5章
name設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
薄暗い小屋の中で、レギュラスは静かに決断した。
このままでは埒が開かない。
杖を静かに構え、冷徹な声で呪文を紡ぐ。
服従の呪文が空気を震わせ、男たちの瞳に虚ろな光が宿った。
「アラン・ブラック、女が一緒にいたはずです。そこに案内してもらいましょう。」
男たちは無言で頷き、まるで操り人形のように歩き始めた。
小屋の外へ、そして地下室へと続く石段を下りていく。
扉が開かれた瞬間――
レギュラスは目を疑った。
薄暗い石畳の床に、アランが横たわっていた。
白い肌があらわになり、痛々しく冷たい床に身体を投げ出されている。
その周囲には、無残に折られた杖の破片が散乱していた。
乱雑に引きちぎられた衣服が、まるでゴミのように放り出されている。
一人の男がアランの髪を乱暴に掴み、嘲笑するように言い放っていた。
「魔法使ってみろよ、魔法使いさんよ。」
その瞬間、レギュラスの胸に爆発的な怒りが沸き起こった。
この部屋で何が行われていたのか、瞬時に理解した。
抑えきれない憤怒が、明確な殺意へと変わる。
容赦など微塵もなかった。
杖を振るい、心臓を貫く呪文を次々と放った。
男たちはバタバタとアランの周りで倒れ伏し、二度と起き上がることはなかった。
静寂が戻った地下室で、レギュラスはゆっくりとアランに近づいた。
「アラン……すみません。遅くなりました。」
震える手でアランの腕をそっと掴むと、白い肌に数箇所の火傷の跡があった。
傍に転がるタバコの吸殻を見て、どのような仕打ちを受けたのか想像がついた。
胸が締めつけられ、かける言葉が見つからない。
「ごめんなさい……レギュラス……」
かすれた声でアランが謝罪する。
レギュラスは優しく首を振った。
「いいんです。何も言わなくて。」
破れたドレスを見つめながら、レギュラスは自分の責任を痛感した。
あれはきっと、ガウント家の屋敷から彼女を引きずって出てきた際に破れてしまったのだろう。
静かに自分のローブを脱ぎ、そっとアランの身体に巻きつける。
「これを、着ていてください。」
温かなローブが、傷ついた彼女を優しく包み込んだ。
レギュラスの手は震えながらも、丁寧にローブの端を整えていた。
薄鈍色の朝光が、屋敷の寝室の窓から静かに差し込んでいた。だが部屋の空気は重く、安らぎとはほど遠い。
アランは大きく体調を崩し、寝室の奥の寝台から一歩も動こうとしない。彼女の額には青白い汗がにじみ、瞼は重く閉ざされている。
レギュラスはその傍らに跪き、心配そうに額に手をあてては顔を覗き込む。眉間には深い皺が寄り、頭を抱えずにはいられない様子だった。
「アラン、早く…よくなってください」
低く震える声で何度も繰り返すが、返事はない。ただ彼女の微かな呼吸だけが部屋に響いている。
思い出すのは、数日前、彼女を救出するために放った呪文の刹那。
アメリカから不法に滞在していたマグルの男たち――四人の命は、彼の判断と魔力の奔流によって、あまりにもあっけなく奪われた。
イングランド王の名の下に制定された「純血魔法使い保護法」では、マグルの魔法界への立ち入りは事前申請が必要と定められ、またやむを得ぬ自衛の場合、純血魔法使いは罪に問われない。だが、相手はアメリカ国籍。
アメリカ大使館からは、まず許可を得るべきだったとの声が上がりつつあるという報せが、現在も魔法省の上層部から伝えられている。国が異なれば法も異なり、外交問題へ発展しかねない。
レギュラスは机の上に広げられた羊皮紙を前に、解決策を探ろうと必死に筆を走らせる。しかし、ペン先は震え、思考はアランの病床へ引き戻されてしまう。
彼はふと手を止め、深い溜息をついた。どの条文を引用し、どの大使館と交渉すればよいのか。だが今はそれよりも、目の前の人を救うこと――。
再び彼はアランに寄り添い、額の汗をそっと拭った。その手には、昨夜から続く眠れぬ疲労と、妻を守り抜けなかった自責の念が滲んでいた。
「どうか、もう一度だけ、目を開けてほしい」
窓辺のカーテンがかすかに揺れ、冷たい風が寝室に吹き込む。やがてレギュラスは決意を固めたようにペンを置き、書類をそっと閉じた。
この部屋から一歩も出られないほどに心配でたまらない彼の胸の痛みは、法務的な思案よりも重く、深く根ざしている。
魔法省の重厚な執務室で、アルタイルは父の前に立っていた。
机の上には、アメリカ大使館とのやり取りを記した書類が山のように積まれている。
「父さん、この件はアメリカ大使館とも話し合いを続けています。」
アルタイルの声には、息子としての心配と、魔法省職員としての責任感が混在していた。
レギュラスは疲れ切った表情で頷く。
「ええ、面倒をかけますね。」
しかし、胸の奥には重い沈黙があった。
なぜ四人のマグルを殺したのか――その真実を語るには、アランが受けた屈辱と暴力を詳らかにしなければならない。
彼女の尊厳を、息子の前で踏みにじることなど、レギュラスにはできなかった。
首に残る傷の痕を無意識に撫でながら、彼は事実を歪曲した。
「この傷も、アメリカのノーマジから受けたものです。防衛のために呪文を投じただけでした。」
だが、その説明には明らかな矛盾があった。
レギュラス・ブラックほどの魔法使いが、なぜマグルごときに攻撃を許したのか。
なぜ四人全員を殺害するまでに至ったのか。
アルタイルの瞳にも、困惑の色が浮かんでいる。
父の実力を知る彼にとって、その説明は腑に落ちないものだった。
「父さん、本当にそれだけですか?」
静かに問いかけるアルタイルの声に、レギュラスは一瞬言葉を詰まらせた。
窓の外では、ロンドンの街が霧に包まれている。
真実を隠すことの重さと、家族を守ることの重要さが、レギュラスの心で静かに戦っていた。
「……それだけです。」
最終的に、彼はそう答えるしかなかった。
息子の視線を受け止めながら、レギュラスは心の奥で祈った。
どうか、この嘘が家族を守ってくれますように。
そして、アランが一日も早く回復してくれますように。
朝のやわらかな薄明かりが寝室のカーテン越しに射し込む中、アランはゆっくりと目を覚ました。
まだ全身が重く、けだるさも完全には抜けていない。
枕元に敷かれたローブの温もりだけが、心の奥でかすかな安堵となっていた。
レギュラスの足音ではない――
やがて部屋にそっと入ってきたのは、息子のアルタイルだった。
優しくベッドの傍らに腰かけ、母の顔を静かに覗き込む。
「母さん、どうですか?」
アルタイルの声は幼さも残るが、しっかりとした響きを持っていた。
「ええ……だいぶ、いいです。」
アランは穏やかに微笑んだ。
その微笑みに、幾重もの疲労と痛みが隠れていることを、アルタイルは敏感に感じていた。
静かな時間が流れる。
アランが枕元に置かれた新聞を手に取る。
使用人が丁寧に運んでくれたその朝刊には、アメリカのマグル4名が死んだ事件に対する抗議と、魔法省およびレギュラスへの強い疑念が綴られていた。
まるで冷たい水を浴びせられたような思いになる。
――あの人は……
口元で呟くと、アルタイルがすぐに答えた。
「大丈夫です。父さんの件は、うまく片付けますから。」
その言葉は力強く、母への気遣いと家族を守ろうとする意志がにじんでいた。
アランはそっと新聞を閉じた。
安堵と不安が、淡い光の中で静かに胸に混ざり合っていた。
アルタイルの手がそっと添えられる。
家族の温もりだけが、今しばらく彼女を支えてくれるようだった。
夕暮れの薄橙色が屋敷の窓を染めるころ、レギュラスは書斎で静かにワイングラスを傾けた。
ほんの一口のアルコールが、冷え切った胸にほのかな温もりを運び、立ち尽くす力をほんのわずかに取り戻させる。
しかしその心の奥底には、ヴォルデモートから課された分霊箱の秘密が重く沈んでいた。
あまり深く首を突っ込まれては、すべてが露見してしまう――妻アランの尊厳を守るためにも、決して多くを語ってはならなかった。
慌てて寝室へ駆け込む。
ドアをそっと開けると、横たわるアランの瞼がかすかに揺れ、奥から温かな生命の証が返ってきた。
「アラン……心配しました。」
震える声でそう告げると、アランはゆっくりと目を開けた。
「レギュラス……マグルの件は……」
その問いかけを聞き、レギュラスはアランの手をそっと取り、優しく顔を覗き込んだ。
「そのことは、アルタイルが動いてくれていますから。安心してください。」
真実をすべて話せない無念さを胸に隠しながらも、彼は必死に微笑みを紡いだ。
アランの不安を和らげるために選んだ言葉だった。
アランの表情が少しだけ緩むのを見て、レギュラスは胸の奥からあふれる安堵に思わず目を潤ませた。
何よりも――妻が目を覚ましてくれたことが、彼にとって最大の救いだった。
アランの指先が、そっとレギュラスの首筋をたどった。
そこには、燃え盛る憎しみと共に深く刻まれた刺し傷の跡があった。
「ごめんなさい、レギュラス……」
か細い声が震え、痛みを伴う後悔がその言葉に込められていた。
その手の上に、レギュラスは自分の手を重ねた。
温かな掌でそっと包み込むように握り返し、優しく微笑む。
「いいんです。何も、気にしなくて。」
彼の声は深い慈しみで満ちており、その一言でアランの胸に重くのしかかっていた罪悪感が、かすかにほどける気がした。
次いで、レギュラスはアランの頬に指を滑らせ、そっと唇を重ねた。
触れるだけのキス――だが、その唇にはかすかにワインの甘いほろ苦さが混じっていた。
「飲んでいるのですか?」
アランは目を見開いて問いかけた。
「……あ、少しだけ。」
レギュラスは照れくさそうに目を伏せる。夜の食事の際にたしなむ程度だったはずのワインだ。
それをまだ夕暮れも過ぎぬ時間に口にしているという事実は、彼がいかに心を痛め、追い込まれているかを雄弁に物語っていた。
アランは小さく息を吐き、レギュラスの額に手を添えた。
「夫がこんな風にまで苦しむなんて……私のせいです。」
その言葉を遮るように、アランは一歩近づき、レギュラスの手を両手で包み込んだ。
「ノーマジのことで、もしあなたが責められているのなら、私はいくらでも証言できます。あの暴行を受けたこと、それが正当防衛だったと、誰の前でも胸を張って語ります。」
アランの言葉には確かな強さが宿っていた。
たとえそれが、自らの恥を世間に晒す行為だとしても。
だが、もしそれでレギュラスの行為が正当防衛として認められるのならば、その恥を越えて守るべきは、彼の無実とこの家の未来だった。
薄明の光が二人の影を長く伸ばし、静かに寄り添う。
まだ早い時間帯にワインを傾けるほどに心を痛めている夫のために、アランは何かできることはないかと、自らの胸に問いかけていた。
夜の静寂が室内をゆっくりと満たす中、レギュラスはそっとアランに寄り添い、共に寝台に横たわった。
その瞳は深い安堵をたたえ、如実に語っていた。
「本当に良かった。」
彼の声は静かでありながらも、胸の奥から湧き上がる感情が滲み出ていた。
アランは弱々しくも微笑み返し、震える唇で答える。
「心配かけました。」
レギュラスはぎこちなく彼女の身体を抱きしめる。
その手はいつもより緊張し、優しく肩に添えられたまま、静かに留まる。
決してその下に滑らせることなく。
まるで“そこが定位置だ”と自ら制限を課しているかのようだった。
アランはその気配を敏感に感じ取り、理解した。
アメリカのノーマジたちの男たちから受けた暴行の痕跡が、彼女の心に深い傷を残していることを。
レギュラスも同じ恐怖を察し、無意識のうちに触れ方に細やかな配慮を施しているのだと。
胸の内には幾重にも重なった複雑な想いが広がっていた。
シリウス・ブラックのこと。
何度も絶望に打ちひしがれ、幾度となく深い苦しみを味わった。
復讐の炎を心に燃やし、時にその憎悪に身を焦がした。
けれど、そんな闇の中にあっても、レギュラスから向けられる愛が、いつも真っ直ぐに深く彼女を貫いてきた。
その純粋な光は時に、アランの心を迷わせた。
何が正しいのか。何を選びたいのか。
彼の変わらぬ愛を知るたびに、シリウスを愛してきた自分の存在が、知らぬ間に薄れていくのを感じていた。
まるで記憶の中から、シリウス・ブラックという人物が消え去っていくように。
共に過ごした日々の数は、どう転んでも今はレギュラスとのものの方が多く、幾ばくかの体温を重ね、言葉を交わしていた。
振り返れば、思い出せるのはいつしかレギュラスとの記憶ばかりになっていた。
確かに、シリウスを愛していた。
彼を愛することで世界を知り、愛の意味に触れて、大人になったと思っていた。
それなのに、出会いと別れの後、どこかで自分の心が彼を留めておけないことを悟っている。
死してなお、シリウス・ブラックを選び得なかった事実が、静かに、しかし確かにアランを突きつけていた。
そのことを思うと、胸の奥に忍び寄る恐怖に震えた。
彼女はそっとレギュラスの肩に頭を預け、ふたりの呼吸を合わせる。
その温もりの中に、安らぎと迷い、愛と痛みが入り混じり揺れていた。
夜は深まり、窓の外の星々が静かに輝き続けている。
その光は、未来へと続く道の微かな希望を示しているようでもあった。
アランの瞳は揺らめき、言葉を探すように震えていた。深く息を吸い込み、静かに口を開く。
「レギュラス……私は、シリウスを、ずっとずっと愛していたの。ごめんなさい。」
その告白は夜の静寂に柔らかく溶け込み、二人の間に重く響いた。
レギュラスは微かに微笑み、優しい声で答えた。
「ええ、知っています。ずっと、あなたを見ていましたから。」
失望も落胆もない、その声色はあまりにも深い理解に満ちていた。
アランは頬に触れる風を感じるように、その言葉を胸に沁み込ませた。
「けれど、あなたの側で生きてきた人生も、紛れもなく本物です。」
震える声で言い切ると、レギュラスは静かに頷いた。
「そうですね。」
アランは涙がこぼれないように、鼻の奥に熱い痛みを感じながら続けた。
「あなたを支えたいと思ってきたことも、子どもたちを共に育ててきたことも――すべて、本当です。」
「ええ、そうです。」
彼の言葉は静かに、しかし揺るぎない肯定だった。
アランは視線を落とし、胸の奥でしぼり出すように囁く。
「あなたが私を愛してくれたように、私もその想いに応えようとしてきた。本当なのです。」
「知っていますよ。」
レギュラスの声は、柔らかく、慈しみに満ちていた。
その優しさは、痛みを伴う記憶を抱えたアランの胸をさらに締めつけた。
優しい光に照らされる陰のように、彼女の苦しみが際立つ。
重い吐息をつき、アランはさらに言葉を重ねる。
「あなたに命を救われたとき、私は誓った。これから先、何を差し置いても、あなたにすべてを捧げる自分でありたいと――。」
「ええ、感じていましたよ。」
レギュラスは目を細め、その言葉を心で受け止めているようだった。
アランの声がかすかに震え、切なさに満ちていく。
「それなのに……あなたは……酷かった。シリウスを、殺そうとしたわ……彼の死を、私に見せたかった。」
その言葉が宙をさまよう。アランの瞳には後悔と罪悪、そして誰にも触れられない絶望が映し出されていた。
レギュラスは言葉を選ぶように唇を震わせたが、すぐに沈黙した。
ただゆっくりと息を整え、深い思いに沈み込むように、探るように、重苦しい沈黙を抱え込んでいた。
時間の流れが止まったかのように、部屋には二人の呼吸音だけが静かに響く。
言葉にできない想いを胸に秘め、アランはかすかに震える身体を寄せ、レギュラスの沈黙の中に自らの罪と痛みを委ねた。
レギュラスは深い沈黙の中で、アランの言葉に何と答えていいのかわからずにいた。
彼女の痛みに満ちた告白が、胸の奥で重く響いている。
シリウスの死を見せることで、アランの心に住み続けるシリウスを永遠に葬り去れると思った。
きっと、自分勝手すぎたのだ。
それでも、心の奥底では許してほしいという想いがある。
幼い頃の一目惚れから、もう数えて三十年以上――ずっとアランだけを見つめ続けてきた。
一度もその思いが薄れることなく、ひたすらまっすぐに愛し続けてきたのだ。
アランがシリウスとの繋がりを感じるたびに、胸の奥で燃え上がる激情、嫉妬、焦燥。
どれほど苦しかったことか。
もはやアランを思う感情は、レギュラス・ブラックの人生そのものだった。
「アラン……ごめんなさい。」
ようやく搾り出した声は、深い後悔と愛情に震えていた。
アランは涙を堪えながら、かすれた声で答える。
「憎みたいのに……嫌いになってやりたいのに……なれません。」
その言葉に、レギュラスの胸は締めつけられた。
「あなたからの拒絶は、本当に堪えます。」
アランは震える手でレギュラスの頬に触れ、囁くように言った。
「あなたは……もう……私の人生だから……」
レギュラスは彼女の手を優しく包み込み、深く頷いた。
「ええ、それは僕にとってのあなたも同じです。」
静かな夜の中で、二人の想いが静かに溶け合った。
重厚な扉を抜け、法務部の広間へ足を踏み入れると、静謐な空気の中に緊張が漂っていた。
レギュラスは息子アルタイルと並び、畳まれた書類の山へと向かう。今日一日、アメリカのノーマジ死傷事件に関する供述書へのサイン、証言、証拠提出と息つく暇もない忙しさだ。
窓辺の強い午後の光が、折れた杖を照らし出す。
アラン・ブラックの大切な杖は、魔力の芯を揺るがないようレギュラスのものと合わせた“兄弟杖”だった。
だが、あの日、マグルの男たちは容赦なく奪い取り、無残にも折り砕いた。
その無残な破片──証拠として提出された杖は、事件の残酷さと、アランが味わった恐怖を雄弁に物語っている。
書記官が供述書を差し出す。
「こちらにサインをお願いいたします、レギュラス・ブラック氏。」
彼は静かにペンを取り、慎重に署名する。
そして証言台では、落ち着いた口調で事件の経緯を語った。
「妻が突然、四名のマグルに囲まれ、人身売買に送られようとしていたのです。私が問いただしたところ、彼らは口を割らず、さらにアランに暴行を企てました。やむを得ず防衛のため呪文を放ち、結果として四名を致命傷に至らしめたものです。」
一連の説明は、レギュラスが負傷した理由も理路整然と説明できる。
物理攻撃を防ごうと魔法の盾を張り続けたが、群がる攻撃を完全には防げず、深手を負ったのだ──という構図は、誰が聞いても納得せざるをえないものだった。
その最中、供述書作成の係として背後に控えていたのは、アリス・ブラック。
冷たい視線で父親を見据え、低く告げる。
「アメリカのノーマジまで死に追いやったあなたの罪は、必ず暴かれるわ。」
書類の山を背に、レギュラスは顔を上げずに静かに答えた。
「暴くとおっしゃるなら、これが真実です。」
アリスは薄く笑い、さらに声を潜める。
「今回の件で、純血魔法使い保護法に異議を唱える者も増えるでしょうね。」
レギュラスは淡々とペン先を休め、窓の外の曇り空を仰ぎ見る。
「力を持たぬ者が増えたところで、この法が覆ることなどありません。」
アリスは眉間に皺を寄せながらも、言葉が続かない様子だった。
彼の言葉には揺るぎがなかった。
今回問題になったのは、相手がイギリス国内ではなくアメリカ国籍のマグルであったがゆえの外交問題に過ぎない。
ガイドラインでは、魔法界へ無許可で立ち入った者への対処は厳しく定められており、自衛行為は正当とされる。
ゆえに、純血魔法使い保護法の根幹が揺らぐことは断じてない。
レギュラスは静かに椅子を立ち、深く息を吐いた。
書類に貼られた証拠写真、折れた杖の破片、アランが受けた傷痕の記録。
全てが整然と並び、事件の非情さと正当防衛の必然を証明していた。
外では、ロンドンの街が冷たい風に揺れている。
だがこの部屋の中には、レギュラス・ブラックという魔法使いの理知と矜持が確かに息づいていた。
まだ完全には回復しきれていない身体を引きずるようにして、アランは法務部の重厚な扉へと向かった。
歩くたびに残る疲労感と痛みを押し殺しながら、胸の奥では不安が渦巻いている。
レギュラスがどれほど追い詰められているのか、その窮状を思うと居ても立ってもいられなかった。
もし自分の証言が加われば、彼をより強固に守る盾となれるかもしれない――そんな一縷の希望を胸に抱いていた。
受付の前にたどり着くと、まだ息を整えながら静かに声をかけた。
「アラン・ブラックです。夫は……レギュラス・ブラックは、どちらにいらっしゃいますか?」
その時、背後から声をかけられた。
「アランさん……どうしてここに?」
振り返ると、そこにはアリス・ブラックが立っていた。
驚きと困惑を湛えた瞳で、アランを見つめている。
アランは自然と駆け寄った。アランから変わらない癖で、アリスのそばに着くとすぐにその手を握る。
その温かな触れ合いに、懐かしさと現在の不安が交錯した。
「レギュラスとアルタイルは、今どこに?」
問いかける声には、疲れの中にも強い意志が込められていた。
アリスは深く息をついて答える。
「まだ、おそらく供述書の作成の途中だと思います。」
その言葉を聞いて、アランの不安はさらに深まった。
二人とも朝早くから出て行ったのに、こんな遅い時間まで拘束されているとは。
やはり自分の決定的な証言があれば、もっと早く彼らが解放されるのではないか――そんな思いが強くなっていく。
一方、アリスの心は複雑な感情で満たされていた。
シリウスが殺されたという悲劇があったにも関わらず、アランがひたすらにレギュラスを案じる姿は、彼女にとってとても寂しく映った。
やはり、アランにとってはレギュラスの方が大切なのだ。
シリウスがあれほど深く思い続けたアラン・セシールという女性は、もうどこにもいないのだと。
かつてマグルでありながら命を懸けて自分を救ってくれた、あの勇敢で純粋な女性はもういない。
その現実を改めて突きつけられると、アリスの胸の奥でとてつもなく深い悲しみが静かに波打った。
アランの手の温もりは変わらないのに、その心は既に別の場所にあることを、アリスは痛いほど感じ取っていた。
時の流れと人の心の移ろいを前に、彼女はただ静かに耐えるしかなかった。
静かな部屋の一角で、アリスはそっとポケットから小さな星形のネックレスを取り出した。 輝きを放つそれは、かつてアランが手渡した大切な宝物だった。
「アランさん……これを……返します。」 アリスの声には、言葉にできぬ複雑な想いが込められていた。
そのネックレスは、シリウスがアランに贈ったものだった。 孤児院から逃れ出す際に、アリスはアランにこのネックレスを持ってシリウス・ブラックを訪ねるように教えた。 それはまるで星の導きのように、彼女を彼の元へと辿り着かせた。 ずっと宝物として大切に胸に抱いていたものだ。
しかし、今は返す時だと思った。 「もともとはシリウスがアランに贈ったもの。アランの手元に戻ったほうが、きっとシリウスも喜ぶはず」と心からそう感じていた。
アランはしばらく見つめ続けてから、穏やかな声で答えた。 「まだ持っていたのね。」
「はい、大切にしていました。」 アリスもまた柔らかく微笑む。 「シリウスの想いが詰まっていますから、アランさんに返すべきだと思いました。」
そのやり取りの中、何かが穏やかに解けてゆく気配を感じていた。 あの人、静かに消えていったシリウス・ブラックを、アランが選んだのはレギュラス。 その選択で彼の想いが無にされてしまうことだけは、絶対に避けてほしいと願っているのだと思った。
アランの瞳に一筋の涙がこぼれ落ちる。 アリスはその涙に、小さな安堵を覚えた。
「ありがとう、アリス。」 アランのその言葉には深い感謝が込められていた。
「私の言葉です、アランさん。 このネックレスが、私を無事にシリウスのもとへと導いてくれましたから。」
確かに、アランの生き方は変わったのだ。 レギュラスの隣で彼を愛し続ける道を選び、まっすぐに歩いていくことを。
シリウスが望んでいたのは、彼女が彼のもとに愛を注ぎ続けることではなく、真実の愛の選択だったのだろう。 だがそれは強要できない。
だからこそ、アリスは母のように、そして父のように彼らを慕う思いを胸に秘めつつも、幻想から離れようとしていた。 自らの心の中に大きく膨らみすぎた幻想を、現実の愛として受け止めてゆくことを選んだのだ。
このままでは埒が開かない。
杖を静かに構え、冷徹な声で呪文を紡ぐ。
服従の呪文が空気を震わせ、男たちの瞳に虚ろな光が宿った。
「アラン・ブラック、女が一緒にいたはずです。そこに案内してもらいましょう。」
男たちは無言で頷き、まるで操り人形のように歩き始めた。
小屋の外へ、そして地下室へと続く石段を下りていく。
扉が開かれた瞬間――
レギュラスは目を疑った。
薄暗い石畳の床に、アランが横たわっていた。
白い肌があらわになり、痛々しく冷たい床に身体を投げ出されている。
その周囲には、無残に折られた杖の破片が散乱していた。
乱雑に引きちぎられた衣服が、まるでゴミのように放り出されている。
一人の男がアランの髪を乱暴に掴み、嘲笑するように言い放っていた。
「魔法使ってみろよ、魔法使いさんよ。」
その瞬間、レギュラスの胸に爆発的な怒りが沸き起こった。
この部屋で何が行われていたのか、瞬時に理解した。
抑えきれない憤怒が、明確な殺意へと変わる。
容赦など微塵もなかった。
杖を振るい、心臓を貫く呪文を次々と放った。
男たちはバタバタとアランの周りで倒れ伏し、二度と起き上がることはなかった。
静寂が戻った地下室で、レギュラスはゆっくりとアランに近づいた。
「アラン……すみません。遅くなりました。」
震える手でアランの腕をそっと掴むと、白い肌に数箇所の火傷の跡があった。
傍に転がるタバコの吸殻を見て、どのような仕打ちを受けたのか想像がついた。
胸が締めつけられ、かける言葉が見つからない。
「ごめんなさい……レギュラス……」
かすれた声でアランが謝罪する。
レギュラスは優しく首を振った。
「いいんです。何も言わなくて。」
破れたドレスを見つめながら、レギュラスは自分の責任を痛感した。
あれはきっと、ガウント家の屋敷から彼女を引きずって出てきた際に破れてしまったのだろう。
静かに自分のローブを脱ぎ、そっとアランの身体に巻きつける。
「これを、着ていてください。」
温かなローブが、傷ついた彼女を優しく包み込んだ。
レギュラスの手は震えながらも、丁寧にローブの端を整えていた。
薄鈍色の朝光が、屋敷の寝室の窓から静かに差し込んでいた。だが部屋の空気は重く、安らぎとはほど遠い。
アランは大きく体調を崩し、寝室の奥の寝台から一歩も動こうとしない。彼女の額には青白い汗がにじみ、瞼は重く閉ざされている。
レギュラスはその傍らに跪き、心配そうに額に手をあてては顔を覗き込む。眉間には深い皺が寄り、頭を抱えずにはいられない様子だった。
「アラン、早く…よくなってください」
低く震える声で何度も繰り返すが、返事はない。ただ彼女の微かな呼吸だけが部屋に響いている。
思い出すのは、数日前、彼女を救出するために放った呪文の刹那。
アメリカから不法に滞在していたマグルの男たち――四人の命は、彼の判断と魔力の奔流によって、あまりにもあっけなく奪われた。
イングランド王の名の下に制定された「純血魔法使い保護法」では、マグルの魔法界への立ち入りは事前申請が必要と定められ、またやむを得ぬ自衛の場合、純血魔法使いは罪に問われない。だが、相手はアメリカ国籍。
アメリカ大使館からは、まず許可を得るべきだったとの声が上がりつつあるという報せが、現在も魔法省の上層部から伝えられている。国が異なれば法も異なり、外交問題へ発展しかねない。
レギュラスは机の上に広げられた羊皮紙を前に、解決策を探ろうと必死に筆を走らせる。しかし、ペン先は震え、思考はアランの病床へ引き戻されてしまう。
彼はふと手を止め、深い溜息をついた。どの条文を引用し、どの大使館と交渉すればよいのか。だが今はそれよりも、目の前の人を救うこと――。
再び彼はアランに寄り添い、額の汗をそっと拭った。その手には、昨夜から続く眠れぬ疲労と、妻を守り抜けなかった自責の念が滲んでいた。
「どうか、もう一度だけ、目を開けてほしい」
窓辺のカーテンがかすかに揺れ、冷たい風が寝室に吹き込む。やがてレギュラスは決意を固めたようにペンを置き、書類をそっと閉じた。
この部屋から一歩も出られないほどに心配でたまらない彼の胸の痛みは、法務的な思案よりも重く、深く根ざしている。
魔法省の重厚な執務室で、アルタイルは父の前に立っていた。
机の上には、アメリカ大使館とのやり取りを記した書類が山のように積まれている。
「父さん、この件はアメリカ大使館とも話し合いを続けています。」
アルタイルの声には、息子としての心配と、魔法省職員としての責任感が混在していた。
レギュラスは疲れ切った表情で頷く。
「ええ、面倒をかけますね。」
しかし、胸の奥には重い沈黙があった。
なぜ四人のマグルを殺したのか――その真実を語るには、アランが受けた屈辱と暴力を詳らかにしなければならない。
彼女の尊厳を、息子の前で踏みにじることなど、レギュラスにはできなかった。
首に残る傷の痕を無意識に撫でながら、彼は事実を歪曲した。
「この傷も、アメリカのノーマジから受けたものです。防衛のために呪文を投じただけでした。」
だが、その説明には明らかな矛盾があった。
レギュラス・ブラックほどの魔法使いが、なぜマグルごときに攻撃を許したのか。
なぜ四人全員を殺害するまでに至ったのか。
アルタイルの瞳にも、困惑の色が浮かんでいる。
父の実力を知る彼にとって、その説明は腑に落ちないものだった。
「父さん、本当にそれだけですか?」
静かに問いかけるアルタイルの声に、レギュラスは一瞬言葉を詰まらせた。
窓の外では、ロンドンの街が霧に包まれている。
真実を隠すことの重さと、家族を守ることの重要さが、レギュラスの心で静かに戦っていた。
「……それだけです。」
最終的に、彼はそう答えるしかなかった。
息子の視線を受け止めながら、レギュラスは心の奥で祈った。
どうか、この嘘が家族を守ってくれますように。
そして、アランが一日も早く回復してくれますように。
朝のやわらかな薄明かりが寝室のカーテン越しに射し込む中、アランはゆっくりと目を覚ました。
まだ全身が重く、けだるさも完全には抜けていない。
枕元に敷かれたローブの温もりだけが、心の奥でかすかな安堵となっていた。
レギュラスの足音ではない――
やがて部屋にそっと入ってきたのは、息子のアルタイルだった。
優しくベッドの傍らに腰かけ、母の顔を静かに覗き込む。
「母さん、どうですか?」
アルタイルの声は幼さも残るが、しっかりとした響きを持っていた。
「ええ……だいぶ、いいです。」
アランは穏やかに微笑んだ。
その微笑みに、幾重もの疲労と痛みが隠れていることを、アルタイルは敏感に感じていた。
静かな時間が流れる。
アランが枕元に置かれた新聞を手に取る。
使用人が丁寧に運んでくれたその朝刊には、アメリカのマグル4名が死んだ事件に対する抗議と、魔法省およびレギュラスへの強い疑念が綴られていた。
まるで冷たい水を浴びせられたような思いになる。
――あの人は……
口元で呟くと、アルタイルがすぐに答えた。
「大丈夫です。父さんの件は、うまく片付けますから。」
その言葉は力強く、母への気遣いと家族を守ろうとする意志がにじんでいた。
アランはそっと新聞を閉じた。
安堵と不安が、淡い光の中で静かに胸に混ざり合っていた。
アルタイルの手がそっと添えられる。
家族の温もりだけが、今しばらく彼女を支えてくれるようだった。
夕暮れの薄橙色が屋敷の窓を染めるころ、レギュラスは書斎で静かにワイングラスを傾けた。
ほんの一口のアルコールが、冷え切った胸にほのかな温もりを運び、立ち尽くす力をほんのわずかに取り戻させる。
しかしその心の奥底には、ヴォルデモートから課された分霊箱の秘密が重く沈んでいた。
あまり深く首を突っ込まれては、すべてが露見してしまう――妻アランの尊厳を守るためにも、決して多くを語ってはならなかった。
慌てて寝室へ駆け込む。
ドアをそっと開けると、横たわるアランの瞼がかすかに揺れ、奥から温かな生命の証が返ってきた。
「アラン……心配しました。」
震える声でそう告げると、アランはゆっくりと目を開けた。
「レギュラス……マグルの件は……」
その問いかけを聞き、レギュラスはアランの手をそっと取り、優しく顔を覗き込んだ。
「そのことは、アルタイルが動いてくれていますから。安心してください。」
真実をすべて話せない無念さを胸に隠しながらも、彼は必死に微笑みを紡いだ。
アランの不安を和らげるために選んだ言葉だった。
アランの表情が少しだけ緩むのを見て、レギュラスは胸の奥からあふれる安堵に思わず目を潤ませた。
何よりも――妻が目を覚ましてくれたことが、彼にとって最大の救いだった。
アランの指先が、そっとレギュラスの首筋をたどった。
そこには、燃え盛る憎しみと共に深く刻まれた刺し傷の跡があった。
「ごめんなさい、レギュラス……」
か細い声が震え、痛みを伴う後悔がその言葉に込められていた。
その手の上に、レギュラスは自分の手を重ねた。
温かな掌でそっと包み込むように握り返し、優しく微笑む。
「いいんです。何も、気にしなくて。」
彼の声は深い慈しみで満ちており、その一言でアランの胸に重くのしかかっていた罪悪感が、かすかにほどける気がした。
次いで、レギュラスはアランの頬に指を滑らせ、そっと唇を重ねた。
触れるだけのキス――だが、その唇にはかすかにワインの甘いほろ苦さが混じっていた。
「飲んでいるのですか?」
アランは目を見開いて問いかけた。
「……あ、少しだけ。」
レギュラスは照れくさそうに目を伏せる。夜の食事の際にたしなむ程度だったはずのワインだ。
それをまだ夕暮れも過ぎぬ時間に口にしているという事実は、彼がいかに心を痛め、追い込まれているかを雄弁に物語っていた。
アランは小さく息を吐き、レギュラスの額に手を添えた。
「夫がこんな風にまで苦しむなんて……私のせいです。」
その言葉を遮るように、アランは一歩近づき、レギュラスの手を両手で包み込んだ。
「ノーマジのことで、もしあなたが責められているのなら、私はいくらでも証言できます。あの暴行を受けたこと、それが正当防衛だったと、誰の前でも胸を張って語ります。」
アランの言葉には確かな強さが宿っていた。
たとえそれが、自らの恥を世間に晒す行為だとしても。
だが、もしそれでレギュラスの行為が正当防衛として認められるのならば、その恥を越えて守るべきは、彼の無実とこの家の未来だった。
薄明の光が二人の影を長く伸ばし、静かに寄り添う。
まだ早い時間帯にワインを傾けるほどに心を痛めている夫のために、アランは何かできることはないかと、自らの胸に問いかけていた。
夜の静寂が室内をゆっくりと満たす中、レギュラスはそっとアランに寄り添い、共に寝台に横たわった。
その瞳は深い安堵をたたえ、如実に語っていた。
「本当に良かった。」
彼の声は静かでありながらも、胸の奥から湧き上がる感情が滲み出ていた。
アランは弱々しくも微笑み返し、震える唇で答える。
「心配かけました。」
レギュラスはぎこちなく彼女の身体を抱きしめる。
その手はいつもより緊張し、優しく肩に添えられたまま、静かに留まる。
決してその下に滑らせることなく。
まるで“そこが定位置だ”と自ら制限を課しているかのようだった。
アランはその気配を敏感に感じ取り、理解した。
アメリカのノーマジたちの男たちから受けた暴行の痕跡が、彼女の心に深い傷を残していることを。
レギュラスも同じ恐怖を察し、無意識のうちに触れ方に細やかな配慮を施しているのだと。
胸の内には幾重にも重なった複雑な想いが広がっていた。
シリウス・ブラックのこと。
何度も絶望に打ちひしがれ、幾度となく深い苦しみを味わった。
復讐の炎を心に燃やし、時にその憎悪に身を焦がした。
けれど、そんな闇の中にあっても、レギュラスから向けられる愛が、いつも真っ直ぐに深く彼女を貫いてきた。
その純粋な光は時に、アランの心を迷わせた。
何が正しいのか。何を選びたいのか。
彼の変わらぬ愛を知るたびに、シリウスを愛してきた自分の存在が、知らぬ間に薄れていくのを感じていた。
まるで記憶の中から、シリウス・ブラックという人物が消え去っていくように。
共に過ごした日々の数は、どう転んでも今はレギュラスとのものの方が多く、幾ばくかの体温を重ね、言葉を交わしていた。
振り返れば、思い出せるのはいつしかレギュラスとの記憶ばかりになっていた。
確かに、シリウスを愛していた。
彼を愛することで世界を知り、愛の意味に触れて、大人になったと思っていた。
それなのに、出会いと別れの後、どこかで自分の心が彼を留めておけないことを悟っている。
死してなお、シリウス・ブラックを選び得なかった事実が、静かに、しかし確かにアランを突きつけていた。
そのことを思うと、胸の奥に忍び寄る恐怖に震えた。
彼女はそっとレギュラスの肩に頭を預け、ふたりの呼吸を合わせる。
その温もりの中に、安らぎと迷い、愛と痛みが入り混じり揺れていた。
夜は深まり、窓の外の星々が静かに輝き続けている。
その光は、未来へと続く道の微かな希望を示しているようでもあった。
アランの瞳は揺らめき、言葉を探すように震えていた。深く息を吸い込み、静かに口を開く。
「レギュラス……私は、シリウスを、ずっとずっと愛していたの。ごめんなさい。」
その告白は夜の静寂に柔らかく溶け込み、二人の間に重く響いた。
レギュラスは微かに微笑み、優しい声で答えた。
「ええ、知っています。ずっと、あなたを見ていましたから。」
失望も落胆もない、その声色はあまりにも深い理解に満ちていた。
アランは頬に触れる風を感じるように、その言葉を胸に沁み込ませた。
「けれど、あなたの側で生きてきた人生も、紛れもなく本物です。」
震える声で言い切ると、レギュラスは静かに頷いた。
「そうですね。」
アランは涙がこぼれないように、鼻の奥に熱い痛みを感じながら続けた。
「あなたを支えたいと思ってきたことも、子どもたちを共に育ててきたことも――すべて、本当です。」
「ええ、そうです。」
彼の言葉は静かに、しかし揺るぎない肯定だった。
アランは視線を落とし、胸の奥でしぼり出すように囁く。
「あなたが私を愛してくれたように、私もその想いに応えようとしてきた。本当なのです。」
「知っていますよ。」
レギュラスの声は、柔らかく、慈しみに満ちていた。
その優しさは、痛みを伴う記憶を抱えたアランの胸をさらに締めつけた。
優しい光に照らされる陰のように、彼女の苦しみが際立つ。
重い吐息をつき、アランはさらに言葉を重ねる。
「あなたに命を救われたとき、私は誓った。これから先、何を差し置いても、あなたにすべてを捧げる自分でありたいと――。」
「ええ、感じていましたよ。」
レギュラスは目を細め、その言葉を心で受け止めているようだった。
アランの声がかすかに震え、切なさに満ちていく。
「それなのに……あなたは……酷かった。シリウスを、殺そうとしたわ……彼の死を、私に見せたかった。」
その言葉が宙をさまよう。アランの瞳には後悔と罪悪、そして誰にも触れられない絶望が映し出されていた。
レギュラスは言葉を選ぶように唇を震わせたが、すぐに沈黙した。
ただゆっくりと息を整え、深い思いに沈み込むように、探るように、重苦しい沈黙を抱え込んでいた。
時間の流れが止まったかのように、部屋には二人の呼吸音だけが静かに響く。
言葉にできない想いを胸に秘め、アランはかすかに震える身体を寄せ、レギュラスの沈黙の中に自らの罪と痛みを委ねた。
レギュラスは深い沈黙の中で、アランの言葉に何と答えていいのかわからずにいた。
彼女の痛みに満ちた告白が、胸の奥で重く響いている。
シリウスの死を見せることで、アランの心に住み続けるシリウスを永遠に葬り去れると思った。
きっと、自分勝手すぎたのだ。
それでも、心の奥底では許してほしいという想いがある。
幼い頃の一目惚れから、もう数えて三十年以上――ずっとアランだけを見つめ続けてきた。
一度もその思いが薄れることなく、ひたすらまっすぐに愛し続けてきたのだ。
アランがシリウスとの繋がりを感じるたびに、胸の奥で燃え上がる激情、嫉妬、焦燥。
どれほど苦しかったことか。
もはやアランを思う感情は、レギュラス・ブラックの人生そのものだった。
「アラン……ごめんなさい。」
ようやく搾り出した声は、深い後悔と愛情に震えていた。
アランは涙を堪えながら、かすれた声で答える。
「憎みたいのに……嫌いになってやりたいのに……なれません。」
その言葉に、レギュラスの胸は締めつけられた。
「あなたからの拒絶は、本当に堪えます。」
アランは震える手でレギュラスの頬に触れ、囁くように言った。
「あなたは……もう……私の人生だから……」
レギュラスは彼女の手を優しく包み込み、深く頷いた。
「ええ、それは僕にとってのあなたも同じです。」
静かな夜の中で、二人の想いが静かに溶け合った。
重厚な扉を抜け、法務部の広間へ足を踏み入れると、静謐な空気の中に緊張が漂っていた。
レギュラスは息子アルタイルと並び、畳まれた書類の山へと向かう。今日一日、アメリカのノーマジ死傷事件に関する供述書へのサイン、証言、証拠提出と息つく暇もない忙しさだ。
窓辺の強い午後の光が、折れた杖を照らし出す。
アラン・ブラックの大切な杖は、魔力の芯を揺るがないようレギュラスのものと合わせた“兄弟杖”だった。
だが、あの日、マグルの男たちは容赦なく奪い取り、無残にも折り砕いた。
その無残な破片──証拠として提出された杖は、事件の残酷さと、アランが味わった恐怖を雄弁に物語っている。
書記官が供述書を差し出す。
「こちらにサインをお願いいたします、レギュラス・ブラック氏。」
彼は静かにペンを取り、慎重に署名する。
そして証言台では、落ち着いた口調で事件の経緯を語った。
「妻が突然、四名のマグルに囲まれ、人身売買に送られようとしていたのです。私が問いただしたところ、彼らは口を割らず、さらにアランに暴行を企てました。やむを得ず防衛のため呪文を放ち、結果として四名を致命傷に至らしめたものです。」
一連の説明は、レギュラスが負傷した理由も理路整然と説明できる。
物理攻撃を防ごうと魔法の盾を張り続けたが、群がる攻撃を完全には防げず、深手を負ったのだ──という構図は、誰が聞いても納得せざるをえないものだった。
その最中、供述書作成の係として背後に控えていたのは、アリス・ブラック。
冷たい視線で父親を見据え、低く告げる。
「アメリカのノーマジまで死に追いやったあなたの罪は、必ず暴かれるわ。」
書類の山を背に、レギュラスは顔を上げずに静かに答えた。
「暴くとおっしゃるなら、これが真実です。」
アリスは薄く笑い、さらに声を潜める。
「今回の件で、純血魔法使い保護法に異議を唱える者も増えるでしょうね。」
レギュラスは淡々とペン先を休め、窓の外の曇り空を仰ぎ見る。
「力を持たぬ者が増えたところで、この法が覆ることなどありません。」
アリスは眉間に皺を寄せながらも、言葉が続かない様子だった。
彼の言葉には揺るぎがなかった。
今回問題になったのは、相手がイギリス国内ではなくアメリカ国籍のマグルであったがゆえの外交問題に過ぎない。
ガイドラインでは、魔法界へ無許可で立ち入った者への対処は厳しく定められており、自衛行為は正当とされる。
ゆえに、純血魔法使い保護法の根幹が揺らぐことは断じてない。
レギュラスは静かに椅子を立ち、深く息を吐いた。
書類に貼られた証拠写真、折れた杖の破片、アランが受けた傷痕の記録。
全てが整然と並び、事件の非情さと正当防衛の必然を証明していた。
外では、ロンドンの街が冷たい風に揺れている。
だがこの部屋の中には、レギュラス・ブラックという魔法使いの理知と矜持が確かに息づいていた。
まだ完全には回復しきれていない身体を引きずるようにして、アランは法務部の重厚な扉へと向かった。
歩くたびに残る疲労感と痛みを押し殺しながら、胸の奥では不安が渦巻いている。
レギュラスがどれほど追い詰められているのか、その窮状を思うと居ても立ってもいられなかった。
もし自分の証言が加われば、彼をより強固に守る盾となれるかもしれない――そんな一縷の希望を胸に抱いていた。
受付の前にたどり着くと、まだ息を整えながら静かに声をかけた。
「アラン・ブラックです。夫は……レギュラス・ブラックは、どちらにいらっしゃいますか?」
その時、背後から声をかけられた。
「アランさん……どうしてここに?」
振り返ると、そこにはアリス・ブラックが立っていた。
驚きと困惑を湛えた瞳で、アランを見つめている。
アランは自然と駆け寄った。アランから変わらない癖で、アリスのそばに着くとすぐにその手を握る。
その温かな触れ合いに、懐かしさと現在の不安が交錯した。
「レギュラスとアルタイルは、今どこに?」
問いかける声には、疲れの中にも強い意志が込められていた。
アリスは深く息をついて答える。
「まだ、おそらく供述書の作成の途中だと思います。」
その言葉を聞いて、アランの不安はさらに深まった。
二人とも朝早くから出て行ったのに、こんな遅い時間まで拘束されているとは。
やはり自分の決定的な証言があれば、もっと早く彼らが解放されるのではないか――そんな思いが強くなっていく。
一方、アリスの心は複雑な感情で満たされていた。
シリウスが殺されたという悲劇があったにも関わらず、アランがひたすらにレギュラスを案じる姿は、彼女にとってとても寂しく映った。
やはり、アランにとってはレギュラスの方が大切なのだ。
シリウスがあれほど深く思い続けたアラン・セシールという女性は、もうどこにもいないのだと。
かつてマグルでありながら命を懸けて自分を救ってくれた、あの勇敢で純粋な女性はもういない。
その現実を改めて突きつけられると、アリスの胸の奥でとてつもなく深い悲しみが静かに波打った。
アランの手の温もりは変わらないのに、その心は既に別の場所にあることを、アリスは痛いほど感じ取っていた。
時の流れと人の心の移ろいを前に、彼女はただ静かに耐えるしかなかった。
静かな部屋の一角で、アリスはそっとポケットから小さな星形のネックレスを取り出した。 輝きを放つそれは、かつてアランが手渡した大切な宝物だった。
「アランさん……これを……返します。」 アリスの声には、言葉にできぬ複雑な想いが込められていた。
そのネックレスは、シリウスがアランに贈ったものだった。 孤児院から逃れ出す際に、アリスはアランにこのネックレスを持ってシリウス・ブラックを訪ねるように教えた。 それはまるで星の導きのように、彼女を彼の元へと辿り着かせた。 ずっと宝物として大切に胸に抱いていたものだ。
しかし、今は返す時だと思った。 「もともとはシリウスがアランに贈ったもの。アランの手元に戻ったほうが、きっとシリウスも喜ぶはず」と心からそう感じていた。
アランはしばらく見つめ続けてから、穏やかな声で答えた。 「まだ持っていたのね。」
「はい、大切にしていました。」 アリスもまた柔らかく微笑む。 「シリウスの想いが詰まっていますから、アランさんに返すべきだと思いました。」
そのやり取りの中、何かが穏やかに解けてゆく気配を感じていた。 あの人、静かに消えていったシリウス・ブラックを、アランが選んだのはレギュラス。 その選択で彼の想いが無にされてしまうことだけは、絶対に避けてほしいと願っているのだと思った。
アランの瞳に一筋の涙がこぼれ落ちる。 アリスはその涙に、小さな安堵を覚えた。
「ありがとう、アリス。」 アランのその言葉には深い感謝が込められていた。
「私の言葉です、アランさん。 このネックレスが、私を無事にシリウスのもとへと導いてくれましたから。」
確かに、アランの生き方は変わったのだ。 レギュラスの隣で彼を愛し続ける道を選び、まっすぐに歩いていくことを。
シリウスが望んでいたのは、彼女が彼のもとに愛を注ぎ続けることではなく、真実の愛の選択だったのだろう。 だがそれは強要できない。
だからこそ、アリスは母のように、そして父のように彼らを慕う思いを胸に秘めつつも、幻想から離れようとしていた。 自らの心の中に大きく膨らみすぎた幻想を、現実の愛として受け止めてゆくことを選んだのだ。
