1章
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夕食が終わると、屋敷はまた日常の静けさに沈んでいった。
大きなテーブルの上には銀器の残響もなく、片付けられた灯の名残が漂っているだけ。廊下へ出れば、壁に並んだ燭台の炎が小さくちろちろと揺れ、黄みがかった淡い光を石造りの床に落としていた。
アランは洗濯物の入った籠を抱え、階段を下りようとしていた。
衣服の布が重なり合って小さな匂いを放ち、その重みが両腕に心地よく食い込む。こうして家事に没頭している時だけ、屋敷の重苦しい空気から少しは解かれるような気がするのだ。
階段を踏み出そうとしたその瞬間——。
「…… アラン」
背後から、低く柔らかな声がかかった。
思わず足を止め、振り返る。その先に立っていたのはレギュラスだった。
燭台の光を背に、彼の黒髪は光の輪郭を帯びてかすかに輝いている。昼間、玄関口では氷のように冷ややかな視線で彼女を射抜いていたはずなのに、今の顔には柔らかな微笑が浮かんでいた。
心臓がわずかに跳ねる。
「今日は……外に?」
問いかけは穏やかだ。だが、その柔らかさに逆に足元を掬われるような揺らぎを感じる。
「ええ……少し、お使いに」
嘘をついたわけではない。けれど真実すべてでもない。
自分の声が耳に硬く、ぎこちなく反響するのをアランは感じた。
レギュラスは歩み寄り、自然な動作で籠を受け取った。
腕から重みがすっと消え、彼の整った仕草がそのまま頼もしさに映る。片腕で軽やかに抱える姿に、不意に昼間の記憶が蘇る。
マグルの街で、無造作に紙袋を渡してきたシリウスの奔放な手つきが、妙に重なって胸に疼きを残した。
しばし並んで階段を降りる。足音は二つ。だがその響きは同じ闇に染まって、まるでひとつの静かな律動に聴こえた。
「……兄のことですが」
突然落とされた言葉に、アランの息がわずかに詰まる。
「あなたが何を選び、どこへ行くかは、自由に見えて……本当は自由じゃない」
その声は穏やかで、優しく諭すようでもあった。
だが同時に、胸に釘を打ち込むような重さを持っていた。
「母は……警戒しています。あなたが兄に影響を受けるのではと」
二人は階段の途中、踊り場で足を止めた。沈黙が広がり、僅かな風が燭台の炎を揺らした。ゆらめく光に照らされたレギュラスの瞳は、月影のように静かで、それでいて鋭い意志を宿している。
「だから——気をつけて。あなたまで、何を言われるかわからない」
逃げ道はなかった。その声音には優しさがあったのに、同時に締めつけるような無言の圧があった。
アランは小さく頷き、唇を動かした。
「ありがとうございます」
その言葉しか返せなかった。
レギュラスは柔らかさを保った笑みのまま、籠をそっとアランに返す。そしてそのまま背を向け、別の廊下へと消えていった。
残された静寂の中、アランは彼の背中を見送りながら、胸の奥で鈍い痛みを覚えていた。
——あれは忠告か。
——それとも、監視なのか。
答えの見えない問いが薄い霜のように胸を覆っていく。
ふと、昨夜の記憶がよみがえった。揺れる燭台の小さな炎。
心を温める柔らかな光も、同時に影を濃く伸ばす光も。
どちらも同じ一つの炎から生まれ、決して切り離すことのできないものだった。
アランは燭台の下でそっと息をのむ。
胸の中のわずかな温もりと、ひどく長く伸びていく影を抱えたまま、もう一度階段を下りはじめた。
屋敷の中庭は、冬の息をはらんだ月光に照らされ、白く沈んでいた。
石畳の上には裸木の影が長く伸び、吐く息は淡い白となって漂い、空気そのものが冷たく重たく肌にのしかかる。
この屋敷全体を包む重苦しい静けさのなかで、ただ一筋の銀色の光だけが夜に生々しい輪郭を与えていた。
その中庭の奥——石畳の先に立ちすくむ姿を見つけると、シリウスは迷わず足を運んだ。
夜の闇を裂くような速さと確かさで、彼女のもとへ近づいていく。
気配に気づいたアランが、わずかに身を竦ませて振り返った。
月光を映すその翡翠の瞳が、その瞬間だけ小さく揺れる。
「……アイツに――レギュラスに、何を言われたんだ」
問いは短い。しかし抑えきれぬ熱を帯び、夜の空気を震わせていた。
アランはすぐに答えなかった。視線を逸らし、言葉を探すように小さな沈黙が落ちる。
だが、沈黙自体が答えの一端になってしまうことを、シリウスは知っていた。彼は一歩踏み込み、彼女の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
揺れている。
翡翠の瞳は月光に溶けそうに淡く、しかしその底には確かな痛みが潜んでいた。
それは彼女が普段見せぬ影であり、他でもない屋敷の重さに刻まれた疼きだった。
「……私が……浅はかだったわ」
震える声がやっと零れる。
「考えなしに、あなたと……外で遊んでしまったから……」
その言葉に、シリウスの眉が鋭く動き、唇が怒りにわずかに震えた。
——彼女は責められるべきではない。責められるべきは、この屋敷の空気なのだ。
「そんなこと、ねぇよ」
低く押し出す声。
怒りの熱を孕みながらも、その芯にはまっすぐな温かさがあった。
いつも冗談めかした言葉を口にする彼が、この時ばかりは一切の飾りを脱ぎ捨てていた。
「どこへ行こうが、何をしようが、人の本質は自由だ。
——親だろうが、屋敷だろうが、その自由を縛る権利なんか、あるわけねぇ」
月光の下で照らし返されるその瞳は、まるで燃えていた。
炎のように鋭く、同時に温かで誰をも焦がす光。
純血主義だの家柄だの、所詮は鎖でしかない。
そんな錆びついた枷に、彼女のような澄んだ瞳を持つ存在を繋ぎ止めるなど、決して許されることではない。
シリウスの心はその思いで燃え尽きんばかりだった。
アランはその視線を受け止めながら、小さく息を吐いた。
胸の奥でレギュラスの静かな声と、シリウスの激しい言葉がせめぎ合う。
片や「用心せよ」と囁く月影の声。
片や「自由だ」と叫ぶ太陽のような声。
どちらも優しさを帯びている。だが、その温度は全く違う。
そして——今この瞬間。
胸を叩く脈を支配したのは、シリウスの声だった。
夜の冷たさを切り裂いて届いたその言葉が、心の最深部にまで震えを刻む。
——自分もまた、この声に救われたい。
その思いを、アランははっきりと感じた。
白い息が二人の間に溶け、夜の空に散っていく。
静寂に閉ざされた屋敷の中庭で、それだけが確かに燃え続けていた。
その夜、屋敷は息を潜めたように静まり返っていた。
昼間の声高な怒号も、夕餉のざわめきもすでに遠く、今残っているのは石造りの廊下を満たす冷ややかな静寂と、燭台にともる小さな炎の揺らぎだけだった。
一定の間隔で並べられたその炎が、規則正しく壁に影を落とし、彼女の足取りを淡く導いていた。
アランは両腕に抱えた衣を胸に寄せ、階段を上がっていた。自室に戻りさえすれば、今日一日の重さをそっと降ろせる――そう思いかけたところで、その声が背後から響いた。
「…… アラン」
耳に届いたのは、昼間の冗談めいた軽さを欠いた、低く真摯な響きだった。
驚いて振り返ると、廊下の片隅にシリウスが立っていた。
首元は乱れ、裾をきちんと整えていないラフな服装。片手には途中で詰めるのをやめたカバンが下げられていた。旅支度の途上であることは一目でわかった。
彼は足早に近づき、短く息を吐いて告げる。
「明日、ホグワーツに戻る。……だから今夜は、どうしても話したくて」
夜の闇にも勝るほどの強い光が、その瞳には宿されていた。
アランは一瞬ためらい、けれど静かに頷いた。
二人は並んで廊下を抜け、息を潜めた屋敷の奥から小さな中庭へ出る。
外の空気は冴えわたり、冬の匂いをまとった夜風が頬を刺した。
高く広がる空には群星が瞬き、屋敷の黒い屋根の陰から、細かい光が零れ落ちている。
シリウスは立ち止まり、彼女へと真正面から向き直った。
その姿は幼いころの奔放な少年のままでありながら、確固たる意志を備えた青年の影を抱いていた。
「アラン、約束しようぜ」
言葉に込められた響きに、迷いはなかった。
彼は胸の奥から炎を引き出すように続ける。
「俺は必ず、この屋敷から自由になる。そして、それに見合う力をちゃんと持つ。
……その時、お前を連れ出す」
夜気のなかで響いたその声は、強烈に心を打った。
アランの胸の奥がきゅう、と熱に締めつけられる。
「……本当に?」
小さな声で問い返す。震えを帯びた翡翠色の瞳は、星々の光を吸い込みながらも、なお不安げに揺れていた。
シリウスは微かに笑んだ。
けれどその笑みは決して軽くはなく、言葉の芯は静かに燃えたままだった。
「本当にだ。お前はここに閉じ込められる人間じゃない。
外の広い世界を見ていい。いや、見なきゃいけねぇんだ。
その瞳は、そういう光を映すためにある」
言葉が胸を打ち抜き、アランは俯く。
溢れる熱を抑え込もうと、小さく息を呑む。これまで、彼の言葉に救われることは幾度もあった。だが今夜の言葉は格別で、これまでとは違う場所へ魂を導いていくように響いた。
胸の奥で、重たく閉ざされていた未来の扉が、かすかに軋みをあげて開く音がした。
その音は確かに、自分だけが聞いた。
「……じゃあ、待っています」
口から零れた瞬間、冷たい夜気はどこか遠くへ退き、彼の笑みがすべてを包み込んで温めた気がした。
シリウスは彼女の小さな肩に触れ、そのままそっと抱き寄せた。
熱を分け合うように、重荷を取り去るように。
「約束だ」
その囁きは中庭の夜空の下で星に溶け、誰にも知られない秘密として封じられた。
二人だけの光は、冬の夜に確かに灯り、消えることなく心に刻まれたのだった。
アラン・セシールは、これまで自分の人生を「不自由」だと感じたことはほとんどなかった。
生まれた時から定められた道があった。セシール家の者としてブラック家に仕え、一族のためにその役目を全うする。
それは男であろうと女であろうと変わらない。幼い頃から染み込むように教えられてきた「当たり前の生き方」だった。
父も例外ではない。
長きにわたりブラック家当主オリオンのもとに仕え、その忠勤によって信頼を得、純血の妻を娶った。母方の一族もまた、オリオンの計らいで要職を与えられ、家の名を保っていた。
——だから、この屋敷に仕えることは誇りでもあった。
恩恵であり、宿命であり、自分自身の根幹に結びついた「生き方」そのものだった。
不満など、抱く余地さえなかった。
けれど、シリウス・ブラックと時を過ごすうち、胸の奥で知らぬ火が芽吹いていた。
彼はいつも風の匂いをまとって現れる人だった。
重く澱んだこの屋敷の空気をあっという間に払って、外の光をそのまま自分の中へと連れ込んでしまう。
その笑顔は一瞬で世界を明るくし、何気ない言葉は胸を震わせる旋律のように響いた。
鋭くも真っすぐな視線に見つめられると、それだけで心の奥に新たな色が刻まれていった。
それははじめ、ただの「染み」のように小さなものだった。
けれど柔らかくじわりと広がり、いつしか輪郭をもたぬ感情へ育ち始めていた。
気づけば、望むようになっていたのだ。
もっと広い空を。もっと深い風を。
彼が歩む場所へ、自分も立ってみたい。
彼の手に引かれて、この重たく閉じられた扉の外に出てみたい、と。
——「待っています」
あの夜、中庭でそう言葉を紡いだ時。
自分の胸の奥にはっきりと、熱のようなものが灯ったのを知った。
少女であってもわかる。
これはただの憧れではない。
もっと深く、もっと重い。
そして苦さと甘さを同時に孕む、不思議な火。
——これが、愛。
そう名づけた瞬間、それは驚くほどしっくりと胸に収まった。
大人ぶった考えかもしれない。けれど、それでもかまわなかった。
夜空には星が無数に瞬き、冷たい風は頬を掠めていく。
しかし、彼の残していった笑顔と声だけは安らぎの灯火となり、暖炉の火のように絶えず彼女の内側で燃え続けていた。
その熱は、もう二度と冷めることはないだろうと、アランは幼い確信のままに知っていた。
それは、ごく小さな変化からだった。
アランの纏う空気は、いつも通り穏やかに澄んでいたはずだった。
動きは無駄がなく、一つひとつの所作は教え込まれた礼儀に従って美しく整っていた。
微笑みも変わらず優しく、侍女として何一つ欠けるところはない。
けれど——。
レギュラスの目には、彼女の輪郭が淡く光を帯びはじめたように映った。
わずかな灯りのような、言葉では触れられない変化。
彼女を包む空気の粒がほんの少し震えて見える時があり、その度に彼の胸は不可解な予感で揺れた。
ふと遠くを見つめる瞳。
問いかけに対し、わずか一拍遅れて返ってくる返答。
昼下がり、窓辺に立ち、外気に溶けるように白く霞んだ横顔。
それらの断片を、レギュラスは無意識に拾い集めていた。まるで糸を繋ぐように。
やがて浮かび上がった形は否応なく、ひとつの結論へ導かれる。
――これは、誰かを想っている顔だ。
その直感は幼い彼にさえ抗えない真実だった。
誰なのか。
わざわざ答えを探す必要などなかった。胸の奥に候補は一人しかない。
兄の名。
シリウス。
その二文字を心に浮かべた瞬間、胸の内を鋭い刃がえぐった。
思わず息が浅くなる。胸の奥を刺したものが、やがて焼けるような痛みへ形を変えていく。
――昔、自分にだけ向けられていた笑顔。
――兄と三人で過ごした、儚く濃い幼い日々。
その時間は、もう二度と戻らない。そう知らされた気がして。
遠ざかっていく記憶の温もりを、眼前で断ち切られたように思えた。
そんな思いを抱えた日の昼、廊下で彼女と出会った。
「…… アラン」
短く呼び止めると、彼女はゆるやかに立ち止まり、翡翠色の瞳をこちらへ向けた。
その奥に光っていたもの。
それはもう自分の知らない熱だった。
静かに深い湖面のような瞳に、見たことのない輝きが灯っている。
しかし彼女は何も言わない。ただ、いつも通りに微笑んだ。
けれど、そのやわらかな曲線に宿るものは自分へのものではなかった。
ほんの少しの差、それだけで全てを悟らせるには十分すぎた。
微細な笑顔の陰で「あなたのものではない」と囁かれたように思えた。
レギュラスは視線を逸らし、無表情を貼り付けたまま、足早にもせず淡々とその場を去った。
静謐を装った歩みの下で、胸の奥は激しく波打ち、暗い渦を巻いていた。
背中の奥では、感情が深く静かな影となり、密かに沈殿していった。
痛みは形を変える。
悲しみが痺れに変わり、痺れが焦燥に燃え、焦燥はやがて執着の核となって強く脈打ち始める。
――やはり、行かせたくない。
心臓の奥底で、その決意はひときわはっきりと輪郭を結んだ。
屋敷の廊下に響く彼の歩みは静かで、炎を失った暖炉のように落ち着いて見える。
だがその奥底では、静かな焔が確かに燃え続けていた。
少年の影は長く、誰にも知られぬまま、夜の屋敷の中を淡々と歩いて消えていった。
重厚な扉の向こうは、昼間とはまるで別の空気をまとっていた。
長く磨き込まれたテーブルの中央には銀の燭台が三つ並び、蝋燭の火がゆるやかに揺れては、暗い部屋を淡く照らす。
すすの匂いと、まだ熱の残る料理の香りが混じるその場に、ブラック家の家族が揃っていた。
オリオン・ブラック。
鋭い眼差しで王座のような席に腰をおろし、無言のまま器の上の肉を切り分ける。
その隣に座るヴァルブルガ。黒のドレスに身を包み、口元に時おり笑みとも冷笑ともつかぬ影を浮かべる。
そしてレギュラス。
まだ年若いはずなのに、もう父の鋭さを部分的に受け継ぎつつ、落ち着き払った影を纏っていた。
その重苦しい食卓の横顔を、アラン・セシールは少し離れた位置から見守っていた。
腕には銀盆。料理の皿を外の部屋から運び続け、求められればすぐ差し出せるよう備えている。
使用人としての務めは、幼い頃から仕込まれてきた。
ブラック家が食事を楽しむひととき、彼女は音もなく傍らに佇み、目立たず存在し、呼びかけがあれば恭しく応える。それこそが日常であり、疑いもない役割だった。
だが、その夜は違った。
「…… アラン」
低い声が名を呼ぶ。
胸の奥で小さく息を呑み、盆を支える指がぴくりと震える。
「オリオン様……? いかがなさいました」
震えを隠すように背筋を一層正し、彼の前へと一歩近づく。
オリオンが直接、使用人の名を呼ぶことなど滅多にない。
幾年も仕えてきたが、これほどはっきりと視線を向けられた記憶はそう多くなかった。
銀のナイフが皿の上に置かれる。
硬質な音が、小さな刃のようにアランの胸へ突き刺さる。
「セシール家の娘なのだから……心配はしていない」
落ち着きはらった声が、闇に吸い込まれるように部屋を満たす。
そしてゆっくりと、動かぬ瞳で続けた。
「ホグワーツでは、間違いなくスリザリンを選びなさい」
蝋燭の炎が揺れる。瞬間、胸の内で見えない氷が降り積もる。
直接「シリウスと同じ道へ行くな」とは言わなかった。
だが意味はあまりに明白すぎた。
暗黙の命令。それでいて「血族と同じ誇りを持て」という鎖でもあった。
アランの呼吸は、気づかぬうちに浅くなっていた。
——共に生きていく夢が、またひとつ重たい壁で覆われていく。
沈黙を割ったのは、すぐ隣の声だった。
「アランは、僕と一緒にスリザリンに入りますよ」
レギュラスだった。
その声は雪の夜のように静かで、それでいてどこか誇らしく響いた。暗闇に白い花を咲かせるような柔らかな響き。
「それもそうだな」
オリオンは口角をわずかに動かす。
「レギュラスがいるから安心だ」
それは“約束”を結ぶかのようだった。
未来の道筋を、本人の意志を越えて決めてしまう力を持つ言葉。
表向きは助け舟のように聞こえたかもしれない。
だがアランにはそれが氷の刻印に思えた。
胸に温かさは広がらなかった。むしろ強く締めつけられるように、痛みだけが深まった。
自由へ伸ばそうとする芽が、見えない鎖によって足元から固められていく。
深く一礼し、アランはふたたび自分の定められた位置へ下がった。
薄暗い燭台の火は揺れ続けていた。
けれどその炎はもはや、希望を灯す光ではなかった。
灯るたびに、胸の奥で“自由”という言葉が遠ざかり、夜の闇に溶けていくのを、彼女ははっきりと感じていた。
重い扉を閉じた瞬間、外のざわめきはすべて遮断され、足元から静寂がじわじわと満ちてきた。
長い一日の幕がようやく下りたはずなのに、その沈黙は安堵ではなく、身体に絡みつくような冷たさを孕んでいた。
アランは外套をゆるやかに脱ぎ、壁際のランプに火をともした。
芯に燃え移った小さな炎が淡い橙を放ち、簡素な部屋をゆるやかに照らしはじめる。
木製の机、積み重ねられた布、寝台代わりのベッド。
当たり前に過ぎるほど質素な空間が、その時ばかりは彼女を丸ごと抱え込む檻のように思えた。
壁に背を預け、深い息を吐き出す。
肺の奥に残っているのは、まだ食卓の重さ。
——スリザリンを選びなさい。
オリオンの声が蘇る。
食卓を支配する冷ややかな静謐と共に、その言葉が耳の奥にやけに鋭く繰り返されていた。
あれは怒鳴りでも強制でもなく、ただ“当然のこと”として口にされた。
それなのに胸は鋭く締め付けられる。
そこに自分の意志など最初から存在しない。そう告げられたに等しい響きがあったからだ。
机の縁へと手を伸ばしながら、アランはゆっくりと瞼を閉じた。
次に浮かんできたのは、別の声。
—— アランは僕と一緒にスリザリンに入りますよ。
優しい声音だった。幼いころから自分を守るように言葉を差し出してきたレギュラスの声。
けれど今この時、その響きは未来をやわらかく封じ込める鎖のように感じられていた。
選択肢は一つしかない、そう告げられているかのような響き。
自分の人生の地図を勝手に線引きされ、そこから外れてはならぬと暗黙に決められてしまったようで——胸の奥が鈍く痛んだ。
机に肘をつき、掌で瞼を覆った。
すると暗闇に滲むように、浮かび上がる顔があった。
炎を内包するような灰色の瞳。
そして、憂いを吹き飛ばすほどの屈託のない笑顔。
「俺がお前を連れ出してやる」
その声が確かに甦る。
シリウス。
彼の言葉だけが、定められた道の枠組みからアランを踏み外させようとする。
どうしてこんなにも、その約束が眩しく響くのだろう。
危うさはわかっている。踏み出せば、見えぬ罰や悲劇が待つかもしれない。
それでも、その声を聞けば、心はもう想像をやめられない。
——屋敷の重い扉を抜けた先に広がる光景。
色彩に溢れた空。澄み切った風。知らぬ人びとの笑い声。
自由が息をする場所。
胸がそっと熱に触れる。
アランは掌を離し、静かに瞳を開いた。
視線の先には、ランプの炎。
小さく、不安定に揺れながら壁に影を描き、時に消えてしまいそうで、それでも燃え続けている。
その揺れる光は、ひとしずくの自由にも見えた。
だが同時に、分厚い檻の隙間から漏れる唯一の光でもあるように思えた。
——どちらへ行くべきなのだろう。
胸の奥でその問いが響く。
だが答えを与える者はどこにもいない。
ただ静けさだけが夜へ深く沈んでゆき、小さな炎の影は壁に長く伸び、やがて再び揺れた。
アランはその光に瞳を注ぎながら、心の迷いごと夜へ染み込ませるように、ひっそりと息を整えていった。
それは、冷たい雨の降り続く日だった。
屋敷の外では灰色の空が低く垂れ込め、無数の滴が石畳を打つ音が途切れることなく続いていた。まるで屋敷全体が水の幕の中に閉じ込められているようで、そのざわめきが分厚い壁をすり抜けて中まで届き、空気までひんやりと湿らせていた。
アランは屋敷の図書室の隅に立っていた。
古びた木の梯子に足をかけて背伸びしながら、背表紙に埃が積もった魔法書をひとつずつ掴み取り、柔らかな布で丁寧に磨いては棚に戻していく。乾いた紙と革の匂いが微かに立ちのぼり、古い歴史の眠る空間にある種の落ち着きをもたらしていた。
その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。乾いた靴音ではなく、屋敷の静けさを裂く規則正しいリズム。
「アラン」
呼びかけに振り返ると、そこにレギュラスがいた。
きちんと整えられた装いに乱れはなく、雨に濡れた様子もなかった。けれどその灰色の瞳には、不思議なことに外の空に漂う冷たさがそのまま映り込んでいるように見えた。
「こんな天気の日に……そんなことをしていれば、手が冷えてしまいます」
近寄るなり、そう言って彼は棚の上段に目をやり、彼女の手から重たい本をすっと取り上げた。腕に力を込めることなく軽やかに脇へ置くと、落ち着いた声で告げる。
「僕がやりましょう。あなたは下の段を」
その声音には押し付けがましさはなかった。ただ自然に、当然のように役割を分け与え、彼自身が淡々と布を手に取り作業を続ける。
戸惑いを抱えたまま、アランは梯子から降りた。指の冷えを感じながら書物の表紙を拭き続ける。二人の間に流れる時間は静かで、雨音が遠くから響き、部屋いっぱいに柔らかなざわめきとして充満していた。
やがて、不意に声が落ちてきた。
「……入学の準備は、進んでいますか?」
何気ない調子で投げられた質問。だがその響きには、彼女の内側へまっすぐ届く針が隠されていた。
「ええ……少しずつ」
アランは布を動かし続けながら答える。呼吸がわずかに乱れ、返事は自分の耳にも小さく響いた。
「制服も、新しいものを……」
そう応じると、すぐに続いた声は淡々とした断定形だった。
「スリザリンのものですね」
それは疑問ではなく、未来を既定の事実として告げた響きだった。
選択肢など存在しない——そこにあるのは「当然」の道だけだと示す言葉だった。
アランは視線を伏せ、胸の奥に小さな締めつけを覚えた。
「……はい」
約束を口にするように応じる。その声の裏に、抗うことのできない重みを感じながら。
レギュラスは短く息をつき、微笑んだ。
柔らかなその表情は、外の雨を忘れさせるような穏やかさで彩られていた。
「良かった。僕は……あなたと同じ寮で過ごしたいと思っているんです。ずっと傍にいられるから」
声の端々には優しさが漂い、聞く者に安堵を与える響きをしていた。
けれどその「傍にいる」という言葉は、アランにとって少し違った重みを持って胸に落ちた。
それは温かな庇護の約束でもありながら、同時に——逃れられない囲いを意味しているようにも思えた。
外の窓を打つ雨脚がさらに強まり、音は図書室の中までひびいて、静かな世界を完全に支配した。
屋敷全体が雨に沈む午後、アランは知らずに呼吸を浅くしていた。
胸の奥を満たすのは、優しさと束縛がないまぜになった重たい静けさ。
その狭間に立たされていることを思い知らされながら、彼女はただ静かに磨き続けるしかなかった。
レギュラスが廊下の奥へと姿を消してから、それほど時間は経っていなかった。
静まり返った屋敷は雨の音に包まれていた。屋根や窓を打つ無数の雨粒はまるで大地全体を濡らし沈めるようで、湿った冷たさが家の内にも忍び込んでくる。
その一様な音が、突如として乱れた。
荒々しく叩きつける靴の音、そして重たい玄関の扉が外から押し開けられる響きが重く響き渡る。
「……シリウス!」
アランは思わず声を上げ、駆け寄った。
そこに立っていたのは、雨に濡れそぼったシリウス・ブラックだった。
漆黒の髪は額に張りつき、滴が頬を伝い落ちる。制服の上着は過剰に水を吸って重々しく体にまとわりつき、肩からはしずくが絶え間なく落ち床に濡れ跡を作っていた。靴先からも水が滴り、彼の足元に小さな水たまりがひろがっていく。
「まさか——ホグワーツを抜け出してきたの?」
アランの問いかけに、シリウスは一瞬の迷いもなく頷いた。
「そうだ」
悪びれる気配など露ほどもない。その顔にじわりと広がるのは、少年らしいいたずらめいた笑み。瞳には炎のような光が宿り、全身が「自由」という名の熱で貫かれていた。
「怒られるわ、こんなこと……」
小声で告げるアラン。
だがシリウスは肩をすくめ、ひとつ息をつくように軽やかに笑った。
「そんな事、バレた時に考えればいいんだよ」
あまりにも奔放な言葉。なのに、不思議と胸の重みを削り取る。
呆れと同時に、心がふっと緩んでいくのをアランは止められなかった。
気づけば彼女は近づき、濡れた前髪をそっと指先でかき上げていた。
冷えた水滴が指先を滑り落ち、シリウスの額に煌めきを残す。
近すぎる距離。だがその触れ合いに、怖れより先に安心と強い魅了があった。
——この人のこういうところ。
恐れを知らず、決して躊躇わず、いつだって真っ直ぐに自分の望む方へ足を運ぶ。
その自由さに、心はどうしようもなく惹かれていく。
「……会いにきたんだ、アラン」
ふいに告げられた言葉に、胸の奥が弾けた。
全身を熱が駆け上がり、思わず目を見張る。
アランは驚きに揺れながらも、次の瞬間には微笑を浮かべて何度も何度も頷いていた。
ただ「会いにきた」。
それだけの飾り気もない言葉なのに、シリウスが口にすると、最上の贈り物のように思えた。
胸の鼓動は速さを増し、血が熱を帯びて全身を流れるのを感じる。
雨に冷えきったはずの空気の中で、自分だけがひどく温かい。
それはシリウスだからこそできることだった。
眩しく、掻き消せないほど鮮烈で、真っすぐで。
その光に触れた心は、もうどこまでも引き込まれていくしかない。
アランは改めて悟った。
——この光から自分は目を逸らせない、と。
外の雨は変わらず降り続いていた。
けれど二人の間を包む空気は、その雨をすべて溶かし尽くすほどに温かかった。
廊下の角を曲がったとき、不意にアランの姿が目に入った。
翡翠色の瞳は前を向き、うつむきがちに黙々と歩を進めている。
肩口から袖口にかけて、生地が薄く濡れていた。冷えた空気がわずかに纏わりつき、髪の束の先にも、小さなしずくが光を拾った。
——雨の中に、出ていたのか。
レギュラスは思わず眉を寄せる。
使用人である以上、彼女が雑務に従事するのは当然のことだ。
それでも、できる限り負担のかかることは避けさせたいと彼の心は告げる。
重い荷物は自分が持てばよい。冷たい雨や風に晒されるだなんて、本来アランが引き受ける必要はないのだ。
あの美しい手は、いつまでも柔らかく綺麗なままであってほしかった。
翡翠の瞳には、澄んだ輝きのままでいてほしかった。
疲れや苦労の影を帯びた姿など、彼女に重ねたくはなかった。
そんな想いが胸の内をよぎる。
アランの姿が廊下の奥へ消えていくのを見届けると、レギュラスは何気ない足取りで逆に玄関の方へ向かった。
そこで、ふいに足が止まった。
石畳の床。重厚な扉へと続くその場所に、濃い水の跡が点々と残されていた。
見慣れない乱れではなく、はっきりと形を示す足跡。
雨で濡れたばかりの靴底が押し付けられてできた痕跡は、まだ乾ききらず暗い色で床を染めていた。
一瞬で理解する。
足跡の大きさも、形も。
——シリウス。
その名が脳裏に浮かんだ刹那、胸の奥でひやりとしたものが広がった。
つまり。
アランは——自分の知らぬところで、シリウスと会っていたのだ。
外の雨の中から。屋敷を越えて。
それは疑いというより、冷えた理解に近かった。
確かにそうだと、理屈より先に心は悟ってしまった。
理解と同時に、身体の芯からゆっくりと冷気が降りてくる。
内側を満たしていた熱はしゅるしゅると消え去り、代わりに残るのは鈍い痛みだった。
何かに裏切られたようだ、と。
そう感じる自分がいた。
本当はそんな風に思いたくはなかった。
理由もなく彼女を疑うことなどしたくなかった。
けれど、自分の心はすでに彼女を「傍に置く」ことを当然としていた。
それは未来の約束のように、避けようのない前提として心に根を張っていた。
そして今、その「前提」にほころびが走った。
わずかな綻び。
だがその小さな穴が、想像以上に胸を抉り取っていく。
玄関の扉の隙間から、雨音が低く響いてくる。
重く途切れず、絶え間なく降り続くその音。
それが、まるで胸の奥で確かに降り始めた冷たい雨の音と重なっていた。
心の深淵にしとどに濡らしていく冷雨は、止む気配を一切見せず、静かにしかし容赦なく、彼のなかを濡らし続けていた。
夕刻、雨は幾分弱まっていた。
しとしとと滴る音が遠のき、屋敷の中には洗い立ての床のにおいがしっとりと漂っていた。磨かれた石の表面にはまだ水の薄い跡が残り、小さな光を反射しては黄昏の気配を映し出す。
廊下の端、アランは両の手に柔らかな布を持ち、花瓶を丁寧に磨いていた。
白い花を活けたその器の口もとを拭くたびに、花弁がわずかに揺れ、淡く甘やかな香りが空気に滑り込んでいく。雨に湿った屋敷の空気を、ひととき清らかに洗い流すようだった。
「…… アラン」
背後から名を呼ぶ声が落ちた。灯りに照らされた影が伸び、アランは振り返る。そこに立っていたのはレギュラスだった。
整った黒髪、きちんとした佇まい。けれど昼間見かけたときの彼よりも、表情はわずかに硬さを帯びていた。にもかかわらず、唇だけは礼儀として保つ微笑の形を崩していない。その笑みは優しさを彩う仮面でもあり、奥に潜む感情を覆い隠していた。
「今日は……外に出ていたのですか?」
何気ない調子で、まるで天候を問うかのように口にされた言葉。
アランは瞬きし、ささやくように答える。
「ええ……少し、用があって」
その答えに、レギュラスは一歩、ほとんど音もなく近寄った。
距離が急に縮まり、空気の温度が変わったようにアランは感じた。背筋を流れる冷たい筋と、不思議な熱が同時に生まれる。
「僕に言えばよかったのに」
声は穏やかで、耳に優しい響きだった。だがその奥には何か揺るぎないものが潜んでいる気配があった。心遣いの仮面に覆われながらも、その言葉は逃がさない縄のように重く響く。
「……重いものや、大変なことがあれば、僕が代わりにやります。あなたの手も、そんなふうに濡らす必要はない」
アランは微笑みで返そうとした。いつもなら「ありがとう」と口に出して、優しさを受け入れることができただろう。
けれど、その眼差しに射抜かれた瞬間、言葉は胸の奥で止まり、吐息のみに変わった。
感謝と安堵のはずなのに、軋む。
心配か、それとも——監視か。
静かな疑いが彼女の胸の奥を締め付けた。
レギュラスは花瓶を受け取り、自らの手で布を滑らせ始めた。繊細な手の動きは落ち着きに満ち、誰から見ても親切で丁寧な振る舞いだった。だがアランの心はなぜか安らげなかった。
「もうすぐ新学期ですね」
ふと彼が話題を変える。口元は笑みを保っていたが、その瞳の奥は曇りのない月光のように冷えていた。光を放ちながら、同時に相手を凍らせる。
アランが目を逸らした瞬間、彼は言葉を重ねた。
「……同じ寮なら、いつでもあなたの傍にいられます」
柔らかい声だった。優しい言葉だった。
なのに、その響きが胸を温めるのではなく、きゅっと締めつける留め具のように感じられる。
なぜだろう。
すでに理由は分かってしまっていた。
声に込められているのは庇護だけではない。
その奥に潜んでいるのは、手放さないという決意。選べない未来をさりげなく告げる宣言。
アランは自分の胸が重くなるのを感じた。
それは決して憎しみではない。
けれどやわらかな言葉の中に逃げ場のない囲いを見てしまう自分の心が、苦しかった。
外の窓辺を見やると、再び静かな雨が降り始めていた。
夕暮れに弱まりを見せたはずの雨粒が、静かに大地を打つ音を響かせる。
その規則正しい音は、二人の間の沈黙の中にくっきりと浮かびあがり、やけに鮮明に聞こえてきた。
心臓の鼓動と雨音が微妙にずれながら重なり、アランは自分の浅い呼吸をそっと押し隠すように花弁を見つめた。
その白さは、今にも濡れて落ちてしまいそうに脆く感じられた。
大きなテーブルの上には銀器の残響もなく、片付けられた灯の名残が漂っているだけ。廊下へ出れば、壁に並んだ燭台の炎が小さくちろちろと揺れ、黄みがかった淡い光を石造りの床に落としていた。
アランは洗濯物の入った籠を抱え、階段を下りようとしていた。
衣服の布が重なり合って小さな匂いを放ち、その重みが両腕に心地よく食い込む。こうして家事に没頭している時だけ、屋敷の重苦しい空気から少しは解かれるような気がするのだ。
階段を踏み出そうとしたその瞬間——。
「…… アラン」
背後から、低く柔らかな声がかかった。
思わず足を止め、振り返る。その先に立っていたのはレギュラスだった。
燭台の光を背に、彼の黒髪は光の輪郭を帯びてかすかに輝いている。昼間、玄関口では氷のように冷ややかな視線で彼女を射抜いていたはずなのに、今の顔には柔らかな微笑が浮かんでいた。
心臓がわずかに跳ねる。
「今日は……外に?」
問いかけは穏やかだ。だが、その柔らかさに逆に足元を掬われるような揺らぎを感じる。
「ええ……少し、お使いに」
嘘をついたわけではない。けれど真実すべてでもない。
自分の声が耳に硬く、ぎこちなく反響するのをアランは感じた。
レギュラスは歩み寄り、自然な動作で籠を受け取った。
腕から重みがすっと消え、彼の整った仕草がそのまま頼もしさに映る。片腕で軽やかに抱える姿に、不意に昼間の記憶が蘇る。
マグルの街で、無造作に紙袋を渡してきたシリウスの奔放な手つきが、妙に重なって胸に疼きを残した。
しばし並んで階段を降りる。足音は二つ。だがその響きは同じ闇に染まって、まるでひとつの静かな律動に聴こえた。
「……兄のことですが」
突然落とされた言葉に、アランの息がわずかに詰まる。
「あなたが何を選び、どこへ行くかは、自由に見えて……本当は自由じゃない」
その声は穏やかで、優しく諭すようでもあった。
だが同時に、胸に釘を打ち込むような重さを持っていた。
「母は……警戒しています。あなたが兄に影響を受けるのではと」
二人は階段の途中、踊り場で足を止めた。沈黙が広がり、僅かな風が燭台の炎を揺らした。ゆらめく光に照らされたレギュラスの瞳は、月影のように静かで、それでいて鋭い意志を宿している。
「だから——気をつけて。あなたまで、何を言われるかわからない」
逃げ道はなかった。その声音には優しさがあったのに、同時に締めつけるような無言の圧があった。
アランは小さく頷き、唇を動かした。
「ありがとうございます」
その言葉しか返せなかった。
レギュラスは柔らかさを保った笑みのまま、籠をそっとアランに返す。そしてそのまま背を向け、別の廊下へと消えていった。
残された静寂の中、アランは彼の背中を見送りながら、胸の奥で鈍い痛みを覚えていた。
——あれは忠告か。
——それとも、監視なのか。
答えの見えない問いが薄い霜のように胸を覆っていく。
ふと、昨夜の記憶がよみがえった。揺れる燭台の小さな炎。
心を温める柔らかな光も、同時に影を濃く伸ばす光も。
どちらも同じ一つの炎から生まれ、決して切り離すことのできないものだった。
アランは燭台の下でそっと息をのむ。
胸の中のわずかな温もりと、ひどく長く伸びていく影を抱えたまま、もう一度階段を下りはじめた。
屋敷の中庭は、冬の息をはらんだ月光に照らされ、白く沈んでいた。
石畳の上には裸木の影が長く伸び、吐く息は淡い白となって漂い、空気そのものが冷たく重たく肌にのしかかる。
この屋敷全体を包む重苦しい静けさのなかで、ただ一筋の銀色の光だけが夜に生々しい輪郭を与えていた。
その中庭の奥——石畳の先に立ちすくむ姿を見つけると、シリウスは迷わず足を運んだ。
夜の闇を裂くような速さと確かさで、彼女のもとへ近づいていく。
気配に気づいたアランが、わずかに身を竦ませて振り返った。
月光を映すその翡翠の瞳が、その瞬間だけ小さく揺れる。
「……アイツに――レギュラスに、何を言われたんだ」
問いは短い。しかし抑えきれぬ熱を帯び、夜の空気を震わせていた。
アランはすぐに答えなかった。視線を逸らし、言葉を探すように小さな沈黙が落ちる。
だが、沈黙自体が答えの一端になってしまうことを、シリウスは知っていた。彼は一歩踏み込み、彼女の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
揺れている。
翡翠の瞳は月光に溶けそうに淡く、しかしその底には確かな痛みが潜んでいた。
それは彼女が普段見せぬ影であり、他でもない屋敷の重さに刻まれた疼きだった。
「……私が……浅はかだったわ」
震える声がやっと零れる。
「考えなしに、あなたと……外で遊んでしまったから……」
その言葉に、シリウスの眉が鋭く動き、唇が怒りにわずかに震えた。
——彼女は責められるべきではない。責められるべきは、この屋敷の空気なのだ。
「そんなこと、ねぇよ」
低く押し出す声。
怒りの熱を孕みながらも、その芯にはまっすぐな温かさがあった。
いつも冗談めかした言葉を口にする彼が、この時ばかりは一切の飾りを脱ぎ捨てていた。
「どこへ行こうが、何をしようが、人の本質は自由だ。
——親だろうが、屋敷だろうが、その自由を縛る権利なんか、あるわけねぇ」
月光の下で照らし返されるその瞳は、まるで燃えていた。
炎のように鋭く、同時に温かで誰をも焦がす光。
純血主義だの家柄だの、所詮は鎖でしかない。
そんな錆びついた枷に、彼女のような澄んだ瞳を持つ存在を繋ぎ止めるなど、決して許されることではない。
シリウスの心はその思いで燃え尽きんばかりだった。
アランはその視線を受け止めながら、小さく息を吐いた。
胸の奥でレギュラスの静かな声と、シリウスの激しい言葉がせめぎ合う。
片や「用心せよ」と囁く月影の声。
片や「自由だ」と叫ぶ太陽のような声。
どちらも優しさを帯びている。だが、その温度は全く違う。
そして——今この瞬間。
胸を叩く脈を支配したのは、シリウスの声だった。
夜の冷たさを切り裂いて届いたその言葉が、心の最深部にまで震えを刻む。
——自分もまた、この声に救われたい。
その思いを、アランははっきりと感じた。
白い息が二人の間に溶け、夜の空に散っていく。
静寂に閉ざされた屋敷の中庭で、それだけが確かに燃え続けていた。
その夜、屋敷は息を潜めたように静まり返っていた。
昼間の声高な怒号も、夕餉のざわめきもすでに遠く、今残っているのは石造りの廊下を満たす冷ややかな静寂と、燭台にともる小さな炎の揺らぎだけだった。
一定の間隔で並べられたその炎が、規則正しく壁に影を落とし、彼女の足取りを淡く導いていた。
アランは両腕に抱えた衣を胸に寄せ、階段を上がっていた。自室に戻りさえすれば、今日一日の重さをそっと降ろせる――そう思いかけたところで、その声が背後から響いた。
「…… アラン」
耳に届いたのは、昼間の冗談めいた軽さを欠いた、低く真摯な響きだった。
驚いて振り返ると、廊下の片隅にシリウスが立っていた。
首元は乱れ、裾をきちんと整えていないラフな服装。片手には途中で詰めるのをやめたカバンが下げられていた。旅支度の途上であることは一目でわかった。
彼は足早に近づき、短く息を吐いて告げる。
「明日、ホグワーツに戻る。……だから今夜は、どうしても話したくて」
夜の闇にも勝るほどの強い光が、その瞳には宿されていた。
アランは一瞬ためらい、けれど静かに頷いた。
二人は並んで廊下を抜け、息を潜めた屋敷の奥から小さな中庭へ出る。
外の空気は冴えわたり、冬の匂いをまとった夜風が頬を刺した。
高く広がる空には群星が瞬き、屋敷の黒い屋根の陰から、細かい光が零れ落ちている。
シリウスは立ち止まり、彼女へと真正面から向き直った。
その姿は幼いころの奔放な少年のままでありながら、確固たる意志を備えた青年の影を抱いていた。
「アラン、約束しようぜ」
言葉に込められた響きに、迷いはなかった。
彼は胸の奥から炎を引き出すように続ける。
「俺は必ず、この屋敷から自由になる。そして、それに見合う力をちゃんと持つ。
……その時、お前を連れ出す」
夜気のなかで響いたその声は、強烈に心を打った。
アランの胸の奥がきゅう、と熱に締めつけられる。
「……本当に?」
小さな声で問い返す。震えを帯びた翡翠色の瞳は、星々の光を吸い込みながらも、なお不安げに揺れていた。
シリウスは微かに笑んだ。
けれどその笑みは決して軽くはなく、言葉の芯は静かに燃えたままだった。
「本当にだ。お前はここに閉じ込められる人間じゃない。
外の広い世界を見ていい。いや、見なきゃいけねぇんだ。
その瞳は、そういう光を映すためにある」
言葉が胸を打ち抜き、アランは俯く。
溢れる熱を抑え込もうと、小さく息を呑む。これまで、彼の言葉に救われることは幾度もあった。だが今夜の言葉は格別で、これまでとは違う場所へ魂を導いていくように響いた。
胸の奥で、重たく閉ざされていた未来の扉が、かすかに軋みをあげて開く音がした。
その音は確かに、自分だけが聞いた。
「……じゃあ、待っています」
口から零れた瞬間、冷たい夜気はどこか遠くへ退き、彼の笑みがすべてを包み込んで温めた気がした。
シリウスは彼女の小さな肩に触れ、そのままそっと抱き寄せた。
熱を分け合うように、重荷を取り去るように。
「約束だ」
その囁きは中庭の夜空の下で星に溶け、誰にも知られない秘密として封じられた。
二人だけの光は、冬の夜に確かに灯り、消えることなく心に刻まれたのだった。
アラン・セシールは、これまで自分の人生を「不自由」だと感じたことはほとんどなかった。
生まれた時から定められた道があった。セシール家の者としてブラック家に仕え、一族のためにその役目を全うする。
それは男であろうと女であろうと変わらない。幼い頃から染み込むように教えられてきた「当たり前の生き方」だった。
父も例外ではない。
長きにわたりブラック家当主オリオンのもとに仕え、その忠勤によって信頼を得、純血の妻を娶った。母方の一族もまた、オリオンの計らいで要職を与えられ、家の名を保っていた。
——だから、この屋敷に仕えることは誇りでもあった。
恩恵であり、宿命であり、自分自身の根幹に結びついた「生き方」そのものだった。
不満など、抱く余地さえなかった。
けれど、シリウス・ブラックと時を過ごすうち、胸の奥で知らぬ火が芽吹いていた。
彼はいつも風の匂いをまとって現れる人だった。
重く澱んだこの屋敷の空気をあっという間に払って、外の光をそのまま自分の中へと連れ込んでしまう。
その笑顔は一瞬で世界を明るくし、何気ない言葉は胸を震わせる旋律のように響いた。
鋭くも真っすぐな視線に見つめられると、それだけで心の奥に新たな色が刻まれていった。
それははじめ、ただの「染み」のように小さなものだった。
けれど柔らかくじわりと広がり、いつしか輪郭をもたぬ感情へ育ち始めていた。
気づけば、望むようになっていたのだ。
もっと広い空を。もっと深い風を。
彼が歩む場所へ、自分も立ってみたい。
彼の手に引かれて、この重たく閉じられた扉の外に出てみたい、と。
——「待っています」
あの夜、中庭でそう言葉を紡いだ時。
自分の胸の奥にはっきりと、熱のようなものが灯ったのを知った。
少女であってもわかる。
これはただの憧れではない。
もっと深く、もっと重い。
そして苦さと甘さを同時に孕む、不思議な火。
——これが、愛。
そう名づけた瞬間、それは驚くほどしっくりと胸に収まった。
大人ぶった考えかもしれない。けれど、それでもかまわなかった。
夜空には星が無数に瞬き、冷たい風は頬を掠めていく。
しかし、彼の残していった笑顔と声だけは安らぎの灯火となり、暖炉の火のように絶えず彼女の内側で燃え続けていた。
その熱は、もう二度と冷めることはないだろうと、アランは幼い確信のままに知っていた。
それは、ごく小さな変化からだった。
アランの纏う空気は、いつも通り穏やかに澄んでいたはずだった。
動きは無駄がなく、一つひとつの所作は教え込まれた礼儀に従って美しく整っていた。
微笑みも変わらず優しく、侍女として何一つ欠けるところはない。
けれど——。
レギュラスの目には、彼女の輪郭が淡く光を帯びはじめたように映った。
わずかな灯りのような、言葉では触れられない変化。
彼女を包む空気の粒がほんの少し震えて見える時があり、その度に彼の胸は不可解な予感で揺れた。
ふと遠くを見つめる瞳。
問いかけに対し、わずか一拍遅れて返ってくる返答。
昼下がり、窓辺に立ち、外気に溶けるように白く霞んだ横顔。
それらの断片を、レギュラスは無意識に拾い集めていた。まるで糸を繋ぐように。
やがて浮かび上がった形は否応なく、ひとつの結論へ導かれる。
――これは、誰かを想っている顔だ。
その直感は幼い彼にさえ抗えない真実だった。
誰なのか。
わざわざ答えを探す必要などなかった。胸の奥に候補は一人しかない。
兄の名。
シリウス。
その二文字を心に浮かべた瞬間、胸の内を鋭い刃がえぐった。
思わず息が浅くなる。胸の奥を刺したものが、やがて焼けるような痛みへ形を変えていく。
――昔、自分にだけ向けられていた笑顔。
――兄と三人で過ごした、儚く濃い幼い日々。
その時間は、もう二度と戻らない。そう知らされた気がして。
遠ざかっていく記憶の温もりを、眼前で断ち切られたように思えた。
そんな思いを抱えた日の昼、廊下で彼女と出会った。
「…… アラン」
短く呼び止めると、彼女はゆるやかに立ち止まり、翡翠色の瞳をこちらへ向けた。
その奥に光っていたもの。
それはもう自分の知らない熱だった。
静かに深い湖面のような瞳に、見たことのない輝きが灯っている。
しかし彼女は何も言わない。ただ、いつも通りに微笑んだ。
けれど、そのやわらかな曲線に宿るものは自分へのものではなかった。
ほんの少しの差、それだけで全てを悟らせるには十分すぎた。
微細な笑顔の陰で「あなたのものではない」と囁かれたように思えた。
レギュラスは視線を逸らし、無表情を貼り付けたまま、足早にもせず淡々とその場を去った。
静謐を装った歩みの下で、胸の奥は激しく波打ち、暗い渦を巻いていた。
背中の奥では、感情が深く静かな影となり、密かに沈殿していった。
痛みは形を変える。
悲しみが痺れに変わり、痺れが焦燥に燃え、焦燥はやがて執着の核となって強く脈打ち始める。
――やはり、行かせたくない。
心臓の奥底で、その決意はひときわはっきりと輪郭を結んだ。
屋敷の廊下に響く彼の歩みは静かで、炎を失った暖炉のように落ち着いて見える。
だがその奥底では、静かな焔が確かに燃え続けていた。
少年の影は長く、誰にも知られぬまま、夜の屋敷の中を淡々と歩いて消えていった。
重厚な扉の向こうは、昼間とはまるで別の空気をまとっていた。
長く磨き込まれたテーブルの中央には銀の燭台が三つ並び、蝋燭の火がゆるやかに揺れては、暗い部屋を淡く照らす。
すすの匂いと、まだ熱の残る料理の香りが混じるその場に、ブラック家の家族が揃っていた。
オリオン・ブラック。
鋭い眼差しで王座のような席に腰をおろし、無言のまま器の上の肉を切り分ける。
その隣に座るヴァルブルガ。黒のドレスに身を包み、口元に時おり笑みとも冷笑ともつかぬ影を浮かべる。
そしてレギュラス。
まだ年若いはずなのに、もう父の鋭さを部分的に受け継ぎつつ、落ち着き払った影を纏っていた。
その重苦しい食卓の横顔を、アラン・セシールは少し離れた位置から見守っていた。
腕には銀盆。料理の皿を外の部屋から運び続け、求められればすぐ差し出せるよう備えている。
使用人としての務めは、幼い頃から仕込まれてきた。
ブラック家が食事を楽しむひととき、彼女は音もなく傍らに佇み、目立たず存在し、呼びかけがあれば恭しく応える。それこそが日常であり、疑いもない役割だった。
だが、その夜は違った。
「…… アラン」
低い声が名を呼ぶ。
胸の奥で小さく息を呑み、盆を支える指がぴくりと震える。
「オリオン様……? いかがなさいました」
震えを隠すように背筋を一層正し、彼の前へと一歩近づく。
オリオンが直接、使用人の名を呼ぶことなど滅多にない。
幾年も仕えてきたが、これほどはっきりと視線を向けられた記憶はそう多くなかった。
銀のナイフが皿の上に置かれる。
硬質な音が、小さな刃のようにアランの胸へ突き刺さる。
「セシール家の娘なのだから……心配はしていない」
落ち着きはらった声が、闇に吸い込まれるように部屋を満たす。
そしてゆっくりと、動かぬ瞳で続けた。
「ホグワーツでは、間違いなくスリザリンを選びなさい」
蝋燭の炎が揺れる。瞬間、胸の内で見えない氷が降り積もる。
直接「シリウスと同じ道へ行くな」とは言わなかった。
だが意味はあまりに明白すぎた。
暗黙の命令。それでいて「血族と同じ誇りを持て」という鎖でもあった。
アランの呼吸は、気づかぬうちに浅くなっていた。
——共に生きていく夢が、またひとつ重たい壁で覆われていく。
沈黙を割ったのは、すぐ隣の声だった。
「アランは、僕と一緒にスリザリンに入りますよ」
レギュラスだった。
その声は雪の夜のように静かで、それでいてどこか誇らしく響いた。暗闇に白い花を咲かせるような柔らかな響き。
「それもそうだな」
オリオンは口角をわずかに動かす。
「レギュラスがいるから安心だ」
それは“約束”を結ぶかのようだった。
未来の道筋を、本人の意志を越えて決めてしまう力を持つ言葉。
表向きは助け舟のように聞こえたかもしれない。
だがアランにはそれが氷の刻印に思えた。
胸に温かさは広がらなかった。むしろ強く締めつけられるように、痛みだけが深まった。
自由へ伸ばそうとする芽が、見えない鎖によって足元から固められていく。
深く一礼し、アランはふたたび自分の定められた位置へ下がった。
薄暗い燭台の火は揺れ続けていた。
けれどその炎はもはや、希望を灯す光ではなかった。
灯るたびに、胸の奥で“自由”という言葉が遠ざかり、夜の闇に溶けていくのを、彼女ははっきりと感じていた。
重い扉を閉じた瞬間、外のざわめきはすべて遮断され、足元から静寂がじわじわと満ちてきた。
長い一日の幕がようやく下りたはずなのに、その沈黙は安堵ではなく、身体に絡みつくような冷たさを孕んでいた。
アランは外套をゆるやかに脱ぎ、壁際のランプに火をともした。
芯に燃え移った小さな炎が淡い橙を放ち、簡素な部屋をゆるやかに照らしはじめる。
木製の机、積み重ねられた布、寝台代わりのベッド。
当たり前に過ぎるほど質素な空間が、その時ばかりは彼女を丸ごと抱え込む檻のように思えた。
壁に背を預け、深い息を吐き出す。
肺の奥に残っているのは、まだ食卓の重さ。
——スリザリンを選びなさい。
オリオンの声が蘇る。
食卓を支配する冷ややかな静謐と共に、その言葉が耳の奥にやけに鋭く繰り返されていた。
あれは怒鳴りでも強制でもなく、ただ“当然のこと”として口にされた。
それなのに胸は鋭く締め付けられる。
そこに自分の意志など最初から存在しない。そう告げられたに等しい響きがあったからだ。
机の縁へと手を伸ばしながら、アランはゆっくりと瞼を閉じた。
次に浮かんできたのは、別の声。
—— アランは僕と一緒にスリザリンに入りますよ。
優しい声音だった。幼いころから自分を守るように言葉を差し出してきたレギュラスの声。
けれど今この時、その響きは未来をやわらかく封じ込める鎖のように感じられていた。
選択肢は一つしかない、そう告げられているかのような響き。
自分の人生の地図を勝手に線引きされ、そこから外れてはならぬと暗黙に決められてしまったようで——胸の奥が鈍く痛んだ。
机に肘をつき、掌で瞼を覆った。
すると暗闇に滲むように、浮かび上がる顔があった。
炎を内包するような灰色の瞳。
そして、憂いを吹き飛ばすほどの屈託のない笑顔。
「俺がお前を連れ出してやる」
その声が確かに甦る。
シリウス。
彼の言葉だけが、定められた道の枠組みからアランを踏み外させようとする。
どうしてこんなにも、その約束が眩しく響くのだろう。
危うさはわかっている。踏み出せば、見えぬ罰や悲劇が待つかもしれない。
それでも、その声を聞けば、心はもう想像をやめられない。
——屋敷の重い扉を抜けた先に広がる光景。
色彩に溢れた空。澄み切った風。知らぬ人びとの笑い声。
自由が息をする場所。
胸がそっと熱に触れる。
アランは掌を離し、静かに瞳を開いた。
視線の先には、ランプの炎。
小さく、不安定に揺れながら壁に影を描き、時に消えてしまいそうで、それでも燃え続けている。
その揺れる光は、ひとしずくの自由にも見えた。
だが同時に、分厚い檻の隙間から漏れる唯一の光でもあるように思えた。
——どちらへ行くべきなのだろう。
胸の奥でその問いが響く。
だが答えを与える者はどこにもいない。
ただ静けさだけが夜へ深く沈んでゆき、小さな炎の影は壁に長く伸び、やがて再び揺れた。
アランはその光に瞳を注ぎながら、心の迷いごと夜へ染み込ませるように、ひっそりと息を整えていった。
それは、冷たい雨の降り続く日だった。
屋敷の外では灰色の空が低く垂れ込め、無数の滴が石畳を打つ音が途切れることなく続いていた。まるで屋敷全体が水の幕の中に閉じ込められているようで、そのざわめきが分厚い壁をすり抜けて中まで届き、空気までひんやりと湿らせていた。
アランは屋敷の図書室の隅に立っていた。
古びた木の梯子に足をかけて背伸びしながら、背表紙に埃が積もった魔法書をひとつずつ掴み取り、柔らかな布で丁寧に磨いては棚に戻していく。乾いた紙と革の匂いが微かに立ちのぼり、古い歴史の眠る空間にある種の落ち着きをもたらしていた。
その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。乾いた靴音ではなく、屋敷の静けさを裂く規則正しいリズム。
「アラン」
呼びかけに振り返ると、そこにレギュラスがいた。
きちんと整えられた装いに乱れはなく、雨に濡れた様子もなかった。けれどその灰色の瞳には、不思議なことに外の空に漂う冷たさがそのまま映り込んでいるように見えた。
「こんな天気の日に……そんなことをしていれば、手が冷えてしまいます」
近寄るなり、そう言って彼は棚の上段に目をやり、彼女の手から重たい本をすっと取り上げた。腕に力を込めることなく軽やかに脇へ置くと、落ち着いた声で告げる。
「僕がやりましょう。あなたは下の段を」
その声音には押し付けがましさはなかった。ただ自然に、当然のように役割を分け与え、彼自身が淡々と布を手に取り作業を続ける。
戸惑いを抱えたまま、アランは梯子から降りた。指の冷えを感じながら書物の表紙を拭き続ける。二人の間に流れる時間は静かで、雨音が遠くから響き、部屋いっぱいに柔らかなざわめきとして充満していた。
やがて、不意に声が落ちてきた。
「……入学の準備は、進んでいますか?」
何気ない調子で投げられた質問。だがその響きには、彼女の内側へまっすぐ届く針が隠されていた。
「ええ……少しずつ」
アランは布を動かし続けながら答える。呼吸がわずかに乱れ、返事は自分の耳にも小さく響いた。
「制服も、新しいものを……」
そう応じると、すぐに続いた声は淡々とした断定形だった。
「スリザリンのものですね」
それは疑問ではなく、未来を既定の事実として告げた響きだった。
選択肢など存在しない——そこにあるのは「当然」の道だけだと示す言葉だった。
アランは視線を伏せ、胸の奥に小さな締めつけを覚えた。
「……はい」
約束を口にするように応じる。その声の裏に、抗うことのできない重みを感じながら。
レギュラスは短く息をつき、微笑んだ。
柔らかなその表情は、外の雨を忘れさせるような穏やかさで彩られていた。
「良かった。僕は……あなたと同じ寮で過ごしたいと思っているんです。ずっと傍にいられるから」
声の端々には優しさが漂い、聞く者に安堵を与える響きをしていた。
けれどその「傍にいる」という言葉は、アランにとって少し違った重みを持って胸に落ちた。
それは温かな庇護の約束でもありながら、同時に——逃れられない囲いを意味しているようにも思えた。
外の窓を打つ雨脚がさらに強まり、音は図書室の中までひびいて、静かな世界を完全に支配した。
屋敷全体が雨に沈む午後、アランは知らずに呼吸を浅くしていた。
胸の奥を満たすのは、優しさと束縛がないまぜになった重たい静けさ。
その狭間に立たされていることを思い知らされながら、彼女はただ静かに磨き続けるしかなかった。
レギュラスが廊下の奥へと姿を消してから、それほど時間は経っていなかった。
静まり返った屋敷は雨の音に包まれていた。屋根や窓を打つ無数の雨粒はまるで大地全体を濡らし沈めるようで、湿った冷たさが家の内にも忍び込んでくる。
その一様な音が、突如として乱れた。
荒々しく叩きつける靴の音、そして重たい玄関の扉が外から押し開けられる響きが重く響き渡る。
「……シリウス!」
アランは思わず声を上げ、駆け寄った。
そこに立っていたのは、雨に濡れそぼったシリウス・ブラックだった。
漆黒の髪は額に張りつき、滴が頬を伝い落ちる。制服の上着は過剰に水を吸って重々しく体にまとわりつき、肩からはしずくが絶え間なく落ち床に濡れ跡を作っていた。靴先からも水が滴り、彼の足元に小さな水たまりがひろがっていく。
「まさか——ホグワーツを抜け出してきたの?」
アランの問いかけに、シリウスは一瞬の迷いもなく頷いた。
「そうだ」
悪びれる気配など露ほどもない。その顔にじわりと広がるのは、少年らしいいたずらめいた笑み。瞳には炎のような光が宿り、全身が「自由」という名の熱で貫かれていた。
「怒られるわ、こんなこと……」
小声で告げるアラン。
だがシリウスは肩をすくめ、ひとつ息をつくように軽やかに笑った。
「そんな事、バレた時に考えればいいんだよ」
あまりにも奔放な言葉。なのに、不思議と胸の重みを削り取る。
呆れと同時に、心がふっと緩んでいくのをアランは止められなかった。
気づけば彼女は近づき、濡れた前髪をそっと指先でかき上げていた。
冷えた水滴が指先を滑り落ち、シリウスの額に煌めきを残す。
近すぎる距離。だがその触れ合いに、怖れより先に安心と強い魅了があった。
——この人のこういうところ。
恐れを知らず、決して躊躇わず、いつだって真っ直ぐに自分の望む方へ足を運ぶ。
その自由さに、心はどうしようもなく惹かれていく。
「……会いにきたんだ、アラン」
ふいに告げられた言葉に、胸の奥が弾けた。
全身を熱が駆け上がり、思わず目を見張る。
アランは驚きに揺れながらも、次の瞬間には微笑を浮かべて何度も何度も頷いていた。
ただ「会いにきた」。
それだけの飾り気もない言葉なのに、シリウスが口にすると、最上の贈り物のように思えた。
胸の鼓動は速さを増し、血が熱を帯びて全身を流れるのを感じる。
雨に冷えきったはずの空気の中で、自分だけがひどく温かい。
それはシリウスだからこそできることだった。
眩しく、掻き消せないほど鮮烈で、真っすぐで。
その光に触れた心は、もうどこまでも引き込まれていくしかない。
アランは改めて悟った。
——この光から自分は目を逸らせない、と。
外の雨は変わらず降り続いていた。
けれど二人の間を包む空気は、その雨をすべて溶かし尽くすほどに温かかった。
廊下の角を曲がったとき、不意にアランの姿が目に入った。
翡翠色の瞳は前を向き、うつむきがちに黙々と歩を進めている。
肩口から袖口にかけて、生地が薄く濡れていた。冷えた空気がわずかに纏わりつき、髪の束の先にも、小さなしずくが光を拾った。
——雨の中に、出ていたのか。
レギュラスは思わず眉を寄せる。
使用人である以上、彼女が雑務に従事するのは当然のことだ。
それでも、できる限り負担のかかることは避けさせたいと彼の心は告げる。
重い荷物は自分が持てばよい。冷たい雨や風に晒されるだなんて、本来アランが引き受ける必要はないのだ。
あの美しい手は、いつまでも柔らかく綺麗なままであってほしかった。
翡翠の瞳には、澄んだ輝きのままでいてほしかった。
疲れや苦労の影を帯びた姿など、彼女に重ねたくはなかった。
そんな想いが胸の内をよぎる。
アランの姿が廊下の奥へ消えていくのを見届けると、レギュラスは何気ない足取りで逆に玄関の方へ向かった。
そこで、ふいに足が止まった。
石畳の床。重厚な扉へと続くその場所に、濃い水の跡が点々と残されていた。
見慣れない乱れではなく、はっきりと形を示す足跡。
雨で濡れたばかりの靴底が押し付けられてできた痕跡は、まだ乾ききらず暗い色で床を染めていた。
一瞬で理解する。
足跡の大きさも、形も。
——シリウス。
その名が脳裏に浮かんだ刹那、胸の奥でひやりとしたものが広がった。
つまり。
アランは——自分の知らぬところで、シリウスと会っていたのだ。
外の雨の中から。屋敷を越えて。
それは疑いというより、冷えた理解に近かった。
確かにそうだと、理屈より先に心は悟ってしまった。
理解と同時に、身体の芯からゆっくりと冷気が降りてくる。
内側を満たしていた熱はしゅるしゅると消え去り、代わりに残るのは鈍い痛みだった。
何かに裏切られたようだ、と。
そう感じる自分がいた。
本当はそんな風に思いたくはなかった。
理由もなく彼女を疑うことなどしたくなかった。
けれど、自分の心はすでに彼女を「傍に置く」ことを当然としていた。
それは未来の約束のように、避けようのない前提として心に根を張っていた。
そして今、その「前提」にほころびが走った。
わずかな綻び。
だがその小さな穴が、想像以上に胸を抉り取っていく。
玄関の扉の隙間から、雨音が低く響いてくる。
重く途切れず、絶え間なく降り続くその音。
それが、まるで胸の奥で確かに降り始めた冷たい雨の音と重なっていた。
心の深淵にしとどに濡らしていく冷雨は、止む気配を一切見せず、静かにしかし容赦なく、彼のなかを濡らし続けていた。
夕刻、雨は幾分弱まっていた。
しとしとと滴る音が遠のき、屋敷の中には洗い立ての床のにおいがしっとりと漂っていた。磨かれた石の表面にはまだ水の薄い跡が残り、小さな光を反射しては黄昏の気配を映し出す。
廊下の端、アランは両の手に柔らかな布を持ち、花瓶を丁寧に磨いていた。
白い花を活けたその器の口もとを拭くたびに、花弁がわずかに揺れ、淡く甘やかな香りが空気に滑り込んでいく。雨に湿った屋敷の空気を、ひととき清らかに洗い流すようだった。
「…… アラン」
背後から名を呼ぶ声が落ちた。灯りに照らされた影が伸び、アランは振り返る。そこに立っていたのはレギュラスだった。
整った黒髪、きちんとした佇まい。けれど昼間見かけたときの彼よりも、表情はわずかに硬さを帯びていた。にもかかわらず、唇だけは礼儀として保つ微笑の形を崩していない。その笑みは優しさを彩う仮面でもあり、奥に潜む感情を覆い隠していた。
「今日は……外に出ていたのですか?」
何気ない調子で、まるで天候を問うかのように口にされた言葉。
アランは瞬きし、ささやくように答える。
「ええ……少し、用があって」
その答えに、レギュラスは一歩、ほとんど音もなく近寄った。
距離が急に縮まり、空気の温度が変わったようにアランは感じた。背筋を流れる冷たい筋と、不思議な熱が同時に生まれる。
「僕に言えばよかったのに」
声は穏やかで、耳に優しい響きだった。だがその奥には何か揺るぎないものが潜んでいる気配があった。心遣いの仮面に覆われながらも、その言葉は逃がさない縄のように重く響く。
「……重いものや、大変なことがあれば、僕が代わりにやります。あなたの手も、そんなふうに濡らす必要はない」
アランは微笑みで返そうとした。いつもなら「ありがとう」と口に出して、優しさを受け入れることができただろう。
けれど、その眼差しに射抜かれた瞬間、言葉は胸の奥で止まり、吐息のみに変わった。
感謝と安堵のはずなのに、軋む。
心配か、それとも——監視か。
静かな疑いが彼女の胸の奥を締め付けた。
レギュラスは花瓶を受け取り、自らの手で布を滑らせ始めた。繊細な手の動きは落ち着きに満ち、誰から見ても親切で丁寧な振る舞いだった。だがアランの心はなぜか安らげなかった。
「もうすぐ新学期ですね」
ふと彼が話題を変える。口元は笑みを保っていたが、その瞳の奥は曇りのない月光のように冷えていた。光を放ちながら、同時に相手を凍らせる。
アランが目を逸らした瞬間、彼は言葉を重ねた。
「……同じ寮なら、いつでもあなたの傍にいられます」
柔らかい声だった。優しい言葉だった。
なのに、その響きが胸を温めるのではなく、きゅっと締めつける留め具のように感じられる。
なぜだろう。
すでに理由は分かってしまっていた。
声に込められているのは庇護だけではない。
その奥に潜んでいるのは、手放さないという決意。選べない未来をさりげなく告げる宣言。
アランは自分の胸が重くなるのを感じた。
それは決して憎しみではない。
けれどやわらかな言葉の中に逃げ場のない囲いを見てしまう自分の心が、苦しかった。
外の窓辺を見やると、再び静かな雨が降り始めていた。
夕暮れに弱まりを見せたはずの雨粒が、静かに大地を打つ音を響かせる。
その規則正しい音は、二人の間の沈黙の中にくっきりと浮かびあがり、やけに鮮明に聞こえてきた。
心臓の鼓動と雨音が微妙にずれながら重なり、アランは自分の浅い呼吸をそっと押し隠すように花弁を見つめた。
その白さは、今にも濡れて落ちてしまいそうに脆く感じられた。
