1章
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頭を何かで強く殴られたかのような衝撃が、アランの中で炸裂した。
しばらくの間、何も聞こえなかった。ただ鈍い音が頭蓋の内側に響き渡り、視界の端は遠ざかり、感覚がすべて空虚な膜の向こうに押し込まれてしまったようだった。
目の前では、レギュラスが必死に言葉を紡いでいる。
灰色の瞳を輝かせ、その口元からは、未来を語る熱のこもった響きが止むことなく溢れ出ていた。
けれどアランには、その言葉はすべて雑音だった。遠い洞窟の奥から反響してくるような、意味を成さぬ響き。輪郭を掴もうとしても霧散してしまい、何ひとつ届いてはこなかった。
――何を言っているのだろう。この人は。
断片だけが頭に刺さる。
ロズィエ家の令嬢を。
これから結ばれる婚約者を、今からもう袖にしようと心に決めていること。
その宣告を、あたかも彼女にとっても「救い」であり、「喜ぶべき未来」だと差し出している暴力的な明るさ。
それは愛を告げる誓いのはずなのに、誰かを切り捨て、世界を侮辱し、未来というものを陵辱する音にしか聞こえなかった。
なぜ――こんなことがうまくいくと思えるのだろう。
なぜ、この人はこうまでして、自分を檻に閉じ込めようとするのだろう。
胸を深く抉る考えが、容赦なく浮かび上がる。
――自分が、もしブラック家の子を産むのだとして。
果たして、その子が男児でなければどうなる?
女児であれば、後継の資格すらない。
たちまち「私生児」という烙印を押され、陰に追いやられる。
祝福ではなく呪いのような生の始まり。
ただの賭けだ。二分の一の確率に、すべての未来を委ねろと言われている。そんな危うい博打に、自分も、生まれてくる子も、差し出せるはずがなかった。
「……レギュラス……」
掠れた声で名を呼ぶ。
続けて「そんな夢みたいなこと言わないで」と言い添えるつもりだった。
けれど、その言葉は宙に紡がれる間もなく奪われた。
レギュラスの顔が近づき、柔らかな熱が唇を覆う。
吐き出されるはずだった声はそこで封じられ、世界はひととき無音になった。
拒まなかったのは――決して、受け入れたからではない。
ただ、もう疲れ果てていたのだ。
どこから否定すればいいのか。
どこから訂正すべきなのか。
ひとつひとつが積み重なり、もはや絡み合った糸の束のように果てしなく感じられる。言葉で切り離すにも、手で解くにも、余りに巨大で複雑になりすぎてしまっていた。
胸の奥が軋み、空洞にこだまするように痛む。
――もう、ほとほと疲れてしまった。
それでも、心の奥に浮かんでくる名があった。
〈シリウス……〉
自然と口に出そうになるほどに、その名は今や呪文のように光を帯びて思い出された。
早く抜け出したい。
このぐちゃぐちゃに絡み合い、出口の見えない迷路のような生活から。
たとえ無謀な夢であってもいい。現実の真実からは遠くかけ離れていても構わない。
それでも――彼には光がある。
見上げれば、確かに輝く星のような存在がそこにあると信じられる。
その光に、どうしても手を伸ばしたい。
指先が届くかどうかなど関係なくただ闇の中に差す唯一の道標として、追わずにはいられない。
唇に重なる温もりに視界はにじみ、頬を伝う涙がその熱を淡く溶かしていく。
目を閉じた奥で、アランはただ必死に空を仰ぎ、遠くの光を探し続けていた。
冷たい石畳の上を、一歩ごとに重さを感じながら歩いていた。
両腕にしがみつくように抱えたゴミ袋のずっしりとした重みは、身体だけでなく心にまでものしかかった。
屋敷に染みつく陰鬱な空気を背に、夜気を吸い込めるこのわずかな時間だけが、自分にとって小さな解放だった。
その時――。
風を裂く鋭い音がした。
耳に残る軽やかな「ひゅうっ」という響き。
反射的に顔を上げると、夜空の闇を切り裂いてひと筋の光のような姿が飛び込んできた。
箒に跨り、黒い夜を翔ける影――シリウス。
瞬間、胸の奥が衝撃で凍りついた。呼吸が止まり、鼓動が一瞬跳ねたのち、全身を駆け抜ける熱に変わる。
「……シリウス……!」
気づけば、両手の荷物を足元へ放り出していた。
ごろりと鈍い音を立てて袋が転がる。それすらも忘れ、ただ夢中で、その光に導かれるように駆け出した。
夜の石畳を打つ足音がやけに大きく響く。
だが慣れない走りに足はすぐ縺れ、つんのめるように前のめりに倒れ込んだ。
膝を擦り、直後にヒリリとした痛みが奔った。
その音に気づいたのか、彼は表情を驚きに染めて、急降下する。箒を乱暴に放り捨てるようにして飛び降り、そのまま一直線に自分へ駆け寄ってきた。
「おい! 怪我してるじゃねーか!」
彼の息づかいは荒く、熱を孕んだ声は焦燥に震えていた。
杖が素早く抜かれ、一振りされると、膝に温かな膜がふわりと広がる。
焼ける痛みをやわらげるようにじわじわとした心地よさが滲み込み、傷口はやさしく覆われて消えていく。
その温もりはただの魔法による癒しではなかった。
胸の奥まで届いて、張りつめていた恐怖さえも溶かす感覚があった。
――ああ、嬉しい。
その思いが涙と共にせり上がり、視界を揺らした。
「シリウス……会いたかったの」
堰を切るように、想いは言葉となってこぼれ落ちた。
次の瞬間には、自分でも制御できないまま、腕を彼の首に回していた。
力の限り抱きしめる。
背中に回されたシリウスの腕は、片方が強く自分を受け止め、もう片方の手のひらはぎこちなくも優しく背をぽんぽんと叩いてきた。
子供を宥めるような、不器用さとあたたかさ。
張り裂けそうだった胸が、わずかに安らぐ。
「…… アラン。俺も会いたかった。だから来たんだ」
簡潔でぶっきらぼうな声。
けれどその短い言葉が、すべてを満たし、全身を震わせた。
胸の奥が熱を帯び、視界は涙で歪む。
それでも不思議と笑顔が零れ出した。笑うことが、こんなにも自然に戻ってきた。
――自分の「会いたい」という想いは、一方通行じゃなかった。
彼もまた同じ言葉を抱いていた。
その事実が何よりも尊く、こんなにも嬉しいことがあるのだと初めて知った。
この人のそばにいると、涙も、笑いも、胸の奥のすべての感情を惜しみなくさらけ出せる。
強がる必要もない。
誤魔化す必要もない。
――やっぱり。
シリウスは、自分にとっての「光」そのものだ。
「……連れていきたいところがあるんだ」
耳元に届いたその声は、力強く迷いがなかった。
「ええ……どこでも行くわ」
答えるのに躊躇いはなかった。
ゴミ袋は屋敷の扉の前に転がったまま。
けれど、もう振り返らなかった。
シリウスの背に身を乗せた瞬間、すべての不安や恐れが遥か彼方へ吹き飛ばされた。
どうなったっていい。
その覚悟さえも心に浮かぶほどに、今は澄み切って、身体は羽のように軽かった。
臆病だった自分はもうどこにもいない。
選べた。この背中を。
迷わずに――この人を。
黒々と広がる夜空の中。
その背だけが、揺るぎのない光を放っていた。
再び連れ出された先は、見慣れた魔法の世界とはまるで違う場所――マグルの街だった。
夜の闇を抜けると一変して、眩い光とざわめきが押し寄せてくる。大きな建物の中に足を踏み入れると、そこには人々の喧騒が波のように広がり、溢れる匂いと色彩が五感を一気に包み込んだ。
屋敷の閉ざされた空気とは対照的に、ここには自由の息吹があった。
頭上から降り注ぐ明るい光。洒落た看板や、整然と並ぶショーウィンドウ。人々の笑い声や軽快な呼び声、金属が触れ合う音や調理器具の煙。そのすべてが眩暈のように押し寄せる。
アランは思わず足を止めた。
あちこちに広がる食べ物の店からは、香ばしく食欲を誘う匂いが流れ出し、腹の奥を刺激する。焼きたてのパンの香り、揚げ油の弾ける音、蜜のように甘い香り。空気全体が誘惑で満ちていた。
「……惹かれるな」
すぐ横で、シリウスが少し笑った。彼の笑みは魔法よりも軽やかで、空気すら変えてしまう。
「どれか食うか?」
「……わからないわ。種類が多すぎて」
本当に、目に入るもの全てが未知のもので、選ぶことすらできなかった。
そんな彼女の迷いに、シリウスは気軽に肩を竦め、ためらいなく提案する。
「じゃあ、一つ適当に買って――半分こしよう」
その言葉に、胸の奥がふわりと弾けた。
なんでもない一言、それなのにどうしようもなくくすぐったい。
「……ふふっ」
思わず笑みが零れる。声に滲む幸福が自覚できて、頬があたたかくなる。
こんなふうに子供のように笑えるのは――きっとシリウスの隣だから。
受け取った熱気の立つ紙袋。指先が触れ合った刹那、軽い痺れのような感覚が走る。彼もまた笑って、包みを二人で開ける。
湯気の立ちのぼる中、ひとつの食べ物を分け合う。
ただそれだけのことが、どうしてこれほど幸福なのだろう。
「……うまいな」
「ええ……すっごく」
短い言葉しか紡がれなくても、それで充分だった。
この場所には、血統も監視も、冷たく縛る掟も存在しない。
ただ、ごく普通の恋人たちの営みが、当たり前のように許されていた。
――この世界に、ずっと住めたらいい。
そんな願いが胸を掠め、切なくも甘い痛みを残す。
さらに歩みを進めたとき、煌びやかな売り場が目に飛び込んできた。
ずらりと並ぶ化粧品。瓶詰めの香水、色とりどりのアイシャドウパレット、艶やかに並ぶリップ。
魔法界では見たこともない光景だった。
心が弾むのを抑えきれず、その場に立ち尽くしてしまう。
震えるほど鮮やかで、美しいものばかりだった。
微笑む店員が一本のリップをそっと差し出し、照明にかざす。
――それは直感で分かった。「アランに似合う」と。
言葉よりも速く、胸がそう告げていた。
「買うか?」
問いかけに、彼女は小さく首を振った。
「……ううん。どこで付けていいか、わからないもの」
「いつでもいいんだ。付けたい時に付けりゃいい」
その答えに、胸の奥がじんわり熱を帯びた。
シリウスにとっては当たり前の言葉でも、自分にとっては救いのように響く。
次の瞬間には、彼は問いかける間もなく財布を取り出し、迷いなく購入してしまった。
鏡の前。
差し出された試供の一本を唇にそっと滑らせる。
光沢を帯びた紅が、今までの自分を少し違うものに映し出した。
胸が高鳴り、シリウスの方を振り向く。その瞬間だけで、心の奥がざわめき立つ。
「……どうかしら」
ほんの少しの照れを滲ませながら、そう問う。
彼は一瞬も迷わず答えた。
「似合うよ。すごく……綺麗だ」
その眩しさに、胸が震えた。
言葉以上に、真っ直ぐに注がれる灰色の瞳の熱が、心を奥底から掻き乱す。
嬉しくてたまらなかった。胸の奥がきゅっと焼けるように締めつけられる。
この人が「綺麗」と言ってくれるのなら。
たとえ一つのリップであっても、世界が変わる。
化粧なんて、ダンスパーティで一度だけ友人が施してくれたきりだった。
なのに――今、この瞬間に、その一本が全てを潤わせる。
単純でも、子供っぽくても、それでいい。
――これからは毎日、このリップを塗りたいくらいだ。
シリウスに「綺麗だ」と言ってもらえるのなら。
その願いが自然に浮かぶほどに、今のアランは彼の隣で解き放たれていた。
雑踏を抜け、煌めく店から店へ。
派手なネオンの光と眩い陳列に目を奪われながら、二人は笑い合い、絶えず歩みを進めていた。
市場とは趣を異にする、どこまでも整然とした店々。
それでいて魔法界のどんな品揃えも及ばぬほど多彩で、色鮮やかで、目に触れるすべてが新鮮だった。
アランは、何度も心が跳ね上がるのを抑えきれなかった。
魔法の市場は慣れ親しんでいたはずなのに、それでも――このマグルの世界は、心の奥深くに秘められた「知らぬ幸福」を解き放っていく。
煌びやかな化粧品、香り豊かなバスフレグランス、様々な布や靴――歩みを重ねるごとにひとつひとつが心を揺さぶり、笑いが絶えなかった。
数えきれないほどの店を巡った先――ふと足が止まった。
そこにあったのは、ひっそりと輝きを放つ宝飾のショーケース。
「……指輪だ」
ガラスの向こうでライトを受けながら煌めく数々の輪を、シリウスが見つめて呟いた。
その声は何気ないのに、妙に胸に響く。その直後、彼はアランへと向き直った。
「お揃いのものを、つけよう」
え――。
胸の奥で熱が弾け、跳ねた。
けれど言葉は……どこにも見つからなかった。
口を開こうとしても音が出ず、ただ瞳が潤んでいく。
小さく、しかし確かに強く――首を縦に振るのが精一杯だった。
夢みたいだった。
大好きな人と、同じものを身につける。
贈られる。
そんな幸福が、現実に存在していいのだろうか。
ショーケースの中で煌く数々の中から、シリウスはためらいなく一対の指輪を選んだ。
複雑な装飾もなく、粗野でもなく。
ただシンプルで、互いに揃えれば間違いなく“対”となると分かる静謐な輝きを宿す指輪。
まるで過剰な意味を拒むように簡素で、それでいて何よりも純粋だった。
重く語られる婚約や契約ではない。
ただ互いが互いを選び、互いに歩もうと決めた小さな約束。
その証として輝かせるにふさわしい輪だった。
差し出された一本を受け取り、ためらいがちに中指へ滑らせる。
冷たいはずの銀が、指先から胸の奥にじんわり震えを広げていく。
その瞬間頭をよぎったのは――父と母が交わした結婚指輪の情景だった。
彼らの繋がりを象徴するあの小さな輪。
それを遠く真似るような幼い遊びに過ぎないとしても……それだけで、胸が幸福で満ちてしまう。
「……ありがとう、シリウス。一生、大切にするわ」
零れ落ちるようにして吐き出された言葉。堪えきれずに、素直に。
「……ああ。俺も。ずっと付けとくよ」
胸を張り、笑いながら彼が言ったその一言――。
「ずっと」という言葉は、ありふれているはずだった。
それなのにどうしようもなく尊く、重く、胸を貫いた。
――この人は、確かに。
自分との未来を夢想ではなく現実として見据えてくれているのだ。
薬指に嵌められた小さな銀の輪は、ダイヤのように強烈な光を散らすことはない。
それでも、ごくささやかな煌めきで、温かな灯火のように瞬いていた。
その静かな光は確かに告げていた――。
ここから二人が歩もうとする人生の始まりを。
買い物袋を片手に、指先には小さな銀のリングが光っていた。
ただそれだけのことなのに、歩く足取りは驚くほど軽くなっていた。
重荷を背負っていたはずの体が、いまは羽が生えたように自由だ。
人の往き来が絶えないマグルの街の通り。
ショーウィンドウには色とりどりの光が映え、店先からは甘い香りと音楽が漏れ出している。
すれ違う人々のざわめきも、軽快な音を響かせる靴音も、今は心を波立たせることなく、すべてが祝福のように聞こえた。
アランはシリウスと肩を並べ、自然な呼吸で歩みを重ねていく。
夜風が頬をやさしく撫で、街灯が二人の影を長く細く路面に伸ばしていた。
ときおり、ふとした拍子に手と手が触れ合う。
ほんの小さな接触――けれどそのたびに、互いの指輪がかすかに触れ合い、目には見えない鈴が鳴ったように“ちりん”とした音を感じる。
まるで「確かに繋がっている」と耳元で囁かれるようで、胸の奥が温かく震えた。
――お揃い。
ただその事実を意識するだけで胸は熱を帯びる。
嵌められた銀の指輪は、豪奢な装飾も宝石の煌めきも備えていない。
それでも、街灯やショーケースの光を受ければ、ささやかでも確かな輝きが指先に宿り、彼らだけのささやかな秘密を照らし出していた。
「……すごいな。マグルの世界って、何でもある」
不意にシリウスが呟いた。
その横顔は、驚きと喜びに満ちていて、まるで少年のように無邪気だった。
「ええ……」
アランも自然に頷く。
華やかな通りや煌くショーウィンドウ以上に、隣を歩く彼の笑顔こそが、何よりもこの風景を美しいものへと変えていた。
まるで世界の景色そのものが、シリウスを中心に輝きを増しているように。
ふと、足を止める。
ショーウィンドウのガラスに映る、自分たちの姿。
肩を並べ、軽く微笑み合って歩く二人は――どこにでもいる普通の恋人たちと何ひとつ変わらない。
その平凡な幻影が、何よりも愛おしく、胸を締めつけた。
「アラン」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
声は穏やかで、けれど深く胸を震わせる響きを持っていた。
「……いつか、こんなふうに、堂々と手を繋いで歩けるといいな」
シリウスの言葉は、あまりにも素朴で、同時に限りなく切実だった。
なぜだろう、ただの望みに過ぎないはずなのに、その一言が胸に溶けて涙を誘う。
「……ええ」
アランは微笑んだ。
涙を溶かしてしまうほどやわらかな笑みを。
「その時まで、この指輪はずっとつけているから」
指先を示しながらそう告げると、シリウスは目を細める。
握られた手にぐっと力がこもり、その温かさが血流と一緒に胸の奥まで広がっていく。
――不安も恐怖も遠ざかっていく。
臆病だった自分が、ゆっくりと消えていくのを感じた。
代わりに残されるのは、ただ純粋に隣にいるこの人と歩きたいという願いだけ。
夜の街を歩く恋人たちの群れに、自分たちも紛れ込んでいる。
その平凡な光景の一部になれるだけで、世界がひとまわり広がったような気がした。
銀の指輪が街灯の灯りにわずかに揺れて輝きながら――
二人は未来へと続く長い道の上に、互いの影を寄り添わせて歩き続けていった。
雑踏を抜けて辿り着いた店の扉を押し開けると、そこは外の通りとはまた別の熱に包まれていた。
耳に飛び込んでくるのは賑やかな音楽。幾重にも重なり合う人々の笑い声、弾むような会話の響き。
店全体が息づくように揺れていて、その空気に包まれるだけで思わず胸が高鳴った。
シリウスの手に引かれるまま、アランは人々の間をすり抜ける。肩と肩が触れ合い、香水や酒の匂いが混ざって漂う。
落ち着きよりもむしろ熱気が支配する空間で、二人は並んで席についた。
言葉を交わすのには少し声を張らなければならない。だが、それがむしろお互いの距離を近づける理由になった。
口元を相手の耳元に近づけ、声を届ける。そのたびに肩と肩が触れ合い、体温が確かめられる。自然に距離は縮み、心の境界も同じく狭まっていった。
差し出されたメニューを開くと――見慣れぬ言葉がずらりと並んでいる。
煌めくガラスに記された文字は、どれもアルコールの名だった。
「……どれなら飲めるのかしら」
バタービール以外、ほとんど経験のないアランには、そのリストはまるで異国の呪文のように思えた。
そんな彼女の困惑を見て、シリウスが声を上げて笑った。
「子供だなぁ、アランは」
「じゃあ、シリウスは? 何を飲むの?」
すぐに返ってくる彼の答えは、迷いすらなかった。
「俺は――ジンだ。アランは……この辺の軽いやつにしとけ」
軽やかに注文を告げるシリウス。その姿はいつもより大人びて見えて、胸が少しだけ震える。
少年のように無邪気でありながら、こうして時折大人の影を見せる――そんな二面性が眩しかった。
やがてテーブルに並べられた二つのグラス。
琥珀色の液体がライトを透かして揺れ、底から細やかな泡が昇る。
シリウスが軽くグラスを持ち上げ、アランもそれにならう。
かちり、と響いた澄んだ音。
ガラスどうしの小さな衝突が、二人の心の揺らぎを慰めるように優しく鳴った。
口をつける。
喉に落ちた一口は、驚くほど甘かった。
蜜が溶けたような優しさが舌を包み、胸の奥が温かく満たされていく。
「……シリウス、これすごく美味しい。飲んでみる?」
横に差し出すと、彼は苦笑まじりに首を振る。
「いや、俺はそーいうのは苦手だ。……代わりに、これを飲んでみろよ」
彼のグラスを差し出されるままに口をつけた瞬間――。
舌を刺す鋭さと、喉を焼くような熱に、思わず顔を顰める。
その表情を見て、シリウスは声を上げ、こらえきれずに笑った。
彼の笑い声が周囲の喧噪よりも鮮やかに響き、アランの中にも笑いが伝播する。
顔が熱を帯び、心も軽く浮き上がるような心地。
甘い酒、弾む声、触れ合う距離。
そのすべてが幸福の輪郭をなめらかに描いていった。
並んで座るわずかな距離。
腕がかすかに触れ合う。それだけでどうしようもなく愛おしい。
見上げれば、そこにある横顔。
昼の光のように強く、それでいて不思議と優しく夜を照らす彼の姿。
灰色の瞳――少し長い黒髪――笑みの弧を描く唇。
ひとつひとつが、眩しさに心を満たしていった。
目と目が合う。翠の瞳と灰色の瞳。
誘うでもなく、示し合わせたわけでもなく――自然に重なり合った視線が、ただ唇同士の距離を縮めていった。
グラスに残る甘さと、まだ喉に残る苦さ。
二つの異なる味が混ざり合い、自然に互いの中へ巡っていく。
それは、とても甘美な口づけだった。
まだ大人になりきれない、だけれど確かに大人になろうとする心の背伸びのように。
その一瞬に、胸の奥に確かに芽吹いた。
――シリウスとなら、この先を生きていきたい。
その思いは初めて芽生えた“大人の恋”の実感だった。
幼さと成熟の境を揺れる中で、アランは確かに未来を願っていたのだ。
楽しさに任せて、二人とも思った以上に杯を重ねてしまっていた。
最初からそんなつもりではなかった。
シリウスは軽い酒を勧め、お互い心地よいところでやめるはずだった。
だが――笑い合い、語り合い、グラスを繰り返し合わせるうちに、いつの間にかその数は増えていて。
気づけばアランの頬は淡く紅潮し、彼女の目元には熱の色が滲んでいた。
自分の体にもまた、火照るような心地よい熱が巡り、思わず苦笑する。
「アラン……もうこの辺にしておけ」
そっと声をかけようとした、その矢先――。
「……シリウス、愛してるわ……」
吐息に乗って溶けるように、掠れた声で彼女は口にした。
それは酔いが言わせた言葉なのか。
それとも、積み重なる想いが抑えきれず零れ落ちたのか。
どちらにせよ、その響きは真夜中の静寂よりも深く、確かにシリウスの胸に沁み渡った。
温かさが胸の奥からとろとろと広がっていく。
あの頃――あどけない笑顔を浮かべていた幼い少女が。
今、自分に向かって「好き」ではなく「愛している」と告げるまでに大人びて。
真心を託してくれる。
その事実が、どんな酒より甘く、酔わせていった。
潤んだ翡翠色の瞳。
焦点がわずかに揺らぎながらも、艶めいた光を秘めている。
あまりに美しく、あまりに危うく――心ごとさらわれてしまいそうだった。
「……まったく、酔いすぎなんだよ」
ため息をつきつつも、シリウスは優しく彼女の身体を抱き上げ、その背へと軽やかに背負った。
華奢な身体は驚くほど軽く、羽のようだ。
さっきまで無理して大人ぶろうとしていた彼女が、今は幼子のように無防備に委ねている。
背中に伝わる温もりが、なによりも愛おしい。
大人と子供。両方を抱えているのが、アランなのだと改めて思い知らされる。
首元まで垂れる彼女の腕。
その指には、昼間ふたりで選んだ小さなシルバーのリングが光を宿していた。
街灯に照らされ、銀色のきらめきが微かに瞬く。
その小さな証が、シリウスの胸を深く満たしていく。
「……俺も、愛してるさ」
眠っていてきっと聞こえてはいない。
それでも、そう口に出すだけでいい。
たったそれだけで、自分自身が未来に踏み出す力を得たように思える。
夜風が、熱を帯びた頬をやさしく撫で抜ける。
賑わいの少し遠ざかった街の路地には、二人分の影が揺れた。
シリウスの背に眠るアランの小さな寝息は穏やかで、まるで秘密の子守唄のように夜の静寂を優しく揺らしていた。
窓から差し込む柔らかな朝の光が、白いレースのカーテンを透かして部屋を淡く染めていた。
静かな陽だまりが木の床に落ち、壁にかかる影を金色に揺らす。
遠くから小鳥のさえずりが響き、優しい風が林を抜けてくるのだろう、窓辺のカーテンが淡く揺れた。
昨夜の喧騒や酒の熱は、まるで幻だったかのよう。息を吸い込めば新緑を思わせる清々しい香りが胸に満ちていった。
アランは瞼を震わせてゆっくり目を開いた。
木の香りが漂う小さなコテージ。隣には畳まれた布団がひとつ。
――ここは、屋敷の冷たい部屋でも、ホグワーツの寮のベッドでもない。
昨夜のことが、断片的に蘇る。
眩しすぎる光のなかで、思わず両頬が熱く赤みに染まった。
あれほど酔いに任せ――「愛してる」と口にしてしまった。互いに笑い合い、杯を重ね、そして……。
記憶が途切れ途切れで、確かな線が引けない。
――もしかして、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのでは。
胸の奥を不安が掻き立て、慌てるように身体を起こそうとしたその時――。
「お。起きたか」
声。
振り向けば、窓辺に立つシリウスがこちらを見ていた。
灰色の瞳は昨夜と変わらぬ輝きを宿していたが、その奥には微かな安堵の色が溶け込んでいた。
姿勢を崩し、そのままゆっくり歩み寄ってくる。
「安心しろよ。何もしてねぇから」
「っ……!」
思わず耳まで熱がのぼる。
からかいに近い一言だと分かっていても、その言葉には胸を大きく揺さぶられる。
「昨日はただ寝ただけだ。……まあ、背負って歩くのは重かったけどな」
悪戯っぽく口の端を上げて、付け足す。
その余裕のある言葉に、アランは顔を覆いたくなるほど赤くなり、俯いて小さく声を漏らした。
「……ごめんなさい……」
それは昨夜の「愛してる」とは違っていた。
今の声は、子どものような弱さを秘めた響きだった。
けれど――そんな彼女を見て、シリウスは子供を守るように優しく笑った。
「謝ることなんてねーよ。俺は……」
視線を落とした彼の目に映っていたのは、アランの手。
「……あの指輪見てれば、それで満足だから」
はっとしてアランは自分の手を仰ぎ見る。
薬指に嵌められた銀のリング。
朝の光を受けて、昨夜の灯とはまた違う、淡いけれど確かな輝きを放っている。
それだけで、すべてを肯定されたような気がした。
昨夜の熱も、未熟な背伸びも、ここに残された約束も――この光が証として示していた。
「……シリウス」
その名を呼ぶ声は掠れて、小さく震えた。
けれど彼は言葉を足さなかった。ただ優しく笑顔を返すだけ。
澄み切った朝の空気の中で、二人だけが共有するひそやかな約束が、この小さな部屋には息づいていた。
それは新しい一日の始まりである以上に、どこか未来の始まりをも告げているようだった。
穏やかな寝息に代わって響くのは、小鳥の鳴き声と、窓辺をそよぐ風。
その柔らかな音の調べの中で、二人の秘密は静かに輝き続けていた。
小さなコテージの台所は、朝の光に包まれていた。
窓から差し込む陽光が薄いレースのカーテンを通して柔らかく拡散し、室内を淡い白に塗りつぶす。
木の壁や床は静かに輝きを返し、その佇まいはまるで森の中の隠れ家のようだった。
窓の外からは小鳥たちの細やかなさえずりが絶え間なく流れ込み、清々しい風とともに空気を揺らしていた。
その台所に立つのはシリウスだった。
慣れた手つきでフライパンを操り、焼けてゆくパンの表面からじんわりと立ち上る香ばしい匂いが、室内を満ちていく。
バターがじゅうじゅうと鳴り、小さな音楽のように響いて、アランの心をさらに高鳴らせた。
テーブルの上には、いつの間にか整えられた朝食。
焼きたてのパン、黄金色に焼かれた卵、そして朝の陽を閉じ込めたようなオレンジの果汁が入った透明なグラス。
どれも簡素で飾り気はなかった。
けれど、不思議とそこに並ぶ光景は、どんな豪華な食卓より温かく、美しく見えた。
「……シリウス。こんなにちゃんと作れるなんて」
驚きを含んだ声を漏らすと、彼はわずかに肩を竦め、得意げに笑った。
「マグルの世界をうろつくときは、こういうのも覚えなきゃなんねぇんだ。……ほら、食えよ。うまいぞ」
促され、アランは素直に席についた。
香ばしい香りに包まれながら、一口パンを口に運ぶ。
ふわりと広がる小麦の甘さと、焼きたてならではの温かさ。
それらが舌だけでなく胸にまでじんわり広がり――気づけば涙が込み上げてきそうだった。
ただのパン。
それなのに、誰かが自分のために焼いてくれる――その当たり前の行為が、今のアランには何より尊く思えた。
ずっと冷たさと孤独に覆われてきた心を、ひと口で解かしてしまうほどに。
「……すごく美味しい」
囁くような声。けれど、それが今の彼女の精一杯の真心だった。
シリウスはそれを聞くと、どこか照れ隠しのようにオレンジジュースのグラスを持ち上げ、にやりと笑った。
「だろ。……また、行こうぜ。マグルの街に。あそこならさ、俺たち、ただの恋人にしか見えない」
耳に届いた言葉に、アランの胸は強く震えた。
――ただの恋人にしか見えない。
それは、マグルの街ではごく自然に許される姿。
けれど彼女にとっては、どれほど切実で、どれほど叶えたかった夢だったろう。
堅苦しい決まりも、血筋も、冷たい視線もない場所で。
本当に「ただの恋人」として並んでいられることが、何よりの救いであり、憧れだった。
「……ええ」
自然と笑みが浮かび、頬がほんのり赤らむ。
小さなグラスの水面に映る自分の顔は、飾らない笑みを浮かべていた。
その笑みは、シリウスが隣にいるからこそ零れたもの。
パンを噛みしめる。
胸の奥が満たされ、心がやわらかく膨らんでゆく。
この当たり前の朝。
パンと卵と果汁の香りに囲まれた、小さな食卓。
それがどれほど尊く、もう二度と手放したくないほどの幸せか。
――どうか、この時間が。
この些細で愛しい朝が。
永遠に続きますように。
アランはそう祈りながら、シリウスと共に囲む小さな朝食のひと皿を、ひと噛みひと噛みに心を込めて味わった。
――そろそろ、帰らなければ。
言葉に出さなくても、その気配は二人の間にひそかに広がっていた。
木漏れ日の差す小さなコテージも、パンと果実の温もりに包まれた朝も、いつまでも夢のように浸ってはいられない。
心地よい余韻は胸を潤すのに十分だったが、現実は屋敷に、そして冷えた空気に続いているのだ。
アランは静かに視線を伏せる。
思い出すだけで喉が詰まる。
――ブラック家の屋敷。
そこを、自分はほぼ丸一日留守にしてしまった。
レギュラスが探していないはずはない。
不在の影に気づいたとき、彼はどんな顔をしただろう。
そして、オリオン、ヴァルブルガ――あの二人はどう受け止めたのか。
自分の不在を、どう解釈したのか。
罪を犯したわけではない。
レギュラスとの関係に決定的な一線を越えたわけでもない。
それでも、その屋敷へ戻ると想像するだけで、胸は圧迫されるように苦しく、呼吸が浅くなる。
逃げたくても逃げ切れぬ現実。背を向けてはいけない現実。
「……帰ったら、なんて言えばいいかしら」
不安に押し出されるように、声が掠れて零れ落ちた。
問いかけにもならない、ただ自分を支えきれずに言葉へ変わった弱音。
シリウスは、そんな思いつめた声を軽やかに受け止める。
肩を竦め、口の端を上げると、悪戯めいた笑みを浮かべて答えた。
「友達の家にいたって言えよ」
「……私。泊まり合うような友人、いないわ」
「なら、いるってことにしとけばいいんだよ」
あまりにも軽い言葉。
けれど不思議なことに、彼が口にすると、本当にそれで通るような気がしてしまう。
彼の声は相手を信じ込ませる、不思議な力を持っているのだろう。
――やっぱり、シリウスはすごい。
その呟きが胸の奥に静かに響く。無茶に見える言葉さえ安心に変えてしまう力を、彼は確かに持っていた。
「……あなたって、本当に。言い訳も上手なのね」
少し含みをもたせた笑みを浮かべ、アランは首を傾げる。
シリウスは眉をひそめ、不服そうに口を歪めた。
「なんだよ、その言い方は」
彼の背中に、そっと腕を回した。
頬を寄せ、わずかに震える声で願うように囁く。
「……私には、何も言い訳しないでね。シリウス」
掠れた声は、小さな祈りのようでもあった。
シリウスは一瞬だけ目を見開いた。
答えを探す間もなく、その顔に力強い決意が差す。
「――当たり前だ。……信用しろ」
何の飾り気もない、単純な言葉。
けれどその奥には濁りのない誠実さが宿っていた。
真っ直ぐすぎる言葉だった。
だからこそ、アランの胸に深く響いた。
緊張と安堵がないまぜになって胸を押し合う。
心を覆う影は消えない。
屋敷へ戻れば、理不尽な束縛と恐怖が待っている。
それは分かっている。
それでも――。
背中越しに聞いた彼の答えを、信じたいと思った。
迷わずに言葉を告げたその声を、胸に刻んでおきたいと思った。
屋敷へ戻る足取りは恐ろしく重いはずだ。
けれど、そのすべてを支えるのはただ一つ。
シリウスの「信用しろ」という力強い約束。
その言葉だけが、アランに現実へ戻る勇気を与えていた。
屋敷の門をくぐった途端、アランの胸は重苦しい空気に締めつけられていくのを感じた。どれほど外の自由な空気に心を開いても、この場所に足を踏み入れると、見えない鎖が絡みつくように身動きが取れなくなる。それを証明するかのように、すぐにレギュラスが駆け寄ってきた。
「アラン……!」
彼の声には焦燥が滲み、その次の瞬間には両腕で彼女を強く抱きしめていた。肩に残る力は震えている。
「……良かった。無事で。本当に、心配したんです」
「……ええ。すみません」
その優しさは、不自由な鎖となって彼女を再び縛るようで、胸の奥が鋭く痛んだ。
ふと耳を澄ませると、階段を降りる足音が響き、冷たい気配が迫る。アランの呼吸が止まるように緊張が走った。オリオンとヴァルブルガが暗い影のように現れたのだ。
「……レギュラス」
オリオンの低い声が広間の空気を張り詰めさせる。
「ロイクの娘を誑かすようなことは……しないでやってくれ」
その「誑かす」という言葉が鋭くアランの胸を突き刺した。口調は息子への諫めのようでありながら、実際に責められているのは自分であると直感した。息子がこれほど熱を上げていることは、節度を保てているのかと自分に問われているようだった。
横に並ぶヴァルブルガの冷たい視線も、激しい言葉こそ発さぬものの、「あなたが息子を惑わせているのでしょう」と非言語で告げていた。
アランは慌ててレギュラスから一歩後ろへ下がり、密着していた抱擁を断ち切った。鼓動が刻み鳴る胸はぎりぎりと締めつけられ、痛みを覚える。
「……屋敷を空ける時は、一言いただけませんか。感心しませんわ」
澄んだ冷気のようなヴァルブルガの声が容赦なく響いた。
「……申し訳ありません、ヴァルブルガ様」
震える声でアランは慌てて頭を下げる。背筋を凍らせるような冷気が全身を撫で、まるで心臓をひとつずつぎゅうと握り潰されていくかのように呼吸が苦しくなっていった。
――だが、それでもまだ「どこにいたのか」「誰といたのか」と問い詰められることなく済んだことは、むしろ幸いと自分に言い聞かせるしかなかった。
震える胸の奥で小さく呟きながら、アランは己を納得させようとした。
しかし屋敷の空気は冷酷な檻のようにその身を締めあげ、一歩の逃げ場も許さず絡みついて離さなかった。
しばらくの間、何も聞こえなかった。ただ鈍い音が頭蓋の内側に響き渡り、視界の端は遠ざかり、感覚がすべて空虚な膜の向こうに押し込まれてしまったようだった。
目の前では、レギュラスが必死に言葉を紡いでいる。
灰色の瞳を輝かせ、その口元からは、未来を語る熱のこもった響きが止むことなく溢れ出ていた。
けれどアランには、その言葉はすべて雑音だった。遠い洞窟の奥から反響してくるような、意味を成さぬ響き。輪郭を掴もうとしても霧散してしまい、何ひとつ届いてはこなかった。
――何を言っているのだろう。この人は。
断片だけが頭に刺さる。
ロズィエ家の令嬢を。
これから結ばれる婚約者を、今からもう袖にしようと心に決めていること。
その宣告を、あたかも彼女にとっても「救い」であり、「喜ぶべき未来」だと差し出している暴力的な明るさ。
それは愛を告げる誓いのはずなのに、誰かを切り捨て、世界を侮辱し、未来というものを陵辱する音にしか聞こえなかった。
なぜ――こんなことがうまくいくと思えるのだろう。
なぜ、この人はこうまでして、自分を檻に閉じ込めようとするのだろう。
胸を深く抉る考えが、容赦なく浮かび上がる。
――自分が、もしブラック家の子を産むのだとして。
果たして、その子が男児でなければどうなる?
女児であれば、後継の資格すらない。
たちまち「私生児」という烙印を押され、陰に追いやられる。
祝福ではなく呪いのような生の始まり。
ただの賭けだ。二分の一の確率に、すべての未来を委ねろと言われている。そんな危うい博打に、自分も、生まれてくる子も、差し出せるはずがなかった。
「……レギュラス……」
掠れた声で名を呼ぶ。
続けて「そんな夢みたいなこと言わないで」と言い添えるつもりだった。
けれど、その言葉は宙に紡がれる間もなく奪われた。
レギュラスの顔が近づき、柔らかな熱が唇を覆う。
吐き出されるはずだった声はそこで封じられ、世界はひととき無音になった。
拒まなかったのは――決して、受け入れたからではない。
ただ、もう疲れ果てていたのだ。
どこから否定すればいいのか。
どこから訂正すべきなのか。
ひとつひとつが積み重なり、もはや絡み合った糸の束のように果てしなく感じられる。言葉で切り離すにも、手で解くにも、余りに巨大で複雑になりすぎてしまっていた。
胸の奥が軋み、空洞にこだまするように痛む。
――もう、ほとほと疲れてしまった。
それでも、心の奥に浮かんでくる名があった。
〈シリウス……〉
自然と口に出そうになるほどに、その名は今や呪文のように光を帯びて思い出された。
早く抜け出したい。
このぐちゃぐちゃに絡み合い、出口の見えない迷路のような生活から。
たとえ無謀な夢であってもいい。現実の真実からは遠くかけ離れていても構わない。
それでも――彼には光がある。
見上げれば、確かに輝く星のような存在がそこにあると信じられる。
その光に、どうしても手を伸ばしたい。
指先が届くかどうかなど関係なくただ闇の中に差す唯一の道標として、追わずにはいられない。
唇に重なる温もりに視界はにじみ、頬を伝う涙がその熱を淡く溶かしていく。
目を閉じた奥で、アランはただ必死に空を仰ぎ、遠くの光を探し続けていた。
冷たい石畳の上を、一歩ごとに重さを感じながら歩いていた。
両腕にしがみつくように抱えたゴミ袋のずっしりとした重みは、身体だけでなく心にまでものしかかった。
屋敷に染みつく陰鬱な空気を背に、夜気を吸い込めるこのわずかな時間だけが、自分にとって小さな解放だった。
その時――。
風を裂く鋭い音がした。
耳に残る軽やかな「ひゅうっ」という響き。
反射的に顔を上げると、夜空の闇を切り裂いてひと筋の光のような姿が飛び込んできた。
箒に跨り、黒い夜を翔ける影――シリウス。
瞬間、胸の奥が衝撃で凍りついた。呼吸が止まり、鼓動が一瞬跳ねたのち、全身を駆け抜ける熱に変わる。
「……シリウス……!」
気づけば、両手の荷物を足元へ放り出していた。
ごろりと鈍い音を立てて袋が転がる。それすらも忘れ、ただ夢中で、その光に導かれるように駆け出した。
夜の石畳を打つ足音がやけに大きく響く。
だが慣れない走りに足はすぐ縺れ、つんのめるように前のめりに倒れ込んだ。
膝を擦り、直後にヒリリとした痛みが奔った。
その音に気づいたのか、彼は表情を驚きに染めて、急降下する。箒を乱暴に放り捨てるようにして飛び降り、そのまま一直線に自分へ駆け寄ってきた。
「おい! 怪我してるじゃねーか!」
彼の息づかいは荒く、熱を孕んだ声は焦燥に震えていた。
杖が素早く抜かれ、一振りされると、膝に温かな膜がふわりと広がる。
焼ける痛みをやわらげるようにじわじわとした心地よさが滲み込み、傷口はやさしく覆われて消えていく。
その温もりはただの魔法による癒しではなかった。
胸の奥まで届いて、張りつめていた恐怖さえも溶かす感覚があった。
――ああ、嬉しい。
その思いが涙と共にせり上がり、視界を揺らした。
「シリウス……会いたかったの」
堰を切るように、想いは言葉となってこぼれ落ちた。
次の瞬間には、自分でも制御できないまま、腕を彼の首に回していた。
力の限り抱きしめる。
背中に回されたシリウスの腕は、片方が強く自分を受け止め、もう片方の手のひらはぎこちなくも優しく背をぽんぽんと叩いてきた。
子供を宥めるような、不器用さとあたたかさ。
張り裂けそうだった胸が、わずかに安らぐ。
「…… アラン。俺も会いたかった。だから来たんだ」
簡潔でぶっきらぼうな声。
けれどその短い言葉が、すべてを満たし、全身を震わせた。
胸の奥が熱を帯び、視界は涙で歪む。
それでも不思議と笑顔が零れ出した。笑うことが、こんなにも自然に戻ってきた。
――自分の「会いたい」という想いは、一方通行じゃなかった。
彼もまた同じ言葉を抱いていた。
その事実が何よりも尊く、こんなにも嬉しいことがあるのだと初めて知った。
この人のそばにいると、涙も、笑いも、胸の奥のすべての感情を惜しみなくさらけ出せる。
強がる必要もない。
誤魔化す必要もない。
――やっぱり。
シリウスは、自分にとっての「光」そのものだ。
「……連れていきたいところがあるんだ」
耳元に届いたその声は、力強く迷いがなかった。
「ええ……どこでも行くわ」
答えるのに躊躇いはなかった。
ゴミ袋は屋敷の扉の前に転がったまま。
けれど、もう振り返らなかった。
シリウスの背に身を乗せた瞬間、すべての不安や恐れが遥か彼方へ吹き飛ばされた。
どうなったっていい。
その覚悟さえも心に浮かぶほどに、今は澄み切って、身体は羽のように軽かった。
臆病だった自分はもうどこにもいない。
選べた。この背中を。
迷わずに――この人を。
黒々と広がる夜空の中。
その背だけが、揺るぎのない光を放っていた。
再び連れ出された先は、見慣れた魔法の世界とはまるで違う場所――マグルの街だった。
夜の闇を抜けると一変して、眩い光とざわめきが押し寄せてくる。大きな建物の中に足を踏み入れると、そこには人々の喧騒が波のように広がり、溢れる匂いと色彩が五感を一気に包み込んだ。
屋敷の閉ざされた空気とは対照的に、ここには自由の息吹があった。
頭上から降り注ぐ明るい光。洒落た看板や、整然と並ぶショーウィンドウ。人々の笑い声や軽快な呼び声、金属が触れ合う音や調理器具の煙。そのすべてが眩暈のように押し寄せる。
アランは思わず足を止めた。
あちこちに広がる食べ物の店からは、香ばしく食欲を誘う匂いが流れ出し、腹の奥を刺激する。焼きたてのパンの香り、揚げ油の弾ける音、蜜のように甘い香り。空気全体が誘惑で満ちていた。
「……惹かれるな」
すぐ横で、シリウスが少し笑った。彼の笑みは魔法よりも軽やかで、空気すら変えてしまう。
「どれか食うか?」
「……わからないわ。種類が多すぎて」
本当に、目に入るもの全てが未知のもので、選ぶことすらできなかった。
そんな彼女の迷いに、シリウスは気軽に肩を竦め、ためらいなく提案する。
「じゃあ、一つ適当に買って――半分こしよう」
その言葉に、胸の奥がふわりと弾けた。
なんでもない一言、それなのにどうしようもなくくすぐったい。
「……ふふっ」
思わず笑みが零れる。声に滲む幸福が自覚できて、頬があたたかくなる。
こんなふうに子供のように笑えるのは――きっとシリウスの隣だから。
受け取った熱気の立つ紙袋。指先が触れ合った刹那、軽い痺れのような感覚が走る。彼もまた笑って、包みを二人で開ける。
湯気の立ちのぼる中、ひとつの食べ物を分け合う。
ただそれだけのことが、どうしてこれほど幸福なのだろう。
「……うまいな」
「ええ……すっごく」
短い言葉しか紡がれなくても、それで充分だった。
この場所には、血統も監視も、冷たく縛る掟も存在しない。
ただ、ごく普通の恋人たちの営みが、当たり前のように許されていた。
――この世界に、ずっと住めたらいい。
そんな願いが胸を掠め、切なくも甘い痛みを残す。
さらに歩みを進めたとき、煌びやかな売り場が目に飛び込んできた。
ずらりと並ぶ化粧品。瓶詰めの香水、色とりどりのアイシャドウパレット、艶やかに並ぶリップ。
魔法界では見たこともない光景だった。
心が弾むのを抑えきれず、その場に立ち尽くしてしまう。
震えるほど鮮やかで、美しいものばかりだった。
微笑む店員が一本のリップをそっと差し出し、照明にかざす。
――それは直感で分かった。「アランに似合う」と。
言葉よりも速く、胸がそう告げていた。
「買うか?」
問いかけに、彼女は小さく首を振った。
「……ううん。どこで付けていいか、わからないもの」
「いつでもいいんだ。付けたい時に付けりゃいい」
その答えに、胸の奥がじんわり熱を帯びた。
シリウスにとっては当たり前の言葉でも、自分にとっては救いのように響く。
次の瞬間には、彼は問いかける間もなく財布を取り出し、迷いなく購入してしまった。
鏡の前。
差し出された試供の一本を唇にそっと滑らせる。
光沢を帯びた紅が、今までの自分を少し違うものに映し出した。
胸が高鳴り、シリウスの方を振り向く。その瞬間だけで、心の奥がざわめき立つ。
「……どうかしら」
ほんの少しの照れを滲ませながら、そう問う。
彼は一瞬も迷わず答えた。
「似合うよ。すごく……綺麗だ」
その眩しさに、胸が震えた。
言葉以上に、真っ直ぐに注がれる灰色の瞳の熱が、心を奥底から掻き乱す。
嬉しくてたまらなかった。胸の奥がきゅっと焼けるように締めつけられる。
この人が「綺麗」と言ってくれるのなら。
たとえ一つのリップであっても、世界が変わる。
化粧なんて、ダンスパーティで一度だけ友人が施してくれたきりだった。
なのに――今、この瞬間に、その一本が全てを潤わせる。
単純でも、子供っぽくても、それでいい。
――これからは毎日、このリップを塗りたいくらいだ。
シリウスに「綺麗だ」と言ってもらえるのなら。
その願いが自然に浮かぶほどに、今のアランは彼の隣で解き放たれていた。
雑踏を抜け、煌めく店から店へ。
派手なネオンの光と眩い陳列に目を奪われながら、二人は笑い合い、絶えず歩みを進めていた。
市場とは趣を異にする、どこまでも整然とした店々。
それでいて魔法界のどんな品揃えも及ばぬほど多彩で、色鮮やかで、目に触れるすべてが新鮮だった。
アランは、何度も心が跳ね上がるのを抑えきれなかった。
魔法の市場は慣れ親しんでいたはずなのに、それでも――このマグルの世界は、心の奥深くに秘められた「知らぬ幸福」を解き放っていく。
煌びやかな化粧品、香り豊かなバスフレグランス、様々な布や靴――歩みを重ねるごとにひとつひとつが心を揺さぶり、笑いが絶えなかった。
数えきれないほどの店を巡った先――ふと足が止まった。
そこにあったのは、ひっそりと輝きを放つ宝飾のショーケース。
「……指輪だ」
ガラスの向こうでライトを受けながら煌めく数々の輪を、シリウスが見つめて呟いた。
その声は何気ないのに、妙に胸に響く。その直後、彼はアランへと向き直った。
「お揃いのものを、つけよう」
え――。
胸の奥で熱が弾け、跳ねた。
けれど言葉は……どこにも見つからなかった。
口を開こうとしても音が出ず、ただ瞳が潤んでいく。
小さく、しかし確かに強く――首を縦に振るのが精一杯だった。
夢みたいだった。
大好きな人と、同じものを身につける。
贈られる。
そんな幸福が、現実に存在していいのだろうか。
ショーケースの中で煌く数々の中から、シリウスはためらいなく一対の指輪を選んだ。
複雑な装飾もなく、粗野でもなく。
ただシンプルで、互いに揃えれば間違いなく“対”となると分かる静謐な輝きを宿す指輪。
まるで過剰な意味を拒むように簡素で、それでいて何よりも純粋だった。
重く語られる婚約や契約ではない。
ただ互いが互いを選び、互いに歩もうと決めた小さな約束。
その証として輝かせるにふさわしい輪だった。
差し出された一本を受け取り、ためらいがちに中指へ滑らせる。
冷たいはずの銀が、指先から胸の奥にじんわり震えを広げていく。
その瞬間頭をよぎったのは――父と母が交わした結婚指輪の情景だった。
彼らの繋がりを象徴するあの小さな輪。
それを遠く真似るような幼い遊びに過ぎないとしても……それだけで、胸が幸福で満ちてしまう。
「……ありがとう、シリウス。一生、大切にするわ」
零れ落ちるようにして吐き出された言葉。堪えきれずに、素直に。
「……ああ。俺も。ずっと付けとくよ」
胸を張り、笑いながら彼が言ったその一言――。
「ずっと」という言葉は、ありふれているはずだった。
それなのにどうしようもなく尊く、重く、胸を貫いた。
――この人は、確かに。
自分との未来を夢想ではなく現実として見据えてくれているのだ。
薬指に嵌められた小さな銀の輪は、ダイヤのように強烈な光を散らすことはない。
それでも、ごくささやかな煌めきで、温かな灯火のように瞬いていた。
その静かな光は確かに告げていた――。
ここから二人が歩もうとする人生の始まりを。
買い物袋を片手に、指先には小さな銀のリングが光っていた。
ただそれだけのことなのに、歩く足取りは驚くほど軽くなっていた。
重荷を背負っていたはずの体が、いまは羽が生えたように自由だ。
人の往き来が絶えないマグルの街の通り。
ショーウィンドウには色とりどりの光が映え、店先からは甘い香りと音楽が漏れ出している。
すれ違う人々のざわめきも、軽快な音を響かせる靴音も、今は心を波立たせることなく、すべてが祝福のように聞こえた。
アランはシリウスと肩を並べ、自然な呼吸で歩みを重ねていく。
夜風が頬をやさしく撫で、街灯が二人の影を長く細く路面に伸ばしていた。
ときおり、ふとした拍子に手と手が触れ合う。
ほんの小さな接触――けれどそのたびに、互いの指輪がかすかに触れ合い、目には見えない鈴が鳴ったように“ちりん”とした音を感じる。
まるで「確かに繋がっている」と耳元で囁かれるようで、胸の奥が温かく震えた。
――お揃い。
ただその事実を意識するだけで胸は熱を帯びる。
嵌められた銀の指輪は、豪奢な装飾も宝石の煌めきも備えていない。
それでも、街灯やショーケースの光を受ければ、ささやかでも確かな輝きが指先に宿り、彼らだけのささやかな秘密を照らし出していた。
「……すごいな。マグルの世界って、何でもある」
不意にシリウスが呟いた。
その横顔は、驚きと喜びに満ちていて、まるで少年のように無邪気だった。
「ええ……」
アランも自然に頷く。
華やかな通りや煌くショーウィンドウ以上に、隣を歩く彼の笑顔こそが、何よりもこの風景を美しいものへと変えていた。
まるで世界の景色そのものが、シリウスを中心に輝きを増しているように。
ふと、足を止める。
ショーウィンドウのガラスに映る、自分たちの姿。
肩を並べ、軽く微笑み合って歩く二人は――どこにでもいる普通の恋人たちと何ひとつ変わらない。
その平凡な幻影が、何よりも愛おしく、胸を締めつけた。
「アラン」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
声は穏やかで、けれど深く胸を震わせる響きを持っていた。
「……いつか、こんなふうに、堂々と手を繋いで歩けるといいな」
シリウスの言葉は、あまりにも素朴で、同時に限りなく切実だった。
なぜだろう、ただの望みに過ぎないはずなのに、その一言が胸に溶けて涙を誘う。
「……ええ」
アランは微笑んだ。
涙を溶かしてしまうほどやわらかな笑みを。
「その時まで、この指輪はずっとつけているから」
指先を示しながらそう告げると、シリウスは目を細める。
握られた手にぐっと力がこもり、その温かさが血流と一緒に胸の奥まで広がっていく。
――不安も恐怖も遠ざかっていく。
臆病だった自分が、ゆっくりと消えていくのを感じた。
代わりに残されるのは、ただ純粋に隣にいるこの人と歩きたいという願いだけ。
夜の街を歩く恋人たちの群れに、自分たちも紛れ込んでいる。
その平凡な光景の一部になれるだけで、世界がひとまわり広がったような気がした。
銀の指輪が街灯の灯りにわずかに揺れて輝きながら――
二人は未来へと続く長い道の上に、互いの影を寄り添わせて歩き続けていった。
雑踏を抜けて辿り着いた店の扉を押し開けると、そこは外の通りとはまた別の熱に包まれていた。
耳に飛び込んでくるのは賑やかな音楽。幾重にも重なり合う人々の笑い声、弾むような会話の響き。
店全体が息づくように揺れていて、その空気に包まれるだけで思わず胸が高鳴った。
シリウスの手に引かれるまま、アランは人々の間をすり抜ける。肩と肩が触れ合い、香水や酒の匂いが混ざって漂う。
落ち着きよりもむしろ熱気が支配する空間で、二人は並んで席についた。
言葉を交わすのには少し声を張らなければならない。だが、それがむしろお互いの距離を近づける理由になった。
口元を相手の耳元に近づけ、声を届ける。そのたびに肩と肩が触れ合い、体温が確かめられる。自然に距離は縮み、心の境界も同じく狭まっていった。
差し出されたメニューを開くと――見慣れぬ言葉がずらりと並んでいる。
煌めくガラスに記された文字は、どれもアルコールの名だった。
「……どれなら飲めるのかしら」
バタービール以外、ほとんど経験のないアランには、そのリストはまるで異国の呪文のように思えた。
そんな彼女の困惑を見て、シリウスが声を上げて笑った。
「子供だなぁ、アランは」
「じゃあ、シリウスは? 何を飲むの?」
すぐに返ってくる彼の答えは、迷いすらなかった。
「俺は――ジンだ。アランは……この辺の軽いやつにしとけ」
軽やかに注文を告げるシリウス。その姿はいつもより大人びて見えて、胸が少しだけ震える。
少年のように無邪気でありながら、こうして時折大人の影を見せる――そんな二面性が眩しかった。
やがてテーブルに並べられた二つのグラス。
琥珀色の液体がライトを透かして揺れ、底から細やかな泡が昇る。
シリウスが軽くグラスを持ち上げ、アランもそれにならう。
かちり、と響いた澄んだ音。
ガラスどうしの小さな衝突が、二人の心の揺らぎを慰めるように優しく鳴った。
口をつける。
喉に落ちた一口は、驚くほど甘かった。
蜜が溶けたような優しさが舌を包み、胸の奥が温かく満たされていく。
「……シリウス、これすごく美味しい。飲んでみる?」
横に差し出すと、彼は苦笑まじりに首を振る。
「いや、俺はそーいうのは苦手だ。……代わりに、これを飲んでみろよ」
彼のグラスを差し出されるままに口をつけた瞬間――。
舌を刺す鋭さと、喉を焼くような熱に、思わず顔を顰める。
その表情を見て、シリウスは声を上げ、こらえきれずに笑った。
彼の笑い声が周囲の喧噪よりも鮮やかに響き、アランの中にも笑いが伝播する。
顔が熱を帯び、心も軽く浮き上がるような心地。
甘い酒、弾む声、触れ合う距離。
そのすべてが幸福の輪郭をなめらかに描いていった。
並んで座るわずかな距離。
腕がかすかに触れ合う。それだけでどうしようもなく愛おしい。
見上げれば、そこにある横顔。
昼の光のように強く、それでいて不思議と優しく夜を照らす彼の姿。
灰色の瞳――少し長い黒髪――笑みの弧を描く唇。
ひとつひとつが、眩しさに心を満たしていった。
目と目が合う。翠の瞳と灰色の瞳。
誘うでもなく、示し合わせたわけでもなく――自然に重なり合った視線が、ただ唇同士の距離を縮めていった。
グラスに残る甘さと、まだ喉に残る苦さ。
二つの異なる味が混ざり合い、自然に互いの中へ巡っていく。
それは、とても甘美な口づけだった。
まだ大人になりきれない、だけれど確かに大人になろうとする心の背伸びのように。
その一瞬に、胸の奥に確かに芽吹いた。
――シリウスとなら、この先を生きていきたい。
その思いは初めて芽生えた“大人の恋”の実感だった。
幼さと成熟の境を揺れる中で、アランは確かに未来を願っていたのだ。
楽しさに任せて、二人とも思った以上に杯を重ねてしまっていた。
最初からそんなつもりではなかった。
シリウスは軽い酒を勧め、お互い心地よいところでやめるはずだった。
だが――笑い合い、語り合い、グラスを繰り返し合わせるうちに、いつの間にかその数は増えていて。
気づけばアランの頬は淡く紅潮し、彼女の目元には熱の色が滲んでいた。
自分の体にもまた、火照るような心地よい熱が巡り、思わず苦笑する。
「アラン……もうこの辺にしておけ」
そっと声をかけようとした、その矢先――。
「……シリウス、愛してるわ……」
吐息に乗って溶けるように、掠れた声で彼女は口にした。
それは酔いが言わせた言葉なのか。
それとも、積み重なる想いが抑えきれず零れ落ちたのか。
どちらにせよ、その響きは真夜中の静寂よりも深く、確かにシリウスの胸に沁み渡った。
温かさが胸の奥からとろとろと広がっていく。
あの頃――あどけない笑顔を浮かべていた幼い少女が。
今、自分に向かって「好き」ではなく「愛している」と告げるまでに大人びて。
真心を託してくれる。
その事実が、どんな酒より甘く、酔わせていった。
潤んだ翡翠色の瞳。
焦点がわずかに揺らぎながらも、艶めいた光を秘めている。
あまりに美しく、あまりに危うく――心ごとさらわれてしまいそうだった。
「……まったく、酔いすぎなんだよ」
ため息をつきつつも、シリウスは優しく彼女の身体を抱き上げ、その背へと軽やかに背負った。
華奢な身体は驚くほど軽く、羽のようだ。
さっきまで無理して大人ぶろうとしていた彼女が、今は幼子のように無防備に委ねている。
背中に伝わる温もりが、なによりも愛おしい。
大人と子供。両方を抱えているのが、アランなのだと改めて思い知らされる。
首元まで垂れる彼女の腕。
その指には、昼間ふたりで選んだ小さなシルバーのリングが光を宿していた。
街灯に照らされ、銀色のきらめきが微かに瞬く。
その小さな証が、シリウスの胸を深く満たしていく。
「……俺も、愛してるさ」
眠っていてきっと聞こえてはいない。
それでも、そう口に出すだけでいい。
たったそれだけで、自分自身が未来に踏み出す力を得たように思える。
夜風が、熱を帯びた頬をやさしく撫で抜ける。
賑わいの少し遠ざかった街の路地には、二人分の影が揺れた。
シリウスの背に眠るアランの小さな寝息は穏やかで、まるで秘密の子守唄のように夜の静寂を優しく揺らしていた。
窓から差し込む柔らかな朝の光が、白いレースのカーテンを透かして部屋を淡く染めていた。
静かな陽だまりが木の床に落ち、壁にかかる影を金色に揺らす。
遠くから小鳥のさえずりが響き、優しい風が林を抜けてくるのだろう、窓辺のカーテンが淡く揺れた。
昨夜の喧騒や酒の熱は、まるで幻だったかのよう。息を吸い込めば新緑を思わせる清々しい香りが胸に満ちていった。
アランは瞼を震わせてゆっくり目を開いた。
木の香りが漂う小さなコテージ。隣には畳まれた布団がひとつ。
――ここは、屋敷の冷たい部屋でも、ホグワーツの寮のベッドでもない。
昨夜のことが、断片的に蘇る。
眩しすぎる光のなかで、思わず両頬が熱く赤みに染まった。
あれほど酔いに任せ――「愛してる」と口にしてしまった。互いに笑い合い、杯を重ね、そして……。
記憶が途切れ途切れで、確かな線が引けない。
――もしかして、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのでは。
胸の奥を不安が掻き立て、慌てるように身体を起こそうとしたその時――。
「お。起きたか」
声。
振り向けば、窓辺に立つシリウスがこちらを見ていた。
灰色の瞳は昨夜と変わらぬ輝きを宿していたが、その奥には微かな安堵の色が溶け込んでいた。
姿勢を崩し、そのままゆっくり歩み寄ってくる。
「安心しろよ。何もしてねぇから」
「っ……!」
思わず耳まで熱がのぼる。
からかいに近い一言だと分かっていても、その言葉には胸を大きく揺さぶられる。
「昨日はただ寝ただけだ。……まあ、背負って歩くのは重かったけどな」
悪戯っぽく口の端を上げて、付け足す。
その余裕のある言葉に、アランは顔を覆いたくなるほど赤くなり、俯いて小さく声を漏らした。
「……ごめんなさい……」
それは昨夜の「愛してる」とは違っていた。
今の声は、子どものような弱さを秘めた響きだった。
けれど――そんな彼女を見て、シリウスは子供を守るように優しく笑った。
「謝ることなんてねーよ。俺は……」
視線を落とした彼の目に映っていたのは、アランの手。
「……あの指輪見てれば、それで満足だから」
はっとしてアランは自分の手を仰ぎ見る。
薬指に嵌められた銀のリング。
朝の光を受けて、昨夜の灯とはまた違う、淡いけれど確かな輝きを放っている。
それだけで、すべてを肯定されたような気がした。
昨夜の熱も、未熟な背伸びも、ここに残された約束も――この光が証として示していた。
「……シリウス」
その名を呼ぶ声は掠れて、小さく震えた。
けれど彼は言葉を足さなかった。ただ優しく笑顔を返すだけ。
澄み切った朝の空気の中で、二人だけが共有するひそやかな約束が、この小さな部屋には息づいていた。
それは新しい一日の始まりである以上に、どこか未来の始まりをも告げているようだった。
穏やかな寝息に代わって響くのは、小鳥の鳴き声と、窓辺をそよぐ風。
その柔らかな音の調べの中で、二人の秘密は静かに輝き続けていた。
小さなコテージの台所は、朝の光に包まれていた。
窓から差し込む陽光が薄いレースのカーテンを通して柔らかく拡散し、室内を淡い白に塗りつぶす。
木の壁や床は静かに輝きを返し、その佇まいはまるで森の中の隠れ家のようだった。
窓の外からは小鳥たちの細やかなさえずりが絶え間なく流れ込み、清々しい風とともに空気を揺らしていた。
その台所に立つのはシリウスだった。
慣れた手つきでフライパンを操り、焼けてゆくパンの表面からじんわりと立ち上る香ばしい匂いが、室内を満ちていく。
バターがじゅうじゅうと鳴り、小さな音楽のように響いて、アランの心をさらに高鳴らせた。
テーブルの上には、いつの間にか整えられた朝食。
焼きたてのパン、黄金色に焼かれた卵、そして朝の陽を閉じ込めたようなオレンジの果汁が入った透明なグラス。
どれも簡素で飾り気はなかった。
けれど、不思議とそこに並ぶ光景は、どんな豪華な食卓より温かく、美しく見えた。
「……シリウス。こんなにちゃんと作れるなんて」
驚きを含んだ声を漏らすと、彼はわずかに肩を竦め、得意げに笑った。
「マグルの世界をうろつくときは、こういうのも覚えなきゃなんねぇんだ。……ほら、食えよ。うまいぞ」
促され、アランは素直に席についた。
香ばしい香りに包まれながら、一口パンを口に運ぶ。
ふわりと広がる小麦の甘さと、焼きたてならではの温かさ。
それらが舌だけでなく胸にまでじんわり広がり――気づけば涙が込み上げてきそうだった。
ただのパン。
それなのに、誰かが自分のために焼いてくれる――その当たり前の行為が、今のアランには何より尊く思えた。
ずっと冷たさと孤独に覆われてきた心を、ひと口で解かしてしまうほどに。
「……すごく美味しい」
囁くような声。けれど、それが今の彼女の精一杯の真心だった。
シリウスはそれを聞くと、どこか照れ隠しのようにオレンジジュースのグラスを持ち上げ、にやりと笑った。
「だろ。……また、行こうぜ。マグルの街に。あそこならさ、俺たち、ただの恋人にしか見えない」
耳に届いた言葉に、アランの胸は強く震えた。
――ただの恋人にしか見えない。
それは、マグルの街ではごく自然に許される姿。
けれど彼女にとっては、どれほど切実で、どれほど叶えたかった夢だったろう。
堅苦しい決まりも、血筋も、冷たい視線もない場所で。
本当に「ただの恋人」として並んでいられることが、何よりの救いであり、憧れだった。
「……ええ」
自然と笑みが浮かび、頬がほんのり赤らむ。
小さなグラスの水面に映る自分の顔は、飾らない笑みを浮かべていた。
その笑みは、シリウスが隣にいるからこそ零れたもの。
パンを噛みしめる。
胸の奥が満たされ、心がやわらかく膨らんでゆく。
この当たり前の朝。
パンと卵と果汁の香りに囲まれた、小さな食卓。
それがどれほど尊く、もう二度と手放したくないほどの幸せか。
――どうか、この時間が。
この些細で愛しい朝が。
永遠に続きますように。
アランはそう祈りながら、シリウスと共に囲む小さな朝食のひと皿を、ひと噛みひと噛みに心を込めて味わった。
――そろそろ、帰らなければ。
言葉に出さなくても、その気配は二人の間にひそかに広がっていた。
木漏れ日の差す小さなコテージも、パンと果実の温もりに包まれた朝も、いつまでも夢のように浸ってはいられない。
心地よい余韻は胸を潤すのに十分だったが、現実は屋敷に、そして冷えた空気に続いているのだ。
アランは静かに視線を伏せる。
思い出すだけで喉が詰まる。
――ブラック家の屋敷。
そこを、自分はほぼ丸一日留守にしてしまった。
レギュラスが探していないはずはない。
不在の影に気づいたとき、彼はどんな顔をしただろう。
そして、オリオン、ヴァルブルガ――あの二人はどう受け止めたのか。
自分の不在を、どう解釈したのか。
罪を犯したわけではない。
レギュラスとの関係に決定的な一線を越えたわけでもない。
それでも、その屋敷へ戻ると想像するだけで、胸は圧迫されるように苦しく、呼吸が浅くなる。
逃げたくても逃げ切れぬ現実。背を向けてはいけない現実。
「……帰ったら、なんて言えばいいかしら」
不安に押し出されるように、声が掠れて零れ落ちた。
問いかけにもならない、ただ自分を支えきれずに言葉へ変わった弱音。
シリウスは、そんな思いつめた声を軽やかに受け止める。
肩を竦め、口の端を上げると、悪戯めいた笑みを浮かべて答えた。
「友達の家にいたって言えよ」
「……私。泊まり合うような友人、いないわ」
「なら、いるってことにしとけばいいんだよ」
あまりにも軽い言葉。
けれど不思議なことに、彼が口にすると、本当にそれで通るような気がしてしまう。
彼の声は相手を信じ込ませる、不思議な力を持っているのだろう。
――やっぱり、シリウスはすごい。
その呟きが胸の奥に静かに響く。無茶に見える言葉さえ安心に変えてしまう力を、彼は確かに持っていた。
「……あなたって、本当に。言い訳も上手なのね」
少し含みをもたせた笑みを浮かべ、アランは首を傾げる。
シリウスは眉をひそめ、不服そうに口を歪めた。
「なんだよ、その言い方は」
彼の背中に、そっと腕を回した。
頬を寄せ、わずかに震える声で願うように囁く。
「……私には、何も言い訳しないでね。シリウス」
掠れた声は、小さな祈りのようでもあった。
シリウスは一瞬だけ目を見開いた。
答えを探す間もなく、その顔に力強い決意が差す。
「――当たり前だ。……信用しろ」
何の飾り気もない、単純な言葉。
けれどその奥には濁りのない誠実さが宿っていた。
真っ直ぐすぎる言葉だった。
だからこそ、アランの胸に深く響いた。
緊張と安堵がないまぜになって胸を押し合う。
心を覆う影は消えない。
屋敷へ戻れば、理不尽な束縛と恐怖が待っている。
それは分かっている。
それでも――。
背中越しに聞いた彼の答えを、信じたいと思った。
迷わずに言葉を告げたその声を、胸に刻んでおきたいと思った。
屋敷へ戻る足取りは恐ろしく重いはずだ。
けれど、そのすべてを支えるのはただ一つ。
シリウスの「信用しろ」という力強い約束。
その言葉だけが、アランに現実へ戻る勇気を与えていた。
屋敷の門をくぐった途端、アランの胸は重苦しい空気に締めつけられていくのを感じた。どれほど外の自由な空気に心を開いても、この場所に足を踏み入れると、見えない鎖が絡みつくように身動きが取れなくなる。それを証明するかのように、すぐにレギュラスが駆け寄ってきた。
「アラン……!」
彼の声には焦燥が滲み、その次の瞬間には両腕で彼女を強く抱きしめていた。肩に残る力は震えている。
「……良かった。無事で。本当に、心配したんです」
「……ええ。すみません」
その優しさは、不自由な鎖となって彼女を再び縛るようで、胸の奥が鋭く痛んだ。
ふと耳を澄ませると、階段を降りる足音が響き、冷たい気配が迫る。アランの呼吸が止まるように緊張が走った。オリオンとヴァルブルガが暗い影のように現れたのだ。
「……レギュラス」
オリオンの低い声が広間の空気を張り詰めさせる。
「ロイクの娘を誑かすようなことは……しないでやってくれ」
その「誑かす」という言葉が鋭くアランの胸を突き刺した。口調は息子への諫めのようでありながら、実際に責められているのは自分であると直感した。息子がこれほど熱を上げていることは、節度を保てているのかと自分に問われているようだった。
横に並ぶヴァルブルガの冷たい視線も、激しい言葉こそ発さぬものの、「あなたが息子を惑わせているのでしょう」と非言語で告げていた。
アランは慌ててレギュラスから一歩後ろへ下がり、密着していた抱擁を断ち切った。鼓動が刻み鳴る胸はぎりぎりと締めつけられ、痛みを覚える。
「……屋敷を空ける時は、一言いただけませんか。感心しませんわ」
澄んだ冷気のようなヴァルブルガの声が容赦なく響いた。
「……申し訳ありません、ヴァルブルガ様」
震える声でアランは慌てて頭を下げる。背筋を凍らせるような冷気が全身を撫で、まるで心臓をひとつずつぎゅうと握り潰されていくかのように呼吸が苦しくなっていった。
――だが、それでもまだ「どこにいたのか」「誰といたのか」と問い詰められることなく済んだことは、むしろ幸いと自分に言い聞かせるしかなかった。
震える胸の奥で小さく呟きながら、アランは己を納得させようとした。
しかし屋敷の空気は冷酷な檻のようにその身を締めあげ、一歩の逃げ場も許さず絡みついて離さなかった。
