1章
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シリウスの声は、まるで夜風のように軽やかだった。
「なあ、聞くか? こないだジェームズと一緒に、城の中を探検したんだ」
湖畔の月光を背に語られる声は少年らしく弾んでいて、そのひとことに、アランは思わず目を丸くし、しおらしく小さく頷いた。
シリウスの話はいつだってそうだ。
胸を引き込む光を放ち、聞くものを自然とそこに連れて行く。
「ほら、あの動く階段あるだろ。夜に忍び出してさ、ジェームズと二人であっちへ行ったんだ。
……そしたら勝手に動きはじめて、俺たちを別の階へ運んじまってな」
灰色の瞳が楽しげに細められ、笑みの弧を描く。
言葉に合わせて、実際に階段のきしむ響きや埃の匂いまでもが脳裏に浮かぶようで、アランは目を閉じて想像に身を委ねた。
「辿り着いた先は行き止まりかと思ったんだが、壁の影に隠し通路があってさ。
そこは埃だらけで、何年も誰も通ってないみたいだった」
声はさらに快活に弾み、冒険の熱がそこに再び蘇る。
「中には古い鎧がいくつも並んでて、がしゃんがしゃん、勝手にぶつかり合って音を立ててな。ジェームズと俺は慌てて杖を抜いて『静かに!』なんて囁き合ったんだが、逆に余計うるさくなっちまって──結局フィルチに見つかりかけて、二人で必死に逃げ出したんだ」
その情景が目に浮かぶようで、アランの唇から自然に笑みが零れた。
思わず手で口許を押さえ、それでも小さな笑い声が洩れてしまう。
「……素敵ね」
囁くように言う声に、シリウスの唇が大きく綻んだ。
「だろ? 本当にそう思うよ。──俺は、いい友達を持った」
その言い方が、アランの胸をさらに温かくさせた。
彼は常に光であり、その光に周囲の人間が自然と集まっていく。
けれど彼はその事実を誇示しようとはしない。
煌めきの只中にありながら、仲間と笑い合うことを嬉々として「友」と呼び、誰よりも大切に抱く。
その真直ぐさに、アランの心はまた震えた。
やがてシリウスは、ふっと真剣な表情を見せる。
夜の湖面に映る月をじっと見つめ、声を低くした。
「卒業したら……俺は闇払いになろうと思うんだ」
「……!」
その言葉に、アランの胸が大きく跳ねた。
恐怖にも似た震えが、心臓を掴んだ。
――闇払い。
それは純血主義を正面から否定し、闇の魔法使いたちに立ち向かう存在。
魔法界の闇と真正面に戦い続ける、過酷な道。
それはブラック家の在り方に徹底的に背を向ける生き方だった。
オリオンも、ヴァルブルガも。
そしてその血を誇りとする一族の名を、すべて敵に回すことになるだろう。
想像しただけで、足元が差し込む冷えに崩れそうだった。
どれほどの断絶と怒りが彼を待ち受けているか。
その未来の険しさに、アランは息をひそめ、喉の奥に冷たい硬さを感じた。
けれど。
視線を横に移したとき。
満月の光を背にしたシリウスの眼差しは、不思議なほど澄んで揺らぎがなかった。
未来を恐れぬ少年の瞳。
光を宿し、背くことでしか掴み得ぬ正義を、まっすぐに見つめていた。
――きっと、この人なら。
そう心が告げる。
彼なら本当に闇払いとなり、世代を導く光となれるだろう。
荒れ果てた闇を切り裂き、新しい魔法界を切り開いていける。
その確信があった。
ただ。
同じ未来の先に、自分は位置しているのだろうか。
彼と並ぶ資格を持っているのだろうか。
純血主義という枷に囚われた自分が。
血の運命に縛られてなお抜け出せない自分が。
シリウスと共に、すべてを敵として立ち向かっていけるだろうか。
胸の奥に、すくむような不安がこみ上げた。
夜風に吹かれた手指がひどく小刻みに震えている。
だが――それでも。
この人が好き。
ただその事実が、今の自分を救う唯一の答えだった。
全てを敵に回す勇気はまだ持てない。
けれど、好きだという事実そのものは、揺るぎなく在る。
湖面に反射する月光の照らし出す道筋は、幼い恋心をそっと抱き締めるように、静かに輝いていた。
湖面に映る月は、ひと筋の光の道を描いていた。
静かな湖水の揺らめきに従って煌めきは緩やかに揺れ、銀の橋のように夜を渡って遠くへと続いていた。
その道の先を見定めるかのように、シリウスは湖畔に立ち尽くしていた。
肩越しに吹きつける風に黒髪が揺れ、その横顔は月光に縁取りされている。
口にした言葉は短く、しかし確かに響き続けていた。
――闇払いになる。
胸の奥にまだ、その音色が残っている。
アランは立ち尽くしたまま息を詰め、心臓の高鳴りを抑えられなかった。
闇払い。
それは闇の魔法使いたちへ立ち向かう者。
純血主義を旗に掲げる多くの名家を敵に回す存在。
彼が選び取ろうとしている未来は、誰の後ろ盾もなく、ひとり荒野を渡るように過酷で孤独だった。
オリオン、ヴァルブルガ。
ブラック家の冷たい目と執拗な誇り。
同じ屋敷の重圧を知るアランだからこそ、その報復の恐ろしさを思うだけで膝が竦みそうになる。
――そんな道を、自分は並んで歩けるのか。
もし彼の手を取ったなら。
その刹那から自分の立場もまた逆風に晒される。
血と誇りに縛られた一族を敵に回す覚悟を、本当に持てるのか。
背をなぞる風は冷たくて、身体が小さく震えた。
息が喉で絡み、肩を竦める仕草しかできない。
「……できない……」
心の奥で小さく囁いた。
怖い。
仕打ちや報復が、自分自身へどんな形で降りかかるのか想像するだけで、肺が固くなる。
しかし――視線をふと上げた瞬間、すべての恐れが遠のいた。
月光に照らされたシリウスの横顔。
未来を恐れず、ただ真っ直ぐに光を射抜き見据える瞳。
そこにあるのは無鉄砲な若さの炎にも似ているけれど、それ以上に希望そのものの輝きだった。
「……シリウス」
名を呼ぶだけで喉が詰まり、胸に熱が広がる。
好きだ。
この人と共にありたい。
その一点は揺らがなかった。
だが同時に理解していた。
その想いが大きくなればなるほど、選ばねばならぬ未来や犠牲もまた過酷になる。
足が竦むのは己の弱さゆえか。
それとも、まだ握るには勇気が足りないからか。
答えは出ない。
けれど目の前にいる彼の光だけは、ただ揺るぎなく輝いている。
アランは小さく一歩を踏み出した。
月明かりに背を押されるまま、静かにシリウスの傍らへ。
彼の背に寄り添い、その肩越しに湖面へ長く伸びる月の道を見つめた。
言葉にはならぬ想いが胸で渦を巻き続ける。
――いずれは、その手を取る勇気を持たなければならない。
――震えを越え、未来を共に担うと誓える日が来なければならない。
だが、それは今すぐではない。
今はただ。
光を見据え、歩み出そうとする彼の横に立ち、せいいっぱいに寄り添うこと。
それで十分に思えた。
湖面の月は揺れ、道は波打ちながらも途切れることなく続いていた。
その光に重ねられた二人の影が、ひとつに重なり合い、夜の湖畔に静かに伸びていった。
朝の大広間は、活気に満ちていた。
食器が触れ合って立てる乾いた音が絶え間なく響き、パンを裂く香ばしい匂いや温かいスープの湯気が漂う。
生徒たちが談笑するにぎやかなざわめきは、石造りの高い天井に大きく反響していた。
窓から射す朝日が銀器の上で反射し、きらめいた光が視界を染める。
アランは思わず目を細めた。
――また、今日が始まる。
心の奥から吐息のような思いを零し、半ば無意識のうちに立ちあがる。
手が伸びたのは、レギュラスの皿だった。
果物を取りに行く。
それはもはや癖のように染みついた動作であった。
ここホグワーツでは、そんなことをする必要はない。
使用人の真似事だと、何度も言われた。
レギュラスさえ、最初はその癖を止めようとした。
だが今では、彼も無理には言わなくなっていた。
当然のように従って動くその姿は、彼にとって「在るべき秩序」の証にさえなっていたから。
歩みを進めるアランの耳に、ひそかな声が忍び寄る。
「アラン・セシールが、レギュラス様と一緒にいたの見たわ」
「夜、ずっと談話室で二人きりだったんだって。降りていきにくくて困ったのよ」
「……あの二人、いったい何してるんだろうね」
囁き合う声。
くすくすと忍び笑う気配。
心臓が、一瞬で凍りついた。
――秘密だったはずなのに。
誰にも見られていない。誰にも話していない。
そう信じていた。
信じていたものが、いとも簡単に崩れていく。
地の底から冷たく逆流してくるような衝撃が胸を走り抜け、手の先まで震えを広げた。
知られてはいけないことが、知られている。
ただそれだけで、世界が崩れるのを感じた。
振り返って否定したい。
違うと叫びたい。
――けれど、声は喉で凍りつき、氷のように固まって外へ出なかった。
果物を盛る手がわずかに揺れる。
視線を落とすより他なく、背後に注がれる視線を感じながらも振り返ることはできなかった。
冷や汗に似た感覚が背を伝い、息が浅くなる。
「…… アラン。遅いから、心配しました」
突然、耳を撫でた声。
振り返れば、いつの間にかレギュラスが背後に立っていた。
淡い灰色の瞳は、相変わらず静かに澄んでいる。
彼は自然な仕草でアランの手から皿を受け取り、その背に掌を添えた。
決して他人の目には荒々しくは映らない動作。
ただごく自然な保護のような優しさで。
「さあ、戻りましょう」
端正な微笑みを浮かべながら告げる。
その笑顔は周囲の生徒の憧れを集め、完璧な美と品格を備えたものとして映るだろう。
けれどアランにとって、その寄り添いは檻そのものだった。
優しさの重さに胸は圧し潰される。
温もりの内に忍び込む影は、冷たい恐怖の鎖となって内側を締め付ける。
――どうしたら、この底知れぬ恐怖から逃れられるのだろう。
――どうしたら、本当の意味で救われるのだろう。
一瞬だけ、レギュラスにその答えを求めそうになった。
今にもその柔らかな幻に縋ろうとしていた。
だがわかってしまっている。
彼が差し伸べる手は、救いではなく、閉じ込める檻にすぎない。
求めるべき救いは、ここにはない。
そう諦めながら、アランは彼の掌に導かれて再び席へと戻っていった。
銀器の軽やかな音が周囲に響き続ける中、胸の奥だけは鉛のように重く沈んでいた。
レギュラスは、周囲の視線に敏感だった。
誰も言葉にはしない。
けれど、大広間や廊下、授業中のささやかな視線の揺れから、囁きが少しずつ広がり始めていることを悟っていた。
ほんのくすくす笑いや、気取った眼差し。
それらはすでに「気づき始めている」という兆しだった。
その囁きがアランをどれほど追い詰めているかも、十分に理解している。
彼女は「気づかれた」という事実そのものを恐れる。
それがいずれオリオンやヴァルブルガに届けば、事態は面倒しのぎどころでは済まなくなる。
だからこそ――本来ならば律すべきなのは自分自身。
節度を保ち、距離を置き、彼女を守るために冷静さを決して欠いてはならない。
理性の天秤が正しく告げるのは、常にそれだった。
――けれど。
「せっかくホグワーツなのだから」
その甘い囁きが、どうしても心を揺るがす。
あの閉ざされた屋敷の檻では、微笑み合うことすら許されなかった。
ホグワーツにいるこの時間だけは、束の間でも、自分の本心に従えば良いのではないか。
抑え込んできた感情が、解き放たれた水のように胸を満たしていった。
――ずっと、触れていたい。
彼女が拒まない限り、求めることを止められる術など自分には存在しなかった。
「アラン、ここ……」
机に並べられたノートに身を寄せ、彼女が解きかけていた演習の答えを指でなぞる。
「さっきの計算、逆に掛けてしまっている」
アランは目を瞬かせ、はっとした表情を浮かべる。
そして小さな笑みを漏らした。
「あ、本当ですね……さすが、レギュラスね」
その瞬間、髪がひと筋、彼女の頬へと落ちていた。
レギュラスは自然な仕草で、その一房を指先に掬い上げ、耳へとそっと掛けてやる。
――昔なら。
それだけで、彼女は驚いて動きを止めてしまっただろう。
石のように固まり、目を見開いて、息をひそめたはずだ。
だが、今は違う。
彼女はペンを止めない。
不思議そうに瞬きしながらも、当たり前のように書き続け、ページを進めていく。
――慣れてしまったのだ。
何度も繰り返した触れ合いが、彼女にとってもはや「異常」ではなく「日常」へと変わっていく。
怯えではなく、自然さがそこに芽生えつつある。
その事実は、胸をあふれるほどに満たした。
彼女が自分を受け入れてくれているという実感。
寄り添うひとときが日常と呼べるくらいに馴染んできている幸福。
理性の隅で声がする。
「控えよ。距離を取れ。守るのだ」
その声は確かに存在する。
だが、その横顔を見るたびに、その声は跡形もなくかき消えてしまう。
すべてを賭しても、この重なりを失いたくはなかった。
どれほど危うい橋を渡ることになろうとも。
秘密がどれほど囁かれようとも。
――この慣れを、この当たり前を、自分は絶対に手放さない。
彼女が横顔を上げず筆を進める音がささやかな律動となり、レギュラスの胸にはひどく甘やかな満足が広がっていった。
緑がかった薄暗い灯りの下で、アランはひたむきにペンを走らせていた。
静けさを湛えた図書室の一角。机に広げられたノートには細かく文字が刻まれ、必死に積み重ねた演習の痕跡が並んでいる。
横に座るレギュラスが、彼女の視線を追うように紙面を覗き込み、誤りを見つけるたびに指先で赤い線を引いた。
その指が触れるたび、正しさがくっきりと浮かび上がる。
何度も寄せられた指先との距離は、もう怖くはなかった。
――慣れてしまった。
その事実が胸を揺らしていた。
最初は堪え難い緊張だったのに、いまは自然で、当たり前で。
その慣れ自体が恐ろしいのだとアランは知っていた。
そのときだった。
「やあ、相変わらず仲がいいね」
軽やかに割って入る声。
アランが顔を上げると、そこにバーテミウス・クラウチが立っていた。
いつも通りの飄々とした笑み。
彼の浮かんでいる笑みは他愛ない冗談を携えていて、けれど容赦のない軽快さで空気を揺らす。
「勉強熱心なのはいいことだ。……でも、課題より恋文の方が進んでそうに見えるな」
あまりにも直截で、あまりにも容赦のない冗談。
アランは息を止めた。
ペンを握る手が堅く固まり、視線を落としたまま、頬が燃えるように熱を帯びていく。
耳まで赤く染まっていき、羞恥の熱を必死に押し隠そうとするけれど、どうにもならなかった。
対照的に、レギュラスは表情ひとつ動かさず答えた。
「……あなたは暇が多いようですね、バーテミウス」
淡々とした声。
そこには余裕すら漂う。
「いやいや、気づく人間は多いって話さ」
バーテミウスは肩を竦め、大仰に目を細めて笑う。
「深夜まで談話室にいた、って噂はもう回ってる。……まあ、僕は羨ましい側だけどね」
その言葉に、アランの心臓が小さく跳ねた。
冷たくなった指先を、必死に組み合わせて押さえ込む。
――やっぱり、みんな気づいていたんだ。
秘密にしているはずだった。
誰にも悟られぬよう必死に隠していたのに。
けれどそれは、もう遥かに広がっているのだ。
「……くだらない噂です」
レギュラスは静かに言い放ち、視線を再びノートのページへ戻した。
その姿は、風ひとつ揺さぶらない冷えた湖の水面のように落ち着いている。
だがアランの胸は違った。
勉強など、とても続けられそうになかった。
“秘密”が他人の口に晒される。
それはあまりにも恥ずかしく、そして何よりも恐ろしい。
唇が震えた。
否定したい。違うと言いたい。
けれど言葉は喉の奥でつかえ、氷の塊のように重く固まり、音にならずに消えた。
バーテミウスは気楽に手を振り、「お邪魔だったね」と笑って席を立った。
背を遠ざける足音が、軽すぎるほどに図書室の静けさを乱していく。
残されたのは沈黙だった。
レギュラスは平然とノートに目を落としている。
ただ黙々と、彼女を導くための赤い線を新たに引きながら、眉ひとつ乱れない。
それが余計に、アランの胸を締めつけた。
どうして。
どうして彼はこんなにも冷静でいられるのだろう。
どうして自分だけが、こんなに怖くて仕方がないのだろう。
答えの見えない問いが、果てしなく心の奥底で渦を巻き続けていた。
緑がかった灯りは相変わらず静かに机を照らしている。
しアランの視界は霞んでいた。
言葉も、本の文字も、すべてが不鮮明に揺らめいている。
震え続ける指先は机にすがるようで、けれど何ひとつ掴めていなかった。
――昼間の、バーテミウスの言葉。
「二人で何をしているのか」
ただ軽く笑われただけの冗談。
それなのに、杭のように胸奥へ打ち込まれて抜けなかった。
笑い話であるはずが、恐怖として沈殿し、暗い影になって消えないまま残り続けていた。
その恐怖を思い出していたはずなのに――。
また抗えなかった。
いや、本当に抗ったのだろうか。
むしろ、自分から拒まなかっただけではないのか。
その線引きさえ分からなくなっていた。
閉ざされた扉。
誰もいない隅の部屋。
石壁が冷たいはずの空間が、熱で満ちていく。
導かれるようにして、レギュラスの手に引かれ、重なり合う。
その最中、胸の奥にひしひしと嫌悪が膨らんだ。
――浅ましい。
そう思うたび、息は余計に乱れた。
夢中になってしまう自分自身が、薄汚れていくようで怖かった。
本来は違ったはずだ。
互いに「好き」という気持ちを確かめ合う。
愛の証のように、美しく結晶化されるべきもの。
そう、信じていた。
なのに。
現実は、深い理解もないまま流れにのみ込まれていく。
快楽がからめ取り、思考は遠ざかり、意識は浅いところで浮き沈みを繰り返す。
夢中に飲み込まれていく自分が、どうしようもなく怖い。
まるで小さな動物が本能に追われ、逃げ場もなく駆けるように。
自分はただ欲望に彷徨い、淀みの中で息を荒げるだけ。
――私は、一体どこまで堕ちていくのだろう。
「…… アラン、何を考えているんです?」
耳元に柔らかく落ちてきた声で、はっと我に返る。
心を覗き込むその響きに、ぞくりとする。
「……べつに、何でもないわ」
首を振るしかなかった。
だって、自分でも何を考えているのか、答えを持てていなかったから。
ふと過った思考。
――周りの人たちも、こんなにも訳のわからない感情に突き動かされて結び合うのだろうか。
相談できる相手はいない。
語り合える友もいない。
レギュラス以外に経験もなく、比べる基準すらなかった。
思考の底に、違う名が滲んだ。
――シリウス。
あの光に似た笑みを浮かべる人なら。
すべてを包み込み、ひとつの宝のように扱ってくれただろうか。
大事に、愛おしく、大切なものを抱く眼差しで、自分を見つめてくれるだろうか。
そう想像した瞬間、鋭い痛みに子宮の奥がきゅっと縮み、思わず声が喉に引っかかった。
生々しい感覚が、さらに強い罪悪感を呼び寄せる。
自らを容赦なく責め立てた。
「……」
気づいたときにはすでに、手は固く絡め取られていた。
レギュラスの体温が伝わる。
熱を帯びた掌のぬくもりから、燃え立つような気配が広がり、全身を蕩かしていく。
その度に身体は勝手に応え、腕や腰が震えながら彼を受け入れてしまう。
唇から声が零れる。
止められない。
熱に浮かされた吐息は部屋に溢れ、壁にまで染み渡るようだった。
それは自分の声なのに、自分の意思ではなかった。
耳を塞ぎたかった。
――私はこんな声を出したくないのに。
心と体があまりにもずれている。
拒みたいのに。
抗いたいのに。
身体だけは、裏切るように応えてしまう。
その乖離が、何よりも恐ろしかった。
胸に残るのは、愛でも幸福でもなく、底知れぬ不安と、どうしても消せぬ恐怖だった。
静かな部屋に、ようやく呼吸の音だけが残った。
重く甘やかな熱の余韻が、まだ空気のなかに渦巻いている。
開け放たれていない窓と厚いカーテンがその熱を閉じ込め、互いの吐息と体温だけが部屋を満たしていた。
レギュラスは片腕を額に乗せ、深く、深く何度も呼吸を繰り返した。
そして静かに短く笑みを零す。
「…… アラン……」
ただ名前を呼んだだけ。
けれどその声には、言葉にならない安堵も、満たされた満足も、そして紛れもない愛しさも込められていた。
彼にとってこの瞬間は救いだった。
彼女を求め、応えられ、いまこうして隣にいる事実が、何よりも確かな幸福の証だったから。
しかし――その横で。
アランは背を向けていた。
身体をシーツでくるみ、身を小さく丸めている。
頬はまだ熱を帯び、吐息も乱れて残っている。
それなのに、その肩はわずかに震えていた。
――どうして、拒めなかったんだろう。
――どうして、ただ流され続けてしまうんだろう。
心の奥で響く声が、自分自身を容赦なく責め立てる。
意識の底から責め言葉が這い上がり、そのたびに胸が苦しく絞られた。
快楽に呑まれて夢中になった自分が情けなくて、堪らなく恥ずかしくて。
堪えきれず、瞳の奥の熱は涙となってにじんでいた。
これは本当に「好き」から生まれた行為なのだろうか。
彼を愛しているから、ただその証として重なったのだろうか。
――違う。
孤独から逃れて、恐怖を埋めるために、縋りつくように手を取ってしまっただけなのではないか。
そんな思いの影が広がるたび、胸はさらに軋み、呼吸は浅く苦しくなった。
ひとりになりたい。
けれど、ひとりになるのは同じくらい怖い。
矛盾が胸を裂き、言葉にならぬ痛みとなって、彼女の瞳を曇らせていった。
シーツに包まれた背へ、そっと手が伸びた。
レギュラスの掌がシーツ越しに肩に触れる。
「……大丈夫ですか」
静かな問いかけ。
その声音は優しさを帯びていた。
けれど―― アランは、その問いに応えることができなかった。
「……ええ」
掠れた声で、わずかに言葉を紡ぐ。
震えていることに気づかれるのではないかと、答えを絞り出す。
本当は、大丈夫なんかじゃない。
――そう言えたなら、きっと救われただろう。
けれど今の自分には、その勇気すらなかった。
瞳の奥に滲んだ涙を隠すようにして、背を丸めてじっとシーツに沈み続ける。
レギュラスの触れる手は温かくとも、その温もりが檻のように思えてならなかった。
夜の静寂が続く。
かすかな呼吸だけが交わされるなか―― アランの胸には、ひとり孤立した痛みだけが広がっていた。
その沈黙は、彼女を優しく包み込むよりも、むしろ孤独を際立たせる冷たい鏡のようだった。
翌朝。
大広間には朝の光が降り注ぎ、銀の食器が眩しく輝いていた。
パンを裂く音や、生徒たちの談笑が波のように広がり、いつも通りの活気を醸していた。
けれど、レギュラスの胸の奥は、まだ昨夜の余韻に引きずられていた。
柔らかく重なった吐息。
触れ合った温もり。
抱き締めるたび確かめられる彼女の存在。
それらの記憶が淡く蘇り、今朝の自分を穏やかに包み込んでいた。
心穏やかであることは彼には珍しく、微かに安堵すら感じられた。
――だが、それを冷ますものがすぐに訪れた。
羽音。
煌びやかな食卓を縫うように、灰褐色のフクロウが翼をひるがえし、彼の前へ舞い降りた。
一通の封筒が、端正な動作で置かれる。
丁寧な筆跡。
わずかに漂う高価な香り。
紅い封蝋を目にした瞬間、その胸に影が差した。
――ロズィエ家。
カサンドラ・ロズィエからの招待状だった。
週末に催される宴に、ぜひとも出席してほしい、と。
文面は隙なく整えられ、上流の礼節に満ちていた。
洗練されすぎているからこそ、重さを感じた。
舌打ちをしてやりたい。
その衝動を必死に飲み込んで、彼は封を閉じ、黙って畳んだ。
ロズィエ家の宴に出れば、最低でも三日は拘束される。
その間、アランの隣に座ることも、声をかけることもできない。
――地獄だ。
苛立ちを隠すため、息を整えながら封筒を折り畳む。
そのとき。
「……お呼ばれなのでしたら、お行きになったほうがいいわ」
隣から。
アランの静かな声が響いた。
その調子はあまりに平然としていた。
感情の一片も浮かばぬような、冷ややかな響きすら含んでいた。
胸が、不意に痛んだ。
――行かないでほしい。
少しでもそう思ってほしかった。
惜しむような言葉、それがたとえ嘘でも。
彼の唇は、思わず動いてしまった。
「……何もないんです?」
プライドを気高く誇りにしてきた自分が。
情けなく、縋るような言葉を紡いでしまった。
その事実に内心では顔を覆いたくなったが、もう引き返せなかった。
アランはわずかに目を瞬かせた。
それから問い返す。
「……何もとは、なんです?」
彼は目を逸らさず、小さく息を吸う。
「……嫌じゃないんですか。僕が数日、不在にするのは」
短い沈黙。
時間にすればほんの一瞬。
けれど彼には、やけに長い刹那に感じられた。
アランはやがて視線を伏せ、少し硬い声で答えた。
「……無事に戻って来てくだされば、安心です」
簡潔な言葉。
けれど、それをどう解釈するべきなのか、一瞬で掴むことはできなかった。
しかし、確かに胸に沁みた。
「待っていてくれる」という保障よりも。
「無事に」という願いが彼女の言葉から自然に零れたこと。
それは、飾り立てた愛の言葉よりも真実味を持って、彼の不安を静めていく。
荒れかけていた心に、薄氷を溶かすような優しいぬくもりを与えていた。
レギュラスは畳んだ封筒を強く握り、深く息をついた。
重たくのしかかる家同士の拘束と、ただ一人の少女の、儚いけれど確かな言葉。
その二つが、不思議な均衡を保ちながら彼の胸の奥で釣り合っていた。
レギュラスが数日不在になる――。
その事実が下されたとき、アランは胸の奥でそっと息を吐いた。
ほっと、胸の奥に絡みついていた重石が少し外れるような感覚。
それは決して外へと表情に漏らせるものではなかったが、心の深いところで静かに安堵を覚えていた。
この空白の時間に、自分を覆い続けていた迷いや困惑を整理できるかもしれない。
そう思っただけで、肺の奥まで澄んだ空気が行き渡るようだった。
――きっと彼は、引き止めの言葉を欲していたのだろう。
アランにもそれは察していた。
だが使用人の娘として主に掛けられる言葉は、ただひとつ。
――無事に戻ってきてください。
祈りと言っていいその響き以上でも、以下でもなかった。
だからそう返した。
そうしか言えなかった。
数件の授業をこなし、午後を越えて、放課後。
正式に校を発ったレギュラスの姿を見送りながら、アランは胸の奥に沸き上がる安堵を飲み込んだ。
これまで絶え間なく自分に注がれ続けた視線と、触れられることの緊張から、ようやく解き放たれたような感覚。
だが同時に、その不在はすぐに「空虚」として形を表した。
夕刻の大広間。
煌めくシャンデリアの光が皿やカトラリーを反射させ、生徒たちの声が朗らかに響いている。
けれどアランの斜め隣の席は空いていた。
――いつもそこにあったはずの気配。
――視線や、重たくも確かな存在。
それが抜け落ちてしまったその空間は、奇妙に寒々しく思えた。
手元のスープを口に運んでいた時。
「セシール嬢が一人なんて、珍しいこともあるもんだ」
不意に響いた声。
アランの指先が、小さく震えた。
振り返れば、そこに立っていたのはバーテミウス・クラウチ。
軽やかで飄々とした笑みを浮かべ、何気ない風を装っている。
――この人は、苦手。
何を言い出すのか分からない。
軽やかな微笑みの奥に、どこまで見抜かれているのか分からない。
その曖昧な恐ろしさに、どうしても構えてしまう。
「ええ。まあ――たまには」
微笑みを形づくる。
できる限り自然に、穏やかに。
胸の内を決して悟られぬように、張り付けた笑顔で。
バーテミウスはじっと彼女を見ていた。
やがて、ふっと小さく首を傾けた。
「……どこか、ほっとしてる顔をしてますが?」
「……何がです?」
反射的に問い返した瞬間、胸の奥が凍った。
心臓は急に跳ねあがり、手元のパンさえぎこちなくちぎれていく。
バーテミウスはすぐ肩を竦め、からりと笑った。
「いえ、何となくそう見えただけですよ」
――何となく。
だがその一言でさえ、核心を突かれたように胸を震わせた。
アランは下を向き、知らぬ顔を装いながらパンを口に運ぶ。
けれど心臓は耳の奥で煩く響き続ける。
――この人は、一体どこまで見抜いているのだろう。
軽やかな口調で飾りながら、真っ直ぐ核心を抉ってくる。
まるで見せたくない影の部分を、容赦なく引きずり出されるみたいで――怖かった。
ひと呼吸置いて、バーテミウスはまた飄々と笑った。
「君が寂しそうにしていると知ったら――彼は喜ぶだろうね」
「……」
何も言えなかった。
唇に浮かべた微笑みだけが、自らを守る唯一の盾だった。
実際は、寂しいのではなく安堵している。
その事実を、この男に悟られることだけは――何よりも恐ろしかった。
胸の奥で固く閉ざした秘密を抱えたまま、アランは笑みを保ち続けた。
――会いたい。
胸の奥で焦がれる声が繰り返す。
レギュラスがいない。それだけで、ようやく深く息のできる夜が訪れた。
監視の目も、囁き声も、純血の名に縛る誰かの重圧も……今は届かない。
だから、この隙間にどうしても会いたいのだ――あの光を胸に宿す人に。
アランは大広間の前で立ち止まっていた。
胸の奥で小さく膝が揺れる。期待と緊張がせめぎ合い、指先がわずかに痺れている。
視線を巡らせても、まだグリフィンドールの席に彼――シリウスの姿はなかった。
唇を結び、待ち望む鼓動だけがひどく鮮烈に響く。
その時。
足音と共に現れたのは、ジェームズ・ポッターだった。
彼の隣には、赤毛が光をはじく少女――リリー・エバンスがいた。
優雅で柔らかな微笑みに彩られたその挨拶に、アランは思わず慌てて一礼を返す。
胸が不意にざわついた。
――ジェームズは、いつもシリウスの隣にいる人。
自分が憧れているその光の近くに、当たり前のように寄り添っている人。
けれど今、彼はリリーという少女を横に置き、自然に微笑んでいる。
その意外さが、胸の奥を不思議に揺らした。
「……シリウスかい?」
落ち着いた声で問いかけられ、アランは小さく、けれど何度も頷く。
ジェームズはふっとリリーを見やって微笑んだ。
「リリー、先に席に行ってくれないか」
リリーは頷き、軽やかな微笑みを残して歩み去る。
その優雅な後ろ姿を見送り、二人きりの空気が残った瞬間、アランの胸が固く強ばった。
「シリウスなら――進路相談が長引いてるみたいだ」
ジェームズの言葉に、小さな震えが混じる。
「……闇払いになりたいって、聞きました」
思わずこぼしたその言葉は、昨夜よりずっと心を占めていた懸念と希望そのものだった。
「そうだよ。僕も一緒に目指してる」
そう告げる声に、自然と頷いていた。
二人はいつも並んで歩いていた。
だから同じ未来を見据えて進んでいることも、当然のように思えた。
――もし、自分が女でなければ。
そんな思いがふと胸を掠めた。
もし自分が男の子だったら。
シリウスと肩を並べ、ジェームズのように親友と呼べただろうか。
その想像だけで、眩しさが胸を満たした。
楽しさと羨望と、そして切なさを混ぜ合わせて。
ジェームズの口から語られるシリウスの言葉。
それを耳にするだけで胸が温かく灯っていくのが分かった。
まるで彼の欠片を僅かに分け与えられたようで嬉しくて――けれど。
ジェームズがふと声を落とし、俯いた。
「……君に一つ、確認したいことがあるんだ」
その低い響きに、胸が跳ねる。
アランは緊張のまま、ただ「……ええ」と頷いた。
「君は……本当に想っているのは……レギュラス・ブラックなんじゃないのかなって……見ていて思ったんだ。……そこは、どうなんだろう」
――雷に打たれたようだった。
心臓が止まる。
視界が狭まる。
言葉も、息すらも上手く出せない。
ずっと、思い続けてきたのはシリウスだった。
胸を焦がし、未来を夢に描いてきたのは、彼だった。
けれど、他人から見れば――レギュラスを選んでいるようにしか映らないのだ。
そのあまりにも残酷な事実は、鋭い刃となって胸へ食い込んだ。
しかも、その言葉を伝えてきたのは。
シリウスを最も理解している人。
隣に立つことを当然のように許されている親友・ジェームズだった。
「……そんなこと……ないわ……」
アランはか細く首を振る。
絞り出した言葉は震えていた。
口先だけで否定しながらも、その声には不安と切なさが濃く混じって。
ジェームズは短く「うん」と頷いた。
そして淡い微笑を浮かべながら、静かに告げた。
「……それならいいんだけどさ。親友には、不毛な恋をしてほしくなくてね」
その声が、ひどく温かく沁みていく。
けれど同時に、その優しさは残酷でもあった。
誰を、どんな想いで見つめているのか。
自分自身さえ押し流されて分からなくなっていく。
胸に広がるのは、答えの代わりではなく、ただ絡みつく痛みだけ。
アランは俯いたまま、張りつめた笑みを作るしかなかった。
心が泣き叫ぶ声を、どうしても誤魔化すように。
大広間の喧騒は変わらず続いていたが――その中で彼女の胸だけは、不安と痛みによって深い孤独を抱えていた。
進路相談を終えたのだろう。
大広間の入り口から姿を現したシリウスを見つけた瞬間、アランの胸は跳ね上がった。
人影の多い場所でも、彼の存在だけは光を放つように目に飛び込んでくる。
その背格好、その歩みの軽やかさ、ほんの一瞬で息苦しいほどに胸が熱を帯びた。
シリウスはすぐにアランの姿を見つけた。
驚くほど自然に、少年らしい軽やかな笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
彼の動作一つからあふれる自由の匂いに、アランの呼吸は乱れた。
「アラン! ……おい、ジェームズと何の話してんだ?」
問いかける声は弾んでいた。
それは嫉妬ではなく、素朴で無邪気な好奇心に満ちていた。
隣で肩を竦めたジェームズが軽やかに応える。
「君が遅いから、セシール嬢が退屈してたみたいだよ」
茶化すように言い残し、ジェームズは微笑みを浮かべて歩き去った。
その背に残ったのは、友情の軽妙さを映す柔らかな余韻。
だがアランの耳には、自分だけに聞こえる静かなざわめきが残っていた。
――君が本当に想っているのはレギュラスじゃないのか?
つい先ほどジェームズに告げられた問いが、頭の奥に響き、胸を冷たく揺れ動かす。
答えを見失いかけた心。
ほんの数刻前までの迷いが、再び己を締め付けようとする。
けれど、次の瞬間。
シリウスがこちらへ向けた光そのものの笑みに照らされて、すべては霧散していった。
迷いも、不安も、恐れでさえも――。
――やっぱり。
欲しいのは、この人。
昔から変わらない。
どんな未来でも、導き続けてくれる唯一の光。
「……シリウス。あなたに会いたかったの。だから待っていたの」
言葉は飾りようがなく、ただ胸の奥から零れ落ちた。
震えながらも、確かに真実だった。
その一言に自分の心がすべて込められていた。
シリウスは目を輝かせ、大きな両手でアランの頬を挟み込んだ。
手のひらの温もりが、柔らかな力で彼女を引き寄せる。
至近に見つめ合った顔に、くしゃりと笑いが刻まれた。
「……随分可愛いこと言うじゃねえか」
悪戯っぽいその一言も、無防備に浮かんだ無邪気な笑みも。
端正さよりも素の人間らしさを滲ませたその瞬間こそが、アランには堪らなく愛おしかった。
胸を縛っていた緊張が解けていく。
嘘のように。
そよ風に吹かれた霧がすっと散っていくように。
思わず自分も笑ってしまった。
ずっと張り詰めていた面差しが、自然に柔らかく輝きをまとった。
――この笑顔が好き。
どんな未来を選ぶにせよ、この光を好きだという思いだけは、絶対に偽らない。
胸の奥で、確かにそう願った。
湖面を照らす月の光すら遠ざかるほどに、シリウスの笑顔は彼女にとって唯一の道標だった。
「……シリウス、大広間の中は、少し落ち着かなくて」
小さな声音で告げると、彼はにやりと口元をゆがめ、肩を竦めてみせた。
「なら、抜け出そう。構わないだろ? 少しくらい腹を空かせても」
迷いのかけらすら見せない。
次の瞬間、彼の手は自然にアランの手を取っていた。
大きくて温かな掌に包まれるだけで、心の奥がすっと和らぐ。
二人は人影の絶えた石造りの廊下を歩き出す。
足音だけが乾いた調べのように反響し、時折夜風に揺れた窓ガラスがさざめいている。
大広間の喧騒が遠のき、次第に静謐な空気が二人を包んだ。
――二人きり。
その静けさは、胸に溜め込んでいた思いを解きほぐすようだった。
けれど同時に、耳奥に貼りついて離れない囁きがあった。
――君が想っているのは、レギュラスじゃないのか。
ジェームズの声。
光を映す瞳に告げられた問いは、杭のように胸に残っていた。
追い払おうとして、アランは深く息を吐く。
その沈黙を破るように、シリウスが口を開いた。
「進路の話、してきたんだ。……ジェームズと一緒に闇払いを志願した。教師は驚いていたよ」
彼の言葉はくっきりとした未来の輪郭を描いていた。
揺るぎない瞳の輝きは、月明かりのように澄んでいて、やはりシリウスは光そのものだった。
「……あなたらしいわ」
胸から自然にこぼれたその言葉に、シリウスはわずかに頬を赤くし、照れ隠しのように笑う。
強い光を抱いた彼にも、年頃の少年らしく無邪気に笑う瞬間がある――そのことが、アランの心を温かく包んだ。
――やっぱり、自分が好きなのはこの人。
そう確かに思う。
それでも、あの囁きが胸をくすぶる。
みんなの目に自分は“レギュラスの傍らにいる女”として映ってしまう。
こうしてシリウスの隣に立っているのに、その影を引きずっている現実が。
「…… アラン?」
覗き込む声音。
シリウスが首を傾げ、不思議そうに彼女を見ていた。
「何か、考え込んでないか?」
「……いいえ。ただ」
微笑みをつくり、小さく首を振る。
「こうして、あなたと一緒にいられるのが嬉しいの」
胸を覆う迷いや恐怖も、言葉に乗せれば壊れてしまう。
だからその一部だけを掬い取り、そっと告げる。
言えたのは、たったそれだけ。
シリウスの瞳が一瞬驚いたように見開かれた。
けれどすぐにくしゃりと崩れるような笑顔が咲いた。
子どもっぽく、無邪気で、端正さすら忘れた表情。
「お前ってやつは……ほんと、時々ずるいくらい可愛いこと言うよな」
その姿が、胸に刺さるほど愛おしかった。
アランもつられるように笑ってしまう。
貼りついていた緊張が、夜風に解ける霧のように静かにすっと消えてゆく。
大広間の光から遠く離れた廊下に、二人の笑いだけが響いた。
窓から差す月明かりが、石床に長い影を重ねていく。
二人の影は重なり、揺れ、ひとつになった。
アランは胸に静かに願った。
――どうか、この光を、失わずにいられますように。
その祈りは、夜風に紛れて消えてしまいそうに儚かった。
けれど月光が二人を照らし出し、その光景ごと、永遠に閉じこめてくれるようにも思えた。
月光に照らされた廊下を、二人は静かに並んで歩いていた。
冷たい石造りの床に靴音だけが響き、壁に映る影は歪んで揺れながらも二人並ぶ姿を確かに刻んでいた。
形は不格好でも、そこにある事実だけは何より強く、彼女の胸を脈打たせた。
シリウスは組んだ腕を崩すことなく、ふいに口を開いた。
「俺はさ、闇払いになって……純血だの血統だのに振り回されない、もっと自由な世界を作りたいんだ」
声には迷いがなかった。
軽々と響くのに、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎない。
振り向いたその横顔は、月光を浴びて黄金の縁取りをまとっているように見えた。
「それにジェームズも同じだ。あいつと一緒なら、どんな危険にだって笑って飛び込める。……本当に、最高の相棒だよ」
彼が「相棒」と呼ぶその声音には、友情の確信と未来への喜びが宿っていた。
アランは小さく頷き、答える。
「ええ……そうね。きっと、どこまでもやっていけるわ」
それは本心だった。
シリウスが仲間とともに未来を切り開く姿は、希望そのものだから。
彼の光は多くを照らし、その周囲の人を力強く前へ進ませていく。
――けれど。
では、自分は?
もし彼が本当に「闇払い」としてその未来へ飛び込むとき。
果たして自分はその隣に立ち続けられるのだろうか。
ブラック家に仕え続けてきた血筋。
誇りと血統を何より重んずる名家の呪縛。
闇の足音はすぐ傍にある。
そのすべてを敵に回してまでも、彼と共に歩んでいけるのだろうか。
「……」
胸の裡に黒い翳りが広がっていく。
光をまっすぐ見つめようとすればするほど、その光が濃く伸ばす影に自分が沈んでいく。
足を進めようとしても、膝が震えてしまう。
「なあ、アラン」
ふいに足を止め、シリウスがまっすぐに見つめてきた。
その灰銀の瞳は嘘ひとつなく澄んでいる。
「お前は、どうなりたい? どんな未来を思い描いてる?」
あまりに真摯な問いかけに、アランの呼吸が止まった。
胸が掴まれ、声が出ない。
――本当は言いたい。
「あなたの隣にいたい」
それだけを。
迷いなく、それを。
けれど、言葉は喉元で絡み合い、塞がれてしまう。
立場も、恐怖も、忍び寄る囁き声の記憶も――全部が声を閉じ込めていく。
アランはただ、力の抜けた微笑を浮かべ、首を振った。
「……まだ、わからないの」
シリウスは少し意外そうに目を瞬かせた。
だが次の瞬間には子どものように笑っていた。
「ならそのうち見つけりゃいい。焦ることなんてないさ」
言葉はあまりに簡潔で、あまりに軽やかだった。
それがかえってアランの胸を締め付けた。
彼は未来を信じている。
まだ見ぬ答えすらも、探し当てられると信じて疑わない。
仲間と、光と、自分の信じたものを全て抱いて突き進めるほどに自由な人。
――やっぱり、この人は光だ。
眩しいほどの光を放つその横顔を見れば見るほど、自分の足はすくんでしまう。
それを追えない自分が、ひどく情けなく、悔しくてならなかった。
その悔しさと憧れとを抱えたまま、アランはただ再び歩き出す。
月光に重なる二人の影が揺れながら、遠い未来の輪郭を滲ませていた。
「なあ、聞くか? こないだジェームズと一緒に、城の中を探検したんだ」
湖畔の月光を背に語られる声は少年らしく弾んでいて、そのひとことに、アランは思わず目を丸くし、しおらしく小さく頷いた。
シリウスの話はいつだってそうだ。
胸を引き込む光を放ち、聞くものを自然とそこに連れて行く。
「ほら、あの動く階段あるだろ。夜に忍び出してさ、ジェームズと二人であっちへ行ったんだ。
……そしたら勝手に動きはじめて、俺たちを別の階へ運んじまってな」
灰色の瞳が楽しげに細められ、笑みの弧を描く。
言葉に合わせて、実際に階段のきしむ響きや埃の匂いまでもが脳裏に浮かぶようで、アランは目を閉じて想像に身を委ねた。
「辿り着いた先は行き止まりかと思ったんだが、壁の影に隠し通路があってさ。
そこは埃だらけで、何年も誰も通ってないみたいだった」
声はさらに快活に弾み、冒険の熱がそこに再び蘇る。
「中には古い鎧がいくつも並んでて、がしゃんがしゃん、勝手にぶつかり合って音を立ててな。ジェームズと俺は慌てて杖を抜いて『静かに!』なんて囁き合ったんだが、逆に余計うるさくなっちまって──結局フィルチに見つかりかけて、二人で必死に逃げ出したんだ」
その情景が目に浮かぶようで、アランの唇から自然に笑みが零れた。
思わず手で口許を押さえ、それでも小さな笑い声が洩れてしまう。
「……素敵ね」
囁くように言う声に、シリウスの唇が大きく綻んだ。
「だろ? 本当にそう思うよ。──俺は、いい友達を持った」
その言い方が、アランの胸をさらに温かくさせた。
彼は常に光であり、その光に周囲の人間が自然と集まっていく。
けれど彼はその事実を誇示しようとはしない。
煌めきの只中にありながら、仲間と笑い合うことを嬉々として「友」と呼び、誰よりも大切に抱く。
その真直ぐさに、アランの心はまた震えた。
やがてシリウスは、ふっと真剣な表情を見せる。
夜の湖面に映る月をじっと見つめ、声を低くした。
「卒業したら……俺は闇払いになろうと思うんだ」
「……!」
その言葉に、アランの胸が大きく跳ねた。
恐怖にも似た震えが、心臓を掴んだ。
――闇払い。
それは純血主義を正面から否定し、闇の魔法使いたちに立ち向かう存在。
魔法界の闇と真正面に戦い続ける、過酷な道。
それはブラック家の在り方に徹底的に背を向ける生き方だった。
オリオンも、ヴァルブルガも。
そしてその血を誇りとする一族の名を、すべて敵に回すことになるだろう。
想像しただけで、足元が差し込む冷えに崩れそうだった。
どれほどの断絶と怒りが彼を待ち受けているか。
その未来の険しさに、アランは息をひそめ、喉の奥に冷たい硬さを感じた。
けれど。
視線を横に移したとき。
満月の光を背にしたシリウスの眼差しは、不思議なほど澄んで揺らぎがなかった。
未来を恐れぬ少年の瞳。
光を宿し、背くことでしか掴み得ぬ正義を、まっすぐに見つめていた。
――きっと、この人なら。
そう心が告げる。
彼なら本当に闇払いとなり、世代を導く光となれるだろう。
荒れ果てた闇を切り裂き、新しい魔法界を切り開いていける。
その確信があった。
ただ。
同じ未来の先に、自分は位置しているのだろうか。
彼と並ぶ資格を持っているのだろうか。
純血主義という枷に囚われた自分が。
血の運命に縛られてなお抜け出せない自分が。
シリウスと共に、すべてを敵として立ち向かっていけるだろうか。
胸の奥に、すくむような不安がこみ上げた。
夜風に吹かれた手指がひどく小刻みに震えている。
だが――それでも。
この人が好き。
ただその事実が、今の自分を救う唯一の答えだった。
全てを敵に回す勇気はまだ持てない。
けれど、好きだという事実そのものは、揺るぎなく在る。
湖面に反射する月光の照らし出す道筋は、幼い恋心をそっと抱き締めるように、静かに輝いていた。
湖面に映る月は、ひと筋の光の道を描いていた。
静かな湖水の揺らめきに従って煌めきは緩やかに揺れ、銀の橋のように夜を渡って遠くへと続いていた。
その道の先を見定めるかのように、シリウスは湖畔に立ち尽くしていた。
肩越しに吹きつける風に黒髪が揺れ、その横顔は月光に縁取りされている。
口にした言葉は短く、しかし確かに響き続けていた。
――闇払いになる。
胸の奥にまだ、その音色が残っている。
アランは立ち尽くしたまま息を詰め、心臓の高鳴りを抑えられなかった。
闇払い。
それは闇の魔法使いたちへ立ち向かう者。
純血主義を旗に掲げる多くの名家を敵に回す存在。
彼が選び取ろうとしている未来は、誰の後ろ盾もなく、ひとり荒野を渡るように過酷で孤独だった。
オリオン、ヴァルブルガ。
ブラック家の冷たい目と執拗な誇り。
同じ屋敷の重圧を知るアランだからこそ、その報復の恐ろしさを思うだけで膝が竦みそうになる。
――そんな道を、自分は並んで歩けるのか。
もし彼の手を取ったなら。
その刹那から自分の立場もまた逆風に晒される。
血と誇りに縛られた一族を敵に回す覚悟を、本当に持てるのか。
背をなぞる風は冷たくて、身体が小さく震えた。
息が喉で絡み、肩を竦める仕草しかできない。
「……できない……」
心の奥で小さく囁いた。
怖い。
仕打ちや報復が、自分自身へどんな形で降りかかるのか想像するだけで、肺が固くなる。
しかし――視線をふと上げた瞬間、すべての恐れが遠のいた。
月光に照らされたシリウスの横顔。
未来を恐れず、ただ真っ直ぐに光を射抜き見据える瞳。
そこにあるのは無鉄砲な若さの炎にも似ているけれど、それ以上に希望そのものの輝きだった。
「……シリウス」
名を呼ぶだけで喉が詰まり、胸に熱が広がる。
好きだ。
この人と共にありたい。
その一点は揺らがなかった。
だが同時に理解していた。
その想いが大きくなればなるほど、選ばねばならぬ未来や犠牲もまた過酷になる。
足が竦むのは己の弱さゆえか。
それとも、まだ握るには勇気が足りないからか。
答えは出ない。
けれど目の前にいる彼の光だけは、ただ揺るぎなく輝いている。
アランは小さく一歩を踏み出した。
月明かりに背を押されるまま、静かにシリウスの傍らへ。
彼の背に寄り添い、その肩越しに湖面へ長く伸びる月の道を見つめた。
言葉にはならぬ想いが胸で渦を巻き続ける。
――いずれは、その手を取る勇気を持たなければならない。
――震えを越え、未来を共に担うと誓える日が来なければならない。
だが、それは今すぐではない。
今はただ。
光を見据え、歩み出そうとする彼の横に立ち、せいいっぱいに寄り添うこと。
それで十分に思えた。
湖面の月は揺れ、道は波打ちながらも途切れることなく続いていた。
その光に重ねられた二人の影が、ひとつに重なり合い、夜の湖畔に静かに伸びていった。
朝の大広間は、活気に満ちていた。
食器が触れ合って立てる乾いた音が絶え間なく響き、パンを裂く香ばしい匂いや温かいスープの湯気が漂う。
生徒たちが談笑するにぎやかなざわめきは、石造りの高い天井に大きく反響していた。
窓から射す朝日が銀器の上で反射し、きらめいた光が視界を染める。
アランは思わず目を細めた。
――また、今日が始まる。
心の奥から吐息のような思いを零し、半ば無意識のうちに立ちあがる。
手が伸びたのは、レギュラスの皿だった。
果物を取りに行く。
それはもはや癖のように染みついた動作であった。
ここホグワーツでは、そんなことをする必要はない。
使用人の真似事だと、何度も言われた。
レギュラスさえ、最初はその癖を止めようとした。
だが今では、彼も無理には言わなくなっていた。
当然のように従って動くその姿は、彼にとって「在るべき秩序」の証にさえなっていたから。
歩みを進めるアランの耳に、ひそかな声が忍び寄る。
「アラン・セシールが、レギュラス様と一緒にいたの見たわ」
「夜、ずっと談話室で二人きりだったんだって。降りていきにくくて困ったのよ」
「……あの二人、いったい何してるんだろうね」
囁き合う声。
くすくすと忍び笑う気配。
心臓が、一瞬で凍りついた。
――秘密だったはずなのに。
誰にも見られていない。誰にも話していない。
そう信じていた。
信じていたものが、いとも簡単に崩れていく。
地の底から冷たく逆流してくるような衝撃が胸を走り抜け、手の先まで震えを広げた。
知られてはいけないことが、知られている。
ただそれだけで、世界が崩れるのを感じた。
振り返って否定したい。
違うと叫びたい。
――けれど、声は喉で凍りつき、氷のように固まって外へ出なかった。
果物を盛る手がわずかに揺れる。
視線を落とすより他なく、背後に注がれる視線を感じながらも振り返ることはできなかった。
冷や汗に似た感覚が背を伝い、息が浅くなる。
「…… アラン。遅いから、心配しました」
突然、耳を撫でた声。
振り返れば、いつの間にかレギュラスが背後に立っていた。
淡い灰色の瞳は、相変わらず静かに澄んでいる。
彼は自然な仕草でアランの手から皿を受け取り、その背に掌を添えた。
決して他人の目には荒々しくは映らない動作。
ただごく自然な保護のような優しさで。
「さあ、戻りましょう」
端正な微笑みを浮かべながら告げる。
その笑顔は周囲の生徒の憧れを集め、完璧な美と品格を備えたものとして映るだろう。
けれどアランにとって、その寄り添いは檻そのものだった。
優しさの重さに胸は圧し潰される。
温もりの内に忍び込む影は、冷たい恐怖の鎖となって内側を締め付ける。
――どうしたら、この底知れぬ恐怖から逃れられるのだろう。
――どうしたら、本当の意味で救われるのだろう。
一瞬だけ、レギュラスにその答えを求めそうになった。
今にもその柔らかな幻に縋ろうとしていた。
だがわかってしまっている。
彼が差し伸べる手は、救いではなく、閉じ込める檻にすぎない。
求めるべき救いは、ここにはない。
そう諦めながら、アランは彼の掌に導かれて再び席へと戻っていった。
銀器の軽やかな音が周囲に響き続ける中、胸の奥だけは鉛のように重く沈んでいた。
レギュラスは、周囲の視線に敏感だった。
誰も言葉にはしない。
けれど、大広間や廊下、授業中のささやかな視線の揺れから、囁きが少しずつ広がり始めていることを悟っていた。
ほんのくすくす笑いや、気取った眼差し。
それらはすでに「気づき始めている」という兆しだった。
その囁きがアランをどれほど追い詰めているかも、十分に理解している。
彼女は「気づかれた」という事実そのものを恐れる。
それがいずれオリオンやヴァルブルガに届けば、事態は面倒しのぎどころでは済まなくなる。
だからこそ――本来ならば律すべきなのは自分自身。
節度を保ち、距離を置き、彼女を守るために冷静さを決して欠いてはならない。
理性の天秤が正しく告げるのは、常にそれだった。
――けれど。
「せっかくホグワーツなのだから」
その甘い囁きが、どうしても心を揺るがす。
あの閉ざされた屋敷の檻では、微笑み合うことすら許されなかった。
ホグワーツにいるこの時間だけは、束の間でも、自分の本心に従えば良いのではないか。
抑え込んできた感情が、解き放たれた水のように胸を満たしていった。
――ずっと、触れていたい。
彼女が拒まない限り、求めることを止められる術など自分には存在しなかった。
「アラン、ここ……」
机に並べられたノートに身を寄せ、彼女が解きかけていた演習の答えを指でなぞる。
「さっきの計算、逆に掛けてしまっている」
アランは目を瞬かせ、はっとした表情を浮かべる。
そして小さな笑みを漏らした。
「あ、本当ですね……さすが、レギュラスね」
その瞬間、髪がひと筋、彼女の頬へと落ちていた。
レギュラスは自然な仕草で、その一房を指先に掬い上げ、耳へとそっと掛けてやる。
――昔なら。
それだけで、彼女は驚いて動きを止めてしまっただろう。
石のように固まり、目を見開いて、息をひそめたはずだ。
だが、今は違う。
彼女はペンを止めない。
不思議そうに瞬きしながらも、当たり前のように書き続け、ページを進めていく。
――慣れてしまったのだ。
何度も繰り返した触れ合いが、彼女にとってもはや「異常」ではなく「日常」へと変わっていく。
怯えではなく、自然さがそこに芽生えつつある。
その事実は、胸をあふれるほどに満たした。
彼女が自分を受け入れてくれているという実感。
寄り添うひとときが日常と呼べるくらいに馴染んできている幸福。
理性の隅で声がする。
「控えよ。距離を取れ。守るのだ」
その声は確かに存在する。
だが、その横顔を見るたびに、その声は跡形もなくかき消えてしまう。
すべてを賭しても、この重なりを失いたくはなかった。
どれほど危うい橋を渡ることになろうとも。
秘密がどれほど囁かれようとも。
――この慣れを、この当たり前を、自分は絶対に手放さない。
彼女が横顔を上げず筆を進める音がささやかな律動となり、レギュラスの胸にはひどく甘やかな満足が広がっていった。
緑がかった薄暗い灯りの下で、アランはひたむきにペンを走らせていた。
静けさを湛えた図書室の一角。机に広げられたノートには細かく文字が刻まれ、必死に積み重ねた演習の痕跡が並んでいる。
横に座るレギュラスが、彼女の視線を追うように紙面を覗き込み、誤りを見つけるたびに指先で赤い線を引いた。
その指が触れるたび、正しさがくっきりと浮かび上がる。
何度も寄せられた指先との距離は、もう怖くはなかった。
――慣れてしまった。
その事実が胸を揺らしていた。
最初は堪え難い緊張だったのに、いまは自然で、当たり前で。
その慣れ自体が恐ろしいのだとアランは知っていた。
そのときだった。
「やあ、相変わらず仲がいいね」
軽やかに割って入る声。
アランが顔を上げると、そこにバーテミウス・クラウチが立っていた。
いつも通りの飄々とした笑み。
彼の浮かんでいる笑みは他愛ない冗談を携えていて、けれど容赦のない軽快さで空気を揺らす。
「勉強熱心なのはいいことだ。……でも、課題より恋文の方が進んでそうに見えるな」
あまりにも直截で、あまりにも容赦のない冗談。
アランは息を止めた。
ペンを握る手が堅く固まり、視線を落としたまま、頬が燃えるように熱を帯びていく。
耳まで赤く染まっていき、羞恥の熱を必死に押し隠そうとするけれど、どうにもならなかった。
対照的に、レギュラスは表情ひとつ動かさず答えた。
「……あなたは暇が多いようですね、バーテミウス」
淡々とした声。
そこには余裕すら漂う。
「いやいや、気づく人間は多いって話さ」
バーテミウスは肩を竦め、大仰に目を細めて笑う。
「深夜まで談話室にいた、って噂はもう回ってる。……まあ、僕は羨ましい側だけどね」
その言葉に、アランの心臓が小さく跳ねた。
冷たくなった指先を、必死に組み合わせて押さえ込む。
――やっぱり、みんな気づいていたんだ。
秘密にしているはずだった。
誰にも悟られぬよう必死に隠していたのに。
けれどそれは、もう遥かに広がっているのだ。
「……くだらない噂です」
レギュラスは静かに言い放ち、視線を再びノートのページへ戻した。
その姿は、風ひとつ揺さぶらない冷えた湖の水面のように落ち着いている。
だがアランの胸は違った。
勉強など、とても続けられそうになかった。
“秘密”が他人の口に晒される。
それはあまりにも恥ずかしく、そして何よりも恐ろしい。
唇が震えた。
否定したい。違うと言いたい。
けれど言葉は喉の奥でつかえ、氷の塊のように重く固まり、音にならずに消えた。
バーテミウスは気楽に手を振り、「お邪魔だったね」と笑って席を立った。
背を遠ざける足音が、軽すぎるほどに図書室の静けさを乱していく。
残されたのは沈黙だった。
レギュラスは平然とノートに目を落としている。
ただ黙々と、彼女を導くための赤い線を新たに引きながら、眉ひとつ乱れない。
それが余計に、アランの胸を締めつけた。
どうして。
どうして彼はこんなにも冷静でいられるのだろう。
どうして自分だけが、こんなに怖くて仕方がないのだろう。
答えの見えない問いが、果てしなく心の奥底で渦を巻き続けていた。
緑がかった灯りは相変わらず静かに机を照らしている。
しアランの視界は霞んでいた。
言葉も、本の文字も、すべてが不鮮明に揺らめいている。
震え続ける指先は机にすがるようで、けれど何ひとつ掴めていなかった。
――昼間の、バーテミウスの言葉。
「二人で何をしているのか」
ただ軽く笑われただけの冗談。
それなのに、杭のように胸奥へ打ち込まれて抜けなかった。
笑い話であるはずが、恐怖として沈殿し、暗い影になって消えないまま残り続けていた。
その恐怖を思い出していたはずなのに――。
また抗えなかった。
いや、本当に抗ったのだろうか。
むしろ、自分から拒まなかっただけではないのか。
その線引きさえ分からなくなっていた。
閉ざされた扉。
誰もいない隅の部屋。
石壁が冷たいはずの空間が、熱で満ちていく。
導かれるようにして、レギュラスの手に引かれ、重なり合う。
その最中、胸の奥にひしひしと嫌悪が膨らんだ。
――浅ましい。
そう思うたび、息は余計に乱れた。
夢中になってしまう自分自身が、薄汚れていくようで怖かった。
本来は違ったはずだ。
互いに「好き」という気持ちを確かめ合う。
愛の証のように、美しく結晶化されるべきもの。
そう、信じていた。
なのに。
現実は、深い理解もないまま流れにのみ込まれていく。
快楽がからめ取り、思考は遠ざかり、意識は浅いところで浮き沈みを繰り返す。
夢中に飲み込まれていく自分が、どうしようもなく怖い。
まるで小さな動物が本能に追われ、逃げ場もなく駆けるように。
自分はただ欲望に彷徨い、淀みの中で息を荒げるだけ。
――私は、一体どこまで堕ちていくのだろう。
「…… アラン、何を考えているんです?」
耳元に柔らかく落ちてきた声で、はっと我に返る。
心を覗き込むその響きに、ぞくりとする。
「……べつに、何でもないわ」
首を振るしかなかった。
だって、自分でも何を考えているのか、答えを持てていなかったから。
ふと過った思考。
――周りの人たちも、こんなにも訳のわからない感情に突き動かされて結び合うのだろうか。
相談できる相手はいない。
語り合える友もいない。
レギュラス以外に経験もなく、比べる基準すらなかった。
思考の底に、違う名が滲んだ。
――シリウス。
あの光に似た笑みを浮かべる人なら。
すべてを包み込み、ひとつの宝のように扱ってくれただろうか。
大事に、愛おしく、大切なものを抱く眼差しで、自分を見つめてくれるだろうか。
そう想像した瞬間、鋭い痛みに子宮の奥がきゅっと縮み、思わず声が喉に引っかかった。
生々しい感覚が、さらに強い罪悪感を呼び寄せる。
自らを容赦なく責め立てた。
「……」
気づいたときにはすでに、手は固く絡め取られていた。
レギュラスの体温が伝わる。
熱を帯びた掌のぬくもりから、燃え立つような気配が広がり、全身を蕩かしていく。
その度に身体は勝手に応え、腕や腰が震えながら彼を受け入れてしまう。
唇から声が零れる。
止められない。
熱に浮かされた吐息は部屋に溢れ、壁にまで染み渡るようだった。
それは自分の声なのに、自分の意思ではなかった。
耳を塞ぎたかった。
――私はこんな声を出したくないのに。
心と体があまりにもずれている。
拒みたいのに。
抗いたいのに。
身体だけは、裏切るように応えてしまう。
その乖離が、何よりも恐ろしかった。
胸に残るのは、愛でも幸福でもなく、底知れぬ不安と、どうしても消せぬ恐怖だった。
静かな部屋に、ようやく呼吸の音だけが残った。
重く甘やかな熱の余韻が、まだ空気のなかに渦巻いている。
開け放たれていない窓と厚いカーテンがその熱を閉じ込め、互いの吐息と体温だけが部屋を満たしていた。
レギュラスは片腕を額に乗せ、深く、深く何度も呼吸を繰り返した。
そして静かに短く笑みを零す。
「…… アラン……」
ただ名前を呼んだだけ。
けれどその声には、言葉にならない安堵も、満たされた満足も、そして紛れもない愛しさも込められていた。
彼にとってこの瞬間は救いだった。
彼女を求め、応えられ、いまこうして隣にいる事実が、何よりも確かな幸福の証だったから。
しかし――その横で。
アランは背を向けていた。
身体をシーツでくるみ、身を小さく丸めている。
頬はまだ熱を帯び、吐息も乱れて残っている。
それなのに、その肩はわずかに震えていた。
――どうして、拒めなかったんだろう。
――どうして、ただ流され続けてしまうんだろう。
心の奥で響く声が、自分自身を容赦なく責め立てる。
意識の底から責め言葉が這い上がり、そのたびに胸が苦しく絞られた。
快楽に呑まれて夢中になった自分が情けなくて、堪らなく恥ずかしくて。
堪えきれず、瞳の奥の熱は涙となってにじんでいた。
これは本当に「好き」から生まれた行為なのだろうか。
彼を愛しているから、ただその証として重なったのだろうか。
――違う。
孤独から逃れて、恐怖を埋めるために、縋りつくように手を取ってしまっただけなのではないか。
そんな思いの影が広がるたび、胸はさらに軋み、呼吸は浅く苦しくなった。
ひとりになりたい。
けれど、ひとりになるのは同じくらい怖い。
矛盾が胸を裂き、言葉にならぬ痛みとなって、彼女の瞳を曇らせていった。
シーツに包まれた背へ、そっと手が伸びた。
レギュラスの掌がシーツ越しに肩に触れる。
「……大丈夫ですか」
静かな問いかけ。
その声音は優しさを帯びていた。
けれど―― アランは、その問いに応えることができなかった。
「……ええ」
掠れた声で、わずかに言葉を紡ぐ。
震えていることに気づかれるのではないかと、答えを絞り出す。
本当は、大丈夫なんかじゃない。
――そう言えたなら、きっと救われただろう。
けれど今の自分には、その勇気すらなかった。
瞳の奥に滲んだ涙を隠すようにして、背を丸めてじっとシーツに沈み続ける。
レギュラスの触れる手は温かくとも、その温もりが檻のように思えてならなかった。
夜の静寂が続く。
かすかな呼吸だけが交わされるなか―― アランの胸には、ひとり孤立した痛みだけが広がっていた。
その沈黙は、彼女を優しく包み込むよりも、むしろ孤独を際立たせる冷たい鏡のようだった。
翌朝。
大広間には朝の光が降り注ぎ、銀の食器が眩しく輝いていた。
パンを裂く音や、生徒たちの談笑が波のように広がり、いつも通りの活気を醸していた。
けれど、レギュラスの胸の奥は、まだ昨夜の余韻に引きずられていた。
柔らかく重なった吐息。
触れ合った温もり。
抱き締めるたび確かめられる彼女の存在。
それらの記憶が淡く蘇り、今朝の自分を穏やかに包み込んでいた。
心穏やかであることは彼には珍しく、微かに安堵すら感じられた。
――だが、それを冷ますものがすぐに訪れた。
羽音。
煌びやかな食卓を縫うように、灰褐色のフクロウが翼をひるがえし、彼の前へ舞い降りた。
一通の封筒が、端正な動作で置かれる。
丁寧な筆跡。
わずかに漂う高価な香り。
紅い封蝋を目にした瞬間、その胸に影が差した。
――ロズィエ家。
カサンドラ・ロズィエからの招待状だった。
週末に催される宴に、ぜひとも出席してほしい、と。
文面は隙なく整えられ、上流の礼節に満ちていた。
洗練されすぎているからこそ、重さを感じた。
舌打ちをしてやりたい。
その衝動を必死に飲み込んで、彼は封を閉じ、黙って畳んだ。
ロズィエ家の宴に出れば、最低でも三日は拘束される。
その間、アランの隣に座ることも、声をかけることもできない。
――地獄だ。
苛立ちを隠すため、息を整えながら封筒を折り畳む。
そのとき。
「……お呼ばれなのでしたら、お行きになったほうがいいわ」
隣から。
アランの静かな声が響いた。
その調子はあまりに平然としていた。
感情の一片も浮かばぬような、冷ややかな響きすら含んでいた。
胸が、不意に痛んだ。
――行かないでほしい。
少しでもそう思ってほしかった。
惜しむような言葉、それがたとえ嘘でも。
彼の唇は、思わず動いてしまった。
「……何もないんです?」
プライドを気高く誇りにしてきた自分が。
情けなく、縋るような言葉を紡いでしまった。
その事実に内心では顔を覆いたくなったが、もう引き返せなかった。
アランはわずかに目を瞬かせた。
それから問い返す。
「……何もとは、なんです?」
彼は目を逸らさず、小さく息を吸う。
「……嫌じゃないんですか。僕が数日、不在にするのは」
短い沈黙。
時間にすればほんの一瞬。
けれど彼には、やけに長い刹那に感じられた。
アランはやがて視線を伏せ、少し硬い声で答えた。
「……無事に戻って来てくだされば、安心です」
簡潔な言葉。
けれど、それをどう解釈するべきなのか、一瞬で掴むことはできなかった。
しかし、確かに胸に沁みた。
「待っていてくれる」という保障よりも。
「無事に」という願いが彼女の言葉から自然に零れたこと。
それは、飾り立てた愛の言葉よりも真実味を持って、彼の不安を静めていく。
荒れかけていた心に、薄氷を溶かすような優しいぬくもりを与えていた。
レギュラスは畳んだ封筒を強く握り、深く息をついた。
重たくのしかかる家同士の拘束と、ただ一人の少女の、儚いけれど確かな言葉。
その二つが、不思議な均衡を保ちながら彼の胸の奥で釣り合っていた。
レギュラスが数日不在になる――。
その事実が下されたとき、アランは胸の奥でそっと息を吐いた。
ほっと、胸の奥に絡みついていた重石が少し外れるような感覚。
それは決して外へと表情に漏らせるものではなかったが、心の深いところで静かに安堵を覚えていた。
この空白の時間に、自分を覆い続けていた迷いや困惑を整理できるかもしれない。
そう思っただけで、肺の奥まで澄んだ空気が行き渡るようだった。
――きっと彼は、引き止めの言葉を欲していたのだろう。
アランにもそれは察していた。
だが使用人の娘として主に掛けられる言葉は、ただひとつ。
――無事に戻ってきてください。
祈りと言っていいその響き以上でも、以下でもなかった。
だからそう返した。
そうしか言えなかった。
数件の授業をこなし、午後を越えて、放課後。
正式に校を発ったレギュラスの姿を見送りながら、アランは胸の奥に沸き上がる安堵を飲み込んだ。
これまで絶え間なく自分に注がれ続けた視線と、触れられることの緊張から、ようやく解き放たれたような感覚。
だが同時に、その不在はすぐに「空虚」として形を表した。
夕刻の大広間。
煌めくシャンデリアの光が皿やカトラリーを反射させ、生徒たちの声が朗らかに響いている。
けれどアランの斜め隣の席は空いていた。
――いつもそこにあったはずの気配。
――視線や、重たくも確かな存在。
それが抜け落ちてしまったその空間は、奇妙に寒々しく思えた。
手元のスープを口に運んでいた時。
「セシール嬢が一人なんて、珍しいこともあるもんだ」
不意に響いた声。
アランの指先が、小さく震えた。
振り返れば、そこに立っていたのはバーテミウス・クラウチ。
軽やかで飄々とした笑みを浮かべ、何気ない風を装っている。
――この人は、苦手。
何を言い出すのか分からない。
軽やかな微笑みの奥に、どこまで見抜かれているのか分からない。
その曖昧な恐ろしさに、どうしても構えてしまう。
「ええ。まあ――たまには」
微笑みを形づくる。
できる限り自然に、穏やかに。
胸の内を決して悟られぬように、張り付けた笑顔で。
バーテミウスはじっと彼女を見ていた。
やがて、ふっと小さく首を傾けた。
「……どこか、ほっとしてる顔をしてますが?」
「……何がです?」
反射的に問い返した瞬間、胸の奥が凍った。
心臓は急に跳ねあがり、手元のパンさえぎこちなくちぎれていく。
バーテミウスはすぐ肩を竦め、からりと笑った。
「いえ、何となくそう見えただけですよ」
――何となく。
だがその一言でさえ、核心を突かれたように胸を震わせた。
アランは下を向き、知らぬ顔を装いながらパンを口に運ぶ。
けれど心臓は耳の奥で煩く響き続ける。
――この人は、一体どこまで見抜いているのだろう。
軽やかな口調で飾りながら、真っ直ぐ核心を抉ってくる。
まるで見せたくない影の部分を、容赦なく引きずり出されるみたいで――怖かった。
ひと呼吸置いて、バーテミウスはまた飄々と笑った。
「君が寂しそうにしていると知ったら――彼は喜ぶだろうね」
「……」
何も言えなかった。
唇に浮かべた微笑みだけが、自らを守る唯一の盾だった。
実際は、寂しいのではなく安堵している。
その事実を、この男に悟られることだけは――何よりも恐ろしかった。
胸の奥で固く閉ざした秘密を抱えたまま、アランは笑みを保ち続けた。
――会いたい。
胸の奥で焦がれる声が繰り返す。
レギュラスがいない。それだけで、ようやく深く息のできる夜が訪れた。
監視の目も、囁き声も、純血の名に縛る誰かの重圧も……今は届かない。
だから、この隙間にどうしても会いたいのだ――あの光を胸に宿す人に。
アランは大広間の前で立ち止まっていた。
胸の奥で小さく膝が揺れる。期待と緊張がせめぎ合い、指先がわずかに痺れている。
視線を巡らせても、まだグリフィンドールの席に彼――シリウスの姿はなかった。
唇を結び、待ち望む鼓動だけがひどく鮮烈に響く。
その時。
足音と共に現れたのは、ジェームズ・ポッターだった。
彼の隣には、赤毛が光をはじく少女――リリー・エバンスがいた。
優雅で柔らかな微笑みに彩られたその挨拶に、アランは思わず慌てて一礼を返す。
胸が不意にざわついた。
――ジェームズは、いつもシリウスの隣にいる人。
自分が憧れているその光の近くに、当たり前のように寄り添っている人。
けれど今、彼はリリーという少女を横に置き、自然に微笑んでいる。
その意外さが、胸の奥を不思議に揺らした。
「……シリウスかい?」
落ち着いた声で問いかけられ、アランは小さく、けれど何度も頷く。
ジェームズはふっとリリーを見やって微笑んだ。
「リリー、先に席に行ってくれないか」
リリーは頷き、軽やかな微笑みを残して歩み去る。
その優雅な後ろ姿を見送り、二人きりの空気が残った瞬間、アランの胸が固く強ばった。
「シリウスなら――進路相談が長引いてるみたいだ」
ジェームズの言葉に、小さな震えが混じる。
「……闇払いになりたいって、聞きました」
思わずこぼしたその言葉は、昨夜よりずっと心を占めていた懸念と希望そのものだった。
「そうだよ。僕も一緒に目指してる」
そう告げる声に、自然と頷いていた。
二人はいつも並んで歩いていた。
だから同じ未来を見据えて進んでいることも、当然のように思えた。
――もし、自分が女でなければ。
そんな思いがふと胸を掠めた。
もし自分が男の子だったら。
シリウスと肩を並べ、ジェームズのように親友と呼べただろうか。
その想像だけで、眩しさが胸を満たした。
楽しさと羨望と、そして切なさを混ぜ合わせて。
ジェームズの口から語られるシリウスの言葉。
それを耳にするだけで胸が温かく灯っていくのが分かった。
まるで彼の欠片を僅かに分け与えられたようで嬉しくて――けれど。
ジェームズがふと声を落とし、俯いた。
「……君に一つ、確認したいことがあるんだ」
その低い響きに、胸が跳ねる。
アランは緊張のまま、ただ「……ええ」と頷いた。
「君は……本当に想っているのは……レギュラス・ブラックなんじゃないのかなって……見ていて思ったんだ。……そこは、どうなんだろう」
――雷に打たれたようだった。
心臓が止まる。
視界が狭まる。
言葉も、息すらも上手く出せない。
ずっと、思い続けてきたのはシリウスだった。
胸を焦がし、未来を夢に描いてきたのは、彼だった。
けれど、他人から見れば――レギュラスを選んでいるようにしか映らないのだ。
そのあまりにも残酷な事実は、鋭い刃となって胸へ食い込んだ。
しかも、その言葉を伝えてきたのは。
シリウスを最も理解している人。
隣に立つことを当然のように許されている親友・ジェームズだった。
「……そんなこと……ないわ……」
アランはか細く首を振る。
絞り出した言葉は震えていた。
口先だけで否定しながらも、その声には不安と切なさが濃く混じって。
ジェームズは短く「うん」と頷いた。
そして淡い微笑を浮かべながら、静かに告げた。
「……それならいいんだけどさ。親友には、不毛な恋をしてほしくなくてね」
その声が、ひどく温かく沁みていく。
けれど同時に、その優しさは残酷でもあった。
誰を、どんな想いで見つめているのか。
自分自身さえ押し流されて分からなくなっていく。
胸に広がるのは、答えの代わりではなく、ただ絡みつく痛みだけ。
アランは俯いたまま、張りつめた笑みを作るしかなかった。
心が泣き叫ぶ声を、どうしても誤魔化すように。
大広間の喧騒は変わらず続いていたが――その中で彼女の胸だけは、不安と痛みによって深い孤独を抱えていた。
進路相談を終えたのだろう。
大広間の入り口から姿を現したシリウスを見つけた瞬間、アランの胸は跳ね上がった。
人影の多い場所でも、彼の存在だけは光を放つように目に飛び込んでくる。
その背格好、その歩みの軽やかさ、ほんの一瞬で息苦しいほどに胸が熱を帯びた。
シリウスはすぐにアランの姿を見つけた。
驚くほど自然に、少年らしい軽やかな笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
彼の動作一つからあふれる自由の匂いに、アランの呼吸は乱れた。
「アラン! ……おい、ジェームズと何の話してんだ?」
問いかける声は弾んでいた。
それは嫉妬ではなく、素朴で無邪気な好奇心に満ちていた。
隣で肩を竦めたジェームズが軽やかに応える。
「君が遅いから、セシール嬢が退屈してたみたいだよ」
茶化すように言い残し、ジェームズは微笑みを浮かべて歩き去った。
その背に残ったのは、友情の軽妙さを映す柔らかな余韻。
だがアランの耳には、自分だけに聞こえる静かなざわめきが残っていた。
――君が本当に想っているのはレギュラスじゃないのか?
つい先ほどジェームズに告げられた問いが、頭の奥に響き、胸を冷たく揺れ動かす。
答えを見失いかけた心。
ほんの数刻前までの迷いが、再び己を締め付けようとする。
けれど、次の瞬間。
シリウスがこちらへ向けた光そのものの笑みに照らされて、すべては霧散していった。
迷いも、不安も、恐れでさえも――。
――やっぱり。
欲しいのは、この人。
昔から変わらない。
どんな未来でも、導き続けてくれる唯一の光。
「……シリウス。あなたに会いたかったの。だから待っていたの」
言葉は飾りようがなく、ただ胸の奥から零れ落ちた。
震えながらも、確かに真実だった。
その一言に自分の心がすべて込められていた。
シリウスは目を輝かせ、大きな両手でアランの頬を挟み込んだ。
手のひらの温もりが、柔らかな力で彼女を引き寄せる。
至近に見つめ合った顔に、くしゃりと笑いが刻まれた。
「……随分可愛いこと言うじゃねえか」
悪戯っぽいその一言も、無防備に浮かんだ無邪気な笑みも。
端正さよりも素の人間らしさを滲ませたその瞬間こそが、アランには堪らなく愛おしかった。
胸を縛っていた緊張が解けていく。
嘘のように。
そよ風に吹かれた霧がすっと散っていくように。
思わず自分も笑ってしまった。
ずっと張り詰めていた面差しが、自然に柔らかく輝きをまとった。
――この笑顔が好き。
どんな未来を選ぶにせよ、この光を好きだという思いだけは、絶対に偽らない。
胸の奥で、確かにそう願った。
湖面を照らす月の光すら遠ざかるほどに、シリウスの笑顔は彼女にとって唯一の道標だった。
「……シリウス、大広間の中は、少し落ち着かなくて」
小さな声音で告げると、彼はにやりと口元をゆがめ、肩を竦めてみせた。
「なら、抜け出そう。構わないだろ? 少しくらい腹を空かせても」
迷いのかけらすら見せない。
次の瞬間、彼の手は自然にアランの手を取っていた。
大きくて温かな掌に包まれるだけで、心の奥がすっと和らぐ。
二人は人影の絶えた石造りの廊下を歩き出す。
足音だけが乾いた調べのように反響し、時折夜風に揺れた窓ガラスがさざめいている。
大広間の喧騒が遠のき、次第に静謐な空気が二人を包んだ。
――二人きり。
その静けさは、胸に溜め込んでいた思いを解きほぐすようだった。
けれど同時に、耳奥に貼りついて離れない囁きがあった。
――君が想っているのは、レギュラスじゃないのか。
ジェームズの声。
光を映す瞳に告げられた問いは、杭のように胸に残っていた。
追い払おうとして、アランは深く息を吐く。
その沈黙を破るように、シリウスが口を開いた。
「進路の話、してきたんだ。……ジェームズと一緒に闇払いを志願した。教師は驚いていたよ」
彼の言葉はくっきりとした未来の輪郭を描いていた。
揺るぎない瞳の輝きは、月明かりのように澄んでいて、やはりシリウスは光そのものだった。
「……あなたらしいわ」
胸から自然にこぼれたその言葉に、シリウスはわずかに頬を赤くし、照れ隠しのように笑う。
強い光を抱いた彼にも、年頃の少年らしく無邪気に笑う瞬間がある――そのことが、アランの心を温かく包んだ。
――やっぱり、自分が好きなのはこの人。
そう確かに思う。
それでも、あの囁きが胸をくすぶる。
みんなの目に自分は“レギュラスの傍らにいる女”として映ってしまう。
こうしてシリウスの隣に立っているのに、その影を引きずっている現実が。
「…… アラン?」
覗き込む声音。
シリウスが首を傾げ、不思議そうに彼女を見ていた。
「何か、考え込んでないか?」
「……いいえ。ただ」
微笑みをつくり、小さく首を振る。
「こうして、あなたと一緒にいられるのが嬉しいの」
胸を覆う迷いや恐怖も、言葉に乗せれば壊れてしまう。
だからその一部だけを掬い取り、そっと告げる。
言えたのは、たったそれだけ。
シリウスの瞳が一瞬驚いたように見開かれた。
けれどすぐにくしゃりと崩れるような笑顔が咲いた。
子どもっぽく、無邪気で、端正さすら忘れた表情。
「お前ってやつは……ほんと、時々ずるいくらい可愛いこと言うよな」
その姿が、胸に刺さるほど愛おしかった。
アランもつられるように笑ってしまう。
貼りついていた緊張が、夜風に解ける霧のように静かにすっと消えてゆく。
大広間の光から遠く離れた廊下に、二人の笑いだけが響いた。
窓から差す月明かりが、石床に長い影を重ねていく。
二人の影は重なり、揺れ、ひとつになった。
アランは胸に静かに願った。
――どうか、この光を、失わずにいられますように。
その祈りは、夜風に紛れて消えてしまいそうに儚かった。
けれど月光が二人を照らし出し、その光景ごと、永遠に閉じこめてくれるようにも思えた。
月光に照らされた廊下を、二人は静かに並んで歩いていた。
冷たい石造りの床に靴音だけが響き、壁に映る影は歪んで揺れながらも二人並ぶ姿を確かに刻んでいた。
形は不格好でも、そこにある事実だけは何より強く、彼女の胸を脈打たせた。
シリウスは組んだ腕を崩すことなく、ふいに口を開いた。
「俺はさ、闇払いになって……純血だの血統だのに振り回されない、もっと自由な世界を作りたいんだ」
声には迷いがなかった。
軽々と響くのに、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎない。
振り向いたその横顔は、月光を浴びて黄金の縁取りをまとっているように見えた。
「それにジェームズも同じだ。あいつと一緒なら、どんな危険にだって笑って飛び込める。……本当に、最高の相棒だよ」
彼が「相棒」と呼ぶその声音には、友情の確信と未来への喜びが宿っていた。
アランは小さく頷き、答える。
「ええ……そうね。きっと、どこまでもやっていけるわ」
それは本心だった。
シリウスが仲間とともに未来を切り開く姿は、希望そのものだから。
彼の光は多くを照らし、その周囲の人を力強く前へ進ませていく。
――けれど。
では、自分は?
もし彼が本当に「闇払い」としてその未来へ飛び込むとき。
果たして自分はその隣に立ち続けられるのだろうか。
ブラック家に仕え続けてきた血筋。
誇りと血統を何より重んずる名家の呪縛。
闇の足音はすぐ傍にある。
そのすべてを敵に回してまでも、彼と共に歩んでいけるのだろうか。
「……」
胸の裡に黒い翳りが広がっていく。
光をまっすぐ見つめようとすればするほど、その光が濃く伸ばす影に自分が沈んでいく。
足を進めようとしても、膝が震えてしまう。
「なあ、アラン」
ふいに足を止め、シリウスがまっすぐに見つめてきた。
その灰銀の瞳は嘘ひとつなく澄んでいる。
「お前は、どうなりたい? どんな未来を思い描いてる?」
あまりに真摯な問いかけに、アランの呼吸が止まった。
胸が掴まれ、声が出ない。
――本当は言いたい。
「あなたの隣にいたい」
それだけを。
迷いなく、それを。
けれど、言葉は喉元で絡み合い、塞がれてしまう。
立場も、恐怖も、忍び寄る囁き声の記憶も――全部が声を閉じ込めていく。
アランはただ、力の抜けた微笑を浮かべ、首を振った。
「……まだ、わからないの」
シリウスは少し意外そうに目を瞬かせた。
だが次の瞬間には子どものように笑っていた。
「ならそのうち見つけりゃいい。焦ることなんてないさ」
言葉はあまりに簡潔で、あまりに軽やかだった。
それがかえってアランの胸を締め付けた。
彼は未来を信じている。
まだ見ぬ答えすらも、探し当てられると信じて疑わない。
仲間と、光と、自分の信じたものを全て抱いて突き進めるほどに自由な人。
――やっぱり、この人は光だ。
眩しいほどの光を放つその横顔を見れば見るほど、自分の足はすくんでしまう。
それを追えない自分が、ひどく情けなく、悔しくてならなかった。
その悔しさと憧れとを抱えたまま、アランはただ再び歩き出す。
月光に重なる二人の影が揺れながら、遠い未来の輪郭を滲ませていた。
