1章
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シリウスが家を出た、その翌朝。
ブラック家の屋敷には、これまで以上に濃く、深い沈黙が漂っていた。
回廊の高い天井には音の欠片すら反響せず、石壁はただ冷え冷えと己の重さをまき散らしている。
かつては朝の空気を震わせていた大股の足音も、突拍子もない笑い声も、どこにもなかった。
今はただ、重苦しく睨みつける祖先たちの肖像だけが壁に居座り、その気配が屋敷の住人たちを押し黙らせていた。
アランは廊下を歩きながら、胸の奥が不意に空いたような感覚を覚えた。
銀器を揃えたトレイを抱きしめるように握っているのに、妙に手元が頼りない。
何をしていても、心のどこかがぽっかりと穴を開けてしまっているのだ。
——いつだって、彼は光だった。
思い返されるのは星空の下、横顔に纏った輝き。
笑い声と共に差し伸べられた手の温もり。
「自由」を謳うように真っ直ぐ響いた声と、未来を誓うような力強さ。
鮮明で、胸を焦がすはずの記憶は、今はかえって鋭く冷たく、喪失を突きつけてくる。
「……」
足が止まる。
手にしていた食器のトレイを思わず胸に抱き寄せ、身を小さく丸める。
その瞬間、不意に視界が揺らぎ、涙が頬を熱で濡らしていった。
拭おうとするよりも早く。
誰かの影が横合いから静かに寄り添った。
「アラン」
低く穏やかな声。
肩に触れる温もり。
振り返れば、そこにいたのはレギュラスだった。
彼は何も問わず、ただ静かに彼女の肩へ腕を回し、逃げ道を塞ぐのではなく、支えるように抱き寄せた。
抵抗を考えるより、先に。
アランの身体はその胸元へ沈み込んでいた。
「……泣かないでください」
耳元で響いた声は、驚くほどに穏やかだった。
この屋敷の冷たい空気にありながら、その瞬間だけは柔らかで、救いを含んでさえいた。
「でも……シリウスが……」
言葉が続かず、喉が震えて声は途切れる。
雫が再び落ちそうになるのを必死に堪えながら、アランは小さく首を振った。
レギュラスは静かな灰色の瞳を細め、変わらぬ声音で言った。
「兄は……もう自ら選んだ道を歩まれる方です。
ならば、あなたは……僕が守ります」
その言葉があまりに真摯だったため、アランの胸に困惑にも似た安堵が、静かに広がっていく。
失ってしまった光の残骸が空白を生んでいた。
だが今、その隙間を塞ぐように差し伸べられたのは、光とはあまりにも異なる影の優しさだった。
シリウスという自由の光は、確かに遠く失われていた。
けれど――なお残された闇の中で、自分に寄り添い「守る」と告げてくれる影に、今は縋らずにはいられなかった。
翡翠の瞳は涙で滲みながらも、逃げることなくレギュラスを仰いでいた。
その瞳に映るのはもう眩しすぎる光ではなく、散らずに残る陰のぬくもりだった。
レギュラスに呼ばれるまま、アランは静まり返った廊下を歩いていた。
壁に灯る燭台の炎が揺れ、石造りの床に淡い光と影を落としている。
その影の中に、自分の足音さえ溶けていくようだった。
空気はひどく重たく、吐息ひとつすら響かせるのをためらうほどに静寂が支配していた。
扉の前に立ったとき、心臓の鼓動がやけに大きく耳に響いた。
ためらいの指先が、冷たい取っ手をそっと撫でる。
開かれた扉の向こうには、外界と切り離された静かな世界が広がっていた。
厚いカーテンが夜を遮り、僅かなランプの灯りが壁に幽かな揺らめきを描いている。
その光がレギュラスの横顔をなぞった。
光と闇の境で、彼はまるで夢の中の幻影のように立っていた。
「……来てくれたのですね。」
低く、どこまでも穏やかな声だった。
その一言が、アランの中で何かを崩した。
静かな波紋が心の奥に広がり、抗おうとする理性をひとつずつ溶かしていく。
一歩、また一歩。
気づけば彼の前に立っていた。
指先が触れた瞬間、胸の奥で何かが軋むように鳴った。
温もりが、痛みを伴って流れ込んでくる。
それは懐かしさにも似ていて、同時に、どうしようもなく間違ったぬくもりだった。
越えてはならない境界線――。
それを知っていながら、二人は静かに、確実にその線を踏み越えた。
影と影が寄り添い、息と息が混ざり合う。
ランプの炎が一度、大きく揺れ、やがて再び静まった。
その刹那、世界が止まったように思えた。
アランの瞳から、ひとしずく涙が零れ落ちる。
頬を伝い、レギュラスの肩へと落ちると、白い布地がじわりと濡れた。
「……っ」
喉の奥から洩れた小さな音。
それは悲鳴のようで、祈りのようでもあった。
抱き寄せられた瞬間、アランは彼の首へと両腕を絡めた。
細い指先が、しがみつくように食い込み、震える唇が彼の肩を濡らす。
涙を堪えようとするほど、嗚咽は静かに漏れ出していく。
レギュラスは何も言わず、ただその背に手を添えていた。
――似ている。
息遣いも、声の低さも、肌をかすめる匂いまでも。
シリウスと、あまりにも似ていた。
同じ血を分けた兄弟であるがゆえの、残酷なほどの共通点。
だが、決して同じではない。
彼は代わりにはなれない。
分かっている、それでも。
アランは、代わりとして求めてしまった。
心に空いた穴が、あまりに深くて、痛すぎたから。
シリウスを失ってからというもの、彼の不在が毎晩、胸の内側を焼き尽くしていた。
このままでは壊れてしまう――。
そう感じた瞬間、差し出された温もりを、拒むことができなかった。
レギュラスの指が頬を拭う。
その手つきは驚くほど優しかった。
けれど、その優しさがかえって胸を裂く。
「…… アラン、泣かないでください。」
耳元に落とされた声が、静かに震える心を撫でた。
まるで、壊れかけたガラスの上を素足で歩くような痛みが胸を満たす。
自分が今、何に泣いているのか――もうわからなかった。
シリウスを失った悲しみか。
それとも、自分の弱さを責める涙か。
あるいは、レギュラスという影に寄りかかってしまった罪への懺悔か。
すべてが混ざり、涙は止まらない。
瞳の奥で、翡翠色の光が揺れた。
それはまるで、絶え間なく零れ続ける祈りの欠片のようだった。
唇が触れ合うたびに、痛みが波のように押し寄せる。
甘さはなく、ただ熱と悲しみだけが残る。
その熱が、一瞬だけ心の空白を満たし、またすぐに消える。
救いなのか、地獄なのか――判別できない。
ただひとつ、確かなことがあった。
——この夜を選んだのは、他でもない、自分自身なのだ。
レギュラスの胸に身を預け、アランは静かに息を吐いた。
もう抜け出せない。
弱さに絡め取られたまま、彼の影に縋りつくしかなかった。
それが破滅だとしても、今だけは、誰かの温もりの中にいたかった。
ランプの炎が小さく瞬き、やがて静かに消えた。
残されたのは、闇と二人の息遣いだけ。
その闇の中で、アランは確かに感じていた。
――これは赦しではなく、罰だ。
そしてその罰を、彼女は誰よりも甘やかに、静かに受け入れていた。
夜は深く沈み、二人の影は一つに溶けて、
やがて、誰にも知られぬまま、闇の底へと消えていった。
その瞬間、レギュラスは胸の奥底から確信を抱いた。
ブラック家という名の威光も、蓄えられた富も、兄の座も――もはや空虚に残された。
そこに自分が立つのだ。
そして、いま腕の中にはアラン・セシールがいる。
――もう全ては、自分のものだ。
その実感は、雷のように全身を駆け抜け、震えるほどの昂ぶりとなって胸を突き抜けた。
この世には奪えぬものなど存在しない。
そう思わせるまでに、自分は彼女を確かに抱き寄せているのだ。
「アラン……泣かないで。……好きです」
押し殺した声で囁いた。
それは切実な告白でありながら、胸を軋ませるほどの渇望の色をしていた。
だが、アランは答えなかった。
翡翠の瞳からは涙が零れ続け、ただ首を左右に振る。
その沈黙が何を意味するのか――拒絶なのか、後悔なのか、悲哀なのか。
レギュラスはもう、それを探ろうとしなかった。
どうでもよかった。
大切なのは、彼女が「いま」、自分の胸に囚われているという事実。
その一点だけが揺るぎなく存在していた。
彼女の震え、指先に伝わるやわらかなぬくもり。
そして抱き寄せた身体の温度は、現実を凌駕するほどの幸福としてレギュラスを塗り潰していった。
ようやく――ようやく手に入れた。
彼が渇望し続けていたもの。
身体の交わりによる快楽だけではない。
もっと奥に潜む、魂を縛りつける「確かな所有」。
それを今この瞬間、自分は両手で強く掴んだのだ。
「…… アラン。愛しています」
途切れがちな呼吸の合間に告げたその声は、切実さと狂気を帯びて響いた。
見下ろした翡翠の瞳には、まだ涙が光っていた。
震える睫毛、濡れた頬、噛みしめた唇。
それでも拭おうとはしなかった。
むしろ、その涙さえ愛しいと思った。
痛みに耐えて脆さを晒すその姿。
抗いながらも、結局は逃げずに自分の腕の中で涙を流している、その現実。
すべてが、彼の胸を甘美に満たしていった。
今この腕に抱き締められているという事実がある限り、彼にはもうそれ以上必要なものはなかった。
――シリウスが追いかけていた「自由」など要らない。
――世界が差し伸べてくる「理想」など無意味だ。
目の前の柔らかな存在。
自分に囚われ、涙を流しながらも拒めずにいるアラン。
そのすべてを得た今――レギュラスにとって、これ以上の幸福など、もはや存在しなかった。
翌朝――。
アランは寝坊しかけた自分に気づき、わずかな東の紅を窓に見ながら慌ただしく身支度を整えた。
布の裾をまとめ、足音を殺して扉を開け放ち、ひんやりとした廊下に身を投じる。
廊下の石畳は薄寒く、祖先たちの肖像が呆然と己を見下ろしていた。
胸の奥は羞恥と不安で息苦しく、足を速めても背後から影に追われているような感覚は消えなかった。
――取り返しのつかない一線を越えてしまった。
その思いが足取りをひどく重くし、呼吸を乱す。ちょうど厨房の前に辿り着く頃には、胸はちりちりと焼けるような熱で高鳴っていた。
厨房に飛び込み、火をかけ直し、パンを温め、銅鍋に茶葉を蒸らす。
震える指先を無理やり動かし続け、鍋の中で湯気が立ち上るのを凝視していた。
しかしその震えを隠し切れぬまま、背後から落ちてきた天地の響きのような声に、全身が跳ねた。
「……昨夜は、レギュラスの部屋にいたのかね」
振り返った瞬間、背筋に冷たい刃物が走る。
そこに立っていたのは、オリオン・ブラック。
黒曜石を思わせる鋭い双眸は測り知れぬ知識と重圧に満ち、彼の言葉が冷たい檻となった。
「……っ……」
どこまで知っているのか――それは分からない。
だが、その声色は「忠告」であり、「告発」であり、「監視」だった。
従者であるはずの身で、主人の息子の部屋に夜を過ごしたこと。
それを良しと見る主人などいない。
冷ややかな沈黙の奥で、血筋の掟がいま自分の首を絞めているのを感じた。
「……申し訳ありません、オリオン様」
絞り出した声は小さく震え、俯く視線は石床に釘付けにされた。
それでも、オリオンの表情は揺るがなかった。
「謝ることはない。……よく働いてくれているからな」
淡々とした口調。だが次の一言には鉄の重みがあった。
「疲れて、入る部屋を間違えることもあるだろう」
表面だけを見ればありふれた言葉。
しかしその下に潜んでいるのは――“すべてを知っている”と暗に告げる重い影。
アランの胸がぎゅっと痛みで抉られ、声も出せずにただ唇を噛みしめる。
その時だった。
「父上」
低く落ち着き払った声が厨房に響いた。
足音も迷いもなく、レギュラスが姿を現す。
しっかりとした歩調でアランの傍を通りすぎ、正面から父の前に静かに立った。
「僕が呼びました。……手伝っていただきたいことがあったのです」
その理由は形ばかりの方便に過ぎない。
しかし、言葉は迷いなく、空気に切れ目を作らぬほど堂々としたものだった。
厚い沈黙が落ちた。
オリオンの鋭い眼差しが息子を射抜く。
その視線には、血筋の誇りと冷徹な戒めのすべてが込められていた。
やがて返ってきた声は、鋼のように低く静かだった。
「……そうか。それはいい」
そして短く続いたのは、一条の刃に等しい忠告。
「私の大事な友であるロイクの娘を、傷つけないでくれたらそれでいい」
アランの胸に冷気が突き刺さった。
オリオンはすでに全てを知っているのか。
あるいは疑いを込め、牽制として投げかけているのか。
どちらにせよ、その言葉には逃げ場のない真実が張り付いていた。
従者としての立場も、ロイクの娘としての運命も、この屋敷に縛られている。
逃れる隙など何ひとつないのだ。
「……承知しました」
レギュラスは姿勢を正し、深く頭を下げた。
その声音と所作には、一切の怯みも迷いもなかった。
アランの翡翠の瞳をふと掠めたその灰色の双眸には、静かな決意が燃えていた。
「守る」という名の下に宿る意志は、鋼鉄のように揺らぎなく、彼女を決して解放はしないと誓うものだった。
冷たい厨房の空気の中で、アランの呼吸は細く震え、誰もいない空間に閉じ込められた鳥のように感じられた。
そしてレギュラスの気配だけが、覆いかぶさる影となって彼女を包み込んだ。
アランの胸はまだ激しく波打っていた。
先ほどまで厨房に漂っていた重たい空気の余韻が、今なお離れずに纏わりつく。
心臓の鼓動は耳鳴りのように耳の奥で響き、汗ばむ手の平は何を握ろうとしてもすぐに滑り落ちそうだった。
思い返すだけで、背筋に寒気が走る。
オリオンの冷たい眼差し。
審判のように静かで、鋭利な刃よりも鋭く突き刺さったまなざし。
あの視線が向けられたとき全身の力は抜け落ち、ただひれ伏すことしかできなくなりそうだった。
もしあのときレギュラスが間に立ってくれなければ――。
きっと涙を堪え切れず、床に頭を垂れて許しを請うていただろう。
想像するだけで、ぞっと身の毛が粟立つ。
「…… アラン。気にしなくて構いません」
低くやわらかな声が耳を撫でた。
振り返れば、灰色の瞳が静謐に彼女を見つめている。
レギュラスだった。
翡翠の瞳が揺れ、困惑が滲む。
「……そんなわけには、いかないわ」
震える声が口を突いて出る。
仕える者としての矜持が、そう言わせた。
この家においての失態は、許されぬ。命取りであると誰よりも理解している。
だから――“気にするな”などという言葉で済ませてはいけないのだ。
だがレギュラスは動じない。
むしろ一歩だけ近づき、その動きはあまりにも自然で、抗う隙さえ与えなかった。
彼はそっとアランの手を取る。
指先に広がったのは、驚くほどの温かさ。
まるで冷え切った身体に火が灯ったかのように、彼女の震える手を包み込む。
「大丈夫です。……僕がいますから」
囁きに宿る重みは慰めの優しさにとどまらなかった。
甘やかにとろける響きの奥底には、逃れられない強さが潜んでいた。
「……レギュラス……」
名を呼んだ声は、震えと戸惑いを含んで胸の奥で弾んだ。
彼の言葉が心を温めると同時に、ぞくりと恐怖を呼ぶ。
差し伸べられた温もりにすがれば、自分はこの檻の名と血に深く縛られていくのかもしれない。
わかっているのに、その手を振り払う勇気は出なかった。
――この手を、拒めたら。
翡翠の奥で、苦しみのような願いが掠れた。
もし躊躇いなく振り払えたなら、どれだけ楽になることだろう。
けれど、震える心は確かに求めていた。
恐ろしいと感じながらも、孤独に崩れそうな心はその温もりを必要としてしまっている。
矛盾。罪悪感。恐れ。
それらすべてが渦を巻きながら、アランの胸を締め付ける。
それでも――拒むことはできなかった。
冷たい屋敷の空気の中で、ただひとつ生きて寄り添う熱。
それが彼女を立たせてしまうのだと、骨の内側にまで沁みて理解してしまった。
アランの指先を包み込む掌は、屋敷の冷たい空気の中にあってなお、不自然なほどに温かかった。
それはまるで孤独の闇を拒む炎のようで、震え続ける彼女の心を否応なく引き寄せてしまう。
俯いたままうつむき、小さく震える肩。
翡翠の瞳は恐れと戸惑いを隠し、ときおり睫毛を濡らしては伏せられる。
その揺らぎのすべてが、握る手を通して痛いほど伝わってきた。
けれど――その手は、拒まれることはなかった。
それだけで、レギュラスの胸には確信に似た熱が、ゆっくりと、しかし決定的に広がっていく。
「…… アラン」
呼びかける声は、意図せず甘く濡れ、囁きとなって空気を震わせた。
彼女は顔を上げることなく、視線を逸らしている。
けれどそれは拒絶ではなかった。
むしろ、受け入れた上で揺れているだけのように、その姿は見えた。
翡翠の瞳に宿る迷いと、不安、そしてどこか安堵にも似た微かな光。
レギュラスはそこに、心の奥底から渇望を感じた。
兄シリウスのような強烈な光は、自分にはいらない。
彼のように星を示す必要もない。
自分はただ――彼女の手を離さなければ、いい。
それだけで、彼女はこの手に縛られ、寄り添い続けざるを得ない。
揺れる瞳も、震える声も、自分を拒む力には決して変わらない。
「震えないでください……僕が守りますから」
誓いのような囁きが、彼女の耳もとを震わせた。
アランの肩がびくりと揺れる。
だが、それでも彼女は手を離さなかった。
――これでいい。
その確信が、ゆっくりと胸の奥で結晶化していく。
もしかすれば彼女にとって、この手を掴むことは迷いに過ぎないのかもしれない。
依存かもしれない。
あるいは、恐怖に囚われた結果かもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
事実として、今、彼女は自分の手をつかんでいる。
それすらがすべてだ。
真実はひとつ。いま、この掌の中で彼女は逃げていない。
その現実だけが、世界を動かす力のすべてだった。
レギュラスは静かに目を細め、翡翠色の震えを見つめた。
やがて彼女の流すどんな涙も、どんな迷いも、自分が抱きとめるうちに消してしまえるだろう。
そう信じきっていた。
「……あなたがどんな涙を流そうとも、僕は手を離しません」
灰色の瞳に揺るぎない意志を宿して、その言葉は静かに紡がれた。
アランは小さく身じろぎした。
しかし、振り払う力はどこにも宿らなかった。指の先からは、いまだ温もりを逃せぬまま。
その時、レギュラスの胸の内に広がったのは、炎のような“確信”だった。
それはもう錯覚ではなかった。
錯覚であったとしても、彼にとっては揺るぎない真実へと変貌していた。
彼女が震えていようと、涙を零していようと、この手をつかんで離さない。
その事実さえあれば、彼はすべてを得たに等しかった。
彼の灰色の瞳には、その確信が静かな光となって宿り続けていた。
アランはいつものように長い廊下を歩いていた。
銀のティーセットが載ったトレイを両手で抱え、慎重に足を進める。
一歩ごとに靴音が石床に溶け、祖先の肖像画たちが並ぶ冷たい廊下に沈んでいく。
いつもと変わりないはずの光景。けれど彼女の背筋は、強張るように固くこわばっていた。
ヴァルブルガの部屋の前に立ち、深く息を吸う。
指先は微かに震えていた。
音を立てぬよう扉を押し開けると、そこには威厳に包まれた女主人がいた。
長椅子に腰掛け、白百合を思わせる細やかな指で書簡を広げ、その目は眠らぬ獣のように鋭く光っていた。
アランが入った瞬間、その瞳が僅かに動く。
ただそれだけの仕草で、全てを見透かすような刺す気配が襲ってきた。
「…… アラン」
呼ばれた声に心臓が跳ね、喉が恐怖で詰まる。
「は、はい」
返した声は頼りなく震え、余計に自らの弱さを表に出してしまう。
「……最近、ずいぶんと“レギュラスの傍”にいることが多いようね」
何気ない会話のような口調。
だが隠された鋭さは鋼の刃のように強く、逃げ場を与えなかった。
「あ……い、いえ……私はただ……」
必死に取り繕うように口を動かしたが、声は細く心許なく、言葉はすぐ途切れてしまう。
ヴァルブルガは音も立てずに書簡を置いた。
その刹那、瞳はさらに厳しく鋭さを増し、針のような冷たさがアランの胸を突いた。
「この家は血によって築かれている。従者が踏み入れてはならない線もある。……あなたは理解しているでしょうね?」
唇は微動だにせず、笑みも一切浮かべぬまま。
ただ冷たい眼差しと共に告げられるその言葉は、鋼鉄の規律を具象にしたようだった。
「……は、はい……」
ふるえる声。
膝が今にも折れそうになり、ポットを取り落とさないように指先に必死で力を込める。
沈黙が張り詰め、冷たい光が室内に凝り固まる。
その瞬間、背後から落ち着いた声が響いた。
「母上」
振り返らずとも分かった。
その声音はレギュラスだった。
影が近づき、ヴァルブルガの横に並んで立った。
視線は真っ直ぐでぶれることもなく、彼は淡々とした声で告げる。
「アランは僕が頼んでいるだけです。責を負うべきは僕でしょう」
一見ただの報告のような言葉。
だがその声音に曇りはなく、迷いもなかった。
それ以上に、彼の手が自然にアランの手元へ伸び、ポットを支えるように添えられた。
庇うようなその仕草が、誰の目にも明らかな絆を示す。
ヴァルブルガの目が細められた。
冷たく鋭い光が室内に走る。
長い沈黙が流れた。
氷のように張り詰めた空気が、声一つで崩れ落ちそうだった。
やがて彼女は低く、短く告げた。
「……ならばいいわ。レギュラス、あなたが責任を負えるなら」
その言葉と共に視線は逸らされた。
しかしそこに潜むのは赦しではなかった。
鋭利な刃にこめられた警告。血族の誇りを背負う者への冷たく重たい期待。
アランは深く頭を下げ、退室を告げられる。
背を向けた瞬間、恐怖が胸に一気に押し寄せ、冷たい汗が背中を伝う。
――ヴァルブルガは気づいている。
そう思うだけで、震えは止まらなかった。
だがその震えを傍らで見たレギュラスの瞳は、むしろ逆に強い光を宿していた。
迷いも戸惑いもなく、ただひとつ揺るぎない執着だけがそこにあった。
彼女を守ると誓う甘さと、決して逃さないという暗い熱が、一つに融けあいながら。
その瞳の中で、決意はより深く、より鋭く燃え上がっていった。
ヴァルブルガの冷ややかな視線が胸に突き刺さったその日。
アランの心は、終日ひとつの小さな鳥籠に閉じ込められた小鳥のように震えていた。
咎めの言葉は直接には与えられなかった。
けれど、あの瞳がはっきりと告げていた。
「私の目はすべてを見ている」と。
「踏み込めば、そのとき必ず罰を下す」と。
声なき宣告は、刺青のように心へ焼き付いた。
その圧力は肌に重く張り付き、背筋を常に冷やしていた。
やがて夕刻。
忙しい仕事を終え、ようやく自室へ戻ろうとしたとき、背後に静かな気配が寄り添った。
「…… アラン」
名を呼ぶ低い声。
振り向くよりも早く、両肩へ温もりが触れる。
分かる。誰よりもすぐに分かってしまう。
その手は、レギュラスのものだった。
「母上のこと、気にしなくていい」
囁かれた言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。
――気にしなくていいはずがない。
気にしたくはない。
本来なら無視できたはずだ。
しかしこの屋敷、この役目、この家の空気は、それを許さない。
自分の存在すべてが“仕える身”として凝視され、少しの過ちも許されはしないのだから。
「……でも私は……」
震える唇がようやく紡ぎかけた言葉は、最後まで続けられなかった。
自分の声が、壁に押し返されるように掻き消えたからだ。
レギュラスはただ穏やかに彼女を見つめ、静かな灰色の瞳を僅かに細めた。
「大丈夫です。僕がいる。あなたは、僕が守ります」
さらりと吐かれるその言葉は、彼にとって自明の誓言のようだった。
そして、自然な仕草でアランの手が取られていく。
柔らかなはずの指先は、その時は何よりも重たく、熱く感じられた。
心臓が大きく波打つ。
胸が混乱で高鳴り、戸惑いが血流を駆け巡る。
本当はその手を振り払わなければいけない。
本当はその「守る」という言葉を否定し、距離を保たなくてはいけない。
ここにいる限り、そうしなければ自分も一族も呑まれてしまう。
それなのに。
指先から伝わる温もりは、弱り果てた心を包み込み、抗えない安堵を与える。
――守ってくれる。
その響きは確かに救いだ。
けれど同時に、それは新しい檻でもある。
彼に握られることで、レギュラス自身が“確信”に変わっていくのを見てしまう。
母に咎められても、彼が守る。
家の期待も、影の声も、すべて貫いて手を離さない。
それが誓いであると同時に、鎖であるのだ。
「……レギュラス……」
掠れた声で名を呼んだ。
困惑、怯え、そして――それでも確かに見出してしまう拠り所。
翡翠の瞳の奥で、絡み合う感情が渦を巻き、熱と凍えが同時に胸を抉る。
自分の心が弱く、震え、逃げ道として彼に縋ってしまう。
その弱さを痛いほどに知りながら、それでも言葉は喉の奥で凍りつき、出てこなかった。
レギュラスの灰色の瞳は、そんな沈黙すらも「答え」として受け止めるように深く揺れた。
そこに宿る執着の炎は、恐怖すらも飲み込みながら、ますます強く光を帯びていた。
食後の応接間は、重たい家具と絨毯が吐き出す気配そのものが家の威光だった。
荘厳なランプの灯火が黄金の光を壁に溶かし、陰影を作り出す。
その暖色は決して柔らかさを与えることはなく、むしろ冷たい荘厳さを照らし立てていた。
オリオン・ブラックが低く口を開いた。
「――レギュラス。婚約の話を進めようと思う」
刃のような声音は細く、しかし鋭利で、室内の空気をいっそう静まり返らせた。
響く低音が壁に反射し、肖像画の先祖たちの眼差しですら一斉に重みを増す。
長椅子に座していたレギュラスは、表情を変えなかった。
ただ自然に背筋を伸ばし、灰色の瞳で父を真っ直ぐに見据える。
「お相手は、ロズィエ一族の令嬢――カサンドラ・ロズィエ嬢だ」
重々しい名が落とされた瞬間、アランの名ではないのだと改めて突きつけられる痛みが、空気の奥底で温かな血潮を吸ったように沈む。
ロズィエ――フランスの純血の名門、誰もが認める格式と血統。
母ヴァルブルガが相応しいと頷いたのであろうことは容易に察せられた。
その判断は無駄がなく、冷徹な一族の理に即していた。
「今週末、屋敷に招く。顔合わせになると思っておけ」
オリオンの声は澱みなく、揺らぎもない。
それを受け、レギュラスは静かに頭を垂れた。
ただ一言の異を唱えることなく、恭順の礼を取る。
その所作の中で――胸奥に走ったのは氷のような苛立ちだった。
沈黙を湛えた父の瞳が一度動き、ついで放たれた言葉が鋭く響く。
「その日は…… アラン・セシールには暇をやるつもりでいる」
「……」
一瞬、レギュラスの灰色の瞳に問いが浮かんだ。
ただの使用人に過ぎぬなら、初めから婚約の場に存在するはずもない。
ならば、なぜわざわざ名を挙げ、強調するのか。
父は続ける。
「……あの娘の見た目は、少しばかり婚約者の令嬢を迎えるには派手すぎる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で合点がいった。
――父は察している。
アランが単なる“使用人”以上の存在であることを。
令嬢を迎え入れる席に彼女を置けば、影が見え隠れすることを。
だからこその“暇”なのだ。
彼女を遠ざけ、この家の秩序を無垢な形に留めるための采配。
視線を伏せ、再び頭を下げる。
だがその影で、心臓は冷たくざわつき、指先に震えが走る。
父の理屈は正しい。
冷徹で、合理的で、誰も反駁できない。
しかし、その裏に潜むひとつの意図―― アランを自分から引き離そうとする眼差しが透けて見えるたびに、胸に焼けつくような苛立ちが生まれていった。
「…………」
歯を噛みしめ、一切揺らがぬ面持ちで礼をとりながらも、心の内では誓いのように確信していた。
どれほど父が采配を下そうと。
どれほど家の掟が立ちはだかろうと。
―― アランを手放しはしない。
掌に残るぬくもりの感覚を思い返す。
涙も迷いも、やがては自らの中で消し去らせると誓ったあの日。
その誓いが、灰色の瞳の奥で強烈に根を張り、光ではなく暗い炎となって燃え上がっていく。
応接間の黄金の灯火に照らされてなお、レギュラスの表情は冷静の皮を被っていた。
けれど、その静寂の下で芽生えた執念は、もはや揺るぎのないものとなっていた。
ブラック家の屋敷には、これまで以上に濃く、深い沈黙が漂っていた。
回廊の高い天井には音の欠片すら反響せず、石壁はただ冷え冷えと己の重さをまき散らしている。
かつては朝の空気を震わせていた大股の足音も、突拍子もない笑い声も、どこにもなかった。
今はただ、重苦しく睨みつける祖先たちの肖像だけが壁に居座り、その気配が屋敷の住人たちを押し黙らせていた。
アランは廊下を歩きながら、胸の奥が不意に空いたような感覚を覚えた。
銀器を揃えたトレイを抱きしめるように握っているのに、妙に手元が頼りない。
何をしていても、心のどこかがぽっかりと穴を開けてしまっているのだ。
——いつだって、彼は光だった。
思い返されるのは星空の下、横顔に纏った輝き。
笑い声と共に差し伸べられた手の温もり。
「自由」を謳うように真っ直ぐ響いた声と、未来を誓うような力強さ。
鮮明で、胸を焦がすはずの記憶は、今はかえって鋭く冷たく、喪失を突きつけてくる。
「……」
足が止まる。
手にしていた食器のトレイを思わず胸に抱き寄せ、身を小さく丸める。
その瞬間、不意に視界が揺らぎ、涙が頬を熱で濡らしていった。
拭おうとするよりも早く。
誰かの影が横合いから静かに寄り添った。
「アラン」
低く穏やかな声。
肩に触れる温もり。
振り返れば、そこにいたのはレギュラスだった。
彼は何も問わず、ただ静かに彼女の肩へ腕を回し、逃げ道を塞ぐのではなく、支えるように抱き寄せた。
抵抗を考えるより、先に。
アランの身体はその胸元へ沈み込んでいた。
「……泣かないでください」
耳元で響いた声は、驚くほどに穏やかだった。
この屋敷の冷たい空気にありながら、その瞬間だけは柔らかで、救いを含んでさえいた。
「でも……シリウスが……」
言葉が続かず、喉が震えて声は途切れる。
雫が再び落ちそうになるのを必死に堪えながら、アランは小さく首を振った。
レギュラスは静かな灰色の瞳を細め、変わらぬ声音で言った。
「兄は……もう自ら選んだ道を歩まれる方です。
ならば、あなたは……僕が守ります」
その言葉があまりに真摯だったため、アランの胸に困惑にも似た安堵が、静かに広がっていく。
失ってしまった光の残骸が空白を生んでいた。
だが今、その隙間を塞ぐように差し伸べられたのは、光とはあまりにも異なる影の優しさだった。
シリウスという自由の光は、確かに遠く失われていた。
けれど――なお残された闇の中で、自分に寄り添い「守る」と告げてくれる影に、今は縋らずにはいられなかった。
翡翠の瞳は涙で滲みながらも、逃げることなくレギュラスを仰いでいた。
その瞳に映るのはもう眩しすぎる光ではなく、散らずに残る陰のぬくもりだった。
レギュラスに呼ばれるまま、アランは静まり返った廊下を歩いていた。
壁に灯る燭台の炎が揺れ、石造りの床に淡い光と影を落としている。
その影の中に、自分の足音さえ溶けていくようだった。
空気はひどく重たく、吐息ひとつすら響かせるのをためらうほどに静寂が支配していた。
扉の前に立ったとき、心臓の鼓動がやけに大きく耳に響いた。
ためらいの指先が、冷たい取っ手をそっと撫でる。
開かれた扉の向こうには、外界と切り離された静かな世界が広がっていた。
厚いカーテンが夜を遮り、僅かなランプの灯りが壁に幽かな揺らめきを描いている。
その光がレギュラスの横顔をなぞった。
光と闇の境で、彼はまるで夢の中の幻影のように立っていた。
「……来てくれたのですね。」
低く、どこまでも穏やかな声だった。
その一言が、アランの中で何かを崩した。
静かな波紋が心の奥に広がり、抗おうとする理性をひとつずつ溶かしていく。
一歩、また一歩。
気づけば彼の前に立っていた。
指先が触れた瞬間、胸の奥で何かが軋むように鳴った。
温もりが、痛みを伴って流れ込んでくる。
それは懐かしさにも似ていて、同時に、どうしようもなく間違ったぬくもりだった。
越えてはならない境界線――。
それを知っていながら、二人は静かに、確実にその線を踏み越えた。
影と影が寄り添い、息と息が混ざり合う。
ランプの炎が一度、大きく揺れ、やがて再び静まった。
その刹那、世界が止まったように思えた。
アランの瞳から、ひとしずく涙が零れ落ちる。
頬を伝い、レギュラスの肩へと落ちると、白い布地がじわりと濡れた。
「……っ」
喉の奥から洩れた小さな音。
それは悲鳴のようで、祈りのようでもあった。
抱き寄せられた瞬間、アランは彼の首へと両腕を絡めた。
細い指先が、しがみつくように食い込み、震える唇が彼の肩を濡らす。
涙を堪えようとするほど、嗚咽は静かに漏れ出していく。
レギュラスは何も言わず、ただその背に手を添えていた。
――似ている。
息遣いも、声の低さも、肌をかすめる匂いまでも。
シリウスと、あまりにも似ていた。
同じ血を分けた兄弟であるがゆえの、残酷なほどの共通点。
だが、決して同じではない。
彼は代わりにはなれない。
分かっている、それでも。
アランは、代わりとして求めてしまった。
心に空いた穴が、あまりに深くて、痛すぎたから。
シリウスを失ってからというもの、彼の不在が毎晩、胸の内側を焼き尽くしていた。
このままでは壊れてしまう――。
そう感じた瞬間、差し出された温もりを、拒むことができなかった。
レギュラスの指が頬を拭う。
その手つきは驚くほど優しかった。
けれど、その優しさがかえって胸を裂く。
「…… アラン、泣かないでください。」
耳元に落とされた声が、静かに震える心を撫でた。
まるで、壊れかけたガラスの上を素足で歩くような痛みが胸を満たす。
自分が今、何に泣いているのか――もうわからなかった。
シリウスを失った悲しみか。
それとも、自分の弱さを責める涙か。
あるいは、レギュラスという影に寄りかかってしまった罪への懺悔か。
すべてが混ざり、涙は止まらない。
瞳の奥で、翡翠色の光が揺れた。
それはまるで、絶え間なく零れ続ける祈りの欠片のようだった。
唇が触れ合うたびに、痛みが波のように押し寄せる。
甘さはなく、ただ熱と悲しみだけが残る。
その熱が、一瞬だけ心の空白を満たし、またすぐに消える。
救いなのか、地獄なのか――判別できない。
ただひとつ、確かなことがあった。
——この夜を選んだのは、他でもない、自分自身なのだ。
レギュラスの胸に身を預け、アランは静かに息を吐いた。
もう抜け出せない。
弱さに絡め取られたまま、彼の影に縋りつくしかなかった。
それが破滅だとしても、今だけは、誰かの温もりの中にいたかった。
ランプの炎が小さく瞬き、やがて静かに消えた。
残されたのは、闇と二人の息遣いだけ。
その闇の中で、アランは確かに感じていた。
――これは赦しではなく、罰だ。
そしてその罰を、彼女は誰よりも甘やかに、静かに受け入れていた。
夜は深く沈み、二人の影は一つに溶けて、
やがて、誰にも知られぬまま、闇の底へと消えていった。
その瞬間、レギュラスは胸の奥底から確信を抱いた。
ブラック家という名の威光も、蓄えられた富も、兄の座も――もはや空虚に残された。
そこに自分が立つのだ。
そして、いま腕の中にはアラン・セシールがいる。
――もう全ては、自分のものだ。
その実感は、雷のように全身を駆け抜け、震えるほどの昂ぶりとなって胸を突き抜けた。
この世には奪えぬものなど存在しない。
そう思わせるまでに、自分は彼女を確かに抱き寄せているのだ。
「アラン……泣かないで。……好きです」
押し殺した声で囁いた。
それは切実な告白でありながら、胸を軋ませるほどの渇望の色をしていた。
だが、アランは答えなかった。
翡翠の瞳からは涙が零れ続け、ただ首を左右に振る。
その沈黙が何を意味するのか――拒絶なのか、後悔なのか、悲哀なのか。
レギュラスはもう、それを探ろうとしなかった。
どうでもよかった。
大切なのは、彼女が「いま」、自分の胸に囚われているという事実。
その一点だけが揺るぎなく存在していた。
彼女の震え、指先に伝わるやわらかなぬくもり。
そして抱き寄せた身体の温度は、現実を凌駕するほどの幸福としてレギュラスを塗り潰していった。
ようやく――ようやく手に入れた。
彼が渇望し続けていたもの。
身体の交わりによる快楽だけではない。
もっと奥に潜む、魂を縛りつける「確かな所有」。
それを今この瞬間、自分は両手で強く掴んだのだ。
「…… アラン。愛しています」
途切れがちな呼吸の合間に告げたその声は、切実さと狂気を帯びて響いた。
見下ろした翡翠の瞳には、まだ涙が光っていた。
震える睫毛、濡れた頬、噛みしめた唇。
それでも拭おうとはしなかった。
むしろ、その涙さえ愛しいと思った。
痛みに耐えて脆さを晒すその姿。
抗いながらも、結局は逃げずに自分の腕の中で涙を流している、その現実。
すべてが、彼の胸を甘美に満たしていった。
今この腕に抱き締められているという事実がある限り、彼にはもうそれ以上必要なものはなかった。
――シリウスが追いかけていた「自由」など要らない。
――世界が差し伸べてくる「理想」など無意味だ。
目の前の柔らかな存在。
自分に囚われ、涙を流しながらも拒めずにいるアラン。
そのすべてを得た今――レギュラスにとって、これ以上の幸福など、もはや存在しなかった。
翌朝――。
アランは寝坊しかけた自分に気づき、わずかな東の紅を窓に見ながら慌ただしく身支度を整えた。
布の裾をまとめ、足音を殺して扉を開け放ち、ひんやりとした廊下に身を投じる。
廊下の石畳は薄寒く、祖先たちの肖像が呆然と己を見下ろしていた。
胸の奥は羞恥と不安で息苦しく、足を速めても背後から影に追われているような感覚は消えなかった。
――取り返しのつかない一線を越えてしまった。
その思いが足取りをひどく重くし、呼吸を乱す。ちょうど厨房の前に辿り着く頃には、胸はちりちりと焼けるような熱で高鳴っていた。
厨房に飛び込み、火をかけ直し、パンを温め、銅鍋に茶葉を蒸らす。
震える指先を無理やり動かし続け、鍋の中で湯気が立ち上るのを凝視していた。
しかしその震えを隠し切れぬまま、背後から落ちてきた天地の響きのような声に、全身が跳ねた。
「……昨夜は、レギュラスの部屋にいたのかね」
振り返った瞬間、背筋に冷たい刃物が走る。
そこに立っていたのは、オリオン・ブラック。
黒曜石を思わせる鋭い双眸は測り知れぬ知識と重圧に満ち、彼の言葉が冷たい檻となった。
「……っ……」
どこまで知っているのか――それは分からない。
だが、その声色は「忠告」であり、「告発」であり、「監視」だった。
従者であるはずの身で、主人の息子の部屋に夜を過ごしたこと。
それを良しと見る主人などいない。
冷ややかな沈黙の奥で、血筋の掟がいま自分の首を絞めているのを感じた。
「……申し訳ありません、オリオン様」
絞り出した声は小さく震え、俯く視線は石床に釘付けにされた。
それでも、オリオンの表情は揺るがなかった。
「謝ることはない。……よく働いてくれているからな」
淡々とした口調。だが次の一言には鉄の重みがあった。
「疲れて、入る部屋を間違えることもあるだろう」
表面だけを見ればありふれた言葉。
しかしその下に潜んでいるのは――“すべてを知っている”と暗に告げる重い影。
アランの胸がぎゅっと痛みで抉られ、声も出せずにただ唇を噛みしめる。
その時だった。
「父上」
低く落ち着き払った声が厨房に響いた。
足音も迷いもなく、レギュラスが姿を現す。
しっかりとした歩調でアランの傍を通りすぎ、正面から父の前に静かに立った。
「僕が呼びました。……手伝っていただきたいことがあったのです」
その理由は形ばかりの方便に過ぎない。
しかし、言葉は迷いなく、空気に切れ目を作らぬほど堂々としたものだった。
厚い沈黙が落ちた。
オリオンの鋭い眼差しが息子を射抜く。
その視線には、血筋の誇りと冷徹な戒めのすべてが込められていた。
やがて返ってきた声は、鋼のように低く静かだった。
「……そうか。それはいい」
そして短く続いたのは、一条の刃に等しい忠告。
「私の大事な友であるロイクの娘を、傷つけないでくれたらそれでいい」
アランの胸に冷気が突き刺さった。
オリオンはすでに全てを知っているのか。
あるいは疑いを込め、牽制として投げかけているのか。
どちらにせよ、その言葉には逃げ場のない真実が張り付いていた。
従者としての立場も、ロイクの娘としての運命も、この屋敷に縛られている。
逃れる隙など何ひとつないのだ。
「……承知しました」
レギュラスは姿勢を正し、深く頭を下げた。
その声音と所作には、一切の怯みも迷いもなかった。
アランの翡翠の瞳をふと掠めたその灰色の双眸には、静かな決意が燃えていた。
「守る」という名の下に宿る意志は、鋼鉄のように揺らぎなく、彼女を決して解放はしないと誓うものだった。
冷たい厨房の空気の中で、アランの呼吸は細く震え、誰もいない空間に閉じ込められた鳥のように感じられた。
そしてレギュラスの気配だけが、覆いかぶさる影となって彼女を包み込んだ。
アランの胸はまだ激しく波打っていた。
先ほどまで厨房に漂っていた重たい空気の余韻が、今なお離れずに纏わりつく。
心臓の鼓動は耳鳴りのように耳の奥で響き、汗ばむ手の平は何を握ろうとしてもすぐに滑り落ちそうだった。
思い返すだけで、背筋に寒気が走る。
オリオンの冷たい眼差し。
審判のように静かで、鋭利な刃よりも鋭く突き刺さったまなざし。
あの視線が向けられたとき全身の力は抜け落ち、ただひれ伏すことしかできなくなりそうだった。
もしあのときレギュラスが間に立ってくれなければ――。
きっと涙を堪え切れず、床に頭を垂れて許しを請うていただろう。
想像するだけで、ぞっと身の毛が粟立つ。
「…… アラン。気にしなくて構いません」
低くやわらかな声が耳を撫でた。
振り返れば、灰色の瞳が静謐に彼女を見つめている。
レギュラスだった。
翡翠の瞳が揺れ、困惑が滲む。
「……そんなわけには、いかないわ」
震える声が口を突いて出る。
仕える者としての矜持が、そう言わせた。
この家においての失態は、許されぬ。命取りであると誰よりも理解している。
だから――“気にするな”などという言葉で済ませてはいけないのだ。
だがレギュラスは動じない。
むしろ一歩だけ近づき、その動きはあまりにも自然で、抗う隙さえ与えなかった。
彼はそっとアランの手を取る。
指先に広がったのは、驚くほどの温かさ。
まるで冷え切った身体に火が灯ったかのように、彼女の震える手を包み込む。
「大丈夫です。……僕がいますから」
囁きに宿る重みは慰めの優しさにとどまらなかった。
甘やかにとろける響きの奥底には、逃れられない強さが潜んでいた。
「……レギュラス……」
名を呼んだ声は、震えと戸惑いを含んで胸の奥で弾んだ。
彼の言葉が心を温めると同時に、ぞくりと恐怖を呼ぶ。
差し伸べられた温もりにすがれば、自分はこの檻の名と血に深く縛られていくのかもしれない。
わかっているのに、その手を振り払う勇気は出なかった。
――この手を、拒めたら。
翡翠の奥で、苦しみのような願いが掠れた。
もし躊躇いなく振り払えたなら、どれだけ楽になることだろう。
けれど、震える心は確かに求めていた。
恐ろしいと感じながらも、孤独に崩れそうな心はその温もりを必要としてしまっている。
矛盾。罪悪感。恐れ。
それらすべてが渦を巻きながら、アランの胸を締め付ける。
それでも――拒むことはできなかった。
冷たい屋敷の空気の中で、ただひとつ生きて寄り添う熱。
それが彼女を立たせてしまうのだと、骨の内側にまで沁みて理解してしまった。
アランの指先を包み込む掌は、屋敷の冷たい空気の中にあってなお、不自然なほどに温かかった。
それはまるで孤独の闇を拒む炎のようで、震え続ける彼女の心を否応なく引き寄せてしまう。
俯いたままうつむき、小さく震える肩。
翡翠の瞳は恐れと戸惑いを隠し、ときおり睫毛を濡らしては伏せられる。
その揺らぎのすべてが、握る手を通して痛いほど伝わってきた。
けれど――その手は、拒まれることはなかった。
それだけで、レギュラスの胸には確信に似た熱が、ゆっくりと、しかし決定的に広がっていく。
「…… アラン」
呼びかける声は、意図せず甘く濡れ、囁きとなって空気を震わせた。
彼女は顔を上げることなく、視線を逸らしている。
けれどそれは拒絶ではなかった。
むしろ、受け入れた上で揺れているだけのように、その姿は見えた。
翡翠の瞳に宿る迷いと、不安、そしてどこか安堵にも似た微かな光。
レギュラスはそこに、心の奥底から渇望を感じた。
兄シリウスのような強烈な光は、自分にはいらない。
彼のように星を示す必要もない。
自分はただ――彼女の手を離さなければ、いい。
それだけで、彼女はこの手に縛られ、寄り添い続けざるを得ない。
揺れる瞳も、震える声も、自分を拒む力には決して変わらない。
「震えないでください……僕が守りますから」
誓いのような囁きが、彼女の耳もとを震わせた。
アランの肩がびくりと揺れる。
だが、それでも彼女は手を離さなかった。
――これでいい。
その確信が、ゆっくりと胸の奥で結晶化していく。
もしかすれば彼女にとって、この手を掴むことは迷いに過ぎないのかもしれない。
依存かもしれない。
あるいは、恐怖に囚われた結果かもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
事実として、今、彼女は自分の手をつかんでいる。
それすらがすべてだ。
真実はひとつ。いま、この掌の中で彼女は逃げていない。
その現実だけが、世界を動かす力のすべてだった。
レギュラスは静かに目を細め、翡翠色の震えを見つめた。
やがて彼女の流すどんな涙も、どんな迷いも、自分が抱きとめるうちに消してしまえるだろう。
そう信じきっていた。
「……あなたがどんな涙を流そうとも、僕は手を離しません」
灰色の瞳に揺るぎない意志を宿して、その言葉は静かに紡がれた。
アランは小さく身じろぎした。
しかし、振り払う力はどこにも宿らなかった。指の先からは、いまだ温もりを逃せぬまま。
その時、レギュラスの胸の内に広がったのは、炎のような“確信”だった。
それはもう錯覚ではなかった。
錯覚であったとしても、彼にとっては揺るぎない真実へと変貌していた。
彼女が震えていようと、涙を零していようと、この手をつかんで離さない。
その事実さえあれば、彼はすべてを得たに等しかった。
彼の灰色の瞳には、その確信が静かな光となって宿り続けていた。
アランはいつものように長い廊下を歩いていた。
銀のティーセットが載ったトレイを両手で抱え、慎重に足を進める。
一歩ごとに靴音が石床に溶け、祖先の肖像画たちが並ぶ冷たい廊下に沈んでいく。
いつもと変わりないはずの光景。けれど彼女の背筋は、強張るように固くこわばっていた。
ヴァルブルガの部屋の前に立ち、深く息を吸う。
指先は微かに震えていた。
音を立てぬよう扉を押し開けると、そこには威厳に包まれた女主人がいた。
長椅子に腰掛け、白百合を思わせる細やかな指で書簡を広げ、その目は眠らぬ獣のように鋭く光っていた。
アランが入った瞬間、その瞳が僅かに動く。
ただそれだけの仕草で、全てを見透かすような刺す気配が襲ってきた。
「…… アラン」
呼ばれた声に心臓が跳ね、喉が恐怖で詰まる。
「は、はい」
返した声は頼りなく震え、余計に自らの弱さを表に出してしまう。
「……最近、ずいぶんと“レギュラスの傍”にいることが多いようね」
何気ない会話のような口調。
だが隠された鋭さは鋼の刃のように強く、逃げ場を与えなかった。
「あ……い、いえ……私はただ……」
必死に取り繕うように口を動かしたが、声は細く心許なく、言葉はすぐ途切れてしまう。
ヴァルブルガは音も立てずに書簡を置いた。
その刹那、瞳はさらに厳しく鋭さを増し、針のような冷たさがアランの胸を突いた。
「この家は血によって築かれている。従者が踏み入れてはならない線もある。……あなたは理解しているでしょうね?」
唇は微動だにせず、笑みも一切浮かべぬまま。
ただ冷たい眼差しと共に告げられるその言葉は、鋼鉄の規律を具象にしたようだった。
「……は、はい……」
ふるえる声。
膝が今にも折れそうになり、ポットを取り落とさないように指先に必死で力を込める。
沈黙が張り詰め、冷たい光が室内に凝り固まる。
その瞬間、背後から落ち着いた声が響いた。
「母上」
振り返らずとも分かった。
その声音はレギュラスだった。
影が近づき、ヴァルブルガの横に並んで立った。
視線は真っ直ぐでぶれることもなく、彼は淡々とした声で告げる。
「アランは僕が頼んでいるだけです。責を負うべきは僕でしょう」
一見ただの報告のような言葉。
だがその声音に曇りはなく、迷いもなかった。
それ以上に、彼の手が自然にアランの手元へ伸び、ポットを支えるように添えられた。
庇うようなその仕草が、誰の目にも明らかな絆を示す。
ヴァルブルガの目が細められた。
冷たく鋭い光が室内に走る。
長い沈黙が流れた。
氷のように張り詰めた空気が、声一つで崩れ落ちそうだった。
やがて彼女は低く、短く告げた。
「……ならばいいわ。レギュラス、あなたが責任を負えるなら」
その言葉と共に視線は逸らされた。
しかしそこに潜むのは赦しではなかった。
鋭利な刃にこめられた警告。血族の誇りを背負う者への冷たく重たい期待。
アランは深く頭を下げ、退室を告げられる。
背を向けた瞬間、恐怖が胸に一気に押し寄せ、冷たい汗が背中を伝う。
――ヴァルブルガは気づいている。
そう思うだけで、震えは止まらなかった。
だがその震えを傍らで見たレギュラスの瞳は、むしろ逆に強い光を宿していた。
迷いも戸惑いもなく、ただひとつ揺るぎない執着だけがそこにあった。
彼女を守ると誓う甘さと、決して逃さないという暗い熱が、一つに融けあいながら。
その瞳の中で、決意はより深く、より鋭く燃え上がっていった。
ヴァルブルガの冷ややかな視線が胸に突き刺さったその日。
アランの心は、終日ひとつの小さな鳥籠に閉じ込められた小鳥のように震えていた。
咎めの言葉は直接には与えられなかった。
けれど、あの瞳がはっきりと告げていた。
「私の目はすべてを見ている」と。
「踏み込めば、そのとき必ず罰を下す」と。
声なき宣告は、刺青のように心へ焼き付いた。
その圧力は肌に重く張り付き、背筋を常に冷やしていた。
やがて夕刻。
忙しい仕事を終え、ようやく自室へ戻ろうとしたとき、背後に静かな気配が寄り添った。
「…… アラン」
名を呼ぶ低い声。
振り向くよりも早く、両肩へ温もりが触れる。
分かる。誰よりもすぐに分かってしまう。
その手は、レギュラスのものだった。
「母上のこと、気にしなくていい」
囁かれた言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。
――気にしなくていいはずがない。
気にしたくはない。
本来なら無視できたはずだ。
しかしこの屋敷、この役目、この家の空気は、それを許さない。
自分の存在すべてが“仕える身”として凝視され、少しの過ちも許されはしないのだから。
「……でも私は……」
震える唇がようやく紡ぎかけた言葉は、最後まで続けられなかった。
自分の声が、壁に押し返されるように掻き消えたからだ。
レギュラスはただ穏やかに彼女を見つめ、静かな灰色の瞳を僅かに細めた。
「大丈夫です。僕がいる。あなたは、僕が守ります」
さらりと吐かれるその言葉は、彼にとって自明の誓言のようだった。
そして、自然な仕草でアランの手が取られていく。
柔らかなはずの指先は、その時は何よりも重たく、熱く感じられた。
心臓が大きく波打つ。
胸が混乱で高鳴り、戸惑いが血流を駆け巡る。
本当はその手を振り払わなければいけない。
本当はその「守る」という言葉を否定し、距離を保たなくてはいけない。
ここにいる限り、そうしなければ自分も一族も呑まれてしまう。
それなのに。
指先から伝わる温もりは、弱り果てた心を包み込み、抗えない安堵を与える。
――守ってくれる。
その響きは確かに救いだ。
けれど同時に、それは新しい檻でもある。
彼に握られることで、レギュラス自身が“確信”に変わっていくのを見てしまう。
母に咎められても、彼が守る。
家の期待も、影の声も、すべて貫いて手を離さない。
それが誓いであると同時に、鎖であるのだ。
「……レギュラス……」
掠れた声で名を呼んだ。
困惑、怯え、そして――それでも確かに見出してしまう拠り所。
翡翠の瞳の奥で、絡み合う感情が渦を巻き、熱と凍えが同時に胸を抉る。
自分の心が弱く、震え、逃げ道として彼に縋ってしまう。
その弱さを痛いほどに知りながら、それでも言葉は喉の奥で凍りつき、出てこなかった。
レギュラスの灰色の瞳は、そんな沈黙すらも「答え」として受け止めるように深く揺れた。
そこに宿る執着の炎は、恐怖すらも飲み込みながら、ますます強く光を帯びていた。
食後の応接間は、重たい家具と絨毯が吐き出す気配そのものが家の威光だった。
荘厳なランプの灯火が黄金の光を壁に溶かし、陰影を作り出す。
その暖色は決して柔らかさを与えることはなく、むしろ冷たい荘厳さを照らし立てていた。
オリオン・ブラックが低く口を開いた。
「――レギュラス。婚約の話を進めようと思う」
刃のような声音は細く、しかし鋭利で、室内の空気をいっそう静まり返らせた。
響く低音が壁に反射し、肖像画の先祖たちの眼差しですら一斉に重みを増す。
長椅子に座していたレギュラスは、表情を変えなかった。
ただ自然に背筋を伸ばし、灰色の瞳で父を真っ直ぐに見据える。
「お相手は、ロズィエ一族の令嬢――カサンドラ・ロズィエ嬢だ」
重々しい名が落とされた瞬間、アランの名ではないのだと改めて突きつけられる痛みが、空気の奥底で温かな血潮を吸ったように沈む。
ロズィエ――フランスの純血の名門、誰もが認める格式と血統。
母ヴァルブルガが相応しいと頷いたのであろうことは容易に察せられた。
その判断は無駄がなく、冷徹な一族の理に即していた。
「今週末、屋敷に招く。顔合わせになると思っておけ」
オリオンの声は澱みなく、揺らぎもない。
それを受け、レギュラスは静かに頭を垂れた。
ただ一言の異を唱えることなく、恭順の礼を取る。
その所作の中で――胸奥に走ったのは氷のような苛立ちだった。
沈黙を湛えた父の瞳が一度動き、ついで放たれた言葉が鋭く響く。
「その日は…… アラン・セシールには暇をやるつもりでいる」
「……」
一瞬、レギュラスの灰色の瞳に問いが浮かんだ。
ただの使用人に過ぎぬなら、初めから婚約の場に存在するはずもない。
ならば、なぜわざわざ名を挙げ、強調するのか。
父は続ける。
「……あの娘の見た目は、少しばかり婚約者の令嬢を迎えるには派手すぎる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で合点がいった。
――父は察している。
アランが単なる“使用人”以上の存在であることを。
令嬢を迎え入れる席に彼女を置けば、影が見え隠れすることを。
だからこその“暇”なのだ。
彼女を遠ざけ、この家の秩序を無垢な形に留めるための采配。
視線を伏せ、再び頭を下げる。
だがその影で、心臓は冷たくざわつき、指先に震えが走る。
父の理屈は正しい。
冷徹で、合理的で、誰も反駁できない。
しかし、その裏に潜むひとつの意図―― アランを自分から引き離そうとする眼差しが透けて見えるたびに、胸に焼けつくような苛立ちが生まれていった。
「…………」
歯を噛みしめ、一切揺らがぬ面持ちで礼をとりながらも、心の内では誓いのように確信していた。
どれほど父が采配を下そうと。
どれほど家の掟が立ちはだかろうと。
―― アランを手放しはしない。
掌に残るぬくもりの感覚を思い返す。
涙も迷いも、やがては自らの中で消し去らせると誓ったあの日。
その誓いが、灰色の瞳の奥で強烈に根を張り、光ではなく暗い炎となって燃え上がっていく。
応接間の黄金の灯火に照らされてなお、レギュラスの表情は冷静の皮を被っていた。
けれど、その静寂の下で芽生えた執念は、もはや揺るぎのないものとなっていた。
