4章
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夜は深まり、部屋に灯る明かりが金色の輪郭を壁に描いていた。
アランは鏡の前で小さく息を吐く。
纏っているのは、数時間前に選んだばかりのナイトドレス。
自分らしくもない――と、わかっている。
普段なら決して選ばないほど、肌を見せ、形を際立たせ、誘うような色。
けれど今日は……情けないと思いながらも、このやり方を選んだ。
どうしても、彼の機嫌を和らげたかったから。
扉の外、足音が近づく。
心臓が、まるで胸の中で大きく膨らむ風船のように高鳴る。
不意に、顔が熱を帯びた。
――行為そのものより、この服を着て待っている今の方が、よほど恥ずかしいなんて。
そんな感覚は初めてだった。
扉が開き、レギュラスが現れる。
その目が一瞬、わずかに開かれ――すぐに全ての意図を悟ったのだろう、深くも浅くもないため息が吐き出された。
「……どうです? あなたが選んだものです」
アランは裾を両手で少し広げ、軽く回して見せる。
その仕草さえも、まるで芝居の一場面のようで、頬はさらに熱を帯びる。
「ええ、似合っていますよ」
言葉は肯定でも、響きには冷たさとわずかな棘がまだ残っている。
それでも構わない――アランは知っていた。
誰よりも知っている、この男を。この男の半生以上を、自分が傍で見てきたのだから。
胸元のリボンへ手を伸ばす。
それを解けば、前合わせはするりと開く仕立てだ。
アランは、その先端をレギュラスの手にそっと触れさせ、握らせる。
「……どうぞ」
もう一度ため息が降りる。
「何のつもりなんです? こんなことで――」
言葉が最後まで届くより早く、アランは一歩、後ろへ下がった。
引く力など、彼の手にはなかった。
それでも、布地は重力に従うように自然とほどけ、
柔らかな衣は、川の水面が静かに割れるように前を開いていく。
レギュラスの喉元で、言いかけられた棘ある言葉は、
空気を切られ、煙のように形を失った。
二人の間に、沈黙が落ちる。
それは、長い年月が作り上げた沈黙――恥じらいも挑戦も、そして諦めすら溶かし込んだ色をしていた。
布が床へと静かに落ちる音は、羽音のように軽く、それでいてやけに鮮明に響いた。
レギュラスはその微かな音の余韻を追いかけるように、視線をゆっくりと持ち上げる。
アランの肩越しに灯りをうけた肌が、柔らかく光っていた。
表情はまっすぐで、恥じらいと決意とが混ざり合っている。
――自分の機嫌を取りたい、その一心でここまでした。
それは痛いほど伝わってくる。
だが、レギュラスは口を開かなかった。
言葉を選ぶよりも、目の前の姿を心の奥で噛みしめる方を選んだ。
ゆっくりと一歩踏み出し、握っていたリボンの端を指先で離す。
彼女と自分の距離が、呼吸ひとつ分まで詰まる。
触れれば終わりだ――そう思いながらも、あえてすぐには手を伸ばさない。
その沈黙は、ただの空白ではなかった。
互いの眼差しが、長く共に過ごした年月の奥底までを探るように絡み合う時間だった。
やがて、低く落とされた声が静かな空気を割った。
「……そんな顔をされては、怒りを引きずるわけにもいきませんね」
その声音にはほんの微かな和らぎが混ざっていた。
機嫌がすべて解けたわけではない。
しかし、彼女の選んだこの情けなくも真剣な機嫌の取り方が、確かに何かを動かしたのだ。
レギュラスはそっとアランの肩へ手を置き、その温もりを確かめるように軽く押した。
立ち尽くしていた時間がほどけ、二人の影が重なり合う。
窓の外では夜風が、静かな波のようにカーテンを揺らしていた。
その揺れは、先ほどまで張り詰めていた心を、わずかに解きほぐしていく。
肩に置かれたレギュラスの手は、重くはないのに、重力のように確かな存在感を持っていた。
アランは視線を落とし、胸の奥で息を整える。
怒りはまだ底に沈んでいる――けれど、その奥でわずかに熱が和らいだ気配を感じ取っていた。
「……それなら、良かった」
小さく呟くと、レギュラスの視線がわずかに緩む。
その顔をこんな風に戻すために、自分は今日、どれだけ遠回りをしただろう。
「あなたがこうまでして機嫌を取ろうとする日が来るなんて、思ってもみませんでした」
低い声に、皮肉とも本心ともつかぬ響きが混ざる。
アランは口元に淡い笑みを乗せた。
「……あなたの機嫌が屋敷中に響き渡るのは、避けたいだけです」
「建前にしては、ずいぶんと効果的ですね」
言葉は冷ややかでありながら、それ自体が長く積み重ねた関係の証だった。
アランは少し視線を逸らし、窓の外の闇に目をやる。
「……あなたがどうしようもなく不機嫌な時でも、私なら静められる。
そう思ってしまうのは、きっと間違いではないのでしょうね」
レギュラスは短く息を吐いた。
「間違いではありません。……あなた以外にはできません」
ほんのわずかな間が空き、その間すら二人の間に心地よい沈黙として沈む。
それは依存にも似た、しかし互いが暗黙のうちに許容してきた関係の輪郭だった。
アランはほんの少し近づき、囁くように言った。
「――なら、これからも続けましょう。
こんな情けない方法でも、あなたが元に戻るなら」
レギュラスの黒い瞳が、一瞬だけ何かを映して揺れる。
その中に、彼にしか分からない安堵と諦めが複雑に絡まり合っていた。
夜はまだ深く、二人の影は重なったまま動かなかった。
必死に「女」の部分を駆使して機嫌を取られる――
それは決して、不快ではなかった。
むしろ、昼間。
アリス・ブラックがアランの姿に化けていることを見抜けず、
アランにしか見せない自分を惜しげなく晒してしまった、あの屈辱と苛立ち。
その澱のような感情が、今は肌へ触れる温もりとともに、じわじわとほどけていく。
胸の奥深くに溜まっていた氷は、溶け落ちると同時に、濃密な熱を孕んだ水へと姿を変えていた。
「……では、今夜はどこまで付き合ってくれるんです?」
低く、わざと試すように問う。
アランは目を上げ、微笑をひときわ深くする。
「――あなたが満足するまで。どこまでも」
それは何にも代えがたい、最高級の愛の言葉だった。
絶対にシリウス・ブラックですら、聞くことすら叶わない一言。
今、この瞬間だけは、自分のためだけに紡がれている。
喉奥で短く息を呑む。
その満たされ方は、途方もない高みに昇るようで、胸の奥まで熱が満ちていった。
何度も、何度も、確かめるように繋がる。
肌の温度と鼓動が重なって、境界線は溶けていく。
唇と唇が離れる間も惜しむように、隙間なくキスを重ねた。
味も、息も、すべてが混じり合っていくうちに、
何が自分で何が相手なのか、その輪郭すら曖昧になっていく。
やがて、爆発的な快楽が全身を駆け抜けた。
視界が揺れ、息が絡まり、声にならない声が喉に滲む。
今、この瞬間には――
昼間の苛立ちなど、一片も残ってはいなかった。
あるのは、ただただ、愛おしさ。
その感情だけが、互いの体と心を満たし、
夜という器の中で、無限に広がっていった。
カーテン越しの薄明かりが、まだ柔らかな眠りの中に差し込んでいた。
鳥の鳴き声が遠くで響き、季節の匂いを含んだ朝の空気がスッと室内を撫でてゆく。
アランは、ゆっくり目を開けた。
視界の端には、まだ眠っているレギュラスの横顔。
形の整った眉、微かに緩んだ唇、肩から覗く静かな寝息。
昨夜、自分のためだけに向けられた熱と、その直後の優しい沈黙――それがまだ指先の感触として残っていた。
ほんの少しだけ身じろぎすれば、抱いている腕が彼女の腰を引き寄せる。
無意識の仕草なのかもしれない。
だが、その力は「離すな」と言っているのと同じくらい明確だった。
アランは小さく微笑み、目を閉じ直す。
その腕の重みの中で、彼の温もりに包まれたまま、
――昨夜は機嫌を取るつもりで始めた行為だったのに、結局は自分まで満たされてしまった、と心の奥で呟く。
レギュラスは、まだ夢の淵にいながらも、ゆっくりと瞼を開いた。
視線が交わる。
何も言葉を交わさないまま、その瞳には“分かっている”という感情が静かに滲んでいた。
昨夜の苛立ちは、跡形もない。
あるのは安堵と、長く寄り添ってきた者だけが漂わせられる信頼の気配。
「……おはようございます」
アランの声は、限りなく柔らかい。
レギュラスは長く息を吐き、彼女の額へ軽く唇を押し当てた。
「おはようございます……まだ、離れなくてもいいでしょう」
その言葉が、この朝のすべてを物語っていた。
ふたりの間の境界は、今はもう曖昧なまま、
新しい一日を静かに迎え入れていた。
アランは鏡の前で小さく息を吐く。
纏っているのは、数時間前に選んだばかりのナイトドレス。
自分らしくもない――と、わかっている。
普段なら決して選ばないほど、肌を見せ、形を際立たせ、誘うような色。
けれど今日は……情けないと思いながらも、このやり方を選んだ。
どうしても、彼の機嫌を和らげたかったから。
扉の外、足音が近づく。
心臓が、まるで胸の中で大きく膨らむ風船のように高鳴る。
不意に、顔が熱を帯びた。
――行為そのものより、この服を着て待っている今の方が、よほど恥ずかしいなんて。
そんな感覚は初めてだった。
扉が開き、レギュラスが現れる。
その目が一瞬、わずかに開かれ――すぐに全ての意図を悟ったのだろう、深くも浅くもないため息が吐き出された。
「……どうです? あなたが選んだものです」
アランは裾を両手で少し広げ、軽く回して見せる。
その仕草さえも、まるで芝居の一場面のようで、頬はさらに熱を帯びる。
「ええ、似合っていますよ」
言葉は肯定でも、響きには冷たさとわずかな棘がまだ残っている。
それでも構わない――アランは知っていた。
誰よりも知っている、この男を。この男の半生以上を、自分が傍で見てきたのだから。
胸元のリボンへ手を伸ばす。
それを解けば、前合わせはするりと開く仕立てだ。
アランは、その先端をレギュラスの手にそっと触れさせ、握らせる。
「……どうぞ」
もう一度ため息が降りる。
「何のつもりなんです? こんなことで――」
言葉が最後まで届くより早く、アランは一歩、後ろへ下がった。
引く力など、彼の手にはなかった。
それでも、布地は重力に従うように自然とほどけ、
柔らかな衣は、川の水面が静かに割れるように前を開いていく。
レギュラスの喉元で、言いかけられた棘ある言葉は、
空気を切られ、煙のように形を失った。
二人の間に、沈黙が落ちる。
それは、長い年月が作り上げた沈黙――恥じらいも挑戦も、そして諦めすら溶かし込んだ色をしていた。
布が床へと静かに落ちる音は、羽音のように軽く、それでいてやけに鮮明に響いた。
レギュラスはその微かな音の余韻を追いかけるように、視線をゆっくりと持ち上げる。
アランの肩越しに灯りをうけた肌が、柔らかく光っていた。
表情はまっすぐで、恥じらいと決意とが混ざり合っている。
――自分の機嫌を取りたい、その一心でここまでした。
それは痛いほど伝わってくる。
だが、レギュラスは口を開かなかった。
言葉を選ぶよりも、目の前の姿を心の奥で噛みしめる方を選んだ。
ゆっくりと一歩踏み出し、握っていたリボンの端を指先で離す。
彼女と自分の距離が、呼吸ひとつ分まで詰まる。
触れれば終わりだ――そう思いながらも、あえてすぐには手を伸ばさない。
その沈黙は、ただの空白ではなかった。
互いの眼差しが、長く共に過ごした年月の奥底までを探るように絡み合う時間だった。
やがて、低く落とされた声が静かな空気を割った。
「……そんな顔をされては、怒りを引きずるわけにもいきませんね」
その声音にはほんの微かな和らぎが混ざっていた。
機嫌がすべて解けたわけではない。
しかし、彼女の選んだこの情けなくも真剣な機嫌の取り方が、確かに何かを動かしたのだ。
レギュラスはそっとアランの肩へ手を置き、その温もりを確かめるように軽く押した。
立ち尽くしていた時間がほどけ、二人の影が重なり合う。
窓の外では夜風が、静かな波のようにカーテンを揺らしていた。
その揺れは、先ほどまで張り詰めていた心を、わずかに解きほぐしていく。
肩に置かれたレギュラスの手は、重くはないのに、重力のように確かな存在感を持っていた。
アランは視線を落とし、胸の奥で息を整える。
怒りはまだ底に沈んでいる――けれど、その奥でわずかに熱が和らいだ気配を感じ取っていた。
「……それなら、良かった」
小さく呟くと、レギュラスの視線がわずかに緩む。
その顔をこんな風に戻すために、自分は今日、どれだけ遠回りをしただろう。
「あなたがこうまでして機嫌を取ろうとする日が来るなんて、思ってもみませんでした」
低い声に、皮肉とも本心ともつかぬ響きが混ざる。
アランは口元に淡い笑みを乗せた。
「……あなたの機嫌が屋敷中に響き渡るのは、避けたいだけです」
「建前にしては、ずいぶんと効果的ですね」
言葉は冷ややかでありながら、それ自体が長く積み重ねた関係の証だった。
アランは少し視線を逸らし、窓の外の闇に目をやる。
「……あなたがどうしようもなく不機嫌な時でも、私なら静められる。
そう思ってしまうのは、きっと間違いではないのでしょうね」
レギュラスは短く息を吐いた。
「間違いではありません。……あなた以外にはできません」
ほんのわずかな間が空き、その間すら二人の間に心地よい沈黙として沈む。
それは依存にも似た、しかし互いが暗黙のうちに許容してきた関係の輪郭だった。
アランはほんの少し近づき、囁くように言った。
「――なら、これからも続けましょう。
こんな情けない方法でも、あなたが元に戻るなら」
レギュラスの黒い瞳が、一瞬だけ何かを映して揺れる。
その中に、彼にしか分からない安堵と諦めが複雑に絡まり合っていた。
夜はまだ深く、二人の影は重なったまま動かなかった。
必死に「女」の部分を駆使して機嫌を取られる――
それは決して、不快ではなかった。
むしろ、昼間。
アリス・ブラックがアランの姿に化けていることを見抜けず、
アランにしか見せない自分を惜しげなく晒してしまった、あの屈辱と苛立ち。
その澱のような感情が、今は肌へ触れる温もりとともに、じわじわとほどけていく。
胸の奥深くに溜まっていた氷は、溶け落ちると同時に、濃密な熱を孕んだ水へと姿を変えていた。
「……では、今夜はどこまで付き合ってくれるんです?」
低く、わざと試すように問う。
アランは目を上げ、微笑をひときわ深くする。
「――あなたが満足するまで。どこまでも」
それは何にも代えがたい、最高級の愛の言葉だった。
絶対にシリウス・ブラックですら、聞くことすら叶わない一言。
今、この瞬間だけは、自分のためだけに紡がれている。
喉奥で短く息を呑む。
その満たされ方は、途方もない高みに昇るようで、胸の奥まで熱が満ちていった。
何度も、何度も、確かめるように繋がる。
肌の温度と鼓動が重なって、境界線は溶けていく。
唇と唇が離れる間も惜しむように、隙間なくキスを重ねた。
味も、息も、すべてが混じり合っていくうちに、
何が自分で何が相手なのか、その輪郭すら曖昧になっていく。
やがて、爆発的な快楽が全身を駆け抜けた。
視界が揺れ、息が絡まり、声にならない声が喉に滲む。
今、この瞬間には――
昼間の苛立ちなど、一片も残ってはいなかった。
あるのは、ただただ、愛おしさ。
その感情だけが、互いの体と心を満たし、
夜という器の中で、無限に広がっていった。
カーテン越しの薄明かりが、まだ柔らかな眠りの中に差し込んでいた。
鳥の鳴き声が遠くで響き、季節の匂いを含んだ朝の空気がスッと室内を撫でてゆく。
アランは、ゆっくり目を開けた。
視界の端には、まだ眠っているレギュラスの横顔。
形の整った眉、微かに緩んだ唇、肩から覗く静かな寝息。
昨夜、自分のためだけに向けられた熱と、その直後の優しい沈黙――それがまだ指先の感触として残っていた。
ほんの少しだけ身じろぎすれば、抱いている腕が彼女の腰を引き寄せる。
無意識の仕草なのかもしれない。
だが、その力は「離すな」と言っているのと同じくらい明確だった。
アランは小さく微笑み、目を閉じ直す。
その腕の重みの中で、彼の温もりに包まれたまま、
――昨夜は機嫌を取るつもりで始めた行為だったのに、結局は自分まで満たされてしまった、と心の奥で呟く。
レギュラスは、まだ夢の淵にいながらも、ゆっくりと瞼を開いた。
視線が交わる。
何も言葉を交わさないまま、その瞳には“分かっている”という感情が静かに滲んでいた。
昨夜の苛立ちは、跡形もない。
あるのは安堵と、長く寄り添ってきた者だけが漂わせられる信頼の気配。
「……おはようございます」
アランの声は、限りなく柔らかい。
レギュラスは長く息を吐き、彼女の額へ軽く唇を押し当てた。
「おはようございます……まだ、離れなくてもいいでしょう」
その言葉が、この朝のすべてを物語っていた。
ふたりの間の境界は、今はもう曖昧なまま、
新しい一日を静かに迎え入れていた。
