5章
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法務部の一角にある机の上には、分厚い書類の束が積まれていた。
シリウス・ブラックの死に関する証言書、魔法痕跡の記録、現場検証の報告――それらすべてが、デスイーターの関与を示唆している。
アルタイルは羽根ペンを持つ手を止め、深くため息をついた。
窓から差し込む午後の光が、書面の文字を白く浮き上がらせる。
その一文字一文字が、彼の胸に重い石を落としていく。
父が関わっているのか――
その疑問は、心の奥で静かに燃え続けている。
知りたいと思う自分と、絶対に知りたくないと願う自分が、胸の中で激しく対立していた。
もし本当に父がこの死に関与していたとしたら、母はそれをどう受け止めるのだろう。
あの穏やかな笑顔の裏に、どれほどの痛みが隠されているのか。
想像するだけで、喉の奥が詰まるような感覚に襲われる。
だが一方で、もしシリウスの死にデスイーターが本当に無関係だったとしたら――
純血主義者たちがこぞって「ただの魔法事故」として片付けようとしている事件に、これほどまでに騎士団や支援組織が反発する理由が見えなくなる。
書面の行間から立ち上る真実の影は、どちらに向かっても重く暗い。
羽根ペンを机に置き、アルタイルは両手で顔を覆った。
法務部の静寂の中で、自分の呼吸音だけが妙に大きく響く。
「……父さんは、どこまで本当のことを教えてくれるんだろう……」
その呟きは、誰にも届かない小さな音だった。
机の上の書類たちが、まるで答えを拒むように静かに積まれている。
知ることの重さと、知らないことの重さ。
どちらも同じように胸を押しつぶそうとしていた。
そして、家に帰れば見なければならない母の笑顔と、父の穏やかな表情――
それらすべてが、今は仮面のように思えてならなかった。
窓の外で雲が流れ、部屋の光がわずかに翳る。
その陰が、アルタイルの心境をそのまま映しているようだった。
アルタイルはゆっくりと深呼吸し、再び羽根ペンを手に取った。
書類の山から一枚、静かに分け取り、文字を追う。
言葉の重みが胸に押し寄せ、視界の端にぼんやりと霞がかかる。
それでも、どこかで答えを見つけねばならないという思いがあった。
真実がどんな形であれ、目を背けることはできない。
法務部の冷えた空気を背に受けて、アルタイルは立ち上がるとそっと書類をまとめ始めた。
その動きは緊張に満ちていて、指先にわずかな震えが混じっていた。
帰るべき場所へ向かうたびに増す不安。
父が知っている「本当」と、母が抱えるであろう「現実」。
その狭間で揺れ動く心が、止めどなく波打つ。
胸ポケットに書類を大事そうにしまい込み、アルタイルはドアへと歩み寄った。
扉の前で一瞬立ち止まり、背筋を伸ばして深く息を吸い込む。
その表情にはまだ迷いが残りながらも、覚悟の色がわずかに差していた。
ゆっくりと扉を開けると、外の廊下には穏やかな光が満ちていた。
その光が、これから帰る家の重い空気にも届くことを、彼は願わずにはいられなかった。
足音を踏みしめながら、アルタイルは一歩一歩、自らの運命を抱えて歩き始める。
暖かな夕暮れの光が、屋敷の窓からゆっくりと差し込んでいた。
重い空気が漂う室内に、足音を忍ばせながらアルタイルは玄関で上着を脱ぎ、静かにリビングへと向かう。
母アランと父レギュラスが並んでソファに座っている姿を見て、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その穏やかな表情の裏側に、昨夜の出来事の影がひそんでいることを知っているから。
「戻りました」
柔らかな声が部屋に響く。
アランが顔をあげ、静かに微笑んだ。
けれど、その瞳の奥には何か言い表せないものが漂い、アルタイルは胸が締め付けられる思いをした。
レギュラスは軽く頭を下げ、アルタイルを見つめる視線はどこか掴みどころがなかった。
彼の目にある冷静さの奥には、深い思慮と、言葉にできない何かが積もっているのだと感じた。
夕食の席では、話題は自然と魔法界の情勢や騎士団の活動に移り、死の真相には踏み込まなかった。
しかしアルタイルの胸の中では、父に問いかける言葉がくすぶり続けていた。
だが今はまだ口にせず、その沈黙がむしろ重く感じられる。
家族の会話の合間を縫って、彼は心の内を整理しようとしていた。
夕食後、アルタイルは一人小さな書斎に向かい、窓の外の夜空を見上げた。
星がちらほらと顔を出し、静けさの中に何かが始まる予感が漂う。
あの答えを、いつ、どうやって父に求めるべきか。
心の重さをじっと受け止めながら、アルタイルは決意を固めていった。
書斎の扉に、軽やかなノックが響いた。
羽根ペンを走らせていたレギュラスが、顔をあげる。
「どうしました?」
落ち着いた声が、扉の向こうに届く。
「父さんに……一つ、聞きたいことがあって」
アルタイルの声には、わずかな緊張が混じっていた。
レギュラスは手にしていた羽根ペンを机にそっと置き、背筋を正した。
「どうぞ」
扉が静かに開かれ、アルタイルが足を踏み入れる。
言うことを決めてきたはずなのに、いざ父を目の前にすると言葉が喉につかえた。
口元で何度も形を作りかけては、消えていく。
「……思い詰めているようですね」
レギュラスの声は穏やかで、けれどその瞳には鋭い観察の光が宿っていた。
アルタイルは深く息を吸い、意を決した。
「シリウス・ブラックの死についてです」
その瞬間――確かに見えた。
レギュラスの瞳に、ほんの一瞬だけ揺らぐものがあった。
石のように動かない表情の奥で、何かが微かに波打ったのを。
それは一秒にも満たない変化だったが、アルタイルには雷のように鮮明だった。
父は何かを知っている――その確信が、胸の奥で固い塊となって沈んだ。
「それが、どうしました」
レギュラスの声は変わらず平坦で、表情も元の冷静さを取り戻している。
しかしアルタイルには、その完璧すぎる平静が逆に不自然に映った。
「デスイーターは、どこまで関与しているのでしょうか」
声が僅かに震える。
「シリウス・ブラックを殺めたのはデスイーターだという抗議文が、いくつも上がってきています」
言葉を紡ぐたび、胸の奥で祈るような気持ちが膨らんでいく。
――お願いだから、否定して欲しい。
――「そんなことはない」と言って欲しい。
書斎の空気が重くなり、時計の針の音だけが静寂を刻んでいた。
レギュラスは指を組み、深く考え込むような仕草を見せる。
その沈黙が長ければ長いほど、アルタイルの不安は深まっていった。
父の次の言葉が、自分の世界を変えてしまうかもしれない――
そんな予感に震えながら、彼は答えを待った。
重い沈黙が書斎を満たしていたその時、扉に軽やかなノックが響いた。
アルタイルとレギュラス、二人の視線が同時に扉へ向く。
「失礼します」
アランの穏やかな声が聞こえ、扉がそっと開かれる。
アルタイルは心臓が跳ね上がるのを感じた。
よりによって、この話をしている最中に母が――
シリウスを深く想ってきたであろう母に、この話題は聞かせたくなかった。
「アルタイル、お仕事ご苦労様です」
アランは静かに微笑みながら、室内に足を踏み入れる。
その表情にはいつもの穏やかさがあり、先ほどまでの話を聞いていたような気配は感じられない。
「母さん……少し父さんに、アドバイスをもらいたくて」
アルタイルは慌てたように言葉を紡ぐ。
何とかして話題を逸らし、シリウスの話をしていたことなど気づかせたくなかった。
だがアランは、わずかに首を傾げると、静かにこう言った。
「アルタイル、よく聞いてください。あなたの父は、シリウス・ブラックの死に関与していません。だから、自信を持って糾弾文には強い態度で挑みなさい。自信を持っていいのよ」
アルタイルの体が、石のように固まった。
血の気が引いていくのがわかる。
――母が、聞いていた。
まさか扉の向こうで、自分たちの会話を聞いていたとは思わなかった。
そして何より驚いたのは、母がデスイーターを、そして父を全面的に庇う言葉を口にしたことだった。
なぜ母は、父がシリウスの死に関与していないと断言できるのか。
どうしてそこまで確信を持って言えるのか。
その根拠が、アルタイルには全く見えなかった。
書斎の空気が一層重くなり、三人の間に微妙な緊張が流れる。
アルタイルは混乱の中で、どこに真実があるのかわからなくなっていた。
調べていけば、きっと残酷な現実に打ち当たるのだろう。
その恐怖が、胸の奥で静かに膨らんでいった。
扉が静かに閉まり、アルタイルの足音が廊下の向こうに消えていく。
書斎には再び沈黙が戻り、二人だけの空間となった。
レギュラスは椅子に腰を下ろしたまま、アランを見つめた。
先ほどの彼女の言葉――シリウスを殺したベラトリックス、そしてデスイーターを庇う発言。
その真意が、彼には掴めなかった。
アランはゆっくりとレギュラスの方へ向き直ると、静かに口角だけを上げた。
それは微笑というには冷たく、まるで「これがあなたの望んでいたことでは?」と挑発するかのような表情だった。
その笑みを見た瞬間、レギュラスの胸に名前のつかないざらつきのようなものが走った。
彼女が何をするつもりなのか――それが見えないことが、不安を掻き立てる。
「……どういう意図があるんです?」
レギュラスの声は低く、探るような響きを帯びていた。
「あなたの望むことをしたまでです」
アランの答えは簡潔で、けれどその言葉の裏には深い影が潜んでいるようだった。
レギュラスはゆっくりと椅子から立ち上がり、アランの方へと歩み寄った。
机を挟んだ距離が縮まり、互いの呼吸が感じられるほど近くなる。
彼は彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
翡翠色の瞳は、まるで深い湖のように静まり返っていて、何の揺らぎも見せなかった。
その透明な冷たさが、かえって不気味に感じられる。
書斎の空気は重く、時計の針音だけが規則正しく時を刻んでいた。
レギュラスは彼女の表情から真意を読み取ろうとしたが、その顔は完璧な仮面のように何も語らなかった。
この静寂の中に、二人の間の複雑な感情が渦巻いている。
それは愛情でも憎悪でもない、もっと深く絡み合った何かだった。
アランの胸の奥では、静かな計算が働いていた。
法務部に勤めるアルタイルが、シリウスの死について調べていくこと――それは予想していた。
そしていつか、真実に辿り着くことも。
けれど今は、まだその時ではない。
だからこそ、レギュラスやデスイーターがこの件に関与していないと息子に信じ込ませる方法を選んだのだ。
そうすれば、父への疑念も少しは抑えられるだろう。
そして何より――レギュラスもまた、妻が全面的に庇うように振る舞う態度に安堵してくれるはずだった。
その安堵を、少しずつ積み重ねていきたい。
信頼を深め、油断を誘い、心を開かせる。
そうした後に、しかるべきタイミングでこの男に刃を向けたい。
全ての憎悪を、一身にぶつけてやれるように――
翡翠の瞳の奥で、復讐の炎が静かに燃え続けているのを、アランは自分でも感じていた。
けれどその炎は、表情には一切現れない。
「心配しないで。私は、あなたの味方です」
穏やかな声で、彼女は微笑みを浮かべた。
その笑顔は完璧で、愛情に満ち、疑いの余地を与えない。
レギュラスの表情が、ふわりと和らいだ。
長い間抱えていた緊張が、ほんの少しだけ解けたようだった。
「信じています、アラン」
その声には、深い安堵が込められていた。
書斎の静寂の中で、二人は向かい合っていた。
レギュラスには、妻の揺るぎない支持が感じられる。
アランには、計画が一歩前進した手応えがある。
同じ空間にいながら、二人の心は全く異なる場所にあった。
愛と憎悪、安堵と復讐――それらが複雑に絡み合い、見えない糸で結ばれている。
翡翠の瞳は変わらず静かで、その奥に潜む嵐を誰にも悟らせることはなかった。
暗く冷たい空間に、レギュラスは一人立っていた。
闇の帝王からの呼び出し――それがどのような命令を伴うかは、容易に想像がついた。
また新たな分霊箱を、どこか恐ろしい場所に隠せという指令が下されるのだろう。
分霊箱の作り方については、確かにあの日、アランの命と引き換えにその知識を伝授した。
けれど、この男は一体どこまで魂を引き裂き、分霊箱を増やしていくつもりなのだろうか。
その思考だけで、レギュラスは恐れと不安に慄きそうになった。
「レギュラス・ブラックよ」
低く響く声が、暗闇の向こうから聞こえてくる。
「お前も、お前の妻も、よく働いてくれる。あの日、お前の妻を生かしたことは、実に実りのある結果となった」
ヴォルデモートの言葉に、レギュラスは深々と礼をした。
その動作の裏で、胸が激しく波打っている。
アランの命を盾に取られた、あの屈辱的な日のことが蘇る。
「そこでだが」
ヴォルデモートは静かに立ち上がると、レギュラスの手のひらに何かを渡した。
指輪だった。古い金属に刻まれた紋章が、薄暗い光の中で不気味に光っている。
「この指輪を、北の荒野にある古いガウント家の廃屋――その地下の石棺に隠せ」
冷たい命令が、空気を震わせる。
今度はどんな恐怖が待ち受けているのか。
亡者のいる湖も、死に満ちた森も――それらすべてがレギュラスにとっては恐ろしくてたまらなかった。
本当は今すぐにでも逃げ出したい。
足が震え、手に持った指輪の冷たさが骨まで染みる。
けれど、アランの命を天秤にかけられてしまえば、レギュラスに選択肢などあるわけがなかった。
彼女の笑顔を思い浮かべることで、かろうじて膝の震えを抑える。
「準備が整い次第、出発いたします」
声が僅かに掠れたが、何とか言葉を紡いだ。
ヴォルデモートは満足そうに頷き、再び闇の中へと姿を消していく。
残されたレギュラスは、手の中の指輪を見つめながら、深い絶望と覚悟の狭間で立ち尽くしていた。
部屋の静けさが、心の葛藤をいっそう濃くしていた。
アランは椅子に座ったまま両手を重ね、その細い指を固く結んで動かせなかった。胸の奥にはずっと閉ざしていた棘がいま再び疼き始めていた。
――もし、このままレギュラスが一人で屋敷へ向かい、何かに呑まれて帰らなければ。それでいいのではないか。
ふと浮かんだ考えに、アランは自ら震えた。
あの瞬間が脳裏に蘇る。
シリウスが死へと落ちていったあの場面。引き裂かれるような悲鳴。あれを目にした時、アランは確かに夫に対して激しい憎しみを覚えた。抑えきれぬほど強く――一度でも心から彼を呪ったのだ。
その恨みは消えない。いつかその胸を、心を、同じように痛めつけてやりたいとさえ思ったこともある。
けれど。
あの思いは自分だけのもの。罪深く、子供たちへ向けていい感情ではない。
アルタイルとセレナ。二人のあどけない瞳が心に浮かぶ。もし父を失えば、その悲しみはどれほど深いものになるだろう。愛も憎しみもすべて越えて、子供たちは父を愛していた。彼を失った空虚を、幼い心は耐えきれない。
――ならば。彼を一人で行かせることは、できない。
「……レギュラス、もしあなたに何かあれば、子供たちは――胸を裂かれるほど悲しむでしょう。」
重く沈んだ声でアランは告げた。震える本心を覆いながら。
レギュラスは静かに彼女の方を振り返り、わずかに微笑んだ。それは決意を隠すための、柔らかな偽りに過ぎなかった。
「戻ってこれないことはあり得ません。ですから、そこは心配されなくて大丈夫です。」
その落ち着いた言葉に、アランの胸の奥が痛む。やはり彼は譲らない。彼自身の運命を、自分だけで背負おうとしている。
「……レギュラス。」
溜め息が静かに漏れる。その声に自分でも気づかぬ哀が混じる。
「あなた一人では幻覚に抗えないわ。死の森で……あの時も、幻に絡め取られそうになっていたのを覚えているでしょう。」
数度の鼓動分の沈黙ののち、レギュラスはゆるやかに口を開いた。
「今回は、上手くやります。」
変わらぬ穏やかさで、しかし固い決意を浮かべながら。
アランは目を逸らさず、その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「いいえ……私が支えます。あなたが一人で闇に飲まれるのを、もう二度と黙って見過ごしはしません。」
言葉は囁きに近かったが、その響きは深く鋭く、レギュラスの胸を突いた。
揺るがぬ瞳と、切り裂かれるような想いの熱を受け止め、彼はただ静かに息を止めた。
蝋燭の灯が、二人の間の空気を淡く灼き、影と影が重なりひとつになろうとしていた。
静かな部屋に、圧のような緊張が流れていた。
アランの瞳は揺らがず、まるで相手の心を見透かすようにレギュラスを射抜いている。彼女の声には強さと愛情と、決して退かぬ決意が重なっていた。
長い沈黙ののち、レギュラスは深く息を吐いた。
「……分かりました。」
その響きは敗北ではなく、彼女の強さに心を委ねた安らぎを帯びていた。
アランの唇にかすかな笑みが刻まれる。
「私には、あなたがくれたネックレスがありますわ。」
胸元で赤く輝くペンダント。
不滅の意志を象徴するように、その赤は炎のようであり、大地の芯のように揺るがなかった。
それはレギュラスが彼女へと託した“血の誓い”。
かつて彼は魔力を削り、魂の深みに刻み込む形でその守りを生み出した。
いかなる呪文もその使い手本人へと跳ね返す、究極の防御。
アランの命を守るための最も純粋な形の祈りだった。
レギュラスは視線を落とし、そっとその輝きに触れる。
「……あれは、呪文からあなたを守るものです。魔法の正面の攻撃なら、確かに完璧でしょう。けれどあの屋敷に渦巻いているのは、呪詛や怨念……未知の術です。そこまでは、僕にも断言できない。」
言葉の端々ににじむのは、恐怖ではなく、彼女を失いたくないという痛切な想いだった。
しかしアランは首を振り、その赤い光を胸に抱くように手で覆った。
「だからこそ……助け合いましょう。あなた一人ではなく、私と共に挑むのです。あなたとなら、必ずできます。」
その声音はしなやかで、揺るぎない。
彼女の長い睫毛の影が頬に落ち、その目がレギュラスを捉える。そこには恐れよりも確信が宿っていた。
レギュラスは息を呑んだ。
妻を守ろうとするあまり、彼女の強さを見誤っていたのかもしれない。
二人が並び立つことでこそ超えられるものがある――今のアランの言葉には、それがすべて込められていた。
やがて、彼は小さく頷いた。
その仕草には、重荷を分かち合い、運命を共に背負うことへの覚悟と、静かな安堵が入り混じっていた。
蝋燭の炎がふたりの影を重ね合わせ、赤いペンダントはどこか柔らかく脈打つように輝いていた。
まるで「二人ならば」と告げるかのように。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、壁の影が長く伸びていた。
その淡い明暗のなかで、レギュラスはしばし黙したまま、アランを見つめていた。彼女が自分を一人にせず側にあろうとしてくれる――その事実が胸の奥をふわりと温かく満たしている。
確かに、自分は愛されている。そう実感できる瞬間など、長い人生の中でもそう多くはない。けれど今は、その温もりがはっきりと手に取れるほどに感じられた。
それでも。
未知なるもの――“呪詛”。
魔法の理の中にありながらも、通常の呪文とは違う、歪みに満ちたもの。どこまで恐ろしいのか、己には分からない。抗う術すら定かではない。
彼女を守れるのかどうかさえ、断言できないのだ。
ゆっくりと、言葉がこぼれ落ちた。
「……アラン。僕は、本当に……今回の呪詛については、無知なんです……。」
途切れそうに震える声。
レギュラスはそのまま彼女の手を取った。冷たくも熱くもない、ただ確かにそこにある命の温度。その温もりに縋るように、指先を強く絡める。
アランの顔に柔らかな光が浮かぶ。
彼女は迷わず、ただ一言を返した。
「――大丈夫です。調べましょう。必ず、方法は見つかります。」
その声はまるで、闇の中で灯される最初の小さな灯火のようだった。
不安を消し去るのではなく、不安も抱えたまま支えてくれる暖かな火。
レギュラスはその瞬間、彼女の存在の意味を改めて思い知った。守るべき存在であると同時に、共に立つことによって強さを引き出してくれる、かけがえのない伴侶。
指と指が強く結ばれたまま、蝋燭の炎がまたひとつ揺らぎ、二人の影は一つに重なって揺れていた。
レギュラスの胸中に溜め込まれていた重苦しさは、アランの短い言葉によってほんの少しだけ解かれていくのを感じた。
彼女は恐怖の現実を、否定することなく受け止め、それでも共に進もうとしている。その姿の強さに、心が自然と温められていった。
「……調べる、か。」
レギュラスはゆっくりと呟き、アランの手を握る指先に力をこめた。
「この世に残された呪術の記録は、断片ばかり……追うのは容易ではありません。」
アランは頷き、その瞳に揺るぎなき決意を宿す。
「容易でなくとも、必ず痕跡はあります。呪術は人が遺すもの。言葉で、呪文で、記しで。――ならば私たちは、それを探し当てればいいのです。」
その清澄な言葉に、レギュラスは静かに微笑んだ。
何もかもを自らの肩に抱え込もうとする彼を、こうして繰り返し引き戻してくれる。彼女の存在は、己の見落とした希望そのものだった。
「……そうですね。僕ひとりでは探せずとも、あなたとなら。」
想いをこぼすように口にすると、アランはわずかに微笑み目を伏せた。
蝋燭の火が小さく揺れ、二人の影が重なり合う。
それはまるで、記録の迷宮や呪詛の闇へ降りる前、今だけ許された小さな安らぎの時間だった。
レギュラスは胸に決意を新たに刻む。
――未知と恐怖が待ち受けていたとしても、彼女と手を取り合ってなら進める。そう信じられる。
静かな部屋に、頁をめくる微かな音が響き始めた。
古い書架から引き出された黒革の本、埃の積もった古文書。
二人の前に広がるのは闇の言葉の断片であったが、その灯火のもと、ひとつひとつを繋いでいこうとしていた。
古びた革表紙の本を、アランはそっと卓上に開いた。
紙は黄ばみ、触れれば崩れそうなほど脆い。だがそこに記されているのは、時を越えてなお人々が畏れ敬った呪詛の断片であった。
指先で慎重に文字を追っていくうちに、アランの表情が徐々に曇る。
「……ここに書かれています。ガウント家の屋敷は、ただ“住めぬ”のではなく、“拒む”のです。侵入者の心を裂き、魂に触れる幻を見せる、と。」
レギュラスは隣で身を乗り出し、記述を読み取った。
そこにはこうあった――“幻影に惑い、己が最も愛する者に刃を向ける”と。
「……愛する者に、刃を……」
その言葉が唇から零れた瞬間、レギュラスの胸に冷えたものが走った。
まるでその呪いが、二人を嗤っているかのように。
アランは小さく息を吐き、しっかりとした声で続けた。
「さらに……記録によれば、入った者の五感は徐々に狂い、時間の感覚を失い……やがては自分が生きているのか死んでいるのかすら分からなくなる、と。」
レギュラスの眉間に深い皺が刻まれる。
「幻覚だけではなく、存在そのものを侵蝕するような呪詛か……。
一度囚われれば、呪文の防御では抜け出せない……。」
背後で蝋燭が小さくはじけ、互いの影が震えた。
その震動すら、不吉な囁きに思えるほどであった。
アランはそっとペンダントに指をかけ、赤い石に光を宿らせる。
「……けれど、記録にはもう一つ。“決してひとりで入るな”ともあります。呪いは孤独な魂を好む……。裏を返せば、心を繋ぎ支え合う者同士ならば、抗える道があるはずです。」
その言葉に、レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
孤独を呪う呪詛――ならば、共に在ることが最大の盾となり得る。
彼の胸に、ほんのかすかな希望が灯った。
「……やはり、あなたと行くべきなのですね。」
レギュラスの低い声に、アランは静かに微笑む。
二人の間に流れる空気は、恐怖と不安を抱えつつも、一筋の強さを帯び始めていた。
闇の深淵を前にしたその静けさの中で、二人はただ寄り添い、それぞれの心を確かめ合うように影を重ねていた。
積み重ねた古文書の中に、二人の手が止まった。
アランは古い羊皮紙を優しく広げる。その端には褪せた文字で、悲劇の家系の歴史が綴られていた。
レギュラスが静かに指を添えた文字を読み上げる。
「……この屋敷には、かつて二人の少女が、生きたまま石棺に閉じ込められたそうですね。」
長い沈黙――
アランは息を呑み、首を振った。「何と酷いこと……。」
記録によれば、少女たちを棺に葬ったのは、この家の主だった男――アンディリオン・ガウントと記されていた。
その理由は言葉にするのも忌まわしいほど歪んでいた。この場所には理では測れぬ憎悪と悲しみが渦巻き、屋敷は今も少女らの痛ましい魂に満ちている。
「……その怨念が、特に男を拒む理由みたいです。」
レギュラスは低く言い添えた。「男は屋敷に踏み入れることもできぬ、と。」
アランはふと微笑み、淡い光を瞳に宿す。「そうなると、あなたより私の方が、この任務には適切なのかもしれませんね。」
しかしレギュラスは柔らかく眉を寄せ、「あんまりタカを括らないでくださいよ。」と静かに返す。
その声には、相手を案じる微かな痛みと、頼る不安が混ざり合っていた。
二人は袖を並べ、石棺の封印についてさらに文献を読み進めていく。
少女たちの魂が苦しみと悔いを昇華できないまま屋敷に絡みつき、男には幻覚や拒絶の呪詛を、女には罪悪感と悲しみを襲わせる――そんな記述が散乱していた。
「もし、この呪いの原点が昇華しきらない少女たちの想いなら……」
レギュラスは遠くを見つめる。「石棺を前にして、どんな呪いが降りかかってくるか、それを跳ね返せるかどうか……。」
アランはそっと彼の手に触れ、大きな目を見開いた。
「きっと、恐怖に囚われず、真実の想いで向き合うことができれば……私たちなら乗り越えられるはずです。」
その声は静かに、けれど芯を持って響いた。
古の悲劇を前に寄り添う二人の絆は、屋敷の闇を裂くわずかな光となる。
蝋燭がゆらめき、石棺へと続く不吉な運命の先に、小さな希望が差し始めていた。
朝靄の残る小道を、二人は静かに歩んでいた。
足音だけが規則正しく響き、やがてレギュラスがふと歩みを緩めた。横顔には、言い出しかねる何かが宿っている。
「……アラン。ずっと、謝らなければと思っていたことがあって……。」
その声は普段の彼らしからず、どこか震えを帯びていた。
「何ですの?」
アランは振り返る。だがレギュラスは目を逸らし、顔をやや下に向けている。いつもの堂々とした強さは、どこにも見当たらなかった。
長い沈黙の後、彼の唇から絞り出される。
「……シリウスのことです。あなたを、深く傷つけました。」
その瞬間――
アランの中のすべてが凍てついた。
ベラトリックスの緑の光。貫かれ、倒れ、消えていく影。あの悪夢のような光景が、まざまざと蘇る。胸が締めつけられ、一瞬にして涙がこみ上げそうになった。
言葉が、出てこない。
喉の奥で何かが詰まり、ただ彼を見つめることしかできない。
「すみません……アラン。あまりにも、酷なものを見せてしまいました。」
レギュラスの声は、痛みに満ちて震えていた。
しかし、その謝罪を聞いた瞬間、アランの胸に別の感情が湧き上がった。
――謝るなんて、ずるい。
謝罪をされてしまえば、もう許さなければならなくなる。でも許したくなかった。このままずっと、レギュラスを憎んで、いつか復讐してやりたいという想いを抱いていたかった。
それが、シリウスへの償いだと思っていたから。
彼の手を取ることができなかった罪悪感を。
共に生きていけなかった悔恨を。
救えなかった絶望を。
それら全てを、憎しみという形で贖罪にしたかった。
それなのに――
目の前のレギュラスは、こんなにも必死に詫びている。その姿があまりにも痛々しくて、胸が裂けそうになる。
「やめて……ください……。」
ようやく絞り出した声は、かすれて震えていた。
「お願いだから……許されようとしないで。」
レギュラスは驚いたように顔を上げた。そこには困惑と、深い悲しみが宿っている。
アランは両手で顔を覆った。涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら。
許さないことでしか、シリウスへの想いを昇華できないと思っていた。なのに、愛する人の苦悶する姿を前に、その決意すら揺らいでしまう。
朝の冷たい風が二人の間を通り抜け、立ち尽くす影を長く地面に落としていた。
言葉は、二人の間に重く沈み込んだ。
朝の冷たい空気が肺を満たし、足元の落ち葉がかすかに舞う。
アランは視線を地面に落とし、震えそうになる唇をかんだ。
レギュラスは少し離れて彼女の横を歩く。彼も、今は言葉を紡ぐことができなかった。
名前を呼ぶこともできず、謝罪と許しの狭間に揺れる心を持て余したまま。
二人の歩幅は次第に揃い、足音だけが規則正しく響いている。
沈黙は決して不自然なものではなく、むしろ言葉以上に深く互いを感じさせていた。
風がそっと肩を撫で、遠くで鳥が一羽、静かに鳴いた。
時間がゆっくりと流れる中で、アランは心を塞ぎながら歩き続ける。
レギュラスはその背中を見つめ、胸に去来するものを沈めながら、それでも共にいることの意味を重く噛み締めていた。
彼らの静かな並走は、無言のまま、しかし確かな絆のかたちを結んでいた。
シリウス・ブラックの死に関する証言書、魔法痕跡の記録、現場検証の報告――それらすべてが、デスイーターの関与を示唆している。
アルタイルは羽根ペンを持つ手を止め、深くため息をついた。
窓から差し込む午後の光が、書面の文字を白く浮き上がらせる。
その一文字一文字が、彼の胸に重い石を落としていく。
父が関わっているのか――
その疑問は、心の奥で静かに燃え続けている。
知りたいと思う自分と、絶対に知りたくないと願う自分が、胸の中で激しく対立していた。
もし本当に父がこの死に関与していたとしたら、母はそれをどう受け止めるのだろう。
あの穏やかな笑顔の裏に、どれほどの痛みが隠されているのか。
想像するだけで、喉の奥が詰まるような感覚に襲われる。
だが一方で、もしシリウスの死にデスイーターが本当に無関係だったとしたら――
純血主義者たちがこぞって「ただの魔法事故」として片付けようとしている事件に、これほどまでに騎士団や支援組織が反発する理由が見えなくなる。
書面の行間から立ち上る真実の影は、どちらに向かっても重く暗い。
羽根ペンを机に置き、アルタイルは両手で顔を覆った。
法務部の静寂の中で、自分の呼吸音だけが妙に大きく響く。
「……父さんは、どこまで本当のことを教えてくれるんだろう……」
その呟きは、誰にも届かない小さな音だった。
机の上の書類たちが、まるで答えを拒むように静かに積まれている。
知ることの重さと、知らないことの重さ。
どちらも同じように胸を押しつぶそうとしていた。
そして、家に帰れば見なければならない母の笑顔と、父の穏やかな表情――
それらすべてが、今は仮面のように思えてならなかった。
窓の外で雲が流れ、部屋の光がわずかに翳る。
その陰が、アルタイルの心境をそのまま映しているようだった。
アルタイルはゆっくりと深呼吸し、再び羽根ペンを手に取った。
書類の山から一枚、静かに分け取り、文字を追う。
言葉の重みが胸に押し寄せ、視界の端にぼんやりと霞がかかる。
それでも、どこかで答えを見つけねばならないという思いがあった。
真実がどんな形であれ、目を背けることはできない。
法務部の冷えた空気を背に受けて、アルタイルは立ち上がるとそっと書類をまとめ始めた。
その動きは緊張に満ちていて、指先にわずかな震えが混じっていた。
帰るべき場所へ向かうたびに増す不安。
父が知っている「本当」と、母が抱えるであろう「現実」。
その狭間で揺れ動く心が、止めどなく波打つ。
胸ポケットに書類を大事そうにしまい込み、アルタイルはドアへと歩み寄った。
扉の前で一瞬立ち止まり、背筋を伸ばして深く息を吸い込む。
その表情にはまだ迷いが残りながらも、覚悟の色がわずかに差していた。
ゆっくりと扉を開けると、外の廊下には穏やかな光が満ちていた。
その光が、これから帰る家の重い空気にも届くことを、彼は願わずにはいられなかった。
足音を踏みしめながら、アルタイルは一歩一歩、自らの運命を抱えて歩き始める。
暖かな夕暮れの光が、屋敷の窓からゆっくりと差し込んでいた。
重い空気が漂う室内に、足音を忍ばせながらアルタイルは玄関で上着を脱ぎ、静かにリビングへと向かう。
母アランと父レギュラスが並んでソファに座っている姿を見て、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その穏やかな表情の裏側に、昨夜の出来事の影がひそんでいることを知っているから。
「戻りました」
柔らかな声が部屋に響く。
アランが顔をあげ、静かに微笑んだ。
けれど、その瞳の奥には何か言い表せないものが漂い、アルタイルは胸が締め付けられる思いをした。
レギュラスは軽く頭を下げ、アルタイルを見つめる視線はどこか掴みどころがなかった。
彼の目にある冷静さの奥には、深い思慮と、言葉にできない何かが積もっているのだと感じた。
夕食の席では、話題は自然と魔法界の情勢や騎士団の活動に移り、死の真相には踏み込まなかった。
しかしアルタイルの胸の中では、父に問いかける言葉がくすぶり続けていた。
だが今はまだ口にせず、その沈黙がむしろ重く感じられる。
家族の会話の合間を縫って、彼は心の内を整理しようとしていた。
夕食後、アルタイルは一人小さな書斎に向かい、窓の外の夜空を見上げた。
星がちらほらと顔を出し、静けさの中に何かが始まる予感が漂う。
あの答えを、いつ、どうやって父に求めるべきか。
心の重さをじっと受け止めながら、アルタイルは決意を固めていった。
書斎の扉に、軽やかなノックが響いた。
羽根ペンを走らせていたレギュラスが、顔をあげる。
「どうしました?」
落ち着いた声が、扉の向こうに届く。
「父さんに……一つ、聞きたいことがあって」
アルタイルの声には、わずかな緊張が混じっていた。
レギュラスは手にしていた羽根ペンを机にそっと置き、背筋を正した。
「どうぞ」
扉が静かに開かれ、アルタイルが足を踏み入れる。
言うことを決めてきたはずなのに、いざ父を目の前にすると言葉が喉につかえた。
口元で何度も形を作りかけては、消えていく。
「……思い詰めているようですね」
レギュラスの声は穏やかで、けれどその瞳には鋭い観察の光が宿っていた。
アルタイルは深く息を吸い、意を決した。
「シリウス・ブラックの死についてです」
その瞬間――確かに見えた。
レギュラスの瞳に、ほんの一瞬だけ揺らぐものがあった。
石のように動かない表情の奥で、何かが微かに波打ったのを。
それは一秒にも満たない変化だったが、アルタイルには雷のように鮮明だった。
父は何かを知っている――その確信が、胸の奥で固い塊となって沈んだ。
「それが、どうしました」
レギュラスの声は変わらず平坦で、表情も元の冷静さを取り戻している。
しかしアルタイルには、その完璧すぎる平静が逆に不自然に映った。
「デスイーターは、どこまで関与しているのでしょうか」
声が僅かに震える。
「シリウス・ブラックを殺めたのはデスイーターだという抗議文が、いくつも上がってきています」
言葉を紡ぐたび、胸の奥で祈るような気持ちが膨らんでいく。
――お願いだから、否定して欲しい。
――「そんなことはない」と言って欲しい。
書斎の空気が重くなり、時計の針の音だけが静寂を刻んでいた。
レギュラスは指を組み、深く考え込むような仕草を見せる。
その沈黙が長ければ長いほど、アルタイルの不安は深まっていった。
父の次の言葉が、自分の世界を変えてしまうかもしれない――
そんな予感に震えながら、彼は答えを待った。
重い沈黙が書斎を満たしていたその時、扉に軽やかなノックが響いた。
アルタイルとレギュラス、二人の視線が同時に扉へ向く。
「失礼します」
アランの穏やかな声が聞こえ、扉がそっと開かれる。
アルタイルは心臓が跳ね上がるのを感じた。
よりによって、この話をしている最中に母が――
シリウスを深く想ってきたであろう母に、この話題は聞かせたくなかった。
「アルタイル、お仕事ご苦労様です」
アランは静かに微笑みながら、室内に足を踏み入れる。
その表情にはいつもの穏やかさがあり、先ほどまでの話を聞いていたような気配は感じられない。
「母さん……少し父さんに、アドバイスをもらいたくて」
アルタイルは慌てたように言葉を紡ぐ。
何とかして話題を逸らし、シリウスの話をしていたことなど気づかせたくなかった。
だがアランは、わずかに首を傾げると、静かにこう言った。
「アルタイル、よく聞いてください。あなたの父は、シリウス・ブラックの死に関与していません。だから、自信を持って糾弾文には強い態度で挑みなさい。自信を持っていいのよ」
アルタイルの体が、石のように固まった。
血の気が引いていくのがわかる。
――母が、聞いていた。
まさか扉の向こうで、自分たちの会話を聞いていたとは思わなかった。
そして何より驚いたのは、母がデスイーターを、そして父を全面的に庇う言葉を口にしたことだった。
なぜ母は、父がシリウスの死に関与していないと断言できるのか。
どうしてそこまで確信を持って言えるのか。
その根拠が、アルタイルには全く見えなかった。
書斎の空気が一層重くなり、三人の間に微妙な緊張が流れる。
アルタイルは混乱の中で、どこに真実があるのかわからなくなっていた。
調べていけば、きっと残酷な現実に打ち当たるのだろう。
その恐怖が、胸の奥で静かに膨らんでいった。
扉が静かに閉まり、アルタイルの足音が廊下の向こうに消えていく。
書斎には再び沈黙が戻り、二人だけの空間となった。
レギュラスは椅子に腰を下ろしたまま、アランを見つめた。
先ほどの彼女の言葉――シリウスを殺したベラトリックス、そしてデスイーターを庇う発言。
その真意が、彼には掴めなかった。
アランはゆっくりとレギュラスの方へ向き直ると、静かに口角だけを上げた。
それは微笑というには冷たく、まるで「これがあなたの望んでいたことでは?」と挑発するかのような表情だった。
その笑みを見た瞬間、レギュラスの胸に名前のつかないざらつきのようなものが走った。
彼女が何をするつもりなのか――それが見えないことが、不安を掻き立てる。
「……どういう意図があるんです?」
レギュラスの声は低く、探るような響きを帯びていた。
「あなたの望むことをしたまでです」
アランの答えは簡潔で、けれどその言葉の裏には深い影が潜んでいるようだった。
レギュラスはゆっくりと椅子から立ち上がり、アランの方へと歩み寄った。
机を挟んだ距離が縮まり、互いの呼吸が感じられるほど近くなる。
彼は彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
翡翠色の瞳は、まるで深い湖のように静まり返っていて、何の揺らぎも見せなかった。
その透明な冷たさが、かえって不気味に感じられる。
書斎の空気は重く、時計の針音だけが規則正しく時を刻んでいた。
レギュラスは彼女の表情から真意を読み取ろうとしたが、その顔は完璧な仮面のように何も語らなかった。
この静寂の中に、二人の間の複雑な感情が渦巻いている。
それは愛情でも憎悪でもない、もっと深く絡み合った何かだった。
アランの胸の奥では、静かな計算が働いていた。
法務部に勤めるアルタイルが、シリウスの死について調べていくこと――それは予想していた。
そしていつか、真実に辿り着くことも。
けれど今は、まだその時ではない。
だからこそ、レギュラスやデスイーターがこの件に関与していないと息子に信じ込ませる方法を選んだのだ。
そうすれば、父への疑念も少しは抑えられるだろう。
そして何より――レギュラスもまた、妻が全面的に庇うように振る舞う態度に安堵してくれるはずだった。
その安堵を、少しずつ積み重ねていきたい。
信頼を深め、油断を誘い、心を開かせる。
そうした後に、しかるべきタイミングでこの男に刃を向けたい。
全ての憎悪を、一身にぶつけてやれるように――
翡翠の瞳の奥で、復讐の炎が静かに燃え続けているのを、アランは自分でも感じていた。
けれどその炎は、表情には一切現れない。
「心配しないで。私は、あなたの味方です」
穏やかな声で、彼女は微笑みを浮かべた。
その笑顔は完璧で、愛情に満ち、疑いの余地を与えない。
レギュラスの表情が、ふわりと和らいだ。
長い間抱えていた緊張が、ほんの少しだけ解けたようだった。
「信じています、アラン」
その声には、深い安堵が込められていた。
書斎の静寂の中で、二人は向かい合っていた。
レギュラスには、妻の揺るぎない支持が感じられる。
アランには、計画が一歩前進した手応えがある。
同じ空間にいながら、二人の心は全く異なる場所にあった。
愛と憎悪、安堵と復讐――それらが複雑に絡み合い、見えない糸で結ばれている。
翡翠の瞳は変わらず静かで、その奥に潜む嵐を誰にも悟らせることはなかった。
暗く冷たい空間に、レギュラスは一人立っていた。
闇の帝王からの呼び出し――それがどのような命令を伴うかは、容易に想像がついた。
また新たな分霊箱を、どこか恐ろしい場所に隠せという指令が下されるのだろう。
分霊箱の作り方については、確かにあの日、アランの命と引き換えにその知識を伝授した。
けれど、この男は一体どこまで魂を引き裂き、分霊箱を増やしていくつもりなのだろうか。
その思考だけで、レギュラスは恐れと不安に慄きそうになった。
「レギュラス・ブラックよ」
低く響く声が、暗闇の向こうから聞こえてくる。
「お前も、お前の妻も、よく働いてくれる。あの日、お前の妻を生かしたことは、実に実りのある結果となった」
ヴォルデモートの言葉に、レギュラスは深々と礼をした。
その動作の裏で、胸が激しく波打っている。
アランの命を盾に取られた、あの屈辱的な日のことが蘇る。
「そこでだが」
ヴォルデモートは静かに立ち上がると、レギュラスの手のひらに何かを渡した。
指輪だった。古い金属に刻まれた紋章が、薄暗い光の中で不気味に光っている。
「この指輪を、北の荒野にある古いガウント家の廃屋――その地下の石棺に隠せ」
冷たい命令が、空気を震わせる。
今度はどんな恐怖が待ち受けているのか。
亡者のいる湖も、死に満ちた森も――それらすべてがレギュラスにとっては恐ろしくてたまらなかった。
本当は今すぐにでも逃げ出したい。
足が震え、手に持った指輪の冷たさが骨まで染みる。
けれど、アランの命を天秤にかけられてしまえば、レギュラスに選択肢などあるわけがなかった。
彼女の笑顔を思い浮かべることで、かろうじて膝の震えを抑える。
「準備が整い次第、出発いたします」
声が僅かに掠れたが、何とか言葉を紡いだ。
ヴォルデモートは満足そうに頷き、再び闇の中へと姿を消していく。
残されたレギュラスは、手の中の指輪を見つめながら、深い絶望と覚悟の狭間で立ち尽くしていた。
部屋の静けさが、心の葛藤をいっそう濃くしていた。
アランは椅子に座ったまま両手を重ね、その細い指を固く結んで動かせなかった。胸の奥にはずっと閉ざしていた棘がいま再び疼き始めていた。
――もし、このままレギュラスが一人で屋敷へ向かい、何かに呑まれて帰らなければ。それでいいのではないか。
ふと浮かんだ考えに、アランは自ら震えた。
あの瞬間が脳裏に蘇る。
シリウスが死へと落ちていったあの場面。引き裂かれるような悲鳴。あれを目にした時、アランは確かに夫に対して激しい憎しみを覚えた。抑えきれぬほど強く――一度でも心から彼を呪ったのだ。
その恨みは消えない。いつかその胸を、心を、同じように痛めつけてやりたいとさえ思ったこともある。
けれど。
あの思いは自分だけのもの。罪深く、子供たちへ向けていい感情ではない。
アルタイルとセレナ。二人のあどけない瞳が心に浮かぶ。もし父を失えば、その悲しみはどれほど深いものになるだろう。愛も憎しみもすべて越えて、子供たちは父を愛していた。彼を失った空虚を、幼い心は耐えきれない。
――ならば。彼を一人で行かせることは、できない。
「……レギュラス、もしあなたに何かあれば、子供たちは――胸を裂かれるほど悲しむでしょう。」
重く沈んだ声でアランは告げた。震える本心を覆いながら。
レギュラスは静かに彼女の方を振り返り、わずかに微笑んだ。それは決意を隠すための、柔らかな偽りに過ぎなかった。
「戻ってこれないことはあり得ません。ですから、そこは心配されなくて大丈夫です。」
その落ち着いた言葉に、アランの胸の奥が痛む。やはり彼は譲らない。彼自身の運命を、自分だけで背負おうとしている。
「……レギュラス。」
溜め息が静かに漏れる。その声に自分でも気づかぬ哀が混じる。
「あなた一人では幻覚に抗えないわ。死の森で……あの時も、幻に絡め取られそうになっていたのを覚えているでしょう。」
数度の鼓動分の沈黙ののち、レギュラスはゆるやかに口を開いた。
「今回は、上手くやります。」
変わらぬ穏やかさで、しかし固い決意を浮かべながら。
アランは目を逸らさず、その瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「いいえ……私が支えます。あなたが一人で闇に飲まれるのを、もう二度と黙って見過ごしはしません。」
言葉は囁きに近かったが、その響きは深く鋭く、レギュラスの胸を突いた。
揺るがぬ瞳と、切り裂かれるような想いの熱を受け止め、彼はただ静かに息を止めた。
蝋燭の灯が、二人の間の空気を淡く灼き、影と影が重なりひとつになろうとしていた。
静かな部屋に、圧のような緊張が流れていた。
アランの瞳は揺らがず、まるで相手の心を見透かすようにレギュラスを射抜いている。彼女の声には強さと愛情と、決して退かぬ決意が重なっていた。
長い沈黙ののち、レギュラスは深く息を吐いた。
「……分かりました。」
その響きは敗北ではなく、彼女の強さに心を委ねた安らぎを帯びていた。
アランの唇にかすかな笑みが刻まれる。
「私には、あなたがくれたネックレスがありますわ。」
胸元で赤く輝くペンダント。
不滅の意志を象徴するように、その赤は炎のようであり、大地の芯のように揺るがなかった。
それはレギュラスが彼女へと託した“血の誓い”。
かつて彼は魔力を削り、魂の深みに刻み込む形でその守りを生み出した。
いかなる呪文もその使い手本人へと跳ね返す、究極の防御。
アランの命を守るための最も純粋な形の祈りだった。
レギュラスは視線を落とし、そっとその輝きに触れる。
「……あれは、呪文からあなたを守るものです。魔法の正面の攻撃なら、確かに完璧でしょう。けれどあの屋敷に渦巻いているのは、呪詛や怨念……未知の術です。そこまでは、僕にも断言できない。」
言葉の端々ににじむのは、恐怖ではなく、彼女を失いたくないという痛切な想いだった。
しかしアランは首を振り、その赤い光を胸に抱くように手で覆った。
「だからこそ……助け合いましょう。あなた一人ではなく、私と共に挑むのです。あなたとなら、必ずできます。」
その声音はしなやかで、揺るぎない。
彼女の長い睫毛の影が頬に落ち、その目がレギュラスを捉える。そこには恐れよりも確信が宿っていた。
レギュラスは息を呑んだ。
妻を守ろうとするあまり、彼女の強さを見誤っていたのかもしれない。
二人が並び立つことでこそ超えられるものがある――今のアランの言葉には、それがすべて込められていた。
やがて、彼は小さく頷いた。
その仕草には、重荷を分かち合い、運命を共に背負うことへの覚悟と、静かな安堵が入り混じっていた。
蝋燭の炎がふたりの影を重ね合わせ、赤いペンダントはどこか柔らかく脈打つように輝いていた。
まるで「二人ならば」と告げるかのように。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、壁の影が長く伸びていた。
その淡い明暗のなかで、レギュラスはしばし黙したまま、アランを見つめていた。彼女が自分を一人にせず側にあろうとしてくれる――その事実が胸の奥をふわりと温かく満たしている。
確かに、自分は愛されている。そう実感できる瞬間など、長い人生の中でもそう多くはない。けれど今は、その温もりがはっきりと手に取れるほどに感じられた。
それでも。
未知なるもの――“呪詛”。
魔法の理の中にありながらも、通常の呪文とは違う、歪みに満ちたもの。どこまで恐ろしいのか、己には分からない。抗う術すら定かではない。
彼女を守れるのかどうかさえ、断言できないのだ。
ゆっくりと、言葉がこぼれ落ちた。
「……アラン。僕は、本当に……今回の呪詛については、無知なんです……。」
途切れそうに震える声。
レギュラスはそのまま彼女の手を取った。冷たくも熱くもない、ただ確かにそこにある命の温度。その温もりに縋るように、指先を強く絡める。
アランの顔に柔らかな光が浮かぶ。
彼女は迷わず、ただ一言を返した。
「――大丈夫です。調べましょう。必ず、方法は見つかります。」
その声はまるで、闇の中で灯される最初の小さな灯火のようだった。
不安を消し去るのではなく、不安も抱えたまま支えてくれる暖かな火。
レギュラスはその瞬間、彼女の存在の意味を改めて思い知った。守るべき存在であると同時に、共に立つことによって強さを引き出してくれる、かけがえのない伴侶。
指と指が強く結ばれたまま、蝋燭の炎がまたひとつ揺らぎ、二人の影は一つに重なって揺れていた。
レギュラスの胸中に溜め込まれていた重苦しさは、アランの短い言葉によってほんの少しだけ解かれていくのを感じた。
彼女は恐怖の現実を、否定することなく受け止め、それでも共に進もうとしている。その姿の強さに、心が自然と温められていった。
「……調べる、か。」
レギュラスはゆっくりと呟き、アランの手を握る指先に力をこめた。
「この世に残された呪術の記録は、断片ばかり……追うのは容易ではありません。」
アランは頷き、その瞳に揺るぎなき決意を宿す。
「容易でなくとも、必ず痕跡はあります。呪術は人が遺すもの。言葉で、呪文で、記しで。――ならば私たちは、それを探し当てればいいのです。」
その清澄な言葉に、レギュラスは静かに微笑んだ。
何もかもを自らの肩に抱え込もうとする彼を、こうして繰り返し引き戻してくれる。彼女の存在は、己の見落とした希望そのものだった。
「……そうですね。僕ひとりでは探せずとも、あなたとなら。」
想いをこぼすように口にすると、アランはわずかに微笑み目を伏せた。
蝋燭の火が小さく揺れ、二人の影が重なり合う。
それはまるで、記録の迷宮や呪詛の闇へ降りる前、今だけ許された小さな安らぎの時間だった。
レギュラスは胸に決意を新たに刻む。
――未知と恐怖が待ち受けていたとしても、彼女と手を取り合ってなら進める。そう信じられる。
静かな部屋に、頁をめくる微かな音が響き始めた。
古い書架から引き出された黒革の本、埃の積もった古文書。
二人の前に広がるのは闇の言葉の断片であったが、その灯火のもと、ひとつひとつを繋いでいこうとしていた。
古びた革表紙の本を、アランはそっと卓上に開いた。
紙は黄ばみ、触れれば崩れそうなほど脆い。だがそこに記されているのは、時を越えてなお人々が畏れ敬った呪詛の断片であった。
指先で慎重に文字を追っていくうちに、アランの表情が徐々に曇る。
「……ここに書かれています。ガウント家の屋敷は、ただ“住めぬ”のではなく、“拒む”のです。侵入者の心を裂き、魂に触れる幻を見せる、と。」
レギュラスは隣で身を乗り出し、記述を読み取った。
そこにはこうあった――“幻影に惑い、己が最も愛する者に刃を向ける”と。
「……愛する者に、刃を……」
その言葉が唇から零れた瞬間、レギュラスの胸に冷えたものが走った。
まるでその呪いが、二人を嗤っているかのように。
アランは小さく息を吐き、しっかりとした声で続けた。
「さらに……記録によれば、入った者の五感は徐々に狂い、時間の感覚を失い……やがては自分が生きているのか死んでいるのかすら分からなくなる、と。」
レギュラスの眉間に深い皺が刻まれる。
「幻覚だけではなく、存在そのものを侵蝕するような呪詛か……。
一度囚われれば、呪文の防御では抜け出せない……。」
背後で蝋燭が小さくはじけ、互いの影が震えた。
その震動すら、不吉な囁きに思えるほどであった。
アランはそっとペンダントに指をかけ、赤い石に光を宿らせる。
「……けれど、記録にはもう一つ。“決してひとりで入るな”ともあります。呪いは孤独な魂を好む……。裏を返せば、心を繋ぎ支え合う者同士ならば、抗える道があるはずです。」
その言葉に、レギュラスはゆっくりと目を閉じた。
孤独を呪う呪詛――ならば、共に在ることが最大の盾となり得る。
彼の胸に、ほんのかすかな希望が灯った。
「……やはり、あなたと行くべきなのですね。」
レギュラスの低い声に、アランは静かに微笑む。
二人の間に流れる空気は、恐怖と不安を抱えつつも、一筋の強さを帯び始めていた。
闇の深淵を前にしたその静けさの中で、二人はただ寄り添い、それぞれの心を確かめ合うように影を重ねていた。
積み重ねた古文書の中に、二人の手が止まった。
アランは古い羊皮紙を優しく広げる。その端には褪せた文字で、悲劇の家系の歴史が綴られていた。
レギュラスが静かに指を添えた文字を読み上げる。
「……この屋敷には、かつて二人の少女が、生きたまま石棺に閉じ込められたそうですね。」
長い沈黙――
アランは息を呑み、首を振った。「何と酷いこと……。」
記録によれば、少女たちを棺に葬ったのは、この家の主だった男――アンディリオン・ガウントと記されていた。
その理由は言葉にするのも忌まわしいほど歪んでいた。この場所には理では測れぬ憎悪と悲しみが渦巻き、屋敷は今も少女らの痛ましい魂に満ちている。
「……その怨念が、特に男を拒む理由みたいです。」
レギュラスは低く言い添えた。「男は屋敷に踏み入れることもできぬ、と。」
アランはふと微笑み、淡い光を瞳に宿す。「そうなると、あなたより私の方が、この任務には適切なのかもしれませんね。」
しかしレギュラスは柔らかく眉を寄せ、「あんまりタカを括らないでくださいよ。」と静かに返す。
その声には、相手を案じる微かな痛みと、頼る不安が混ざり合っていた。
二人は袖を並べ、石棺の封印についてさらに文献を読み進めていく。
少女たちの魂が苦しみと悔いを昇華できないまま屋敷に絡みつき、男には幻覚や拒絶の呪詛を、女には罪悪感と悲しみを襲わせる――そんな記述が散乱していた。
「もし、この呪いの原点が昇華しきらない少女たちの想いなら……」
レギュラスは遠くを見つめる。「石棺を前にして、どんな呪いが降りかかってくるか、それを跳ね返せるかどうか……。」
アランはそっと彼の手に触れ、大きな目を見開いた。
「きっと、恐怖に囚われず、真実の想いで向き合うことができれば……私たちなら乗り越えられるはずです。」
その声は静かに、けれど芯を持って響いた。
古の悲劇を前に寄り添う二人の絆は、屋敷の闇を裂くわずかな光となる。
蝋燭がゆらめき、石棺へと続く不吉な運命の先に、小さな希望が差し始めていた。
朝靄の残る小道を、二人は静かに歩んでいた。
足音だけが規則正しく響き、やがてレギュラスがふと歩みを緩めた。横顔には、言い出しかねる何かが宿っている。
「……アラン。ずっと、謝らなければと思っていたことがあって……。」
その声は普段の彼らしからず、どこか震えを帯びていた。
「何ですの?」
アランは振り返る。だがレギュラスは目を逸らし、顔をやや下に向けている。いつもの堂々とした強さは、どこにも見当たらなかった。
長い沈黙の後、彼の唇から絞り出される。
「……シリウスのことです。あなたを、深く傷つけました。」
その瞬間――
アランの中のすべてが凍てついた。
ベラトリックスの緑の光。貫かれ、倒れ、消えていく影。あの悪夢のような光景が、まざまざと蘇る。胸が締めつけられ、一瞬にして涙がこみ上げそうになった。
言葉が、出てこない。
喉の奥で何かが詰まり、ただ彼を見つめることしかできない。
「すみません……アラン。あまりにも、酷なものを見せてしまいました。」
レギュラスの声は、痛みに満ちて震えていた。
しかし、その謝罪を聞いた瞬間、アランの胸に別の感情が湧き上がった。
――謝るなんて、ずるい。
謝罪をされてしまえば、もう許さなければならなくなる。でも許したくなかった。このままずっと、レギュラスを憎んで、いつか復讐してやりたいという想いを抱いていたかった。
それが、シリウスへの償いだと思っていたから。
彼の手を取ることができなかった罪悪感を。
共に生きていけなかった悔恨を。
救えなかった絶望を。
それら全てを、憎しみという形で贖罪にしたかった。
それなのに――
目の前のレギュラスは、こんなにも必死に詫びている。その姿があまりにも痛々しくて、胸が裂けそうになる。
「やめて……ください……。」
ようやく絞り出した声は、かすれて震えていた。
「お願いだから……許されようとしないで。」
レギュラスは驚いたように顔を上げた。そこには困惑と、深い悲しみが宿っている。
アランは両手で顔を覆った。涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら。
許さないことでしか、シリウスへの想いを昇華できないと思っていた。なのに、愛する人の苦悶する姿を前に、その決意すら揺らいでしまう。
朝の冷たい風が二人の間を通り抜け、立ち尽くす影を長く地面に落としていた。
言葉は、二人の間に重く沈み込んだ。
朝の冷たい空気が肺を満たし、足元の落ち葉がかすかに舞う。
アランは視線を地面に落とし、震えそうになる唇をかんだ。
レギュラスは少し離れて彼女の横を歩く。彼も、今は言葉を紡ぐことができなかった。
名前を呼ぶこともできず、謝罪と許しの狭間に揺れる心を持て余したまま。
二人の歩幅は次第に揃い、足音だけが規則正しく響いている。
沈黙は決して不自然なものではなく、むしろ言葉以上に深く互いを感じさせていた。
風がそっと肩を撫で、遠くで鳥が一羽、静かに鳴いた。
時間がゆっくりと流れる中で、アランは心を塞ぎながら歩き続ける。
レギュラスはその背中を見つめ、胸に去来するものを沈めながら、それでも共にいることの意味を重く噛み締めていた。
彼らの静かな並走は、無言のまま、しかし確かな絆のかたちを結んでいた。
