1章
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ホグワーツの校内には、まだたくさんの秘密が眠っている――。
ジェームズ・ポッターはそう確信していた。
その夜も、親友たちとともにいつもの“遊び”に熱を上げていた。
二手に分かれて未知を探検し、新しい隠し場や抜け道を見つけた方が勝ち。
くだらない、しかし胸が躍る勝負だ。
しかも今は違う。
つい先日仕上げたばかりの、例の魔法の地図がある。
古びた羊皮紙の上には、夜の校舎を歩く者たちの名が小さく光の点のように記されていた。
見えない位置までくっきりと示し示すその奇妙な魔法は、冒険を何倍も面白くしてくれる。
その地図を覗き込んでいたとき、ジェームズの目はふと止まった。
――レギュラス・ブラック。
その名のすぐ隣に―― アラン・セシール。
偶然? いや、あまりにも都合がよすぎる。
胸の奥に小さな引っかかりが生じた。
息が浅くなりながらも、目を凝らして刻まれた印を確認する。
やはり間違いなく、二人の名は並んでいた。
「……」
確かめるべきだ。
ジェームズはそう思った。
あのふたりが果たしてどこまで本気なのか。
アランはどんな顔で彼に向き合っているのか。
もし互いの想いが確かなのだとしたら――
親友、シリウスの心はどうなる?
未来が確実に傷つくと分かっていて、なお背を押せと言えるのか。
それとも、止めなければならないのか。
答えの出ない思考に掻き立てられるまま、ジェームズは足音を忍ばせ、印の示す先へと向かった。
静まり返った石造りの廊下の一角に、二人の影が寄り添っていた。
薄暗がりの中、はっきりと見えぬ輪郭を、ジェームズは壁に掌を添えて覗き込む。
「アラン……痛くなかったですか?」
レギュラスの声。
低く、しかし驚くほど柔らかで、微笑むような響きを含んでいた。
ジェームズの背筋を、冷たいものが奔った。
その声色に、思わず歯が食いしばられる。
「……ごめんなさい、レギュラス。……私、きっとあなたのローブ、汚しちゃったわ」
アランの声が続いた。
羞恥を含んで震えながらも、どこか切実さがあった。
「そんなことはいいんです。……あなたが辛くなければ」
薄闇の中、レギュラスが彼女の制服を整えているのが見て取れた。
袖を引き寄せ、襟元を直し、乱れを隠すように。
細やかな仕草のひとつひとつに、彼の想いが透けて見える。
会話。
仕草。
わずかな間合い。
すべてが雄弁に語っていた。
――レギュラス・ブラックは、アラン・セシールを愛している。
―― アラン・セシールもまた、その想いを拒んではいない。
その現実が、ジェームズの目にはっきりと映った。
「……やっぱり、か」
言葉が胸の底で呻くように零れた。
もしこれが事実なら。
親友シリウスは、どれだけ傷つくことになるのか。
胸の奥が苦しく締めつけられた。
肩を押されるように息が詰まり、唇を噛みしめる。
見えている光景が正しいかどうか、確証までは分からない。
けれど、ふたりの関係がもはや“秘密”の領域には収まらない重さを持っていることは、嫌でも理解させられてしまった。
ジェームズは地図を握る手に力を込め、眉を寄せる。
――自分はこの先、どうすべきなのか。
愛するという事実を前にして、親友へどんな言葉をかければいいのか。
嘘をつくべきか、真実を突きつけるべきか。
答えはまだ、どこにも見つからなかった。
ただ確かにあったのは、押し潰されそな胸の痛みだけだった。
そして、その痛みこそがジェームズ・ポッターという少年の優しさと苛烈さを、これから先の選択へ導いていく種子となるのだった。
図書室の空気は、ひりつくほど張り詰めていた。
分厚い石造りの壁に刻まれた静寂は、わずかに舞い上がる埃のひと粒すら鮮明に映し出す。
窓から差し込む斜光の筋が埃を照らし、金色の舞を描く。
その煌めきがむしろ静謐を際立たせ、ページをめくる音や、ペン先の走るかすかな擦過音さえも重々しい響きとなって広がった。
机の上には分厚い教科書と、すでに幾度も読み返されたページの癖が刻まれたノート。
アランは細い指に握られたペンを必死に走らせていた。
試験が近い。
遅れをとるわけにはいかない。
理解が曖昧な部分を丁寧に潰し、一つひとつの問題を解き直し、演習を重ねていく。
呼吸も乱さず、まるで自分の存在を図書室の一部に融け込ませるように、無音の努力を積み重ねていた。
だが――。
その集中を乱すものがあった。
視線だ。
隣の席から注がれる熱い眼差し。
ちらりと横目をやると、そこにはレギュラスがいた。
彼も一度は同じようにノートを広げ、数ページにわたって筆を走らせていた。
けれどそれはすぐに終わり、今はただこちらだけに視線を据えている。
本を読むふりはしない。
ただ真っ直ぐ、アランを見ている。
時折、アランの髪が頬にかかると、その指先でそっと掬いあげる。
紙の束をめくると、わざと同じ瞬間に自分もページをめくる。
無言の重なり合いが、むしろ強く意識を呼び起こした。
「……レギュラス。やりづらいわ」
ついに堪えきれず、声を抑えて訴える。
図書室の澄んだ空気を乱さないよう、吐息のように漏らした言葉。
隣から返ってきたのは淡く微笑む口元と、揺るぎない声音だった。
「気にしないで続けてください」
……まるで自分の苛立ちを衝撃とすら思わないような受け流し方。
その落ち着きに、アランは胸の奥からため息を噛み殺した。
いつも彼は揺るがない。
まるで自分が抱える迷いなど些細な塵だと言わんばかりに。
再び紙面へ視線を落とし、アランは必死に集中を取り戻す。
理解する。書き写す。何度も反復して、完璧に仕上げなければ。
そうでなければ差が広がる一方だという焦りを抑え込むために。
隣を盗み見れば、レギュラスは短くノートをまとめ終えるだけで、すぐに手を止めてしまっている。
眉ひとつ曇らせることもなく、頭の中に刻み込むようにして、必要なことすべてを終えてしまうのだ。
それでも――結果は常に主席。
努力で息を切らし、時間を費やしても決して追いつけない距離。
埋まらない差がそこにはあった。
アランは自らのペンを止め、ひそかに隣を見やった。
柔らかな横顔のライン。
涼やかな睫毛が影を落とし、視線は透き通るように澄んでいる。
わずかに動く唇は静けさを纏い、その存在だけで圧倒的な完成を示していた。
――この人はどこまで完璧なのだろう。
胸に満ち上がるのは、小さな羨望。
そして、自分が脆く脆弱に過ぎないという心細さ。
憧れを越え、畏敬へ。
聖域に触れるような恐れすら含んで、その横顔を見つめてしまう。
図書室の澄んだ空気は変わらず静寂を湛えていた。
しかしアランの胸だけは、劣等感と憧憬と、ひどく複雑な思いでかき乱されていた。
光の筋に照らされた紙面の上、小さな文字を追いながらも、その心は隣にある完璧さへと引き寄せられてやまなかった。
図書室の空気は、深い湖面のように静かで澄んでいた。
羽音ひとつが響くほどの沈黙の中に、埃が金の粒のように舞い、窓から差し込む陽光にきらめきながら漂う。
アランの心もその静寂に合わせるように、わずかな緊張と必死の集中を糸のように張り詰めていた。
――だが、その均衡は不意の訪問者によって破られた。
軽やかな靴音が床を滑り、図書室の空気を揺らす。
現れたのは、バーテミウス・クラウチ。
整った顔立ちに気取らぬ笑みを浮かべて、彼は自然体のまま、まるでこの場を自分の居場所とでも言わんばかりに進み出た。
その瞬間、アランもレギュラスも背筋をぴんと立てた。
ほんの少し前まで交わしていた独特の緊張が霧散し、何事もなかったかのように淡々とした態度に切り替える。
彼らは名家の者としての仮面を心得ている。それが自然に働いたのだった。
「やあ、君たち。今日も一緒に勉強ですか?」
朗らかな声が、整然とした静寂に溶け込む。
アランは反射的に柔らかな笑みを作った。
「ええ。……もっとも、レギュラスの方は勉強する必要もなさそうですけど」
冗談めかした調子。けれどどこか自虐も滲んでいた。
バーテミウスの目が細まり、笑い声が小さくこぼれる。
「そりゃそうでしょう。アラン・セシールの美貌は有名ですからね。レギュラスも、勉強よりそちら拝みに来てるんじゃないですか?」
あまりに堂々と放たれた言葉に、アランは息を詰めた。
苦笑しか返せず、頬は驚きと羞恥で淡く赤に染まり、手の震えを止められなかった。
すぐにレギュラスが声を上げた。
「……あなたの方こそ、そろそろ試験対策に本腰を入れた方が宜しいのでは?」
端正で落ち着いた口調だが、言葉には鋭さが宿っていた。
「はは、それもそうですね」
バーテミウスが肩を竦め、悪びれずに返す。
彼もまた優秀な成績を誇る生徒だ。レギュラスには及ばなくとも、アランより優れている分野は幾つかある。
視界の端で、再び小さな劣等感がアランの心に滴り落ちる。
――どうして、名家の子たちはこうも完璧に映るのだろう。
努力で積み重ねても、越えられぬ壁がいつも目の前に立っている。
胸を支えていたはずの勉学の努力が、急にかすかな空虚さを帯び始める。
その時だった。
「ところで――君たちはセックスはしてるんですか?」
唐突に放たれた言葉は、雷のように場を打ち砕いた。
「……っ!」
アランの視界が揺れ、目が大きく見開かれる。
ペンを持つ指が弾かれ、乾いた音を立てて机に落ちた。
羞恥と衝撃が、一気に顔面へ広がる。燃えるような熱が頬から喉元へと駆け巡った。
――こんな場所で、そんなことを。
人前で口にすることさえ冒涜のような言葉を、彼はあまりにも簡単に吐き出した。
だが、隣のレギュラスは一分の揺らぎも見せなかった。
机に肘を置き、冷静に、落ち着き払った声で返す。
「……バーテミウス。君は“デリカシー”というものをどこに置き忘れてきたのです?」
一瞬の間。
そしてバーテミウスは快活に笑い返した。
「ついさっき、ハッフルパフのぼけっとした子の隣に置き忘れてきちゃったみたいでね」
軽すぎる言葉。
無遠慮で、無鉄砲で、それでいて妙に場を支配する力を持った口調。
それを聞いて、さすがのレギュラスもふっと小さな笑みを零した。
二人の間にだけ成り立つ奇妙なやり取り。
互いにしか許されない空気がある。
けれどアランには、それがまるで別世界の出来事のように響いた。
――自分にとっては、口にすることすら忌むべきものだと思っていた話題。
誰かが軽々と、それも笑いながら交わすことが、この世にありえるのか。
心臓が締めつけられ、顔は赤く火照り、胸の中にざらりとした波紋が広がる。
羞恥か。恐怖か。
そのどちらとも違う、名もなき感情。
図書室の灯りは相変わらず穏やかに揺れていた。
けれどアランの内側だけは、その一言を契機に乱れ続け、静けさを永遠に取り戻せぬよう思えた。
バーテミウスが軽やかな足取りのまま姿を消すと、図書室は再び深い静けさに包まれた。
本の並ぶ背の高い棚、灯りに揺れる炎の小さな揺らめき、遠くで咳払いする生徒の音。
すべてが穏やかで、先ほどの出来事など幻のようにさえ思える――はずだった。
だが、アランの心は依然ざわついていた。
閉じた唇が微かに震え、開く勇気はどうしても持てない。
あの唐突な言葉の衝撃は、まだ胸をしっかりと縛っていた。
――あんな話題。
いまだかつて交わしたことがない。
ルームメイト同士でさえ、あのような言葉を冗談にすることはなかった。
耳にしたのも初めてで、どのように受け止めればよいのか分からない。
それ以上に驚かされたのは――レギュラスだった。
彼が、あの言葉をまるで些末な話題のように受け流したこと。
彼は常に真面目で冷静。軽口や不躾なやりとりとは最も無縁の人物だと、アランは心から信じていた。
だから、あまりにも自然なその対応に、胸の奥が強く揺れた。
「…… アラン。そう気にしなくていいですよ」
低い声が、隣から落ちる。
その声音は穏やかで揺らぎがなく、確実な安心を与えようとするかのようだった。
「彼は言いふらして回るような人ではありませんから」
アランは眉を寄せ、心で小さく呟いた。
――そういうことじゃ、ないの。
口にすることはできなかった。
問題は人に知られること自体ではない。
それよりも、自分の胸奥にある「秘めねばならないもの」が、あまりに軽々と口の上に晒されたことが恐ろしかったのだ。
あれは誰の耳にも触れてはならない、羞恥にまみれた秘密。
他ならぬ二人の間に厳重に閉ざしておくべきもの。
それを、笑い交じりに抉られてしまった。
現実感のなさに、胸はぎゅうっと縮まり、体の芯が冷えていく。
「……レギュラスは、そういう話題に……慣れているんですね」
やっとの思いで声を結ぶ。
問いかけるつもりであり、同時に自身の不安を吐き出した言葉でもあった。
レギュラスは、小さく微笑んだ。
灰色の瞳に浮かぶのは、いつもと変わらぬ落ち着きだった。
「あの人は……あけすけに何でも話す男ですから」
さらりと落とされた返答。
それは彼にとっては何てことのない会話にすぎなかったかもしれない。
だがアランにとっては違った。
――では、自分のことも?
胸奥がざわめく。
羞恥に濡れた秘め事さえ、どこまで外の世界に流れ込んでいるのだろう。
閉じ込めたいはずのことがすでに、秘めきれていないのかもしれない。
その可能性が、恐怖の影となって忍び寄る。
呼吸を整えようと深く息を吸い込む。
しかし心臓の鼓動は速さを増し、耳の奥でざわつく血流の音がやけに鮮明になる。
秘めるべきもの。
隠しておかねばならぬもの。
それが、すでに秘めきれぬ影をまとい、揺らいでしまっている。
――その事実が、アランには恐ろしくてたまらなかった。
静けさの中、本のページをめくるわずかな音が響く。
だがアランの心は静かに遠雷を抱いたように波立ち続け、二度と落ち着きを取り戻せないとさえ思えた。
夜の談話室は、窓ガラスを覆い尽くす闇と、暖炉の中に残るわずかな炎だけが支配していた。
静かに燃えるその赤は、壁に影の揺らめきを落とし、床に伸びた黒い模様をあやしく揺り動かす。
アランが勉強机に歩もうとした足元もまた、赤い光に包まれ、影が波打つようによろめいた。
「……もう、戻るんですか?」
背後から声が落ちる。
振り返れば、レギュラスがいた。
落ち着いた仕草で椅子から立ち上がり、淡々とした灰色の瞳を真っ直ぐにこちらへ向けていた。
「試験が近いもの。勉強しておかないと」
努めて軽やかに言葉を紡ぐと、レギュラスの唇がかすかに緩んだ。
けれど笑みと呼べるほどには動かない、ひどく小さな揺れ。
「……あなたなら、ある程度は大丈夫でしょう」
揺るぎない声音。
それは称賛であると同時に、軽やかに逃げ場を塞ぐ響きを持っていた。
「それは、レギュラス。あなたに限った話よ」
口に出して返した言葉には、ほんの少しの悔しさが宿った。
自分には必死さが必要だ。
彼のように自然に、たやすく物事を完遂できるわけではない。
そう確かめるつもりで告げた時だった。
伸ばされた彼の指がすっとアランの手を攫い、そのまま絡んだ。
「……っ」
驚いて声を失うより早く、ゆるやかに引かれ、気づけばソファの縁に腰を下ろしていた。
握られた手の甲を、彼の指先が優しく、執拗に、癖のように何度もなぞる。
その繰り返しは、音ひとつない静寂の中でいやに際立ち、アランの心を小さくざわつかせた。
「そんなに早く戻られると、寂しいじゃないですか……」
甘やかな声音。
それは頼りないほどの弱さを含んでいた。
ほんの少し伏せられた瞳が、鋭さを遠ざけ、寄る辺なさを見せている。
――この端正な顔で。
誰もが憧れる、羨望と敬意の的となる完璧な彼が。
こんな言葉を吐くなんて。
アランは思わず小さく息を呑んだ。
胸の奥で、ぞわりと冷たいものが撫でた。
――もし、この完璧な人間をここまで変えてしまった要因が、自分にあるのだとしたら。
そこに思い至った瞬間、背筋が震えた。
シリウスが家を去った今、オリオンもヴァルブルガも、すべての望みをただ一人の息子であるレギュラスにかけている。
その彼をここまで変えてしまった――ともし気づかれたら。
その事実を“背信”として断罪されたなら。
自分には一体どんな罰が待ち受けているのか。
想像しただけで、喉の奥に冷たさが広がり、呼吸が浅くなる。
レギュラスの口から零れた甘美な言葉は、幸福のような姿を装いながら、同時に巨大な影をともなって心に沈み込んでいく。
寄り添うその温もりは確かに甘い。
けれど、同じ重みで檻となり、逃げ場を塞いでいく。
アランの胸に広がるものは、愛でも憧れでもなく――恐怖に絡め取られ、静かに重みを増す影ばかりだった。
深更。
ホグワーツの寮は、息を潜めたように静まり返っていた。
石造りの壁も、重たい天蓋の布も、夜気を遮り、閉ざされた安らぎを守っているはずの空間。
そのはずなのに――ふっと、そこに入り混じった気配がアランの夢をかすめ、意識を引き戻した。
瞼を開く。
そこに立っていたのは――シリウスだった。
「……っ」
息が詰まり、言葉が出なかった。
一瞬にして眠気は飛び去り、鼓動が暴れるように跳ね上がる。
彼は唇にそっと指を当てて、片眉を上げる。
囁き声は、火花のように短く切れていた。
「しっ……静かにしろ、アラン」
「……シリウス、一体……どうやって忍び込んだの……?」
息を押し殺して問い返す。
声は小刻みに震え、胸の内側で心臓が溢れんばかりに躍っていた。
彼の口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「秘密を教えてやる。……だから、出かけよう」
その瞬間、胸がどくんと跳ねた。
――夜の冒険。
校則をいくつも破り捨てる危うさ。常ならば恐怖に変わるものが、この人となら昂揚に変わる。
アランの手は自然に動き、寝巻きのローブを脱ぎ捨てる。
慌てて衣服を引き寄せ、袖を通した。
肺の奥に息を抱え込み、喉奥に込めた鼓動を抑える。
「……窓を? でも、ここは地下なのに……」
シリウスの指示に従って窓を開け放った瞬間、冷たい石壁の奥から吸い込まれるような空気が流れ込む。
けれど地下の窓は闇しか映さず、外の気配などなかった。
困惑するアランの横顔を見て、シリウスはただ笑った。
「……ああ。いいから見て驚けよ」
挑発にも似たその調子に、心がつかまれる。
何を仕掛けてくるのか理解できない――それでも、抗えずに目を見開いた。
「アラン、俺の背中に乗れ」
言葉が落ちた刹那。
すらりとした少年の姿が、杖すら振られぬままに漆黒の影へとほどけていく。
毛並みのつややかな大きな犬。
揺らめく焔を閉じ込めたような双眸が暗闇を灯し、堂々と立ちはだかる。
「……っ」
見開いた瞳の奥で、理解がぐらりと揺れた。
呪文の響きもないのに、人が姿を変える。
知らなかった秘密と力が、目の前で鮮やかに暴かれた。
黒犬となったシリウスは、低く喉を鳴らす。
「クン」と短く声を上げ、首をかしげる。
その仕草は、まるで言葉の代わりに「早く乗れ」と告げていた。
「……シリウス……?」
恐怖と興奮とが混じった声が漏れた。
ためらいを押し隠し、アランはそっとその背に跨る。
毛皮は見た目よりも温かく、たくましい筋肉の振動が掌を通して伝わる。
その力強さに触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたように高鳴った。
「……!」
しがみついた途端、漆黒の体はぐっと地を蹴った。
重たい足音が階段を駆け上がり、石壁に反響する。
加速するたびに伝わる衝撃が、アランの心臓の鼓動と重なり、息が溢れた。
昂揚。
恐怖。
そして甘美な解放感。
そのすべてがないまぜとなって押し寄せる。
――どこへ向かうのだろう。
――この夜の先に、何が待っているのだろう。
答えは分からない。
ただ確かなのは、このひと時。
シリウスと共に、世界の扉を踏み開こうとしている。
その予感だけが、星々のない地下の闇さえ眩しく照らしていた。
黒犬の逞しい背に必死にしがみつきながら、アランは暗い石の階段を駆け上がっていた。
耳を切り裂くような湿った風が地下の回廊から吹き上がり、冷気が足元から絡みつく。
薄暗い壁に灯りはなく、ただ犬の力強い脚の動きと、規則正しく響く肉球の打音だけが頼りだった。
「……っ」
喉の奥で小さな悲鳴が生まれかけ、かろうじて飲み込む。
けれど次の瞬間、その鼓動は恐怖からではなく胸の昂ぶりのせいで速さを増していった。
耳に届くのは生命そのものの力強い響き。
厚い毛皮越しに伝わる躍動は、恐怖を溶かし、血を沸き立たせる。
――怖くない。
むしろ……嬉しい。
そう思った瞬間、胸の奥から押さえきれぬ興奮が込み上げてくるのを感じた。
ほどなく、螺旋を描く石段の闇が途切れ、ふいに空気が変わった。
地上へ――抜け出したのだ。
夜の冷気が頬を撫で、肺の中へ鋭く流れ込む。
アランの視界がぱっと開けた瞬間、言葉は奪われていた。
眼前に広がったのは、静かに眠る一面の湖。
月の光は白銀の道となり、鏡のように澄んだ水面を滑っていた。
その銀色の軌跡が風を受けてわずかに揺れ、湖畔の草叢を淡く照らし出す。
梢の影は静かに揺れ、すべてが月という灯りに照らされた幻想の舞台と化していた。
「……きれい……」
胸の奥から、掠れるほど細い声が自然に零れた。
黒犬――シリウスは振り返らなかった。
背を低く伏せ、そのまま森の縁へと駆け抜けていく。
月明かりが梢の隙間から降り注ぎ、漆黒の毛並みに皓々とした光を重ねる。
光と闇とが彼の体を彩り、その姿を荒々しくも神聖に際立たせた。
――この人とだから。
校則も、叱責も、恐れやためらいも。
全部越えられてしまう。
自分ひとりでは絶対に踏み込めない危うさの扉も、彼と共ならば確かに開くのだ。
やがて犬は岸辺に立ち止まり、肩を上下させながら夜気を大きく吸い込んだ。
そして低く、満足げに一声「ワン」と鳴いた。
その短い響きが静かな湖面に波紋を描いた次の瞬間――全身がぐらりと揺らめく。
黒い影はするりと形を変え、その場に立っていたのは人間の姿のシリウス。
月が照らす銀の空気を浴び、唇に浮かんだ笑みは凛々しさと不敵さを併せ持っていた。
「秘密、教えてやるって言っただろ」
低い声が夜に溶ける。
その瞬間に目が合い、アランの翡翠の瞳が大きく瞠られた。
心臓はまだ早鐘のように鳴っていた。
けれど、やはり恐怖はなかった。
胸いっぱいに広がるのは、これまで味わったことのない解放感。
その震えが、全身を甘美に支配する。
足元の湖面には、月が映り込み、その隣に寄り添って立つ二人の影が揺れていた。
ひとつに寄り添う自分の影と、彼の影。
アランは初めて、そこに映る漆黒の影を美しいと――心の底から、そう思った。
呪文をひとつも唱えぬまま。
杖のひとかけらさえ使わずに。
ただ意志の力だけで、目の前の少年は大きな黒犬へ、そしてまた瞬く間に人へと姿を変えた。
その変貌は、アランの眼には上級魔法を越えた奇跡そのものとして映った。
常識では到底及ばない領域。
熟練の魔法使いですら息を呑むであろう、底知れぬ自在さ。
「……シリウス……あなた……ほんとに、すごいのね……」
震える声が、自然にこぼれ落ちた。
畏れに似た感情と、憧憬に似た思いと。
そのどちらもが胸の奥に混ざり、溢れかえっていた。
――こんな人に、自分は恋をしているのだ。
その事実だけで胸がいっぱいになる。
想いは尊く、同時に恐れ多くもあった。
シリウスはわずかに肩を竦め、けれども得意げな笑みを浮かべた。
「習得したんだ。ジェームズたちと一緒にな」
あまりにも簡単にそう口にする。
それがかえって衝撃を深くした。
人の姿を自在に変える魔法。
学び舎の片隅で、若き学生たちが会得するにはあまりに難解で、あまりに超常的な術。
それを彼らは成し遂げてしまったのだ。
――やはり、この兄弟は。
シリウスにしろ、レギュラスにしろ。
共に人並みを越えた力を持っている。
その瞬間、不意に心に揺らめきが灯った。
レギュラスの面影。
「……!」
思わず胸が痛む。
なぜ、今。
どうして、シリウスと二人きりの、最も大切なこの時に。
愛おしいと願った人の顔ではなく、別の名が脳裏を掠めてしまうのか。
その矛盾に自ら困惑し、心は掻き乱されていく。
けれど――。
迷いに沈みかけたその時、シリウスがふいに顔を寄せた。
月光に濡れた双眸が、まっすぐに自分を包み込む。
「…… アラン」
囁くような声。
そして――唇が触れ合った。
白銀の輝きに照らされた湖畔で、やわらかな熱が流れ込む。
「……っ」
一瞬、我に返ろうとした。
だがその意思はあまりにも脆い。
熱に絡め取られ、意識はたちまち溺れていった。
迷いも、恐れも、その瞬間に胸を支配していた疑問すらも。
すべては温もりに溶かされ、無力なほどに消えていく。
ただ一つ残ったのは――彼の存在。
彼の温もり。
彼という光が、胸をひたひたに満たしている。
――やっぱり、この人が好き。
その想いが確かめられたこと。
たとえ矛盾を抱えていても、自分の心が彼へと揺るぎなく向かえること。
それだけで、アランの胸は安堵に震えた。
愛おしい人へと躊躇いなく差し伸ばせる手。
その確かさだけが、いまの自分を救っていた。
湖面に映る月の光が、白銀の揺らめきを二人の影と繋ぎ合わせる。
寄り添うふたつの影が溶け合い、月明かりの下でひとつとなる。
その瞬間、アランは初めて世界の中に自分の居場所を感じたのだった。
ジェームズ・ポッターはそう確信していた。
その夜も、親友たちとともにいつもの“遊び”に熱を上げていた。
二手に分かれて未知を探検し、新しい隠し場や抜け道を見つけた方が勝ち。
くだらない、しかし胸が躍る勝負だ。
しかも今は違う。
つい先日仕上げたばかりの、例の魔法の地図がある。
古びた羊皮紙の上には、夜の校舎を歩く者たちの名が小さく光の点のように記されていた。
見えない位置までくっきりと示し示すその奇妙な魔法は、冒険を何倍も面白くしてくれる。
その地図を覗き込んでいたとき、ジェームズの目はふと止まった。
――レギュラス・ブラック。
その名のすぐ隣に―― アラン・セシール。
偶然? いや、あまりにも都合がよすぎる。
胸の奥に小さな引っかかりが生じた。
息が浅くなりながらも、目を凝らして刻まれた印を確認する。
やはり間違いなく、二人の名は並んでいた。
「……」
確かめるべきだ。
ジェームズはそう思った。
あのふたりが果たしてどこまで本気なのか。
アランはどんな顔で彼に向き合っているのか。
もし互いの想いが確かなのだとしたら――
親友、シリウスの心はどうなる?
未来が確実に傷つくと分かっていて、なお背を押せと言えるのか。
それとも、止めなければならないのか。
答えの出ない思考に掻き立てられるまま、ジェームズは足音を忍ばせ、印の示す先へと向かった。
静まり返った石造りの廊下の一角に、二人の影が寄り添っていた。
薄暗がりの中、はっきりと見えぬ輪郭を、ジェームズは壁に掌を添えて覗き込む。
「アラン……痛くなかったですか?」
レギュラスの声。
低く、しかし驚くほど柔らかで、微笑むような響きを含んでいた。
ジェームズの背筋を、冷たいものが奔った。
その声色に、思わず歯が食いしばられる。
「……ごめんなさい、レギュラス。……私、きっとあなたのローブ、汚しちゃったわ」
アランの声が続いた。
羞恥を含んで震えながらも、どこか切実さがあった。
「そんなことはいいんです。……あなたが辛くなければ」
薄闇の中、レギュラスが彼女の制服を整えているのが見て取れた。
袖を引き寄せ、襟元を直し、乱れを隠すように。
細やかな仕草のひとつひとつに、彼の想いが透けて見える。
会話。
仕草。
わずかな間合い。
すべてが雄弁に語っていた。
――レギュラス・ブラックは、アラン・セシールを愛している。
―― アラン・セシールもまた、その想いを拒んではいない。
その現実が、ジェームズの目にはっきりと映った。
「……やっぱり、か」
言葉が胸の底で呻くように零れた。
もしこれが事実なら。
親友シリウスは、どれだけ傷つくことになるのか。
胸の奥が苦しく締めつけられた。
肩を押されるように息が詰まり、唇を噛みしめる。
見えている光景が正しいかどうか、確証までは分からない。
けれど、ふたりの関係がもはや“秘密”の領域には収まらない重さを持っていることは、嫌でも理解させられてしまった。
ジェームズは地図を握る手に力を込め、眉を寄せる。
――自分はこの先、どうすべきなのか。
愛するという事実を前にして、親友へどんな言葉をかければいいのか。
嘘をつくべきか、真実を突きつけるべきか。
答えはまだ、どこにも見つからなかった。
ただ確かにあったのは、押し潰されそな胸の痛みだけだった。
そして、その痛みこそがジェームズ・ポッターという少年の優しさと苛烈さを、これから先の選択へ導いていく種子となるのだった。
図書室の空気は、ひりつくほど張り詰めていた。
分厚い石造りの壁に刻まれた静寂は、わずかに舞い上がる埃のひと粒すら鮮明に映し出す。
窓から差し込む斜光の筋が埃を照らし、金色の舞を描く。
その煌めきがむしろ静謐を際立たせ、ページをめくる音や、ペン先の走るかすかな擦過音さえも重々しい響きとなって広がった。
机の上には分厚い教科書と、すでに幾度も読み返されたページの癖が刻まれたノート。
アランは細い指に握られたペンを必死に走らせていた。
試験が近い。
遅れをとるわけにはいかない。
理解が曖昧な部分を丁寧に潰し、一つひとつの問題を解き直し、演習を重ねていく。
呼吸も乱さず、まるで自分の存在を図書室の一部に融け込ませるように、無音の努力を積み重ねていた。
だが――。
その集中を乱すものがあった。
視線だ。
隣の席から注がれる熱い眼差し。
ちらりと横目をやると、そこにはレギュラスがいた。
彼も一度は同じようにノートを広げ、数ページにわたって筆を走らせていた。
けれどそれはすぐに終わり、今はただこちらだけに視線を据えている。
本を読むふりはしない。
ただ真っ直ぐ、アランを見ている。
時折、アランの髪が頬にかかると、その指先でそっと掬いあげる。
紙の束をめくると、わざと同じ瞬間に自分もページをめくる。
無言の重なり合いが、むしろ強く意識を呼び起こした。
「……レギュラス。やりづらいわ」
ついに堪えきれず、声を抑えて訴える。
図書室の澄んだ空気を乱さないよう、吐息のように漏らした言葉。
隣から返ってきたのは淡く微笑む口元と、揺るぎない声音だった。
「気にしないで続けてください」
……まるで自分の苛立ちを衝撃とすら思わないような受け流し方。
その落ち着きに、アランは胸の奥からため息を噛み殺した。
いつも彼は揺るがない。
まるで自分が抱える迷いなど些細な塵だと言わんばかりに。
再び紙面へ視線を落とし、アランは必死に集中を取り戻す。
理解する。書き写す。何度も反復して、完璧に仕上げなければ。
そうでなければ差が広がる一方だという焦りを抑え込むために。
隣を盗み見れば、レギュラスは短くノートをまとめ終えるだけで、すぐに手を止めてしまっている。
眉ひとつ曇らせることもなく、頭の中に刻み込むようにして、必要なことすべてを終えてしまうのだ。
それでも――結果は常に主席。
努力で息を切らし、時間を費やしても決して追いつけない距離。
埋まらない差がそこにはあった。
アランは自らのペンを止め、ひそかに隣を見やった。
柔らかな横顔のライン。
涼やかな睫毛が影を落とし、視線は透き通るように澄んでいる。
わずかに動く唇は静けさを纏い、その存在だけで圧倒的な完成を示していた。
――この人はどこまで完璧なのだろう。
胸に満ち上がるのは、小さな羨望。
そして、自分が脆く脆弱に過ぎないという心細さ。
憧れを越え、畏敬へ。
聖域に触れるような恐れすら含んで、その横顔を見つめてしまう。
図書室の澄んだ空気は変わらず静寂を湛えていた。
しかしアランの胸だけは、劣等感と憧憬と、ひどく複雑な思いでかき乱されていた。
光の筋に照らされた紙面の上、小さな文字を追いながらも、その心は隣にある完璧さへと引き寄せられてやまなかった。
図書室の空気は、深い湖面のように静かで澄んでいた。
羽音ひとつが響くほどの沈黙の中に、埃が金の粒のように舞い、窓から差し込む陽光にきらめきながら漂う。
アランの心もその静寂に合わせるように、わずかな緊張と必死の集中を糸のように張り詰めていた。
――だが、その均衡は不意の訪問者によって破られた。
軽やかな靴音が床を滑り、図書室の空気を揺らす。
現れたのは、バーテミウス・クラウチ。
整った顔立ちに気取らぬ笑みを浮かべて、彼は自然体のまま、まるでこの場を自分の居場所とでも言わんばかりに進み出た。
その瞬間、アランもレギュラスも背筋をぴんと立てた。
ほんの少し前まで交わしていた独特の緊張が霧散し、何事もなかったかのように淡々とした態度に切り替える。
彼らは名家の者としての仮面を心得ている。それが自然に働いたのだった。
「やあ、君たち。今日も一緒に勉強ですか?」
朗らかな声が、整然とした静寂に溶け込む。
アランは反射的に柔らかな笑みを作った。
「ええ。……もっとも、レギュラスの方は勉強する必要もなさそうですけど」
冗談めかした調子。けれどどこか自虐も滲んでいた。
バーテミウスの目が細まり、笑い声が小さくこぼれる。
「そりゃそうでしょう。アラン・セシールの美貌は有名ですからね。レギュラスも、勉強よりそちら拝みに来てるんじゃないですか?」
あまりに堂々と放たれた言葉に、アランは息を詰めた。
苦笑しか返せず、頬は驚きと羞恥で淡く赤に染まり、手の震えを止められなかった。
すぐにレギュラスが声を上げた。
「……あなたの方こそ、そろそろ試験対策に本腰を入れた方が宜しいのでは?」
端正で落ち着いた口調だが、言葉には鋭さが宿っていた。
「はは、それもそうですね」
バーテミウスが肩を竦め、悪びれずに返す。
彼もまた優秀な成績を誇る生徒だ。レギュラスには及ばなくとも、アランより優れている分野は幾つかある。
視界の端で、再び小さな劣等感がアランの心に滴り落ちる。
――どうして、名家の子たちはこうも完璧に映るのだろう。
努力で積み重ねても、越えられぬ壁がいつも目の前に立っている。
胸を支えていたはずの勉学の努力が、急にかすかな空虚さを帯び始める。
その時だった。
「ところで――君たちはセックスはしてるんですか?」
唐突に放たれた言葉は、雷のように場を打ち砕いた。
「……っ!」
アランの視界が揺れ、目が大きく見開かれる。
ペンを持つ指が弾かれ、乾いた音を立てて机に落ちた。
羞恥と衝撃が、一気に顔面へ広がる。燃えるような熱が頬から喉元へと駆け巡った。
――こんな場所で、そんなことを。
人前で口にすることさえ冒涜のような言葉を、彼はあまりにも簡単に吐き出した。
だが、隣のレギュラスは一分の揺らぎも見せなかった。
机に肘を置き、冷静に、落ち着き払った声で返す。
「……バーテミウス。君は“デリカシー”というものをどこに置き忘れてきたのです?」
一瞬の間。
そしてバーテミウスは快活に笑い返した。
「ついさっき、ハッフルパフのぼけっとした子の隣に置き忘れてきちゃったみたいでね」
軽すぎる言葉。
無遠慮で、無鉄砲で、それでいて妙に場を支配する力を持った口調。
それを聞いて、さすがのレギュラスもふっと小さな笑みを零した。
二人の間にだけ成り立つ奇妙なやり取り。
互いにしか許されない空気がある。
けれどアランには、それがまるで別世界の出来事のように響いた。
――自分にとっては、口にすることすら忌むべきものだと思っていた話題。
誰かが軽々と、それも笑いながら交わすことが、この世にありえるのか。
心臓が締めつけられ、顔は赤く火照り、胸の中にざらりとした波紋が広がる。
羞恥か。恐怖か。
そのどちらとも違う、名もなき感情。
図書室の灯りは相変わらず穏やかに揺れていた。
けれどアランの内側だけは、その一言を契機に乱れ続け、静けさを永遠に取り戻せぬよう思えた。
バーテミウスが軽やかな足取りのまま姿を消すと、図書室は再び深い静けさに包まれた。
本の並ぶ背の高い棚、灯りに揺れる炎の小さな揺らめき、遠くで咳払いする生徒の音。
すべてが穏やかで、先ほどの出来事など幻のようにさえ思える――はずだった。
だが、アランの心は依然ざわついていた。
閉じた唇が微かに震え、開く勇気はどうしても持てない。
あの唐突な言葉の衝撃は、まだ胸をしっかりと縛っていた。
――あんな話題。
いまだかつて交わしたことがない。
ルームメイト同士でさえ、あのような言葉を冗談にすることはなかった。
耳にしたのも初めてで、どのように受け止めればよいのか分からない。
それ以上に驚かされたのは――レギュラスだった。
彼が、あの言葉をまるで些末な話題のように受け流したこと。
彼は常に真面目で冷静。軽口や不躾なやりとりとは最も無縁の人物だと、アランは心から信じていた。
だから、あまりにも自然なその対応に、胸の奥が強く揺れた。
「…… アラン。そう気にしなくていいですよ」
低い声が、隣から落ちる。
その声音は穏やかで揺らぎがなく、確実な安心を与えようとするかのようだった。
「彼は言いふらして回るような人ではありませんから」
アランは眉を寄せ、心で小さく呟いた。
――そういうことじゃ、ないの。
口にすることはできなかった。
問題は人に知られること自体ではない。
それよりも、自分の胸奥にある「秘めねばならないもの」が、あまりに軽々と口の上に晒されたことが恐ろしかったのだ。
あれは誰の耳にも触れてはならない、羞恥にまみれた秘密。
他ならぬ二人の間に厳重に閉ざしておくべきもの。
それを、笑い交じりに抉られてしまった。
現実感のなさに、胸はぎゅうっと縮まり、体の芯が冷えていく。
「……レギュラスは、そういう話題に……慣れているんですね」
やっとの思いで声を結ぶ。
問いかけるつもりであり、同時に自身の不安を吐き出した言葉でもあった。
レギュラスは、小さく微笑んだ。
灰色の瞳に浮かぶのは、いつもと変わらぬ落ち着きだった。
「あの人は……あけすけに何でも話す男ですから」
さらりと落とされた返答。
それは彼にとっては何てことのない会話にすぎなかったかもしれない。
だがアランにとっては違った。
――では、自分のことも?
胸奥がざわめく。
羞恥に濡れた秘め事さえ、どこまで外の世界に流れ込んでいるのだろう。
閉じ込めたいはずのことがすでに、秘めきれていないのかもしれない。
その可能性が、恐怖の影となって忍び寄る。
呼吸を整えようと深く息を吸い込む。
しかし心臓の鼓動は速さを増し、耳の奥でざわつく血流の音がやけに鮮明になる。
秘めるべきもの。
隠しておかねばならぬもの。
それが、すでに秘めきれぬ影をまとい、揺らいでしまっている。
――その事実が、アランには恐ろしくてたまらなかった。
静けさの中、本のページをめくるわずかな音が響く。
だがアランの心は静かに遠雷を抱いたように波立ち続け、二度と落ち着きを取り戻せないとさえ思えた。
夜の談話室は、窓ガラスを覆い尽くす闇と、暖炉の中に残るわずかな炎だけが支配していた。
静かに燃えるその赤は、壁に影の揺らめきを落とし、床に伸びた黒い模様をあやしく揺り動かす。
アランが勉強机に歩もうとした足元もまた、赤い光に包まれ、影が波打つようによろめいた。
「……もう、戻るんですか?」
背後から声が落ちる。
振り返れば、レギュラスがいた。
落ち着いた仕草で椅子から立ち上がり、淡々とした灰色の瞳を真っ直ぐにこちらへ向けていた。
「試験が近いもの。勉強しておかないと」
努めて軽やかに言葉を紡ぐと、レギュラスの唇がかすかに緩んだ。
けれど笑みと呼べるほどには動かない、ひどく小さな揺れ。
「……あなたなら、ある程度は大丈夫でしょう」
揺るぎない声音。
それは称賛であると同時に、軽やかに逃げ場を塞ぐ響きを持っていた。
「それは、レギュラス。あなたに限った話よ」
口に出して返した言葉には、ほんの少しの悔しさが宿った。
自分には必死さが必要だ。
彼のように自然に、たやすく物事を完遂できるわけではない。
そう確かめるつもりで告げた時だった。
伸ばされた彼の指がすっとアランの手を攫い、そのまま絡んだ。
「……っ」
驚いて声を失うより早く、ゆるやかに引かれ、気づけばソファの縁に腰を下ろしていた。
握られた手の甲を、彼の指先が優しく、執拗に、癖のように何度もなぞる。
その繰り返しは、音ひとつない静寂の中でいやに際立ち、アランの心を小さくざわつかせた。
「そんなに早く戻られると、寂しいじゃないですか……」
甘やかな声音。
それは頼りないほどの弱さを含んでいた。
ほんの少し伏せられた瞳が、鋭さを遠ざけ、寄る辺なさを見せている。
――この端正な顔で。
誰もが憧れる、羨望と敬意の的となる完璧な彼が。
こんな言葉を吐くなんて。
アランは思わず小さく息を呑んだ。
胸の奥で、ぞわりと冷たいものが撫でた。
――もし、この完璧な人間をここまで変えてしまった要因が、自分にあるのだとしたら。
そこに思い至った瞬間、背筋が震えた。
シリウスが家を去った今、オリオンもヴァルブルガも、すべての望みをただ一人の息子であるレギュラスにかけている。
その彼をここまで変えてしまった――ともし気づかれたら。
その事実を“背信”として断罪されたなら。
自分には一体どんな罰が待ち受けているのか。
想像しただけで、喉の奥に冷たさが広がり、呼吸が浅くなる。
レギュラスの口から零れた甘美な言葉は、幸福のような姿を装いながら、同時に巨大な影をともなって心に沈み込んでいく。
寄り添うその温もりは確かに甘い。
けれど、同じ重みで檻となり、逃げ場を塞いでいく。
アランの胸に広がるものは、愛でも憧れでもなく――恐怖に絡め取られ、静かに重みを増す影ばかりだった。
深更。
ホグワーツの寮は、息を潜めたように静まり返っていた。
石造りの壁も、重たい天蓋の布も、夜気を遮り、閉ざされた安らぎを守っているはずの空間。
そのはずなのに――ふっと、そこに入り混じった気配がアランの夢をかすめ、意識を引き戻した。
瞼を開く。
そこに立っていたのは――シリウスだった。
「……っ」
息が詰まり、言葉が出なかった。
一瞬にして眠気は飛び去り、鼓動が暴れるように跳ね上がる。
彼は唇にそっと指を当てて、片眉を上げる。
囁き声は、火花のように短く切れていた。
「しっ……静かにしろ、アラン」
「……シリウス、一体……どうやって忍び込んだの……?」
息を押し殺して問い返す。
声は小刻みに震え、胸の内側で心臓が溢れんばかりに躍っていた。
彼の口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「秘密を教えてやる。……だから、出かけよう」
その瞬間、胸がどくんと跳ねた。
――夜の冒険。
校則をいくつも破り捨てる危うさ。常ならば恐怖に変わるものが、この人となら昂揚に変わる。
アランの手は自然に動き、寝巻きのローブを脱ぎ捨てる。
慌てて衣服を引き寄せ、袖を通した。
肺の奥に息を抱え込み、喉奥に込めた鼓動を抑える。
「……窓を? でも、ここは地下なのに……」
シリウスの指示に従って窓を開け放った瞬間、冷たい石壁の奥から吸い込まれるような空気が流れ込む。
けれど地下の窓は闇しか映さず、外の気配などなかった。
困惑するアランの横顔を見て、シリウスはただ笑った。
「……ああ。いいから見て驚けよ」
挑発にも似たその調子に、心がつかまれる。
何を仕掛けてくるのか理解できない――それでも、抗えずに目を見開いた。
「アラン、俺の背中に乗れ」
言葉が落ちた刹那。
すらりとした少年の姿が、杖すら振られぬままに漆黒の影へとほどけていく。
毛並みのつややかな大きな犬。
揺らめく焔を閉じ込めたような双眸が暗闇を灯し、堂々と立ちはだかる。
「……っ」
見開いた瞳の奥で、理解がぐらりと揺れた。
呪文の響きもないのに、人が姿を変える。
知らなかった秘密と力が、目の前で鮮やかに暴かれた。
黒犬となったシリウスは、低く喉を鳴らす。
「クン」と短く声を上げ、首をかしげる。
その仕草は、まるで言葉の代わりに「早く乗れ」と告げていた。
「……シリウス……?」
恐怖と興奮とが混じった声が漏れた。
ためらいを押し隠し、アランはそっとその背に跨る。
毛皮は見た目よりも温かく、たくましい筋肉の振動が掌を通して伝わる。
その力強さに触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたように高鳴った。
「……!」
しがみついた途端、漆黒の体はぐっと地を蹴った。
重たい足音が階段を駆け上がり、石壁に反響する。
加速するたびに伝わる衝撃が、アランの心臓の鼓動と重なり、息が溢れた。
昂揚。
恐怖。
そして甘美な解放感。
そのすべてがないまぜとなって押し寄せる。
――どこへ向かうのだろう。
――この夜の先に、何が待っているのだろう。
答えは分からない。
ただ確かなのは、このひと時。
シリウスと共に、世界の扉を踏み開こうとしている。
その予感だけが、星々のない地下の闇さえ眩しく照らしていた。
黒犬の逞しい背に必死にしがみつきながら、アランは暗い石の階段を駆け上がっていた。
耳を切り裂くような湿った風が地下の回廊から吹き上がり、冷気が足元から絡みつく。
薄暗い壁に灯りはなく、ただ犬の力強い脚の動きと、規則正しく響く肉球の打音だけが頼りだった。
「……っ」
喉の奥で小さな悲鳴が生まれかけ、かろうじて飲み込む。
けれど次の瞬間、その鼓動は恐怖からではなく胸の昂ぶりのせいで速さを増していった。
耳に届くのは生命そのものの力強い響き。
厚い毛皮越しに伝わる躍動は、恐怖を溶かし、血を沸き立たせる。
――怖くない。
むしろ……嬉しい。
そう思った瞬間、胸の奥から押さえきれぬ興奮が込み上げてくるのを感じた。
ほどなく、螺旋を描く石段の闇が途切れ、ふいに空気が変わった。
地上へ――抜け出したのだ。
夜の冷気が頬を撫で、肺の中へ鋭く流れ込む。
アランの視界がぱっと開けた瞬間、言葉は奪われていた。
眼前に広がったのは、静かに眠る一面の湖。
月の光は白銀の道となり、鏡のように澄んだ水面を滑っていた。
その銀色の軌跡が風を受けてわずかに揺れ、湖畔の草叢を淡く照らし出す。
梢の影は静かに揺れ、すべてが月という灯りに照らされた幻想の舞台と化していた。
「……きれい……」
胸の奥から、掠れるほど細い声が自然に零れた。
黒犬――シリウスは振り返らなかった。
背を低く伏せ、そのまま森の縁へと駆け抜けていく。
月明かりが梢の隙間から降り注ぎ、漆黒の毛並みに皓々とした光を重ねる。
光と闇とが彼の体を彩り、その姿を荒々しくも神聖に際立たせた。
――この人とだから。
校則も、叱責も、恐れやためらいも。
全部越えられてしまう。
自分ひとりでは絶対に踏み込めない危うさの扉も、彼と共ならば確かに開くのだ。
やがて犬は岸辺に立ち止まり、肩を上下させながら夜気を大きく吸い込んだ。
そして低く、満足げに一声「ワン」と鳴いた。
その短い響きが静かな湖面に波紋を描いた次の瞬間――全身がぐらりと揺らめく。
黒い影はするりと形を変え、その場に立っていたのは人間の姿のシリウス。
月が照らす銀の空気を浴び、唇に浮かんだ笑みは凛々しさと不敵さを併せ持っていた。
「秘密、教えてやるって言っただろ」
低い声が夜に溶ける。
その瞬間に目が合い、アランの翡翠の瞳が大きく瞠られた。
心臓はまだ早鐘のように鳴っていた。
けれど、やはり恐怖はなかった。
胸いっぱいに広がるのは、これまで味わったことのない解放感。
その震えが、全身を甘美に支配する。
足元の湖面には、月が映り込み、その隣に寄り添って立つ二人の影が揺れていた。
ひとつに寄り添う自分の影と、彼の影。
アランは初めて、そこに映る漆黒の影を美しいと――心の底から、そう思った。
呪文をひとつも唱えぬまま。
杖のひとかけらさえ使わずに。
ただ意志の力だけで、目の前の少年は大きな黒犬へ、そしてまた瞬く間に人へと姿を変えた。
その変貌は、アランの眼には上級魔法を越えた奇跡そのものとして映った。
常識では到底及ばない領域。
熟練の魔法使いですら息を呑むであろう、底知れぬ自在さ。
「……シリウス……あなた……ほんとに、すごいのね……」
震える声が、自然にこぼれ落ちた。
畏れに似た感情と、憧憬に似た思いと。
そのどちらもが胸の奥に混ざり、溢れかえっていた。
――こんな人に、自分は恋をしているのだ。
その事実だけで胸がいっぱいになる。
想いは尊く、同時に恐れ多くもあった。
シリウスはわずかに肩を竦め、けれども得意げな笑みを浮かべた。
「習得したんだ。ジェームズたちと一緒にな」
あまりにも簡単にそう口にする。
それがかえって衝撃を深くした。
人の姿を自在に変える魔法。
学び舎の片隅で、若き学生たちが会得するにはあまりに難解で、あまりに超常的な術。
それを彼らは成し遂げてしまったのだ。
――やはり、この兄弟は。
シリウスにしろ、レギュラスにしろ。
共に人並みを越えた力を持っている。
その瞬間、不意に心に揺らめきが灯った。
レギュラスの面影。
「……!」
思わず胸が痛む。
なぜ、今。
どうして、シリウスと二人きりの、最も大切なこの時に。
愛おしいと願った人の顔ではなく、別の名が脳裏を掠めてしまうのか。
その矛盾に自ら困惑し、心は掻き乱されていく。
けれど――。
迷いに沈みかけたその時、シリウスがふいに顔を寄せた。
月光に濡れた双眸が、まっすぐに自分を包み込む。
「…… アラン」
囁くような声。
そして――唇が触れ合った。
白銀の輝きに照らされた湖畔で、やわらかな熱が流れ込む。
「……っ」
一瞬、我に返ろうとした。
だがその意思はあまりにも脆い。
熱に絡め取られ、意識はたちまち溺れていった。
迷いも、恐れも、その瞬間に胸を支配していた疑問すらも。
すべては温もりに溶かされ、無力なほどに消えていく。
ただ一つ残ったのは――彼の存在。
彼の温もり。
彼という光が、胸をひたひたに満たしている。
――やっぱり、この人が好き。
その想いが確かめられたこと。
たとえ矛盾を抱えていても、自分の心が彼へと揺るぎなく向かえること。
それだけで、アランの胸は安堵に震えた。
愛おしい人へと躊躇いなく差し伸ばせる手。
その確かさだけが、いまの自分を救っていた。
湖面に映る月の光が、白銀の揺らめきを二人の影と繋ぎ合わせる。
寄り添うふたつの影が溶け合い、月明かりの下でひとつとなる。
その瞬間、アランは初めて世界の中に自分の居場所を感じたのだった。
