1章
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ふと、胸の奥に小さなざわめきを感じて、アランは目を覚ました。
深夜の部屋は、息をひそめたような薄闇に包まれている。窓の外には月も見えず、厚いカーテンが夜気を遮っていた。だが、燭台に残された蝋燭がまだわずかに燃え続け、溶けた蝋を伝う炎が、部屋の端々をぼんやりと照らしている。光はゆらめき、壁に映る影は伸びたり縮んだりして、静寂の中にひそやかな動きを刻んでいた。
目が慣れてくると、アランはそこに異質なものを見つけた。
ソファの下、床の上に、レギュラスが身を小さく丸めて眠っている。まるで夜の寒さに耐える小さな動物のように、膝を抱き、頭を腕に埋め、穏やかに寝息を立てていた。
――なんてこと。
思わず胸が締めつけられる。自分は柔らかなソファに横になり、眠り込んでいたというのに、彼はそのまま転げ落ちるように床で寝入っていたのだ。
「……レギュラス。起きてください。こんなところで寝ては、体を悪くしてしまいます」
かすれた声で呼びかけ、急ぎソファから身を起こして彼のそばへ膝をつく。
その姿に、胸の奥で別の思いが疼いた。
――床で眠るくらいなら……私を落としてしまえばよかったのに。
使用人である自分にソファを譲り、自分は床で眠るだなんて。ほんの些細なこと、なのにどうしてこうも胸を苦しくさせるのだろう。レギュラスは決して完全な支配者ではなく、こうして時折、自分を傷つけるほどの優しさを見せてしまう。それがかえって、胸の奥に冷たいひび割れのような感情を残す。
彼の肩にそっと手を置き、揺すった。ゆっくりと瞼が開かれる。
灯りの中で、ふにゃりと笑ったその顔を見て、アランははっと息をのんだ。
――寝起きの彼は、あまりに幼い。
人を縛ろうとする影も、支配しようとする鋭さも消え、ただ少年の頃のままの、純粋であどけない笑み。ほんの少し長い前髪が頬にかかり、無防備な瞳がゆらりと揺れる。あの頃、無邪気に笑っていた少年の面影が、たしかにそこにあった。
「……もう朝なんです?」
かすれた声で問う彼に、アランは小さく首を振る。
「いえ、まだ夜中です。……自室に戻って、ベッドでお休みください」
「……ええ、そうします」
そう口にしながらも、彼はそのまま床に横たわろうとする。眠気に負けて、身体がいうことをきかないのだろう。
「レギュラス、お願いです。……せめてベッドで」
思わず、その腕を両手で引っ張っていた。
本当は、自室に戻ってほしい。けれど、このまま床に突っ伏して再び眠りに落ちられるくらいなら、自分のベッドを使ってもらった方がまだましだと思った。
眠気ににじむ彼の瞳は、緩やかに揺れ、されるがままに従うようだった。その姿は、強引に未来を描こうとする男ではなく、ただ眠る少年に戻ったかのようで―― アランの胸に、静けさと苦さを同時に刻み込んでいく。
燭台の炎が小さく弾け、影がふたりを包み込む。静寂は深まり、夜の深みの中で、ふたりのあいだに淡い温度だけが、確かに残っていた。
やわらかに引かれるまま、レギュラスはアランの寝台に身を沈めた。
片手で布を軽く払いながら、ためらいもなく安らぎを求めるその姿は、もはや大人の威厳も、未来を縛ろうとする冷徹さも消え失せ、ただ疲れ果てた一人の少年のように見えた。肩の力が抜け、細い体がふんわりと布団に沈み込む。
「……もう。やっぱり子どもみたい」
アランの胸の奥から、そっと漏れる呟き。
その声は夜の静寂に溶け、誰の耳にも届かない。レギュラスはもう、深い眠りの縁に立ちかけていた。胸がぎゅっと詰まる。
本来なら、彼は自室に戻るべきなのだ。床に寝るくらいなら、少しでもマシな場所をと許してしまうなんて、本来はあってはいけないことなのに。アランは、ほんの少しの情けと、哀れみに似た優しさでその行動を許してしまった。しかし、その「許し」は、結果としてまた一つ、自分が譲歩したことを意味している。胸の奥に微かな苦みが広がった。
ベッドの端に腰を下ろしても、眠気など訪れなかった。
静まり返った夜の中で、レギュラスの規則正しい寝息が、まるで鼓動のように大きく耳に届く。視線を落とすたび、憎みきれない想いが胸を締めつける。
無防備に眠るその横顔は、少年時代と何も変わらない面影を宿していた。ひたむきで、真っすぐに、自分を慕い続けた少年の姿。だからこそ、アランの中に、つい庇いたくなる弱さが生まれる。けれど――駄目だ。冷静に考えれば、あの人は父と母を道具のように使い、自分の未来を囲い込んでいた。胸の奥で、愛しいと感じる自分と、憎しみを抱く自分が絡み合い、離れない。
――シリウス。
閉じた瞼の裏に浮かぶその笑顔は、眩しいほどに明るく、温かい光だった。名前を心で呼ぶだけで、胸の奥に柔らかな熱が灯り、呼吸までも温もりを帯びる。あの人と過ごした時間、偽ることなく笑えていた自分、自由に走り回った記憶。指輪の輝きを指先に感じた瞬間の幸福。その全てを、アランは忘れまいと心に刻んだ。
「……忘れない」
かすかに漏れた声は、自分自身への誓いであり、呪文のようでもあった。どれほど絡め取られようとも、あの光を胸の奥に留めておく――それだけが、アランをアランとしていさせる唯一の術だった。
眠るレギュラスの寝息に、微かな呼吸の揺らぎが混じる。温もりが伝わるたび、胸の奥に小さな熱がゆらりと灯り、広がる。夜は深く、静かに、部屋を包み込む。闇と光の狭間で、アランはただその温もりと自分の想いを抱きしめ、夜が明けるのを待った。
――眠れぬ夜。
けれど、この夜こそが、アランにとって未来を誓う夜になっていた。
翌朝、目を覚ましたレギュラスは、身体の至るところに鈍くも鋭い痛みを感じていた。
肩をわずかに動かすだけで、針で刺されるような疼きが走り、背を伸ばせば骨の奥に軋むような痛みが響く。床の硬さに体が馴染まず、昨夜の疲労が遅れて訪れたかのようだった。
――しかし、それでも心は澄んでいた。どこか満ち足りて、穏やかな温もりに包まれている。
昨夜、アランと奥深くで繋がり合えた瞬間の記憶が、胸の奥で小さな芽を伸ばし続け、痛みを甘美な余韻に変えていた。まるで、身体の苦痛さえも幸福の証のように思えた。
朝の食卓は、いつも通りの静謐な空気に包まれていた。だが、レギュラスの胸中には小さな高鳴りがあり、他の誰にも気づかれぬ幸福を噛みしめていた。
「寝違えでもしたか」
オリオンの落ち着いた声が、朝の穏やかな光の中で響く。
「どこか痛むのですか」
傍らのヴァルブルガも、心配そうに問いかける。
レギュラスは柔らかく微笑み、首を軽く横に振った。
「いえ、大したことではありません。……おそらく、そのようなものです」
何気ない言葉に装い、穏やかな表情で返す。外から見ればただの世間話に過ぎず、昨日の夜の出来事が何事もなかったかのように振る舞っている。しかし胸の奥では、静かに、そして確かに祝福のような幸福が満ちていた。誰にも触れさせたくない、密やかな喜び――。
朝食を終え、アランが食器を片付ける後ろ姿を見て、レギュラスはそっと近づいた。
「…… アラン。背中が痛いのです」
小さく告げた声に、アランは振り返ることなく答える。
「……そうでしょうね」
冷たい響きの言葉。だが、瞳の端には、振り向くことなく隠しきれぬ心配の色が滲んでいた。その矛盾こそが、レギュラスの胸に甘く響き、心を高鳴らせる。
「……あとで、痛みを抑えてくれるお茶を淹れます」
淡々とした調子に見えるが、そこには確かな気遣いが宿っている。その一言は、何よりも尊く、胸に染み渡った。
抑えきれぬ衝動に駆られ、レギュラスは背を向けて作業をしていたアランの腕をそっと取った。少しの驚きに気づきながらも、アランの手を自分の両手で包む。
そして、いつもの習慣のように、親指で甲をやさしく撫でる。
「…… アラン」
ただ名前を呼ぶだけの簡単な言葉。だが、その声音には、すべての感情が込められていた。執着、愛、独占欲――甘く、逃げ場のない響き。胸の奥から滲む熱のすべてを、レギュラスは確かに感じ取り、心の奥底で噛み締めていた。
その瞬間、静まり返った朝の光の中で、二人の世界は微細に震えた。言葉は少ない。しかし、互いの距離、触れる指先、交わる視線――そのすべてが、言葉以上の意味を持って響く。
幸福の余韻が静かに広がり、胸の奥を柔らかく満たしていく。
トレイの上に湯気を立てるカップを慎重に載せ、アランは廊下を静かに歩いた。
朝の光がまだ柔らかく差し込む屋敷の廊下は、ひんやりとした空気に包まれていた。けれど、胸の奥に残るざらついた感覚は、時間が経っても消えてはいなかった。
昨夜――彼を床で眠らせてしまったことの罪悪感が、まだぬぐえずにいた。
たった一瞬の油断のはずだった。それでも使用人としてあるまじき失態のように思え、アランは無意識に自分を責め続けていた。床で眠るレギュラスの肩や背中を思い浮かべるたび、胸がきりりと痛む。
だからこそ、この手にしたカップは、ただの飲み物ではなく、償いの一つとしての意味を帯びていた。せめてこの温かさで、少しでも痛みや疲れを和らげてほしい――その気持ちだけが、彼女を廊下の奥へと動かしていた。
――決して、彼の愛情に応えたいわけではない。
レギュラスの純粋な想いをそのまま受け取ることなど、今のアランには到底できない。これはあくまで、出来る範囲での「償い」だ。
扉の前で小さく息を整え、ノックを打つ。
「……レギュラス。お茶を淹れました」
淡々と告げるその言葉は、無機質に響くはずだった。実際、これまでにも幾度となく差し出してきたものだ。オリオンにも、ヴァルブルガにも、使用人として当たり前に行ってきた行為。特別なことではないはずなのに――胸の奥に、思わずざわつく何かが芽吹く。
扉の向こうで振り返ったレギュラスの顔は、目に見えて柔らかく綻んだ。
その表情はまるで、宝物を差し出されたかのような純粋な喜びに満ちている。口元に浮かぶ微笑みは、眩しいほどの温度を帯びていた。
「一緒に……飲みましょう」
柔らかく、弾んだ調べを含む声が、静まり返った部屋に優しく響く。アランの胸がぎゅっと締め付けられる。
ただ茶を淹れただけ――それ以上でも以下でもないはずなのに。なぜ、たったこれだけのことに、こんなにも露わに喜べるのだろう。
その表情を見て、胸の奥に罪悪感が重くのしかかる。
拒むことも、受け入れることもできず、「償い」と割り切って差し出した一杯が、彼にとっては確かな愛情の証として映ってしまう――そのすれ違いの切なさに、胸が締め付けられる。
湯気立つカップの向こう、二人の間にはまだ温度差の溝が深く横たわっていた。
その溝を前にして、アランは静かに息を整え、手にした温かさを差し出すしかなかった。目の前の微笑みは、幸福そのもののようで、しかし自分には触れられない遠い光――そんな複雑な感情が胸の奥で交錯する。
小さな湯気が揺らめき、香りが二人を包む。けれど、アランの心の中には、温もりと痛みが入り混じったまま、まだ消えない緊張と迷いが残っていた。
列車の車輪が軋むようなきしみを上げ、ゆるやかに線路を滑り出す。
窓の外の景色は後ろへと流れ、森の緑も湖面の光も、まるで夢のようにすれ違っていく。長い道のりを刻むリズムは、静かに心を揺らすだけでなく、何かを思い返させる。
個室の中で、アランは窓際に腰を下ろし、透き通る景色に目を落としていた。瞳には疲れが色濃く映り、眠気や緊張、そしてほんの少しの不安までをも隠さずにいる。
その隣にレギュラスが静かに腰を下ろした。長いローブの陰で、そっとアランの手を握る。布に覆われたその手は外からは見えない。だが隣り合わせで伝わるぬくもりは、確かで、誰にも奪えないものだった。
「…… アラン。もしかして、眠たいですか?」
低く、囁くような声。わずかに震えが混じるその問いかけに、アランは小さく答える。
「……少しだけ」
声はか細く、瞳は伏せられたまま。疲れを隠す気すらない素直さが、胸をぎゅっと締めつける。
「寝てください。着いたら、必ず起こしますから」
微笑みとともに告げるその声音は、温かく、そして軽やかだった。
出発の前夜、アランはいつも通り屋敷で使用人としての務めを果たし、その後必死に荷物を詰め込んでいた。寝不足も無理はなかった。
一方で、レギュラスは準備を済ませた後も、何度も杖を奪い、ちょっかいをかけては笑った。あの日の瞳の輝きは、いまや少しだけ沈んでいて、見つめるたび胸が痛む。
――そして、あの夜のことも。
「……昨日は、すみません。本当に」
ぽつりと、言葉が零れる。
荷物を整理していたアランの手から杖を奪い、隙をついて抱き寄せた。
その一連の行為に、後悔はない。決して止めたくはなかった。
けれど、いま思う――出発前日に、あれほど踏み込むべきではなかったのではないか。
乱してしまった彼女の眠りを想い、胸の奥に小さな棘が刺さる。
それでも、心の奥は甘美に満たされていた。
アランを腕の中に抱き、手のひらで感じた温度が、指先にまで柔らかく残っている。思い出すだけで、全身が幸福に染まり、まるで温かい光に包まれているようだ。
列車はリズムよく揺れる。窓の外の景色が次々に後ろへ流れ、森や丘や湖の光景が夢のように通り過ぎていく。アランは握られた手をそっと胸に押し当て、瞼を静かに閉じた。
微かな寝息が混ざり、かすかな体温が伝わる隣で、レギュラスは視線を外さずに見守る。目を閉じたアランの髪の柔らかさ、肩の力の抜けた曲線、眠りに落ちかけた呼吸のリズム。すべてが手のひらに伝わり、胸を静かに、深く満たしていく。
――いま、この瞬間を、大切にしたい。
ホグワーツに到着すれば、二人きりの時間はほとんどなくなるだろう。
だからこそ、この列車の中で過ごす一刻一刻が、何よりも尊い。
握った手の温度を心に刻みながら、レギュラスはそっと息を整える。外の景色が流れ続ける中で、窓越しに差し込む朝の光も、二人を柔らかく包み込む。
揺れる列車の音、微かな振動、カップのように立つ静かな湯気――すべてが、この小さな幸福を確かに現実として刻んでいた。
レギュラスは、瞼を閉じたアランをそのまま抱きしめ、心の奥で、ただ静かに祈るように思った。
――どうか、このひとときが、永遠に続きますように。
コンパートメントの扉が、まるで息をひそめるかのように静かに開いた。
その音に気づいたレギュラスが視線を向ける前に、立っていたのはバーテミウス・クラウチだった。
鋭い目が、無言のままアランの眠る姿を捉えている。窓際で静かに身を沈め、呼吸のリズムだけが淡く揺れる少女の寝顔。
言葉はなくとも、クラウチの視線には問いが込められていた。
――「一緒してもいいか?」
レギュラスはそれを受け止め、返すのも言葉ではなく目線で応じる。向かい側の空いた座席を、顎で軽く示しただけだった。
バーテミウスは淡い微笑を浮かべ、音もなく腰を下ろす。仕草は軽やかで、けれど無駄がない。列車の揺れに合わせて背筋を正す様子には、自然な自信が宿っていた。
「……女生徒たちを振り切ってきたんですか?」
低く抑えた声で、レギュラスは問いかけた。
乗車前、数人の女生徒に囲まれる彼の姿を目にしていたからだ。周囲の気配を振り切ることなど、さほど難しいことではないだろう。しかし、目の前の状況に、胸の奥で漠然とした危惧が芽生えた。
バーテミウスは片眉を上げ、わずかにいたずらめいた笑みを浮かべる。
「いや……そろそろ、ちょっとキツくなってね」
声は軽やかだが、肩の力を抜いたその様子には、確かな自制が感じられた。
「……そうですか」
レギュラスは小さく頷く。だが、胸の奥にはまだ微かな緊張が残っていた。
「……終わった直後、というわけじゃないでしょうね」
皮肉をわずかに交え、問いの響きに警戒を混ぜる。
クラウチは肩をすくめ、軽やかに手を振った。
「まさか。さすがに列車でなんて、不埒な真似はしないよ」
その言葉に、レギュラスの胸にほっとした安堵が走る。――この男なら、やりかねない。芝居がかった仕草も、女生徒に愛される巧みな言葉も、自然に演じることができる。
だからこそ、真剣に一瞬、疑ったのだ。だが今は、その危惧がゆっくりと溶けていく。
しばし、列車の揺れに合わせて沈黙が流れる。
アランは眠ったまま、まるで何も知らないかのように静かだ。その寝顔を前にすると、周囲の緊張も、心の棘も、ほんのひととき和らぐ。
「……君は」
ふと、バーテミウスが声を潜める。
「セシール嬢を、妻にするつもりなのかい?」
言葉は軽やかだが、瞳の奥には探るような鋭さが潜んでいる。
レギュラスは目線を外さず、静かに答えた。
「……まぁ。そんなところです」
即答でも長考でもない。その自然な言葉の裏に、確固たる意思の強さが滲んでいた。
バーテミウスはゆっくりと頷き、口元に微かな笑みを浮かべる。
“どうやって”と深入りせず、あえて境界線を保つ。その距離感の取り方に、レギュラスは内心で敬意を抱く。
その沈黙の間にも、互いの目は多くを語り合い、言葉以上の含みを交わしていた。
窓の外。緑の森、川面に反射する朝の光、遠くの丘。景色は絶えず変わり、列車の揺れとともに時間は流れていく。
コンパートメントの中。二人の少年は、アランの安らかな寝顔を前にして、胸の奥で算段を巡らせ、微笑みの裏に計算と信頼を押し隠していた。
そして誰も口にせずとも、確かに伝わるものがあった――この小さな個室の中で交わされる、静かな絆と、守るべきものへの責任。
列車は一定の律動を刻みながら、静かに線路の上を滑るように走り続けていた。
遠くに広がる丘陵は淡い緑色の絨毯のように揺れ、空には柔らかな白雲がゆっくりと流れている。窓の外の景色は、眠りから覚めかけた少女の意識に、穏やかな色彩をそっと添えていた。
不意に、アランがかすかに身じろぎをした。
長い睫毛が震え、まぶたがゆっくりと開かれていく。微かな呼吸の変化まで感じ取れるほどの静寂の中で、その仕草はまるで朝の光が窓から差し込むように、車内の空気を柔らかく変えた。
その気配に、レギュラスとバーテミウスは同時に言葉を止めた。
つい先ほどまで、互いの胸の奥を計りあうような、緊張に満ちた会話を交わしていたはずだった。しかし、彼女の視線がこちらへ届いた瞬間、その場の緊張は音もなく溶け、まるでなかったかのように空気が変わる。
レギュラスは、握っていたアランの手をそっと緩める。
手の位置をほんのわずかに整え、まるで最初から彼女を護るために繋いでいたかのように見える仕草。小さな行為に込められた、深い気遣いと隠された優しさ。
バーテミウスもまた、背筋を自然に伸ばし、軽やかに微笑む。その微笑みは涼やかで、しかしどこか探るような奥行きを含んでおり、観察眼の鋭さが静かに透けていた。
「……もう着きましたか?」
夢の余韻を含んだ声で、アランはそっと問いかける。その声はまだ眠りの温もりをまとい、柔らかく、心を溶かすようだった。
レギュラスは優しく首を振る。
「まだです。……眠れましたか」
「……ええ。少しだけ」
声はか細く、微笑みとともに震えていた。その姿を、レギュラスはゆっくりと見つめる。長い睫毛の影、緩やかな肩の動き、柔らかに染まる頬――すべてが彼の胸を静かに揺さぶった。
バーテミウスが軽く口を開く。
「良い夢を、見ていたようですね」
その言葉は穏やかに響くが、わずかに探るような含みも感じられた。視線の端に潜む計算、微かな距離感の測り合い――二つの世界が交差する刹那。
だがアランは、それに気づくこともなく、ただ頬を赤らめて小さく微笑む。無邪気な少女の表情。列車の揺れとともに、彼女の眠気と覚醒の間の儚いひとときが、車内に静かな温度をもたらした。
先ほどまで、互いに交わされていた言外の探り合いは、彼女の視線が開かれた瞬間にすべて消え去り、跡形もなく隠された。
――二つの顔を持つ青年たち。
一方では政治や権力の駆け引きを思案する青年、もう一方では、少女の前で柔らかく振る舞う学友。
その落差を、アランは知らず、窓の外に広がる空の淡い色を眺める。目の前の静けさと景色の明るさの中で、まだ何も理解していない彼女の存在は、二人の思惑をより際立たせていた。
列車の揺れが緩やかに響き、微かに軋む車輪の音が二人の間に溶け込む。互いの呼吸や指先のわずかな動きさえ、言葉以上に多くを語るひととき――。
アランが眠る窓際の空間は、無垢な時間のまま、静かに、しかし確かに、二人の世界を隔てる膜を柔らかく包み込んでいた。
新しい学年が始まり、寮内に漂う空気はひと際引き締まっていた。朝の冷たい光が窓から差し込み、廊下の石畳を淡く照らす。静寂の中に、遠くでかすかに聞こえる靴音や声が、すべてを静かに押し流していくようだった。
シリウスは最終学年となり、闇払いへの道を目指して日々鍛錬を欠かさない。彼の背は誰よりも頼もしく、しかしどこか危うさをも帯びていた。剣や魔杖の扱いに精通しながらも、まだまだ少年の面影を残す瞳が、時折心配をもたらす。
――どうか、彼が彼らしく歩んでくれますように。
信じるしかない。待ち続けるしかない。けれど、会えぬ日々が重なれば重なるほど、不安が胸に積もり、冷たい空気に一人取り残されたような孤独が、じわりと心を蝕んでいった。
そんな時間の隙間に、ふとレギュラスの存在が、不意に大きく膨らんでいく。望んでいたわけではないのに、意図せず彼との距離は少しずつ縮まっていった。微妙な心の揺らぎを、アランは感じずにはいられなかった。
「…… アラン。これを」
レギュラスの静かな声が、空気に溶けるように届く。腕に抱えられていたのは、深い緑の生地に銀の刺繍が流れる華やかなドレスだった。スリザリンの色を濃く映した衣装は、光を受けて淡く煌めき、周囲の光景を吸い込むかのように鮮やかだった。
「これは……?」
問いかける声には、驚きと戸惑いが混ざる。手元でそっと布を撫でる指先は、緊張でわずかに震えていた。
「僕のための宴でね。シーカーとしての勝利を祝う。アラン――君に、僕の隣に立って欲しいんです」
その言葉は、まるで風のように柔らかく、しかし決して揺るがない強さを帯びていた。胸の奥がひりつく。選ばれるのは光栄なこと。だが、胸の奥で待ち続けてきたのは、他の誰でもない、シリウスへの想いだった。
「……あなたのための宴なのに。私が隣でいいのですか?」
戸惑いと不安を抱えた声に、彼は一歩近づき、迷いなく答える。
「……あなたがいいのです」
真っ直ぐで、曇りのない声。指先まで感情が届くような静かな強さがあり、アランの胸に直接刺さった。目の奥まで届く純粋な好意。汚れなき、曇りなき想い。
アランは一瞬、胸が痛くなった。シリウスを待ち続ける自分がいる。けれど、今差し出されているのは、他の誰にも負けないほどまっさらな愛情だった。彼の指がそっとドレスの裾を撫で、銀糸の刺繍を揺らす。その視線の中には、自分しか映っていない光が宿っていた。
――この手を、取らないわけにはいかない。
胸に迫る温かさと、重みを感じながら、アランはゆっくりと頷く。布に触れる指先から伝わる質感は、驚くほど柔らかく、しかし確かな重みをもって心に落ちていった。まるでこの瞬間だけで、世界のすべてが静止したかのような感覚。
胸の奥でざわめいていた感情の波が、静かに落ち着きを取り戻す。その一方で、シリウスを想う切なさは消えない。だが、今はただ目の前にいるレギュラスの真っ直ぐな眼差しと、差し伸べられた手を信じるしかなかった。
空気は温かく、静かに、二人を包み込む。互いの呼吸を意識しながら、アランはその手をそっと握り返した。彼の瞳に映る光を、そっと胸に刻むように――。
祝宴の広間は、光と色の洪水に満ちていた。天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが煌めき、壁面に掲げられたスリザリンの紋章が、薄緑と銀色の光を反射して揺れる。石造りの床に響く足音や歓声が、場内の空気をさらに熱く、活気に満ちたものにしていた。
その中心に立つレギュラス。勝利者として称えられる彼の姿は、まさに英雄のようであった。端正な横顔は光を受けて凛々しく輝き、誰の視線も自然と引き寄せる。肩の角度、背筋の伸び、微かに動かす唇の仕草――すべてが、称賛に値する存在であることを静かに語っていた。
アランはその隣に立ちながら、胸の奥にひどくざわめきを覚えた。視界の端で煌めく衣装、祝声に包まれる彼の姿。それらすべてを目にして、心は言い知れぬ複雑な感情で満たされる。
――彼の勝利を、心から祝いたい。
純粋にそう思った。戦いに全力を尽くし、仲間たちの歓声に応えてきた彼を讃えたい。その想いは確かにあった。しかし、胸の奥に沈む別の声が、どうしても消えない。
――シリウスの言葉。夜に差し伸べられた、「迎えに行く」という約束。 「一緒に生きていく」という未来。
その言葉の残像が胸にこびりつき、容易には剥がれなかった。彼の栄光の影に、他者への想いが重くのしかかる。どれだけ声を振り絞ろうと、それを隠さずにはいられなかった。
「……素晴らしい活躍でしたわ、レギュラス様!」
「本当にすごいわ!」
「さすがはブラック家の御曹司ね!」
広間中の歓声が渦となって押し寄せる。その波の中で、アランは自分の存在を実感した。隣に立つ以上、ただ無言でいるわけにはいかない。言葉を発さねば――胸の奥で、必死に声を絞り出そうとする。
喉が固く、言葉はもどかしく絡み合う。ようやく、かすかに漏れる声で口を開く。
「……おめでとうございます、レギュラス」
それは、わずか一言に過ぎなかった。周囲の歓声に押され、かき消されそうな弱々しい声。しかし、レギュラスは確かにその言葉を捕らえた。
「……ありがとう。――あなたにそう言ってもらえると、頑張ってよかったと思えます」
柔らかに微笑むその表情は、祝福の光を浴びた栄光以上に輝いていた。言葉の一つ一つを、彼は心の奥底まで噛みしめるかのように抱きしめる。
胸の奥が痛んだ。自分の声には、真に純粋な喜びはなかった。シリウスを想い続ける気持ちを必死に押し殺し、搾り出したのがその言葉だったのに。にもかかわらず、彼は疑うことなく、それをそのまま受け止めてしまう。
歓声に包まれた広間の喧騒の中で、アランの心は静かに軋み、痛みに沈んでいく。栄光と愛情の間で揺れ動く感情。祝祭の光に染まるレギュラスの笑みが、胸の奥の不協和音をさらに鮮明に響かせた。
それでも、目の前の彼の輝きと、隣に立つ自分の役割を意識しながら、アランはかろうじて立っていた。喉に残る痛みと胸のざわめきを押し込め、祝福の言葉を、ぎこちなくも心を込めて紡ぎ続ける。
が深緑のドレスを纏い、自らの隣に立っている――ただそれだけのことが、レギュラスの胸をこれほどまでに震わせるとは思ってもみなかった。
その姿は、勝利という栄誉に添えられた最高の贈り物のようだった。歓声と光の渦に満ちた広間の中央、己の名を讃える声が降り注ぐその場所で、隣に寄り添う少女はひときわ静かに、ひときわ鮮やかにそこに在った。
白磁のように滑らかな肌は、深い緑の布地に映えて、より一層透き通るように見えた。揺れる黒髪が薄明かりを反射して、細やかに煌めきを散らす。彼女の頬に浮かぶわずかな朱は、祝宴の熱気によるものか、それとも心の揺らぎによるものか。どちらにせよ、その色彩はレギュラスの心を底なしの愛おしさで満たしてやまなかった。
――幼い頃から渇望していた夢の結実が、今、こうして自分の手の届く場所にある。
胸の奥底から、強烈な確信が立ち上がる。もはや、彼女の手を引くことに一片の躊躇いもなかった。未来は明確に描かれている。その未来にアランは欠かせない。彼女を伴わずして、自分の人生を語ることなどできないのだ。
「…… アラン。一曲くらいは踊りましょう」
差し伸べられた自分の手を前に、アランは小さく眉を寄せた。
「踊れないわ。……そんなスキル、ないもの」
その声音には戸惑いと、わずかな羞恥が混じっていた。確かにそうだ。ブラック家の舞踏会で彼女は常に従者のように立ち働き、煌めくホールを舞うことは決してなかった。華やかな世界は、彼女にとって遠い場所だった。
――だが、自分は知っている。
ホグワーツの舞踏会で、彼女が兄・シリウスと共に踊ったことを。真紅のドレスに身を包み、彼の腕に導かれてホールを渡ったことを。
想像するだけで、胸の奥にざらりとした感覚が広がる。シリウスに預けた彼女の手の重み、彼の腕に抱かれたその姿。記憶として持たぬ光景であるにもかかわらず、妄想が容赦なく心を掻き乱す。
しかし――いまは違う。
アランは自分の隣にいる。自分の勝利を祝う場にいてくれる。自分が贈ったドレスを纏い、揺れる黒髪を光に染めながら、こうして共に立ってくれている。その事実だけで、胸の奥にあった苦い影が一瞬にして薄れていくのを感じた。
かつてシリウスがやってのけたことを、ひとつひとつ、自らの手で上書きしていく。彼の影に奪われたものを、自分自身の手で塗り替えていく。
そのたびに、これまで満たされなかった心の空白が、少しずつ埋められていく。彼女の笑みを引き出すたびに、彼女の隣を歩むたびに、深い孤独の淵に灯が差し込むように、確かな温もりが広がっていくのだ。
レギュラスは、アランの姿をまるで幸福そのものの結晶を見るかのように見つめ、静かに心に刻みつけた。
――これからも、すべてを上書きしていく。
彼女の隣に立つのは自分だと、誰も疑えぬほどに明確な事実へと変えていくのだ。
揺れる音楽と人々の歓声の中で、彼の瞳はただひとりの少女を映し出していた。その瞳に射抜かれるように見つめられながら、アランは言葉をなくし、わずかに頬を紅潮させる。
――その反応すらも、レギュラスにとっては胸を満たす甘美な証のひとつだった。
楽団の奏でるゆるやかな旋律が、会場に広がっていた。
人々の談笑の合間を縫って、幾組もの男女がステップを踏み始める。
祝宴に花を添える舞踏のひとときだった。
「…… アラン」
レギュラスは腕を差し伸べた。
「僕と踊りましょう」
アランは僅かに肩を竦め、困ったように視線を逸らす。
「……言ったはずです、踊れないと」
「大丈夫です」
短い言葉で、彼は否応なく彼女を引き戻す。
その声に込められていたのは圧ではなく、揺るがぬ確信だった。
やがて、アランは観念したように小さく頷き、そっとその手を重ねた。
レギュラスの腕に導かれ、一歩を踏み出す。
ぎこちない身振り。恐る恐る動かす足取り。
アランは何度も視線を落とし、まるで迷子になった子どものように進む方向を探していた。
だが、そのたびに彼の手がしっかりと支え、肩を抱く力が確かさを伝えた。
「……僕を見ていればいい」
囁くような言葉に、アランの瞳が上がる。
真摯な灰色の瞳がその先にあり、彼女の視線を離さず支えていた。
旋律の流れに合わせて、次第に一歩が形を取り始める。
足がもつれそうになれば、彼の腕がやさしく軌道を修正してくれる。
舞踏の作法など知らなくとも、彼が導く通りに身を委ねれば形になっていった。
周囲から拍手が小さく起こる。
祝福を受ける勝者と、その隣で緑のドレスを纏う少女。
二人はそれだけで、まるで絵のように見えていた。
――シリウスと踊ったあの日も、彼女はこうして導かれたのだろうか。
その想像が、一瞬胸を苛んだ。
けれど次に浮かぶ感情は、痛みではなく安堵だった。
今、彼女を導いているのは自分だ。自分がこの光景を上書きしている。
重なった手が鼓動を分かち合い、旋律の揺れと一緒に響いていた。
アランはまだぎこちなく、迷いを隠しきれていなかった。
けれどレギュラスにとってそれすらも愛おしく、確かな未来の兆しに見えた。
――綺麗だ。
誰かの呟きが、舞踏の輪の外から洩れた。
その声音は人混みに紛れて小さく消えていったが、不思議とレギュラスの耳にははっきりと届いていた。
アランを讃える言葉。
胸の奥に広がる共鳴のように、その響きは彼自身の想いと重なった。
――そうだ。自分もそう思う。
ずっと昔から。幼い頃から、彼女を見つめてきたあの日々から、揺るがぬ確信として胸に刻み続けている。
ふいに、胸裏にひとつの記憶が浮かぶ。
かつてアランの父、ロイク・セシールが、妻にとリシェルを望み、オリオンに嘆願した日。
その背に刻まれた熱望と必死さが、今の自分の姿に重なるように思えた。
――自分もまた、アランを渇望している。
そしていつの日か、父オリオンに同じように願い出るのだろう。
だが、その未来を恐れてはいなかった。
むしろ血に連なる営みの必然として、その宿命を肯定していた。
「…… アラン」
旋律に溶けるような声で名を呼ぶ。
「とても綺麗です」
短い言葉だった。けれどそこに込められた感情は計り知れず、彼の瞳は嘘ひとつなくまっすぐに彼女だけを映していた。
アランはわずかに瞬きをし、そして一拍遅れて微笑んだ。
「ありがとう。……でも、それはきっと、あなたが贈ってくれたドレスがあまりに美しいからだわ」
その声色は柔らかく、耳に心地よく響いた。
けれどレギュラスは静かに首を振る。
「いいえ。……あなたが着るからですよ」
その一言は、周囲の華やぎを一瞬忘れさせるほどの力を持っていた。
アランは小さく息を呑み、そして照れ隠しのようにふっと笑みを零した。
それ以上の言葉はなく、ただ頬にほんのりと紅を差しただけだった。
広間の中心に立つ二人に、視線が次々と注がれていく。
嫉妬、羨望、賞賛、探るような好奇心――そのどれもが渦を巻き、彼らを取り巻いていた。
けれどレギュラスは迷わなかった。
むしろ、その視線を遮るかのように、ためらいなくアランの頬に唇を寄せた。
触れた瞬間、ざわめきが広間を駆け抜ける。
驚き、息を呑む気配。囁きが波紋のように広がる。
だが、彼の耳にはもう届かなかった。
彼の内には揺るがぬ確信がある。
彼女は自分の未来だ。
周りのざわめきなど、ただの微かな風にすぎなかった。
「……レギュラス。人の目があるわ」
アランの声は小さく、たしなめるように響いた。
けれどその声音には怒りも拒絶も含まれてはいなかった。
ただ戸惑いと、少しの恥じらいが宿るだけ。
彼女の瞳を覗き込みながら、レギュラスは小さく笑みを零した。
「ええ。……でも、止められなくて」
アランはわずかに困ったように眉を下げ、それでも柔らかな笑みを浮かべる。
その表情は、拒絶には至らない。
むしろ、どこかで受け入れてしまっている。
――その愛らしさに、胸が熱く震えた。
歓声と囁きが交錯する広間のただ中で、レギュラスは誰にも遮られることなく、ただ彼女を見つめ続けていた。
その眼差しには、未来を掴む決意と、揺るぎない愛情とが、惜しみなく滲んでいた。
夜の帳が静かに降り、宴のざわめきが次第に薄れていく。
ホールに満ちていた喧噪と拍手は遠ざかり、残されたのは煌びやかな装飾に映える蝋燭の火と、杯の底に残る余韻のような熱だけだった。
だが――レギュラスの胸は、なおも高鳴っていた。
歓声に包まれた瞬間。
勝者の隣に立つアランが、深緑のドレスを纏って微笑んでいた光景。
その幸福感は、彼の内で未だに燃え続け、沈黙の夜を拒むように脈打っていた。
――終わらせたくない。
その思いが、何度も心を叩きつけていた。
彼女の纏うドレスの布地が視線に絡みつくたびに、指先が勝手に未来を想像してしまう。
自らが選んだ仕立て――余計な装飾を排し、ただ一筋のファスナーで閉じられたそれ。
その意味を、誰よりも自分が知っていた。
やがて、彼はアランの前に立ち、熱に押し出されるように言葉を洩らした。
「……アラン。今夜は、一人で寝たくないのですが」
不意を突かれたアランは、瞳を瞬かせ――そして堪えきれぬように小さく笑った。
「……子供みたいね。絵本でも読み聞かせましょうか?」
からかうように揺れる声色。
けれどその軽やかさが、レギュラスには心地よい刺激だった。
「ええ。……なら夜通し、僕の上で聖書でも読んでいただけますか?」
冗談めいた響きでそう返すと、言い終わる前に自分でも可笑しくなり、語尾が掠れて笑みが零れた。
その笑顔を見たアランも、くすりと唇を綻ばせる。
――一瞬。
交わる笑みの中で、互いが幼き日の無邪気な姿に還ったような錯覚が生まれた。
肩を寄せ合い、未来も宿命も知らぬままに笑い合っていた日々。
それが、蝋燭の炎の下でほんの刹那よみがえった。
けれど、笑みの温度がゆるやかに落ち着けば、再び避けられぬ現実が残る。
「……でも、どこで?」
アランは小さく呟き、視線を逸らした。
ここはホグワーツ。
男女の寮は分かたれ、部屋には必ずルームメイトがいる。
その目を誤魔化すことなど、容易ではなかった。
レギュラスは一拍の沈黙も置かず、静かに告げる。
「……僕の部屋に、来ませんか」
瞬間、アランの顔が強張る。
その言葉がただの気まぐれや軽口ではなく、確かな意志を伴っていると悟ったからだった。
「……大問題だわ」
困惑をにじませる声。
だが、彼は揺らがない。
「大丈夫。消音魔法を張れば、誰にも気づかれません」
淡々とした声。
しかしそこに含まれていたのは、逃げ道をひとつひとつ塞いでいくような力だった。
柔らかでありながら、確実に網を掛けるような意志。
その静かな圧に、アランは抗えず、ただ困ったように微笑むしかなかった。
――甘い戯れに見せかけて、その実、背を押す力。
冗談のようで、冗談で終わらせない響き。
どこまでが戯れで、どこからが本気なのか。
それが掴めないことが、ひどく息苦しかった。
あの夜、レギュラスの寝室で目にしてしまったものが、いまだに胸の奥から消え去らなかった。
豪奢なカーテンが月明かりを受け、淡い影を壁に落としていた。静まり返った空間の中、ただ一つ、サイドテーブルに置かれていたものだけが異様な存在感を放っていたのだ。
それは切り抜かれた新聞記事や雑誌の断片。
――闇の帝王の名を掲げ、彼の肖像が無遠慮に、そして堂々と置かれていた。
純血こそが至高であると謳い、マグルを徹底して退ける理想を掲げる言葉の数々。
その紙片には、冷たく硬質な世界観が刻まれており、読んでいるだけで肌の奥まで凍りつくような感覚を覚えた。
隠しもしない。まるで誇りを抱くかのように、それは並べられていた。
――そこにあったのは、あまりにも揺るぎない冷たい現実だった。
シリウスが語る未来とは正反対だ。
シリウスが信じるのは、より自由で、血に囚われぬ広がりを持つ世界。
けれどレギュラスが信奉するのは、マグルの世界を断絶し、光を遮り、恐怖によって統制された未来。
同じ兄弟でありながら、二人の立つ場所は、天地のごとく遠い。
その事実を突きつけられた瞬間、胸を撫でていくレギュラスの指先の熱さが、かえって残酷に思えた。
温もりを伝えてくるのに、心は冷えゆくばかり。
まるで冷水に浸されたように現実感が剥ぎ取られ、視界が揺らいでいった。
「…… アラン。愛しています」
低く熱を帯びた声が耳に落ちた。
蕩けるように甘い響き。そこには疑いようのない確信が宿っていた。
けれど、その愛を囁く口は、同じ口でマグルを切り捨て、純血の未来を讃える言葉をも吐くのだ。
――その奥底に潜む残酷さを、どうしたって見なかったことにはできない。
愛を求める人と、冷酷な理念を抱く人。
その二つの顔を、どこまで重ねて受け入れられるというのだろう。
自分にとって、その答えはあまりにも明白だった。
――こんな人を、愛せだなんて。無理だ。
セシール家を背負い、両親の望みに応え、この結婚を受け入れること。
その全てを差し出す代わりに、自分はこの未来を抱く人間の隣に立つことになる。
その光景を思い浮かべるだけで、胸の奥から冷たい絶望が湧きあがった。
それは、自分にとって地獄以外の何物でもなかった。
「…… アラン。今、何を考えているんです?」
すぐ近くで、艶を帯びた声が囁く。
灰色の瞳が覗き込み、その奥に真剣な色を浮かべている。
その瞳に射抜かれると、言葉など紡げるはずがなかった。
――“あなたと同じ未来は歩めない”などと。
そんな真実を、どうして口にできるだろう。
喉元まで込み上げた痛みは、苦しげな喘ぎにすり替えられ、吐息のように散っていった。
偽りの呼吸を繰り返しながら、胸の奥ではただ必死に願った。
――どうか、この苦しみを、誰にも悟らせたくない。
重なり合う影の下で、身体は確かに結ばれている。
だが、心は遠い彼方へと乖離していた。
寄り添えば寄り添うほど、その距離は深まり、覆しようのない隔たりとなって彼女を苛んでいた。
深夜の部屋は、息をひそめたような薄闇に包まれている。窓の外には月も見えず、厚いカーテンが夜気を遮っていた。だが、燭台に残された蝋燭がまだわずかに燃え続け、溶けた蝋を伝う炎が、部屋の端々をぼんやりと照らしている。光はゆらめき、壁に映る影は伸びたり縮んだりして、静寂の中にひそやかな動きを刻んでいた。
目が慣れてくると、アランはそこに異質なものを見つけた。
ソファの下、床の上に、レギュラスが身を小さく丸めて眠っている。まるで夜の寒さに耐える小さな動物のように、膝を抱き、頭を腕に埋め、穏やかに寝息を立てていた。
――なんてこと。
思わず胸が締めつけられる。自分は柔らかなソファに横になり、眠り込んでいたというのに、彼はそのまま転げ落ちるように床で寝入っていたのだ。
「……レギュラス。起きてください。こんなところで寝ては、体を悪くしてしまいます」
かすれた声で呼びかけ、急ぎソファから身を起こして彼のそばへ膝をつく。
その姿に、胸の奥で別の思いが疼いた。
――床で眠るくらいなら……私を落としてしまえばよかったのに。
使用人である自分にソファを譲り、自分は床で眠るだなんて。ほんの些細なこと、なのにどうしてこうも胸を苦しくさせるのだろう。レギュラスは決して完全な支配者ではなく、こうして時折、自分を傷つけるほどの優しさを見せてしまう。それがかえって、胸の奥に冷たいひび割れのような感情を残す。
彼の肩にそっと手を置き、揺すった。ゆっくりと瞼が開かれる。
灯りの中で、ふにゃりと笑ったその顔を見て、アランははっと息をのんだ。
――寝起きの彼は、あまりに幼い。
人を縛ろうとする影も、支配しようとする鋭さも消え、ただ少年の頃のままの、純粋であどけない笑み。ほんの少し長い前髪が頬にかかり、無防備な瞳がゆらりと揺れる。あの頃、無邪気に笑っていた少年の面影が、たしかにそこにあった。
「……もう朝なんです?」
かすれた声で問う彼に、アランは小さく首を振る。
「いえ、まだ夜中です。……自室に戻って、ベッドでお休みください」
「……ええ、そうします」
そう口にしながらも、彼はそのまま床に横たわろうとする。眠気に負けて、身体がいうことをきかないのだろう。
「レギュラス、お願いです。……せめてベッドで」
思わず、その腕を両手で引っ張っていた。
本当は、自室に戻ってほしい。けれど、このまま床に突っ伏して再び眠りに落ちられるくらいなら、自分のベッドを使ってもらった方がまだましだと思った。
眠気ににじむ彼の瞳は、緩やかに揺れ、されるがままに従うようだった。その姿は、強引に未来を描こうとする男ではなく、ただ眠る少年に戻ったかのようで―― アランの胸に、静けさと苦さを同時に刻み込んでいく。
燭台の炎が小さく弾け、影がふたりを包み込む。静寂は深まり、夜の深みの中で、ふたりのあいだに淡い温度だけが、確かに残っていた。
やわらかに引かれるまま、レギュラスはアランの寝台に身を沈めた。
片手で布を軽く払いながら、ためらいもなく安らぎを求めるその姿は、もはや大人の威厳も、未来を縛ろうとする冷徹さも消え失せ、ただ疲れ果てた一人の少年のように見えた。肩の力が抜け、細い体がふんわりと布団に沈み込む。
「……もう。やっぱり子どもみたい」
アランの胸の奥から、そっと漏れる呟き。
その声は夜の静寂に溶け、誰の耳にも届かない。レギュラスはもう、深い眠りの縁に立ちかけていた。胸がぎゅっと詰まる。
本来なら、彼は自室に戻るべきなのだ。床に寝るくらいなら、少しでもマシな場所をと許してしまうなんて、本来はあってはいけないことなのに。アランは、ほんの少しの情けと、哀れみに似た優しさでその行動を許してしまった。しかし、その「許し」は、結果としてまた一つ、自分が譲歩したことを意味している。胸の奥に微かな苦みが広がった。
ベッドの端に腰を下ろしても、眠気など訪れなかった。
静まり返った夜の中で、レギュラスの規則正しい寝息が、まるで鼓動のように大きく耳に届く。視線を落とすたび、憎みきれない想いが胸を締めつける。
無防備に眠るその横顔は、少年時代と何も変わらない面影を宿していた。ひたむきで、真っすぐに、自分を慕い続けた少年の姿。だからこそ、アランの中に、つい庇いたくなる弱さが生まれる。けれど――駄目だ。冷静に考えれば、あの人は父と母を道具のように使い、自分の未来を囲い込んでいた。胸の奥で、愛しいと感じる自分と、憎しみを抱く自分が絡み合い、離れない。
――シリウス。
閉じた瞼の裏に浮かぶその笑顔は、眩しいほどに明るく、温かい光だった。名前を心で呼ぶだけで、胸の奥に柔らかな熱が灯り、呼吸までも温もりを帯びる。あの人と過ごした時間、偽ることなく笑えていた自分、自由に走り回った記憶。指輪の輝きを指先に感じた瞬間の幸福。その全てを、アランは忘れまいと心に刻んだ。
「……忘れない」
かすかに漏れた声は、自分自身への誓いであり、呪文のようでもあった。どれほど絡め取られようとも、あの光を胸の奥に留めておく――それだけが、アランをアランとしていさせる唯一の術だった。
眠るレギュラスの寝息に、微かな呼吸の揺らぎが混じる。温もりが伝わるたび、胸の奥に小さな熱がゆらりと灯り、広がる。夜は深く、静かに、部屋を包み込む。闇と光の狭間で、アランはただその温もりと自分の想いを抱きしめ、夜が明けるのを待った。
――眠れぬ夜。
けれど、この夜こそが、アランにとって未来を誓う夜になっていた。
翌朝、目を覚ましたレギュラスは、身体の至るところに鈍くも鋭い痛みを感じていた。
肩をわずかに動かすだけで、針で刺されるような疼きが走り、背を伸ばせば骨の奥に軋むような痛みが響く。床の硬さに体が馴染まず、昨夜の疲労が遅れて訪れたかのようだった。
――しかし、それでも心は澄んでいた。どこか満ち足りて、穏やかな温もりに包まれている。
昨夜、アランと奥深くで繋がり合えた瞬間の記憶が、胸の奥で小さな芽を伸ばし続け、痛みを甘美な余韻に変えていた。まるで、身体の苦痛さえも幸福の証のように思えた。
朝の食卓は、いつも通りの静謐な空気に包まれていた。だが、レギュラスの胸中には小さな高鳴りがあり、他の誰にも気づかれぬ幸福を噛みしめていた。
「寝違えでもしたか」
オリオンの落ち着いた声が、朝の穏やかな光の中で響く。
「どこか痛むのですか」
傍らのヴァルブルガも、心配そうに問いかける。
レギュラスは柔らかく微笑み、首を軽く横に振った。
「いえ、大したことではありません。……おそらく、そのようなものです」
何気ない言葉に装い、穏やかな表情で返す。外から見ればただの世間話に過ぎず、昨日の夜の出来事が何事もなかったかのように振る舞っている。しかし胸の奥では、静かに、そして確かに祝福のような幸福が満ちていた。誰にも触れさせたくない、密やかな喜び――。
朝食を終え、アランが食器を片付ける後ろ姿を見て、レギュラスはそっと近づいた。
「…… アラン。背中が痛いのです」
小さく告げた声に、アランは振り返ることなく答える。
「……そうでしょうね」
冷たい響きの言葉。だが、瞳の端には、振り向くことなく隠しきれぬ心配の色が滲んでいた。その矛盾こそが、レギュラスの胸に甘く響き、心を高鳴らせる。
「……あとで、痛みを抑えてくれるお茶を淹れます」
淡々とした調子に見えるが、そこには確かな気遣いが宿っている。その一言は、何よりも尊く、胸に染み渡った。
抑えきれぬ衝動に駆られ、レギュラスは背を向けて作業をしていたアランの腕をそっと取った。少しの驚きに気づきながらも、アランの手を自分の両手で包む。
そして、いつもの習慣のように、親指で甲をやさしく撫でる。
「…… アラン」
ただ名前を呼ぶだけの簡単な言葉。だが、その声音には、すべての感情が込められていた。執着、愛、独占欲――甘く、逃げ場のない響き。胸の奥から滲む熱のすべてを、レギュラスは確かに感じ取り、心の奥底で噛み締めていた。
その瞬間、静まり返った朝の光の中で、二人の世界は微細に震えた。言葉は少ない。しかし、互いの距離、触れる指先、交わる視線――そのすべてが、言葉以上の意味を持って響く。
幸福の余韻が静かに広がり、胸の奥を柔らかく満たしていく。
トレイの上に湯気を立てるカップを慎重に載せ、アランは廊下を静かに歩いた。
朝の光がまだ柔らかく差し込む屋敷の廊下は、ひんやりとした空気に包まれていた。けれど、胸の奥に残るざらついた感覚は、時間が経っても消えてはいなかった。
昨夜――彼を床で眠らせてしまったことの罪悪感が、まだぬぐえずにいた。
たった一瞬の油断のはずだった。それでも使用人としてあるまじき失態のように思え、アランは無意識に自分を責め続けていた。床で眠るレギュラスの肩や背中を思い浮かべるたび、胸がきりりと痛む。
だからこそ、この手にしたカップは、ただの飲み物ではなく、償いの一つとしての意味を帯びていた。せめてこの温かさで、少しでも痛みや疲れを和らげてほしい――その気持ちだけが、彼女を廊下の奥へと動かしていた。
――決して、彼の愛情に応えたいわけではない。
レギュラスの純粋な想いをそのまま受け取ることなど、今のアランには到底できない。これはあくまで、出来る範囲での「償い」だ。
扉の前で小さく息を整え、ノックを打つ。
「……レギュラス。お茶を淹れました」
淡々と告げるその言葉は、無機質に響くはずだった。実際、これまでにも幾度となく差し出してきたものだ。オリオンにも、ヴァルブルガにも、使用人として当たり前に行ってきた行為。特別なことではないはずなのに――胸の奥に、思わずざわつく何かが芽吹く。
扉の向こうで振り返ったレギュラスの顔は、目に見えて柔らかく綻んだ。
その表情はまるで、宝物を差し出されたかのような純粋な喜びに満ちている。口元に浮かぶ微笑みは、眩しいほどの温度を帯びていた。
「一緒に……飲みましょう」
柔らかく、弾んだ調べを含む声が、静まり返った部屋に優しく響く。アランの胸がぎゅっと締め付けられる。
ただ茶を淹れただけ――それ以上でも以下でもないはずなのに。なぜ、たったこれだけのことに、こんなにも露わに喜べるのだろう。
その表情を見て、胸の奥に罪悪感が重くのしかかる。
拒むことも、受け入れることもできず、「償い」と割り切って差し出した一杯が、彼にとっては確かな愛情の証として映ってしまう――そのすれ違いの切なさに、胸が締め付けられる。
湯気立つカップの向こう、二人の間にはまだ温度差の溝が深く横たわっていた。
その溝を前にして、アランは静かに息を整え、手にした温かさを差し出すしかなかった。目の前の微笑みは、幸福そのもののようで、しかし自分には触れられない遠い光――そんな複雑な感情が胸の奥で交錯する。
小さな湯気が揺らめき、香りが二人を包む。けれど、アランの心の中には、温もりと痛みが入り混じったまま、まだ消えない緊張と迷いが残っていた。
列車の車輪が軋むようなきしみを上げ、ゆるやかに線路を滑り出す。
窓の外の景色は後ろへと流れ、森の緑も湖面の光も、まるで夢のようにすれ違っていく。長い道のりを刻むリズムは、静かに心を揺らすだけでなく、何かを思い返させる。
個室の中で、アランは窓際に腰を下ろし、透き通る景色に目を落としていた。瞳には疲れが色濃く映り、眠気や緊張、そしてほんの少しの不安までをも隠さずにいる。
その隣にレギュラスが静かに腰を下ろした。長いローブの陰で、そっとアランの手を握る。布に覆われたその手は外からは見えない。だが隣り合わせで伝わるぬくもりは、確かで、誰にも奪えないものだった。
「…… アラン。もしかして、眠たいですか?」
低く、囁くような声。わずかに震えが混じるその問いかけに、アランは小さく答える。
「……少しだけ」
声はか細く、瞳は伏せられたまま。疲れを隠す気すらない素直さが、胸をぎゅっと締めつける。
「寝てください。着いたら、必ず起こしますから」
微笑みとともに告げるその声音は、温かく、そして軽やかだった。
出発の前夜、アランはいつも通り屋敷で使用人としての務めを果たし、その後必死に荷物を詰め込んでいた。寝不足も無理はなかった。
一方で、レギュラスは準備を済ませた後も、何度も杖を奪い、ちょっかいをかけては笑った。あの日の瞳の輝きは、いまや少しだけ沈んでいて、見つめるたび胸が痛む。
――そして、あの夜のことも。
「……昨日は、すみません。本当に」
ぽつりと、言葉が零れる。
荷物を整理していたアランの手から杖を奪い、隙をついて抱き寄せた。
その一連の行為に、後悔はない。決して止めたくはなかった。
けれど、いま思う――出発前日に、あれほど踏み込むべきではなかったのではないか。
乱してしまった彼女の眠りを想い、胸の奥に小さな棘が刺さる。
それでも、心の奥は甘美に満たされていた。
アランを腕の中に抱き、手のひらで感じた温度が、指先にまで柔らかく残っている。思い出すだけで、全身が幸福に染まり、まるで温かい光に包まれているようだ。
列車はリズムよく揺れる。窓の外の景色が次々に後ろへ流れ、森や丘や湖の光景が夢のように通り過ぎていく。アランは握られた手をそっと胸に押し当て、瞼を静かに閉じた。
微かな寝息が混ざり、かすかな体温が伝わる隣で、レギュラスは視線を外さずに見守る。目を閉じたアランの髪の柔らかさ、肩の力の抜けた曲線、眠りに落ちかけた呼吸のリズム。すべてが手のひらに伝わり、胸を静かに、深く満たしていく。
――いま、この瞬間を、大切にしたい。
ホグワーツに到着すれば、二人きりの時間はほとんどなくなるだろう。
だからこそ、この列車の中で過ごす一刻一刻が、何よりも尊い。
握った手の温度を心に刻みながら、レギュラスはそっと息を整える。外の景色が流れ続ける中で、窓越しに差し込む朝の光も、二人を柔らかく包み込む。
揺れる列車の音、微かな振動、カップのように立つ静かな湯気――すべてが、この小さな幸福を確かに現実として刻んでいた。
レギュラスは、瞼を閉じたアランをそのまま抱きしめ、心の奥で、ただ静かに祈るように思った。
――どうか、このひとときが、永遠に続きますように。
コンパートメントの扉が、まるで息をひそめるかのように静かに開いた。
その音に気づいたレギュラスが視線を向ける前に、立っていたのはバーテミウス・クラウチだった。
鋭い目が、無言のままアランの眠る姿を捉えている。窓際で静かに身を沈め、呼吸のリズムだけが淡く揺れる少女の寝顔。
言葉はなくとも、クラウチの視線には問いが込められていた。
――「一緒してもいいか?」
レギュラスはそれを受け止め、返すのも言葉ではなく目線で応じる。向かい側の空いた座席を、顎で軽く示しただけだった。
バーテミウスは淡い微笑を浮かべ、音もなく腰を下ろす。仕草は軽やかで、けれど無駄がない。列車の揺れに合わせて背筋を正す様子には、自然な自信が宿っていた。
「……女生徒たちを振り切ってきたんですか?」
低く抑えた声で、レギュラスは問いかけた。
乗車前、数人の女生徒に囲まれる彼の姿を目にしていたからだ。周囲の気配を振り切ることなど、さほど難しいことではないだろう。しかし、目の前の状況に、胸の奥で漠然とした危惧が芽生えた。
バーテミウスは片眉を上げ、わずかにいたずらめいた笑みを浮かべる。
「いや……そろそろ、ちょっとキツくなってね」
声は軽やかだが、肩の力を抜いたその様子には、確かな自制が感じられた。
「……そうですか」
レギュラスは小さく頷く。だが、胸の奥にはまだ微かな緊張が残っていた。
「……終わった直後、というわけじゃないでしょうね」
皮肉をわずかに交え、問いの響きに警戒を混ぜる。
クラウチは肩をすくめ、軽やかに手を振った。
「まさか。さすがに列車でなんて、不埒な真似はしないよ」
その言葉に、レギュラスの胸にほっとした安堵が走る。――この男なら、やりかねない。芝居がかった仕草も、女生徒に愛される巧みな言葉も、自然に演じることができる。
だからこそ、真剣に一瞬、疑ったのだ。だが今は、その危惧がゆっくりと溶けていく。
しばし、列車の揺れに合わせて沈黙が流れる。
アランは眠ったまま、まるで何も知らないかのように静かだ。その寝顔を前にすると、周囲の緊張も、心の棘も、ほんのひととき和らぐ。
「……君は」
ふと、バーテミウスが声を潜める。
「セシール嬢を、妻にするつもりなのかい?」
言葉は軽やかだが、瞳の奥には探るような鋭さが潜んでいる。
レギュラスは目線を外さず、静かに答えた。
「……まぁ。そんなところです」
即答でも長考でもない。その自然な言葉の裏に、確固たる意思の強さが滲んでいた。
バーテミウスはゆっくりと頷き、口元に微かな笑みを浮かべる。
“どうやって”と深入りせず、あえて境界線を保つ。その距離感の取り方に、レギュラスは内心で敬意を抱く。
その沈黙の間にも、互いの目は多くを語り合い、言葉以上の含みを交わしていた。
窓の外。緑の森、川面に反射する朝の光、遠くの丘。景色は絶えず変わり、列車の揺れとともに時間は流れていく。
コンパートメントの中。二人の少年は、アランの安らかな寝顔を前にして、胸の奥で算段を巡らせ、微笑みの裏に計算と信頼を押し隠していた。
そして誰も口にせずとも、確かに伝わるものがあった――この小さな個室の中で交わされる、静かな絆と、守るべきものへの責任。
列車は一定の律動を刻みながら、静かに線路の上を滑るように走り続けていた。
遠くに広がる丘陵は淡い緑色の絨毯のように揺れ、空には柔らかな白雲がゆっくりと流れている。窓の外の景色は、眠りから覚めかけた少女の意識に、穏やかな色彩をそっと添えていた。
不意に、アランがかすかに身じろぎをした。
長い睫毛が震え、まぶたがゆっくりと開かれていく。微かな呼吸の変化まで感じ取れるほどの静寂の中で、その仕草はまるで朝の光が窓から差し込むように、車内の空気を柔らかく変えた。
その気配に、レギュラスとバーテミウスは同時に言葉を止めた。
つい先ほどまで、互いの胸の奥を計りあうような、緊張に満ちた会話を交わしていたはずだった。しかし、彼女の視線がこちらへ届いた瞬間、その場の緊張は音もなく溶け、まるでなかったかのように空気が変わる。
レギュラスは、握っていたアランの手をそっと緩める。
手の位置をほんのわずかに整え、まるで最初から彼女を護るために繋いでいたかのように見える仕草。小さな行為に込められた、深い気遣いと隠された優しさ。
バーテミウスもまた、背筋を自然に伸ばし、軽やかに微笑む。その微笑みは涼やかで、しかしどこか探るような奥行きを含んでおり、観察眼の鋭さが静かに透けていた。
「……もう着きましたか?」
夢の余韻を含んだ声で、アランはそっと問いかける。その声はまだ眠りの温もりをまとい、柔らかく、心を溶かすようだった。
レギュラスは優しく首を振る。
「まだです。……眠れましたか」
「……ええ。少しだけ」
声はか細く、微笑みとともに震えていた。その姿を、レギュラスはゆっくりと見つめる。長い睫毛の影、緩やかな肩の動き、柔らかに染まる頬――すべてが彼の胸を静かに揺さぶった。
バーテミウスが軽く口を開く。
「良い夢を、見ていたようですね」
その言葉は穏やかに響くが、わずかに探るような含みも感じられた。視線の端に潜む計算、微かな距離感の測り合い――二つの世界が交差する刹那。
だがアランは、それに気づくこともなく、ただ頬を赤らめて小さく微笑む。無邪気な少女の表情。列車の揺れとともに、彼女の眠気と覚醒の間の儚いひとときが、車内に静かな温度をもたらした。
先ほどまで、互いに交わされていた言外の探り合いは、彼女の視線が開かれた瞬間にすべて消え去り、跡形もなく隠された。
――二つの顔を持つ青年たち。
一方では政治や権力の駆け引きを思案する青年、もう一方では、少女の前で柔らかく振る舞う学友。
その落差を、アランは知らず、窓の外に広がる空の淡い色を眺める。目の前の静けさと景色の明るさの中で、まだ何も理解していない彼女の存在は、二人の思惑をより際立たせていた。
列車の揺れが緩やかに響き、微かに軋む車輪の音が二人の間に溶け込む。互いの呼吸や指先のわずかな動きさえ、言葉以上に多くを語るひととき――。
アランが眠る窓際の空間は、無垢な時間のまま、静かに、しかし確かに、二人の世界を隔てる膜を柔らかく包み込んでいた。
新しい学年が始まり、寮内に漂う空気はひと際引き締まっていた。朝の冷たい光が窓から差し込み、廊下の石畳を淡く照らす。静寂の中に、遠くでかすかに聞こえる靴音や声が、すべてを静かに押し流していくようだった。
シリウスは最終学年となり、闇払いへの道を目指して日々鍛錬を欠かさない。彼の背は誰よりも頼もしく、しかしどこか危うさをも帯びていた。剣や魔杖の扱いに精通しながらも、まだまだ少年の面影を残す瞳が、時折心配をもたらす。
――どうか、彼が彼らしく歩んでくれますように。
信じるしかない。待ち続けるしかない。けれど、会えぬ日々が重なれば重なるほど、不安が胸に積もり、冷たい空気に一人取り残されたような孤独が、じわりと心を蝕んでいった。
そんな時間の隙間に、ふとレギュラスの存在が、不意に大きく膨らんでいく。望んでいたわけではないのに、意図せず彼との距離は少しずつ縮まっていった。微妙な心の揺らぎを、アランは感じずにはいられなかった。
「…… アラン。これを」
レギュラスの静かな声が、空気に溶けるように届く。腕に抱えられていたのは、深い緑の生地に銀の刺繍が流れる華やかなドレスだった。スリザリンの色を濃く映した衣装は、光を受けて淡く煌めき、周囲の光景を吸い込むかのように鮮やかだった。
「これは……?」
問いかける声には、驚きと戸惑いが混ざる。手元でそっと布を撫でる指先は、緊張でわずかに震えていた。
「僕のための宴でね。シーカーとしての勝利を祝う。アラン――君に、僕の隣に立って欲しいんです」
その言葉は、まるで風のように柔らかく、しかし決して揺るがない強さを帯びていた。胸の奥がひりつく。選ばれるのは光栄なこと。だが、胸の奥で待ち続けてきたのは、他の誰でもない、シリウスへの想いだった。
「……あなたのための宴なのに。私が隣でいいのですか?」
戸惑いと不安を抱えた声に、彼は一歩近づき、迷いなく答える。
「……あなたがいいのです」
真っ直ぐで、曇りのない声。指先まで感情が届くような静かな強さがあり、アランの胸に直接刺さった。目の奥まで届く純粋な好意。汚れなき、曇りなき想い。
アランは一瞬、胸が痛くなった。シリウスを待ち続ける自分がいる。けれど、今差し出されているのは、他の誰にも負けないほどまっさらな愛情だった。彼の指がそっとドレスの裾を撫で、銀糸の刺繍を揺らす。その視線の中には、自分しか映っていない光が宿っていた。
――この手を、取らないわけにはいかない。
胸に迫る温かさと、重みを感じながら、アランはゆっくりと頷く。布に触れる指先から伝わる質感は、驚くほど柔らかく、しかし確かな重みをもって心に落ちていった。まるでこの瞬間だけで、世界のすべてが静止したかのような感覚。
胸の奥でざわめいていた感情の波が、静かに落ち着きを取り戻す。その一方で、シリウスを想う切なさは消えない。だが、今はただ目の前にいるレギュラスの真っ直ぐな眼差しと、差し伸べられた手を信じるしかなかった。
空気は温かく、静かに、二人を包み込む。互いの呼吸を意識しながら、アランはその手をそっと握り返した。彼の瞳に映る光を、そっと胸に刻むように――。
祝宴の広間は、光と色の洪水に満ちていた。天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが煌めき、壁面に掲げられたスリザリンの紋章が、薄緑と銀色の光を反射して揺れる。石造りの床に響く足音や歓声が、場内の空気をさらに熱く、活気に満ちたものにしていた。
その中心に立つレギュラス。勝利者として称えられる彼の姿は、まさに英雄のようであった。端正な横顔は光を受けて凛々しく輝き、誰の視線も自然と引き寄せる。肩の角度、背筋の伸び、微かに動かす唇の仕草――すべてが、称賛に値する存在であることを静かに語っていた。
アランはその隣に立ちながら、胸の奥にひどくざわめきを覚えた。視界の端で煌めく衣装、祝声に包まれる彼の姿。それらすべてを目にして、心は言い知れぬ複雑な感情で満たされる。
――彼の勝利を、心から祝いたい。
純粋にそう思った。戦いに全力を尽くし、仲間たちの歓声に応えてきた彼を讃えたい。その想いは確かにあった。しかし、胸の奥に沈む別の声が、どうしても消えない。
――シリウスの言葉。夜に差し伸べられた、「迎えに行く」という約束。 「一緒に生きていく」という未来。
その言葉の残像が胸にこびりつき、容易には剥がれなかった。彼の栄光の影に、他者への想いが重くのしかかる。どれだけ声を振り絞ろうと、それを隠さずにはいられなかった。
「……素晴らしい活躍でしたわ、レギュラス様!」
「本当にすごいわ!」
「さすがはブラック家の御曹司ね!」
広間中の歓声が渦となって押し寄せる。その波の中で、アランは自分の存在を実感した。隣に立つ以上、ただ無言でいるわけにはいかない。言葉を発さねば――胸の奥で、必死に声を絞り出そうとする。
喉が固く、言葉はもどかしく絡み合う。ようやく、かすかに漏れる声で口を開く。
「……おめでとうございます、レギュラス」
それは、わずか一言に過ぎなかった。周囲の歓声に押され、かき消されそうな弱々しい声。しかし、レギュラスは確かにその言葉を捕らえた。
「……ありがとう。――あなたにそう言ってもらえると、頑張ってよかったと思えます」
柔らかに微笑むその表情は、祝福の光を浴びた栄光以上に輝いていた。言葉の一つ一つを、彼は心の奥底まで噛みしめるかのように抱きしめる。
胸の奥が痛んだ。自分の声には、真に純粋な喜びはなかった。シリウスを想い続ける気持ちを必死に押し殺し、搾り出したのがその言葉だったのに。にもかかわらず、彼は疑うことなく、それをそのまま受け止めてしまう。
歓声に包まれた広間の喧騒の中で、アランの心は静かに軋み、痛みに沈んでいく。栄光と愛情の間で揺れ動く感情。祝祭の光に染まるレギュラスの笑みが、胸の奥の不協和音をさらに鮮明に響かせた。
それでも、目の前の彼の輝きと、隣に立つ自分の役割を意識しながら、アランはかろうじて立っていた。喉に残る痛みと胸のざわめきを押し込め、祝福の言葉を、ぎこちなくも心を込めて紡ぎ続ける。
が深緑のドレスを纏い、自らの隣に立っている――ただそれだけのことが、レギュラスの胸をこれほどまでに震わせるとは思ってもみなかった。
その姿は、勝利という栄誉に添えられた最高の贈り物のようだった。歓声と光の渦に満ちた広間の中央、己の名を讃える声が降り注ぐその場所で、隣に寄り添う少女はひときわ静かに、ひときわ鮮やかにそこに在った。
白磁のように滑らかな肌は、深い緑の布地に映えて、より一層透き通るように見えた。揺れる黒髪が薄明かりを反射して、細やかに煌めきを散らす。彼女の頬に浮かぶわずかな朱は、祝宴の熱気によるものか、それとも心の揺らぎによるものか。どちらにせよ、その色彩はレギュラスの心を底なしの愛おしさで満たしてやまなかった。
――幼い頃から渇望していた夢の結実が、今、こうして自分の手の届く場所にある。
胸の奥底から、強烈な確信が立ち上がる。もはや、彼女の手を引くことに一片の躊躇いもなかった。未来は明確に描かれている。その未来にアランは欠かせない。彼女を伴わずして、自分の人生を語ることなどできないのだ。
「…… アラン。一曲くらいは踊りましょう」
差し伸べられた自分の手を前に、アランは小さく眉を寄せた。
「踊れないわ。……そんなスキル、ないもの」
その声音には戸惑いと、わずかな羞恥が混じっていた。確かにそうだ。ブラック家の舞踏会で彼女は常に従者のように立ち働き、煌めくホールを舞うことは決してなかった。華やかな世界は、彼女にとって遠い場所だった。
――だが、自分は知っている。
ホグワーツの舞踏会で、彼女が兄・シリウスと共に踊ったことを。真紅のドレスに身を包み、彼の腕に導かれてホールを渡ったことを。
想像するだけで、胸の奥にざらりとした感覚が広がる。シリウスに預けた彼女の手の重み、彼の腕に抱かれたその姿。記憶として持たぬ光景であるにもかかわらず、妄想が容赦なく心を掻き乱す。
しかし――いまは違う。
アランは自分の隣にいる。自分の勝利を祝う場にいてくれる。自分が贈ったドレスを纏い、揺れる黒髪を光に染めながら、こうして共に立ってくれている。その事実だけで、胸の奥にあった苦い影が一瞬にして薄れていくのを感じた。
かつてシリウスがやってのけたことを、ひとつひとつ、自らの手で上書きしていく。彼の影に奪われたものを、自分自身の手で塗り替えていく。
そのたびに、これまで満たされなかった心の空白が、少しずつ埋められていく。彼女の笑みを引き出すたびに、彼女の隣を歩むたびに、深い孤独の淵に灯が差し込むように、確かな温もりが広がっていくのだ。
レギュラスは、アランの姿をまるで幸福そのものの結晶を見るかのように見つめ、静かに心に刻みつけた。
――これからも、すべてを上書きしていく。
彼女の隣に立つのは自分だと、誰も疑えぬほどに明確な事実へと変えていくのだ。
揺れる音楽と人々の歓声の中で、彼の瞳はただひとりの少女を映し出していた。その瞳に射抜かれるように見つめられながら、アランは言葉をなくし、わずかに頬を紅潮させる。
――その反応すらも、レギュラスにとっては胸を満たす甘美な証のひとつだった。
楽団の奏でるゆるやかな旋律が、会場に広がっていた。
人々の談笑の合間を縫って、幾組もの男女がステップを踏み始める。
祝宴に花を添える舞踏のひとときだった。
「…… アラン」
レギュラスは腕を差し伸べた。
「僕と踊りましょう」
アランは僅かに肩を竦め、困ったように視線を逸らす。
「……言ったはずです、踊れないと」
「大丈夫です」
短い言葉で、彼は否応なく彼女を引き戻す。
その声に込められていたのは圧ではなく、揺るがぬ確信だった。
やがて、アランは観念したように小さく頷き、そっとその手を重ねた。
レギュラスの腕に導かれ、一歩を踏み出す。
ぎこちない身振り。恐る恐る動かす足取り。
アランは何度も視線を落とし、まるで迷子になった子どものように進む方向を探していた。
だが、そのたびに彼の手がしっかりと支え、肩を抱く力が確かさを伝えた。
「……僕を見ていればいい」
囁くような言葉に、アランの瞳が上がる。
真摯な灰色の瞳がその先にあり、彼女の視線を離さず支えていた。
旋律の流れに合わせて、次第に一歩が形を取り始める。
足がもつれそうになれば、彼の腕がやさしく軌道を修正してくれる。
舞踏の作法など知らなくとも、彼が導く通りに身を委ねれば形になっていった。
周囲から拍手が小さく起こる。
祝福を受ける勝者と、その隣で緑のドレスを纏う少女。
二人はそれだけで、まるで絵のように見えていた。
――シリウスと踊ったあの日も、彼女はこうして導かれたのだろうか。
その想像が、一瞬胸を苛んだ。
けれど次に浮かぶ感情は、痛みではなく安堵だった。
今、彼女を導いているのは自分だ。自分がこの光景を上書きしている。
重なった手が鼓動を分かち合い、旋律の揺れと一緒に響いていた。
アランはまだぎこちなく、迷いを隠しきれていなかった。
けれどレギュラスにとってそれすらも愛おしく、確かな未来の兆しに見えた。
――綺麗だ。
誰かの呟きが、舞踏の輪の外から洩れた。
その声音は人混みに紛れて小さく消えていったが、不思議とレギュラスの耳にははっきりと届いていた。
アランを讃える言葉。
胸の奥に広がる共鳴のように、その響きは彼自身の想いと重なった。
――そうだ。自分もそう思う。
ずっと昔から。幼い頃から、彼女を見つめてきたあの日々から、揺るがぬ確信として胸に刻み続けている。
ふいに、胸裏にひとつの記憶が浮かぶ。
かつてアランの父、ロイク・セシールが、妻にとリシェルを望み、オリオンに嘆願した日。
その背に刻まれた熱望と必死さが、今の自分の姿に重なるように思えた。
――自分もまた、アランを渇望している。
そしていつの日か、父オリオンに同じように願い出るのだろう。
だが、その未来を恐れてはいなかった。
むしろ血に連なる営みの必然として、その宿命を肯定していた。
「…… アラン」
旋律に溶けるような声で名を呼ぶ。
「とても綺麗です」
短い言葉だった。けれどそこに込められた感情は計り知れず、彼の瞳は嘘ひとつなくまっすぐに彼女だけを映していた。
アランはわずかに瞬きをし、そして一拍遅れて微笑んだ。
「ありがとう。……でも、それはきっと、あなたが贈ってくれたドレスがあまりに美しいからだわ」
その声色は柔らかく、耳に心地よく響いた。
けれどレギュラスは静かに首を振る。
「いいえ。……あなたが着るからですよ」
その一言は、周囲の華やぎを一瞬忘れさせるほどの力を持っていた。
アランは小さく息を呑み、そして照れ隠しのようにふっと笑みを零した。
それ以上の言葉はなく、ただ頬にほんのりと紅を差しただけだった。
広間の中心に立つ二人に、視線が次々と注がれていく。
嫉妬、羨望、賞賛、探るような好奇心――そのどれもが渦を巻き、彼らを取り巻いていた。
けれどレギュラスは迷わなかった。
むしろ、その視線を遮るかのように、ためらいなくアランの頬に唇を寄せた。
触れた瞬間、ざわめきが広間を駆け抜ける。
驚き、息を呑む気配。囁きが波紋のように広がる。
だが、彼の耳にはもう届かなかった。
彼の内には揺るがぬ確信がある。
彼女は自分の未来だ。
周りのざわめきなど、ただの微かな風にすぎなかった。
「……レギュラス。人の目があるわ」
アランの声は小さく、たしなめるように響いた。
けれどその声音には怒りも拒絶も含まれてはいなかった。
ただ戸惑いと、少しの恥じらいが宿るだけ。
彼女の瞳を覗き込みながら、レギュラスは小さく笑みを零した。
「ええ。……でも、止められなくて」
アランはわずかに困ったように眉を下げ、それでも柔らかな笑みを浮かべる。
その表情は、拒絶には至らない。
むしろ、どこかで受け入れてしまっている。
――その愛らしさに、胸が熱く震えた。
歓声と囁きが交錯する広間のただ中で、レギュラスは誰にも遮られることなく、ただ彼女を見つめ続けていた。
その眼差しには、未来を掴む決意と、揺るぎない愛情とが、惜しみなく滲んでいた。
夜の帳が静かに降り、宴のざわめきが次第に薄れていく。
ホールに満ちていた喧噪と拍手は遠ざかり、残されたのは煌びやかな装飾に映える蝋燭の火と、杯の底に残る余韻のような熱だけだった。
だが――レギュラスの胸は、なおも高鳴っていた。
歓声に包まれた瞬間。
勝者の隣に立つアランが、深緑のドレスを纏って微笑んでいた光景。
その幸福感は、彼の内で未だに燃え続け、沈黙の夜を拒むように脈打っていた。
――終わらせたくない。
その思いが、何度も心を叩きつけていた。
彼女の纏うドレスの布地が視線に絡みつくたびに、指先が勝手に未来を想像してしまう。
自らが選んだ仕立て――余計な装飾を排し、ただ一筋のファスナーで閉じられたそれ。
その意味を、誰よりも自分が知っていた。
やがて、彼はアランの前に立ち、熱に押し出されるように言葉を洩らした。
「……アラン。今夜は、一人で寝たくないのですが」
不意を突かれたアランは、瞳を瞬かせ――そして堪えきれぬように小さく笑った。
「……子供みたいね。絵本でも読み聞かせましょうか?」
からかうように揺れる声色。
けれどその軽やかさが、レギュラスには心地よい刺激だった。
「ええ。……なら夜通し、僕の上で聖書でも読んでいただけますか?」
冗談めいた響きでそう返すと、言い終わる前に自分でも可笑しくなり、語尾が掠れて笑みが零れた。
その笑顔を見たアランも、くすりと唇を綻ばせる。
――一瞬。
交わる笑みの中で、互いが幼き日の無邪気な姿に還ったような錯覚が生まれた。
肩を寄せ合い、未来も宿命も知らぬままに笑い合っていた日々。
それが、蝋燭の炎の下でほんの刹那よみがえった。
けれど、笑みの温度がゆるやかに落ち着けば、再び避けられぬ現実が残る。
「……でも、どこで?」
アランは小さく呟き、視線を逸らした。
ここはホグワーツ。
男女の寮は分かたれ、部屋には必ずルームメイトがいる。
その目を誤魔化すことなど、容易ではなかった。
レギュラスは一拍の沈黙も置かず、静かに告げる。
「……僕の部屋に、来ませんか」
瞬間、アランの顔が強張る。
その言葉がただの気まぐれや軽口ではなく、確かな意志を伴っていると悟ったからだった。
「……大問題だわ」
困惑をにじませる声。
だが、彼は揺らがない。
「大丈夫。消音魔法を張れば、誰にも気づかれません」
淡々とした声。
しかしそこに含まれていたのは、逃げ道をひとつひとつ塞いでいくような力だった。
柔らかでありながら、確実に網を掛けるような意志。
その静かな圧に、アランは抗えず、ただ困ったように微笑むしかなかった。
――甘い戯れに見せかけて、その実、背を押す力。
冗談のようで、冗談で終わらせない響き。
どこまでが戯れで、どこからが本気なのか。
それが掴めないことが、ひどく息苦しかった。
あの夜、レギュラスの寝室で目にしてしまったものが、いまだに胸の奥から消え去らなかった。
豪奢なカーテンが月明かりを受け、淡い影を壁に落としていた。静まり返った空間の中、ただ一つ、サイドテーブルに置かれていたものだけが異様な存在感を放っていたのだ。
それは切り抜かれた新聞記事や雑誌の断片。
――闇の帝王の名を掲げ、彼の肖像が無遠慮に、そして堂々と置かれていた。
純血こそが至高であると謳い、マグルを徹底して退ける理想を掲げる言葉の数々。
その紙片には、冷たく硬質な世界観が刻まれており、読んでいるだけで肌の奥まで凍りつくような感覚を覚えた。
隠しもしない。まるで誇りを抱くかのように、それは並べられていた。
――そこにあったのは、あまりにも揺るぎない冷たい現実だった。
シリウスが語る未来とは正反対だ。
シリウスが信じるのは、より自由で、血に囚われぬ広がりを持つ世界。
けれどレギュラスが信奉するのは、マグルの世界を断絶し、光を遮り、恐怖によって統制された未来。
同じ兄弟でありながら、二人の立つ場所は、天地のごとく遠い。
その事実を突きつけられた瞬間、胸を撫でていくレギュラスの指先の熱さが、かえって残酷に思えた。
温もりを伝えてくるのに、心は冷えゆくばかり。
まるで冷水に浸されたように現実感が剥ぎ取られ、視界が揺らいでいった。
「…… アラン。愛しています」
低く熱を帯びた声が耳に落ちた。
蕩けるように甘い響き。そこには疑いようのない確信が宿っていた。
けれど、その愛を囁く口は、同じ口でマグルを切り捨て、純血の未来を讃える言葉をも吐くのだ。
――その奥底に潜む残酷さを、どうしたって見なかったことにはできない。
愛を求める人と、冷酷な理念を抱く人。
その二つの顔を、どこまで重ねて受け入れられるというのだろう。
自分にとって、その答えはあまりにも明白だった。
――こんな人を、愛せだなんて。無理だ。
セシール家を背負い、両親の望みに応え、この結婚を受け入れること。
その全てを差し出す代わりに、自分はこの未来を抱く人間の隣に立つことになる。
その光景を思い浮かべるだけで、胸の奥から冷たい絶望が湧きあがった。
それは、自分にとって地獄以外の何物でもなかった。
「…… アラン。今、何を考えているんです?」
すぐ近くで、艶を帯びた声が囁く。
灰色の瞳が覗き込み、その奥に真剣な色を浮かべている。
その瞳に射抜かれると、言葉など紡げるはずがなかった。
――“あなたと同じ未来は歩めない”などと。
そんな真実を、どうして口にできるだろう。
喉元まで込み上げた痛みは、苦しげな喘ぎにすり替えられ、吐息のように散っていった。
偽りの呼吸を繰り返しながら、胸の奥ではただ必死に願った。
――どうか、この苦しみを、誰にも悟らせたくない。
重なり合う影の下で、身体は確かに結ばれている。
だが、心は遠い彼方へと乖離していた。
寄り添えば寄り添うほど、その距離は深まり、覆しようのない隔たりとなって彼女を苛んでいた。
