1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
静かな廊下に、不意の小さな音が溶け込んだ。
――ぐう。
空気を乱したその音に、シリウス自身が一瞬きょとんと目を見開き、次の瞬間には驚いたように腹を押さえて、照れくさそうに笑った。
「……かっこ悪りぃな、俺」
わざとふてぶてしく言ってみせるような声音。
けれど、その無防備な少年らしさにアランは堪えきれず、小さく笑ってしまった。
喉から漏れたその声は、長い間胸を締めつけていたものをわずかに解かしていく。
「……戻りましょっか。きっとまだ食事、残ってますよ」
自然とそんな言葉が口をついて出た。
彼を気遣うように微笑みながら。
しかしその裏で、胸の奥では声にならない願いが幾重にも募っていた。
本当は――戻りたくなかった。
このまま二人だけでいたかった。
月明かりの射す廊下で、影を重ねたまま、いつまでも並んでいたかった。
いや、できることなら。
いっそ今すぐ、この城から遠く――夜の森や湖の向こうへ駆け出してしまいたかった。
誰の目もない場所へ、彼と一緒に。
脳裏に浮かんだのは、レギュラスと過ごしたあの夜だった。
閉ざされた扉の向こう、どうすることもできず流れに飲まれたあの時間。
あの夜に踏み出してしまった一歩。
けれど……本当は。
初めてを捧げたいと願ったのも。
すべてを共にしたいと思ったのも。
他でもない、シリウスだったのに。
胸が苦しい。
何度も繰り返し、レギュラスに流され、溺れ、もがいて。
情けなく、ぐしゃぐしゃになっている自分が――。
今さら「シリウスと共にありたい」などと望むのは、あまりに浅ましくて――惨めだった。
それでも。
願いは止まらなかった。
熱のように体を巡り、切なさのように喉を震わせる。
求めても届かぬと知りながら、それでも彼の光を、世界でいちばん欲しかった。
胸が張り裂けそうなその思いを隠すために、唇に微笑を貼りつける。
「いつも通り」の顔。
ただ、大広間へ戻ろうと促す。
「……行きましょう、シリウス」
振り返ったシリウスは、何の疑いもない、屈託のない笑みを浮かべていた。
無邪気なその笑顔。
羨望と愛情と痛みが一緒になって胸を満たし、切なくぎゅっと締め上げた。
――届かない想い。
誰にも悟られぬように、胸の奥深くで押し殺して。
アランは足を踏み出した。
石造りの冷たい床に彼女の影が伸び、隣には彼の自由そのものの影が重なる。
二つの影は少しずれて、重なりきらぬまま、月明かりの中を歩いていった。
優雅な旋律が大広間いっぱいに満ち、絹のように柔らかい音色が波紋を描くように広がっていた。
その旋律に合わせて舞うカサンドラとレギュラスの姿は、確かに見る者の目を奪っていた。
シャンデリアの光を受けて、カサンドラのドレスが滑らかに広がる。
裾が翻るたび、光沢のある絹布は水面のように流れ、彼女の姿を一層際立たせる。
その笑みは今宵の主役らしく、満ち足りた、自信に煌めく表情。
「純血の誇り」を一身にまとい、舞踏会という舞台に完璧に調和していた。
「レギュラス様……こうしてご一緒に踊れることを、ずっと夢見ていました」
寄せられた囁きは柔らかく、可憐に響いた。
しかしその声は決して二人きりの秘密などではなく、周囲にまで届く香水のような言葉だった。
婚約者としての想いはきっと本物なのだろう。
だがレギュラスの胸には大きな波紋は生まれなかった。
「……光栄です」
それは完璧な台詞。
微笑みも、背に添える手の形も。
どれもがあらかじめ台本に書かれているかのような正確さで、舞踏会が期待する「ブラック家の若き後継者」を演じてみせる。
これまで幾度も繰り返した社交の場に、彼の身ぶりは淀みも戸惑いもなかった。
――なのに。
脳裏にちらつくのは、アランの姿ばかりだった。
校内の廊下をいま、彼女は歩いてはいないだろうか。
あるいは、シリウスと肩を並べて、あの少年の自由な光に目を細めて笑っていたりはしないだろうか。
想像は答えを持たぬまま、刃のごとく胸を苛む。
けれど足は正確にステップを刻み、寸分の狂いもなく旋律に呼応する。
笑みを崩さず、完璧な婚約者としての姿を保ち続け、周囲の喝采を浴びる。
「……皆さまも、わたくしたちを見てお喜びでしょうね」
カサンドラの微笑は誇らしげで、レギュラスに顔を寄せると陶然とした眼差しを向けた。
彼は形式に従った微笑を返す。
「ええ……そうかもしれません」
だが。
本当は、彼の内側を占めるものはそんな社交的な誇りではなかった。
彼を満たしていたのはただ一人
―― アランの翡翠の瞳。
思い出すのは、彼女が時折見せる不安げな横顔と、そのか細い声。
ひとつひとつの仕草が深く胸に沈み込み、今この瞬間も彼を支配していた。
弦の音が大きくうねり、旋律は終わりに近づく。
足を滑らせるように最後の一歩を揃え、レギュラスは優雅に微笑んだ。
広間に拍手と喝采が響き渡り、誰が見てもその姿は「完璧」だった。
けれど――彼の心は、この場にはなかった。
魂の半分以上は遠いホグワーツに置き去りにされている。
そして胸に渦巻くのは、見えぬ闇のような不安。
アランの心がすでに他の光――シリウスの隣に揺らいでいるのではないかという恐怖。
純血の誇りも、未来の婚約も、その不安を払うことはできなかった。
喝采に包まれ、笑みを浮かべた完璧なレギュラス・ブラック。
だが彼の心臓は静けさを失い、ただひとりを思い求める痛みに、夜会の喧騒とは別の鼓動を刻み続けていた。
夜の舞踏会はまだ華やかな彩りを残していた。
金と白に煌めく光がホールを包み、貴婦人たちの笑い声が散る。音楽は軽やかに弦を震わせ、舞踏を楽しむ人々の足は止むことを知らない。
その中心に立っていたはずのレギュラスは、しかし胸の奥に重たく影を抱えていた。
本来であれば、もう一晩をこの邸で過ごし、翌朝に丁寧な見送りを受けて別れる――それが礼儀であり、慣例でもあった。
けれど、心の奥でざわめき続ける不安と焦燥は、そんな形式に従順に従えるほど大人しくはなかった。
「レギュラス様……ずいぶんとお急ぎでお帰りになるのですね」
カサンドラの声は柔らかく澄んでいた。
しかし瞳の奥には押し隠せない驚きと、淡い失望が波紋のように揺れていた。
「……ええ。試験が近いもので。またぜひ、お誘いいただければ幸いです」
あくまで落ち着いた声で返す。
姿勢も、口調も、淀みは一切なかった。
矛盾のない返答を編み上げるのは呼吸のように自然で、「ブラック家の後継者」という仮面を崩すことはなかった。
「……残念ですわ」
名残惜しげに微笑んだカサンドラは、それでも気高く振る舞い、礼を欠くことなく視線を伏せる。
形式上の社交の華やかさは最後まで保たれた。
「ご両親にもよろしくお伝えください」
彼の言葉に、カサンドラは静かに頷いた。
すべては淀みなく、完璧な別れ。
だが、背を向けた瞬間。
仮面の奥で堅牢に保っていたものが、わずかにひび割れた。
胸の内を渦巻くのは、安堵ではなく、どうしようもない焦燥と熱。
ホグワーツへ戻る馬車の旅路は、丸一日の時間を要した。
道は長く、余りに緩やかにしか進まない。
その一瞬ごとが、レギュラスには耐え難い焦燥となってのしかかっていた。
窓外を過ぎ行く景色など、目に入らなかった。
過ぎる木々も、揺らめく街灯の光も、彼にとってはただ鬱陶しく時間を知らせるだけだ。
――頭の中を占めるのは、アランの姿ばかり。
翡翠の瞳が揺れる瞬間。
名を呼ぶときの唯一無二の響き。
指先に触れたかすかな温もり。
不安に震えながらも、自分に寄り添った呼吸の気配。
その一つひとつが胸に焼き付いたまま離れず、もはや幻のように過去を追いかけていた。
思えば、アランがあの屋敷に来て以来、これほど長く彼女と隔てられたことはなかった。
常に傍らに在るのが当然で、息遣いは生活の一部となり、彼女の気配は己の呼吸そのもののように当たり前だった。
――だから。
この離別は異様なほどに不自然だった。
静寂は息苦しく、空白は耐え難い。
それは肉体の一部を削り取られたかのような落ち着かなさで、心臓の鼓動だけがやけに荒々しく胸を叩いていた。
焦燥は渇望へと変わり、渇望は次第に怒りにも似た熱を帯びていく。
早く戻らなければ。
彼女の隣に――戻らなければ。
置き去りにしたままのアランの心を、シリウスがさらってしまう。
翡翠の瞳が、光の笑みに染め上げられてしまう。
そう思うだけで胸が裂け、血が滲むような痛みに苛まれる。
その予感を振り払うように、彼は強く拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、赤い血が滲もうとも、それすら気づかないほどに。
彼の心は夜の闇を焦がしながら、ただひとりの少女のもとへと駆け続けていた。
ホグワーツに戻ったのは、夜の帳が校舎をすっかり覆い落とした頃だった。
窓辺に灯る燭火はちらちらと揺らぎ、回廊に長い影を落としている。
旅路の疲労を確かに背に纏っていたはずなのに、レギュラスの歩みは一度として緩むことはなかった。
真っ直ぐに向かう先はただひとつ。
彼女のいる寮。
ほんの数日の空白――たった二日、三日のことにすぎない。
けれどその間に流れた時間は、彼にとってあまりに長く、心を深く空洞に蝕んでいた。
不安と渇望が何重にも折り重なり、この胸を圧し潰すほど膨らんでいた。
――だから。
木製の扉を押し開き、小さな影を視界に収めた瞬間。
胸の奥を焦がしていたものが、一気に弾け飛んだ。
「…… アラン」
零れ落ちた声は、低く掠れ、けれど深い熱を宿していた。
振り返った彼女は、一瞬驚いたように大きく瞳を見開く。
翡翠の瞳が光を映し、戸惑いとほころびがゆらいだ。
二日、三日――その程度の空白にしかすぎぬはずなのに、なぜか懐かしさをともなって胸に迫るものがあった。
「もう……お戻りに?」
安堵と困惑が交わった声。
アランにとって、この数日の時間はむしろ救済に近かった。
常につきまとう視線も、囁きもない。
ようやく自分自身の呼吸を取り戻すような、ひとときだけの解放。
けれど、その静かな安堵はあまりに儚かった。
目の前のレギュラスは、燃えるような執着を灰色の瞳に宿して立っていた。
固く研ぎ澄まされた想いが、隠さぬまま真っ直ぐに彼女を射抜いている。
「……ずっと、会いたかったです」
口にされた言葉は絹糸のように甘く響いた。
その甘美さは耳に溶け込んだ瞬間、刃のように鋭く心臓へ突き刺さる。
胸の奥がざわめき、不安が波紋のように広がっていく。
――また、絡め取られる。
逃れられぬ予感に、アランの身体は反射的に強張った。
その微かな震えすら、レギュラスには愛しく思えたのかもしれぬ。
彼は一切の躊躇を見せず、細い指を捕らえるように手を取った。
その手は温かく、掌の熱が全身を塗り潰していくように広がった。
「アラン……」
名前を呼ぶその声は押し殺され、低く深く沈み込んでいる。
繋がれた指先に込められた力が、胸の奥まで響いて伝わった。
たった数日の間に得たささやかな解放感は、ひと押しで霧散していった。
閉ざされた檻は、再び強く固く閉じられたように思えた。
アランは俯き、震える唇をようやく動かす。
「……おかえりなさい、レギュラス」
それは何よりもありふれた言葉。
けれど口にした瞬間、背筋を鋭い冷気が走り抜ける。
まるで自分の身を締め付ける鎖に、自ら手を添えてしまったかのような感覚。
彼の視線に捕らえられ、温もりに縛られ、もう抗う余地のないことを知りながら。
けれど否定のための言葉はひとつも持てなかった。
夜の闇は深く濃く広がり、二人を閉じ込めるように覆っていた。
試験が近づいていた。
図書室にも談話室にも、静謐を湛えた空気が漂っていた。
紙をめくる乾いた音、インクを含んだペン先が紙を擦る微かな響き、それらが織りなすざわめきが、張り詰めた空間に淡く広がっていた。
アランもまた、その静けさの一部に身を置いていた。
机に身を伏せ、必死に筆を走らせる。
一行ずつ、一頁ずつ、遅れを取るまいと、自分の手で知識を掴みとろうとしていた。
しかし――隣にレギュラスがいるとき、その努力はいつも思いがけず乱される。
彼は時として、彼女の髪を指先で掬い、絡めるように弄んだ。
またある時は、羽ペンを奪い、澄んだ灰色の瞳を覗き込んで彼女が集中できぬよう仕向けた。
やがては学びの場から逸脱し、抱擁や口づけにまで導こうとする。
「……レギュラス、やめてください」
必死に声を震わせて注意すれば、彼は柔らかく微笑むだけだった。
その余裕綽々とした表情が、逆にアランの胸の奥に冷たいものを沈殿させていく。
だから最近、彼女は自ら彼の傍を避けるようになっていた。
部屋に籠り、一人で勉強へ没頭する。
そうしなければ、決して集中を続けられないのだった。
けれど、その小さな選択ですら、レギュラスには面白くなかった。
早々に席を立とうとしたアランの手を、彼は目にも止まらぬ早さで掴んだ。
骨ばった長い指が彼女の手首を逃さぬように絡めとる。
「……さすがに詰め込みすぎでは?」
低く落とされた声に、アランは瞬きし、そして答えを絞り出す。
「あなたほどの天才肌ではありませんもの。……詰め込まないと」
その返答は、どこか息詰まるような硬さを含んでいた。
レギュラスの口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「……そんなに成績を上げて、一体何をしたいんです?」
彼の声はあくまで淡々としていた。
だがアランは、その響きの裏に潜んだ意味をすぐに悟ってしまった。
――どうせお前は使用人として屋敷に戻る身なのだ。
――未来を切り拓く力など、必要ではないのだ。
言葉にはされない。
しかし確実にそこに潜む残酷を、アランの心は読みとってしまった。
胸の奥に冷たい痛みが広がる。
こういう一言に触れるたびに。
少しずつ、少しずつ。
アランはレギュラスに対して、冷めゆく感情を覚えずにはいられなかった。
視線を落とし、震える指で必死に羽ペンを握りしめる。
「……違うんです」
かすれる小声が唇から洩れる。
誰に聞かれることもなく、ただ自分自身に言い聞かせるように。
――シリウスもまた、常に最上位に名を連ねる成績だった。
努力という努力を見せずとも、彼は自由で伸びやかに光を放っていた。
だからこそ。
その隣に並びたかった。
彼の歩みに遅れずに立ち続けたかった。
自分という存在が、彼の汚点にならぬように。
必死に学ぶことは、そのための「せめてもの足掻き」だったのだ。
分厚い本の影に隠されるように、翡翠の瞳が揺れていた。
だがその内に潜む真実を、レギュラスが覗き見ることはなかった。
彼はただ彼女の手を強く握り込み、その吐息を肩に落とす。
「……いずれ分かりますよ、アラン。努力よりも大事なものが、世の中にはあると」
優しげに聞こえるその響きは、アランにとっては刺すように冷たく、
底の見えぬ深さで心を凍えさせるものだった。
彼女は答えることなく、ただ震える指を白い紙の上に這わせ続けた。
インクのしぶきが墨色のしみを広げ、それが彼女の心の泪のようにじわじわと染み込んでいった。
試験の日。
大広間には重たい緊張が垂れ込めていた。
机の並ぶ石造りの空間は、ほんのささやきひとつが反響してしまうほど澄んだ静けさに包まれている。
羽ペンを握る手が汗ばんで滑りそうになり、アランは胸を押さえて深く呼吸を整えようとした。
――大丈夫。大丈夫。ここまでやってきた。
心の奥で己を叱咤し、問題用紙へと眼差しを注ぐ。
幾晩も徹して解き続けた演習の頁。
早朝の冷たい空気を震えながら書き写した習字の跡。
その積み重ねは確かにここにあるはず、と信じようとする。
けれど、いくら努力を重ねても越えられない「分からない」という壁は幾度も立ちはだかった。
問いに躓くたび、心臓は胸を叩き、冷たい汗が背筋を伝っていく。
沈み込むような不安の渦が、頭からつま先までを絡め取った。
ふと視線を隣に落とした瞬間、息が詰まった。
レギュラスは片手で髪を整えながら、涼やかな横顔のまま羽ペンを走らせていた。
筆跡は規則正しく、流れるように進む。
顔に迷いの影ひとつ差すことなく、まるで解答が既に頭に刻まれていたかのようだった。
静かで落ち着いたその姿が、余計に自分の小ささを際立たせる。
――やはり、この人とは格が違う。
胸を抉るような痛みと、底冷えする実感。
けれどは必死に視線を戻し、また問いへと向き合っていた。
すべてが終わった後。
羽ペンを置き、アランは椅子の背に深くもたれかかった。
喉が痛むほど息を吸い、吐き出す。
肩の力が抜け、一気に疲労が全身に押し寄せた。
目を閉じれば、静寂の中で睡魔に落ちてしまいそうだ。
ただ眠りたい。考えることもせず、ただ布団へ潜りたい――心からそう願っていた。
だが夜。
談話室から部屋に上がろうと立ち上がったとき、不意に手を掴まれた。
「…… アラン」
名前を呼ぶ声。低く、深く、押し殺された響きに胸が震える。
振り返ると、レギュラスはまっすぐに彼女を見ていた。
「試験は終わりましたよ」
「……眠たくないのですか?」
「まったく」
即答だった。その答えの迷いのなさが、逆に彼女の気持ちを揺らした。
頭脳も、魔法の腕も、そして体力さえも――すべてが彼に劣っているのだと突きつけられる。
知らぬ間に滲んでいく小さな苛立ちと、どうしようもない悲しさ。
暖炉の炎が赤々と燃え、部屋を温めていた。
まだ数名の生徒たちが椅子を囲み、本に没頭したり、抑えた声で語らったりしている。
そんな彼らの気配を背に、レギュラスはアランの手を離さぬまま歩を進め、自然な仕草でソファへ腰を下ろした。
彼女を傍らに座らせ、肩にそっとブランケットを掛ける。
外から見れば、ただ寒さを紛らわす思いやりの所作にすぎなかった。
けれど、その布の下で。
レギュラスの指が、迷いなく伸びてきた。
瞬時に気づいたアランは、慌ててその手を押さえ、制止しようとする。
「……見えてはいません」
囁く声は穏やかで、含み笑みを滲ませている。
まるで「気にすることはない」と言いたげに。
だがアランは小さく首を振った。
――違う。見えているかどうかが、問題じゃない。
ブランケットの揺れ。
不自然な影を拾う誰かの視線。
ちょっとした違和感から、密やかなものは簡単に露わになってしまう。
なにより。
ただこうして隣に座り、肩を寄せているだけでも、充分に親密さを疑われるのだ。
視線という刃。
噂という鎖。
それらが降りかかることを、想像するだけで血が凍った。
心臓は速く、激しく打ち続ける。
それは甘美さではなく、「人の目に晒されるかもしれない」という恐怖の鼓動。
知られてはいけない。
誰にも。
決して。
この関係は白日に晒されてしまえば一瞬で瓦解する。
その想像だけで内側が軋み、呼吸すらぎこちなくなっていく。
――人前で触れられるのは、嫌。
伝えたいのに、声にならない。
喉は強張り、言葉はくぐもって消える。
結局、彼女にできたのはただひとつ。
首を振り続けること。
レギュラスの手を押さえたまま、かすかに――けれど確かに震えていた。
その震えは、彼の瞳にはまたも「愛らしい」と映るのかもしれない。
けれどアランにとってそれは、たった一歩の距離すら橋渡しできない痛みだった。
暖炉の炎がぱちりと弾けた音が、二人の間に落ちた沈黙の中で異様に大きく響いた。
ブランケットの下。
布に隠れた空間で、彼の指先がするすると忍び寄る。
押しとどめるように掴んだはずの自分の手が震えるのを感じ、アランは慌てるように声を発した。
「……ロズィエ家の舞踏会は、どうでした?」
喉の奥が乾いて、声が思った以上に掠れていた。
空気を変えたい。ただこの息苦しい緊張から逃れるように。
その一心で無理やりに口へ押し出した問いだった。
隣から少しの間もなく声が返ってくる。
「ええ……まあ、普通です」
レギュラスの声はあまりにも平板だった。
端然と整えられた横顔は崩れない。
視線は淡く正面に向けられ、ほとんど感情というものが読み取れなかった。
浮かんでこない会話。
広がるはずもない返事。
アランの胸に気まずさが広がり、その冷たさが肌を焼くように滲んでいった。
「そ……そうですか。カサンドラ嬢は、きっと美しく着飾っておられたのでしょうね。……何色のドレスを身に纏っていらしたのですか?」
焦りが舌先を追い越す。
笑顔を作る口元すら引きつっているのを自覚していた。
それでも必死に、何とか繋ごうと問を重ねた。
レギュラスの返答は、乾いた刃のように短い。
「……さあ。忘れました」
「っ……」
ほんの一瞬、息を呑む。
忘れるはずがない。婚約者と並び、多くの視線を浴びたはずの舞踏会で。
それを「忘れた」と撥ねる声音が、何より淡々と鋭かった。
心臓に小さな棘が刺さる。
それでも、会話を途切れさせればすべてが沈黙に呑まれてしまう。
だから、また無理やり声を重ねた。
「では……美味しいものは召し上がりましたか? その……お菓子や、料理など」
声は小さく上ずり、言葉の端が掠れていく。
自分でも愚かしいと分かっていながらも、場をつなぐために繰り出す問い。
「……それなりに」
またしても短い返答。
それ以上を語るでもなく、笑うでもなく、声の抑揚は氷のように平らかだった。
アランの喉の奥で、何かがきしむ。
会話は一瞬で閉じられ、取りつく島もなくなっていく。
必死でほどいた糸が空しく弾け、腕の中で胸がぎゅっと縮まった。
その時、気づいてしまう。
押さえつけているはずの手に、もう力が入らなくなっていることを。
ほんのわずかな隙間を縫って、するりと滑り込む指先。
布越しに忍び込んでくる熱は、自分の意志よりはるかに確かで強い。
腿をなぞられる。
背筋を奔るのは、ぞわりとした感覚。
一瞬で首筋から耳の下までが熱に染まり、抑えていた声が喉に詰まった。
「……っ」
驚きと羞恥がいっせいに噴き出す。
けれど、声にはならなかった。
――やめなければ。
頭の中で警鐘が響く。
このままではいけない。
わかっているはずなのに、声を出す勇気がどうしても持てなかった。
押しとどめる力はほんの少しずつ弱まり、無自覚のうちに緩んでいく。
布の下で忍ぶ動きだけが確かさを増し、彼の意志に、彼の所有の力に、静かに絡め取られていった。
「……」
表向きの会話は、舞踏会や食事といった空々しい話題。
それを繕う声が何度も弾け、消える。
しかし、本当の「会話」はすでに布の下で、言葉ではなく熱と緊張で交わされていた。
生徒たちの視線。
好奇心を帯びた囁きの予感。
ほんの一瞬の違和感で、誰かに悟られてしまうかもしれない。
それが何よりも恐ろしいのに――。
アランは、ただ布の下に広がる温もりに震えながら、声を殺して首を振り続けることしかできなかった。
暖炉の火が爆ぜる音が、妙に大きく談話室に響いた。
それは他の誰にとっても平凡な夜の音。
けれどアランにとっては、今まさに張りつめた秘密が破られるのではないかと心を脅かす鐘の音に思えた。
彼女の手はまだ彼の指を押さえている。
けれどそれは拒絶ではなく、かろうじて残された最後の弱い抵抗にすぎなかった。
談話室に残る声が、深夜の帳に吸い込まれるように一つ、また一つと消えていった。
「おやすみなさい」「いい夢を」――そんな決まり文句が交わされるたび、アランもまた作り物のような微笑を浮かべて小さく答えた。
だが胸の奥は静まらない。返す言葉とは裏腹に、ざわざわと黒い波が押し寄せる。
暖炉の火はまだ赤々と燃えている。
けれど部屋を出て行く生徒が最後の一人を数えたとき、炎の揺らめきさえ過敏に大きく感じられた。
階段を軋ませながら背中が消えるのを見届けたその瞬間――。
レギュラスはためらいなど一片もなく、彼女へと身を傾けた。
唇が強引に奪われる。
驚きに息を呑む間もなく、柔らかな粘膜に押しつけられる熱と重い呼吸の圧。
「……んっ……」
戸惑いと共に、小さな声が零れてしまう。
濡れた吐息の隙間を縫うように舌が滑り込み、唇をこじ開け、奥深くへ侵入してきた。
その動きには理性の磨きも礼儀の緩急もなかった。
ただ数日の離別と試験の緊張、積み重ねた距離――すべてを埋め合わせるかのように、爆発する衝動そのものだった。
冷静な自分の心が一方でささやく。
――何をしているの。自分はいったい。
けれどその声は、彼の熱に呑まれていく。
頭は白く塗り潰され、抗う言葉は口の奥で溺れ、少しずつ思考がほどけていく。
唇が離れて一瞬の呼吸が戻ったとき、目の前には灰色の瞳があった。
まっすぐに、彼だけを見据えるその瞳。
そこに映っていた自分の顔は、目を背けたくなるほどに露骨だった。
――求めている。
情欲に歪み、誰よりも分かりやすく欲を晒した、自覚のない顔。
頬が赤く燃え、耳まで熱くなる。
「…… アラン」
低く囁かれた名が耳朶を打つたび、耳の奥が焼けるように灼熱を帯びた。
名を呼ばれるだけで縛られる。逃げ場は消える。
気づけば、ソファの背に押し倒されていた。
逃げる余地のない狭い空間に身体が沈み込む。
羽織った布がずり落ち、短いスカートの布越しに金具が一つずつ外されていく。
かちゃり。かちゃり。
小さな音が静寂に響き渡り、それは現実の杭として彼女の心臓を刺す。
ああ、本当に今、自分は取り戻せない場所へ踏み出してしまっている、と。
溢れかえる熱に、微かに走る痛み。
全身が糸のように張り詰め、緩み、そしてまた痛みに震える。
これは果たして愛なのか。
それとも、欲望という獣が本能のままに食らいついているだけなのか。
――答えは、どこにも見つからなかった。
視界が熱で揺れ、呼吸は彼に支配される。
溺れるような感覚に流され、どこまでも沈んでいく。
抱かれているはずなのに、寄り添われていると信じ切ることはできず。
温もりはあるのに、その温もりの意味が掴めない。
愛情と本能。その境界は霧のように曖昧で、掴もうとするたび指の間から崩れ落ちていく。
結局、アランは曖昧な距離感に取り残されたまま、
抗うでもなく、受け入れるでもなく。
ただ彼女を惑わせ続ける霧の中で、ひたすら震え続けていた。
暖炉の火はなお燃えている。
けれどその赤は、彼女へ温もりを与えるどころか、己の曖昧な心をさらに照らし出し、影を濃くしていくばかりだった。
――すべてが終わった。
談話室には深い沈黙が満ちていた。
暖炉の中で赤く燃える薪が、ぱちぱちと小さくはぜる音だけが残り、時折、火の粉がオレンジ色の瞬きを作って天井へと弾ける。
積み上げられた本や古いソファ、壁にかけられた装飾品さえも、炎の光を受けてぼんやりとした影を伸ばし、夜の静けさを一層際立たせていた。
足元には床へ落ちたブランケットが無造作に広がり、先ほどまでの熱の痕跡を主張していた。
ソファの上にはまだ荒い呼吸が漂い、ため息ともつかぬ吐息が重く絡んで空気を滲ませている。
レギュラスは背凭れに深く身を預け、ひとつ、長い呼吸を吐き出した。
その灰色の瞳は柔らかく細められ、整った横顔には珍しく安堵と満足が浮かんでいた。
端正な頬をわずかに緩め、穏やかな吐息に混じる熱が「欲し、求め、得た」ことを確かに物語っている。
彼にとって、求めてやまなかった距離はついに埋められたのだ。
その充足感が血潮になじむように、彼を内側からゆるやかに満たしていた。
だが―― アランは違った。
全身は鉛のように重く、目の奥には眠気ではない虚ろな霞が広がっていた。
指先にはまだかすかな熱が残り、肌の幾らかは彼の温もりを刻んでいるのに、心の奥はどこか空虚で冷えたままだった。
寄り添われ、抱きしめられる安堵。
本来なら幸福と呼ぶべきはずのものが、なぜだか胸の奥まで届いていかない。
触れる温かさと心が乖離している。それが一層の寂しさを生む。
――これは本当に、愛なのだろうか。
互いを大切に思い合う証なのか。
それとも、ただ欲という名の衝動に身を任せただけなのか。
答えは曖昧で、どこにも見つからなかった。
痛みとも疲労ともつかない鈍い感覚が身体の奥に残り、心には濃い霧のような重さがまとわりつく。
言葉を紡ぐ気力すら削ぎ落とし、ただ静かに沈黙へと押し流されていく。
「…… アラン」
名を呼ぶ声。
レギュラスの声音は柔らかく、どこか甘えるような余韻を伴っていた。
それは彼が幸福に酔っていることを嫌でも伝えてくる。
その幸福に浸る彼の姿と、自分の空虚さとの温度差が、胸の奥を締めつけた。
答えなければ――そう思うのに、唇は動かなかった。
一度、かすかに開いた口は、すぐにまた閉じてしまった。
体温が押し寄せるたびに、罪悪感のような苦いものが喉の奥に広がり、声を塞ぎ込んでしまうのだ。
――こんな思いをしているのは、きっと自分だけ。
隣に座るレギュラスは、疑わない。
彼女の沈黙さえも「静かに満ち足りている」と解釈してしまうだろう。
彼はすべてを得たと信じ、その信じることに揺らぎがない。
その確信と、自分の中に生まれている虚無との隔たりが、痛みを越えて、胸をひどく苦しくさせる。
レギュラスはゆっくりと彼女を抱き寄せた。
その腕は驚くほど熱く、驚くほど強かった。
頬をその胸に押し当てられ、アランは力なく目を閉じる。
――まるで見えない鎖に巻き付けられているように。
心は疲れ切り、反発のための力は残っていなかった。
唱える言葉も、逃れようとする気持ちすら、もう霧散している。
だから彼女はただ、静かにその熱に身を預けるしかなかった。
身を仮に委ねながら、心はどこまでも遠く、手の届かない場所にさまよってゆく。
暖炉の火は静かに揺らめいている。
赤い炎が寄り添う二人を温かく照らし出す。
だが、その光は冷えた胸の奥底まで届かない。
深く沈み、虚ろになったアランの心の闇までは――
誰も、決して照らし出すことはできなかった。
レギュラスの胸の内は、驚くほど静かに満たされていた。
焦燥も苛立ちも、不安に苛む影も、その瞬間には不思議と消え去っていた。
代わりにあるのは、ぬくもりと確証。
彼が求めてやまなかったものを、今まさに掌の内に収めたという実感だった。
思い返せば、ほんの少し前。
アランの瞳が、あの翡翠色の奥で明らかに欲に揺れていたことを、彼は見逃していなかった。
拒絶の気配など一つもなく――むしろ彼女は自然と細い腕を絡め、縋るように抱き寄せてきた。
その反応こそ、レギュラスを高みに導く確かな証だった。
―― アランも、自分と同じように求めてくれていた。
そう信じるには十分すぎるほどの熱が、彼女の中に晒されていた。
誰にも触れられぬはずの奥深い真実を、自分だけが知ってしまった。
唯一の特権。
その独占こそが、彼の誇りであり、渇望を満たす甘美な水だった。
「…… アラン。愛しています」
囁きは自然に唇から零れた。
「好きだ」という言葉はあまりに幼く、軽すぎた。
自分の中にある想いは、とっくに淡い憧れを超えている。
それはもっと濃く、執拗で、切実で、手放せぬものだった。
だから「愛している」――その言葉こそ、この胸に滾る熱にふさわしかった。
横たわるアランは、疲れ切ったように小さく胸を上下させていた。
額にかかる髪が浅い呼吸で揺れ、肩先は無防備に落ちている。
眠りへと沈みかけ、半ば開いた唇から漏れる息は熱を纏い、甘やかに響いていた。
レギュラスはその隙間へ、軽やかに口づけを落とした。
「……っ」
その瞬間、微かな呻きとともにアランの肩が震えた。
翡翠の瞳が揺れる。
眠りの底から一瞬で引き戻された彼女は、驚いたように瞼を震わせ、迷子のように視線を漂わせた。
その仕草のあまりの愛らしさに、胸に湧き上がるのは優しさと――同時に、もう隠す必要のない強烈な加虐心だった。
愛しいがゆえに試したくなる。
欲しいがゆえに追い込みたくなる。
レギュラスは囁く。
「よかったです?」
その問いは直球だった。
アランの睫毛が震え、視線が迷走する。
耳まで真っ赤に染めながら、何も言えずに唇を固く結ぶ。
それは彼女にとって、とんでもなく恥ずかしい問いだった。
答えられるはずがない。
しかし、そんな無言さえ愛しく思えてしまう。
「……よかったです?」
今度は彼女の視線を捕え、逃さないように正面から迫る。
真っ向から覗き込む灰色の瞳に、アランは観念したかのように目を合わせてしまった。
その瞬間、翡翠の奥が真っ赤に濁り、羞恥と混乱とを隠し切れずに震えた。
耐え切れず、レギュラスはくすくすと笑った。
あまりに可愛らしい。
あまりに無防備だ。
羞恥に覆われたその表情は、それだけで十分すぎる答え。
彼女は声にせずとも、すべてを語ってしまっていた。
それが快楽であろうと、愛であろうと。
自分の腕の中で赤面し、目を反らすことができないという事実――それが雄弁に物語っていた。
どこまでも愛おしく、そして絶対に手放せない。
鎖のように強く想いを絡ませ、彼はその温もりを確かめるように、再び彼女を抱き寄せた。
暖炉の火がぱちぱちと鳴る。
橙色の光は二人の影を揺らし、一つに絡める。
その影の主導権は、今や完全に彼のものだった。
試験の結果が、ついに張り出された。
朝の大広間は、いつも以上にざわめきに包まれていた。
揺れるカーテン越しに射し込む冬の光に、羊皮紙に書かれた名前と点数が白々と照らし出される。
群がる生徒たちが一斉に掲示へと押し寄せ、歓喜の声や落胆の呻きが入り混じって波のように広がっていた。
アランも、その一角に紛れ込みながら視線を走らせた。
胸の奥が不自然なほど早鐘を打ち、指先にまで小さな震えが伝わっていた。
――やはり。
主席に刻まれていたのは、レギュラス・ブラックの名。
ずらりと並んだ科目の成績。そのすべてに最高点が記されている。
まるで「当然」だと告げるかのように、彼の名は揺るぎなく一番上にあった。
そして当の本人は、ざわめく人々を尻目に涼やかな表情を崩さなかった。
灰色の瞳を柔らかく細め、控えめに口元を上げる。それは歓喜でも驕慢でもなく、冷静に結果を受け止める者の顔――「完璧な人間」の姿だった。
「……さすがですね、レギュラス」
アランはかすかな声を漏らした。
その賞賛は紛れもない本心だった。
試験の最中でさえ、彼はどれほど彼女を求めてきたことか。
そのたびに勉強の手を止めさせられ、流され、時間を犠牲にしてきた。
それでもこの結果。
一度の揺らぎもなく頂点へ立ってしまう。
羨ましさと同時に、どうしようもない遠さを思い知らされる。
隣に立つレギュラスは、淡く微笑んだまま彼女の肩へと腕を回した。
「アラン。あなたも十分に立派ですよ」
褒める声音は穏やかで、柔らかく耳を撫でていく。
だが、その響きはどこか「従者を褒める主人」のように自然で、無自覚に上下を隔てている。
そのさりげない仕草ひとつさえ、アランの胸をひそかに締めつけてゆく。
確かに、自分の順位は悪くなかった。
上位に名を連ねる結果は得られた。
けれど、思い描いた理想にはまだ遠く届かない。
必死に詰め込み、幾晩も心身を追い詰めた日々を思えば、この位置で満足できるはずがなかった。
そして……それ以上に。
どれほど努力を重ねようとも、結局は彼の才覚に届かないのだ、という現実。
それが不意打ちの刃のように胸へ突き立ち、冷たく、鋭くあかしを刻む。
視線は自然と動き、掲示に刻まれた別の名へと移った。
――ジェームズ・ポッター。そして、そのすぐ下にシリウス・ブラック。
いつも肩を並べ、互いを鼓舞し合うように輝き続ける二人の名。
紙の上でも、そしておそらくその未来でも、光のようにひときわ眩しく刻まれた存在。
遠い。
やはり自分には遠すぎる。
どれほど伸ばそうとしても届かない、安全圏の向こうに閉ざされた光だ。
歩み寄る努力さえ、滑稽な幻想ではないかと思わされる。
並び立つ資格など、はじめから持ち得ないのだと、無慈悲に告げられている気がして――胸がぎりぎりと締めつけられた。
「……必ず迎えに行く」
あの夜、シリウスがくれた言葉が耳奥に蘇る。
少し前までは、必死にその声を信じようとした。
信じたい思いと、無理に決まっているという諦めが拮抗し、揺らぎの中に希望の余地があった。
けれど今は違う。
張り出された羊皮紙がすべてを裏切る。
最高位の成績を重ね、未来へ向かって輝く彼と――ただその背を追いかけ、もがくしかない自分。
その隔たりは残酷すぎた。
信じるにはあまりにも突き付けられる現実が大きく、鋭すぎた。
――無理だ。
翡翠の瞳が揺れる。
視界が水に滲むようにぼやけてゆく。
歓声に満ちた広間の喧噪が、彼女の耳には一切届かない。
胸に響くのはただ、自分自身の鼓動だけ。
ずしん、と重く、痛く打ち付け続ける。
その音は彼女に静かに告げていた。
光を目指すのは、もうやめた方がいい、と。
遠すぎる想いに縋るのは、きっと愚かしい、と。
沈む思いを抱えたまま、アランはただ人混みの中で立ち尽くし、孤独の影に包まれていった。
――ぐう。
空気を乱したその音に、シリウス自身が一瞬きょとんと目を見開き、次の瞬間には驚いたように腹を押さえて、照れくさそうに笑った。
「……かっこ悪りぃな、俺」
わざとふてぶてしく言ってみせるような声音。
けれど、その無防備な少年らしさにアランは堪えきれず、小さく笑ってしまった。
喉から漏れたその声は、長い間胸を締めつけていたものをわずかに解かしていく。
「……戻りましょっか。きっとまだ食事、残ってますよ」
自然とそんな言葉が口をついて出た。
彼を気遣うように微笑みながら。
しかしその裏で、胸の奥では声にならない願いが幾重にも募っていた。
本当は――戻りたくなかった。
このまま二人だけでいたかった。
月明かりの射す廊下で、影を重ねたまま、いつまでも並んでいたかった。
いや、できることなら。
いっそ今すぐ、この城から遠く――夜の森や湖の向こうへ駆け出してしまいたかった。
誰の目もない場所へ、彼と一緒に。
脳裏に浮かんだのは、レギュラスと過ごしたあの夜だった。
閉ざされた扉の向こう、どうすることもできず流れに飲まれたあの時間。
あの夜に踏み出してしまった一歩。
けれど……本当は。
初めてを捧げたいと願ったのも。
すべてを共にしたいと思ったのも。
他でもない、シリウスだったのに。
胸が苦しい。
何度も繰り返し、レギュラスに流され、溺れ、もがいて。
情けなく、ぐしゃぐしゃになっている自分が――。
今さら「シリウスと共にありたい」などと望むのは、あまりに浅ましくて――惨めだった。
それでも。
願いは止まらなかった。
熱のように体を巡り、切なさのように喉を震わせる。
求めても届かぬと知りながら、それでも彼の光を、世界でいちばん欲しかった。
胸が張り裂けそうなその思いを隠すために、唇に微笑を貼りつける。
「いつも通り」の顔。
ただ、大広間へ戻ろうと促す。
「……行きましょう、シリウス」
振り返ったシリウスは、何の疑いもない、屈託のない笑みを浮かべていた。
無邪気なその笑顔。
羨望と愛情と痛みが一緒になって胸を満たし、切なくぎゅっと締め上げた。
――届かない想い。
誰にも悟られぬように、胸の奥深くで押し殺して。
アランは足を踏み出した。
石造りの冷たい床に彼女の影が伸び、隣には彼の自由そのものの影が重なる。
二つの影は少しずれて、重なりきらぬまま、月明かりの中を歩いていった。
優雅な旋律が大広間いっぱいに満ち、絹のように柔らかい音色が波紋を描くように広がっていた。
その旋律に合わせて舞うカサンドラとレギュラスの姿は、確かに見る者の目を奪っていた。
シャンデリアの光を受けて、カサンドラのドレスが滑らかに広がる。
裾が翻るたび、光沢のある絹布は水面のように流れ、彼女の姿を一層際立たせる。
その笑みは今宵の主役らしく、満ち足りた、自信に煌めく表情。
「純血の誇り」を一身にまとい、舞踏会という舞台に完璧に調和していた。
「レギュラス様……こうしてご一緒に踊れることを、ずっと夢見ていました」
寄せられた囁きは柔らかく、可憐に響いた。
しかしその声は決して二人きりの秘密などではなく、周囲にまで届く香水のような言葉だった。
婚約者としての想いはきっと本物なのだろう。
だがレギュラスの胸には大きな波紋は生まれなかった。
「……光栄です」
それは完璧な台詞。
微笑みも、背に添える手の形も。
どれもがあらかじめ台本に書かれているかのような正確さで、舞踏会が期待する「ブラック家の若き後継者」を演じてみせる。
これまで幾度も繰り返した社交の場に、彼の身ぶりは淀みも戸惑いもなかった。
――なのに。
脳裏にちらつくのは、アランの姿ばかりだった。
校内の廊下をいま、彼女は歩いてはいないだろうか。
あるいは、シリウスと肩を並べて、あの少年の自由な光に目を細めて笑っていたりはしないだろうか。
想像は答えを持たぬまま、刃のごとく胸を苛む。
けれど足は正確にステップを刻み、寸分の狂いもなく旋律に呼応する。
笑みを崩さず、完璧な婚約者としての姿を保ち続け、周囲の喝采を浴びる。
「……皆さまも、わたくしたちを見てお喜びでしょうね」
カサンドラの微笑は誇らしげで、レギュラスに顔を寄せると陶然とした眼差しを向けた。
彼は形式に従った微笑を返す。
「ええ……そうかもしれません」
だが。
本当は、彼の内側を占めるものはそんな社交的な誇りではなかった。
彼を満たしていたのはただ一人
―― アランの翡翠の瞳。
思い出すのは、彼女が時折見せる不安げな横顔と、そのか細い声。
ひとつひとつの仕草が深く胸に沈み込み、今この瞬間も彼を支配していた。
弦の音が大きくうねり、旋律は終わりに近づく。
足を滑らせるように最後の一歩を揃え、レギュラスは優雅に微笑んだ。
広間に拍手と喝采が響き渡り、誰が見てもその姿は「完璧」だった。
けれど――彼の心は、この場にはなかった。
魂の半分以上は遠いホグワーツに置き去りにされている。
そして胸に渦巻くのは、見えぬ闇のような不安。
アランの心がすでに他の光――シリウスの隣に揺らいでいるのではないかという恐怖。
純血の誇りも、未来の婚約も、その不安を払うことはできなかった。
喝采に包まれ、笑みを浮かべた完璧なレギュラス・ブラック。
だが彼の心臓は静けさを失い、ただひとりを思い求める痛みに、夜会の喧騒とは別の鼓動を刻み続けていた。
夜の舞踏会はまだ華やかな彩りを残していた。
金と白に煌めく光がホールを包み、貴婦人たちの笑い声が散る。音楽は軽やかに弦を震わせ、舞踏を楽しむ人々の足は止むことを知らない。
その中心に立っていたはずのレギュラスは、しかし胸の奥に重たく影を抱えていた。
本来であれば、もう一晩をこの邸で過ごし、翌朝に丁寧な見送りを受けて別れる――それが礼儀であり、慣例でもあった。
けれど、心の奥でざわめき続ける不安と焦燥は、そんな形式に従順に従えるほど大人しくはなかった。
「レギュラス様……ずいぶんとお急ぎでお帰りになるのですね」
カサンドラの声は柔らかく澄んでいた。
しかし瞳の奥には押し隠せない驚きと、淡い失望が波紋のように揺れていた。
「……ええ。試験が近いもので。またぜひ、お誘いいただければ幸いです」
あくまで落ち着いた声で返す。
姿勢も、口調も、淀みは一切なかった。
矛盾のない返答を編み上げるのは呼吸のように自然で、「ブラック家の後継者」という仮面を崩すことはなかった。
「……残念ですわ」
名残惜しげに微笑んだカサンドラは、それでも気高く振る舞い、礼を欠くことなく視線を伏せる。
形式上の社交の華やかさは最後まで保たれた。
「ご両親にもよろしくお伝えください」
彼の言葉に、カサンドラは静かに頷いた。
すべては淀みなく、完璧な別れ。
だが、背を向けた瞬間。
仮面の奥で堅牢に保っていたものが、わずかにひび割れた。
胸の内を渦巻くのは、安堵ではなく、どうしようもない焦燥と熱。
ホグワーツへ戻る馬車の旅路は、丸一日の時間を要した。
道は長く、余りに緩やかにしか進まない。
その一瞬ごとが、レギュラスには耐え難い焦燥となってのしかかっていた。
窓外を過ぎ行く景色など、目に入らなかった。
過ぎる木々も、揺らめく街灯の光も、彼にとってはただ鬱陶しく時間を知らせるだけだ。
――頭の中を占めるのは、アランの姿ばかり。
翡翠の瞳が揺れる瞬間。
名を呼ぶときの唯一無二の響き。
指先に触れたかすかな温もり。
不安に震えながらも、自分に寄り添った呼吸の気配。
その一つひとつが胸に焼き付いたまま離れず、もはや幻のように過去を追いかけていた。
思えば、アランがあの屋敷に来て以来、これほど長く彼女と隔てられたことはなかった。
常に傍らに在るのが当然で、息遣いは生活の一部となり、彼女の気配は己の呼吸そのもののように当たり前だった。
――だから。
この離別は異様なほどに不自然だった。
静寂は息苦しく、空白は耐え難い。
それは肉体の一部を削り取られたかのような落ち着かなさで、心臓の鼓動だけがやけに荒々しく胸を叩いていた。
焦燥は渇望へと変わり、渇望は次第に怒りにも似た熱を帯びていく。
早く戻らなければ。
彼女の隣に――戻らなければ。
置き去りにしたままのアランの心を、シリウスがさらってしまう。
翡翠の瞳が、光の笑みに染め上げられてしまう。
そう思うだけで胸が裂け、血が滲むような痛みに苛まれる。
その予感を振り払うように、彼は強く拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、赤い血が滲もうとも、それすら気づかないほどに。
彼の心は夜の闇を焦がしながら、ただひとりの少女のもとへと駆け続けていた。
ホグワーツに戻ったのは、夜の帳が校舎をすっかり覆い落とした頃だった。
窓辺に灯る燭火はちらちらと揺らぎ、回廊に長い影を落としている。
旅路の疲労を確かに背に纏っていたはずなのに、レギュラスの歩みは一度として緩むことはなかった。
真っ直ぐに向かう先はただひとつ。
彼女のいる寮。
ほんの数日の空白――たった二日、三日のことにすぎない。
けれどその間に流れた時間は、彼にとってあまりに長く、心を深く空洞に蝕んでいた。
不安と渇望が何重にも折り重なり、この胸を圧し潰すほど膨らんでいた。
――だから。
木製の扉を押し開き、小さな影を視界に収めた瞬間。
胸の奥を焦がしていたものが、一気に弾け飛んだ。
「…… アラン」
零れ落ちた声は、低く掠れ、けれど深い熱を宿していた。
振り返った彼女は、一瞬驚いたように大きく瞳を見開く。
翡翠の瞳が光を映し、戸惑いとほころびがゆらいだ。
二日、三日――その程度の空白にしかすぎぬはずなのに、なぜか懐かしさをともなって胸に迫るものがあった。
「もう……お戻りに?」
安堵と困惑が交わった声。
アランにとって、この数日の時間はむしろ救済に近かった。
常につきまとう視線も、囁きもない。
ようやく自分自身の呼吸を取り戻すような、ひとときだけの解放。
けれど、その静かな安堵はあまりに儚かった。
目の前のレギュラスは、燃えるような執着を灰色の瞳に宿して立っていた。
固く研ぎ澄まされた想いが、隠さぬまま真っ直ぐに彼女を射抜いている。
「……ずっと、会いたかったです」
口にされた言葉は絹糸のように甘く響いた。
その甘美さは耳に溶け込んだ瞬間、刃のように鋭く心臓へ突き刺さる。
胸の奥がざわめき、不安が波紋のように広がっていく。
――また、絡め取られる。
逃れられぬ予感に、アランの身体は反射的に強張った。
その微かな震えすら、レギュラスには愛しく思えたのかもしれぬ。
彼は一切の躊躇を見せず、細い指を捕らえるように手を取った。
その手は温かく、掌の熱が全身を塗り潰していくように広がった。
「アラン……」
名前を呼ぶその声は押し殺され、低く深く沈み込んでいる。
繋がれた指先に込められた力が、胸の奥まで響いて伝わった。
たった数日の間に得たささやかな解放感は、ひと押しで霧散していった。
閉ざされた檻は、再び強く固く閉じられたように思えた。
アランは俯き、震える唇をようやく動かす。
「……おかえりなさい、レギュラス」
それは何よりもありふれた言葉。
けれど口にした瞬間、背筋を鋭い冷気が走り抜ける。
まるで自分の身を締め付ける鎖に、自ら手を添えてしまったかのような感覚。
彼の視線に捕らえられ、温もりに縛られ、もう抗う余地のないことを知りながら。
けれど否定のための言葉はひとつも持てなかった。
夜の闇は深く濃く広がり、二人を閉じ込めるように覆っていた。
試験が近づいていた。
図書室にも談話室にも、静謐を湛えた空気が漂っていた。
紙をめくる乾いた音、インクを含んだペン先が紙を擦る微かな響き、それらが織りなすざわめきが、張り詰めた空間に淡く広がっていた。
アランもまた、その静けさの一部に身を置いていた。
机に身を伏せ、必死に筆を走らせる。
一行ずつ、一頁ずつ、遅れを取るまいと、自分の手で知識を掴みとろうとしていた。
しかし――隣にレギュラスがいるとき、その努力はいつも思いがけず乱される。
彼は時として、彼女の髪を指先で掬い、絡めるように弄んだ。
またある時は、羽ペンを奪い、澄んだ灰色の瞳を覗き込んで彼女が集中できぬよう仕向けた。
やがては学びの場から逸脱し、抱擁や口づけにまで導こうとする。
「……レギュラス、やめてください」
必死に声を震わせて注意すれば、彼は柔らかく微笑むだけだった。
その余裕綽々とした表情が、逆にアランの胸の奥に冷たいものを沈殿させていく。
だから最近、彼女は自ら彼の傍を避けるようになっていた。
部屋に籠り、一人で勉強へ没頭する。
そうしなければ、決して集中を続けられないのだった。
けれど、その小さな選択ですら、レギュラスには面白くなかった。
早々に席を立とうとしたアランの手を、彼は目にも止まらぬ早さで掴んだ。
骨ばった長い指が彼女の手首を逃さぬように絡めとる。
「……さすがに詰め込みすぎでは?」
低く落とされた声に、アランは瞬きし、そして答えを絞り出す。
「あなたほどの天才肌ではありませんもの。……詰め込まないと」
その返答は、どこか息詰まるような硬さを含んでいた。
レギュラスの口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「……そんなに成績を上げて、一体何をしたいんです?」
彼の声はあくまで淡々としていた。
だがアランは、その響きの裏に潜んだ意味をすぐに悟ってしまった。
――どうせお前は使用人として屋敷に戻る身なのだ。
――未来を切り拓く力など、必要ではないのだ。
言葉にはされない。
しかし確実にそこに潜む残酷を、アランの心は読みとってしまった。
胸の奥に冷たい痛みが広がる。
こういう一言に触れるたびに。
少しずつ、少しずつ。
アランはレギュラスに対して、冷めゆく感情を覚えずにはいられなかった。
視線を落とし、震える指で必死に羽ペンを握りしめる。
「……違うんです」
かすれる小声が唇から洩れる。
誰に聞かれることもなく、ただ自分自身に言い聞かせるように。
――シリウスもまた、常に最上位に名を連ねる成績だった。
努力という努力を見せずとも、彼は自由で伸びやかに光を放っていた。
だからこそ。
その隣に並びたかった。
彼の歩みに遅れずに立ち続けたかった。
自分という存在が、彼の汚点にならぬように。
必死に学ぶことは、そのための「せめてもの足掻き」だったのだ。
分厚い本の影に隠されるように、翡翠の瞳が揺れていた。
だがその内に潜む真実を、レギュラスが覗き見ることはなかった。
彼はただ彼女の手を強く握り込み、その吐息を肩に落とす。
「……いずれ分かりますよ、アラン。努力よりも大事なものが、世の中にはあると」
優しげに聞こえるその響きは、アランにとっては刺すように冷たく、
底の見えぬ深さで心を凍えさせるものだった。
彼女は答えることなく、ただ震える指を白い紙の上に這わせ続けた。
インクのしぶきが墨色のしみを広げ、それが彼女の心の泪のようにじわじわと染み込んでいった。
試験の日。
大広間には重たい緊張が垂れ込めていた。
机の並ぶ石造りの空間は、ほんのささやきひとつが反響してしまうほど澄んだ静けさに包まれている。
羽ペンを握る手が汗ばんで滑りそうになり、アランは胸を押さえて深く呼吸を整えようとした。
――大丈夫。大丈夫。ここまでやってきた。
心の奥で己を叱咤し、問題用紙へと眼差しを注ぐ。
幾晩も徹して解き続けた演習の頁。
早朝の冷たい空気を震えながら書き写した習字の跡。
その積み重ねは確かにここにあるはず、と信じようとする。
けれど、いくら努力を重ねても越えられない「分からない」という壁は幾度も立ちはだかった。
問いに躓くたび、心臓は胸を叩き、冷たい汗が背筋を伝っていく。
沈み込むような不安の渦が、頭からつま先までを絡め取った。
ふと視線を隣に落とした瞬間、息が詰まった。
レギュラスは片手で髪を整えながら、涼やかな横顔のまま羽ペンを走らせていた。
筆跡は規則正しく、流れるように進む。
顔に迷いの影ひとつ差すことなく、まるで解答が既に頭に刻まれていたかのようだった。
静かで落ち着いたその姿が、余計に自分の小ささを際立たせる。
――やはり、この人とは格が違う。
胸を抉るような痛みと、底冷えする実感。
けれどは必死に視線を戻し、また問いへと向き合っていた。
すべてが終わった後。
羽ペンを置き、アランは椅子の背に深くもたれかかった。
喉が痛むほど息を吸い、吐き出す。
肩の力が抜け、一気に疲労が全身に押し寄せた。
目を閉じれば、静寂の中で睡魔に落ちてしまいそうだ。
ただ眠りたい。考えることもせず、ただ布団へ潜りたい――心からそう願っていた。
だが夜。
談話室から部屋に上がろうと立ち上がったとき、不意に手を掴まれた。
「…… アラン」
名前を呼ぶ声。低く、深く、押し殺された響きに胸が震える。
振り返ると、レギュラスはまっすぐに彼女を見ていた。
「試験は終わりましたよ」
「……眠たくないのですか?」
「まったく」
即答だった。その答えの迷いのなさが、逆に彼女の気持ちを揺らした。
頭脳も、魔法の腕も、そして体力さえも――すべてが彼に劣っているのだと突きつけられる。
知らぬ間に滲んでいく小さな苛立ちと、どうしようもない悲しさ。
暖炉の炎が赤々と燃え、部屋を温めていた。
まだ数名の生徒たちが椅子を囲み、本に没頭したり、抑えた声で語らったりしている。
そんな彼らの気配を背に、レギュラスはアランの手を離さぬまま歩を進め、自然な仕草でソファへ腰を下ろした。
彼女を傍らに座らせ、肩にそっとブランケットを掛ける。
外から見れば、ただ寒さを紛らわす思いやりの所作にすぎなかった。
けれど、その布の下で。
レギュラスの指が、迷いなく伸びてきた。
瞬時に気づいたアランは、慌ててその手を押さえ、制止しようとする。
「……見えてはいません」
囁く声は穏やかで、含み笑みを滲ませている。
まるで「気にすることはない」と言いたげに。
だがアランは小さく首を振った。
――違う。見えているかどうかが、問題じゃない。
ブランケットの揺れ。
不自然な影を拾う誰かの視線。
ちょっとした違和感から、密やかなものは簡単に露わになってしまう。
なにより。
ただこうして隣に座り、肩を寄せているだけでも、充分に親密さを疑われるのだ。
視線という刃。
噂という鎖。
それらが降りかかることを、想像するだけで血が凍った。
心臓は速く、激しく打ち続ける。
それは甘美さではなく、「人の目に晒されるかもしれない」という恐怖の鼓動。
知られてはいけない。
誰にも。
決して。
この関係は白日に晒されてしまえば一瞬で瓦解する。
その想像だけで内側が軋み、呼吸すらぎこちなくなっていく。
――人前で触れられるのは、嫌。
伝えたいのに、声にならない。
喉は強張り、言葉はくぐもって消える。
結局、彼女にできたのはただひとつ。
首を振り続けること。
レギュラスの手を押さえたまま、かすかに――けれど確かに震えていた。
その震えは、彼の瞳にはまたも「愛らしい」と映るのかもしれない。
けれどアランにとってそれは、たった一歩の距離すら橋渡しできない痛みだった。
暖炉の炎がぱちりと弾けた音が、二人の間に落ちた沈黙の中で異様に大きく響いた。
ブランケットの下。
布に隠れた空間で、彼の指先がするすると忍び寄る。
押しとどめるように掴んだはずの自分の手が震えるのを感じ、アランは慌てるように声を発した。
「……ロズィエ家の舞踏会は、どうでした?」
喉の奥が乾いて、声が思った以上に掠れていた。
空気を変えたい。ただこの息苦しい緊張から逃れるように。
その一心で無理やりに口へ押し出した問いだった。
隣から少しの間もなく声が返ってくる。
「ええ……まあ、普通です」
レギュラスの声はあまりにも平板だった。
端然と整えられた横顔は崩れない。
視線は淡く正面に向けられ、ほとんど感情というものが読み取れなかった。
浮かんでこない会話。
広がるはずもない返事。
アランの胸に気まずさが広がり、その冷たさが肌を焼くように滲んでいった。
「そ……そうですか。カサンドラ嬢は、きっと美しく着飾っておられたのでしょうね。……何色のドレスを身に纏っていらしたのですか?」
焦りが舌先を追い越す。
笑顔を作る口元すら引きつっているのを自覚していた。
それでも必死に、何とか繋ごうと問を重ねた。
レギュラスの返答は、乾いた刃のように短い。
「……さあ。忘れました」
「っ……」
ほんの一瞬、息を呑む。
忘れるはずがない。婚約者と並び、多くの視線を浴びたはずの舞踏会で。
それを「忘れた」と撥ねる声音が、何より淡々と鋭かった。
心臓に小さな棘が刺さる。
それでも、会話を途切れさせればすべてが沈黙に呑まれてしまう。
だから、また無理やり声を重ねた。
「では……美味しいものは召し上がりましたか? その……お菓子や、料理など」
声は小さく上ずり、言葉の端が掠れていく。
自分でも愚かしいと分かっていながらも、場をつなぐために繰り出す問い。
「……それなりに」
またしても短い返答。
それ以上を語るでもなく、笑うでもなく、声の抑揚は氷のように平らかだった。
アランの喉の奥で、何かがきしむ。
会話は一瞬で閉じられ、取りつく島もなくなっていく。
必死でほどいた糸が空しく弾け、腕の中で胸がぎゅっと縮まった。
その時、気づいてしまう。
押さえつけているはずの手に、もう力が入らなくなっていることを。
ほんのわずかな隙間を縫って、するりと滑り込む指先。
布越しに忍び込んでくる熱は、自分の意志よりはるかに確かで強い。
腿をなぞられる。
背筋を奔るのは、ぞわりとした感覚。
一瞬で首筋から耳の下までが熱に染まり、抑えていた声が喉に詰まった。
「……っ」
驚きと羞恥がいっせいに噴き出す。
けれど、声にはならなかった。
――やめなければ。
頭の中で警鐘が響く。
このままではいけない。
わかっているはずなのに、声を出す勇気がどうしても持てなかった。
押しとどめる力はほんの少しずつ弱まり、無自覚のうちに緩んでいく。
布の下で忍ぶ動きだけが確かさを増し、彼の意志に、彼の所有の力に、静かに絡め取られていった。
「……」
表向きの会話は、舞踏会や食事といった空々しい話題。
それを繕う声が何度も弾け、消える。
しかし、本当の「会話」はすでに布の下で、言葉ではなく熱と緊張で交わされていた。
生徒たちの視線。
好奇心を帯びた囁きの予感。
ほんの一瞬の違和感で、誰かに悟られてしまうかもしれない。
それが何よりも恐ろしいのに――。
アランは、ただ布の下に広がる温もりに震えながら、声を殺して首を振り続けることしかできなかった。
暖炉の火が爆ぜる音が、妙に大きく談話室に響いた。
それは他の誰にとっても平凡な夜の音。
けれどアランにとっては、今まさに張りつめた秘密が破られるのではないかと心を脅かす鐘の音に思えた。
彼女の手はまだ彼の指を押さえている。
けれどそれは拒絶ではなく、かろうじて残された最後の弱い抵抗にすぎなかった。
談話室に残る声が、深夜の帳に吸い込まれるように一つ、また一つと消えていった。
「おやすみなさい」「いい夢を」――そんな決まり文句が交わされるたび、アランもまた作り物のような微笑を浮かべて小さく答えた。
だが胸の奥は静まらない。返す言葉とは裏腹に、ざわざわと黒い波が押し寄せる。
暖炉の火はまだ赤々と燃えている。
けれど部屋を出て行く生徒が最後の一人を数えたとき、炎の揺らめきさえ過敏に大きく感じられた。
階段を軋ませながら背中が消えるのを見届けたその瞬間――。
レギュラスはためらいなど一片もなく、彼女へと身を傾けた。
唇が強引に奪われる。
驚きに息を呑む間もなく、柔らかな粘膜に押しつけられる熱と重い呼吸の圧。
「……んっ……」
戸惑いと共に、小さな声が零れてしまう。
濡れた吐息の隙間を縫うように舌が滑り込み、唇をこじ開け、奥深くへ侵入してきた。
その動きには理性の磨きも礼儀の緩急もなかった。
ただ数日の離別と試験の緊張、積み重ねた距離――すべてを埋め合わせるかのように、爆発する衝動そのものだった。
冷静な自分の心が一方でささやく。
――何をしているの。自分はいったい。
けれどその声は、彼の熱に呑まれていく。
頭は白く塗り潰され、抗う言葉は口の奥で溺れ、少しずつ思考がほどけていく。
唇が離れて一瞬の呼吸が戻ったとき、目の前には灰色の瞳があった。
まっすぐに、彼だけを見据えるその瞳。
そこに映っていた自分の顔は、目を背けたくなるほどに露骨だった。
――求めている。
情欲に歪み、誰よりも分かりやすく欲を晒した、自覚のない顔。
頬が赤く燃え、耳まで熱くなる。
「…… アラン」
低く囁かれた名が耳朶を打つたび、耳の奥が焼けるように灼熱を帯びた。
名を呼ばれるだけで縛られる。逃げ場は消える。
気づけば、ソファの背に押し倒されていた。
逃げる余地のない狭い空間に身体が沈み込む。
羽織った布がずり落ち、短いスカートの布越しに金具が一つずつ外されていく。
かちゃり。かちゃり。
小さな音が静寂に響き渡り、それは現実の杭として彼女の心臓を刺す。
ああ、本当に今、自分は取り戻せない場所へ踏み出してしまっている、と。
溢れかえる熱に、微かに走る痛み。
全身が糸のように張り詰め、緩み、そしてまた痛みに震える。
これは果たして愛なのか。
それとも、欲望という獣が本能のままに食らいついているだけなのか。
――答えは、どこにも見つからなかった。
視界が熱で揺れ、呼吸は彼に支配される。
溺れるような感覚に流され、どこまでも沈んでいく。
抱かれているはずなのに、寄り添われていると信じ切ることはできず。
温もりはあるのに、その温もりの意味が掴めない。
愛情と本能。その境界は霧のように曖昧で、掴もうとするたび指の間から崩れ落ちていく。
結局、アランは曖昧な距離感に取り残されたまま、
抗うでもなく、受け入れるでもなく。
ただ彼女を惑わせ続ける霧の中で、ひたすら震え続けていた。
暖炉の火はなお燃えている。
けれどその赤は、彼女へ温もりを与えるどころか、己の曖昧な心をさらに照らし出し、影を濃くしていくばかりだった。
――すべてが終わった。
談話室には深い沈黙が満ちていた。
暖炉の中で赤く燃える薪が、ぱちぱちと小さくはぜる音だけが残り、時折、火の粉がオレンジ色の瞬きを作って天井へと弾ける。
積み上げられた本や古いソファ、壁にかけられた装飾品さえも、炎の光を受けてぼんやりとした影を伸ばし、夜の静けさを一層際立たせていた。
足元には床へ落ちたブランケットが無造作に広がり、先ほどまでの熱の痕跡を主張していた。
ソファの上にはまだ荒い呼吸が漂い、ため息ともつかぬ吐息が重く絡んで空気を滲ませている。
レギュラスは背凭れに深く身を預け、ひとつ、長い呼吸を吐き出した。
その灰色の瞳は柔らかく細められ、整った横顔には珍しく安堵と満足が浮かんでいた。
端正な頬をわずかに緩め、穏やかな吐息に混じる熱が「欲し、求め、得た」ことを確かに物語っている。
彼にとって、求めてやまなかった距離はついに埋められたのだ。
その充足感が血潮になじむように、彼を内側からゆるやかに満たしていた。
だが―― アランは違った。
全身は鉛のように重く、目の奥には眠気ではない虚ろな霞が広がっていた。
指先にはまだかすかな熱が残り、肌の幾らかは彼の温もりを刻んでいるのに、心の奥はどこか空虚で冷えたままだった。
寄り添われ、抱きしめられる安堵。
本来なら幸福と呼ぶべきはずのものが、なぜだか胸の奥まで届いていかない。
触れる温かさと心が乖離している。それが一層の寂しさを生む。
――これは本当に、愛なのだろうか。
互いを大切に思い合う証なのか。
それとも、ただ欲という名の衝動に身を任せただけなのか。
答えは曖昧で、どこにも見つからなかった。
痛みとも疲労ともつかない鈍い感覚が身体の奥に残り、心には濃い霧のような重さがまとわりつく。
言葉を紡ぐ気力すら削ぎ落とし、ただ静かに沈黙へと押し流されていく。
「…… アラン」
名を呼ぶ声。
レギュラスの声音は柔らかく、どこか甘えるような余韻を伴っていた。
それは彼が幸福に酔っていることを嫌でも伝えてくる。
その幸福に浸る彼の姿と、自分の空虚さとの温度差が、胸の奥を締めつけた。
答えなければ――そう思うのに、唇は動かなかった。
一度、かすかに開いた口は、すぐにまた閉じてしまった。
体温が押し寄せるたびに、罪悪感のような苦いものが喉の奥に広がり、声を塞ぎ込んでしまうのだ。
――こんな思いをしているのは、きっと自分だけ。
隣に座るレギュラスは、疑わない。
彼女の沈黙さえも「静かに満ち足りている」と解釈してしまうだろう。
彼はすべてを得たと信じ、その信じることに揺らぎがない。
その確信と、自分の中に生まれている虚無との隔たりが、痛みを越えて、胸をひどく苦しくさせる。
レギュラスはゆっくりと彼女を抱き寄せた。
その腕は驚くほど熱く、驚くほど強かった。
頬をその胸に押し当てられ、アランは力なく目を閉じる。
――まるで見えない鎖に巻き付けられているように。
心は疲れ切り、反発のための力は残っていなかった。
唱える言葉も、逃れようとする気持ちすら、もう霧散している。
だから彼女はただ、静かにその熱に身を預けるしかなかった。
身を仮に委ねながら、心はどこまでも遠く、手の届かない場所にさまよってゆく。
暖炉の火は静かに揺らめいている。
赤い炎が寄り添う二人を温かく照らし出す。
だが、その光は冷えた胸の奥底まで届かない。
深く沈み、虚ろになったアランの心の闇までは――
誰も、決して照らし出すことはできなかった。
レギュラスの胸の内は、驚くほど静かに満たされていた。
焦燥も苛立ちも、不安に苛む影も、その瞬間には不思議と消え去っていた。
代わりにあるのは、ぬくもりと確証。
彼が求めてやまなかったものを、今まさに掌の内に収めたという実感だった。
思い返せば、ほんの少し前。
アランの瞳が、あの翡翠色の奥で明らかに欲に揺れていたことを、彼は見逃していなかった。
拒絶の気配など一つもなく――むしろ彼女は自然と細い腕を絡め、縋るように抱き寄せてきた。
その反応こそ、レギュラスを高みに導く確かな証だった。
―― アランも、自分と同じように求めてくれていた。
そう信じるには十分すぎるほどの熱が、彼女の中に晒されていた。
誰にも触れられぬはずの奥深い真実を、自分だけが知ってしまった。
唯一の特権。
その独占こそが、彼の誇りであり、渇望を満たす甘美な水だった。
「…… アラン。愛しています」
囁きは自然に唇から零れた。
「好きだ」という言葉はあまりに幼く、軽すぎた。
自分の中にある想いは、とっくに淡い憧れを超えている。
それはもっと濃く、執拗で、切実で、手放せぬものだった。
だから「愛している」――その言葉こそ、この胸に滾る熱にふさわしかった。
横たわるアランは、疲れ切ったように小さく胸を上下させていた。
額にかかる髪が浅い呼吸で揺れ、肩先は無防備に落ちている。
眠りへと沈みかけ、半ば開いた唇から漏れる息は熱を纏い、甘やかに響いていた。
レギュラスはその隙間へ、軽やかに口づけを落とした。
「……っ」
その瞬間、微かな呻きとともにアランの肩が震えた。
翡翠の瞳が揺れる。
眠りの底から一瞬で引き戻された彼女は、驚いたように瞼を震わせ、迷子のように視線を漂わせた。
その仕草のあまりの愛らしさに、胸に湧き上がるのは優しさと――同時に、もう隠す必要のない強烈な加虐心だった。
愛しいがゆえに試したくなる。
欲しいがゆえに追い込みたくなる。
レギュラスは囁く。
「よかったです?」
その問いは直球だった。
アランの睫毛が震え、視線が迷走する。
耳まで真っ赤に染めながら、何も言えずに唇を固く結ぶ。
それは彼女にとって、とんでもなく恥ずかしい問いだった。
答えられるはずがない。
しかし、そんな無言さえ愛しく思えてしまう。
「……よかったです?」
今度は彼女の視線を捕え、逃さないように正面から迫る。
真っ向から覗き込む灰色の瞳に、アランは観念したかのように目を合わせてしまった。
その瞬間、翡翠の奥が真っ赤に濁り、羞恥と混乱とを隠し切れずに震えた。
耐え切れず、レギュラスはくすくすと笑った。
あまりに可愛らしい。
あまりに無防備だ。
羞恥に覆われたその表情は、それだけで十分すぎる答え。
彼女は声にせずとも、すべてを語ってしまっていた。
それが快楽であろうと、愛であろうと。
自分の腕の中で赤面し、目を反らすことができないという事実――それが雄弁に物語っていた。
どこまでも愛おしく、そして絶対に手放せない。
鎖のように強く想いを絡ませ、彼はその温もりを確かめるように、再び彼女を抱き寄せた。
暖炉の火がぱちぱちと鳴る。
橙色の光は二人の影を揺らし、一つに絡める。
その影の主導権は、今や完全に彼のものだった。
試験の結果が、ついに張り出された。
朝の大広間は、いつも以上にざわめきに包まれていた。
揺れるカーテン越しに射し込む冬の光に、羊皮紙に書かれた名前と点数が白々と照らし出される。
群がる生徒たちが一斉に掲示へと押し寄せ、歓喜の声や落胆の呻きが入り混じって波のように広がっていた。
アランも、その一角に紛れ込みながら視線を走らせた。
胸の奥が不自然なほど早鐘を打ち、指先にまで小さな震えが伝わっていた。
――やはり。
主席に刻まれていたのは、レギュラス・ブラックの名。
ずらりと並んだ科目の成績。そのすべてに最高点が記されている。
まるで「当然」だと告げるかのように、彼の名は揺るぎなく一番上にあった。
そして当の本人は、ざわめく人々を尻目に涼やかな表情を崩さなかった。
灰色の瞳を柔らかく細め、控えめに口元を上げる。それは歓喜でも驕慢でもなく、冷静に結果を受け止める者の顔――「完璧な人間」の姿だった。
「……さすがですね、レギュラス」
アランはかすかな声を漏らした。
その賞賛は紛れもない本心だった。
試験の最中でさえ、彼はどれほど彼女を求めてきたことか。
そのたびに勉強の手を止めさせられ、流され、時間を犠牲にしてきた。
それでもこの結果。
一度の揺らぎもなく頂点へ立ってしまう。
羨ましさと同時に、どうしようもない遠さを思い知らされる。
隣に立つレギュラスは、淡く微笑んだまま彼女の肩へと腕を回した。
「アラン。あなたも十分に立派ですよ」
褒める声音は穏やかで、柔らかく耳を撫でていく。
だが、その響きはどこか「従者を褒める主人」のように自然で、無自覚に上下を隔てている。
そのさりげない仕草ひとつさえ、アランの胸をひそかに締めつけてゆく。
確かに、自分の順位は悪くなかった。
上位に名を連ねる結果は得られた。
けれど、思い描いた理想にはまだ遠く届かない。
必死に詰め込み、幾晩も心身を追い詰めた日々を思えば、この位置で満足できるはずがなかった。
そして……それ以上に。
どれほど努力を重ねようとも、結局は彼の才覚に届かないのだ、という現実。
それが不意打ちの刃のように胸へ突き立ち、冷たく、鋭くあかしを刻む。
視線は自然と動き、掲示に刻まれた別の名へと移った。
――ジェームズ・ポッター。そして、そのすぐ下にシリウス・ブラック。
いつも肩を並べ、互いを鼓舞し合うように輝き続ける二人の名。
紙の上でも、そしておそらくその未来でも、光のようにひときわ眩しく刻まれた存在。
遠い。
やはり自分には遠すぎる。
どれほど伸ばそうとしても届かない、安全圏の向こうに閉ざされた光だ。
歩み寄る努力さえ、滑稽な幻想ではないかと思わされる。
並び立つ資格など、はじめから持ち得ないのだと、無慈悲に告げられている気がして――胸がぎりぎりと締めつけられた。
「……必ず迎えに行く」
あの夜、シリウスがくれた言葉が耳奥に蘇る。
少し前までは、必死にその声を信じようとした。
信じたい思いと、無理に決まっているという諦めが拮抗し、揺らぎの中に希望の余地があった。
けれど今は違う。
張り出された羊皮紙がすべてを裏切る。
最高位の成績を重ね、未来へ向かって輝く彼と――ただその背を追いかけ、もがくしかない自分。
その隔たりは残酷すぎた。
信じるにはあまりにも突き付けられる現実が大きく、鋭すぎた。
――無理だ。
翡翠の瞳が揺れる。
視界が水に滲むようにぼやけてゆく。
歓声に満ちた広間の喧噪が、彼女の耳には一切届かない。
胸に響くのはただ、自分自身の鼓動だけ。
ずしん、と重く、痛く打ち付け続ける。
その音は彼女に静かに告げていた。
光を目指すのは、もうやめた方がいい、と。
遠すぎる想いに縋るのは、きっと愚かしい、と。
沈む思いを抱えたまま、アランはただ人混みの中で立ち尽くし、孤独の影に包まれていった。
