1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その夜。
全ての仕事を終え、薄暗い自室に腰を下ろした瞬間、アランの身体から力が抜け落ちた。
重い鎖を解かれたようでありながら、同時に、胸の奥には別の鎖が食い込み続けている。
昼間の記憶――。
路地裏に零れ落ちた買い物籠の音。
背を壁に押し付けられ、逃げ場を失った瞬間の感覚。
強すぎる唇の熱。
思い出す度、胸がぞわりと締め付けられ、冷気にも似た恐怖が背筋を撫でていく。
――もし、誰かに見られていたら。
頭をよぎるのは、オリオンの低く冷たい声。
ヴァルブルガの氷の針のような視線。
慈悲などない断罪の言葉。
想像の中のその光景に追い詰められ、息が苦しくなる。
逃げられない。背を向けることもできない。
強張った呼吸を繋いでいた、その時だった。
――コツ、コツ。
窓を叩く小さな音。
心臓が飛び跳ねるように跳ねた。
恐怖の震えで顔を上げた瞬間、アランの双眸は大きく揺れた。
そこにいたのは――漆黒の夜を切り裂いて浮かぶひとつの影。
箒に跨るシリウス。
風を背に受けて靡く黒髪、夜をそのまま宿したようでいて、双眸だけは星々よりも自由な輝きを放つ。
「……シリウス!」
思わず声が零れた。
頬に血の色が一気に戻り、心が跳ねる。
彼は悪戯っぽく片眉を上げ、微笑む。
夜風に吹かれたその横顔は、冷たい闇を鮮やかに切り裂いていた。
急いで窓を開け放つと、部屋に冷たい風と共にシリウスの姿が流れ込んでくる。
「どうしたの……?」
問いかける声は震えていた。
けれどそれは恐怖ではなく、抑え切れない喜びの熱に揺れる震えだった。
シリウスは口角を上げ、少年のような笑みで応じた。
「夜のデートに誘いに来たんだ」
その響きに、アランの唇にも自然と笑みが浮かんだ。
闇の中でかけられたその言葉は、まるで魔法の呪文のように心を縛っていた闇を一息で解き放った。
胸の奥に沈殿していた重さ――恐れも、自責も、沼のような絶望も。
それらすべてが溶け、心に光が差し込んでいく。
窓枠の向こう、差し出された手。
それを掴むのは二度目だった。
初めてのときは緊張で体が固まって、腕は震え、手は強張っていた。
けれど今はもう違う。
迷いはなかった。
「今日はどこに?」
生まれた問いかけに、シリウスは空を背に笑った。
その灰色の瞳には、夜空をも超える確信の光が宿っていた。
「――マグルの空を見せてやるよ」
その瞬間、アランの胸が大きく高鳴る。
昼間ふと過ぎった記憶――まだ彼と共に過ごしていた頃、マグルの街を歩き、見慣れない通貨に戸惑いながらも二人で笑い合った小さな幸せ。
それは今も翡翠色の心に鮮烈に息づいている。
もう一度、そのきらめきに触れられるのだとしたら。
全身が熱に包まれた。
恐れと重苦しさで覆われていた心は、宵闇の中でふたたび羽根を持つように軽やかになる。
翡翠の瞳がきらめき、差し伸べられた手をまっすぐに取る。
次の瞬間、アランは躊躇なくシリウスの背に寄り添っていた。
夜空は、二人を誘うように広がっている。
屋敷の扉ではなく、星々の輝きへと続く別の扉が、今まさに開かれようとしていた。
風を切り裂く音が、鋭く耳をかすめていった。
冷たい夜気は頬を刺すように吹き付け、アランのローブの裾を大きくはためかせる。
箒は夜空を一直線に駆け抜け、数多の星でさえ置き去りにしてしまうかのような勢いで加速していく。
アランはシリウスの背中にぴったりと体を重ね、両腕でしっかりと彼を抱き締めていた。
夜空の高さと速度は恐ろしいほどだった。
もし自分ひとりだけなら、その恐怖に押し潰されて叫び声をあげていたかもしれない。
だが、不思議と怖くはなかった。
――シリウスがいるから。
彼の広い背中に全てを預け、伝わってくる心臓の鼓動を感じ取っているからこそ、何も恐るるものがなかった。
「……シリウス。会いたかったの」
夜風に紛れてしまいそうな、小さなかすれ声。
けれど確かに、言葉は彼の胸に届いた。
「……ああ。俺もだ」
背を振り返らなくても分かる。
声音だけで、彼の誠実な心が胸の奥を温めてくれる。
ほんの少し低く甘いその響きは、心臓をやさしく揺さぶり、今にも涙を誘うほどやわらかかった。
やがて箒はゆっくりと高度を下げていく。
眼下に広がる景色――それは魔法界とはまるで異なる光景だった。
「……!」
息を飲む間もなく、目の前いっぱいに広がっていたのはマグルの街。
闇の中に散りばめられた無数の光。
道路一面に流れていくのは、まるで星屑が大地に落ちたようなヘッドライトの群れ。
夜であるのに眠らぬビル群は窓ごとに無数の灯火を宿し、人工の山脈のように光りを返している。
高く伸びた煙突からは煙が絶えず立ち上り、その先で赤い警告灯が点滅を繰り返していた。
「……すごく、綺麗ね……シリウス」
声が震え、瞳が潤んだ。
まるで自分の世界そのものが覆されたかのように驚きが広がる。
シリウスは得意げに鼻を鳴らし、片頬で笑った。
「ああ、だろ? 見ろよ。あれも、あれも、ぜんぶ魔法なんか使ってないんだ」
魔法ではない――。
ただの人々の工夫と、力と、ひたむきさで築かれた光。
魔法で織られた灯でもなく、杖が生み出す恣意の結果でもない。
それなのに、いや、それだからこそ――街全体が闇を押し戻し、生命の息吹を灯すように煌々と輝いている。
アランは胸が震えるのを感じた。
自分が生まれ育った魔法界は確かに居場所であり、誇りだった。
けれど今、この瞬間。
――魔法を持たないはずの世界が、これほど眩しい。
どこまでも自分の力で立ち、眠らぬまま生き続けている。
「……魔法じゃないのに、光が……消えない……」
「魔法じゃないのに、あんなにたくさんのものが動いて……」
震える声で囁く。
瞳に映る光景は息を奪い、ただただ圧倒されるばかりだった。
この街の方が、光り輝いて見える。
そう心が告げた瞬間、アランの胸は強く打ち、瞳がきらめいた。
――私は、この背を離したくない。
どこまでも自由に。
どこまでも遠くへ。
シリウスの背中が、今の自分にとって唯一の翼。
唇を噛みしめながら、アランはさらに強く抱きついた。
この人となら。
この光へ連れて行ってくれる人となら。
見たことのない世界を、何度でも見ることができる。
夜空への扉は、とっくに開かれていた。
そこから覗く輝きは、檻を超えて、彼女の中の魂を照らしていた。
シリウスに手を引かれるまま、アランは見慣れぬ小さな店の前に立った。
通りに面した扉は、大きな窓と共に明るい光を洩らし、夜の街の中でひときわ温かく彼女を誘っているようだった。
恐る恐る手を伸ばし、扉を押し開けた瞬間。
――ちりん、と鈴が鳴るかと思っていたその耳に、響いたのは鋭い機械音。
「ピッ」
まるで命令でも下されたかのような小さな音に、アランは肩をぴくりと跳ねさせた。
「……なに、今の音……?」
驚いて振り返るアランに、シリウスは勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。
「客が来たら鳴るんだ。マグルの方法ってやつだな」
その声はどこか誇らしげで、アランの胸は思わず小さく跳ねた。
彼の灰色の瞳に映る余裕が、店の光よりも鮮やかに感じられたから。
店内は、夜だというのにまるで昼のように明るかった。
魔法のランプの炎のような揺らぎは一切なく、天井から降る光は一様に澄んでいる。
整然と並ぶ棚には、数え切れないほどの品々が規則正しく置かれていた。
瓶、袋、箱、鮮やかな色の包装。
それらひとつひとつが、見たことのない新世界への扉に思え、アランの目には吸い込まれるほど不思議に映った。
「見てろよ」
シリウスが棚の奥にある大きな白い箱のようなものへ近づいていく。
彼が扉を開いた瞬間――冷気が吹き出し、アランの頬を切るように撫でた。
「……冷たい!」
反射的に身をすくめる彼女。その姿にシリウスは愉快そうに笑った。
「当然だ。マグルの“冷蔵庫”だ。魔法を使わずに食べ物を冷やして保存できるんだぞ」
その手に握られていたのは、冷えたガラス瓶。
中には金色の液体が揺れており、口のあたりには小さな白い曇りが浮かんでいた。
「……すごい……」
翡翠の瞳が大きく開いた。
心の奥から湧き出る驚嘆の声は、自分でも抑えられないものだった。
魔法を使わないのに、ここには魔法以上の奇跡がある。
こんな世界があることを知ってしまった。
もっと見たい――もっと触れたい――胸が熱に浮かされるようにわくわくしていく。
気づけば唇からぽつりと零れていた。
「……わたし、ここに住みたい……」
その言葉にシリウスは目を丸め、一瞬きょとんとした顔を見せた。
だが次の瞬間には堪え切れずに吹き出す。
「ははっ! アラン、ここは“スーパー”だぞ。ただの買い物場だ。
住むんなら……もっとマシなところにしようぜ」
軽やかに茶化すその声が、妙に嬉しかった。
堅苦しい屋敷では決して響かない種類の言葉。
その飄々とした笑いに胸がふっと軽くなり、頬に知らず笑みが広がった。
やがて会計の番となる。
見慣れぬ機械の前に立つと、アランは思わず足を止めた。
だがシリウスは迷うことなく懐から取り出した紙幣とコインを差し出した。
色合いも形も魔法界には存在しない通貨。
紙には不思議な記号や人物の肖像が刻まれ、金属の硬貨は煌めくような光を放っていた。
シリウスは戸惑う素振りもなく、慣れた様子で支払いを終える。
機械が機械を読む甲高い電子音を発し、最後に差し出された瓶を軽やかに受け取った。
涼しい顔で振り返る背中。
――格好いい。
アランの胸にひとつの言葉が響いた。
彼の姿は、誰よりも堂々として見えた。
知らない世界に迷わず踏み込み、まるで当然のように立ち回る。
自分が決して触れられなかった道を、彼はすでに歩いている。
光そのもの。
その表現しか浮かばなかった。
翡翠の瞳は自然と潤み、彼の背を追い続けていた。
――眩しい。
その一言だけが、心の奥深くに焼き付いて離れなかった。
店を出ると、夜の街はまだ眠る気配を見せていなかった。
通りには人々のざわめきが絶えることなく流れ、道を走る鉄の箱――車と呼ばれるものが、ひっきりなしにヘッドライトを光らせて行き交っている。
色とりどりの看板の灯りは闇を押し返し、魔法の明かりでもないのに世界を丸ごと繕うように街を照らしていた。
アランは思わず見上げた。
夜空は星を隠され、代わりに地上の光が天の川を奪うかのように鮮やかだった。
大地そのものが星座になったかのような光景に、胸が震える。
その時、隣でシリウスが瓶の栓を軽快に弾き飛ばした。
「ほら」
いたずらめいた笑みと共に、一本を手渡してくる。
「……私も?」
恐る恐る瓶を受け取ったアランは、掌に伝わる冷たさに息を呑んだ。
魔法で冷やされた冷たさとは違う。
もっと現実的で、生の暮らしそのものから生まれた冷たさだった。
「行くぞ……乾杯」
二人の瓶の口同士が軽く触れ合う。
澄んだ音が夜気に広がった瞬間―― アランの胸はふわりと軽く解けた。
ブラック家の冷たい空気も、ヴァルブルガの鋭い視線も、レギュラスの灼けつく熱も。
さっきまで胸を押し潰していた重苦しいすべてが、一瞬にして遠ざかっていく。
瓶を口に当てれば、泡立つ液体が喉をくすぐるように滑っていった。
少し苦みを含んだ味、それは不思議と心地よい熱を体の奥に残した。
「……っ、少し変な味」
眉を寄せて言うアランに、シリウスは吹き出す。
「慣れると美味いんだ。……まあ、お前にはちょっと早いかな?」
「そ、そんなことない。美味しく……はないけど、楽しい」
頬を赤らめ、慌てて言い直す彼女。
シリウスの笑い声が混じると、夜の通りがさらに柔らかく見えた。
アランの翡翠の瞳は、輝きに満ちて街を見回していた。
通りを流れる人々、光を絶やさない建物、遠くまで伸びる光の道。
ひとつひとつが新鮮で、世界が澄んで見える。
「……マグルの世界って、眠らないの?」
興奮に声を震わせて問うアランに、シリウスは目を細めて笑った。
「眠るところもあるさ。だけど、こうやって夜通し灯りをともす街もある」
二人を乗せた箒は高度を落としながら街の上空を旋回する。
眼下には光の海が広がり、川沿いには赤と白の灯がひと続きの帯となって揺らめいていた。
「……馬じゃないのに、走ってる……あんなに速く」
魅入られたように呟くアラン。
「車っていうんだ。ジェームズが一台持っててさ。今度一緒に乗ろう」
「……!」
ぱっと顔を上げた彼女の瞳は輝いた。
その瞬間、アランは年齢を超えて幼子のようなきらめきを放ち、心からの笑顔を零していた。
その純粋さが、シリウスの胸を柔らかく掴む。
「じゃあ、あれは?」
「あれは街灯。夜道を照らしてる」
「じゃあ、あっちは?」
「あれは工場の煙突のランプ。飛ぶものや車にぶつからないように警告してる」
「じゃあ、この赤と緑の光は?」
「あれは信号さ。進む順番を決めるやつだ」
次々と飛び出す疑問。
ひとつひとつに答える度に、アランは息を呑み、笑い、瞳を輝かせた。
――その顔が愛おしかった。
翡翠の瞳に映り込む光は、誰よりも生き生きと揺れている。
見知らぬ世界を貪るように吸い込み、ひとつひとつを宝石に変えていく。
その姿がこれほど眩しくて仕方ないのは、自分が彼女を「光の中」に連れてきたからだ。
そして思う。
この瞳が――ブラック家の冷たさに閉じ込められることだけは許したくない。
もっと広い世界を。もっと自由を。
彼女に見せてやりたい。
そのためなら、何だってする。
檻に戻してはならない。
この光の中こそが彼女の居場所であるはずなのだから。
賑わいと光の海に見入るアランの横顔を覗き込みながら、シリウスの胸には静かな誓いが生まれていた。
――この人を檻から解き放ってみせる。絶対に。
夜の街は眠らず、光は永遠に瞬いている。
その下で、二人の影もまた、未来という名の長い道に柔らかく溶け込んでいった。
マグルの街の上空――。
眼下には無数の光が果てしなく広がり、星の群れさえ霞ませていた。
見渡す限りの街灯、ビルの窓、車の列の赤や白の灯火。
大地そのものが夜空を奪い、輝きを映し返しているかのようだった。
その光景のただ中を、箒は滑るように翔けていた。
風を切り裂いて進むたびにローブがはためき、冷たい夜気が頬を打つ。
しかしシリウスの胸に去来するのは、寒さなどではなかった。
――どうしようもなく、愛おしい。
背へ寄り添ってくる少女の存在感。
肩先から伝わる細い腕のぬくもり。
そのすべてが、燃え上がる熱となって胸を突き動かす。
もし言葉にしてしまえば、なんのためらいもなく零せる。
だが形にしてしまえば、この圧倒的な想いが薄まってしまう気がした。
だから、自分の中から溢れ出す前に、ひとつの確かな形へ留めようとした。
シリウスは箒を安定させ、振り返る。
薄闇の中、翡翠の瞳が揺れている。
次の瞬間、伸ばした手で彼女の頬を包み込み、衝動のままに唇を重ねた。
「……っ」
驚いたように瞬きをしたアラン。
けれどすぐに、ふっとその瞳が柔らかく細められていった。
夜風も遠ざかり、広がる灯りも溶けて消え、二人だけの世界が夜空に漂っているようだった。
唇が離れると、彼女の吐息が静かに囁きを編んだ。
「……今、世界で私が一番、幸せ者だわ」
その言葉にシリウスは息を呑む。
胸の奥を真っ直ぐに射抜かれたようで、心臓が大きく軋んだ。
「……もっと幸せにするつもりだ」
こぼれた言葉には、照れも理屈もなかった。
声は震え、自分をも奮い立たせるように熱を帯びていた。
だが本当は分かっていた。
幸せなのは自分の方だ、と。
こんなにも焦がれ続けた少女と、いま想いを通わせている。
胸に溢れる熱も。
翡翠の瞳から差し伸べられる真摯な眼差しも。
同じ強さで、同じ方向へ向かっていた。
それが事実であることが、尊くてならなかった。
「好きだ、アラン」
飾らず、隠さず、ただ真実だけをそのまま口にした。
次の瞬間、彼女の頬が朱に染まり、にこりと微笑みが浮かぶ。
「……大好きよ、シリウス」
まだ「愛している」と言うには未熟だった。
その大人びた響きを使えるほど、二人は成熟しきっていない。
それでも、「好き」という言葉が何よりも切実で、何よりも誠実だった。
それ以上の飾りを求めずとも、確かな感情がそこにあった。
夜空の只中でふたりの想いは重なり合った。
シリウスは心の奥底で誓う。
この先いつか卒業の時を迎えたら、自らの手で必ずアランを連れ出す。
この屋敷の闇と呪縛から救い出し、真の自由を与えられる存在となる。
彼の胸に宿された誓いは、燃え上がるように刻み込まれた。
見下ろす煌めく街の灯りは、その決意を祝福するかのように鮮烈に瞬き続けている。
夜風は彼等を包み込み、未来へと誘うかのように香りを運んでいた。
――この空の下で交わした想いは、決して揺るがぬ翼になる。
そう信じながら、シリウスは彼女の髪を風に揺らしながら微笑んだ。
翌朝――。
アランの瞼は重く、身体は緩やかな倦怠に包まれていた。
ほとんど眠れずに明かしたはずなのに、その胸の奥には確かな熱が残っていた。
昨夜、煌めくマグルの街を、あの人と――シリウスと共に見下ろした夢のようなひととき。
光の海、知らない世界、自由の匂い。
その余韻がまだ柔らかく心を満たし、倦怠さえ甘美に変えていた。
彼女は仕事へ戻った。
皿を並べ、拭き上げの呪文を唱える。
すると布はふわりと宙に浮かび、音もなく舞い踊りながら一枚一枚を磨き上げていく。
影のように規律正しく動く布が、澄んだ硝子の皿を輝かせ、棚へと次々収めていった。
その動作は、アランにとってただの労働以上の意味を持っていた。
心を律し、乱れた想いを均し、表情の揺らぎを抑える――
彼女にとって「家事」は、己を守る鉄鎖でもあった。
「…… アラン」
名を呼ぶ声に、肩がビクリと大きく跳ねた。
背後からの気配。その響きは低く、決して乱れを見せない。
振り返れば、そこにレギュラスが立っていた。
光の差す窓辺にうつる灰色の瞳は、氷のように静かで、射抜くようにこちらを見つめていた。
「昨晩、どこにいらしたんです?」
瞬間、胸が凍り付いた。
心臓の鼓動が一拍遅れ、全身の血が引いていくのを実感した。
「……っ」
唇が乾き、声がまとまらない。
「……眠れなくて……少し、外の空気を吸っていただけです」
慌てて取り繕うように、震える声を押し出した。
けれど答え終えた瞬間から、彼の瞳は一切瞬かず、止まったまま自分を射抜いていた。
「そうですか……。ずいぶん長い間、外にいたんですね」
穏やかに落とされた言葉。
しかしその一滴は、胸に刃を残す毒だった。
「……」
ぎくり、と心臓が鷲掴みにされる。
――どこまで、知っている?
昨夜、自分が部屋に不在だったことを。
その時間が数時間に及んでいたことを。
どこまで気づかれているのか分からない以上、言い訳をどう組み立てればよいのか。
思考ばかりがあわあわと巡り、声は再び塞がった。
その緊張を断ち切るように、レギュラスが一歩、歩み寄った。
アランの手を、不意に取る。
それは、もう彼にとっては「癖」だった。
彼が何気なく触れるその仕草は、アランにとっては支配の合図。
息を詰め、先を読めずに怯えを覚える一瞬だった。
親指が手の甲をなぞる。
その柔らかさは、優しさを装いながらも、抗いがたい圧を潜ませている。
「……あまり長いこと外に出ていると、体が冷えますから」
温厚さを装った声。
けれどその刃は、自分がどこへ行き、何をしていたのかを暗に知っているかのように思わせた。
胸が強く突かれる。
吐き気に似た苦しさを抑えて、アランはかすかに口を開いた。
「……ありがとう」
ようやく絞れた声は、ほとんど掠れていた。
瞳を合わせる勇気もなく、ただ俯いて言葉を落とすしかできなかった。
レギュラスは何も言わなかった。
それ以上は問わない――そう悟った瞬間に、ようやく安堵がかすかに込み上げ、体の芯の力が抜けていく。
けれど安堵と同時に、冷たい影が胸を広がっていった。
昨夜、光の海に抱かれた街であれほど温もりを感じた幸福なひととき。
自由へと手を伸ばせる気がした瞬間――
それらは、この一瞬で影に覆われて消えてしまっていた。
胸は冷えきり、余韻は遠い彼方に押し戻される。
夜空で抱いた笑みと安堵は、ただ彼の灰色の瞳に遮られ、しずかに凍りついていった。
ホグワーツに戻ったその日の朝、アランは長く詰め込んでいた息を吐き出していた。
――ようやく。
胸を覆っていた重石がふっと半分減ったように思えた。
ブラック家の屋敷に絶えず漂っていた鋭い視線、冷たい監視と圧力。
オリオンの低く沈んだ声も、ヴァルブルガの突き刺さる眼差しも、ここまでは届かない。
城の石造りの壁はひんやりと冷たいのに、その奥にあるものはどこか柔らかい。
吹き抜けの高い天井はそのまま空と繋がり、閉じ込めるのではなく、むしろ心を解き放ってくれる。
アランにとってホグワーツは、いつの時代でも変わらぬ救いの砦のように思えた。
けれど“砦”の中でさえ、心は安らがない。
視線は無意識のうちに彷徨ってしまう。
どんな人垣の中であっても、自然とそれを探してしまう。
――シリウス。
屋敷を飛び出して「自由」を手にした彼。
縛るもののない姿は、以前にも増して輝きが増して見えた。
しかし、その眩い光は同時に、多くの視線を集めてしまう。
彼の周りには笑う女子生徒たちが常にいた。
声をかけ、冗談を交わし、彼は肩をすくめて笑い返す。
遠目に見るだけで胸が痛んだ。
――迎えに行く、と告げてくれた。
その言葉を信じている。
ただの気休めではなかったと、信じたい。
けれど、心の足場はあまりにも脆い。
自分には血も、名誉も、力もない。
影のように従うことしか許されない身。
そんな無力な自分が、どうしてあの人を信じ、大胆に未来を夢見られるのか。
痛む胸が、その切なさを何度も問い返した。
そして――もう一人の影がある。
レギュラス。
屋敷で浴びていた監視の目がなくなったことで、彼はむしろ大胆になっていた。
大広間でも。
談話室でも。
人が集まるその最中でさえ、彼は構わずアランに近づき、当たり前のようにその手を取って歩いた。
時には腕を肩に回し、護る風を装いながら抱くことさえあった。
それは周囲からは「弟らしい穏やかな好意」と映るのかもしれない。
けれどアランにとっては違った。
その仕草はむしろ恐ろしかった。
支配の合図であり、決して逃がさぬという誓言のように思えた。
「……レギュラス。ここは屋敷ではないの。オリオン様も、ヴァルブルガ様もいない。……けれど、それでも、どこからどう漏れるか分からないわ」
必死に抑えた声で訴えた。
魔法界は広いようでいて狭い。
一度漏れた秘密はあっという間に広がり、重苦しい噂となって絡みつく。
それを誰より理解しているのは彼女自身だった。
けれどレギュラスは、翳りを帯びない笑みのまま。
どこまでも柔らかい表情で、彼女の不安を打ち消すように答えた。
「……その時は、その時に考えましょう」
アランは息を呑んだ。
それは彼らしくない返答だった。
常に慎重で、従順で、生家の誇りを守るために一線を越えることを決してしなかった彼。
オリオンとヴァルブルガの意志に従い、穏やかにすべてを律してきた彼の口から――
どうしてこんな無謀な響きが出てきたのだろう。
――どうして。
誰が、彼を変えたのだろう。
胸を掴むような問いが、鋭い冷たさとなって心を締めつけた。
その答えは一つしか思い当たらない。
――自分だ。
そう思ってしまった瞬間、アランの足場はさらに脆く崩れていった。
ブラック家の檻を逃れたはずのホグワーツでさえ、影と光に挟まれ揺れていた。
光はシリウス。
影はレギュラス。
どちらも強く、どちらも彼女を放そうとはしなかった。
アランは冷たい石床に立ち尽くしながら、それでも必死に。
崩れ落ちる足場の上で、両腕を広げて踏みとどまろうとしていた。
――平穏など、どこにもない。
そう思い知りながら。
魔法薬学の教室は、いつものように息苦しいほど特有の匂いで満ちていた。
霧のように立ち昇る淡い蒸気が天井近くに滞留し、床へと滴り落ちる緑色の液体の音が微かに響く。
石炉の中にくべられた炎は低くうなりを上げ、まるで教室全体がひとつの大きな器に変わり、奇妙な薬を煮詰め続けているかのようだった。
アランは集中していた。
淡く色を変える薬液を絶えず撹拌し、慎重に火力を調整しながら、決して一滴も溢さぬように神経を注ぐ。
心を一点に縛り付けているときだけは、過去の影からも自由になれる気がした。
その時だった。
「きゃっ!」
隣のテーブルから甲高い声が響き、ガシャンと派手な音が床に反響する。
反射的に顔を向ければ、女生徒の手から滑り落ちたビーカーが粉々になって飛び散り、濃い色の薬液が床に広がっていくのが見えた。
鋭い破片がアランの作業台の下まで散り込み、不快なにおいが鼻先を突いた。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけるアラン。
女生徒は耳まで赤く染め、俯いて消え入りそうに答えた。
「ごめんなさい……失敗しちゃったわ」
「いいんです、すぐ片づけま――」
安堵させるように言葉を添え、アランは素早く杖を抜いた。
溢れた液体を浄化し、破片を回収して事態を収拾する――それは従者として小さい頃から身体に馴染んでいた、ごく自然な反応だった。
だが、その瞬間。
「…… アラン」
強く、ぐっと手首を掴まれた。
杖を振ろうとした腕が不意に止められ、息が詰まりそうになる。
驚いて振り返った視線の先にいたのは、レギュラスだった。
整った輪郭に浮かんだのは、冷たくも静かな眼差し。
その灰色の瞳は一切逸らさず、低い声で言葉を落とした。
「ここは屋敷ではないんです。――そんな、使用人みたいな真似はしなくていい」
「……!」
胸が痛むように震えた。
ただ助けたいという自然な衝動で杖を取っただけだったのに、それが「使用人の真似」として咎められた。
言い訳をしようと唇が震える。
けれど結局、声にはならず、言葉は喉の奥で砕けて消えた。
レギュラスの想いは分かっている。
きっと彼は本心からそう言ったのだ。
「あなたは他の生徒と同じでいい」
「もはや誰かのために働く従者である必要はない」
「学ぶ一人であってほしい」
彼はそう伝えようとしているのだと。
だが――その優しさは不思議と真っ直ぐには届かなかった。
言葉そのものは甘やかに慰めるのに、心の奥に触れた瞬間、鎖のように絡みついて離れない。
彼の意志は確かに庇護であるのに、ひとつ間違えれば全てを取り囲み、彼女を「逃げられぬ場所」へ導くものに変わる。
心が解き放たれるどころか、逆に縛られていくような、その危うさ。
それでも――彼が核に抱えている想いが真実であることを、アランは知ってしまっていた。
だからこそ、そのズレが、いっそう悲しかった。
教室に立ち込めた薬品の匂いが、彼女の胸深くへ染み込んでいく。
混ざり合わない成分が同じ釜で熱を帯び、危うげに泡を立てる。
――それはまるで、自分たちの関係そのもののように思えた。
沈黙の中で、アランはただ杖を握り直し、伏し目がちに小さな呼吸をついた。
アランはうつむいたまま、唇の端に小さな笑みを無理やり貼りつけていた。
その笑顔は、窓に描かれた曇りのようにうすく弱々しい。
「……そうね、ありがとう」
小さくつぶやく声は、言葉だけを素直に受け入れているように聞こえた。
けれどその心の奥底では、違うと静かに響いていた。
――本当は違う。
彼女は分かっている。
レギュラスのその言葉の根は「守り」だった。
彼にとってアランを「使用人」として扱うことは耐えられない。
彼女に、ただの従者の位置ではなく特別な立場を与えたい。
その思いが誠実であることもまた、否応なく理解してしまう。
けれど、その優しさは不器用にねじれて届く。
自由に羽ばたかせるよりも、鳥籠の中で布を掛けられ、大事に大事に守られる。
華やかで安全だが、空は遠く閉ざされる。
その温度が、アランには押し殺すような窒息に感じられてしまうのだった。
――もし、シリウスだったら。
不意に胸に差す影を払いのけるように、別の光景がよみがえった。
きっと彼なら、自分と同じように床にしゃがみ、手を伸ばして破片を拾うだろう。
「俺も昔、同じように失敗したことがある」
そう笑って軽口を叩き、場の重さを冗談で和らげるだろう。
そのとき彼の姿は、自分と同じ高さに在る。
上から覆いかぶせるのではなく、横に並び、共に手を動かして並んでいてくれる。
それこそが、アランが知っている「光」の在り方だった。
でも、ここにいるのはレギュラス。
彼は守ろうとするたびに、その想いが壁を築く。
大切だと告げるほどに、手のひらに感じるのは境界の厚み。
同じ机に並んで座っているのに、見えない檻の中に押し込まれるような錯覚を抱かせる。
「ありがとう」
声に出しながらも、その言葉は内心からどんどん遠のいていく。
顔に貼り付けた笑みの下で、胸は静かに痛みに締めつけられていた。
光と影。
同じ「守り」という姿でありながら、片方は未来を解き放ち、もう片方は今を縛りつける。
似て非なるその違いが、あまりにも鮮やかに浮かび上がるほどに、アランの心は細い裂け目を広げながらひっそり血を流していくようだった。
その痛みを誰にも告げることなく、彼女はただまたひとつ笑顔を作り直し――自分の心が少しずつ削がれていくのを確かに感じていた。
夜の談話室は、不思議なほどに静まり返っていた。
暖炉にはわずかな火が煤けるように残り、その柔らかな赤が壁に影を揺らしている。
外の風も止んだのか、石造りの窓枠を震わせる音さえ聞こえない。
階上から届くべき寝息もすべて途絶え、この広い空間には、アランとレギュラスだけしかいなかった。
その静寂の中で、アランは唇を奪われていた。
それは決して、彼女が求め続けた抱擁ではなかった。
かといって、完全に拒絶しきれるものでもなかった。
重ねられるたびに、昼間の記憶が鮮やかに蘇る。
――どうしても、噛み合わないふたりの形。
彼がどれほど真剣に案じ、守ろうとしてくれても、その根本には明確なズレがある。
心の奥で埋められない隙間があり、それがひりつく痛みとなって胸を締め上げる。
「……レギュラス……いや……待って――」
あえぐように、名前と共に小さな声が漏れる。
けれど、止める願いはすぐに唇で塞がれた。
暖炉が吐く熱ではなく、彼の手が肩から背へ、流れるように這っていく温度に震えが走った。
さらに腰へと深く触れようとするその動きを、必死に手で遮ろうとする。
しかしその手さえ、彼の腕の確かさに弾かれるようで心許なかった。
遮りかけた声は、再び口付けによって空気に散り、跡形もなく溶けていく。
行き場を失った思いは、閉じ込められて心臓をもてあそぶ。
――寂しかったのだ。
――寄り所が欲しかったのだ。
心を撫でてくれるものを、ずっと探していた。
その穴を一瞬埋めてくれるなら、この抱擁は救いだと思えてしまう。
けれど、それは刹那的な慰めでしかない。
抱かれながらも、ふと芽生えるのは違和感。
まるで背伸びをして大人の真似事をしているだけのような、自分には似合わない行為。
奥底の心は幼さを引きずり、不安にぶるぶると震えていた。
彼の手が触れるたび、腕から腰へと深みに誘おうとするたびに、胸はきつく縮んだ。
これ以上踏み込めば、どこか取り返しのつかない領域へ足を踏み入れてしまう。
自分にはまだ、それを受け止め切る力も、勇気もない。
できない――。
強いその思いだけが、胸の内でかすれた声となった。
心と身体の齟齬がひどく、呼吸さえもばらばらになっていく。
レギュラスの温度に包まれながら、アランは自分の内側を見失いかけていた。
欲しているのに、拒んでいる。
寄りかかりたいのに、逃げたい。
矛盾が二つの極となって胸を引き裂き、身体の震えとなってあらわになる。
やがて、そっと瞼の下に熱が溜まっていった。
見せるわけにはいかないはずのもの。
けれど、堪えても堪えても、静かに涙がにじもうとしていた。
赤い火の残滓が壁に揺れる。
暗い炎のゆらめきが、まるで胸の痛みをそのまま映し出しているようだった。
夜の談話室には確かにふたりしかいない。
しかしアランの心は、そこにある影さえ見えぬほど、深く引き裂かれ、孤立していた。
談話室を後にし、自室へ戻ったとき。
重たい扉を押し閉めた瞬間、アランの全身から音もなく力が抜け落ちた。
背を壁へと預けると、冷たい石の感触に体がずるりと滑りそうになる。
足元からじわりと震えが広がり、息を詰めても抑えきれない。
――どうして、断ち切れないの。
心の奥で幾度目か分からぬ問いを投げかけた。
あの温度に、どうして抵抗できなかったのか。
レギュラスの腕を振り払うことはできなかった。
抱きとめられて、唇を塞がれて、心は拒んでいたはずなのに、身体は微動だにしなかった。
それは、自分の弱さに他ならない。
拠り所を求めてしまう心。
寂しさを埋めてもらいたいと願ってしまう甘え。
そして――シリウスを待ち続けているはずの自分との矛盾。
「……っ」
喉が詰まり、浅い呼吸が震えた。
気づけば、自分の掌が震える目を覆っていた。
温く滲んだ瞼の奥から、涙が堰を切りそうになる。
力を振り絞るように歩み出て、鏡台の前に腰を下ろす。
そこに映る己の顔――薄闇に浮かぶその姿は、他の誰でもなく、紛れもなく自分自身だった。
赤く熱を帯びた頬。
潤んで溶けそうな瞳。
唇にはまだ、さっきの熱が淡く残っているように思えた。
「……汚れていく」
心でそう呟いた言葉は、鏡の中の顔に跳ね返り、深く突き刺さった。
胸の奥で暗い渦が巻き起こっている。
自己嫌悪。
拭い去ろうとしても、何度でも絡みついてくる。
シリウスを想い続けながら、なおレギュラスに凭れてしまう。
その矛盾をどうすることもできず、胸の奥が痛む。
――シリウスなら。
思うだけで激しい痛みが胸を突く。
あの人なら、自分を無理に追い詰めることはしないだろう。
温かな笑い声で、差し伸べる手で、軽やかに救い上げてくれるはずだ。
自分はその光を選んだ。
その背を追いたいと誓った。
それなのに――足が影に向かっている。
居場所を間違えている。
分かっているのに、離れられない。
涙がつっと頬を伝った。
けれど、声は出なかった。
――逃げたい。けれど逃げない。
――抗いたい。けれど抗えない。
その矛盾の渦に呑み込まれていく自分が、一番恐ろしかった。
まるで、自分で自分を檻へ押し込んでいるようだった。
小さな嗚咽を喉の奥で必死に飲み込む。
静まり返った部屋に、かすかな呼吸の乱れだけが漂う。
窓の外に瞬く星々は、見上げることさえできぬほど遠かった。
アランはその夜、鏡の前に座り込んだまま動けなかった。
映し出されるのは、弱さに裂かれ、涙に濡れた自分自身という現実。
光も影も掴めず、ただ孤独だけが確かな姿を持って、彼女と向き合い続けていた。
朝の光が石造りの寮の窓からぼんやりと差し込み、冷えた空気にかすかな温もりを混ぜていた。
アランは鏡の前に立ち、そっと自分の顔を覗き込む。
頬に残っていた赤みは一晩のうちに引いていた。
けれど瞼の腫れは誤魔化せなかった。泣いた痕がうっすらと浮かび、眠れぬ夜を告げていた。
「平気な顔をしなくちゃ」
小さく呟き、深く息を吐く。
制服の襟を正そうと細い指を動かし、落ち着きを自分に言い聞かせるように。
自分自身にかける呪文のように、身体中へ「大丈夫」と叩き込む。
けれど胸の奥は容易に従わなかった。
大広間へ足を運ぶと、食事をしていた数人の生徒たちがちらりと顔を上げた。
一瞬、視線がこちらに集まり、またすぐに逸れる。
それは何気ない仕草のはずだった。
ただの偶然、あるいは思い過ごし。
しかしアランには、それぞれが胸を突き刺すような強さを持っていた。
「見られている」――そう感じるだけで、背筋がひやりと冷えていく。
席につこうとしたとき、不意に声がかかった。
「おい、アラン。大丈夫か?」
軽やかで、いつもの調子。
振り返れば、そこにシリウスが立っていた。
「……シリウス……」
心臓が思わず震えた。速く打ち、温かく血を広げていく。
「ええ、大丈夫。ただ少し眠れなかっただけ」
口角を持ち上げ、努めて笑みを作った。
シリウスは眉をひそめながらも、それ以上は深く追及しなかった。
焼き立てのパンを一切れ、無造作に差し出してくる。
「たまには昼寝でもしろよ。授業中にコソッととかさ」
軽口。
その軽さが救いだった。
どこまでも自然で、押し付けがましくなく、ただ心を解き放つように背を撫でてくる。
胸の奥が、じん、と熱を帯びていった。
その瞬間、ふと影が近づく。
「……本当に、眠れなかっただけですか?」
低い声が肩口から降ってきて、背筋が冷やされる。
アランは慌てて振り返った。
そこに立っていたのは、レギュラスだった。
灰色の瞳が真っ直ぐに彼女を射抜き、その眼差しはすでに嘘を見抜いていた。
問いかける調子は静かだが、抗いがたい圧迫を含んでいる。
「……ええ」
視線を逸らし、小さく答える。
それ以上の説明はできない。口にすれば、声が詰まってしまいそうだったから。
レギュラスは深く頷いた。
追及はしなかった。
けれど、当然のようにアランの背に手を置き、席へと導いた。
ほんのわずかな接触。
それだけのはずなのに、逃げ場を封じられる感覚が全身を覆った。
――光と影。
片や、軽やかに支え、心を自由へと導こうとする一人。
笑いに包み、痛みを忘れさせてくれるシリウス。
片や、優しさと支配が一体となり、逃げられぬ檻のように迫るもう一人。
その掌に触れれば、息苦しくても抗えなくなるレギュラス。
どちらの手にも無意識に応じてしまう弱さを、自分は抱えている。
だからこそ、その矛盾が胸にずしりと重く、心臓の奥を締めつけて苦しかった。
パンの香り、銀器の触れ合う音、人々の笑い声。
大広間を満たすはずの心地よい日常の気配は、アランにとってただ遠く、薄れて聞こえていた。
彼女の耳に残るのは――光と影の二つの声。
そして、その狭間で揺れ続ける自分自身の、弱く痛い鼓動だけだった。
レギュラスの胸には、消えようのない夜の記憶が今も焼き付いていた。
――シリウスが家を去った夜。
あの瞬間、世界は壊れた。
家の支柱のひとつが折れたかのように、父も母も静かに絶望し、屋敷の空気は氷のように尖った。
そんな絶望に覆われた宵に、自分の方へすがるように身を寄せてきた少女がいた。
アラン。
震える肩を抱き締めた時の感触は、昨日のことのように蘇る。
細い腕が必死に自分に絡まり、その温度が確かに伝わってきた。
その夜の記憶だけは、どんな冷酷な叱責や皮肉の言葉よりも鮮明に彼を貫いている。
あの瞬間だけは――彼女は確かに、自分の中へ存在した。
その事実が愛おしく、同時に、長らく保ち続けていた歯止めを一つずつ奪っていった。
それからだ。
彼女へ向ける感情が、恐ろしいほど加速度的に膨らんでいったのは。
思えば、以前までは慎重であった。
父と母、家族の監視を一瞬たりとも意識せずに過ごしたことなどなかった。
言葉一つ、仕草一つまで選び抜き、疑念を抱かせぬように従順を装ってきた。
しかし今は違う。
ふとした触れ合いにも耐えられなくなった。
視線をそらすことができなくなった。
翡翠の瞳を見つめ返すたびに、己を縛っていた規律が音を立てて崩れていく。
父や母が不審の色を濃くしていったのも、当然のことだろう。
アランの存在が「特別」であると、彼らさえ気づき始めていた。
婚約の話が急速に現実となり、異様な速さで進められていったのも、あの夜が影を落としていたに違いなかった。
だが、それでも構わない。
アランに寄り添ったあの夜、自分は初めて「渇望」という名の形なき怪物に、輪郭を与えられたのだ。
胸を焼き続けてきた曖昧な思いが、あの一瞬で歓喜という確かな熱へと変わった。
――この喜びを、もっと深く。
――もっと確かなものへ。
ホグワーツに戻った今、父と母の冷たい目はない。
屋敷の重苦しい堅牢さはなく、ここならば二人きりにもなれる。
ならばこそ、限界までこの関係を深めてしまいたい。
そう思った。
その願いはもはや抑えようのない鼓動となり、胸の奥で響き続けていた。
夕刻の談話室。
窓から差し込む薄暮が、大理石の床を茜色に染めている。
壁に掲げられたランプもまだ灯されず、誰もいないその空間に影が伸びていた。
その中で、彼は彼女に声をかけた。
「アラン……今夜、星を見ませんか」
ごく自然に、何気ない誘いを装って。
しかし声の奥底には熱が震えていた。
灰色の瞳は静かに微笑んでいたが、その奥で渦巻くものはただ一つ――「もっと傍に」という叫び。
アランは少し肩を揺らし、それから静かに頷いた。
ほんの短い仕草だった。
拒むでもなく、穏やかに受け入れるでもない。
ただ曖昧に頷いただけ。
けれど、その小さな動作がレギュラスを満たすには十分だった。
「……ありがとうございます」
こぼれた自分の声が震えているのを、自身で驚くほどに感じ取る。
拒絶ではなかった。――それだけで十分。
その一点が彼にとっては安堵に変わり、胸を緩やかに占めていった。
今夜、翡翠の瞳を抱きとめられるのだ。
その確信だけで、心臓は高鳴り、呼吸すらも熱を帯びた。
煌く星の夜が訪れれば――あの夜と同じ温度を、もっと深く、もっと確かな形で手中にできる。
そう夢想しながら、レギュラスは夕暮れの薄明かりの中で静かに目を細めていた。
全ての仕事を終え、薄暗い自室に腰を下ろした瞬間、アランの身体から力が抜け落ちた。
重い鎖を解かれたようでありながら、同時に、胸の奥には別の鎖が食い込み続けている。
昼間の記憶――。
路地裏に零れ落ちた買い物籠の音。
背を壁に押し付けられ、逃げ場を失った瞬間の感覚。
強すぎる唇の熱。
思い出す度、胸がぞわりと締め付けられ、冷気にも似た恐怖が背筋を撫でていく。
――もし、誰かに見られていたら。
頭をよぎるのは、オリオンの低く冷たい声。
ヴァルブルガの氷の針のような視線。
慈悲などない断罪の言葉。
想像の中のその光景に追い詰められ、息が苦しくなる。
逃げられない。背を向けることもできない。
強張った呼吸を繋いでいた、その時だった。
――コツ、コツ。
窓を叩く小さな音。
心臓が飛び跳ねるように跳ねた。
恐怖の震えで顔を上げた瞬間、アランの双眸は大きく揺れた。
そこにいたのは――漆黒の夜を切り裂いて浮かぶひとつの影。
箒に跨るシリウス。
風を背に受けて靡く黒髪、夜をそのまま宿したようでいて、双眸だけは星々よりも自由な輝きを放つ。
「……シリウス!」
思わず声が零れた。
頬に血の色が一気に戻り、心が跳ねる。
彼は悪戯っぽく片眉を上げ、微笑む。
夜風に吹かれたその横顔は、冷たい闇を鮮やかに切り裂いていた。
急いで窓を開け放つと、部屋に冷たい風と共にシリウスの姿が流れ込んでくる。
「どうしたの……?」
問いかける声は震えていた。
けれどそれは恐怖ではなく、抑え切れない喜びの熱に揺れる震えだった。
シリウスは口角を上げ、少年のような笑みで応じた。
「夜のデートに誘いに来たんだ」
その響きに、アランの唇にも自然と笑みが浮かんだ。
闇の中でかけられたその言葉は、まるで魔法の呪文のように心を縛っていた闇を一息で解き放った。
胸の奥に沈殿していた重さ――恐れも、自責も、沼のような絶望も。
それらすべてが溶け、心に光が差し込んでいく。
窓枠の向こう、差し出された手。
それを掴むのは二度目だった。
初めてのときは緊張で体が固まって、腕は震え、手は強張っていた。
けれど今はもう違う。
迷いはなかった。
「今日はどこに?」
生まれた問いかけに、シリウスは空を背に笑った。
その灰色の瞳には、夜空をも超える確信の光が宿っていた。
「――マグルの空を見せてやるよ」
その瞬間、アランの胸が大きく高鳴る。
昼間ふと過ぎった記憶――まだ彼と共に過ごしていた頃、マグルの街を歩き、見慣れない通貨に戸惑いながらも二人で笑い合った小さな幸せ。
それは今も翡翠色の心に鮮烈に息づいている。
もう一度、そのきらめきに触れられるのだとしたら。
全身が熱に包まれた。
恐れと重苦しさで覆われていた心は、宵闇の中でふたたび羽根を持つように軽やかになる。
翡翠の瞳がきらめき、差し伸べられた手をまっすぐに取る。
次の瞬間、アランは躊躇なくシリウスの背に寄り添っていた。
夜空は、二人を誘うように広がっている。
屋敷の扉ではなく、星々の輝きへと続く別の扉が、今まさに開かれようとしていた。
風を切り裂く音が、鋭く耳をかすめていった。
冷たい夜気は頬を刺すように吹き付け、アランのローブの裾を大きくはためかせる。
箒は夜空を一直線に駆け抜け、数多の星でさえ置き去りにしてしまうかのような勢いで加速していく。
アランはシリウスの背中にぴったりと体を重ね、両腕でしっかりと彼を抱き締めていた。
夜空の高さと速度は恐ろしいほどだった。
もし自分ひとりだけなら、その恐怖に押し潰されて叫び声をあげていたかもしれない。
だが、不思議と怖くはなかった。
――シリウスがいるから。
彼の広い背中に全てを預け、伝わってくる心臓の鼓動を感じ取っているからこそ、何も恐るるものがなかった。
「……シリウス。会いたかったの」
夜風に紛れてしまいそうな、小さなかすれ声。
けれど確かに、言葉は彼の胸に届いた。
「……ああ。俺もだ」
背を振り返らなくても分かる。
声音だけで、彼の誠実な心が胸の奥を温めてくれる。
ほんの少し低く甘いその響きは、心臓をやさしく揺さぶり、今にも涙を誘うほどやわらかかった。
やがて箒はゆっくりと高度を下げていく。
眼下に広がる景色――それは魔法界とはまるで異なる光景だった。
「……!」
息を飲む間もなく、目の前いっぱいに広がっていたのはマグルの街。
闇の中に散りばめられた無数の光。
道路一面に流れていくのは、まるで星屑が大地に落ちたようなヘッドライトの群れ。
夜であるのに眠らぬビル群は窓ごとに無数の灯火を宿し、人工の山脈のように光りを返している。
高く伸びた煙突からは煙が絶えず立ち上り、その先で赤い警告灯が点滅を繰り返していた。
「……すごく、綺麗ね……シリウス」
声が震え、瞳が潤んだ。
まるで自分の世界そのものが覆されたかのように驚きが広がる。
シリウスは得意げに鼻を鳴らし、片頬で笑った。
「ああ、だろ? 見ろよ。あれも、あれも、ぜんぶ魔法なんか使ってないんだ」
魔法ではない――。
ただの人々の工夫と、力と、ひたむきさで築かれた光。
魔法で織られた灯でもなく、杖が生み出す恣意の結果でもない。
それなのに、いや、それだからこそ――街全体が闇を押し戻し、生命の息吹を灯すように煌々と輝いている。
アランは胸が震えるのを感じた。
自分が生まれ育った魔法界は確かに居場所であり、誇りだった。
けれど今、この瞬間。
――魔法を持たないはずの世界が、これほど眩しい。
どこまでも自分の力で立ち、眠らぬまま生き続けている。
「……魔法じゃないのに、光が……消えない……」
「魔法じゃないのに、あんなにたくさんのものが動いて……」
震える声で囁く。
瞳に映る光景は息を奪い、ただただ圧倒されるばかりだった。
この街の方が、光り輝いて見える。
そう心が告げた瞬間、アランの胸は強く打ち、瞳がきらめいた。
――私は、この背を離したくない。
どこまでも自由に。
どこまでも遠くへ。
シリウスの背中が、今の自分にとって唯一の翼。
唇を噛みしめながら、アランはさらに強く抱きついた。
この人となら。
この光へ連れて行ってくれる人となら。
見たことのない世界を、何度でも見ることができる。
夜空への扉は、とっくに開かれていた。
そこから覗く輝きは、檻を超えて、彼女の中の魂を照らしていた。
シリウスに手を引かれるまま、アランは見慣れぬ小さな店の前に立った。
通りに面した扉は、大きな窓と共に明るい光を洩らし、夜の街の中でひときわ温かく彼女を誘っているようだった。
恐る恐る手を伸ばし、扉を押し開けた瞬間。
――ちりん、と鈴が鳴るかと思っていたその耳に、響いたのは鋭い機械音。
「ピッ」
まるで命令でも下されたかのような小さな音に、アランは肩をぴくりと跳ねさせた。
「……なに、今の音……?」
驚いて振り返るアランに、シリウスは勝ち誇ったように唇の端を吊り上げた。
「客が来たら鳴るんだ。マグルの方法ってやつだな」
その声はどこか誇らしげで、アランの胸は思わず小さく跳ねた。
彼の灰色の瞳に映る余裕が、店の光よりも鮮やかに感じられたから。
店内は、夜だというのにまるで昼のように明るかった。
魔法のランプの炎のような揺らぎは一切なく、天井から降る光は一様に澄んでいる。
整然と並ぶ棚には、数え切れないほどの品々が規則正しく置かれていた。
瓶、袋、箱、鮮やかな色の包装。
それらひとつひとつが、見たことのない新世界への扉に思え、アランの目には吸い込まれるほど不思議に映った。
「見てろよ」
シリウスが棚の奥にある大きな白い箱のようなものへ近づいていく。
彼が扉を開いた瞬間――冷気が吹き出し、アランの頬を切るように撫でた。
「……冷たい!」
反射的に身をすくめる彼女。その姿にシリウスは愉快そうに笑った。
「当然だ。マグルの“冷蔵庫”だ。魔法を使わずに食べ物を冷やして保存できるんだぞ」
その手に握られていたのは、冷えたガラス瓶。
中には金色の液体が揺れており、口のあたりには小さな白い曇りが浮かんでいた。
「……すごい……」
翡翠の瞳が大きく開いた。
心の奥から湧き出る驚嘆の声は、自分でも抑えられないものだった。
魔法を使わないのに、ここには魔法以上の奇跡がある。
こんな世界があることを知ってしまった。
もっと見たい――もっと触れたい――胸が熱に浮かされるようにわくわくしていく。
気づけば唇からぽつりと零れていた。
「……わたし、ここに住みたい……」
その言葉にシリウスは目を丸め、一瞬きょとんとした顔を見せた。
だが次の瞬間には堪え切れずに吹き出す。
「ははっ! アラン、ここは“スーパー”だぞ。ただの買い物場だ。
住むんなら……もっとマシなところにしようぜ」
軽やかに茶化すその声が、妙に嬉しかった。
堅苦しい屋敷では決して響かない種類の言葉。
その飄々とした笑いに胸がふっと軽くなり、頬に知らず笑みが広がった。
やがて会計の番となる。
見慣れぬ機械の前に立つと、アランは思わず足を止めた。
だがシリウスは迷うことなく懐から取り出した紙幣とコインを差し出した。
色合いも形も魔法界には存在しない通貨。
紙には不思議な記号や人物の肖像が刻まれ、金属の硬貨は煌めくような光を放っていた。
シリウスは戸惑う素振りもなく、慣れた様子で支払いを終える。
機械が機械を読む甲高い電子音を発し、最後に差し出された瓶を軽やかに受け取った。
涼しい顔で振り返る背中。
――格好いい。
アランの胸にひとつの言葉が響いた。
彼の姿は、誰よりも堂々として見えた。
知らない世界に迷わず踏み込み、まるで当然のように立ち回る。
自分が決して触れられなかった道を、彼はすでに歩いている。
光そのもの。
その表現しか浮かばなかった。
翡翠の瞳は自然と潤み、彼の背を追い続けていた。
――眩しい。
その一言だけが、心の奥深くに焼き付いて離れなかった。
店を出ると、夜の街はまだ眠る気配を見せていなかった。
通りには人々のざわめきが絶えることなく流れ、道を走る鉄の箱――車と呼ばれるものが、ひっきりなしにヘッドライトを光らせて行き交っている。
色とりどりの看板の灯りは闇を押し返し、魔法の明かりでもないのに世界を丸ごと繕うように街を照らしていた。
アランは思わず見上げた。
夜空は星を隠され、代わりに地上の光が天の川を奪うかのように鮮やかだった。
大地そのものが星座になったかのような光景に、胸が震える。
その時、隣でシリウスが瓶の栓を軽快に弾き飛ばした。
「ほら」
いたずらめいた笑みと共に、一本を手渡してくる。
「……私も?」
恐る恐る瓶を受け取ったアランは、掌に伝わる冷たさに息を呑んだ。
魔法で冷やされた冷たさとは違う。
もっと現実的で、生の暮らしそのものから生まれた冷たさだった。
「行くぞ……乾杯」
二人の瓶の口同士が軽く触れ合う。
澄んだ音が夜気に広がった瞬間―― アランの胸はふわりと軽く解けた。
ブラック家の冷たい空気も、ヴァルブルガの鋭い視線も、レギュラスの灼けつく熱も。
さっきまで胸を押し潰していた重苦しいすべてが、一瞬にして遠ざかっていく。
瓶を口に当てれば、泡立つ液体が喉をくすぐるように滑っていった。
少し苦みを含んだ味、それは不思議と心地よい熱を体の奥に残した。
「……っ、少し変な味」
眉を寄せて言うアランに、シリウスは吹き出す。
「慣れると美味いんだ。……まあ、お前にはちょっと早いかな?」
「そ、そんなことない。美味しく……はないけど、楽しい」
頬を赤らめ、慌てて言い直す彼女。
シリウスの笑い声が混じると、夜の通りがさらに柔らかく見えた。
アランの翡翠の瞳は、輝きに満ちて街を見回していた。
通りを流れる人々、光を絶やさない建物、遠くまで伸びる光の道。
ひとつひとつが新鮮で、世界が澄んで見える。
「……マグルの世界って、眠らないの?」
興奮に声を震わせて問うアランに、シリウスは目を細めて笑った。
「眠るところもあるさ。だけど、こうやって夜通し灯りをともす街もある」
二人を乗せた箒は高度を落としながら街の上空を旋回する。
眼下には光の海が広がり、川沿いには赤と白の灯がひと続きの帯となって揺らめいていた。
「……馬じゃないのに、走ってる……あんなに速く」
魅入られたように呟くアラン。
「車っていうんだ。ジェームズが一台持っててさ。今度一緒に乗ろう」
「……!」
ぱっと顔を上げた彼女の瞳は輝いた。
その瞬間、アランは年齢を超えて幼子のようなきらめきを放ち、心からの笑顔を零していた。
その純粋さが、シリウスの胸を柔らかく掴む。
「じゃあ、あれは?」
「あれは街灯。夜道を照らしてる」
「じゃあ、あっちは?」
「あれは工場の煙突のランプ。飛ぶものや車にぶつからないように警告してる」
「じゃあ、この赤と緑の光は?」
「あれは信号さ。進む順番を決めるやつだ」
次々と飛び出す疑問。
ひとつひとつに答える度に、アランは息を呑み、笑い、瞳を輝かせた。
――その顔が愛おしかった。
翡翠の瞳に映り込む光は、誰よりも生き生きと揺れている。
見知らぬ世界を貪るように吸い込み、ひとつひとつを宝石に変えていく。
その姿がこれほど眩しくて仕方ないのは、自分が彼女を「光の中」に連れてきたからだ。
そして思う。
この瞳が――ブラック家の冷たさに閉じ込められることだけは許したくない。
もっと広い世界を。もっと自由を。
彼女に見せてやりたい。
そのためなら、何だってする。
檻に戻してはならない。
この光の中こそが彼女の居場所であるはずなのだから。
賑わいと光の海に見入るアランの横顔を覗き込みながら、シリウスの胸には静かな誓いが生まれていた。
――この人を檻から解き放ってみせる。絶対に。
夜の街は眠らず、光は永遠に瞬いている。
その下で、二人の影もまた、未来という名の長い道に柔らかく溶け込んでいった。
マグルの街の上空――。
眼下には無数の光が果てしなく広がり、星の群れさえ霞ませていた。
見渡す限りの街灯、ビルの窓、車の列の赤や白の灯火。
大地そのものが夜空を奪い、輝きを映し返しているかのようだった。
その光景のただ中を、箒は滑るように翔けていた。
風を切り裂いて進むたびにローブがはためき、冷たい夜気が頬を打つ。
しかしシリウスの胸に去来するのは、寒さなどではなかった。
――どうしようもなく、愛おしい。
背へ寄り添ってくる少女の存在感。
肩先から伝わる細い腕のぬくもり。
そのすべてが、燃え上がる熱となって胸を突き動かす。
もし言葉にしてしまえば、なんのためらいもなく零せる。
だが形にしてしまえば、この圧倒的な想いが薄まってしまう気がした。
だから、自分の中から溢れ出す前に、ひとつの確かな形へ留めようとした。
シリウスは箒を安定させ、振り返る。
薄闇の中、翡翠の瞳が揺れている。
次の瞬間、伸ばした手で彼女の頬を包み込み、衝動のままに唇を重ねた。
「……っ」
驚いたように瞬きをしたアラン。
けれどすぐに、ふっとその瞳が柔らかく細められていった。
夜風も遠ざかり、広がる灯りも溶けて消え、二人だけの世界が夜空に漂っているようだった。
唇が離れると、彼女の吐息が静かに囁きを編んだ。
「……今、世界で私が一番、幸せ者だわ」
その言葉にシリウスは息を呑む。
胸の奥を真っ直ぐに射抜かれたようで、心臓が大きく軋んだ。
「……もっと幸せにするつもりだ」
こぼれた言葉には、照れも理屈もなかった。
声は震え、自分をも奮い立たせるように熱を帯びていた。
だが本当は分かっていた。
幸せなのは自分の方だ、と。
こんなにも焦がれ続けた少女と、いま想いを通わせている。
胸に溢れる熱も。
翡翠の瞳から差し伸べられる真摯な眼差しも。
同じ強さで、同じ方向へ向かっていた。
それが事実であることが、尊くてならなかった。
「好きだ、アラン」
飾らず、隠さず、ただ真実だけをそのまま口にした。
次の瞬間、彼女の頬が朱に染まり、にこりと微笑みが浮かぶ。
「……大好きよ、シリウス」
まだ「愛している」と言うには未熟だった。
その大人びた響きを使えるほど、二人は成熟しきっていない。
それでも、「好き」という言葉が何よりも切実で、何よりも誠実だった。
それ以上の飾りを求めずとも、確かな感情がそこにあった。
夜空の只中でふたりの想いは重なり合った。
シリウスは心の奥底で誓う。
この先いつか卒業の時を迎えたら、自らの手で必ずアランを連れ出す。
この屋敷の闇と呪縛から救い出し、真の自由を与えられる存在となる。
彼の胸に宿された誓いは、燃え上がるように刻み込まれた。
見下ろす煌めく街の灯りは、その決意を祝福するかのように鮮烈に瞬き続けている。
夜風は彼等を包み込み、未来へと誘うかのように香りを運んでいた。
――この空の下で交わした想いは、決して揺るがぬ翼になる。
そう信じながら、シリウスは彼女の髪を風に揺らしながら微笑んだ。
翌朝――。
アランの瞼は重く、身体は緩やかな倦怠に包まれていた。
ほとんど眠れずに明かしたはずなのに、その胸の奥には確かな熱が残っていた。
昨夜、煌めくマグルの街を、あの人と――シリウスと共に見下ろした夢のようなひととき。
光の海、知らない世界、自由の匂い。
その余韻がまだ柔らかく心を満たし、倦怠さえ甘美に変えていた。
彼女は仕事へ戻った。
皿を並べ、拭き上げの呪文を唱える。
すると布はふわりと宙に浮かび、音もなく舞い踊りながら一枚一枚を磨き上げていく。
影のように規律正しく動く布が、澄んだ硝子の皿を輝かせ、棚へと次々収めていった。
その動作は、アランにとってただの労働以上の意味を持っていた。
心を律し、乱れた想いを均し、表情の揺らぎを抑える――
彼女にとって「家事」は、己を守る鉄鎖でもあった。
「…… アラン」
名を呼ぶ声に、肩がビクリと大きく跳ねた。
背後からの気配。その響きは低く、決して乱れを見せない。
振り返れば、そこにレギュラスが立っていた。
光の差す窓辺にうつる灰色の瞳は、氷のように静かで、射抜くようにこちらを見つめていた。
「昨晩、どこにいらしたんです?」
瞬間、胸が凍り付いた。
心臓の鼓動が一拍遅れ、全身の血が引いていくのを実感した。
「……っ」
唇が乾き、声がまとまらない。
「……眠れなくて……少し、外の空気を吸っていただけです」
慌てて取り繕うように、震える声を押し出した。
けれど答え終えた瞬間から、彼の瞳は一切瞬かず、止まったまま自分を射抜いていた。
「そうですか……。ずいぶん長い間、外にいたんですね」
穏やかに落とされた言葉。
しかしその一滴は、胸に刃を残す毒だった。
「……」
ぎくり、と心臓が鷲掴みにされる。
――どこまで、知っている?
昨夜、自分が部屋に不在だったことを。
その時間が数時間に及んでいたことを。
どこまで気づかれているのか分からない以上、言い訳をどう組み立てればよいのか。
思考ばかりがあわあわと巡り、声は再び塞がった。
その緊張を断ち切るように、レギュラスが一歩、歩み寄った。
アランの手を、不意に取る。
それは、もう彼にとっては「癖」だった。
彼が何気なく触れるその仕草は、アランにとっては支配の合図。
息を詰め、先を読めずに怯えを覚える一瞬だった。
親指が手の甲をなぞる。
その柔らかさは、優しさを装いながらも、抗いがたい圧を潜ませている。
「……あまり長いこと外に出ていると、体が冷えますから」
温厚さを装った声。
けれどその刃は、自分がどこへ行き、何をしていたのかを暗に知っているかのように思わせた。
胸が強く突かれる。
吐き気に似た苦しさを抑えて、アランはかすかに口を開いた。
「……ありがとう」
ようやく絞れた声は、ほとんど掠れていた。
瞳を合わせる勇気もなく、ただ俯いて言葉を落とすしかできなかった。
レギュラスは何も言わなかった。
それ以上は問わない――そう悟った瞬間に、ようやく安堵がかすかに込み上げ、体の芯の力が抜けていく。
けれど安堵と同時に、冷たい影が胸を広がっていった。
昨夜、光の海に抱かれた街であれほど温もりを感じた幸福なひととき。
自由へと手を伸ばせる気がした瞬間――
それらは、この一瞬で影に覆われて消えてしまっていた。
胸は冷えきり、余韻は遠い彼方に押し戻される。
夜空で抱いた笑みと安堵は、ただ彼の灰色の瞳に遮られ、しずかに凍りついていった。
ホグワーツに戻ったその日の朝、アランは長く詰め込んでいた息を吐き出していた。
――ようやく。
胸を覆っていた重石がふっと半分減ったように思えた。
ブラック家の屋敷に絶えず漂っていた鋭い視線、冷たい監視と圧力。
オリオンの低く沈んだ声も、ヴァルブルガの突き刺さる眼差しも、ここまでは届かない。
城の石造りの壁はひんやりと冷たいのに、その奥にあるものはどこか柔らかい。
吹き抜けの高い天井はそのまま空と繋がり、閉じ込めるのではなく、むしろ心を解き放ってくれる。
アランにとってホグワーツは、いつの時代でも変わらぬ救いの砦のように思えた。
けれど“砦”の中でさえ、心は安らがない。
視線は無意識のうちに彷徨ってしまう。
どんな人垣の中であっても、自然とそれを探してしまう。
――シリウス。
屋敷を飛び出して「自由」を手にした彼。
縛るもののない姿は、以前にも増して輝きが増して見えた。
しかし、その眩い光は同時に、多くの視線を集めてしまう。
彼の周りには笑う女子生徒たちが常にいた。
声をかけ、冗談を交わし、彼は肩をすくめて笑い返す。
遠目に見るだけで胸が痛んだ。
――迎えに行く、と告げてくれた。
その言葉を信じている。
ただの気休めではなかったと、信じたい。
けれど、心の足場はあまりにも脆い。
自分には血も、名誉も、力もない。
影のように従うことしか許されない身。
そんな無力な自分が、どうしてあの人を信じ、大胆に未来を夢見られるのか。
痛む胸が、その切なさを何度も問い返した。
そして――もう一人の影がある。
レギュラス。
屋敷で浴びていた監視の目がなくなったことで、彼はむしろ大胆になっていた。
大広間でも。
談話室でも。
人が集まるその最中でさえ、彼は構わずアランに近づき、当たり前のようにその手を取って歩いた。
時には腕を肩に回し、護る風を装いながら抱くことさえあった。
それは周囲からは「弟らしい穏やかな好意」と映るのかもしれない。
けれどアランにとっては違った。
その仕草はむしろ恐ろしかった。
支配の合図であり、決して逃がさぬという誓言のように思えた。
「……レギュラス。ここは屋敷ではないの。オリオン様も、ヴァルブルガ様もいない。……けれど、それでも、どこからどう漏れるか分からないわ」
必死に抑えた声で訴えた。
魔法界は広いようでいて狭い。
一度漏れた秘密はあっという間に広がり、重苦しい噂となって絡みつく。
それを誰より理解しているのは彼女自身だった。
けれどレギュラスは、翳りを帯びない笑みのまま。
どこまでも柔らかい表情で、彼女の不安を打ち消すように答えた。
「……その時は、その時に考えましょう」
アランは息を呑んだ。
それは彼らしくない返答だった。
常に慎重で、従順で、生家の誇りを守るために一線を越えることを決してしなかった彼。
オリオンとヴァルブルガの意志に従い、穏やかにすべてを律してきた彼の口から――
どうしてこんな無謀な響きが出てきたのだろう。
――どうして。
誰が、彼を変えたのだろう。
胸を掴むような問いが、鋭い冷たさとなって心を締めつけた。
その答えは一つしか思い当たらない。
――自分だ。
そう思ってしまった瞬間、アランの足場はさらに脆く崩れていった。
ブラック家の檻を逃れたはずのホグワーツでさえ、影と光に挟まれ揺れていた。
光はシリウス。
影はレギュラス。
どちらも強く、どちらも彼女を放そうとはしなかった。
アランは冷たい石床に立ち尽くしながら、それでも必死に。
崩れ落ちる足場の上で、両腕を広げて踏みとどまろうとしていた。
――平穏など、どこにもない。
そう思い知りながら。
魔法薬学の教室は、いつものように息苦しいほど特有の匂いで満ちていた。
霧のように立ち昇る淡い蒸気が天井近くに滞留し、床へと滴り落ちる緑色の液体の音が微かに響く。
石炉の中にくべられた炎は低くうなりを上げ、まるで教室全体がひとつの大きな器に変わり、奇妙な薬を煮詰め続けているかのようだった。
アランは集中していた。
淡く色を変える薬液を絶えず撹拌し、慎重に火力を調整しながら、決して一滴も溢さぬように神経を注ぐ。
心を一点に縛り付けているときだけは、過去の影からも自由になれる気がした。
その時だった。
「きゃっ!」
隣のテーブルから甲高い声が響き、ガシャンと派手な音が床に反響する。
反射的に顔を向ければ、女生徒の手から滑り落ちたビーカーが粉々になって飛び散り、濃い色の薬液が床に広がっていくのが見えた。
鋭い破片がアランの作業台の下まで散り込み、不快なにおいが鼻先を突いた。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけるアラン。
女生徒は耳まで赤く染め、俯いて消え入りそうに答えた。
「ごめんなさい……失敗しちゃったわ」
「いいんです、すぐ片づけま――」
安堵させるように言葉を添え、アランは素早く杖を抜いた。
溢れた液体を浄化し、破片を回収して事態を収拾する――それは従者として小さい頃から身体に馴染んでいた、ごく自然な反応だった。
だが、その瞬間。
「…… アラン」
強く、ぐっと手首を掴まれた。
杖を振ろうとした腕が不意に止められ、息が詰まりそうになる。
驚いて振り返った視線の先にいたのは、レギュラスだった。
整った輪郭に浮かんだのは、冷たくも静かな眼差し。
その灰色の瞳は一切逸らさず、低い声で言葉を落とした。
「ここは屋敷ではないんです。――そんな、使用人みたいな真似はしなくていい」
「……!」
胸が痛むように震えた。
ただ助けたいという自然な衝動で杖を取っただけだったのに、それが「使用人の真似」として咎められた。
言い訳をしようと唇が震える。
けれど結局、声にはならず、言葉は喉の奥で砕けて消えた。
レギュラスの想いは分かっている。
きっと彼は本心からそう言ったのだ。
「あなたは他の生徒と同じでいい」
「もはや誰かのために働く従者である必要はない」
「学ぶ一人であってほしい」
彼はそう伝えようとしているのだと。
だが――その優しさは不思議と真っ直ぐには届かなかった。
言葉そのものは甘やかに慰めるのに、心の奥に触れた瞬間、鎖のように絡みついて離れない。
彼の意志は確かに庇護であるのに、ひとつ間違えれば全てを取り囲み、彼女を「逃げられぬ場所」へ導くものに変わる。
心が解き放たれるどころか、逆に縛られていくような、その危うさ。
それでも――彼が核に抱えている想いが真実であることを、アランは知ってしまっていた。
だからこそ、そのズレが、いっそう悲しかった。
教室に立ち込めた薬品の匂いが、彼女の胸深くへ染み込んでいく。
混ざり合わない成分が同じ釜で熱を帯び、危うげに泡を立てる。
――それはまるで、自分たちの関係そのもののように思えた。
沈黙の中で、アランはただ杖を握り直し、伏し目がちに小さな呼吸をついた。
アランはうつむいたまま、唇の端に小さな笑みを無理やり貼りつけていた。
その笑顔は、窓に描かれた曇りのようにうすく弱々しい。
「……そうね、ありがとう」
小さくつぶやく声は、言葉だけを素直に受け入れているように聞こえた。
けれどその心の奥底では、違うと静かに響いていた。
――本当は違う。
彼女は分かっている。
レギュラスのその言葉の根は「守り」だった。
彼にとってアランを「使用人」として扱うことは耐えられない。
彼女に、ただの従者の位置ではなく特別な立場を与えたい。
その思いが誠実であることもまた、否応なく理解してしまう。
けれど、その優しさは不器用にねじれて届く。
自由に羽ばたかせるよりも、鳥籠の中で布を掛けられ、大事に大事に守られる。
華やかで安全だが、空は遠く閉ざされる。
その温度が、アランには押し殺すような窒息に感じられてしまうのだった。
――もし、シリウスだったら。
不意に胸に差す影を払いのけるように、別の光景がよみがえった。
きっと彼なら、自分と同じように床にしゃがみ、手を伸ばして破片を拾うだろう。
「俺も昔、同じように失敗したことがある」
そう笑って軽口を叩き、場の重さを冗談で和らげるだろう。
そのとき彼の姿は、自分と同じ高さに在る。
上から覆いかぶせるのではなく、横に並び、共に手を動かして並んでいてくれる。
それこそが、アランが知っている「光」の在り方だった。
でも、ここにいるのはレギュラス。
彼は守ろうとするたびに、その想いが壁を築く。
大切だと告げるほどに、手のひらに感じるのは境界の厚み。
同じ机に並んで座っているのに、見えない檻の中に押し込まれるような錯覚を抱かせる。
「ありがとう」
声に出しながらも、その言葉は内心からどんどん遠のいていく。
顔に貼り付けた笑みの下で、胸は静かに痛みに締めつけられていた。
光と影。
同じ「守り」という姿でありながら、片方は未来を解き放ち、もう片方は今を縛りつける。
似て非なるその違いが、あまりにも鮮やかに浮かび上がるほどに、アランの心は細い裂け目を広げながらひっそり血を流していくようだった。
その痛みを誰にも告げることなく、彼女はただまたひとつ笑顔を作り直し――自分の心が少しずつ削がれていくのを確かに感じていた。
夜の談話室は、不思議なほどに静まり返っていた。
暖炉にはわずかな火が煤けるように残り、その柔らかな赤が壁に影を揺らしている。
外の風も止んだのか、石造りの窓枠を震わせる音さえ聞こえない。
階上から届くべき寝息もすべて途絶え、この広い空間には、アランとレギュラスだけしかいなかった。
その静寂の中で、アランは唇を奪われていた。
それは決して、彼女が求め続けた抱擁ではなかった。
かといって、完全に拒絶しきれるものでもなかった。
重ねられるたびに、昼間の記憶が鮮やかに蘇る。
――どうしても、噛み合わないふたりの形。
彼がどれほど真剣に案じ、守ろうとしてくれても、その根本には明確なズレがある。
心の奥で埋められない隙間があり、それがひりつく痛みとなって胸を締め上げる。
「……レギュラス……いや……待って――」
あえぐように、名前と共に小さな声が漏れる。
けれど、止める願いはすぐに唇で塞がれた。
暖炉が吐く熱ではなく、彼の手が肩から背へ、流れるように這っていく温度に震えが走った。
さらに腰へと深く触れようとするその動きを、必死に手で遮ろうとする。
しかしその手さえ、彼の腕の確かさに弾かれるようで心許なかった。
遮りかけた声は、再び口付けによって空気に散り、跡形もなく溶けていく。
行き場を失った思いは、閉じ込められて心臓をもてあそぶ。
――寂しかったのだ。
――寄り所が欲しかったのだ。
心を撫でてくれるものを、ずっと探していた。
その穴を一瞬埋めてくれるなら、この抱擁は救いだと思えてしまう。
けれど、それは刹那的な慰めでしかない。
抱かれながらも、ふと芽生えるのは違和感。
まるで背伸びをして大人の真似事をしているだけのような、自分には似合わない行為。
奥底の心は幼さを引きずり、不安にぶるぶると震えていた。
彼の手が触れるたび、腕から腰へと深みに誘おうとするたびに、胸はきつく縮んだ。
これ以上踏み込めば、どこか取り返しのつかない領域へ足を踏み入れてしまう。
自分にはまだ、それを受け止め切る力も、勇気もない。
できない――。
強いその思いだけが、胸の内でかすれた声となった。
心と身体の齟齬がひどく、呼吸さえもばらばらになっていく。
レギュラスの温度に包まれながら、アランは自分の内側を見失いかけていた。
欲しているのに、拒んでいる。
寄りかかりたいのに、逃げたい。
矛盾が二つの極となって胸を引き裂き、身体の震えとなってあらわになる。
やがて、そっと瞼の下に熱が溜まっていった。
見せるわけにはいかないはずのもの。
けれど、堪えても堪えても、静かに涙がにじもうとしていた。
赤い火の残滓が壁に揺れる。
暗い炎のゆらめきが、まるで胸の痛みをそのまま映し出しているようだった。
夜の談話室には確かにふたりしかいない。
しかしアランの心は、そこにある影さえ見えぬほど、深く引き裂かれ、孤立していた。
談話室を後にし、自室へ戻ったとき。
重たい扉を押し閉めた瞬間、アランの全身から音もなく力が抜け落ちた。
背を壁へと預けると、冷たい石の感触に体がずるりと滑りそうになる。
足元からじわりと震えが広がり、息を詰めても抑えきれない。
――どうして、断ち切れないの。
心の奥で幾度目か分からぬ問いを投げかけた。
あの温度に、どうして抵抗できなかったのか。
レギュラスの腕を振り払うことはできなかった。
抱きとめられて、唇を塞がれて、心は拒んでいたはずなのに、身体は微動だにしなかった。
それは、自分の弱さに他ならない。
拠り所を求めてしまう心。
寂しさを埋めてもらいたいと願ってしまう甘え。
そして――シリウスを待ち続けているはずの自分との矛盾。
「……っ」
喉が詰まり、浅い呼吸が震えた。
気づけば、自分の掌が震える目を覆っていた。
温く滲んだ瞼の奥から、涙が堰を切りそうになる。
力を振り絞るように歩み出て、鏡台の前に腰を下ろす。
そこに映る己の顔――薄闇に浮かぶその姿は、他の誰でもなく、紛れもなく自分自身だった。
赤く熱を帯びた頬。
潤んで溶けそうな瞳。
唇にはまだ、さっきの熱が淡く残っているように思えた。
「……汚れていく」
心でそう呟いた言葉は、鏡の中の顔に跳ね返り、深く突き刺さった。
胸の奥で暗い渦が巻き起こっている。
自己嫌悪。
拭い去ろうとしても、何度でも絡みついてくる。
シリウスを想い続けながら、なおレギュラスに凭れてしまう。
その矛盾をどうすることもできず、胸の奥が痛む。
――シリウスなら。
思うだけで激しい痛みが胸を突く。
あの人なら、自分を無理に追い詰めることはしないだろう。
温かな笑い声で、差し伸べる手で、軽やかに救い上げてくれるはずだ。
自分はその光を選んだ。
その背を追いたいと誓った。
それなのに――足が影に向かっている。
居場所を間違えている。
分かっているのに、離れられない。
涙がつっと頬を伝った。
けれど、声は出なかった。
――逃げたい。けれど逃げない。
――抗いたい。けれど抗えない。
その矛盾の渦に呑み込まれていく自分が、一番恐ろしかった。
まるで、自分で自分を檻へ押し込んでいるようだった。
小さな嗚咽を喉の奥で必死に飲み込む。
静まり返った部屋に、かすかな呼吸の乱れだけが漂う。
窓の外に瞬く星々は、見上げることさえできぬほど遠かった。
アランはその夜、鏡の前に座り込んだまま動けなかった。
映し出されるのは、弱さに裂かれ、涙に濡れた自分自身という現実。
光も影も掴めず、ただ孤独だけが確かな姿を持って、彼女と向き合い続けていた。
朝の光が石造りの寮の窓からぼんやりと差し込み、冷えた空気にかすかな温もりを混ぜていた。
アランは鏡の前に立ち、そっと自分の顔を覗き込む。
頬に残っていた赤みは一晩のうちに引いていた。
けれど瞼の腫れは誤魔化せなかった。泣いた痕がうっすらと浮かび、眠れぬ夜を告げていた。
「平気な顔をしなくちゃ」
小さく呟き、深く息を吐く。
制服の襟を正そうと細い指を動かし、落ち着きを自分に言い聞かせるように。
自分自身にかける呪文のように、身体中へ「大丈夫」と叩き込む。
けれど胸の奥は容易に従わなかった。
大広間へ足を運ぶと、食事をしていた数人の生徒たちがちらりと顔を上げた。
一瞬、視線がこちらに集まり、またすぐに逸れる。
それは何気ない仕草のはずだった。
ただの偶然、あるいは思い過ごし。
しかしアランには、それぞれが胸を突き刺すような強さを持っていた。
「見られている」――そう感じるだけで、背筋がひやりと冷えていく。
席につこうとしたとき、不意に声がかかった。
「おい、アラン。大丈夫か?」
軽やかで、いつもの調子。
振り返れば、そこにシリウスが立っていた。
「……シリウス……」
心臓が思わず震えた。速く打ち、温かく血を広げていく。
「ええ、大丈夫。ただ少し眠れなかっただけ」
口角を持ち上げ、努めて笑みを作った。
シリウスは眉をひそめながらも、それ以上は深く追及しなかった。
焼き立てのパンを一切れ、無造作に差し出してくる。
「たまには昼寝でもしろよ。授業中にコソッととかさ」
軽口。
その軽さが救いだった。
どこまでも自然で、押し付けがましくなく、ただ心を解き放つように背を撫でてくる。
胸の奥が、じん、と熱を帯びていった。
その瞬間、ふと影が近づく。
「……本当に、眠れなかっただけですか?」
低い声が肩口から降ってきて、背筋が冷やされる。
アランは慌てて振り返った。
そこに立っていたのは、レギュラスだった。
灰色の瞳が真っ直ぐに彼女を射抜き、その眼差しはすでに嘘を見抜いていた。
問いかける調子は静かだが、抗いがたい圧迫を含んでいる。
「……ええ」
視線を逸らし、小さく答える。
それ以上の説明はできない。口にすれば、声が詰まってしまいそうだったから。
レギュラスは深く頷いた。
追及はしなかった。
けれど、当然のようにアランの背に手を置き、席へと導いた。
ほんのわずかな接触。
それだけのはずなのに、逃げ場を封じられる感覚が全身を覆った。
――光と影。
片や、軽やかに支え、心を自由へと導こうとする一人。
笑いに包み、痛みを忘れさせてくれるシリウス。
片や、優しさと支配が一体となり、逃げられぬ檻のように迫るもう一人。
その掌に触れれば、息苦しくても抗えなくなるレギュラス。
どちらの手にも無意識に応じてしまう弱さを、自分は抱えている。
だからこそ、その矛盾が胸にずしりと重く、心臓の奥を締めつけて苦しかった。
パンの香り、銀器の触れ合う音、人々の笑い声。
大広間を満たすはずの心地よい日常の気配は、アランにとってただ遠く、薄れて聞こえていた。
彼女の耳に残るのは――光と影の二つの声。
そして、その狭間で揺れ続ける自分自身の、弱く痛い鼓動だけだった。
レギュラスの胸には、消えようのない夜の記憶が今も焼き付いていた。
――シリウスが家を去った夜。
あの瞬間、世界は壊れた。
家の支柱のひとつが折れたかのように、父も母も静かに絶望し、屋敷の空気は氷のように尖った。
そんな絶望に覆われた宵に、自分の方へすがるように身を寄せてきた少女がいた。
アラン。
震える肩を抱き締めた時の感触は、昨日のことのように蘇る。
細い腕が必死に自分に絡まり、その温度が確かに伝わってきた。
その夜の記憶だけは、どんな冷酷な叱責や皮肉の言葉よりも鮮明に彼を貫いている。
あの瞬間だけは――彼女は確かに、自分の中へ存在した。
その事実が愛おしく、同時に、長らく保ち続けていた歯止めを一つずつ奪っていった。
それからだ。
彼女へ向ける感情が、恐ろしいほど加速度的に膨らんでいったのは。
思えば、以前までは慎重であった。
父と母、家族の監視を一瞬たりとも意識せずに過ごしたことなどなかった。
言葉一つ、仕草一つまで選び抜き、疑念を抱かせぬように従順を装ってきた。
しかし今は違う。
ふとした触れ合いにも耐えられなくなった。
視線をそらすことができなくなった。
翡翠の瞳を見つめ返すたびに、己を縛っていた規律が音を立てて崩れていく。
父や母が不審の色を濃くしていったのも、当然のことだろう。
アランの存在が「特別」であると、彼らさえ気づき始めていた。
婚約の話が急速に現実となり、異様な速さで進められていったのも、あの夜が影を落としていたに違いなかった。
だが、それでも構わない。
アランに寄り添ったあの夜、自分は初めて「渇望」という名の形なき怪物に、輪郭を与えられたのだ。
胸を焼き続けてきた曖昧な思いが、あの一瞬で歓喜という確かな熱へと変わった。
――この喜びを、もっと深く。
――もっと確かなものへ。
ホグワーツに戻った今、父と母の冷たい目はない。
屋敷の重苦しい堅牢さはなく、ここならば二人きりにもなれる。
ならばこそ、限界までこの関係を深めてしまいたい。
そう思った。
その願いはもはや抑えようのない鼓動となり、胸の奥で響き続けていた。
夕刻の談話室。
窓から差し込む薄暮が、大理石の床を茜色に染めている。
壁に掲げられたランプもまだ灯されず、誰もいないその空間に影が伸びていた。
その中で、彼は彼女に声をかけた。
「アラン……今夜、星を見ませんか」
ごく自然に、何気ない誘いを装って。
しかし声の奥底には熱が震えていた。
灰色の瞳は静かに微笑んでいたが、その奥で渦巻くものはただ一つ――「もっと傍に」という叫び。
アランは少し肩を揺らし、それから静かに頷いた。
ほんの短い仕草だった。
拒むでもなく、穏やかに受け入れるでもない。
ただ曖昧に頷いただけ。
けれど、その小さな動作がレギュラスを満たすには十分だった。
「……ありがとうございます」
こぼれた自分の声が震えているのを、自身で驚くほどに感じ取る。
拒絶ではなかった。――それだけで十分。
その一点が彼にとっては安堵に変わり、胸を緩やかに占めていった。
今夜、翡翠の瞳を抱きとめられるのだ。
その確信だけで、心臓は高鳴り、呼吸すらも熱を帯びた。
煌く星の夜が訪れれば――あの夜と同じ温度を、もっと深く、もっと確かな形で手中にできる。
そう夢想しながら、レギュラスは夕暮れの薄明かりの中で静かに目を細めていた。
