5章
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銀のカトラリーが静かに重なり合う音が、食卓に穏やかなリズムを刻んでいた。
アルタイルとイザベラの間には、いつも通りの柔らかな会話が流れている。
アランはそれを聞きながら、小さく口元を和ませた。
——この温かさだけは守りたい。そう胸の奥で思う。
その時、食堂の扉が音もなく開いた。
重く落ち着いた足音が、ゆっくりとテーブルに近づいてくる。
レギュラスだった。
彼は当たり前のように席に着き、銀の蓋を外しながら淡々と告げる。
「……戻りました」
挨拶とも報告ともつかない一言。
アルタイルはわずかに姿勢を正し、イザベラは穏やかに会釈を返した。
アランは、手元のフォークを置き、視線を一度だけレギュラスに投げる。
その視線は、温かさでも冷たさでもなく、ただ距離を測るような平らな光を帯びていた。
「お仕事、お疲れさまです」
イザベラの声が食卓に落ちると、短い沈黙が訪れる。
その沈黙の中、アルタイルが母の皿によそったスープをそっと押しやる。
「……母さんも、少しは食べて」
その小さな気遣いに、アランは息を吸い込み、静かに頷く。
レギュラスの視線を感じながらも、スプーンを取り、口に運んだ。
スープの温かさが喉を通っていくのにあわせ、空気もわずかに和らいだ気がした。
だがその奥には——誰にも言わない言葉と、それぞれが抱える沈黙がまだ、色濃く潜んでいた。
食後の皿が一枚ずつ片付けられ、最後のワインのグラスが銀盆に乗せられて去っていく。
扉が静かに閉まると、食堂には、即座にしん…とした静寂が降りた。
広いテーブルの両端に座るのは、アランとレギュラスだけ。
互いに視線を合わせようとはしない。
カトラリーの跡が残るクロスと、半分空いたワイングラスだけが、そこに会話の代わりのように置き去られていた。
「……少しは食べられるようになったんですね」
沈黙を破ったのは、レギュラスの低い声だった。
アランはしばらく手元を見つめ、それから淡く息を吐く。
「ええ……アルタイルのおかげで」
レギュラスを見ず、事実だけを告げるような口調。
「僕では、駄目でしたか?」
問いは柔らかくも、奥底に乾いた響きを含んでいた。
アランは、答えを返さなかった。
その沈黙は拒絶でも、肯定でもなく、ただ言葉を費やす価値を見出せないという色を帯びていた。
レギュラスはワインを一口含み、グラスをテーブルに戻す。
静かに揺れた赤い滴が、クロスの影に沈む。
「……そうですか」
それ以上は追及せず、彼は視線を外した。
しかし、横顔には傷のようにかすかな笑みが走った。
アランはそれを見ていたが、何も言わず立ち上がる。
ドレスの裾が床を擦る音だけが、静寂の中に細く伸びた。
ドアノブを握る手に、背後からの視線が絡みつく感覚だけが残る。
だが振り返らず、そのまま廊下へと消えていった。
屋敷の廊下は深夜の静けさに包まれていた。
しかし、その静けさは安寧ではなく、見えない刃のような冷たい緊張を孕んでいる。
アランは、また自室へと籠もっていた。
夫婦の寝室に来るつもりなど微塵もない――その意思は扉越しに伝わってくる。
任務を終えて戻ってきても、屋敷の中には張り詰めた空気が漂うまま。
なぜ、こんな場所でまで息を詰め続けねばならないのか。
胸の奥で、じりじりと苛立ちが火を広げていく。
レギュラスは杖を握り、手首をわずかに返す。
乾いた音とともに鍵が外れ、扉が静かに押し開けられた。
中は、窓際に置かれたランプの灯りだけが柔らかな光を落としている。
その前に、ドレッサーに向かって座るアランの背があった。
鏡越しの視線さえ、こちらには向けない。
「寝るのなら、寝室へどうぞ」
低く抑えた声が、部屋の空気を縫う。
「結構です」
返ってきたのは氷のように冷えた一言。
アランは一度もレギュラスの方を見ようとしない。
その声には、彼女らしくない固く研がれた冷たさが宿っていた。
思えば――この女から、こんな温度の言葉を受けたことは一度もなかった気がする。
むしろ、不意に耳にしたその響きは、どこか遠い誰かの声を思わせた。
アランという存在の中に、知らなかった冷たい水脈が流れているのを初めて見つけたような感覚。
レギュラスは、扉のそばに立ったまま、その背を見つめる。
ランプの光がアランの横顔をわずかに照らし、唇の曲線に硬い影を落としていた。
部屋の中の空気は、言葉よりも冷たく、なおさら鋭く二人の間を裂いていた。
レギュラスは、しばらくその背中を見つめていた。
ランプの光がアランの髪に鈍く反射し、その輪郭だけが淡く浮かび上がっている。
足を一歩、床に響かせる。
その小さな音が、静まり返った部屋ではやけに大きく聞こえた。
それでもアランは身じろぎもしない。
櫛を手に、ゆっくりと髪を梳く。まるで、背後に夫が立っている現実そのものを意図的に遠ざけようとしているかのように。
「……まだ、怒っているんですか」
問いかけは淡々としていたが、奥には押し殺した苛立ちが滲んでいる。
その答えは、沈黙だった。
櫛の歯が髪を滑る音だけが、一定の間隔で響く。
レギュラスはさらに距離を縮め、彼女の横に立つ。
鏡越しに視線を合わせようとしたが、アランは視線を下げたまま、頑なに顔を上げなかった。
「……僕の方を見ないつもりですか」
低く落とされた声。
それでもアランは、まるでその言葉さえ届かないかのように、指先の動きを変えない。
その沈黙と拒絶は、言葉以上の拒否の証だった。
そして、それがレギュラスの胸に、静かだが確実な熱を孕んだ苛立ちを広げていく。
「……好きにしろということですか」
吐き捨てるようにして、レギュラスがわずかに身を引く。
背後に冷たい空気が入り込み、二人の間の距離がまたひとつ深まった。
アランは最後まで何も言わず、視線も上げないままだった。
その頑なな沈黙が、部屋の空気を限界まで冷たくしていた。
櫛が床に落ちた音は、妙に乾いて響いた。
レギュラスの指が掴むのは、華奢なアランの手首。
温もりよりも、固い確かさだけが伝わる握力だった。
それでもアランは顔を上げない。
鏡の中でさえ、彼の目を拒む。
「……アラン」
低く名前を呼ぶ声が、重く部屋に沈む。
返答の代わりに響く沈黙が、レギュラスの胸の奥に渦巻く怒りをさらに膨らませていく。
手首を引き、無理やり立たせる。
軽い体は支えを失い、ベッドの縁まで引き寄せられる。
そして――放り投げるようにすれば、柔らかなマットの上に容易く横たわった。
レギュラスの片膝が沈み、影が覆い被さる。
そのまま馬乗りになり、両手首をシーツに押し込める。
細い手首の骨が掌に当たり、鼓動がかすかに伝わった。
ようやく視線がぶつかった。
翡翠色の瞳がこちらを射抜く。
そこには、見たこともない深い憎悪が宿っていた。
「……その目は、なんです?」
問いの声は低く、しかし底に不穏な色を帯びていた。
「……降りてください」
アランの声は静かで、けれど端まで固く閉ざされている。
問いと答えが、ひどく噛み合わない。
そのずれが、じわじわと胸に違和感――いや、恐れに近い感情を芽生えさせる。
長く愛し続けてきた女だ。
その顔も、声も、感情の色も知り尽くしているはずだった。
それなのに、この目、この温度……知らない。
その距離を、埋めなければという衝動が自然に湧いた。
俯きがちな顔を覗き込むようにし、唇を寄せる――
その瞬間だった。
「――っいやぁあああっ!!」
空気を裂くような悲鳴が、アランの喉から迸った。
予期せぬ鋭さに、レギュラスの動きが一瞬だけ止まる。
部屋の空気が凍りつき、馬乗りの体勢で固まったまま、互いの呼吸音だけがやけに大きく響いた。
その悲鳴の余韻が、壁に沿ってゆっくりと消えていく間も、翡翠の瞳と黒い瞳は絡み合ったまま離れなかった。
ドアの向こうから急ぎ足の気配が走り寄ってくる。
激しく胸を打つ鼓動と共に、扉が勢いよく開かれた。
「母さん、どうしました!?」
アルタイルの声が鋭く広間に飛び込んでくる。
「アラン様、いかがなさいました?」
イザベラもすぐに続き、青ざめた顔で部屋を覗き込んだ。
そこに広がっていた光景は――
レギュラスがアランの上に馬乗りになったまま、両手首を押さえている姿。
息を荒げたアランの頬には涙が滲み、先ほどまでの叫びが部屋の空気を揺らしたままだった。
二人にとって、それは異様だった。
家族という言葉の下にあるべき穏やかさとは、まるで別の、張り詰めた何かがそこにあった。
「……父さん、ひとまず降りてください」
アルタイルの声は抑えていたが、確かな力を帯びていた。
その言葉に、レギュラスはようやくハッとする。
まるで霧の中から引き戻されるように、冷静さが胸の奥に戻ってきた。
ゆっくりと膝を退き、体を起こし、衣服の乱れを整える。
イザベラは迷うことなくアランの側に駆け寄った。
押さえられていた手首を両手で包み込み、さするように寄り添う。
「……大丈夫ですか、アラン様」
その声に、安堵と心配が入り混じっている。
アランは答えない。唇を結び、視線を合わせず、ただ手首の感触に身を委ねていた。
レギュラスの胸に広がっていたのは、説明のつかない衝撃だった。
――あそこまでの悲鳴を、アランから聞いたことはなかった。
そして今、息子とその妻に、このような瞬間を見られてしまったという事実も。
その両方が、鋭く、重く、心を突き刺していた。
口を開くべき言葉は、まだひとつも見つからない。
部屋の中には、緊張と沈黙と、それぞれの鼓動だけが、確かな音をたてていた。
沈黙は、まるで絹を何重にも重ねた上から押しつけられるように重かった。
イザベラがアランの手首を優しく摩る音だけが、小さく室内に流れている。
アルタイルは一歩前に出て、父と母の間に見えない壁を置くように立っていた。
レギュラスはその場に立ち尽くし、視線だけを僅かに下げる。
今、何を言えばこの場が収まるのか――いや、言葉で収まるはずがないことはよく分かっている。
「……もう休みましょう」
ようやく絞り出したその声は、低く、平静を装っていた。
だが、その抑えられた響きの奥には、決して消せない動揺が潜んでいた。
アランは視線を落としたまま、一言も返さない。
ただ、イザベラの支えに身を預け続けている。
アルタイルは父を真っすぐ見据えた。
言葉は発さず、しかしその眼差しには「これ以上は踏み込むな」という固い意思が込められていた。
レギュラスは数秒その視線を受け止め、ゆっくりと後ろに下がる。
足元の絨毯が柔らかく沈み、扉の前に立つ。
振り返らぬまま、短く告げた。
「……任務の準備をしてきます」
扉が静かに閉まると同時に、部屋の空気が少しだけ緩む。
だが、残された三人それぞれの胸には、先ほどまでの光景が生々しく刻まれたままだった。
イザベラはそっとアランの背に手を回し、支えるように促した。
「……お休みになれますか」
その柔らかな問いかけにも、アランは首を振ることしか出来なかった。
アルタイルは母の顔を見て、無理に笑みを作ろうとしたが、結局それも叶わなかった。
今夜、この家に満ちているのは、誰も触れられない深い裂け目のような沈黙だけだった。
扉を背にして廊下を歩き出すと、足音がやけに大きく耳に響いた。
屋敷の夜は静まり返っているのに、その静けさが今は心地よくない。
むしろ、自分の呼吸と脈動だけがやたらと浮き上がって聞こえる。
――あそこまでの悲鳴。
今まで耳にしたことのない、張り裂けるほどの声。
それを上げさせたのが、自分であるという事実が胸の奥をざらつかせる。
さらに、あの姿を――息子とその妻に見られた。
組み敷いたまま固まっていた己の姿、その光景がどれだけ異様に映ったか、分からないはずがない。
刃のような沈黙と視線に、あの場で初めて、ほんの僅かだが冷たく重い羞恥の感情が胸を掠めた。
長年、感情を制御することに慣れきっていたはずだった。
苛立ちも、猜疑も、支配欲も――全て計算と意志で抑え込めると自負していた。
だが今夜、その均衡は揺らいだ。
アランの翡翠の瞳に宿った憎悪、そして拒絶の沈黙。
あれは、自分が知っている妻の顔ではなかった。
その「知らない顔」を向けられた瞬間、生まれたのは怒りだけではなく、理解できない恐れに似た感覚だった。
階段の踊り場から窓の外を見る。
闇に沈む庭、その向こうに広がる夜空は、どこまでも静まり返っている。
だが、自分の内側には、いまだ騒ぎが残っていた。
――任務。
そうだ、今はそれに集中するべきだ。
すべてが片付けば、残った不協和も、望む形に収められる。
そう言い聞かせるようにして、レギュラスは再び歩みを進めた。
夜の空気が、冷たく頬を撫でていった。
夜の路地は、しんと冷えていた。
石畳を踏む足音は二つ。
レギュラスは無言のまま歩き、隣を歩くバーテミウスが時折こちらを横目に見る。
「……おめでとう、でいいんですかね」
声は薄く笑みを含んでいた。
誰のことを指しているのかは分かっている――シリウス・ブラック。
あの男を葬ったことへの祝辞だろう。
レギュラスは答えなかった。
その沈黙は肯定でも否定でもなく、ただ冷たい夜気に溶けて消えていく。
「それにしちゃ……機嫌が悪そうだな君」
バーテミウスの言葉に、心の奥が鈍く波立つ。
機嫌が悪い? そんな生易しいものではない。
見境なく暴れ回り、何もかも粉々にしたい衝動が血管を駆けている。
頭の中では、アランの悲鳴が今も生々しく反響しているのだ。
冷えた夜風にも、その音は消されることがない。
ざらつく胸の奥を、何度も爪で引っかかれるような感覚――
呼吸のたびにその感触だけが増していく。
「任務を片付けたら、気晴らしでもどうです?」
バーテミウスが軽い調子で促す。
レギュラスは僅かに首を振った。
「……やめておきます」
それ以上、その話を広げる気もない。
歩みは変えず、視線は前方の闇に据えたまま。
何かで気を紛らわせていけるこの男が、心底羨ましいと思う。
任務の後に酒を酌み交わし、笑い話で夜を閉じられる者。
その頭と心の中に、誰かの声がずっと残り続けるなどということはないだろう。
自分は違う。
何をしていても、アランのことを考えてしまう。
あの拒絶と恐怖を混ぜた声が、耳に焼き付いて離れることはない。
風が街角を抜ける音が、ひどく遠くに感じた。
脇を歩くバーテミウスの気軽な足取りと、胸の中に沈殿する重さのあまりの違いが、
レギュラスにはどこまでも隔絶された世界のように思えた。
夜の路地を切るようにして、バーテミウスが先に歩を進めた。
石畳の隙間から立ちのぼる冷気は、湿った冬の匂いを帯びている。
行く先には、ひとりの女が追い詰められていた。
彼女はマグル――
人間に生まれながら、魔法など持たぬ身で、しかも純血の魔法使いを誘惑し、駆け落ちを図った罪。
その男の婚約者の名誉を潰し、血筋の誇りをも汚したとされ、その粛正が今夜の任務だった。
レギュラスの胸に、情はなかった。
身の程も知らず純血に触れるなど、許されるはずがない。
まして惑わされるような男も、同情の余地はない。
それはもう、何度も言葉にしなくてもわかっていることだった。
杖を構えたバーテミウスが、ためらうことなく呪文を放つ。
夜気を裂く閃光――
次の瞬間、女の口から、つんざくような悲鳴が溢れ出た。
その瞬間、レギュラスの胸がざわついた。
耳奥に残っていた、あの声――アランの悲鳴と、どこか重なった。
こんなことは……あり得ない。
目の前のこれは、卑しいマグルの声だ。
あの女がアランと同じはずがない。
アランは高貴な純血の家系に生まれ、このブラック家に迎えられた妻。
血も育ちも、何もかもが違う――そうわかっていながら、耳が拒めなかった。
胸の奥を爪でひっかかれたような、不意の痛みが残る。
閃光が収まる。
マグルの女は地面に崩れ、その目はすでに何も映していなかった。
バーテミウスが淡々と杖を下ろす気配が横で揺れる。
それでも、レギュラスはその亡骸を最後まで見なかった。
視線を逸らし、夜の闇に紛れるように足を踏み出す。
背を向けた肩に、わずかなざらつきが残る。
それは女を裁いたことへの迷いではない――
ただ、自分の耳にアランの声が残っているという事実が、どうしても拭えなかった。
アルタイルとイザベラの間には、いつも通りの柔らかな会話が流れている。
アランはそれを聞きながら、小さく口元を和ませた。
——この温かさだけは守りたい。そう胸の奥で思う。
その時、食堂の扉が音もなく開いた。
重く落ち着いた足音が、ゆっくりとテーブルに近づいてくる。
レギュラスだった。
彼は当たり前のように席に着き、銀の蓋を外しながら淡々と告げる。
「……戻りました」
挨拶とも報告ともつかない一言。
アルタイルはわずかに姿勢を正し、イザベラは穏やかに会釈を返した。
アランは、手元のフォークを置き、視線を一度だけレギュラスに投げる。
その視線は、温かさでも冷たさでもなく、ただ距離を測るような平らな光を帯びていた。
「お仕事、お疲れさまです」
イザベラの声が食卓に落ちると、短い沈黙が訪れる。
その沈黙の中、アルタイルが母の皿によそったスープをそっと押しやる。
「……母さんも、少しは食べて」
その小さな気遣いに、アランは息を吸い込み、静かに頷く。
レギュラスの視線を感じながらも、スプーンを取り、口に運んだ。
スープの温かさが喉を通っていくのにあわせ、空気もわずかに和らいだ気がした。
だがその奥には——誰にも言わない言葉と、それぞれが抱える沈黙がまだ、色濃く潜んでいた。
食後の皿が一枚ずつ片付けられ、最後のワインのグラスが銀盆に乗せられて去っていく。
扉が静かに閉まると、食堂には、即座にしん…とした静寂が降りた。
広いテーブルの両端に座るのは、アランとレギュラスだけ。
互いに視線を合わせようとはしない。
カトラリーの跡が残るクロスと、半分空いたワイングラスだけが、そこに会話の代わりのように置き去られていた。
「……少しは食べられるようになったんですね」
沈黙を破ったのは、レギュラスの低い声だった。
アランはしばらく手元を見つめ、それから淡く息を吐く。
「ええ……アルタイルのおかげで」
レギュラスを見ず、事実だけを告げるような口調。
「僕では、駄目でしたか?」
問いは柔らかくも、奥底に乾いた響きを含んでいた。
アランは、答えを返さなかった。
その沈黙は拒絶でも、肯定でもなく、ただ言葉を費やす価値を見出せないという色を帯びていた。
レギュラスはワインを一口含み、グラスをテーブルに戻す。
静かに揺れた赤い滴が、クロスの影に沈む。
「……そうですか」
それ以上は追及せず、彼は視線を外した。
しかし、横顔には傷のようにかすかな笑みが走った。
アランはそれを見ていたが、何も言わず立ち上がる。
ドレスの裾が床を擦る音だけが、静寂の中に細く伸びた。
ドアノブを握る手に、背後からの視線が絡みつく感覚だけが残る。
だが振り返らず、そのまま廊下へと消えていった。
屋敷の廊下は深夜の静けさに包まれていた。
しかし、その静けさは安寧ではなく、見えない刃のような冷たい緊張を孕んでいる。
アランは、また自室へと籠もっていた。
夫婦の寝室に来るつもりなど微塵もない――その意思は扉越しに伝わってくる。
任務を終えて戻ってきても、屋敷の中には張り詰めた空気が漂うまま。
なぜ、こんな場所でまで息を詰め続けねばならないのか。
胸の奥で、じりじりと苛立ちが火を広げていく。
レギュラスは杖を握り、手首をわずかに返す。
乾いた音とともに鍵が外れ、扉が静かに押し開けられた。
中は、窓際に置かれたランプの灯りだけが柔らかな光を落としている。
その前に、ドレッサーに向かって座るアランの背があった。
鏡越しの視線さえ、こちらには向けない。
「寝るのなら、寝室へどうぞ」
低く抑えた声が、部屋の空気を縫う。
「結構です」
返ってきたのは氷のように冷えた一言。
アランは一度もレギュラスの方を見ようとしない。
その声には、彼女らしくない固く研がれた冷たさが宿っていた。
思えば――この女から、こんな温度の言葉を受けたことは一度もなかった気がする。
むしろ、不意に耳にしたその響きは、どこか遠い誰かの声を思わせた。
アランという存在の中に、知らなかった冷たい水脈が流れているのを初めて見つけたような感覚。
レギュラスは、扉のそばに立ったまま、その背を見つめる。
ランプの光がアランの横顔をわずかに照らし、唇の曲線に硬い影を落としていた。
部屋の中の空気は、言葉よりも冷たく、なおさら鋭く二人の間を裂いていた。
レギュラスは、しばらくその背中を見つめていた。
ランプの光がアランの髪に鈍く反射し、その輪郭だけが淡く浮かび上がっている。
足を一歩、床に響かせる。
その小さな音が、静まり返った部屋ではやけに大きく聞こえた。
それでもアランは身じろぎもしない。
櫛を手に、ゆっくりと髪を梳く。まるで、背後に夫が立っている現実そのものを意図的に遠ざけようとしているかのように。
「……まだ、怒っているんですか」
問いかけは淡々としていたが、奥には押し殺した苛立ちが滲んでいる。
その答えは、沈黙だった。
櫛の歯が髪を滑る音だけが、一定の間隔で響く。
レギュラスはさらに距離を縮め、彼女の横に立つ。
鏡越しに視線を合わせようとしたが、アランは視線を下げたまま、頑なに顔を上げなかった。
「……僕の方を見ないつもりですか」
低く落とされた声。
それでもアランは、まるでその言葉さえ届かないかのように、指先の動きを変えない。
その沈黙と拒絶は、言葉以上の拒否の証だった。
そして、それがレギュラスの胸に、静かだが確実な熱を孕んだ苛立ちを広げていく。
「……好きにしろということですか」
吐き捨てるようにして、レギュラスがわずかに身を引く。
背後に冷たい空気が入り込み、二人の間の距離がまたひとつ深まった。
アランは最後まで何も言わず、視線も上げないままだった。
その頑なな沈黙が、部屋の空気を限界まで冷たくしていた。
櫛が床に落ちた音は、妙に乾いて響いた。
レギュラスの指が掴むのは、華奢なアランの手首。
温もりよりも、固い確かさだけが伝わる握力だった。
それでもアランは顔を上げない。
鏡の中でさえ、彼の目を拒む。
「……アラン」
低く名前を呼ぶ声が、重く部屋に沈む。
返答の代わりに響く沈黙が、レギュラスの胸の奥に渦巻く怒りをさらに膨らませていく。
手首を引き、無理やり立たせる。
軽い体は支えを失い、ベッドの縁まで引き寄せられる。
そして――放り投げるようにすれば、柔らかなマットの上に容易く横たわった。
レギュラスの片膝が沈み、影が覆い被さる。
そのまま馬乗りになり、両手首をシーツに押し込める。
細い手首の骨が掌に当たり、鼓動がかすかに伝わった。
ようやく視線がぶつかった。
翡翠色の瞳がこちらを射抜く。
そこには、見たこともない深い憎悪が宿っていた。
「……その目は、なんです?」
問いの声は低く、しかし底に不穏な色を帯びていた。
「……降りてください」
アランの声は静かで、けれど端まで固く閉ざされている。
問いと答えが、ひどく噛み合わない。
そのずれが、じわじわと胸に違和感――いや、恐れに近い感情を芽生えさせる。
長く愛し続けてきた女だ。
その顔も、声も、感情の色も知り尽くしているはずだった。
それなのに、この目、この温度……知らない。
その距離を、埋めなければという衝動が自然に湧いた。
俯きがちな顔を覗き込むようにし、唇を寄せる――
その瞬間だった。
「――っいやぁあああっ!!」
空気を裂くような悲鳴が、アランの喉から迸った。
予期せぬ鋭さに、レギュラスの動きが一瞬だけ止まる。
部屋の空気が凍りつき、馬乗りの体勢で固まったまま、互いの呼吸音だけがやけに大きく響いた。
その悲鳴の余韻が、壁に沿ってゆっくりと消えていく間も、翡翠の瞳と黒い瞳は絡み合ったまま離れなかった。
ドアの向こうから急ぎ足の気配が走り寄ってくる。
激しく胸を打つ鼓動と共に、扉が勢いよく開かれた。
「母さん、どうしました!?」
アルタイルの声が鋭く広間に飛び込んでくる。
「アラン様、いかがなさいました?」
イザベラもすぐに続き、青ざめた顔で部屋を覗き込んだ。
そこに広がっていた光景は――
レギュラスがアランの上に馬乗りになったまま、両手首を押さえている姿。
息を荒げたアランの頬には涙が滲み、先ほどまでの叫びが部屋の空気を揺らしたままだった。
二人にとって、それは異様だった。
家族という言葉の下にあるべき穏やかさとは、まるで別の、張り詰めた何かがそこにあった。
「……父さん、ひとまず降りてください」
アルタイルの声は抑えていたが、確かな力を帯びていた。
その言葉に、レギュラスはようやくハッとする。
まるで霧の中から引き戻されるように、冷静さが胸の奥に戻ってきた。
ゆっくりと膝を退き、体を起こし、衣服の乱れを整える。
イザベラは迷うことなくアランの側に駆け寄った。
押さえられていた手首を両手で包み込み、さするように寄り添う。
「……大丈夫ですか、アラン様」
その声に、安堵と心配が入り混じっている。
アランは答えない。唇を結び、視線を合わせず、ただ手首の感触に身を委ねていた。
レギュラスの胸に広がっていたのは、説明のつかない衝撃だった。
――あそこまでの悲鳴を、アランから聞いたことはなかった。
そして今、息子とその妻に、このような瞬間を見られてしまったという事実も。
その両方が、鋭く、重く、心を突き刺していた。
口を開くべき言葉は、まだひとつも見つからない。
部屋の中には、緊張と沈黙と、それぞれの鼓動だけが、確かな音をたてていた。
沈黙は、まるで絹を何重にも重ねた上から押しつけられるように重かった。
イザベラがアランの手首を優しく摩る音だけが、小さく室内に流れている。
アルタイルは一歩前に出て、父と母の間に見えない壁を置くように立っていた。
レギュラスはその場に立ち尽くし、視線だけを僅かに下げる。
今、何を言えばこの場が収まるのか――いや、言葉で収まるはずがないことはよく分かっている。
「……もう休みましょう」
ようやく絞り出したその声は、低く、平静を装っていた。
だが、その抑えられた響きの奥には、決して消せない動揺が潜んでいた。
アランは視線を落としたまま、一言も返さない。
ただ、イザベラの支えに身を預け続けている。
アルタイルは父を真っすぐ見据えた。
言葉は発さず、しかしその眼差しには「これ以上は踏み込むな」という固い意思が込められていた。
レギュラスは数秒その視線を受け止め、ゆっくりと後ろに下がる。
足元の絨毯が柔らかく沈み、扉の前に立つ。
振り返らぬまま、短く告げた。
「……任務の準備をしてきます」
扉が静かに閉まると同時に、部屋の空気が少しだけ緩む。
だが、残された三人それぞれの胸には、先ほどまでの光景が生々しく刻まれたままだった。
イザベラはそっとアランの背に手を回し、支えるように促した。
「……お休みになれますか」
その柔らかな問いかけにも、アランは首を振ることしか出来なかった。
アルタイルは母の顔を見て、無理に笑みを作ろうとしたが、結局それも叶わなかった。
今夜、この家に満ちているのは、誰も触れられない深い裂け目のような沈黙だけだった。
扉を背にして廊下を歩き出すと、足音がやけに大きく耳に響いた。
屋敷の夜は静まり返っているのに、その静けさが今は心地よくない。
むしろ、自分の呼吸と脈動だけがやたらと浮き上がって聞こえる。
――あそこまでの悲鳴。
今まで耳にしたことのない、張り裂けるほどの声。
それを上げさせたのが、自分であるという事実が胸の奥をざらつかせる。
さらに、あの姿を――息子とその妻に見られた。
組み敷いたまま固まっていた己の姿、その光景がどれだけ異様に映ったか、分からないはずがない。
刃のような沈黙と視線に、あの場で初めて、ほんの僅かだが冷たく重い羞恥の感情が胸を掠めた。
長年、感情を制御することに慣れきっていたはずだった。
苛立ちも、猜疑も、支配欲も――全て計算と意志で抑え込めると自負していた。
だが今夜、その均衡は揺らいだ。
アランの翡翠の瞳に宿った憎悪、そして拒絶の沈黙。
あれは、自分が知っている妻の顔ではなかった。
その「知らない顔」を向けられた瞬間、生まれたのは怒りだけではなく、理解できない恐れに似た感覚だった。
階段の踊り場から窓の外を見る。
闇に沈む庭、その向こうに広がる夜空は、どこまでも静まり返っている。
だが、自分の内側には、いまだ騒ぎが残っていた。
――任務。
そうだ、今はそれに集中するべきだ。
すべてが片付けば、残った不協和も、望む形に収められる。
そう言い聞かせるようにして、レギュラスは再び歩みを進めた。
夜の空気が、冷たく頬を撫でていった。
夜の路地は、しんと冷えていた。
石畳を踏む足音は二つ。
レギュラスは無言のまま歩き、隣を歩くバーテミウスが時折こちらを横目に見る。
「……おめでとう、でいいんですかね」
声は薄く笑みを含んでいた。
誰のことを指しているのかは分かっている――シリウス・ブラック。
あの男を葬ったことへの祝辞だろう。
レギュラスは答えなかった。
その沈黙は肯定でも否定でもなく、ただ冷たい夜気に溶けて消えていく。
「それにしちゃ……機嫌が悪そうだな君」
バーテミウスの言葉に、心の奥が鈍く波立つ。
機嫌が悪い? そんな生易しいものではない。
見境なく暴れ回り、何もかも粉々にしたい衝動が血管を駆けている。
頭の中では、アランの悲鳴が今も生々しく反響しているのだ。
冷えた夜風にも、その音は消されることがない。
ざらつく胸の奥を、何度も爪で引っかかれるような感覚――
呼吸のたびにその感触だけが増していく。
「任務を片付けたら、気晴らしでもどうです?」
バーテミウスが軽い調子で促す。
レギュラスは僅かに首を振った。
「……やめておきます」
それ以上、その話を広げる気もない。
歩みは変えず、視線は前方の闇に据えたまま。
何かで気を紛らわせていけるこの男が、心底羨ましいと思う。
任務の後に酒を酌み交わし、笑い話で夜を閉じられる者。
その頭と心の中に、誰かの声がずっと残り続けるなどということはないだろう。
自分は違う。
何をしていても、アランのことを考えてしまう。
あの拒絶と恐怖を混ぜた声が、耳に焼き付いて離れることはない。
風が街角を抜ける音が、ひどく遠くに感じた。
脇を歩くバーテミウスの気軽な足取りと、胸の中に沈殿する重さのあまりの違いが、
レギュラスにはどこまでも隔絶された世界のように思えた。
夜の路地を切るようにして、バーテミウスが先に歩を進めた。
石畳の隙間から立ちのぼる冷気は、湿った冬の匂いを帯びている。
行く先には、ひとりの女が追い詰められていた。
彼女はマグル――
人間に生まれながら、魔法など持たぬ身で、しかも純血の魔法使いを誘惑し、駆け落ちを図った罪。
その男の婚約者の名誉を潰し、血筋の誇りをも汚したとされ、その粛正が今夜の任務だった。
レギュラスの胸に、情はなかった。
身の程も知らず純血に触れるなど、許されるはずがない。
まして惑わされるような男も、同情の余地はない。
それはもう、何度も言葉にしなくてもわかっていることだった。
杖を構えたバーテミウスが、ためらうことなく呪文を放つ。
夜気を裂く閃光――
次の瞬間、女の口から、つんざくような悲鳴が溢れ出た。
その瞬間、レギュラスの胸がざわついた。
耳奥に残っていた、あの声――アランの悲鳴と、どこか重なった。
こんなことは……あり得ない。
目の前のこれは、卑しいマグルの声だ。
あの女がアランと同じはずがない。
アランは高貴な純血の家系に生まれ、このブラック家に迎えられた妻。
血も育ちも、何もかもが違う――そうわかっていながら、耳が拒めなかった。
胸の奥を爪でひっかかれたような、不意の痛みが残る。
閃光が収まる。
マグルの女は地面に崩れ、その目はすでに何も映していなかった。
バーテミウスが淡々と杖を下ろす気配が横で揺れる。
それでも、レギュラスはその亡骸を最後まで見なかった。
視線を逸らし、夜の闇に紛れるように足を踏み出す。
背を向けた肩に、わずかなざらつきが残る。
それは女を裁いたことへの迷いではない――
ただ、自分の耳にアランの声が残っているという事実が、どうしても拭えなかった。
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