1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
屋敷の空気に再び飲み込まれた部屋の中、レギュラスは腕を組み、わずかに身を傾けてアランをじっと見据えていた。
彼の瞳には無事に戻ってきたことへの安堵が確かに浮かんでいたが、それだけでは足りなかった。
胸の奥には消えない疑念が絡みつき、彼女の行動すべてを把握したいと強く願っている。
「……で、アラン。誰と、どこにいたんです?」
穏やかに尋ねたはずの声は、不思議と詰問めいた響きを帯びていた。
アランはわずかに視線を落とし、震える唇を動かす。
「……友人の家です」
だが間髪入れずに返ってきたのは、鋭い灰色の瞳を輝かせながらの言葉だった。
「……あなたに、そんな友人がいました?」
幼い頃からずっと共に過ごしてきた交友関係を把握しているはずのレギュラスは、彼女の言葉の裏に隠された何かを感じ取る。
「――ルームメイトに、マリエッタとか。クラリッサ、それから……ダフネもいましたね」
彼女の周りにいた友人たちの名を一つひとつ思い返しながらも、知らない時間や場所が彼女の奥に潜んでいる感覚に胸を締めつけられた。
――もし、自分の知らない真実があるのだとしたら?
その恐怖で彼の心は重く、足元も揺らいだ。
アランのことはすべて知り尽くしていたい。知らなければ自分を保てない。
沈黙がゆっくり落ちると、アランは顔を上げず、唇を噛みしめた。
その静かな息遣いに含まれる苛立ちはじわりじわりと膨れていき、沈黙そのものが隠し事の証明に思えた。
「……何か言ってはどうですか」
レギュラスの声は低く、強く、辛抱を失っていた。
アランは肩を震わせ、小さく彼の名を呼ぶ。
「……レギュラス……」
その声には、疲弊と懇願が濃く混じり、まるで「お願いだから、もうやめて」と伝えるかのようだった。
だが、レギュラスは止まれなかった。
「……お願いです、アラン。本当のことを――教えてください」
祈るように、すがりつくように紡がれる言葉。
だが彼女は口を閉ざし続けた。
その沈黙が、もっとも耐え難い裏切りの証であるかのように胸に重くのしかかる。
胸の奥がじりじりと焼けるように熱く、怒りと悲しみが混ざり合った熱が沸き上がっていった。
愛する者が何も語らぬ――ただそれだけで。苛立ちは激しい怒りへと変貌していく。
苛立ちはもはや抑えられなかった。
――どこまで強情な女なのだ、と。
胸の奥で熱が膨れ上がり、罵りたくなるほどに理性は遠のいていた。
問い詰めれば問い詰めるほど、アランが口を割ることはないだろうと分かっていた。
視線を逸らし、沈黙を選び続け、ただ逃げるだけ。
それでもここまで来て、彼ははっきり理解したのだ。
――答えはおそらく、一つしかない。
シリウス・ブラック。
だから言えない。言うことができず、必死に黙っているのだ。
鼻で笑うように短く息を吐くレギュラス。
「……シリウス、なんですね」
その鋭い問いに、アランはまるで弾かれたように顔を上げ、掠れた声で必死に否定した。
「ち、違います!」
ようやく口を開いたかと思えば、一心不乱に言い切ろうとする否定。
しかし、それが余計に疑念を深めるだけだった。
黙っていればまだ疑いの影に留めておけただろうに、こんなに必死な否定はかえって「何か隠している」と告げているようなものだった。
「……丸一日ですか。どこに行ったんです?」
「……違います」
震える声で同じ言葉を繰り返す。レギュラスは鋭く問い詰める。
「どこまでしてきたんです?」
その一言一言が胸をえぐるように突き刺さり、アランの震える声には涙さえ滲んでいた。
「違うわ……もう、やめて……」
切実な懇願。その声は小さく震え、必死で彼の言葉を止めようとしていた。
だが、やめてほしいのは自分自身だった。
――またシリウスの名が胸をかき乱す。
何度同じ痛みに耐えなければならないのか。
いい加減にしてほしいと、魂から願った。
丸一日、二人きりで過ごしたという事実。
たとえ確かめるすべを持たなくとも、想像することは容易だった。
男女が同じ時間を共有し、夜を越したのなら、そこに無垢な交わりがなかったなどと考えられなかった。
その口で自分に「やめて」と叫び拒絶していたくせに、シリウスには愛を囁いたのか。
その光景だけが頭を支配し、視界はやがて真っ赤な霞に染まっていった。
怒りが胸の奥で爆ぜ、理性など吹き飛ばされそうになりながらも、喉の奥で咆哮を堪える。
――裏切られた。
そうしか思えなかった。
胸の奥で荒れ狂う熱を押さえ込もうと、深く何度も息を吸い込んだ。
――落ち着け、落ち着け、と自身に言い聞かせるように。
だが、震える手先はどうにも止まらなかった。
「……レギュラス、違います……」
アランのその否定は、どこか遠くから聞こえる幻のように感じられる。
見え透いた嘘を繰り返される度に、彼の苛立ちは胸の奥を深くえぐり続けた。
この場にいては理性の糸さえ切れると感じ、レギュラスは耐えきれずに決断した。
「……ローブを用意しておいてもらえますか。出かけます」
その言葉だけを告げて、背を向けた。
扉に手をかけた肩越しに映る彼女の姿は、小さく項垂れ、ただ静かに礼をした。
ほどなくして、レギュラスは廊下に現れた。
彼の面差しはかたい。衣服は丁寧に整えられ、すでに気持ちは屋敷の外へ向けられているようだった。
アランは手にしたローブをじっと見つめる。
選ばれたのは、カジュアルにもフォーマルにも無難に対応できるもの。
――よかった。どんな場所でも困らずに済む。
現実から意識をそらすかのように、そんなことにばかり思考を巡らせていた。
身体を覆う布の質感にすらすがるような気持ちでいたのだろう。
このどぎまぎした気まずさに心が押しつぶされそうだったから。
「……どちらへ?」
問いかける声は、沈黙に耐えられなかった自分の言い訳のようにも響いた。
しかし、返事はなかった。
レギュラスはローブを受け取り、視線を合わせることもなくそのまま屋敷を出ていった。
閉じる扉の音が、胸の奥に冷たく響き渡る。
アランはしばらく、両手に残る布の柔らかな感触だけを見つめ、そこに一点の慰めを見いだそうとしていた。
すでに日はとっぷり暮れ、夜の影が広がる中、レギュラスはセシール家の屋敷の門をくぐった。
正式な訪問でも、前もって連絡したわけでもなかった。
それでも、彼は一人でこの家を訪れずにはいられなかった。
迎え入れたのは、当主ロイクとその妻リシェルだった。
「これは……レギュラス様」
ロイクが一歩前に進む。声には緊張が混じっている。
リシェルは穏やかに礼を尽くし、その端正な顔立ちを灯す燭光の下で、レギュラスは静かに思いを馳せる。
――やはり、アランは母譲りだ。
かつてロイクが褒美としてリシェルを望んだ理由も納得できる。
その血脈を受け継ぎ、少女のあどけなさと女性としての美しさを併せ持つアランがここにいるのだ。
応接の間に通され、軽い世間話が続く。
「ホグワーツは……」とロイクが切り出すと、リシェルが微笑を添えながら答える。
「今夏は人材の報告にも追われておりましてな。例年より成果も多かったようです」
「セシール家の若い者たちも、今では魔法省の研究部門や魔法生物規制管理局の部署にお世話になっています」
レギュラスは丁寧に頷き、穏やかな口調で言葉を返す。
「セシール家の皆様が、魔法界にとって欠かせない役職につき、その働きを評価されているのは、僕にとっても大変喜ばしいことです」
ロイクとリシェルの背筋には、喜びに混じったほんのわずかな緊張が走る。
――ブラック家の嫡男が一人で訪れるのは、単なる礼節以上の意味を持つことを察しているのだ。
「ところで……本日のご用件は」
ロイクが姿勢を正し、真剣なまなざしで尋ねる。
レギュラスは一呼吸置き、ゆっくりと口を開いた。
「もしやと思われたかもしれませんが、アランのことではありません」
夫妻の顔に安堵と動揺の色が交錯する。
「アランは本当に……よく働いています。夫人のお美しさをしっかり受け継いで」
言葉を添えるようにリシェルに視線を向け、その端正な容姿を称える。
礼儀正しい言葉に込められた妙な熱。
褒め言葉の裏に潜む底知れぬ意図を、二人は感じ取らずにはいられなかった。
「では…我々の一族に何か粗相でも?」
ロイクは気を取り直して尋ねる。
レギュラスはゆるやかに首を振る。
「いいえ。ではありません。ただ…もしお二人がよければ、セシール家の一族が、もっと高い地位を望めるのではと」
その言葉に夫妻は戸惑いながら、困惑した笑みを交わした。
『大きな地位』は誰もが願うもの。無関心でいるはずもなかった。
だが、一族の将来を語る重大な提案が飛び出すとは。
レギュラスはにこやかに微笑んだが、その瞳だけはぶれることなく強い意思が宿っていた。
――セシール家の出世欲を呼び覚まし、その見返りに、アランを名実ともに自分のものとする計略。
冷徹でありながら完璧に仮面を被り、社交の場で崩すことなく、彼は深い算段を隠して振る舞っていた。
レギュラスの放った一言が、広間の空気を深く震わせていた。
煌めく燭台の光が壁に柔らかな影を落とし、床を覆う絨毯の深紅がその緊張をさらに濃くする。外は秋の夜。窓の向こうでは風が木々を揺らしていたが、この場に漂う静寂はそれを遥かに上回って重く、冷ややかだった。
ロイクの耳に届いた言葉――「大きな地位」。
それは蜜のように甘く、同時に毒のように鋭い響きを帯びて心臓を貫いた。彼の声が僅かに揺らぐのも無理はなかった。努めて平静を装っているものの、抑えきれぬ昂ぶりが眼差しに滲み出る。そこには、競り合うように渦巻く期待と欲望の光があった。
レギュラスは、その揺らぎを見逃さなかった。むしろ、確信を深めていた。
――ロイクとはそういう男だ。
かつて、オリオンから「褒美を選べ」と告げられた時、彼が迷わず願い出たのは、当時王宮にいたリシェルの存在だった。それは世間の常道からすれば非難されるべき選択であろう。しかしレギュラスは軽蔑しなかった。むしろ「己が欲したものを、恥じることなく求めるその性根」を理解し、共感すら覚えたのである。
だからこそ分かる。
この男が出世や名誉に心を動かされぬはずがないことを。
「例えばですが……ロイク殿。魔法省・国際魔法協力部の次席の座など、お望みではありませんか」
軽やかに告げられた一言は、刃を忍ばせた花のようだった。
次の瞬間、言葉の重みに耐えかねたように、室内の空気が大きく揺らぐ。
ごくん――と鳴った喉の音は、誰の耳にも届くほど露わだった。ロイクは息を呑み、その胸がわずかに早鐘を打つ。
一方で、リシェルの面は強張り、次第に蒼ざめていく。夫の横顔を視線で必死に追いながら、その眼差しには恐れと不安の影が広がっていた。
「……それは……あまりに、もったいない地位でございます、レギュラス様……」
ロイクが声を震わせつつも応じる。
魅了されながらもどこか慎重な声音。しかし己の内心がどれほど揺れているのかを隠しきれなかった。
「では……見返りとして、私どもは何を差し出せば」
その問いを口にしたのは、リシェルだった。
張り詰めた静寂を恐る恐る破るように、しかしそこには母としての警戒と不安が濃く滲んでいた。彼女は、与えられるものの内に潜む落とし穴を直感していたのだ。
レギュラスは静かに彼女の視線を受け止め、唇に微笑を浮かべる。
その微笑は冷徹ではなく、むしろ優しさすら感じさせるもので――だが同時に、彼女の賢さを称えるような響きを帯びていた。
「―― アラン・セシールを」
囁くように、しかし一切の曖昧さなく。
柔らかな声音で紡がれた名は、雷鳴以上の衝撃となってリシェルの心臓を打った。
刹那、彼女の瞳が大きく見開かれる。
喉の奥で息が途切れ、声にならぬ悲鳴が零れ落ちる。視界に映る世界が一瞬にして揺らぎ、全身の血が冷たく凍り付いていく。――自分の娘を「見返り」として差し出せ、と。母としての本能が激しく反発し、魂を震わせた。
ロイクは声を出さぬまま沈黙していた。
だが、その目は「理解を拒んでいる」のではなかった。むしろ、確かにその意味を噛みしめつつ、遠い日の記憶を呼び起こしている。
――あの時。
まだ若き自分が与えられた選択の褒美として、迷うことなく「リシェル」を選んだ夜のこと。自らの欲を叶えるために手を伸ばした過去。
そして今、巡り巡って。
同じ構図が、皮肉にも自分の前に差し出されている。
愛するはずの娘が、報酬として求められている――その冷徹な現実を前に、ロイクの心は残酷な自己の影を重ねていた。
広間は沈黙に閉ざされる。
静謐ながらも重苦しい緊張が、堆積した夜の冷気よりも濃く漂い、すべての呼吸を鈍らせていった。
燭台の炎すらも、どこか憂いを帯びたように揺らめき、まるでこの場の誰もが避けられぬ運命に捕らわれたことを告げているかのようだった。
広間に漂う空気は、ひとしきりの沈黙とともに濃縮されていった。
わずかに揺れたロイクの反応を読み取ったその瞬間から、レギュラスの心には動かぬ確信が形を結んでいた。
――この要求は、必ず飲まれる。
そう思うだけの根拠を、彼はすでに掴んでいるのだった。
だが、その場に澄んだ声が割り込んだ。
「……ですが、レギュラス様」
静謐な水面に一石を投じるように。
その声の主は、リシェルであった。
細やかに震えるながらも、芯を持って響く声音。その眼差しはまっすぐにレギュラスを射抜いていた。怯みながらも退くことを知らぬ強さが、そこにはあった。彼女は今、夫の妻としてでもなく、貴族の令嬢としてでもなく――母として、一人の女として立ち上がっていた。
「あなたにはすでに、ロズィエ家との縁談が決まったばかりではありませんか」
きっぱりと告げたその言葉は、緊張に押し潰されそうな空間を確かに揺すった。
広間の燭火が微かに揺らぎ、壁際に影を伸ばす。
彼女の思いはひとつだった。
娘を、この場で「取引用の駒」として差し出されることのないように――。
それは純粋で、抗いがたい母の愛だった。
純血一族にとって、正妻の座と複数の妻を持つことは珍しくはない。血筋を広げ、絶やさぬための当然の慣習にすぎない。理由や建前など、いくらでも用意できるだろう。だが、それでも。
リシェルは知っていたのだ。かつて、愛する人と引き裂かれ、この屋敷に嫁がされたあの日以来、己の心に焼き付いた苦痛と孤独を。
二度と、その影を娘にまで背負わせるわけにはいかない――そう、彼女は願っていた。
張り詰める沈黙を、レギュラスが切り裂いた。
その声音は穏やかで、細心の計算を施した調子で。
「……もしアランに、男児を産んでいただければ――」
静かに流れ出た言葉は、広間の冷気を一瞬で揺るがす。
ぐらり、と場の空気そのものが動いたかと思えるほどに。
「その時は――ロズィエ家の縁談を凌ぎ、ブラック家の正妻の座へと引き上げることも……不可能ではありません」
その一言が持つ甘美な響きに、ロイクの表情は明らかに変わった。
頬に走ったのは動揺ではない。
瞳の底に宿ったのは、隠しきれない欲望の色。
ブラック家の正妻――。
それはセシール家にとって夢想すら届かぬ高み。純血の名家の中枢に娘が座すということは、すなわち未来永劫、栄誉と誇りが約束されるということ。
ロイクの息は浅くなり、その心臓の鼓動は抑えられぬほどに高鳴り出していた。
一方でリシェルは、息が詰まるような胸の痛みに耐えながら夫を見ていた。
その瞳は震え、深い祈りを宿している。
――どうか、目を覚まして。
――どうか、欲に呑み込まれないで。
だが、その願いは虚しく見えた。
ロイクの視線はすでに未来を見ていた。
栄光に満ちた未来を。
一族の名を高め、己を取り巻く者全てが頭を垂れるような、夢にすら見なかった未来を。
そこに映るのは、栄達、権威、永劫の誇り――そしてそれらを得る代価として、娘の背を突き出すことすら厭わぬ欲望の影。
リシェルの指先は膝の上でかすかに震えていた。
その震えは決して自分のためのものではない。未来を奪おうとしているこの残酷な場に、抗う力を失いつつある娘のために。
けれど届かぬ。
夫の瞳には、もはやその訴えが映っていない。
レギュラスは微笑の奥に、冷徹な意志を隠していた。
その笑みは柔らかく、人を魅了するものですらあったが、その内側にうごめくものは冷たい刃に等しかった。
そして広間の空気そのものを掌握していく。
静かに、確実に。
すべては彼の描いた構図の通りに、歩を進めていくのだった。
燭火の揺らめきが天井の模様をほの暗く照らし、広間の空気はいよいよ重く淀んでいた。
その沈黙の只中で、低く静かな声が落ちる。
「…… アランには、何を伝えればよろしいのでしょうか」
ロイクの声音には、もはや一切の迷いがなかった。
彼の眼差しは確固としており、揺らぎは影も形もない。
妻の震える視線も、哀願にも似たその訴えも――あたかも空気に溶けて存在しなかったかのように、彼は無視した。
望み得ぬほどの地位を、権力を、未来を己の手に収めんとする確信だけがそこにあった。
その言葉を受けた瞬間、レギュラスの口元が自然と綻ぶ。
――決まった。
胸に広がるのは、冷ややかながら揺るがぬ勝利の確信であった。
「セシール家の輝かしい未来のためにも……」
穏やかに紡がれる響き。
けれどその声音の奥底には、決して拒むことのできぬ力が秘められていた。
「ロイク殿の口より、直接アランにこの話をしていただければと思います」
「……もちろんでございます」
即座に応じるロイクの声は、欲に酔った男のそれだった。
瞳には抑えきれぬ光が宿り、もはやその心は一族の栄達と名誉の未来に完全に囚われていた。
その横で、リシェルは必死にただ夫を見つめていた。
その眼差しは揺れ、今にも涙に滲むかと見紛うほどだった。
けれど、抗う思いは声となって響くことなく、喉元で押し潰される。
彼女の内にある恐怖も怒りも、ただ沈黙の内に飲み込まれてゆく。
――その瞳は、やはりアランとよく似ていた。
そのことに気付いた瞬間、レギュラスの胸の奥に、ひとつの衝動が芽吹いていた。
どうしようもなく、ねじ伏せたくなる。
従わせ、抗う余地を奪ってしまいたくなる。
リシェルがかつて、自らの意思を曲げさせられ、哀しいまでに従わされ、この屋敷に嫁ぎ入ったように――。
今度はアランを。
彼女が光として仰いでいたシリウスを諦めさせ、その夢も想いも手放させ、その分すべてを自らのもとに縛り付けたい。
そんな黒い欲求が、深く、静かに、彼の心を満たしていった。
「……ロイク殿のご決断に、心より感謝申し上げます」
優雅な微笑のままに告げるその言葉は、場を完全に支配する印となった。
この場を去れば、夫妻の間に争いの火がともるだろう。
リシェルは間違いなく、必死に夫へ訴えるに違いない。
誠実さを、道徳を、人の心を――そのすべてを渇望する魂で。
しかし。
そんなことは、レギュラスにとって何の意味も持たなかった。
一度、欲と野望を己の口より吐き出してしまえば、人はもう二度と切り離すことなどできない。
ロイクはすでに後戻りなどできなかったのだ。
その事実を知る者であるレギュラスの歩みには、いささかの揺らぎもなく、勝者の足取りそのものがあった。
夜の冷気をはらんだ廊下を抜け、彼は屋敷を後にした。
背後に残されたのは、光に縛られることのない勝利の余韻と――母の胸を締め付ける、深い沈黙だけだった。
セシール家の重厚な扉を押し開けると、広間に父と母が待ち受けていた。
父の眼差しは明るく、誇らしげですらあった。
一方で、母の顔には複雑な影が落ちている。
その眉間の皺、憂いを帯びたまなざし―― アランが幼い頃から幾度も見てきた「悲しみを押し殺した時の顔」だった。
胸に走る緊張をなんとか押し隠しながら、アランは声を絞り出す。
「……お父様。何か、あったのですか?」
ロイクはためらいもなく微笑を広げた。
その顔には歓喜がにじみ出ており、まるで長年欲していた栄誉をようやく手中に収めたかのような輝きがあった。
彼は娘を広間のソファに導き、手のひらで座らせる仕草すら、誇らしげに満ちていた。
「…… アラン。レギュラス様が――お前を正妻にできる可能性があると仰ってくださったのだ」
その言葉は、鉛の槌のごとき衝撃で頭に響いた。
「……!」
声が喉の奥で絡まり、息すらうまく整わない。
あの日――レギュラスが激昂して屋敷を出ていった姿が映し出される。
その足で、自分の家を訪れていたのだ。
真実を今になって知らされ、アランは全身の感覚が一気に崩れ落ちるような喪失感に包まれた。
震える声で、なんとか問い返す。
「……お父様。その話を……間に受けたのですか?」
言葉にせずとも理解できてしまう。
父は一族のさらなる出世を条件に、すでに「何か」と引き換えの約束を交わしてしまったのだ。
しかし――その代価に自分の娘の人生を差し出そうなど。
想像だけで胸が凍る。恐ろしすぎて立ち上がれぬほどに。
「…… アラン、あなたが気が進まないのなら、無理をしなくていいのよ」
母がそっと身を寄せ、震える娘の手を取った。
その掌のあたたかさが、冷えきった胸に光をともす。
声には母としての深い願いが込められ、ただひとつの救いのように響いた。
けれど――父は違った。
父は、もう別の場所を見ている。
「考えてみなさい、アラン。一族の未来がかかっているのだ。ブラック家の正妻にまで登り詰められたら……全ての栄華が手に入る」
その言葉は誇らしく、確信に満ちていた。
彼の眼差しは揺らぐことなく、ただ前への道だけしか映していないように見えた。
アランには分かる。痛いほどに。
父はこれまでオリオンの信頼を背負い、多くの躍進を果たしてきた男だ。
娘である自分が新たな可能性の鍵となると知った以上、その野心が歯止めを失うのは当然のことだった。
――そしてその未来。
父の言葉が示す「栄光」と呼べるものは、アランにとってただ重苦しく冷たい鎖そのものだった。
胸を押し潰すのは、一族の未来か、自らの心か。
どちらかを選ばねばならぬと迫られる地平に、彼女は立たされていた。
だが、流れる血と愛する心とが、決して一つには重ならない。
彼女の喉の奥で、言葉にならぬ呻きが震える。
その音は声にはならず、ただ沈黙として広間に溶けていった。
ロイクの差し出した手は、祈りを捧げるように、しかしあまりにも強引にアランの手を包み込んでいた。
その指は父の威厳の象徴のように力強く、逃れることを許さない。
その眼差しには、父なる温情よりも、強欲と栄誉の炎が宿っていた。
その光は誇らしくもあり、同時に、アランにはあまりに残酷なものと映る。
「…… アラン。男児を産むのだ。そうすれば、ロズィエ家など目ではない」
声に宿るのは、確信。未来をすでに選び取っている男の声音。
彼の目には迷いはひとかけらもなく、ただ一族の空高くそびえる未来だけが映っていた。
だが、娘の胸はその言葉の重さに押し潰されそうだった。
――お父様。
愛していないわけではない。
幼い日々、母と共に大切な花を育てるように、慈しみ、守ってくれた父だった。
その背広越しに見上げた肩の広さに、何度も安心感を覚えた。
その恩に応えたい気持ちも、本当は変わらず胸の奥に息づいている。
けれど――これは、あまりにも酷すぎる。
「レギュラスの子を産み、確固たる地位をつかめ」
父のその期待は、まるで栄光の約束のように響くけれど――。
アランには夢ではなく、呪いの声に等しかった。
その未来に自分を縛れば、魂の自由も愛する心も捨て去らねばならない。
それは生きながらにして閉ざされた檻であった。
夜。屋敷に静けさが降りる頃、母リシェルと二人きりになる時間が訪れた。
薄明かりのランプが円く灯り、部屋の空気には仄かな花の香りが溶けていた。
リシェルは娘の前に腰かけ、その細やかな眼差しを向ける。
瞳の奥は凛として揺るぎなく、それでいて痛みと優しさが静かに滲んでいた。
「…… アラン。気が進まない顔をしているわね」
その穏やかな声が胸に響き、アランは堪えていた心の奥を少しずつ吐露していく。
「……お母様。お父様のことも、一族のことも、考えていないわけじゃないの。でも……」
そこまで口にして、言葉は途切れた。
声にならない思いが、のど奥で詰まる。
――シリウスと歩みたい。
そう望む夢を抱えていることなど、母にすら告げられなかった。
彼の名を出した途端、あまりに儚く、危うく、その夢が砕け散ってしまう気がしたのだ。
リシェルは、娘の言葉にならなかった続きを悟ったようだった。
哀しくもあたたかな眼差しを向け、静かに言葉を紡ぐ。
「…… アラン。私の長い人生の中で、あなたただ一人が……私の光だった」
その声は震えていたが、芯があった。
娘の存在だけが、この数十年、自分を生かしてきたと語る眼差し。
「……お母様……」
まなじりが熱くなる。
呼びかける声は掠れ、涙がこぼれそうになる。
「だから――光の中を歩いていくことを、諦めなくていいの」
母の言葉は抽象的で、すぐさま意味を掴めるものではなかった。
けれど確かに響いた。
それは命令ではなく、未来を案じ、娘の幸せをただ祈っての言葉だった。
アランの胸の奥に、ふと灯がともる。
父の重圧も、地位という鎖も、母の言葉のやわらかさの前ではすこし遠く霞んでいく。
彼女は唇を噛み、母の手を強く握り返した。
その温もりに包まれるうちに、冷え込んでいた心がわずかに柔らかくほどけていく。
母の手のひらは、小さな灯火のように確かな熱を宿していた。
現実と夢との狭間で揺れる自分をまだ繋ぎ止めてくれる糸――それは、この人だけだった。
屋敷の大扉をくぐった瞬間、湿った空気の奥にひそむ気配が、息を呑むほど鮮烈にアランを包んだ。
まるでこの帰りを予期していたかのように、広間の中央にレギュラスが立っている。磨かれた大理石の床に、長いマントの裾が淡く反射して揺れ、その姿をよりいっそう大きく見せていた。
彼の顔は驚くほど晴れやかだった。勝者にしか許されない余裕と、隠しきれない自負の光がその瞳に宿り、周囲の空気までもが一瞬にして張りつめる。アランの心臓は胸の奥で小さく、けれど痛いほどに跳ねた。
「……ごゆっくりできましたか?」
低く響く声が静寂を切り裂く。柔らかく差し出された言葉の奥には、相手を気遣うふりをした冷たさが潜んでいた。逃げ道を用意しているようで、実はどこにも用意されていない、そんな響きだった。
「……ええ、それなりに」
喉を押し出すように答えた声は、かすかに震えていた。小さく頷いたものの、視線だけはどうしても合わせられない。目を見てしまえば、胸の奥に渦巻く怒りや戸惑いが声となってあふれ出てしまう――。父母を思い通りに操り、出世と栄華という餌で娘を縛ろうとする男のやり口に、叫んでしまいそうになるからだ。
だが、従者という立場のままでは、主人に苦言を呈することは許されない。口に出せない掟を知っているがゆえに、アランは震える喉を必死に押さえ、「あんまりだ」と叫びたい衝動をひたすら飲み込んだ。
「どうです? あなたも……考えてみましたか?」
何気ない調子で重ねられた問い。優しく甘やかすように響く声色の奥には、「考える余裕すら与えず、応じる以外に道はない」という圧が隠されている。ノーなど言えるはずがない。彼もそれを分かっていて、あえてこの言葉を投げかけるのだ。
胸が、内側から押し裂かれるように痛んだ。
声は空を切り、喉はからからに乾く。舌の奥がひりつくほどの緊張の中で、アランは深く息を吸い、ようやくの思いで言葉を紡いだ。
「……仕事に戻ります」
問いに応じず、ただ逃れるために選んだ短い一言。それは答えを避けた返答にすぎない。けれど、アランにとっては、それが精一杯の抵抗――小さな反抗の灯だった。
身を翻し、その場を離れようとした瞬間、鋭い力が腕を掴んだ。
ぎり、と骨が軋むような圧迫。皮膚に深く食い込む指先。息が詰まり、目を見開く。ジリジリとした痛みが、やがて熱へと変わっていくのが分かった。
――だが、顔を上げると。
そこにあったのは、怒りや冷徹な表情ではなく、誰をも魅了しそうな柔らかな笑顔だった。
優しさを装いながら、一切の慈悲を許さぬ眼差し。刺すような痛みと、穏やかすぎる微笑み。その落差があまりに異様で、アランの心は深く凍りつく。
「…… アラン。セシール家のためにも――正しい道を進みましょう」
囁くその声は甘く、同時に背筋をふるえさせるほど冷たい。
その一言が鎖のようにアランの胸に絡みつき、抜け落ちない重みとなってのしかかる。“血を継ぐ者”としての正しい道――。その響きは、血筋に縛られながら彼女の心からすべての選択を奪っていく。
アランにとってそれは、未来を生きることではなく、魂の死と同じ意味を持っていた。
声にならない叫びを胸の奥に押し隠し、唇を固く閉ざす。
痛みと恐怖に震える身体を、どうにか静かに取り繕いながら――。
その沈黙こそが、彼女に許された唯一の抵抗だった。
その夜。屋敷全体を包む空気は、昼間の華やかさを失い、ひどく重く静まり返っていた。廊下の奥で遠くに響く時計の針の音さえ、深い湖に沈んでいく水滴のように鈍く感じられる。
アランはひとり、部屋のソファに身を沈めていた。背凭れに凭れかかる身体は硬く、足先まで張りつめている。膝の上に置いた手は無意識に強く握られ、爪が白く立っていた。
蝋燭の細い焔が卓上で揺らめき、壁に淡い影を波打たせる。淡く頼りない光は、暗い海の底に沈んでいくようなアランの思考を支えるにはあまりに心もとなく、むしろその孤独を際立たせていた。
父の言葉、母の眼差し、そしてあの冷たい選択を迫った男――すべてが胸の奥に重石のように積み重なり、息を吸うたびに胸郭が軋む。何度深く息をしても、絡みついた鎖は解けない。
そのとき、空気を破るように扉を叩く音が響いた。小さく、それでいて拒むことのできない確かさをもって。
「…… アラン」
名を呼ぶ声が続き、扉が静かに開いた。そこに立っていたのは、昼間の彼と同じ男――レギュラスだった。
反射的に立ち上がろうとしたアランの肩に、やわらかな手がそっと添えられる。
――立たなくていい。
その手から伝わる微かな体温が、言葉より先に胸へ沁み込んでくる。
「……勝手にセシール家に赴いたことは、詫びます」
暗い沈黙を裂くように低い声が落とされた。それは意外なほど素直で、謝罪の響きを帯びていた。
アランは視線を逸らし、小さく答える。
「……いえ。私は従者です。咎める権利などありませんから」
その声には、自分でも驚くほどの冷たさが宿っていた。境界線を示す響き――主人と従者、二人を隔てる立場という壁を、あえてここで引き直すための棘のある言葉。
その一言が、レギュラスの胸に深く突き刺さる。蝋燭の明かりのもとでさえ、彼の表情が陰影に沈むのが見て取れた。どこか苦しげに息を呑み、それでも必死に声を紡ぐ。
「…… アラン。愛しているのは本当です。僕はあなたを守りたい。脅したり、縛ったりしたいわけじゃない。そのことだけは、信じてください」
真摯な声音。駆け引きや方便のためではなく、胸の奥底から溢れた想いがそのまま言葉になっている。必死さが部屋の温度をわずかに変え、焔が揺れるたびに影の輪郭が動く。
だがアランは、ゆっくりと首を横に振った。翠の瞳に光と影が交錯し、その揺れのなかで静かな拒絶が告げられる。
「……レギュラス。私は頷けません。あなたの行動は、ロズィエ家の令嬢を虐げるものです。それを肯定するようなことは……とても言えません」
その声はか細いながらも確かで、揺らぎのない拒絶だった。
レギュラスはしばし黙し、影の中に思索を沈める。そして静かに唇を開いた。
「……カサンドラにとっても、その方がいいはずです」
胸の奥がざわめく。声を詰まらせながらも、アランは食い下がる。
「――どうして、そんなふうに言い切れるのですか」
レギュラスは真っすぐにアランを見つめ、淡々と答える。
「親同士が決めた婚姻です。そこに愛などあるはずがない。……僕だけでなく、向こうもきっと同じ気持ちでしょう」
蝋燭の火が、ふっと大きく揺れた。壁の影が音もなく伸び、ふたりの輪郭を曖昧に飲み込んでいく。
「愛情だの、運命だの。そんなものをいきなり抱けと言われたところで、人は抱けません。僕たちがするのは――互いに自由を認めること」
静かに、しかし強い意志を含んだ声音が続く。
「カサンドラには、彼女自身のやりたいように生きてもらえばいい。その代わりに……僕にも、自由があっていい」
論理は洗練され、穏やかな調子に包まれていた。けれど、その理屈の裏に潜むもの――冷徹な計算の奥に潜む熱、執着は隠しきれない。
「……そうすれば軋轢もない。体裁だけの婚姻を取り繕うより、よほど健全ではありませんか」
瞳を逸らさず、ただアランのみを見つめ続けるレギュラス。そのまなざしはきわめて静かで、逃げ場のないほど強い。
アランは答えることができなかった。その言葉が合理的であることを、理屈として理解してしまうからだ。冷静に思考すれば、否定する理由が見つからない。
けれど――胸の奥に燃える拒絶の炎だけは、決して消えることがなかった。
“誰かを犠牲にして成り立つ愛”。
それを、自分は肯定できない。
その想いは声にならぬまま唇の奥で熱を孕み、ただ静かな沈黙の中で、切なくも確かに燃え続けていた。
夜は深く、屋敷はまるで時間を止めたように静まり返っていた。
厚いカーテンの隙間からは月の光も差し込まず、蝋燭の灯だけが孤独に揺れ、壁に長い影を落としている。揺らめくその影は、波紋のようにかすかに形を変え、部屋全体を仄暗い水底のように見せていた。
その薄闇の中で、レギュラスはそっとアランの手を取った。
長い指が絡む。掌を強く、決して離すまいとするように握りしめる。彼の掌には、微かな震えと熱があった。温もりを逃すわけにはいかない――そのぬくもりが、自分を生かす唯一の拠り所であるかのように、彼は必死に指先で確かめる。
やがて、握った手を辿るように身を寄せ、レギュラスは静かに唇を重ねた。
蝋燭の光がその瞬間だけ、ひときわ強く揺れ、ふたりの影を重ね合わせる。
柔らかな感触が、そっと触れ合った。
――あの日、はっきりと拒絶を突きつけられて以来、初めての口づけだった。
忘れられるはずがなかった。
あの拒絶の記憶は、無言の刃となって幾度も胸を抉り、冷たい傷痕のように残り続けていた。だからこそ、今、こうして彼女に触れ、拒否されることなく受け止められるこの瞬間を、過去の記憶の上から塗り替えたかった。胸を締め付け続けてきた苦い過去を、許しと安らぎの記憶で浸食するように。
アランは拒まなかった。
ただ静かに受け入れ、身じろぎもせず――彼を正面から受け止めた。
その沈黙の許容だけで、レギュラスの心は柔らかくほどけていく。
荒れ狂い、荒波のように胸を支配してきた焦燥と不安が潮のように引いていき、波の去った浜辺のように心は静謐な安堵に包まれた。
――ようやく平穏を手にできる。
そう強く確信した。
彼女の肩をそっと押し、ふわりとソファへ沈めていく。
柔らかな体温が、自分の手を通して流れ込むたび、胸が温かな充足で満たされた。
蝋燭の光は淡く頬を撫で、息づかいはさざ波のようにかすかに揺れる。
唇はまだ離れず、ゆるやかな触れ合いは次第に深さを増していく。
一度結ばれたものに、さらなる力が注ぎ込まれ、結びつきはより確かなものとなっていった。
静かな吐息が、アランの唇から小さく漏れる。
それは拒絶ではなかった。むしろ、戸惑いに混じるひとときの「驚き」のように聞こえた。
その響きに、レギュラスの胸は満たされていく。
渇望を潤す源泉のように、その呼吸のわずかな揺らぎすらが甘美だった。
重なり合った感覚が限界を超え、ひとつの境界を越えたその瞬間――。
渦巻いていた不安も、繰り返される怒りも、果てしない焦燥も。
すべてが霧のように滲み、消え去っていった。
曖昧に混ざり合う感覚の中で、二人を隔てていたはずの境界線は薄れ、溶けていく。
肉体の悦びと、精神の安堵。
相反するふたつが絡み合い、幸福という名の形を確かに築いてゆく。
――これこそが、未来へ至る道標。
レギュラスの心にそう告げる声が響いていた。
もはやそこに曇りはない。
悲しみも、孤独も、激しい憤りさえも塗りつぶされ、ただ安堵と光に満たされていく。
彼の描いてきた数々の未来図が、すべて揺るぎない希望の光へと一点に収束していく――その錯覚が、確信に変わるほどに。
アランを抱くその腕の中で、レギュラスは、ついに手放しかけていた幸福を掌に収めたのだと、深く信じ込んでいた。
部屋は夜の静寂に深く沈んでいた。窓は厚いカーテンで覆われ、外の世界を断ち切るように閉ざされている。唯一の光源は、古びた燭台に立てられた一本の蝋燭だけだった。炎はかすかに揺らめき、壁に長く不定形の影を映し出す。その影が呼吸をするようにゆらぎ、部屋の空気は重く湿った闇で満たされていた。
その闇の中、レギュラスの腕に沈み込むアランの姿は、まるで捕らわれた小鳥のように脆く、静かだった。胸元に頬を寄せると、彼の体温は確かにそこにあり、腕の重みが逃げ道を塞ぐように感じられる。
――私は、このまま「正しい道」を歩むのだろうか。
閉じた瞼の裏で、アランは問いかける。父も母も、家のためだと繰り返し言ってきた。自分を誰かに差し出すこと、それが義務であり誇りだと信じ込まされてきた。だが、いま胸に感じるのは、誓いでも献身でもなく、冷えた鉄鎖の感触に似ていた。
レギュラスは「愛している」と言葉にする。だがその愛は、彼女を自由に羽ばたかせるものではなく、縛り、閉じ込めることで安堵を得ようとするもののように思えた。そう考えるたびに、胸の奥がじわじわと冷えていく。言葉も、涙も、凍りつく。自分が今どこにいるのか、何のためにここにいるのかさえ、輪郭が曖昧になる。
――けれど。
沈み込む思考の底から、自然とひとつの名が浮かび上がる。
「……シリウス」
その名を心でそっと呼ぶだけで、胸の奥に明かりが灯るようだった。鮮やかな光景が、音も匂いも一緒に甦る。マグルの街の夜風の中、笑い合いながら歩いた道。指輪を並べて選んだ瞬間の、あの目の奥の光。ゴミ袋を投げ出し、靴も気にせず必死に光を追いかけた自分――あの頃の自分は、臆病さも従者という立場も忘れ、ただ「彼と共に生きたい」という衝動だけで走っていた。
――本当の自分は、あそこにいる。
レギュラスの腕に捕らわれながらも、アランは心の奥で必死に祈った。どうか、あの光に向かってもう一度立ち上がれますように、と。自分を縛るものから抜け出し、あのときの自分のままに、もう一度。
「……」
小さく目を閉じる。まぶたの裏には、蝋燭の光がぼんやりと揺れている。その淡い明かりのように、アランの胸の奥でも、小さな希望がかすかに瞬いていた。押し潰されそうな沈黙の中、ただシリウスの名だけが、唯一の抵抗のように、か細くも確かに心を燃やし続けている。
彼の瞳には無事に戻ってきたことへの安堵が確かに浮かんでいたが、それだけでは足りなかった。
胸の奥には消えない疑念が絡みつき、彼女の行動すべてを把握したいと強く願っている。
「……で、アラン。誰と、どこにいたんです?」
穏やかに尋ねたはずの声は、不思議と詰問めいた響きを帯びていた。
アランはわずかに視線を落とし、震える唇を動かす。
「……友人の家です」
だが間髪入れずに返ってきたのは、鋭い灰色の瞳を輝かせながらの言葉だった。
「……あなたに、そんな友人がいました?」
幼い頃からずっと共に過ごしてきた交友関係を把握しているはずのレギュラスは、彼女の言葉の裏に隠された何かを感じ取る。
「――ルームメイトに、マリエッタとか。クラリッサ、それから……ダフネもいましたね」
彼女の周りにいた友人たちの名を一つひとつ思い返しながらも、知らない時間や場所が彼女の奥に潜んでいる感覚に胸を締めつけられた。
――もし、自分の知らない真実があるのだとしたら?
その恐怖で彼の心は重く、足元も揺らいだ。
アランのことはすべて知り尽くしていたい。知らなければ自分を保てない。
沈黙がゆっくり落ちると、アランは顔を上げず、唇を噛みしめた。
その静かな息遣いに含まれる苛立ちはじわりじわりと膨れていき、沈黙そのものが隠し事の証明に思えた。
「……何か言ってはどうですか」
レギュラスの声は低く、強く、辛抱を失っていた。
アランは肩を震わせ、小さく彼の名を呼ぶ。
「……レギュラス……」
その声には、疲弊と懇願が濃く混じり、まるで「お願いだから、もうやめて」と伝えるかのようだった。
だが、レギュラスは止まれなかった。
「……お願いです、アラン。本当のことを――教えてください」
祈るように、すがりつくように紡がれる言葉。
だが彼女は口を閉ざし続けた。
その沈黙が、もっとも耐え難い裏切りの証であるかのように胸に重くのしかかる。
胸の奥がじりじりと焼けるように熱く、怒りと悲しみが混ざり合った熱が沸き上がっていった。
愛する者が何も語らぬ――ただそれだけで。苛立ちは激しい怒りへと変貌していく。
苛立ちはもはや抑えられなかった。
――どこまで強情な女なのだ、と。
胸の奥で熱が膨れ上がり、罵りたくなるほどに理性は遠のいていた。
問い詰めれば問い詰めるほど、アランが口を割ることはないだろうと分かっていた。
視線を逸らし、沈黙を選び続け、ただ逃げるだけ。
それでもここまで来て、彼ははっきり理解したのだ。
――答えはおそらく、一つしかない。
シリウス・ブラック。
だから言えない。言うことができず、必死に黙っているのだ。
鼻で笑うように短く息を吐くレギュラス。
「……シリウス、なんですね」
その鋭い問いに、アランはまるで弾かれたように顔を上げ、掠れた声で必死に否定した。
「ち、違います!」
ようやく口を開いたかと思えば、一心不乱に言い切ろうとする否定。
しかし、それが余計に疑念を深めるだけだった。
黙っていればまだ疑いの影に留めておけただろうに、こんなに必死な否定はかえって「何か隠している」と告げているようなものだった。
「……丸一日ですか。どこに行ったんです?」
「……違います」
震える声で同じ言葉を繰り返す。レギュラスは鋭く問い詰める。
「どこまでしてきたんです?」
その一言一言が胸をえぐるように突き刺さり、アランの震える声には涙さえ滲んでいた。
「違うわ……もう、やめて……」
切実な懇願。その声は小さく震え、必死で彼の言葉を止めようとしていた。
だが、やめてほしいのは自分自身だった。
――またシリウスの名が胸をかき乱す。
何度同じ痛みに耐えなければならないのか。
いい加減にしてほしいと、魂から願った。
丸一日、二人きりで過ごしたという事実。
たとえ確かめるすべを持たなくとも、想像することは容易だった。
男女が同じ時間を共有し、夜を越したのなら、そこに無垢な交わりがなかったなどと考えられなかった。
その口で自分に「やめて」と叫び拒絶していたくせに、シリウスには愛を囁いたのか。
その光景だけが頭を支配し、視界はやがて真っ赤な霞に染まっていった。
怒りが胸の奥で爆ぜ、理性など吹き飛ばされそうになりながらも、喉の奥で咆哮を堪える。
――裏切られた。
そうしか思えなかった。
胸の奥で荒れ狂う熱を押さえ込もうと、深く何度も息を吸い込んだ。
――落ち着け、落ち着け、と自身に言い聞かせるように。
だが、震える手先はどうにも止まらなかった。
「……レギュラス、違います……」
アランのその否定は、どこか遠くから聞こえる幻のように感じられる。
見え透いた嘘を繰り返される度に、彼の苛立ちは胸の奥を深くえぐり続けた。
この場にいては理性の糸さえ切れると感じ、レギュラスは耐えきれずに決断した。
「……ローブを用意しておいてもらえますか。出かけます」
その言葉だけを告げて、背を向けた。
扉に手をかけた肩越しに映る彼女の姿は、小さく項垂れ、ただ静かに礼をした。
ほどなくして、レギュラスは廊下に現れた。
彼の面差しはかたい。衣服は丁寧に整えられ、すでに気持ちは屋敷の外へ向けられているようだった。
アランは手にしたローブをじっと見つめる。
選ばれたのは、カジュアルにもフォーマルにも無難に対応できるもの。
――よかった。どんな場所でも困らずに済む。
現実から意識をそらすかのように、そんなことにばかり思考を巡らせていた。
身体を覆う布の質感にすらすがるような気持ちでいたのだろう。
このどぎまぎした気まずさに心が押しつぶされそうだったから。
「……どちらへ?」
問いかける声は、沈黙に耐えられなかった自分の言い訳のようにも響いた。
しかし、返事はなかった。
レギュラスはローブを受け取り、視線を合わせることもなくそのまま屋敷を出ていった。
閉じる扉の音が、胸の奥に冷たく響き渡る。
アランはしばらく、両手に残る布の柔らかな感触だけを見つめ、そこに一点の慰めを見いだそうとしていた。
すでに日はとっぷり暮れ、夜の影が広がる中、レギュラスはセシール家の屋敷の門をくぐった。
正式な訪問でも、前もって連絡したわけでもなかった。
それでも、彼は一人でこの家を訪れずにはいられなかった。
迎え入れたのは、当主ロイクとその妻リシェルだった。
「これは……レギュラス様」
ロイクが一歩前に進む。声には緊張が混じっている。
リシェルは穏やかに礼を尽くし、その端正な顔立ちを灯す燭光の下で、レギュラスは静かに思いを馳せる。
――やはり、アランは母譲りだ。
かつてロイクが褒美としてリシェルを望んだ理由も納得できる。
その血脈を受け継ぎ、少女のあどけなさと女性としての美しさを併せ持つアランがここにいるのだ。
応接の間に通され、軽い世間話が続く。
「ホグワーツは……」とロイクが切り出すと、リシェルが微笑を添えながら答える。
「今夏は人材の報告にも追われておりましてな。例年より成果も多かったようです」
「セシール家の若い者たちも、今では魔法省の研究部門や魔法生物規制管理局の部署にお世話になっています」
レギュラスは丁寧に頷き、穏やかな口調で言葉を返す。
「セシール家の皆様が、魔法界にとって欠かせない役職につき、その働きを評価されているのは、僕にとっても大変喜ばしいことです」
ロイクとリシェルの背筋には、喜びに混じったほんのわずかな緊張が走る。
――ブラック家の嫡男が一人で訪れるのは、単なる礼節以上の意味を持つことを察しているのだ。
「ところで……本日のご用件は」
ロイクが姿勢を正し、真剣なまなざしで尋ねる。
レギュラスは一呼吸置き、ゆっくりと口を開いた。
「もしやと思われたかもしれませんが、アランのことではありません」
夫妻の顔に安堵と動揺の色が交錯する。
「アランは本当に……よく働いています。夫人のお美しさをしっかり受け継いで」
言葉を添えるようにリシェルに視線を向け、その端正な容姿を称える。
礼儀正しい言葉に込められた妙な熱。
褒め言葉の裏に潜む底知れぬ意図を、二人は感じ取らずにはいられなかった。
「では…我々の一族に何か粗相でも?」
ロイクは気を取り直して尋ねる。
レギュラスはゆるやかに首を振る。
「いいえ。ではありません。ただ…もしお二人がよければ、セシール家の一族が、もっと高い地位を望めるのではと」
その言葉に夫妻は戸惑いながら、困惑した笑みを交わした。
『大きな地位』は誰もが願うもの。無関心でいるはずもなかった。
だが、一族の将来を語る重大な提案が飛び出すとは。
レギュラスはにこやかに微笑んだが、その瞳だけはぶれることなく強い意思が宿っていた。
――セシール家の出世欲を呼び覚まし、その見返りに、アランを名実ともに自分のものとする計略。
冷徹でありながら完璧に仮面を被り、社交の場で崩すことなく、彼は深い算段を隠して振る舞っていた。
レギュラスの放った一言が、広間の空気を深く震わせていた。
煌めく燭台の光が壁に柔らかな影を落とし、床を覆う絨毯の深紅がその緊張をさらに濃くする。外は秋の夜。窓の向こうでは風が木々を揺らしていたが、この場に漂う静寂はそれを遥かに上回って重く、冷ややかだった。
ロイクの耳に届いた言葉――「大きな地位」。
それは蜜のように甘く、同時に毒のように鋭い響きを帯びて心臓を貫いた。彼の声が僅かに揺らぐのも無理はなかった。努めて平静を装っているものの、抑えきれぬ昂ぶりが眼差しに滲み出る。そこには、競り合うように渦巻く期待と欲望の光があった。
レギュラスは、その揺らぎを見逃さなかった。むしろ、確信を深めていた。
――ロイクとはそういう男だ。
かつて、オリオンから「褒美を選べ」と告げられた時、彼が迷わず願い出たのは、当時王宮にいたリシェルの存在だった。それは世間の常道からすれば非難されるべき選択であろう。しかしレギュラスは軽蔑しなかった。むしろ「己が欲したものを、恥じることなく求めるその性根」を理解し、共感すら覚えたのである。
だからこそ分かる。
この男が出世や名誉に心を動かされぬはずがないことを。
「例えばですが……ロイク殿。魔法省・国際魔法協力部の次席の座など、お望みではありませんか」
軽やかに告げられた一言は、刃を忍ばせた花のようだった。
次の瞬間、言葉の重みに耐えかねたように、室内の空気が大きく揺らぐ。
ごくん――と鳴った喉の音は、誰の耳にも届くほど露わだった。ロイクは息を呑み、その胸がわずかに早鐘を打つ。
一方で、リシェルの面は強張り、次第に蒼ざめていく。夫の横顔を視線で必死に追いながら、その眼差しには恐れと不安の影が広がっていた。
「……それは……あまりに、もったいない地位でございます、レギュラス様……」
ロイクが声を震わせつつも応じる。
魅了されながらもどこか慎重な声音。しかし己の内心がどれほど揺れているのかを隠しきれなかった。
「では……見返りとして、私どもは何を差し出せば」
その問いを口にしたのは、リシェルだった。
張り詰めた静寂を恐る恐る破るように、しかしそこには母としての警戒と不安が濃く滲んでいた。彼女は、与えられるものの内に潜む落とし穴を直感していたのだ。
レギュラスは静かに彼女の視線を受け止め、唇に微笑を浮かべる。
その微笑は冷徹ではなく、むしろ優しさすら感じさせるもので――だが同時に、彼女の賢さを称えるような響きを帯びていた。
「―― アラン・セシールを」
囁くように、しかし一切の曖昧さなく。
柔らかな声音で紡がれた名は、雷鳴以上の衝撃となってリシェルの心臓を打った。
刹那、彼女の瞳が大きく見開かれる。
喉の奥で息が途切れ、声にならぬ悲鳴が零れ落ちる。視界に映る世界が一瞬にして揺らぎ、全身の血が冷たく凍り付いていく。――自分の娘を「見返り」として差し出せ、と。母としての本能が激しく反発し、魂を震わせた。
ロイクは声を出さぬまま沈黙していた。
だが、その目は「理解を拒んでいる」のではなかった。むしろ、確かにその意味を噛みしめつつ、遠い日の記憶を呼び起こしている。
――あの時。
まだ若き自分が与えられた選択の褒美として、迷うことなく「リシェル」を選んだ夜のこと。自らの欲を叶えるために手を伸ばした過去。
そして今、巡り巡って。
同じ構図が、皮肉にも自分の前に差し出されている。
愛するはずの娘が、報酬として求められている――その冷徹な現実を前に、ロイクの心は残酷な自己の影を重ねていた。
広間は沈黙に閉ざされる。
静謐ながらも重苦しい緊張が、堆積した夜の冷気よりも濃く漂い、すべての呼吸を鈍らせていった。
燭台の炎すらも、どこか憂いを帯びたように揺らめき、まるでこの場の誰もが避けられぬ運命に捕らわれたことを告げているかのようだった。
広間に漂う空気は、ひとしきりの沈黙とともに濃縮されていった。
わずかに揺れたロイクの反応を読み取ったその瞬間から、レギュラスの心には動かぬ確信が形を結んでいた。
――この要求は、必ず飲まれる。
そう思うだけの根拠を、彼はすでに掴んでいるのだった。
だが、その場に澄んだ声が割り込んだ。
「……ですが、レギュラス様」
静謐な水面に一石を投じるように。
その声の主は、リシェルであった。
細やかに震えるながらも、芯を持って響く声音。その眼差しはまっすぐにレギュラスを射抜いていた。怯みながらも退くことを知らぬ強さが、そこにはあった。彼女は今、夫の妻としてでもなく、貴族の令嬢としてでもなく――母として、一人の女として立ち上がっていた。
「あなたにはすでに、ロズィエ家との縁談が決まったばかりではありませんか」
きっぱりと告げたその言葉は、緊張に押し潰されそうな空間を確かに揺すった。
広間の燭火が微かに揺らぎ、壁際に影を伸ばす。
彼女の思いはひとつだった。
娘を、この場で「取引用の駒」として差し出されることのないように――。
それは純粋で、抗いがたい母の愛だった。
純血一族にとって、正妻の座と複数の妻を持つことは珍しくはない。血筋を広げ、絶やさぬための当然の慣習にすぎない。理由や建前など、いくらでも用意できるだろう。だが、それでも。
リシェルは知っていたのだ。かつて、愛する人と引き裂かれ、この屋敷に嫁がされたあの日以来、己の心に焼き付いた苦痛と孤独を。
二度と、その影を娘にまで背負わせるわけにはいかない――そう、彼女は願っていた。
張り詰める沈黙を、レギュラスが切り裂いた。
その声音は穏やかで、細心の計算を施した調子で。
「……もしアランに、男児を産んでいただければ――」
静かに流れ出た言葉は、広間の冷気を一瞬で揺るがす。
ぐらり、と場の空気そのものが動いたかと思えるほどに。
「その時は――ロズィエ家の縁談を凌ぎ、ブラック家の正妻の座へと引き上げることも……不可能ではありません」
その一言が持つ甘美な響きに、ロイクの表情は明らかに変わった。
頬に走ったのは動揺ではない。
瞳の底に宿ったのは、隠しきれない欲望の色。
ブラック家の正妻――。
それはセシール家にとって夢想すら届かぬ高み。純血の名家の中枢に娘が座すということは、すなわち未来永劫、栄誉と誇りが約束されるということ。
ロイクの息は浅くなり、その心臓の鼓動は抑えられぬほどに高鳴り出していた。
一方でリシェルは、息が詰まるような胸の痛みに耐えながら夫を見ていた。
その瞳は震え、深い祈りを宿している。
――どうか、目を覚まして。
――どうか、欲に呑み込まれないで。
だが、その願いは虚しく見えた。
ロイクの視線はすでに未来を見ていた。
栄光に満ちた未来を。
一族の名を高め、己を取り巻く者全てが頭を垂れるような、夢にすら見なかった未来を。
そこに映るのは、栄達、権威、永劫の誇り――そしてそれらを得る代価として、娘の背を突き出すことすら厭わぬ欲望の影。
リシェルの指先は膝の上でかすかに震えていた。
その震えは決して自分のためのものではない。未来を奪おうとしているこの残酷な場に、抗う力を失いつつある娘のために。
けれど届かぬ。
夫の瞳には、もはやその訴えが映っていない。
レギュラスは微笑の奥に、冷徹な意志を隠していた。
その笑みは柔らかく、人を魅了するものですらあったが、その内側にうごめくものは冷たい刃に等しかった。
そして広間の空気そのものを掌握していく。
静かに、確実に。
すべては彼の描いた構図の通りに、歩を進めていくのだった。
燭火の揺らめきが天井の模様をほの暗く照らし、広間の空気はいよいよ重く淀んでいた。
その沈黙の只中で、低く静かな声が落ちる。
「…… アランには、何を伝えればよろしいのでしょうか」
ロイクの声音には、もはや一切の迷いがなかった。
彼の眼差しは確固としており、揺らぎは影も形もない。
妻の震える視線も、哀願にも似たその訴えも――あたかも空気に溶けて存在しなかったかのように、彼は無視した。
望み得ぬほどの地位を、権力を、未来を己の手に収めんとする確信だけがそこにあった。
その言葉を受けた瞬間、レギュラスの口元が自然と綻ぶ。
――決まった。
胸に広がるのは、冷ややかながら揺るがぬ勝利の確信であった。
「セシール家の輝かしい未来のためにも……」
穏やかに紡がれる響き。
けれどその声音の奥底には、決して拒むことのできぬ力が秘められていた。
「ロイク殿の口より、直接アランにこの話をしていただければと思います」
「……もちろんでございます」
即座に応じるロイクの声は、欲に酔った男のそれだった。
瞳には抑えきれぬ光が宿り、もはやその心は一族の栄達と名誉の未来に完全に囚われていた。
その横で、リシェルは必死にただ夫を見つめていた。
その眼差しは揺れ、今にも涙に滲むかと見紛うほどだった。
けれど、抗う思いは声となって響くことなく、喉元で押し潰される。
彼女の内にある恐怖も怒りも、ただ沈黙の内に飲み込まれてゆく。
――その瞳は、やはりアランとよく似ていた。
そのことに気付いた瞬間、レギュラスの胸の奥に、ひとつの衝動が芽吹いていた。
どうしようもなく、ねじ伏せたくなる。
従わせ、抗う余地を奪ってしまいたくなる。
リシェルがかつて、自らの意思を曲げさせられ、哀しいまでに従わされ、この屋敷に嫁ぎ入ったように――。
今度はアランを。
彼女が光として仰いでいたシリウスを諦めさせ、その夢も想いも手放させ、その分すべてを自らのもとに縛り付けたい。
そんな黒い欲求が、深く、静かに、彼の心を満たしていった。
「……ロイク殿のご決断に、心より感謝申し上げます」
優雅な微笑のままに告げるその言葉は、場を完全に支配する印となった。
この場を去れば、夫妻の間に争いの火がともるだろう。
リシェルは間違いなく、必死に夫へ訴えるに違いない。
誠実さを、道徳を、人の心を――そのすべてを渇望する魂で。
しかし。
そんなことは、レギュラスにとって何の意味も持たなかった。
一度、欲と野望を己の口より吐き出してしまえば、人はもう二度と切り離すことなどできない。
ロイクはすでに後戻りなどできなかったのだ。
その事実を知る者であるレギュラスの歩みには、いささかの揺らぎもなく、勝者の足取りそのものがあった。
夜の冷気をはらんだ廊下を抜け、彼は屋敷を後にした。
背後に残されたのは、光に縛られることのない勝利の余韻と――母の胸を締め付ける、深い沈黙だけだった。
セシール家の重厚な扉を押し開けると、広間に父と母が待ち受けていた。
父の眼差しは明るく、誇らしげですらあった。
一方で、母の顔には複雑な影が落ちている。
その眉間の皺、憂いを帯びたまなざし―― アランが幼い頃から幾度も見てきた「悲しみを押し殺した時の顔」だった。
胸に走る緊張をなんとか押し隠しながら、アランは声を絞り出す。
「……お父様。何か、あったのですか?」
ロイクはためらいもなく微笑を広げた。
その顔には歓喜がにじみ出ており、まるで長年欲していた栄誉をようやく手中に収めたかのような輝きがあった。
彼は娘を広間のソファに導き、手のひらで座らせる仕草すら、誇らしげに満ちていた。
「…… アラン。レギュラス様が――お前を正妻にできる可能性があると仰ってくださったのだ」
その言葉は、鉛の槌のごとき衝撃で頭に響いた。
「……!」
声が喉の奥で絡まり、息すらうまく整わない。
あの日――レギュラスが激昂して屋敷を出ていった姿が映し出される。
その足で、自分の家を訪れていたのだ。
真実を今になって知らされ、アランは全身の感覚が一気に崩れ落ちるような喪失感に包まれた。
震える声で、なんとか問い返す。
「……お父様。その話を……間に受けたのですか?」
言葉にせずとも理解できてしまう。
父は一族のさらなる出世を条件に、すでに「何か」と引き換えの約束を交わしてしまったのだ。
しかし――その代価に自分の娘の人生を差し出そうなど。
想像だけで胸が凍る。恐ろしすぎて立ち上がれぬほどに。
「…… アラン、あなたが気が進まないのなら、無理をしなくていいのよ」
母がそっと身を寄せ、震える娘の手を取った。
その掌のあたたかさが、冷えきった胸に光をともす。
声には母としての深い願いが込められ、ただひとつの救いのように響いた。
けれど――父は違った。
父は、もう別の場所を見ている。
「考えてみなさい、アラン。一族の未来がかかっているのだ。ブラック家の正妻にまで登り詰められたら……全ての栄華が手に入る」
その言葉は誇らしく、確信に満ちていた。
彼の眼差しは揺らぐことなく、ただ前への道だけしか映していないように見えた。
アランには分かる。痛いほどに。
父はこれまでオリオンの信頼を背負い、多くの躍進を果たしてきた男だ。
娘である自分が新たな可能性の鍵となると知った以上、その野心が歯止めを失うのは当然のことだった。
――そしてその未来。
父の言葉が示す「栄光」と呼べるものは、アランにとってただ重苦しく冷たい鎖そのものだった。
胸を押し潰すのは、一族の未来か、自らの心か。
どちらかを選ばねばならぬと迫られる地平に、彼女は立たされていた。
だが、流れる血と愛する心とが、決して一つには重ならない。
彼女の喉の奥で、言葉にならぬ呻きが震える。
その音は声にはならず、ただ沈黙として広間に溶けていった。
ロイクの差し出した手は、祈りを捧げるように、しかしあまりにも強引にアランの手を包み込んでいた。
その指は父の威厳の象徴のように力強く、逃れることを許さない。
その眼差しには、父なる温情よりも、強欲と栄誉の炎が宿っていた。
その光は誇らしくもあり、同時に、アランにはあまりに残酷なものと映る。
「…… アラン。男児を産むのだ。そうすれば、ロズィエ家など目ではない」
声に宿るのは、確信。未来をすでに選び取っている男の声音。
彼の目には迷いはひとかけらもなく、ただ一族の空高くそびえる未来だけが映っていた。
だが、娘の胸はその言葉の重さに押し潰されそうだった。
――お父様。
愛していないわけではない。
幼い日々、母と共に大切な花を育てるように、慈しみ、守ってくれた父だった。
その背広越しに見上げた肩の広さに、何度も安心感を覚えた。
その恩に応えたい気持ちも、本当は変わらず胸の奥に息づいている。
けれど――これは、あまりにも酷すぎる。
「レギュラスの子を産み、確固たる地位をつかめ」
父のその期待は、まるで栄光の約束のように響くけれど――。
アランには夢ではなく、呪いの声に等しかった。
その未来に自分を縛れば、魂の自由も愛する心も捨て去らねばならない。
それは生きながらにして閉ざされた檻であった。
夜。屋敷に静けさが降りる頃、母リシェルと二人きりになる時間が訪れた。
薄明かりのランプが円く灯り、部屋の空気には仄かな花の香りが溶けていた。
リシェルは娘の前に腰かけ、その細やかな眼差しを向ける。
瞳の奥は凛として揺るぎなく、それでいて痛みと優しさが静かに滲んでいた。
「…… アラン。気が進まない顔をしているわね」
その穏やかな声が胸に響き、アランは堪えていた心の奥を少しずつ吐露していく。
「……お母様。お父様のことも、一族のことも、考えていないわけじゃないの。でも……」
そこまで口にして、言葉は途切れた。
声にならない思いが、のど奥で詰まる。
――シリウスと歩みたい。
そう望む夢を抱えていることなど、母にすら告げられなかった。
彼の名を出した途端、あまりに儚く、危うく、その夢が砕け散ってしまう気がしたのだ。
リシェルは、娘の言葉にならなかった続きを悟ったようだった。
哀しくもあたたかな眼差しを向け、静かに言葉を紡ぐ。
「…… アラン。私の長い人生の中で、あなたただ一人が……私の光だった」
その声は震えていたが、芯があった。
娘の存在だけが、この数十年、自分を生かしてきたと語る眼差し。
「……お母様……」
まなじりが熱くなる。
呼びかける声は掠れ、涙がこぼれそうになる。
「だから――光の中を歩いていくことを、諦めなくていいの」
母の言葉は抽象的で、すぐさま意味を掴めるものではなかった。
けれど確かに響いた。
それは命令ではなく、未来を案じ、娘の幸せをただ祈っての言葉だった。
アランの胸の奥に、ふと灯がともる。
父の重圧も、地位という鎖も、母の言葉のやわらかさの前ではすこし遠く霞んでいく。
彼女は唇を噛み、母の手を強く握り返した。
その温もりに包まれるうちに、冷え込んでいた心がわずかに柔らかくほどけていく。
母の手のひらは、小さな灯火のように確かな熱を宿していた。
現実と夢との狭間で揺れる自分をまだ繋ぎ止めてくれる糸――それは、この人だけだった。
屋敷の大扉をくぐった瞬間、湿った空気の奥にひそむ気配が、息を呑むほど鮮烈にアランを包んだ。
まるでこの帰りを予期していたかのように、広間の中央にレギュラスが立っている。磨かれた大理石の床に、長いマントの裾が淡く反射して揺れ、その姿をよりいっそう大きく見せていた。
彼の顔は驚くほど晴れやかだった。勝者にしか許されない余裕と、隠しきれない自負の光がその瞳に宿り、周囲の空気までもが一瞬にして張りつめる。アランの心臓は胸の奥で小さく、けれど痛いほどに跳ねた。
「……ごゆっくりできましたか?」
低く響く声が静寂を切り裂く。柔らかく差し出された言葉の奥には、相手を気遣うふりをした冷たさが潜んでいた。逃げ道を用意しているようで、実はどこにも用意されていない、そんな響きだった。
「……ええ、それなりに」
喉を押し出すように答えた声は、かすかに震えていた。小さく頷いたものの、視線だけはどうしても合わせられない。目を見てしまえば、胸の奥に渦巻く怒りや戸惑いが声となってあふれ出てしまう――。父母を思い通りに操り、出世と栄華という餌で娘を縛ろうとする男のやり口に、叫んでしまいそうになるからだ。
だが、従者という立場のままでは、主人に苦言を呈することは許されない。口に出せない掟を知っているがゆえに、アランは震える喉を必死に押さえ、「あんまりだ」と叫びたい衝動をひたすら飲み込んだ。
「どうです? あなたも……考えてみましたか?」
何気ない調子で重ねられた問い。優しく甘やかすように響く声色の奥には、「考える余裕すら与えず、応じる以外に道はない」という圧が隠されている。ノーなど言えるはずがない。彼もそれを分かっていて、あえてこの言葉を投げかけるのだ。
胸が、内側から押し裂かれるように痛んだ。
声は空を切り、喉はからからに乾く。舌の奥がひりつくほどの緊張の中で、アランは深く息を吸い、ようやくの思いで言葉を紡いだ。
「……仕事に戻ります」
問いに応じず、ただ逃れるために選んだ短い一言。それは答えを避けた返答にすぎない。けれど、アランにとっては、それが精一杯の抵抗――小さな反抗の灯だった。
身を翻し、その場を離れようとした瞬間、鋭い力が腕を掴んだ。
ぎり、と骨が軋むような圧迫。皮膚に深く食い込む指先。息が詰まり、目を見開く。ジリジリとした痛みが、やがて熱へと変わっていくのが分かった。
――だが、顔を上げると。
そこにあったのは、怒りや冷徹な表情ではなく、誰をも魅了しそうな柔らかな笑顔だった。
優しさを装いながら、一切の慈悲を許さぬ眼差し。刺すような痛みと、穏やかすぎる微笑み。その落差があまりに異様で、アランの心は深く凍りつく。
「…… アラン。セシール家のためにも――正しい道を進みましょう」
囁くその声は甘く、同時に背筋をふるえさせるほど冷たい。
その一言が鎖のようにアランの胸に絡みつき、抜け落ちない重みとなってのしかかる。“血を継ぐ者”としての正しい道――。その響きは、血筋に縛られながら彼女の心からすべての選択を奪っていく。
アランにとってそれは、未来を生きることではなく、魂の死と同じ意味を持っていた。
声にならない叫びを胸の奥に押し隠し、唇を固く閉ざす。
痛みと恐怖に震える身体を、どうにか静かに取り繕いながら――。
その沈黙こそが、彼女に許された唯一の抵抗だった。
その夜。屋敷全体を包む空気は、昼間の華やかさを失い、ひどく重く静まり返っていた。廊下の奥で遠くに響く時計の針の音さえ、深い湖に沈んでいく水滴のように鈍く感じられる。
アランはひとり、部屋のソファに身を沈めていた。背凭れに凭れかかる身体は硬く、足先まで張りつめている。膝の上に置いた手は無意識に強く握られ、爪が白く立っていた。
蝋燭の細い焔が卓上で揺らめき、壁に淡い影を波打たせる。淡く頼りない光は、暗い海の底に沈んでいくようなアランの思考を支えるにはあまりに心もとなく、むしろその孤独を際立たせていた。
父の言葉、母の眼差し、そしてあの冷たい選択を迫った男――すべてが胸の奥に重石のように積み重なり、息を吸うたびに胸郭が軋む。何度深く息をしても、絡みついた鎖は解けない。
そのとき、空気を破るように扉を叩く音が響いた。小さく、それでいて拒むことのできない確かさをもって。
「…… アラン」
名を呼ぶ声が続き、扉が静かに開いた。そこに立っていたのは、昼間の彼と同じ男――レギュラスだった。
反射的に立ち上がろうとしたアランの肩に、やわらかな手がそっと添えられる。
――立たなくていい。
その手から伝わる微かな体温が、言葉より先に胸へ沁み込んでくる。
「……勝手にセシール家に赴いたことは、詫びます」
暗い沈黙を裂くように低い声が落とされた。それは意外なほど素直で、謝罪の響きを帯びていた。
アランは視線を逸らし、小さく答える。
「……いえ。私は従者です。咎める権利などありませんから」
その声には、自分でも驚くほどの冷たさが宿っていた。境界線を示す響き――主人と従者、二人を隔てる立場という壁を、あえてここで引き直すための棘のある言葉。
その一言が、レギュラスの胸に深く突き刺さる。蝋燭の明かりのもとでさえ、彼の表情が陰影に沈むのが見て取れた。どこか苦しげに息を呑み、それでも必死に声を紡ぐ。
「…… アラン。愛しているのは本当です。僕はあなたを守りたい。脅したり、縛ったりしたいわけじゃない。そのことだけは、信じてください」
真摯な声音。駆け引きや方便のためではなく、胸の奥底から溢れた想いがそのまま言葉になっている。必死さが部屋の温度をわずかに変え、焔が揺れるたびに影の輪郭が動く。
だがアランは、ゆっくりと首を横に振った。翠の瞳に光と影が交錯し、その揺れのなかで静かな拒絶が告げられる。
「……レギュラス。私は頷けません。あなたの行動は、ロズィエ家の令嬢を虐げるものです。それを肯定するようなことは……とても言えません」
その声はか細いながらも確かで、揺らぎのない拒絶だった。
レギュラスはしばし黙し、影の中に思索を沈める。そして静かに唇を開いた。
「……カサンドラにとっても、その方がいいはずです」
胸の奥がざわめく。声を詰まらせながらも、アランは食い下がる。
「――どうして、そんなふうに言い切れるのですか」
レギュラスは真っすぐにアランを見つめ、淡々と答える。
「親同士が決めた婚姻です。そこに愛などあるはずがない。……僕だけでなく、向こうもきっと同じ気持ちでしょう」
蝋燭の火が、ふっと大きく揺れた。壁の影が音もなく伸び、ふたりの輪郭を曖昧に飲み込んでいく。
「愛情だの、運命だの。そんなものをいきなり抱けと言われたところで、人は抱けません。僕たちがするのは――互いに自由を認めること」
静かに、しかし強い意志を含んだ声音が続く。
「カサンドラには、彼女自身のやりたいように生きてもらえばいい。その代わりに……僕にも、自由があっていい」
論理は洗練され、穏やかな調子に包まれていた。けれど、その理屈の裏に潜むもの――冷徹な計算の奥に潜む熱、執着は隠しきれない。
「……そうすれば軋轢もない。体裁だけの婚姻を取り繕うより、よほど健全ではありませんか」
瞳を逸らさず、ただアランのみを見つめ続けるレギュラス。そのまなざしはきわめて静かで、逃げ場のないほど強い。
アランは答えることができなかった。その言葉が合理的であることを、理屈として理解してしまうからだ。冷静に思考すれば、否定する理由が見つからない。
けれど――胸の奥に燃える拒絶の炎だけは、決して消えることがなかった。
“誰かを犠牲にして成り立つ愛”。
それを、自分は肯定できない。
その想いは声にならぬまま唇の奥で熱を孕み、ただ静かな沈黙の中で、切なくも確かに燃え続けていた。
夜は深く、屋敷はまるで時間を止めたように静まり返っていた。
厚いカーテンの隙間からは月の光も差し込まず、蝋燭の灯だけが孤独に揺れ、壁に長い影を落としている。揺らめくその影は、波紋のようにかすかに形を変え、部屋全体を仄暗い水底のように見せていた。
その薄闇の中で、レギュラスはそっとアランの手を取った。
長い指が絡む。掌を強く、決して離すまいとするように握りしめる。彼の掌には、微かな震えと熱があった。温もりを逃すわけにはいかない――そのぬくもりが、自分を生かす唯一の拠り所であるかのように、彼は必死に指先で確かめる。
やがて、握った手を辿るように身を寄せ、レギュラスは静かに唇を重ねた。
蝋燭の光がその瞬間だけ、ひときわ強く揺れ、ふたりの影を重ね合わせる。
柔らかな感触が、そっと触れ合った。
――あの日、はっきりと拒絶を突きつけられて以来、初めての口づけだった。
忘れられるはずがなかった。
あの拒絶の記憶は、無言の刃となって幾度も胸を抉り、冷たい傷痕のように残り続けていた。だからこそ、今、こうして彼女に触れ、拒否されることなく受け止められるこの瞬間を、過去の記憶の上から塗り替えたかった。胸を締め付け続けてきた苦い過去を、許しと安らぎの記憶で浸食するように。
アランは拒まなかった。
ただ静かに受け入れ、身じろぎもせず――彼を正面から受け止めた。
その沈黙の許容だけで、レギュラスの心は柔らかくほどけていく。
荒れ狂い、荒波のように胸を支配してきた焦燥と不安が潮のように引いていき、波の去った浜辺のように心は静謐な安堵に包まれた。
――ようやく平穏を手にできる。
そう強く確信した。
彼女の肩をそっと押し、ふわりとソファへ沈めていく。
柔らかな体温が、自分の手を通して流れ込むたび、胸が温かな充足で満たされた。
蝋燭の光は淡く頬を撫で、息づかいはさざ波のようにかすかに揺れる。
唇はまだ離れず、ゆるやかな触れ合いは次第に深さを増していく。
一度結ばれたものに、さらなる力が注ぎ込まれ、結びつきはより確かなものとなっていった。
静かな吐息が、アランの唇から小さく漏れる。
それは拒絶ではなかった。むしろ、戸惑いに混じるひとときの「驚き」のように聞こえた。
その響きに、レギュラスの胸は満たされていく。
渇望を潤す源泉のように、その呼吸のわずかな揺らぎすらが甘美だった。
重なり合った感覚が限界を超え、ひとつの境界を越えたその瞬間――。
渦巻いていた不安も、繰り返される怒りも、果てしない焦燥も。
すべてが霧のように滲み、消え去っていった。
曖昧に混ざり合う感覚の中で、二人を隔てていたはずの境界線は薄れ、溶けていく。
肉体の悦びと、精神の安堵。
相反するふたつが絡み合い、幸福という名の形を確かに築いてゆく。
――これこそが、未来へ至る道標。
レギュラスの心にそう告げる声が響いていた。
もはやそこに曇りはない。
悲しみも、孤独も、激しい憤りさえも塗りつぶされ、ただ安堵と光に満たされていく。
彼の描いてきた数々の未来図が、すべて揺るぎない希望の光へと一点に収束していく――その錯覚が、確信に変わるほどに。
アランを抱くその腕の中で、レギュラスは、ついに手放しかけていた幸福を掌に収めたのだと、深く信じ込んでいた。
部屋は夜の静寂に深く沈んでいた。窓は厚いカーテンで覆われ、外の世界を断ち切るように閉ざされている。唯一の光源は、古びた燭台に立てられた一本の蝋燭だけだった。炎はかすかに揺らめき、壁に長く不定形の影を映し出す。その影が呼吸をするようにゆらぎ、部屋の空気は重く湿った闇で満たされていた。
その闇の中、レギュラスの腕に沈み込むアランの姿は、まるで捕らわれた小鳥のように脆く、静かだった。胸元に頬を寄せると、彼の体温は確かにそこにあり、腕の重みが逃げ道を塞ぐように感じられる。
――私は、このまま「正しい道」を歩むのだろうか。
閉じた瞼の裏で、アランは問いかける。父も母も、家のためだと繰り返し言ってきた。自分を誰かに差し出すこと、それが義務であり誇りだと信じ込まされてきた。だが、いま胸に感じるのは、誓いでも献身でもなく、冷えた鉄鎖の感触に似ていた。
レギュラスは「愛している」と言葉にする。だがその愛は、彼女を自由に羽ばたかせるものではなく、縛り、閉じ込めることで安堵を得ようとするもののように思えた。そう考えるたびに、胸の奥がじわじわと冷えていく。言葉も、涙も、凍りつく。自分が今どこにいるのか、何のためにここにいるのかさえ、輪郭が曖昧になる。
――けれど。
沈み込む思考の底から、自然とひとつの名が浮かび上がる。
「……シリウス」
その名を心でそっと呼ぶだけで、胸の奥に明かりが灯るようだった。鮮やかな光景が、音も匂いも一緒に甦る。マグルの街の夜風の中、笑い合いながら歩いた道。指輪を並べて選んだ瞬間の、あの目の奥の光。ゴミ袋を投げ出し、靴も気にせず必死に光を追いかけた自分――あの頃の自分は、臆病さも従者という立場も忘れ、ただ「彼と共に生きたい」という衝動だけで走っていた。
――本当の自分は、あそこにいる。
レギュラスの腕に捕らわれながらも、アランは心の奥で必死に祈った。どうか、あの光に向かってもう一度立ち上がれますように、と。自分を縛るものから抜け出し、あのときの自分のままに、もう一度。
「……」
小さく目を閉じる。まぶたの裏には、蝋燭の光がぼんやりと揺れている。その淡い明かりのように、アランの胸の奥でも、小さな希望がかすかに瞬いていた。押し潰されそうな沈黙の中、ただシリウスの名だけが、唯一の抵抗のように、か細くも確かに心を燃やし続けている。
