1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
数日の間、アランはブラック家を離れ、父オリオンから与えられた「暇」により久しぶりに実家、セシールの屋敷へと戻っていた。
石造りの壁も、大広間の圧力もない。
耳を澄ませば、どこからか草木を渡って吹く風がさやさやとした音を運んできて、小さな屋敷をやさしく包んでいた。
それは、ブラック家の重苦しい静寂とは正反対の、素朴な静けさだった。
だが、その安らぎを素直に胸へ落とし込むことはできなかった。
食卓に並ぶのは香草を混ぜ入れた素朴なスープ、焼き立てのパンにバター。
ホグワーツやブラック家の華美な食事と比べると質素に思えるかもしれない。
けれど、この穏やかな香りだけで肩の力が抜けるようだった。
幼いころから馴染みのある「家庭」の匂い。
アランはそれでも、胸の奥で不安に締めつけられていた。
「…… アラン」
食卓の正面から落ちた低い声。
父ロイクの声だ。
もっとも近い存在であるはずなのに、彼女にとっては同時に最も遠い壁でもあった。
「決してブラック家一族を失望させることのないように。与えられた勤めを果たすことを、常に心掛けなさい」
鋭くもひたむきなその響きは、父の長年の勤めの積み重ねそのものだった。
血の繋がる父である前に、彼はブラック家に仕える者の誇りを背負っている。
その誇りが、一族の未来を繋ぐ細い綱であると信じている。
アランは唇を結び、ゆっくりと頷く。
「……もちろんです。お父様」
声に迷いはなくとも、心にはひび割れるような痛みが広がった。
――シリウスに恋焦がれたことも。
――レギュラスに縋るように心を預けてしまったことも。
それらはすべて、「従者」という立場を踏み外した愚行だったのではないか。
父の重たい期待の言葉の前で、それが剥き出しの罪として胸を抉った。
決して知られてはならない。
父にも、母にも。
この心の弱さと過ちを、知られてしまえば一族を破滅に巻き込む。
喉奥がひどく乾く。
ただ「はい」と答えるしか選択肢はなかった。
だが、母リシェルは違った。
父のように力強く咎める言葉を投げかけることはない。
ただ穏やかに、まっすぐにアランの顔を見つめる。
その瞳が優しい揺らぎを含むのは、娘としての自分へだけ見せてくれる秘密の色だった。
「……お母様の期待も裏切らないように、務めます」
声が途切れそうになりながらそう口にしたアランに、母は小さく微笑んだ。
そして、そっと手を伸ばし、娘の掌を温かく包み込む。
「アラン……何も考えなくていいのです。あなたは、好きに生きてください」
「リシェル」
父の低く圧し掛かる声が割り込む。
母の名を呼び捨てにするのは珍しかった。
その響きには、不協和の色が含まれていた。
無言の咎めのように。
アランの背に汗が伝った。
二人の結婚が、どこか不自然であることは、幼い頃からずっとわかっていた。
父が主オリオンに願い出て、母を娶ったこと。
愛よりも契約として始まった夫婦。
そして母リシェルの心には、別の誰かの影があったのかもしれないという、不確かな噂。
子供の頃から、ふたりの間には微かなぎこちなさが漂っていた。
だからこそ母は、アランには同じものを背負わせたくなかったのかもしれない。
好きな人を、好きに愛してほしいと。
その願いを込めて、「生きてください」と口にしたのだ。
だが、それを確かめる勇気はアランにはなかった。
母の真意を問いただすことなど、今の自分にはあまりにも重い。
アランはただ、母の掌に覆われた自らの手を見つめた。
そこに宿るのは確かな“救い”。
けれどその救いは、父に刻まれた重石と同じくらい重く、胸の奥にずしりと沈んでいく。
――誇りと義務に生きる父。
――自由と愛を願う母。
二つの対照的な想いは、まるで一人の娘に真逆の道を歩ませようとする力になっていた。
アランは震えながらも、その温もりを手放せずにいた。
同時に、父の言葉が鋼の鎖のように心を縛り続けていた。
温かさと冷たさが胸でせめぎあい、彼女の目には涙が浮かびかけていた。
その日、ブラック家の応接間は、いつも以上に荘厳さを湛えていた。
漆黒に塗り込められた壁は光沢を帯び、純血の血統にふさわしい重苦しい高貴さを放っている。
壁に等間隔で掲げられた燭台は整然と魔法の火を灯し、その青白い炎は揺らめきながらも決して消えることがない。
整然と並べられた椅子や絨毯には一族の栄華が染み込み、そこに座る者に「義務」と「誇り」を突き付けていた。
正面には当主オリオンと夫人ヴァルブルガ。
二人は揺るがぬ威厳を保ったまま、静かな壁のように来訪者を待ち構えていた。
その隣に座すのはレギュラス。
姿勢は正しく、肩の力は微塵も抜けず、灰色の瞳をしんと前方へ据えていた。
やがて扉がひらかれる。
音もなく進み出た下僕に導かれて入室したのは、ロズィエ一族の令嬢――カサンドラ・ロズィエ。
艶やかに金糸を織り込んだ黒のドレスは、漆黒の室内でひときわ華やぐ光を放ち、耳元に揺れる真珠が音のない音楽のように気品を添えていた。
一歩、また一歩と進んで正面に立つと、堂々とした曲線で礼を取る。
「ブラック家の皆様にお招きいただき、光栄に存じます」
その声は澄み、よく響いた。
清らかな川の水が岩に当たり、美しく音を立てるような響き。
ヴァルブルガは満足げに目を細め、唇に笑みを浮かべる。
オリオンも深く頷き、その場に流れる空気は「正しさ」に包まれていった。
紹介の言葉が過不足なく交わされると、レギュラスは紳士らしく立ち上がり、形式通りに深い一礼をした。
「お目にかかれて光栄です、カサンドラ嬢」
その声は低く整えられ、灰色の瞳は柔らかな笑みに縁取られていた。
磨き上げられた礼儀作法、淀みない言動。
だが、その奥にある彼の呼吸はあまりにも遠く、冷えていた。
誰の眼にも、完全な上流社会の所作にしか映らない。
しかし実際には、その灰色の瞳はどこか焦点を外し、目の前の令嬢の中に自分を映そうとしてはいなかった。
瞳の奥に灯る陰影は、未だにこの場には存在しないただ一人の娘―― アラン・セシールを捉えて離さない。
彼女の翡翠の瞳を、震える肩を、温もりを。
何一つ、ここにある煌びやかさでは埋め合わせることはできない。
カサンドラの笑みに頷く仕草ひとつでさえ、すべてが「形式」という仮面の動作だった。
言葉は途切れることなく流れている。
けれど、その一音一音が、心から零れているものではなく、完璧な演者としての音色にすぎない。
オリオンとヴァルブルガの眼差しは満足げに光を帯びていた。
彼らには息子の忠実さと婚約に向かう従順さが見えているのだろう。
しかし――誰にも分かるはずがない。
この整えられた顔合わせの裏で、レギュラスの胸を満たし、焼き続けているものが何かを。
灰色の瞳の奥に覗くほの暗い影を、本当の意味で見抜ける者は、この場には一人もいなかった。
仮面は完璧だ。
だが、その仮面の奥で燃え上がる炎は、アランという名の影にしか焦がれることはなかった。
数日ぶりにブラック家の屋敷に足を踏み入れると、空気は以前よりさらに冷たく、重たさを増しているように思えた。
扉をくぐり、廊下を進む度に心臓の鼓動が強まっていく。
何度も歩んだはずの石床が、今日はまるで初めて触れるように足をためらわせた。
深く呼吸を整えながら、アランは広間の中央へ進み出る。
そこにはオリオンとヴァルブルガが座していた。
天井に吊るされた燭台の光は硬質に輝き、煌々と照らされるほどに、二人の姿は荘厳さを帯びて彼女を圧した。
幾度も対面してきたはずなのに、ブラック家一族の主である二人の前に立つと、心臓は縮み上がるように早鐘を打ち、背筋は氷の棒のように固く緊張してしまう。
「この数日、暇を与えたが……ご両親とゆっくり過ごせたかね」
オリオンの低く威厳に満ちた声が広間に流れる。
床石を通じて響くその重さは、ただの言葉以上に命令と責務を含んでいた。
アランは霞む視界を下げ、深く頭を垂れた。
「はい。おかげさまで……」
震えを抑え、努めて穏やかに返したその声に、わずかでも安堵の気配がにじんだ。
ほんの少し――自分はまだ仕える者としての役割を認められているのだと、錯覚にも似た安心があった。
だが次の一言が、その重さを一気に変える。
「あなたにも知らせておかねばなりませんね」
ヴァルブルガだった。
ゆるやかに視線を横切らせながら口を開いたその声音は、氷より冷たくもあり、美酒より滑らかでもあった。
「……レギュラスですが、ロズィエ家のカサンドラ嬢との婚約が決まりました」
「……っ」
その声を浴びた瞬間、胸の奥に鋭さが突き刺さった。
理解が追いつかず、息が詰まる。
目の焦点が揺らぎ、宙をさまよい、全身に血が遠ざかるような感覚が広がっていく。
――婚約。
聞き慣れた語が、この家においてはあまりにも重く響いた。
しかし、一拍遅れて押し寄せたのは別の感情だった。
――安堵。
知らぬ間に絡まり合い、どうしようもなく歪んでいった自分とレギュラスの縁。
それが、今こそ断ち切られる。
そう思えた瞬間、ほんの一瞬だけ救われたように胸が緩んだ。
だが痛みが、すぐさまその胸を締め付ける。
どうしようもない切なさ、苦しさ。
名前もつけられない感情が、突如として胸の底で音もなく悲鳴を上げた。
けれどアランは、それを決して外へ取りこぼすことは許されなかった。
ただ平静を装わねばならない。
頭を深く下げ、恭順の声を紡ぐ。
「……おめでとうございます」
声は冷静に整えられていた。
震えなど届かぬよう、必死に心を切り離して放たれた音だった。
オリオンは満足そうに頷く。
そしてさらに重厚な声で命じるように続ける。
「これから先も、息子夫婦を支えていってくれ」
「尽力させていただきます」
従うべき者として出た言葉。
自らの声帯を通して紡がれているにも関わらず、遠く別人のもののように響いた。
その瞬間、胸の奥で音を立てぬきしみが広がる。
未来を約束するその言葉は、誓約であり、枷でもあった。
深く一礼しながら、アランの心は冷たい檻の中で小さく縮み、己の小さな影を抱きしめるしかなかった。
温もりも光も届かぬままに――。
屋敷に戻ったアランは、努めて平静を見せようとした。
心の奥でどれほど波立つものがあろうとも、表情には出さず――何事もなかったように動く。
それが“従者”としての矜持であり、この家で生き抜く唯一の道だった。
庭に出ると、透明な朝露を含んだ芝が足元にひんやりとした感触を与えた。
魔法で宙に浮かせた小さな刃を操り、芝の背丈を均一に整えていく。
刈りすぎぬよう丁寧に、ひとつひとつを確かめながら。
植え込みの枝を整える剪定鋏も魔法で動かし、丸く滑らかな輪郭を描き出していく。
空中を舞う刃が優美な軌跡を描き、枝葉の落ちる音だけが静かに響いた。
そこに、水撒きの呪文をかければ、小さな水滴が弧を描いて降り注ぎ、陽光を浴びて薄い虹をかける。
その瞬間だけは、心が穏やかになった気がした。
――私は大丈夫。静かに仕えていけばいい。
自分にそう言い聞かせ、乱れた胸を整えようとしていた。
「アラン。……戻ったんですね」
背後から、静かだがよく通る声が落ちた。
振り返るまでもなく分かってしまう声色。
庭の門を開け、凛とした歩みに揺らぎなく近づいてくる影。
「……ご婚約、おめでとうございます」
アランは慌てて道具を抱え直し、礼をした。
わずかに震える声音を隠しきれぬまま。
レギュラスは少しだけ眉を下げ、短い沈黙ののちに言葉を継いだ。
「……もう、聞いていたんですね」
その顔には後ろめたさ混じりの陰が浮かんでいた。
だが、灰色の瞳だけはどこか遠くを見ているようで、すでに諦念めいた色を湛えている。
アランの持っていた剪定鋏と小さなスコップを、レギュラスは何も言わず取り上げた。
それだけで済むかと思った次の瞬間――自然の癖のように、彼の手が彼女の手を包み込む。
「……っ!」
驚きと共に肩が震える。
慌てて手を引こうとするが、その温もりは強固に絡みつき、離してはもらえなかった。
「……レギュラス……」
困惑に揺れる声で名を呼ぶ。
けれど彼はかすかに首を振り、柔らかくも押し殺した声を落とした。
「少しくらい許してください。……数日、あなたはいなかったんですから」
その声音は穏やかさを装っていた。
だが確かに滲んでいる――孤独と渇望。
優しさの仮面を纏いながら、その奥に潜むのは誰にも触れさせたくない切実な渇き。
アランの心臓は、荒ぶるように跳ね上がった。
――父からも、オリオンからも、何度も言われてきた。
「立場を忘れるな」「責務を果たせ」と。
仕える者として一線を知ることこそが、この家に残る唯一の道。
そのはずなのに。
灰色の瞳から向けられる感情はあまりに強く深い。
重すぎる愛情が、彼女の小さな心臓を呑み込もうと迫ってくる。
清らかな風が庭を渡り、芝を揺らす。
水滴が朝日にきらめき、虹は一瞬鮮やかに架かる。
けれどアランの世界は――握られた熱に囚われていた。
その温もりだけが檻となって、指先から逃がしてくれなかった。
レギュラスの親指が、アランの手の甲をゆっくりと撫でていた。
その動きは穏やかに見えて、実際には縄のように絡みつく強さを秘めている。
温もりは甘やかで、血流の奥にまで沁みていく。
けれど同時に、それは逃れられぬ拘束の手触りを伴っていた。
アランの胸は、荒い鼓動で自らを責め立てるように波打つ。
息を整えようとするほどに、逆に胸の内で音は乱れ、耳の奥にまで響いた。
「レギュラス……だめです。誰かに見られたら……」
震える声が漏れる。
喉には父ロイクの叱責の声が、オリオンの冷厳な言葉が重なって塞がっていた。
――勤めを果たせ。
――血筋を汚すな。
家に仕える者として刻まれた声は、指一本の甘えも許さない。
それを思い出すたびに、胸の奥が凍り、肺が縮みあがる。
しかしレギュラスはわずかに細めた灰色の瞳で彼女を見つめ、低く答えた。
「……見られても、構いません」
その一言に、血の気が一瞬で引いていく。
「っ――!」
喉から短い悲鳴のような息がもれる。
足元の芝までもが凍りついた気がした。
まさにその時だった。
庭の奥で、ガサリと枝葉が揺れた。
突如の物音にアランの体は反射的に強張り、胸は張り裂けそうなほどに跳ねる。
振り払わなければ――。
咄嗟に腕を引こうとした。
胸が張り裂けるほどの恐怖に、冷汗が背筋を伝い落ちていく。
レギュラスの灰色の視線がちらりとその方角へ動く。
そこには鉢植えを抱えたひとりの使用人が姿を現しかけていた。
気づかれるのか、気づかないのか――。
目の前の一瞬が永遠の長さに引きのばされたように感じられた。
「……ッ……」
アランの胸が裂けるほど詰まり、息が喉から出てこない。
けれどレギュラスは微動だにしなかった。
その手を離さぬまま――穏やかな声音を、彼女の不安を打ち消すように零す。
「……落ち着いて。大丈夫です」
そして、ほんの一呼吸後。
嘘のようにすっと手を放ち、代わりに彼女が持っていた剪定鋏を持ち直す。
ゆるやかに動いて枝を落とす仕草に、余計な不自然さはなかった。
まるでごく自然に、最初から二人で庭仕事をしていたかのように。
鉢植えを抱えた使用人は短く一礼し、何も言わずに通り過ぎていった。
気づかなかったのか――いや、もしかすると気づいていても敢えて目を逸らしたのか。
どちらにせよ、何も問わずに通り過ぎる背の後ろで、アランは胸を押さえ、喉の奥で息を噛みしめるしかなかった。
「……ッ……」
背中を伝う汗が冷たく、血の気が戻らぬ両頬に冷気がまとわりつく。
横顔を見ると――レギュラスの灰色の瞳は穏やかだった。
何ひとつ動揺していない仮面の静けさの中に、むしろ揺るぎない意志と、抑えきれぬ執着が滲んでいた。
「…… アラン。僕は、決して手放しません」
その声は、柔らかさを帯びていながらも、耳に届く時には鉄鎖がかかる音に似ていた。
逃げ場を封じる檻の響き。
彼の言葉の中には、優しさと狂おしい決意が溶け合い、アランの胸を深く閉じ込めていった。
そして彼女はただ、震える心を抱えたまま、虹色の朝庭の中に立ち尽くすしかなかった。
庭での一件から、それほど時を置かずして。
アランは呼び出しを受けた。
「ヴァルブルガ様のお部屋へお越しください」
ただその一言を、同僚の使用人から伝えられただけで、全身が冷気を浴びたように硬直する。
血の気が足元へ降りていき、膝は己の意志に反して細かく震え始めた。
自然な足取りを装おうと努めても、その揺れだけは隠せなかった。
重々しい扉の前に立つ。
呼吸を整えようとしても胸の早鐘は止まらず、深呼吸を重ねすぎてかえって苦しくなる。
それでも震える拳を扉に当て、軽くノックをする。
「入りなさい」
張り詰めた声が内側から響いた。
それだけで空気が裂けるように沈黙し、廊下の時間までもが凍ったように思えた。
扉を開けば、そこにヴァルブルガがいた。
長椅子に座り、背筋をこれ以上なく伸ばし、視線だけを鋭く向けてくる。
その視線には一切の揺らぎがなく、ただ一人の娘である自分を撃ち抜くために存在しているかのようだった。
脇の小机には紅茶のカップが置かれている。けれど彼女は手をつけずにいた。
つまり、「いまこの場のすべての注意」はアランただ一人に注がれているのだと、嫌悪するほど明確に理解させられる。
「…… アラン」
名を呼ばれただけで、胸が大きく跳ね、喉が詰まった。
「……はい」
やっと吐き出した声は、細く掠れていた。
「レギュラスの傍で、あなたの姿を頻繁に見かけるという話が耳に入ってきています」
氷の刃が肌を裂くような声音だった。
答弁次第で命を切り取られる、そう思わせる鋭さ。
「……っ……私は……」
弁明しようとした声は震えに阻まれ、最後まで形にならない。
その姿を見透かしたかのように、ヴァルブルガの唇がかすかに弦を弾くような歪み方をした。
笑みなのか冷笑なのか、判別もできぬ薄い影を帯びて。
「勘違いなさっては困るのですよ、アラン」
声は淡々としていた。
だが薄刃のように冷たい響きが、胸を真っ直ぐに塞ぐ。
「あなたはこの家で大事に扱われている。けれど、それ以上を望むことは許されない」
それは石壁より重たく、明確に閉ざされた言葉だった。
「……私は……そのような……」
否定しようとして唇を動かす。
けれど自分の胸に潜む罪悪感が、声を震わせ、言葉を砕いていく。
――本当に、拒んでいたのか。
シリウスを想い焦がれながらも、同時にレギュラスへ寄りかかってしまったのは、紛れもない事実ではないか。
沈黙が二人の間に落ちた。
それさえも咎めに等しく響き、アランの膝を重く縛った。
ヴァルブルガは初めて紅茶に手を伸ばし、一口を淡々と含んだ。
琥珀色の液体が揺れるのを見やりながらも、その視線は微塵も逸れない。
「――あなたの父、ロイクは私どもの長く信じる友です。その名を汚さぬこと。……それだけを忘れぬように」
「……はい……」
搾り出した声は、低く途切れていた。
深く頭を垂れたその姿勢のまま、アランにはただ背中に突き刺さる生温かい視線を耐え忍ぶより他なかった。
退室を許され、扉を閉めた途端、足が少し崩れるほどに身体は強張り切っていた。
息を吸う。
それが胸の奥の檻に反響し、苦しむように返ってきた。
――檻は、さらに厚く。
――檻は、さらに硬く。
その中に閉じ込められていく自分を、否応なく実感させられる瞬間だった。
レギュラスの胸の内は、荒れ果てた海のように騒いでいた。
母の声がまだ耳に残っている。
「ロズィエ家の令嬢に失礼のないように」
冷たく硬質な忠言が、未だ反響のように頭の奥に漂っていた。
だがその響きはどこか虚ろだった。
婚約。
家の名誉。
父母の視線。
そして、アラン。
それらひとつひとつが彼の胸を締め付け、絡み合いながら重石となってのしかかってくる。
どれもが従うべき義務であり、同時に逃れたい呪いだった。
――このまま、すべてを背負って潰れてしまうくらいなら。
そう思うと、ふと休暇を終えてホグワーツへ戻りたくなる自分がいた。
この屋敷に満ちる刺すような監視の目。
それから解き放たれるのなら、どれほど楽だろうか。
自由とまでは言わない、ただ息をしても胸を抑えつけられない場所へ――。
そう願っていた矢先だった。
漆黒の玄関先で、影がひとつ動いた。
買い物籠を腕に提げ、出かけようとしているアランの姿だった。
「アラン。……どちらに?」
気づけば声が出ていた。
驚いたように彼女が顔を上げ、翡翠の瞳が一瞬揺れる。
「……お夕飯の買い物に」
ただそれだけの答えだった。
けれど、耳に届いた瞬間に胸が震えた。
他愛のない言葉でさえ、彼女の声は冷え切った家の中で唯一の温もりだった。
「……同行しましょう。気分転換がてらに」
口を突いて出たのは、衝動そのものの言葉。
ついさきほどまで母の前で従順の仮面をかぶり、淡々と振る舞っていたはずだった。
忠告も、戒めも、今となっては霞のように霧散してしまった。
「……レギュラス……?」
アランは驚きと困惑を湛えた表情でこちらを見た。
何かを言いかけて、翡翠の瞳が戸惑う。
薄い唇は迷いの色を浮かべ、声にならずに震えている。
レギュラスはその揺らぎを許すように、しかし逃さぬように手を伸ばした。
冷たく澱んだ屋敷の空気を背に置き、彼女の手を掴んだ。
驚きの息がひとつ零れる。
だがそのまま、力を緩めることなく玄関を踏み出した。
重厚な扉が「閉じた」と同時にごうんと音を立てる。
夏の夕風が二人を包み込んだ。
その風は、屋敷の冷気とはまるで違う。
土と草の匂いを含み、柔らかく頬を撫でていく。
それだけで背中にまとわりついていた影と鋭い監視の声が遠ざかる気がした。
――構わない。
たとえ背後に父母の冷たい視線が残っていようとも。
たとえ「婚約者」の名が家に控えていようとも。
今はただ、この手を離さずにいたかった。
それだけが、荒れ狂う心を安定に繋ぎとめる唯一の方法だった。
夏の夕暮れに揺れる灰色の瞳は、自分を誤魔化すことなく、ただひとりの少女へと注がれていた。
街のざわめきは、屋敷の重苦しい空気とはまるで別世界に思えた。
石畳を靴が踏みしめる音が幾重にも重なり合い、左右からは呼び込みの声が途切れなく交錯する。
焼きたてのパンの香ばしい匂いに、鮮烈なスパイスの芳香が混ざり、水桶を担ぐ音や野菜を抱える人々の声が重なって、市場はひとつの大きな生命の鼓動のように揺れていた。
アランは目を細める。
その喧噪だけで、屋敷を覆っていた黒い重圧が、ほんの少しほどけていく気がした。
「…… アラン、こんなのはどうです?」
レギュラスが露店の棚から瓶詰めのハーブをひとつ掲げた。
光沢のあるガラス瓶の中で乾いたハーブが揺れる。それはただの買い物道具なのに、不思議と彼はまるで宝物を差し出すような仕草で見せる。
「……いいかもしれませんね」
かすかに笑みを浮かべて応えた自分に、驚きが奔った。
いつもと変わらない、ただの日常のやり取り。
それなのに、胸の奥に小さな風穴が開き、そこから柔らかな風が通り抜けていく。
――あのとき。
記憶が自然とよみがえる。
シリウスと共に出かけたマグルの町。
訳も分からないマグルの通貨を前にして二人して笑い合い、目に映るもの一つ一つに驚きが溢れた。
取るに足らないやり取りも、互いに驚きを分け合うたび、世界そのものがきらめいて見えた。
その光の中で、胸がはち切れそうに楽しかった。
けれど今――その隣に、シリウスはいない。
あの灰色の瞳に映る「自由」の炎も、真っ直ぐに言い放たれた声も、ここにはない。
あるのはただ――「必ず迎えに行く」と告げた、まだ果たされぬ約束の残響だけ。
それは希望の糸であると同時に、掴んでしまえば切れてしまうような細さを持っていた。
縋るしかないのに、確証はどこにもなかった。
だからこそ。
その空いた隙間に、静かに忍び込む影がある。
――レギュラス。
気づけば、心の弱った隙を彼は正確に見抜いたかのように入り込み、形を変えながら囚えてくる。
彼の影は冷たくも温かくもあって、抗わずにいることの方が時に楽に思えてしまう。
そして、逃げることを自ら放棄している自分に気づくたび、胸は削れていくようだった。
「……」
はっとして手元に意識を戻した時。
レギュラスの手が、ごく自然な仕草を装いながら、すでに自分の手を握っていた。
人々の雑踏の中。
視線はさまざまに交差しているはずなのに、誰一人としてこちらを大げさに注視する者はいなかった。
買い物袋を下げた人々は皆、通り過ぎていく。
まるで「見ていないふり」をするのが、当然の礼儀であるかのように。
だが、握られたその手の重さと熱だけは――痛かった。
市場の賑わいは光を注ぐ。
陽に煌めく果実、溌剌と笑う人々。
それらが舞台の照明のように明るくアランを照らす。
しかし、その光が強ければ強いほど、自分の影はより深く落ちていく。
――逃げ出したい。
心の奥で悲鳴に似た声が響く。
けれど指先は、拒絶の力を選ばなかった。
ただ、握られたままの形に委ねられている。
市場の熱気の中で、アランだけが冷たい檻に閉ざされていた。
賑わいの中にいるのに、孤独のほかは感じられなかった。
そして囚う影は、彼女を逃がさぬようにその手の中へ閉じ込め続けていた。
市場の喧噪から抜け出すようにして、アランは唐突に腕を強く引かれた。
「……どちらに?」
戸惑いの声をかける暇もなく、レギュラスは振り返らなかった。
ただ前を見据え、迷いのない歩幅で足を進めていく。
屋外のざわめきに浸っていた体が不意に切り離され、急速に世界が閉ざされていく。
人で賑わう大通りを離れ、陰る曲がり角へ。
さらにその奥の路地へ。
細まりゆく小径のほの暗さに、アランの呼吸は速まっていった。
――戻らなければ。
胸の奥でかすかな声が鳴り響いた。
「屋敷へ」と、義務と理性が叫んでいた。
けれど足は止まらない。
掴まれた手の力が、それを拒むことを許さなかった。
やがて、行き止まりの石壁が立ちはだかる場所へ辿り着く。
レギュラスはそこでようやく止まり、静かに振り返った。
灰色の瞳が射抜く。
その奥から滲み出るのは、理性よりも遥かに深い熱。
理性をかき消し、代わりに執着の色を濃く染み渡らせた目だった。
「……っ」
声を発するよりも早く、背が押し付けられる。
冷えた石壁。
硬質な感触が背中に張り付き、退路をすべて奪われた。
そして。
「……!」
唇が重なった。
空気を吸うよりも早く、強い熱が口内へと流れ込んでくる。
驚愕で指先から力が抜け、抱えていた買い物籠が傾いた。
ガシャンと大きな音を立て、果物が石畳に転がっていく。
赤いリンゴが地面を弾み、緑の葉が散る。
その光景に「卵が入っていなくてよかった」と場違いな安堵が、脳裏を一瞬掠めた。
しかし現実は逃げ場を許さなかった。
口付けは浅いものでは終わらず、次第に深さを増していく。
抗おうとしても、彼の指が掌を強く縛り、唇は決して離されなかった。
思考が揺らぐ。
目の奥に、別の記憶が重なる。
――シリウス。
彼と交わした口付け。
それは、心ごと大気に放ち、自由に解き放ってくれるようだった。
境目のすべてが溶け、ただ幸福な炎に抱かれるようだった。
唇が重なっただけで、明日への光が確かなものに感じられた。
けれど今。
レギュラスの唇は、どこまでも沈めていく。
沈むほどに、沼に捕われるように絡みつき、抜け道を塞いでいく。
甘さを装った熱の奥に、冷たい束縛の意志が潜み、体を強く縛る。
――同じはずの行為。
ただ唇が触れ合っているだけのはず。
それなのに、どうしてこれほどまでに違うのだろう。
思考は揺れ、答えを見つけられぬまま胸だけが騒ぐ。
脳裏をかけめぐるのは恐怖。
そして、どうしようもなくこみ上げる弱さ。
逃げなければならないと心が叫んでいるのに。
声は塞がれ、指先は掴まれたまま。
畏怖と疲弊、そして自らの無力が、重石のように心を沈めていった。
行き止まりの壁に追い詰められたその姿は――光のない檻に閉じ込められた鳥のようだった。
散らばった果物を拾い集める手は、細かく震えていた。
リンゴの表面に僅かに傷が入り、転がったトマトが石畳に赤く染みを作る。
そんな些細なことにさえ、アランは敏感になっていた。
胸の奥で荒く脈打つ心臓は、自ら暴れるように高鳴り続けている。
唇にわずかに残る温もりを意識するたび、瞬間的に冷たい汗が背筋を伝った。
――誰かに、見られていたかもしれない。
市場からそう遠くはない路地裏。
人影などなかったように見える。
だが、ほんの小さな音、風に揺れる枝葉のざわめきですら、すぐに“誰か”の気配のように思えて心臓が竦んでしまう。
もし噂が立ち、オリオンやヴァルブルガの耳に届いたなら。
その瞬間に、一族も自分も破滅へ引きずられる。
そう考えるだけで呼吸が詰まり、肺がきしむ。
「……戻りましょう、アラン」
その不安を遮るように、レギュラスが静かに小さく言った。
声は穏やかで、何事もなかったかのようだ。
その灰色の瞳には、しかし満たされた光が宿っていた。
先ほどの口づけが、彼にとっては“確信”を深めるものであったことを示すように。
歩き出す足取りは軽やかで、迷いが一切なかった。
アランは籠を胸元で抱きしめるようにして、小さく頷いた。
視線は下へ落とし、足元の石畳だけを見つめる。
一歩一歩を必死で重ねることで、揺れる心を隠そうとした。
背後から並び歩く青年の横顔は、もし第三者の目に映るのなら――「婚約を控えた若き主人」の穏やかな微笑みにしか見えなかっただろう。
けれどアランの胸にあるのは別の真実だった。
口付けに沈められた瞬間、真っ先に脳裏を過ったのはシリウスの姿。
陽光を切り裂くように輝いた横顔。
未来を信じられるだけの熱をたたえた瞳。
共に歩けば世界が光を増していく、唯一の人。
だが、それはもう触れることの叶わない人。
――戻れない。
心の奥底で囁きが生まれる。
シリウスが去り、残された自分は、レギュラスという影に縛られ続けているのだと。
必死に抗おうとしながらも、同時に逃げる力を放棄してしまっている自分がいる。
その弱さを、誰よりも自分が知っている。
――私は、弱い。
声にならないその言葉だけが、胸の深くで重く沈み続けた。
やがて屋敷の玄関扉が遠くに見え始める。
その瞬間、アランは肩で大きく息を吐いた。
石造りの大時計が低く鐘を鳴らし、時を告げる音が広間に響いている。
屋敷は以前と変わらぬ姿でそこにあり、空気は相変わらず重く、冷たく支配的だった。
扉をくぐれば。
再び主人たちの冷厳な視線が待つ場所へと戻ってしまう。
一瞬だけ外で味わった、生きている人々のざわめき。
風が頬を撫で、心が自然と軽くなったあの瞬間。
それさえ、ここでは夢のように遠い。
残されたのは胸の内で燻り続けるもの。
石壁のように貼りついて離れてくれない。
――路地裏で交わされた口付け。
恐ろしい枷のように、灼けつく熱の感触だった。
アランは唇をかすかに噛み、ただ黙って屋敷の扉を見据えた。
心の翼は折られたまま、戻るべき檻の影へと、また一歩を踏み出していった。
石造りの壁も、大広間の圧力もない。
耳を澄ませば、どこからか草木を渡って吹く風がさやさやとした音を運んできて、小さな屋敷をやさしく包んでいた。
それは、ブラック家の重苦しい静寂とは正反対の、素朴な静けさだった。
だが、その安らぎを素直に胸へ落とし込むことはできなかった。
食卓に並ぶのは香草を混ぜ入れた素朴なスープ、焼き立てのパンにバター。
ホグワーツやブラック家の華美な食事と比べると質素に思えるかもしれない。
けれど、この穏やかな香りだけで肩の力が抜けるようだった。
幼いころから馴染みのある「家庭」の匂い。
アランはそれでも、胸の奥で不安に締めつけられていた。
「…… アラン」
食卓の正面から落ちた低い声。
父ロイクの声だ。
もっとも近い存在であるはずなのに、彼女にとっては同時に最も遠い壁でもあった。
「決してブラック家一族を失望させることのないように。与えられた勤めを果たすことを、常に心掛けなさい」
鋭くもひたむきなその響きは、父の長年の勤めの積み重ねそのものだった。
血の繋がる父である前に、彼はブラック家に仕える者の誇りを背負っている。
その誇りが、一族の未来を繋ぐ細い綱であると信じている。
アランは唇を結び、ゆっくりと頷く。
「……もちろんです。お父様」
声に迷いはなくとも、心にはひび割れるような痛みが広がった。
――シリウスに恋焦がれたことも。
――レギュラスに縋るように心を預けてしまったことも。
それらはすべて、「従者」という立場を踏み外した愚行だったのではないか。
父の重たい期待の言葉の前で、それが剥き出しの罪として胸を抉った。
決して知られてはならない。
父にも、母にも。
この心の弱さと過ちを、知られてしまえば一族を破滅に巻き込む。
喉奥がひどく乾く。
ただ「はい」と答えるしか選択肢はなかった。
だが、母リシェルは違った。
父のように力強く咎める言葉を投げかけることはない。
ただ穏やかに、まっすぐにアランの顔を見つめる。
その瞳が優しい揺らぎを含むのは、娘としての自分へだけ見せてくれる秘密の色だった。
「……お母様の期待も裏切らないように、務めます」
声が途切れそうになりながらそう口にしたアランに、母は小さく微笑んだ。
そして、そっと手を伸ばし、娘の掌を温かく包み込む。
「アラン……何も考えなくていいのです。あなたは、好きに生きてください」
「リシェル」
父の低く圧し掛かる声が割り込む。
母の名を呼び捨てにするのは珍しかった。
その響きには、不協和の色が含まれていた。
無言の咎めのように。
アランの背に汗が伝った。
二人の結婚が、どこか不自然であることは、幼い頃からずっとわかっていた。
父が主オリオンに願い出て、母を娶ったこと。
愛よりも契約として始まった夫婦。
そして母リシェルの心には、別の誰かの影があったのかもしれないという、不確かな噂。
子供の頃から、ふたりの間には微かなぎこちなさが漂っていた。
だからこそ母は、アランには同じものを背負わせたくなかったのかもしれない。
好きな人を、好きに愛してほしいと。
その願いを込めて、「生きてください」と口にしたのだ。
だが、それを確かめる勇気はアランにはなかった。
母の真意を問いただすことなど、今の自分にはあまりにも重い。
アランはただ、母の掌に覆われた自らの手を見つめた。
そこに宿るのは確かな“救い”。
けれどその救いは、父に刻まれた重石と同じくらい重く、胸の奥にずしりと沈んでいく。
――誇りと義務に生きる父。
――自由と愛を願う母。
二つの対照的な想いは、まるで一人の娘に真逆の道を歩ませようとする力になっていた。
アランは震えながらも、その温もりを手放せずにいた。
同時に、父の言葉が鋼の鎖のように心を縛り続けていた。
温かさと冷たさが胸でせめぎあい、彼女の目には涙が浮かびかけていた。
その日、ブラック家の応接間は、いつも以上に荘厳さを湛えていた。
漆黒に塗り込められた壁は光沢を帯び、純血の血統にふさわしい重苦しい高貴さを放っている。
壁に等間隔で掲げられた燭台は整然と魔法の火を灯し、その青白い炎は揺らめきながらも決して消えることがない。
整然と並べられた椅子や絨毯には一族の栄華が染み込み、そこに座る者に「義務」と「誇り」を突き付けていた。
正面には当主オリオンと夫人ヴァルブルガ。
二人は揺るがぬ威厳を保ったまま、静かな壁のように来訪者を待ち構えていた。
その隣に座すのはレギュラス。
姿勢は正しく、肩の力は微塵も抜けず、灰色の瞳をしんと前方へ据えていた。
やがて扉がひらかれる。
音もなく進み出た下僕に導かれて入室したのは、ロズィエ一族の令嬢――カサンドラ・ロズィエ。
艶やかに金糸を織り込んだ黒のドレスは、漆黒の室内でひときわ華やぐ光を放ち、耳元に揺れる真珠が音のない音楽のように気品を添えていた。
一歩、また一歩と進んで正面に立つと、堂々とした曲線で礼を取る。
「ブラック家の皆様にお招きいただき、光栄に存じます」
その声は澄み、よく響いた。
清らかな川の水が岩に当たり、美しく音を立てるような響き。
ヴァルブルガは満足げに目を細め、唇に笑みを浮かべる。
オリオンも深く頷き、その場に流れる空気は「正しさ」に包まれていった。
紹介の言葉が過不足なく交わされると、レギュラスは紳士らしく立ち上がり、形式通りに深い一礼をした。
「お目にかかれて光栄です、カサンドラ嬢」
その声は低く整えられ、灰色の瞳は柔らかな笑みに縁取られていた。
磨き上げられた礼儀作法、淀みない言動。
だが、その奥にある彼の呼吸はあまりにも遠く、冷えていた。
誰の眼にも、完全な上流社会の所作にしか映らない。
しかし実際には、その灰色の瞳はどこか焦点を外し、目の前の令嬢の中に自分を映そうとしてはいなかった。
瞳の奥に灯る陰影は、未だにこの場には存在しないただ一人の娘―― アラン・セシールを捉えて離さない。
彼女の翡翠の瞳を、震える肩を、温もりを。
何一つ、ここにある煌びやかさでは埋め合わせることはできない。
カサンドラの笑みに頷く仕草ひとつでさえ、すべてが「形式」という仮面の動作だった。
言葉は途切れることなく流れている。
けれど、その一音一音が、心から零れているものではなく、完璧な演者としての音色にすぎない。
オリオンとヴァルブルガの眼差しは満足げに光を帯びていた。
彼らには息子の忠実さと婚約に向かう従順さが見えているのだろう。
しかし――誰にも分かるはずがない。
この整えられた顔合わせの裏で、レギュラスの胸を満たし、焼き続けているものが何かを。
灰色の瞳の奥に覗くほの暗い影を、本当の意味で見抜ける者は、この場には一人もいなかった。
仮面は完璧だ。
だが、その仮面の奥で燃え上がる炎は、アランという名の影にしか焦がれることはなかった。
数日ぶりにブラック家の屋敷に足を踏み入れると、空気は以前よりさらに冷たく、重たさを増しているように思えた。
扉をくぐり、廊下を進む度に心臓の鼓動が強まっていく。
何度も歩んだはずの石床が、今日はまるで初めて触れるように足をためらわせた。
深く呼吸を整えながら、アランは広間の中央へ進み出る。
そこにはオリオンとヴァルブルガが座していた。
天井に吊るされた燭台の光は硬質に輝き、煌々と照らされるほどに、二人の姿は荘厳さを帯びて彼女を圧した。
幾度も対面してきたはずなのに、ブラック家一族の主である二人の前に立つと、心臓は縮み上がるように早鐘を打ち、背筋は氷の棒のように固く緊張してしまう。
「この数日、暇を与えたが……ご両親とゆっくり過ごせたかね」
オリオンの低く威厳に満ちた声が広間に流れる。
床石を通じて響くその重さは、ただの言葉以上に命令と責務を含んでいた。
アランは霞む視界を下げ、深く頭を垂れた。
「はい。おかげさまで……」
震えを抑え、努めて穏やかに返したその声に、わずかでも安堵の気配がにじんだ。
ほんの少し――自分はまだ仕える者としての役割を認められているのだと、錯覚にも似た安心があった。
だが次の一言が、その重さを一気に変える。
「あなたにも知らせておかねばなりませんね」
ヴァルブルガだった。
ゆるやかに視線を横切らせながら口を開いたその声音は、氷より冷たくもあり、美酒より滑らかでもあった。
「……レギュラスですが、ロズィエ家のカサンドラ嬢との婚約が決まりました」
「……っ」
その声を浴びた瞬間、胸の奥に鋭さが突き刺さった。
理解が追いつかず、息が詰まる。
目の焦点が揺らぎ、宙をさまよい、全身に血が遠ざかるような感覚が広がっていく。
――婚約。
聞き慣れた語が、この家においてはあまりにも重く響いた。
しかし、一拍遅れて押し寄せたのは別の感情だった。
――安堵。
知らぬ間に絡まり合い、どうしようもなく歪んでいった自分とレギュラスの縁。
それが、今こそ断ち切られる。
そう思えた瞬間、ほんの一瞬だけ救われたように胸が緩んだ。
だが痛みが、すぐさまその胸を締め付ける。
どうしようもない切なさ、苦しさ。
名前もつけられない感情が、突如として胸の底で音もなく悲鳴を上げた。
けれどアランは、それを決して外へ取りこぼすことは許されなかった。
ただ平静を装わねばならない。
頭を深く下げ、恭順の声を紡ぐ。
「……おめでとうございます」
声は冷静に整えられていた。
震えなど届かぬよう、必死に心を切り離して放たれた音だった。
オリオンは満足そうに頷く。
そしてさらに重厚な声で命じるように続ける。
「これから先も、息子夫婦を支えていってくれ」
「尽力させていただきます」
従うべき者として出た言葉。
自らの声帯を通して紡がれているにも関わらず、遠く別人のもののように響いた。
その瞬間、胸の奥で音を立てぬきしみが広がる。
未来を約束するその言葉は、誓約であり、枷でもあった。
深く一礼しながら、アランの心は冷たい檻の中で小さく縮み、己の小さな影を抱きしめるしかなかった。
温もりも光も届かぬままに――。
屋敷に戻ったアランは、努めて平静を見せようとした。
心の奥でどれほど波立つものがあろうとも、表情には出さず――何事もなかったように動く。
それが“従者”としての矜持であり、この家で生き抜く唯一の道だった。
庭に出ると、透明な朝露を含んだ芝が足元にひんやりとした感触を与えた。
魔法で宙に浮かせた小さな刃を操り、芝の背丈を均一に整えていく。
刈りすぎぬよう丁寧に、ひとつひとつを確かめながら。
植え込みの枝を整える剪定鋏も魔法で動かし、丸く滑らかな輪郭を描き出していく。
空中を舞う刃が優美な軌跡を描き、枝葉の落ちる音だけが静かに響いた。
そこに、水撒きの呪文をかければ、小さな水滴が弧を描いて降り注ぎ、陽光を浴びて薄い虹をかける。
その瞬間だけは、心が穏やかになった気がした。
――私は大丈夫。静かに仕えていけばいい。
自分にそう言い聞かせ、乱れた胸を整えようとしていた。
「アラン。……戻ったんですね」
背後から、静かだがよく通る声が落ちた。
振り返るまでもなく分かってしまう声色。
庭の門を開け、凛とした歩みに揺らぎなく近づいてくる影。
「……ご婚約、おめでとうございます」
アランは慌てて道具を抱え直し、礼をした。
わずかに震える声音を隠しきれぬまま。
レギュラスは少しだけ眉を下げ、短い沈黙ののちに言葉を継いだ。
「……もう、聞いていたんですね」
その顔には後ろめたさ混じりの陰が浮かんでいた。
だが、灰色の瞳だけはどこか遠くを見ているようで、すでに諦念めいた色を湛えている。
アランの持っていた剪定鋏と小さなスコップを、レギュラスは何も言わず取り上げた。
それだけで済むかと思った次の瞬間――自然の癖のように、彼の手が彼女の手を包み込む。
「……っ!」
驚きと共に肩が震える。
慌てて手を引こうとするが、その温もりは強固に絡みつき、離してはもらえなかった。
「……レギュラス……」
困惑に揺れる声で名を呼ぶ。
けれど彼はかすかに首を振り、柔らかくも押し殺した声を落とした。
「少しくらい許してください。……数日、あなたはいなかったんですから」
その声音は穏やかさを装っていた。
だが確かに滲んでいる――孤独と渇望。
優しさの仮面を纏いながら、その奥に潜むのは誰にも触れさせたくない切実な渇き。
アランの心臓は、荒ぶるように跳ね上がった。
――父からも、オリオンからも、何度も言われてきた。
「立場を忘れるな」「責務を果たせ」と。
仕える者として一線を知ることこそが、この家に残る唯一の道。
そのはずなのに。
灰色の瞳から向けられる感情はあまりに強く深い。
重すぎる愛情が、彼女の小さな心臓を呑み込もうと迫ってくる。
清らかな風が庭を渡り、芝を揺らす。
水滴が朝日にきらめき、虹は一瞬鮮やかに架かる。
けれどアランの世界は――握られた熱に囚われていた。
その温もりだけが檻となって、指先から逃がしてくれなかった。
レギュラスの親指が、アランの手の甲をゆっくりと撫でていた。
その動きは穏やかに見えて、実際には縄のように絡みつく強さを秘めている。
温もりは甘やかで、血流の奥にまで沁みていく。
けれど同時に、それは逃れられぬ拘束の手触りを伴っていた。
アランの胸は、荒い鼓動で自らを責め立てるように波打つ。
息を整えようとするほどに、逆に胸の内で音は乱れ、耳の奥にまで響いた。
「レギュラス……だめです。誰かに見られたら……」
震える声が漏れる。
喉には父ロイクの叱責の声が、オリオンの冷厳な言葉が重なって塞がっていた。
――勤めを果たせ。
――血筋を汚すな。
家に仕える者として刻まれた声は、指一本の甘えも許さない。
それを思い出すたびに、胸の奥が凍り、肺が縮みあがる。
しかしレギュラスはわずかに細めた灰色の瞳で彼女を見つめ、低く答えた。
「……見られても、構いません」
その一言に、血の気が一瞬で引いていく。
「っ――!」
喉から短い悲鳴のような息がもれる。
足元の芝までもが凍りついた気がした。
まさにその時だった。
庭の奥で、ガサリと枝葉が揺れた。
突如の物音にアランの体は反射的に強張り、胸は張り裂けそうなほどに跳ねる。
振り払わなければ――。
咄嗟に腕を引こうとした。
胸が張り裂けるほどの恐怖に、冷汗が背筋を伝い落ちていく。
レギュラスの灰色の視線がちらりとその方角へ動く。
そこには鉢植えを抱えたひとりの使用人が姿を現しかけていた。
気づかれるのか、気づかないのか――。
目の前の一瞬が永遠の長さに引きのばされたように感じられた。
「……ッ……」
アランの胸が裂けるほど詰まり、息が喉から出てこない。
けれどレギュラスは微動だにしなかった。
その手を離さぬまま――穏やかな声音を、彼女の不安を打ち消すように零す。
「……落ち着いて。大丈夫です」
そして、ほんの一呼吸後。
嘘のようにすっと手を放ち、代わりに彼女が持っていた剪定鋏を持ち直す。
ゆるやかに動いて枝を落とす仕草に、余計な不自然さはなかった。
まるでごく自然に、最初から二人で庭仕事をしていたかのように。
鉢植えを抱えた使用人は短く一礼し、何も言わずに通り過ぎていった。
気づかなかったのか――いや、もしかすると気づいていても敢えて目を逸らしたのか。
どちらにせよ、何も問わずに通り過ぎる背の後ろで、アランは胸を押さえ、喉の奥で息を噛みしめるしかなかった。
「……ッ……」
背中を伝う汗が冷たく、血の気が戻らぬ両頬に冷気がまとわりつく。
横顔を見ると――レギュラスの灰色の瞳は穏やかだった。
何ひとつ動揺していない仮面の静けさの中に、むしろ揺るぎない意志と、抑えきれぬ執着が滲んでいた。
「…… アラン。僕は、決して手放しません」
その声は、柔らかさを帯びていながらも、耳に届く時には鉄鎖がかかる音に似ていた。
逃げ場を封じる檻の響き。
彼の言葉の中には、優しさと狂おしい決意が溶け合い、アランの胸を深く閉じ込めていった。
そして彼女はただ、震える心を抱えたまま、虹色の朝庭の中に立ち尽くすしかなかった。
庭での一件から、それほど時を置かずして。
アランは呼び出しを受けた。
「ヴァルブルガ様のお部屋へお越しください」
ただその一言を、同僚の使用人から伝えられただけで、全身が冷気を浴びたように硬直する。
血の気が足元へ降りていき、膝は己の意志に反して細かく震え始めた。
自然な足取りを装おうと努めても、その揺れだけは隠せなかった。
重々しい扉の前に立つ。
呼吸を整えようとしても胸の早鐘は止まらず、深呼吸を重ねすぎてかえって苦しくなる。
それでも震える拳を扉に当て、軽くノックをする。
「入りなさい」
張り詰めた声が内側から響いた。
それだけで空気が裂けるように沈黙し、廊下の時間までもが凍ったように思えた。
扉を開けば、そこにヴァルブルガがいた。
長椅子に座り、背筋をこれ以上なく伸ばし、視線だけを鋭く向けてくる。
その視線には一切の揺らぎがなく、ただ一人の娘である自分を撃ち抜くために存在しているかのようだった。
脇の小机には紅茶のカップが置かれている。けれど彼女は手をつけずにいた。
つまり、「いまこの場のすべての注意」はアランただ一人に注がれているのだと、嫌悪するほど明確に理解させられる。
「…… アラン」
名を呼ばれただけで、胸が大きく跳ね、喉が詰まった。
「……はい」
やっと吐き出した声は、細く掠れていた。
「レギュラスの傍で、あなたの姿を頻繁に見かけるという話が耳に入ってきています」
氷の刃が肌を裂くような声音だった。
答弁次第で命を切り取られる、そう思わせる鋭さ。
「……っ……私は……」
弁明しようとした声は震えに阻まれ、最後まで形にならない。
その姿を見透かしたかのように、ヴァルブルガの唇がかすかに弦を弾くような歪み方をした。
笑みなのか冷笑なのか、判別もできぬ薄い影を帯びて。
「勘違いなさっては困るのですよ、アラン」
声は淡々としていた。
だが薄刃のように冷たい響きが、胸を真っ直ぐに塞ぐ。
「あなたはこの家で大事に扱われている。けれど、それ以上を望むことは許されない」
それは石壁より重たく、明確に閉ざされた言葉だった。
「……私は……そのような……」
否定しようとして唇を動かす。
けれど自分の胸に潜む罪悪感が、声を震わせ、言葉を砕いていく。
――本当に、拒んでいたのか。
シリウスを想い焦がれながらも、同時にレギュラスへ寄りかかってしまったのは、紛れもない事実ではないか。
沈黙が二人の間に落ちた。
それさえも咎めに等しく響き、アランの膝を重く縛った。
ヴァルブルガは初めて紅茶に手を伸ばし、一口を淡々と含んだ。
琥珀色の液体が揺れるのを見やりながらも、その視線は微塵も逸れない。
「――あなたの父、ロイクは私どもの長く信じる友です。その名を汚さぬこと。……それだけを忘れぬように」
「……はい……」
搾り出した声は、低く途切れていた。
深く頭を垂れたその姿勢のまま、アランにはただ背中に突き刺さる生温かい視線を耐え忍ぶより他なかった。
退室を許され、扉を閉めた途端、足が少し崩れるほどに身体は強張り切っていた。
息を吸う。
それが胸の奥の檻に反響し、苦しむように返ってきた。
――檻は、さらに厚く。
――檻は、さらに硬く。
その中に閉じ込められていく自分を、否応なく実感させられる瞬間だった。
レギュラスの胸の内は、荒れ果てた海のように騒いでいた。
母の声がまだ耳に残っている。
「ロズィエ家の令嬢に失礼のないように」
冷たく硬質な忠言が、未だ反響のように頭の奥に漂っていた。
だがその響きはどこか虚ろだった。
婚約。
家の名誉。
父母の視線。
そして、アラン。
それらひとつひとつが彼の胸を締め付け、絡み合いながら重石となってのしかかってくる。
どれもが従うべき義務であり、同時に逃れたい呪いだった。
――このまま、すべてを背負って潰れてしまうくらいなら。
そう思うと、ふと休暇を終えてホグワーツへ戻りたくなる自分がいた。
この屋敷に満ちる刺すような監視の目。
それから解き放たれるのなら、どれほど楽だろうか。
自由とまでは言わない、ただ息をしても胸を抑えつけられない場所へ――。
そう願っていた矢先だった。
漆黒の玄関先で、影がひとつ動いた。
買い物籠を腕に提げ、出かけようとしているアランの姿だった。
「アラン。……どちらに?」
気づけば声が出ていた。
驚いたように彼女が顔を上げ、翡翠の瞳が一瞬揺れる。
「……お夕飯の買い物に」
ただそれだけの答えだった。
けれど、耳に届いた瞬間に胸が震えた。
他愛のない言葉でさえ、彼女の声は冷え切った家の中で唯一の温もりだった。
「……同行しましょう。気分転換がてらに」
口を突いて出たのは、衝動そのものの言葉。
ついさきほどまで母の前で従順の仮面をかぶり、淡々と振る舞っていたはずだった。
忠告も、戒めも、今となっては霞のように霧散してしまった。
「……レギュラス……?」
アランは驚きと困惑を湛えた表情でこちらを見た。
何かを言いかけて、翡翠の瞳が戸惑う。
薄い唇は迷いの色を浮かべ、声にならずに震えている。
レギュラスはその揺らぎを許すように、しかし逃さぬように手を伸ばした。
冷たく澱んだ屋敷の空気を背に置き、彼女の手を掴んだ。
驚きの息がひとつ零れる。
だがそのまま、力を緩めることなく玄関を踏み出した。
重厚な扉が「閉じた」と同時にごうんと音を立てる。
夏の夕風が二人を包み込んだ。
その風は、屋敷の冷気とはまるで違う。
土と草の匂いを含み、柔らかく頬を撫でていく。
それだけで背中にまとわりついていた影と鋭い監視の声が遠ざかる気がした。
――構わない。
たとえ背後に父母の冷たい視線が残っていようとも。
たとえ「婚約者」の名が家に控えていようとも。
今はただ、この手を離さずにいたかった。
それだけが、荒れ狂う心を安定に繋ぎとめる唯一の方法だった。
夏の夕暮れに揺れる灰色の瞳は、自分を誤魔化すことなく、ただひとりの少女へと注がれていた。
街のざわめきは、屋敷の重苦しい空気とはまるで別世界に思えた。
石畳を靴が踏みしめる音が幾重にも重なり合い、左右からは呼び込みの声が途切れなく交錯する。
焼きたてのパンの香ばしい匂いに、鮮烈なスパイスの芳香が混ざり、水桶を担ぐ音や野菜を抱える人々の声が重なって、市場はひとつの大きな生命の鼓動のように揺れていた。
アランは目を細める。
その喧噪だけで、屋敷を覆っていた黒い重圧が、ほんの少しほどけていく気がした。
「…… アラン、こんなのはどうです?」
レギュラスが露店の棚から瓶詰めのハーブをひとつ掲げた。
光沢のあるガラス瓶の中で乾いたハーブが揺れる。それはただの買い物道具なのに、不思議と彼はまるで宝物を差し出すような仕草で見せる。
「……いいかもしれませんね」
かすかに笑みを浮かべて応えた自分に、驚きが奔った。
いつもと変わらない、ただの日常のやり取り。
それなのに、胸の奥に小さな風穴が開き、そこから柔らかな風が通り抜けていく。
――あのとき。
記憶が自然とよみがえる。
シリウスと共に出かけたマグルの町。
訳も分からないマグルの通貨を前にして二人して笑い合い、目に映るもの一つ一つに驚きが溢れた。
取るに足らないやり取りも、互いに驚きを分け合うたび、世界そのものがきらめいて見えた。
その光の中で、胸がはち切れそうに楽しかった。
けれど今――その隣に、シリウスはいない。
あの灰色の瞳に映る「自由」の炎も、真っ直ぐに言い放たれた声も、ここにはない。
あるのはただ――「必ず迎えに行く」と告げた、まだ果たされぬ約束の残響だけ。
それは希望の糸であると同時に、掴んでしまえば切れてしまうような細さを持っていた。
縋るしかないのに、確証はどこにもなかった。
だからこそ。
その空いた隙間に、静かに忍び込む影がある。
――レギュラス。
気づけば、心の弱った隙を彼は正確に見抜いたかのように入り込み、形を変えながら囚えてくる。
彼の影は冷たくも温かくもあって、抗わずにいることの方が時に楽に思えてしまう。
そして、逃げることを自ら放棄している自分に気づくたび、胸は削れていくようだった。
「……」
はっとして手元に意識を戻した時。
レギュラスの手が、ごく自然な仕草を装いながら、すでに自分の手を握っていた。
人々の雑踏の中。
視線はさまざまに交差しているはずなのに、誰一人としてこちらを大げさに注視する者はいなかった。
買い物袋を下げた人々は皆、通り過ぎていく。
まるで「見ていないふり」をするのが、当然の礼儀であるかのように。
だが、握られたその手の重さと熱だけは――痛かった。
市場の賑わいは光を注ぐ。
陽に煌めく果実、溌剌と笑う人々。
それらが舞台の照明のように明るくアランを照らす。
しかし、その光が強ければ強いほど、自分の影はより深く落ちていく。
――逃げ出したい。
心の奥で悲鳴に似た声が響く。
けれど指先は、拒絶の力を選ばなかった。
ただ、握られたままの形に委ねられている。
市場の熱気の中で、アランだけが冷たい檻に閉ざされていた。
賑わいの中にいるのに、孤独のほかは感じられなかった。
そして囚う影は、彼女を逃がさぬようにその手の中へ閉じ込め続けていた。
市場の喧噪から抜け出すようにして、アランは唐突に腕を強く引かれた。
「……どちらに?」
戸惑いの声をかける暇もなく、レギュラスは振り返らなかった。
ただ前を見据え、迷いのない歩幅で足を進めていく。
屋外のざわめきに浸っていた体が不意に切り離され、急速に世界が閉ざされていく。
人で賑わう大通りを離れ、陰る曲がり角へ。
さらにその奥の路地へ。
細まりゆく小径のほの暗さに、アランの呼吸は速まっていった。
――戻らなければ。
胸の奥でかすかな声が鳴り響いた。
「屋敷へ」と、義務と理性が叫んでいた。
けれど足は止まらない。
掴まれた手の力が、それを拒むことを許さなかった。
やがて、行き止まりの石壁が立ちはだかる場所へ辿り着く。
レギュラスはそこでようやく止まり、静かに振り返った。
灰色の瞳が射抜く。
その奥から滲み出るのは、理性よりも遥かに深い熱。
理性をかき消し、代わりに執着の色を濃く染み渡らせた目だった。
「……っ」
声を発するよりも早く、背が押し付けられる。
冷えた石壁。
硬質な感触が背中に張り付き、退路をすべて奪われた。
そして。
「……!」
唇が重なった。
空気を吸うよりも早く、強い熱が口内へと流れ込んでくる。
驚愕で指先から力が抜け、抱えていた買い物籠が傾いた。
ガシャンと大きな音を立て、果物が石畳に転がっていく。
赤いリンゴが地面を弾み、緑の葉が散る。
その光景に「卵が入っていなくてよかった」と場違いな安堵が、脳裏を一瞬掠めた。
しかし現実は逃げ場を許さなかった。
口付けは浅いものでは終わらず、次第に深さを増していく。
抗おうとしても、彼の指が掌を強く縛り、唇は決して離されなかった。
思考が揺らぐ。
目の奥に、別の記憶が重なる。
――シリウス。
彼と交わした口付け。
それは、心ごと大気に放ち、自由に解き放ってくれるようだった。
境目のすべてが溶け、ただ幸福な炎に抱かれるようだった。
唇が重なっただけで、明日への光が確かなものに感じられた。
けれど今。
レギュラスの唇は、どこまでも沈めていく。
沈むほどに、沼に捕われるように絡みつき、抜け道を塞いでいく。
甘さを装った熱の奥に、冷たい束縛の意志が潜み、体を強く縛る。
――同じはずの行為。
ただ唇が触れ合っているだけのはず。
それなのに、どうしてこれほどまでに違うのだろう。
思考は揺れ、答えを見つけられぬまま胸だけが騒ぐ。
脳裏をかけめぐるのは恐怖。
そして、どうしようもなくこみ上げる弱さ。
逃げなければならないと心が叫んでいるのに。
声は塞がれ、指先は掴まれたまま。
畏怖と疲弊、そして自らの無力が、重石のように心を沈めていった。
行き止まりの壁に追い詰められたその姿は――光のない檻に閉じ込められた鳥のようだった。
散らばった果物を拾い集める手は、細かく震えていた。
リンゴの表面に僅かに傷が入り、転がったトマトが石畳に赤く染みを作る。
そんな些細なことにさえ、アランは敏感になっていた。
胸の奥で荒く脈打つ心臓は、自ら暴れるように高鳴り続けている。
唇にわずかに残る温もりを意識するたび、瞬間的に冷たい汗が背筋を伝った。
――誰かに、見られていたかもしれない。
市場からそう遠くはない路地裏。
人影などなかったように見える。
だが、ほんの小さな音、風に揺れる枝葉のざわめきですら、すぐに“誰か”の気配のように思えて心臓が竦んでしまう。
もし噂が立ち、オリオンやヴァルブルガの耳に届いたなら。
その瞬間に、一族も自分も破滅へ引きずられる。
そう考えるだけで呼吸が詰まり、肺がきしむ。
「……戻りましょう、アラン」
その不安を遮るように、レギュラスが静かに小さく言った。
声は穏やかで、何事もなかったかのようだ。
その灰色の瞳には、しかし満たされた光が宿っていた。
先ほどの口づけが、彼にとっては“確信”を深めるものであったことを示すように。
歩き出す足取りは軽やかで、迷いが一切なかった。
アランは籠を胸元で抱きしめるようにして、小さく頷いた。
視線は下へ落とし、足元の石畳だけを見つめる。
一歩一歩を必死で重ねることで、揺れる心を隠そうとした。
背後から並び歩く青年の横顔は、もし第三者の目に映るのなら――「婚約を控えた若き主人」の穏やかな微笑みにしか見えなかっただろう。
けれどアランの胸にあるのは別の真実だった。
口付けに沈められた瞬間、真っ先に脳裏を過ったのはシリウスの姿。
陽光を切り裂くように輝いた横顔。
未来を信じられるだけの熱をたたえた瞳。
共に歩けば世界が光を増していく、唯一の人。
だが、それはもう触れることの叶わない人。
――戻れない。
心の奥底で囁きが生まれる。
シリウスが去り、残された自分は、レギュラスという影に縛られ続けているのだと。
必死に抗おうとしながらも、同時に逃げる力を放棄してしまっている自分がいる。
その弱さを、誰よりも自分が知っている。
――私は、弱い。
声にならないその言葉だけが、胸の深くで重く沈み続けた。
やがて屋敷の玄関扉が遠くに見え始める。
その瞬間、アランは肩で大きく息を吐いた。
石造りの大時計が低く鐘を鳴らし、時を告げる音が広間に響いている。
屋敷は以前と変わらぬ姿でそこにあり、空気は相変わらず重く、冷たく支配的だった。
扉をくぐれば。
再び主人たちの冷厳な視線が待つ場所へと戻ってしまう。
一瞬だけ外で味わった、生きている人々のざわめき。
風が頬を撫で、心が自然と軽くなったあの瞬間。
それさえ、ここでは夢のように遠い。
残されたのは胸の内で燻り続けるもの。
石壁のように貼りついて離れてくれない。
――路地裏で交わされた口付け。
恐ろしい枷のように、灼けつく熱の感触だった。
アランは唇をかすかに噛み、ただ黙って屋敷の扉を見据えた。
心の翼は折られたまま、戻るべき檻の影へと、また一歩を踏み出していった。
