5章
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法務部の厳粛な聴取を終え、ようやく重い疲れを抱えて外へと足を踏み出したレギュラス。
広場に差しかかった瞬間、遠くから自分を待つアランの姿が目に入った。
「アラン、なぜここに?」
彼の声には驚きと心配が混じっていた。
アランは弱々しくも毅然と答える。
「あなたたちの帰りが遅いからです。」
すると、傍らに控えるアルタイルが静かに口を挟んだ。
「母さん、まだ体が回復していないんです。無理はやめてください。」
レギュラスはそんなアランの薄着を心配し、すぐに自分のローブを広げて肩にかけてやった。
その仕草には、言葉を超えた深い愛情があった。
「やっぱり、私が証言しましょうか?」
アランがそう切り出す直前、レギュラスは優しくその言葉を遮った。
彼の手がそっとアランの唇に触れ、柔らかな温もりを伝える。
そして耳元で囁いた。
「アルタイルの前ではお静かに。」
その言葉にアランは微かに笑みを浮かべ、しかし深い信頼を感じてうなずいた。
「さあ、帰りましょう。」
そう言って、レギュラスはゆっくりとアランの手を取り、しっかりと絡め取った。
優しく手を握り返すアランの指先に、互いの絆の強さが静かに息づいているのを感じられた。
アルタイルは一歩身を引き、ふたりの姿を見守っていた。
その背には、親子の絆と、これから歩む未来への希望が確かに宿っていた。
夕暮れの空が穏やかに染まり、三人の影がゆっくりと伸びていく。
アルタイルは胸の奥で静かに安堵の息をついた。
父の抜け目のない供述と、母の無残にも折られた杖の証拠――それらすべてが、この困難な状況を乗り越える道筋を作り上げていた。
アメリカ国籍のマグルたちが無許可でイギリスに侵入し、さらには魔法界にまで足を踏み入れていた事実。
これらの証拠が積み重なることで、事態は父に有利な方向へと収束していくのがわかった。
当初、アメリカ大使館とそれを支持する魔法使いたちは、レギュラスの行為を「やりすぎだ」と厳しく非難していた。
しかし、あの男たちが魔法使いの人身売買に関わっていた者のリストに名前が載っていることが発覚した途端、その論調は一変した。
「イギリスの法で裁かれて然るべき」という声へと変わったのだ。
そのおかげで、父は咎められることなく、この困難を乗り越えることができた。
アルタイルの胸には、深い安堵感が広がっていた。
そして何より、母が父を案じる姿を目の当たりにして、胸の奥につっかえていた何かが溶けていくような気持ちになれた。
前方では、レギュラスが優しくアランに声をかけている。
「アラン、杖は戻されたらすぐに修理に出しますから。それまでは少し辛抱してくださいね。」
父は母の背にそっと手を添え、支えるようにして歩いている。
その姿には、言葉にできない深い愛情と労りが込められていた。
アルタイルは一歩下がったところから、両親の後ろ姿を静かに見つめながら歩き続けた。
家族の絆が、この試練を通してより一層深まったことを、彼は心の底から感じ取っていた。
夕暮れの道を歩く三人の影が、穏やかに地面に伸びている。
ホグワーツの休暇を受けて、セレナ・ブラックはブラック家の屋敷へと戻ってきた。
シリウス・ブラックの死を知ってから、初めての帰省となる。
重い扉をくぐる前から、セレナの胸には不安が渦巻いていた。
母アランが、一体父レギュラスにどのような想いで接しているのか。
その答えを知ることが、彼女には恐ろしくもあった。
しかし、迎えてくれた父と母は、どちらも穏やかで変わらない姿を見せてくれた。
表面的にはホッとしたものの、シリウスをずっと愛してきた母が何も感じないはずがないという確信めいた思いが胸の奥にあった。
だからこそ、母が何かを思い詰め、酷く残酷な選択をしてしまうのではないかという恐れが消えなかった。
「お母様、お身体が優れないんですってね。」
セレナは心配そうに声をかけた。
アランは微笑みながら答える。
「今日はあなたが戻ってくる日ですから。指折り数えていました。起きていられることに感謝しています。」
その時、母の手を見て、セレナは息を呑んだ。
酷く痩せているように見えた。
差し伸ばされたその手を、セレナは強く握り返す。
シリウス・ブラックが死の向こう側へ行ってしまったように、母もまた恨みや憎しみを抱えたまま、静かにそちら側へ行ってしまいそうな気がして――言葉にできないほどの恐怖に襲われた。
「お母様、ホグワーツでの出来事、たくさん話したいことがあるのよ。」
セレナは努めて明るい声を作った。
「薬草学のプロフェッサー・スプラウトが新しい実験を始めたの。マンドレイクの育成に関する研究で、私たちも手伝わせてもらったのよ。最初は恐る恐るだったけれど、意外と可愛らしい鳴き声で――」
「それから変身術の授業では、動物もどきの基礎理論を学んだの。マクゴナガル先生が実際に猫に変身して見せてくれたときは、教室中が驚きの声で溢れたのよ。私も将来は鳥に変身できるようになりたいって思ったわ。」
「クィディッチの試合では、レイブンクロー対スリザリンの試合があって、とても白熱したの。シーカーの動きが素晴らしくて、まるで空中を舞っているようだったわ。いつか私もあんな風に優雅に飛んでみたいと思ったの。」
「魔法薬学のスネイプ先生の授業は相変わらず厳しいけれど、複雑な薬の調合ができるようになったときの達成感は格別よ。先日は治癒薬の基礎を学んで、小さな怪我なら治せるようになったの。」
「寮の友人たちとは夜遅くまで魔法について語り合ったりもしたわ。魔法の歴史や理論、そして将来の夢について。みんなそれぞれ違う背景を持っているけれど、魔法への情熱は同じなのね。」
セレナは次々と楽しい話題を紡いだ。
アランはその一つ一つを楽しげに聞いてくれる。
しかし、その表情を見つめながら、セレナは胸を締めつけられるような思いを抱いていた。
母の微笑みの奥に隠された深い悲しみを感じ取りながらも、彼女は話し続けた。
せめて、この時間だけは母に安らぎを与えたいと願いながら。
その時、兄アルタイルが苦笑いを浮かべながらやってきた。
「母さんが困っていますよ、セレナ。」
アランは首を振り、穏やかに微笑んだ。
「いいえ、楽しそうに話してくれるあなたに、私の方が心が晴れ渡るような気持ちよ。」
セレナは胸の奥で複雑な思いに駆られた。
自分が話すホグワーツでの輝かしい日々は、もしかしたら母がその昔シリウス・ブラックと共に過ごした熱い時間を思い出させてしまうのではないだろうか。
今更ながら、あまり楽しげなホグワーツの話ばかりをするべきではなかったのかもしれないと思えてきた。
「お母様の話も聞きたいわ。」
セレナは母の隣に座り、肩に寄りかかるようにして甘えた仕草で聞いた。
アルタイルがにこやかに口を挟む。
「母さんはスリザリンの姫でしたから。それはそれは、いろんな話があるでしょうね。」
そういえば、母の口から過去の話をしてもらったことは、ほとんどなかったように思える。
母の過去となれば、どうしてもそこにシリウス・ブラックの影がついて回るような気がして――そうなると、父があまりにも報われない気がしてしまう。
聞くのが怖かったのだ。
アランはゆっくりと振り返り、静かに口を開いた。
「私があなたと同じ歳の頃は、いつもレギュラスが隣にいたの。」
その言葉に、セレナの胸が詰まった。
安堵でもあり、驚きでもあり、様々な思いが混じり合った。
「お父様、今と変わらないのね。」
アランは柔らかく微笑みながら答える。
「ええ、あの人は本当に……昔から何も変わりません。そこがいいところなのよ。」
その横顔がとても美しく思えた。
母の翡翠色の瞳に、きっと父の姿が映っているのだろうと思うと、セレナは心から嬉しかった。
母が自ら過去を辿りながら、父を愛おしそうに話してくれるなんて。
胸がいっぱいになりそうだった。
セレナにとって大切で偉大で、誇らしくてかっこいい人である父レギュラスを――今まさに母が認めて、愛して、それを子どもたちに語ってくれている。
その事実が、限りなく尊く思えた。
静かな午後の光が差し込む部屋で、家族の温かな時間が静かに流れていた。
セレナは父の書斎の扉をそっとノックした。しかし返事を待つことなく、扉を少し開けて中を覗き込む。
「まだ返事をしていませんが?」 レギュラスが苦笑いを浮かべながら振り返った。
「ええ、ごめんなさい。」 セレナは軽やかに謝ると、父のテーブルの前まで歩み寄り、両手をついて身を乗り出すようにしてレギュラスの顔を見つめた。
「どうしました?」 父の問いかけに、セレナの唇に微笑みが浮かんだ。
「お母様と同じ顔をしていますわね、お父様。」
どうしたのかと尋ねるとき、父も母も本当によく似た表情をするのだ。まったく違う二人なのに、その瞬間だけは驚くほど似ている。そのことがセレナには嬉しくて、胸の奥に温かな想いが広がっていった。
「アランと色々話していたみたいですね。」 レギュラスが静かに口を開いた。
「ええ、色々聞きました。お父様のことも。」
「そうですか……自分がいないところで色々言われるのは、小っ恥ずかしいものですね。」
照れたように、恥ずかしそうにそう言う父の様子に、セレナは胸が満たされるような気持ちになった。ずっと抱え続けてきた、心の奥底にこびりついていた不安が、少しずつ解かれているような感覚だった。
「いつもお母様の隣にお父様がいたそうですね。」
「当たり前です。あの人の隣は今も昔も、僕だけですから。」
その言葉にセレナは思わず吹き出してしまった。そして後から後から湧き起こる温かい想いに心が満ち溢れていく。
ずっと母だけを想い続けながら、シリウス・ブラックの存在と戦い続けた父。どれほど悔しい思いや虚しさを抱えてきた人生だったのだろう。シリウスを思い続けながらも、レギュラスの手を取らなければならなかった母。抑え込んだ想いと背負わなければならない未来に、どれほど苦しめられたのだろう。
幼い頃から、娘である自分の目から見ても、父と母は見ているものが違う気がしていた。決して交わることのない夫婦なのだと感じることもあった。だからいずれ、大切な二人がバラバラになってしまうのではないかと恐ろしく思っていた。
シリウス・ブラックの死がきっかけで、セレナが予感していた両親の心の距離が、埋められないほど深いものに変わってしまうのではないか——その不安で胸がいっぱいになることもあった。
けれど今、二人とも同じ表情をしていた。父の灰色の瞳には、ここにはいない母の姿が確かに映し出されているのだと確信できるものがあった。
連れ添ってきた年月がそうさせたのか、すれ違った数々の瞬間がそうさせたのか。虚しさもやるせなさも、叶わなかった想いも——その全てをひっくるめて、父と母が今、確かに寄り添って生きていってくれている。
そのことがセレナには何より嬉しく思えた。夕暮れの光が書斎の窓から差し込み、父娘の穏やかな時間を優しく包み込んでいた。
寝室の薄明かりの中、レギュラスはアランをそっと腕に抱いていた。
二人は互いの距離を感じながらも、それ以上に何かを確かめ合うかのように静かに寄り添っている。
「セレナに、何を言ったんです?」
レギュラスの声は、ほんの少しだけ緊張感を含んでいた。
「何を聞いたの?」
アランは目を閉じたまま、優しい声で返す。
レギュラスは一瞬、話そうかと口を開きかけたが、言葉がどこか恥ずかしくて詰まってしまった。
自分の口から、そのまま伝えるのが難しいことは、わかっているのに。
アランがゆっくりと身を捩り、レギュラスの方を向いた。
彼女の顔は、彼の目を避けるかのようで、恥ずかしさが隠せない。
「ちょっと、前向いててください。」
レギュラスは穏やかに言う。
「なんでです?」
アランは微笑みながら前を向いた。
二人はそのまま静かな笑い声を漏らしながら、部屋の静けさに溶けていった。
「あの子には、あなたがずっと側にいたと言ったわ。」
アランがぽつりと漏らす。
「そうですね。べったりと。」
レギュラスが肩をすくめて笑う。
「ええ、今も昔も変わりませんね。」
彼は柔らかく目を細めて言った。
「これからも、きっと変わらないでしょう。」
レギュラスの腕に、アランの手がそっと重ねられる。
その瞬間、ぎゅっと抱き寄せる腕の力が強くなった。
まるで長い間待ち焦がれていた安堵を、確かに掴み取ったかのように。
幸せが、静かに、優しく、二人の間を満たしてゆく。
望み続けたものに触れられた、その感覚だけが、すべてを語っていた。
その時間はよどむことなく、ただ温かな空気だけが流れていた。
法務部の密閉された部屋の中、重い空気が静かに漂っていた。
レギュラス・ブラックは、事件の取り締まりと後始末に追われていた。
今回の事件は、マグル生まれの若い魔法使いが、無許可でマグル界の人間を魔法界へ出入りさせていたことに端を発している。
その行為は、法律違反であるだけでなく、魔法界の秩序を揺るがしかねない、重大な事案だった。
取り調べの席で明かされた彼の言い分は単純だった。
「家族がマグル界に住んでいるから、自由に会いたかっただけだ。」
隣に座るルシウス・マルフォイは冷ややかに鼻で笑い、粗末に供述書をテーブルへ叩きつけた。
無言のまま、レギュラスはその様子を見つめていた。
純血魔法使いを最優先すべきだという考えは、彼の胸に今も根強く残っている。
過去、マグルやマグル生まれ、混血の魔法使いたちによって尊き純血魔法使いが脅かされてきた歴史を思えば、魔法族とそうでない種族の線引きは不可欠だと思っている。
その根本的な考えは変わらず、決して揺らぐことはない。
しかし、その若者の「家族と自由に会いたい」という切実な願いは、レギュラスの胸に鋭く、ひどくこびりつくような何かを残した。
「どうした、サインしたまえ。」
ルシウスが促す。
「ええ、そうですね。」
レギュラスは静かに応じ、二人分の連名で罪状にペンを走らせる。
マグル生まれの魔法使いに同情すれば、デスイータとしての自分の立場に危うさを生じさせる。
だから公の場で彼に肩入れすることはできなかった。
もどかしさに胸が締めつけられる。
その男が若き日の兄シリウスに似ているように思えたからだ。
これは罪悪感ではない。いや、あってほしくない。
ただ、かつて兄が夢見た――マグルと魔法使いが融合した世界、理想郷のような場所を、この若者も信じているのではないかと思うと、心が苦しくなる。
彼を哀れな理想主義者として片付けるには、あまりにも切実な叫びをその中に感じ、無視できなかった。
そしてあの日のアランの言葉が、脳裏をよぎる。
「ひどかったわ……シリウスの死を、あんなふうに目の前で見せるなんて。」
彼女の泣きながら告げた悲痛な顔を、一生忘れることはないだろう。
詫びることも言葉も及ばず、ただぎこちない陳腐な謝罪が彼の唇から零れ落ちた。
それを、アランは受け入れて飲み込んだ。
目の前のマグル生まれの男に、シリウスの姿を重ねてしまう以上、
いつものように冷酷に、単純に有罪判決を下すことはできなくなっていた。
部屋の外では、街のざわめきが遠く聞こえる。
レギュラスはペンを置き、ゆっくりと深く息を吸った。
世界はいつも変わりゆく。
だが、理想と現実の狭間で揺れる心の葛藤だけは、時を経ても消えないものだった。
扉が静かに閉じられ、部屋に沈黙が訪れた。
ルシウスは先に長い廊下へと歩みを進め、その背中はまるでこの場の重さを遠ざけるかのようだった。
残されたレギュラスは、ゆっくりと囚われた若者のもとへ歩み寄る。
その顔には薄く緊張が張り付き、怯えた様子が滲んでいた。
かつて記憶の中で輝いていたシリウス・ブラックの姿とは違い、弱々しく、情けなささえ感じさせる切実な表情だ。
罪滅ぼしなどではない。
そう信じたい。
こんな行為が罪の赦しに相応しいはずもない。
ただ、それでもその若者に向けて差し出した手は止めることができなかった。
「一度だけ、見逃しましょう。次はないと思ってください」
レギュラスの声は低く渋く、部屋の壁に染み込むように重く響いた。
ルシウスが先に署名した書類を、レギュラスは静かに呪文で跡形もなく消し去る。
夜風のように透明に、無に帰していく紙片。
そして、新たに用意した白紙に彼は無罪判決を書き記す。
署名はレギュラス・ブラックの名のみ。孤独で重い決断だった。
若者の手首には魔法の枷がはめられている。
それも、術を唱え静かにその拘束を解放した。
「どうせ、取るに足らない事件。新聞の片隅にも載らないだろう。」
独断の判決だけれども、誰にも咎められないと踏んだのだ。
彼は言葉少なに扉へ向かい、部屋を出ていく。
廊下の先には待機していた数名の警護の魔法使いたちが立っている。
レギュラスは彼らに静かに告げた。
「証拠不受理にて不起訴、釈放です。」
心の中で小さな言い訳が囁いた。
「別に助けたわけではない。」
だが、もしあの若者に兄シリウスの面影をほんの一瞬でも重ねたのなら。
せめて、彼には強くあってほしいと願わずにはいられなかった。
兄と同じくらいに。いや、むしろ越えようとするほどの強さを。
夜の闇が窓の外を包む。
街の灯りがぼんやり揺れながら、ひとりの魔法使いの決断と孤独を優しく包み込んでいた。
アリス・ブラックは重い書類の山の中に座っていた。
その指がページをめくるたびに、静かな室内の空気がほんの少しだけ揺れ動く。
ふと、一枚の書類に目が留まった。
レギュラス・ブラックの署名が鮮やかに躍るその証書は、まさかの一文を告げていた。
マグル生まれの男への無罪放免——明確に、冷静に、彼の名前で許された記録だった。
アリスは目を疑った。何度も見返した。しかし間違いはなかった。
あのレギュラス・ブラックが、無罪という言葉をその男に与えたのだ。
かつて冷酷の極みのように、血も涙もないと言われた彼が。
理知と氷のような心で、決して迷いなく振るわれてきたその杖が。
なぜだ。なぜ彼がそんなことを?
その理由が見つからず、思考は宙を漂い、何か大きな謎に行き着いたような気がした。
一瞬、それは裏があるに違いないとさえ思えた。
表の顔だけでは語れぬ深い闇や、秘められた意図。
心の奥で、長くくすぶっていた怒りが再び燃え上がる。
シリウス・ブラックを死に追いやった男への復讐の念。
その思いは、どれほど抑えようとしても胸の内でたぎり、燃え広がって止まらない。
それが、たとえ――自分を救ってくれたアランが、最終的に選んだ相手だとしても。
アリスは椅子にもたれ、深く息を吸った。
言葉にならない想いが静かに心を満たし、揺れ続ける。
外の世界は静かな夜に包まれ、月光が遠く揺れている。
彼女の心の中では、嵐が静かに準備を始めているのだった。
夜の静寂に包まれた寝室で、レギュラスはそっとアランを腕に抱いていた。
彼の腕の中で、彼女の身体はかすかに震え、羽のように細く、儚げに感じられた。
ほんの少しだけ、久しぶりに夫婦の間に温かな触れ合いがあってもいいのではないかと、彼は心の中で思った。
しかし、その思いはすぐに現実の冷たさに飲み込まれる。
アランの体調は日に日に目に見えて弱っていた。
細くなった手先、かつての翡翠の瞳の輝きは弱まり、その深みに微かな疲労の色が刻まれている。
このまま彼女が、まるで風に吹かれて消えゆく花弁のように消えてしまいそうで、レギュラスは必死にその儚さを手繰り寄せるように抱きしめていた。
「アラン、早く元気になってください。」
願うように声をかける。
「ええ、日に日に良くなってるわ。」
アランの言葉は穏やかで、美しい嘘だった。
その嘘をレギュラスは知っていた。だが、知らぬふりをして、その言葉に安堵を求めているかのように見せていた。
しばらく抱き合ったまま、アランが静かに口を開く。
「レギュラス……お願いがあるの。」
その言葉に、彼はすぐに身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。
弱り切った翡翠の瞳が、彼をまっすぐに見据えていた。
「あなたがくれた、このネックレスを……アリスに渡してもいいかしら。」
その血の誓いを込められた赤いネックレスは、攻撃呪文を全て術者であるレギュラスに跳ね返らせる究極の守りの魔法を宿している。
死の呪文さえ拒む強大な力が秘められているその宝物を、アランはアリスに託そうとしていた。
胸に鋭い痛みが走る。
生きようとすることさえ放棄された彼女の覚悟と、命をかけて守ろうとするはずの自分の想いがまるで無視されたような、そんな虚しさが胸を締め付ける。
だが、弱りながらも絞り出すような強さがアランの瞳に宿っていた。
「それが、今までのことへの贖罪になりますか?」
レギュラスの声は震え、言葉に迷いがあった。
「贖罪だなんて考えないで。これは、私からのお願いよ。」
アランは優しく、まるで風のように答えた。
彼女はそっとレギュラスの胸に顔を埋め、頬を擦り付ける。
「あの子に何かあれば、あなたのその力ならきっと守ってあげられる。
私にもシリウスにもできなかったことよ。
でも、あなたにならできる。」
「……あの子を守れと?」
レギュラスはその願いをか細い声で返した。
「お願いしたいの。
私はもう長くはないでしょう。
こんな立派なネックレスに守られるほど、先の長い命じゃないわ。」
「やめてください、アラン。」
レギュラスの声は、押しつぶされそうなほど痛みに震えていた。
彼女の言葉が胸を深く抉る。
「もう長くはない。」
それは彼自身、多くの医務魔女から告げられた厳粛な事実でもあった。
しかし、その言葉が、彼女本人の口から発せられることは耐え難かった。
重く沈む夜の空気のなか、二人は静かに寄り添い、言葉の届かぬ場所で繋がり合っていた。
アランがレギュラスに微笑みかけた。
それは「そんな悲しそうな顔をしないで」と言いたげな、やわらかくて透明な笑顔だった。
でもレギュラスの心の中の不安は、その微笑みでも消し去ることはできなかった。
アランが必死にアリスを守ろうとすることを、きっともう否定してはいけないのだと思った。否定できないのだと。
思い返すと、アランがずっと思い続けてきたシリウスのことを無理やり終わらせるために、彼の死を目の前で見せつけるなんてことをしてしまった。
アランの絶望と悲しみを間近で見て、ようやく気づいたのだ。
自分がどれほど残酷なことをしてしまったのかということに。
それは純粋な気持ちだったはずだった。シリウスではなく、自分を見てほしいという。
幼い頃からずっと抱き続けてきた恋心だったのに。
夫婦になってからも、アランの心はどこかシリウスのもとに置いてきているのではないかという疑念を拭うことができなくて、何度も何度も彼女を縛りつけてしまった。
想いが募れば募るほど、いつの間にか執着という形に変わって、愛している人を苦しめる重い枷になってしまっていたのだ。
「アラン、許してください。」
レギュラスは泣きそうだった。
後悔と無念と情けなさと、それでも変わらない愛しているという気持ちが、ぐるぐると胸の中で混じり合って。
「もう、なんて顔してるの。」
アランはそれでもやっぱり微笑んでいた。
その笑顔は春の日の光みたいに、やさしくてあたたかくて、レギュラスの心をそっと包み込んでくれるような気がした。
どんなにひどいことをしてしまったとしても、彼女はこうして微笑んでくれるのだ。
「レギュラス、愛しています。本当に。」
アランの声は静かで、まるで風に溶ける水のように透明だった。
その言葉が胸に届いた瞬間、レギュラスの心は軋むように痛んだ。
どう慰めていいのかわからずに、彼女が欲しがっている言葉を探して出してくれたのかもしれない。そんな風にも思えた。
けれど、アランから発せられる「愛している」という一言は、何よりもレギュラスにとって宝物のような響きを持っていた。
長い間求め続けてきた言葉が、ついに彼女の唇から零れ落ちる。
それは彼の人生の中で最も美しい音楽のように聞こえた。
泣きそうな顔をしている自覚があった。
それでも彼は微笑んでみせる。
「ええ、僕もですよ。」
レギュラスの声は震えていた。
アランは身体を離し、そっとレギュラスの頬に手を添えた。
その手のひらは温かく、優しい重みがあった。
「私をずっと思い続けてくれたあなた。
子どもたちの立派で勇敢で、誇り高い父。
この家の素晴らしき当主。
どのあなたも、本当に、私の大切なあなたです。」
その言葉一つ一つが、レギュラスの心の奥深くに染み込んでいく。
もう涙を堪えることをしなかった。
静かに温かいものが頬を伝うのがわかった。
それは解放の涙だった。
長い間押し殺してきた感情が、ついに外へと流れ出していく。
「あなたは、そんな顔をして泣くのですね。」
アランが優しく呟く。
「みっともなくてすみません。」
レギュラスは涙声で答えた。
「よく、シリウスの隣で泣いていたあなたを思い出すわ。」
アランの声には懐かしさが込められていた。
幼少期、兄に悪戯をされて力なく泣くしかなかった頃の話を、今更持ち出されるとは思わなかった。
レギュラスは泣きながらその記憶を辿り、懐かしさと共に微笑んだ。
あの頃は何もかもが単純だった。
兄の悪戯に泣かされ、母に慰められ、そして翌日にはまた兄と遊んでいる。
そんな繰り返しの日々。
時の流れは残酷で、優しい。
あの頃の純粋さは失われたが、代わりに得たものもある。
愛することの深さ、痛み、そして今この瞬間の美しさ。
「ありましたね、そんなことも。」
レギュラスは涙を拭いながら答えた。
部屋の空気は静かに流れ、二人の間に温かな沈黙が訪れる。
窓の外では夜が深まり、星々が静かに輝いている。
時間は止まらない。
それでも、この瞬間だけは永遠に続いてほしいと思った。
愛する人の手のひらの温もりを感じながら、レギュラスはその願いを心に刻んだ。
朝の陽だまりが食堂の窓から差し込む中、いつもなら五人で囲むはずの食卓に、今朝は四人だけが座っていた。
父レギュラス、兄アルタイルとその妻イザベラ、そして自分――母アランの席だけが、静かに空いている。
セレナはその光景を見つめながら、胸の奥で何かが締め付けられるような苦しさを感じていた。
ホグワーツを卒業すれば、イングランド国への嫁入りが決まっている。
母と共に食事を囲める時間は、もう残り僅かしかないというのに――その貴重な時間さえも奪われてしまうことが、ひどく悲しかった。
「お母様は、お身体が優れないのかしら。」
セレナは静かに尋ねた。
「ええ、今朝は特にきついそうです。」
レギュラスの返事は、いつもの力強さを欠いていた。
「医務魔女は何と?」
セレナは更に問いかけた。
何となく、母の病状があまり良くないことは察していた。
けれど詳しいことはまだ聞いていなかった。
だからこそ、知りたかった。
自分には後どのくらい、母との時間が残されているのか。
「セレナ、後で僕と話しましょう。」
アルタイルが静かに口を挟んだ。
わざわざ食事の席で話すべきことではない、という含みがその言葉にあった。
その一言で、セレナは全てを理解した。
長くないのだ、きっと。
理解した瞬間、鼻の奥がツンと痛んできた。
涙など流したくなかった。
そんなものは、誇り高く強いセレナ・ブラックには似合わない。
ナイフを握る手に力を込めて、必死に耐えた。
「お父様、できる限りお母様との時間を作ってほしいわ。任務よりも何よりも優先してください。」
セレナの声は静かだが、確固とした意志を含んでいた。
「ええ、そのつもりです。」
レギュラスの答えも、どこか細く、力ないものだった。
その声の震えが、セレナの胸をさらに締め付けた。
父レギュラスは、自分にとってずっと目指すべき強さの象徴であり、誇りであり、憧れだった。
セレナにとって全てといっても過言ではない存在だった。
そんな父が、これから訪れるであろう母を永遠に失うことへの恐れと悲しみを、隠すことなく曝け出している。
その姿があまりにも痛くて、苦しくて、悲しくて堪らなかった。
朝の光は変わらず優しく差し込んでいるのに、食卓を囲む四人の心には、言葉にできない重いものが静かに横たわっていた。
朝食の静かな余韻がまだ部屋を包む中、セレナは兄アルタイルと向かい合って座っていた。
言葉を探しながら、アルタイルは何度も口を開こうとしたが、なかなか言葉が続かない。
セレナはただ頷くことしかできなかった。
それならと、自ら切り出す。
「余命は、どのくらいと告げられましたか?」
アルタイルはゆっくりと首を振った。言葉にしなかったが、それが一番心を休ませる結論だったのだろう。
苦しむ時間が明確に示されることの辛さを思えば、まだましなことだとセレナは深く胸を撫で下ろした。
「父さんが、かなりショックを受けています。」
アルタイルの声は静かだった。
「そうみたいね。様子が全然違ったもの。」
セレナは静かに同意しながらも、内心の震えを隠せなかった。
支えたい、という思いは強かった。
あの父には、いつだって強くあってほしい。
誇りを失わず、力強く、誰にも負けない魔法界最強の存在でいてほしい。
娘として、ずっとその父を誇りに思い続けて生きたい。
「お兄様、どうかお父様を、支えてあげてください。」
その言葉には願いがこもっていた。
この誇り高きブラック家を正当に継ぐのは、兄アルタイル・ブラックである。
自分はイングランドの王子との婚約を控え、家を離れ、姓も変わる。
この家に残って父の側にいることはできない。
だからこそ、これからのことを託せるのは兄しかいなかった。
静かな覚悟を胸に、セレナは膝をつき、隣に立つイザベラに向けて深く頭を下げる。
「どうか、私たちの父を、そして兄を支えてくださいませ、イザベラ様。」
イザベラは微笑みを浮かべ、静かに膝をついた。
「顔をあげてください、王妃様。」
二人は膝をついたまま、同じ高さで並ぶ。
イザベラはすでに、セレナを王妃と呼んでいた。
イングランドへの嫁入りが正式に決まり、戴冠式を終えたその日から、彼女の中でこの国の王妃はセレナ・ブラックに変わっていた。
日差しが差し込む窓辺で、未来への重責と家族への想いが交錯する。
静かに、しかし確かに訪れる変化を、三人は受け入れていた。
騎士団の本部で、アルタイルの姿を見つけたメンバーたちはざわめいていた。
法務部の魔法使いが突然現れることは、決して日常的なことではない。
「すみません、急に押しかけてしまって。」
アルタイルは丁寧に頭を下げた。
「随分と大きくなったのね。間違えたわ。」
アリス・ブラックは軽やかに笑いながら彼を見つめた。
ホグワーツを卒業して数年。法務部での仕事にも慣れてきた今、確かに以前セレナに見せていたような青年らしさとは違った、大人の風格を身につけているのかもしれない。
アルタイルは静かに封筒を取り出し、アリスに差し出した。
「これを、母があなたに渡したがっているそうで。父から預かりました。」
アリスは怪訝そうな表情を浮かべながら受け取る。
アルタイルはその様子に、ほっと安堵の息をついた。
アリスが父レギュラスを良く思っていないこと、むしろ憎しみさえ抱いていることを察している。
だから、父からの贈り物だと言ってしまえば、嫌悪感を抱かせてしまうだろうと分かっていた。
「何かしら。」
アリスが封筒を見つめながら呟く。
「分かりません、僕も見ていませんから。ただ、母の言葉では『肌身離さずつけてほしい』とのことでした。」
アリスが封を開けると、そこには見慣れた赤いネックレスがあった。
いつの間にか当たり前のように母の胸に付けられていたはずのもの。
それがどういった意味を持っているのか、アルタイルには分からない。アリスもまた同様だった。
ただ預かったから渡した、それだけの構図。
けれど、母の深い思いが詰まっているのだろうことだけは理解できた。
「何か意味があるのかしら。」
アリスが静かに問いかける。
「すみません、僕にも分からなくて。」
アルタイルは申し訳なさそうに答えた。
その時、アリスが微笑んだ。
父を憎むのと同じように、自分もまたアリス・ブラックに嫌悪される存在なのだと思っていたから、こうして微笑んでもらえたことに、胸を撫で下ろすような安堵が湧いてきた。
アリス・ブラックは、母が昔命をかけて守ったマグル生まれの少女だったそうだ。
詳しくは聞いていない。けれど、アリスと母の間には自分たちの知らない深い絆があるのだろう。
もしかしたら、アリスは母のことを本当に母のように慕っていたのかもしれない。
けれど、母は自分とセレナの母であり、アリスの母ではない。その事実がアリスを苦しめることもあったのかもしれない。
きっと、お互い多くを語ることはしないのだろう。
けれど、母が命懸けで救おうとした命を前に、敬意を示していきたいと思った。
たとえ、彼女がブラック家の名を背負うことに疑問を抱く気持ちがあったとしても。
静かな午後の光が差し込む中、二人は言葉少なに、しかし確かな理解を交わしていた。
「アランさんは元気にしてますか?」
アリスの素直な問いかけに、アルタイルの胸は締めつけられた。
どう返すべきなのか。
本当のことを告げてもいいものなのだろうか。
もし真実を伝えたとして、アリスが母を見舞いたいと言い出したら――アリス・ブラックをあのブラック家の屋敷に招くことを、父が許すはずもない。
そう考えると、母の病状のことは言わずにおいた方がいいような気もした。
心は揺れ続けていたが、やがて一つの答えに辿り着く。
本当のことを告げるべきだ。
見つめている未来が違っていても、考え方が根本的に交わらないものであったとしても。
アリス・ブラックという人が、母を大切に思ってくれている――それだけは揺るぎない事実だから。
自分が母を想うように、アリスもまた深く想ってくれている。ならば、伝えないわけにはいかない。
「言いづらいのですが……母は伏せっていて。もう長くは……なさそうです。」
アルタイルは言葉を紡ぎながら、自らの声が消え失せるかのように細く震えているのを感じた。思わず涙がこみ上げてきそうになる。
アリスは息を呑み、その言葉をゆっくりと受け止めようとしていた。
まるで重い石を飲み込もうとするかのように、時間をかけて咀嚼しているようだった。
いきなりそんなことを告げられて、すぐには受け止められるはずもない。
やがて、アリスは目を大きく開いたまま、瞬きもせずに涙を零し始めた。
その涙があまりにも痛くて、苦しくて、見ているだけで胸が締めつけられた。
「ありがとうございます……母のために泣いてくれて。」
その言葉は、とうとう口にすることができなかった。
代わりに深く頭を下げて、静かにその場を去ろうとした。
背を向けた瞬間、アリスの嗚咽が後ろから聞こえてきた。
その音が胸を突き抜けて、アルタイルも堪えきれずに涙が溢れ出した。
医務魔女から母の病状を聞かされたときでさえ、泣かなかった。
妻イザベラに慰められたときでさえ、父を支えなければという使命感だけで涙を堪えることができた。
けれど今、こうして母の現状を他の誰かに伝えて初めて、一人のアルタイル・ブラックとして、素直に涙を流すことができた。
廊下を歩きながら、彼は母への想いと、それを共有してくれる人がいることの温かさに包まれていた。
広場に差しかかった瞬間、遠くから自分を待つアランの姿が目に入った。
「アラン、なぜここに?」
彼の声には驚きと心配が混じっていた。
アランは弱々しくも毅然と答える。
「あなたたちの帰りが遅いからです。」
すると、傍らに控えるアルタイルが静かに口を挟んだ。
「母さん、まだ体が回復していないんです。無理はやめてください。」
レギュラスはそんなアランの薄着を心配し、すぐに自分のローブを広げて肩にかけてやった。
その仕草には、言葉を超えた深い愛情があった。
「やっぱり、私が証言しましょうか?」
アランがそう切り出す直前、レギュラスは優しくその言葉を遮った。
彼の手がそっとアランの唇に触れ、柔らかな温もりを伝える。
そして耳元で囁いた。
「アルタイルの前ではお静かに。」
その言葉にアランは微かに笑みを浮かべ、しかし深い信頼を感じてうなずいた。
「さあ、帰りましょう。」
そう言って、レギュラスはゆっくりとアランの手を取り、しっかりと絡め取った。
優しく手を握り返すアランの指先に、互いの絆の強さが静かに息づいているのを感じられた。
アルタイルは一歩身を引き、ふたりの姿を見守っていた。
その背には、親子の絆と、これから歩む未来への希望が確かに宿っていた。
夕暮れの空が穏やかに染まり、三人の影がゆっくりと伸びていく。
アルタイルは胸の奥で静かに安堵の息をついた。
父の抜け目のない供述と、母の無残にも折られた杖の証拠――それらすべてが、この困難な状況を乗り越える道筋を作り上げていた。
アメリカ国籍のマグルたちが無許可でイギリスに侵入し、さらには魔法界にまで足を踏み入れていた事実。
これらの証拠が積み重なることで、事態は父に有利な方向へと収束していくのがわかった。
当初、アメリカ大使館とそれを支持する魔法使いたちは、レギュラスの行為を「やりすぎだ」と厳しく非難していた。
しかし、あの男たちが魔法使いの人身売買に関わっていた者のリストに名前が載っていることが発覚した途端、その論調は一変した。
「イギリスの法で裁かれて然るべき」という声へと変わったのだ。
そのおかげで、父は咎められることなく、この困難を乗り越えることができた。
アルタイルの胸には、深い安堵感が広がっていた。
そして何より、母が父を案じる姿を目の当たりにして、胸の奥につっかえていた何かが溶けていくような気持ちになれた。
前方では、レギュラスが優しくアランに声をかけている。
「アラン、杖は戻されたらすぐに修理に出しますから。それまでは少し辛抱してくださいね。」
父は母の背にそっと手を添え、支えるようにして歩いている。
その姿には、言葉にできない深い愛情と労りが込められていた。
アルタイルは一歩下がったところから、両親の後ろ姿を静かに見つめながら歩き続けた。
家族の絆が、この試練を通してより一層深まったことを、彼は心の底から感じ取っていた。
夕暮れの道を歩く三人の影が、穏やかに地面に伸びている。
ホグワーツの休暇を受けて、セレナ・ブラックはブラック家の屋敷へと戻ってきた。
シリウス・ブラックの死を知ってから、初めての帰省となる。
重い扉をくぐる前から、セレナの胸には不安が渦巻いていた。
母アランが、一体父レギュラスにどのような想いで接しているのか。
その答えを知ることが、彼女には恐ろしくもあった。
しかし、迎えてくれた父と母は、どちらも穏やかで変わらない姿を見せてくれた。
表面的にはホッとしたものの、シリウスをずっと愛してきた母が何も感じないはずがないという確信めいた思いが胸の奥にあった。
だからこそ、母が何かを思い詰め、酷く残酷な選択をしてしまうのではないかという恐れが消えなかった。
「お母様、お身体が優れないんですってね。」
セレナは心配そうに声をかけた。
アランは微笑みながら答える。
「今日はあなたが戻ってくる日ですから。指折り数えていました。起きていられることに感謝しています。」
その時、母の手を見て、セレナは息を呑んだ。
酷く痩せているように見えた。
差し伸ばされたその手を、セレナは強く握り返す。
シリウス・ブラックが死の向こう側へ行ってしまったように、母もまた恨みや憎しみを抱えたまま、静かにそちら側へ行ってしまいそうな気がして――言葉にできないほどの恐怖に襲われた。
「お母様、ホグワーツでの出来事、たくさん話したいことがあるのよ。」
セレナは努めて明るい声を作った。
「薬草学のプロフェッサー・スプラウトが新しい実験を始めたの。マンドレイクの育成に関する研究で、私たちも手伝わせてもらったのよ。最初は恐る恐るだったけれど、意外と可愛らしい鳴き声で――」
「それから変身術の授業では、動物もどきの基礎理論を学んだの。マクゴナガル先生が実際に猫に変身して見せてくれたときは、教室中が驚きの声で溢れたのよ。私も将来は鳥に変身できるようになりたいって思ったわ。」
「クィディッチの試合では、レイブンクロー対スリザリンの試合があって、とても白熱したの。シーカーの動きが素晴らしくて、まるで空中を舞っているようだったわ。いつか私もあんな風に優雅に飛んでみたいと思ったの。」
「魔法薬学のスネイプ先生の授業は相変わらず厳しいけれど、複雑な薬の調合ができるようになったときの達成感は格別よ。先日は治癒薬の基礎を学んで、小さな怪我なら治せるようになったの。」
「寮の友人たちとは夜遅くまで魔法について語り合ったりもしたわ。魔法の歴史や理論、そして将来の夢について。みんなそれぞれ違う背景を持っているけれど、魔法への情熱は同じなのね。」
セレナは次々と楽しい話題を紡いだ。
アランはその一つ一つを楽しげに聞いてくれる。
しかし、その表情を見つめながら、セレナは胸を締めつけられるような思いを抱いていた。
母の微笑みの奥に隠された深い悲しみを感じ取りながらも、彼女は話し続けた。
せめて、この時間だけは母に安らぎを与えたいと願いながら。
その時、兄アルタイルが苦笑いを浮かべながらやってきた。
「母さんが困っていますよ、セレナ。」
アランは首を振り、穏やかに微笑んだ。
「いいえ、楽しそうに話してくれるあなたに、私の方が心が晴れ渡るような気持ちよ。」
セレナは胸の奥で複雑な思いに駆られた。
自分が話すホグワーツでの輝かしい日々は、もしかしたら母がその昔シリウス・ブラックと共に過ごした熱い時間を思い出させてしまうのではないだろうか。
今更ながら、あまり楽しげなホグワーツの話ばかりをするべきではなかったのかもしれないと思えてきた。
「お母様の話も聞きたいわ。」
セレナは母の隣に座り、肩に寄りかかるようにして甘えた仕草で聞いた。
アルタイルがにこやかに口を挟む。
「母さんはスリザリンの姫でしたから。それはそれは、いろんな話があるでしょうね。」
そういえば、母の口から過去の話をしてもらったことは、ほとんどなかったように思える。
母の過去となれば、どうしてもそこにシリウス・ブラックの影がついて回るような気がして――そうなると、父があまりにも報われない気がしてしまう。
聞くのが怖かったのだ。
アランはゆっくりと振り返り、静かに口を開いた。
「私があなたと同じ歳の頃は、いつもレギュラスが隣にいたの。」
その言葉に、セレナの胸が詰まった。
安堵でもあり、驚きでもあり、様々な思いが混じり合った。
「お父様、今と変わらないのね。」
アランは柔らかく微笑みながら答える。
「ええ、あの人は本当に……昔から何も変わりません。そこがいいところなのよ。」
その横顔がとても美しく思えた。
母の翡翠色の瞳に、きっと父の姿が映っているのだろうと思うと、セレナは心から嬉しかった。
母が自ら過去を辿りながら、父を愛おしそうに話してくれるなんて。
胸がいっぱいになりそうだった。
セレナにとって大切で偉大で、誇らしくてかっこいい人である父レギュラスを――今まさに母が認めて、愛して、それを子どもたちに語ってくれている。
その事実が、限りなく尊く思えた。
静かな午後の光が差し込む部屋で、家族の温かな時間が静かに流れていた。
セレナは父の書斎の扉をそっとノックした。しかし返事を待つことなく、扉を少し開けて中を覗き込む。
「まだ返事をしていませんが?」 レギュラスが苦笑いを浮かべながら振り返った。
「ええ、ごめんなさい。」 セレナは軽やかに謝ると、父のテーブルの前まで歩み寄り、両手をついて身を乗り出すようにしてレギュラスの顔を見つめた。
「どうしました?」 父の問いかけに、セレナの唇に微笑みが浮かんだ。
「お母様と同じ顔をしていますわね、お父様。」
どうしたのかと尋ねるとき、父も母も本当によく似た表情をするのだ。まったく違う二人なのに、その瞬間だけは驚くほど似ている。そのことがセレナには嬉しくて、胸の奥に温かな想いが広がっていった。
「アランと色々話していたみたいですね。」 レギュラスが静かに口を開いた。
「ええ、色々聞きました。お父様のことも。」
「そうですか……自分がいないところで色々言われるのは、小っ恥ずかしいものですね。」
照れたように、恥ずかしそうにそう言う父の様子に、セレナは胸が満たされるような気持ちになった。ずっと抱え続けてきた、心の奥底にこびりついていた不安が、少しずつ解かれているような感覚だった。
「いつもお母様の隣にお父様がいたそうですね。」
「当たり前です。あの人の隣は今も昔も、僕だけですから。」
その言葉にセレナは思わず吹き出してしまった。そして後から後から湧き起こる温かい想いに心が満ち溢れていく。
ずっと母だけを想い続けながら、シリウス・ブラックの存在と戦い続けた父。どれほど悔しい思いや虚しさを抱えてきた人生だったのだろう。シリウスを思い続けながらも、レギュラスの手を取らなければならなかった母。抑え込んだ想いと背負わなければならない未来に、どれほど苦しめられたのだろう。
幼い頃から、娘である自分の目から見ても、父と母は見ているものが違う気がしていた。決して交わることのない夫婦なのだと感じることもあった。だからいずれ、大切な二人がバラバラになってしまうのではないかと恐ろしく思っていた。
シリウス・ブラックの死がきっかけで、セレナが予感していた両親の心の距離が、埋められないほど深いものに変わってしまうのではないか——その不安で胸がいっぱいになることもあった。
けれど今、二人とも同じ表情をしていた。父の灰色の瞳には、ここにはいない母の姿が確かに映し出されているのだと確信できるものがあった。
連れ添ってきた年月がそうさせたのか、すれ違った数々の瞬間がそうさせたのか。虚しさもやるせなさも、叶わなかった想いも——その全てをひっくるめて、父と母が今、確かに寄り添って生きていってくれている。
そのことがセレナには何より嬉しく思えた。夕暮れの光が書斎の窓から差し込み、父娘の穏やかな時間を優しく包み込んでいた。
寝室の薄明かりの中、レギュラスはアランをそっと腕に抱いていた。
二人は互いの距離を感じながらも、それ以上に何かを確かめ合うかのように静かに寄り添っている。
「セレナに、何を言ったんです?」
レギュラスの声は、ほんの少しだけ緊張感を含んでいた。
「何を聞いたの?」
アランは目を閉じたまま、優しい声で返す。
レギュラスは一瞬、話そうかと口を開きかけたが、言葉がどこか恥ずかしくて詰まってしまった。
自分の口から、そのまま伝えるのが難しいことは、わかっているのに。
アランがゆっくりと身を捩り、レギュラスの方を向いた。
彼女の顔は、彼の目を避けるかのようで、恥ずかしさが隠せない。
「ちょっと、前向いててください。」
レギュラスは穏やかに言う。
「なんでです?」
アランは微笑みながら前を向いた。
二人はそのまま静かな笑い声を漏らしながら、部屋の静けさに溶けていった。
「あの子には、あなたがずっと側にいたと言ったわ。」
アランがぽつりと漏らす。
「そうですね。べったりと。」
レギュラスが肩をすくめて笑う。
「ええ、今も昔も変わりませんね。」
彼は柔らかく目を細めて言った。
「これからも、きっと変わらないでしょう。」
レギュラスの腕に、アランの手がそっと重ねられる。
その瞬間、ぎゅっと抱き寄せる腕の力が強くなった。
まるで長い間待ち焦がれていた安堵を、確かに掴み取ったかのように。
幸せが、静かに、優しく、二人の間を満たしてゆく。
望み続けたものに触れられた、その感覚だけが、すべてを語っていた。
その時間はよどむことなく、ただ温かな空気だけが流れていた。
法務部の密閉された部屋の中、重い空気が静かに漂っていた。
レギュラス・ブラックは、事件の取り締まりと後始末に追われていた。
今回の事件は、マグル生まれの若い魔法使いが、無許可でマグル界の人間を魔法界へ出入りさせていたことに端を発している。
その行為は、法律違反であるだけでなく、魔法界の秩序を揺るがしかねない、重大な事案だった。
取り調べの席で明かされた彼の言い分は単純だった。
「家族がマグル界に住んでいるから、自由に会いたかっただけだ。」
隣に座るルシウス・マルフォイは冷ややかに鼻で笑い、粗末に供述書をテーブルへ叩きつけた。
無言のまま、レギュラスはその様子を見つめていた。
純血魔法使いを最優先すべきだという考えは、彼の胸に今も根強く残っている。
過去、マグルやマグル生まれ、混血の魔法使いたちによって尊き純血魔法使いが脅かされてきた歴史を思えば、魔法族とそうでない種族の線引きは不可欠だと思っている。
その根本的な考えは変わらず、決して揺らぐことはない。
しかし、その若者の「家族と自由に会いたい」という切実な願いは、レギュラスの胸に鋭く、ひどくこびりつくような何かを残した。
「どうした、サインしたまえ。」
ルシウスが促す。
「ええ、そうですね。」
レギュラスは静かに応じ、二人分の連名で罪状にペンを走らせる。
マグル生まれの魔法使いに同情すれば、デスイータとしての自分の立場に危うさを生じさせる。
だから公の場で彼に肩入れすることはできなかった。
もどかしさに胸が締めつけられる。
その男が若き日の兄シリウスに似ているように思えたからだ。
これは罪悪感ではない。いや、あってほしくない。
ただ、かつて兄が夢見た――マグルと魔法使いが融合した世界、理想郷のような場所を、この若者も信じているのではないかと思うと、心が苦しくなる。
彼を哀れな理想主義者として片付けるには、あまりにも切実な叫びをその中に感じ、無視できなかった。
そしてあの日のアランの言葉が、脳裏をよぎる。
「ひどかったわ……シリウスの死を、あんなふうに目の前で見せるなんて。」
彼女の泣きながら告げた悲痛な顔を、一生忘れることはないだろう。
詫びることも言葉も及ばず、ただぎこちない陳腐な謝罪が彼の唇から零れ落ちた。
それを、アランは受け入れて飲み込んだ。
目の前のマグル生まれの男に、シリウスの姿を重ねてしまう以上、
いつものように冷酷に、単純に有罪判決を下すことはできなくなっていた。
部屋の外では、街のざわめきが遠く聞こえる。
レギュラスはペンを置き、ゆっくりと深く息を吸った。
世界はいつも変わりゆく。
だが、理想と現実の狭間で揺れる心の葛藤だけは、時を経ても消えないものだった。
扉が静かに閉じられ、部屋に沈黙が訪れた。
ルシウスは先に長い廊下へと歩みを進め、その背中はまるでこの場の重さを遠ざけるかのようだった。
残されたレギュラスは、ゆっくりと囚われた若者のもとへ歩み寄る。
その顔には薄く緊張が張り付き、怯えた様子が滲んでいた。
かつて記憶の中で輝いていたシリウス・ブラックの姿とは違い、弱々しく、情けなささえ感じさせる切実な表情だ。
罪滅ぼしなどではない。
そう信じたい。
こんな行為が罪の赦しに相応しいはずもない。
ただ、それでもその若者に向けて差し出した手は止めることができなかった。
「一度だけ、見逃しましょう。次はないと思ってください」
レギュラスの声は低く渋く、部屋の壁に染み込むように重く響いた。
ルシウスが先に署名した書類を、レギュラスは静かに呪文で跡形もなく消し去る。
夜風のように透明に、無に帰していく紙片。
そして、新たに用意した白紙に彼は無罪判決を書き記す。
署名はレギュラス・ブラックの名のみ。孤独で重い決断だった。
若者の手首には魔法の枷がはめられている。
それも、術を唱え静かにその拘束を解放した。
「どうせ、取るに足らない事件。新聞の片隅にも載らないだろう。」
独断の判決だけれども、誰にも咎められないと踏んだのだ。
彼は言葉少なに扉へ向かい、部屋を出ていく。
廊下の先には待機していた数名の警護の魔法使いたちが立っている。
レギュラスは彼らに静かに告げた。
「証拠不受理にて不起訴、釈放です。」
心の中で小さな言い訳が囁いた。
「別に助けたわけではない。」
だが、もしあの若者に兄シリウスの面影をほんの一瞬でも重ねたのなら。
せめて、彼には強くあってほしいと願わずにはいられなかった。
兄と同じくらいに。いや、むしろ越えようとするほどの強さを。
夜の闇が窓の外を包む。
街の灯りがぼんやり揺れながら、ひとりの魔法使いの決断と孤独を優しく包み込んでいた。
アリス・ブラックは重い書類の山の中に座っていた。
その指がページをめくるたびに、静かな室内の空気がほんの少しだけ揺れ動く。
ふと、一枚の書類に目が留まった。
レギュラス・ブラックの署名が鮮やかに躍るその証書は、まさかの一文を告げていた。
マグル生まれの男への無罪放免——明確に、冷静に、彼の名前で許された記録だった。
アリスは目を疑った。何度も見返した。しかし間違いはなかった。
あのレギュラス・ブラックが、無罪という言葉をその男に与えたのだ。
かつて冷酷の極みのように、血も涙もないと言われた彼が。
理知と氷のような心で、決して迷いなく振るわれてきたその杖が。
なぜだ。なぜ彼がそんなことを?
その理由が見つからず、思考は宙を漂い、何か大きな謎に行き着いたような気がした。
一瞬、それは裏があるに違いないとさえ思えた。
表の顔だけでは語れぬ深い闇や、秘められた意図。
心の奥で、長くくすぶっていた怒りが再び燃え上がる。
シリウス・ブラックを死に追いやった男への復讐の念。
その思いは、どれほど抑えようとしても胸の内でたぎり、燃え広がって止まらない。
それが、たとえ――自分を救ってくれたアランが、最終的に選んだ相手だとしても。
アリスは椅子にもたれ、深く息を吸った。
言葉にならない想いが静かに心を満たし、揺れ続ける。
外の世界は静かな夜に包まれ、月光が遠く揺れている。
彼女の心の中では、嵐が静かに準備を始めているのだった。
夜の静寂に包まれた寝室で、レギュラスはそっとアランを腕に抱いていた。
彼の腕の中で、彼女の身体はかすかに震え、羽のように細く、儚げに感じられた。
ほんの少しだけ、久しぶりに夫婦の間に温かな触れ合いがあってもいいのではないかと、彼は心の中で思った。
しかし、その思いはすぐに現実の冷たさに飲み込まれる。
アランの体調は日に日に目に見えて弱っていた。
細くなった手先、かつての翡翠の瞳の輝きは弱まり、その深みに微かな疲労の色が刻まれている。
このまま彼女が、まるで風に吹かれて消えゆく花弁のように消えてしまいそうで、レギュラスは必死にその儚さを手繰り寄せるように抱きしめていた。
「アラン、早く元気になってください。」
願うように声をかける。
「ええ、日に日に良くなってるわ。」
アランの言葉は穏やかで、美しい嘘だった。
その嘘をレギュラスは知っていた。だが、知らぬふりをして、その言葉に安堵を求めているかのように見せていた。
しばらく抱き合ったまま、アランが静かに口を開く。
「レギュラス……お願いがあるの。」
その言葉に、彼はすぐに身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。
弱り切った翡翠の瞳が、彼をまっすぐに見据えていた。
「あなたがくれた、このネックレスを……アリスに渡してもいいかしら。」
その血の誓いを込められた赤いネックレスは、攻撃呪文を全て術者であるレギュラスに跳ね返らせる究極の守りの魔法を宿している。
死の呪文さえ拒む強大な力が秘められているその宝物を、アランはアリスに託そうとしていた。
胸に鋭い痛みが走る。
生きようとすることさえ放棄された彼女の覚悟と、命をかけて守ろうとするはずの自分の想いがまるで無視されたような、そんな虚しさが胸を締め付ける。
だが、弱りながらも絞り出すような強さがアランの瞳に宿っていた。
「それが、今までのことへの贖罪になりますか?」
レギュラスの声は震え、言葉に迷いがあった。
「贖罪だなんて考えないで。これは、私からのお願いよ。」
アランは優しく、まるで風のように答えた。
彼女はそっとレギュラスの胸に顔を埋め、頬を擦り付ける。
「あの子に何かあれば、あなたのその力ならきっと守ってあげられる。
私にもシリウスにもできなかったことよ。
でも、あなたにならできる。」
「……あの子を守れと?」
レギュラスはその願いをか細い声で返した。
「お願いしたいの。
私はもう長くはないでしょう。
こんな立派なネックレスに守られるほど、先の長い命じゃないわ。」
「やめてください、アラン。」
レギュラスの声は、押しつぶされそうなほど痛みに震えていた。
彼女の言葉が胸を深く抉る。
「もう長くはない。」
それは彼自身、多くの医務魔女から告げられた厳粛な事実でもあった。
しかし、その言葉が、彼女本人の口から発せられることは耐え難かった。
重く沈む夜の空気のなか、二人は静かに寄り添い、言葉の届かぬ場所で繋がり合っていた。
アランがレギュラスに微笑みかけた。
それは「そんな悲しそうな顔をしないで」と言いたげな、やわらかくて透明な笑顔だった。
でもレギュラスの心の中の不安は、その微笑みでも消し去ることはできなかった。
アランが必死にアリスを守ろうとすることを、きっともう否定してはいけないのだと思った。否定できないのだと。
思い返すと、アランがずっと思い続けてきたシリウスのことを無理やり終わらせるために、彼の死を目の前で見せつけるなんてことをしてしまった。
アランの絶望と悲しみを間近で見て、ようやく気づいたのだ。
自分がどれほど残酷なことをしてしまったのかということに。
それは純粋な気持ちだったはずだった。シリウスではなく、自分を見てほしいという。
幼い頃からずっと抱き続けてきた恋心だったのに。
夫婦になってからも、アランの心はどこかシリウスのもとに置いてきているのではないかという疑念を拭うことができなくて、何度も何度も彼女を縛りつけてしまった。
想いが募れば募るほど、いつの間にか執着という形に変わって、愛している人を苦しめる重い枷になってしまっていたのだ。
「アラン、許してください。」
レギュラスは泣きそうだった。
後悔と無念と情けなさと、それでも変わらない愛しているという気持ちが、ぐるぐると胸の中で混じり合って。
「もう、なんて顔してるの。」
アランはそれでもやっぱり微笑んでいた。
その笑顔は春の日の光みたいに、やさしくてあたたかくて、レギュラスの心をそっと包み込んでくれるような気がした。
どんなにひどいことをしてしまったとしても、彼女はこうして微笑んでくれるのだ。
「レギュラス、愛しています。本当に。」
アランの声は静かで、まるで風に溶ける水のように透明だった。
その言葉が胸に届いた瞬間、レギュラスの心は軋むように痛んだ。
どう慰めていいのかわからずに、彼女が欲しがっている言葉を探して出してくれたのかもしれない。そんな風にも思えた。
けれど、アランから発せられる「愛している」という一言は、何よりもレギュラスにとって宝物のような響きを持っていた。
長い間求め続けてきた言葉が、ついに彼女の唇から零れ落ちる。
それは彼の人生の中で最も美しい音楽のように聞こえた。
泣きそうな顔をしている自覚があった。
それでも彼は微笑んでみせる。
「ええ、僕もですよ。」
レギュラスの声は震えていた。
アランは身体を離し、そっとレギュラスの頬に手を添えた。
その手のひらは温かく、優しい重みがあった。
「私をずっと思い続けてくれたあなた。
子どもたちの立派で勇敢で、誇り高い父。
この家の素晴らしき当主。
どのあなたも、本当に、私の大切なあなたです。」
その言葉一つ一つが、レギュラスの心の奥深くに染み込んでいく。
もう涙を堪えることをしなかった。
静かに温かいものが頬を伝うのがわかった。
それは解放の涙だった。
長い間押し殺してきた感情が、ついに外へと流れ出していく。
「あなたは、そんな顔をして泣くのですね。」
アランが優しく呟く。
「みっともなくてすみません。」
レギュラスは涙声で答えた。
「よく、シリウスの隣で泣いていたあなたを思い出すわ。」
アランの声には懐かしさが込められていた。
幼少期、兄に悪戯をされて力なく泣くしかなかった頃の話を、今更持ち出されるとは思わなかった。
レギュラスは泣きながらその記憶を辿り、懐かしさと共に微笑んだ。
あの頃は何もかもが単純だった。
兄の悪戯に泣かされ、母に慰められ、そして翌日にはまた兄と遊んでいる。
そんな繰り返しの日々。
時の流れは残酷で、優しい。
あの頃の純粋さは失われたが、代わりに得たものもある。
愛することの深さ、痛み、そして今この瞬間の美しさ。
「ありましたね、そんなことも。」
レギュラスは涙を拭いながら答えた。
部屋の空気は静かに流れ、二人の間に温かな沈黙が訪れる。
窓の外では夜が深まり、星々が静かに輝いている。
時間は止まらない。
それでも、この瞬間だけは永遠に続いてほしいと思った。
愛する人の手のひらの温もりを感じながら、レギュラスはその願いを心に刻んだ。
朝の陽だまりが食堂の窓から差し込む中、いつもなら五人で囲むはずの食卓に、今朝は四人だけが座っていた。
父レギュラス、兄アルタイルとその妻イザベラ、そして自分――母アランの席だけが、静かに空いている。
セレナはその光景を見つめながら、胸の奥で何かが締め付けられるような苦しさを感じていた。
ホグワーツを卒業すれば、イングランド国への嫁入りが決まっている。
母と共に食事を囲める時間は、もう残り僅かしかないというのに――その貴重な時間さえも奪われてしまうことが、ひどく悲しかった。
「お母様は、お身体が優れないのかしら。」
セレナは静かに尋ねた。
「ええ、今朝は特にきついそうです。」
レギュラスの返事は、いつもの力強さを欠いていた。
「医務魔女は何と?」
セレナは更に問いかけた。
何となく、母の病状があまり良くないことは察していた。
けれど詳しいことはまだ聞いていなかった。
だからこそ、知りたかった。
自分には後どのくらい、母との時間が残されているのか。
「セレナ、後で僕と話しましょう。」
アルタイルが静かに口を挟んだ。
わざわざ食事の席で話すべきことではない、という含みがその言葉にあった。
その一言で、セレナは全てを理解した。
長くないのだ、きっと。
理解した瞬間、鼻の奥がツンと痛んできた。
涙など流したくなかった。
そんなものは、誇り高く強いセレナ・ブラックには似合わない。
ナイフを握る手に力を込めて、必死に耐えた。
「お父様、できる限りお母様との時間を作ってほしいわ。任務よりも何よりも優先してください。」
セレナの声は静かだが、確固とした意志を含んでいた。
「ええ、そのつもりです。」
レギュラスの答えも、どこか細く、力ないものだった。
その声の震えが、セレナの胸をさらに締め付けた。
父レギュラスは、自分にとってずっと目指すべき強さの象徴であり、誇りであり、憧れだった。
セレナにとって全てといっても過言ではない存在だった。
そんな父が、これから訪れるであろう母を永遠に失うことへの恐れと悲しみを、隠すことなく曝け出している。
その姿があまりにも痛くて、苦しくて、悲しくて堪らなかった。
朝の光は変わらず優しく差し込んでいるのに、食卓を囲む四人の心には、言葉にできない重いものが静かに横たわっていた。
朝食の静かな余韻がまだ部屋を包む中、セレナは兄アルタイルと向かい合って座っていた。
言葉を探しながら、アルタイルは何度も口を開こうとしたが、なかなか言葉が続かない。
セレナはただ頷くことしかできなかった。
それならと、自ら切り出す。
「余命は、どのくらいと告げられましたか?」
アルタイルはゆっくりと首を振った。言葉にしなかったが、それが一番心を休ませる結論だったのだろう。
苦しむ時間が明確に示されることの辛さを思えば、まだましなことだとセレナは深く胸を撫で下ろした。
「父さんが、かなりショックを受けています。」
アルタイルの声は静かだった。
「そうみたいね。様子が全然違ったもの。」
セレナは静かに同意しながらも、内心の震えを隠せなかった。
支えたい、という思いは強かった。
あの父には、いつだって強くあってほしい。
誇りを失わず、力強く、誰にも負けない魔法界最強の存在でいてほしい。
娘として、ずっとその父を誇りに思い続けて生きたい。
「お兄様、どうかお父様を、支えてあげてください。」
その言葉には願いがこもっていた。
この誇り高きブラック家を正当に継ぐのは、兄アルタイル・ブラックである。
自分はイングランドの王子との婚約を控え、家を離れ、姓も変わる。
この家に残って父の側にいることはできない。
だからこそ、これからのことを託せるのは兄しかいなかった。
静かな覚悟を胸に、セレナは膝をつき、隣に立つイザベラに向けて深く頭を下げる。
「どうか、私たちの父を、そして兄を支えてくださいませ、イザベラ様。」
イザベラは微笑みを浮かべ、静かに膝をついた。
「顔をあげてください、王妃様。」
二人は膝をついたまま、同じ高さで並ぶ。
イザベラはすでに、セレナを王妃と呼んでいた。
イングランドへの嫁入りが正式に決まり、戴冠式を終えたその日から、彼女の中でこの国の王妃はセレナ・ブラックに変わっていた。
日差しが差し込む窓辺で、未来への重責と家族への想いが交錯する。
静かに、しかし確かに訪れる変化を、三人は受け入れていた。
騎士団の本部で、アルタイルの姿を見つけたメンバーたちはざわめいていた。
法務部の魔法使いが突然現れることは、決して日常的なことではない。
「すみません、急に押しかけてしまって。」
アルタイルは丁寧に頭を下げた。
「随分と大きくなったのね。間違えたわ。」
アリス・ブラックは軽やかに笑いながら彼を見つめた。
ホグワーツを卒業して数年。法務部での仕事にも慣れてきた今、確かに以前セレナに見せていたような青年らしさとは違った、大人の風格を身につけているのかもしれない。
アルタイルは静かに封筒を取り出し、アリスに差し出した。
「これを、母があなたに渡したがっているそうで。父から預かりました。」
アリスは怪訝そうな表情を浮かべながら受け取る。
アルタイルはその様子に、ほっと安堵の息をついた。
アリスが父レギュラスを良く思っていないこと、むしろ憎しみさえ抱いていることを察している。
だから、父からの贈り物だと言ってしまえば、嫌悪感を抱かせてしまうだろうと分かっていた。
「何かしら。」
アリスが封筒を見つめながら呟く。
「分かりません、僕も見ていませんから。ただ、母の言葉では『肌身離さずつけてほしい』とのことでした。」
アリスが封を開けると、そこには見慣れた赤いネックレスがあった。
いつの間にか当たり前のように母の胸に付けられていたはずのもの。
それがどういった意味を持っているのか、アルタイルには分からない。アリスもまた同様だった。
ただ預かったから渡した、それだけの構図。
けれど、母の深い思いが詰まっているのだろうことだけは理解できた。
「何か意味があるのかしら。」
アリスが静かに問いかける。
「すみません、僕にも分からなくて。」
アルタイルは申し訳なさそうに答えた。
その時、アリスが微笑んだ。
父を憎むのと同じように、自分もまたアリス・ブラックに嫌悪される存在なのだと思っていたから、こうして微笑んでもらえたことに、胸を撫で下ろすような安堵が湧いてきた。
アリス・ブラックは、母が昔命をかけて守ったマグル生まれの少女だったそうだ。
詳しくは聞いていない。けれど、アリスと母の間には自分たちの知らない深い絆があるのだろう。
もしかしたら、アリスは母のことを本当に母のように慕っていたのかもしれない。
けれど、母は自分とセレナの母であり、アリスの母ではない。その事実がアリスを苦しめることもあったのかもしれない。
きっと、お互い多くを語ることはしないのだろう。
けれど、母が命懸けで救おうとした命を前に、敬意を示していきたいと思った。
たとえ、彼女がブラック家の名を背負うことに疑問を抱く気持ちがあったとしても。
静かな午後の光が差し込む中、二人は言葉少なに、しかし確かな理解を交わしていた。
「アランさんは元気にしてますか?」
アリスの素直な問いかけに、アルタイルの胸は締めつけられた。
どう返すべきなのか。
本当のことを告げてもいいものなのだろうか。
もし真実を伝えたとして、アリスが母を見舞いたいと言い出したら――アリス・ブラックをあのブラック家の屋敷に招くことを、父が許すはずもない。
そう考えると、母の病状のことは言わずにおいた方がいいような気もした。
心は揺れ続けていたが、やがて一つの答えに辿り着く。
本当のことを告げるべきだ。
見つめている未来が違っていても、考え方が根本的に交わらないものであったとしても。
アリス・ブラックという人が、母を大切に思ってくれている――それだけは揺るぎない事実だから。
自分が母を想うように、アリスもまた深く想ってくれている。ならば、伝えないわけにはいかない。
「言いづらいのですが……母は伏せっていて。もう長くは……なさそうです。」
アルタイルは言葉を紡ぎながら、自らの声が消え失せるかのように細く震えているのを感じた。思わず涙がこみ上げてきそうになる。
アリスは息を呑み、その言葉をゆっくりと受け止めようとしていた。
まるで重い石を飲み込もうとするかのように、時間をかけて咀嚼しているようだった。
いきなりそんなことを告げられて、すぐには受け止められるはずもない。
やがて、アリスは目を大きく開いたまま、瞬きもせずに涙を零し始めた。
その涙があまりにも痛くて、苦しくて、見ているだけで胸が締めつけられた。
「ありがとうございます……母のために泣いてくれて。」
その言葉は、とうとう口にすることができなかった。
代わりに深く頭を下げて、静かにその場を去ろうとした。
背を向けた瞬間、アリスの嗚咽が後ろから聞こえてきた。
その音が胸を突き抜けて、アルタイルも堪えきれずに涙が溢れ出した。
医務魔女から母の病状を聞かされたときでさえ、泣かなかった。
妻イザベラに慰められたときでさえ、父を支えなければという使命感だけで涙を堪えることができた。
けれど今、こうして母の現状を他の誰かに伝えて初めて、一人のアルタイル・ブラックとして、素直に涙を流すことができた。
廊下を歩きながら、彼は母への想いと、それを共有してくれる人がいることの温かさに包まれていた。
