1章
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屋敷はその日、嵐のただ中にあった。
いつもなら磨き込まれた柱も、深紅の絨毯も、静謐な館の威厳を誇るはずの天井も――今はただ荒れ狂う声と怒りの気配に震えていた。
ヴァルブルガ・ブラックの鋭い叫びが大理石の壁を撃ち、反響しては幾重にも重なって戻ってくる。花瓶は床で砕け散り、銀器は乱暴に投げつけられ、冷たい光を散らす硝子の欠片が廊下を覆い尽くした。
「ブラック家に恥を持ち込むなんて!」
「裏切り者め!」
その言葉はシリウスへと向けられていた。
彼がホグワーツに入学したばかりで、しかも――グリフィンドールに分けられた。
それは、純血を誇り、血統を守ることを絶対とするブラック家にとって、耐えがたい冒涜にほかならなかった。
父オリオンもまた、無言で荒れていた。別室にこもると、壁に掛けられた先祖の肖像画を拳で叩きつけ、古い巻物を容赦なく破り捨てる。重たく濃く、息が詰まるほどの憎悪と苛立ちが、空気そのものを粘りつくように濃縮させていった。
その光景を、幼いレギュラスは廊下の影から見つめていた。
胸の奥に沈むのは、恐怖と……理解できない熱。
母と父の怒りの轟音のなかに、ひとりだけ、異質な影があった。
アラン・セシール。
まだ小柄で、レギュラスとそう変わらぬほどの背丈に見える少女。
けれどもその小さな手は、割れた陶片をひとつずつ拾い集め、大きな壺を抱えて静かに運ぶ。砕けた額縁を胸に抱えながら、母の怒声を背に浴びても、眉ひとつ動かさず、ただしずかに応じていた。
「ヴァルブルガ様、どうか……落ち着いてくださいませ」
その声音は決して強張っていなかった。
か細いながらも揺れることのない響きは、嵐にさらされながら咲く花のように、ひどく儚く、それでいて確かな強さを孕んでいた。
父の書斎では、散乱した書類を一枚ずつ揃え、床に跪いて無言で秩序を取り戻してゆく。破られた紙片を抱き集めるその横顔には、涙も、怯えもなかった。代わりに見えた光だけがあった。
それをレギュラスは、言葉を知らずに「何か」と感じた。
まだ「覚悟」という名を結びつけられない、幼さゆえの戸惑いを抱いたまま。
――どうして。どうして、泣かないんだろう。
――どうして、あんなに凛として、静かに立っていられるんだろう。
声を出そうとした途端、喉が熱くなった。
言葉にした途端、涙がこぼれてしまいそうだった。
やがて、彼は無意識に足を踏み出し、名を呼んでいた。
「…… アラン」
振り返った彼女の瞳とぶつかると、胸がぎゅっと掴まれる。
思わずこぼれた言葉は、子どもらしく拙く、震えていた。
「……すみません……こんな……こんなことばかりで」
謝る必要も意味もない、そんなことは彼にもわかっていた。
けれど、それ以外の言葉を知らなかった。
アランは一瞬だけ驚いたように瞬き、だがすぐにやわらかな笑みを浮かべた。割れた硝子の欠片を包んだ布を胸に抱えたまま、彼にだけは優しく答える。
「いいんです、レギュラス」
言葉は短い。それだけなのに、まるで嵐のなかに降る雨音のように穏やかで、彼の胸に沁みわたっていった。
「これが、私の勤めですから」
静かに告げられたその言葉に、レギュラスの心は強く揺さぶられた。
痛みが走った。けれどその痛みは、不思議なほどに熱を帯び、胸を灼く。息をするだけで苦しくなる。
――ああ、この手を……離したくない。
――ずっと、そばにいてほしい。
まだそれを「恋」とは知らなかった。
ただ、他の何とも似ていない、大切で危うい感情であることだけは――幼い彼にも、はっきりとわかってしまった。
屋敷を満たす怒声も音も、そのときだけは遠ざかった。
彼の胸に残ったのは、静けさと、どうしようもなく温かい痛みだけだった。
季節が巡るたびに、屋敷の空気は少しずつ変わっていった。
シリウスはホグワーツから長期の休暇のたびに家へ戻ってきたが、帰るたびにその姿は以前の家の空気から遠のいていた。
母の怒声にもう屈せず、父の目にも怯まず、皮肉すら帯びた自由な笑みを浮かべて歩く。屋敷の重苦しい呪縛の鎖など眼中にないように、彼の笑顔は外の世界の風を連れてきていた。
そしてなにより、その笑顔はアランの前で最も明るく輝いた。
ある夏の午後、陽光が裏庭の庭石を白く照らし、風に揺れる蔦が花壇に影を落としていた。歴史的に整えられた花壇の端に腰を下ろしたシリウスは、まだ幼い弟には語ってくれないホグワーツの世界を饒舌に語っていた。塔の話、動く階段、喋る肖像画。それらが鮮やかな絵の具で塗り広げられるたびに、アランは見開いた瞳に光を宿して聞き入る。その瞳は幼かったころの静けさからほど遠く、驚くほど瑞々しい輝きでもってシリウスを映していた。
シリウスがひときわ面白い場面を再現するように身振りで語れば、アランは思わず喉を震わせ、細やかな笑い声を漏らす。頬に淡い紅を載せ、指先で髪を触れる仕草は、屋敷の陰の女中として過ごしていた少女の顔にはなかったものだ。外の空気を少しだけ感じ取った人間の、それでもなお遠慮がちな、けれど確かな笑み。
レギュラスは一本の石柱の陰から、その光景を黙って見ていた。
陽に照らし出された二人は、まるでそこだけ別の世界に存在しているかのように見えた。甘やかで軽やかな風が庭へ流れ込み、話す声も、笑う声も、柱の影にひとり立つ彼の鼓動を遠ざけていく。
兄の手が、ほんの自然な仕草のようにアランの髪へとかけられた。柔らかな夏の光に透ける、彼女の漆黒の髪が指先に触れる。
その瞬間、胸の奥で鋭い何かがざらりと音を立てた。
怒りではない。寂しさでもない。
それはもっと深く、重く、沈殿していくような焦りだった。
――兄が、アランをどこかへ連れて行ってしまうかもしれない。
雷のようなその想像が胸をひき裂く。
自分はまだホグワーツにすら入学していない。
兄のように快活で、誰をも惹きつける光を持っているわけではない。母の命じるまま屋敷に留まり、秩序を崩さぬよう黙って従うしかできない。
ただ与えられた役割の中で息苦しく生きているだけだ。
――そんな自分に、いったい何ができる?
どうすれば彼女を……いや。
「手元に留める」という言葉では足りない。
もっと深く、もっと強く。
彼女の心そのものを縛りつけ、離れられなくしてしまいたい。
そう思った瞬間、アランがふいにこちらを見た。
不意を突かれたように心臓が跳ね上がる。
その眼差しは柔らかで、どこかためらいを含む微笑みとともにレギュラスを見つめ返していた。胸の奥が一瞬で熱くなり、息が詰まる。
けれど、すぐに理解する。
ついさっきまで、彼女の瞳は確かにシリウスを映していた。
その優しさを向けられていたのは「自分」ではなく——「兄」だった。
熱がこみ上げるのと同じ速さで、冷たい影が心を覆い尽くす。
レギュラスは視線を逸らし、柱に背を預けた。
背中に燃え上がったのは、真夏の太陽よりも灼けつく炎。
それは幼い愛情ではなく、もう言葉にできないほどの執着の種だった。
その種はいつか、彼のなかで静かに芽吹き、やがてどうしようもないほど濃い影となって伸びていくことをまだ知る由もなかった。
屋敷に走ったざわめきは、その日いつもより早く訪れた。
シリウスが腕にはためく封書を掲げ、弾む足取りで玄関に現れたのだ。
ホグワーツからの手紙。これから彼を待つ寮の名が記された大切な書簡を、彼は隠すこともなく見せびらかす。
「グリフィンドールだ!」
その叫びは誇らしく、大胆に家中へ響いた。だが続いたのは歓声ではなかった。母ヴァルブルガは白い顔を怒りで歪め、裏切りの烙印を押すような罵声を放った。血統を誇るブラック家にとって、グリフィンドールは最大の反逆だった。
壁が震えるほどの声と同時に、床に置かれていた銀の燭台が倒され、冷ややかな金属音が響いた。屋敷そのものが彼の選択を拒むかのように。
けれど、その怒りを浴びてもシリウスは怯まず、むしろ悪戯好きな少年のように口の端を吊り上げた。その両の瞳は炎を閉じ込めたように輝き、矛盾も束縛もない純粋な自由の色を宿していた。
「アラン、驚いたか?」
視線を投げかけられたアランは、思わず言葉を失った。
胸の奥をきゅっと掴まれるようで、それでも目を逸らせなかった。
「俺はやる男なんだぜ。こんな純血主義なんか、知るか。…… アラン、俺がいつかお前を連れ出してやるからな」
強気に告げられたその言葉は、屋敷の天井を突き抜けて陽光を招き入れるように思えた。
胸に広がるのは歓喜。それなのに同じ量の切なさが混じる。
嬉しくて、泣きたくて、なのに笑わずにはいられない。
アランは自然に唇をほころばせたが、その裏では心音が早鐘のごとく打ち鳴らされていた。
初めてこの屋敷に引き入れられた幼い日のことが、ふと脳裏をよぎる。暗く重たい柱の間で、誰よりも先に手を差し伸べてくれた少年の姿。
――あの時から、心はずっと彼にあった。
強引で、自由奔放。危ういほど無鉄砲なのに、誰よりも真っすぐで、少年らしい笑顔の奥に、底知れぬ優しさを抱いている。まるでどこまでも歩いていける光の化身のような存在。
「……それって、お嫁さんにしてくれるってこと?」
口から零れたのは、少女の無邪気な言葉。けれど心奥で震えを伴った本心でもあった。頬が熱くなる。こんなことを言っていいのかすらわからないのに、問わずにはいられなかった。
シリウスは一瞬も迷わず笑みを広げ、拳で自らの胸を叩いた。
「ああ! 俺たちはずっと一緒だ」
きらめく約束の言葉。その笑顔から、アランの視線はもう離せなかった。
その瞬間だけは、永遠というものがたしかに存在すると信じられた。閉ざされた屋敷のなかで初めて見えた出口。
午後の光が窓から差し込み、二人の間を淡く照らしていた。
屋敷を覆う重苦しさすら、そのわずかな時だけは影を潜めた。
――しかし、その場にはもう一人いた。
廊下の片隅、薄い夏の光が落ちる柱の影に、レギュラス・ブラックは静かに身を隠していた。
耳に飛び込んできたのは、兄の明朗な笑い声。その声に重なるように、アランの震える笑い声が届いた。まるで互いを映し合うかのように響き合っている。
視線を向ければ、窓辺に寄り添う二人の姿。
「俺がお前を連れ出してやる」
「……お嫁さんにしてくれるってこと?」
「もちろんだ! ずっと一緒だ」
ふたりのやり取りが光そのもののように窓から零れ出す。
その刹那、レギュラスの胸に異様な熱が込み上げた。痛みでもなく、ただ焼けつくような灼熱。
兄の言葉を信じきって笑顔を見せるアラン。
その表情が、どうしても自分には向けられないことを幼い心ながらに悟ってしまう。
シリウスは生まれつき光をまとう人間だった。
何も恐れず、檻を打ち破り、手にしたいものすべてを掴む人。
自分とは正反対だ。母の影を恐れ、父の期待を裏切れず、この屋敷の檻に従うしかない存在。
なのに。
――どうしてあの子まで、兄の光にさらわれなくてはならない。
爪が掌に食い込むことも構わず、幼い拳を強く握り締める。
もしあの子が兄と共にこの屋敷を去れば、二度と帰ってくることはないだろう。
そして自分の手には、永遠に届かなくなるのだ。
胸の奥で、ひそやかな声が生まれた。
――ならば、絶対に行かせはしない。
――彼女はこの屋敷と共に、自分のそばに置く。
その誓いは、まだ幼い心に闇のように根を張った。
芽吹いたばかりのそれは小さくも揺るぎなく、光を憎む影のように深く沈んでいく。
そして誰も知らぬまま、レギュラス・ブラックの胸に、初めての暗い誓いが結ばれたのだった。
屋敷の食堂には、すでに食事のざわめきはなかった。
壁に彫り込まれた装飾も、長く連なる椅子も、今はただ静かに余韻を抱えている。重厚な暖炉の火がちらちらと赤い影を投げかけ、そこから流れ出る熱が、冷たい石造りの床をゆっくりと包んでいた。
豪奢な食卓の上には銀器が整えられたまま残され、ただティーカップの縁に漂う香気だけが、つい先ほどまでその場にあった食事の主の存在を物語っていた。
だが、その長いテーブルの端に今、ひとり腰を落ち着けている影があった。
アラン・セシール。
彼女は、家族の食事がすべて終わったのちに姿を現し、その広すぎる卓を静かに占めるのが常だった。煌めく銀器たちは主を失ったように沈黙して並び、その空虚な彼女の「席」をひっそりと見守る。長卓の両端に座れば何十歩もの距離があるはずなのに、この時間に限っては奇妙なほどに意味を失っていた。
アランはナプキンを指先で取り、背筋をすっと伸ばすとスープを口に運ぶ。動作一つひとつが静謐で、灯火と調和するような柔らかさを帯びていた。
外の夜風が窓から淡く流れ込み、薄いカーテンをわずかに揺らす。音といえば暖炉の薪のはぜる音と、ほんの軽やかなスプーンの触れ合いだけ――その静けさの中に、ふと新しい足音が忍び寄った。
「…… アラン」
低く控えめな呼び声。
アランが顔を上げれば、そこにはレギュラスが立っていた。まだ幼さの残る面影に、しかし意志の色を宿した瞳。
呼びかけに応じて、少女は小さな笑みを浮かべる。
「レギュラス。お食事はお済みですか?」
「ええ」
短い返事とともに、彼は彼女の斜め向かいに腰を下ろした。本来なら彼がこの席に着くことなど滅多になかった。家族の食卓の場では常に母の目のそばに控え、厳格な秩序の中にあるはずの彼が――今こうして誰もいない深夜の食堂で、アランのひとりの席に加わるなど。
ふたりを包むのは、穏やかで張り詰めた沈黙。
炎のゆらめきが銀器にかすかな光を宿し、湯気の中に漂う空気は、まるで秘密を閉じ込めて守る幕のようだった。
「アラン……」
沈黙を破った声は、雪の夜に響く足音のように静かで透明だった。けれど、その芯にはかすかな熱が潜んでいる。
「僕たちは、ちゃんとスリザリンに入りましょう」
思いがけぬ発言に、アランは一瞬きょとんと目を瞬かせる。だがすぐ、柔らかで控えめな微笑を浮かべて頷いた。
「ええ。そうしましょう。オリオン様やヴァルブルガ様も喜ばれますもの」
レギュラスは小さく息を吐いた。けれど――言いかけて、そのまま言葉を足した。
「それもそうですけど……」
彼の視線はテーブルクロスへと落ち、控えめに伸ばされた指がその端をなぞる。布に描かれた細工模様を追うような仕草。けれど、それは迷いをごまかすためのわずかな目の逃げ場にも思えた。
「セシール家にとっても、その方がいいんです」
声には穏やかさがあった。だが、その奥には針のように細い意志が潜んでいる。
兄の後を追って、グリフィンドールには行かないでほしい――そう直接は口にしない。だがアランほど聡明な彼女ならば、言外に込められた意図を悟らないはずがなかった。
レギュラスは再び顔をあげ、まっすぐに彼女の瞳を見すえる。
「寮の選択は……自分だけのことじゃありませんから」
その瞳は夜の湖を思わせた。深く澄んだ色をしているのに、のぞき込めばどこまでも底が見えない静けさを蓄えている。
「君の選ぶ道は、この屋敷にも、ご両親にも、そして一族にも……影響します」
わずかに影を落とした言葉。だがそこには切迫した思いと、譲れない熱があった。
アランはふとまばたきをして、それからまた微笑んだ。
湯気の向こうで揺れるその笑みは柔らかで、判別の難しい淡さを帯びていた。
「……わかっています、レギュラス」
それは約束の笑みか、ただの礼儀の答えか。彼には確かめる術がない。
だがその言葉を聞いた瞬間、熱に張り詰めていた彼の胸にはひとすじの安堵が流れ込んだ。
——これで。
——これで、兄の影からは遠ざけられる。
スープの漂わせる香りと暖炉の熱。夜の帳の下で燃え続けるのは、まだ形を定めぬ炎だった。
淡く灯るそれは、不安定ながらも確実にレギュラスの内側を焦がし、静けさによってかえって存在を強く主張していた。
彼だけの影の誓いが、湯気に揺れる夜の食堂で、また深く育ってゆく。
冬の終わりを告げる曇り空の下、屋敷の玄関扉が重たく開かれる音が響いた。
その響きは、閉ざされた屋敷の空気を内からも外からも震わせた。
「おーい、アラン!」
弾けるように飛び込んできた声は、この家には似つかわしくない明るさを帯びていた。灰色の外気を吹き飛ばすほどの音色――シリウス・ブラックの声だった。
磨きあげていた銀燭台をいったん卓に置き、アランはその呼び声に導かれるように廊下を進んだ。冷たい大理石の床に足音が柔らかく響く。その先、玄関の影に現れた人影を見て、彼女の胸の奥がふっと温かくほどけていく。
鮮やかな赤と金が目に飛び込んだ。
シリウスの首に巻かれたマフラー。グリフィンドールの色はまるで雪を割る炎のようだ。頬を寒気で赤く染め、白い吐息を残しながらも、彼は家の暗さをものともせず笑みを見せている。その笑顔は、一緒に外から雪明かりを連れてきていた。
「また背が伸びたな」
ひょいと手を伸ばし、からかうようにアランの肩を叩く。
その手は強引で乱暴でありながら、不思議と温かく、守られるような確かさがあった。
「俺のいない間、ちゃんと元気にしてたか?」
瞳を細めて問う彼に、アランは短く答えた。
「ええ、もちろん」
その瞬間、自然と笑みが生まれていた。
屋敷で過ごすなかで決して見られぬ種類の微笑――心を撫でられるような優しさに、胸が静かに打ち解けていく。
言葉を交わさないひと呼吸。シリウスの視線が真っ直ぐに彼女を捕らえ、唇がまた動いた。
「なあ……スリザリンなんかやめとけよ。グリフィンドールに来い」
冗談めいて聞こえる調子。それなのに、声の奥には彼らしい真剣さがあった。
「俺が守ってやるから。いっしょに過ごした方が、絶対楽しいぞ」
その響きに、アランは小さく息を呑んだ。
ああ、まただ――。
遠くに離れていても、彼はこうして同じ光の温度で手を伸ばしてくる。届かぬと諦めかけても、気づけば真っ直ぐに招き入れてくれる。
閉ざされた胸の奥に、細やかな灯りがふっと灯った。
雪解けのように静かにあたたかさが広がっていく。
けれど、その瞬間を。
別の視線が廊下の奥から見ていた。
レギュラス・ブラック。
薄暗がりに佇むその姿から、兄の鮮やかなマフラーの赤が目に飛び込み、その色が視界に焼き付く。あれは光そのものだ。赤と金の炎が屋敷の冷たさを押しのけ、アランを照らしている。
レギュラスの胸の奥で、氷のような感情がきしむ。
あの日、自分が震える想いを込めて告げた「スリザリンに入りましょう」という言葉――それが彼女のなかでどれほど重みを持っているのか、今まさに試されている気がした。
静かに足を踏み出す。影から姿を見せて、声を発した。
「…… アラン」
低い、澄んだ声。その呼びかけに、アランがゆっくりと振り返る。
レギュラスは一歩近づいた。唇に微笑の形をつくり、けれどその奥に確かに熱をひそめながら。
「母が呼んでいます」
それだけを告げ、二人の間を切り裂くように歩み過ぎた。
細い糸を引いていた温かな空気を、冷たい刃で断ち切るかのように。
アランがわずかに瞬きをし、シリウスが軽く眉をひそめる。その隙間をすり抜けて、レギュラスは静かに廊下を進む。
胸の内で、血が熱に変わる。
――兄は光そのものだ。
――だが、この屋敷の中で輝けるのは、自分だけでいい。
その暗い願いが、夜の底で確実に燃え上がっていた。
冬の終わり、空はまだ薄曇りだ。
けれどレギュラスの胸には陽よりも灼ける火が芽吹いていた。
シリウスが屋敷へ帰ってきてから、空気がいくらか変わった。
あれほど重く、張り詰めた声を響かせていたヴァルブルガでさえ、彼の前では妙に勢いを削がれた。彼女の怒声は刃のように鋭く伸びず、代わりに鈍く吸い込まれるように働きを弱める。――それを、シリウスはよくわかっていた。自らの自由を貫くための小さな余白だと。
彼はそれを利用するように、騒がしく廊下を歩き回った。庭にも屋根裏部屋にも顔を出し、アランを見つけては大げさな声で呼ぶ。
「おい、アラン!見ろよ、俺が帰ってきてやったぞ!」
からかいと冗談が、彼の口から淀みなくこぼれる。針のような緊張が常に漂う屋敷の中で、その軽やかな響きは金の鈴の音のように弾み、アランの心をほぐした。
つい、笑ってしまう。
それは押し殺そうとしても零れてしまう微笑――かつて幼い日の彼が「連れ出してやる」と言って見せた、あの強引で眩しい笑顔と何ひとつ変わっていない。
シリウスという人は、いつまでも光を抱えて帰ってくる人だ。外から運んで来た光をそのまま胸に宿して、暗い屋敷に投げ入れる。彼に触れると、この場所の冷たささえ一時的に和らいでしまう。
けれど、その光が輝くたびに、アランはふいに別のものを感じ取っていた。
横目に捉えるレギュラスの視線。
冷たくはない。むしろ優しさを帯び、穏やかですらある。だが奥底には、名をつけることのできない色が沈んでいた。氷のようでもなく、炎のようでもない。ただ深く揺れず、そこに息を潜めている。アランには、それをどう呼んでよいかわからなかった。
一度、その視線が背に落ちたまま振り返ったことがあった。言葉にされないながらも、自分を掴もうとするような静かな熱を、確かに感じた。
そんなある夕暮れ、シリウスがふいに彼女を誘い出した。
屋敷の裏手、石垣の上を冬の余韻を纏った風が撫で抜けていく。夕陽は厚い雲に沈もうとしながら、それでも最後の紅を庭と屋根に映していた。
シリウスはそこで、息もつかずにホグワーツでの出来事を語った。動く階段の悪戯、友人との夜更けの笑い、授業での窮地から逃れた面白い運の話――何もかもが躍動感に溢れ、自由そのものだった。
「お前が来たら、きっともっと面白くなる」
何気なく投げかけられたその一言に、アランの胸は跳ね上がる。心臓が勝手に明るい音を鳴らし、頬の奥に熱が宿る。
けれど、その瞬間、ふと違う感覚に引き戻された。
視線を感じたのだ。
振り向けば、窓辺に影がひとつ立っている。
逆光に沈んで表情は読めない。けれど、それがレギュラスであることは、見間違えようもなかった。
黙って見ている。ただ、そこにいる存在感が背中に伝わってくる。声も音もないのに、確かに「見ている」と告げてくる強い静けさ。
胸の奥に疑問が生まれる。
――二人の間に、何があるのだろう。
けれどその問いを確かめるよりも早く、耳には再びシリウスの声が溶け込んでくる。
伸びやかで強く、風を切るような響き。遠くの外の世界とこの屋敷を、一直線に結びつける音色。
アランは思わずその声に身を傾けた。
レギュラスの視線の重みよりも、シリウスの声の温かさの方が胸の奥深くにまで染みこんできた。
その傾きは、まだ彼女にとって無意識のものだった。
けれど確かに、心の天秤はひっそりと揺れ動いていた。
光をまとう声と、影を宿す瞳。
そのはざまで、少女の心は知らぬ間に引かれてゆく。
夜の屋敷は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
陽光に照らされる時間は荘厳な装飾や重厚な家具を誇る空間なのに、夜になるとそのすべてが影を纏い、見慣れた場所ですらよそよそしい。どこかひそやかな気配に包まれて、歩む足取りを慎重にさせた。
広い廊下には足音ひとつなく、遠くから伝わるのは暖炉の火がときおり立てる、ぱちり、という小さな音だけ。その律動が、まるで屋敷全体の眠りをなぞっているようだった。
アランは片手に燭台を持ち、もう片方の腕には絨毯の埃を払う道具を抱えて歩いていた。炎の小さな揺らめきは、彼女の影を長い石壁に映し、ひとりきりの気配を強める。大きなバケツには掃除用の水と布、ひとつ前の騒ぎで割れたカップの欠片が一緒に沈んでいた。
ほんの少し肩が疲れてきたとき、不意に背後から声がした。
「……手伝いましょうか」
静かで澄んだ声。その響きは夜の中でよく通り、アランの指先をわずかに震わせた。振り返ると、そこにはレギュラスが立っていた。
整えられた黒髪に、まだ年若い少年の面影を残した顔立ち。けれど、その立ち姿には彼だけの凛とした空気があり、狭く冷たい廊下を広げてしまうようだった。
アランは首を小さく横に振り、微笑を添えようとした。
「いいえ、大丈夫です」
それで終わるはずだった。
だが、レギュラスは言い返さなかった。頑なさも、余計な問いもなく、自然な動作でアランの抱えていた荷物をひとつ取る。軽々と水の入ったバケツを持ち上げる少年の手に、瞬時に「頼もしさ」が宿るのを見て、アランは言葉を失った。
自分と大きな背丈の差があるわけではない。まだほとんど変わらないはずなのに、腕の力と所作の確かさに、不意に「男女の差」というものが意識に触れてくる。さりげなく差し出された居場所のようなものに、胸の奥が小さく揺れた。
並んで歩く廊下は長い。二人の足音が寄り添い、影が炎に揺れながら床を並んで進んだ。
やがて、レギュラスがふっと声を落とした。
「…… アラン 、兄のことですが」
アランは小さく息を止めた。
「はい?」
彼の瞳は焔のように燃え立つことはなかった。暗い月影のように、静かで深く、夜に馴染む透明さを湛えていた。
「……あまり近づかない方が、身のためです」
わずかな間が生まれた。アランは瞬きをひとつして、唇を結ぶ。その囁きは思いがけず心へ鈍くぶつかり、胸を切り裂くように沁みていく。
「……ええ……心しておきます」
絞り出すように応える声は、彼女自身も気づかぬほどかすかだった。
それでもレギュラスは頷きもせず、ただ視線を前に向けたまま、淡々と続ける。
「母があんな感じですから。……あなたまで何を言われるか、わかりません。用心しておいた方がいい」
声は確かに優しく、心配する調子を帯びていた。
けれどその忠告は、やはり薄い刃のように胸を裂いていく。
――近づかない方がいい人。
それはつまり、自分にとって最も温かく、最も光の側に立っている存在から、遠ざかれということ。
アランは言葉を重ねられなかった。
ただ、小さく「ありがとう、レギュラス」と返した声だけがこだました。
そのとき燭台の炎がふいに揺れた。わずかな風が廊下を抜け、二人の影を揺らす。
影は並んで伸び、ひとつの方向へと淡く延びていく。
その道の先に待つのが、光なのか闇なのか、アランにはまだわからなかった。
自室の扉を後ろ手にそっと閉じると、屋敷のざわめきが急に薄れた。
遠くで誰かが足音を立てていた気配も消え、残されたのは耳に刺さるほどの静寂だった。
手にした燭台の小さな炎が、闇の中で牽引するように揺れている。炎の息遣いが壁に歪んだ影を描き、それが一人きりの部屋を大きく見せ、同時にやけに心細くさせる。
アランは作業着のまま、椅子に腰を落とした。背もたれに寄りかかった途端、全身がすっと重みを訴えかけてきた。
耳の奥ではまだ、あの声がくりかえし響いていた。
——兄のことですが、あまり近づかない方が、身のためです。
——……用心しておいた方がいい。
レギュラスの声音は穏やかで、旋律のように優しかった。
心配してくれているのもわかる。彼の心に嘘がないことも。
けれど、それがなぜか胸の奥で硬く冷たいものを残し、沈殿するのを感じていた。
ふと、陽だまりの中の記憶が甦る。
――「俺がお前を連れ出してやる」
あの屈託のない声。太陽のように明るく、真っ直ぐで、何も恐れず、何も損なわぬ眼差し。
シリウスがそう告げたとき、心が鎖から外されるような気がしたのだ。暗い屋敷に流れ込む純粋な光のように。
レギュラスの月のような静かな声と、シリウスの太陽のような言葉。
二つの温度が胸の内で向かい合ったまま、決して交わらずに並んでいる。
どちらも優しい。けれど、そのやさしさはまったく違う色をしていて、どちらが自分を導くのか、アランにはまだわからなかった。
膝の上に置いた両手を、アランはぎゅっと握りしめる。
窓辺では夜風が隙間から忍び込み、燭台の炎がさわ、と音を立てるように揺らいだ。
炎の影は呼吸のように伸び縮みし、それがまるで自分自身の迷いを映しているかのように見えた。
——近づかない方がいい人に、どうしても心が近づいてしまう。
それが許されない想いなのかもしれない、とも思う。
けれど一度感じてしまった光の温もりは、胸のなかで消えてはくれなかった。
遠くで、長い静寂を破るように時計の針がひとつ進む音がした。
アランはそっと瞼を閉じ、胸の奥にしまい込んだ光の記憶を、まるで宝物を抱くように強く抱きしめる。
迷いの影の中で眠りを待ちながら、その小さな光だけは確かに自分を支えているのだと感じていた。
まだ霜の気配が残る早朝だった。
灰色の窓の外には薄い光が降り、吐息は白く漂い、石造りの屋敷の中には冷え切った空気が澱んでいる。
その静けさを裂くように、シリウス・ブラックは足音を忍ばせ、廊下の影を縫うように進んでいた。
目には、少年に似合わぬほどの生き生きとした光が宿っている。生まれ育った屋敷の息苦しい壁を破るための決意は、彼の全身から弾け飛びそうに滲んでいた。
やがて、行き交う影のない廊下の一角で、彼はアランを見つけた。
「行くぞ」
それだけを短く告げ、迷いなく彼女の手を取る。
「……え? どこへ……」
驚きに揺れる声を遮り、彼は口角をつり上げた。
「マグルの世界だ」
その言葉とともに浮かべられた笑顔には、悪戯のような輝きが溢れている。瞳が星のようにきらめき、見ている方までもを巻き込む無鉄砲な熱を放っていた。
「アルファード叔父さんに教えてもらったんだ。面白ぇ場所がたくさんある」
アランは、一瞬で息を吸い込む。
胸に広がるのは憧れと恐れの境目。屋敷の外にほとんど出たことのない自分が、禁じられた世界に誘われている実感。
「……でも……そんなこと……いいのかしら……」
震える声が廊下に落ちる。それは自分自身への問いかけにも近かった。
ブラック家に背を向ける。仕える者として決して許されぬ行為。
見つかれば罰は免れず、今の自分の立場を根こそぎ奪われるかもしれない。
けれど、シリウスは眉一つ動かさず、彼女を不安から遠ざけるように笑った。
「気にすんな、。暇だっつっといたから。あのババアもそこまで疑いやしねぇよ」
吐き捨てるような言葉とともに、彼はぐっとその手を握り込み、彼女を廊下へと引き出す。
その瞬間、世界が一気に走り出した。
冷たい朝の空気が頬を鋭く撫でていく。屋敷の影が背後へ遠ざかり、霜を踏む足音が二人分重なって響いた。吐き出される二人の息は蒸気となり、朝の光のなかでほぐれていった。
シリウスの胸には、別の記憶が鮮烈に蘇っていた。
——初めて、彼女を見た日のことだ。
セシール家からこの屋敷に連れてこられた、まだ幼い少女。
翡翠のように澄んだ瞳が、自分をまっすぐ映したあの時。
胸の奥で、電流のように何かが跳ね上がった。
言葉にすれば「一目惚れ」なのかもしれない。だが、それでは到底足りない。
あれは魂ごと引き寄せられるような衝撃で、それ以来、彼は何度も心の中で未来を描いていた。
あの重苦しい屋敷から彼女を救い出すこと。
広い世界を見せ、窮屈な闇の外で自由に笑わせること。
ホグワーツで学び、力を得て、いつかその隣で胸を張って立つこと。
そして必ず、自分の手で彼女を解き放つのだと。
握ったアランの手は小さい。けれど思ったより強く、確かな力が返ってきた。
その温もりが真っ直ぐに胸の奥へ届き、彼の笑みをさらに鮮烈なものに変える。
「ほら、見てろよ、アラン。マグルの世界ってやつを」
振り向いた横顔に、光が差し込む。
アランはまだ半信半疑のまま、それでも吸い寄せられるようにその笑みに目を奪われた。
駆け出す二人の姿は、朝の光に抱かれて檻の外へと伸びていく。
重苦しい屋敷を背に、世界は初めて、静かに彼女の目の前で扉を開いた。
屋敷を抜け出してから、どれほどの時間が経っただろう。
冷たく硬い石畳は、歩みを進めるごとに変わり、次第に小ぎれいに舗装された道へと姿を変えていった。
重苦しい屋敷の壁を背にしてなお、振り返らずに歩くシリウスの背中は、朝の光を浴びながら揺るがない。
アランはその隣で、馴染みのない街並みに目を見開き、熱を帯びた息を白く吐いた。
聞き慣れない雑踏が流れている。
道には行き交う人々の声、荷物を抱えた男の軽やかな笑い声、通りを駆ける車の低い唸り。
頭上では店先から吊るされた看板が風に揺れ、色とりどりの絵柄や文字が視界にあふれていた。
ショーウィンドウに並ぶのは、見たこともない服や装飾品、小物たち。磨き込まれたガラス越しに光を反射し、まるで指先で掴めと誘ってくるようにきらめいている。
風に乗って香ばしい匂いが漂った。焼き菓子が焼き上がる甘い香り。初めて嗅ぐその匂いは、心を揺らすあたたかさを持っていた。
「ここが……マグルの世界……」
思わず洩れたアランの声は、期待と緊張のどちらへも倒れきらず、宙に彷徨う響きを持っていた。
隣のシリウスはにやりと笑い、懐から折りたたまれた紙幣をひらひらと掲げる。
「アルファード叔父さんがくれたんだ。これがマグルの通貨だってさ」
得意げな説明とともに、彼は迷うことなく小さな菓子屋へと足を踏み入れた。
アランもすこし遅れて戸口を跨ぐ。
店の中は温かく、甘い香りでみちていた。
棚にはガラス瓶に詰められた色鮮やかな飴や、銀紙に包まれたチョコレートがぎっしりと並び、それぞれが子供たちの夢のように輝いている。
見渡すだけで胸がくすぐられ、足を止めてしまいそうになる。
シリウスはそんな彼女の様子を気に留めることもなく、あっという間に大きな紙袋いっぱいに菓子を詰め込んでしまった。
迷いのない仕草でマグル紙幣を店員に差し出し、袋をアランの腕に押し付ける。
「はい、これ」
唐突に抱えた紙袋の中から、甘い香りが立ち上り、アランは思わず小さく笑ってしまった。
「……こんなふうに、買い物をするんですね」
「そうだ。屋敷じゃ欲しいものは全部、命令ひとつで出てくる。でも、お前は思わねぇか? そんなの、つまんねぇって」
言われて、彼女ははっと息を呑んだ。
いまこの瞬間、飴玉や焼き菓子を手に入れるために差し出した時間や笑み、やり取りの手触りこそが「喜び」だと気づく。
屋敷で与えられる無機質な食卓には決して存在しないことだった。
ふたりは菓子屋を出て、賑やかな通りを肩を並べ歩いた。
人びとは見慣れぬ服に身を包み、手紙や本を抱え、誰も他人の血筋など気にしない様子で行き交う。
子供たちが白い息を弾ませてボールを追いかけ、犬が勢いよく駆けては尻尾を振る。
それらの光景はすべて新鮮で、生きた熱を持って彼女の胸に押し寄せた。
「アラン、覚えとけよ」
シリウスの声が、寒空を切り裂くように熱く響いた。
「外の世界は広い。ここには純血だとか家柄だとか、そんなくだらねぇもんを気にする奴なんかひとりもいない」
吐く息の白さに混じって光るその言葉は、遠くまで飛んでいくような強さを持っていた。
「お前が望むなら、いつでも——」
その続きを彼は言わなかった。
けれど、言葉の途切れに宿った意味をアランの瞳は確かに拾った。
——いつでも、連れ出す。
心臓が小さく跳ね、胸の奥に熱が広がる。
彼女はただ頷くことで、その熱に応えた。
短い時間だった。
けれど、胸の底に確かに刻まれるには充分すぎる記憶になった。
あの屋敷の外には、自由と色彩が溢れている。
その事実を知ってしまった以上、もう完全に闇だけの場所に戻ることはできない。
アランの内側に落ちた白い霜は、その朝の光のなかで静かに解け始めていた。
夕陽はすでに西の端へと傾き、通りの石畳に赤い残照と長い影を落としていた。
少し歩くごとに影はかすかに揺れ、その度に日の光が名残惜しげに背を撫でていく。
アランの腕に抱えた紙袋は、半分ほど軽くなっていた。
色とりどりの菓子を詰め込んだ袋からは、まだ甘い香りが漏れ、通りの冷えた風に溶けて漂う。その香りが記憶を呼び起こすたび、彼女の胸には幸福の余韻が柔らかに広がった。
「楽しかったな」
シリウスが弾む声で言った。
目尻に笑い皺を寄せ、満足げな笑みを浮かべながらも、その足は緩むことなく屋敷の方へと進む。
夕暮れの光を背に受ける彼の姿は、まだ街の熱をまとったまま、揺るぎのない輝きを放っていた。
「また連れ出すよ。次はもっと遠くへ行こうぜ」
未来を約束するような響きに、アランは自然に笑みを返そうとした。
けれど、その視界にはすでに屋敷の影が映り始めていた。
玄関扉の黒々とした輪郭。石造りの階段の重厚な構え。そこから先にある冷たい空気と重苦しい規律。
――あの街の色彩も、人々の賑やかな声も、この扉をくぐれば一瞬で消えてしまう。
胸に鈍い痛みが走る。
微笑もうとした唇は、小さく曇りを帯びていた。
そしてゆっくりと、門をくぐったその時―― アランの足は自然と止まった。
石段の上、屋敷の入口の影に、ひとりの少年が立っていた。
レギュラス・ブラック。
冬空のように静まり返った顔。両手を後ろで組み、ただじっとこちらを見下ろしている。
表情には怒気も失望も浮かばず、何も読み取れない。
ただ、その瞳だけが切り裂くように鋭く、二人を丸ごと切り取るかのようにまっすぐ射抜いていた。
「……レギュラス」
シリウスが軽い調子で問いかける。その声に、返事はなかった。
代わりに視線だけが動く。
アランの姿にゆっくりと留まり、細くすくい上げるように、けれど容赦なく。その眼差しには言葉以上の圧が宿っており、否応なく胸の鼓動を速めさせた。
アランは一歩遅れて石段を上る。
その足取りに合わせて、腕に抱えた紙袋の中の菓子がかさりと音を立てた。
ほんの小さな音なのに、夜の入り口にいるような空気の中ではやけに大きく響き、さっきまでの喜びの残り香に冷たい指先が触れる感覚を齎した。
「おかえりなさいませ、二人とも」
ようやく放たれた声は短く、淡々としていた。
礼儀と穏やかさをまといながら、それでいて固い鎖のように二人を縛る響きを持っていた。
その言葉を終えるや否や、レギュラスは踵を返し、重い屋敷の内へと歩み去っていった。
アランは階段を昇りながら、心に残る感覚の正体を探した。
言葉は穏やかだったはずなのに、胸には妙な重さだけが残る。
屋敷の空気につかまれ、背に柔らかな光が引き剝がされるように消えていく。
さっきまで街で見た自由のきらめきは、少しずつ夜に呑まれるように溶けていった。
廊下の暗がりへと足を踏み入れた瞬間、アランの胸にひとつの確信がよぎった。
――この世界は、二人の影が交わる場所だ。
そして、その影に、自分も確かに繋ぎ止められている。
それが安らぎなのか、緊縛なのか。答えのないまま、闇の奥へゆるやかに引き込まれていった。
いつもなら磨き込まれた柱も、深紅の絨毯も、静謐な館の威厳を誇るはずの天井も――今はただ荒れ狂う声と怒りの気配に震えていた。
ヴァルブルガ・ブラックの鋭い叫びが大理石の壁を撃ち、反響しては幾重にも重なって戻ってくる。花瓶は床で砕け散り、銀器は乱暴に投げつけられ、冷たい光を散らす硝子の欠片が廊下を覆い尽くした。
「ブラック家に恥を持ち込むなんて!」
「裏切り者め!」
その言葉はシリウスへと向けられていた。
彼がホグワーツに入学したばかりで、しかも――グリフィンドールに分けられた。
それは、純血を誇り、血統を守ることを絶対とするブラック家にとって、耐えがたい冒涜にほかならなかった。
父オリオンもまた、無言で荒れていた。別室にこもると、壁に掛けられた先祖の肖像画を拳で叩きつけ、古い巻物を容赦なく破り捨てる。重たく濃く、息が詰まるほどの憎悪と苛立ちが、空気そのものを粘りつくように濃縮させていった。
その光景を、幼いレギュラスは廊下の影から見つめていた。
胸の奥に沈むのは、恐怖と……理解できない熱。
母と父の怒りの轟音のなかに、ひとりだけ、異質な影があった。
アラン・セシール。
まだ小柄で、レギュラスとそう変わらぬほどの背丈に見える少女。
けれどもその小さな手は、割れた陶片をひとつずつ拾い集め、大きな壺を抱えて静かに運ぶ。砕けた額縁を胸に抱えながら、母の怒声を背に浴びても、眉ひとつ動かさず、ただしずかに応じていた。
「ヴァルブルガ様、どうか……落ち着いてくださいませ」
その声音は決して強張っていなかった。
か細いながらも揺れることのない響きは、嵐にさらされながら咲く花のように、ひどく儚く、それでいて確かな強さを孕んでいた。
父の書斎では、散乱した書類を一枚ずつ揃え、床に跪いて無言で秩序を取り戻してゆく。破られた紙片を抱き集めるその横顔には、涙も、怯えもなかった。代わりに見えた光だけがあった。
それをレギュラスは、言葉を知らずに「何か」と感じた。
まだ「覚悟」という名を結びつけられない、幼さゆえの戸惑いを抱いたまま。
――どうして。どうして、泣かないんだろう。
――どうして、あんなに凛として、静かに立っていられるんだろう。
声を出そうとした途端、喉が熱くなった。
言葉にした途端、涙がこぼれてしまいそうだった。
やがて、彼は無意識に足を踏み出し、名を呼んでいた。
「…… アラン」
振り返った彼女の瞳とぶつかると、胸がぎゅっと掴まれる。
思わずこぼれた言葉は、子どもらしく拙く、震えていた。
「……すみません……こんな……こんなことばかりで」
謝る必要も意味もない、そんなことは彼にもわかっていた。
けれど、それ以外の言葉を知らなかった。
アランは一瞬だけ驚いたように瞬き、だがすぐにやわらかな笑みを浮かべた。割れた硝子の欠片を包んだ布を胸に抱えたまま、彼にだけは優しく答える。
「いいんです、レギュラス」
言葉は短い。それだけなのに、まるで嵐のなかに降る雨音のように穏やかで、彼の胸に沁みわたっていった。
「これが、私の勤めですから」
静かに告げられたその言葉に、レギュラスの心は強く揺さぶられた。
痛みが走った。けれどその痛みは、不思議なほどに熱を帯び、胸を灼く。息をするだけで苦しくなる。
――ああ、この手を……離したくない。
――ずっと、そばにいてほしい。
まだそれを「恋」とは知らなかった。
ただ、他の何とも似ていない、大切で危うい感情であることだけは――幼い彼にも、はっきりとわかってしまった。
屋敷を満たす怒声も音も、そのときだけは遠ざかった。
彼の胸に残ったのは、静けさと、どうしようもなく温かい痛みだけだった。
季節が巡るたびに、屋敷の空気は少しずつ変わっていった。
シリウスはホグワーツから長期の休暇のたびに家へ戻ってきたが、帰るたびにその姿は以前の家の空気から遠のいていた。
母の怒声にもう屈せず、父の目にも怯まず、皮肉すら帯びた自由な笑みを浮かべて歩く。屋敷の重苦しい呪縛の鎖など眼中にないように、彼の笑顔は外の世界の風を連れてきていた。
そしてなにより、その笑顔はアランの前で最も明るく輝いた。
ある夏の午後、陽光が裏庭の庭石を白く照らし、風に揺れる蔦が花壇に影を落としていた。歴史的に整えられた花壇の端に腰を下ろしたシリウスは、まだ幼い弟には語ってくれないホグワーツの世界を饒舌に語っていた。塔の話、動く階段、喋る肖像画。それらが鮮やかな絵の具で塗り広げられるたびに、アランは見開いた瞳に光を宿して聞き入る。その瞳は幼かったころの静けさからほど遠く、驚くほど瑞々しい輝きでもってシリウスを映していた。
シリウスがひときわ面白い場面を再現するように身振りで語れば、アランは思わず喉を震わせ、細やかな笑い声を漏らす。頬に淡い紅を載せ、指先で髪を触れる仕草は、屋敷の陰の女中として過ごしていた少女の顔にはなかったものだ。外の空気を少しだけ感じ取った人間の、それでもなお遠慮がちな、けれど確かな笑み。
レギュラスは一本の石柱の陰から、その光景を黙って見ていた。
陽に照らし出された二人は、まるでそこだけ別の世界に存在しているかのように見えた。甘やかで軽やかな風が庭へ流れ込み、話す声も、笑う声も、柱の影にひとり立つ彼の鼓動を遠ざけていく。
兄の手が、ほんの自然な仕草のようにアランの髪へとかけられた。柔らかな夏の光に透ける、彼女の漆黒の髪が指先に触れる。
その瞬間、胸の奥で鋭い何かがざらりと音を立てた。
怒りではない。寂しさでもない。
それはもっと深く、重く、沈殿していくような焦りだった。
――兄が、アランをどこかへ連れて行ってしまうかもしれない。
雷のようなその想像が胸をひき裂く。
自分はまだホグワーツにすら入学していない。
兄のように快活で、誰をも惹きつける光を持っているわけではない。母の命じるまま屋敷に留まり、秩序を崩さぬよう黙って従うしかできない。
ただ与えられた役割の中で息苦しく生きているだけだ。
――そんな自分に、いったい何ができる?
どうすれば彼女を……いや。
「手元に留める」という言葉では足りない。
もっと深く、もっと強く。
彼女の心そのものを縛りつけ、離れられなくしてしまいたい。
そう思った瞬間、アランがふいにこちらを見た。
不意を突かれたように心臓が跳ね上がる。
その眼差しは柔らかで、どこかためらいを含む微笑みとともにレギュラスを見つめ返していた。胸の奥が一瞬で熱くなり、息が詰まる。
けれど、すぐに理解する。
ついさっきまで、彼女の瞳は確かにシリウスを映していた。
その優しさを向けられていたのは「自分」ではなく——「兄」だった。
熱がこみ上げるのと同じ速さで、冷たい影が心を覆い尽くす。
レギュラスは視線を逸らし、柱に背を預けた。
背中に燃え上がったのは、真夏の太陽よりも灼けつく炎。
それは幼い愛情ではなく、もう言葉にできないほどの執着の種だった。
その種はいつか、彼のなかで静かに芽吹き、やがてどうしようもないほど濃い影となって伸びていくことをまだ知る由もなかった。
屋敷に走ったざわめきは、その日いつもより早く訪れた。
シリウスが腕にはためく封書を掲げ、弾む足取りで玄関に現れたのだ。
ホグワーツからの手紙。これから彼を待つ寮の名が記された大切な書簡を、彼は隠すこともなく見せびらかす。
「グリフィンドールだ!」
その叫びは誇らしく、大胆に家中へ響いた。だが続いたのは歓声ではなかった。母ヴァルブルガは白い顔を怒りで歪め、裏切りの烙印を押すような罵声を放った。血統を誇るブラック家にとって、グリフィンドールは最大の反逆だった。
壁が震えるほどの声と同時に、床に置かれていた銀の燭台が倒され、冷ややかな金属音が響いた。屋敷そのものが彼の選択を拒むかのように。
けれど、その怒りを浴びてもシリウスは怯まず、むしろ悪戯好きな少年のように口の端を吊り上げた。その両の瞳は炎を閉じ込めたように輝き、矛盾も束縛もない純粋な自由の色を宿していた。
「アラン、驚いたか?」
視線を投げかけられたアランは、思わず言葉を失った。
胸の奥をきゅっと掴まれるようで、それでも目を逸らせなかった。
「俺はやる男なんだぜ。こんな純血主義なんか、知るか。…… アラン、俺がいつかお前を連れ出してやるからな」
強気に告げられたその言葉は、屋敷の天井を突き抜けて陽光を招き入れるように思えた。
胸に広がるのは歓喜。それなのに同じ量の切なさが混じる。
嬉しくて、泣きたくて、なのに笑わずにはいられない。
アランは自然に唇をほころばせたが、その裏では心音が早鐘のごとく打ち鳴らされていた。
初めてこの屋敷に引き入れられた幼い日のことが、ふと脳裏をよぎる。暗く重たい柱の間で、誰よりも先に手を差し伸べてくれた少年の姿。
――あの時から、心はずっと彼にあった。
強引で、自由奔放。危ういほど無鉄砲なのに、誰よりも真っすぐで、少年らしい笑顔の奥に、底知れぬ優しさを抱いている。まるでどこまでも歩いていける光の化身のような存在。
「……それって、お嫁さんにしてくれるってこと?」
口から零れたのは、少女の無邪気な言葉。けれど心奥で震えを伴った本心でもあった。頬が熱くなる。こんなことを言っていいのかすらわからないのに、問わずにはいられなかった。
シリウスは一瞬も迷わず笑みを広げ、拳で自らの胸を叩いた。
「ああ! 俺たちはずっと一緒だ」
きらめく約束の言葉。その笑顔から、アランの視線はもう離せなかった。
その瞬間だけは、永遠というものがたしかに存在すると信じられた。閉ざされた屋敷のなかで初めて見えた出口。
午後の光が窓から差し込み、二人の間を淡く照らしていた。
屋敷を覆う重苦しさすら、そのわずかな時だけは影を潜めた。
――しかし、その場にはもう一人いた。
廊下の片隅、薄い夏の光が落ちる柱の影に、レギュラス・ブラックは静かに身を隠していた。
耳に飛び込んできたのは、兄の明朗な笑い声。その声に重なるように、アランの震える笑い声が届いた。まるで互いを映し合うかのように響き合っている。
視線を向ければ、窓辺に寄り添う二人の姿。
「俺がお前を連れ出してやる」
「……お嫁さんにしてくれるってこと?」
「もちろんだ! ずっと一緒だ」
ふたりのやり取りが光そのもののように窓から零れ出す。
その刹那、レギュラスの胸に異様な熱が込み上げた。痛みでもなく、ただ焼けつくような灼熱。
兄の言葉を信じきって笑顔を見せるアラン。
その表情が、どうしても自分には向けられないことを幼い心ながらに悟ってしまう。
シリウスは生まれつき光をまとう人間だった。
何も恐れず、檻を打ち破り、手にしたいものすべてを掴む人。
自分とは正反対だ。母の影を恐れ、父の期待を裏切れず、この屋敷の檻に従うしかない存在。
なのに。
――どうしてあの子まで、兄の光にさらわれなくてはならない。
爪が掌に食い込むことも構わず、幼い拳を強く握り締める。
もしあの子が兄と共にこの屋敷を去れば、二度と帰ってくることはないだろう。
そして自分の手には、永遠に届かなくなるのだ。
胸の奥で、ひそやかな声が生まれた。
――ならば、絶対に行かせはしない。
――彼女はこの屋敷と共に、自分のそばに置く。
その誓いは、まだ幼い心に闇のように根を張った。
芽吹いたばかりのそれは小さくも揺るぎなく、光を憎む影のように深く沈んでいく。
そして誰も知らぬまま、レギュラス・ブラックの胸に、初めての暗い誓いが結ばれたのだった。
屋敷の食堂には、すでに食事のざわめきはなかった。
壁に彫り込まれた装飾も、長く連なる椅子も、今はただ静かに余韻を抱えている。重厚な暖炉の火がちらちらと赤い影を投げかけ、そこから流れ出る熱が、冷たい石造りの床をゆっくりと包んでいた。
豪奢な食卓の上には銀器が整えられたまま残され、ただティーカップの縁に漂う香気だけが、つい先ほどまでその場にあった食事の主の存在を物語っていた。
だが、その長いテーブルの端に今、ひとり腰を落ち着けている影があった。
アラン・セシール。
彼女は、家族の食事がすべて終わったのちに姿を現し、その広すぎる卓を静かに占めるのが常だった。煌めく銀器たちは主を失ったように沈黙して並び、その空虚な彼女の「席」をひっそりと見守る。長卓の両端に座れば何十歩もの距離があるはずなのに、この時間に限っては奇妙なほどに意味を失っていた。
アランはナプキンを指先で取り、背筋をすっと伸ばすとスープを口に運ぶ。動作一つひとつが静謐で、灯火と調和するような柔らかさを帯びていた。
外の夜風が窓から淡く流れ込み、薄いカーテンをわずかに揺らす。音といえば暖炉の薪のはぜる音と、ほんの軽やかなスプーンの触れ合いだけ――その静けさの中に、ふと新しい足音が忍び寄った。
「…… アラン」
低く控えめな呼び声。
アランが顔を上げれば、そこにはレギュラスが立っていた。まだ幼さの残る面影に、しかし意志の色を宿した瞳。
呼びかけに応じて、少女は小さな笑みを浮かべる。
「レギュラス。お食事はお済みですか?」
「ええ」
短い返事とともに、彼は彼女の斜め向かいに腰を下ろした。本来なら彼がこの席に着くことなど滅多になかった。家族の食卓の場では常に母の目のそばに控え、厳格な秩序の中にあるはずの彼が――今こうして誰もいない深夜の食堂で、アランのひとりの席に加わるなど。
ふたりを包むのは、穏やかで張り詰めた沈黙。
炎のゆらめきが銀器にかすかな光を宿し、湯気の中に漂う空気は、まるで秘密を閉じ込めて守る幕のようだった。
「アラン……」
沈黙を破った声は、雪の夜に響く足音のように静かで透明だった。けれど、その芯にはかすかな熱が潜んでいる。
「僕たちは、ちゃんとスリザリンに入りましょう」
思いがけぬ発言に、アランは一瞬きょとんと目を瞬かせる。だがすぐ、柔らかで控えめな微笑を浮かべて頷いた。
「ええ。そうしましょう。オリオン様やヴァルブルガ様も喜ばれますもの」
レギュラスは小さく息を吐いた。けれど――言いかけて、そのまま言葉を足した。
「それもそうですけど……」
彼の視線はテーブルクロスへと落ち、控えめに伸ばされた指がその端をなぞる。布に描かれた細工模様を追うような仕草。けれど、それは迷いをごまかすためのわずかな目の逃げ場にも思えた。
「セシール家にとっても、その方がいいんです」
声には穏やかさがあった。だが、その奥には針のように細い意志が潜んでいる。
兄の後を追って、グリフィンドールには行かないでほしい――そう直接は口にしない。だがアランほど聡明な彼女ならば、言外に込められた意図を悟らないはずがなかった。
レギュラスは再び顔をあげ、まっすぐに彼女の瞳を見すえる。
「寮の選択は……自分だけのことじゃありませんから」
その瞳は夜の湖を思わせた。深く澄んだ色をしているのに、のぞき込めばどこまでも底が見えない静けさを蓄えている。
「君の選ぶ道は、この屋敷にも、ご両親にも、そして一族にも……影響します」
わずかに影を落とした言葉。だがそこには切迫した思いと、譲れない熱があった。
アランはふとまばたきをして、それからまた微笑んだ。
湯気の向こうで揺れるその笑みは柔らかで、判別の難しい淡さを帯びていた。
「……わかっています、レギュラス」
それは約束の笑みか、ただの礼儀の答えか。彼には確かめる術がない。
だがその言葉を聞いた瞬間、熱に張り詰めていた彼の胸にはひとすじの安堵が流れ込んだ。
——これで。
——これで、兄の影からは遠ざけられる。
スープの漂わせる香りと暖炉の熱。夜の帳の下で燃え続けるのは、まだ形を定めぬ炎だった。
淡く灯るそれは、不安定ながらも確実にレギュラスの内側を焦がし、静けさによってかえって存在を強く主張していた。
彼だけの影の誓いが、湯気に揺れる夜の食堂で、また深く育ってゆく。
冬の終わりを告げる曇り空の下、屋敷の玄関扉が重たく開かれる音が響いた。
その響きは、閉ざされた屋敷の空気を内からも外からも震わせた。
「おーい、アラン!」
弾けるように飛び込んできた声は、この家には似つかわしくない明るさを帯びていた。灰色の外気を吹き飛ばすほどの音色――シリウス・ブラックの声だった。
磨きあげていた銀燭台をいったん卓に置き、アランはその呼び声に導かれるように廊下を進んだ。冷たい大理石の床に足音が柔らかく響く。その先、玄関の影に現れた人影を見て、彼女の胸の奥がふっと温かくほどけていく。
鮮やかな赤と金が目に飛び込んだ。
シリウスの首に巻かれたマフラー。グリフィンドールの色はまるで雪を割る炎のようだ。頬を寒気で赤く染め、白い吐息を残しながらも、彼は家の暗さをものともせず笑みを見せている。その笑顔は、一緒に外から雪明かりを連れてきていた。
「また背が伸びたな」
ひょいと手を伸ばし、からかうようにアランの肩を叩く。
その手は強引で乱暴でありながら、不思議と温かく、守られるような確かさがあった。
「俺のいない間、ちゃんと元気にしてたか?」
瞳を細めて問う彼に、アランは短く答えた。
「ええ、もちろん」
その瞬間、自然と笑みが生まれていた。
屋敷で過ごすなかで決して見られぬ種類の微笑――心を撫でられるような優しさに、胸が静かに打ち解けていく。
言葉を交わさないひと呼吸。シリウスの視線が真っ直ぐに彼女を捕らえ、唇がまた動いた。
「なあ……スリザリンなんかやめとけよ。グリフィンドールに来い」
冗談めいて聞こえる調子。それなのに、声の奥には彼らしい真剣さがあった。
「俺が守ってやるから。いっしょに過ごした方が、絶対楽しいぞ」
その響きに、アランは小さく息を呑んだ。
ああ、まただ――。
遠くに離れていても、彼はこうして同じ光の温度で手を伸ばしてくる。届かぬと諦めかけても、気づけば真っ直ぐに招き入れてくれる。
閉ざされた胸の奥に、細やかな灯りがふっと灯った。
雪解けのように静かにあたたかさが広がっていく。
けれど、その瞬間を。
別の視線が廊下の奥から見ていた。
レギュラス・ブラック。
薄暗がりに佇むその姿から、兄の鮮やかなマフラーの赤が目に飛び込み、その色が視界に焼き付く。あれは光そのものだ。赤と金の炎が屋敷の冷たさを押しのけ、アランを照らしている。
レギュラスの胸の奥で、氷のような感情がきしむ。
あの日、自分が震える想いを込めて告げた「スリザリンに入りましょう」という言葉――それが彼女のなかでどれほど重みを持っているのか、今まさに試されている気がした。
静かに足を踏み出す。影から姿を見せて、声を発した。
「…… アラン」
低い、澄んだ声。その呼びかけに、アランがゆっくりと振り返る。
レギュラスは一歩近づいた。唇に微笑の形をつくり、けれどその奥に確かに熱をひそめながら。
「母が呼んでいます」
それだけを告げ、二人の間を切り裂くように歩み過ぎた。
細い糸を引いていた温かな空気を、冷たい刃で断ち切るかのように。
アランがわずかに瞬きをし、シリウスが軽く眉をひそめる。その隙間をすり抜けて、レギュラスは静かに廊下を進む。
胸の内で、血が熱に変わる。
――兄は光そのものだ。
――だが、この屋敷の中で輝けるのは、自分だけでいい。
その暗い願いが、夜の底で確実に燃え上がっていた。
冬の終わり、空はまだ薄曇りだ。
けれどレギュラスの胸には陽よりも灼ける火が芽吹いていた。
シリウスが屋敷へ帰ってきてから、空気がいくらか変わった。
あれほど重く、張り詰めた声を響かせていたヴァルブルガでさえ、彼の前では妙に勢いを削がれた。彼女の怒声は刃のように鋭く伸びず、代わりに鈍く吸い込まれるように働きを弱める。――それを、シリウスはよくわかっていた。自らの自由を貫くための小さな余白だと。
彼はそれを利用するように、騒がしく廊下を歩き回った。庭にも屋根裏部屋にも顔を出し、アランを見つけては大げさな声で呼ぶ。
「おい、アラン!見ろよ、俺が帰ってきてやったぞ!」
からかいと冗談が、彼の口から淀みなくこぼれる。針のような緊張が常に漂う屋敷の中で、その軽やかな響きは金の鈴の音のように弾み、アランの心をほぐした。
つい、笑ってしまう。
それは押し殺そうとしても零れてしまう微笑――かつて幼い日の彼が「連れ出してやる」と言って見せた、あの強引で眩しい笑顔と何ひとつ変わっていない。
シリウスという人は、いつまでも光を抱えて帰ってくる人だ。外から運んで来た光をそのまま胸に宿して、暗い屋敷に投げ入れる。彼に触れると、この場所の冷たささえ一時的に和らいでしまう。
けれど、その光が輝くたびに、アランはふいに別のものを感じ取っていた。
横目に捉えるレギュラスの視線。
冷たくはない。むしろ優しさを帯び、穏やかですらある。だが奥底には、名をつけることのできない色が沈んでいた。氷のようでもなく、炎のようでもない。ただ深く揺れず、そこに息を潜めている。アランには、それをどう呼んでよいかわからなかった。
一度、その視線が背に落ちたまま振り返ったことがあった。言葉にされないながらも、自分を掴もうとするような静かな熱を、確かに感じた。
そんなある夕暮れ、シリウスがふいに彼女を誘い出した。
屋敷の裏手、石垣の上を冬の余韻を纏った風が撫で抜けていく。夕陽は厚い雲に沈もうとしながら、それでも最後の紅を庭と屋根に映していた。
シリウスはそこで、息もつかずにホグワーツでの出来事を語った。動く階段の悪戯、友人との夜更けの笑い、授業での窮地から逃れた面白い運の話――何もかもが躍動感に溢れ、自由そのものだった。
「お前が来たら、きっともっと面白くなる」
何気なく投げかけられたその一言に、アランの胸は跳ね上がる。心臓が勝手に明るい音を鳴らし、頬の奥に熱が宿る。
けれど、その瞬間、ふと違う感覚に引き戻された。
視線を感じたのだ。
振り向けば、窓辺に影がひとつ立っている。
逆光に沈んで表情は読めない。けれど、それがレギュラスであることは、見間違えようもなかった。
黙って見ている。ただ、そこにいる存在感が背中に伝わってくる。声も音もないのに、確かに「見ている」と告げてくる強い静けさ。
胸の奥に疑問が生まれる。
――二人の間に、何があるのだろう。
けれどその問いを確かめるよりも早く、耳には再びシリウスの声が溶け込んでくる。
伸びやかで強く、風を切るような響き。遠くの外の世界とこの屋敷を、一直線に結びつける音色。
アランは思わずその声に身を傾けた。
レギュラスの視線の重みよりも、シリウスの声の温かさの方が胸の奥深くにまで染みこんできた。
その傾きは、まだ彼女にとって無意識のものだった。
けれど確かに、心の天秤はひっそりと揺れ動いていた。
光をまとう声と、影を宿す瞳。
そのはざまで、少女の心は知らぬ間に引かれてゆく。
夜の屋敷は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
陽光に照らされる時間は荘厳な装飾や重厚な家具を誇る空間なのに、夜になるとそのすべてが影を纏い、見慣れた場所ですらよそよそしい。どこかひそやかな気配に包まれて、歩む足取りを慎重にさせた。
広い廊下には足音ひとつなく、遠くから伝わるのは暖炉の火がときおり立てる、ぱちり、という小さな音だけ。その律動が、まるで屋敷全体の眠りをなぞっているようだった。
アランは片手に燭台を持ち、もう片方の腕には絨毯の埃を払う道具を抱えて歩いていた。炎の小さな揺らめきは、彼女の影を長い石壁に映し、ひとりきりの気配を強める。大きなバケツには掃除用の水と布、ひとつ前の騒ぎで割れたカップの欠片が一緒に沈んでいた。
ほんの少し肩が疲れてきたとき、不意に背後から声がした。
「……手伝いましょうか」
静かで澄んだ声。その響きは夜の中でよく通り、アランの指先をわずかに震わせた。振り返ると、そこにはレギュラスが立っていた。
整えられた黒髪に、まだ年若い少年の面影を残した顔立ち。けれど、その立ち姿には彼だけの凛とした空気があり、狭く冷たい廊下を広げてしまうようだった。
アランは首を小さく横に振り、微笑を添えようとした。
「いいえ、大丈夫です」
それで終わるはずだった。
だが、レギュラスは言い返さなかった。頑なさも、余計な問いもなく、自然な動作でアランの抱えていた荷物をひとつ取る。軽々と水の入ったバケツを持ち上げる少年の手に、瞬時に「頼もしさ」が宿るのを見て、アランは言葉を失った。
自分と大きな背丈の差があるわけではない。まだほとんど変わらないはずなのに、腕の力と所作の確かさに、不意に「男女の差」というものが意識に触れてくる。さりげなく差し出された居場所のようなものに、胸の奥が小さく揺れた。
並んで歩く廊下は長い。二人の足音が寄り添い、影が炎に揺れながら床を並んで進んだ。
やがて、レギュラスがふっと声を落とした。
「…… アラン 、兄のことですが」
アランは小さく息を止めた。
「はい?」
彼の瞳は焔のように燃え立つことはなかった。暗い月影のように、静かで深く、夜に馴染む透明さを湛えていた。
「……あまり近づかない方が、身のためです」
わずかな間が生まれた。アランは瞬きをひとつして、唇を結ぶ。その囁きは思いがけず心へ鈍くぶつかり、胸を切り裂くように沁みていく。
「……ええ……心しておきます」
絞り出すように応える声は、彼女自身も気づかぬほどかすかだった。
それでもレギュラスは頷きもせず、ただ視線を前に向けたまま、淡々と続ける。
「母があんな感じですから。……あなたまで何を言われるか、わかりません。用心しておいた方がいい」
声は確かに優しく、心配する調子を帯びていた。
けれどその忠告は、やはり薄い刃のように胸を裂いていく。
――近づかない方がいい人。
それはつまり、自分にとって最も温かく、最も光の側に立っている存在から、遠ざかれということ。
アランは言葉を重ねられなかった。
ただ、小さく「ありがとう、レギュラス」と返した声だけがこだました。
そのとき燭台の炎がふいに揺れた。わずかな風が廊下を抜け、二人の影を揺らす。
影は並んで伸び、ひとつの方向へと淡く延びていく。
その道の先に待つのが、光なのか闇なのか、アランにはまだわからなかった。
自室の扉を後ろ手にそっと閉じると、屋敷のざわめきが急に薄れた。
遠くで誰かが足音を立てていた気配も消え、残されたのは耳に刺さるほどの静寂だった。
手にした燭台の小さな炎が、闇の中で牽引するように揺れている。炎の息遣いが壁に歪んだ影を描き、それが一人きりの部屋を大きく見せ、同時にやけに心細くさせる。
アランは作業着のまま、椅子に腰を落とした。背もたれに寄りかかった途端、全身がすっと重みを訴えかけてきた。
耳の奥ではまだ、あの声がくりかえし響いていた。
——兄のことですが、あまり近づかない方が、身のためです。
——……用心しておいた方がいい。
レギュラスの声音は穏やかで、旋律のように優しかった。
心配してくれているのもわかる。彼の心に嘘がないことも。
けれど、それがなぜか胸の奥で硬く冷たいものを残し、沈殿するのを感じていた。
ふと、陽だまりの中の記憶が甦る。
――「俺がお前を連れ出してやる」
あの屈託のない声。太陽のように明るく、真っ直ぐで、何も恐れず、何も損なわぬ眼差し。
シリウスがそう告げたとき、心が鎖から外されるような気がしたのだ。暗い屋敷に流れ込む純粋な光のように。
レギュラスの月のような静かな声と、シリウスの太陽のような言葉。
二つの温度が胸の内で向かい合ったまま、決して交わらずに並んでいる。
どちらも優しい。けれど、そのやさしさはまったく違う色をしていて、どちらが自分を導くのか、アランにはまだわからなかった。
膝の上に置いた両手を、アランはぎゅっと握りしめる。
窓辺では夜風が隙間から忍び込み、燭台の炎がさわ、と音を立てるように揺らいだ。
炎の影は呼吸のように伸び縮みし、それがまるで自分自身の迷いを映しているかのように見えた。
——近づかない方がいい人に、どうしても心が近づいてしまう。
それが許されない想いなのかもしれない、とも思う。
けれど一度感じてしまった光の温もりは、胸のなかで消えてはくれなかった。
遠くで、長い静寂を破るように時計の針がひとつ進む音がした。
アランはそっと瞼を閉じ、胸の奥にしまい込んだ光の記憶を、まるで宝物を抱くように強く抱きしめる。
迷いの影の中で眠りを待ちながら、その小さな光だけは確かに自分を支えているのだと感じていた。
まだ霜の気配が残る早朝だった。
灰色の窓の外には薄い光が降り、吐息は白く漂い、石造りの屋敷の中には冷え切った空気が澱んでいる。
その静けさを裂くように、シリウス・ブラックは足音を忍ばせ、廊下の影を縫うように進んでいた。
目には、少年に似合わぬほどの生き生きとした光が宿っている。生まれ育った屋敷の息苦しい壁を破るための決意は、彼の全身から弾け飛びそうに滲んでいた。
やがて、行き交う影のない廊下の一角で、彼はアランを見つけた。
「行くぞ」
それだけを短く告げ、迷いなく彼女の手を取る。
「……え? どこへ……」
驚きに揺れる声を遮り、彼は口角をつり上げた。
「マグルの世界だ」
その言葉とともに浮かべられた笑顔には、悪戯のような輝きが溢れている。瞳が星のようにきらめき、見ている方までもを巻き込む無鉄砲な熱を放っていた。
「アルファード叔父さんに教えてもらったんだ。面白ぇ場所がたくさんある」
アランは、一瞬で息を吸い込む。
胸に広がるのは憧れと恐れの境目。屋敷の外にほとんど出たことのない自分が、禁じられた世界に誘われている実感。
「……でも……そんなこと……いいのかしら……」
震える声が廊下に落ちる。それは自分自身への問いかけにも近かった。
ブラック家に背を向ける。仕える者として決して許されぬ行為。
見つかれば罰は免れず、今の自分の立場を根こそぎ奪われるかもしれない。
けれど、シリウスは眉一つ動かさず、彼女を不安から遠ざけるように笑った。
「気にすんな、。暇だっつっといたから。あのババアもそこまで疑いやしねぇよ」
吐き捨てるような言葉とともに、彼はぐっとその手を握り込み、彼女を廊下へと引き出す。
その瞬間、世界が一気に走り出した。
冷たい朝の空気が頬を鋭く撫でていく。屋敷の影が背後へ遠ざかり、霜を踏む足音が二人分重なって響いた。吐き出される二人の息は蒸気となり、朝の光のなかでほぐれていった。
シリウスの胸には、別の記憶が鮮烈に蘇っていた。
——初めて、彼女を見た日のことだ。
セシール家からこの屋敷に連れてこられた、まだ幼い少女。
翡翠のように澄んだ瞳が、自分をまっすぐ映したあの時。
胸の奥で、電流のように何かが跳ね上がった。
言葉にすれば「一目惚れ」なのかもしれない。だが、それでは到底足りない。
あれは魂ごと引き寄せられるような衝撃で、それ以来、彼は何度も心の中で未来を描いていた。
あの重苦しい屋敷から彼女を救い出すこと。
広い世界を見せ、窮屈な闇の外で自由に笑わせること。
ホグワーツで学び、力を得て、いつかその隣で胸を張って立つこと。
そして必ず、自分の手で彼女を解き放つのだと。
握ったアランの手は小さい。けれど思ったより強く、確かな力が返ってきた。
その温もりが真っ直ぐに胸の奥へ届き、彼の笑みをさらに鮮烈なものに変える。
「ほら、見てろよ、アラン。マグルの世界ってやつを」
振り向いた横顔に、光が差し込む。
アランはまだ半信半疑のまま、それでも吸い寄せられるようにその笑みに目を奪われた。
駆け出す二人の姿は、朝の光に抱かれて檻の外へと伸びていく。
重苦しい屋敷を背に、世界は初めて、静かに彼女の目の前で扉を開いた。
屋敷を抜け出してから、どれほどの時間が経っただろう。
冷たく硬い石畳は、歩みを進めるごとに変わり、次第に小ぎれいに舗装された道へと姿を変えていった。
重苦しい屋敷の壁を背にしてなお、振り返らずに歩くシリウスの背中は、朝の光を浴びながら揺るがない。
アランはその隣で、馴染みのない街並みに目を見開き、熱を帯びた息を白く吐いた。
聞き慣れない雑踏が流れている。
道には行き交う人々の声、荷物を抱えた男の軽やかな笑い声、通りを駆ける車の低い唸り。
頭上では店先から吊るされた看板が風に揺れ、色とりどりの絵柄や文字が視界にあふれていた。
ショーウィンドウに並ぶのは、見たこともない服や装飾品、小物たち。磨き込まれたガラス越しに光を反射し、まるで指先で掴めと誘ってくるようにきらめいている。
風に乗って香ばしい匂いが漂った。焼き菓子が焼き上がる甘い香り。初めて嗅ぐその匂いは、心を揺らすあたたかさを持っていた。
「ここが……マグルの世界……」
思わず洩れたアランの声は、期待と緊張のどちらへも倒れきらず、宙に彷徨う響きを持っていた。
隣のシリウスはにやりと笑い、懐から折りたたまれた紙幣をひらひらと掲げる。
「アルファード叔父さんがくれたんだ。これがマグルの通貨だってさ」
得意げな説明とともに、彼は迷うことなく小さな菓子屋へと足を踏み入れた。
アランもすこし遅れて戸口を跨ぐ。
店の中は温かく、甘い香りでみちていた。
棚にはガラス瓶に詰められた色鮮やかな飴や、銀紙に包まれたチョコレートがぎっしりと並び、それぞれが子供たちの夢のように輝いている。
見渡すだけで胸がくすぐられ、足を止めてしまいそうになる。
シリウスはそんな彼女の様子を気に留めることもなく、あっという間に大きな紙袋いっぱいに菓子を詰め込んでしまった。
迷いのない仕草でマグル紙幣を店員に差し出し、袋をアランの腕に押し付ける。
「はい、これ」
唐突に抱えた紙袋の中から、甘い香りが立ち上り、アランは思わず小さく笑ってしまった。
「……こんなふうに、買い物をするんですね」
「そうだ。屋敷じゃ欲しいものは全部、命令ひとつで出てくる。でも、お前は思わねぇか? そんなの、つまんねぇって」
言われて、彼女ははっと息を呑んだ。
いまこの瞬間、飴玉や焼き菓子を手に入れるために差し出した時間や笑み、やり取りの手触りこそが「喜び」だと気づく。
屋敷で与えられる無機質な食卓には決して存在しないことだった。
ふたりは菓子屋を出て、賑やかな通りを肩を並べ歩いた。
人びとは見慣れぬ服に身を包み、手紙や本を抱え、誰も他人の血筋など気にしない様子で行き交う。
子供たちが白い息を弾ませてボールを追いかけ、犬が勢いよく駆けては尻尾を振る。
それらの光景はすべて新鮮で、生きた熱を持って彼女の胸に押し寄せた。
「アラン、覚えとけよ」
シリウスの声が、寒空を切り裂くように熱く響いた。
「外の世界は広い。ここには純血だとか家柄だとか、そんなくだらねぇもんを気にする奴なんかひとりもいない」
吐く息の白さに混じって光るその言葉は、遠くまで飛んでいくような強さを持っていた。
「お前が望むなら、いつでも——」
その続きを彼は言わなかった。
けれど、言葉の途切れに宿った意味をアランの瞳は確かに拾った。
——いつでも、連れ出す。
心臓が小さく跳ね、胸の奥に熱が広がる。
彼女はただ頷くことで、その熱に応えた。
短い時間だった。
けれど、胸の底に確かに刻まれるには充分すぎる記憶になった。
あの屋敷の外には、自由と色彩が溢れている。
その事実を知ってしまった以上、もう完全に闇だけの場所に戻ることはできない。
アランの内側に落ちた白い霜は、その朝の光のなかで静かに解け始めていた。
夕陽はすでに西の端へと傾き、通りの石畳に赤い残照と長い影を落としていた。
少し歩くごとに影はかすかに揺れ、その度に日の光が名残惜しげに背を撫でていく。
アランの腕に抱えた紙袋は、半分ほど軽くなっていた。
色とりどりの菓子を詰め込んだ袋からは、まだ甘い香りが漏れ、通りの冷えた風に溶けて漂う。その香りが記憶を呼び起こすたび、彼女の胸には幸福の余韻が柔らかに広がった。
「楽しかったな」
シリウスが弾む声で言った。
目尻に笑い皺を寄せ、満足げな笑みを浮かべながらも、その足は緩むことなく屋敷の方へと進む。
夕暮れの光を背に受ける彼の姿は、まだ街の熱をまとったまま、揺るぎのない輝きを放っていた。
「また連れ出すよ。次はもっと遠くへ行こうぜ」
未来を約束するような響きに、アランは自然に笑みを返そうとした。
けれど、その視界にはすでに屋敷の影が映り始めていた。
玄関扉の黒々とした輪郭。石造りの階段の重厚な構え。そこから先にある冷たい空気と重苦しい規律。
――あの街の色彩も、人々の賑やかな声も、この扉をくぐれば一瞬で消えてしまう。
胸に鈍い痛みが走る。
微笑もうとした唇は、小さく曇りを帯びていた。
そしてゆっくりと、門をくぐったその時―― アランの足は自然と止まった。
石段の上、屋敷の入口の影に、ひとりの少年が立っていた。
レギュラス・ブラック。
冬空のように静まり返った顔。両手を後ろで組み、ただじっとこちらを見下ろしている。
表情には怒気も失望も浮かばず、何も読み取れない。
ただ、その瞳だけが切り裂くように鋭く、二人を丸ごと切り取るかのようにまっすぐ射抜いていた。
「……レギュラス」
シリウスが軽い調子で問いかける。その声に、返事はなかった。
代わりに視線だけが動く。
アランの姿にゆっくりと留まり、細くすくい上げるように、けれど容赦なく。その眼差しには言葉以上の圧が宿っており、否応なく胸の鼓動を速めさせた。
アランは一歩遅れて石段を上る。
その足取りに合わせて、腕に抱えた紙袋の中の菓子がかさりと音を立てた。
ほんの小さな音なのに、夜の入り口にいるような空気の中ではやけに大きく響き、さっきまでの喜びの残り香に冷たい指先が触れる感覚を齎した。
「おかえりなさいませ、二人とも」
ようやく放たれた声は短く、淡々としていた。
礼儀と穏やかさをまといながら、それでいて固い鎖のように二人を縛る響きを持っていた。
その言葉を終えるや否や、レギュラスは踵を返し、重い屋敷の内へと歩み去っていった。
アランは階段を昇りながら、心に残る感覚の正体を探した。
言葉は穏やかだったはずなのに、胸には妙な重さだけが残る。
屋敷の空気につかまれ、背に柔らかな光が引き剝がされるように消えていく。
さっきまで街で見た自由のきらめきは、少しずつ夜に呑まれるように溶けていった。
廊下の暗がりへと足を踏み入れた瞬間、アランの胸にひとつの確信がよぎった。
――この世界は、二人の影が交わる場所だ。
そして、その影に、自分も確かに繋ぎ止められている。
それが安らぎなのか、緊縛なのか。答えのないまま、闇の奥へゆるやかに引き込まれていった。
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