5章
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まだ夜の色が残る廊下に、かすかな足音が響いた。
玄関ではない――この階に上がる軽くも重い、わずかに引きずるような足音。
アランは、その音でレギュラスの帰宅を察した。
反射のように、身構えて体を起こす。
布団の中に留まるという選択肢は浮かばなかった。
昨夜の記憶が、まだ胸の奥に硬い石のように沈んでいる。
扉がゆっくりと開き、レギュラスが入ってきた。
疲れ切った顔。
任務の重さも、夜通しの冷たい空気も、まだその輪郭のまわりに纏わりついているように見える。
けれど――駆け寄ってローブを預かってやるなどという気持ちは、ひとかけらも湧かなかった。
視線を合わせようとも思わなかった。
「……戻りました」
落ちた声量。
それは自分に向けられたものだとわかる。
アランは答えない。
あれほど強く拒絶したはずなのに、この男は、なお自分の隣に来ようとしている。
その事実が、理解を超えていた。
「……隣に行ってもいいです?」
その問いも、応えを待たずして行動に移される。
よろよろとした足取りでベッドへ近づき、淵に腰掛ける。
ローブの裾が床の上で静かに揺れた。
夫婦の寝室とは違い、この自室は狭い。
横に座られれば、距離があまりにも近い。
寒くもないのに、空気が肌に刺さるように冷たく感じられる。
柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込むと、白い光の中に沈黙だけが立ち上っていた。
レギュラスの手が、ゆっくりとアランの頬へ伸びてきた。
その一瞬で、胸の奥がきしむ――
これはシリウスを殺そうとした手だ。
あの日、自分にシリウスの死を見せつけようとした男の手。
触れられただけで、心臓が鋭く悲鳴を上げそうになる。
長い指先が頬を滑り、触れる。
冷たくも熱くもない体温だけが、余計に生々しく感じられた。
やがて、その指が唇の輪郭をなぞる。
指腹が軽く押しあてられ、官能を宿したはずのその仕草は、アランには耐えがたい不快さを伴った。
血が逆流するような、どうしようもない拒否反応が走る。
次の瞬間――
思い切り、その指を噛んだ。
骨の形を感じるほどの強さで歯を立てると、レギュラスの顔が苦痛に歪み、反射的に指を引き抜いた。
薄暗い光の中で、その指先にはわずかに血が滲んでいた。
レギュラスは面持ちを変えず、ゆっくりとその指を唇へ運び、舌で血を拭い去る。
その仕草は簡易的な止血――それ以上でも以下でもない。
「……痛いじゃないですか」
穏やかに告げられた声。
アランは唇を押し結び、言葉を飲み込む。
――痛いのはこちらの心だと言い返したかった。
痛いのは、指先の数ミリの傷ではない。
シリウス・ブラックの死を見せつけられた、この胸の奥の裂け目なのだ。
「……アラン……お願いです……そんなに……拒まないでください」
唐突に、レギュラスの声色が変わった。
棘も、圧も、一片たりともない。
ただ、ひたすらに祈るような響きだけがあった。
その純度に、胸の奥がかすかに揺れる。
憎しみと拒絶の中に、ほんの一滴だけ別の色が落とされたように。
アランは自分でもわからなかった――なぜ、この声だけが、心の深いところに届いてしまうのか。
沈黙の中、互いの呼吸だけが近くで交わっていた。
唇が触れる寸前、わずかに強張ったアランの肩。
それでも――その微細な空気の揺れを、レギュラスは隙だと感じ取った。
短く息を吸い、ためらいもなく距離を詰める。
顎を支える指先にわずかに力を足すと、翡翠色の瞳がわずかに見開かれ、抗う前に視界いっぱいに彼の影が覆った。
唇が重なった。
最初の一瞬は硬く閉ざされていたアランの口元も、力の差で押し開かれ、息が混じる。
体温と呼吸と、長年知っていたはずの匂い――
それらが一気に押し寄せ、アランの脳裏に拒絶の赤い警鐘と、混乱した鼓動が同時に響いた。
マットレスは浅く沈み、狭い部屋にふたりの衣擦れの音がやけに大きく流れる。
アランの両手首は逃げ道を断たれる位置で押さえられ、僅かな身動きすら許されない。
レギュラスは唇を離さない。
その圧は求愛ではなく、所有を宣言するような強さを帯びていた。
触れ合うたびに「あなたは私のものだ」という言葉なき意志が込み上げ、その熱がアランの胸の奥底まで押し込まれる。
アランの背筋に冷たい戦慄が走る。
だが、それ以上に、腕の下で早まっていく自分の鼓動が憎らしかった。
ほんの一瞬の揺らぎが、こうして奪われる形で現実になってしまった――
その悔しさが、唇の裏で震えていた。
アランは閉じ込められた両手首に力を込めた。
肩から背中へとかけて、全身の筋肉が反射のように強張る。
胸の奥に、押しつぶされるような圧迫感と、込みあがる怒りが膨れ上がった。
「――やめて!」
渾身の力で上半身をひねる。
ベッドマットが大きく軋み、レギュラスの体がわずかに浮いたその一瞬を突いて、腕を振りほどいた。
押し返されたレギュラスは半歩下がり、荒く肩で息をする。
その黒い瞳には驚きと、抑えきれない苛立ちが混ざっていたが、もうそれを言葉に変えようとはしなかった。
アランは乱れた呼吸を整えようとしながら、弾かれたように距離を取る。
指先で唇を触れると、じんわりとそこに残る熱が腹立たしいほど鮮明だった。
その熱をどうにか消したくて、視線を窓の外へと逃がす。
冬の朝の光が白く差し込み、室内は静まり返る。
だが、その静寂は安らぎではなく、二人の間に広がった深い断絶の証のようだった。
レギュラスはしばらく何も言わず、アランの横顔を見つめていた。
その視線は、支配と愛情と執着とが混ざり合った、複雑な色を帯びている。
アランはそれを感じながらも、顔を決して向けない。
ただ、冷たく固まった心を守るように、両腕を抱き寄せた。
今はもう、何も触れさせない――それが全身で示す唯一の答えだった。
レギュラスは、突き放された体勢のまましばし黙っていた。
その沈黙の奥で、視線だけが獲物を追う獣のようにアランから離れない。
アランの横顔は硬く閉ざされ、腕を抱き込み、これ以上一歩も踏み込ませまいと全身で訴えていた。
だが、レギュラスはその壁を崩す術を探すように、ゆっくり息を吐いた。
「……怒っているのは、分かっています」
低く落ちた声が、静まり返った空気に溶ける。
「でも……それでも、あなたのそばにいたいんです」
アランは答えない。
それでもレギュラスは歩を進め、小さな部屋の中で距離を詰める。
わずか数歩で、また影がアランを包み込むほど近づいた。
ベッドの上に腰掛ける彼女の前に膝をつき、視線の高さを合わせる。
「どんなに拒まれても、僕は……あなたを手放しません」
その言葉に脅しの色はなく、囁きのような静けさだけがあった。
指先が、彼女の膝の上に置かれた拳にそっと触れる。
逃げ道を塞ぐでもなく、けれど確かに存在を刻む触れ方。
「……嫌なら、嫌だと言ってくれて構いません」
そう言いながらも、その声には諦めを許さない固さが潜んでいた。
アランの胸の奥がざわめく。
怖いのは、拒絶の言葉を放ってもなお、この男が引き下がらないと分かっていることだった。
レギュラスは翡翠色の瞳を真正面から覗き込み、
「――それでも、僕はあなたの夫です」
と、ごく静かに告げた。
その一言が、距離をさらに狭めていた。
アランの胸の奥が、ぎゅっと縮む。
至近距離から放たれた「私はあなたの夫です」という静かな一言が、肌を通して刺し込まれるようだった。
呼吸が浅くなる。
肺の奥へ空気がうまく入っていかない。
喉の奥に硬い塊がつかえてしまったように、言葉が出ない――いや、出せなかった。
沈黙が、部屋の中に滞る。
答えを求めているはずのレギュラスも、その瞬間だけは何も言わず、ただ彼女の瞳を覗き込んでいる。
翡翠色の光が揺れ、そこに複雑な影が落ちていた。
拒絶の言葉を突きつけたい。
けれど、声を発した途端、この男がさらにその隙間を押し広げて入り込んでくる――そう分かっているから、喉が閉ざされる。
握り締めた拳の上に置かれたレギュラスの指先の重みが、やけに鮮明に存在を主張する。
その感触から逃れたいのに、身体が強張って動けなかった。
息が詰まり、鼓動の音だけが耳の奥で大きく鳴る。
沈黙は拒絶なのか、肯定なのか――
それを決める権利まで、今この瞬間はレギュラスの手の中にあるような気がした。
わずかな時間が、途方もなく長く感じられる。
カーテンの隙間から差し込んだ月の光が、二人の間の張り詰めた空気を静かに照らしていた。
アランの沈黙を、レギュラスは逃さなかった。
その口から拒絶の言葉がひとつも出ないことを、「受け入れ」とまでは言わずとも、これ以上突き放されないという確信に変える。
わずかに口元が緩んだ。
だがその微笑は温もりではなく、静かな決意の形をしていた。
握っていたアランの拳に、自分の手をゆっくりと重ね、指先でその固く閉じられた形を解こうとする。
抵抗はある。
しかし完全に振り払う力ではない。
その僅かな力の差に、レギュラスはじわじわと間合いを詰める。
「……あなたが黙ってくれるなら、それだけで十分です」
声は低く、どこか安堵を滲ませていた。
膝をついていた位置からさらに身を乗り出し、彼女の視界を覆う。
アランの髪の香りが、近すぎる距離で鼻先を掠めた。
呼吸が交じるほどの間合いで、視線を絡める。
「言葉はいらない……ここに居てくれるなら」
その囁きと共に、指は彼女の頬から首筋へと下りてゆく。
官能的な触れ方ではなく、所有を確かめるような確かな重みだけがあった。
アランの心臓が、痛いほどに脈打っていた。
拒絶したくてたまらないのに――
動けば、さらに絡め取られるのが分かっている。
沈黙のまま、わずかな呼吸だけが二人の間を行き来する。
その空気の中で、レギュラスの圧はゆっくりと、確実に彼女を包み込んでいった。
レギュラスの指が首筋に触れたまま、動きがゆっくりと上へと戻る。
翡翠色の瞳を射抜くように見つめながら、その距離は息の間さえなくしていく。
空気が重い。
触れ合う寸前のわずかな隙間が、まるで永遠のように引き延ばされる。
アランの胸は強く脈打ち、それが逃げ場のない小さな部屋の中で自分にだけ響いている気がした。
「……もう、一言もいりません」
低く囁くような声が、そのまま彼の吐息となって頬をかすめる。
次の瞬間――
レギュラスの唇が、ためらいなく重なった。
硬く結ばれていたアランの唇を、力ではなく、執拗な圧でゆっくりと押し開く。
触れた瞬間の温度が、肌を越えて心臓まで染み込み、拒絶の意思と混乱した感覚が渦を巻く。
長く、深く、逃がさないための口づけ。
そこには甘さよりも、彼の「所有」を確かめる強い意志があった。
それでも、その熱は冷たい沈黙の壁をじわじわと侵食していくようだった。
押しつぶされるような体温と匂いに、アランは目を閉じることすらできなかった。
瞳を開いたまま、近すぎる距離で黒い瞳をただ見つめる。
終わらない――そう思わせるほど、その唇は彼女を離すことを知らなかった。
唇はまだ離れない。
温かく、しかし重くのしかかる圧が、まるで自分の意思を封じ込めるための鎖のように感じられる。
その熱を拒みたい。拒みきって、振りほどきたい。
――けれど、どこかの奥で、長年積み重ねてきたこの男との時間が、簡単に切り捨てられない重みを持って囁きかけてくる。
あの日、初めて名前を呼ばれた声。
夫婦として過ごした数え切れぬ日常。
時に支えられ、守られた記憶。
それらは未だに消えず、指先や頬の温度として自分の中に息づいている。
だが――その同じ手で、シリウスの命を奪った男。
あの翡翠色の瞳の奥に、かつて愛ではなく敵意を刻ませたのも、この男。
心が裂けるようだった。
浮かぶのは、シリウスの笑顔と声。
その追憶が、今まさに唇を塞ぐ相手への拒絶の力を燃やそうとする――
だが同時に、レギュラスの切実な声や、祈るように求める眼差しが、その炎を迷わせる。
逃げたい心と、抗えない記憶が、絡み合ってほどけない。
痛みと温もりが同時に胸を満たし、呼吸のたびに喉が震える。
やがてアランは、握りしめていた拳に爪が食い込み、ほんの少し血の匂いを感じた。
その痛みだけが、この混じり合った感情の渦から自分を繋ぎ止める唯一の現実に思えた。
唇はまだ重なったまま。
目を閉じれば、この葛藤の中に深く沈み込み、二度と浮かび上がれなくなる気がして――
アランは、開いたままの瞳で、至近距離の闇色をただ見つめ続けていた。
握りしめていた拳に、静かに、しかし確実な力がかかる。
レギュラスの指が一本ずつ絡まり、固く閉ざされた形を解かれていく。
抗う隙間を与えない。
解かれた先にはすぐに彼の指が絡みつき、逃げ場は完全に塞がれた。
――もう何もかもが、絡め取られていく。
体も、感情も。
拒否そのものまで、指と指の間で封じられてしまう。
喉の奥から「やめて」の叫びが込み上げる。
でも――名前を呼びたくない。
彼の名を口にしてしまうことは、存在を受け入れてしまうことに等しい気がして、舌が動かない。
長く、深い口づけが続く。
酸素が奪われるほどの圧が、次第に全身から力を奪っていく。
決して、それが全ての肯定であるはずがないのに。
弛緩していく自分の体が、まるで応じてしまっているように見えて――その事実が情けなく、悔しかった。
その流れは淀みなく、衣服の紐や留め金が次々と外れてゆく。
なぜこんなにも流暢な手捌きなのか――
そんな考えが一瞬頭をよぎり、すぐに自嘲と共にかき消える。
今考えることではない。けれど、思考の断片は勝手に生まれては消えていく。
やがて、肌の上に与えられる唇が、場所を移しながら降りてくる。
鎖骨を、肩を、腕を――その熱が辿るたび、心の奥底がひび割れそうになる。
「……シリウス……」
声にならない心の中の呼びかけ。
愛している――心の底から、今もなお。
その思いが湧き上がるたび、レギュラスの与えてくるものへの嫌悪がさらに深く滲む。
なのに。
なのに、体は裏切る。
触れられるたび、先を欲するように息が乱れ、指先が震える。
この乖離が、胸を引き裂く――
心は、あの人だけを。
体は、この人に絡め取られながら。
耐えようと強く奥歯を噛みしめても、耳の奥では自分の荒い呼吸が、誰のものともわからない声になって混ざり合っていた。
体は、もう完全に彼の手の内にある。
動かそうとしても、力は抜けて命令が届かない。
レギュラスの唇と指先が与えてくる熱は、肌という肌を縫うように移動し、そこから逃れる術はなかった。
息が熱くなり、視界の輪郭がかすむ。
その中でアランは、必死に心だけを遠くへ飛ばそうとした。
――ここではない場所へ。
――あの人と過ごした、失われた時間の中へ。
ホグワーツの校庭。
青い湖面に映る二人の影。
笑い声、ふと見せる真顔、温かな手のひら――
「シリウス……」心の奥でその名を呼ぶたび、胸が跳ね、皮肉にも体はさらに敏感に反応してしまう。
嫌悪と羞恥が螺旋のように絡まり、思考はもつれた糸になった。
どうして、こんなに正反対の感情が同時に存在できるのか。
心はあなたではないと拒み続けているのに、肉体は支配者を受け入れる形を作りつつある。
レギュラスの動きは淀みがなく、迷いさえない。
押し寄せ、絡みつき、すくい取る――
そのすべてが、じわじわと自分の中の境界線を侵食していく。
「……いや……」
かろうじて吐き出した声は、拒絶よりもかすれた吐息に近く、自分でも驚くほど弱かった。
それを拒否と受け取られなかったのか、レギュラスの体温はますます近づき、覆い尽くす影が深くなる。
アランは、目を閉じた。
閉ざした闇の中で、必死に別の時間と場所を思い描く――
だが、耳も肌も、あまりにも現在を鮮やかに伝えてくる。
その鮮明な現実の中で、心はどこまで持ち堪えられるのか。
わからないまま、呼吸だけが浅く早く重なっていった。
全身のどこを辿られても、肌が火照り、呼吸が浅くなる。
それなのに、心は冷えたまま、強く固く縮こまっていた。
奥歯を噛みしめれば、そのわずかな痛みだけが自分を現実に繋ぎ止めている。
だが、その痛みすらレギュラスの重みと熱に溶かされていく気がして、危うさが募る。
首筋を這う熱が、鎖骨を越えて胸元へと降りていく。
その動きは迷いがなく、あまりにも流麗で、抗いを許さない。
まるで長年の間に、ありとあらゆる拒絶を解かす術を身体に刻み込んだかのようだった。
志半ばで強ばった指先が、布を掴んだまま離れない。
だが、着物のように剥がされていく衣服の感触が、もうすぐ何もかも覆いを失う現実を告げていた。
――やめて。
叫びたい。
その言葉は喉まで昇ってきているのに、息と一緒に漏れるのは無意識の吐息だけ。
シリウス、と心の中で呼ぶ。
愛している、と繰り返す。
その度に、胸の奥で何かが震えそうになり、同時にレギュラスの与える熱への嫌悪が鋭く光る。
…なのに。
体が先の動きを待ってしまっている――
その事実に気づいた瞬間、胸が張り裂けそうになる。
心と体が、まるで別々の意志を持って引き裂き合っているようだった。
レギュラスの動きはさらに深く、決定的な領域へと踏み込みかける。
アランは目を閉じた。
闇の中で、せめて心だけは遠くへ逃がすために――
けれど、その闇にまで熱が滲み込んで、飲み込まれそうになっていた。
覆いかぶさる影が、もう逃げ場を塞ぎきっていた。
吐息は互いの肌に溶け、体温がまるで一つに絡まる。
押し寄せる感覚は波のように押しては引き、アランの意識を飲み込みかけている。
胸の奥では、なお「やめて」という声がか細く灯っていた。
けれど、その声は熱に押され、輪郭を失いかけていた。
レギュラスの手が、ためらいもなく最後の隔たりに触れようとする。
その動きに、アランの体は反射的に強張った。
しかし、その強張りさえも受け入れるような深い抱擁が重なり、急速に力を奪われる。
頭の奥が真っ白になる。
自分の鼓動なのか、相手の脈動なのかもわからない速さで音が響く。
拒絶を言葉にしなければ――そう思うのに、唇が動かない。
「……っいや……!」
ほとんど息のような声が、ついに喉から零れた。
それは押し止めるよりも先に熱の中に飲み込まれ、返答のように口づけが深くなる。
アランの胸は激しく上下し、その奥底に溜め込んできた感情が裂けるような痛みを放った。
愛しているのは――シリウス。
その確信が、最後の防波堤のように心を立たせていた。
だが、肉体はもはや別の答えを出しつつある。
涙が、頬に一筋滑り落ちた。
それは熱のせいか悔しさのせいか、自分でももう判別できなかった。
レギュラスの動きがさらに深く踏み込む瞬間、アランは目を閉じ、心だけを必死に遠くへと押しやった。
――ここにはいない、あの人のもとへ。
愛していると、何度も、何度も繰り返しながら。
しかし、現実の熱は揺るぎなく、彼女を包み込み続けていた。
胸の奥で最後に燃えていた炎が、ふっと風に吹かれるように揺らいだ。
愛している――と繰り返していたその言葉も、もう形を保てず、熱に溶かされていく。
次の瞬間、涙が堰を切った。
頬を伝う筋を止めることも拭うこともできず、呼吸に混じって小さな嗚咽が零れる。
何を守ろうとしていたのか、何を拒もうとしていたのか――
その境界線が、全て曖昧になっていった。
心は確かに別の人の名を抱えたままなのに、体は眼前の男の与える熱に溺れていく。
もう、どちらが自分の本心なのか分からない。
分かろうとする力さえ残っていない。
覆いかぶさる影が、涙で滲んだ視界の中で揺らめく。
その黒い瞳を見ても、そこに恐怖も憎しみも湧かないことが、アランには何よりも怖かった。
喉から小さく、自分でも聞き取れないような声が漏れる。
それは拒絶の言葉ではなく、ただ力を失い崩れゆく人間の音だった。
指先も、背中も、もはや抵抗を覚えていない。
絡め取るような抱擁に、全身が沈み込む。
肯定ではない。許しではない。
けれど、その場から逃れるための最後の力が、すでにどこにも残っていなかった。
崩れ落ちた感情は、もう自分だけのものではなく、目の前の男の温度と重さに完全に飲み込まれていった。
長い年月の中で、幾度となく重ねられた夜が、レギュラスに教えていた。
この女を、的確に追い込む手立てを。
指先の触れ方も、肌へのあて方も――その全てを、骨の奥まで刻み込んでいる。
腿の角度、首筋の傾き。
呼吸の速さが変わる瞬間を、決して見落とさない。
それは記憶ではなく、もはや本能に近い感覚だった。
「……いやっ……」
アランの唇からこぼれた拒絶の言葉は、薄く震えていた。
力なく滲むその声色は、否定の形をとりながら、どこか歓びを含んでいるようにも聞こえる。
それがレギュラスの胸を、焦燥と昂ぶりとで熱くさせた。
熱を帯びた吐息が頬をかすめるたび、どうしようもなく興奮が込み上げる。
自分が与えた熱に、彼女の呼吸が応じている――その事実が、血を早鐘のように打たせた。
「……アラン――愛しています」
低く、息を含んだ声。
届こうが届くまいが、もはやどちらでもよかった。
最奥で繋がっている、この瞬間の幸福。
全てを満たす熱の渦の中で、互い以外のすべてが遠ざかっていく。
視界の端で、アランの顔が歪み、涙が頬を伝って落ちた。
だが、何を考えているかなど、いまやどうでもよかった。
肌が伝えるのは、否でも拒でもない――
どうしようもなく、確かに、受け入れているという感触。
奥深くから返ってくる歓びの脈動。
それだけで十分だと、レギュラスは思った。
むしろこれこそが愛の形に違いないとすら。
アランは決して口にしない。
けれど、肌から、鼓動から、押し殺した吐息から――
「愛している」と告げられている気がしてならなかった。
それは錯覚なのか、それとも真実なのか。
もはや確かめる必要さえ、彼にはなかった。
涙は止まらなかった。
頬を伝うその温かさは、決して情の温もりではなかった。
むしろ、胸の奥に広がっていく空洞の冷たさを、外へ押し出すためのもののように思えた。
レギュラスに与えられる熱。
奪い尽くすようなこの近さ。
体は確かに反応している――それは否定しようのない現実で、しかし心はそのたびに拒絶の形を強くする。
今、彼が感じ取っているものは、たぶん偽りではない。
この体が「快さ」の反応を見せていることは、確かだから。
けれど、それは愛とは別物だ。
決して、彼が信じている愛ではない。
「……シリウス……」
心の中で名を呼ぶ。
この距離、この重なりの最中でさえ、その名が真っ先に浮かぶ。
その事実が、胸を締めつける。
彼の視線が、まるで「愛している」と言ってほしいという祈りのように降り注いでくる。
けれど、その願いを叶えれば、自分が自分でなくなってしまう気がして、唇は固く結ばれた。
涙は静かにこぼれ落ちる。
それを彼は「愛の証」だと思っているのかもしれない。
――それでも、真実は自分だけが知っていればいい。
この瞬間、自分は誰よりも孤独だった。
たとえ至近距離で抱きしめられていても、魂は遠く、愛する人のいる過去ばかりを探している。
その距離を、レギュラスは永遠に知ることはないだろう。
だからこそ、この涙は止まらなかった。
すべてが収まったあと、部屋の中は重苦しい静けさに包まれた。
先ほどまで部屋を満たしていた熱は、嘘のように音を立てず冷え始める。
レギュラスはアランを抱き寄せたまま、満足げに息を整えている。
その腕の中で、アランは静かに瞼を閉じていたが、眠っているわけではない。
頬を流れた涙の跡が、まだ肌に薄く残っている。
彼の胸の鼓動は落ち着いていて、その音は規則正しく心地よいはずだった。
だがアランには、その律動が遠くから聞こえてくる別人の音のように思えた。
――きっと彼は、今、幸福なのだろう。
自分が与える反応を「愛」と信じながら。
けれど、この胸に残っているのは、深い寂しさと、どうにも埋まらない空洞だけ。
やがてレギュラスの腕がゆるみ、彼が眠りに落ちていく気配が伝わる。
その瞬間、アランはそっと身をほどいた。
乱れた衣服を羽織り、窓辺に立って冷たい夜気を吸い込む。
暗いガラスの外には、月だけが静かに浮かんでいる。
その光を仰ぎながら、心の中で呼んだのは――やはりシリウスの名だった。
背後では、レギュラスが小さな寝息を立てている。
その眠りの安らかさと、こちらの胸に渦巻く空虚さのあまりの隔たりが、痛いほど際立っていた。
「……愛なんて、知らないくせに」
声に出さず呟いたその言葉は、月の光に溶けて消えた。
朝、窓辺のカーテン越しに柔らかな光が差し込む頃、アランはすでに身支度を整えていた。
鏡に映る自分の顔は、いつも通り穏やかで、どこにも翳りはない。
その内側に、凍るように冷えた決意を隠していることなど、誰にもわからない。
――この男の心を、どうすれば一番深く引き裂けるのか。
シリウスの死を、最も残酷な形で見せつけたあの瞬間から、ずっと考えてきた。
そして辿り着いた答えは、自分がこの男の目の前で殺される姿を見せることだった。
望むのは、自分を失う瞬間に、この冷酷な男の魂までも揺さぶり、引き裂くこと。
子供たちのことは、確かに気がかりだ。
けれどアルタイルはすでに当主たる風格を身につけ、妻となったイザベラと、やがて生まれる命を守るだろう。
セレナもまた、ホグワーツを卒業すれば王子に嫁ぐことが決まっている。
二人とも、母を守る必要のない、自らを堂々と立たせられる強さを持っている。
心残りはなかった。
シリウスのいない世界を、これ以上歩き続ける理由はどこにもないのだから。
朝食の席で、アランは何事もなかったように、普段通りに微笑んだ。
数日前までの硬い空気が嘘のように、柔らかな声でレギュラスに言葉をかける。
皿を手渡す仕草や、グラスに水を注ぐ動きも、どこまでも自然。
レギュラスは、昨日のことを経て距離が縮まったのだと思うに違いない。
そう思わせておけば、それでいい――それこそが、アランの意図だった。
出立の時、玄関でローブを手に取り、彼の肩にかける。
「……どうぞ」
控えめに告げる声はやわらかく、目元にはわずかな笑みすら宿っている。
「今日は早く戻れそうです」
レギュラスの言葉も、今のアランには刺すことなく、すっと受け流せる。
「……気をつけて」
頬に触れてきた口づけも、軽やかに受け入れた。
その一瞬の触れ合いの裏で、心は微動だにせず、決して揺らがなかった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
見送りの笑顔はそこに置き去りにし、胸の奥ではただひとつ、冷ややかな決意だけが確かに息づいていた。
玄関扉の閉まる音が、屋敷の広間に淡く響いた。
その音を最後に、世界が急に静まり返る。
アランは数歩その場に立ち尽くし、やがてゆっくりと呼吸を吐き出した。
見送りの際に浮かべていた柔らかな笑みは、もうどこにも残っていない。
唇の線は真っ直ぐに引き結ばれ、目元に宿る光は澄んでいて――そして冷たい。
今日ではないかもしれない。
明日でも、明後日でもない。
だが、必ず訪れる時を、自分の手で選ぶ。
その時、自分がこの男の目の前で命を断たれるよう、状況を整えるのだ。
レギュラスが望もうと望むまいと、その瞬間だけは、彼の胸を切り裂くものになるだろう。
それが、自分にとって最後に残された「復讐」だ。
ふと、食堂に差し込む朝の光が白く眩しいのに気づく。
シリウスと過ごした遠い日の笑顔が、光の中に浮かんでは溶け、また浮かぶ。
あの温もりを胸に残したままなら、たとえこの先が短くとも、恐れる理由はなかった。
アルタイルも、セレナも、もうそれぞれの道を歩いていける。
母としての務めは果たした。
あとは、自分の物語をどう終えるかだけだ。
アランは小さく息を吸い、玄関から背を向けた。
廊下の先には、今日と同じ日々を装うための時間が待っている。
それを一つひとつ積み重ねながら、最期の瞬間まで、誰にも悟られずに進むだろう。
その歩調は穏やかで、足音すら響かない。
けれど胸の奥には、終点に向かう確かな道筋が、もう揺るぎなく出来上がっていた。
階段の上から見下ろすと、玄関先で並ぶ二人の姿が静かに目に映った。
母はローブを手に取り、父の肩にやわらかく掛けてやる。
その仕草も、口もとに浮かぶ笑みも、絵のように穏やかだった。
「アラン様、落ち着かれたようで……安心しましたね」
隣でイザベラが囁く。
その声音には、嘘も疑念も微塵もない。
アルタイルは小さく頷きながら、視線を動かさずに答えた。
「……そうだといいんですが」
「きっと大丈夫です。レギュラス様のおそばで、あんなに温かく笑っていらっしゃったのですから」
イザベラの言葉は、本心からのものなのだろう。
彼女は、あの笑顔を素直に信じている。
けれど――アルタイルの胸には、針の先ほどのひっかかりが残った。
何かを見逃している。
母の穏やかな笑顔の奥に、触れてはならない影が潜んでいるような気がしてならない。
シリウス・ブラックの死。
あれほど母を揺るがせた出来事が、そう簡単に消え去るはずがないのに……。
それでも、眼下の母は、柔らかな光を帯びたまま父を見送り、微笑を絶やさなかった。
その笑顔からは、何ひとつ読み取れない。
喜びも、悲しみも、怒りも――すべてが磨かれた硝子のように平らで透き通っていた。
階下で扉が静かに閉まる。
その音が、アルタイルにはなぜかほんの少し冷たく響いた。
階段を下りる母の姿が玄関の奥に消え、扉の閉まる音が屋敷に静けさを戻した。
その余韻の中で、アルタイルはしばらく手すりに手を置いたまま動けなかった。
「……行きましょうか」
イザベラが優しく促す。
アルタイルは短く頷き、彼女と並んで階段を降り始めたが、視線はまだ玄関へと引き寄せられたままだった。
廊下を歩きながら、脳裏に先ほどの光景が繰り返し浮かんでくる。
あの柔らかな笑み。
父の肩にローブをかけるために伸びた手の、揺るぎない静かな動き。
一見、何の陰りもない仕草。
だが——本当に、あれは何も抱えていない人間の顔だったか?
笑顔の奥には、何もなかったのか?
母は、昔から感情を完全に隠し通すことなどなかった。
少なくとも、自分の前では。
だからこそ、さっきの「何も見せない笑顔」が、逆に異様に映った。
自室の扉を閉めても、その疑問は胸を離れなかった。
机に背を預け、視線を宙に漂わせながら、母の笑顔の細部を探る――
けれど思い返すほど、それは完璧に磨かれた硝子玉のようで、どこにも傷や曇りは見つからなかった。
安心させるための笑顔。
そう思いたい。
だが同時に、それこそが何かを隠すための笑顔ではないかという疑念が、深く沈んで消えずに残る。
窓の外では、穏やかな朝の日差しが庭を照らしている。
その穏やかさの中で、アルタイルの胸だけが、ひそやかにざわめいていた。
不死鳥の騎士団の本部は、沈黙に沈んでいた。
そこにいる誰もが、ひとつの欠けた柱の存在を痛感している。
シリウス・ブラックを失った――その事実が、空気そのものを重くしていた。
アリスもまた、その重みに押しつぶされていた。
胸の奥にぽっかりと開いた穴は、冷たい風を通し続け、痛みと寒さを増やすばかりだ。
瞼の裏に蘇るのは、あの夜の光景。
ベラトリックスの呪文が閃光となって走り、シリウスが引き寄せられるようにして虚空へと落ちていった。
その瞬間に見えた――アランの、張り裂けそうなほど悲痛な瞳。
きっと、今もあの人は絶望の底にいるはずだ。
誰よりも愛し合っていたであろう二人が、あまりにも残酷に引き裂かれてしまったのだから。
だがアリスの胸をさらに焦がすのは、もうひとつの映像だった。
戦場の片隅、冷えきった視線でその場を見つめていたレギュラス・ブラック。
倒れたシリウスに駆け寄ろうとするアランを、強引に引き留め、決して触れさせなかったその手。
彼の杖が、シリウスに死をもたらしたわけではない。
それでも、あれは殺されたも同然だ――そう思わせるほどに、その瞳は温度を欠き、哀悼の欠片も持たなかった。
「……絶対に……殺してやる……」
気づけば、低く震える声が唇からこぼれていた。
自分の魔力が、あの男の足元にも及ばないことは解っている。
今すぐでは叶わないかもしれない。
だが、何年経ってもいい。
もっと年老いて、彼の力が衰えたそのときでもいい。
いつか、この手で――必ず。
胸にあるのは二つの痛みだった。
父のように慕ったシリウスを奪われた痛み。
母のように慕ったアランを奪われた痛み。
それらが二つ、絡み合い、重なって、ひとつの刃の形になる。
その刃先は、ただひとり――レギュラス・ブラックに向けられていた。
決して、風化させない。
その思いだけが、アリスをこの先も生かしていく炎だった。
夜のベランダには、ほんのりと冷たい風が流れていた。
外灯の光が葡萄酒の中で淡く揺れ、グラスの縁に小さな月が映っている。
「少しワインでもどうですか」
そう言ったレギュラスに誘われるまま、アランは笑みを張り付けて席についた。
グラスを傾けると、まだ絞られたばかりの若い酸味が舌を刺す。
果実の香りよりも、鋭い輪郭だけがくっきりと残る味わい。
「……少し酸味が強すぎますね」
レギュラスが呟く。
「でも、あなたの好きな軽めの風味のものですよ」
アランはごく自然を装いながら答えた。
長い年月を共に過ごすうちに、アランはこの男の好みを隅々まで覚えてしまっていた。
だから当たり前のようにライトボディの一本を手に取っていた。
その自然さが、胸を複雑に締めつける。
――シリウスとワインを開けたことは、一度もなかった。
彼がどんな酒を好むのかさえ知らない。
知り尽くしているのは、目の前の男のことばかり――
その事実が、あまりにも悲しかった。
「……アラン、渡したいものがあるんです」
不意にかけられた声に、アランが顔を上げる。
レギュラスは立ち上がり、静かに背後へ回った。
次の瞬間、首筋に冷たい感触が触れ――細い銀の鎖が喉元に落ち着く。
小さな赤い石が、一粒、胸元で淡く光っていた。
「外さずにいてください」
低く落ち着いた声。
アランの胸に、疑念が瞬時に芽生える。
――検知魔法か、それとも制約の呪いか。
この男の用心深さを知っていれば、それくらいのことは容易に想像できる。
「……血の誓いを入れています」
一瞬、その意味を理解できなかった。
空気がわずかに重くなる。
「もしあなたの身に何かあれば、それはすべて僕に跳ね返ります。
……たとえ、闇の帝王の放つ呪文であっても」
アランは息を呑んだ。
血の誓い――古い魔法だ。
自らの生命と魔力を代償に、守る者の全てを盾として引き受ける。
あまりにも大きな犠牲を伴うため、今では滅多に行われぬ契約。
胸元で小さな赤い石が、静かに脈打つように光を返す。
その光は、温もりではなく重さを宿して、アランの心を沈めていった。
守られているというより、鎖で繋がれているかのような感覚。
愛情という名の鎖。
それを、彼は平然と「誓い」と呼ぶ。
ワインの酸味が、時間を経てなお、舌の奥に残っていた。
それはもう、果実の若さではなく、心の奥をきしませる鉄の味に似ていた。
ベランダを吹き抜ける風が、赤い石を一瞬震わせた。
「……なぜです?」
かすかに掠れた声で、アランは問いかけた。
「あなたを守れなくなることが、何よりも怖いですから」
答えたレギュラスの声音は、驚くほど穏やかだった。
そこには駆け引きの影も、揺らぎの欠片もない。
胸の奥に堅く抱えていたはずのものが、少しずつ軋みを上げる。
――復讐してやる、この男の心を引き裂く。
――あの日、シリウスの死を見せつけられた恨みは、一生癒えない。
決意は確かだったはずなのに。
こんなにも自らを削りきった愛情を、ためらいなく差し出してくる相手に、
自分は何を向ければいいのか――答えが見えなくなっていた。
涙が、意志とは無関係に滲み出る。
こんなもの、いらなかった。
命を賭けようなど、絶対にしないでほしかった。
そうすれば、自分は最後まで憎み抜けたのに。
憎ませてほしい――心置きなく刃を向けられるように。
それなのに、この眼差しは全てを台無しにしていく。
「……どうして……」
声が途切れる。
胸を満たしていくのは、形のない熱と痛み。
どこまでも変わらず、底なしに注がれる愛情が、
あまりにも真っ直ぐで、光のように澄んでいて――
どうしてここまで人を愛せるのかと問いたいのに、
もう、言葉は声にならなかった。
「……そんなに泣かせるとは、思いませんでした」
柔らかく微笑みながら、レギュラスはアランの頬を伝う涙をひとつ、またひとつ拭い取る。
その指先の温もりが、ますます涙を滲ませていく。
彼の瞳には、ただ静かな愛情だけがあった。
その澄んだ色を直視することが、今は一番苦しかった。
血の誓いを形にすることに、レギュラスの中で迷いはなかった。
それは古の迷信のように語られる呪文――
だが、自らの魔力が強ければ強いほど、その誓いの跳ね返りは確かな盾となる。
これで、アランは必ず守られる。
そう思えることが、彼の胸を不思議と軽くした。
世界のどこで、誰が、いつ杖を向けてくるかはわからない。
それが自分の知らない場所で起こり、アランの命を奪う――
その想像こそが、何よりも恐ろしかった。
だが、まさかこんなにも泣かせてしまうとは思わなかった。
頬をなぞり、涙を拭っても、粒の大きな滴が次々と零れ落ちていく。
夜気に冷めた涙は、彼の指先でかすかに温度を取り戻しては消えていく。
「……なぜ、そんなに私を愛せるのですか」
震える声でアランが問う。
その問いに、レギュラスは一瞬だけ視線を落とした。
――なぜ。
それは、自分が最も解き明かせずにいる疑問だった。
初めて会った日のことを、今もはっきりと覚えている。
兄の婚約者として名を告げられ、まだ少女だったアランが振り向いたあの瞬間。
あの日から、彼女の面影は胸の奥に居座り続けた。
心は一度も、縛りを解かれることなく、自由になることもなかった。
何度、手放せたらと願っただろう。
何度、憎めたらと願っただろう。
彼女のために、さまざまなものを犠牲にしてきた。
それでも――愛しているという、この感情だけは決して手放すことができなかった。
「……なんででしょうね。本当に」
そう口にすると、苦くも愛おしい疲労が胸に満ち、ふと笑いがこみ上げそうになる。
その笑みは、嘲りでも諦めでもなく、ただ長い年月の積み重なりが滲ませた、深い感情のしるしだった。
夜空には雲間から星が瞬き、胸元の赤い石がわずかに光を反射する。
その光は、誓いの証として、そしてふたりを繋ぐ鎖のように、静かに揺れていた。
アランの唇の輪郭を、レギュラスの指がゆるやかに辿った。
その触れ方は、撫でるというより、確かめるような重みがあった。
指先が離れると、そのまま唇が重なった。
ワインの若い酸味が舌に淡く広がり、その奥に涙の塩味が混ざる。
その組み合わせは、不思議なほど胸に沁み入り、苦くも甘い残響を残した。
長く、深く、時間を掛けた口づけだった。
互いの呼吸が重なり合い、間に漂う夜気さえも二人だけの熱に閉じ込められていく。
それだけで、ワインの高いアルコールが血の巡りを速め、全身をふわりと緩ませるような心地が広がった。
唇をわずかに離すと、レギュラスの声が低く落ちる。
「……こんなに僕を雁字搦めにしたんですから、責任とってください」
その言葉に、アランは眉をわずかに寄せた。
「……何を望むのです?」
間髪入れずに返ってきた答えは、静かで、確信に満ちていた。
「……全部です。――あなたの」
その眼差しには、長い年月に渡って積み重ねられた執着と愛情とが、何の曇りもなく宿っていた。
どれだけの時を費やし、何を犠牲にしてもなお手放せなかった思い。
ここまで人生を賭けて愛し続けてきたゆえに、余すことなく全てを捧げてもらわなければ満たされるはずがない――その想いが、何も言わずとも伝わってきた。
視線と視線が絡み、胸元の赤い石がそっと揺れる。
その揺れは、互いを縛る鎖のように、二人の間に確かな重さを落としていた。
玄関ではない――この階に上がる軽くも重い、わずかに引きずるような足音。
アランは、その音でレギュラスの帰宅を察した。
反射のように、身構えて体を起こす。
布団の中に留まるという選択肢は浮かばなかった。
昨夜の記憶が、まだ胸の奥に硬い石のように沈んでいる。
扉がゆっくりと開き、レギュラスが入ってきた。
疲れ切った顔。
任務の重さも、夜通しの冷たい空気も、まだその輪郭のまわりに纏わりついているように見える。
けれど――駆け寄ってローブを預かってやるなどという気持ちは、ひとかけらも湧かなかった。
視線を合わせようとも思わなかった。
「……戻りました」
落ちた声量。
それは自分に向けられたものだとわかる。
アランは答えない。
あれほど強く拒絶したはずなのに、この男は、なお自分の隣に来ようとしている。
その事実が、理解を超えていた。
「……隣に行ってもいいです?」
その問いも、応えを待たずして行動に移される。
よろよろとした足取りでベッドへ近づき、淵に腰掛ける。
ローブの裾が床の上で静かに揺れた。
夫婦の寝室とは違い、この自室は狭い。
横に座られれば、距離があまりにも近い。
寒くもないのに、空気が肌に刺さるように冷たく感じられる。
柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込むと、白い光の中に沈黙だけが立ち上っていた。
レギュラスの手が、ゆっくりとアランの頬へ伸びてきた。
その一瞬で、胸の奥がきしむ――
これはシリウスを殺そうとした手だ。
あの日、自分にシリウスの死を見せつけようとした男の手。
触れられただけで、心臓が鋭く悲鳴を上げそうになる。
長い指先が頬を滑り、触れる。
冷たくも熱くもない体温だけが、余計に生々しく感じられた。
やがて、その指が唇の輪郭をなぞる。
指腹が軽く押しあてられ、官能を宿したはずのその仕草は、アランには耐えがたい不快さを伴った。
血が逆流するような、どうしようもない拒否反応が走る。
次の瞬間――
思い切り、その指を噛んだ。
骨の形を感じるほどの強さで歯を立てると、レギュラスの顔が苦痛に歪み、反射的に指を引き抜いた。
薄暗い光の中で、その指先にはわずかに血が滲んでいた。
レギュラスは面持ちを変えず、ゆっくりとその指を唇へ運び、舌で血を拭い去る。
その仕草は簡易的な止血――それ以上でも以下でもない。
「……痛いじゃないですか」
穏やかに告げられた声。
アランは唇を押し結び、言葉を飲み込む。
――痛いのはこちらの心だと言い返したかった。
痛いのは、指先の数ミリの傷ではない。
シリウス・ブラックの死を見せつけられた、この胸の奥の裂け目なのだ。
「……アラン……お願いです……そんなに……拒まないでください」
唐突に、レギュラスの声色が変わった。
棘も、圧も、一片たりともない。
ただ、ひたすらに祈るような響きだけがあった。
その純度に、胸の奥がかすかに揺れる。
憎しみと拒絶の中に、ほんの一滴だけ別の色が落とされたように。
アランは自分でもわからなかった――なぜ、この声だけが、心の深いところに届いてしまうのか。
沈黙の中、互いの呼吸だけが近くで交わっていた。
唇が触れる寸前、わずかに強張ったアランの肩。
それでも――その微細な空気の揺れを、レギュラスは隙だと感じ取った。
短く息を吸い、ためらいもなく距離を詰める。
顎を支える指先にわずかに力を足すと、翡翠色の瞳がわずかに見開かれ、抗う前に視界いっぱいに彼の影が覆った。
唇が重なった。
最初の一瞬は硬く閉ざされていたアランの口元も、力の差で押し開かれ、息が混じる。
体温と呼吸と、長年知っていたはずの匂い――
それらが一気に押し寄せ、アランの脳裏に拒絶の赤い警鐘と、混乱した鼓動が同時に響いた。
マットレスは浅く沈み、狭い部屋にふたりの衣擦れの音がやけに大きく流れる。
アランの両手首は逃げ道を断たれる位置で押さえられ、僅かな身動きすら許されない。
レギュラスは唇を離さない。
その圧は求愛ではなく、所有を宣言するような強さを帯びていた。
触れ合うたびに「あなたは私のものだ」という言葉なき意志が込み上げ、その熱がアランの胸の奥底まで押し込まれる。
アランの背筋に冷たい戦慄が走る。
だが、それ以上に、腕の下で早まっていく自分の鼓動が憎らしかった。
ほんの一瞬の揺らぎが、こうして奪われる形で現実になってしまった――
その悔しさが、唇の裏で震えていた。
アランは閉じ込められた両手首に力を込めた。
肩から背中へとかけて、全身の筋肉が反射のように強張る。
胸の奥に、押しつぶされるような圧迫感と、込みあがる怒りが膨れ上がった。
「――やめて!」
渾身の力で上半身をひねる。
ベッドマットが大きく軋み、レギュラスの体がわずかに浮いたその一瞬を突いて、腕を振りほどいた。
押し返されたレギュラスは半歩下がり、荒く肩で息をする。
その黒い瞳には驚きと、抑えきれない苛立ちが混ざっていたが、もうそれを言葉に変えようとはしなかった。
アランは乱れた呼吸を整えようとしながら、弾かれたように距離を取る。
指先で唇を触れると、じんわりとそこに残る熱が腹立たしいほど鮮明だった。
その熱をどうにか消したくて、視線を窓の外へと逃がす。
冬の朝の光が白く差し込み、室内は静まり返る。
だが、その静寂は安らぎではなく、二人の間に広がった深い断絶の証のようだった。
レギュラスはしばらく何も言わず、アランの横顔を見つめていた。
その視線は、支配と愛情と執着とが混ざり合った、複雑な色を帯びている。
アランはそれを感じながらも、顔を決して向けない。
ただ、冷たく固まった心を守るように、両腕を抱き寄せた。
今はもう、何も触れさせない――それが全身で示す唯一の答えだった。
レギュラスは、突き放された体勢のまましばし黙っていた。
その沈黙の奥で、視線だけが獲物を追う獣のようにアランから離れない。
アランの横顔は硬く閉ざされ、腕を抱き込み、これ以上一歩も踏み込ませまいと全身で訴えていた。
だが、レギュラスはその壁を崩す術を探すように、ゆっくり息を吐いた。
「……怒っているのは、分かっています」
低く落ちた声が、静まり返った空気に溶ける。
「でも……それでも、あなたのそばにいたいんです」
アランは答えない。
それでもレギュラスは歩を進め、小さな部屋の中で距離を詰める。
わずか数歩で、また影がアランを包み込むほど近づいた。
ベッドの上に腰掛ける彼女の前に膝をつき、視線の高さを合わせる。
「どんなに拒まれても、僕は……あなたを手放しません」
その言葉に脅しの色はなく、囁きのような静けさだけがあった。
指先が、彼女の膝の上に置かれた拳にそっと触れる。
逃げ道を塞ぐでもなく、けれど確かに存在を刻む触れ方。
「……嫌なら、嫌だと言ってくれて構いません」
そう言いながらも、その声には諦めを許さない固さが潜んでいた。
アランの胸の奥がざわめく。
怖いのは、拒絶の言葉を放ってもなお、この男が引き下がらないと分かっていることだった。
レギュラスは翡翠色の瞳を真正面から覗き込み、
「――それでも、僕はあなたの夫です」
と、ごく静かに告げた。
その一言が、距離をさらに狭めていた。
アランの胸の奥が、ぎゅっと縮む。
至近距離から放たれた「私はあなたの夫です」という静かな一言が、肌を通して刺し込まれるようだった。
呼吸が浅くなる。
肺の奥へ空気がうまく入っていかない。
喉の奥に硬い塊がつかえてしまったように、言葉が出ない――いや、出せなかった。
沈黙が、部屋の中に滞る。
答えを求めているはずのレギュラスも、その瞬間だけは何も言わず、ただ彼女の瞳を覗き込んでいる。
翡翠色の光が揺れ、そこに複雑な影が落ちていた。
拒絶の言葉を突きつけたい。
けれど、声を発した途端、この男がさらにその隙間を押し広げて入り込んでくる――そう分かっているから、喉が閉ざされる。
握り締めた拳の上に置かれたレギュラスの指先の重みが、やけに鮮明に存在を主張する。
その感触から逃れたいのに、身体が強張って動けなかった。
息が詰まり、鼓動の音だけが耳の奥で大きく鳴る。
沈黙は拒絶なのか、肯定なのか――
それを決める権利まで、今この瞬間はレギュラスの手の中にあるような気がした。
わずかな時間が、途方もなく長く感じられる。
カーテンの隙間から差し込んだ月の光が、二人の間の張り詰めた空気を静かに照らしていた。
アランの沈黙を、レギュラスは逃さなかった。
その口から拒絶の言葉がひとつも出ないことを、「受け入れ」とまでは言わずとも、これ以上突き放されないという確信に変える。
わずかに口元が緩んだ。
だがその微笑は温もりではなく、静かな決意の形をしていた。
握っていたアランの拳に、自分の手をゆっくりと重ね、指先でその固く閉じられた形を解こうとする。
抵抗はある。
しかし完全に振り払う力ではない。
その僅かな力の差に、レギュラスはじわじわと間合いを詰める。
「……あなたが黙ってくれるなら、それだけで十分です」
声は低く、どこか安堵を滲ませていた。
膝をついていた位置からさらに身を乗り出し、彼女の視界を覆う。
アランの髪の香りが、近すぎる距離で鼻先を掠めた。
呼吸が交じるほどの間合いで、視線を絡める。
「言葉はいらない……ここに居てくれるなら」
その囁きと共に、指は彼女の頬から首筋へと下りてゆく。
官能的な触れ方ではなく、所有を確かめるような確かな重みだけがあった。
アランの心臓が、痛いほどに脈打っていた。
拒絶したくてたまらないのに――
動けば、さらに絡め取られるのが分かっている。
沈黙のまま、わずかな呼吸だけが二人の間を行き来する。
その空気の中で、レギュラスの圧はゆっくりと、確実に彼女を包み込んでいった。
レギュラスの指が首筋に触れたまま、動きがゆっくりと上へと戻る。
翡翠色の瞳を射抜くように見つめながら、その距離は息の間さえなくしていく。
空気が重い。
触れ合う寸前のわずかな隙間が、まるで永遠のように引き延ばされる。
アランの胸は強く脈打ち、それが逃げ場のない小さな部屋の中で自分にだけ響いている気がした。
「……もう、一言もいりません」
低く囁くような声が、そのまま彼の吐息となって頬をかすめる。
次の瞬間――
レギュラスの唇が、ためらいなく重なった。
硬く結ばれていたアランの唇を、力ではなく、執拗な圧でゆっくりと押し開く。
触れた瞬間の温度が、肌を越えて心臓まで染み込み、拒絶の意思と混乱した感覚が渦を巻く。
長く、深く、逃がさないための口づけ。
そこには甘さよりも、彼の「所有」を確かめる強い意志があった。
それでも、その熱は冷たい沈黙の壁をじわじわと侵食していくようだった。
押しつぶされるような体温と匂いに、アランは目を閉じることすらできなかった。
瞳を開いたまま、近すぎる距離で黒い瞳をただ見つめる。
終わらない――そう思わせるほど、その唇は彼女を離すことを知らなかった。
唇はまだ離れない。
温かく、しかし重くのしかかる圧が、まるで自分の意思を封じ込めるための鎖のように感じられる。
その熱を拒みたい。拒みきって、振りほどきたい。
――けれど、どこかの奥で、長年積み重ねてきたこの男との時間が、簡単に切り捨てられない重みを持って囁きかけてくる。
あの日、初めて名前を呼ばれた声。
夫婦として過ごした数え切れぬ日常。
時に支えられ、守られた記憶。
それらは未だに消えず、指先や頬の温度として自分の中に息づいている。
だが――その同じ手で、シリウスの命を奪った男。
あの翡翠色の瞳の奥に、かつて愛ではなく敵意を刻ませたのも、この男。
心が裂けるようだった。
浮かぶのは、シリウスの笑顔と声。
その追憶が、今まさに唇を塞ぐ相手への拒絶の力を燃やそうとする――
だが同時に、レギュラスの切実な声や、祈るように求める眼差しが、その炎を迷わせる。
逃げたい心と、抗えない記憶が、絡み合ってほどけない。
痛みと温もりが同時に胸を満たし、呼吸のたびに喉が震える。
やがてアランは、握りしめていた拳に爪が食い込み、ほんの少し血の匂いを感じた。
その痛みだけが、この混じり合った感情の渦から自分を繋ぎ止める唯一の現実に思えた。
唇はまだ重なったまま。
目を閉じれば、この葛藤の中に深く沈み込み、二度と浮かび上がれなくなる気がして――
アランは、開いたままの瞳で、至近距離の闇色をただ見つめ続けていた。
握りしめていた拳に、静かに、しかし確実な力がかかる。
レギュラスの指が一本ずつ絡まり、固く閉ざされた形を解かれていく。
抗う隙間を与えない。
解かれた先にはすぐに彼の指が絡みつき、逃げ場は完全に塞がれた。
――もう何もかもが、絡め取られていく。
体も、感情も。
拒否そのものまで、指と指の間で封じられてしまう。
喉の奥から「やめて」の叫びが込み上げる。
でも――名前を呼びたくない。
彼の名を口にしてしまうことは、存在を受け入れてしまうことに等しい気がして、舌が動かない。
長く、深い口づけが続く。
酸素が奪われるほどの圧が、次第に全身から力を奪っていく。
決して、それが全ての肯定であるはずがないのに。
弛緩していく自分の体が、まるで応じてしまっているように見えて――その事実が情けなく、悔しかった。
その流れは淀みなく、衣服の紐や留め金が次々と外れてゆく。
なぜこんなにも流暢な手捌きなのか――
そんな考えが一瞬頭をよぎり、すぐに自嘲と共にかき消える。
今考えることではない。けれど、思考の断片は勝手に生まれては消えていく。
やがて、肌の上に与えられる唇が、場所を移しながら降りてくる。
鎖骨を、肩を、腕を――その熱が辿るたび、心の奥底がひび割れそうになる。
「……シリウス……」
声にならない心の中の呼びかけ。
愛している――心の底から、今もなお。
その思いが湧き上がるたび、レギュラスの与えてくるものへの嫌悪がさらに深く滲む。
なのに。
なのに、体は裏切る。
触れられるたび、先を欲するように息が乱れ、指先が震える。
この乖離が、胸を引き裂く――
心は、あの人だけを。
体は、この人に絡め取られながら。
耐えようと強く奥歯を噛みしめても、耳の奥では自分の荒い呼吸が、誰のものともわからない声になって混ざり合っていた。
体は、もう完全に彼の手の内にある。
動かそうとしても、力は抜けて命令が届かない。
レギュラスの唇と指先が与えてくる熱は、肌という肌を縫うように移動し、そこから逃れる術はなかった。
息が熱くなり、視界の輪郭がかすむ。
その中でアランは、必死に心だけを遠くへ飛ばそうとした。
――ここではない場所へ。
――あの人と過ごした、失われた時間の中へ。
ホグワーツの校庭。
青い湖面に映る二人の影。
笑い声、ふと見せる真顔、温かな手のひら――
「シリウス……」心の奥でその名を呼ぶたび、胸が跳ね、皮肉にも体はさらに敏感に反応してしまう。
嫌悪と羞恥が螺旋のように絡まり、思考はもつれた糸になった。
どうして、こんなに正反対の感情が同時に存在できるのか。
心はあなたではないと拒み続けているのに、肉体は支配者を受け入れる形を作りつつある。
レギュラスの動きは淀みがなく、迷いさえない。
押し寄せ、絡みつき、すくい取る――
そのすべてが、じわじわと自分の中の境界線を侵食していく。
「……いや……」
かろうじて吐き出した声は、拒絶よりもかすれた吐息に近く、自分でも驚くほど弱かった。
それを拒否と受け取られなかったのか、レギュラスの体温はますます近づき、覆い尽くす影が深くなる。
アランは、目を閉じた。
閉ざした闇の中で、必死に別の時間と場所を思い描く――
だが、耳も肌も、あまりにも現在を鮮やかに伝えてくる。
その鮮明な現実の中で、心はどこまで持ち堪えられるのか。
わからないまま、呼吸だけが浅く早く重なっていった。
全身のどこを辿られても、肌が火照り、呼吸が浅くなる。
それなのに、心は冷えたまま、強く固く縮こまっていた。
奥歯を噛みしめれば、そのわずかな痛みだけが自分を現実に繋ぎ止めている。
だが、その痛みすらレギュラスの重みと熱に溶かされていく気がして、危うさが募る。
首筋を這う熱が、鎖骨を越えて胸元へと降りていく。
その動きは迷いがなく、あまりにも流麗で、抗いを許さない。
まるで長年の間に、ありとあらゆる拒絶を解かす術を身体に刻み込んだかのようだった。
志半ばで強ばった指先が、布を掴んだまま離れない。
だが、着物のように剥がされていく衣服の感触が、もうすぐ何もかも覆いを失う現実を告げていた。
――やめて。
叫びたい。
その言葉は喉まで昇ってきているのに、息と一緒に漏れるのは無意識の吐息だけ。
シリウス、と心の中で呼ぶ。
愛している、と繰り返す。
その度に、胸の奥で何かが震えそうになり、同時にレギュラスの与える熱への嫌悪が鋭く光る。
…なのに。
体が先の動きを待ってしまっている――
その事実に気づいた瞬間、胸が張り裂けそうになる。
心と体が、まるで別々の意志を持って引き裂き合っているようだった。
レギュラスの動きはさらに深く、決定的な領域へと踏み込みかける。
アランは目を閉じた。
闇の中で、せめて心だけは遠くへ逃がすために――
けれど、その闇にまで熱が滲み込んで、飲み込まれそうになっていた。
覆いかぶさる影が、もう逃げ場を塞ぎきっていた。
吐息は互いの肌に溶け、体温がまるで一つに絡まる。
押し寄せる感覚は波のように押しては引き、アランの意識を飲み込みかけている。
胸の奥では、なお「やめて」という声がか細く灯っていた。
けれど、その声は熱に押され、輪郭を失いかけていた。
レギュラスの手が、ためらいもなく最後の隔たりに触れようとする。
その動きに、アランの体は反射的に強張った。
しかし、その強張りさえも受け入れるような深い抱擁が重なり、急速に力を奪われる。
頭の奥が真っ白になる。
自分の鼓動なのか、相手の脈動なのかもわからない速さで音が響く。
拒絶を言葉にしなければ――そう思うのに、唇が動かない。
「……っいや……!」
ほとんど息のような声が、ついに喉から零れた。
それは押し止めるよりも先に熱の中に飲み込まれ、返答のように口づけが深くなる。
アランの胸は激しく上下し、その奥底に溜め込んできた感情が裂けるような痛みを放った。
愛しているのは――シリウス。
その確信が、最後の防波堤のように心を立たせていた。
だが、肉体はもはや別の答えを出しつつある。
涙が、頬に一筋滑り落ちた。
それは熱のせいか悔しさのせいか、自分でももう判別できなかった。
レギュラスの動きがさらに深く踏み込む瞬間、アランは目を閉じ、心だけを必死に遠くへと押しやった。
――ここにはいない、あの人のもとへ。
愛していると、何度も、何度も繰り返しながら。
しかし、現実の熱は揺るぎなく、彼女を包み込み続けていた。
胸の奥で最後に燃えていた炎が、ふっと風に吹かれるように揺らいだ。
愛している――と繰り返していたその言葉も、もう形を保てず、熱に溶かされていく。
次の瞬間、涙が堰を切った。
頬を伝う筋を止めることも拭うこともできず、呼吸に混じって小さな嗚咽が零れる。
何を守ろうとしていたのか、何を拒もうとしていたのか――
その境界線が、全て曖昧になっていった。
心は確かに別の人の名を抱えたままなのに、体は眼前の男の与える熱に溺れていく。
もう、どちらが自分の本心なのか分からない。
分かろうとする力さえ残っていない。
覆いかぶさる影が、涙で滲んだ視界の中で揺らめく。
その黒い瞳を見ても、そこに恐怖も憎しみも湧かないことが、アランには何よりも怖かった。
喉から小さく、自分でも聞き取れないような声が漏れる。
それは拒絶の言葉ではなく、ただ力を失い崩れゆく人間の音だった。
指先も、背中も、もはや抵抗を覚えていない。
絡め取るような抱擁に、全身が沈み込む。
肯定ではない。許しではない。
けれど、その場から逃れるための最後の力が、すでにどこにも残っていなかった。
崩れ落ちた感情は、もう自分だけのものではなく、目の前の男の温度と重さに完全に飲み込まれていった。
長い年月の中で、幾度となく重ねられた夜が、レギュラスに教えていた。
この女を、的確に追い込む手立てを。
指先の触れ方も、肌へのあて方も――その全てを、骨の奥まで刻み込んでいる。
腿の角度、首筋の傾き。
呼吸の速さが変わる瞬間を、決して見落とさない。
それは記憶ではなく、もはや本能に近い感覚だった。
「……いやっ……」
アランの唇からこぼれた拒絶の言葉は、薄く震えていた。
力なく滲むその声色は、否定の形をとりながら、どこか歓びを含んでいるようにも聞こえる。
それがレギュラスの胸を、焦燥と昂ぶりとで熱くさせた。
熱を帯びた吐息が頬をかすめるたび、どうしようもなく興奮が込み上げる。
自分が与えた熱に、彼女の呼吸が応じている――その事実が、血を早鐘のように打たせた。
「……アラン――愛しています」
低く、息を含んだ声。
届こうが届くまいが、もはやどちらでもよかった。
最奥で繋がっている、この瞬間の幸福。
全てを満たす熱の渦の中で、互い以外のすべてが遠ざかっていく。
視界の端で、アランの顔が歪み、涙が頬を伝って落ちた。
だが、何を考えているかなど、いまやどうでもよかった。
肌が伝えるのは、否でも拒でもない――
どうしようもなく、確かに、受け入れているという感触。
奥深くから返ってくる歓びの脈動。
それだけで十分だと、レギュラスは思った。
むしろこれこそが愛の形に違いないとすら。
アランは決して口にしない。
けれど、肌から、鼓動から、押し殺した吐息から――
「愛している」と告げられている気がしてならなかった。
それは錯覚なのか、それとも真実なのか。
もはや確かめる必要さえ、彼にはなかった。
涙は止まらなかった。
頬を伝うその温かさは、決して情の温もりではなかった。
むしろ、胸の奥に広がっていく空洞の冷たさを、外へ押し出すためのもののように思えた。
レギュラスに与えられる熱。
奪い尽くすようなこの近さ。
体は確かに反応している――それは否定しようのない現実で、しかし心はそのたびに拒絶の形を強くする。
今、彼が感じ取っているものは、たぶん偽りではない。
この体が「快さ」の反応を見せていることは、確かだから。
けれど、それは愛とは別物だ。
決して、彼が信じている愛ではない。
「……シリウス……」
心の中で名を呼ぶ。
この距離、この重なりの最中でさえ、その名が真っ先に浮かぶ。
その事実が、胸を締めつける。
彼の視線が、まるで「愛している」と言ってほしいという祈りのように降り注いでくる。
けれど、その願いを叶えれば、自分が自分でなくなってしまう気がして、唇は固く結ばれた。
涙は静かにこぼれ落ちる。
それを彼は「愛の証」だと思っているのかもしれない。
――それでも、真実は自分だけが知っていればいい。
この瞬間、自分は誰よりも孤独だった。
たとえ至近距離で抱きしめられていても、魂は遠く、愛する人のいる過去ばかりを探している。
その距離を、レギュラスは永遠に知ることはないだろう。
だからこそ、この涙は止まらなかった。
すべてが収まったあと、部屋の中は重苦しい静けさに包まれた。
先ほどまで部屋を満たしていた熱は、嘘のように音を立てず冷え始める。
レギュラスはアランを抱き寄せたまま、満足げに息を整えている。
その腕の中で、アランは静かに瞼を閉じていたが、眠っているわけではない。
頬を流れた涙の跡が、まだ肌に薄く残っている。
彼の胸の鼓動は落ち着いていて、その音は規則正しく心地よいはずだった。
だがアランには、その律動が遠くから聞こえてくる別人の音のように思えた。
――きっと彼は、今、幸福なのだろう。
自分が与える反応を「愛」と信じながら。
けれど、この胸に残っているのは、深い寂しさと、どうにも埋まらない空洞だけ。
やがてレギュラスの腕がゆるみ、彼が眠りに落ちていく気配が伝わる。
その瞬間、アランはそっと身をほどいた。
乱れた衣服を羽織り、窓辺に立って冷たい夜気を吸い込む。
暗いガラスの外には、月だけが静かに浮かんでいる。
その光を仰ぎながら、心の中で呼んだのは――やはりシリウスの名だった。
背後では、レギュラスが小さな寝息を立てている。
その眠りの安らかさと、こちらの胸に渦巻く空虚さのあまりの隔たりが、痛いほど際立っていた。
「……愛なんて、知らないくせに」
声に出さず呟いたその言葉は、月の光に溶けて消えた。
朝、窓辺のカーテン越しに柔らかな光が差し込む頃、アランはすでに身支度を整えていた。
鏡に映る自分の顔は、いつも通り穏やかで、どこにも翳りはない。
その内側に、凍るように冷えた決意を隠していることなど、誰にもわからない。
――この男の心を、どうすれば一番深く引き裂けるのか。
シリウスの死を、最も残酷な形で見せつけたあの瞬間から、ずっと考えてきた。
そして辿り着いた答えは、自分がこの男の目の前で殺される姿を見せることだった。
望むのは、自分を失う瞬間に、この冷酷な男の魂までも揺さぶり、引き裂くこと。
子供たちのことは、確かに気がかりだ。
けれどアルタイルはすでに当主たる風格を身につけ、妻となったイザベラと、やがて生まれる命を守るだろう。
セレナもまた、ホグワーツを卒業すれば王子に嫁ぐことが決まっている。
二人とも、母を守る必要のない、自らを堂々と立たせられる強さを持っている。
心残りはなかった。
シリウスのいない世界を、これ以上歩き続ける理由はどこにもないのだから。
朝食の席で、アランは何事もなかったように、普段通りに微笑んだ。
数日前までの硬い空気が嘘のように、柔らかな声でレギュラスに言葉をかける。
皿を手渡す仕草や、グラスに水を注ぐ動きも、どこまでも自然。
レギュラスは、昨日のことを経て距離が縮まったのだと思うに違いない。
そう思わせておけば、それでいい――それこそが、アランの意図だった。
出立の時、玄関でローブを手に取り、彼の肩にかける。
「……どうぞ」
控えめに告げる声はやわらかく、目元にはわずかな笑みすら宿っている。
「今日は早く戻れそうです」
レギュラスの言葉も、今のアランには刺すことなく、すっと受け流せる。
「……気をつけて」
頬に触れてきた口づけも、軽やかに受け入れた。
その一瞬の触れ合いの裏で、心は微動だにせず、決して揺らがなかった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
見送りの笑顔はそこに置き去りにし、胸の奥ではただひとつ、冷ややかな決意だけが確かに息づいていた。
玄関扉の閉まる音が、屋敷の広間に淡く響いた。
その音を最後に、世界が急に静まり返る。
アランは数歩その場に立ち尽くし、やがてゆっくりと呼吸を吐き出した。
見送りの際に浮かべていた柔らかな笑みは、もうどこにも残っていない。
唇の線は真っ直ぐに引き結ばれ、目元に宿る光は澄んでいて――そして冷たい。
今日ではないかもしれない。
明日でも、明後日でもない。
だが、必ず訪れる時を、自分の手で選ぶ。
その時、自分がこの男の目の前で命を断たれるよう、状況を整えるのだ。
レギュラスが望もうと望むまいと、その瞬間だけは、彼の胸を切り裂くものになるだろう。
それが、自分にとって最後に残された「復讐」だ。
ふと、食堂に差し込む朝の光が白く眩しいのに気づく。
シリウスと過ごした遠い日の笑顔が、光の中に浮かんでは溶け、また浮かぶ。
あの温もりを胸に残したままなら、たとえこの先が短くとも、恐れる理由はなかった。
アルタイルも、セレナも、もうそれぞれの道を歩いていける。
母としての務めは果たした。
あとは、自分の物語をどう終えるかだけだ。
アランは小さく息を吸い、玄関から背を向けた。
廊下の先には、今日と同じ日々を装うための時間が待っている。
それを一つひとつ積み重ねながら、最期の瞬間まで、誰にも悟られずに進むだろう。
その歩調は穏やかで、足音すら響かない。
けれど胸の奥には、終点に向かう確かな道筋が、もう揺るぎなく出来上がっていた。
階段の上から見下ろすと、玄関先で並ぶ二人の姿が静かに目に映った。
母はローブを手に取り、父の肩にやわらかく掛けてやる。
その仕草も、口もとに浮かぶ笑みも、絵のように穏やかだった。
「アラン様、落ち着かれたようで……安心しましたね」
隣でイザベラが囁く。
その声音には、嘘も疑念も微塵もない。
アルタイルは小さく頷きながら、視線を動かさずに答えた。
「……そうだといいんですが」
「きっと大丈夫です。レギュラス様のおそばで、あんなに温かく笑っていらっしゃったのですから」
イザベラの言葉は、本心からのものなのだろう。
彼女は、あの笑顔を素直に信じている。
けれど――アルタイルの胸には、針の先ほどのひっかかりが残った。
何かを見逃している。
母の穏やかな笑顔の奥に、触れてはならない影が潜んでいるような気がしてならない。
シリウス・ブラックの死。
あれほど母を揺るがせた出来事が、そう簡単に消え去るはずがないのに……。
それでも、眼下の母は、柔らかな光を帯びたまま父を見送り、微笑を絶やさなかった。
その笑顔からは、何ひとつ読み取れない。
喜びも、悲しみも、怒りも――すべてが磨かれた硝子のように平らで透き通っていた。
階下で扉が静かに閉まる。
その音が、アルタイルにはなぜかほんの少し冷たく響いた。
階段を下りる母の姿が玄関の奥に消え、扉の閉まる音が屋敷に静けさを戻した。
その余韻の中で、アルタイルはしばらく手すりに手を置いたまま動けなかった。
「……行きましょうか」
イザベラが優しく促す。
アルタイルは短く頷き、彼女と並んで階段を降り始めたが、視線はまだ玄関へと引き寄せられたままだった。
廊下を歩きながら、脳裏に先ほどの光景が繰り返し浮かんでくる。
あの柔らかな笑み。
父の肩にローブをかけるために伸びた手の、揺るぎない静かな動き。
一見、何の陰りもない仕草。
だが——本当に、あれは何も抱えていない人間の顔だったか?
笑顔の奥には、何もなかったのか?
母は、昔から感情を完全に隠し通すことなどなかった。
少なくとも、自分の前では。
だからこそ、さっきの「何も見せない笑顔」が、逆に異様に映った。
自室の扉を閉めても、その疑問は胸を離れなかった。
机に背を預け、視線を宙に漂わせながら、母の笑顔の細部を探る――
けれど思い返すほど、それは完璧に磨かれた硝子玉のようで、どこにも傷や曇りは見つからなかった。
安心させるための笑顔。
そう思いたい。
だが同時に、それこそが何かを隠すための笑顔ではないかという疑念が、深く沈んで消えずに残る。
窓の外では、穏やかな朝の日差しが庭を照らしている。
その穏やかさの中で、アルタイルの胸だけが、ひそやかにざわめいていた。
不死鳥の騎士団の本部は、沈黙に沈んでいた。
そこにいる誰もが、ひとつの欠けた柱の存在を痛感している。
シリウス・ブラックを失った――その事実が、空気そのものを重くしていた。
アリスもまた、その重みに押しつぶされていた。
胸の奥にぽっかりと開いた穴は、冷たい風を通し続け、痛みと寒さを増やすばかりだ。
瞼の裏に蘇るのは、あの夜の光景。
ベラトリックスの呪文が閃光となって走り、シリウスが引き寄せられるようにして虚空へと落ちていった。
その瞬間に見えた――アランの、張り裂けそうなほど悲痛な瞳。
きっと、今もあの人は絶望の底にいるはずだ。
誰よりも愛し合っていたであろう二人が、あまりにも残酷に引き裂かれてしまったのだから。
だがアリスの胸をさらに焦がすのは、もうひとつの映像だった。
戦場の片隅、冷えきった視線でその場を見つめていたレギュラス・ブラック。
倒れたシリウスに駆け寄ろうとするアランを、強引に引き留め、決して触れさせなかったその手。
彼の杖が、シリウスに死をもたらしたわけではない。
それでも、あれは殺されたも同然だ――そう思わせるほどに、その瞳は温度を欠き、哀悼の欠片も持たなかった。
「……絶対に……殺してやる……」
気づけば、低く震える声が唇からこぼれていた。
自分の魔力が、あの男の足元にも及ばないことは解っている。
今すぐでは叶わないかもしれない。
だが、何年経ってもいい。
もっと年老いて、彼の力が衰えたそのときでもいい。
いつか、この手で――必ず。
胸にあるのは二つの痛みだった。
父のように慕ったシリウスを奪われた痛み。
母のように慕ったアランを奪われた痛み。
それらが二つ、絡み合い、重なって、ひとつの刃の形になる。
その刃先は、ただひとり――レギュラス・ブラックに向けられていた。
決して、風化させない。
その思いだけが、アリスをこの先も生かしていく炎だった。
夜のベランダには、ほんのりと冷たい風が流れていた。
外灯の光が葡萄酒の中で淡く揺れ、グラスの縁に小さな月が映っている。
「少しワインでもどうですか」
そう言ったレギュラスに誘われるまま、アランは笑みを張り付けて席についた。
グラスを傾けると、まだ絞られたばかりの若い酸味が舌を刺す。
果実の香りよりも、鋭い輪郭だけがくっきりと残る味わい。
「……少し酸味が強すぎますね」
レギュラスが呟く。
「でも、あなたの好きな軽めの風味のものですよ」
アランはごく自然を装いながら答えた。
長い年月を共に過ごすうちに、アランはこの男の好みを隅々まで覚えてしまっていた。
だから当たり前のようにライトボディの一本を手に取っていた。
その自然さが、胸を複雑に締めつける。
――シリウスとワインを開けたことは、一度もなかった。
彼がどんな酒を好むのかさえ知らない。
知り尽くしているのは、目の前の男のことばかり――
その事実が、あまりにも悲しかった。
「……アラン、渡したいものがあるんです」
不意にかけられた声に、アランが顔を上げる。
レギュラスは立ち上がり、静かに背後へ回った。
次の瞬間、首筋に冷たい感触が触れ――細い銀の鎖が喉元に落ち着く。
小さな赤い石が、一粒、胸元で淡く光っていた。
「外さずにいてください」
低く落ち着いた声。
アランの胸に、疑念が瞬時に芽生える。
――検知魔法か、それとも制約の呪いか。
この男の用心深さを知っていれば、それくらいのことは容易に想像できる。
「……血の誓いを入れています」
一瞬、その意味を理解できなかった。
空気がわずかに重くなる。
「もしあなたの身に何かあれば、それはすべて僕に跳ね返ります。
……たとえ、闇の帝王の放つ呪文であっても」
アランは息を呑んだ。
血の誓い――古い魔法だ。
自らの生命と魔力を代償に、守る者の全てを盾として引き受ける。
あまりにも大きな犠牲を伴うため、今では滅多に行われぬ契約。
胸元で小さな赤い石が、静かに脈打つように光を返す。
その光は、温もりではなく重さを宿して、アランの心を沈めていった。
守られているというより、鎖で繋がれているかのような感覚。
愛情という名の鎖。
それを、彼は平然と「誓い」と呼ぶ。
ワインの酸味が、時間を経てなお、舌の奥に残っていた。
それはもう、果実の若さではなく、心の奥をきしませる鉄の味に似ていた。
ベランダを吹き抜ける風が、赤い石を一瞬震わせた。
「……なぜです?」
かすかに掠れた声で、アランは問いかけた。
「あなたを守れなくなることが、何よりも怖いですから」
答えたレギュラスの声音は、驚くほど穏やかだった。
そこには駆け引きの影も、揺らぎの欠片もない。
胸の奥に堅く抱えていたはずのものが、少しずつ軋みを上げる。
――復讐してやる、この男の心を引き裂く。
――あの日、シリウスの死を見せつけられた恨みは、一生癒えない。
決意は確かだったはずなのに。
こんなにも自らを削りきった愛情を、ためらいなく差し出してくる相手に、
自分は何を向ければいいのか――答えが見えなくなっていた。
涙が、意志とは無関係に滲み出る。
こんなもの、いらなかった。
命を賭けようなど、絶対にしないでほしかった。
そうすれば、自分は最後まで憎み抜けたのに。
憎ませてほしい――心置きなく刃を向けられるように。
それなのに、この眼差しは全てを台無しにしていく。
「……どうして……」
声が途切れる。
胸を満たしていくのは、形のない熱と痛み。
どこまでも変わらず、底なしに注がれる愛情が、
あまりにも真っ直ぐで、光のように澄んでいて――
どうしてここまで人を愛せるのかと問いたいのに、
もう、言葉は声にならなかった。
「……そんなに泣かせるとは、思いませんでした」
柔らかく微笑みながら、レギュラスはアランの頬を伝う涙をひとつ、またひとつ拭い取る。
その指先の温もりが、ますます涙を滲ませていく。
彼の瞳には、ただ静かな愛情だけがあった。
その澄んだ色を直視することが、今は一番苦しかった。
血の誓いを形にすることに、レギュラスの中で迷いはなかった。
それは古の迷信のように語られる呪文――
だが、自らの魔力が強ければ強いほど、その誓いの跳ね返りは確かな盾となる。
これで、アランは必ず守られる。
そう思えることが、彼の胸を不思議と軽くした。
世界のどこで、誰が、いつ杖を向けてくるかはわからない。
それが自分の知らない場所で起こり、アランの命を奪う――
その想像こそが、何よりも恐ろしかった。
だが、まさかこんなにも泣かせてしまうとは思わなかった。
頬をなぞり、涙を拭っても、粒の大きな滴が次々と零れ落ちていく。
夜気に冷めた涙は、彼の指先でかすかに温度を取り戻しては消えていく。
「……なぜ、そんなに私を愛せるのですか」
震える声でアランが問う。
その問いに、レギュラスは一瞬だけ視線を落とした。
――なぜ。
それは、自分が最も解き明かせずにいる疑問だった。
初めて会った日のことを、今もはっきりと覚えている。
兄の婚約者として名を告げられ、まだ少女だったアランが振り向いたあの瞬間。
あの日から、彼女の面影は胸の奥に居座り続けた。
心は一度も、縛りを解かれることなく、自由になることもなかった。
何度、手放せたらと願っただろう。
何度、憎めたらと願っただろう。
彼女のために、さまざまなものを犠牲にしてきた。
それでも――愛しているという、この感情だけは決して手放すことができなかった。
「……なんででしょうね。本当に」
そう口にすると、苦くも愛おしい疲労が胸に満ち、ふと笑いがこみ上げそうになる。
その笑みは、嘲りでも諦めでもなく、ただ長い年月の積み重なりが滲ませた、深い感情のしるしだった。
夜空には雲間から星が瞬き、胸元の赤い石がわずかに光を反射する。
その光は、誓いの証として、そしてふたりを繋ぐ鎖のように、静かに揺れていた。
アランの唇の輪郭を、レギュラスの指がゆるやかに辿った。
その触れ方は、撫でるというより、確かめるような重みがあった。
指先が離れると、そのまま唇が重なった。
ワインの若い酸味が舌に淡く広がり、その奥に涙の塩味が混ざる。
その組み合わせは、不思議なほど胸に沁み入り、苦くも甘い残響を残した。
長く、深く、時間を掛けた口づけだった。
互いの呼吸が重なり合い、間に漂う夜気さえも二人だけの熱に閉じ込められていく。
それだけで、ワインの高いアルコールが血の巡りを速め、全身をふわりと緩ませるような心地が広がった。
唇をわずかに離すと、レギュラスの声が低く落ちる。
「……こんなに僕を雁字搦めにしたんですから、責任とってください」
その言葉に、アランは眉をわずかに寄せた。
「……何を望むのです?」
間髪入れずに返ってきた答えは、静かで、確信に満ちていた。
「……全部です。――あなたの」
その眼差しには、長い年月に渡って積み重ねられた執着と愛情とが、何の曇りもなく宿っていた。
どれだけの時を費やし、何を犠牲にしてもなお手放せなかった思い。
ここまで人生を賭けて愛し続けてきたゆえに、余すことなく全てを捧げてもらわなければ満たされるはずがない――その想いが、何も言わずとも伝わってきた。
視線と視線が絡み、胸元の赤い石がそっと揺れる。
その揺れは、互いを縛る鎖のように、二人の間に確かな重さを落としていた。
