を借りていたので。返そうと思っただけですわ」
とっさに口にした言い訳は、薄い皮膜のように現実を覆い隠すだけだった。――実際、返すべき書籍などは手元にない。それでも理由を作らずには、ここを乗り切れなかった。
バーテミウスはくす、と短く笑う。
「ならちょうど良かった。……レギュラスなら今、クィディッチの練習を終えてグラウンドにいる頃でしょう。今のうちに寮に戻られた方がいい」
助言とも、軽口とも取れる言葉。掴みどころのない声音は、まるで氷の微笑のように心をくすぐる。助け舟を出されたはずなのに、心地よさよりも、不安の残る居心地の悪さが勝った。
さらにここで、「グリフィンドールの寮近くで会ったことを他言無用に」と口止めするのも、逆に怪しさを増すだけだろう。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
アランは素直に彼の言葉を受け取り、少し速足でその場を離れた。背後で響く足音が消えるのを確かめながら、深く息を吐く。揺れる心を抱えたまま、静かにスリザリン寮の扉へと戻っていく。
廊下の冷たい空気が、心をひとつずつ整えようとするかのように頬を撫でる。期待と落胆の入り混じる胸の内で、アランは自分の足音だけを頼りに、夜の静寂に身を委ねた。
スリザリン寮の扉をくぐり、ひと息ついたその瞬間、胸の奥に緩やかに広がった安堵の感覚は、背後から近づく空気の揺れにあっさりとかき消された。
足音と低く響く声。微かに扉を振動させるその存在感に、身体が自然と硬直する。
――レギュラス。
練習を終えたばかりの彼は、額にかすかな汗を残していた。長い手足をすっと伸ばし、息を整えるその姿は、昼間のクィディッチで見せる戦士のような凛々しさをそのまま纏っている。
その隣には、軽い足取りのバーテミウス・クラウチ。二人が何を話していたのかは分からない。けれど、胸の奥に微かな暗い影が落ちる。――グリフィンドール寮の近くであったことを、彼が口にしてしまったのではないかという疑念。
心臓が鋭く疼く。
理性では、何も知られていないはずだと分かっていても、緊張の針は止まらなかった。
レギュラスは迷いなく、アランの前に歩み寄る。
「…… アラン。どうして見に来てくれなかったんです?」
その声は驚くほどに真っ直ぐで、追及の色も計算も含まれていなかった。ただ、子どもが母に「見てほしかった」と甘えるかのような、無垢に近い響き。胸の奥を優しく、しかし痛く刺す問いだった。
「……すみません。今日の復習をしていたら、こんな時間になってしまって」
咄嗟に浮かんだ言い訳を、できるだけ自然に紡ぐ。律儀で、整った嘘。――ごまかせるはずだ。
しかし、レギュラスは一瞬だけ目を細めたのち、ふにゃりと笑みを浮かべた。その笑顔は、無条件の安心感を与えるかのようでありながら、同時に胸の奥に罪悪感の棘を差し込む。
――本当は違うのだ。
昨夜、交わしたシリウスとの約束と秘密。小さな指輪に込めた誓い。誰にも知られてはいけないはずの幸福。けれど、その嘘を知っている人物が、今、この空間にいる――グリフィンドールの廊下で出会ったバーテミウス。
視線を感じる。責めるでもなく、ただ笑って見ているような気配。その無言の存在感が、胸を息苦しく締め付ける。
その瞬間、レギュラスがふと身を屈め、囁くように耳元へ唇を寄せた。
「……今日、一緒に過ごしましょう」
思わず肩が竦む。背中を走る熱に、心臓が跳ねる。
「……明日も練習でしょう?早めにお休みになった方がいいわ」
囁きに返す声も、自然と淡く掠れた。――バーテミウスが、この場にいるのに。耳打ちなど、二人だけの密やかな時間でしてほしい。居た堪れなさが胸の奥を焼きつくす。
そして、第三者の軽やかな声が、空気を割り込む。
「……僕は消えた方がよさそうですね」
バーテミウスはにこりと笑う。冗談めかす声色は、安堵にも不快にもなり得ない、微妙なざらつきを放った。周囲の空気に温度差を作り、微妙に場をかき回す。
それでも、レギュラスの指先は依然として、アランの手をしっかりと握ったままだった。柔らかくも逃がさない圧――“否定は許さない”という意思のように伝わる。
――交錯する三つの視線。
その中心で、アランの心臓だけが異常な速さで鼓動していた。小さな秘密、昨夜の幸福、そして今、この瞬間に抱く胸の熱――すべてを一度に抱え込んで、彼女は静かに立ち尽くしていた。
夜の静寂が、石造りの廊下に小さく溶け、三人の間に複雑な余韻を残す。息を吸うたび、心臓の跳ねる音が自分だけの世界を彩るようで、アランは握られた手をそっと確かめるのだった。
「……一緒に過ごしましょう」
その一言は、アランの胸に静かに、しかし確実に重く落ちた。
短く、穏やかな響きの奥に込められた意味は、すぐに理解できた。従者として、望まれるものを差し出さねばならない――そういう宿命のようなもの。それが、根深く彼女の心に刻まれていることも、逃れられない常識であることも知っている。
だが、胸の奥に小さな疑問が芽生える。
――本当に、それだけの理由で隣にいるのだろうか。
義務として、従者として差し出しているだけなのか。違う、違うはずだ――その声が心の奥で、かすかなざわめきとなって響いた。
それでも、最近の心は恐ろしく不安定だった。
会えない時間の長さ。遠くにいるシリウスが交わした言葉は、確かな約束でありながら、この手には届かない。触れられない未来の温度。それが胸を締め付け、呼吸さえ苦しくする。
そこに差し出されるのは、レギュラスのまっすぐな眼差しと、純粋で揺るぎない愛情。
無意識に、それにしがみつき、心の空洞を埋めようとしている自分がいる。思わず、胸の奥で自分を強く嫌悪した。――情けなくて、ずるい。
「今日の姿を、見てもらえませんでしたからね」
レギュラスは微笑みながら、軽くそう言った。クィディッチの練習を見に来なかったことを、責めるでもなく、ただ指摘するだけの柔らかい声。
「……次は、ちゃんと見に行きます」
小さく頭を下げ、言い訳にも似た声を絞り出す。すると彼は、持っていた本を静かに閉じ、満足そうに微笑んだ。その端正な顔立ち、整った口角、流れるように白く柔らかな指先。灰色の瞳が一瞬ふわりと細められ、冷たく鋭い光を宿す。
――シリウスに似ている。
ふとそう思った。しかし、その瞳の奥にあるものは明らかに違った。シリウスよりも細身で、柔らかな輪郭。灰色の瞳は、あの人の色よりも鋭く冷たく光り、未来をつかみ取ろうとする執念のような確かさを帯びている。優しさや温もりではなく、手に入れるべきものを逃さない強い意志。それを、理性で理解しながらも、無意識に探してしまう。
――似てはいない。
頭では分かっているのに、それでも心はシリウスを思い浮かべ、重ねようとする。手の形、指先の仕草、口元の柔らかい曲線。どこかで交わる面影を必死に探し、心をあの人に留めておこうとしている自分が、滑稽で、ずるくて、許せなかった。
視線の奥で、灰色の瞳が揺れる。明確な線の違いを、理性で認識しながらも、心は必死に似せようとする。手に触れた温もり、背中を包む安心感、それらすべてを、シリウスの記憶に絡めてしまいたいという衝動が、胸の奥でじわりと疼く。
そして、嫌悪と自己嫌悪の入り混じった感情が、胸をぎゅっと締め上げる。――ずるい。こんなにも、誰よりもずるい。
それでも、彼女の手は無意識に小さく握り返し、心は逃げ場を求めてわずかに震えていた。
夜の残光が、静かな部屋の隅々まで落ち、二人の影を細長く伸ばす。重なり合う呼吸のリズムが、言葉にできない想いのすべてを物語っていた。アランは、必死に理性を保ちながらも、その胸の奥で揺れる感情を押さえきれず、ただ小さく息を吐き、静かに視線を落とした。
――それでも、心は必死に、あの人の存在を追い求めている。
低く垂れ込めた天井に反射して、冷たい石造りの壁がかすかな輝きを帯びる。湿り気を含んだ空気はひやりと肌を撫で、耳の奥には遠い水音のような響きがこだましている。
アランはそこでふと足を止めた。
視線の先、ソファの一角に黒髪の少年が腰掛けている。
セブルス・スネイプ――魔法薬学において群を抜く才を持つと噂される同寮生。
彼の名を耳にするたび、アランの胸の奥にはかすかな緊張が走った。
その理由のひとつは、あのレギュラス・ブラックが彼を「素晴らしい」と評していたからだ。
純血主義の渦中にいながら、混血のセブルスを認める――それは容易いことではない。
その理由を、今になって少しだけ理解できる気がした。
恐る恐る隣に腰を下ろす。
近すぎる距離に、思わず胸が固く強張る。
石の冷気がじわりと背を這うのに、彼の存在は研ぎ澄まされた刃物のように際立ち、呼吸を乱すほど鋭い。
ちらりと視線を向けた、その一瞬。
――ばちり、と黒曜石のような瞳とぶつかり合った。
あまりの強さに心臓が跳ね、慌てて視線を逸らす。
喉にかかった言葉が、思わず零れ落ちた。
「……すみません、ミスター・スネイプ」
返ってきた声は、低く短い。
「構わない」
そこには突き放すでも、温めるでもない、研ぎ澄まされた冷鉄のような響きがあった。
逃げ場を失った視線が、彼の膝に広げられた本に落ちる。
革装丁の表紙に金文字が輝く。
《高位調薬の理論と実践》――薬草と鉱石を組み合わせる高度な調合を解説した専門書だ。
熟練の研究者すら唸らせると評判の難解な内容。
ただ頁をめくるだけでも相当な集中力を要する代物を、彼は当たり前のように読み解いていた。
その横顔に見入った瞬間、再び視線が返ってくる。
黒曜石の瞳が深く射抜き、静かに問いかけてきた。
「……興味があるのか」
その問いに、アランは思わず小さく息を呑んだ。
「……あります。けれど、あなたほどの頭脳を持ち合わせてはいませんから」
そう答えながらも、言葉は頼りなく、たどたどしく響く。
セブルスは答えず、ただじっと彼女を見つめた。
その眼差しには、評価と測定と、冷静な判断がないまぜになっている。
彼女という存在を、一つの標本のように観察し、何かを見極めようとしている気配。
その視線を受け止めるたび、不安が胸の奥でふくらんでいった。
――自分は、彼にどう映っているのだろう。
やがて彼は静かに言葉を落とした。
「……レギュラス・ブラックと結婚するのだろう? なら、そこまで勉学に励む理由もない」
淡々とした口調。
ただ思ったままを述べたにすぎないのかもしれない。
けれどその響きは、アランの耳には冷ややかな断定のように届いた。
努力する意味などない――そう告げられた気がして、胸の奥が重く沈んでいく。
彼自身、混血でありながら純血派の中で認められるまでに、どれほどの努力を積み重ねてきただろう。
その厳しい道を、誰よりも知っているのは彼自身のはずだ。
だからこそ、彼の目には、アランが何もせず「レギュラスの庇護によって地位を得ようとする存在」としか映らなかったのだろうか。
そう思うだけで、心臓の奥がずしりと重くなる。
自分の存在が浅はかに思えてならない。
――悲しい。
ただその感情だけが、膨れあがり、胸を圧迫していった。
翡翠色のランプが揺れる談話室に、しんとした沈黙が落ちていた。
アランは胸の奥に重く沈む感情を抱えながらも、ほんのわずかの間を置き、静かな声で返した。
「……そのつもりはありません」
言葉が落ちると、対面に座るセブルスの眉が、かすかに動いた。
その黒曜石の瞳が鋭く光り、冷えた空気をさらに張りつめさせる。
「約束された栄華があるのにか?」
問いはまるで嘲りのようであり、同時に純粋な驚愕のようでもあった。
アランはその目を真っ直ぐに受け止めることはできず、わずかに視線を逸らしながらも、口を開いた。
「そんなものより、大切なものは、この世の中にたくさんありますから」
淡い声で告げた瞬間、彼の瞳に「理解に苦しむ」という影が差した。
魔法薬学の才をもって名を知られ、誰よりも論理的で冷静だと評される人物。
その目に宿る困惑は、まるで異邦人を見るかのようで、アランの胸をじわりと刺す。
――自分が信じる価値は、彼には決して届かない。
その痛ましい隔たりを、改めて突き付けられるようだった。
そして、不意に突き刺すような声が落ちる。
「……シリウス・ブラックを選ぶことはやめておけ」
心臓が激しく跳ねた。
耳に響いたその名が、胸を鋭く抉る。
しかも続けざまに放たれた言葉は、容赦なく彼女を打ち据えた。
「奴には君を守れるだけのものがない」
アランの全身を、冷たい衝撃が駆け抜ける。
彼の断じる声音には、一片の迷いもなかった。
まるでそれが揺るぎない真実であるかのように。
必死に声を保ちながら、アランは唇を震わせる。
「……そんなことはありません」
抑え込んだ声はわずかに揺れ、胸の奥で波打つ痛みを隠し切れなかった。
「シリウスは強くて、誰よりも優しい人です」
どうしても、それだけは言わなければならなかった。
彼は弱くなどない。
強さを権力の道具にせず、人を抑え込まない。
その優しさこそ、真の強さだと、心の奥では確信していた。
――それを『弱さ』と履き違えることこそ、浅はかで脆いのではないか。
心の中で叫ぶが、声にはならなかった。
セブルスは冷ややかに応じる。
「無謀さが強さとは言わない」
鋭い棘のような言葉が、容赦なく胸に突き刺さる。
どうして、ここまで突っ掛かるのか。
理解できない苛立ちと、悲しみに似た感情がないまぜになっていく。
堪え切れず、アランは問いを投げ返した。
「……では、あなたの考える強さとは何です?」
その声には、わずかな怒りと、答えを知りたいという渇望が混じっていた。
彼はどんな立派な理屈を語るのだろう。
冷たい眼差しの奥に、どんな確信が宿っているのだろう。
そう思って尋ねた。
けれど、返ってきたのは予想を裏切るほど短い答えだった。
「レギュラス・ブラックと話したまえ」
一呼吸ののち、彼は淡々とそう告げただけだった。
そしてソファからゆっくりと立ち上がり、ローブの裾を翻す。
振り返ることなく、淡い翡翠色の光に溶けていくように歩み去っていった。
残された談話室には、冷えた静寂だけが残る。
アランの胸を締めつけたのは、その無慈悲な沈黙だった。
――好きにはなれない。
そう思った。
言葉の端々に、必ず「見下ろす響き」を宿してしまう人。
結局は地位や名誉を追い求める匂いを纏い、冷徹さを隠そうともしない人。
そして、その彼を「素晴らしい」と称えたレギュラス。
アランは痛感する。
――自分とレギュラスの間には、想像以上に深い隔たりがあるのかもしれない、と。
――レギュラス・ブラックが熱を上げている女。
アラン・セシール。
その名は、耳にすれば自然と周囲の憧れや羨望を伴って囁かれる。
だが、セブルスにとってはただの噂の一つに過ぎなかった。
少なくとも、今日までは。
初めて真正面から言葉を交わした瞬間――彼は僅かに息を呑んでいた。
確かに、美しいと評判になる理由は理解できた。
形の整った顔立ち。それは絵画のように均整が取れている。だがそれ以上に、彼女の存在全体を包むような柔らかな雰囲気が、人の目を離させない。華美ではなく、押し付けがましくもなく、ただ静かにそこにある温かさ。
けれど、セブルスの視線を決定的に捕らえたのは――翡翠色の瞳だった。
リリーと同じ、あの色。
光を受けて淡く揺れるその緑の奥に、一瞬にして過去と現在が重なり合った。
ただ、その一点だけで、セブルスは意識の半ばを持っていかれた。
目を逸らそうとしながらも、結局は長く見つめすぎてしまった。自覚がある。
その戸惑いを隠すために、口をついて出た言葉は、結果として冷たく刺すようなものになった。彼の常である、壁を作る言い回し――だが今日に限っては、それが妙に空々しく響いた。
スリザリンの内部では、既に広く流れている噂があった。
アラン・セシールはやがて、レギュラス・ブラックの妻になる、と。
彼の隣に立つために、彼女は何もする必要がない。
努力も、犠牲も、戦いも。
ただ「選ばれた」というその事実だけで、栄光も地位も未来も、すべてが約束される。
血統と伝統に守られた、確実で揺るぎない幸運。
――それなのに、この女は、自らその幸運を首を振って退けたのだ。
「……そのつもりはありません」
耳に残るその声を、セブルスは頭の中で繰り返す。
聞き間違いではなかった。
目の前に差し出された幸福を、なぜ拒む?
理解が追いつかない。
そのとき、不意に脳裏を過った記憶があった。
校舎の片隅。
シリウス・ブラックとアラン・セシールが並んでいた光景。
笑っていた。何を話していたのかまでは分からない。軽口か、それとも――もっと深いものか。
ただ、二人の間に流れていた空気は、友情以上のものを含んでいると、感覚で悟れた。
あの微妙な距離感、遠慮のなさ、自然な親密さ。
レギュラスは、それに気づいているのだろうか。
気づけば烈火のごとく怒りを爆発させるに違いない。
だが――仮にそうだとしても。
愚かだ。
セブルスはそう思わずにはいられなかった。
シリウス・ブラック。
空疎な理想を振りかざし、無謀を正義の証と信じ込む傲慢な男。
口先で世界を語り、人を惹きつけ、結局はその熱で燃やし尽くすだけの存在。
そんな男に惹かれるなど、理性では到底説明がつかない。
それでも、彼女は――あの翡翠の瞳で、シリウスを見ていた。
リリーと同じ色を宿しながら。
その事実が、冷たく突き刺さる。
セブルスは唇を固く結び、視線を逸らした。
感情が心の奥で膨れ上がる。冷たい諦念、抑えきれぬ憎悪、そして――ほんの僅かな羨望。
混ざり合って、形を持たないまま胸を満たしていく。
彼女への印象が好意に変わることは、決してなかった。
むしろその眩しさごと、記憶の底に沈め、封じ込めてしまいたい。
そうでなければ、きっとこの心は、また脆く揺らいでしまう。
昼下がりの教室には、ゆるやかな静寂が満ちていた。
羊皮紙の上をペン先が走る乾いた音が、規則正しく並んで響き合う。窓から差し込む光は秋めいて柔らかく、埃の粒子を金色に染めながら教室を漂っていた。生徒たちはそれぞれの課題に没頭し、わずかな咳払いや椅子の軋む音が、かえって一層の静けさを強調している。
その平穏を破るように、不意に風が揺らいだ。
窓辺からひらりと舞い込んだのは、一羽のフクロウ。羽音とともに机の端に小さな巻紙が落とされた。淡い羽毛が宙を漂い、アランの胸の奥を不思議な予感でざわつかせる。
封蝋はない。ただ代わりに、黒犬の小さな落書きが刻まれていた。
その瞬間、息が止まる。誰からの便りか、考えるまでもなかった。
震える指で紙をほどくと、短く急いで綴られた文字が現れる。
――今夜、中庭の石の階段のところで。待ってる。
ただそれだけの文。だが、その言葉は稲妻のように胸を打った。
血の気が指先から溢れるように広がり、鼓動が速くなる。心臓が喉元まで迫り上がり、呼吸さえ浅くなる。思わず紙を握りしめ、机の上に広がる文字の世界が遠のいていった。
「今夜」――ようやく会える。
長く重かった日々を一瞬で吹き飛ばすほどの約束。その思いだけで胸が熱を帯び、視界までが澄み渡るように感じられる。授業中であることを忘れ、心はただ夜を待ち望んでいた。
知らず知らずのうちに、左手の薬指へと指が触れていた。
冷たい銀の輪がそこにある。シリウスと共にマグルの街を歩いたあの日、並んで選んだ指輪。小さな宝飾店の薄暗い灯りと、彼の横顔と、交わした短い言葉が鮮やかによみがえる。
「迎えに行く」「待ち続ける」――二人だけの誓いを込めた小さな指輪。
屋敷に戻っていた間、彼女はそれを外していた。だがホグワーツへ戻った時、シリウスの指に同じものが光っているのを見つけた。その瞬間、胸の奥で失われていたものが戻ってきたように感じ、彼女もまた再び指に通したのだった。
以来、心の支えを確かめるように、無意識に何度も撫でてしまう癖がついていた。
「……その指輪、どうしたんです?」
背中を鋭くなぞるような声。
はっとして顔を上げると、隣にはレギュラスがいた。彼の目が静かに指先を見つめている。
胸の高鳴りが一瞬にして凍りつき、浮かれていた心が過ちに変わる。
気を許した仕草――それを彼が見逃すはずがない。
「……ええ。母から……贈られたものです」
かろうじて紡いだ声は、喉の奥で小さく震えていた。真実を呑み込み、必死に穏やかさを装う。
レギュラスは視線を指輪に落とし、穏やかに微笑んだ。
「リシェル夫人らしい、華奢なデザインですね。あなたによく似合います」
微笑みの裏に、何が隠されているのか。
その優しさが、かえって冷たい恐怖となって胸を締めつけた。誤魔化せただろうか。気づかれてはいないだろうか。
心臓が耳の奥で暴れる。
指の内側にそっと力を込めながら、アランは顔に笑みだけを貼りつけ続けた。
幸福と不安、二つの感情がせめぎ合い、彼女の胸の奥を強く引き裂いていた。
夜が降りてきた。
月は大きく、静かに中庭を見下ろしている。淡い銀の光が石畳を照らし出し、その冷たい青白さは空気ごと凍らせるようで、吐息さえ白く見える気がした。風はなく、ただ夜の匂いだけが濃く漂っている。
授業を終えてからも、アランの胸は一向に落ち着かなかった。
羊皮紙を閉じても、杖を収めても、心臓は一日中軽やかに跳ね続けていた。待ち望む時刻が近づくたびに、胸の内側を小さな火が走る。ついに、長く引き延ばされたように感じられた午後が過ぎ去り、約束の時が訪れた。
――石の階段。
昼間、机に舞い降りたフクロウの姿を思い出す。巻紙の端に描かれていた、黒犬の落書き。たったそれだけで、誰が差し出したのかは明白だった。指先に紙のざらつきを思い出すだけで、胸が温かく震えた。
ホールを抜ける。回廊にはもう生徒の姿はなく、足音だけが石の壁に反響する。松明の炎がぱちぱちと燃え、影が長く床に這い伸びては揺れる。心臓の鼓動と歩調が合わず、はやる気持ちを抑えることができない。自然と足は速まり、歩幅は大きくなっていった。
左手の薬指に触れる。冷たい銀の輪が、月光を思わせる輝きを返す。
「待っている」――そう誓い合った印。
その小さな指輪に触れるたびに、胸の奥で確信が強くなる。今この瞬間、彼もまた、この指輪をはめてここに立っているだろうと。
曲がり角を折れた先に、中庭が広がった。
夜の静寂の中、石の階段が月光を浴びて淡く浮かび上がる。
そして、その上に――待ち続けた人影があった。
黒髪が夜風に揺れ、月明かりにきらめく。背を壁に預けるその姿は、無造作でありながら、どうしようもなく目を引く。
アランの視線が翡翠色の瞳を探すより早く、その笑みが彼女の心を射抜いた。
「…… アラン」
低く掠れた声が夜に溶けた。名を呼ばれただけで、胸がいっぱいになり、声は出なかった。
ただ駆け寄る。
石段を数段飛ばして、息も忘れるほどに近づく。
一歩ごとに、胸を覆っていた不安や孤独が崩れ落ちていく。夜の冷気も、月光の冷ややかさも、もう何ひとつ感じなかった。
ようやく辿り着いて、ほんの少し見上げる形で彼を見つめる。
そこにあったのは、変わらぬ瞳の光。力強さと、優しさと、そして自分だけを映す確かな輝き。
「……会いたかった」
ようやく声になった囁きは、震えるほど小さかった。
次の瞬間、シリウスの腕が迷いなく伸びた。
温もりに包まれる。力強い抱擁は、全ての恐れを押し流し、胸の奥に残っていた影を跡形もなく消し去った。
――ここが、自分の帰る場所。
そう思えたのは、彼の胸に抱かれている時だけだった。
指輪に込めた約束も、彼の声も、腕の温かさも、すべてが自分を現実へ引き戻す。
夜は静まり返っていたが、その沈黙の中で確かに二人の鼓動だけが響き合っていた。
石の階段の影が、夜の静寂に細長く伸びている。
その薄暗い空間に二人は寄り添い、ようやく向かい合った。
月光は淡く二人を照らすだけで、声も吐息も互いの胸の奥に溶け込むようだった。
「……ここ最近は、ろくに寝れてなくてな」
シリウスの声はかすかに掠れていた。
冬の空気の冷たさと相まって、声の輪郭がより柔らかく、そして儚く響く。
「闇払い見習いの課程に進むには、試験が山ほどある。呪文の実演試験や格闘術の実践訓練、魔力耐性を見るために何度も結界の中に押し込まれて……その上で筆記試験だ。夜通しレポートを書かされることもあるんだ」
言葉とともに、彼の灰色の瞳に確かに疲労の影が滲む。赤く充血した瞳は、夜の光の下でも逃げずにこちらを捉えていた。
それでも、その強さは失われてはいなかった。むしろその眼差しの奥には、折れぬ意志と、守ろうとする力が静かに宿っている。
――それほどまでに忙しい日々を送っているのに、今こうして、会いに来てくれた。
その事実だけで、アランの胸を覆っていた寂寞は、まるで夜風に散る霧のように吹き飛んだ。心臓の鼓動が一段と高鳴り、体中の血が熱を帯びるのを感じる。
「……すまねぇ、アラン」
低く、吐息に近い声で囁かれる。
アランはそっと首を振った。
――謝らないで。会いに来てくれた、それだけで十分なの。
言葉にはしなかったが、蕩けるような瞳にすべての想いを込めた。
二人の視線が重なる。言葉は必要ない。
ただ、ここにいる――互いの存在を確かめ合うだけで、夜の冷気も、孤独も、消えてしまうような瞬間だった。
シリウスがそっと顔を近づける。アランも自然に目を閉じる。
唇が触れ合った瞬間、口づけは深く沈むように変化した。
抱き寄せる腕の力には、離れていた日々の寂しさと、今まさに埋め合わせたい祈りがぎっしりと詰まっている。
触れるたび、空白の時間が溶けていく。
唇と唇で交わされる温もりが、夜の冷たさをかき消し、石畳に落ちた月光さえ柔らかく変えてしまう。
幸福の輪郭を、一つひとつ確かめるように丁寧になぞる。
その口づけは、言葉以上にすべてを伝えていた。
――「あなたを信じて、待っている」
――「必ず迎えに行く」
二人の胸に刻まれた小さな約束が、今夜も鮮やかに蘇る。
夜の静寂と、石の階段の影が、二人の幸福をそっと抱きしめるように広がっていた。
広大なホグワーツの夜空は、見渡す限り無数の星に覆われていた。
月光は淡く石畳を染め、吐息が冷たい夜気の中で小さな白に変わり、ふたりの間に静かな温度差を作り出す。
アランとシリウスは肩を寄せ合い、互いの体温を確かめるかのようにひとつの影のように並んで座っていた。
肩先に触れる温もりは、アランにとって心を安定させる唯一の拠り所だった。長く続いた不安も、孤独も、今はその触れ合いで柔らかく溶けてゆく。
「……忙しいのも、悪くねぇな」
シリウスの声が、夜の静けさを裂くように小さく響いた。
夜空を見上げたまま、口角に微かな笑みを漂わせる。
「どうして?」
アランはそっと首を傾ける。わずかに背筋が緊張する。
「お前と……レギュラスが一緒にいるのを見て、妬かなくていいから」
その言葉が胸に直撃する。
思わず心臓が高鳴り、熱が全身にじわりと広がった。
――張り裂けそうなほど、胸がぎゅっと締めつけられる。
まるで温かい火が体の奥で燃え広がるように、感情が洪水のように押し寄せた。
――そんなことを、平気で言えるなんて。
――あまりにも真っ直ぐで、あまりにも無防備で、愛らしい。
月明かりに照らされたシリウスの横顔は、柔らかくも強い光を放っているように見えた。頬だけが赤く染まり、言葉を絞り出すその姿に、アランの胸は胸いっぱいに膨れ上がる。
「……妬いてたの?」
つい、からかうような声音で問い返す。
シリウスは眉をきりりと寄せ、真剣な眼差しで応じる。
「当たり前だ。……早く一緒になりたい。アランの隣は、ずっと俺だけのものにしたい」
その響きは力強く、けれど不器用で、真剣さがぎゅっと詰まっていた。
胸の内で静かに積み重なっていた言葉や想いが、雪崩のように一気にアランを呑み込む。
――忙しい日々の合間に、彼が考えてくれたこと。
――嫉妬を隠さず打ち明けてくれたこと。
――独占したいという願いのすべて。
幸福が一度に押し寄せ、胸の奥に涙が滲む。
泣きそうなほどに、心の奥底から幸福が溢れ出す。
愛おしさが止めどなく湧き上がり、胸を圧迫する。
見上げる夜空の星々ですら、今の二人にとっては遠く、まるで存在しないかのようだった。
この肩の温もり、この互いに赤く染まった横顔こそが、世界でいちばん尊い光だと、アランは心の底から思った。
静寂の中、二人の呼吸と鼓動だけが夜に溶ける。
互いの存在が、言葉を超えて、確かな愛の証となって胸に刻まれていった。
寄り添ったまま、二人はしばしの間、夜空を仰いでいた。
広大なホグワーツの庭は月光に淡く照らされ、石畳にはひんやりとした光が落ちる。夜風は頬に冷たく触れ、髪をかすかに揺らす。けれど隣にいるシリウスの肩先から伝わる温もりが、すべての冷たさを和らげ、世界の中心に静かな安堵の円を作り出していた。
沈黙のなか、ふいにシリウスの視線が落ち、アランを真っ直ぐに見据えた。
黒曜の瞳は深く、夜の暗さを吸い込むように静かでありながら、わずかに疲労の色を帯びていた。それでも、その光は揺らぐことなくまっすぐで、確かな意思を宿していた。
「…… アラン」
低く、夜の空気に溶けるような声で呼ぶ。
その響きには軽口も慰めもなく、言葉の一つ一つに、己の身を削ってでも守るという覚悟が滲んでいた。
「俺は必ず――迎えに行く。どんなことがあっても」
ゆっくりと噛み締めるように告げるその言葉に、アランの胸は跳ねるように高鳴った。鼓動が耳まで響き、手先まで震える。
「……約束、ですか?」
震えた声で問いかける。言葉は小さく、けれど胸の奥からあふれる希望と不安が混じったものだった。
シリウスは力強く頷く。
「約束だ。お前がどこにいても、必ず連れ出す。俺だけの隣に――一生、いてほしい」
胸いっぱいに押し寄せる感情で、言葉は出なかった。
泣きたいほどに幸せで、胸を締めつけるほど切なく、時間がゆっくりと止まったように感じられた。
やっと絞り出した声は、か細くも確かなものだった。
「……信じてるわ」
その瞬間、シリウスの腕が再びアランをしっかりと抱き締める。
温もりと力強さに、迷いも不安も、今日まで胸を覆っていた孤独も、すべて溶かされて消えていく。
夜空に広がる無数の星よりも、今この瞬間の約束の光が、何よりも鮮やかに輝いていた。
アランはそっと指先で、左手の薬指にある小さな銀の指輪を確かめる。
昼間に交わした約束、並んで選んだ思い出、そして二人だけの誓い。
その指輪が、今この夜の言葉と重なり、命綱のように胸に絡みついた。
――必ず、迎えに来てくれる。
その言葉が心の奥底にある限り、どれほど深い闇に覆われようとも、足を止めることはない。
静かに寄り添う二人の瞳は、夜空の星々を映す鏡のように、同じ未来の光を映して燃えていた。
時が止まったかのような中庭に、二人だけの世界が柔らかく、確かに息づいていた。
朝の大広間は、まだ眠気の名残を帯びている空気の中、焼きたてのパンと香ばしいベーコンの匂いが淡く漂っていた。
アラン・セシールは、椅子に腰を下ろしながら小さな欠伸を押し殺す。瞼は重く、何度もこすっては瞬きを繰り返す。トーストを口に運ぶ手がふと止まり、意識は一瞬宙に浮き、羽ペンを握る指も紙の上で動きを止めてしまう。授業が始まっても、彼女の目は重く、顎がゆっくりと落ちていく。
――いけない。
昨夜の幸福な余韻に浸って眠りについたのは、空が白み始める頃だった。星空の下、シリウスと肩を並べて交わした言葉と約束が、胸の奥で熱を帯びたまま残っている。温かく、けれど胸を締めつけるほどに切実で、目覚めた今も尚、意識の片隅を支配していた。
「……昨晩、何かしていたんです?」
穏やかな声に、アランは思わずはっと背筋を伸ばした。隣に座るレギュラス・ブラックの灰色の瞳が、静かに、しかしまっすぐに自分を見据えている。
「……少し遅くまで、勉強を」
わずかに声を震わせず答える。
「……ほどほどにしておかないと」
軽く微笑む彼の言葉には、さりげない指摘のように見せながらも、どこか芯のある圧が含まれていた。
レギュラスの視線は、自然と机の上に置かれた指輪へと落ちる。
銀の輪は淡く光を宿し、アランの無意識な指先の動きに応えて微かに揺れる。昨夜、確かに輝きを交わした二人だけの証――それ以上の意味は誰にも知られてはならない。
「…… アラン」
レギュラスが口を開く。
手に触れるその声は、穏やかでありながら、確かな重みを伴っていた。
「夫人が贈ってくださったその指輪、少し拝見しても?」
言葉に一瞬、アランの表情がこわばる。心臓が跳ね、指先がほんのわずかに震えるのを抑えながら、やっとのことで頷く。
差し出された手を、彼はそっと取り上げる。冷たく硬質な銀の感触が伝わる。指輪の表面を、彼の指が丹念になぞる。その所作は、どこにでもある単なる銀の輪に見えるはずだった。
「……お母様から頂いたのであれば、傷がついたら残念でしょう。箱に入れて、大切に仕舞っておくほうがいいのでは?」
静かで柔らかな声。しかしその奥には、確かに小さな圧が宿っていた。否定を許さない決意と、気遣いを装う強さ。
「母は……付けている方が、きっと喜ぶわ」
アランは冷静に答える。声は震えない。しかし、胸の奥は波立ち、心音は止まることを知らなかった。
レギュラスは微笑む。
「……では、代わりに僕が指輪を贈りましょう。それを付けてくれませんか」
予想していなかった言葉に、アランは戸惑いを隠せず、視線が揺れる。口を開けずに沈黙が続くと、彼はそっとアランの手を包み込む。親指で甲を軽く撫でる――いつもの癖。しかしその柔らかい仕草に、微かな力が込められているのをアランは感じた。否応なく告げられる、「断ることはできない」とでもいうような圧。
磨き上げられた笑顔で、返答を促すように見つめる。
アランは握り締められた手の温もりに、やっとのことで微笑みを返した。
――これ以上、どんな言葉を返せば、この秘密は守れるのだろう。
答えを持たぬまま、ただ心だけが、逃げ場を失ったまま大広間の空気に漂っていた。
外の光に照らされる銀の指輪は、静かに二人の間の微妙な距離と、交錯する心の波を映す鏡のようだった。
授業が終わった後のホグワーツは、昼の喧騒を脱ぎ捨て、ひんやりとした静けさを取り戻していた。
石造りの廊下を歩く足音は、自分の鼓動と重なるように響く。アラン・セシールは気づけば、自然と足をグリフィンドールの寮の方角へ向けていた。心の奥底で、ただひとつ――会いたい――その想いが、自分を動かしていた。
廊下の隅々に冷たい風が吹き抜け、揺れる松明の影が壁に長く伸びる。扉の向こうから現れるはずのシリウスの姿を、息を詰めるように待つ。けれど、いくら時を重ねても彼は戻ってこなかった。耳に届くのは、遠くから響く笑い声や、友人たちの談笑ばかり。胸の奥にぽっかりと空いた穴が、期待の反動となって疼く。
――分かっている。
シリウスは今、闇払いの課外授業や訓練を立て続けに受けている。寮に戻る時間すら限られている。頭では理解している。なのに、心は期待を捨てきれず、落胆の波が胸を大きく揺らした。
視線を下ろすと、緑のスリザリンのローブが自分の体を包んでいる。周囲のグリフィンドール生たちの目が、冷ややかに、あるいは好奇心と軽蔑と訝しさを混ぜて刺さる。まるで、自分の「シリウスの隣にいたい」という想いそのものが、目に見えるかのように否定されている気がした。
胸をひんやりと冷やしながら踵を返し、静かにスリザリン寮への道を戻ろうとしたその瞬間――
「やあ、セシール嬢。……こっちの方面からとは珍しい」
軽やかで、どこか遊び心を含んだ声。振り返ると、そこに立っていたのはバーテミウス・クラウチだった。
「!」
思わず肩が跳ね、身体が一瞬凝り固まる。慌てて返す言葉を探すが、笑みを浮かべる余裕はすでに飛んでいた。
「……こんばんは、バーテミウス」
ぎこちなく、遅れて絞り出すように微笑を貼り付ける。バーテミウスは、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「そんな警戒しなくても。僕がレギュラスに言いつけるなんて思いました?」
――わざわざ“レギュラス”の名を出す。
その響きが、胸の奥でいやらしい刺激となって小さな恐怖を穿った。事実、もし彼に知られれば面倒なことになる。問い詰められ、視線も声も逃げ場を失うだろう。
「……グリフィンドールの子たちに、参考書を借りていたので。返そうと思っただけですわ」
とっさに口にした言い訳は、薄い皮膜のように現実を覆い隠すだけだった。――実際、返すべき書籍などは手元にない。それでも理由を作らずには、ここを乗り切れなかった。
バーテミウスはくす、と短く笑う。
「ならちょうど良かった。……レギュラスなら今、クィディッチの練習を終えてグラウンドにいる頃でしょう。今のうちに寮に戻られた方がいい」
助言とも、軽口とも取れる言葉。掴みどころのない声音は、まるで氷の微笑のように心をくすぐる。助け舟を出されたはずなのに、心地よさよりも、不安の残る居心地の悪さが勝った。
さらにここで、「グリフィンドールの寮近くで会ったことを他言無用に」と口止めするのも、逆に怪しさを増すだけだろう。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
アランは素直に彼の言葉を受け取り、少し速足でその場を離れた。背後で響く足音が消えるのを確かめながら、深く息を吐く。揺れる心を抱えたまま、静かにスリザリン寮の扉へと戻っていく。
廊下の冷たい空気が、心をひとつずつ整えようとするかのように頬を撫でる。期待と落胆の入り混じる胸の内で、アランは自分の足音だけを頼りに、夜の静寂に身を委ねた。
スリザリン寮の扉をくぐり、ひと息ついたその瞬間、胸の奥に緩やかに広がった安堵の感覚は、背後から近づく空気の揺れにあっさりとかき消された。
足音と低く響く声。微かに扉を振動させるその存在感に、身体が自然と硬直する。
――レギュラス。
練習を終えたばかりの彼は、額にかすかな汗を残していた。長い手足をすっと伸ばし、息を整えるその姿は、昼間のクィディッチで見せる戦士のような凛々しさをそのまま纏っている。
その隣には、軽い足取りのバーテミウス・クラウチ。二人が何を話していたのかは分からない。けれど、胸の奥に微かな暗い影が落ちる。――グリフィンドール寮の近くであったことを、彼が口にしてしまったのではないかという疑念。
心臓が鋭く疼く。
理性では、何も知られていないはずだと分かっていても、緊張の針は止まらなかった。
レギュラスは迷いなく、アランの前に歩み寄る。
「…… アラン。どうして見に来てくれなかったんです?」
その声は驚くほどに真っ直ぐで、追及の色も計算も含まれていなかった。ただ、子どもが母に「見てほしかった」と甘えるかのような、無垢に近い響き。胸の奥を優しく、しかし痛く刺す問いだった。
「……すみません。今日の復習をしていたら、こんな時間になってしまって」
咄嗟に浮かんだ言い訳を、できるだけ自然に紡ぐ。律儀で、整った嘘。――ごまかせるはずだ。
しかし、レギュラスは一瞬だけ目を細めたのち、ふにゃりと笑みを浮かべた。その笑顔は、無条件の安心感を与えるかのようでありながら、同時に胸の奥に罪悪感の棘を差し込む。
――本当は違うのだ。
昨夜、交わしたシリウスとの約束と秘密。小さな指輪に込めた誓い。誰にも知られてはいけないはずの幸福。けれど、その嘘を知っている人物が、今、この空間にいる――グリフィンドールの廊下で出会ったバーテミウス。
視線を感じる。責めるでもなく、ただ笑って見ているような気配。その無言の存在感が、胸を息苦しく締め付ける。
その瞬間、レギュラスがふと身を屈め、囁くように耳元へ唇を寄せた。
「……今日、一緒に過ごしましょう」
思わず肩が竦む。背中を走る熱に、心臓が跳ねる。
「……明日も練習でしょう?早めにお休みになった方がいいわ」
囁きに返す声も、自然と淡く掠れた。――バーテミウスが、この場にいるのに。耳打ちなど、二人だけの密やかな時間でしてほしい。居た堪れなさが胸の奥を焼きつくす。
そして、第三者の軽やかな声が、空気を割り込む。
「……僕は消えた方がよさそうですね」
バーテミウスはにこりと笑う。冗談めかす声色は、安堵にも不快にもなり得ない、微妙なざらつきを放った。周囲の空気に温度差を作り、微妙に場をかき回す。
それでも、レギュラスの指先は依然として、アランの手をしっかりと握ったままだった。柔らかくも逃がさない圧――“否定は許さない”という意思のように伝わる。
――交錯する三つの視線。
その中心で、アランの心臓だけが異常な速さで鼓動していた。小さな秘密、昨夜の幸福、そして今、この瞬間に抱く胸の熱――すべてを一度に抱え込んで、彼女は静かに立ち尽くしていた。
夜の静寂が、石造りの廊下に小さく溶け、三人の間に複雑な余韻を残す。息を吸うたび、心臓の跳ねる音が自分だけの世界を彩るようで、アランは握られた手をそっと確かめるのだった。
「……一緒に過ごしましょう」
その一言は、アランの胸に静かに、しかし確実に重く落ちた。
短く、穏やかな響きの奥に込められた意味は、すぐに理解できた。従者として、望まれるものを差し出さねばならない――そういう宿命のようなもの。それが、根深く彼女の心に刻まれていることも、逃れられない常識であることも知っている。
だが、胸の奥に小さな疑問が芽生える。
――本当に、それだけの理由で隣にいるのだろうか。
義務として、従者として差し出しているだけなのか。違う、違うはずだ――その声が心の奥で、かすかなざわめきとなって響いた。
それでも、最近の心は恐ろしく不安定だった。
会えない時間の長さ。遠くにいるシリウスが交わした言葉は、確かな約束でありながら、この手には届かない。触れられない未来の温度。それが胸を締め付け、呼吸さえ苦しくする。
そこに差し出されるのは、レギュラスのまっすぐな眼差しと、純粋で揺るぎない愛情。
無意識に、それにしがみつき、心の空洞を埋めようとしている自分がいる。思わず、胸の奥で自分を強く嫌悪した。――情けなくて、ずるい。
「今日の姿を、見てもらえませんでしたからね」
レギュラスは微笑みながら、軽くそう言った。クィディッチの練習を見に来なかったことを、責めるでもなく、ただ指摘するだけの柔らかい声。
「……次は、ちゃんと見に行きます」
小さく頭を下げ、言い訳にも似た声を絞り出す。すると彼は、持っていた本を静かに閉じ、満足そうに微笑んだ。その端正な顔立ち、整った口角、流れるように白く柔らかな指先。灰色の瞳が一瞬ふわりと細められ、冷たく鋭い光を宿す。
――シリウスに似ている。
ふとそう思った。しかし、その瞳の奥にあるものは明らかに違った。シリウスよりも細身で、柔らかな輪郭。灰色の瞳は、あの人の色よりも鋭く冷たく光り、未来をつかみ取ろうとする執念のような確かさを帯びている。優しさや温もりではなく、手に入れるべきものを逃さない強い意志。それを、理性で理解しながらも、無意識に探してしまう。
――似てはいない。
頭では分かっているのに、それでも心はシリウスを思い浮かべ、重ねようとする。手の形、指先の仕草、口元の柔らかい曲線。どこかで交わる面影を必死に探し、心をあの人に留めておこうとしている自分が、滑稽で、ずるくて、許せなかった。
視線の奥で、灰色の瞳が揺れる。明確な線の違いを、理性で認識しながらも、心は必死に似せようとする。手に触れた温もり、背中を包む安心感、それらすべてを、シリウスの記憶に絡めてしまいたいという衝動が、胸の奥でじわりと疼く。
そして、嫌悪と自己嫌悪の入り混じった感情が、胸をぎゅっと締め上げる。――ずるい。こんなにも、誰よりもずるい。
それでも、彼女の手は無意識に小さく握り返し、心は逃げ場を求めてわずかに震えていた。
夜の残光が、静かな部屋の隅々まで落ち、二人の影を細長く伸ばす。重なり合う呼吸のリズムが、言葉にできない想いのすべてを物語っていた。アランは、必死に理性を保ちながらも、その胸の奥で揺れる感情を押さえきれず、ただ小さく息を吐き、静かに視線を落とした。
――それでも、心は必死に、あの人の存在を追い求めている。
