5章
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やがて視界の先に、それは現れた。
ガウント家の屋敷――
朽ち果てた石造りの建物は、まるで大地から這い出した怨念のように不気味にそびえ立っていた。窓という窓は黒く塗りつぶされ、扉には見えない鎖が巻きついているかのような重圧が漂う。
アランの足が、確かにすくんだ。
レギュラスの手を握る力が自然と強くなる。情けないと思いながらも、手のひらに汗が滲んでいるのを感じた。
屋敷の前で立ち尽くす二人。
その沈黙の中で、アランがふと顔を上げた。
「……私が先に入りましょう。」
その言葉に、レギュラスの胸に何かが走った。
「待ってください。僕が――」
彼の言葉を遮るように、アランは静かに首を振る。
「でも、おそらくあなたは入れないのでしょう?」
その問いかけは、優しくも残酷だった。
確かに文献には記されていた。男は屋敷への侵入すら拒まれると。レギュラス自身もそれを理解している。
それでも――
アランが一人で闇の中へ消えていく姿を、ただ見送るだけの存在になど成り下がりたくなかった。彼の中の矜持が、男としての誇りが、それを拒んでいた。
「……それでも。」
レギュラスの声は低く、震えを帯びている。
「あなたを一人で行かせるわけにはいきません。入れずとも、せめてこの扉の前で……。」
アランはその横顔を見つめた。彼の苦悶する表情に、胸が痛んだ。
シリウスのことで許せない想いを抱えながらも、こうして自分を案じてくれる彼の心を、完全に無視することはできなかった。
屋敷の前で佇む二人の影は、朝の光の中でひとつに重なり、それでも互いの運命が分かれることを予感させていた。
風が吹き、古い木々がざわめく。
ガウント家の呪いが、静かに二人を見つめているかのように。
重苦しい空気が、行く手を遮る。
アランが慎重に足を踏み入れたその瞬間、身体が震えた。
空気は鉛のように重く、全身を押し潰すような感覚だ。まるで無数の見えない手が、魂を引き裂くかのように絡みつく。
レギュラスも躊躇した。彼が一歩踏み出そうとした刹那、強烈な壁に弾き飛ばされるように拒絶された。
その場に倒れ込んだ彼の額には冷や汗が浮かぶ。
「入るには、結界の魔法が必要だ。」
レギュラスは言い、すぐに幾重もの防御の呪文を紡ぎ始めた。透明な膜が彼らを包み込み、世界の闇の呪いから守る盾となった。
「消耗しませんか?」
アランは心配そうに告げる。
「この中では魔力を維持し続けなければならない。呪いの力が常に君を弾き飛ばそうとしているのだから、体力を消耗するのは避けられないでしょう。」
レギュラスは苦笑を浮かべた。
「大丈夫です。そう簡単に底をつく魔力ではありません。」
二人は結界の中に守られながら、一歩、また一歩と屋敷の暗い廊下へ足を進めていく。
闇の圧迫は言葉に尽くせぬほど苦しく、時に呼吸すらままならなくなる。
だが、アランの手が彼の手をしっかり握り、共にある確かな温もりがその苦さを和らげていた。
壁に掛かる古びた肖像画が微かにこちらを見つめる。薄暗がりの空間に、二人の影が重なったまま揺れていた。
恐怖と不安の渦中でも、静かに繋がる二人の心が、かすかな光となってこの闇を裂いているようだった。
けれど少しでも結界の魔法が緩めばすぐにレギュラスは外に吹き飛ばされていく。結界が破れた瞬間に周囲の物が反動で飛んできて顔や体に当たる。
アランは震える手でドレスの袖を引き、頬や唇に滲んだ血をそっと拭った。
冷たく湿った布が肌に触れるたびに、胸の痛みが鋭く響く。
彼女の心は揺れていた。
レギュラスを追うべきか――いや、今は違う。分霊箱の指輪が確かに自分の掌の中にある。
それを守り、石棺へ辿り着かねばならないのだ。
「レギュラスは、外に放り出されたのだから……きっとこの屋敷の中にいるよりも無事に違いない。」
痛みを堪えながら、アランはゆっくりと地下へと続く階段に足を踏み入れた。
一歩一歩、その暗い階段を降りる度に、心の奥底にあの忌まわしい映像が映し出されていく。
シリウスの最期の瞬間――。
息を殺し、彼女の魂はその場に凍りついた。
瞳が輝きを失い、瞼が静かに閉じられるまでの刹那。
倒れゆく体。空に舞うような彼の手のひら。
そのすべてが、まるで蔓延る闇の中で鮮明に蘇るようだった。
アランの手が、思わず伸びる。
そこにはもういないはずのシリウスの手を、掴みたいと願うように。
「シリウス……」
その声は、弱々しく震える涙声となり地下の冷気に溶けていった。
胸を締めつける痛みとともにアランは前に進む。
償いの道は遠く、重かった。だが歩みを止めるわけにはいかなかった。
暗闇の中、響く自分の足音が、唯一の確かな存在のように感じられた。
シリウスの手を求めて伸ばしたその手が――
実は戻れない闇へと自分を導いていることに、アランは気づかなかった。
幻影に操られるように、彼女の足は石棺へと向かっている。
その瞳には現実が映っておらず、ただ失われた愛する人への想いだけが渦巻いていた。
「アラン! アラン!」
レギュラスの声が響く。
屋敷の外へ思い切り吹き飛ばされた彼は、慌てて呪文を繋ぎ直し、必死にアランを追いかけてきたのだった。
だが、その声は彼女に届かない。
石棺の蓋は既に開かれており、そこから無数の黒い虫が湧き出していた。羽音が不気味に響き、前が見えなくなるほど空中を舞い踊っている。
アランの姿すら、その虫の大群に遮られて見えなくなりそうだった。
レギュラスの方へも容赦なく虫たちが向かってくる。彼は片手で払いのけながら、必死に前へ進もうとした。
しかし、その時――
アランが、石棺の中へと足を踏み入れようとしているのが見えた。
あまりにも異様な光景だった。
まるで何かに操られるように、彼女は自ら棺の中へと身を沈めようとしている。
「だめだ……!」
レギュラスは杖を振りたくなったが、躊躇った。
攻撃呪文を放てば、結界を維持している魔力が乱れ、また屋敷の外へ弾き出されてしまう。
ジレンマの中で、彼はただ虫を手で払いながら、愛する妻が闇に呑まれていく姿を見つめることしかできなかった。
無数の羽音が耳を劈き、石棺から立ち上る異臭が鼻をついた。
時間だけが、残酷に流れていく。
石棺の闇は、アランにとって不思議なほど心地よかった。
まるで、失われたはずのシリウスの腕の中にいるかのような温もりが、冷たい闇を包み込んでいた。
薄暗い棺の中に横たわり、白骨と寄り添うように身を沈めると、記憶の奥底から夜の特別な時間が蘇ってくる。
あの瞬間、シリウスとこころが繋がった気がした。
深い闇の中で、彼から何かを受け取ったように感じ、そして自分の中の何かを差し出した。
それは言葉にできない、けれどほんとうに幸福で満たされた想いだった。
「アラン、聞こえますか? 返事を、返事をしてください!」
レギュラスの叫びが闇にこだまする。だが、アランにはその声も響かず、届くことはなかった。
石棺の外では、無数の黒い虫が容赦なくレギュラスを阻もうとしている。
先ほどのように呪文の魔力を維持できずに弾き出されることを阻止するため、彼は必死だった。
結界を張り続ける呪文。
その魔力を一定に保つには、限界がある。疲労がじわりじわりと体を蝕み、精神を削っていく。
だが、レギュラスは決して諦めなかった。
愛する者を失いたくなかった。自らが呪いの闇に呑まれてはならなかった。
彼の杖から繰り出される呪文の光は弱まり、揺らぎながらも、闇の壁となって彼を守っていた。
その夜の静寂の中、二人の想いは光と闇のはざまで揺れ続けた。
暗闇に包まれた石棺の中、アランはそっと目を閉じた。
やわらかな記憶が、彼女の胸を優しく満たしていく。
あの時代の、幸せに満ちた日々。
シリウスと共に過ごした穏やかな瞬間たち。
温かな笑顔、かじかんだ手のぬくもり、夜空の星を見上げたあの夜。
その幸福に溺れるかのように、アランは心をゆだねる。
できることなら、このまま永遠にこの甘い夢の中に沈み込みたいと、そう願っていた。
だが、その時、黒く蠢く無数の虫たちの羽音が、ざわめきとなって彼女の意識の奥底にざわめいた。
石棺の外から、レギュラスの必死の声が響く。
「アラン、目を開けてください。お願いです、アラン――!」
彼は暗闇の中で、彼女の腕を探り、そっと取った。
手に伝わる柔らかな温もり、しかしその重さにすら恐怖が混ざる。
「目を……開いて。来て……。」
震える声で繰り返し、彼はアランの体を引っ張り、揺らした。
虚ろな彼女の瞳は、なかなか焦点を結ばない。
だが、諦めることなく、レギュラスは何度でもその手を握りしめ、意識を呼び戻そうとした。
黒い虫が彼らを包み込むように蠢く中、レギュラスの心だけはただ一つの願いに突き動かされていた。
「どうか……帰ってきて、アラン。」
深い闇の淵で、二人の指先がかすかに触れ合い、かすかな光を放った。
石棺の重い闇の中で、アランはゆっくりと瞼を開いた。
その眼差しはまず、揺らぎながらも確かにレギュラスを捉えた。
「アラン、気付きましたか……アラン、よかった……」
レギュラスは安堵の声を漏らし、深く息をついた。
黒い虫がまとわりつく不快な空間も、腐敗の匂いも、その瞬間ばかりは彼の意識の外に消えていた。
しかし、アランの瞳に宿る光は以前のものとは違っていた。
鋭く、どこか冷たく、レギュラスをまるで睨みつけるようだった。
その瞳の変化に戸惑い、彼はそっと顔を伏せた。
だが次の瞬間、彼の思考は打ち砕かれる。
石棺の中に転がっていた白骨の一本を、アランが躊躇なく掴み取ると、そのまま伸ばされた腕でレギュラスの首筋に向かって突き刺したのだ。
「――うっ……!」
痛みが襲うよりも先に衝撃が心を貫いた。
彼は一体、今、何をされたのか理解できず、ただ固まったまま呆然とする。
次の瞬間、首筋から胸元にかけて冷たくもなく、熱くもなく、生暖かい液体がたらたらと流れ落ちる感触に気づいた。
血が、ゆっくりと鮮やかな線を描きながら落ちていく。
レギュラスは震える指を震わせて、その感触の意味を受け入れようとした。
石棺の闇に包まれたその瞬間、二人の間に焦燥と不可解さが混在しただけの静寂が訪れた。
石棺の冷たい闇の中で、レギュラスは呆然としていた。
愛する妻からの思いもよらない攻撃に、心が追いつかない。
首筋から流れる血は止まることなく、シャツの胸元を濡らしていく。
傷を塞ぐ呪文をかけたい――だが、結界を維持し続けなければ、また屋敷の外へ弾き出されてしまう。他の呪文を紡ぐ余裕など、今の彼にはなかった。
アランはなおも、白骨の鋭い切先をレギュラスに向けてくる。
彼はもう片方の手で、必死にその攻撃を交わし、彼女の華奢な手首を押さえつけた。
決して強くはないアランの抵抗。
普段なら容易に制することができるはずの、か細い力。
けれど今は違った。
衝撃があまりにも大きすぎて、それを交わし続けることすら苦痛だった。
「アラン……どうしたんです……?」
震える声で問いかけても、返事はない。
暗闇の中でも、アランの瞳の色が読めなかった。
それは単に光が足りないからではない。その瞳が一体何を映しているのか、何を見つめているのか、まったく理解できなかった。
いつも優しく微笑んでくれていた妻の瞳に、今は見知らぬ何かが宿っている。
それは憎しみなのか、それとも別の感情なのか――
レギュラスは血を流しながら、ただ困惑するばかりだった。
腐敗した空気の中で、二人の影だけが静かに揺れ続けていた。
石棺の冷たい闇に閉ざされた空間で、レギュラスは決断した。
ここに留まれば、アランを失いかねない。
結界の呪文を緩めれば、外に放り出されるのは自分だけ。
それでは、彼女をこの地下の闇に置き去りにしてしまうことになる。
二人が揃ってここから出るためには、力ずくでも彼女を連れ出さなければならない。
「アラン、ここを出ますよ。」
静かな声だったが、それには揺るぎない覚悟が込められていた。
しかし、アランはなおも抵抗し続ける。
二人の手はまだ繋がっているものの、レギュラスは片手しか自由に使えない。
対してアランは両手を使って必死に彼を攻撃しようとしていた。
「アラン、暴れないでください。お願いします。」
その声に切実な祈りが混じる。
レギュラスは意を決し、アランの片方の手首を強く捻り、彼女が握りしめていた白骨の切先を床に落とさせた。
無数の小さな音を立てて骨が石の床に触れる。
物理的な攻撃手段を奪うことができたのは、彼にとって大きな安堵だった。
そして、たった一本の手で、彼女の両手首をしっかりと押さえ込む。
深く息を吸い、力強く引いた。
アランの身体が抵抗に抗いながらも、少しずつ動き始める。
狭く冷たい階段へと二人は向かった。
暗がりの中、一歩一歩足を踏みしめながら、彼は必死に彼女を引き上げていく。
その瞬間、二人の間に新たな決意が芽生えた。
どんなに強い呪いに絡め取られても、二人が共に歩む限り、それは決して終わりではないと。
闇の気配が背後から迫る中、レギュラスはただ一つの願いを胸に抱き続けていた。
――どうか、無事に、二人でこの場所を出られますように。
石棺の冷たく重い暗闇の中で、アランの抵抗は激しさを増していた。
まるでその瞬間、彼女の中で抑え込んでいた何かが、途轍もない嵐のように吹き荒れたのだ。
先ほどまで感じていたシリウスとの安らかな眠りの幸福は、レギュラスの瞳とその呼び声によって打ち壊された。
その瞬間、アランの心にずっと渦巻いていた複雑な想いが爆発したのだった。
レギュラスは、彼女にとってはもはや悪魔のように映っていた。
シリウスを見殺しにした存在。
シリウスの最期の瞬間を無情にも見せつけた残酷な男。
普段は静かに微笑み、愛を囁くけれど、その裏に潜むのは、どこまでも冷酷で恐ろしい本性なのだと。
その男が、自分を愛していると何度も囁いてきたこと。
その言葉の温もりとは裏腹に、殺意の刃として向けられることの苦しさを、アランは深く味わっていた。
今まさに、その冷酷な悪魔の心を引き裂いてやれているのだろうかと、自問した。
しかしその一方、レギュラスに手首を捻られ、自分の唯一の攻撃道具である白骨を奪われてしまった。
魔力の差でどう頑張っても敵うはずのない彼に、物理的な手段にすがりつくしかなかったのに、それさえも絶たれてしまったことで、彼女は己の無力さに深く打ちのめされた。
シリウスへの想いすら、この無力な自分の心を突き通せずに貫けなかったことが、まるでシリウス本人から責められているかのように感じられた。
血に濡れた手で床を握り締めながら、アランの涙がこぼれそうになった。
身体中に走る痛みも、心の深い傷も、冷たい石の床に吸い込まれていくかのようだった。
彼女の心の中で、愛と憎しみ、希望と絶望が複雑に交錯し、途方もない孤独の中でだれにも届かぬ叫びが響いていた。
石棺の陰に漂う重苦しい空気の中、レギュラスはしっかりとアランのもう片方の手に握られていた分霊箱の指輪を見つめた。
迷いはなかった。
静かな決意とともに、彼はその指輪を奪い取り、ゆっくりと階段の上から石棺へ向けて投げ入れた。
指輪は闇の中へと落ち、まるで封印の完了を告げるようにその音が冷たく響いた。
「これで、分霊箱の封印は済んだ。そう信じていい。」
レギュラスは深く息をつきながら告げた。
「アラン、あとはここを出るだけです。」
しかし、その言葉に、アランは強い意志を見せてゆるがなかった。
「離しません。こんなところで……。」
その答えに、レギュラスは腕に力を込めた。
苦しげに、だが決して諦めることなく彼女を引きずるようにして階段へ向かった。
流れる血が彼の首元から服の中へと広がり、冷たくも熱くもない生暖かさがじわりと体を覆う。
屋敷の外に出た瞬間、彼は呪文で即座に傷口を塞がねばならないと、本能的に思った。
二人の影は不安と覚悟を抱えながら、冷たい外気の中へゆっくりと歩みを進めていった。
屋敷の重い扉を背にして、レギュラスはアランを引きずりながらようやく外の冷たい空気に辿り着いた。
結界の呪文を閉ざした瞬間――
まるで張り詰めていた糸が切れるように、彼の全身から力が一気に抜けていくのを感じた。
アランは既に意識を失い、ぐったりと横たわっている。
長い間引きずられてきたせいで、彼女のドレスはところどころ布地が破れ、痛々しい姿をさらしていた。
レギュラスは首元の傷を塞がねばと思った。
杖を握る手に力を込めようとする。だが、もうそれすら叶わなかった。
屋敷から脱出できた安堵感。
長時間に渡る魔力の消耗。
そして流れすぎた血液による衰弱。
すべてが重なり合い、彼の意識は朦朧としていた。
限界だった。
そのまま、彼はアランの上に重なるようにして倒れ込んだ。
朝の薄明の光が二人を包み、静寂の中で彼らの荒い呼吸だけが響いている。
ガウント家の屋敷は、ただ黒く静まり返ったまま、背後にそびえ立っていた。
二人は呪いから逃れることができた。
だが、その代償として、心と身体に深い傷を負っていた。
風が頬を撫で、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
それは、現実の世界へと彼らを呼び戻す優しい調べのようだった。
薄明かりの差し込む小さな室内で、レギュラスはゆっくりと意識を取り戻した。
耳に届くのは、かちゃかちゃと食器がぶつかり合う音や、壁の向こうから聞こえる生活の喧騒。
自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。
硬いベッドとも布団ともつかぬ場所に身体を横たえていたようで、筋肉の痛みと、首の重苦しい感触が心を霞ませていた。
ゆっくりと上半身を起こす。
視界の中に、二人の男がこちらを静かに見つめているのが映った。
レギュラスは瞬時に状況を整理しようと目をこらす。疑念の霧がゆっくりと胸の中で渦巻いていく。
だが、すぐにローブの内に忍ばせていた杖を掴み、警戒のために構えた。
「やめてくれい!」
一人の男が声を荒げたが、そこには険悪さはなかった。
「俺たちは倒れていたおまえさんを連れてきてやったんだ。首の手当てだってしている。」
目を下ろすと、首元には見慣れない白いガーゼがしっかりと巻かれていた。
まだ完全に疑念が晴れないものの、少なくともこの男たちは害意を持っているようには感じられなかった。
レギュラスは、緩やかに杖を下ろした。
男たちの目に、安堵とも警戒ともつかぬ微かな光がともる。
互いに言葉は少なくとも、静かな信頼の芽生えが確かにあった。
その小さな室内には、外の世界の混沌とは違う時間がゆっくりと流れていた。
レギュラスの胸にも、かすかなぬくもりが差し込んだ。
薄暗い室内に、男の声が響いた。
「おまえさん、幽霊屋敷の前で倒れてたんだ。」
その言葉に、レギュラスは一瞬、眉をひそめた。
男たちの話す言葉には、明らかにアメリカ訛りの英語が混じっていた。
視線を室内に巡らせると、魔法の気配がまったく感じられないことに気づいた。
この小屋の隅々には、魔法ではなく確かな手仕事が積み上げられた日常の痕跡があった。
細やかに編まれた手織りの布団。木の枝を丁寧に削り作られた箸や食器。
窓枠に吊るされた乾燥したハーブの房。石の炉には薪が積み上げられ、火を囲む小さな鍋がかかっていた。
壁には生活の知恵と祈りを込めた手書きのカレンダーや、古びた家族写真。
すべてが丁寧に、魔法を使わずに積み上げられ、維持されているものだった。
声を潜め、レギュラスは問いかけるように呟いた。
「――マグルですか?」
その響きには警戒の色が含まれていた。
アメリカの男の一人が頷き、「ノーマジだ」と答えた。
レギュラスの心にさらなる疑念がよぎった。
アメリカからはるばる、この地にマグルがいること。
英国魔法界では「純血魔法使い保護法」が厳しく制定されており、マグルが魔法界に滞在するには必ず許可証が必要なはずだった。
彼は男たちの顔を厳しく見据え、問いただす。
「許可証はお持ちですか?
ここは、マグルが許可なしに立ち入っていい場所ではありません。」
再び杖を握り直し、身構える。
魔法の緊張感が彼の体を締めつけ、男たちとの間に張り詰めた空気が漂った。
男たちも身構えるが、その目には敵意は感じられなかった。
むしろ、疲労と不安、そしてどこか守りたいものがあるような複雑な光が宿っている。
沈黙の中で、レギュラスは警戒心と共に、なぜこの無骨なノーマジたちが自分を助けたのかを考えずにはいられなかった。
薄明かりが差し込む小屋の中で、男の一人が口を開いた。
「許可証が必要だなんて、正直俺たちも知らなかったよ。ここに漂流してきて、数ヶ月、こうして暮らしてるんだ。」
レギュラスは眉をひそめ、厳しい声で告げる。
「今すぐこの国から出てください。魔法省に見つかれば、厳罰に処されることは間違いありません。」
男は肩をすくめ、照れくさそうに笑う。
「ああ、そうだな。すまん。もし見逃してくれるなら、助かる。」
レギュラスの胸中には、彼らをここで拘束しようかという思いが一瞬よぎった。
だが、傷の手当てをして安全な場所まで運ぶという彼らの配慮に、少なからぬ気遣いを感じ取った。
その行為に、彼はせめてもの礼を尽くしたいと心に決めた。
しかし、ふとした瞬間に気づく。
「アランは……妻は、どこに?」
その声は静かでありながら、深い不安が滲み出ていた。
目覚めた瞬間から感じていた違和感。何かが足りない、この胸の奥にぽっかりと開いた穴の正体。
男たちは互いに顔を見合わせ、一言二言言葉を交わしかけたが、口をつぐんでしまう。
部屋の空気が突然、重く冷たくなる。
レギュラスの視線は揺らぎながらも、希望の光を求めていた。
小屋の中に漂う静寂を破って、男の言葉が重く響いた。
「おまえさん一人しか、俺らは見てないんだ。」
その瞬間――
レギュラスの胸の奥底から、冷たい恐怖がぶわりと這い上がってきた。
血の気が引き、心臓が激しく鼓動を打つ。
そんなはずはない。
確かにアランを屋敷の外へ連れ出した。意識を失う寸前まで、彼女の温もりを感じていたはずだった。あの細い肩を抱きしめ、共に外の冷たい空気を吸ったのだ。
では、彼女はいったいどこへ消えたのか。
まさか――あの忌まわしい屋敷に、再び戻ってしまったとでも言うのか。
レギュラスの脳裏に、様々な可能性が一気に浮かび上がった。
屋敷の呪いがまだ彼女を離さずにいるのか。
それとも、意識を失っている間に、何者かが彼女を連れ去ったのか。
あるいは、彼女自身が自らの意志で――
考えるだけで、胸が締めつけられるような痛みが走る。
「そんなはずは……」
レギュラスの声は震えていた。
ノーマジの一人が、心配そうな表情で問いかける。
「二人で来たのか?」
「ええ。妻とです。」
レギュラスは必死に冷静さを保とうとしながら答えた。
「ここは、あなたたち以外にも近くに住んでいる人間がいるのですか?」
もし他の誰かが彼女を見つけ、安全な場所に運んでくれたのなら。
そう願わずにはいられなかった。
だが同時に、アランがどこにいるのか分からないという事実が、彼の心を激しく揺さぶっていた。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
無事でいるのだろうか。
それとも――
レギュラスは拳を握りしめた。
指先が白くなるほど強く握りしめて、恐怖に震える心を必死に抑え込もうとしていた。
小屋の中の温かい空気とは対照的に、彼の心は氷のように冷たく凍えていた。
愛する人を失ったかもしれないという恐怖が、胸の奥で静かに、しかし確実に広がり続けていた。
湿った石壁に囲まれた地下室のような暗がりで、アランはゆっくりと目を覚ました。
頭は鈍く痛み、体に戻る感覚は薄れていた。
目の前には二人の男が身を屈めて、じろじろと覗き込んでいる。
その視線が、まるで品定めをするように冷たく肌をなぞった。
無意識に体に力が入る――こんな風に露骨に見つめられた記憶は、人生の中でほとんどなかった。
男たちは、早口で何かを話している。
その言葉の調子に、遠い国――アメリカのアクセントのような響きを感じ取った。
必死に耳を澄ますが、途切れ途切れにしか聞き取れない。
「これはアメリカじゃ高く売れるぜ。」
「イギリスの女だろ。どっかの貴族か?」
「さっきの男はどうする?あれも見ぐるみは上等だった。やっぱり貴族なんだろ。」
言葉の断片が、冷たい空気の中で鋭く突き刺さった。
アランの体が瞬時に硬直する。
善意だけで自分がここにいるのではないことが、はっきりと理解できた。
彼女が傷つき、衰弱し、無防備でいる今――その価値を計るような眼差しだけが空気を満たしていた。
そして、すぐに異変に気づく。
傍にいるべきはずのレギュラスが、どこにもいない。
焦りと不安が胸を締めつけた。
普段なら、彼の存在が盾となり、自分を守ってくれる。だが今は、その気配はどこにもない。
さらに、ポケットに入れていたはずの杖も奪われていた。
自分は今、完全に無力なのだと痛感する。
恐怖が潮のように押し寄せてくる――
この地下室に、自分を守るものはもう何もない。
二人の男が、品物を値踏みするような口調で自分について話す度に、アランの心は氷のように冷えていく。
この場からどうにかして逃れなければ、そればかりが頭を満たしていた。
手足の力はまだ戻らない。
意識だけが冴え渡り、冷たい石の床に張り付くような不安が広がる。
こんな時こそ、心の奥に残るほんの僅かな希望や、レギュラスと共に過ごした日々の記憶を頼りに――
アランは必死に、自分を保つしかなかった。
地下室の薄暗がりに沈みながら、アランは思った。
――レギュラスは今、どこにいるのだろうか。
無事なのだろうか。
その疑念は次第に、屋敷の深淵で交わったあの記憶を鮮明に呼び覚ました。
シリウスとの、優しく穏やかな想い出へもう一度沈み込みたいと願ったあの瞬間、レギュラスの声が届いてしまった。
嫌だった。
せっかく手が届きかけていた温もりから、不意に引き戻される感覚。
レギュラスが呼ぶ声に、ありったけの憎しみが跳ね上がる――また奪われてしまった。
なぜ、いつも彼はこうして私から大切なものを奪ってしまうのだろう。
その怒りに突き動かされた手で、棺の中の骨を掴み、レギュラスの喉元に突き刺した。その瞬間の感触が、あまりにも鮮明だ。
「私、なんてこと……」
手のひらを見つめる。
指先に残った皮膚の感覚。
痛みにうめいた彼の声。
骨が皮膚を貫いてめり込んだ瞬間。
今となっては、その全てが冷たく、恐ろしく蘇る。
間違いなく、レギュラスは今弱っている。
傷つき、魔法の盾を張ったまま、絶えず消耗して――
子供達が誇りに思う父を、この自分の手で傷つけてしまった。
アランが思い描いていた復讐は、
シリウスの死を自分に突きつけたレギュラスの前で、自らが命を終える瞬間を見せつけてやることだった。
どれほど心が裂けても、その痛みを、ただ彼に返してやりたいと思っていた。
それなのに――
実際に彼を傷つけたその手の感触は、あまりにも生々しく、恐ろしかった。
こんなことがしたかったわけじゃない。
愛しているはずなのに、憎んでもいる。
憎しみと愛情が複雑に絡み合い、涙が零れそうになった。
「夫は……どこです?」
静かな声で問うと、男たちはゆっくりと彼女を見返した。
その目には、どこか値踏みする色と、わずかな困惑が潜んでいた。
答えはすぐには返ってこない。
アランの心は、冷たい孤独と罪悪感の狭間で、深く揺れ動いていた。
薄暗い地下室に、アランの澄んだ声が響いた。
「私の杖を返してください。」
凛とした語調だけれど、内心では恐怖が声を裏返しそうになるのを必死に抑えていた。
男たちの手には、確かにアランの杖が握られている。
そのうちの一人が面白そうに杖をひらひらと振りながら言い放った。
「この杖がないと、魔法使いでも何も出来ないみたいだな。」
その言い回しから、アランははっきりと彼らがマグル――魔法を持たぬ普通の人間であることを悟った。
しかも、どうやらアメリカの言葉を話す者であるらしい。
マグルが、イングランドの魔法界にいる。
レギュラスが制定に尽力した「純血魔法使い保護法」では、マグルの魔法界への立ち入りは厳しく規制されており、厳罰が科せられる。
この事実を逆手に取れば、いまの窮地を抜け出す糸口になるかもしれない――アランは必死に考えた。
冷静さを装い、知的な威厳を漂わせながら、アランは言葉を紡いだ。
「マグルの方たちなのね。魔法界に入るのに許可証はお持ちかしら? もしないのであれば、魔法省が見逃しません。事前の申請が必要ですが、後からでも何とか発行する手筈を整えて、速やかにアメリカに帰国できるよう手配することをお約束します。」
わずかな間を置き、さらに続ける。 「ですから、私の杖を返していただきたいの。ここから出して、そして夫のところへ案内してほしいのです。」
努めて理知的に、そして毅然と。
アランは、心の中の震えを静めて、外へと響く声を絞り出していた。
しかし男たちはその提案に鼻で笑い、互いにニヤニヤと顔を見合わせる。
その目には「何を言ってるんだ、この女は」という侮蔑と面白がる色が浮かんでいた。
「おいおい、ご丁寧に魔法省かよ。」
「本当に貴族様のご出身ってわけだな。あんたの“杖”は、金の延べ棒ってものでもねえだろ?」
「魔法界にいようが、アウトローな場所でアウトローなことしてる奴が、そんなきれいごと通せると思うなよ。」
冷たく乾いた空気の中で、男たちの笑い声が響く。
薄暗い地下室の空気が、男の下品な声で汚される。
「どこぞの貴族かしらねぇが、俺たちはな、魔法使いを売り飛ばして生計を立ててんだ。」
唾を飛ばしながらそう告げる男の顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
アランは、ある程度そんな雰囲気を感じ取っていた。だからこそ、レギュラスと引き離されてここに一人でいるのだろうと予想もついていた。
恐怖を悟られぬよう、声を震わせることなく言い放つ。
「純血魔法使いに対してのそのような行為は、厳しく罰せられますわ。」
男たちは腹を抱えて爆笑した。まるで、世間知らずの子供が夢物語を語っているかのように。
アランは、これほどまでに馬鹿にされ、蔑まれた視線を浴びたことは今までになかった。
血筋や教養を重んじる家庭で育ち、夫となったレギュラスも常に彼女を大切に扱ってくれた。
だが今、この薄汚れた地下室で、彼女の誇りは容赦なく踏みにじられていた。
胸の奥で、ふと思った。
――レギュラスに、今すぐ助けてもらいたい。
つい先ほど、自分の手で骨を突き刺して彼を傷つけたというのに。
その次の瞬間に救いを求めるなんて、あまりにも都合がいい。
自分でも呆れるほど、身勝手で、わがままで――
それでも、レギュラスにしか救いを求める先はなかった。
彼の強さと優しさだけが、この絶望的な状況から自分を救い出してくれるのだと、心の底から信じていた。
男たちがじりじりとアランに近づいてくる。
彼女は本能的に後ろへと下がった。
冷たい石壁に背中がぶつかる。もう逃げ場はない。
「来ないで!」
アランの声が震えた。今度は、恐怖を隠すことができなかった。
「これは高く売れるぞ。」
「そうだな、2、3年は働かなくて済みそうだ。」
男たちは口々にそんなことを言いながら、品定めするような目でアランを見つめる。
その視線は、彼女を一個の商品としか見ていない。
人としての尊厳など、そこには微塵も存在しなかった。
アランの心は、恐怖と屈辱で満たされていた。
胸のペンダントが小さく光るのを感じながら、彼女は必死に、レギュラスの名を心の中で呼び続けていた。
――どうか、見つけて。
――どうか、助けて。
――私を、置いて行かないで。
その願いだけが、暗闇の中でかすかに輝く希望の光だった。
薄暗い地下室の床に冷たく背中を打ちつけられ、アランは息を漏らした。
腰を屈め、必死に彼女の杖を奪おうと伸ばした手は、男の太い腕に強く掴まれて制された。
男は嘲笑交じりに杖をひらひらと振るい、まるで魔法使いの真似事をするように空中でくるりと回す。
「こうか? こうやるのか?」
その声に合わせて、別の男が口を開いた。
「これはちょっとだけ先に食ってみてもバチは当たらないんじゃねぇか?」
「食う」とは、要するに――言葉の意味を理解した瞬間、アランを冷たい悪寒が走り抜けた。
女としての尊厳を、無慈悲に貪り取られてしまう。今まさに――。
その恐怖は身体の奥底から這い上がり、心臓を締めつけた。
思考は凍りつき、涙がにじむ。
男の一人が無造作にアランの身体を床に押さえつけた。
「いっ……」
硬い石の床に背中を叩きつけられ、痛みが全身を震わせる。
「押さえてろ。」
もう一人の男が言うと、後ろから肩をぐっと掴み、身体はぴたりと動かなくなった。
四肢が重石にでも抑えつけられたかのように、全身が凍りつく。
種類の違う、深い恐怖がアランの胸を覆った。
だが、その恐怖の中でも、わずかな決意の火花が消えずに揺れていた。
――杖さえ取り戻せれば、ここから脱出できる。
震えるまなざしを男の顔へ向け、アランはかすかな声で呟いた。
「……許しません……」
か細い言葉は、しかし決して消えはしなかった。
闇に沈んだ地下室で、アランは絶望の淵にいた。
レギュラスは、とうとう来なかった。
救いなど、どこにも訪れなかった。
彼を傷つけてしまったことの報いなのかもしれない。
刃を向けながらも助けを願った自分の身勝手さが、ただ虚しく胸を締めつけた。
尊厳などもうどこにも残っていなかった。
ただ、二人の男たちによって、暴力的に奪われる行為だけが繰り返されていく。
抗議の声はすぐに消え失せ、手足で抵抗しようとする力すら根こそぎ奪われていった。
怒鳴りつける男たちの声に、アランの全身は恐怖でこわばった。
膨らみをもぎ取るかのように強く両手で掴まれた部分からは、声にならない悲鳴が漏れ出ていた。
強引にねじ込まれるものに身体は震え、遠い意識の隅でふと、レギュラスの喉の痛みはどのくらいなのだろうか、そんなことを考えた。
涙は出なかった。
ただ唖然として、心は硬直していた。
かつて、セシール家の娘として何不自由なく大切に育てられた自分。
ブラック家に嫁いでからも、レギュラスの愛は時に歪であったとしても、彼の想いだけはひたむきで変わらなかった。
それだけに、動物的に貪り尽くされるという表現がぴったりと当てはまる行為に、アランは言葉を失った。
男の一人が冷笑混じりに言った。
「こんなにうんともすんとも言わねぇ女は、見た目だけよくてもすぐ飽きられそうだな。」
もう一人は鼻で笑いながら続ける。
「まずは見た目だろ。買われたあとは俺らの知ったことじゃねぇ。」
動けないままのアランをよそに、男たちは無造作にタバコに火をつけた。
煙が薄暗い地下室の空気を重く覆い、冷たい床に投げ捨てられた彼女の衣服に絡みつく。
マグルとは、かつてシリウスと共に過ごしたあの世界のことを思い出す。
そこでは魔法使いもマグルもなく、一人の人間として優しく生きられる自由の象徴のような場所だった。
今、目の前にいる男たちは、そんな光の対極にある生き物に見えた。
卑劣で薄汚く、冷酷で残忍な獣。
アランは打ちひしがれながらも、心の奥底でマグルの世界の輝きを重ね、失われたものへの深い哀しみに潰れそうになっていた。
アランの心は深い闇の中で荒れ狂っていた。
――この男たちを、殺してしまいたい。
シリウスなら、どう思うだろうか。
彼が守りたかったマグルとは、この連中のような者たちではないはずだと、自分を納得させる。
だから、許されるのだろうか――そんな祈りにも似た想いを胸に、アランはゆっくりと身体を這わせた。
その視線は、男のそばに置かれた杖へと引き寄せられていた。
命をつなぐ唯一の術具。
手を伸ばし、手のひらを杖の柄にかけた瞬間――
背後から、吸いかけのタバコが投げつけられる。
火のついた先端が腕に触れ、熱く鋭い痛みが走った。
皮膚が焼けるような激痛に、アランは呻き声を漏らした。
「ちょっと目を離したら、ろくなことねぇな。」
男の冷たい声と鼻で笑う音が、耳に突き刺さる。
アランが苦悶の中で杖を握りしめたその時、別の男が素早く杖を拾い上げ、床に押し付けるようにして踏みつけた。
「これもらっとくぜ。」
杖をねじるように力を込め、ぽきり――と小気味よい音が響いた。
兄弟杖として、レギュラスの杖と芯を合わせ、二度と傷つけ合わぬようにと誓いを込めた大切な杖だった。
折れた杖は、虚しく石の床に放り投げられた。
アランの肩に、初めて涙が伝って落ちた。
悔しさと後悔、憎しみと悲しみが渦を巻いた。
胸元にあった血の誓いのペンダントが、小さく光を揺らす。
――どんな呪文も、レギュラスに跳ね返るはずだった。
だが、瞬間の憎しみに飲まれ、自らの手で彼を刺してしまった。
「ごめんなさい……レギュラス……」
震える声は、深い罪悪感と絶望に塗りつぶされていた。
暗い地下室の空気が、その言葉だけを静かに受け止めた。
ガウント家の屋敷――
朽ち果てた石造りの建物は、まるで大地から這い出した怨念のように不気味にそびえ立っていた。窓という窓は黒く塗りつぶされ、扉には見えない鎖が巻きついているかのような重圧が漂う。
アランの足が、確かにすくんだ。
レギュラスの手を握る力が自然と強くなる。情けないと思いながらも、手のひらに汗が滲んでいるのを感じた。
屋敷の前で立ち尽くす二人。
その沈黙の中で、アランがふと顔を上げた。
「……私が先に入りましょう。」
その言葉に、レギュラスの胸に何かが走った。
「待ってください。僕が――」
彼の言葉を遮るように、アランは静かに首を振る。
「でも、おそらくあなたは入れないのでしょう?」
その問いかけは、優しくも残酷だった。
確かに文献には記されていた。男は屋敷への侵入すら拒まれると。レギュラス自身もそれを理解している。
それでも――
アランが一人で闇の中へ消えていく姿を、ただ見送るだけの存在になど成り下がりたくなかった。彼の中の矜持が、男としての誇りが、それを拒んでいた。
「……それでも。」
レギュラスの声は低く、震えを帯びている。
「あなたを一人で行かせるわけにはいきません。入れずとも、せめてこの扉の前で……。」
アランはその横顔を見つめた。彼の苦悶する表情に、胸が痛んだ。
シリウスのことで許せない想いを抱えながらも、こうして自分を案じてくれる彼の心を、完全に無視することはできなかった。
屋敷の前で佇む二人の影は、朝の光の中でひとつに重なり、それでも互いの運命が分かれることを予感させていた。
風が吹き、古い木々がざわめく。
ガウント家の呪いが、静かに二人を見つめているかのように。
重苦しい空気が、行く手を遮る。
アランが慎重に足を踏み入れたその瞬間、身体が震えた。
空気は鉛のように重く、全身を押し潰すような感覚だ。まるで無数の見えない手が、魂を引き裂くかのように絡みつく。
レギュラスも躊躇した。彼が一歩踏み出そうとした刹那、強烈な壁に弾き飛ばされるように拒絶された。
その場に倒れ込んだ彼の額には冷や汗が浮かぶ。
「入るには、結界の魔法が必要だ。」
レギュラスは言い、すぐに幾重もの防御の呪文を紡ぎ始めた。透明な膜が彼らを包み込み、世界の闇の呪いから守る盾となった。
「消耗しませんか?」
アランは心配そうに告げる。
「この中では魔力を維持し続けなければならない。呪いの力が常に君を弾き飛ばそうとしているのだから、体力を消耗するのは避けられないでしょう。」
レギュラスは苦笑を浮かべた。
「大丈夫です。そう簡単に底をつく魔力ではありません。」
二人は結界の中に守られながら、一歩、また一歩と屋敷の暗い廊下へ足を進めていく。
闇の圧迫は言葉に尽くせぬほど苦しく、時に呼吸すらままならなくなる。
だが、アランの手が彼の手をしっかり握り、共にある確かな温もりがその苦さを和らげていた。
壁に掛かる古びた肖像画が微かにこちらを見つめる。薄暗がりの空間に、二人の影が重なったまま揺れていた。
恐怖と不安の渦中でも、静かに繋がる二人の心が、かすかな光となってこの闇を裂いているようだった。
けれど少しでも結界の魔法が緩めばすぐにレギュラスは外に吹き飛ばされていく。結界が破れた瞬間に周囲の物が反動で飛んできて顔や体に当たる。
アランは震える手でドレスの袖を引き、頬や唇に滲んだ血をそっと拭った。
冷たく湿った布が肌に触れるたびに、胸の痛みが鋭く響く。
彼女の心は揺れていた。
レギュラスを追うべきか――いや、今は違う。分霊箱の指輪が確かに自分の掌の中にある。
それを守り、石棺へ辿り着かねばならないのだ。
「レギュラスは、外に放り出されたのだから……きっとこの屋敷の中にいるよりも無事に違いない。」
痛みを堪えながら、アランはゆっくりと地下へと続く階段に足を踏み入れた。
一歩一歩、その暗い階段を降りる度に、心の奥底にあの忌まわしい映像が映し出されていく。
シリウスの最期の瞬間――。
息を殺し、彼女の魂はその場に凍りついた。
瞳が輝きを失い、瞼が静かに閉じられるまでの刹那。
倒れゆく体。空に舞うような彼の手のひら。
そのすべてが、まるで蔓延る闇の中で鮮明に蘇るようだった。
アランの手が、思わず伸びる。
そこにはもういないはずのシリウスの手を、掴みたいと願うように。
「シリウス……」
その声は、弱々しく震える涙声となり地下の冷気に溶けていった。
胸を締めつける痛みとともにアランは前に進む。
償いの道は遠く、重かった。だが歩みを止めるわけにはいかなかった。
暗闇の中、響く自分の足音が、唯一の確かな存在のように感じられた。
シリウスの手を求めて伸ばしたその手が――
実は戻れない闇へと自分を導いていることに、アランは気づかなかった。
幻影に操られるように、彼女の足は石棺へと向かっている。
その瞳には現実が映っておらず、ただ失われた愛する人への想いだけが渦巻いていた。
「アラン! アラン!」
レギュラスの声が響く。
屋敷の外へ思い切り吹き飛ばされた彼は、慌てて呪文を繋ぎ直し、必死にアランを追いかけてきたのだった。
だが、その声は彼女に届かない。
石棺の蓋は既に開かれており、そこから無数の黒い虫が湧き出していた。羽音が不気味に響き、前が見えなくなるほど空中を舞い踊っている。
アランの姿すら、その虫の大群に遮られて見えなくなりそうだった。
レギュラスの方へも容赦なく虫たちが向かってくる。彼は片手で払いのけながら、必死に前へ進もうとした。
しかし、その時――
アランが、石棺の中へと足を踏み入れようとしているのが見えた。
あまりにも異様な光景だった。
まるで何かに操られるように、彼女は自ら棺の中へと身を沈めようとしている。
「だめだ……!」
レギュラスは杖を振りたくなったが、躊躇った。
攻撃呪文を放てば、結界を維持している魔力が乱れ、また屋敷の外へ弾き出されてしまう。
ジレンマの中で、彼はただ虫を手で払いながら、愛する妻が闇に呑まれていく姿を見つめることしかできなかった。
無数の羽音が耳を劈き、石棺から立ち上る異臭が鼻をついた。
時間だけが、残酷に流れていく。
石棺の闇は、アランにとって不思議なほど心地よかった。
まるで、失われたはずのシリウスの腕の中にいるかのような温もりが、冷たい闇を包み込んでいた。
薄暗い棺の中に横たわり、白骨と寄り添うように身を沈めると、記憶の奥底から夜の特別な時間が蘇ってくる。
あの瞬間、シリウスとこころが繋がった気がした。
深い闇の中で、彼から何かを受け取ったように感じ、そして自分の中の何かを差し出した。
それは言葉にできない、けれどほんとうに幸福で満たされた想いだった。
「アラン、聞こえますか? 返事を、返事をしてください!」
レギュラスの叫びが闇にこだまする。だが、アランにはその声も響かず、届くことはなかった。
石棺の外では、無数の黒い虫が容赦なくレギュラスを阻もうとしている。
先ほどのように呪文の魔力を維持できずに弾き出されることを阻止するため、彼は必死だった。
結界を張り続ける呪文。
その魔力を一定に保つには、限界がある。疲労がじわりじわりと体を蝕み、精神を削っていく。
だが、レギュラスは決して諦めなかった。
愛する者を失いたくなかった。自らが呪いの闇に呑まれてはならなかった。
彼の杖から繰り出される呪文の光は弱まり、揺らぎながらも、闇の壁となって彼を守っていた。
その夜の静寂の中、二人の想いは光と闇のはざまで揺れ続けた。
暗闇に包まれた石棺の中、アランはそっと目を閉じた。
やわらかな記憶が、彼女の胸を優しく満たしていく。
あの時代の、幸せに満ちた日々。
シリウスと共に過ごした穏やかな瞬間たち。
温かな笑顔、かじかんだ手のぬくもり、夜空の星を見上げたあの夜。
その幸福に溺れるかのように、アランは心をゆだねる。
できることなら、このまま永遠にこの甘い夢の中に沈み込みたいと、そう願っていた。
だが、その時、黒く蠢く無数の虫たちの羽音が、ざわめきとなって彼女の意識の奥底にざわめいた。
石棺の外から、レギュラスの必死の声が響く。
「アラン、目を開けてください。お願いです、アラン――!」
彼は暗闇の中で、彼女の腕を探り、そっと取った。
手に伝わる柔らかな温もり、しかしその重さにすら恐怖が混ざる。
「目を……開いて。来て……。」
震える声で繰り返し、彼はアランの体を引っ張り、揺らした。
虚ろな彼女の瞳は、なかなか焦点を結ばない。
だが、諦めることなく、レギュラスは何度でもその手を握りしめ、意識を呼び戻そうとした。
黒い虫が彼らを包み込むように蠢く中、レギュラスの心だけはただ一つの願いに突き動かされていた。
「どうか……帰ってきて、アラン。」
深い闇の淵で、二人の指先がかすかに触れ合い、かすかな光を放った。
石棺の重い闇の中で、アランはゆっくりと瞼を開いた。
その眼差しはまず、揺らぎながらも確かにレギュラスを捉えた。
「アラン、気付きましたか……アラン、よかった……」
レギュラスは安堵の声を漏らし、深く息をついた。
黒い虫がまとわりつく不快な空間も、腐敗の匂いも、その瞬間ばかりは彼の意識の外に消えていた。
しかし、アランの瞳に宿る光は以前のものとは違っていた。
鋭く、どこか冷たく、レギュラスをまるで睨みつけるようだった。
その瞳の変化に戸惑い、彼はそっと顔を伏せた。
だが次の瞬間、彼の思考は打ち砕かれる。
石棺の中に転がっていた白骨の一本を、アランが躊躇なく掴み取ると、そのまま伸ばされた腕でレギュラスの首筋に向かって突き刺したのだ。
「――うっ……!」
痛みが襲うよりも先に衝撃が心を貫いた。
彼は一体、今、何をされたのか理解できず、ただ固まったまま呆然とする。
次の瞬間、首筋から胸元にかけて冷たくもなく、熱くもなく、生暖かい液体がたらたらと流れ落ちる感触に気づいた。
血が、ゆっくりと鮮やかな線を描きながら落ちていく。
レギュラスは震える指を震わせて、その感触の意味を受け入れようとした。
石棺の闇に包まれたその瞬間、二人の間に焦燥と不可解さが混在しただけの静寂が訪れた。
石棺の冷たい闇の中で、レギュラスは呆然としていた。
愛する妻からの思いもよらない攻撃に、心が追いつかない。
首筋から流れる血は止まることなく、シャツの胸元を濡らしていく。
傷を塞ぐ呪文をかけたい――だが、結界を維持し続けなければ、また屋敷の外へ弾き出されてしまう。他の呪文を紡ぐ余裕など、今の彼にはなかった。
アランはなおも、白骨の鋭い切先をレギュラスに向けてくる。
彼はもう片方の手で、必死にその攻撃を交わし、彼女の華奢な手首を押さえつけた。
決して強くはないアランの抵抗。
普段なら容易に制することができるはずの、か細い力。
けれど今は違った。
衝撃があまりにも大きすぎて、それを交わし続けることすら苦痛だった。
「アラン……どうしたんです……?」
震える声で問いかけても、返事はない。
暗闇の中でも、アランの瞳の色が読めなかった。
それは単に光が足りないからではない。その瞳が一体何を映しているのか、何を見つめているのか、まったく理解できなかった。
いつも優しく微笑んでくれていた妻の瞳に、今は見知らぬ何かが宿っている。
それは憎しみなのか、それとも別の感情なのか――
レギュラスは血を流しながら、ただ困惑するばかりだった。
腐敗した空気の中で、二人の影だけが静かに揺れ続けていた。
石棺の冷たい闇に閉ざされた空間で、レギュラスは決断した。
ここに留まれば、アランを失いかねない。
結界の呪文を緩めれば、外に放り出されるのは自分だけ。
それでは、彼女をこの地下の闇に置き去りにしてしまうことになる。
二人が揃ってここから出るためには、力ずくでも彼女を連れ出さなければならない。
「アラン、ここを出ますよ。」
静かな声だったが、それには揺るぎない覚悟が込められていた。
しかし、アランはなおも抵抗し続ける。
二人の手はまだ繋がっているものの、レギュラスは片手しか自由に使えない。
対してアランは両手を使って必死に彼を攻撃しようとしていた。
「アラン、暴れないでください。お願いします。」
その声に切実な祈りが混じる。
レギュラスは意を決し、アランの片方の手首を強く捻り、彼女が握りしめていた白骨の切先を床に落とさせた。
無数の小さな音を立てて骨が石の床に触れる。
物理的な攻撃手段を奪うことができたのは、彼にとって大きな安堵だった。
そして、たった一本の手で、彼女の両手首をしっかりと押さえ込む。
深く息を吸い、力強く引いた。
アランの身体が抵抗に抗いながらも、少しずつ動き始める。
狭く冷たい階段へと二人は向かった。
暗がりの中、一歩一歩足を踏みしめながら、彼は必死に彼女を引き上げていく。
その瞬間、二人の間に新たな決意が芽生えた。
どんなに強い呪いに絡め取られても、二人が共に歩む限り、それは決して終わりではないと。
闇の気配が背後から迫る中、レギュラスはただ一つの願いを胸に抱き続けていた。
――どうか、無事に、二人でこの場所を出られますように。
石棺の冷たく重い暗闇の中で、アランの抵抗は激しさを増していた。
まるでその瞬間、彼女の中で抑え込んでいた何かが、途轍もない嵐のように吹き荒れたのだ。
先ほどまで感じていたシリウスとの安らかな眠りの幸福は、レギュラスの瞳とその呼び声によって打ち壊された。
その瞬間、アランの心にずっと渦巻いていた複雑な想いが爆発したのだった。
レギュラスは、彼女にとってはもはや悪魔のように映っていた。
シリウスを見殺しにした存在。
シリウスの最期の瞬間を無情にも見せつけた残酷な男。
普段は静かに微笑み、愛を囁くけれど、その裏に潜むのは、どこまでも冷酷で恐ろしい本性なのだと。
その男が、自分を愛していると何度も囁いてきたこと。
その言葉の温もりとは裏腹に、殺意の刃として向けられることの苦しさを、アランは深く味わっていた。
今まさに、その冷酷な悪魔の心を引き裂いてやれているのだろうかと、自問した。
しかしその一方、レギュラスに手首を捻られ、自分の唯一の攻撃道具である白骨を奪われてしまった。
魔力の差でどう頑張っても敵うはずのない彼に、物理的な手段にすがりつくしかなかったのに、それさえも絶たれてしまったことで、彼女は己の無力さに深く打ちのめされた。
シリウスへの想いすら、この無力な自分の心を突き通せずに貫けなかったことが、まるでシリウス本人から責められているかのように感じられた。
血に濡れた手で床を握り締めながら、アランの涙がこぼれそうになった。
身体中に走る痛みも、心の深い傷も、冷たい石の床に吸い込まれていくかのようだった。
彼女の心の中で、愛と憎しみ、希望と絶望が複雑に交錯し、途方もない孤独の中でだれにも届かぬ叫びが響いていた。
石棺の陰に漂う重苦しい空気の中、レギュラスはしっかりとアランのもう片方の手に握られていた分霊箱の指輪を見つめた。
迷いはなかった。
静かな決意とともに、彼はその指輪を奪い取り、ゆっくりと階段の上から石棺へ向けて投げ入れた。
指輪は闇の中へと落ち、まるで封印の完了を告げるようにその音が冷たく響いた。
「これで、分霊箱の封印は済んだ。そう信じていい。」
レギュラスは深く息をつきながら告げた。
「アラン、あとはここを出るだけです。」
しかし、その言葉に、アランは強い意志を見せてゆるがなかった。
「離しません。こんなところで……。」
その答えに、レギュラスは腕に力を込めた。
苦しげに、だが決して諦めることなく彼女を引きずるようにして階段へ向かった。
流れる血が彼の首元から服の中へと広がり、冷たくも熱くもない生暖かさがじわりと体を覆う。
屋敷の外に出た瞬間、彼は呪文で即座に傷口を塞がねばならないと、本能的に思った。
二人の影は不安と覚悟を抱えながら、冷たい外気の中へゆっくりと歩みを進めていった。
屋敷の重い扉を背にして、レギュラスはアランを引きずりながらようやく外の冷たい空気に辿り着いた。
結界の呪文を閉ざした瞬間――
まるで張り詰めていた糸が切れるように、彼の全身から力が一気に抜けていくのを感じた。
アランは既に意識を失い、ぐったりと横たわっている。
長い間引きずられてきたせいで、彼女のドレスはところどころ布地が破れ、痛々しい姿をさらしていた。
レギュラスは首元の傷を塞がねばと思った。
杖を握る手に力を込めようとする。だが、もうそれすら叶わなかった。
屋敷から脱出できた安堵感。
長時間に渡る魔力の消耗。
そして流れすぎた血液による衰弱。
すべてが重なり合い、彼の意識は朦朧としていた。
限界だった。
そのまま、彼はアランの上に重なるようにして倒れ込んだ。
朝の薄明の光が二人を包み、静寂の中で彼らの荒い呼吸だけが響いている。
ガウント家の屋敷は、ただ黒く静まり返ったまま、背後にそびえ立っていた。
二人は呪いから逃れることができた。
だが、その代償として、心と身体に深い傷を負っていた。
風が頬を撫で、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
それは、現実の世界へと彼らを呼び戻す優しい調べのようだった。
薄明かりの差し込む小さな室内で、レギュラスはゆっくりと意識を取り戻した。
耳に届くのは、かちゃかちゃと食器がぶつかり合う音や、壁の向こうから聞こえる生活の喧騒。
自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。
硬いベッドとも布団ともつかぬ場所に身体を横たえていたようで、筋肉の痛みと、首の重苦しい感触が心を霞ませていた。
ゆっくりと上半身を起こす。
視界の中に、二人の男がこちらを静かに見つめているのが映った。
レギュラスは瞬時に状況を整理しようと目をこらす。疑念の霧がゆっくりと胸の中で渦巻いていく。
だが、すぐにローブの内に忍ばせていた杖を掴み、警戒のために構えた。
「やめてくれい!」
一人の男が声を荒げたが、そこには険悪さはなかった。
「俺たちは倒れていたおまえさんを連れてきてやったんだ。首の手当てだってしている。」
目を下ろすと、首元には見慣れない白いガーゼがしっかりと巻かれていた。
まだ完全に疑念が晴れないものの、少なくともこの男たちは害意を持っているようには感じられなかった。
レギュラスは、緩やかに杖を下ろした。
男たちの目に、安堵とも警戒ともつかぬ微かな光がともる。
互いに言葉は少なくとも、静かな信頼の芽生えが確かにあった。
その小さな室内には、外の世界の混沌とは違う時間がゆっくりと流れていた。
レギュラスの胸にも、かすかなぬくもりが差し込んだ。
薄暗い室内に、男の声が響いた。
「おまえさん、幽霊屋敷の前で倒れてたんだ。」
その言葉に、レギュラスは一瞬、眉をひそめた。
男たちの話す言葉には、明らかにアメリカ訛りの英語が混じっていた。
視線を室内に巡らせると、魔法の気配がまったく感じられないことに気づいた。
この小屋の隅々には、魔法ではなく確かな手仕事が積み上げられた日常の痕跡があった。
細やかに編まれた手織りの布団。木の枝を丁寧に削り作られた箸や食器。
窓枠に吊るされた乾燥したハーブの房。石の炉には薪が積み上げられ、火を囲む小さな鍋がかかっていた。
壁には生活の知恵と祈りを込めた手書きのカレンダーや、古びた家族写真。
すべてが丁寧に、魔法を使わずに積み上げられ、維持されているものだった。
声を潜め、レギュラスは問いかけるように呟いた。
「――マグルですか?」
その響きには警戒の色が含まれていた。
アメリカの男の一人が頷き、「ノーマジだ」と答えた。
レギュラスの心にさらなる疑念がよぎった。
アメリカからはるばる、この地にマグルがいること。
英国魔法界では「純血魔法使い保護法」が厳しく制定されており、マグルが魔法界に滞在するには必ず許可証が必要なはずだった。
彼は男たちの顔を厳しく見据え、問いただす。
「許可証はお持ちですか?
ここは、マグルが許可なしに立ち入っていい場所ではありません。」
再び杖を握り直し、身構える。
魔法の緊張感が彼の体を締めつけ、男たちとの間に張り詰めた空気が漂った。
男たちも身構えるが、その目には敵意は感じられなかった。
むしろ、疲労と不安、そしてどこか守りたいものがあるような複雑な光が宿っている。
沈黙の中で、レギュラスは警戒心と共に、なぜこの無骨なノーマジたちが自分を助けたのかを考えずにはいられなかった。
薄明かりが差し込む小屋の中で、男の一人が口を開いた。
「許可証が必要だなんて、正直俺たちも知らなかったよ。ここに漂流してきて、数ヶ月、こうして暮らしてるんだ。」
レギュラスは眉をひそめ、厳しい声で告げる。
「今すぐこの国から出てください。魔法省に見つかれば、厳罰に処されることは間違いありません。」
男は肩をすくめ、照れくさそうに笑う。
「ああ、そうだな。すまん。もし見逃してくれるなら、助かる。」
レギュラスの胸中には、彼らをここで拘束しようかという思いが一瞬よぎった。
だが、傷の手当てをして安全な場所まで運ぶという彼らの配慮に、少なからぬ気遣いを感じ取った。
その行為に、彼はせめてもの礼を尽くしたいと心に決めた。
しかし、ふとした瞬間に気づく。
「アランは……妻は、どこに?」
その声は静かでありながら、深い不安が滲み出ていた。
目覚めた瞬間から感じていた違和感。何かが足りない、この胸の奥にぽっかりと開いた穴の正体。
男たちは互いに顔を見合わせ、一言二言言葉を交わしかけたが、口をつぐんでしまう。
部屋の空気が突然、重く冷たくなる。
レギュラスの視線は揺らぎながらも、希望の光を求めていた。
小屋の中に漂う静寂を破って、男の言葉が重く響いた。
「おまえさん一人しか、俺らは見てないんだ。」
その瞬間――
レギュラスの胸の奥底から、冷たい恐怖がぶわりと這い上がってきた。
血の気が引き、心臓が激しく鼓動を打つ。
そんなはずはない。
確かにアランを屋敷の外へ連れ出した。意識を失う寸前まで、彼女の温もりを感じていたはずだった。あの細い肩を抱きしめ、共に外の冷たい空気を吸ったのだ。
では、彼女はいったいどこへ消えたのか。
まさか――あの忌まわしい屋敷に、再び戻ってしまったとでも言うのか。
レギュラスの脳裏に、様々な可能性が一気に浮かび上がった。
屋敷の呪いがまだ彼女を離さずにいるのか。
それとも、意識を失っている間に、何者かが彼女を連れ去ったのか。
あるいは、彼女自身が自らの意志で――
考えるだけで、胸が締めつけられるような痛みが走る。
「そんなはずは……」
レギュラスの声は震えていた。
ノーマジの一人が、心配そうな表情で問いかける。
「二人で来たのか?」
「ええ。妻とです。」
レギュラスは必死に冷静さを保とうとしながら答えた。
「ここは、あなたたち以外にも近くに住んでいる人間がいるのですか?」
もし他の誰かが彼女を見つけ、安全な場所に運んでくれたのなら。
そう願わずにはいられなかった。
だが同時に、アランがどこにいるのか分からないという事実が、彼の心を激しく揺さぶっていた。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
無事でいるのだろうか。
それとも――
レギュラスは拳を握りしめた。
指先が白くなるほど強く握りしめて、恐怖に震える心を必死に抑え込もうとしていた。
小屋の中の温かい空気とは対照的に、彼の心は氷のように冷たく凍えていた。
愛する人を失ったかもしれないという恐怖が、胸の奥で静かに、しかし確実に広がり続けていた。
湿った石壁に囲まれた地下室のような暗がりで、アランはゆっくりと目を覚ました。
頭は鈍く痛み、体に戻る感覚は薄れていた。
目の前には二人の男が身を屈めて、じろじろと覗き込んでいる。
その視線が、まるで品定めをするように冷たく肌をなぞった。
無意識に体に力が入る――こんな風に露骨に見つめられた記憶は、人生の中でほとんどなかった。
男たちは、早口で何かを話している。
その言葉の調子に、遠い国――アメリカのアクセントのような響きを感じ取った。
必死に耳を澄ますが、途切れ途切れにしか聞き取れない。
「これはアメリカじゃ高く売れるぜ。」
「イギリスの女だろ。どっかの貴族か?」
「さっきの男はどうする?あれも見ぐるみは上等だった。やっぱり貴族なんだろ。」
言葉の断片が、冷たい空気の中で鋭く突き刺さった。
アランの体が瞬時に硬直する。
善意だけで自分がここにいるのではないことが、はっきりと理解できた。
彼女が傷つき、衰弱し、無防備でいる今――その価値を計るような眼差しだけが空気を満たしていた。
そして、すぐに異変に気づく。
傍にいるべきはずのレギュラスが、どこにもいない。
焦りと不安が胸を締めつけた。
普段なら、彼の存在が盾となり、自分を守ってくれる。だが今は、その気配はどこにもない。
さらに、ポケットに入れていたはずの杖も奪われていた。
自分は今、完全に無力なのだと痛感する。
恐怖が潮のように押し寄せてくる――
この地下室に、自分を守るものはもう何もない。
二人の男が、品物を値踏みするような口調で自分について話す度に、アランの心は氷のように冷えていく。
この場からどうにかして逃れなければ、そればかりが頭を満たしていた。
手足の力はまだ戻らない。
意識だけが冴え渡り、冷たい石の床に張り付くような不安が広がる。
こんな時こそ、心の奥に残るほんの僅かな希望や、レギュラスと共に過ごした日々の記憶を頼りに――
アランは必死に、自分を保つしかなかった。
地下室の薄暗がりに沈みながら、アランは思った。
――レギュラスは今、どこにいるのだろうか。
無事なのだろうか。
その疑念は次第に、屋敷の深淵で交わったあの記憶を鮮明に呼び覚ました。
シリウスとの、優しく穏やかな想い出へもう一度沈み込みたいと願ったあの瞬間、レギュラスの声が届いてしまった。
嫌だった。
せっかく手が届きかけていた温もりから、不意に引き戻される感覚。
レギュラスが呼ぶ声に、ありったけの憎しみが跳ね上がる――また奪われてしまった。
なぜ、いつも彼はこうして私から大切なものを奪ってしまうのだろう。
その怒りに突き動かされた手で、棺の中の骨を掴み、レギュラスの喉元に突き刺した。その瞬間の感触が、あまりにも鮮明だ。
「私、なんてこと……」
手のひらを見つめる。
指先に残った皮膚の感覚。
痛みにうめいた彼の声。
骨が皮膚を貫いてめり込んだ瞬間。
今となっては、その全てが冷たく、恐ろしく蘇る。
間違いなく、レギュラスは今弱っている。
傷つき、魔法の盾を張ったまま、絶えず消耗して――
子供達が誇りに思う父を、この自分の手で傷つけてしまった。
アランが思い描いていた復讐は、
シリウスの死を自分に突きつけたレギュラスの前で、自らが命を終える瞬間を見せつけてやることだった。
どれほど心が裂けても、その痛みを、ただ彼に返してやりたいと思っていた。
それなのに――
実際に彼を傷つけたその手の感触は、あまりにも生々しく、恐ろしかった。
こんなことがしたかったわけじゃない。
愛しているはずなのに、憎んでもいる。
憎しみと愛情が複雑に絡み合い、涙が零れそうになった。
「夫は……どこです?」
静かな声で問うと、男たちはゆっくりと彼女を見返した。
その目には、どこか値踏みする色と、わずかな困惑が潜んでいた。
答えはすぐには返ってこない。
アランの心は、冷たい孤独と罪悪感の狭間で、深く揺れ動いていた。
薄暗い地下室に、アランの澄んだ声が響いた。
「私の杖を返してください。」
凛とした語調だけれど、内心では恐怖が声を裏返しそうになるのを必死に抑えていた。
男たちの手には、確かにアランの杖が握られている。
そのうちの一人が面白そうに杖をひらひらと振りながら言い放った。
「この杖がないと、魔法使いでも何も出来ないみたいだな。」
その言い回しから、アランははっきりと彼らがマグル――魔法を持たぬ普通の人間であることを悟った。
しかも、どうやらアメリカの言葉を話す者であるらしい。
マグルが、イングランドの魔法界にいる。
レギュラスが制定に尽力した「純血魔法使い保護法」では、マグルの魔法界への立ち入りは厳しく規制されており、厳罰が科せられる。
この事実を逆手に取れば、いまの窮地を抜け出す糸口になるかもしれない――アランは必死に考えた。
冷静さを装い、知的な威厳を漂わせながら、アランは言葉を紡いだ。
「マグルの方たちなのね。魔法界に入るのに許可証はお持ちかしら? もしないのであれば、魔法省が見逃しません。事前の申請が必要ですが、後からでも何とか発行する手筈を整えて、速やかにアメリカに帰国できるよう手配することをお約束します。」
わずかな間を置き、さらに続ける。 「ですから、私の杖を返していただきたいの。ここから出して、そして夫のところへ案内してほしいのです。」
努めて理知的に、そして毅然と。
アランは、心の中の震えを静めて、外へと響く声を絞り出していた。
しかし男たちはその提案に鼻で笑い、互いにニヤニヤと顔を見合わせる。
その目には「何を言ってるんだ、この女は」という侮蔑と面白がる色が浮かんでいた。
「おいおい、ご丁寧に魔法省かよ。」
「本当に貴族様のご出身ってわけだな。あんたの“杖”は、金の延べ棒ってものでもねえだろ?」
「魔法界にいようが、アウトローな場所でアウトローなことしてる奴が、そんなきれいごと通せると思うなよ。」
冷たく乾いた空気の中で、男たちの笑い声が響く。
薄暗い地下室の空気が、男の下品な声で汚される。
「どこぞの貴族かしらねぇが、俺たちはな、魔法使いを売り飛ばして生計を立ててんだ。」
唾を飛ばしながらそう告げる男の顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
アランは、ある程度そんな雰囲気を感じ取っていた。だからこそ、レギュラスと引き離されてここに一人でいるのだろうと予想もついていた。
恐怖を悟られぬよう、声を震わせることなく言い放つ。
「純血魔法使いに対してのそのような行為は、厳しく罰せられますわ。」
男たちは腹を抱えて爆笑した。まるで、世間知らずの子供が夢物語を語っているかのように。
アランは、これほどまでに馬鹿にされ、蔑まれた視線を浴びたことは今までになかった。
血筋や教養を重んじる家庭で育ち、夫となったレギュラスも常に彼女を大切に扱ってくれた。
だが今、この薄汚れた地下室で、彼女の誇りは容赦なく踏みにじられていた。
胸の奥で、ふと思った。
――レギュラスに、今すぐ助けてもらいたい。
つい先ほど、自分の手で骨を突き刺して彼を傷つけたというのに。
その次の瞬間に救いを求めるなんて、あまりにも都合がいい。
自分でも呆れるほど、身勝手で、わがままで――
それでも、レギュラスにしか救いを求める先はなかった。
彼の強さと優しさだけが、この絶望的な状況から自分を救い出してくれるのだと、心の底から信じていた。
男たちがじりじりとアランに近づいてくる。
彼女は本能的に後ろへと下がった。
冷たい石壁に背中がぶつかる。もう逃げ場はない。
「来ないで!」
アランの声が震えた。今度は、恐怖を隠すことができなかった。
「これは高く売れるぞ。」
「そうだな、2、3年は働かなくて済みそうだ。」
男たちは口々にそんなことを言いながら、品定めするような目でアランを見つめる。
その視線は、彼女を一個の商品としか見ていない。
人としての尊厳など、そこには微塵も存在しなかった。
アランの心は、恐怖と屈辱で満たされていた。
胸のペンダントが小さく光るのを感じながら、彼女は必死に、レギュラスの名を心の中で呼び続けていた。
――どうか、見つけて。
――どうか、助けて。
――私を、置いて行かないで。
その願いだけが、暗闇の中でかすかに輝く希望の光だった。
薄暗い地下室の床に冷たく背中を打ちつけられ、アランは息を漏らした。
腰を屈め、必死に彼女の杖を奪おうと伸ばした手は、男の太い腕に強く掴まれて制された。
男は嘲笑交じりに杖をひらひらと振るい、まるで魔法使いの真似事をするように空中でくるりと回す。
「こうか? こうやるのか?」
その声に合わせて、別の男が口を開いた。
「これはちょっとだけ先に食ってみてもバチは当たらないんじゃねぇか?」
「食う」とは、要するに――言葉の意味を理解した瞬間、アランを冷たい悪寒が走り抜けた。
女としての尊厳を、無慈悲に貪り取られてしまう。今まさに――。
その恐怖は身体の奥底から這い上がり、心臓を締めつけた。
思考は凍りつき、涙がにじむ。
男の一人が無造作にアランの身体を床に押さえつけた。
「いっ……」
硬い石の床に背中を叩きつけられ、痛みが全身を震わせる。
「押さえてろ。」
もう一人の男が言うと、後ろから肩をぐっと掴み、身体はぴたりと動かなくなった。
四肢が重石にでも抑えつけられたかのように、全身が凍りつく。
種類の違う、深い恐怖がアランの胸を覆った。
だが、その恐怖の中でも、わずかな決意の火花が消えずに揺れていた。
――杖さえ取り戻せれば、ここから脱出できる。
震えるまなざしを男の顔へ向け、アランはかすかな声で呟いた。
「……許しません……」
か細い言葉は、しかし決して消えはしなかった。
闇に沈んだ地下室で、アランは絶望の淵にいた。
レギュラスは、とうとう来なかった。
救いなど、どこにも訪れなかった。
彼を傷つけてしまったことの報いなのかもしれない。
刃を向けながらも助けを願った自分の身勝手さが、ただ虚しく胸を締めつけた。
尊厳などもうどこにも残っていなかった。
ただ、二人の男たちによって、暴力的に奪われる行為だけが繰り返されていく。
抗議の声はすぐに消え失せ、手足で抵抗しようとする力すら根こそぎ奪われていった。
怒鳴りつける男たちの声に、アランの全身は恐怖でこわばった。
膨らみをもぎ取るかのように強く両手で掴まれた部分からは、声にならない悲鳴が漏れ出ていた。
強引にねじ込まれるものに身体は震え、遠い意識の隅でふと、レギュラスの喉の痛みはどのくらいなのだろうか、そんなことを考えた。
涙は出なかった。
ただ唖然として、心は硬直していた。
かつて、セシール家の娘として何不自由なく大切に育てられた自分。
ブラック家に嫁いでからも、レギュラスの愛は時に歪であったとしても、彼の想いだけはひたむきで変わらなかった。
それだけに、動物的に貪り尽くされるという表現がぴったりと当てはまる行為に、アランは言葉を失った。
男の一人が冷笑混じりに言った。
「こんなにうんともすんとも言わねぇ女は、見た目だけよくてもすぐ飽きられそうだな。」
もう一人は鼻で笑いながら続ける。
「まずは見た目だろ。買われたあとは俺らの知ったことじゃねぇ。」
動けないままのアランをよそに、男たちは無造作にタバコに火をつけた。
煙が薄暗い地下室の空気を重く覆い、冷たい床に投げ捨てられた彼女の衣服に絡みつく。
マグルとは、かつてシリウスと共に過ごしたあの世界のことを思い出す。
そこでは魔法使いもマグルもなく、一人の人間として優しく生きられる自由の象徴のような場所だった。
今、目の前にいる男たちは、そんな光の対極にある生き物に見えた。
卑劣で薄汚く、冷酷で残忍な獣。
アランは打ちひしがれながらも、心の奥底でマグルの世界の輝きを重ね、失われたものへの深い哀しみに潰れそうになっていた。
アランの心は深い闇の中で荒れ狂っていた。
――この男たちを、殺してしまいたい。
シリウスなら、どう思うだろうか。
彼が守りたかったマグルとは、この連中のような者たちではないはずだと、自分を納得させる。
だから、許されるのだろうか――そんな祈りにも似た想いを胸に、アランはゆっくりと身体を這わせた。
その視線は、男のそばに置かれた杖へと引き寄せられていた。
命をつなぐ唯一の術具。
手を伸ばし、手のひらを杖の柄にかけた瞬間――
背後から、吸いかけのタバコが投げつけられる。
火のついた先端が腕に触れ、熱く鋭い痛みが走った。
皮膚が焼けるような激痛に、アランは呻き声を漏らした。
「ちょっと目を離したら、ろくなことねぇな。」
男の冷たい声と鼻で笑う音が、耳に突き刺さる。
アランが苦悶の中で杖を握りしめたその時、別の男が素早く杖を拾い上げ、床に押し付けるようにして踏みつけた。
「これもらっとくぜ。」
杖をねじるように力を込め、ぽきり――と小気味よい音が響いた。
兄弟杖として、レギュラスの杖と芯を合わせ、二度と傷つけ合わぬようにと誓いを込めた大切な杖だった。
折れた杖は、虚しく石の床に放り投げられた。
アランの肩に、初めて涙が伝って落ちた。
悔しさと後悔、憎しみと悲しみが渦を巻いた。
胸元にあった血の誓いのペンダントが、小さく光を揺らす。
――どんな呪文も、レギュラスに跳ね返るはずだった。
だが、瞬間の憎しみに飲まれ、自らの手で彼を刺してしまった。
「ごめんなさい……レギュラス……」
震える声は、深い罪悪感と絶望に塗りつぶされていた。
暗い地下室の空気が、その言葉だけを静かに受け止めた。
