5章
name設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「……全部……」
その言葉の重みが、夜気よりも濃く胸に沈んでいった。
それは約束でも願いでもなく、ほとんど宣告のように響いた。
アランは視線を逸らそうとしたが、頬に添えられた指がそれを許さない。
黒い瞳が、まるで逃げ道を塞ぐように真正面から射抜いてくる。
頭の奥で、言葉にできない感情が絡まり合う。
反発すれば、もっと深く拘束される気がする。
沈黙を貫けば、それは肯定にも似た形で相手に届いてしまう。
胸の奥で微かなざわめきが広がる。
その揺らぎを敏感に察したのか、レギュラスの指先が頬から顎へとゆっくり滑り落ち、そのまま顔を持ち上げた。
「……全部、渡してください」
耳元で低く囁く声が、熱を伴って肌を撫でる。
アランは唇を開きかけて、結局言葉を飲み込んだ。
その沈黙さえ、彼は確信に変えてしまうだろう。
胸元の赤い石が、心臓の鼓動に合わせて微かに揺れた。
その揺れが、まるで「もう逃れられない」と告げているように思えてならなかった。
レギュラスはゆるく微笑む。
その笑みには、安堵と所有の感情がないまぜになり、どこまでも深い影を落としていた。
レギュラスの視線は、ゆっくりと深く沈んでいった。
それは探るためではなく、すでに答えを得た者の眼だった。
彼の中でアランの沈黙は、迷いながらも差し出された承諾として形を成してしまっている。
顎に添えていた指が、そっと頬へと戻り、そのまま髪を耳の後ろに滑らせる。
細い髪に触れるたび、指先の熱が伝わり、アランの背筋がわずかに震えた。
「……ありがとう」
ほとんど息のような声が落ちた。
その声に込められていたのは、感謝よりも安堵、そして確かな所有の響きだった。
レギュラスはゆっくりと距離を詰め、唇がまた触れる。
先ほどよりも浅く、しかし逃げ場を奪うための確かさを持った口づけ。
触れた瞬間、その熱が静かに深く押し込まれてくる。
アランは瞬きを忘れ、ただ視界いっぱいの影を見上げる。
胸元の赤い石が、二人の間でかすかに揺れ光を返した。
その光は、誓いという名の鎖のように、互いを結びつけて離さない。
唇が離れたとき、レギュラスは穏やかに微笑んだ。
「……もう、何も隠さなくていい」
その言葉が、さらなる鎖の一環として、アランの胸に静かに巻きついていく。
その声は柔らかく、穏やかだった。
けれどアランの胸には、さらに一重、静かな鎖が巻き付いた感覚が広がっていく。
――隠さなくていい、だなんて。
心の奥にあるものは、あなただけには見せられない。
たとえ口にしなくても、その思いだけは最後まで護り抜く。
レギュラスの手が、静かにアランの片手を取った。
指と指が絡み、逃げ道を塞ぐ。
引き寄せられるその力に、抗わなかったのは、抗えばさらに強く締められると分かっているからだった。
ベランダから室内へと歩みを進めると、暖かな灯が二人を包む。
その灯の色が、やけに濃く、深い影までも一緒に生み出しているように見えた。
「……疲れているでしょう。休みましょう」
低い声が背後からかかる。
その声音には、優しさと同じくらい揺るぎない支配の色が混ざっていた。
レギュラスは椅子に置かれた毛布を手に取り、アランの肩へ掛ける。
その仕草は甘やかすようでいて、同時に囲い込むための布のように思えた。
胸元の赤い石が、また微かに揺れる。
それは彼の魔力と血が刻まれた証――逃れることのできない印。
アランは、微笑を浮かべた。
それは受け入れの笑みではなく、心中のどこにも触れさせない硝子の仮面。
その仮面の奥で、唯一自由なものは、未だ誰にも触れられない深い闇の想いだけだった。
毛布の柔らかさが肩を包むと、外気の冷たさが遠のき、かわりに室内の空気が濃く感じられた。
暖炉の火が静かに揺れていて、その赤い光が壁やカーテンを温かな色で染める。
だがアランの中では、その温もりは皮膚の表面だけに留まり、心の奥までは届かない。
レギュラスはアランの手を離さず、そのままソファへと導いた。
腰を下ろす動作ひとつにも、彼の魔力のような確固とした存在感が付きまとっている。
「……こんなふうに、ゆっくり過ごすのは久しぶりですね」
レギュラスの声はあくまでも穏やかで、柔らかく低い。
アランは微笑み返しながらも、心中では言葉に膜を張るように距離を置いていた。
テーブルに置かれたワイングラスの底には、まだわずかな紅が残っている。
視線をそこに落とすと、先ほどの口付けが舌に蘇り、酸味と涙の味が混ざり合った記憶が胸を刺した。
レギュラスはそんな彼女の視線を追い、グラスを手にして差し出す。
「……続きを」
その動作すら、ただの勧めではなく、静かな命令のように響く。
グラスを受け取り、アランは口元に微笑を残したまま一口だけ含んだ。
だが喉を通る味よりも、すぐ隣に座る男の体温と視線の方が、ずっと鮮明に感じられる。
胸元の赤い石が、またふと揺れた。
その振動が、心臓の鼓動と奇妙に同調していることに気づき、アランは視線を床へ落とした。
「あたたかいですね」
レギュラスの言葉は小さく、しかし耳の奥に深く残る。
その温かさが、どこまでも自分を包み隠してしまいそうで――アランは笑みの奥で、密かに息を詰めた。
毛布の内側は、わずかな動きすら熱を孕むほど狭い。
静かな暖炉の炎が、二人の影を壁に揺らし、赤く長く伸ばしていた。
レギュラスはゆっくりと体を傾け、アランとの間のわずかな隙間を埋める。
肩が触れ、毛布ごと包み込むように片腕が彼女の背を回った。
「……こうしていると、外の世界の音がすべて消えますね」
低い囁きが、耳元で暖を帯びて溶ける。
毛布の中に閉じ込められた空気は、やわらかく、しかし逃げ道のない熱を持っていた。
アランは呼吸を静かに整えようとするが、胸元で微かに揺れる赤い石が、脈動のように存在を主張する。
この石に刻まれた「血の誓い」の意味を知るからこそ、その温もりはただの飾りに思えなかった。
守るための鎖であり、同時に決して解かれない契約の印。
「……あなたが、ここにいるとわかると、それだけで安心します」
レギュラスの声は、言葉そのものよりも、その下に流れる本音――強い執着が耳の奥を満たした。
毛布に包まれ、外の世界が遠くなっていく。
暖炉の火がまたひとつ弾け、小さな音を立てた。
アランは静かに顔を上げたが、その微笑は相変わらず硝子の仮面のままだった。
それでも、レギュラスはその笑みの奥に何かを見たと信じ、さらにわずかに身を寄せた。
二人の影は、重なり合ったまま、灯の揺らぎの中で長くひとつになって伸びていった。
毛布の内側は、たった二人のためだけの小さな部屋のようだった。
外の空気も、暖炉の燃える音すらも遠のいて、耳に届くのは互いの呼吸だけ。
レギュラスの片腕が、アランの肩から背中へと深く回る。
引き寄せられた体温が、布越しではなく直に肌を通して広がっていく。
「……アラン」
名前を呼ぶ声が低く沈み、その響きに胸の奥がわずかに震えた。
すぐ近くで、彼の吐息が頬をかすめる。
視線が重なり合い、もう逃げ道はどこにもなかった。
毛布が小さく擦れる音と同時に、唇がそっと触れる。
最初は羽のように軽く――けれど、一度触れた瞬間に熱が流れ込み、逃さない深さへと変わっていく。
耳の奥で脈打つ音が、唇から胸へ、そして全身へと広がった。
ワインの残り香と、暖炉の熱、そして彼の呼吸が混ざり合い、毛布の中はただ一色の熱に染まっていく。
その世界には、自分と彼以外の何者も存在しない――そう錯覚させるほどに、距離は近く、密やかだった。
唇を離すたびに、ごく短い息が触れ合い、また引き寄せられる。
毛布の内側で交わされる口づけは、まるで外界から隔絶された契約のように、重く強く、そして静かに続いていた。
唇が重なったまま、次第に呼吸の間隔が短くなっていく。
触れ合うだけだった口付けは、気づけば深く熱を帯び、舌先が静かに絡み合った。
背中へ回されたレギュラスの手が、ゆっくりと布越しに形をなぞる。
輪郭を確かめるように、肩から腰にかけて深く滑り降り、引き寄せる力は次第に強くなっていく。
指先が毛布の内側へ入り込み、服の上から腰骨のあたりを捉える。
その温かさに、アランの胸の奥が一瞬きゅっと縮まり、同時に呼吸が乱れた。
毛布の裾がわずかにずれ、二人の距離はさらに狭まる。
レギュラスの片手は背から腰へ、もう一方の手は頬に触れたまま、口付けを決して途切れさせない。
唇から舌へ、そして喉の奥へと、まるで想いそのものを流し込むようだった。
暖炉の熱と、至近距離の体温が入り混じり、毛布の中は息苦しいほどに甘く湿った空気で満たされる。
唇が離れる瞬間にも、指は動きを止めない。
背筋を撫で、肩甲骨を辿り、服越しに温もりを刻み込む。
アランは目を閉じ、逃げ場を失った狭い世界に自分自身を押し込める。
レギュラスの手と口づけは、確かな鎖となって彼女を縛り、外のどんな光も届かない深さへと引き込んでいった。
レギュラスの唇は離れきらぬまま、喉元や頬へと軌跡を描き、再び口元に戻って重なる。
その度ごとに、毛布の中のわずかな空気がゆらぎ、甘く湿った温度が二人をさらに包み込む。
腰に添えられていた掌が、やがて脇腹を辿り、胸の近くへとゆっくり移動する。
布越しの指がそこに触れると、アランの身体は小さく反応し、毛布の中でわずかに身をよじった。
「……逃げないで」
耳元に落とされた低い声が、熱の中で微かに震えを誘う。
同時に、毛布の裾から忍び込む指先が、衣服と肌の境目を探り当てる。
ひやりとした空気が一瞬だけ入り込み、すぐに彼の掌の熱にかき消される。
ブラウスの留め具が、ゆっくりと、しかし迷いなく外れていく。
金具の小さな音が、毛布の中でやけに大きく響いた。
視界は暗く狭い。
炎の赤が布地を透かし、ぼんやりとした光が輪郭を際立たせる。
そこにあるのは彼の影と、逃さぬよう絡みつく腕だけ。
レギュラスの唇が鎖骨に触れ、熱の筋を残しながらさらに下へと進む。
指先は背中を撫で、布を滑らせて、肌に直接触れる範囲を広げていく。
アランは目を閉じた。
熱と触覚と、彼の魔力の気配が全身を覆い尽くし、思考の置き場がなくなっていく。
呼吸は浅く速くなり、胸元の赤い石が鼓動に合わせて小さく震えていた。
その震えが、この鎖は決して解けないのだと囁いているようで――
逃れたい思いと、覆い尽くす熱の狭間で、アランの心は沈み込んでいった。
毛布の内側は、もう外界とは別の世界になっていた。
暗く、狭く、そして逃げ道のない熱に充ちている。
肌に触れるたび、彼の掌はためらいを見せず、確かな軌道で温もりを刻み込んでくる。
外された衣服が布の中でずり落ち、素肌に炎の赤が滲む。
その光は揺れながら、アランの輪郭をゆっくりと浮かび上がらせ、レギュラスの瞳を深く染めた。
唇が胸元に触れると、赤い石がそのすぐ傍で微かに揺れた。
その震えは、自分の鼓動と一体となり、鎖の音のように耳の奥で響く。
指先が背の曲線をたどり、腰へと滑り降りる。
その動作ひとつひとつが、奪うためではなく「自分のものだと確かめるため」に行われているのが、痛いほど分かった。
「……アラン」
囁きは穏やかで、けれど力強く心を縫い止める響きを持っていた。
抵抗のために動くべき手は、もう力をなくしている。
毛布越しに包まれた二人は、深く絡み合う影の中で、呼吸と鼓動さえ共有していた。
視界を閉ざしても、彼の魔力と体温は全ての感覚を支配する。
背中を辿る手が、腰の奥で止まり、そのまま引き寄せる力は逃れようのないほど強い。
胸元から溢れる熱が全身を巡り、もはや自分の境界線は曖昧になっていた。
毛布の下、二人を隔てるものはほとんどなくなり――
アランはその狭く暗い熱の世界で、完全にレギュラスの腕の中へ沈み込んでいった。
まるで熱に閉ざされた深い海のようだった。
息を吸っても胸の中には彼の体温しか残らない。
肌と肌がどこまで触れているのか、自分でももう正確には分からなかった。
動きはゆっくりで、しかし一歩ずつ確実に奥へと沈められていく。
触れられるたびに境界線は溶け、確かにあったはずの「自分」と「彼」の区別が淡く滲んでいく。
鼓動は赤い石を介して二人の胸でひとつになり、内側からじんじんと響いた。
その振動は鎖の音にも似て、抜け出せないことを教え続ける。
レギュラスの動きは深まり、全てを覆うように重なっていく。
どこにも逃げ場がなく、どこにも光は届かない。
それなのに、なぜか恐怖はなく、ただ重く静かな圧が心の底へ降りてきた。
――もう、いい。
そんな諦めにも似た声が、内側で小さく響いた。
抵抗の意志は、波に飲まれた泡のように形を失っていた。
それでも恨みも悲しみも消えたわけではない。
残ったのは、それを燃やす力すら奪われた、深い静けさだけ。
唇が耳元に触れ、名前を呼ばれる。
その声は遠く、海の底から聞こえるようで、不思議と何も揺さぶらなかった。
完全に抱え込まれ、深く繋がったまま――アランの心は、底に沈み切り、音も色もない場所で静かに横たわっていた。
暖炉の火がぱちりと鳴る音が、どこか遠くで聞こえる。
その音が、この閉ざされた世界にまで届くには、あまりにも厚い層が幾重にも覆いかぶさっていた。
レギュラスの腕は変わらぬ強さで彼女を抱き、交わった鼓動は律儀に同じ速さを刻んでいる。
けれどアランの内側では、その鼓動はもう何かを促す力を持ってはいなかった。
熱も、重さも、支配する手も――
すべては水の底に沈んで見える、ぼんやりとした光景のよう。
感触は確かにあるのに、心はそれを遠くから眺めているだけだった。
かすかな吐息や、耳元をかすめる声さえ、波の裏側から聞こえるように淡い。
それに応える必要も、拒む理由も、もうなかった。
赤い石が胸元で微かに揺れる。
その揺れに合わせて鎖のような感覚がじわりと広がる。
逃れられない、という事実さえ、この深さの中ではもう痛みを伴わなかった。
ただ――ここに留まっている。
浮かび上がる気配も、変わろうとする力もない。
近くで感じる彼の熱は、意識の外縁でただ灯として漂っている。
それは暖かいはずなのに、心までは燃やさない。
こうして時が流れても、自分はこの底に横たわったままだろう。
音も色も届かない静寂に、ただ沈んで。
毛布の中は、世界から切り離された小さな楽園だった。
暖炉の炎が揺らす赤い光が、布の隙間からわずかに滲み、彼女の輪郭をやわらかく包んでいる。
外の世界の音も色も、いまはここには存在しない。
あるのは、腕の中のこの人の息づかいだけだった。
レギュラスはその呼吸のリズムを、自分の胸と重ね合わせるように感じ取った。
鼓動が揃っている。
それだけで、深く安らぐ。
この鼓動が、もう自分以外の何者にも乱されない場所にあるのだと思えることが、胸の奥を温かな光で満たしてくれる。
彼女の体温は、すでに自分の熱と混ざり合い、境界が溶けていくようだった。
抵抗も、遠ざける影も、今は跡形もない。
腕の中に、そのすべてが収まっている。
胸元の赤い石が、わずかに揺れた。
その光が告げるのは誓いの重さだったが、レギュラスにとっては束縛ではなく、永遠の証だった。
彼女を守る枷であり、自分へと結び付ける絆そのもの。
それが今、確かに効力を持ちながらこの瞬間を閉じ込めている。
唇をわずかに離しても、まだ彼女の温もりと香りが呼吸に混じる。
その甘やかな残滓こそが、長い年月と数えきれない夜を越えて手に入れた、何よりの報いだと思えた。
――ようやくここまで来た。
長い間、遠くに感じたこともあった腕の中の存在が、今は自分を拒んでいない。
沈黙は、拒絶ではない。
自分を受け入れ、委ねていることの何よりの証。
その確信が、胸を満たし、視界を霞ませるほどの幸福を運んできた。
彼女を抱く腕に、自然と力がこもる。
「……アラン」
囁くと、わずかに揺れる黒髪が頬を掠めた。
その触れ心地と香りを、逃すまいとさらに引き寄せる。
この熱、この重なり、この沈黙すべてが、自分が長年求め続けた終着点だった。
炎の音が遠くでひそやかに響く。
その音さえ、祝福の拍手のように思えてならなかった。
今、彼は満たされていた。
すべてを手に入れたと、心の奥底から信じられるほどに。
アランの喉から零れる声が、すぐ傍の空気を震わせて耳に触れた。
そのひとつひとつが熱を帯びていて、まるで火花のように脳の奥で弾ける。
吐息は甘く湿った温度を持ち、鼓膜を焼くようにして体の芯へと落ちてくる。
耳から入ったその熱が、胸を貫き、背筋を駆け上がり、全身を揺らした。
鼓動が早まるというよりも、全身の血が一斉に打ち鳴らされる感覚。
彼女の声は、もはや音ではなかった。自分だけに向けられた生きた魔法のようだった。
ソファの上、アランの体は自由を奪われたように動きが小さい。
だが、それでも精一杯の力で自分の方へと抱き寄せ返してくる。
そのわずかな力が、何よりも確かな応えとして胸を熱くした。
腕を強く回し、ひとつの影になるようにその身体を包み込む。
背中の線、肩の温もり、胸の鼓動――すべてを密着させ、逃さない。
そして――深く、確かに繋がった瞬間。
吐息がひときわ大きく揺れ、彼女の指先が無意識に布を掴むのがわかった。
その反応が、自分の存在を全身で受け止めている証であり、たまらないほどの歓びとなった。
胸の奥で何度も確かめる。
この温もりは、言葉より真実だ。
繋がり合っているこの一瞬こそが、長い年月の渇きを満たす唯一の水源だった。
耳に残る嬌声と吐息の余韻。
それが重なり、混ざり合うごとに、レギュラスの中に幸福が膨らんでいく。
全身がその幸福で満たされ、体温がさらに上がっていくのが自分でも分かった。
――もう、この腕の中から離すことはない。
その確信が、歓びにさらなる甘さと深さを添えていた。
リビングのソファ。
ふと、もしも誰かが階下に降りてきたら――そんな現実的な考えが、ほんの刹那、頭を掠めた。
けれどそれは、すぐに温かい波の中に沈められるように消えていった。
今はただ、腕の中の存在に溺れている。
アランという名の熱に、手も、心も、何一つ抗う術を持たなかった。
アルコールのせいではない。
これは彼女自身が放つ熱で、全身を包み込み、呼吸まで満たしていくものだった。
重なった体から伝わる体温は、まるで自分の内側から沸き出しているように錯覚させる。
触れるたびに、熱が皮膚を超えて心まで染み込んでいく。
耳には、浅く震える彼女の呼吸と、時折零れる声が届く。
それらは小さな音でありながら、鼓膜を優しく叩き、身体の奥まで響かせる鈴のようだった。
喉には、彼女の吐息が触れ、温かく湿った風が震えを伴って流れ込む。
視界のすべては曇った赤と影、お互いの輪郭だけ。
そして指先に伝わるのは、柔らかくもしっかりとした温もりの感触。
耳も、喉も、目も、触れた皮膚も――全てが満たされていた。
どの感覚も心地よく、互いの境界が曖昧になっていく。
この世界には、彼女と自分以外は存在しない。
そう思えることが、何よりも甘美だった。
レギュラスはただ、その熱の中で目を閉じ、決して手放すつもりのない幸福に深く沈んでいった。
熱はもう、引き返すことを許さないところまで満ちていた。
思考よりも先に身体が動く。
彼女の髪をかき上げ、その首筋に唇を落とす。
触れるたび、わずかに震える反応が返り、それがさらに渇きを煽った。
自分がこの人を求める理由など、いまさら数える必要もない。
ただ、この瞬間を深く、長く味わい尽くしたかった。
アランは、何も言わなかった。
拒む言葉も、応える言葉も、すべて胸の奥に沈めたまま。
けれど体からは確かな温もりが伝わり、その沈黙すら、レギュラスには静かな受諾のように思えた。
腕の中の形があまりにも馴染んでいて、遠く失いそうになった日々の記憶が一瞬、脳裏をよぎる。
もう二度と、あの空虚には戻らない――そう誓うように、強く抱き寄せた。
暖炉の炎がひときわ大きく揺れて、影が壁いっぱいに広がった。
それはまるで二人をひとつの輪郭として描き出すかのようだった。
耳元で、彼女の浅い呼吸を感じる。
その速さに、自分の心臓も追いつこうと激しく打ち、胸いっぱいに熱を送り込む。
この夜が終わるまで、彼女のすべてを掌の中に留めておきたい――
ただその一心で、レギュラスはさらに深く、我を忘れて彼女を求め続けた。
熱が昂ぶりきったその時、レギュラスの中で何かが静かに弾けた。
全身を走り抜ける脈動が、胸の奥まで甘く痺れさせる。
耳の奥では、彼女の吐息と鼓動が重なり合い、まるでひとつの生き物になったかのように響いていた。
腕の中の重みは確かで、肌の温もりは寸分も疑いなく自分のものだ。
長い年月を費やして願い続けた光景が、いま目の前どころか全身に満ちている。
――もう、何も足りないものはない。
その確信が、胸いっぱいの幸福として広がっていった。
レギュラスはゆるやかに腕の力を緩め、けれど離すことはせず、彼女を包み込んだまま深く息を吐いた。
その吐息には安堵と満足が混ざり、目を閉じてもなお彼の内側にはこの幸福の残響が波打ち続けていた。
一方で、アランは静かだった。
深く乱れたはずの呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻し、視線は遠くの一点を見ているよう。
口元は穏やかに見えるが、その奥にあるものは読み取れない。
レギュラスには、ただ寄り添っているようにしか映らなかった。
沈黙も、言葉のなさも、拒絶ではなく委ねられている証だと信じた。
彼はそう思えることで、幸福をさらに確かなものとして抱え込む。
胸元の赤い石が、小さく震えて光を投げた。
その光は、彼にとっては永遠の誓いの輝きであり、アランにとっては解けない鎖の鈍い煌めきだった。
暖炉が静かに燃える中、二人はひとつの影となって揺れていた。
レギュラスはこの夜、この繋がり、この沈黙すべてを愛おしく思いながら――幸福の絶頂に、揺るぎなく留まっていた。
まだ外は淡い青を帯びた朝だった。
窓から差し込む光は柔らかく、昨夜の熱をすっかり溶かしてしまったかのように、リビングは静けさに包まれている。
レギュラスは毛布の中で、ゆっくりと呼吸を調えながら目を開けた。
ソファの脇には小さなテーブル、その向こうにはまだ眠るアランの横顔。
わずかに乱れた髪が頬にかかり、静かな寝息と共に胸も規則正しく上下している。
階段から足音が下りてくる気配に耳が動いた。
視線を向けると、アルタイルが姿を現す。
そして、ソファに並ぶ父と母の姿を目にした瞬間、彼の瞳が小さく見開かれた。
驚きと動揺が、言葉より早く顔にあらわれる。
レギュラスもまた、その反応に一瞬、バツの悪さが胸に走った。
口端にわずかな苦笑を浮かべながら、人差し指を唇に添える。
静かに――言葉ではなく仕草で、「この場は黙って通り過ぎろ」と伝える。
アルタイルは息を呑み、視線を逸らすと、音を立てないようにゆっくりと通り過ぎていった。
階段の上からは、やがて来るであろう使用人たちの支度の気配が微かに聞こえてくる。
――その前に、アランを起こしてやらなければ。
そう思い、レギュラスは隣の彼女へと身を傾けた。
「……アラン、アラン」
低く優しい声で呼びかけながら、肩をそっと揺さぶる。
長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
ぼんやりとした視線が自分をとらえ、次の瞬間には状況を察したらしい。
アランの頬がわずかに朱を帯び、目を伏せる。
毛布をきゅっと肩まで引き寄せ、そのまま身を包み込むように立ち上がる。
階段へと足を向け、視線を交わすことなく静かに登っていく後ろ姿。
レギュラスはその背を見送りながら、胸の奥に未だ温もりの輪郭を感じていた。
柔らかな朝の光の中で、夜と朝の境目が、静かにほどけていった。
階段を登り切ると、アランは足音をできるだけ忍ばせながら自室の扉を閉めた。
背を扉にもたせかけ、ひとつ、深く息を吐く。
頬の熱はまだ引かず、指先まで薄く火照っているのがわかる。
毛布を畳み、椅子の背に置くと、鏡台の前に腰を下ろした。
鏡の中の自分は、昨夜の影をまだ微かにまとっている。
乱れた髪を櫛で整えながら、一つひとつの動作を落ち着いて見せようと心を押さえる。
窓からは、庭に差し込む明るい朝日が差し込み、部屋いっぱいに淡い光が広がっている。
それはまるで、夜の出来事を飲み込むように、静かに全てを洗い流そうとしているようだった。
ドアの外から、使用人たちの足音や小さな話し声が近づいてくる。
もうすぐ、一日の営みが本格的に始まる。
アランは鏡越しに自分へ微笑みを作り、口角をほんの少しだけ上げた。
その笑みは、内側の何も映さない――磨き込まれた硝子細工のような笑み。
「おはようございます」
部屋に入ってきた侍女に、いつも通りの平穏な声を投げる。
その声音にも、顔色にも、一片の乱れも見せない。
誰にも昨夜のことを悟らせずに――
そう決めた仮面を今日も変わらず身に着ける。
日常の波にすぐに溶け込んでいくために。
その言葉の重みが、夜気よりも濃く胸に沈んでいった。
それは約束でも願いでもなく、ほとんど宣告のように響いた。
アランは視線を逸らそうとしたが、頬に添えられた指がそれを許さない。
黒い瞳が、まるで逃げ道を塞ぐように真正面から射抜いてくる。
頭の奥で、言葉にできない感情が絡まり合う。
反発すれば、もっと深く拘束される気がする。
沈黙を貫けば、それは肯定にも似た形で相手に届いてしまう。
胸の奥で微かなざわめきが広がる。
その揺らぎを敏感に察したのか、レギュラスの指先が頬から顎へとゆっくり滑り落ち、そのまま顔を持ち上げた。
「……全部、渡してください」
耳元で低く囁く声が、熱を伴って肌を撫でる。
アランは唇を開きかけて、結局言葉を飲み込んだ。
その沈黙さえ、彼は確信に変えてしまうだろう。
胸元の赤い石が、心臓の鼓動に合わせて微かに揺れた。
その揺れが、まるで「もう逃れられない」と告げているように思えてならなかった。
レギュラスはゆるく微笑む。
その笑みには、安堵と所有の感情がないまぜになり、どこまでも深い影を落としていた。
レギュラスの視線は、ゆっくりと深く沈んでいった。
それは探るためではなく、すでに答えを得た者の眼だった。
彼の中でアランの沈黙は、迷いながらも差し出された承諾として形を成してしまっている。
顎に添えていた指が、そっと頬へと戻り、そのまま髪を耳の後ろに滑らせる。
細い髪に触れるたび、指先の熱が伝わり、アランの背筋がわずかに震えた。
「……ありがとう」
ほとんど息のような声が落ちた。
その声に込められていたのは、感謝よりも安堵、そして確かな所有の響きだった。
レギュラスはゆっくりと距離を詰め、唇がまた触れる。
先ほどよりも浅く、しかし逃げ場を奪うための確かさを持った口づけ。
触れた瞬間、その熱が静かに深く押し込まれてくる。
アランは瞬きを忘れ、ただ視界いっぱいの影を見上げる。
胸元の赤い石が、二人の間でかすかに揺れ光を返した。
その光は、誓いという名の鎖のように、互いを結びつけて離さない。
唇が離れたとき、レギュラスは穏やかに微笑んだ。
「……もう、何も隠さなくていい」
その言葉が、さらなる鎖の一環として、アランの胸に静かに巻きついていく。
その声は柔らかく、穏やかだった。
けれどアランの胸には、さらに一重、静かな鎖が巻き付いた感覚が広がっていく。
――隠さなくていい、だなんて。
心の奥にあるものは、あなただけには見せられない。
たとえ口にしなくても、その思いだけは最後まで護り抜く。
レギュラスの手が、静かにアランの片手を取った。
指と指が絡み、逃げ道を塞ぐ。
引き寄せられるその力に、抗わなかったのは、抗えばさらに強く締められると分かっているからだった。
ベランダから室内へと歩みを進めると、暖かな灯が二人を包む。
その灯の色が、やけに濃く、深い影までも一緒に生み出しているように見えた。
「……疲れているでしょう。休みましょう」
低い声が背後からかかる。
その声音には、優しさと同じくらい揺るぎない支配の色が混ざっていた。
レギュラスは椅子に置かれた毛布を手に取り、アランの肩へ掛ける。
その仕草は甘やかすようでいて、同時に囲い込むための布のように思えた。
胸元の赤い石が、また微かに揺れる。
それは彼の魔力と血が刻まれた証――逃れることのできない印。
アランは、微笑を浮かべた。
それは受け入れの笑みではなく、心中のどこにも触れさせない硝子の仮面。
その仮面の奥で、唯一自由なものは、未だ誰にも触れられない深い闇の想いだけだった。
毛布の柔らかさが肩を包むと、外気の冷たさが遠のき、かわりに室内の空気が濃く感じられた。
暖炉の火が静かに揺れていて、その赤い光が壁やカーテンを温かな色で染める。
だがアランの中では、その温もりは皮膚の表面だけに留まり、心の奥までは届かない。
レギュラスはアランの手を離さず、そのままソファへと導いた。
腰を下ろす動作ひとつにも、彼の魔力のような確固とした存在感が付きまとっている。
「……こんなふうに、ゆっくり過ごすのは久しぶりですね」
レギュラスの声はあくまでも穏やかで、柔らかく低い。
アランは微笑み返しながらも、心中では言葉に膜を張るように距離を置いていた。
テーブルに置かれたワイングラスの底には、まだわずかな紅が残っている。
視線をそこに落とすと、先ほどの口付けが舌に蘇り、酸味と涙の味が混ざり合った記憶が胸を刺した。
レギュラスはそんな彼女の視線を追い、グラスを手にして差し出す。
「……続きを」
その動作すら、ただの勧めではなく、静かな命令のように響く。
グラスを受け取り、アランは口元に微笑を残したまま一口だけ含んだ。
だが喉を通る味よりも、すぐ隣に座る男の体温と視線の方が、ずっと鮮明に感じられる。
胸元の赤い石が、またふと揺れた。
その振動が、心臓の鼓動と奇妙に同調していることに気づき、アランは視線を床へ落とした。
「あたたかいですね」
レギュラスの言葉は小さく、しかし耳の奥に深く残る。
その温かさが、どこまでも自分を包み隠してしまいそうで――アランは笑みの奥で、密かに息を詰めた。
毛布の内側は、わずかな動きすら熱を孕むほど狭い。
静かな暖炉の炎が、二人の影を壁に揺らし、赤く長く伸ばしていた。
レギュラスはゆっくりと体を傾け、アランとの間のわずかな隙間を埋める。
肩が触れ、毛布ごと包み込むように片腕が彼女の背を回った。
「……こうしていると、外の世界の音がすべて消えますね」
低い囁きが、耳元で暖を帯びて溶ける。
毛布の中に閉じ込められた空気は、やわらかく、しかし逃げ道のない熱を持っていた。
アランは呼吸を静かに整えようとするが、胸元で微かに揺れる赤い石が、脈動のように存在を主張する。
この石に刻まれた「血の誓い」の意味を知るからこそ、その温もりはただの飾りに思えなかった。
守るための鎖であり、同時に決して解かれない契約の印。
「……あなたが、ここにいるとわかると、それだけで安心します」
レギュラスの声は、言葉そのものよりも、その下に流れる本音――強い執着が耳の奥を満たした。
毛布に包まれ、外の世界が遠くなっていく。
暖炉の火がまたひとつ弾け、小さな音を立てた。
アランは静かに顔を上げたが、その微笑は相変わらず硝子の仮面のままだった。
それでも、レギュラスはその笑みの奥に何かを見たと信じ、さらにわずかに身を寄せた。
二人の影は、重なり合ったまま、灯の揺らぎの中で長くひとつになって伸びていった。
毛布の内側は、たった二人のためだけの小さな部屋のようだった。
外の空気も、暖炉の燃える音すらも遠のいて、耳に届くのは互いの呼吸だけ。
レギュラスの片腕が、アランの肩から背中へと深く回る。
引き寄せられた体温が、布越しではなく直に肌を通して広がっていく。
「……アラン」
名前を呼ぶ声が低く沈み、その響きに胸の奥がわずかに震えた。
すぐ近くで、彼の吐息が頬をかすめる。
視線が重なり合い、もう逃げ道はどこにもなかった。
毛布が小さく擦れる音と同時に、唇がそっと触れる。
最初は羽のように軽く――けれど、一度触れた瞬間に熱が流れ込み、逃さない深さへと変わっていく。
耳の奥で脈打つ音が、唇から胸へ、そして全身へと広がった。
ワインの残り香と、暖炉の熱、そして彼の呼吸が混ざり合い、毛布の中はただ一色の熱に染まっていく。
その世界には、自分と彼以外の何者も存在しない――そう錯覚させるほどに、距離は近く、密やかだった。
唇を離すたびに、ごく短い息が触れ合い、また引き寄せられる。
毛布の内側で交わされる口づけは、まるで外界から隔絶された契約のように、重く強く、そして静かに続いていた。
唇が重なったまま、次第に呼吸の間隔が短くなっていく。
触れ合うだけだった口付けは、気づけば深く熱を帯び、舌先が静かに絡み合った。
背中へ回されたレギュラスの手が、ゆっくりと布越しに形をなぞる。
輪郭を確かめるように、肩から腰にかけて深く滑り降り、引き寄せる力は次第に強くなっていく。
指先が毛布の内側へ入り込み、服の上から腰骨のあたりを捉える。
その温かさに、アランの胸の奥が一瞬きゅっと縮まり、同時に呼吸が乱れた。
毛布の裾がわずかにずれ、二人の距離はさらに狭まる。
レギュラスの片手は背から腰へ、もう一方の手は頬に触れたまま、口付けを決して途切れさせない。
唇から舌へ、そして喉の奥へと、まるで想いそのものを流し込むようだった。
暖炉の熱と、至近距離の体温が入り混じり、毛布の中は息苦しいほどに甘く湿った空気で満たされる。
唇が離れる瞬間にも、指は動きを止めない。
背筋を撫で、肩甲骨を辿り、服越しに温もりを刻み込む。
アランは目を閉じ、逃げ場を失った狭い世界に自分自身を押し込める。
レギュラスの手と口づけは、確かな鎖となって彼女を縛り、外のどんな光も届かない深さへと引き込んでいった。
レギュラスの唇は離れきらぬまま、喉元や頬へと軌跡を描き、再び口元に戻って重なる。
その度ごとに、毛布の中のわずかな空気がゆらぎ、甘く湿った温度が二人をさらに包み込む。
腰に添えられていた掌が、やがて脇腹を辿り、胸の近くへとゆっくり移動する。
布越しの指がそこに触れると、アランの身体は小さく反応し、毛布の中でわずかに身をよじった。
「……逃げないで」
耳元に落とされた低い声が、熱の中で微かに震えを誘う。
同時に、毛布の裾から忍び込む指先が、衣服と肌の境目を探り当てる。
ひやりとした空気が一瞬だけ入り込み、すぐに彼の掌の熱にかき消される。
ブラウスの留め具が、ゆっくりと、しかし迷いなく外れていく。
金具の小さな音が、毛布の中でやけに大きく響いた。
視界は暗く狭い。
炎の赤が布地を透かし、ぼんやりとした光が輪郭を際立たせる。
そこにあるのは彼の影と、逃さぬよう絡みつく腕だけ。
レギュラスの唇が鎖骨に触れ、熱の筋を残しながらさらに下へと進む。
指先は背中を撫で、布を滑らせて、肌に直接触れる範囲を広げていく。
アランは目を閉じた。
熱と触覚と、彼の魔力の気配が全身を覆い尽くし、思考の置き場がなくなっていく。
呼吸は浅く速くなり、胸元の赤い石が鼓動に合わせて小さく震えていた。
その震えが、この鎖は決して解けないのだと囁いているようで――
逃れたい思いと、覆い尽くす熱の狭間で、アランの心は沈み込んでいった。
毛布の内側は、もう外界とは別の世界になっていた。
暗く、狭く、そして逃げ道のない熱に充ちている。
肌に触れるたび、彼の掌はためらいを見せず、確かな軌道で温もりを刻み込んでくる。
外された衣服が布の中でずり落ち、素肌に炎の赤が滲む。
その光は揺れながら、アランの輪郭をゆっくりと浮かび上がらせ、レギュラスの瞳を深く染めた。
唇が胸元に触れると、赤い石がそのすぐ傍で微かに揺れた。
その震えは、自分の鼓動と一体となり、鎖の音のように耳の奥で響く。
指先が背の曲線をたどり、腰へと滑り降りる。
その動作ひとつひとつが、奪うためではなく「自分のものだと確かめるため」に行われているのが、痛いほど分かった。
「……アラン」
囁きは穏やかで、けれど力強く心を縫い止める響きを持っていた。
抵抗のために動くべき手は、もう力をなくしている。
毛布越しに包まれた二人は、深く絡み合う影の中で、呼吸と鼓動さえ共有していた。
視界を閉ざしても、彼の魔力と体温は全ての感覚を支配する。
背中を辿る手が、腰の奥で止まり、そのまま引き寄せる力は逃れようのないほど強い。
胸元から溢れる熱が全身を巡り、もはや自分の境界線は曖昧になっていた。
毛布の下、二人を隔てるものはほとんどなくなり――
アランはその狭く暗い熱の世界で、完全にレギュラスの腕の中へ沈み込んでいった。
まるで熱に閉ざされた深い海のようだった。
息を吸っても胸の中には彼の体温しか残らない。
肌と肌がどこまで触れているのか、自分でももう正確には分からなかった。
動きはゆっくりで、しかし一歩ずつ確実に奥へと沈められていく。
触れられるたびに境界線は溶け、確かにあったはずの「自分」と「彼」の区別が淡く滲んでいく。
鼓動は赤い石を介して二人の胸でひとつになり、内側からじんじんと響いた。
その振動は鎖の音にも似て、抜け出せないことを教え続ける。
レギュラスの動きは深まり、全てを覆うように重なっていく。
どこにも逃げ場がなく、どこにも光は届かない。
それなのに、なぜか恐怖はなく、ただ重く静かな圧が心の底へ降りてきた。
――もう、いい。
そんな諦めにも似た声が、内側で小さく響いた。
抵抗の意志は、波に飲まれた泡のように形を失っていた。
それでも恨みも悲しみも消えたわけではない。
残ったのは、それを燃やす力すら奪われた、深い静けさだけ。
唇が耳元に触れ、名前を呼ばれる。
その声は遠く、海の底から聞こえるようで、不思議と何も揺さぶらなかった。
完全に抱え込まれ、深く繋がったまま――アランの心は、底に沈み切り、音も色もない場所で静かに横たわっていた。
暖炉の火がぱちりと鳴る音が、どこか遠くで聞こえる。
その音が、この閉ざされた世界にまで届くには、あまりにも厚い層が幾重にも覆いかぶさっていた。
レギュラスの腕は変わらぬ強さで彼女を抱き、交わった鼓動は律儀に同じ速さを刻んでいる。
けれどアランの内側では、その鼓動はもう何かを促す力を持ってはいなかった。
熱も、重さも、支配する手も――
すべては水の底に沈んで見える、ぼんやりとした光景のよう。
感触は確かにあるのに、心はそれを遠くから眺めているだけだった。
かすかな吐息や、耳元をかすめる声さえ、波の裏側から聞こえるように淡い。
それに応える必要も、拒む理由も、もうなかった。
赤い石が胸元で微かに揺れる。
その揺れに合わせて鎖のような感覚がじわりと広がる。
逃れられない、という事実さえ、この深さの中ではもう痛みを伴わなかった。
ただ――ここに留まっている。
浮かび上がる気配も、変わろうとする力もない。
近くで感じる彼の熱は、意識の外縁でただ灯として漂っている。
それは暖かいはずなのに、心までは燃やさない。
こうして時が流れても、自分はこの底に横たわったままだろう。
音も色も届かない静寂に、ただ沈んで。
毛布の中は、世界から切り離された小さな楽園だった。
暖炉の炎が揺らす赤い光が、布の隙間からわずかに滲み、彼女の輪郭をやわらかく包んでいる。
外の世界の音も色も、いまはここには存在しない。
あるのは、腕の中のこの人の息づかいだけだった。
レギュラスはその呼吸のリズムを、自分の胸と重ね合わせるように感じ取った。
鼓動が揃っている。
それだけで、深く安らぐ。
この鼓動が、もう自分以外の何者にも乱されない場所にあるのだと思えることが、胸の奥を温かな光で満たしてくれる。
彼女の体温は、すでに自分の熱と混ざり合い、境界が溶けていくようだった。
抵抗も、遠ざける影も、今は跡形もない。
腕の中に、そのすべてが収まっている。
胸元の赤い石が、わずかに揺れた。
その光が告げるのは誓いの重さだったが、レギュラスにとっては束縛ではなく、永遠の証だった。
彼女を守る枷であり、自分へと結び付ける絆そのもの。
それが今、確かに効力を持ちながらこの瞬間を閉じ込めている。
唇をわずかに離しても、まだ彼女の温もりと香りが呼吸に混じる。
その甘やかな残滓こそが、長い年月と数えきれない夜を越えて手に入れた、何よりの報いだと思えた。
――ようやくここまで来た。
長い間、遠くに感じたこともあった腕の中の存在が、今は自分を拒んでいない。
沈黙は、拒絶ではない。
自分を受け入れ、委ねていることの何よりの証。
その確信が、胸を満たし、視界を霞ませるほどの幸福を運んできた。
彼女を抱く腕に、自然と力がこもる。
「……アラン」
囁くと、わずかに揺れる黒髪が頬を掠めた。
その触れ心地と香りを、逃すまいとさらに引き寄せる。
この熱、この重なり、この沈黙すべてが、自分が長年求め続けた終着点だった。
炎の音が遠くでひそやかに響く。
その音さえ、祝福の拍手のように思えてならなかった。
今、彼は満たされていた。
すべてを手に入れたと、心の奥底から信じられるほどに。
アランの喉から零れる声が、すぐ傍の空気を震わせて耳に触れた。
そのひとつひとつが熱を帯びていて、まるで火花のように脳の奥で弾ける。
吐息は甘く湿った温度を持ち、鼓膜を焼くようにして体の芯へと落ちてくる。
耳から入ったその熱が、胸を貫き、背筋を駆け上がり、全身を揺らした。
鼓動が早まるというよりも、全身の血が一斉に打ち鳴らされる感覚。
彼女の声は、もはや音ではなかった。自分だけに向けられた生きた魔法のようだった。
ソファの上、アランの体は自由を奪われたように動きが小さい。
だが、それでも精一杯の力で自分の方へと抱き寄せ返してくる。
そのわずかな力が、何よりも確かな応えとして胸を熱くした。
腕を強く回し、ひとつの影になるようにその身体を包み込む。
背中の線、肩の温もり、胸の鼓動――すべてを密着させ、逃さない。
そして――深く、確かに繋がった瞬間。
吐息がひときわ大きく揺れ、彼女の指先が無意識に布を掴むのがわかった。
その反応が、自分の存在を全身で受け止めている証であり、たまらないほどの歓びとなった。
胸の奥で何度も確かめる。
この温もりは、言葉より真実だ。
繋がり合っているこの一瞬こそが、長い年月の渇きを満たす唯一の水源だった。
耳に残る嬌声と吐息の余韻。
それが重なり、混ざり合うごとに、レギュラスの中に幸福が膨らんでいく。
全身がその幸福で満たされ、体温がさらに上がっていくのが自分でも分かった。
――もう、この腕の中から離すことはない。
その確信が、歓びにさらなる甘さと深さを添えていた。
リビングのソファ。
ふと、もしも誰かが階下に降りてきたら――そんな現実的な考えが、ほんの刹那、頭を掠めた。
けれどそれは、すぐに温かい波の中に沈められるように消えていった。
今はただ、腕の中の存在に溺れている。
アランという名の熱に、手も、心も、何一つ抗う術を持たなかった。
アルコールのせいではない。
これは彼女自身が放つ熱で、全身を包み込み、呼吸まで満たしていくものだった。
重なった体から伝わる体温は、まるで自分の内側から沸き出しているように錯覚させる。
触れるたびに、熱が皮膚を超えて心まで染み込んでいく。
耳には、浅く震える彼女の呼吸と、時折零れる声が届く。
それらは小さな音でありながら、鼓膜を優しく叩き、身体の奥まで響かせる鈴のようだった。
喉には、彼女の吐息が触れ、温かく湿った風が震えを伴って流れ込む。
視界のすべては曇った赤と影、お互いの輪郭だけ。
そして指先に伝わるのは、柔らかくもしっかりとした温もりの感触。
耳も、喉も、目も、触れた皮膚も――全てが満たされていた。
どの感覚も心地よく、互いの境界が曖昧になっていく。
この世界には、彼女と自分以外は存在しない。
そう思えることが、何よりも甘美だった。
レギュラスはただ、その熱の中で目を閉じ、決して手放すつもりのない幸福に深く沈んでいった。
熱はもう、引き返すことを許さないところまで満ちていた。
思考よりも先に身体が動く。
彼女の髪をかき上げ、その首筋に唇を落とす。
触れるたび、わずかに震える反応が返り、それがさらに渇きを煽った。
自分がこの人を求める理由など、いまさら数える必要もない。
ただ、この瞬間を深く、長く味わい尽くしたかった。
アランは、何も言わなかった。
拒む言葉も、応える言葉も、すべて胸の奥に沈めたまま。
けれど体からは確かな温もりが伝わり、その沈黙すら、レギュラスには静かな受諾のように思えた。
腕の中の形があまりにも馴染んでいて、遠く失いそうになった日々の記憶が一瞬、脳裏をよぎる。
もう二度と、あの空虚には戻らない――そう誓うように、強く抱き寄せた。
暖炉の炎がひときわ大きく揺れて、影が壁いっぱいに広がった。
それはまるで二人をひとつの輪郭として描き出すかのようだった。
耳元で、彼女の浅い呼吸を感じる。
その速さに、自分の心臓も追いつこうと激しく打ち、胸いっぱいに熱を送り込む。
この夜が終わるまで、彼女のすべてを掌の中に留めておきたい――
ただその一心で、レギュラスはさらに深く、我を忘れて彼女を求め続けた。
熱が昂ぶりきったその時、レギュラスの中で何かが静かに弾けた。
全身を走り抜ける脈動が、胸の奥まで甘く痺れさせる。
耳の奥では、彼女の吐息と鼓動が重なり合い、まるでひとつの生き物になったかのように響いていた。
腕の中の重みは確かで、肌の温もりは寸分も疑いなく自分のものだ。
長い年月を費やして願い続けた光景が、いま目の前どころか全身に満ちている。
――もう、何も足りないものはない。
その確信が、胸いっぱいの幸福として広がっていった。
レギュラスはゆるやかに腕の力を緩め、けれど離すことはせず、彼女を包み込んだまま深く息を吐いた。
その吐息には安堵と満足が混ざり、目を閉じてもなお彼の内側にはこの幸福の残響が波打ち続けていた。
一方で、アランは静かだった。
深く乱れたはずの呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻し、視線は遠くの一点を見ているよう。
口元は穏やかに見えるが、その奥にあるものは読み取れない。
レギュラスには、ただ寄り添っているようにしか映らなかった。
沈黙も、言葉のなさも、拒絶ではなく委ねられている証だと信じた。
彼はそう思えることで、幸福をさらに確かなものとして抱え込む。
胸元の赤い石が、小さく震えて光を投げた。
その光は、彼にとっては永遠の誓いの輝きであり、アランにとっては解けない鎖の鈍い煌めきだった。
暖炉が静かに燃える中、二人はひとつの影となって揺れていた。
レギュラスはこの夜、この繋がり、この沈黙すべてを愛おしく思いながら――幸福の絶頂に、揺るぎなく留まっていた。
まだ外は淡い青を帯びた朝だった。
窓から差し込む光は柔らかく、昨夜の熱をすっかり溶かしてしまったかのように、リビングは静けさに包まれている。
レギュラスは毛布の中で、ゆっくりと呼吸を調えながら目を開けた。
ソファの脇には小さなテーブル、その向こうにはまだ眠るアランの横顔。
わずかに乱れた髪が頬にかかり、静かな寝息と共に胸も規則正しく上下している。
階段から足音が下りてくる気配に耳が動いた。
視線を向けると、アルタイルが姿を現す。
そして、ソファに並ぶ父と母の姿を目にした瞬間、彼の瞳が小さく見開かれた。
驚きと動揺が、言葉より早く顔にあらわれる。
レギュラスもまた、その反応に一瞬、バツの悪さが胸に走った。
口端にわずかな苦笑を浮かべながら、人差し指を唇に添える。
静かに――言葉ではなく仕草で、「この場は黙って通り過ぎろ」と伝える。
アルタイルは息を呑み、視線を逸らすと、音を立てないようにゆっくりと通り過ぎていった。
階段の上からは、やがて来るであろう使用人たちの支度の気配が微かに聞こえてくる。
――その前に、アランを起こしてやらなければ。
そう思い、レギュラスは隣の彼女へと身を傾けた。
「……アラン、アラン」
低く優しい声で呼びかけながら、肩をそっと揺さぶる。
長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
ぼんやりとした視線が自分をとらえ、次の瞬間には状況を察したらしい。
アランの頬がわずかに朱を帯び、目を伏せる。
毛布をきゅっと肩まで引き寄せ、そのまま身を包み込むように立ち上がる。
階段へと足を向け、視線を交わすことなく静かに登っていく後ろ姿。
レギュラスはその背を見送りながら、胸の奥に未だ温もりの輪郭を感じていた。
柔らかな朝の光の中で、夜と朝の境目が、静かにほどけていった。
階段を登り切ると、アランは足音をできるだけ忍ばせながら自室の扉を閉めた。
背を扉にもたせかけ、ひとつ、深く息を吐く。
頬の熱はまだ引かず、指先まで薄く火照っているのがわかる。
毛布を畳み、椅子の背に置くと、鏡台の前に腰を下ろした。
鏡の中の自分は、昨夜の影をまだ微かにまとっている。
乱れた髪を櫛で整えながら、一つひとつの動作を落ち着いて見せようと心を押さえる。
窓からは、庭に差し込む明るい朝日が差し込み、部屋いっぱいに淡い光が広がっている。
それはまるで、夜の出来事を飲み込むように、静かに全てを洗い流そうとしているようだった。
ドアの外から、使用人たちの足音や小さな話し声が近づいてくる。
もうすぐ、一日の営みが本格的に始まる。
アランは鏡越しに自分へ微笑みを作り、口角をほんの少しだけ上げた。
その笑みは、内側の何も映さない――磨き込まれた硝子細工のような笑み。
「おはようございます」
部屋に入ってきた侍女に、いつも通りの平穏な声を投げる。
その声音にも、顔色にも、一片の乱れも見せない。
誰にも昨夜のことを悟らせずに――
そう決めた仮面を今日も変わらず身に着ける。
日常の波にすぐに溶け込んでいくために。
