5章
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塔の上の薄明かりが消え入りそうな宵の空の下、シリウス・ブラックはデスイーターたちと対峙していた。
彼の瞳には、ただひとつ、守るべきものの姿が深く刻まれている。
親友の息子、ハリー・ポッター。彼を盾に、息づまる戦いが繰り広げられていた。
ヴォルデモートが予言の子としてハリーを標的視し、その役割を魔法界の誰もが知っているこの夜。
騎士団の面々も、必死の覚悟で予言の玉を守り抜こうとしていた。
「予言を渡しな!」
ベラトリックスの鋭い声が空気を震わせる。
彼女の言葉は鋭利な矢のように切り込むが、その裏にはヴォルデモートに魂を捧げる冷徹な信念が宿っている。
アリスはシリウスのすぐ横に立ち、闘志を共に燃やした。細い指先から伝わる緊張が、まるで鉄の鎧のように彼らを結びつけていた。互いを守りながら、激昂の渦の中心で鋭い魔法の閃光が飛び交う。
遅れて現れたレギュラス・ブラックは、暗い眼差しの先に使命を背負っていた。ヴォルデモートから「何としても予言を手に入れろ」と全デスイーターに下された命令が、彼の胸を再び重く締め付ける。
彼の冷静な足取りが戦場に踏み込むと、空気が一瞬変わる。強固な決意と狡猾さが混ざり合い、彼の存在だけで戦況の緊迫度が一段と高まった。
火花が散り、静寂と怒号が交錯する中、ハリーを守るための激しい魔法の応酬が白熱していた。息遣い、呪文の詠唱、そして心中の焦燥と決意が細やかに絡み合い、戦いの美しさと恐ろしさが同時に姿を現す。
アリスの目は揺るぎなく、シリウスと共に仲間たちを鼓舞しながら、過酷な闘争の中で己の役割を全うしていた。死線の狭間で輝くその姿は、騎士団の精神そのものを象徴しているかのようだった。
闇と光が交錯するこの戦いの場に、命を懸けて守りたいものがあるという揺るぎなき真実が、静かに、そして強烈に刻まれていた。
夕刻の空は、戦の前触れを孕んだ色に沈んでいた。
石畳を踏みしめる音が、ひとつ、またひとつと重なり、塔の影の中でその輪郭が浮かび上がる。
レギュラス・ブラックは、視線だけでアランを捉えた。
その瞳は、外から見れば冷静で冴えた光を湛えているように見える。
だが、その奥では、長年磨かれた執念と、消え難い嫉妬の焔が、ゆっくり燃え上がっていた。
「アラン、騎士団と対峙する可能性がありますから……必ず僕の後ろにいてくださいね」
声音は穏やかで、忠告めいて聞こえる。
アランは頷きながら、苦く笑った。
「ええ……でも、私の戦力なんかで、あなたを守れるでしょうか……」
レギュラスは微かに口角を上げた。
――守らせるつもりなど、毛ほどもない。
実際には、自分がアランを守りながら戦う形になると分かっている。
正直、動きにくいにも程がある。
だが、それでいいのだ。
今日、シリウス・ブラックは死ぬ。
殺すのは自分だ。
そしてそれを――アラン本人の目の前で見せる。
そのために、彼女を同行させている。
ヴォルデモートから受けた任務は、予言を持ち帰ること。
その過程で、騎士団が絡んでくるのは予想の範疇だった。
そして、その中にシリウスが必ずいることも、分かっていた。
シリウスは、アランの姿を目にした瞬間、必ず刹那の油断を見せる。
そのくらいに、この女はシリウスにとって「全て」なのだ。
かつてはお互いに想い合っていた二人――それを決定的に引き離したのは、他ならぬ自分。
だが、離すだけでは終わらなかった。
なぜなら二人は、離れてなお繋がっていたからだ。
その事実が、レギュラスを幾度となく苛み続けた。
嫉妬と焦燥に胸を掻き毟られる日々。
アランが自分の隣にいても――視線の奥底にシリウスが棲みついている、その現実は、数え切れぬ夜を狂わせた。
けれど、それも今日で終わる。
アランの中から、シリウス・ブラックという男を、完全に――永遠に消し去る。
その期待と昂揚は、主から授かった任務の価値さえ上回っていた。
戦場で、アランの姿を見たシリウスがごくわずかでも気を緩めた、その瞬間――
そこに突き込み、殺す。
その光景をアランの瞳に焼き付け、二度と消えぬ傷として残してやる。
「……行きましょう」
静かな声が夜気に溶ける。
その背に宿る影は、任務という仮面の下で、冷たい歓喜を噛み締めていた。
石畳を踏みしめる二人の足音が、夜の闇に深く吸い込まれていく。
路地の先には、既に魔法の閃光が幾筋も走り、怒号と衝突音が響いていた。
火薬にも似た焦げた魔力の匂いが漂い、空気は肌に刺さるほど張り詰めている。
レギュラスの歩幅は一定で、迷いは一切ない。
アランはその背中を追いながらも、ただならぬ気配に胸の奥を固くしていた。
戦場に踏み入れた途端、その光景が二人を包み込む。
ベラトリックスの甲高い笑い声、紅と黄の閃光が飛び交い、鎖のように仲間同士の魔法が絡み合う。
その中央――シリウス・ブラックの姿があった。
鋭い眼差しの先にはハリーを庇うように立ちはだかる姿。
「……やはり来ていましたね」
レギュラスの声は低く淡々としているが、その奥では昂りが波打っている。
アランは一瞬、その姿に息を呑み、そして視線を逸らした。
だが、レギュラスの目は逸らさない。ただ真っ直ぐ、その標的を射抜いている。
予言の玉を巡る攻防はすでに極限に達していた。
ベラトリックスが「渡せ!」と叫び、
シリウスは「絶対に渡さない!」と応じる。
仲間の魔法が交差する中、レギュラスは無言で距離を詰める。
――奴は、アランの姿を目にした瞬間、必ず気を緩める。
その瞬間を狙う。
それだけのために、今日という日を仕組んだ。
心の中で刻むように思い返す。
「アラン、後ろに」
レギュラスが短く告げる。声には命令にも似た硬さが混じっていた。
彼の視線の先で、シリウスがこちらに気づいた。
そして――その目が、大きく見開かれる。
ほんの一瞬、戦いの動きが鈍った。
レギュラスの唇が僅かに動く。
それは、長年胸に溜めてきた感情を解き放つ者だけが持つ、冷酷な笑みだった。
――今だ。
時間が、露骨に速度を落としたように感じられた。
耳鳴りと心臓の鼓動の音だけが、世界を満たしている。
レギュラスの視界の中心にはシリウス。
その輪郭の端に、振り返ったアランの横顔が重なる――罠は成功だ。
油断の色が、確かにあった。
黒い杖先に、殺意が凝縮される。
呼吸も瞬きも、すべてが沈黙の中で研ぎ澄まされ、
標的までの距離は、計算上も感覚上も「届く」。
「――アヴァ」
低く、音を吸い込むような発声。
緑光の呪文が解き放たれようとする、その瞬間――
何かが、鋭く視界を横切った。
白銀の閃光。
同時に強烈な衝撃波が走り、背後から彼の腕を逸らせた。
呪文は目標から逸れ、石壁に直撃。
緑の閃光に触れた壁が抉れ、破片が弾け飛ぶ。
「――レギュラス!」
低く鋭い呼びかけが戦場を裂いた。
その声の主は、今まさに彼の殺意を遮った人物。
アリスだった。
自らの身を滑り込ませるようにして、シリウスへの射線を塞いでいた。
眼差しには恐れよりも、決意と怒りが宿っている。
混戦の音が、一気に速度を取り戻す。
周囲の騎士団員が一斉に杖を構え、逆にデスイーターたちも陣を詰める。
緊張の糸は、さらに強く、そして鋭く引き絞られていった。
レギュラスの唇は笑みの形を保ちながら、僅かに歪む。
――すぐには終わらせない。
まだ方法はいくらでもある。
暗い決意がその目に戻っていた。
石壁に残る抉れた跡から、まだ緑の残光が揺らめいていた。
そこに立ちはだかるアリスの背は、細いはずなのに、鉄壁のごとき線を描いている。
「……何のつもりです?」
レギュラスの声は低く抑えられていたが、その奥では潜熱のように怒りが燻っていた。
「あなたに——そんなことをさせるわけにはいかない」
アリスは振り返らずに言い放ち、杖の先を敵陣に向け直す。
彼女がシリウスへ送った一瞬の視線は、無言の「下がって」という合図にも見えた。
周囲はすでに極限の渦だった。
騎士団員の詠唱が重なり、デスイーターの反撃が稲妻のように走る。
熱気と衝撃波が交互に全身を叩き、視界の端に閃光と影が入り乱れる。
レギュラスは一度、ゆっくりと深く息を吸った。
逸らされた腕の感覚から、殺気はまだ消えていないことを確かめる。
むしろ——今は冷ややかな計算が戻ってきていた。
一撃で仕留める機会は潰された。
だが、混乱が続けば、形勢は何度でも揺らぐ。
それに——シリウスの足元には、まだ予言の玉がある。
奴がアランから視線を逸らす瞬間も、必ず再び訪れるだろう。
「……いいでしょう、少し長引かせますか」
小さく呟き、レギュラスは足を半歩引き、別の方角へと杖を振った。
高く迸った赤い閃光が、戦場の陣形を崩すように爆ぜ、
混乱と新たな隙を作り出す。
その中で彼の目は、常に一点を追い続けていた。
混乱を狙った赤い閃光が戦場を一層荒れさせ、声も音も視界すら飲み込む渦と化していた。
呪文が交錯し、瓦礫が飛び、焦げた魔力の匂いが鼻腔を突く。
――その渦の中で、アランは気づいた。
レギュラスの視線が、予言の玉だけでなく、ずっとある一点――シリウスだけを追っていることに。
その眼差しには、任務以上の何か…もっと深く、もっと私的な執着があった。
胸の奥がひやりと冷える。
これはただの戦闘じゃない。この人は――シリウスを殺すつもりでいる。
アランは、噛みしめるように息を吸った。
戦場の中で動くのは危険だ。だが、このままでは取り返しがつかない。
レギュラスがゆっくりと構え直し、標的までの距離を測る動きに入る。
その瞬間、アランは考えるより先に足を踏み出していた。
飛び散る瓦礫の間をすり抜け、彼の正面へと滑り込む。
その手首を強く掴んだ。
「――やめて、レギュラス」
音をかき消す爆音の中でも、その声だけは彼の耳に届いた。
彼はわずかに眉を上げ、冷たい微笑を浮かべる。
「……邪魔をするんですか」
「これは任務じゃない――あなたは、私にシリウスの死を見せようとしている」
唇の端にかすかに宿った笑みが、彼の胸の奥の答えを告げていた。
アランはさらに強く腕を握る。
背後では戦いが渦を巻き、シリウスとアリスが予言の玉を抱えて後退していくのが見えた。
レギュラスの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
それでも、標的を見失ってはいない。
「……どのみち、あの人はもう逃げられませんよ」
胸の奥で、アランは決意を固めた。
この人の引き金を絶対に引かせない――たとえ、自分の身を盾にしてでも。
戦場の灰色の気配を裂くように、レギュラスの声が静かに響いた。
「――覚えていますか、アラン。
証明してみせろと言ったことを。」
その声音を聞いた瞬間、アランは何のことかすぐに理解した。
“シリウス・ブラックを殺せますか――”
あの問い。あの日、レギュラスから突きつけられた、残酷な試練。
確かにあの時、自分は微力ながらも「従う」と応えてしまった。
だが――冷静に考えれば、アランの魔力がシリウスの足元にも及ぶはずがない。
殺すなど到底、不可能だ。
けれど今、レギュラスの杖がシリウスへと向けられたこの瞬間、
あの日の“真意”が痛いほどに理解できた。
――殺せというのは、自分の手で相手の命を絶て、ということじゃない。
自分の魂を賭けて愛した男が殺される、その瞬間を、みすみす見ていろという、その残酷な命令だったのだ。
胸の底で、心臓が激しく震える。
息が詰まりそうになる。
どうか、どうかやめて、と。言葉が喉の奥で叫びに変わる。
「……お願い、やめて、レギュラス」
その声は、炎の渦の只中にある氷のように、
鋭く、切なく、苦しげに震えた。
けれどレギュラスは、何も揺るがぬ表情のまま、杖をシリウスに向け構えている。
アランの指が震えながら杖を握った。
何度も自分の無力さを知った手のひら――
けれど今だけは、ただ彼を引き止めるために。
「――!」
レギュラスの背に向けて、叫ぶように呪文を放つ。
全身が擦り切れるほどの願いを込め、
それは噴き上がる光となり、彼にぶつかった。
衝撃が空気を裂き、レギュラスの腕が一瞬、鈍く痙攣する。
彼の瞳が驚きと怒りに揺れ、振り返る。
戦場の喧騒もふたりの間の緊張も、すべてがこの一瞬に圧縮された。
それでも、アランは杖を下ろさない。
涙の粒が頬を伝いながらも、唇は微かに震え、瞳には決意の光が宿っていた。
「お願い……これ以上、私の中から、“シリウス”を奪わないで――」
その声は、誰にも届かないほど細く、
けれど、魂の底からの祈りで満ちていた。
その光景のなか、アランは初めて、“証明”とは生きて誰かを守ることだと、
涙とともに理解した気がした。
赤と緑の光が、荒れ狂う戦場の空に絡み合う。
アランの放った強力な跳ね返し呪文が、レギュラスの死の呪文に正面からぶつかる――はずだった。
だが、その衝撃は存在しなかった。
光は互いを弾き飛ばすことなく、ただ空中で虚しくほどけていく。
――わかっていた。
いや、忘れていた。
死の森での試練を越えた日、もう二度と互いに杖を向け合う必要がないようにと、レギュラスと同じ芯を持つ兄弟杖に変えることを選んだ。
それは互いの呪文が致命傷を与えないための、最も深い誓いだった。
その誓いが、今。
彼を止めるための唯一の手段を、自分の手から奪っていた。
跳ね返しは作用せず、緑の閃光はシリウスへと向かおうとしていた。
アランの胸の奥で、心臓が裂けるように脈打つ。
――間に合わない。
その刹那。
横合いから、甲高い笑い声と共に別の緑光が鋭く走った。
「死ねぇッ!」ベラトリックスの声。
それは、予期せぬ角度から、迷いなくシリウスの胸を貫いた。
瞬間、音が消えた。
シリウスの体がわずかに揺れ、ゆっくりと後ろへ傾いていく。
瞳には驚きと、僅かな悔しさが宿ったまま――もう声はなかった。
後ろへ倒れゆくその動作は、恐ろしく緩慢に見えた。
まるで時が、彼の最後の瞬間を永遠にしようと引き延ばしているかのように。
「――シリウス!」
アランの叫びが、自分でも驚くほど高く、裂けるように響いた。
足は地を蹴っていたが、ただの一歩さえ永遠に届かない距離に思えた。
彼の背が虚空に沈み、薄闇がその影を呑み込む。
兄弟杖を選んだあの日の選択が、この結末に直結しているという痛みが、胸を抉り続けた。
守るために選んだ絆が、守れなかった現実として牙を剥く――これほどの皮肉はなかった。
戦場の喧騒の中、アランの耳にはもう何も入ってこない。
そこにあるのは、ただ、胸を締め裂くような喪失の音だけだった。
ベラトリックスの甲高い笑い声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
「ははは…! 終わったわ、シリウス・ブラック!」
その声は、まるで薄氷を叩き割るように、アランの耳に鋭く突き刺さった。
視界が霞み、瞳の奥で赤い光と緑の光がまだちらついている。
喉の奥から再び声が出そうになったが、音は掠れ、喘ぎのような息になった。
レギュラスは、その光景を一瞬も逸らさずに見ていた。
勝ち誇るでもなく、悔しがるでもなく――ただ静かに、何かを見届ける目だった。
けれど、その奥底でほんのわずかに溶け落ちる緊張と、得体の知れない静かな満足が潜んでいるのを、アランは見逃さなかった。
彼の計画した手は、自らの呪文ではなく妹の一撃によって成し遂げられた。
それでも核心は変わらない。
――シリウスはもう、この世にはいない。
アランの足は、意識する間もなく前へ出ていた。
瓦礫を踏み越え、崩れゆく床の上を、彼の倒れた方へと――
伸ばした指先は空を掴み、頬を熱いものが伝う。
「シリウス……」
声に乗った名は、戦場の喧噪にかき消されそうで、それでも確かに届くように祈るように呼ばれた。
その横で、ベラトリックスは愉悦に濡れた瞳を細め、さらに追い討ちを掛けるように笑い続ける。
「哀れね、アラン! あんたの目の前で、最愛の男が死ぬなんて!」
アランは、その言葉にも振り返らず、ただ前だけを見続けた。
背後に立つレギュラスの気配が、戦場の熱の中でもはっきりと分かる。
彼の黒い瞳が、自分の動きを隅々まで見守っている――守るでも、止めるでもなく、ただ観察するように。
アランの胸の中で、感情が形を失いながら渦巻いていく。
怒りとも悲しみとも絶望ともつかぬ波が、身体の芯まで押し寄せる。
兄弟杖の誓いが、この瞬間、最愛の者を守る可能性を閉ざしたという、避けられぬ事実と共に。
戦況はなおも荒れ果て、魔法の光が飛び交っていたが、アランの視界にはもう、倒れたシリウスの影しか映っていなかった。
足が勝手に動いていた。
息も視界も荒れた戦場の中で、アランの目にはただ、崩れ落ちたシリウスの姿しか映らない。
瓦礫を蹴散らし、魔法の閃光をすり抜け、その影へとただ向かう。
――あと数歩。
指先さえ届けば、その手を握れる。
その瞬間。
鋼のような腕が、横からアランの肩を強く掴んだ。
力は容赦なく、身体ごと引き止められる。
背に感じた冷たい気配――レギュラスだ。
「……やめておきなさい」
低く短い声は、騒乱の中でもはっきり耳に届く。
命令でも、忠告でもなく、揺るぎない拒絶の響きだった。
「離して! シリウスが――」
アランは必死に振りほどこうとするが、その腕は岩のように動かない。
焦燥で胸が痛み、涙が視界を滲ませる。
近くでベラトリックスの笑い声がまた響き、空気がさらに鋭く濁った。
「行かせるわけにはいきません」
その一言は、氷の刃のように冷たく、重い。
アランは振り返り、真っ直ぐにその黒い瞳を睨みつける。
「あなた……最初からこの瞬間を――」
声が震えて言葉にならない。
レギュラスの表情は変わらず、戦場の混沌の中でただ彼女の動きを封じ続ける。
倒れたシリウスは、もう微動だにしない。
その距離は手を伸ばせば届くほど近いのに、二人の間に立ちはだかる壁が絶対すぎて、アランは前へ進めなかった。
戦場の轟音の中で、胸の奥に広がっていくのは、どうしようもない無力感と、レギュラスの手の温度だけだった。
アランは力任せに肩を引き剥がそうとした。
片足を踏み込み、重心を前へ――それでも、背後から掛けられた腕は鉄のように固く、びくとも動かない。
戦場の熱と焦げた魔力の匂いが全身を包む中、彼女の耳には自分の荒い呼吸と心臓の鼓動だけが響いていた。
「離して……! お願い、行かせて……!」
声は涙で震え、もはや命令でも懇願でもなく、本能の叫びだった。
目の前には、倒れ伏すシリウスの影がある。
伸ばすはずの腕は後ろへ引かれ、指先は空を掻くばかり。
「……アラン」
呼びかける声は低く静かで、しかし揺るぎなく重い。
その音が鼓膜を叩いた瞬間、彼の腕がさらに強く彼女の身体を包み、ゆっくりと後ろへ引き戻していく。
地面を蹴る力は、背後からの静かな力に呑まれていく。
わずか数歩の距離が、何十歩にも感じられるほど遠ざかっていく。
「やめて……やめて!」
必死に足を前へ押し出そうとするたび、腰に回された腕が確実にそれを封じる。
やがて、戦場の喧騒がふたりの間に厚く立ちこめ、
アランの視界からシリウスの影が魔法の閃光と人の群れに完全に隠れた。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちる。
レギュラスの体温と力強さだけが、もはや自分をこの場に留めている理由だった。
だが、その腕は鎖のように重く、温もりでさえ今は憎しみと絶望を混ぜていた。
アランは顔を背け、唇を噛み締めた。
視界の端で、緑の残光がなおゆらめいている。
もう届かない――そう悟らされるたびに、胸が締めつけられた。
視界が揺れていた。
涙でにじんだ光と影の向こう、シリウスが倒れ伏す姿が最後まで焼き付いて離れない。
その傍らには、彼を必死に抱き守るようにして膝をつくアリスの姿――
震える肩、頬を濡らす涙、その全てがアランの胸を締め上げた。
耐えられない。
愛した人が。自分の全てだった人が。
その命を、一瞬で奪われた。
もう二度と届かない世界へ行ってしまった。
脳裏で、何かがぷつりと切れる音がした。
声にならない声が喉を裂く。
呼吸が熱く、鋭く胸を締め付け、吸っても空気が足りない。
――いっそ、このまま、この呼吸も止まってしまえばいい。
そんな危うい願いが、心の奥底から浮かび上がってくる。
その瞬間、強い腕に絡め取られた。
レギュラスの手だ。
鋭く掴まれ、僅かな猶予もなく姿くらましの魔法が掛けられる。
最後の最後まで、アランの目はシリウスを追っていた。
見えなくなるその瞬間まで――倒れた彼も、その傍らで泣き続けるアリスの姿も。
視界が暗転し、次に足が着いた時には、戦場の喧騒はもうなかった。
そこにあったのは、青白く落ち着き払ったレギュラスの横顔。
彼は冷静に立っていた。
その落ち着きこそが、あまりにも酷だった。
「……離して……」
搾り出すように言うと、彼は何のためらいもなく返した。
「戻りますよ」
その声音の端に、安堵も哀悼もなかった。
ただ事務的な響きだけがあった。
――この男は。本当に。
どこまで冷酷で、残忍なのか。
かつてこの手に命を救われた。
その恩義に報いようと、アルタイルやセレナの父だからと、感謝と義務を束ねて支えてきた。
彼のそばで歩き、支えることが、愛だと信じてきた。
だが――今は。
とてもじゃないけれど、愛せない。
胸の奥で、何かがきしむ音がはっきりとした。
レギュラスの背筋は完璧に伸び、その影は一切の揺らぎを見せなかった。
その冷たい輪郭を見つめながら、アランは心の奥で、静かに何かを失っていった。
その場には、戦場の熱も鼓動の高鳴りも、もう一片たりとも残っていなかった。
代わりに、静まり返った空気が蝋燭の火のように揺らめき、冷たく胸の奥に入り込んでくる。
アランは視線を落としたまま、ゆっくりとレギュラスの腕から離れた。
彼はその動作を引き止めもしなければ、追いもしない。
やがて、衣の裾を払って背を向けると、何事もなかったかのように歩きはじめた。
その背中は、戦場できびきびと指揮を執る時と何も変わらない――
まるで、いま起きたことがただの「任務の一場面」に過ぎなかったかのようだった。
足音がやけに大きく響く。
アランは数歩遅れてその背を追いながら、視界の端で闇の中の空間移動の光を感じた。
瞬きを一度するかしないかのうちに、二人は屋敷の中庭に立っていた。
冷たい夜気が頬を撫でる。
戦場の焦げ臭さや血の匂いは、もう遠い彼方へと押しやられている。
――だが、胸に焼き付いた光景は、一歩も離れてはくれなかった。
「……戻りましたよ」
背後にだけ向けられた低い声。
アランは返事をしなかった。
ただ、視線を少しそらし、小さく頷くだけ。
言葉を交わしたら、いまにも心の奥の崩れが音になって漏れてしまいそうだった。
その危うさを知っているからこそ、彼の黒い瞳をまっすぐに見ることはできなかった。
中庭の花々は夜露に濡れて、ひそやかに香りを放っている。
だが、その香りも、アランにとってはただ遠く、虚ろに感じられた。
――かつて、彼を支えることが愛だと信じてきた。
けれど今は、その信念すら瓦解してしまった。
残っているのは、言葉にもできない深い空洞。
その空洞を抱えたまま、アランは一歩、屋敷の奥へと足を踏み入れた。
背後から響くレギュラスの足音は、冷たく、正確に、それだけが変わらず追いかけてきていた。
アランは、自室の扉を閉ざしたまま、外へ出てこなかった。
その沈黙と拒絶の気配を、レギュラスは廊下の向こうから静かに感じ取っていた。
泣けばいい――悲しめばいい――そう思っていた。
愛する妻の泣き顔を見たくてそう思うのではない。
ただ、今はその感情を出し切らせることこそが、彼女にとって必要だと分かっていた。
シリウス・ブラックは、ようやく死んだ。
その事実は、冷たい静けさの中で、彼の胸に深く降り積もっていた。
この先、アランの中に長年居座り続けたあの男の影に、自分はもう怯えることはない。
嫉妬に駆られて自らを削ることもない。
その思いに気づくと、胸の奥で何かが軽くなる。
心は、晴れやかだった。
アランは、アラン・ブラックとして――
永遠に自分のものになった。
そう確信できる静かな高揚が、血の底から滲み出していた。
廊下を歩いてきた軽い足音が、背後で止まる。
「父さん……母さんが部屋から出てきませんが……」
声の主は、アルタイルだった。
レギュラスは振り向き、いつもと変わらぬ調子で答える。
「シリウス・ブラックが死にました。……だからでしょうね。
思うところがあるのかもしれません。そっとしておきましょう。」
アルタイルの瞳が一瞬、大きく見開かれた。
その反応から、母にとってのシリウスが――少なくとも特別な存在であったことは悟っているのだろう。
どこまでの関係や想いを知っているのかは分からない。
だが、その驚きには、確かな理解の色が滲んでいた。
風が、廊下の窓をわずかに揺らす。
どうせ明日の朝刊には、シリウス・ブラックの死が大きく報じられる。
その時には、誰もが知ることになるのだ。わざわざ隠す必要もない。
レギュラスはそれ以上何も言わず、再びアランの部屋の前へと視線を向けた。
閉ざされた扉の向こうで、彼女が涙を流しているであろうことを、想像するでもなく理解していた。
――今夜は、その涙を、最後まで流せばいい。
その思いは冷たくも揺らがず、レギュラスの胸奥で確固たるものとして沈んでいた。
部屋の中は、深い井戸の底のように静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込むかすかな朝の光が、床の一角を淡く照らし、そこだけが時の流れを告げていた。
アランは、ベッドの端に腰を下ろしたまま動かなかった。
頬を伝う涙は、止めようとしても止まらない。
まるでこぼれ落ちる水滴が、胸の奥に溜め込んだ記憶を一枚ずつ洗い流していくかのようだった。
瞼を閉じれば――
シリウスの笑った顔が浮かぶ。勝ち気で澄んだ眼差し、怒ったときの熱、照れくさそうに眉を下げた横顔。
すべてが鮮やかで、痛いほど近い。瞬きをするたび、次々と違う表情が現れては消えていく。
かつてホグワーツの校庭で、照れた笑みとともに言ってくれた言葉――
「結婚しよう」
幼い頃、星空の下で無邪気に告げられた言葉――
「俺たちは死ぬまで一緒だ」
その一言一言が、どれだけ自分の人生を奮い立たせてくれたのだろう。
孤独な日々にも、危険な戦いにも、立っていられたのはその言葉を胸に抱いていたからだ。
けれど――何一つ叶わなかった。
彼と共に歩む人生も。
共に死ぬことさえも。
「……愛していた。心の底から」
声にならない呟きが唇からこぼれる。
本当に一緒に生きていきたかった。
世界がどうあろうと、ただ傍にいたかった。
――彼が自分の光だった。
あの日も、今日までずっと。
「シリウス……」
その名を呼んだ瞬間、胸の奥の痛みが新たに込み上げ、嗚咽が声を震わせた。
「……母さん、朝ですよ。食事をしましょう」
扉の向こうから、アルタイルの慎重な声が届いた。
低く、ためらいを含んだその響きが、遠くからの呼び声のように滲み込む。
けれど、返事をする気力はなかった。
唇は動かず、瞼も重く、その声さえ涙の膜の向こうに霞んでいく。
ただ静かに、朝の光とともに、もう戻らない人の面影だけを抱きしめ続けた。
扉の外で、アルタイルの足音がわずかに動いた気配がした。
それでも、その気配はすぐには遠ざからない。
きっと扉に手を添え、母の返事をひたすら待っているのだろう。
「……少しでも食べてください」
低く拙い言葉。
それは気遣いというより、どうにかして自分の声を届かせたい一心の音だった。
けれどその優しささえ、アランの胸には重く沈む。
いまはその優しさに応える言葉を紡ぐだけの力が、自分にはなかった。
指先は冷え、膝の上で固く握られたままだ。
心の奥の深いところで、涙はまだ途切れることなく流れ続けている。
目を閉じるたび、彼――シリウスの笑顔や横顔が現れる。
それらが愛おしければ愛おしいほど、現実との落差に足元が崩れるようだった。
外の気配が、ほんの少し遠ざかる。
けれど、廊下に残る微かな存在感は消えなかった。
それは、扉一枚隔てた向こうで、自分と同じように立ち尽くす息子の気配。
何もできず、ただ母の悲しみの深さを感じ取っている気配だった。
やがて、時計の針が一つ進む音がやけに大きく響く。
朝の光は少しずつ部屋の奥へと伸び、アランの足元にまで届いた。
その光が温かいはずなのに、身体はまだ凍えるように固まっている。
――話せない。応えられない。
それでも、廊下に残る足音が消えずにあることが、どこか僅かに救いのように思えた。
アランは毛布を胸まで引き寄せ、小さく息を呑み込む。
自分の声がこの部屋の外に届く日は、まだ遠い――そう予感しながら。
廊下に立ち尽くしていたアルタイルは、長い沈黙の末にようやく扉から手を離した。
母の気配はある。けれど、それは内に深く沈み込み、呼びかけに届く場所にはいなかった。
足音を忍ばせて階下に降りると、広間の窓辺に父の姿があった。
レギュラスは背を向けたまま、カーテンの隙間から朝の庭を眺めている。
その背中に、アルタイルは一度言葉を飲み込んでから声を掛けた。
「……母さん、何も食べていません」
レギュラスは振り返らない。
短く息を吐き、まるで結果が分かっていたかのように淡々と答えた。
「そうですか。……しばらくはそうでしょう。放っておきましょう」
その言葉には、慰めも、急かしもなかった。
ただ、静かな事実確認の響きだけ。
アルタイルは黙って父の横顔をうかがう。
母の悲しみと、父のこの冷ややかな静けさ――
どちらも理解しきれず、その温度差に胸がざわつく。
外では雲が流れ、朝の光が淡く庭木を照らしていた。
静かな時間が広間を満たす中、レギュラスは視線を戻すことなく言葉を続けた。
「過ぎるものは過ぎる。……いずれ落ち着きます」
その響きは、慰めではなく確信に近かった。
アルタイルは頷くこともせず、その背中をしばし見つめ続けた。
母が扉の向こうで流し続けている涙と、父の変わらぬ姿。
その二つが、同じ屋敷の中で隔絶している現実が、胸に重くのしかかっていた。
廊下は朝の光に満たされていたが、アランの部屋の前だけは、時間の色が沈んでいるようだった。
レギュラスは扉の前で立ち止まり、指先を軽く上げる。
――ノックをすれば、返事はないだろう。
それどころか、自分の気配を感じた瞬間に、彼女はさらに硬く殻に閉じこもるに違いない。
その未来が、ありありと目に浮かんだ。
短い沈黙ののち、杖先が小さく動く。
錠前が静かに外れる音がして、重たい空気が隙間から漏れてきた。
中は薄暗く、カーテンの隙間からわずかな光が差し込むだけだった。
ベッドにはアランが横たわっている。
頬にはまだ乾ききらない涙の跡が幾筋も残っていた。
おそらく一晩中、泣き続けたのだろう。
しかし、レギュラスの胸には慰めの言葉は一つも浮かばない。
むしろ、その涙がシリウスへの想いであることを思うと――
もう感じる必要のないはずの嫉妬が、再び胸の奥でじりじりと燻った。
死んだ人間にさえ苛立ちを覚えるほどに。
「……任務に出てきます」
低く告げる。
だがアランは枕に視線を伏せたまま、一瞥も寄こさない。
もちろん、返事もなかった。
レギュラスはしばらくその様子を見下ろしていたが、やがて腰を屈めた。
視線の高さを、彼女と同じ場所まで下ろす。
「……見送りもなしです?」
問いかけの声は、淡く笑みを含んでいるようで、その実、乾いた響きだった。
アランは瞼をわずかに震わせただけで、やはり沈黙を守った。
その沈黙は刃のように鋭く、二人の間の空気を薄く凍らせた。
レギュラスはその無言をじっと見つめ――やがて何も言わずに立ち上がる。
扉が閉まる音だけが、部屋の静けさをひときわ深くした。
ホグワーツの石造りの廊下を、冷たい風が抜けていく。
セレナは立ち止まり、掲示板に貼られた新聞の切り抜きに視線を落とした。
―― シリウス・ブラック、死亡。不可抗力の事故とみられる。
その見出しが、黒く、重く、瞳に焼き付いた。
瞬間、耳の奥で何かが割れたような気がした。
あのシリウス・ブラックが――もうこの世にいない。
騎士団はデスイーターを非難し、抗議が続いていると記事は告げている。
それでも、その死はあっけなく「事故」に括られてしまっていた。
母を思った。
母は今、どんな気持ちでこの知らせを受け止めているのだろう。
ほんのわずかな間だった――
それでも、自分はこのホグワーツで、シリウス・ブラックに魔法を教えてもらった。
時には、校内の規則をかいくぐって冒険にも連れ出された。
笑顔と、真剣な眼差しとが交互に浮かぶ。
その時間の中で、感じたことがあった。
――なぜ母が、父ではなくシリウスに惹かれたのか。
その理由が、少しだけわかった気がしたから。
シリウスが信じていた世界。
マグルも魔法使いも、分け隔てなく寄り添い合う、優しい魔法界。
それはもしかしたら、本当の正義なのかもしれない――
そんな考えが、一瞬でも頭をよぎったことがあった。
思い返せば、その時の胸のざわめきは、怖さを伴っていた。
憧れつづけ、追い続けたいと思ってきた父を、裏切るような気がして。
自分の中に芽生えたその揺らぎを、必死に押し込めたあの感覚を、今もはっきり覚えている。
けれど今――
シリウス・ブラックは死んだ。
きっと父は、これで永遠に母を手に入れただろう。
もう二度と、母の心はシリウスとの間で揺れることはない。
揺れたとしても、その先に届く相手は、もうどこにもいないのだから。
父の執念に似た愛は、余すことなく母に注がれ、そして母はそれを受け入れるだろう。
シリウスが描いた魔法界は、ついに形になることなく消えた。
代わりに――父が理想とする、純血の魔法使いが何より優先して守られる世界が、これからも続いていく。
それは、父の勝利だった。
シリウス・ブラックに、本当の意味で勝ったのだ。
魔法界で最強と謳われる、己の父――レギュラス・ブラックが。
全てにおいて勝利したのだと、心から思えた。
その誇りは、セレナの胸にひっそりと温かく広がる。
「……これで、よかったのよ」
誰に言うわけでもなく、小さく、しかしはっきりと呟く。
その言葉は、薄暗い廊下の石壁に吸い込まれ、淡い残響となって、彼女だけの胸に返ってきた。
掲示板の新聞から視線を外すと、廊下の窓から外の空が見えた。
雲ひとつない青さが、妙に遠く感じる。
まるで、この世界からシリウス・ブラックという存在だけが抜け落ちたことを、空までもが知っているかのようだった。
セレナはしばらく、その青を見上げ続けた。
胸の奥には確かに、父の勝利への誇りがあった。
けれどその奥底で、心臓の鼓動の合間にひそやかに漂う小さな空白があった。
それは言葉にならない。
形にしてしまえば、これまで積み上げてきた信念を脆くする気がして――
だから、名前を与えないまま、静かに胸の奥深く押し込める。
廊下の風がそっとその髪を揺らした。
セレナは一度、目を閉じ、深く息を吸い込む。
吸い込んだ空気に、あの日シリウスと歩いた校庭の匂いが一瞬混ざる気がして、慌てて吐き出した。
――これでいいのよ。
再び心の中で呟く。
その言葉は、誇りと、自分を守るための祈りとの間に揺れていた。
やがて足音を立てて歩き出す。
この先、この想いを誰に語ることはない。
ただ、父の娘として、己の立場を揺るがせぬために。
窓の外の空は、何事もなかったかのように、相変わらず澄んで広がっていた。
夕餉の席に、アランが静かに姿を現した。
扉を開けて広間に踏み入れるその瞬間、テーブルの端で待っていたアルタイルの肩が、ほっと小さく緩むのが見えた。
「……母さん、心配しました」
その声は柔らかく、息を含むように慎重だった。
アランは胸の奥がじんわりと温まるのを覚える。
――本当に、優しい子。
外見も所作も、驚くほどレギュラスに似ている。
けれど、この子にはあの冷酷さがない。
それが、どれほど救いであるか。
どうか…そのまま、父のような男にならないでいてほしい、と心の底から願った。
「ごめんなさい、アルタイル。……少し、取り乱しました」
静かに息子へと謝意を告げると、アランは視線を移し、向かい側に座るイザベラの方へ向き直った。
「イザベラ、あなたにも……不甲斐ない義母で申し訳ないわ」
イザベラは僅かに首を振り、真っすぐな瞳で返す。
「アラン様……どうか、ご無理はされないでください」
その言葉には押し付けがましさなどなく、ただ気遣いと温もりだけが宿っていた。
アランは、目の前の二人を見やった。
アルタイルとイザベラ――似た優しさを持ち、互いに思いやる心を自然に交わせる二人。
きっと、自分とレギュラスのように激しくぶつかり合うことはないだろう。
この二人の間には、羨ましいほどに穏やかな温度が流れている。
その温度に包まれた空気を吸い込みながら、アランはほんの少し、張り詰めていた心を緩めた。
彼の瞳には、ただひとつ、守るべきものの姿が深く刻まれている。
親友の息子、ハリー・ポッター。彼を盾に、息づまる戦いが繰り広げられていた。
ヴォルデモートが予言の子としてハリーを標的視し、その役割を魔法界の誰もが知っているこの夜。
騎士団の面々も、必死の覚悟で予言の玉を守り抜こうとしていた。
「予言を渡しな!」
ベラトリックスの鋭い声が空気を震わせる。
彼女の言葉は鋭利な矢のように切り込むが、その裏にはヴォルデモートに魂を捧げる冷徹な信念が宿っている。
アリスはシリウスのすぐ横に立ち、闘志を共に燃やした。細い指先から伝わる緊張が、まるで鉄の鎧のように彼らを結びつけていた。互いを守りながら、激昂の渦の中心で鋭い魔法の閃光が飛び交う。
遅れて現れたレギュラス・ブラックは、暗い眼差しの先に使命を背負っていた。ヴォルデモートから「何としても予言を手に入れろ」と全デスイーターに下された命令が、彼の胸を再び重く締め付ける。
彼の冷静な足取りが戦場に踏み込むと、空気が一瞬変わる。強固な決意と狡猾さが混ざり合い、彼の存在だけで戦況の緊迫度が一段と高まった。
火花が散り、静寂と怒号が交錯する中、ハリーを守るための激しい魔法の応酬が白熱していた。息遣い、呪文の詠唱、そして心中の焦燥と決意が細やかに絡み合い、戦いの美しさと恐ろしさが同時に姿を現す。
アリスの目は揺るぎなく、シリウスと共に仲間たちを鼓舞しながら、過酷な闘争の中で己の役割を全うしていた。死線の狭間で輝くその姿は、騎士団の精神そのものを象徴しているかのようだった。
闇と光が交錯するこの戦いの場に、命を懸けて守りたいものがあるという揺るぎなき真実が、静かに、そして強烈に刻まれていた。
夕刻の空は、戦の前触れを孕んだ色に沈んでいた。
石畳を踏みしめる音が、ひとつ、またひとつと重なり、塔の影の中でその輪郭が浮かび上がる。
レギュラス・ブラックは、視線だけでアランを捉えた。
その瞳は、外から見れば冷静で冴えた光を湛えているように見える。
だが、その奥では、長年磨かれた執念と、消え難い嫉妬の焔が、ゆっくり燃え上がっていた。
「アラン、騎士団と対峙する可能性がありますから……必ず僕の後ろにいてくださいね」
声音は穏やかで、忠告めいて聞こえる。
アランは頷きながら、苦く笑った。
「ええ……でも、私の戦力なんかで、あなたを守れるでしょうか……」
レギュラスは微かに口角を上げた。
――守らせるつもりなど、毛ほどもない。
実際には、自分がアランを守りながら戦う形になると分かっている。
正直、動きにくいにも程がある。
だが、それでいいのだ。
今日、シリウス・ブラックは死ぬ。
殺すのは自分だ。
そしてそれを――アラン本人の目の前で見せる。
そのために、彼女を同行させている。
ヴォルデモートから受けた任務は、予言を持ち帰ること。
その過程で、騎士団が絡んでくるのは予想の範疇だった。
そして、その中にシリウスが必ずいることも、分かっていた。
シリウスは、アランの姿を目にした瞬間、必ず刹那の油断を見せる。
そのくらいに、この女はシリウスにとって「全て」なのだ。
かつてはお互いに想い合っていた二人――それを決定的に引き離したのは、他ならぬ自分。
だが、離すだけでは終わらなかった。
なぜなら二人は、離れてなお繋がっていたからだ。
その事実が、レギュラスを幾度となく苛み続けた。
嫉妬と焦燥に胸を掻き毟られる日々。
アランが自分の隣にいても――視線の奥底にシリウスが棲みついている、その現実は、数え切れぬ夜を狂わせた。
けれど、それも今日で終わる。
アランの中から、シリウス・ブラックという男を、完全に――永遠に消し去る。
その期待と昂揚は、主から授かった任務の価値さえ上回っていた。
戦場で、アランの姿を見たシリウスがごくわずかでも気を緩めた、その瞬間――
そこに突き込み、殺す。
その光景をアランの瞳に焼き付け、二度と消えぬ傷として残してやる。
「……行きましょう」
静かな声が夜気に溶ける。
その背に宿る影は、任務という仮面の下で、冷たい歓喜を噛み締めていた。
石畳を踏みしめる二人の足音が、夜の闇に深く吸い込まれていく。
路地の先には、既に魔法の閃光が幾筋も走り、怒号と衝突音が響いていた。
火薬にも似た焦げた魔力の匂いが漂い、空気は肌に刺さるほど張り詰めている。
レギュラスの歩幅は一定で、迷いは一切ない。
アランはその背中を追いながらも、ただならぬ気配に胸の奥を固くしていた。
戦場に踏み入れた途端、その光景が二人を包み込む。
ベラトリックスの甲高い笑い声、紅と黄の閃光が飛び交い、鎖のように仲間同士の魔法が絡み合う。
その中央――シリウス・ブラックの姿があった。
鋭い眼差しの先にはハリーを庇うように立ちはだかる姿。
「……やはり来ていましたね」
レギュラスの声は低く淡々としているが、その奥では昂りが波打っている。
アランは一瞬、その姿に息を呑み、そして視線を逸らした。
だが、レギュラスの目は逸らさない。ただ真っ直ぐ、その標的を射抜いている。
予言の玉を巡る攻防はすでに極限に達していた。
ベラトリックスが「渡せ!」と叫び、
シリウスは「絶対に渡さない!」と応じる。
仲間の魔法が交差する中、レギュラスは無言で距離を詰める。
――奴は、アランの姿を目にした瞬間、必ず気を緩める。
その瞬間を狙う。
それだけのために、今日という日を仕組んだ。
心の中で刻むように思い返す。
「アラン、後ろに」
レギュラスが短く告げる。声には命令にも似た硬さが混じっていた。
彼の視線の先で、シリウスがこちらに気づいた。
そして――その目が、大きく見開かれる。
ほんの一瞬、戦いの動きが鈍った。
レギュラスの唇が僅かに動く。
それは、長年胸に溜めてきた感情を解き放つ者だけが持つ、冷酷な笑みだった。
――今だ。
時間が、露骨に速度を落としたように感じられた。
耳鳴りと心臓の鼓動の音だけが、世界を満たしている。
レギュラスの視界の中心にはシリウス。
その輪郭の端に、振り返ったアランの横顔が重なる――罠は成功だ。
油断の色が、確かにあった。
黒い杖先に、殺意が凝縮される。
呼吸も瞬きも、すべてが沈黙の中で研ぎ澄まされ、
標的までの距離は、計算上も感覚上も「届く」。
「――アヴァ」
低く、音を吸い込むような発声。
緑光の呪文が解き放たれようとする、その瞬間――
何かが、鋭く視界を横切った。
白銀の閃光。
同時に強烈な衝撃波が走り、背後から彼の腕を逸らせた。
呪文は目標から逸れ、石壁に直撃。
緑の閃光に触れた壁が抉れ、破片が弾け飛ぶ。
「――レギュラス!」
低く鋭い呼びかけが戦場を裂いた。
その声の主は、今まさに彼の殺意を遮った人物。
アリスだった。
自らの身を滑り込ませるようにして、シリウスへの射線を塞いでいた。
眼差しには恐れよりも、決意と怒りが宿っている。
混戦の音が、一気に速度を取り戻す。
周囲の騎士団員が一斉に杖を構え、逆にデスイーターたちも陣を詰める。
緊張の糸は、さらに強く、そして鋭く引き絞られていった。
レギュラスの唇は笑みの形を保ちながら、僅かに歪む。
――すぐには終わらせない。
まだ方法はいくらでもある。
暗い決意がその目に戻っていた。
石壁に残る抉れた跡から、まだ緑の残光が揺らめいていた。
そこに立ちはだかるアリスの背は、細いはずなのに、鉄壁のごとき線を描いている。
「……何のつもりです?」
レギュラスの声は低く抑えられていたが、その奥では潜熱のように怒りが燻っていた。
「あなたに——そんなことをさせるわけにはいかない」
アリスは振り返らずに言い放ち、杖の先を敵陣に向け直す。
彼女がシリウスへ送った一瞬の視線は、無言の「下がって」という合図にも見えた。
周囲はすでに極限の渦だった。
騎士団員の詠唱が重なり、デスイーターの反撃が稲妻のように走る。
熱気と衝撃波が交互に全身を叩き、視界の端に閃光と影が入り乱れる。
レギュラスは一度、ゆっくりと深く息を吸った。
逸らされた腕の感覚から、殺気はまだ消えていないことを確かめる。
むしろ——今は冷ややかな計算が戻ってきていた。
一撃で仕留める機会は潰された。
だが、混乱が続けば、形勢は何度でも揺らぐ。
それに——シリウスの足元には、まだ予言の玉がある。
奴がアランから視線を逸らす瞬間も、必ず再び訪れるだろう。
「……いいでしょう、少し長引かせますか」
小さく呟き、レギュラスは足を半歩引き、別の方角へと杖を振った。
高く迸った赤い閃光が、戦場の陣形を崩すように爆ぜ、
混乱と新たな隙を作り出す。
その中で彼の目は、常に一点を追い続けていた。
混乱を狙った赤い閃光が戦場を一層荒れさせ、声も音も視界すら飲み込む渦と化していた。
呪文が交錯し、瓦礫が飛び、焦げた魔力の匂いが鼻腔を突く。
――その渦の中で、アランは気づいた。
レギュラスの視線が、予言の玉だけでなく、ずっとある一点――シリウスだけを追っていることに。
その眼差しには、任務以上の何か…もっと深く、もっと私的な執着があった。
胸の奥がひやりと冷える。
これはただの戦闘じゃない。この人は――シリウスを殺すつもりでいる。
アランは、噛みしめるように息を吸った。
戦場の中で動くのは危険だ。だが、このままでは取り返しがつかない。
レギュラスがゆっくりと構え直し、標的までの距離を測る動きに入る。
その瞬間、アランは考えるより先に足を踏み出していた。
飛び散る瓦礫の間をすり抜け、彼の正面へと滑り込む。
その手首を強く掴んだ。
「――やめて、レギュラス」
音をかき消す爆音の中でも、その声だけは彼の耳に届いた。
彼はわずかに眉を上げ、冷たい微笑を浮かべる。
「……邪魔をするんですか」
「これは任務じゃない――あなたは、私にシリウスの死を見せようとしている」
唇の端にかすかに宿った笑みが、彼の胸の奥の答えを告げていた。
アランはさらに強く腕を握る。
背後では戦いが渦を巻き、シリウスとアリスが予言の玉を抱えて後退していくのが見えた。
レギュラスの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
それでも、標的を見失ってはいない。
「……どのみち、あの人はもう逃げられませんよ」
胸の奥で、アランは決意を固めた。
この人の引き金を絶対に引かせない――たとえ、自分の身を盾にしてでも。
戦場の灰色の気配を裂くように、レギュラスの声が静かに響いた。
「――覚えていますか、アラン。
証明してみせろと言ったことを。」
その声音を聞いた瞬間、アランは何のことかすぐに理解した。
“シリウス・ブラックを殺せますか――”
あの問い。あの日、レギュラスから突きつけられた、残酷な試練。
確かにあの時、自分は微力ながらも「従う」と応えてしまった。
だが――冷静に考えれば、アランの魔力がシリウスの足元にも及ぶはずがない。
殺すなど到底、不可能だ。
けれど今、レギュラスの杖がシリウスへと向けられたこの瞬間、
あの日の“真意”が痛いほどに理解できた。
――殺せというのは、自分の手で相手の命を絶て、ということじゃない。
自分の魂を賭けて愛した男が殺される、その瞬間を、みすみす見ていろという、その残酷な命令だったのだ。
胸の底で、心臓が激しく震える。
息が詰まりそうになる。
どうか、どうかやめて、と。言葉が喉の奥で叫びに変わる。
「……お願い、やめて、レギュラス」
その声は、炎の渦の只中にある氷のように、
鋭く、切なく、苦しげに震えた。
けれどレギュラスは、何も揺るがぬ表情のまま、杖をシリウスに向け構えている。
アランの指が震えながら杖を握った。
何度も自分の無力さを知った手のひら――
けれど今だけは、ただ彼を引き止めるために。
「――!」
レギュラスの背に向けて、叫ぶように呪文を放つ。
全身が擦り切れるほどの願いを込め、
それは噴き上がる光となり、彼にぶつかった。
衝撃が空気を裂き、レギュラスの腕が一瞬、鈍く痙攣する。
彼の瞳が驚きと怒りに揺れ、振り返る。
戦場の喧騒もふたりの間の緊張も、すべてがこの一瞬に圧縮された。
それでも、アランは杖を下ろさない。
涙の粒が頬を伝いながらも、唇は微かに震え、瞳には決意の光が宿っていた。
「お願い……これ以上、私の中から、“シリウス”を奪わないで――」
その声は、誰にも届かないほど細く、
けれど、魂の底からの祈りで満ちていた。
その光景のなか、アランは初めて、“証明”とは生きて誰かを守ることだと、
涙とともに理解した気がした。
赤と緑の光が、荒れ狂う戦場の空に絡み合う。
アランの放った強力な跳ね返し呪文が、レギュラスの死の呪文に正面からぶつかる――はずだった。
だが、その衝撃は存在しなかった。
光は互いを弾き飛ばすことなく、ただ空中で虚しくほどけていく。
――わかっていた。
いや、忘れていた。
死の森での試練を越えた日、もう二度と互いに杖を向け合う必要がないようにと、レギュラスと同じ芯を持つ兄弟杖に変えることを選んだ。
それは互いの呪文が致命傷を与えないための、最も深い誓いだった。
その誓いが、今。
彼を止めるための唯一の手段を、自分の手から奪っていた。
跳ね返しは作用せず、緑の閃光はシリウスへと向かおうとしていた。
アランの胸の奥で、心臓が裂けるように脈打つ。
――間に合わない。
その刹那。
横合いから、甲高い笑い声と共に別の緑光が鋭く走った。
「死ねぇッ!」ベラトリックスの声。
それは、予期せぬ角度から、迷いなくシリウスの胸を貫いた。
瞬間、音が消えた。
シリウスの体がわずかに揺れ、ゆっくりと後ろへ傾いていく。
瞳には驚きと、僅かな悔しさが宿ったまま――もう声はなかった。
後ろへ倒れゆくその動作は、恐ろしく緩慢に見えた。
まるで時が、彼の最後の瞬間を永遠にしようと引き延ばしているかのように。
「――シリウス!」
アランの叫びが、自分でも驚くほど高く、裂けるように響いた。
足は地を蹴っていたが、ただの一歩さえ永遠に届かない距離に思えた。
彼の背が虚空に沈み、薄闇がその影を呑み込む。
兄弟杖を選んだあの日の選択が、この結末に直結しているという痛みが、胸を抉り続けた。
守るために選んだ絆が、守れなかった現実として牙を剥く――これほどの皮肉はなかった。
戦場の喧騒の中、アランの耳にはもう何も入ってこない。
そこにあるのは、ただ、胸を締め裂くような喪失の音だけだった。
ベラトリックスの甲高い笑い声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
「ははは…! 終わったわ、シリウス・ブラック!」
その声は、まるで薄氷を叩き割るように、アランの耳に鋭く突き刺さった。
視界が霞み、瞳の奥で赤い光と緑の光がまだちらついている。
喉の奥から再び声が出そうになったが、音は掠れ、喘ぎのような息になった。
レギュラスは、その光景を一瞬も逸らさずに見ていた。
勝ち誇るでもなく、悔しがるでもなく――ただ静かに、何かを見届ける目だった。
けれど、その奥底でほんのわずかに溶け落ちる緊張と、得体の知れない静かな満足が潜んでいるのを、アランは見逃さなかった。
彼の計画した手は、自らの呪文ではなく妹の一撃によって成し遂げられた。
それでも核心は変わらない。
――シリウスはもう、この世にはいない。
アランの足は、意識する間もなく前へ出ていた。
瓦礫を踏み越え、崩れゆく床の上を、彼の倒れた方へと――
伸ばした指先は空を掴み、頬を熱いものが伝う。
「シリウス……」
声に乗った名は、戦場の喧噪にかき消されそうで、それでも確かに届くように祈るように呼ばれた。
その横で、ベラトリックスは愉悦に濡れた瞳を細め、さらに追い討ちを掛けるように笑い続ける。
「哀れね、アラン! あんたの目の前で、最愛の男が死ぬなんて!」
アランは、その言葉にも振り返らず、ただ前だけを見続けた。
背後に立つレギュラスの気配が、戦場の熱の中でもはっきりと分かる。
彼の黒い瞳が、自分の動きを隅々まで見守っている――守るでも、止めるでもなく、ただ観察するように。
アランの胸の中で、感情が形を失いながら渦巻いていく。
怒りとも悲しみとも絶望ともつかぬ波が、身体の芯まで押し寄せる。
兄弟杖の誓いが、この瞬間、最愛の者を守る可能性を閉ざしたという、避けられぬ事実と共に。
戦況はなおも荒れ果て、魔法の光が飛び交っていたが、アランの視界にはもう、倒れたシリウスの影しか映っていなかった。
足が勝手に動いていた。
息も視界も荒れた戦場の中で、アランの目にはただ、崩れ落ちたシリウスの姿しか映らない。
瓦礫を蹴散らし、魔法の閃光をすり抜け、その影へとただ向かう。
――あと数歩。
指先さえ届けば、その手を握れる。
その瞬間。
鋼のような腕が、横からアランの肩を強く掴んだ。
力は容赦なく、身体ごと引き止められる。
背に感じた冷たい気配――レギュラスだ。
「……やめておきなさい」
低く短い声は、騒乱の中でもはっきり耳に届く。
命令でも、忠告でもなく、揺るぎない拒絶の響きだった。
「離して! シリウスが――」
アランは必死に振りほどこうとするが、その腕は岩のように動かない。
焦燥で胸が痛み、涙が視界を滲ませる。
近くでベラトリックスの笑い声がまた響き、空気がさらに鋭く濁った。
「行かせるわけにはいきません」
その一言は、氷の刃のように冷たく、重い。
アランは振り返り、真っ直ぐにその黒い瞳を睨みつける。
「あなた……最初からこの瞬間を――」
声が震えて言葉にならない。
レギュラスの表情は変わらず、戦場の混沌の中でただ彼女の動きを封じ続ける。
倒れたシリウスは、もう微動だにしない。
その距離は手を伸ばせば届くほど近いのに、二人の間に立ちはだかる壁が絶対すぎて、アランは前へ進めなかった。
戦場の轟音の中で、胸の奥に広がっていくのは、どうしようもない無力感と、レギュラスの手の温度だけだった。
アランは力任せに肩を引き剥がそうとした。
片足を踏み込み、重心を前へ――それでも、背後から掛けられた腕は鉄のように固く、びくとも動かない。
戦場の熱と焦げた魔力の匂いが全身を包む中、彼女の耳には自分の荒い呼吸と心臓の鼓動だけが響いていた。
「離して……! お願い、行かせて……!」
声は涙で震え、もはや命令でも懇願でもなく、本能の叫びだった。
目の前には、倒れ伏すシリウスの影がある。
伸ばすはずの腕は後ろへ引かれ、指先は空を掻くばかり。
「……アラン」
呼びかける声は低く静かで、しかし揺るぎなく重い。
その音が鼓膜を叩いた瞬間、彼の腕がさらに強く彼女の身体を包み、ゆっくりと後ろへ引き戻していく。
地面を蹴る力は、背後からの静かな力に呑まれていく。
わずか数歩の距離が、何十歩にも感じられるほど遠ざかっていく。
「やめて……やめて!」
必死に足を前へ押し出そうとするたび、腰に回された腕が確実にそれを封じる。
やがて、戦場の喧騒がふたりの間に厚く立ちこめ、
アランの視界からシリウスの影が魔法の閃光と人の群れに完全に隠れた。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちる。
レギュラスの体温と力強さだけが、もはや自分をこの場に留めている理由だった。
だが、その腕は鎖のように重く、温もりでさえ今は憎しみと絶望を混ぜていた。
アランは顔を背け、唇を噛み締めた。
視界の端で、緑の残光がなおゆらめいている。
もう届かない――そう悟らされるたびに、胸が締めつけられた。
視界が揺れていた。
涙でにじんだ光と影の向こう、シリウスが倒れ伏す姿が最後まで焼き付いて離れない。
その傍らには、彼を必死に抱き守るようにして膝をつくアリスの姿――
震える肩、頬を濡らす涙、その全てがアランの胸を締め上げた。
耐えられない。
愛した人が。自分の全てだった人が。
その命を、一瞬で奪われた。
もう二度と届かない世界へ行ってしまった。
脳裏で、何かがぷつりと切れる音がした。
声にならない声が喉を裂く。
呼吸が熱く、鋭く胸を締め付け、吸っても空気が足りない。
――いっそ、このまま、この呼吸も止まってしまえばいい。
そんな危うい願いが、心の奥底から浮かび上がってくる。
その瞬間、強い腕に絡め取られた。
レギュラスの手だ。
鋭く掴まれ、僅かな猶予もなく姿くらましの魔法が掛けられる。
最後の最後まで、アランの目はシリウスを追っていた。
見えなくなるその瞬間まで――倒れた彼も、その傍らで泣き続けるアリスの姿も。
視界が暗転し、次に足が着いた時には、戦場の喧騒はもうなかった。
そこにあったのは、青白く落ち着き払ったレギュラスの横顔。
彼は冷静に立っていた。
その落ち着きこそが、あまりにも酷だった。
「……離して……」
搾り出すように言うと、彼は何のためらいもなく返した。
「戻りますよ」
その声音の端に、安堵も哀悼もなかった。
ただ事務的な響きだけがあった。
――この男は。本当に。
どこまで冷酷で、残忍なのか。
かつてこの手に命を救われた。
その恩義に報いようと、アルタイルやセレナの父だからと、感謝と義務を束ねて支えてきた。
彼のそばで歩き、支えることが、愛だと信じてきた。
だが――今は。
とてもじゃないけれど、愛せない。
胸の奥で、何かがきしむ音がはっきりとした。
レギュラスの背筋は完璧に伸び、その影は一切の揺らぎを見せなかった。
その冷たい輪郭を見つめながら、アランは心の奥で、静かに何かを失っていった。
その場には、戦場の熱も鼓動の高鳴りも、もう一片たりとも残っていなかった。
代わりに、静まり返った空気が蝋燭の火のように揺らめき、冷たく胸の奥に入り込んでくる。
アランは視線を落としたまま、ゆっくりとレギュラスの腕から離れた。
彼はその動作を引き止めもしなければ、追いもしない。
やがて、衣の裾を払って背を向けると、何事もなかったかのように歩きはじめた。
その背中は、戦場できびきびと指揮を執る時と何も変わらない――
まるで、いま起きたことがただの「任務の一場面」に過ぎなかったかのようだった。
足音がやけに大きく響く。
アランは数歩遅れてその背を追いながら、視界の端で闇の中の空間移動の光を感じた。
瞬きを一度するかしないかのうちに、二人は屋敷の中庭に立っていた。
冷たい夜気が頬を撫でる。
戦場の焦げ臭さや血の匂いは、もう遠い彼方へと押しやられている。
――だが、胸に焼き付いた光景は、一歩も離れてはくれなかった。
「……戻りましたよ」
背後にだけ向けられた低い声。
アランは返事をしなかった。
ただ、視線を少しそらし、小さく頷くだけ。
言葉を交わしたら、いまにも心の奥の崩れが音になって漏れてしまいそうだった。
その危うさを知っているからこそ、彼の黒い瞳をまっすぐに見ることはできなかった。
中庭の花々は夜露に濡れて、ひそやかに香りを放っている。
だが、その香りも、アランにとってはただ遠く、虚ろに感じられた。
――かつて、彼を支えることが愛だと信じてきた。
けれど今は、その信念すら瓦解してしまった。
残っているのは、言葉にもできない深い空洞。
その空洞を抱えたまま、アランは一歩、屋敷の奥へと足を踏み入れた。
背後から響くレギュラスの足音は、冷たく、正確に、それだけが変わらず追いかけてきていた。
アランは、自室の扉を閉ざしたまま、外へ出てこなかった。
その沈黙と拒絶の気配を、レギュラスは廊下の向こうから静かに感じ取っていた。
泣けばいい――悲しめばいい――そう思っていた。
愛する妻の泣き顔を見たくてそう思うのではない。
ただ、今はその感情を出し切らせることこそが、彼女にとって必要だと分かっていた。
シリウス・ブラックは、ようやく死んだ。
その事実は、冷たい静けさの中で、彼の胸に深く降り積もっていた。
この先、アランの中に長年居座り続けたあの男の影に、自分はもう怯えることはない。
嫉妬に駆られて自らを削ることもない。
その思いに気づくと、胸の奥で何かが軽くなる。
心は、晴れやかだった。
アランは、アラン・ブラックとして――
永遠に自分のものになった。
そう確信できる静かな高揚が、血の底から滲み出していた。
廊下を歩いてきた軽い足音が、背後で止まる。
「父さん……母さんが部屋から出てきませんが……」
声の主は、アルタイルだった。
レギュラスは振り向き、いつもと変わらぬ調子で答える。
「シリウス・ブラックが死にました。……だからでしょうね。
思うところがあるのかもしれません。そっとしておきましょう。」
アルタイルの瞳が一瞬、大きく見開かれた。
その反応から、母にとってのシリウスが――少なくとも特別な存在であったことは悟っているのだろう。
どこまでの関係や想いを知っているのかは分からない。
だが、その驚きには、確かな理解の色が滲んでいた。
風が、廊下の窓をわずかに揺らす。
どうせ明日の朝刊には、シリウス・ブラックの死が大きく報じられる。
その時には、誰もが知ることになるのだ。わざわざ隠す必要もない。
レギュラスはそれ以上何も言わず、再びアランの部屋の前へと視線を向けた。
閉ざされた扉の向こうで、彼女が涙を流しているであろうことを、想像するでもなく理解していた。
――今夜は、その涙を、最後まで流せばいい。
その思いは冷たくも揺らがず、レギュラスの胸奥で確固たるものとして沈んでいた。
部屋の中は、深い井戸の底のように静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込むかすかな朝の光が、床の一角を淡く照らし、そこだけが時の流れを告げていた。
アランは、ベッドの端に腰を下ろしたまま動かなかった。
頬を伝う涙は、止めようとしても止まらない。
まるでこぼれ落ちる水滴が、胸の奥に溜め込んだ記憶を一枚ずつ洗い流していくかのようだった。
瞼を閉じれば――
シリウスの笑った顔が浮かぶ。勝ち気で澄んだ眼差し、怒ったときの熱、照れくさそうに眉を下げた横顔。
すべてが鮮やかで、痛いほど近い。瞬きをするたび、次々と違う表情が現れては消えていく。
かつてホグワーツの校庭で、照れた笑みとともに言ってくれた言葉――
「結婚しよう」
幼い頃、星空の下で無邪気に告げられた言葉――
「俺たちは死ぬまで一緒だ」
その一言一言が、どれだけ自分の人生を奮い立たせてくれたのだろう。
孤独な日々にも、危険な戦いにも、立っていられたのはその言葉を胸に抱いていたからだ。
けれど――何一つ叶わなかった。
彼と共に歩む人生も。
共に死ぬことさえも。
「……愛していた。心の底から」
声にならない呟きが唇からこぼれる。
本当に一緒に生きていきたかった。
世界がどうあろうと、ただ傍にいたかった。
――彼が自分の光だった。
あの日も、今日までずっと。
「シリウス……」
その名を呼んだ瞬間、胸の奥の痛みが新たに込み上げ、嗚咽が声を震わせた。
「……母さん、朝ですよ。食事をしましょう」
扉の向こうから、アルタイルの慎重な声が届いた。
低く、ためらいを含んだその響きが、遠くからの呼び声のように滲み込む。
けれど、返事をする気力はなかった。
唇は動かず、瞼も重く、その声さえ涙の膜の向こうに霞んでいく。
ただ静かに、朝の光とともに、もう戻らない人の面影だけを抱きしめ続けた。
扉の外で、アルタイルの足音がわずかに動いた気配がした。
それでも、その気配はすぐには遠ざからない。
きっと扉に手を添え、母の返事をひたすら待っているのだろう。
「……少しでも食べてください」
低く拙い言葉。
それは気遣いというより、どうにかして自分の声を届かせたい一心の音だった。
けれどその優しささえ、アランの胸には重く沈む。
いまはその優しさに応える言葉を紡ぐだけの力が、自分にはなかった。
指先は冷え、膝の上で固く握られたままだ。
心の奥の深いところで、涙はまだ途切れることなく流れ続けている。
目を閉じるたび、彼――シリウスの笑顔や横顔が現れる。
それらが愛おしければ愛おしいほど、現実との落差に足元が崩れるようだった。
外の気配が、ほんの少し遠ざかる。
けれど、廊下に残る微かな存在感は消えなかった。
それは、扉一枚隔てた向こうで、自分と同じように立ち尽くす息子の気配。
何もできず、ただ母の悲しみの深さを感じ取っている気配だった。
やがて、時計の針が一つ進む音がやけに大きく響く。
朝の光は少しずつ部屋の奥へと伸び、アランの足元にまで届いた。
その光が温かいはずなのに、身体はまだ凍えるように固まっている。
――話せない。応えられない。
それでも、廊下に残る足音が消えずにあることが、どこか僅かに救いのように思えた。
アランは毛布を胸まで引き寄せ、小さく息を呑み込む。
自分の声がこの部屋の外に届く日は、まだ遠い――そう予感しながら。
廊下に立ち尽くしていたアルタイルは、長い沈黙の末にようやく扉から手を離した。
母の気配はある。けれど、それは内に深く沈み込み、呼びかけに届く場所にはいなかった。
足音を忍ばせて階下に降りると、広間の窓辺に父の姿があった。
レギュラスは背を向けたまま、カーテンの隙間から朝の庭を眺めている。
その背中に、アルタイルは一度言葉を飲み込んでから声を掛けた。
「……母さん、何も食べていません」
レギュラスは振り返らない。
短く息を吐き、まるで結果が分かっていたかのように淡々と答えた。
「そうですか。……しばらくはそうでしょう。放っておきましょう」
その言葉には、慰めも、急かしもなかった。
ただ、静かな事実確認の響きだけ。
アルタイルは黙って父の横顔をうかがう。
母の悲しみと、父のこの冷ややかな静けさ――
どちらも理解しきれず、その温度差に胸がざわつく。
外では雲が流れ、朝の光が淡く庭木を照らしていた。
静かな時間が広間を満たす中、レギュラスは視線を戻すことなく言葉を続けた。
「過ぎるものは過ぎる。……いずれ落ち着きます」
その響きは、慰めではなく確信に近かった。
アルタイルは頷くこともせず、その背中をしばし見つめ続けた。
母が扉の向こうで流し続けている涙と、父の変わらぬ姿。
その二つが、同じ屋敷の中で隔絶している現実が、胸に重くのしかかっていた。
廊下は朝の光に満たされていたが、アランの部屋の前だけは、時間の色が沈んでいるようだった。
レギュラスは扉の前で立ち止まり、指先を軽く上げる。
――ノックをすれば、返事はないだろう。
それどころか、自分の気配を感じた瞬間に、彼女はさらに硬く殻に閉じこもるに違いない。
その未来が、ありありと目に浮かんだ。
短い沈黙ののち、杖先が小さく動く。
錠前が静かに外れる音がして、重たい空気が隙間から漏れてきた。
中は薄暗く、カーテンの隙間からわずかな光が差し込むだけだった。
ベッドにはアランが横たわっている。
頬にはまだ乾ききらない涙の跡が幾筋も残っていた。
おそらく一晩中、泣き続けたのだろう。
しかし、レギュラスの胸には慰めの言葉は一つも浮かばない。
むしろ、その涙がシリウスへの想いであることを思うと――
もう感じる必要のないはずの嫉妬が、再び胸の奥でじりじりと燻った。
死んだ人間にさえ苛立ちを覚えるほどに。
「……任務に出てきます」
低く告げる。
だがアランは枕に視線を伏せたまま、一瞥も寄こさない。
もちろん、返事もなかった。
レギュラスはしばらくその様子を見下ろしていたが、やがて腰を屈めた。
視線の高さを、彼女と同じ場所まで下ろす。
「……見送りもなしです?」
問いかけの声は、淡く笑みを含んでいるようで、その実、乾いた響きだった。
アランは瞼をわずかに震わせただけで、やはり沈黙を守った。
その沈黙は刃のように鋭く、二人の間の空気を薄く凍らせた。
レギュラスはその無言をじっと見つめ――やがて何も言わずに立ち上がる。
扉が閉まる音だけが、部屋の静けさをひときわ深くした。
ホグワーツの石造りの廊下を、冷たい風が抜けていく。
セレナは立ち止まり、掲示板に貼られた新聞の切り抜きに視線を落とした。
―― シリウス・ブラック、死亡。不可抗力の事故とみられる。
その見出しが、黒く、重く、瞳に焼き付いた。
瞬間、耳の奥で何かが割れたような気がした。
あのシリウス・ブラックが――もうこの世にいない。
騎士団はデスイーターを非難し、抗議が続いていると記事は告げている。
それでも、その死はあっけなく「事故」に括られてしまっていた。
母を思った。
母は今、どんな気持ちでこの知らせを受け止めているのだろう。
ほんのわずかな間だった――
それでも、自分はこのホグワーツで、シリウス・ブラックに魔法を教えてもらった。
時には、校内の規則をかいくぐって冒険にも連れ出された。
笑顔と、真剣な眼差しとが交互に浮かぶ。
その時間の中で、感じたことがあった。
――なぜ母が、父ではなくシリウスに惹かれたのか。
その理由が、少しだけわかった気がしたから。
シリウスが信じていた世界。
マグルも魔法使いも、分け隔てなく寄り添い合う、優しい魔法界。
それはもしかしたら、本当の正義なのかもしれない――
そんな考えが、一瞬でも頭をよぎったことがあった。
思い返せば、その時の胸のざわめきは、怖さを伴っていた。
憧れつづけ、追い続けたいと思ってきた父を、裏切るような気がして。
自分の中に芽生えたその揺らぎを、必死に押し込めたあの感覚を、今もはっきり覚えている。
けれど今――
シリウス・ブラックは死んだ。
きっと父は、これで永遠に母を手に入れただろう。
もう二度と、母の心はシリウスとの間で揺れることはない。
揺れたとしても、その先に届く相手は、もうどこにもいないのだから。
父の執念に似た愛は、余すことなく母に注がれ、そして母はそれを受け入れるだろう。
シリウスが描いた魔法界は、ついに形になることなく消えた。
代わりに――父が理想とする、純血の魔法使いが何より優先して守られる世界が、これからも続いていく。
それは、父の勝利だった。
シリウス・ブラックに、本当の意味で勝ったのだ。
魔法界で最強と謳われる、己の父――レギュラス・ブラックが。
全てにおいて勝利したのだと、心から思えた。
その誇りは、セレナの胸にひっそりと温かく広がる。
「……これで、よかったのよ」
誰に言うわけでもなく、小さく、しかしはっきりと呟く。
その言葉は、薄暗い廊下の石壁に吸い込まれ、淡い残響となって、彼女だけの胸に返ってきた。
掲示板の新聞から視線を外すと、廊下の窓から外の空が見えた。
雲ひとつない青さが、妙に遠く感じる。
まるで、この世界からシリウス・ブラックという存在だけが抜け落ちたことを、空までもが知っているかのようだった。
セレナはしばらく、その青を見上げ続けた。
胸の奥には確かに、父の勝利への誇りがあった。
けれどその奥底で、心臓の鼓動の合間にひそやかに漂う小さな空白があった。
それは言葉にならない。
形にしてしまえば、これまで積み上げてきた信念を脆くする気がして――
だから、名前を与えないまま、静かに胸の奥深く押し込める。
廊下の風がそっとその髪を揺らした。
セレナは一度、目を閉じ、深く息を吸い込む。
吸い込んだ空気に、あの日シリウスと歩いた校庭の匂いが一瞬混ざる気がして、慌てて吐き出した。
――これでいいのよ。
再び心の中で呟く。
その言葉は、誇りと、自分を守るための祈りとの間に揺れていた。
やがて足音を立てて歩き出す。
この先、この想いを誰に語ることはない。
ただ、父の娘として、己の立場を揺るがせぬために。
窓の外の空は、何事もなかったかのように、相変わらず澄んで広がっていた。
夕餉の席に、アランが静かに姿を現した。
扉を開けて広間に踏み入れるその瞬間、テーブルの端で待っていたアルタイルの肩が、ほっと小さく緩むのが見えた。
「……母さん、心配しました」
その声は柔らかく、息を含むように慎重だった。
アランは胸の奥がじんわりと温まるのを覚える。
――本当に、優しい子。
外見も所作も、驚くほどレギュラスに似ている。
けれど、この子にはあの冷酷さがない。
それが、どれほど救いであるか。
どうか…そのまま、父のような男にならないでいてほしい、と心の底から願った。
「ごめんなさい、アルタイル。……少し、取り乱しました」
静かに息子へと謝意を告げると、アランは視線を移し、向かい側に座るイザベラの方へ向き直った。
「イザベラ、あなたにも……不甲斐ない義母で申し訳ないわ」
イザベラは僅かに首を振り、真っすぐな瞳で返す。
「アラン様……どうか、ご無理はされないでください」
その言葉には押し付けがましさなどなく、ただ気遣いと温もりだけが宿っていた。
アランは、目の前の二人を見やった。
アルタイルとイザベラ――似た優しさを持ち、互いに思いやる心を自然に交わせる二人。
きっと、自分とレギュラスのように激しくぶつかり合うことはないだろう。
この二人の間には、羨ましいほどに穏やかな温度が流れている。
その温度に包まれた空気を吸い込みながら、アランはほんの少し、張り詰めていた心を緩めた。
