5章
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レギュラスはいつもより家にいる時間が増えていた。
「任務がないからだ」と涼やかに言いながらも、その頻度は明らかに尋常ではなかった。
アランは笑いを堪えながらも、心のどこかが暖かくほぐれるのを感じていた。
きっと、できる限り最期の時まで一緒に過ごそうとしてくれているのだろう。
詳しい病状までは知らされていないものの、彼の態度から先がそう長くないことを察していた。
恐れよりも先に、申し訳なさが胸を占める。
こんなにも自分を愛し、愛し抜いて生きてくれた人を、置いていかなければならない。
その後、この人がどうやってこの世界を生き抜いていくのかが、不安でならなかった。
「レギュラス、私みたいに寝てばかりいると、腕が鈍りますよ」
アランが微笑みながら呟くと、
「多少鈍ったところで、そう簡単にやられはしませんから」
レギュラスはいつもの自信を含んだ声で応えた。
アランはくすりと笑った。丁寧な所作の中に拭いきれない勝ち気な意志を滲ませ、静かに格の違いを示す。
それがレギュラスらしかった。
横になると、眠たげに目を細めてこちらを見つめる彼に、アランも同じように視線を返す。
かつて愛したシリウスの瞳にも似た、柔らかく棘のない静かな光をたたえた灰色の瞳だった。
言葉にしなくても、二人が兄弟であることを、強く思い知らされた。
アランがふふっと微笑むと、レギュラスは少し目を丸くする。
「なんです?」
アランは首を軽く振り、「なんでもない」とだけ囁いた。
その瞬間、レギュラスはそっと唇を重ね、可愛らしいリップ音を落とした。
「なんです?」
今度はアランが瞳を輝かせて尋ねる。
「ふふ」
レギュラスも同じように笑いながら、優しい余韻を二人の間に残した。
寝室には、ただ静かな幸福の温度だけが静かに灯っていた。
寝室の片隅で、レギュラスは一瓶のワインをゆっくりと空けていた。
酔いたいわけではない。
ただ、喉を潤すアルコールが、押しつぶされそうなほど追い詰められた胸を幾分か和らげてくれるような気がして、飲み続けているのだ。
むしろ飲まなければまともに眠れないほどに、心は乱れていた。
「よく飲むのね、最近。」
アランがふと呟いた。目は彼の手元のグラスを見つめている。
「ええ、ボジョレーが出ましたからね。」
レギュラスは少し微笑みを浮かべてそう答えた。
酸味の強いワインの一口を口に含むと、すっとアランに近づいてそっと口付けた。
ほんの少しだけ、ワインの味を彼女と分かち合うように、ゆっくり流し込んだ。
「酸っぱいわ。」
アランは笑顔を見せた。
「あたりまえですよ。採れたてですから。」
レギュラスは微かに笑いながら、彼女の指をそっと握った。
同じワインを分け合うこの静かな時間に、昔、二人で夜通し飲み明かした記憶がふと蘇る。
酔いに任せて燃え上がる情熱に身を委ね、
しかし翌朝には急にシラフに戻らざるを得なかった現実に戸惑いを感じたあの時のことも。
若かった、あの頃の二人は。
とてつもなく幸福だった。
そう思うと、急に涙がこみ上げてきた。
歳を重ねるにつれて、酒に酔うことで涙が溢れることが増えたことを、今はじめて心から実感した。
涙を誤魔化すようにして、もう一度彼女にそっと口付けをする。
その唇の温もりと静かな響きが、二人の間にだけ流れる時間を優しく包んでいた。
夜の闇が深まる中、レギュラスは任務の現場に佇んでいた。
狼人間が魔法使いを襲うという異常事態。
制御が効かなくなった薬の呪縛に縛られ、いったん人の肉を味わった彼らは、その味を忘れられず、狼へ変身するたびに人を襲う癖がついてしまったのだ。
現状、その領域に赴いた狼人間を制御する薬など存在せず、残された方法は彼らを葬るしかなかった。
レギュラスは一刻も早く屋敷に戻って、体調のすぐれぬアランのそばにいたかった。
「さっさと片をつけてしまいたい」その思いで胸が押し潰されそうだった。
だが、事態は厄介な方向へと傾く。
共に派遣された魔法使いは、まさかのアリス・ブラックだった。
レギュラスはため息をひとつ抑えることもせず、その場に吐き出した。
殺さずに解決しようと拘るアリスと、殺すことで片付けようとする自身の姿勢とは相反し、任務は長引きがちだ。
「余計な情けはかけずに終わらせてくださいね。」
レギュラスは冷たく告げる。
アリスの胸元には、アランに差し出した赤いネックレスが光っている。
それを受け取ったのだと静かに理解しながら、彼はその意味の重さを噛みしめた。
現場では、アリスが先陣を切って狼人間に立ち向かっていた。
理性を失った獣相手に、魔法での制御は想像以上に困難を極める。
野生的な動きは予測できず、呪文は幾度も外れ、ただ杖を振るう動作だけが空しく繰り返される。
アリスが繰り出す足止めの魔法も、狼人間の足を掠りもせずに交わされていた。
「アリス、そんな魔法では効きません!」
レギュラスが叫ぶ。
「死の呪文を簡単に使わないでください!」
アリスも負けじと言い返す。
またしてもため息がこぼれそうになる。
この任務を迅速に終わらせる他の方法があるなら、ぜひ教えてほしいと心の中で逆に問いかけた。
こちらは残された時間が限られているというのに。
荒れ狂う嵐のような戦いの中、二人の思惑と心情は静かに、しかし深く交錯し合っていた。
暴れ狂う狼人間を森から外に出さないよう、レギュラスは次々と呪文を繰り出した。
「インペディメンタ!」動きを鈍らせる呪文が宙を切る。
「コンフリンゴ!」爆発呪文で狼人間の進路を阻み、森の奥へと追い詰めようとした。
「ペトリフィカス・トタルス!」全身金縛りの術も試みたが、野生の本能で身をひらりと翻し、ことごとく回避される。
死の呪文を何度か放つものの、狼人間のすばしこい動きに阻まれ、緑の光は虚しく木々に吸い込まれていく。
「レギュラス・ブラック!中身は人間です。魔法使いです。それもあなたの守ろうとする純血の!」
アリスが必死に叫んだ。
死の呪文をこれ以上放つなという意味なのだろう。
だが、純血の魔法使いだろうがなんだろうが、ここまで来れば話は別だった。
自分の意思で力を制御できず、人を食らう喜びを覚えた獣など、もはや守るべき価値はない。それがレギュラスの揺るぎない考えだった。
そろそろ体力の限界が近づいているのであろう、アリスの動きが徐々に鈍ってきていた。
レギュラスはその変化を見逃さなかった。
「アリス、いい加減に下がってはどうです。足がもつれかけていますよ。」
冷静に、しかしどこか皮肉めいた口調で告げる。
「構いません。あなたのやり方ではなく、私のやり方で救える道があることを証明してみせます。」
アリスは息を切らしながらも、意志を曲げなかった。
どこまで強情なのか。レギュラスはほとほと嫌気がさしていた。
アランが彼女を守ってくれなどと言わなければ、このまま狼人間と共に葬ってやりたいくらいだった。
その時、ついにアリスがよろけて地面に倒れ込んだ。
その隙を見逃さない狼人間は、アリス目がけて食らいつこうと勢いよく駆け寄る。
舌打ちをしながら、レギュラスは急いでアリスを抱え上げた。
浮遊呪文で二人の身体を宙に浮かせ、狼人間の手の届かない太い枝の茂みの中へと身を隠した。
「本当に……手のかかる。」
レギュラスは小さくため息をつきながら、アリスの安全を確保していた。
急に獲物として捉えていたアリスの姿を見失った狼人間は、その場で立ち止まり、低いうなり声を漏らしながら辺りを見回した。
その瞬間、レギュラスは踏み込むように前へ出て、呪文を静かに、しかし確かな力で唱えた。
「インカンテーション・コンカス!」
強力な失神呪文が闇に走り、狼人間の額に深い緑の閃光が走る。
呻き声も上げぬまま、獣はその場に崩れ落ちた。
手早く、しかし乱れのない動きで、レギュラスは拘束呪文を重ねかけた。
「インペディメンタ・リーガム!」
手足と口がじわりと魔法の紐に縛り上げられていく。
アリスは目を見開き、息を呑んでその呪文さばきを見つめていた。
無駄も隙もない洗練された技──死の呪文を簡単に放って終わらせる方法ではなく、あえて失神と拘束に留めたその選択は、これまで知っていたレギュラス・ブラックの姿とはあまりにもかけ離れていた。
「後は任せられますか、あなたに?」
レギュラスの声は静かだが、確かな優しさと信頼を含んでいた。
アリスはしばらく狼狽えたのち、静かに頷く。
「拘束呪文は時間が経てば緩みますから、用心することです。」
そう告げて、レギュラスはひと息つくと地上に降り立った。
アリスも息を整えるように続いて地面に足を下ろす。
――なぜ、狼の獣から自分を助けたのか。
その謎が胸にずしりと残る。
自分の存在が鬱陶しいだけだろうに、憎んでさえいるだろうに。
それでも命を救われた不思議さに、アリスは腕に下げた赤いネックレスをそっと撫でた。
「アリス、そのネックレスですが……アランがあなたに、と贈ったものです。」
レギュラスは柔らかな声で説明を続けた。
「誰かの命を、命懸けで守りたいと思う気持ちが込められた、強力な保護呪文がかかっています。」
アリスは、つい最近アルタイルから預かったばかりの赤いネックレスに触れ、指先でその冷たい輝きを確かめる。
意味はわからなくとも、アランからの贈り物だから、大切にしたいと思った。
「本当は、誰が誰に贈ったものなの?」
アリスが問いかける。
しかしレギュラスは、その問いには答えず、静かに歩を進める。
長い黒いローブの裾が地面をかすめ、彼は闇の奥へと姿を消していった。
残されたアリスは、その背中を見送るしかなかった。
森の静寂の中、赤いネックレスだけが、月明かりにそっと輝いていた。
レギュラスは任務を終え、重い足取りで屋敷へと戻った。
寝室の扉を静かに開けると、薄暗い部屋の中でアランが微笑みを浮かべて迎えてくれた。
「寝ていてよかったんですよ。」
レギュラスはやわらかな声で告げる。
「昼間にたくさん寝ましたから、目が冴えています。」
アランは穏やかに答え、深く息をついた。
医務魔女から聞かされていたことを思い出す。
痛み止めの効き目が薄くなり、さらに強い薬に切り替えたと聞いた。
その薬のせいで、昼も夜も関係なく眠気が襲うため、アランは日々多くの時間を眠って過ごしているのだった。
「痛みはありませんか?」
レギュラスは優しく尋ねる。
「ええ、今は平気です。」
アランも微笑みながら答えた。
レギュラスはそっとアランを抱き寄せ、そのまま丁寧にベッドに降ろしてやる。
以前よりも身体が軽くなっているように感じられ、胸が締め付けられる。
「今日はどこも怪我なく帰って来れてよかったです。」
アランは優しい言葉をかける。
「アリスと一緒に人狼を捉えました。」
レギュラスは淡々と話す。
「殺したのですか?」
アランは少し怯えたように訊ねた。
「その方が早かったですが、アリスがうるさいので強力な失神呪文を何とか命中させましたよ。疲れました。」
レギュラスは苦笑いを浮かべる。
アランは柔らかな笑みを浮かべていた。
「随分と丸くなったものね。」
心の中でそう思っているのだろう。
自分でもそう思う。
たかが小娘の戯言のために、面倒な方法を選び、そのせいで自らの思想ややり方が変わるなんて、自分でも信じられなかった。
「変わりましたね、あなただけじゃなくて。」
アランは優しく微笑みながら言う。
「ええ、本当に。あの小娘を守るために動く日が来るとは思いませんでした。」
レギュラスも負けじと答える。
「その調子ですよ。」
アランの笑い声が穏やかに部屋に響く。
レギュラスも最後は微笑み返し、ただ笑うしかなかった。
部屋は静かに包まれ、二人の時間はゆっくりと流れていった。
アリス・ブラックは静かな部屋で報告書を仕上げていた。
力の制御が効かなくなった人狼を、生きたまま捕らえることに成功したこと。
その後、魔法省の危険魔法生物課に引き渡され、厳重な管理下に置かれていること。
しかし、その人狼はいまだに正気を取り戻すことなく、様々な鎮静薬を実験的に投与され続けている。
それが本当にその人狼のためになったのかどうか――鎮静薬の効果が表れず、元通りに戻れていない現状では、まだ断言できずにいた。
もしかしたら、レギュラス・ブラックの言う通り、死をもってこそ真の救済だったのかもしれない。
アリスは、もう何が正しいのかわからなくなっていた。
あの日、なぜレギュラス・ブラックが自分を救ったのか。
そして、アランが託してくれた赤いネックレス。
それが誰かを守るための強力な保護呪文がかけられていると彼は言ったが、どんな呪文なのか、誰を守るためのものだったのか――そこまでは教えてくれなかった。
部屋に戻ると、ベッドの横に置かれたシリウスの写真が目に入った。
その瞳の輝きを見つめていると、不意に涙がこみ上げてくる。
アランに会いたい。
今、無性に、どうしようもなく会いたかった。
守られたいわけではない。こんなネックレスなんかより、ただ彼女に会いたかった。
本当は一緒に暮らしたかった。
シリウスとアランと自分で、家族のように暮らしていける日々を――そんな叶わない夢をずっと見続けていた。
もう二度と見ることも許されない夢が、涙となって溢れ出てくる。
シリウスを失って、そしてアランも失わなければならない。
彼女の息子アルタイルから聞かされた「もう長くはなさそう」という言葉が、胸の奥で重く響く。
なぜ、この世界はこんなにも残酷なのだろうか。
父も母もいない子供だった自分。
自分を救ってくれたアランも、自分を育ててくれたシリウスも、失わなければならないなんて。
アルタイルやセレナが、あのブラック家に生まれたというだけで、無条件にアランの側で生きることを許され、可愛がられ、慈しまれて暮らしてきたことを思うと――大人気ないと分かっていても、悔しくて、虚しくて、悲しくてたまらなかった。
シリウスの写真を胸に抱きしめながら、涙が溢れて、溢れて、もう止まらなかった。
静かな夜の中で、一人の少女の深い孤独が、静かに部屋を満たしていた。
レギュラスはセブルス・スネイプと向かい合って話していた。
先日捕らえられた人狼を鎮静させる薬について、セブルスも研究に携わっているらしい。
「人狼を生かしたとは、お前らしくないな。」
セブルスの鋭い視線がレギュラスを見据えた。
「アリス・ブラックが独断でしたことです。」
レギュラスは淡々と答える。
「お前ほどの実力があれば、あのマグルの女を差し置いて殺せただろうに。」
セブルスは探るような口調で続けた。
「アメリカのマグル死傷事件で聴取を受けたばかりですから。目立つ動きは避けたいだけですよ。」
レギュラスは最もらしい理由を並べて、セブルスの問いかけを巧妙にかわした。
その夜、デスイーターの集会が開かれていた。
レギュラスは出席し、この日はアランも共に参加していた。
本来ならば体調を考慮して休ませておきたかったが、ほとんどのデスイーターが顔を揃えるこの場で、レギュラスの隣にその妻であるアランの姿がないのは不自然すぎた。
アランは眠気を抑えるため、あえて痛み止めを服用せずにこの集会に臨んでいた。
痛みが身体を蝕んでいるのがわかる。それでも彼女は静かに耐えていた。
ヴォルデモートが語る計画は恐ろしいものだった。
魔法省に闇の勢力を全面的に配置し、魔法界全体を束ねていくための体制を築こうとしている――その野望を、アランはレギュラスの隣で冷ややかに聞いていた。
痛みを我慢しているせいなのか、それともヴォルデモートの恐ろしい計画への怒りなのか、彼女の唇を噛む力が徐々に強くなっていく。
その小さな変化を、レギュラスは見逃さなかった。
暗い集会場の中で、二人は静かに寄り添いながら、闇の計画が語られる時間を耐え続けていた。
「アラン、平気ですか?」
レギュラスは心配そうに声をかけた。
「ええ。」
アランは短く答えたが、その声には疲労が滲んでいた。
レギュラスはそっと腕をアランの腰に回し、支えるようにして歩いた。
彼女の身体の軽さと震えを感じながら、できる限り負担をかけないよう気を配る。
その時、前方にベラトリックス・レストレンジが立ち塞がるように現れた。
狂気を湛えた瞳が、二人を見据えている。
「あのマグル女、随分と目障りに動いてくれるじゃないか。」
ベラトリックスの声には嘲笑と憎悪が混じっていた。
アリスのことを言っているのだろう。
確かに、魔法省に闇の勢力が侵入しないよう、アリスは精力的に動いているようだった。
騎士団の人員が多数配置されている魔法省では、役職に就く前に幾重もの審議が重ねられ、疑わしい点があればその役職を与えることはない。要職に就くとなれば、複数の厳格な審議を突破する必要がある。
その堅固な体制を整えたのが、アリスとその騎士団のメンバーたちだった。
「面倒ですが、こればかりは仕方がありません——」
レギュラスが冷静に答えようとした時、
「あの女を殺しな!」
ベラトリックスが彼の言葉を半ば遮るように叫んだ。
その声には圧倒的な威圧感と凄みが込められ、集会場の空気を震わせた。
狂気じみた笑みを浮かべながら、ベラトリックスの瞳が異様な光を放っている。
レギュラスはアランをより強く支えながら、その場の緊迫した空気に身を委ねていた。
アランもまた、痛みに耐えながら静かにその光景を見つめている。
暗い集会場で、三人の間に重苦しい沈黙が流れていた。
レギュラスはベラトリックスの凄まじい言葉を冷静に受け止め、静かな声で応じた。
「それならば、ベラ。それはあなたの方が打ってつけでしょうね。」
彼の瞳は揺るぎなく真っすぐにベラトリックスを映し出す。
「彼女を育て上げたシリウス・ブラックを殺したのは、あなたですから。」
「そして、あのマグルの女は、あなたのことをよく覚えているはずです。」
その言葉には嘲りとも予告ともつかぬ冷たさが宿っていた。
「もしあの娘に会うことがあれば、シリウスを終わらせたように、あなたが同じようにまた終わらせたらいいのです。」
レギュラスの静かな宣告は、空気を凍りつかせた。
その言葉を聴きながら、アランは深く思った。
ベラトリックスの恐ろしい死の呪文がアリスに向けて放たれたとしても、もしアリスがあの赤いネックレスを身につけていたならば、
その呪文は血の誓いを込めた術者であるレギュラスへと跳ね返るのだ。
それが彼の言う「究極の守り」であるに違いない。
その真意を理解したとき、アランは初めて、レギュラスを本当の意味で心の底から全幅の信頼を寄せ、すべてをさらけ出せる気がした。
アリスを守りたいと思った自分の想いが、ありのまま丸ごと包み込まれて受け入れられたような温かな感覚が胸に広がった。
暗い集会場の中で、彼らの間に静かな共鳴が生まれていた。
それは言葉を超えた、深い絆の証だった。
その日、レギュラスの胸は張り裂けそうな思いに満ちていた。
セシール家の夫人が危篤だという知らせを受け、彼は屋敷を一人で出た。
アランは伏せっており、連れて来ることができなかった。
セシール家の主人は、アランが来られなかったことを責めることはなかった。
「アランも同じように伏せっています」
レギュラスは静かに言う。
「レギュラス様、こうして訪ねてきてくださるだけでもう十分でございます」
主人の言葉には、深い感謝と温かさが滲んでいた。
アランの病状については、セシール家の両親には詳しくは伝えていなかった。
「少し伏せっている程度」としか話せず、
「風邪で…」と告げたが、この危篤がそんな陳腐な理由で来れないはずもないことは、わかってはいた。
それでも、それ以外にどんな言葉を選ぶべきなのか、途方に暮れていた。
夫人のベッドサイドにそっと近づくと、白いシーツに包まれたその身体は驚くほど細く、
呼吸は浅く、瞳は遠くを見つめている。
頬は痩せこけて、髪はさらりと枕に散っていた。
その姿は、つい昨日までそばにいたアランにも重なった。
胸が苦しくて、涙がこみ上げそうだった。
レギュラスは静かに夫人の手を握る。
最初は何の力も感じられなかったが、しばらくして弱々しく、指が僅かに動き、握り返してきた。
そのささやかな温もりに、心が震えた。
「夫人、お久しぶりです。アランは少し風邪を引いていて……今日は連れてくることができませんでしたので、代わりに僕が来ました。」
レギュラスは優しく声をかける。
夫人は喋ることも苦しいようで、力なく微笑むだけだった。
その微笑みが、何より彼の心にしみた。
アランを立派に育ててくれたセシール家。
レギュラスにとって、その夫妻は並みならぬ恩人だった。
彼らがいたからこそ、こんなにも愛せる人に出会えたのだ。
アランへの思いと同じくらい、セシール家夫妻を大切に思う気持ちがレギュラスの中に流れていた。
手を握りながら、レギュラスは優しい言葉を重ねる。
「アランがもう少し良くなれば、次は一緒に来ますね。」
返事はない。
ただ、夫人の指先がわずかに動くのを感じた。
それに応え、レギュラスも手の握りを、ほんの少しだけ強くした。
まるで、少し先の未来のアランの姿を見せられているような気がして、
あまりにも苦しくて、泣きそうになった。
その痛みを誤魔化すように、そっと握った手に頬を寄せた。
静かな午後の光がカーテンから差し込むなか、
優しさと切なさが満ちる、ふたりだけの穏やかな時間が流れていた。
屋敷に戻ったレギュラスは、そのまま書斎に入り、棚の奥から重たく琥珀色に光るウイスキーのボトルを取り出した。
ひとり、重い足取りで革張りの椅子に腰掛けると、氷も水も何も入れずにグラスへなみなみと注いだ。
グラス越しに透ける夕闇と、部屋に満ちる古びた静寂──
無言のまま一口をあおると、焼けるようなアルコールが喉を強く駆け抜けていく。
せり上がる悲しみを少しでも紛らわせてほしかった。
このところ昼夜を問わず、酒を飲む回数と量がどこか常軌を逸した域に達している。
もはや嗜むなどというレベルではなく、瓶が空になるまで手を止めることができない。
飲んでいる間は、むしろ正気のまま立っていられないような、そんな不安さえ付き纏った。
心も身体も、じわじわと何かに追い込まれている気がする。
少しずつ遠ざかるアラン、その手の温もりが薄れていく。
近づく永遠の別れの予感。
恐ろしさと焦りと、抗いようのない事実。
底知れぬ恐怖が、静かに書斎の空気を濃くしていった。
気がつけば、ウイスキーの瓶はすっかり空になっていた。
自嘲めいた乾いた笑いが、誰にも気づかれずにこみ上げる。
これほどまでに飲み干しても、決して酔うことはできない。
酔えない酒は、こんなにも虚しく感じるものなのか、と空虚さに胸を締めつけられる。
セシール家の夫人の、弱々しく握り返してくれたあの手の感触が、今もこの手にずっと残って消えない。
アランも、いつかあんなふうに弱り果ててしまうのだろうか──そう思うと、耐え切れないほど切なくなった。
その時、書斎の扉が静かにノックされた。
アランだった。
「最近いつも飲んでますね。」
若干呆れたような声。
「でも、酔ってはいないですよ。」
レギュラスはすぐさま答え、その言葉にすがるような心が少し顔を覗かせた。
アランの姿を目にした瞬間、強い不安で震えていた心が、弾け出すように急速に温もりを求めて動き出す。
グラスを机にそっと置き、吸い寄せられるようにアランのところへ歩み寄る。
その細くなった身体を、静かに、けれど力強く抱きしめる。
こんなにも苦しく、たまらない夜だから。
せめて酒に逃げる情けなさだけは、多めに見てもらいたい、
そんな哀切な思いが彼の胸を満たしていた。
アランはレギュラスの身体から静かに離れると、そっと彼の手を取って書斎を出た。
「少し休みましょう。瓶が空になるほど飲み干したようですから、お疲れでしょう。」
ほんのわずかな瞬間だったというのに、ウイスキー瓶の中身がなくなっていることをしっかりと確認していたのか。
その観察眼の鋭さに驚かされると同時に、女性特有の細やかさを改めて感じた。
寝室へと手を引かれていくレギュラス。
酔っているから、という最もらしい理由をつけているが、きっとアランもまた立っているのがつらいのだろう。
「横になりたい」と素直に言えば心配をかけてしまうからと、遠回しな言い方を選んだのに違いない。
その思いやりが、却って胸を痛くした。
二人して寝室のベッドに横になる。
アランの表情が少しだけ和らいだのを見て、ほっとするどころか、むしろ切なさが増した。
「アラン……今日、セシール家のご両親のところに行ってきました。」
レギュラスは静かに口を開いた。
本当は黙っていようかと思った。
夫人の危篤のことを話せば、アランはショックを受けてもっと体調を崩してしまいそうで恐ろしかった。
けれど、やはり黙ったままではいられなかった。
「父か母の体調が悪いのでしょうか?」
アランの声は不安に震えていた。
「お母様が……危篤だそうです。僕だけですが、お会いしてきました。」
レギュラスは胸が詰まるような思いで言葉を紡いだ。
アランの顔が切なそうに歪むのを見ると、彼女より先に自分の方が泣きそうになった。
「もう……だめそうでしたか?」
アランの声は震えていた。
「わかりません。でも……手を強く握り返してくれました。」
レギュラスは精一杯の優しさを込めて答えた。
アランは静かに涙を流し始めた。
その涙を見つめているうちに、気がつけば自分も泣いていた。
薄暗い寝室で、二人の涙が静かに枕を濡らしていく。
言葉では表せない悲しみと愛情が、そっと二人を包み込んでいた。
その日、アランは久しぶりに家族四人で朝食の席を囲んでいた。
レギュラス、アルタイル、そしてその妻イザベラと共に、穏やかな朝の時間を過ごしている。
母の様子を見に実家へ戻ることも考えながら、彼女は静かに紅茶を口に運んだ。
「父さんと母さんに、お伝えしたいことがあります。」
アルタイルが改まった調子で口を開いた。
「どうしました、アルタイル?」
アランは息子の顔を見つめて続きを待った。
息子がこうして改めて話があると言うのは珍しいことだった。
アルタイルは嬉しそうでもあり、照れくさそうでもある表情で答える。
「イザベラが……妊娠しました。」
その言葉に、アランはレギュラスと顔を見合わせ、心からの喜びを浮かべた。
「よくやりましたね、アルタイル。そしてイザベラも。」
レギュラスが満足そうに声をかける。
「おめでとうございます、アルタイル。そしてイザベラも。」
アランも温かな言葉を重ねた。
かつてはヴァルブルガが、そして自分が、次はイザベラが――
ブラック家の血筋が確かに繋がれていく瞬間を目の当たりにして、深い感慨に包まれた。
もう本当に何も心配することはないのかもしれない。
肩の荷が降りたという言葉以上の安堵が、アランの胸を静かに満たしていく。
それと同時に、命の循環や輪廻のようなものを薄らと意識するようになった。
母が危篤であるように、自分のこの身体の不調も、きっともうこれ以上回復することはないのだろう。
今がこれから先の未来の中で一番平穏な時なのだという、予感めいたものが確かにあった。
自分の命や母の命が終わりに近づく一方で、このブラック家にはまた新たな風が吹く。
アルタイルとイザベラの子として、ブラック家の血を継いでいく尊い命が生まれてくるのだ。
そう思うと、不思議なほど心が穏やかな気持ちで満たされていく気がした。
「母さん、この子が生まれる頃には、元気に抱いてくれますよね?」
アルタイルが希望に満ちた声で尋ねる。
「ええ、もちろんです。」
アランは果たせるかどうか分からない約束にも、力強く微笑んで答えた。
朝の陽だまりが食卓を優しく照らし、家族の温かな時間がゆっくりと流れていた。
レギュラスは席を立つと、ワインを持ってきた。
グラスを二つ手に取り、その片方をアルタイルに差し出す。
「注ぎましょう。」
アルタイルが嬉しそうに応じる。
「朝からですか?」
アランが少し呆れたような声で言った。
「ええ、祝い事ですから。飲まなくては。」
レギュラスは当然のように答える。
この人は、本当に——最近は何かにつけて酒を飲んでいる気がする。
何かしら思い詰めているものがあるのだろう。
それを話そうとしないのだから、アランにはレギュラスが抱え込んでいるものの正体まではわからない。
わかったところで、もう一緒に背負ってあげられるほどの時間は残されていないのだろうと思うと、「共に分け合おう」などという軽はずみなことは言えなかった。
「ほどほどにしてくださいませ。」
イザベラが優しく忠告する。
「ええ、本当ですよ。」
アランも同調した。
男たちは忠告を受け流すように、ワイングラスを傾けている。
二人とも未来への希望に向けて、キラキラと微笑みながら笑っていた。
久しぶりに、レギュラスがこんなに心から笑っている顔を見たような気がした。
母の危篤を知らせてくれた時、一緒に涙を流してくれたこの人が、今、新たな未来の命に心からの喜びを露わにしている。
アランは胸がいっぱいになった。
この人を喜ばせてあげられる何かが、自分のいなくなった後の世界でもちゃんとあるのだと思える。
それだけで、安心できるような気持ちだった。
レギュラスはアルタイルと共に、かつてアルタイルを妊娠したことがわかった時の感動や興奮を思い出すように語り聞かせていた。
アルタイルも嬉しそうにそれを聞いている。
その光景をアランは見つめながら、静かに微笑んだ。
「イザベラ、これから母として強く生きねばいけませんね。」
アランがイザベラに向かって言う。
「はい、奥様のように強く美しくあれるよういたします。」
イザベラが真摯に答えた。
アランはイザベラに向けて微笑みを浮かべる。
自分は決して強かったわけではないのだと言おうかと思った。
弱かった部分があまりにもたくさんありすぎて、レギュラスをどこまでぼろぼろに傷つけてしまったことか。
けれど、それを語るにはこの祝いの席では重すぎる気がして、これ以上は言わないことに決めた。
「私がいなくなった後、夫のこと……お願いしますね。」
アランが静かに言った。
「やめてください、奥様。」
イザベラが慌てたように言う。
アランは「冗談です」というように軽く微笑んでみせた。
半分冗談で、半分本気で。そのくらいで伝わればいいと思った。
朝の陽だまりが食卓を優しく包む中、複雑な想いが静かに交錯していた。
レギュラスがふわりと穏やかな笑みを浮かべているのを見て、アランの心もどこか晴れやかだった。
だから、母のもとへ行くことはやめたのだ。
こんな喜ばしい話を聞いた後に、死を待つばかりの母のそばへ行くのは、この幸福な空気感とはあまりにもかけ離れすぎていた。
「とても機嫌が良さそうですね。」
アランは優しい声でそう言った。
「ええ、もちろんですよ。男児だったらもう言うことなしです。」
レギュラスは笑みを深めて応じる。
「女児でも、セレナのようにこの国の王に嫁ぐ可能性がありますからね。」
アランの言葉に、レギュラスは楽しげに笑い声をあげた。
セレナの芯の強さ。
決して揺らぐことのない意思の強さ。
温室育ちの令嬢などという言葉に収まらない誇り高さ。
そのどれをとっても、ブラック家の血が濃く受け継がれている証だった。
さすがはレギュラス・ブラックの娘だと、誰もがその強く美しい姿に目を見張るだろう。
「本当に、あの子は傑作です。むしろ女でよかったですよ。男だったら、アルタイルと——」
レギュラスが意味深に言葉を濁すと、
「玉座を賭けて戦っていましたね。」
と続け、二人は笑い合った。
アランもつられて微笑む。
本当にそうだと思ったからだ。
セレナ・ブラックの貪欲さと気高さ。
それがアルタイルとぶつかることなく、きちんと兄妹で支え合いながら育ってきたこと。
きっとそれは、二人が異なる性別であったからこそ成し得た奇跡なのだろうと。
柔らかな朝の光が部屋を満たし、二人の心にも新たな未来への希望が静かに芽吹いていた。
その夜、レギュラスはアランをそっと抱いていた。
正確には、抱こうとしていた。
アルタイルの祝い事のおかげか、日中から比較的体調が良さそうだったアランに、少しだけ深く溶けるようなキスをしてみた。
困惑も拒絶もなく、静かにすべてを受け入れてくれる温かさがそこにあった。
空気感はそのまま深い愛を交わせるほどの穏やかさに包まれていた。
けれど、アルタイルと朝から夜まで相当な量を飲んだせいか、思うようにいかなかった。
服だけは脱いだ状態で、うまく応えてくれない自分の身体に情けなさと苛立ちを感じる。
アランは「ふふふ」と静かに笑った。
笑われるなんて心外だった。
文句を言ってやろうにも、機能不全になるまで飲み続けていたのは自分であって、朝の時点で飲みすぎないようにという忠告もされていたにも関わらず、このざまなのだから言い返す言葉がなかった。
「本当に、笑わないでください。」
レギュラスは困ったような声で言った。
「飲みすぎをやめようって気になりました?」
肌けたナイトドレスを整えながら言うアランは、あまりにも美しくて、惜しいことをしてしまったという感情が押し寄せてきた。
「歳ですかね……」
レギュラスがぼそりと呟く。
「飲みすぎですよ。」
アランは優しく、しかしはっきりと答えた。
本当に、もう。
こんなふうにアランの体調も良くて、夫婦の時間をゆっくり取れる夜なんてほとんどなかったのだから、今夜は絶好の機会だったというのに。
ふわふわとしたままの意識と、気持ちは高ぶっても身体が応えてくれない状況に、静かな悔しさが滲んだ。
寝室に漂う薄闇の中で、二人は静かに寄り添いながら、笑いと愛情に包まれた時間を過ごしていた。
程なくして、セシール家の夫人の訃報が届いた。
アランとともに出席した葬儀で、レギュラスは誰よりも涙が止まらなかった。
それは、そう遠くない未来に自分がアランを失わなければならないという痛ましい現実と重なっていたからだった。
「母さんも、父さんも、気を強く持ってくださいね。」
アルタイルの言葉に、レギュラスは深く頷いた。
「ああ、ありがとう、アルタイル。」
アランは遠くを見つめていた。
その瞳に映る未来がどんなものか、誰も知ることはできなかった。
ただ、彼女の内に宿る静かな覚悟が胸を締めつける。
レギュラスはそっとアランの肩を抱き寄せた。
疲れた彼女の頭が、そのままレギュラスの肩にそっと寄りかかる。
亡くなったセシール家の夫人には、ただ感謝の意を捧げたいと思った。
こんなにも愛すべき人をこの世に生み落とし、
大切に、美しく、気高く育て上げてくれたこと。
そしてブラック家との縁談を決断してくれたこと。
その全てに対して、言葉では言い尽くせないほどの恩義を感じていた。
埋葬の儀式で、棺の上に花を置き、土で静かに覆い隠す作業を行いながら、レギュラスはアランの手をしっかりと握っていた。
アランの頬には涙の跡がはっきりと見えた。
「もっと、ゆっくり会いに行けばよかったです。」
レギュラスは痛ましい思いを吐露する。
「ええ。でも、私はもうブラック家の人間ですから。女は嫁いだら、そういうものです。」
アランの言葉には、長年の経験と覚悟が静かに滲んでいた。
その言葉に、悲しみと同時に強さも感じられた。
二人は無言のまま、互いに寄り添いながら、かけがえのない時間を過ごしていた。
馬車の窓から見える景色は、秋の気配が漂う田園だった。
沈みかけた夕日が、低い雲の切れ間から金色の光を送り込む。
セシール家の重い空気を抜けてきたばかりの二人の乗る馬車は、静かな揺れの中で静謐に満ちていた。
アランはレギュラスの隣で、物音一つ立てぬ静けさのまま外を見つめていた。
道端の細い草の揺れにも、遠くの村の灯にも、ここから続く人生の先のことが重なって見えた。
母が息を引き取ったと聞いたあの空気。
父がただただ打ちひしがれて泣き続けた姿。
それとまったく同じ悲しみに、今度は自分が夫レギュラスの心を落としてしまうのだろう。
そう思うと、胸が締め付けられそうだった。
人生を振り返れば、レギュラス・ブラックの愛は、折に触れて、季節が巡ってもなお途切れることなく、絶え間なく注がれ続けてきたものだった。
たとえ拒絶しても、傷つけてしまっても、決して手を離そうとしないその人の眼差しと、残してくれた確かな温もり。
果たして自分は、それほど強く、変わらぬ愛を彼に返せただろうか。
そんな問いが心に静かに降り積もった。
馬車の座席の上で、アランはそっと隣のレギュラスの手に自分の手を重ねた。
ほんの少し冷たい指先を十分に包み込むよう、彼の手は大きかった。
「母のために泣いてくれたこと、とても感謝しています。」
その言葉は、静かに澄み切った本心だった。
母を慕う思いを、レギュラスも同じだけ持ってくれていた。
自分だけのものだと思い込んでいた愛情が、実はこうして誰かを通してもう一度深く結ばれているのだと感じた瞬間、涙がこぼれそうになった。
しばし沈黙が流れる。
やがて、レギュラスは反対側の手も優しく自分の手に重ねてきた。
男の手に包まれると、じんわりとした温度がそのまま掌、腕、心へと広がる。
言葉にしなくてもいいことが増えすぎていた。
残された時間は刻々と失われていくけれど、今夜この馬車の中の静けさの中だけは、すべての痛みも、後悔も赦されるような気がした。
母が生んだこの手を、いま誰よりも強く守ってくれる夫が隣にいる。
この人を、本当の意味で愛せたこと、そして愛され続けてこられたこと。
その事実だけが、病に侵された身体にも──寂しくなる心にも、静かな灯をともしてくれている。
どこまでこの愛を返せただろう。
答えは出ない。
だけど、最後の日の一瞬まで自分なりの愛を注ぎ続けていこうと思った。
秋の夜の馬車は、静かに家へと向かっていた。
二人きりの時間が絵画のような静けさに満たされていく――
温もりを重ねたその手が、未来を信じて離れなかった。
馬車のゆるやかな揺れの中、アルタイルは父と母を正面に座らせたまま、静かに二人のやりとりを聞いていた。
父レギュラスは優しく母アランの手を包み込み、時折しっかりと頷く。
その手と手が重なった光景は、誰かの目には気恥ずかしく映るのかもしれない。
けれどアルタイルは、目を逸らしたくなるどころか、ずっと見ていたかった。
凛然とした父の姿。
病に侵されながらもなお美しさを失わない母。
この二人こそがアルタイルにとっての、世界すべてに等しい誇りそのものだった。
こんなにも気高い父と、圧倒的な美しさを持つ母のもとに生まれ、育てられた自分は――
間違いなくブラック家の正統な後継者。
魔法界を導いていくべき純血の誇りが自分の中に染み込んでいると、今ほど強く実感できる瞬間はなかった。
けれど、その誇りの陰には、どうしようもなくチリチリと痛みが走っているのもまた事実だった。
あんなにも偉大な父が、何よりも恐れているもの。
それは、本当に母を失ってしまうことなのだ。
気高く、屈強な父が、痛いほど目の前でその現実に怯えていること。
それが、見ているだけで胸を張り裂けそうにさせる。
忘れもしない幼い日の記憶が、ゆっくりと蘇る。
妹セレナを生む最中であった母は、命懸けの難産で死の境をさまよっていた。
祖父母――オリオンやヴァルブルガは容赦なく、愛する母ではなく赤子を優先しようとしていた。
「優先すべきは赤子を」と言い切ったヴァルブルガの冷ややかな声を、父が確かに制してくれた。
幼いアルタイルは、扉の向こうでただじっと、母の安否を祈りながら待っていた。
あの時、父の勇敢な決断がなければ、いまの家族はきっと存在しなかった。
あのとてつもなく大きな感情の波――
母を失うかもしれなかった恐怖、父が守ってくれたという絶対の安心――
その鮮烈な記憶は、今も心の奥底で鮮やかに息づいている。
きっとこれから先、人生のどんな場面でも、母を守る決断をしてくれた父への感謝だけは一生忘れることはないだろう。
「僕も、父さんに感謝してるんですよ。」
ふいにアルタイルは呟いた。
何を、とまでは言わない。
けれど、その言葉は父と母の心に温かく波紋を広げた。
レギュラスとアランは、顔を見合わせて微笑み、アルタイルと目を合わせるように笑った。
家族で共有する、かけがえのない思い出と絆が、今再び部屋の空気を優しく包み込んだ。
沈黙が優しく流れる馬車の中で、
幸福と哀しみが織り交ざる家族の時間が、静かに流れていった。
それぞれの胸に秘められた感謝と誇り、そして、儚くも強い愛情が確かにそこにあった。
「任務がないからだ」と涼やかに言いながらも、その頻度は明らかに尋常ではなかった。
アランは笑いを堪えながらも、心のどこかが暖かくほぐれるのを感じていた。
きっと、できる限り最期の時まで一緒に過ごそうとしてくれているのだろう。
詳しい病状までは知らされていないものの、彼の態度から先がそう長くないことを察していた。
恐れよりも先に、申し訳なさが胸を占める。
こんなにも自分を愛し、愛し抜いて生きてくれた人を、置いていかなければならない。
その後、この人がどうやってこの世界を生き抜いていくのかが、不安でならなかった。
「レギュラス、私みたいに寝てばかりいると、腕が鈍りますよ」
アランが微笑みながら呟くと、
「多少鈍ったところで、そう簡単にやられはしませんから」
レギュラスはいつもの自信を含んだ声で応えた。
アランはくすりと笑った。丁寧な所作の中に拭いきれない勝ち気な意志を滲ませ、静かに格の違いを示す。
それがレギュラスらしかった。
横になると、眠たげに目を細めてこちらを見つめる彼に、アランも同じように視線を返す。
かつて愛したシリウスの瞳にも似た、柔らかく棘のない静かな光をたたえた灰色の瞳だった。
言葉にしなくても、二人が兄弟であることを、強く思い知らされた。
アランがふふっと微笑むと、レギュラスは少し目を丸くする。
「なんです?」
アランは首を軽く振り、「なんでもない」とだけ囁いた。
その瞬間、レギュラスはそっと唇を重ね、可愛らしいリップ音を落とした。
「なんです?」
今度はアランが瞳を輝かせて尋ねる。
「ふふ」
レギュラスも同じように笑いながら、優しい余韻を二人の間に残した。
寝室には、ただ静かな幸福の温度だけが静かに灯っていた。
寝室の片隅で、レギュラスは一瓶のワインをゆっくりと空けていた。
酔いたいわけではない。
ただ、喉を潤すアルコールが、押しつぶされそうなほど追い詰められた胸を幾分か和らげてくれるような気がして、飲み続けているのだ。
むしろ飲まなければまともに眠れないほどに、心は乱れていた。
「よく飲むのね、最近。」
アランがふと呟いた。目は彼の手元のグラスを見つめている。
「ええ、ボジョレーが出ましたからね。」
レギュラスは少し微笑みを浮かべてそう答えた。
酸味の強いワインの一口を口に含むと、すっとアランに近づいてそっと口付けた。
ほんの少しだけ、ワインの味を彼女と分かち合うように、ゆっくり流し込んだ。
「酸っぱいわ。」
アランは笑顔を見せた。
「あたりまえですよ。採れたてですから。」
レギュラスは微かに笑いながら、彼女の指をそっと握った。
同じワインを分け合うこの静かな時間に、昔、二人で夜通し飲み明かした記憶がふと蘇る。
酔いに任せて燃え上がる情熱に身を委ね、
しかし翌朝には急にシラフに戻らざるを得なかった現実に戸惑いを感じたあの時のことも。
若かった、あの頃の二人は。
とてつもなく幸福だった。
そう思うと、急に涙がこみ上げてきた。
歳を重ねるにつれて、酒に酔うことで涙が溢れることが増えたことを、今はじめて心から実感した。
涙を誤魔化すようにして、もう一度彼女にそっと口付けをする。
その唇の温もりと静かな響きが、二人の間にだけ流れる時間を優しく包んでいた。
夜の闇が深まる中、レギュラスは任務の現場に佇んでいた。
狼人間が魔法使いを襲うという異常事態。
制御が効かなくなった薬の呪縛に縛られ、いったん人の肉を味わった彼らは、その味を忘れられず、狼へ変身するたびに人を襲う癖がついてしまったのだ。
現状、その領域に赴いた狼人間を制御する薬など存在せず、残された方法は彼らを葬るしかなかった。
レギュラスは一刻も早く屋敷に戻って、体調のすぐれぬアランのそばにいたかった。
「さっさと片をつけてしまいたい」その思いで胸が押し潰されそうだった。
だが、事態は厄介な方向へと傾く。
共に派遣された魔法使いは、まさかのアリス・ブラックだった。
レギュラスはため息をひとつ抑えることもせず、その場に吐き出した。
殺さずに解決しようと拘るアリスと、殺すことで片付けようとする自身の姿勢とは相反し、任務は長引きがちだ。
「余計な情けはかけずに終わらせてくださいね。」
レギュラスは冷たく告げる。
アリスの胸元には、アランに差し出した赤いネックレスが光っている。
それを受け取ったのだと静かに理解しながら、彼はその意味の重さを噛みしめた。
現場では、アリスが先陣を切って狼人間に立ち向かっていた。
理性を失った獣相手に、魔法での制御は想像以上に困難を極める。
野生的な動きは予測できず、呪文は幾度も外れ、ただ杖を振るう動作だけが空しく繰り返される。
アリスが繰り出す足止めの魔法も、狼人間の足を掠りもせずに交わされていた。
「アリス、そんな魔法では効きません!」
レギュラスが叫ぶ。
「死の呪文を簡単に使わないでください!」
アリスも負けじと言い返す。
またしてもため息がこぼれそうになる。
この任務を迅速に終わらせる他の方法があるなら、ぜひ教えてほしいと心の中で逆に問いかけた。
こちらは残された時間が限られているというのに。
荒れ狂う嵐のような戦いの中、二人の思惑と心情は静かに、しかし深く交錯し合っていた。
暴れ狂う狼人間を森から外に出さないよう、レギュラスは次々と呪文を繰り出した。
「インペディメンタ!」動きを鈍らせる呪文が宙を切る。
「コンフリンゴ!」爆発呪文で狼人間の進路を阻み、森の奥へと追い詰めようとした。
「ペトリフィカス・トタルス!」全身金縛りの術も試みたが、野生の本能で身をひらりと翻し、ことごとく回避される。
死の呪文を何度か放つものの、狼人間のすばしこい動きに阻まれ、緑の光は虚しく木々に吸い込まれていく。
「レギュラス・ブラック!中身は人間です。魔法使いです。それもあなたの守ろうとする純血の!」
アリスが必死に叫んだ。
死の呪文をこれ以上放つなという意味なのだろう。
だが、純血の魔法使いだろうがなんだろうが、ここまで来れば話は別だった。
自分の意思で力を制御できず、人を食らう喜びを覚えた獣など、もはや守るべき価値はない。それがレギュラスの揺るぎない考えだった。
そろそろ体力の限界が近づいているのであろう、アリスの動きが徐々に鈍ってきていた。
レギュラスはその変化を見逃さなかった。
「アリス、いい加減に下がってはどうです。足がもつれかけていますよ。」
冷静に、しかしどこか皮肉めいた口調で告げる。
「構いません。あなたのやり方ではなく、私のやり方で救える道があることを証明してみせます。」
アリスは息を切らしながらも、意志を曲げなかった。
どこまで強情なのか。レギュラスはほとほと嫌気がさしていた。
アランが彼女を守ってくれなどと言わなければ、このまま狼人間と共に葬ってやりたいくらいだった。
その時、ついにアリスがよろけて地面に倒れ込んだ。
その隙を見逃さない狼人間は、アリス目がけて食らいつこうと勢いよく駆け寄る。
舌打ちをしながら、レギュラスは急いでアリスを抱え上げた。
浮遊呪文で二人の身体を宙に浮かせ、狼人間の手の届かない太い枝の茂みの中へと身を隠した。
「本当に……手のかかる。」
レギュラスは小さくため息をつきながら、アリスの安全を確保していた。
急に獲物として捉えていたアリスの姿を見失った狼人間は、その場で立ち止まり、低いうなり声を漏らしながら辺りを見回した。
その瞬間、レギュラスは踏み込むように前へ出て、呪文を静かに、しかし確かな力で唱えた。
「インカンテーション・コンカス!」
強力な失神呪文が闇に走り、狼人間の額に深い緑の閃光が走る。
呻き声も上げぬまま、獣はその場に崩れ落ちた。
手早く、しかし乱れのない動きで、レギュラスは拘束呪文を重ねかけた。
「インペディメンタ・リーガム!」
手足と口がじわりと魔法の紐に縛り上げられていく。
アリスは目を見開き、息を呑んでその呪文さばきを見つめていた。
無駄も隙もない洗練された技──死の呪文を簡単に放って終わらせる方法ではなく、あえて失神と拘束に留めたその選択は、これまで知っていたレギュラス・ブラックの姿とはあまりにもかけ離れていた。
「後は任せられますか、あなたに?」
レギュラスの声は静かだが、確かな優しさと信頼を含んでいた。
アリスはしばらく狼狽えたのち、静かに頷く。
「拘束呪文は時間が経てば緩みますから、用心することです。」
そう告げて、レギュラスはひと息つくと地上に降り立った。
アリスも息を整えるように続いて地面に足を下ろす。
――なぜ、狼の獣から自分を助けたのか。
その謎が胸にずしりと残る。
自分の存在が鬱陶しいだけだろうに、憎んでさえいるだろうに。
それでも命を救われた不思議さに、アリスは腕に下げた赤いネックレスをそっと撫でた。
「アリス、そのネックレスですが……アランがあなたに、と贈ったものです。」
レギュラスは柔らかな声で説明を続けた。
「誰かの命を、命懸けで守りたいと思う気持ちが込められた、強力な保護呪文がかかっています。」
アリスは、つい最近アルタイルから預かったばかりの赤いネックレスに触れ、指先でその冷たい輝きを確かめる。
意味はわからなくとも、アランからの贈り物だから、大切にしたいと思った。
「本当は、誰が誰に贈ったものなの?」
アリスが問いかける。
しかしレギュラスは、その問いには答えず、静かに歩を進める。
長い黒いローブの裾が地面をかすめ、彼は闇の奥へと姿を消していった。
残されたアリスは、その背中を見送るしかなかった。
森の静寂の中、赤いネックレスだけが、月明かりにそっと輝いていた。
レギュラスは任務を終え、重い足取りで屋敷へと戻った。
寝室の扉を静かに開けると、薄暗い部屋の中でアランが微笑みを浮かべて迎えてくれた。
「寝ていてよかったんですよ。」
レギュラスはやわらかな声で告げる。
「昼間にたくさん寝ましたから、目が冴えています。」
アランは穏やかに答え、深く息をついた。
医務魔女から聞かされていたことを思い出す。
痛み止めの効き目が薄くなり、さらに強い薬に切り替えたと聞いた。
その薬のせいで、昼も夜も関係なく眠気が襲うため、アランは日々多くの時間を眠って過ごしているのだった。
「痛みはありませんか?」
レギュラスは優しく尋ねる。
「ええ、今は平気です。」
アランも微笑みながら答えた。
レギュラスはそっとアランを抱き寄せ、そのまま丁寧にベッドに降ろしてやる。
以前よりも身体が軽くなっているように感じられ、胸が締め付けられる。
「今日はどこも怪我なく帰って来れてよかったです。」
アランは優しい言葉をかける。
「アリスと一緒に人狼を捉えました。」
レギュラスは淡々と話す。
「殺したのですか?」
アランは少し怯えたように訊ねた。
「その方が早かったですが、アリスがうるさいので強力な失神呪文を何とか命中させましたよ。疲れました。」
レギュラスは苦笑いを浮かべる。
アランは柔らかな笑みを浮かべていた。
「随分と丸くなったものね。」
心の中でそう思っているのだろう。
自分でもそう思う。
たかが小娘の戯言のために、面倒な方法を選び、そのせいで自らの思想ややり方が変わるなんて、自分でも信じられなかった。
「変わりましたね、あなただけじゃなくて。」
アランは優しく微笑みながら言う。
「ええ、本当に。あの小娘を守るために動く日が来るとは思いませんでした。」
レギュラスも負けじと答える。
「その調子ですよ。」
アランの笑い声が穏やかに部屋に響く。
レギュラスも最後は微笑み返し、ただ笑うしかなかった。
部屋は静かに包まれ、二人の時間はゆっくりと流れていった。
アリス・ブラックは静かな部屋で報告書を仕上げていた。
力の制御が効かなくなった人狼を、生きたまま捕らえることに成功したこと。
その後、魔法省の危険魔法生物課に引き渡され、厳重な管理下に置かれていること。
しかし、その人狼はいまだに正気を取り戻すことなく、様々な鎮静薬を実験的に投与され続けている。
それが本当にその人狼のためになったのかどうか――鎮静薬の効果が表れず、元通りに戻れていない現状では、まだ断言できずにいた。
もしかしたら、レギュラス・ブラックの言う通り、死をもってこそ真の救済だったのかもしれない。
アリスは、もう何が正しいのかわからなくなっていた。
あの日、なぜレギュラス・ブラックが自分を救ったのか。
そして、アランが託してくれた赤いネックレス。
それが誰かを守るための強力な保護呪文がかけられていると彼は言ったが、どんな呪文なのか、誰を守るためのものだったのか――そこまでは教えてくれなかった。
部屋に戻ると、ベッドの横に置かれたシリウスの写真が目に入った。
その瞳の輝きを見つめていると、不意に涙がこみ上げてくる。
アランに会いたい。
今、無性に、どうしようもなく会いたかった。
守られたいわけではない。こんなネックレスなんかより、ただ彼女に会いたかった。
本当は一緒に暮らしたかった。
シリウスとアランと自分で、家族のように暮らしていける日々を――そんな叶わない夢をずっと見続けていた。
もう二度と見ることも許されない夢が、涙となって溢れ出てくる。
シリウスを失って、そしてアランも失わなければならない。
彼女の息子アルタイルから聞かされた「もう長くはなさそう」という言葉が、胸の奥で重く響く。
なぜ、この世界はこんなにも残酷なのだろうか。
父も母もいない子供だった自分。
自分を救ってくれたアランも、自分を育ててくれたシリウスも、失わなければならないなんて。
アルタイルやセレナが、あのブラック家に生まれたというだけで、無条件にアランの側で生きることを許され、可愛がられ、慈しまれて暮らしてきたことを思うと――大人気ないと分かっていても、悔しくて、虚しくて、悲しくてたまらなかった。
シリウスの写真を胸に抱きしめながら、涙が溢れて、溢れて、もう止まらなかった。
静かな夜の中で、一人の少女の深い孤独が、静かに部屋を満たしていた。
レギュラスはセブルス・スネイプと向かい合って話していた。
先日捕らえられた人狼を鎮静させる薬について、セブルスも研究に携わっているらしい。
「人狼を生かしたとは、お前らしくないな。」
セブルスの鋭い視線がレギュラスを見据えた。
「アリス・ブラックが独断でしたことです。」
レギュラスは淡々と答える。
「お前ほどの実力があれば、あのマグルの女を差し置いて殺せただろうに。」
セブルスは探るような口調で続けた。
「アメリカのマグル死傷事件で聴取を受けたばかりですから。目立つ動きは避けたいだけですよ。」
レギュラスは最もらしい理由を並べて、セブルスの問いかけを巧妙にかわした。
その夜、デスイーターの集会が開かれていた。
レギュラスは出席し、この日はアランも共に参加していた。
本来ならば体調を考慮して休ませておきたかったが、ほとんどのデスイーターが顔を揃えるこの場で、レギュラスの隣にその妻であるアランの姿がないのは不自然すぎた。
アランは眠気を抑えるため、あえて痛み止めを服用せずにこの集会に臨んでいた。
痛みが身体を蝕んでいるのがわかる。それでも彼女は静かに耐えていた。
ヴォルデモートが語る計画は恐ろしいものだった。
魔法省に闇の勢力を全面的に配置し、魔法界全体を束ねていくための体制を築こうとしている――その野望を、アランはレギュラスの隣で冷ややかに聞いていた。
痛みを我慢しているせいなのか、それともヴォルデモートの恐ろしい計画への怒りなのか、彼女の唇を噛む力が徐々に強くなっていく。
その小さな変化を、レギュラスは見逃さなかった。
暗い集会場の中で、二人は静かに寄り添いながら、闇の計画が語られる時間を耐え続けていた。
「アラン、平気ですか?」
レギュラスは心配そうに声をかけた。
「ええ。」
アランは短く答えたが、その声には疲労が滲んでいた。
レギュラスはそっと腕をアランの腰に回し、支えるようにして歩いた。
彼女の身体の軽さと震えを感じながら、できる限り負担をかけないよう気を配る。
その時、前方にベラトリックス・レストレンジが立ち塞がるように現れた。
狂気を湛えた瞳が、二人を見据えている。
「あのマグル女、随分と目障りに動いてくれるじゃないか。」
ベラトリックスの声には嘲笑と憎悪が混じっていた。
アリスのことを言っているのだろう。
確かに、魔法省に闇の勢力が侵入しないよう、アリスは精力的に動いているようだった。
騎士団の人員が多数配置されている魔法省では、役職に就く前に幾重もの審議が重ねられ、疑わしい点があればその役職を与えることはない。要職に就くとなれば、複数の厳格な審議を突破する必要がある。
その堅固な体制を整えたのが、アリスとその騎士団のメンバーたちだった。
「面倒ですが、こればかりは仕方がありません——」
レギュラスが冷静に答えようとした時、
「あの女を殺しな!」
ベラトリックスが彼の言葉を半ば遮るように叫んだ。
その声には圧倒的な威圧感と凄みが込められ、集会場の空気を震わせた。
狂気じみた笑みを浮かべながら、ベラトリックスの瞳が異様な光を放っている。
レギュラスはアランをより強く支えながら、その場の緊迫した空気に身を委ねていた。
アランもまた、痛みに耐えながら静かにその光景を見つめている。
暗い集会場で、三人の間に重苦しい沈黙が流れていた。
レギュラスはベラトリックスの凄まじい言葉を冷静に受け止め、静かな声で応じた。
「それならば、ベラ。それはあなたの方が打ってつけでしょうね。」
彼の瞳は揺るぎなく真っすぐにベラトリックスを映し出す。
「彼女を育て上げたシリウス・ブラックを殺したのは、あなたですから。」
「そして、あのマグルの女は、あなたのことをよく覚えているはずです。」
その言葉には嘲りとも予告ともつかぬ冷たさが宿っていた。
「もしあの娘に会うことがあれば、シリウスを終わらせたように、あなたが同じようにまた終わらせたらいいのです。」
レギュラスの静かな宣告は、空気を凍りつかせた。
その言葉を聴きながら、アランは深く思った。
ベラトリックスの恐ろしい死の呪文がアリスに向けて放たれたとしても、もしアリスがあの赤いネックレスを身につけていたならば、
その呪文は血の誓いを込めた術者であるレギュラスへと跳ね返るのだ。
それが彼の言う「究極の守り」であるに違いない。
その真意を理解したとき、アランは初めて、レギュラスを本当の意味で心の底から全幅の信頼を寄せ、すべてをさらけ出せる気がした。
アリスを守りたいと思った自分の想いが、ありのまま丸ごと包み込まれて受け入れられたような温かな感覚が胸に広がった。
暗い集会場の中で、彼らの間に静かな共鳴が生まれていた。
それは言葉を超えた、深い絆の証だった。
その日、レギュラスの胸は張り裂けそうな思いに満ちていた。
セシール家の夫人が危篤だという知らせを受け、彼は屋敷を一人で出た。
アランは伏せっており、連れて来ることができなかった。
セシール家の主人は、アランが来られなかったことを責めることはなかった。
「アランも同じように伏せっています」
レギュラスは静かに言う。
「レギュラス様、こうして訪ねてきてくださるだけでもう十分でございます」
主人の言葉には、深い感謝と温かさが滲んでいた。
アランの病状については、セシール家の両親には詳しくは伝えていなかった。
「少し伏せっている程度」としか話せず、
「風邪で…」と告げたが、この危篤がそんな陳腐な理由で来れないはずもないことは、わかってはいた。
それでも、それ以外にどんな言葉を選ぶべきなのか、途方に暮れていた。
夫人のベッドサイドにそっと近づくと、白いシーツに包まれたその身体は驚くほど細く、
呼吸は浅く、瞳は遠くを見つめている。
頬は痩せこけて、髪はさらりと枕に散っていた。
その姿は、つい昨日までそばにいたアランにも重なった。
胸が苦しくて、涙がこみ上げそうだった。
レギュラスは静かに夫人の手を握る。
最初は何の力も感じられなかったが、しばらくして弱々しく、指が僅かに動き、握り返してきた。
そのささやかな温もりに、心が震えた。
「夫人、お久しぶりです。アランは少し風邪を引いていて……今日は連れてくることができませんでしたので、代わりに僕が来ました。」
レギュラスは優しく声をかける。
夫人は喋ることも苦しいようで、力なく微笑むだけだった。
その微笑みが、何より彼の心にしみた。
アランを立派に育ててくれたセシール家。
レギュラスにとって、その夫妻は並みならぬ恩人だった。
彼らがいたからこそ、こんなにも愛せる人に出会えたのだ。
アランへの思いと同じくらい、セシール家夫妻を大切に思う気持ちがレギュラスの中に流れていた。
手を握りながら、レギュラスは優しい言葉を重ねる。
「アランがもう少し良くなれば、次は一緒に来ますね。」
返事はない。
ただ、夫人の指先がわずかに動くのを感じた。
それに応え、レギュラスも手の握りを、ほんの少しだけ強くした。
まるで、少し先の未来のアランの姿を見せられているような気がして、
あまりにも苦しくて、泣きそうになった。
その痛みを誤魔化すように、そっと握った手に頬を寄せた。
静かな午後の光がカーテンから差し込むなか、
優しさと切なさが満ちる、ふたりだけの穏やかな時間が流れていた。
屋敷に戻ったレギュラスは、そのまま書斎に入り、棚の奥から重たく琥珀色に光るウイスキーのボトルを取り出した。
ひとり、重い足取りで革張りの椅子に腰掛けると、氷も水も何も入れずにグラスへなみなみと注いだ。
グラス越しに透ける夕闇と、部屋に満ちる古びた静寂──
無言のまま一口をあおると、焼けるようなアルコールが喉を強く駆け抜けていく。
せり上がる悲しみを少しでも紛らわせてほしかった。
このところ昼夜を問わず、酒を飲む回数と量がどこか常軌を逸した域に達している。
もはや嗜むなどというレベルではなく、瓶が空になるまで手を止めることができない。
飲んでいる間は、むしろ正気のまま立っていられないような、そんな不安さえ付き纏った。
心も身体も、じわじわと何かに追い込まれている気がする。
少しずつ遠ざかるアラン、その手の温もりが薄れていく。
近づく永遠の別れの予感。
恐ろしさと焦りと、抗いようのない事実。
底知れぬ恐怖が、静かに書斎の空気を濃くしていった。
気がつけば、ウイスキーの瓶はすっかり空になっていた。
自嘲めいた乾いた笑いが、誰にも気づかれずにこみ上げる。
これほどまでに飲み干しても、決して酔うことはできない。
酔えない酒は、こんなにも虚しく感じるものなのか、と空虚さに胸を締めつけられる。
セシール家の夫人の、弱々しく握り返してくれたあの手の感触が、今もこの手にずっと残って消えない。
アランも、いつかあんなふうに弱り果ててしまうのだろうか──そう思うと、耐え切れないほど切なくなった。
その時、書斎の扉が静かにノックされた。
アランだった。
「最近いつも飲んでますね。」
若干呆れたような声。
「でも、酔ってはいないですよ。」
レギュラスはすぐさま答え、その言葉にすがるような心が少し顔を覗かせた。
アランの姿を目にした瞬間、強い不安で震えていた心が、弾け出すように急速に温もりを求めて動き出す。
グラスを机にそっと置き、吸い寄せられるようにアランのところへ歩み寄る。
その細くなった身体を、静かに、けれど力強く抱きしめる。
こんなにも苦しく、たまらない夜だから。
せめて酒に逃げる情けなさだけは、多めに見てもらいたい、
そんな哀切な思いが彼の胸を満たしていた。
アランはレギュラスの身体から静かに離れると、そっと彼の手を取って書斎を出た。
「少し休みましょう。瓶が空になるほど飲み干したようですから、お疲れでしょう。」
ほんのわずかな瞬間だったというのに、ウイスキー瓶の中身がなくなっていることをしっかりと確認していたのか。
その観察眼の鋭さに驚かされると同時に、女性特有の細やかさを改めて感じた。
寝室へと手を引かれていくレギュラス。
酔っているから、という最もらしい理由をつけているが、きっとアランもまた立っているのがつらいのだろう。
「横になりたい」と素直に言えば心配をかけてしまうからと、遠回しな言い方を選んだのに違いない。
その思いやりが、却って胸を痛くした。
二人して寝室のベッドに横になる。
アランの表情が少しだけ和らいだのを見て、ほっとするどころか、むしろ切なさが増した。
「アラン……今日、セシール家のご両親のところに行ってきました。」
レギュラスは静かに口を開いた。
本当は黙っていようかと思った。
夫人の危篤のことを話せば、アランはショックを受けてもっと体調を崩してしまいそうで恐ろしかった。
けれど、やはり黙ったままではいられなかった。
「父か母の体調が悪いのでしょうか?」
アランの声は不安に震えていた。
「お母様が……危篤だそうです。僕だけですが、お会いしてきました。」
レギュラスは胸が詰まるような思いで言葉を紡いだ。
アランの顔が切なそうに歪むのを見ると、彼女より先に自分の方が泣きそうになった。
「もう……だめそうでしたか?」
アランの声は震えていた。
「わかりません。でも……手を強く握り返してくれました。」
レギュラスは精一杯の優しさを込めて答えた。
アランは静かに涙を流し始めた。
その涙を見つめているうちに、気がつけば自分も泣いていた。
薄暗い寝室で、二人の涙が静かに枕を濡らしていく。
言葉では表せない悲しみと愛情が、そっと二人を包み込んでいた。
その日、アランは久しぶりに家族四人で朝食の席を囲んでいた。
レギュラス、アルタイル、そしてその妻イザベラと共に、穏やかな朝の時間を過ごしている。
母の様子を見に実家へ戻ることも考えながら、彼女は静かに紅茶を口に運んだ。
「父さんと母さんに、お伝えしたいことがあります。」
アルタイルが改まった調子で口を開いた。
「どうしました、アルタイル?」
アランは息子の顔を見つめて続きを待った。
息子がこうして改めて話があると言うのは珍しいことだった。
アルタイルは嬉しそうでもあり、照れくさそうでもある表情で答える。
「イザベラが……妊娠しました。」
その言葉に、アランはレギュラスと顔を見合わせ、心からの喜びを浮かべた。
「よくやりましたね、アルタイル。そしてイザベラも。」
レギュラスが満足そうに声をかける。
「おめでとうございます、アルタイル。そしてイザベラも。」
アランも温かな言葉を重ねた。
かつてはヴァルブルガが、そして自分が、次はイザベラが――
ブラック家の血筋が確かに繋がれていく瞬間を目の当たりにして、深い感慨に包まれた。
もう本当に何も心配することはないのかもしれない。
肩の荷が降りたという言葉以上の安堵が、アランの胸を静かに満たしていく。
それと同時に、命の循環や輪廻のようなものを薄らと意識するようになった。
母が危篤であるように、自分のこの身体の不調も、きっともうこれ以上回復することはないのだろう。
今がこれから先の未来の中で一番平穏な時なのだという、予感めいたものが確かにあった。
自分の命や母の命が終わりに近づく一方で、このブラック家にはまた新たな風が吹く。
アルタイルとイザベラの子として、ブラック家の血を継いでいく尊い命が生まれてくるのだ。
そう思うと、不思議なほど心が穏やかな気持ちで満たされていく気がした。
「母さん、この子が生まれる頃には、元気に抱いてくれますよね?」
アルタイルが希望に満ちた声で尋ねる。
「ええ、もちろんです。」
アランは果たせるかどうか分からない約束にも、力強く微笑んで答えた。
朝の陽だまりが食卓を優しく照らし、家族の温かな時間がゆっくりと流れていた。
レギュラスは席を立つと、ワインを持ってきた。
グラスを二つ手に取り、その片方をアルタイルに差し出す。
「注ぎましょう。」
アルタイルが嬉しそうに応じる。
「朝からですか?」
アランが少し呆れたような声で言った。
「ええ、祝い事ですから。飲まなくては。」
レギュラスは当然のように答える。
この人は、本当に——最近は何かにつけて酒を飲んでいる気がする。
何かしら思い詰めているものがあるのだろう。
それを話そうとしないのだから、アランにはレギュラスが抱え込んでいるものの正体まではわからない。
わかったところで、もう一緒に背負ってあげられるほどの時間は残されていないのだろうと思うと、「共に分け合おう」などという軽はずみなことは言えなかった。
「ほどほどにしてくださいませ。」
イザベラが優しく忠告する。
「ええ、本当ですよ。」
アランも同調した。
男たちは忠告を受け流すように、ワイングラスを傾けている。
二人とも未来への希望に向けて、キラキラと微笑みながら笑っていた。
久しぶりに、レギュラスがこんなに心から笑っている顔を見たような気がした。
母の危篤を知らせてくれた時、一緒に涙を流してくれたこの人が、今、新たな未来の命に心からの喜びを露わにしている。
アランは胸がいっぱいになった。
この人を喜ばせてあげられる何かが、自分のいなくなった後の世界でもちゃんとあるのだと思える。
それだけで、安心できるような気持ちだった。
レギュラスはアルタイルと共に、かつてアルタイルを妊娠したことがわかった時の感動や興奮を思い出すように語り聞かせていた。
アルタイルも嬉しそうにそれを聞いている。
その光景をアランは見つめながら、静かに微笑んだ。
「イザベラ、これから母として強く生きねばいけませんね。」
アランがイザベラに向かって言う。
「はい、奥様のように強く美しくあれるよういたします。」
イザベラが真摯に答えた。
アランはイザベラに向けて微笑みを浮かべる。
自分は決して強かったわけではないのだと言おうかと思った。
弱かった部分があまりにもたくさんありすぎて、レギュラスをどこまでぼろぼろに傷つけてしまったことか。
けれど、それを語るにはこの祝いの席では重すぎる気がして、これ以上は言わないことに決めた。
「私がいなくなった後、夫のこと……お願いしますね。」
アランが静かに言った。
「やめてください、奥様。」
イザベラが慌てたように言う。
アランは「冗談です」というように軽く微笑んでみせた。
半分冗談で、半分本気で。そのくらいで伝わればいいと思った。
朝の陽だまりが食卓を優しく包む中、複雑な想いが静かに交錯していた。
レギュラスがふわりと穏やかな笑みを浮かべているのを見て、アランの心もどこか晴れやかだった。
だから、母のもとへ行くことはやめたのだ。
こんな喜ばしい話を聞いた後に、死を待つばかりの母のそばへ行くのは、この幸福な空気感とはあまりにもかけ離れすぎていた。
「とても機嫌が良さそうですね。」
アランは優しい声でそう言った。
「ええ、もちろんですよ。男児だったらもう言うことなしです。」
レギュラスは笑みを深めて応じる。
「女児でも、セレナのようにこの国の王に嫁ぐ可能性がありますからね。」
アランの言葉に、レギュラスは楽しげに笑い声をあげた。
セレナの芯の強さ。
決して揺らぐことのない意思の強さ。
温室育ちの令嬢などという言葉に収まらない誇り高さ。
そのどれをとっても、ブラック家の血が濃く受け継がれている証だった。
さすがはレギュラス・ブラックの娘だと、誰もがその強く美しい姿に目を見張るだろう。
「本当に、あの子は傑作です。むしろ女でよかったですよ。男だったら、アルタイルと——」
レギュラスが意味深に言葉を濁すと、
「玉座を賭けて戦っていましたね。」
と続け、二人は笑い合った。
アランもつられて微笑む。
本当にそうだと思ったからだ。
セレナ・ブラックの貪欲さと気高さ。
それがアルタイルとぶつかることなく、きちんと兄妹で支え合いながら育ってきたこと。
きっとそれは、二人が異なる性別であったからこそ成し得た奇跡なのだろうと。
柔らかな朝の光が部屋を満たし、二人の心にも新たな未来への希望が静かに芽吹いていた。
その夜、レギュラスはアランをそっと抱いていた。
正確には、抱こうとしていた。
アルタイルの祝い事のおかげか、日中から比較的体調が良さそうだったアランに、少しだけ深く溶けるようなキスをしてみた。
困惑も拒絶もなく、静かにすべてを受け入れてくれる温かさがそこにあった。
空気感はそのまま深い愛を交わせるほどの穏やかさに包まれていた。
けれど、アルタイルと朝から夜まで相当な量を飲んだせいか、思うようにいかなかった。
服だけは脱いだ状態で、うまく応えてくれない自分の身体に情けなさと苛立ちを感じる。
アランは「ふふふ」と静かに笑った。
笑われるなんて心外だった。
文句を言ってやろうにも、機能不全になるまで飲み続けていたのは自分であって、朝の時点で飲みすぎないようにという忠告もされていたにも関わらず、このざまなのだから言い返す言葉がなかった。
「本当に、笑わないでください。」
レギュラスは困ったような声で言った。
「飲みすぎをやめようって気になりました?」
肌けたナイトドレスを整えながら言うアランは、あまりにも美しくて、惜しいことをしてしまったという感情が押し寄せてきた。
「歳ですかね……」
レギュラスがぼそりと呟く。
「飲みすぎですよ。」
アランは優しく、しかしはっきりと答えた。
本当に、もう。
こんなふうにアランの体調も良くて、夫婦の時間をゆっくり取れる夜なんてほとんどなかったのだから、今夜は絶好の機会だったというのに。
ふわふわとしたままの意識と、気持ちは高ぶっても身体が応えてくれない状況に、静かな悔しさが滲んだ。
寝室に漂う薄闇の中で、二人は静かに寄り添いながら、笑いと愛情に包まれた時間を過ごしていた。
程なくして、セシール家の夫人の訃報が届いた。
アランとともに出席した葬儀で、レギュラスは誰よりも涙が止まらなかった。
それは、そう遠くない未来に自分がアランを失わなければならないという痛ましい現実と重なっていたからだった。
「母さんも、父さんも、気を強く持ってくださいね。」
アルタイルの言葉に、レギュラスは深く頷いた。
「ああ、ありがとう、アルタイル。」
アランは遠くを見つめていた。
その瞳に映る未来がどんなものか、誰も知ることはできなかった。
ただ、彼女の内に宿る静かな覚悟が胸を締めつける。
レギュラスはそっとアランの肩を抱き寄せた。
疲れた彼女の頭が、そのままレギュラスの肩にそっと寄りかかる。
亡くなったセシール家の夫人には、ただ感謝の意を捧げたいと思った。
こんなにも愛すべき人をこの世に生み落とし、
大切に、美しく、気高く育て上げてくれたこと。
そしてブラック家との縁談を決断してくれたこと。
その全てに対して、言葉では言い尽くせないほどの恩義を感じていた。
埋葬の儀式で、棺の上に花を置き、土で静かに覆い隠す作業を行いながら、レギュラスはアランの手をしっかりと握っていた。
アランの頬には涙の跡がはっきりと見えた。
「もっと、ゆっくり会いに行けばよかったです。」
レギュラスは痛ましい思いを吐露する。
「ええ。でも、私はもうブラック家の人間ですから。女は嫁いだら、そういうものです。」
アランの言葉には、長年の経験と覚悟が静かに滲んでいた。
その言葉に、悲しみと同時に強さも感じられた。
二人は無言のまま、互いに寄り添いながら、かけがえのない時間を過ごしていた。
馬車の窓から見える景色は、秋の気配が漂う田園だった。
沈みかけた夕日が、低い雲の切れ間から金色の光を送り込む。
セシール家の重い空気を抜けてきたばかりの二人の乗る馬車は、静かな揺れの中で静謐に満ちていた。
アランはレギュラスの隣で、物音一つ立てぬ静けさのまま外を見つめていた。
道端の細い草の揺れにも、遠くの村の灯にも、ここから続く人生の先のことが重なって見えた。
母が息を引き取ったと聞いたあの空気。
父がただただ打ちひしがれて泣き続けた姿。
それとまったく同じ悲しみに、今度は自分が夫レギュラスの心を落としてしまうのだろう。
そう思うと、胸が締め付けられそうだった。
人生を振り返れば、レギュラス・ブラックの愛は、折に触れて、季節が巡ってもなお途切れることなく、絶え間なく注がれ続けてきたものだった。
たとえ拒絶しても、傷つけてしまっても、決して手を離そうとしないその人の眼差しと、残してくれた確かな温もり。
果たして自分は、それほど強く、変わらぬ愛を彼に返せただろうか。
そんな問いが心に静かに降り積もった。
馬車の座席の上で、アランはそっと隣のレギュラスの手に自分の手を重ねた。
ほんの少し冷たい指先を十分に包み込むよう、彼の手は大きかった。
「母のために泣いてくれたこと、とても感謝しています。」
その言葉は、静かに澄み切った本心だった。
母を慕う思いを、レギュラスも同じだけ持ってくれていた。
自分だけのものだと思い込んでいた愛情が、実はこうして誰かを通してもう一度深く結ばれているのだと感じた瞬間、涙がこぼれそうになった。
しばし沈黙が流れる。
やがて、レギュラスは反対側の手も優しく自分の手に重ねてきた。
男の手に包まれると、じんわりとした温度がそのまま掌、腕、心へと広がる。
言葉にしなくてもいいことが増えすぎていた。
残された時間は刻々と失われていくけれど、今夜この馬車の中の静けさの中だけは、すべての痛みも、後悔も赦されるような気がした。
母が生んだこの手を、いま誰よりも強く守ってくれる夫が隣にいる。
この人を、本当の意味で愛せたこと、そして愛され続けてこられたこと。
その事実だけが、病に侵された身体にも──寂しくなる心にも、静かな灯をともしてくれている。
どこまでこの愛を返せただろう。
答えは出ない。
だけど、最後の日の一瞬まで自分なりの愛を注ぎ続けていこうと思った。
秋の夜の馬車は、静かに家へと向かっていた。
二人きりの時間が絵画のような静けさに満たされていく――
温もりを重ねたその手が、未来を信じて離れなかった。
馬車のゆるやかな揺れの中、アルタイルは父と母を正面に座らせたまま、静かに二人のやりとりを聞いていた。
父レギュラスは優しく母アランの手を包み込み、時折しっかりと頷く。
その手と手が重なった光景は、誰かの目には気恥ずかしく映るのかもしれない。
けれどアルタイルは、目を逸らしたくなるどころか、ずっと見ていたかった。
凛然とした父の姿。
病に侵されながらもなお美しさを失わない母。
この二人こそがアルタイルにとっての、世界すべてに等しい誇りそのものだった。
こんなにも気高い父と、圧倒的な美しさを持つ母のもとに生まれ、育てられた自分は――
間違いなくブラック家の正統な後継者。
魔法界を導いていくべき純血の誇りが自分の中に染み込んでいると、今ほど強く実感できる瞬間はなかった。
けれど、その誇りの陰には、どうしようもなくチリチリと痛みが走っているのもまた事実だった。
あんなにも偉大な父が、何よりも恐れているもの。
それは、本当に母を失ってしまうことなのだ。
気高く、屈強な父が、痛いほど目の前でその現実に怯えていること。
それが、見ているだけで胸を張り裂けそうにさせる。
忘れもしない幼い日の記憶が、ゆっくりと蘇る。
妹セレナを生む最中であった母は、命懸けの難産で死の境をさまよっていた。
祖父母――オリオンやヴァルブルガは容赦なく、愛する母ではなく赤子を優先しようとしていた。
「優先すべきは赤子を」と言い切ったヴァルブルガの冷ややかな声を、父が確かに制してくれた。
幼いアルタイルは、扉の向こうでただじっと、母の安否を祈りながら待っていた。
あの時、父の勇敢な決断がなければ、いまの家族はきっと存在しなかった。
あのとてつもなく大きな感情の波――
母を失うかもしれなかった恐怖、父が守ってくれたという絶対の安心――
その鮮烈な記憶は、今も心の奥底で鮮やかに息づいている。
きっとこれから先、人生のどんな場面でも、母を守る決断をしてくれた父への感謝だけは一生忘れることはないだろう。
「僕も、父さんに感謝してるんですよ。」
ふいにアルタイルは呟いた。
何を、とまでは言わない。
けれど、その言葉は父と母の心に温かく波紋を広げた。
レギュラスとアランは、顔を見合わせて微笑み、アルタイルと目を合わせるように笑った。
家族で共有する、かけがえのない思い出と絆が、今再び部屋の空気を優しく包み込んだ。
沈黙が優しく流れる馬車の中で、
幸福と哀しみが織り交ざる家族の時間が、静かに流れていった。
それぞれの胸に秘められた感謝と誇り、そして、儚くも強い愛情が確かにそこにあった。
