1章
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長期休暇の朝。
ホグワーツから生徒たちが次々と馬車や汽車に分かれ、実家へと戻っていくざわめきが外にあふれていた。笑いと別れの声が響く中で、アランの胸だけはずしんと重く沈んでいた。
シリウスの背はここにはない。
家を飛び出し、自由を選んだ彼はもう戻ることはない。
だからアランは、レギュラスと二人だけでブラック家の屋敷へ戻らねばならなかった。
馬車のゆるやかな揺れに身を任せながら、アランは何度も深呼吸を試みた。
けれど、広がるのはどこまでも重たい予感。
また――あの冷たい監視の目に晒される日々が始まる。
オリオンの鋭く細い瞳。
ヴァルブルガの、容赦なく底まで射抜いてくる視線。
思い出すだけで背筋は粟立ち、呼吸が苦しく喉が塞がれそうになった。
やがて屋敷へ足を踏み入れた瞬間、胸を縛る違和感はさらに強まった。
空気は重く、埃一つないはずの壁すらも肌にまとわりつくような圧を持って迫ってくる。
閉ざされた廊下が続き、天井は低く感じられるのに、屋敷全体が巨大で逃げ場のない迷宮のように思えた。
ホグワーツでわずかに緩めていた鎖が、再びきりきりと食い込むようだった。
けれどアランを一番不安にさせたのは――。
ホグワーツで彼女の隣にいたレギュラスが、この屋敷という檻に戻った今、どう振る舞うのかということ。
人目もはばからず手を伸ばし、平然と唇や指先で惑わせてきたあの日々。
もしそれを、この屋敷で繰り返したら。
オリオンもヴァルブルガも――決して見逃さないだろう。
想像するのも恐ろしい。
広間へ続く長い廊下に、アランは静かに佇んでいた。
床を磨く魔法をかけ、呪文を繰り返す。
余計なことを考えてはいけない――そう硬く思いながら、ひたすら目の前の仕事に意識を沈め込む。
考えを逸らすと、背中に貼り付くような監視の目を思い出してしまうのが怖かったのだ。
「…… アラン」
低く響く声に、肩がびくりと震えた。
息が止まり、手先の魔法が途切れる。
振り向けば、レギュラスがそこに立っていた。
相変わらず端整で落ち着いた佇まい。
月明かりを集めたような冷ややかな灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「もう、この辺でいいのでは?」
「……まだ半分も磨いておりません」
アランの声は控えめだった。
けれど、小さな緊張がほんのりにじんでいた。
触れれば砕けてしまう硝子のように、声は細く、かすれていた。
レギュラスは静かに歩み寄り、彼女の持つ道具に手を伸ばした。
「貸してください。……手伝いましょう」
その自然な仕草の中で――ふと、彼は彼女の手を掬い取った。
まるで偶然かのように振る舞いながら、指先で甲をなぞる。
ぞくり、とした嫌な感覚が背筋を駆け上がる。
何気なさを装ったその触れ方は、あまりに見覚えがあるものだった。
アランの呼吸が一瞬で止まり、血の気が引いた。
慌てて手を引き抜き、小さく首を横に振る。
「……レギュラス。ここは――屋敷ですよ」
囁きは震えていた。
まるで警告のように。懇願のように。
だが彼は、淡く笑みを浮かべた。
「……ホグワーツでなら、よかったのですか?」
穏やかな声音。
しかしその裏には、ねっとりとした甘さが潜んでいた。
耳に絡むその響きは、静かな毒のように彼女の心を締め付ける。
アランは頬を強ばらせ、視線を逸らした。
否定の言葉を吐き出すことさえ恐ろしい。
もし反発すれば、その視線の奥にある変わらぬ独占欲をさらに強く刺激してしまう気がした。
心臓が早鐘を打つ。
一拍ごとの衝撃が胸を痛め、血流の音が耳にこだました。
屋敷の静寂はただ深く、彼女の心拍のすべてを浮かび上がらせる。
祈ることしかできなかった。
どうか、この休暇が何事もなく、平穏のうちに過ぎ去りますように。
どうか、自分の存在が余計な波紋を立てませんように。
アランはそう願いながら、再び床へ視線を落とし、ただただ手を動かし続けるしかなかった。
一日の仕事をようやく終え、アランは小さな部屋に戻った。
吐き出した溜息は、古びた壁にかすかに反響する。
石造りの廊下がひんやりと背中に貼りついていたからこそ、この狭くとも温もりを保つ自室だけが、彼女に許されたわずかな避難所のように思えた。
四方を囲む壁は煤けていて、机も小さく歪んでいる。
それでも、ここは確かに自分のための空間だった。
肩の力をほんの少し抜き、机の上に積まれた教科書に手を伸ばす。
次の試験に備え、少しでも勉強を――そう考えた矢先。
「…… アラン」
扉の向こうから低く響いた声に、心臓が強張った。
恐る恐る振り向けば、開けられた扉の隙間からレギュラスが既に立っていた。
「あなたを僕の部屋に呼ぶよりは、僕がここへ来た方が早いかと思いまして」
落ち着き払った言葉が投げかけられる。
アランは慌てて声を細めた。
「……見つかったら、怒られますわ」
「父も母も、もう休んでいます」
短く、静かに告げられる。
確かに、この部屋は屋敷の一番奥、使用人部屋のさらに隔てられた小さな一角にある。
わざわざ近づく者などめったにいない。
理屈の上では彼の言うことも正しかった。
――けれど、そうではない。
胸を締めつけるのは「見つかるかどうか」ではなく、触れるだけで禁忌を侵すという確信そのものだった。
レギュラスは机に並んでいた教科書とノートへと迷いなく手を伸ばし、ぱたりと閉じた。
「……もう見なくていい」
その声音は柔らかい。けれど断定の響きを孕んでいた。
「試験も終えたばかりですし、そんなに勉強漬けでは疲れてしまう」
アランは慌ててノートへ手を伸ばす。
逃げるように言葉を並べる。
「でも……みんなが次の試験対策を始めるより先に取りかからないと。私は、天才肌じゃありませんから」
声は切実だった。しかしレギュラスはたやすく笑みを浮かべただけだった。
「じゃあ……今日だけは、もう終わりで」
一分の隙もない声。
譲る余地がなく、反論の言葉を挟めば悉く弾き返されるだろう―― アランにはそう予感できた。
彼はソファに腰を下ろしていたアランの隣に自然に腰を下ろし、ほんの一瞬の沈黙のあと。
躊躇もなくアランの体を抱き上げ、自分の膝の上へと座らせた。
「……ひゃっ!」
驚愕の声が零れ、頬が瞬時に熱を帯びる。
誰かの膝に跨るなど、生まれてこの方一度もなかった。
それが仕えるべきブラック家の嫡子の上など――絶対に許されるはずのないことだった。
「レ、レギュラス……やめてください……!」
震える声で必死に訴える。
唇は乾き、心臓は喉元まで跳ね上がる。
けれど彼は微動だにしない。
細く長い灰色の瞳でじっと彼女を仰ぎ、その口端をゆっくりと上げた。
「……こうして見上げると、あなたの顔が目一杯に見える。……それもいいですね」
低く落ちた声音は、穏やかさを装いながらも絡みつくようで、逃げ場を塞いでいた。
会話は噛み合わない。
アランの恐怖と罪悪感は募る一方。
――主を見下ろす姿勢。
その事実だけで、胸は焼け付くように痛んだ。
自分がいるのは絶対に踏み入れてはならない領域。
背徳の火が皮膚を炙り続けているようだった。
目を逸らすしかなかった。
視界の端で古い壁紙が揺らぎ、燭火が小さな影を刻む。
けれど、どれだけ視線を逸らしても。
膝の上から伝わる熱、指先をかすかに撫でる感触は逃れようもなく彼女を震わせる。
恐怖に怯え、罪悪感に苛まれ、理性では拒絶を叫んでいる。
それでも胸の奥で何かが脈打つ。
灼けるような心音が、彼と触れ合えば触れ合うほど確かに鳴り響いてしまう。
――どうして。
涙にも似た迷いの熱が瞳に揺れた。
逃げたいのに、逃げられない。
抗いたいのに、囚われてしまう。
禁忌と知りながら、その熱だけは確かに彼女を縛り付けていた。
アランの呼吸は浅かった。
胸の奥でか細く上下するだけの呼吸は、正常に空気を取り込んでいるかも定かでない。
頭の中がぼんやりとしているのは酸素の欠乏のせいなのか、それとも心の緊張が限界を超えたからなのか。
視界のすぐ下――わずかに見下ろす角度に、レギュラスの顔があった。
煤のように淡い灰色の瞳が、揺らめきひとつなく、まっすぐこちらを映している。
逸らすこともできない。逸らす隙間さえ与えられない。
――どうして、こんなことになってしまったのか。
仕えるべき主人の子息に跨り、その上から目を落とす。
それは本来、使用人にとっては冒涜に等しい所作。
重罪にも匹敵する背徳の姿勢。
理性は頭の奥で必死にそう叫んでいるのに、身体はそこから逃れられなかった。
逃げ出さねばならない。それなのに、動けない。
「…… アラン」
名を呼ぶ声が、降り注ぐように落ちた。
それはあまりに穏やかで、あまりに柔らかで――けれど逆に、深く重い力を帯びて胸をきつく縛りつけていく。
声そのものが鎖となり、心を捕らえている。
アランは唇を震わせ、細い声を絞り出そうとした。
「……お願い、降ろしてください……」
ひび割れるような弱い言葉。その響きにレギュラスはわずかに目を細めた。
「嫌ですか?」
問いかけは静謐だった。だがその眼差しは、答次第で逃げ場を失わせる刃のように鋭い。
まるで「試す」ように。彼女の心を覗き込もうとする。
「……っ」
答えようとしても、うまく声にならなかった。
嫌だと告げれば、この危うい均衡は崩れ、さらに強く縛られる――そんな予感が全身を支配していた。
かといって肯定するなど、とても口にできるはずがない。
沈黙。
その沈黙が最後の盾のように、かろうじて彼女を守っていた。
しかし、レギュラスは些かも揺らがない。
細い腰に添えた腕へ自然と力を込め、逃れようとする微かな力も許さなかった。
まるで自分の一部であるかのように抱き留め、彼女を支配する。
――逃げられない。
その実感だけが鋭い棘となって、心を深く抉っていく。
ホグワーツであればほんの一瞬でも覚えられた「安堵の灯」が、この屋敷の湿った闇の中ではすぐにかき消されてしまう。
自由の記憶は残酷なほど遠く、届かない。
「こうしていると、不思議ですね」
囁きが耳を撫でる。
「あなたが僕の上にいて、僕があなたを見上げる――それだけなのに、とても満たされる気がする」
アランは息を詰めた。背中に冷たい汗が流れ落ちる。
彼にとってはそれが甘美な告白なのだろう。
だが彼女にとっては、ひたすら背徳と恐怖を煽る言葉。
膝の上という不自然な体勢は、単なる親密ではなく完全なる支配の象徴でしかなかった。
どうしてこんなことを口にできるのか。
どうして彼の瞳は、こんなにも迷いなく「幸福」を映してしまうのか。
アランは必死に祈った。
――どうか誰にも気づかれませんように。
――どうか、この瞬間が誰の目にも触れず通り過ぎますように。
その祈りは、声にならない。
声にしてしまえば、もっと強く掴まれてしまうから。
小さな部屋を満たしていたのは、暖炉の薪がはぜる音でも、夜の虫の声でもなかった。
ただ二人の荒い呼吸と、緊張で張り詰めた沈黙だけ。
その沈黙は、どんな大きな叫びよりも雄弁で。
アランに、この場所が逃れられない檻であることを改めて告げ続けていた。
重たい瞼をようやく持ち上げたとき、最初に目に飛び込んできたのは金色の朝の光だった。
石造りの小さな部屋に、細いカーテンの隙間から差し込む陽がじわじわと床を照らし上げる。
その光の中央――ソファの上で、無防備に眠るレギュラスの姿。
白い肌が仄かに光を帯び、まるで闇の中に浮かぶ幻のように美しかった。
けれど、その身に一枚も衣を纏っていないと気づいた瞬間、全身の血が一気に沸騰するような衝撃が走った。
「っ……!」
アランは慌てて身を起こした。
昨夜の記憶は霞の底にあり、何度彼の腕の中に沈んだのかさえ分からない。
ぼんやり浮かぶ断片は、何度も名前を呼ばれ、囁きに呑み込まれていたことだけ。
胸を締めつける羞恥に叩き起こされるように、アランは床に無造作に脱ぎ捨てられた服を拾い始めた。
袖にしわが寄っても手早く伸ばし、ぼんやりと目を開けたレギュラスにそっと掛けていく。
「レギュラス……お願いです、しっかりしてください」
声はか細く震え、喉の奥が痛く締まった。
レギュラスは半ば覚醒したまま、言われるままに袖を通す――まるで子どものような仕草にさえ思える。
「……もう朝なんです?」
のぼせた声音が、ゆっくりと部屋に広がる。
「ええ、とっくに。早く自室に戻ってください。……オリオン様もヴァルブルガ様も、もうすぐお起きになります」
囁くように急かし、その手は震え、ボタンを整える指先すらまともに動いてくれない。
ようやくレギュラスに服を着せ終えて、自分の身に意識が戻った時――
本当に、心臓を握りつぶされるような恐怖と羞恥が押し寄せた。
自分もほとんど裸のままだった。
狼狽のまま、「しっかりして」と声をかけていた自分こそ、一番取り乱していたのではないか。
どちらが大人なのか――そんな問いすら途方に暮れる。
羞恥の波が何度も打ち寄せ、視界は霞んでいく。
慌ててブラウスに腕を通し、リボンをきつく締める。
きつく首を絞めるリボンの圧ですら身の咎めを薄めてはくれず、むしろ後ろめたさだけを深めていく。
隣では、レギュラスがまだ眠気を引きずったように、シャツのボタンをゆっくりとかけていた。
その手指がもどかしく――また苛立ちが、つい唇から零れた。
「……もう」
アランは杖を抜き、軽く振った。
ぱちん、と乾いた音がして、魔法でシャツのボタンが一気に留まっていく。
「……便利な魔法を知ってますね」
レギュラスはふにゃりと笑い、あどけなく首を傾げる。
その無防備な仕草さえ、今は痛々しい。
「レギュラス……顔を洗って。朝食までには、しっかりしてください」
苛立ちと羞恥を誤魔化すように、少しきつい声で告げる。
そして半ば彼を押しやるように、部屋の扉の方へ導いた。
扉が閉まり、再び静けさだけが残る。
アランはその場にしばらく立ち尽くしていた。
心臓はばくばくと高鳴り、指先はじくじくと震え続ける。
――私はどこまで堕ちていくつもりなのだろう。
自らの大胆さが恐ろしくて仕方がなかった。
昨夜の全てを包むような白い朝の光は、何もかもを暴き立てるように冷たく、容赦なかった。
朝の大広間には、まだ窓辺から青白い光が差し込んでいた。
磨かれたシャンデリアの下、長大な食卓が整然と伸び、銀器とカトラリーはまるで一点の乱れもなく並べられている。
朝露を受けてキラリと光るガラス窓、その外には広大な庭が静かに広がっていても、アランの心にはただ冷たい圧迫しか感じなかった。
彼女は静かに給仕の準備を進めながら、心臓を押さえていた。
昨夜の記憶が、どんなに振り払おうにも頭の奥で呻き続けている。
――もし。あのことが知られていたなら。
自分がどんな姿でレギュラスに絡め取られていたか。
あの二人の冷たい目に、その全てが映ってしまったら――
扉が重く開き、石の床に響く足音が場の空気を浸していく。
オリオン・ブラックとヴァルブルガ・ブラック。
家を支配する二人の影が現れるだけで、朝の空気は一気に緊張へと塗り替えられた。
「……遅くなったな」
低く広がる声。
静まりかえった空間に落ち、その音だけでアランの背筋は一瞬にして硬直した。
ヴァルブルガの鋭い瞳がまずレギュラスへ、そして次にアランへと流れる。
ただそれだけ。
それだけで、胸を突き刺されるような痛みが走った。
アランは俯き、食器を揃える手だけは止めまいと必死だった。
知られてはいないはず。――その願いを繰り返す。
けれど、鋭い瞳に真っ直ぐ射抜かれるたびに、昨夜の背徳の記憶が細部まで蘇った。
パンを切るナイフの音が静かに響く。
磨かれた銀器が卓上で控えめに鳴る。
いつもと変わらぬはずの朝食――それがアランにはただ恐ろしいだけだった。
この空間に許されているのは、沈黙と緊張だけ。
「アラン」
名を呼ばれた訳ではなく、ただレギュラスが席に着きながら口にした一言。
それだけでアランの心臓は跳ね上がる。
昨夜の秘密を呼び覚まされるようで、父母に聞かれてしまうのではと唇が震える。
「はい」
やっと搾り出した返事は自分でも驚くほど頼りなく掠れている。
幸いにも、オリオンもヴァルブルガもそれ以上何も言わなかった。
だが重い沈黙と冷ややかな空気だけが、食卓に長く漂った。
両手が震えそうになるのを必死に押さえ、アランはただ早くこの食事の時間が終わることを祈るしかできなかった。
それは昨夜と同じ、逃げることのできない恐怖。
そしてどこにも届かない、か細い祈りだった。
朝の光が窓辺から差し込み、食器の縁にかすかな反射をつくっていた。
アランはいつものように食卓に残った皿を片付けていたが、ふいに視界がかすかに揺らめき、足元の床さえ波打つように歪んだ。
「……っ」
思わず吐き気がこみ上げ、手にしていた皿を乱暴にシンクへ置くと、彼はその場にしゃがみ込み、口元を抑え込む。浅い呼吸しかできない。喉の奥にひりつくような不快感と、冷たい汗のざわめき。そこへ、不意にひとつの思いが頭をよぎった。
――最後に生理を迎えたのは、いつだったのか。
思い返そうとするが、脳裏には霞が広がり、時間の線が曖昧にほどけてゆく。心臓が唐突に跳ね上がり、胸の奥を乱暴に叩きつける。忘れたくても忘れられない夜の記憶が、鮮烈に蘇る。レギュラスの腕に抱かれ、幾度も重ねた時間。そのどれほども、ただ夢のように流され、確実に避ける手立てなど取らなかった。
「……いや」
喉の奥から、乾いた音が零れた。足元から冷たさが這い上がり、血の気という血の気を奪い取っていく。次の瞬間、頭の中は真っ白に塗り潰され、思考というものがすべて霧散した。目の前の景色さえ遠く霞む。残された文字はただ一つ――「まさか」。
胸を押し潰すその二文字に突き動かされるように、アランは屋敷を飛び出していた。
石畳を叩く靴音が妙に軽く響き、けれど足は覚束なく、何度も躓きそうになりながらも止まることはできなかった。心臓は喉から抜け落ちそうなほど暴れ、荒い息は火傷のように熱を帯び、視界は涙か汗か区別もつかぬほど滲んでいた。
魔法薬局に辿り着いたときには、もう呼吸さえ乱れすぎて声もままならなかった。カウンターに立つ魔法薬剤師に必死に言葉を紡ぐが、途切れ途切れで、震えと掠れだけが先に出てしまう。それでも、彼女はアランの必死を理解したのだろう。静かな眼差しを向け、棚からひとつの小さな包みを差し出した。
アランは震える手でそれを受け取り、浅く上下する胸を抑えるように唇を噛みしめ、深く頭を下げる。言葉にならずとも、その理解とささやかな思いやりが、心の奥のどこかをあたたかく滲ませていた。
硬貨が指先の震えで幾度も床に滑り落ちる。ようやく扉を開いたとき、その小さな動作の重みに足がすくむほどだった。狭い個室の中に身を沈めると、朝の冷たい気配が壁から染み込み、肌を刺すように纏わりついてくる。
封を開け、検査薬を取り出したとき、その小さな棒が異様に重く感じられた。手元が覚束ず、ぎゅっと握りしめながら、どうにか指示どおりに使い終える。
――あとは待つだけ。
けれど、ほんの数分の静寂は、アランにとって永遠の牢獄となった。鼓動は今にも胸から破り出そうと荒れ狂い、冷や汗が背中を濡らし、手足は小刻みに震え続ける。
もし、もしも――。
その言葉を思い浮かべるだけで空気が薄くなる。喉を締めつける想像が、視界の端を暗くしていく。
やがて。
結果は静かに提示された。そこには一つの明確な答え――陰性。
瞬間、アランは膝の力をなくし、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。胸が大きく波打ち、肺の奥を塞いでいたものがようやくほどけてゆく感覚に包まれる。
――助かった。
安堵という言葉では足りなかった。命を拾ったような、深い奈落の底からようやく這い出したような。解放の感覚と、消えきれぬ恐怖の残滓と。その間に押し潰され、視界は滲んでいく。
何故だか分からぬまま、熱い滴が次々と頬を伝った。堰を切ったように溢れた涙は止められず、嗚咽に変わることさえなく、ただ静かに流れ続けた。
アランは両手で顔を覆い、震えながらその場に留まるしかなかった。張り裂けそうだった鼓動と、こぼれ落ちる涙と。その狭間に宙づりにされるように、ただひとり、朝の冷たい個室の中を彷徨っていた。
涙が静まるまで、どれほどの時間が過ぎただろう。
蛍光灯のかすかな唸りと、水音すらない沈黙の個室で、アランは両手で顔を覆い、ただ震える呼吸を繰り返していた。頬に残る涙の痕は冷たく乾きかけ、それでも内側からは熱と虚脱とがせめぎ合い、心臓の拍動だけがやけに強調されて響いていた。
――陰性。
その結果が、自分を確かに救った。深い淵からすくい上げる手のように、明日を奪おうとする影を押しとどめてくれた。
けれど同じ重さで、別の苦しさが胸に居座る。助かったという安堵は確かにそこにあるのに、虚ろな空白が心の奥に広がり、満たされるどころか削られていく感覚に襲われた。
やがて、袖で乱暴に涙を拭うと、身体を引きずるように立ち上がった。膝はまだわずかに震え、全身が鉛のように重たい。取っ手に触れる指先は冷たさで痺れ、ようやく扉を開くと、まぶしい朝の光が彼を撃つように差し込んだ。
眩しさに思わず目を細める。
そこは、いつもと変わらぬ街の通り。けれどアランには、全てが遠い別世界のもののように思えた。
――戻らなければ。
そう胸中で繰り返すたびに、鎖のような重さが背に絡みついた。
望むのは解放だった。安堵にすら届き切らぬこの息詰まる状態から遠ざかりたかった。
なのに、自分を縛りつける屋敷へ戻るしか道はなく、その事実が胸をさらに沈めていく。
そこには、いつも通りのレギュラスの瞳が待っているだろう。灰色に濁った深淵のような眼差し。その視線は優しさに似せた執着で、彼女を逃がすまいと絡みついてくる。そして父や母の冷徹な眼差しもまた、屋敷の中を支配している。そこに戻ることは、呼吸を奪う暗闇に身を投じることと同義だった。
足を踏み出せば踏み出すほど、胸に僅かにあった希望の欠片が削り取られていく。
朝の街は活気に満ちていた。商人たちが店先で声を張り上げ、子供たちの笑い声が路地に跳ねる。晴れやかな笑顔が交わされ、光あふれる日常が広がっていた。
だがその光景こそが、アランの胸を鋭く切り裂く。
自分だけが影の中に閉じ込められ、笑顔も自由も許されない。
人知れず秘密を抱え、背徳の罪に震え、息を潜めて生きている。
「……」
足を止めたアランは、空を仰ぎ見た。
白い雲が、風に流されながらちぎれて散ってゆく。
その一瞬、視界の奥にホグワーツの青く広い空が重なった。寮塔の上から見上げた空。伸ばした指先が届きそうに思えた、果てなき蒼さ。
その記憶とともに、鮮烈な声が蘇る。
――『必ず迎えにいく』。
シリウスが笑いながら放ったその言葉。
もう信じてはいけない。そう分かっている。約束を守れぬ運命を、とうに突き付けられていた。
けれど、それでも。心は信じたいと願う。愚かしく、浅ましいと知りながらも、誰よりもその言葉を信じていたいと縋ってしまう。
その願いに気づくたび、胸に鋭い痛みが走る。失った自由と、繋ぎ止めることの叶わない想い。希望は幻影でしかなく、それを握ろうとする自分の指先はいつも空を掴む。
アランは重たくなった足を再び動かした。
街のざわめきを背にして、屋敷への帰路を進む。石畳を叩く足音は、どこか哀しい響きを宿していた。
やがて、視界の奥に屋敷の門が現れる。その瞬間、全身に冷たい影が落ちたような気がした。空気さえも暗がりに変わっていく。あの中には監視の眼がある。父や母の、そして――レギュラスの。執着と愛が混じり合った灰色の瞳が待ち構えている。
安堵は束の間の幻にすぎなかった。救い出されたと思った矢先に、また別の牢へと押し戻されてしまう。そこに自由などは存在しない。
――それでも。
逃げられない以上、戻るしかない。分かり切った現実。抗おうとする心は萎えても、それでも歩を止めることはできない。
アランは肩を震わせながら、深い吐息を細く吐き出し、門をくぐり抜けていった。重く軋む屋敷の扉へと身を進める彼の背は、朝の光から遠ざかり、再び暗い影へと飲み込まれてゆくのだった。
夜の帳が屋敷を覆い、冷たい静けさが隅々にまで沈み込んでいた。
廊下を渡る風はなく、灯された燭台の火さえ微かに揺らめくだけで、世界の音はすっかり息を潜めている。
そんな夜更けに、不意にアランの部屋の扉が、静かに叩かれた。
わずか一度。ためらいを含まぬ、はっきりとしたノックの響き。
胸の奥がひやりと波打つのを感じながらも、アランは返事をできずにいた。
それでも、扉は音もなく開かれる。入ってきたのは、やはり――レギュラスだった。
薄明かりのなかに浮かぶ彼の姿は、影の中でなお整然としていた。白いシャツの肩に流れる黒髪、そして何よりも、その灰色の瞳が真っすぐにこちらを射抜いている。
迷いもためらいもなく、ただアランを求める確固とした意思を宿した視線。
彼は歩み寄ると、伸ばした手でアランの腕を掴んだ。
その瞬間――
「……やめて!」
アランは思わず声を張り上げ、強く振り払った。
喉の奥から絞り出すようなその声は、震えながらも、確かに彼女自身の意思を帯びていた。普段の彼女からは想像もできないほど、はっきりとした拒絶だった。
叫びにも似ていたが、それは切羽詰まった必死の訴え。
震える唇から零れ落ちたのは、息苦しいほどの恐怖と、もう限界なのだという痛切な声だった。
レギュラスは不意を突かれたように一瞬まばたきし、次いで眉を寄せた。
「……どうしたんです?」
彼の声は穏やかで、決して怒号でも叱責でもなかった。
その瞳に浮かんだのは怒りでも失望でもない。ただ純粋に理解できないという戸惑い。灰色の眼差しは、真剣さと困惑がないまぜになり、彼の胸中の揺らぎをそのまま映していた。
それでもアランにとって、その視線はなお残酷に響いた。
喉を詰まらせながらも、どうにか言葉を紡ぐ。
「……なんでもないわ。ただ……こんなの、間違ってるもの……」
最後の言葉はかすれ、涙に揺れた。声を出すだけで胸が裂けるように痛い。心の奥に張りついて離れないのは、数日前に襲われたあの恐怖――。
妊娠の疑いがよぎったあの瞬間。未来という未来がすべて黒く塗り潰され、出口のない暗闇へと落ちていく感覚。
祝福など決して与えられない子を身ごもるかもしれない、という絶望。あの嗄れた暗闇を、彼女は二度と味わいたくはなかった。
「……」
レギュラスはただ心配そうにアランを見ていた。
その灰色の瞳は、彼なりの優しさを含んでいたのかもしれない。だが、彼女にはそれすらも痛みとして映った。なぜなら――その不安の根を撒いたのは他ならぬ彼自身だから。
どれほど柔らかく見えようとも、その眼差しは逃げ場を奪う鎖と同じだった。寄り添おうとする仕草さえ、優しさを装った捕縛の手にしか思えなかった。
だから縋れなかった。
むしろ、縋ってはいけないと強く思った。
レギュラスの肩に顔を埋めてしまえば、きっとその瞬間にまた足元から深い闇へと沈んでしまう。甘やかな声に解かれれば、再び自由を失う。そう分かっているからこそ、アランはぎゅっと唇を噛み締め、滲む涙をこらえながら静かに首を振り続けた。
部屋に落ちた沈黙は、外界の夜よりも重苦しかった。
どこまでも深く圧し掛かる重さの中で、アランの孤独な拒絶と、レギュラスの理解できぬ戸惑いとが、互いに交わることなく、ただ苦々しい溝を広げてゆくばかりだった。
アランの口から放たれた拒絶の声は、鋭い刃のように室内に響き渡り、その余韻が壁や床に絡みついたまま消えなかった。
まるでそれまで積み重ねてきたぬくもりのすべてを塗り潰すように、重苦しい沈黙だけが残る。
レギュラスは動けなかった。
その場に立ち尽くし、冷たい衝撃に胸を射抜かれたまま、言葉を失っていた。
――受け入れてくれるはずだった。
与えれば与えられる。求めれば応じてくれる。それが互いの愛の証だと、ずっと信じて疑わなかった。
腕に抱けば寄り添ってくれると信じていた。それが彼らの絆であり、間違いなく繋ぎ止める術であると。
だからこそ、今の声は雷鳴のように鋭く、胸の奥を容赦なく貫いた。
全てを崩すに足る、はじめての拒絶だった。
「……何があったんです?」
その問いは低く、呻くように零れた。
レギュラスは混乱を抑え込むように言葉を探した。信じ難かった。彼女がこんなふうに変わるはずがない。
ならば、彼女を変えた理由があるはずだ。そうでなければ、この現実を受け入れられない。
胸の奥をかすめる名があった。
――シリウス・ブラック。
その名を思った途端、血の気が逆流するような苛立ちが胸を覆った。黒々とした怒りが冷たく広がっていく。
「……答えてください」
堪え切れず、肩に手をかけ、揺さぶるように言う。
「何かあったんでしょう? 説明してくれなければ……僕には分からない」
その必死さは、懇願とも圧迫ともつかぬ響きで彼女を締めつける。
アランは唇を固く噛み、沈黙にしがみついた。視線を落とし、ただ拒絶の気配だけを纏っている。
その頑なさが余計に怒りを焚きつけた。
「……シリウスなんです?」
その名を口にした瞬間―― アランの瞳が大きく揺らめいた。
息を呑むほど真っ直ぐに開かれた瞳。その反応は、何より雄弁だった。
「……!」
怒りが堰を切ったように胸を満たす。
心臓の鼓動は嵐のように強まり、熱が喉の奥にこみ上げる。こらえきれず、次の言葉がほとばしり落ちる。
「いつ会ったんです? あの人が屋敷に来たんですか?」
声は険しく鋭くなっていた。
問い詰めるたびに、アランの表情は狼狽に染まる。
涙の気配を帯びた瞳が揺れ、かすかに肩が震える。
「何を言ってるの……レギュラス……」
必死に否定しようとするその声。けれどその弱さが、かえって彼の疑念を深める。
「……いつ、どこで会ったんです。何をして、何を話し、何を聞かされたんです」
苛立ち混じりの問いが次々と零れ落ちた。
息を吐くたびに胸の奥が焼けつき、冷静さというものは影も形もない。
――自分の知らないところで、あの男と。
思考が勝手に形をとり、無数の幻影が心の奥で生まれた。
互いに耳を寄せ合う姿、密やかに手を重ねる仕草、囁き合う言葉。ありもしない光景が裏切りの証となって膨れ上がり、彼の胸を無惨に裂いていく。
怒りしか残らなかった。
灰色の瞳は揺るぎない愛を宿した色から、激しい嫉妬と恐怖に濡れた色へ変貌していく。
震える指先、震える声。支えきれない激情が全身を突き動かした。
アランはその怒涛を前に、肩をすくめ、小さく首を振るしかなかった。
「違う」と言葉にして叫ぶ力も残されていない。ただ身を守るようにその場を震えながら耐える。
だが、その沈黙と動揺こそが、レギュラスにとっては何よりも痛切な証明だった。
耳をつんざくほどに胸の鼓動が荒々しく響き続ける。
脳裏で膨れ上がる声はただひとつ。
――裏切られた。
夜の静けさは二人の呼吸だけを抱え込み、なお深く重さを増していった。
「答えてください……! いつ、どこで……シリウスと何を――」
レギュラスの声は、抑えようとしても高ぶりを増し、室内の重苦しい静寂を乱した。
灰色の瞳は焦燥と憤怒の奥で濁りを帯び、彼の両手はアランの肩を掴んだまま震えている。その揺れは必死さに裏打ちされていた。逃げられるものかと、彼女の視線を捕らえ、息を殺すほど近くで問い詰める。
「……!」
アランの瞳が大きく揺さぶられた。閉じ込めていた感情の扉がこじ開けられる。噛み締めていた唇が解け、次の瞬間、瞳の奥に溜め込まれていた雫が溢れ出た。
ぽとり――。
絹の上に落ちる露のように、涙は頬を伝い、静かな音もなく床へと零れていった。
その瞬間、レギュラスの胸に走った衝撃は、刃のようでもあり、熱の奔流のようでもあった。
「アラン……」
名前を呼ぶ声は、自らの喉からこぼれているとは信じられぬほど弱く震えていた。
その涙が、レギュラスの心を二つに裂いていく。
自分が求めても言葉を返さず、ただ泣くばかりなのは、別の真実を隠すためだ――そう囁く声が胸を黒く侵す。
怒りと哀しみが胸の中で真逆にせめぎ合い、内側から彼を引き裂いていた。
「僕に説明してくれなければ、わからない! なのに……なぜ……なぜ泣くんです……!」
声は震えた。叫びというよりも呻きに近い。髪を掻きむしりたい衝動が込み上げ、どうしていいか分からずにいる焦燥が、灰色の瞳に嵐を閉じ込める。
アランはただ首を振るばかりだった。
唇を震わせ、途切れ途切れに掠れた声で必死に否定を紡ぐ。
「……ちがう……ちがうのよ……」
必死の言葉も、あまりに脆い。弁明ですらなく息の音に近い。
だからレギュラスには届かなかった。ただ痛みと恐れに逃げる声にしか聞こえなかった。
「なら、どうして……!」
詰問は止まらない。
アランの涙も沈黙も、自分を拒絶するための無言の証であるかのように思え、ますます激しく心を揺さぶった。
――シリウス、と。
その名が心に浮かぶ度、実態のない幻影が彼の胸に膨れ上がる。
互いに笑う姿、囁き合う声、逃げるように手を取る光景。
想像が想像を呼び、いつしか現実以上の重さで彼の胸を支配していった。
そして同じ胸の奥で、矛盾する衝動が湧き上がる。
彼女を震えるまま放ってはおきたくない。
憤怒に駆り立てられながらもそれ以上に、抱き寄せ安らぎを与えたいと願う。
裏切りの影に焼かれながらも、なお離すことなどできなかった。
「アラン……僕を見てください」
必死に縋るような声。
灰色の瞳は激しい激情の嵐を宿しながらも、求める色を失えずにいた。
伸ばした指先が、宙を彷徨うように震える。彼女の頬を伝う雫に触れたいのに、触れればそのまま崩れてしまいそうで、冷たく硬くなった空気の中に留められていた。
怒りと嫉妬と、そして痛切な愛。
その三つが絡まり合い、レギュラスの胸を容赦なく切り裂いていた。
震える彼女を前にして、彼自身もまたどうすることもできない渦に飲み込まれていく。
「……僕を見て」
その囁きに、アランの心は大きく揺さぶられた。
胸の奥が波打ち、張り詰めていた糸がほどけかける。けれど――視線を向けた先に果たして、本当に何があるというのだろう。
レギュラスを見る。
そしてその瞳の奥に映るのは確かに自分。だが、そこから先に未来があるのかと問われれば――答えは否でしかなかった。
アランは知っている。
自分はただの使用人であることを。
その主人の子息と並び立つ未来など、許されるはずがない。たとえ二人が心を重ね合ったとしても、社会はその関係を決して肯んじはしない。
もしも……あの日の体調の異変が本当に妊娠であったなら。
生まれてくる子どもに背負わせるのはいったいどんな烙印だろう。
思い浮かぶ未来は、ただ底知れぬ暗さしかなかった。
オリオンも、ヴァルブルガも、絶対に許さない。
いかに父ロイクがブラック家に深い信頼を寄せられていようとも、その娘である自分が犯した過ちは、取り返しのつかぬ重荷となる。
そしてすべては、「使用人の娘が、主家の子息を惑わせた」という話にすりかえられるだろう。
しかも――レギュラスには既に婚約者がいる。ロズィエ家のカサンドラ。
定められた未来に逆らってしまえば、セシール家は一瞬で地に落ち、父と母はその余波に呑まれるに違いない。
そのすべての罪は、アランひとりの肩にのしかかる。
――それなのに。
どうして彼は、こんなにも簡単に「僕を見て」と言えるのか。
届きようのない未来を前にして、無防備に伸ばされたその言葉は、甘美でありながら、理不尽にすら思えた。
胸の奥が詰まり、声にならない怒りさえせり上がる。
どうして、そんなに無垢に――。
それでも。
アランは知っている。
この人が、自分に確かに好意を寄せ、孤独な夜に寄り添ってくれたことを。
深い孤独と冷たい沈黙の中で温もりを与えてくれた時間があった。
その夜、救われたと感じてしまった心は嘘ではない。
――そして。
シリウスの不在を、レギュラスの温もりで埋め合わせてしまったことも。
全部、偽りではない。
だからこそ、レギュラスだけを責めることはできなかった。
悪いのは、自分の弱さだ。
何も持たず、与えられず、けれど望んではならないものをどうしても欲してしまう、その浅はかさ。
結局は、自らの脆さがこの関係を育て、どうにもならぬ地点へと追い込んでしまった。
「……あなたと私は、一緒にはなれないわ。こんなこと、続けていいわけがないでしょう」
絞り出すように、掠れた声で言葉を吐く。
その一言は、自分の胸をも突き刺す刃だった。
昨日までの行為を思えばなおさらだ。
初めて知った“大人の真似事”のような触れ合い。
甘い口づけも、互いに求め合う熱をなぞる行為も。
誰も止めず、救いの手を差し伸べる者もいないまま、ただふたりで探り、深みに落ちていった。
すでに抜け出すのが困難なほど絡み合っていた。
けれど、知ってしまった。
その背後に待つ代償の恐ろしさを。
あの日、暗闇の中で息が詰まるほどに感じた恐怖を。
自分を救う術をそれに求めた弱さを、もう許せない。
涙ににじむ視界の向こうで、レギュラスがまた一歩近づいてくる。
その瞳には、灰色の奥に確固たる決意が灯っていた。
「…… アラン。僕は絶対に、あなたを守れます。約束できます」
その言葉は、あまりにも無垢だった。
純粋で、真っ直ぐで、子供じみた誓いですらあった。
けれども同時に、あまりにも現実離れしている。
自ら縛られたしがらみや婚約を、社会の掟を、どうすれば破り越えることができるというのか。
だからこそ、なおさら胸が苦しい。
幻想であると分かっても、差し出された想いに縋りたい自分がいる。
けれど同時に拒まなければならぬ自分もいる。
弱さと現実が胸の奥で激しくぶつかり合い、アランは言葉を飲み込みながら静かに唇を震わせた。
レギュラスの腕が、そっとアランの肩を包み込んだ。
拒絶されるのだとしても――せめて、この温もりだけは許されたい。
そんな必死さが滲む仕草だった。幼さの残るその抱擁には、どうしようもなく不器用な真心が宿っていた。
彼には分かっていた。
アランが抱えているものが、単なる羞恥や迷いではなく、未来そのものへの恐怖であることを。
その胸を蝕む不安の根に、シリウスという影が色濃く絡んでいないと知れただけで、レギュラスの心にはわずかながら安堵が灯っていた。
そして――だからこそ、打ち明けようと思ったのだ。
自分の考えている未来を。
まだ誰にも語ったことのない秘めた理屈を。
ただ「愛している」と繰り返すだけでは幼稚に過ぎる。だが、現実を描き出した上で訴えることができるなら、彼女を少しでも安心させられるのではないか――そう信じた。
「アラン……聞いてくれますか。僕が考える、僕たちの未来のことを」
言葉は静かで淡々としていた。
けれどその奥には、押し叫ぶような固い決意が燃えていた。
「……ロズィエ家との婚約は、避けられません」
冷静な口調。その響きは、まるで事実を受け入れる覚悟の宣言のようにも聞こえた。そして、すぐに続いた言葉が、彼の頭の中に周到に積み上げられていた未来図を覗かせる。
「でも――卒業した後。あなたが……ブラック家の子を産んでくれたなら。僕は堂々と、あなたを妻に迎えることができます」
「……!」
アランの目が大きく開かれる。瞳孔が大きく震え、次いで咄嗟に声が荒ぶった。
「……レギュラス! それはロズィエ家の令嬢への……酷い侮辱であり、冒涜です!」
涙に掠れたその声は鋭く、胸を切り裂くような否定の叫びだった。
だが、その想いを真正面から浴びても、レギュラスは一歩も揺るがなかった。
「ですが、彼女もまた……僕と数度しか顔を合わせていない相手と結ばれるんです。きっと、その方がかえって気楽だと思うんです」
「……っ」
淡々とした声音の裏に潜むものは、理知と残酷さの混合だった。
彼は、平然とそう告げながらなお、その瞳の奥を微かに輝かせている。
「彼女には自由を与えます。社交界に出て、望むのなら別の誰かと関係を持っても構わない。僕はそれを非難しません。……表向きだけ夫婦であれば、それでいい。むしろその方がお互い気楽でしょう」
さらりと紡がれる未来予想図は、薄氷の上に描かれる冷ややかな絵画のようだった。穏やかに響く口調とは裏腹に、その実鋭い筋道に支えられた理屈。
瞳は少しの曇りもなく、むしろ自らの思考に確信を見いだしたかのように光を増していた。
そうすれば――。
誰一人、本家の名誉を傷つけたと口を挟むことはできない。
アランを正式な立場へと引き上げ、同時にブラック家の血を継がせることで、家の威信は強固となり、セシール家の名も盤石となる。
その計算の果てに成立する未来こそが、自らの愛の実証なのだと、彼は信じていた。
「…… アラン。僕は、あなたを守れるんです。必ず」
もう一度、強く。
灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。曇りも迷いもなく、純粋そのものの輝きを宿していた。
――その真剣さが、かえってアランの胸を深くえぐった。
彼の言葉は確かに愛の証明として差し出されていた。けれどそれは同時に、「選択肢を閉ざされた檻」そのものだった。
未来を保証するという甘やかな響きの奥底に、絡みつくような不自由と逃れられぬ鎖が透けて見える。
愛してくれるがゆえに縛られる。救いとなると同時に支配でもある。
その矛盾こそが、アランを最も苦しめていた。
胸の奥で、弱さと現実とが鋭く衝突し、呼吸さえも震える。
視界の隅に、あの涙の朝が重なる――すべてが黒に塗り潰されるような絶望をもう二度と味わいたくない。
それなのに。
どうして、その「愛の檻」は、ここまで甘美に響いてしまうのだろう。
アランは震える唇を噛みしめ、涙に霞む視界の中で、ただ立ち尽くすしかなかった。
ホグワーツから生徒たちが次々と馬車や汽車に分かれ、実家へと戻っていくざわめきが外にあふれていた。笑いと別れの声が響く中で、アランの胸だけはずしんと重く沈んでいた。
シリウスの背はここにはない。
家を飛び出し、自由を選んだ彼はもう戻ることはない。
だからアランは、レギュラスと二人だけでブラック家の屋敷へ戻らねばならなかった。
馬車のゆるやかな揺れに身を任せながら、アランは何度も深呼吸を試みた。
けれど、広がるのはどこまでも重たい予感。
また――あの冷たい監視の目に晒される日々が始まる。
オリオンの鋭く細い瞳。
ヴァルブルガの、容赦なく底まで射抜いてくる視線。
思い出すだけで背筋は粟立ち、呼吸が苦しく喉が塞がれそうになった。
やがて屋敷へ足を踏み入れた瞬間、胸を縛る違和感はさらに強まった。
空気は重く、埃一つないはずの壁すらも肌にまとわりつくような圧を持って迫ってくる。
閉ざされた廊下が続き、天井は低く感じられるのに、屋敷全体が巨大で逃げ場のない迷宮のように思えた。
ホグワーツでわずかに緩めていた鎖が、再びきりきりと食い込むようだった。
けれどアランを一番不安にさせたのは――。
ホグワーツで彼女の隣にいたレギュラスが、この屋敷という檻に戻った今、どう振る舞うのかということ。
人目もはばからず手を伸ばし、平然と唇や指先で惑わせてきたあの日々。
もしそれを、この屋敷で繰り返したら。
オリオンもヴァルブルガも――決して見逃さないだろう。
想像するのも恐ろしい。
広間へ続く長い廊下に、アランは静かに佇んでいた。
床を磨く魔法をかけ、呪文を繰り返す。
余計なことを考えてはいけない――そう硬く思いながら、ひたすら目の前の仕事に意識を沈め込む。
考えを逸らすと、背中に貼り付くような監視の目を思い出してしまうのが怖かったのだ。
「…… アラン」
低く響く声に、肩がびくりと震えた。
息が止まり、手先の魔法が途切れる。
振り向けば、レギュラスがそこに立っていた。
相変わらず端整で落ち着いた佇まい。
月明かりを集めたような冷ややかな灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「もう、この辺でいいのでは?」
「……まだ半分も磨いておりません」
アランの声は控えめだった。
けれど、小さな緊張がほんのりにじんでいた。
触れれば砕けてしまう硝子のように、声は細く、かすれていた。
レギュラスは静かに歩み寄り、彼女の持つ道具に手を伸ばした。
「貸してください。……手伝いましょう」
その自然な仕草の中で――ふと、彼は彼女の手を掬い取った。
まるで偶然かのように振る舞いながら、指先で甲をなぞる。
ぞくり、とした嫌な感覚が背筋を駆け上がる。
何気なさを装ったその触れ方は、あまりに見覚えがあるものだった。
アランの呼吸が一瞬で止まり、血の気が引いた。
慌てて手を引き抜き、小さく首を横に振る。
「……レギュラス。ここは――屋敷ですよ」
囁きは震えていた。
まるで警告のように。懇願のように。
だが彼は、淡く笑みを浮かべた。
「……ホグワーツでなら、よかったのですか?」
穏やかな声音。
しかしその裏には、ねっとりとした甘さが潜んでいた。
耳に絡むその響きは、静かな毒のように彼女の心を締め付ける。
アランは頬を強ばらせ、視線を逸らした。
否定の言葉を吐き出すことさえ恐ろしい。
もし反発すれば、その視線の奥にある変わらぬ独占欲をさらに強く刺激してしまう気がした。
心臓が早鐘を打つ。
一拍ごとの衝撃が胸を痛め、血流の音が耳にこだました。
屋敷の静寂はただ深く、彼女の心拍のすべてを浮かび上がらせる。
祈ることしかできなかった。
どうか、この休暇が何事もなく、平穏のうちに過ぎ去りますように。
どうか、自分の存在が余計な波紋を立てませんように。
アランはそう願いながら、再び床へ視線を落とし、ただただ手を動かし続けるしかなかった。
一日の仕事をようやく終え、アランは小さな部屋に戻った。
吐き出した溜息は、古びた壁にかすかに反響する。
石造りの廊下がひんやりと背中に貼りついていたからこそ、この狭くとも温もりを保つ自室だけが、彼女に許されたわずかな避難所のように思えた。
四方を囲む壁は煤けていて、机も小さく歪んでいる。
それでも、ここは確かに自分のための空間だった。
肩の力をほんの少し抜き、机の上に積まれた教科書に手を伸ばす。
次の試験に備え、少しでも勉強を――そう考えた矢先。
「…… アラン」
扉の向こうから低く響いた声に、心臓が強張った。
恐る恐る振り向けば、開けられた扉の隙間からレギュラスが既に立っていた。
「あなたを僕の部屋に呼ぶよりは、僕がここへ来た方が早いかと思いまして」
落ち着き払った言葉が投げかけられる。
アランは慌てて声を細めた。
「……見つかったら、怒られますわ」
「父も母も、もう休んでいます」
短く、静かに告げられる。
確かに、この部屋は屋敷の一番奥、使用人部屋のさらに隔てられた小さな一角にある。
わざわざ近づく者などめったにいない。
理屈の上では彼の言うことも正しかった。
――けれど、そうではない。
胸を締めつけるのは「見つかるかどうか」ではなく、触れるだけで禁忌を侵すという確信そのものだった。
レギュラスは机に並んでいた教科書とノートへと迷いなく手を伸ばし、ぱたりと閉じた。
「……もう見なくていい」
その声音は柔らかい。けれど断定の響きを孕んでいた。
「試験も終えたばかりですし、そんなに勉強漬けでは疲れてしまう」
アランは慌ててノートへ手を伸ばす。
逃げるように言葉を並べる。
「でも……みんなが次の試験対策を始めるより先に取りかからないと。私は、天才肌じゃありませんから」
声は切実だった。しかしレギュラスはたやすく笑みを浮かべただけだった。
「じゃあ……今日だけは、もう終わりで」
一分の隙もない声。
譲る余地がなく、反論の言葉を挟めば悉く弾き返されるだろう―― アランにはそう予感できた。
彼はソファに腰を下ろしていたアランの隣に自然に腰を下ろし、ほんの一瞬の沈黙のあと。
躊躇もなくアランの体を抱き上げ、自分の膝の上へと座らせた。
「……ひゃっ!」
驚愕の声が零れ、頬が瞬時に熱を帯びる。
誰かの膝に跨るなど、生まれてこの方一度もなかった。
それが仕えるべきブラック家の嫡子の上など――絶対に許されるはずのないことだった。
「レ、レギュラス……やめてください……!」
震える声で必死に訴える。
唇は乾き、心臓は喉元まで跳ね上がる。
けれど彼は微動だにしない。
細く長い灰色の瞳でじっと彼女を仰ぎ、その口端をゆっくりと上げた。
「……こうして見上げると、あなたの顔が目一杯に見える。……それもいいですね」
低く落ちた声音は、穏やかさを装いながらも絡みつくようで、逃げ場を塞いでいた。
会話は噛み合わない。
アランの恐怖と罪悪感は募る一方。
――主を見下ろす姿勢。
その事実だけで、胸は焼け付くように痛んだ。
自分がいるのは絶対に踏み入れてはならない領域。
背徳の火が皮膚を炙り続けているようだった。
目を逸らすしかなかった。
視界の端で古い壁紙が揺らぎ、燭火が小さな影を刻む。
けれど、どれだけ視線を逸らしても。
膝の上から伝わる熱、指先をかすかに撫でる感触は逃れようもなく彼女を震わせる。
恐怖に怯え、罪悪感に苛まれ、理性では拒絶を叫んでいる。
それでも胸の奥で何かが脈打つ。
灼けるような心音が、彼と触れ合えば触れ合うほど確かに鳴り響いてしまう。
――どうして。
涙にも似た迷いの熱が瞳に揺れた。
逃げたいのに、逃げられない。
抗いたいのに、囚われてしまう。
禁忌と知りながら、その熱だけは確かに彼女を縛り付けていた。
アランの呼吸は浅かった。
胸の奥でか細く上下するだけの呼吸は、正常に空気を取り込んでいるかも定かでない。
頭の中がぼんやりとしているのは酸素の欠乏のせいなのか、それとも心の緊張が限界を超えたからなのか。
視界のすぐ下――わずかに見下ろす角度に、レギュラスの顔があった。
煤のように淡い灰色の瞳が、揺らめきひとつなく、まっすぐこちらを映している。
逸らすこともできない。逸らす隙間さえ与えられない。
――どうして、こんなことになってしまったのか。
仕えるべき主人の子息に跨り、その上から目を落とす。
それは本来、使用人にとっては冒涜に等しい所作。
重罪にも匹敵する背徳の姿勢。
理性は頭の奥で必死にそう叫んでいるのに、身体はそこから逃れられなかった。
逃げ出さねばならない。それなのに、動けない。
「…… アラン」
名を呼ぶ声が、降り注ぐように落ちた。
それはあまりに穏やかで、あまりに柔らかで――けれど逆に、深く重い力を帯びて胸をきつく縛りつけていく。
声そのものが鎖となり、心を捕らえている。
アランは唇を震わせ、細い声を絞り出そうとした。
「……お願い、降ろしてください……」
ひび割れるような弱い言葉。その響きにレギュラスはわずかに目を細めた。
「嫌ですか?」
問いかけは静謐だった。だがその眼差しは、答次第で逃げ場を失わせる刃のように鋭い。
まるで「試す」ように。彼女の心を覗き込もうとする。
「……っ」
答えようとしても、うまく声にならなかった。
嫌だと告げれば、この危うい均衡は崩れ、さらに強く縛られる――そんな予感が全身を支配していた。
かといって肯定するなど、とても口にできるはずがない。
沈黙。
その沈黙が最後の盾のように、かろうじて彼女を守っていた。
しかし、レギュラスは些かも揺らがない。
細い腰に添えた腕へ自然と力を込め、逃れようとする微かな力も許さなかった。
まるで自分の一部であるかのように抱き留め、彼女を支配する。
――逃げられない。
その実感だけが鋭い棘となって、心を深く抉っていく。
ホグワーツであればほんの一瞬でも覚えられた「安堵の灯」が、この屋敷の湿った闇の中ではすぐにかき消されてしまう。
自由の記憶は残酷なほど遠く、届かない。
「こうしていると、不思議ですね」
囁きが耳を撫でる。
「あなたが僕の上にいて、僕があなたを見上げる――それだけなのに、とても満たされる気がする」
アランは息を詰めた。背中に冷たい汗が流れ落ちる。
彼にとってはそれが甘美な告白なのだろう。
だが彼女にとっては、ひたすら背徳と恐怖を煽る言葉。
膝の上という不自然な体勢は、単なる親密ではなく完全なる支配の象徴でしかなかった。
どうしてこんなことを口にできるのか。
どうして彼の瞳は、こんなにも迷いなく「幸福」を映してしまうのか。
アランは必死に祈った。
――どうか誰にも気づかれませんように。
――どうか、この瞬間が誰の目にも触れず通り過ぎますように。
その祈りは、声にならない。
声にしてしまえば、もっと強く掴まれてしまうから。
小さな部屋を満たしていたのは、暖炉の薪がはぜる音でも、夜の虫の声でもなかった。
ただ二人の荒い呼吸と、緊張で張り詰めた沈黙だけ。
その沈黙は、どんな大きな叫びよりも雄弁で。
アランに、この場所が逃れられない檻であることを改めて告げ続けていた。
重たい瞼をようやく持ち上げたとき、最初に目に飛び込んできたのは金色の朝の光だった。
石造りの小さな部屋に、細いカーテンの隙間から差し込む陽がじわじわと床を照らし上げる。
その光の中央――ソファの上で、無防備に眠るレギュラスの姿。
白い肌が仄かに光を帯び、まるで闇の中に浮かぶ幻のように美しかった。
けれど、その身に一枚も衣を纏っていないと気づいた瞬間、全身の血が一気に沸騰するような衝撃が走った。
「っ……!」
アランは慌てて身を起こした。
昨夜の記憶は霞の底にあり、何度彼の腕の中に沈んだのかさえ分からない。
ぼんやり浮かぶ断片は、何度も名前を呼ばれ、囁きに呑み込まれていたことだけ。
胸を締めつける羞恥に叩き起こされるように、アランは床に無造作に脱ぎ捨てられた服を拾い始めた。
袖にしわが寄っても手早く伸ばし、ぼんやりと目を開けたレギュラスにそっと掛けていく。
「レギュラス……お願いです、しっかりしてください」
声はか細く震え、喉の奥が痛く締まった。
レギュラスは半ば覚醒したまま、言われるままに袖を通す――まるで子どものような仕草にさえ思える。
「……もう朝なんです?」
のぼせた声音が、ゆっくりと部屋に広がる。
「ええ、とっくに。早く自室に戻ってください。……オリオン様もヴァルブルガ様も、もうすぐお起きになります」
囁くように急かし、その手は震え、ボタンを整える指先すらまともに動いてくれない。
ようやくレギュラスに服を着せ終えて、自分の身に意識が戻った時――
本当に、心臓を握りつぶされるような恐怖と羞恥が押し寄せた。
自分もほとんど裸のままだった。
狼狽のまま、「しっかりして」と声をかけていた自分こそ、一番取り乱していたのではないか。
どちらが大人なのか――そんな問いすら途方に暮れる。
羞恥の波が何度も打ち寄せ、視界は霞んでいく。
慌ててブラウスに腕を通し、リボンをきつく締める。
きつく首を絞めるリボンの圧ですら身の咎めを薄めてはくれず、むしろ後ろめたさだけを深めていく。
隣では、レギュラスがまだ眠気を引きずったように、シャツのボタンをゆっくりとかけていた。
その手指がもどかしく――また苛立ちが、つい唇から零れた。
「……もう」
アランは杖を抜き、軽く振った。
ぱちん、と乾いた音がして、魔法でシャツのボタンが一気に留まっていく。
「……便利な魔法を知ってますね」
レギュラスはふにゃりと笑い、あどけなく首を傾げる。
その無防備な仕草さえ、今は痛々しい。
「レギュラス……顔を洗って。朝食までには、しっかりしてください」
苛立ちと羞恥を誤魔化すように、少しきつい声で告げる。
そして半ば彼を押しやるように、部屋の扉の方へ導いた。
扉が閉まり、再び静けさだけが残る。
アランはその場にしばらく立ち尽くしていた。
心臓はばくばくと高鳴り、指先はじくじくと震え続ける。
――私はどこまで堕ちていくつもりなのだろう。
自らの大胆さが恐ろしくて仕方がなかった。
昨夜の全てを包むような白い朝の光は、何もかもを暴き立てるように冷たく、容赦なかった。
朝の大広間には、まだ窓辺から青白い光が差し込んでいた。
磨かれたシャンデリアの下、長大な食卓が整然と伸び、銀器とカトラリーはまるで一点の乱れもなく並べられている。
朝露を受けてキラリと光るガラス窓、その外には広大な庭が静かに広がっていても、アランの心にはただ冷たい圧迫しか感じなかった。
彼女は静かに給仕の準備を進めながら、心臓を押さえていた。
昨夜の記憶が、どんなに振り払おうにも頭の奥で呻き続けている。
――もし。あのことが知られていたなら。
自分がどんな姿でレギュラスに絡め取られていたか。
あの二人の冷たい目に、その全てが映ってしまったら――
扉が重く開き、石の床に響く足音が場の空気を浸していく。
オリオン・ブラックとヴァルブルガ・ブラック。
家を支配する二人の影が現れるだけで、朝の空気は一気に緊張へと塗り替えられた。
「……遅くなったな」
低く広がる声。
静まりかえった空間に落ち、その音だけでアランの背筋は一瞬にして硬直した。
ヴァルブルガの鋭い瞳がまずレギュラスへ、そして次にアランへと流れる。
ただそれだけ。
それだけで、胸を突き刺されるような痛みが走った。
アランは俯き、食器を揃える手だけは止めまいと必死だった。
知られてはいないはず。――その願いを繰り返す。
けれど、鋭い瞳に真っ直ぐ射抜かれるたびに、昨夜の背徳の記憶が細部まで蘇った。
パンを切るナイフの音が静かに響く。
磨かれた銀器が卓上で控えめに鳴る。
いつもと変わらぬはずの朝食――それがアランにはただ恐ろしいだけだった。
この空間に許されているのは、沈黙と緊張だけ。
「アラン」
名を呼ばれた訳ではなく、ただレギュラスが席に着きながら口にした一言。
それだけでアランの心臓は跳ね上がる。
昨夜の秘密を呼び覚まされるようで、父母に聞かれてしまうのではと唇が震える。
「はい」
やっと搾り出した返事は自分でも驚くほど頼りなく掠れている。
幸いにも、オリオンもヴァルブルガもそれ以上何も言わなかった。
だが重い沈黙と冷ややかな空気だけが、食卓に長く漂った。
両手が震えそうになるのを必死に押さえ、アランはただ早くこの食事の時間が終わることを祈るしかできなかった。
それは昨夜と同じ、逃げることのできない恐怖。
そしてどこにも届かない、か細い祈りだった。
朝の光が窓辺から差し込み、食器の縁にかすかな反射をつくっていた。
アランはいつものように食卓に残った皿を片付けていたが、ふいに視界がかすかに揺らめき、足元の床さえ波打つように歪んだ。
「……っ」
思わず吐き気がこみ上げ、手にしていた皿を乱暴にシンクへ置くと、彼はその場にしゃがみ込み、口元を抑え込む。浅い呼吸しかできない。喉の奥にひりつくような不快感と、冷たい汗のざわめき。そこへ、不意にひとつの思いが頭をよぎった。
――最後に生理を迎えたのは、いつだったのか。
思い返そうとするが、脳裏には霞が広がり、時間の線が曖昧にほどけてゆく。心臓が唐突に跳ね上がり、胸の奥を乱暴に叩きつける。忘れたくても忘れられない夜の記憶が、鮮烈に蘇る。レギュラスの腕に抱かれ、幾度も重ねた時間。そのどれほども、ただ夢のように流され、確実に避ける手立てなど取らなかった。
「……いや」
喉の奥から、乾いた音が零れた。足元から冷たさが這い上がり、血の気という血の気を奪い取っていく。次の瞬間、頭の中は真っ白に塗り潰され、思考というものがすべて霧散した。目の前の景色さえ遠く霞む。残された文字はただ一つ――「まさか」。
胸を押し潰すその二文字に突き動かされるように、アランは屋敷を飛び出していた。
石畳を叩く靴音が妙に軽く響き、けれど足は覚束なく、何度も躓きそうになりながらも止まることはできなかった。心臓は喉から抜け落ちそうなほど暴れ、荒い息は火傷のように熱を帯び、視界は涙か汗か区別もつかぬほど滲んでいた。
魔法薬局に辿り着いたときには、もう呼吸さえ乱れすぎて声もままならなかった。カウンターに立つ魔法薬剤師に必死に言葉を紡ぐが、途切れ途切れで、震えと掠れだけが先に出てしまう。それでも、彼女はアランの必死を理解したのだろう。静かな眼差しを向け、棚からひとつの小さな包みを差し出した。
アランは震える手でそれを受け取り、浅く上下する胸を抑えるように唇を噛みしめ、深く頭を下げる。言葉にならずとも、その理解とささやかな思いやりが、心の奥のどこかをあたたかく滲ませていた。
硬貨が指先の震えで幾度も床に滑り落ちる。ようやく扉を開いたとき、その小さな動作の重みに足がすくむほどだった。狭い個室の中に身を沈めると、朝の冷たい気配が壁から染み込み、肌を刺すように纏わりついてくる。
封を開け、検査薬を取り出したとき、その小さな棒が異様に重く感じられた。手元が覚束ず、ぎゅっと握りしめながら、どうにか指示どおりに使い終える。
――あとは待つだけ。
けれど、ほんの数分の静寂は、アランにとって永遠の牢獄となった。鼓動は今にも胸から破り出そうと荒れ狂い、冷や汗が背中を濡らし、手足は小刻みに震え続ける。
もし、もしも――。
その言葉を思い浮かべるだけで空気が薄くなる。喉を締めつける想像が、視界の端を暗くしていく。
やがて。
結果は静かに提示された。そこには一つの明確な答え――陰性。
瞬間、アランは膝の力をなくし、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。胸が大きく波打ち、肺の奥を塞いでいたものがようやくほどけてゆく感覚に包まれる。
――助かった。
安堵という言葉では足りなかった。命を拾ったような、深い奈落の底からようやく這い出したような。解放の感覚と、消えきれぬ恐怖の残滓と。その間に押し潰され、視界は滲んでいく。
何故だか分からぬまま、熱い滴が次々と頬を伝った。堰を切ったように溢れた涙は止められず、嗚咽に変わることさえなく、ただ静かに流れ続けた。
アランは両手で顔を覆い、震えながらその場に留まるしかなかった。張り裂けそうだった鼓動と、こぼれ落ちる涙と。その狭間に宙づりにされるように、ただひとり、朝の冷たい個室の中を彷徨っていた。
涙が静まるまで、どれほどの時間が過ぎただろう。
蛍光灯のかすかな唸りと、水音すらない沈黙の個室で、アランは両手で顔を覆い、ただ震える呼吸を繰り返していた。頬に残る涙の痕は冷たく乾きかけ、それでも内側からは熱と虚脱とがせめぎ合い、心臓の拍動だけがやけに強調されて響いていた。
――陰性。
その結果が、自分を確かに救った。深い淵からすくい上げる手のように、明日を奪おうとする影を押しとどめてくれた。
けれど同じ重さで、別の苦しさが胸に居座る。助かったという安堵は確かにそこにあるのに、虚ろな空白が心の奥に広がり、満たされるどころか削られていく感覚に襲われた。
やがて、袖で乱暴に涙を拭うと、身体を引きずるように立ち上がった。膝はまだわずかに震え、全身が鉛のように重たい。取っ手に触れる指先は冷たさで痺れ、ようやく扉を開くと、まぶしい朝の光が彼を撃つように差し込んだ。
眩しさに思わず目を細める。
そこは、いつもと変わらぬ街の通り。けれどアランには、全てが遠い別世界のもののように思えた。
――戻らなければ。
そう胸中で繰り返すたびに、鎖のような重さが背に絡みついた。
望むのは解放だった。安堵にすら届き切らぬこの息詰まる状態から遠ざかりたかった。
なのに、自分を縛りつける屋敷へ戻るしか道はなく、その事実が胸をさらに沈めていく。
そこには、いつも通りのレギュラスの瞳が待っているだろう。灰色に濁った深淵のような眼差し。その視線は優しさに似せた執着で、彼女を逃がすまいと絡みついてくる。そして父や母の冷徹な眼差しもまた、屋敷の中を支配している。そこに戻ることは、呼吸を奪う暗闇に身を投じることと同義だった。
足を踏み出せば踏み出すほど、胸に僅かにあった希望の欠片が削り取られていく。
朝の街は活気に満ちていた。商人たちが店先で声を張り上げ、子供たちの笑い声が路地に跳ねる。晴れやかな笑顔が交わされ、光あふれる日常が広がっていた。
だがその光景こそが、アランの胸を鋭く切り裂く。
自分だけが影の中に閉じ込められ、笑顔も自由も許されない。
人知れず秘密を抱え、背徳の罪に震え、息を潜めて生きている。
「……」
足を止めたアランは、空を仰ぎ見た。
白い雲が、風に流されながらちぎれて散ってゆく。
その一瞬、視界の奥にホグワーツの青く広い空が重なった。寮塔の上から見上げた空。伸ばした指先が届きそうに思えた、果てなき蒼さ。
その記憶とともに、鮮烈な声が蘇る。
――『必ず迎えにいく』。
シリウスが笑いながら放ったその言葉。
もう信じてはいけない。そう分かっている。約束を守れぬ運命を、とうに突き付けられていた。
けれど、それでも。心は信じたいと願う。愚かしく、浅ましいと知りながらも、誰よりもその言葉を信じていたいと縋ってしまう。
その願いに気づくたび、胸に鋭い痛みが走る。失った自由と、繋ぎ止めることの叶わない想い。希望は幻影でしかなく、それを握ろうとする自分の指先はいつも空を掴む。
アランは重たくなった足を再び動かした。
街のざわめきを背にして、屋敷への帰路を進む。石畳を叩く足音は、どこか哀しい響きを宿していた。
やがて、視界の奥に屋敷の門が現れる。その瞬間、全身に冷たい影が落ちたような気がした。空気さえも暗がりに変わっていく。あの中には監視の眼がある。父や母の、そして――レギュラスの。執着と愛が混じり合った灰色の瞳が待ち構えている。
安堵は束の間の幻にすぎなかった。救い出されたと思った矢先に、また別の牢へと押し戻されてしまう。そこに自由などは存在しない。
――それでも。
逃げられない以上、戻るしかない。分かり切った現実。抗おうとする心は萎えても、それでも歩を止めることはできない。
アランは肩を震わせながら、深い吐息を細く吐き出し、門をくぐり抜けていった。重く軋む屋敷の扉へと身を進める彼の背は、朝の光から遠ざかり、再び暗い影へと飲み込まれてゆくのだった。
夜の帳が屋敷を覆い、冷たい静けさが隅々にまで沈み込んでいた。
廊下を渡る風はなく、灯された燭台の火さえ微かに揺らめくだけで、世界の音はすっかり息を潜めている。
そんな夜更けに、不意にアランの部屋の扉が、静かに叩かれた。
わずか一度。ためらいを含まぬ、はっきりとしたノックの響き。
胸の奥がひやりと波打つのを感じながらも、アランは返事をできずにいた。
それでも、扉は音もなく開かれる。入ってきたのは、やはり――レギュラスだった。
薄明かりのなかに浮かぶ彼の姿は、影の中でなお整然としていた。白いシャツの肩に流れる黒髪、そして何よりも、その灰色の瞳が真っすぐにこちらを射抜いている。
迷いもためらいもなく、ただアランを求める確固とした意思を宿した視線。
彼は歩み寄ると、伸ばした手でアランの腕を掴んだ。
その瞬間――
「……やめて!」
アランは思わず声を張り上げ、強く振り払った。
喉の奥から絞り出すようなその声は、震えながらも、確かに彼女自身の意思を帯びていた。普段の彼女からは想像もできないほど、はっきりとした拒絶だった。
叫びにも似ていたが、それは切羽詰まった必死の訴え。
震える唇から零れ落ちたのは、息苦しいほどの恐怖と、もう限界なのだという痛切な声だった。
レギュラスは不意を突かれたように一瞬まばたきし、次いで眉を寄せた。
「……どうしたんです?」
彼の声は穏やかで、決して怒号でも叱責でもなかった。
その瞳に浮かんだのは怒りでも失望でもない。ただ純粋に理解できないという戸惑い。灰色の眼差しは、真剣さと困惑がないまぜになり、彼の胸中の揺らぎをそのまま映していた。
それでもアランにとって、その視線はなお残酷に響いた。
喉を詰まらせながらも、どうにか言葉を紡ぐ。
「……なんでもないわ。ただ……こんなの、間違ってるもの……」
最後の言葉はかすれ、涙に揺れた。声を出すだけで胸が裂けるように痛い。心の奥に張りついて離れないのは、数日前に襲われたあの恐怖――。
妊娠の疑いがよぎったあの瞬間。未来という未来がすべて黒く塗り潰され、出口のない暗闇へと落ちていく感覚。
祝福など決して与えられない子を身ごもるかもしれない、という絶望。あの嗄れた暗闇を、彼女は二度と味わいたくはなかった。
「……」
レギュラスはただ心配そうにアランを見ていた。
その灰色の瞳は、彼なりの優しさを含んでいたのかもしれない。だが、彼女にはそれすらも痛みとして映った。なぜなら――その不安の根を撒いたのは他ならぬ彼自身だから。
どれほど柔らかく見えようとも、その眼差しは逃げ場を奪う鎖と同じだった。寄り添おうとする仕草さえ、優しさを装った捕縛の手にしか思えなかった。
だから縋れなかった。
むしろ、縋ってはいけないと強く思った。
レギュラスの肩に顔を埋めてしまえば、きっとその瞬間にまた足元から深い闇へと沈んでしまう。甘やかな声に解かれれば、再び自由を失う。そう分かっているからこそ、アランはぎゅっと唇を噛み締め、滲む涙をこらえながら静かに首を振り続けた。
部屋に落ちた沈黙は、外界の夜よりも重苦しかった。
どこまでも深く圧し掛かる重さの中で、アランの孤独な拒絶と、レギュラスの理解できぬ戸惑いとが、互いに交わることなく、ただ苦々しい溝を広げてゆくばかりだった。
アランの口から放たれた拒絶の声は、鋭い刃のように室内に響き渡り、その余韻が壁や床に絡みついたまま消えなかった。
まるでそれまで積み重ねてきたぬくもりのすべてを塗り潰すように、重苦しい沈黙だけが残る。
レギュラスは動けなかった。
その場に立ち尽くし、冷たい衝撃に胸を射抜かれたまま、言葉を失っていた。
――受け入れてくれるはずだった。
与えれば与えられる。求めれば応じてくれる。それが互いの愛の証だと、ずっと信じて疑わなかった。
腕に抱けば寄り添ってくれると信じていた。それが彼らの絆であり、間違いなく繋ぎ止める術であると。
だからこそ、今の声は雷鳴のように鋭く、胸の奥を容赦なく貫いた。
全てを崩すに足る、はじめての拒絶だった。
「……何があったんです?」
その問いは低く、呻くように零れた。
レギュラスは混乱を抑え込むように言葉を探した。信じ難かった。彼女がこんなふうに変わるはずがない。
ならば、彼女を変えた理由があるはずだ。そうでなければ、この現実を受け入れられない。
胸の奥をかすめる名があった。
――シリウス・ブラック。
その名を思った途端、血の気が逆流するような苛立ちが胸を覆った。黒々とした怒りが冷たく広がっていく。
「……答えてください」
堪え切れず、肩に手をかけ、揺さぶるように言う。
「何かあったんでしょう? 説明してくれなければ……僕には分からない」
その必死さは、懇願とも圧迫ともつかぬ響きで彼女を締めつける。
アランは唇を固く噛み、沈黙にしがみついた。視線を落とし、ただ拒絶の気配だけを纏っている。
その頑なさが余計に怒りを焚きつけた。
「……シリウスなんです?」
その名を口にした瞬間―― アランの瞳が大きく揺らめいた。
息を呑むほど真っ直ぐに開かれた瞳。その反応は、何より雄弁だった。
「……!」
怒りが堰を切ったように胸を満たす。
心臓の鼓動は嵐のように強まり、熱が喉の奥にこみ上げる。こらえきれず、次の言葉がほとばしり落ちる。
「いつ会ったんです? あの人が屋敷に来たんですか?」
声は険しく鋭くなっていた。
問い詰めるたびに、アランの表情は狼狽に染まる。
涙の気配を帯びた瞳が揺れ、かすかに肩が震える。
「何を言ってるの……レギュラス……」
必死に否定しようとするその声。けれどその弱さが、かえって彼の疑念を深める。
「……いつ、どこで会ったんです。何をして、何を話し、何を聞かされたんです」
苛立ち混じりの問いが次々と零れ落ちた。
息を吐くたびに胸の奥が焼けつき、冷静さというものは影も形もない。
――自分の知らないところで、あの男と。
思考が勝手に形をとり、無数の幻影が心の奥で生まれた。
互いに耳を寄せ合う姿、密やかに手を重ねる仕草、囁き合う言葉。ありもしない光景が裏切りの証となって膨れ上がり、彼の胸を無惨に裂いていく。
怒りしか残らなかった。
灰色の瞳は揺るぎない愛を宿した色から、激しい嫉妬と恐怖に濡れた色へ変貌していく。
震える指先、震える声。支えきれない激情が全身を突き動かした。
アランはその怒涛を前に、肩をすくめ、小さく首を振るしかなかった。
「違う」と言葉にして叫ぶ力も残されていない。ただ身を守るようにその場を震えながら耐える。
だが、その沈黙と動揺こそが、レギュラスにとっては何よりも痛切な証明だった。
耳をつんざくほどに胸の鼓動が荒々しく響き続ける。
脳裏で膨れ上がる声はただひとつ。
――裏切られた。
夜の静けさは二人の呼吸だけを抱え込み、なお深く重さを増していった。
「答えてください……! いつ、どこで……シリウスと何を――」
レギュラスの声は、抑えようとしても高ぶりを増し、室内の重苦しい静寂を乱した。
灰色の瞳は焦燥と憤怒の奥で濁りを帯び、彼の両手はアランの肩を掴んだまま震えている。その揺れは必死さに裏打ちされていた。逃げられるものかと、彼女の視線を捕らえ、息を殺すほど近くで問い詰める。
「……!」
アランの瞳が大きく揺さぶられた。閉じ込めていた感情の扉がこじ開けられる。噛み締めていた唇が解け、次の瞬間、瞳の奥に溜め込まれていた雫が溢れ出た。
ぽとり――。
絹の上に落ちる露のように、涙は頬を伝い、静かな音もなく床へと零れていった。
その瞬間、レギュラスの胸に走った衝撃は、刃のようでもあり、熱の奔流のようでもあった。
「アラン……」
名前を呼ぶ声は、自らの喉からこぼれているとは信じられぬほど弱く震えていた。
その涙が、レギュラスの心を二つに裂いていく。
自分が求めても言葉を返さず、ただ泣くばかりなのは、別の真実を隠すためだ――そう囁く声が胸を黒く侵す。
怒りと哀しみが胸の中で真逆にせめぎ合い、内側から彼を引き裂いていた。
「僕に説明してくれなければ、わからない! なのに……なぜ……なぜ泣くんです……!」
声は震えた。叫びというよりも呻きに近い。髪を掻きむしりたい衝動が込み上げ、どうしていいか分からずにいる焦燥が、灰色の瞳に嵐を閉じ込める。
アランはただ首を振るばかりだった。
唇を震わせ、途切れ途切れに掠れた声で必死に否定を紡ぐ。
「……ちがう……ちがうのよ……」
必死の言葉も、あまりに脆い。弁明ですらなく息の音に近い。
だからレギュラスには届かなかった。ただ痛みと恐れに逃げる声にしか聞こえなかった。
「なら、どうして……!」
詰問は止まらない。
アランの涙も沈黙も、自分を拒絶するための無言の証であるかのように思え、ますます激しく心を揺さぶった。
――シリウス、と。
その名が心に浮かぶ度、実態のない幻影が彼の胸に膨れ上がる。
互いに笑う姿、囁き合う声、逃げるように手を取る光景。
想像が想像を呼び、いつしか現実以上の重さで彼の胸を支配していった。
そして同じ胸の奥で、矛盾する衝動が湧き上がる。
彼女を震えるまま放ってはおきたくない。
憤怒に駆り立てられながらもそれ以上に、抱き寄せ安らぎを与えたいと願う。
裏切りの影に焼かれながらも、なお離すことなどできなかった。
「アラン……僕を見てください」
必死に縋るような声。
灰色の瞳は激しい激情の嵐を宿しながらも、求める色を失えずにいた。
伸ばした指先が、宙を彷徨うように震える。彼女の頬を伝う雫に触れたいのに、触れればそのまま崩れてしまいそうで、冷たく硬くなった空気の中に留められていた。
怒りと嫉妬と、そして痛切な愛。
その三つが絡まり合い、レギュラスの胸を容赦なく切り裂いていた。
震える彼女を前にして、彼自身もまたどうすることもできない渦に飲み込まれていく。
「……僕を見て」
その囁きに、アランの心は大きく揺さぶられた。
胸の奥が波打ち、張り詰めていた糸がほどけかける。けれど――視線を向けた先に果たして、本当に何があるというのだろう。
レギュラスを見る。
そしてその瞳の奥に映るのは確かに自分。だが、そこから先に未来があるのかと問われれば――答えは否でしかなかった。
アランは知っている。
自分はただの使用人であることを。
その主人の子息と並び立つ未来など、許されるはずがない。たとえ二人が心を重ね合ったとしても、社会はその関係を決して肯んじはしない。
もしも……あの日の体調の異変が本当に妊娠であったなら。
生まれてくる子どもに背負わせるのはいったいどんな烙印だろう。
思い浮かぶ未来は、ただ底知れぬ暗さしかなかった。
オリオンも、ヴァルブルガも、絶対に許さない。
いかに父ロイクがブラック家に深い信頼を寄せられていようとも、その娘である自分が犯した過ちは、取り返しのつかぬ重荷となる。
そしてすべては、「使用人の娘が、主家の子息を惑わせた」という話にすりかえられるだろう。
しかも――レギュラスには既に婚約者がいる。ロズィエ家のカサンドラ。
定められた未来に逆らってしまえば、セシール家は一瞬で地に落ち、父と母はその余波に呑まれるに違いない。
そのすべての罪は、アランひとりの肩にのしかかる。
――それなのに。
どうして彼は、こんなにも簡単に「僕を見て」と言えるのか。
届きようのない未来を前にして、無防備に伸ばされたその言葉は、甘美でありながら、理不尽にすら思えた。
胸の奥が詰まり、声にならない怒りさえせり上がる。
どうして、そんなに無垢に――。
それでも。
アランは知っている。
この人が、自分に確かに好意を寄せ、孤独な夜に寄り添ってくれたことを。
深い孤独と冷たい沈黙の中で温もりを与えてくれた時間があった。
その夜、救われたと感じてしまった心は嘘ではない。
――そして。
シリウスの不在を、レギュラスの温もりで埋め合わせてしまったことも。
全部、偽りではない。
だからこそ、レギュラスだけを責めることはできなかった。
悪いのは、自分の弱さだ。
何も持たず、与えられず、けれど望んではならないものをどうしても欲してしまう、その浅はかさ。
結局は、自らの脆さがこの関係を育て、どうにもならぬ地点へと追い込んでしまった。
「……あなたと私は、一緒にはなれないわ。こんなこと、続けていいわけがないでしょう」
絞り出すように、掠れた声で言葉を吐く。
その一言は、自分の胸をも突き刺す刃だった。
昨日までの行為を思えばなおさらだ。
初めて知った“大人の真似事”のような触れ合い。
甘い口づけも、互いに求め合う熱をなぞる行為も。
誰も止めず、救いの手を差し伸べる者もいないまま、ただふたりで探り、深みに落ちていった。
すでに抜け出すのが困難なほど絡み合っていた。
けれど、知ってしまった。
その背後に待つ代償の恐ろしさを。
あの日、暗闇の中で息が詰まるほどに感じた恐怖を。
自分を救う術をそれに求めた弱さを、もう許せない。
涙ににじむ視界の向こうで、レギュラスがまた一歩近づいてくる。
その瞳には、灰色の奥に確固たる決意が灯っていた。
「…… アラン。僕は絶対に、あなたを守れます。約束できます」
その言葉は、あまりにも無垢だった。
純粋で、真っ直ぐで、子供じみた誓いですらあった。
けれども同時に、あまりにも現実離れしている。
自ら縛られたしがらみや婚約を、社会の掟を、どうすれば破り越えることができるというのか。
だからこそ、なおさら胸が苦しい。
幻想であると分かっても、差し出された想いに縋りたい自分がいる。
けれど同時に拒まなければならぬ自分もいる。
弱さと現実が胸の奥で激しくぶつかり合い、アランは言葉を飲み込みながら静かに唇を震わせた。
レギュラスの腕が、そっとアランの肩を包み込んだ。
拒絶されるのだとしても――せめて、この温もりだけは許されたい。
そんな必死さが滲む仕草だった。幼さの残るその抱擁には、どうしようもなく不器用な真心が宿っていた。
彼には分かっていた。
アランが抱えているものが、単なる羞恥や迷いではなく、未来そのものへの恐怖であることを。
その胸を蝕む不安の根に、シリウスという影が色濃く絡んでいないと知れただけで、レギュラスの心にはわずかながら安堵が灯っていた。
そして――だからこそ、打ち明けようと思ったのだ。
自分の考えている未来を。
まだ誰にも語ったことのない秘めた理屈を。
ただ「愛している」と繰り返すだけでは幼稚に過ぎる。だが、現実を描き出した上で訴えることができるなら、彼女を少しでも安心させられるのではないか――そう信じた。
「アラン……聞いてくれますか。僕が考える、僕たちの未来のことを」
言葉は静かで淡々としていた。
けれどその奥には、押し叫ぶような固い決意が燃えていた。
「……ロズィエ家との婚約は、避けられません」
冷静な口調。その響きは、まるで事実を受け入れる覚悟の宣言のようにも聞こえた。そして、すぐに続いた言葉が、彼の頭の中に周到に積み上げられていた未来図を覗かせる。
「でも――卒業した後。あなたが……ブラック家の子を産んでくれたなら。僕は堂々と、あなたを妻に迎えることができます」
「……!」
アランの目が大きく開かれる。瞳孔が大きく震え、次いで咄嗟に声が荒ぶった。
「……レギュラス! それはロズィエ家の令嬢への……酷い侮辱であり、冒涜です!」
涙に掠れたその声は鋭く、胸を切り裂くような否定の叫びだった。
だが、その想いを真正面から浴びても、レギュラスは一歩も揺るがなかった。
「ですが、彼女もまた……僕と数度しか顔を合わせていない相手と結ばれるんです。きっと、その方がかえって気楽だと思うんです」
「……っ」
淡々とした声音の裏に潜むものは、理知と残酷さの混合だった。
彼は、平然とそう告げながらなお、その瞳の奥を微かに輝かせている。
「彼女には自由を与えます。社交界に出て、望むのなら別の誰かと関係を持っても構わない。僕はそれを非難しません。……表向きだけ夫婦であれば、それでいい。むしろその方がお互い気楽でしょう」
さらりと紡がれる未来予想図は、薄氷の上に描かれる冷ややかな絵画のようだった。穏やかに響く口調とは裏腹に、その実鋭い筋道に支えられた理屈。
瞳は少しの曇りもなく、むしろ自らの思考に確信を見いだしたかのように光を増していた。
そうすれば――。
誰一人、本家の名誉を傷つけたと口を挟むことはできない。
アランを正式な立場へと引き上げ、同時にブラック家の血を継がせることで、家の威信は強固となり、セシール家の名も盤石となる。
その計算の果てに成立する未来こそが、自らの愛の実証なのだと、彼は信じていた。
「…… アラン。僕は、あなたを守れるんです。必ず」
もう一度、強く。
灰色の瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。曇りも迷いもなく、純粋そのものの輝きを宿していた。
――その真剣さが、かえってアランの胸を深くえぐった。
彼の言葉は確かに愛の証明として差し出されていた。けれどそれは同時に、「選択肢を閉ざされた檻」そのものだった。
未来を保証するという甘やかな響きの奥底に、絡みつくような不自由と逃れられぬ鎖が透けて見える。
愛してくれるがゆえに縛られる。救いとなると同時に支配でもある。
その矛盾こそが、アランを最も苦しめていた。
胸の奥で、弱さと現実とが鋭く衝突し、呼吸さえも震える。
視界の隅に、あの涙の朝が重なる――すべてが黒に塗り潰されるような絶望をもう二度と味わいたくない。
それなのに。
どうして、その「愛の檻」は、ここまで甘美に響いてしまうのだろう。
アランは震える唇を噛みしめ、涙に霞む視界の中で、ただ立ち尽くすしかなかった。
