4章
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明らかに――彼女は何かを隠している。
レギュラスはそう確信していた。
たかが口づけ程度で、ここまで露骨に揺らぐものだろうか。
普段のアランなら、確かに恥じらいや柔らかい笑みを見せることはあっても、
今のように、視線の揺れや呼吸の浅さまで滲み出すことはない。
塔の上のカフェに昇ってきてからというもの、
目の前にいる“妻”は、どこかウブな少女のような素振りを崩さなかった。
だが――それは、あまりにも不自然だった。
カップを置く音が小さく響いたあと、レギュラスは何気なく低く尋ねた。
「……どうしました? 落ち着きませんね」
わずかに肩を揺らした“アラン”が、こちらを見上げる。
「そんなことないわ。……高いところに来たから、少し興奮してしまって」
少女が秘密を打ち明けるような柔らかさで告げられたその声は、
確か
に耳に心地よくもあった。
しかし、それと同時に、どこかぎこちない。
音の端々に、作られた温度が混じっていた。
――可愛らしい、だが違う。
塔の上の景色ごときで、アランがこうも無邪気に頬を染めることはない。
高所の眺めなど、何度も共にしてきたはずだ。
それを理由に心を躍らせる素振りは、どう考えても“らしく”なかった。
レギュラスは表情を崩さずに、紅茶を一口含む。
その瞳は、薄く笑みを讃えながらも、
目の前の女の中に潜む何かを探るように、深く、静かに彼女を見据えていた。
僅かな違和感が、またひとつ積み重なっていく――
それは、胸奥の疑念の形を、ゆっくりと確かなものへと変えていった。
レギュラスは、笑みを崩さぬままカップをソーサーに戻した。
小さな音が、妙に澄んで響く。
「……そうですか。高いところに来るのは、何度目でしたっけ?」
何気ない問いのように口にする。
目の前の“アラン”は、一瞬だけ視線を泳がせた。
そのわずかな間を、レギュラスは逃さない。
彼にとっては、こうした細部こそが答えを示す裂け目だった。
「ええと……たしか、何度か一緒に……」
淀みなく言い切ろうとする声に、ほんの震えが混じる。
「覚えていないのですか?」
穏やかに、けれど微かに間を詰めるような声。
視線が絡め取るように“妻”の瞳を覗き込む。
アリスは、笑顔を保ったまま小首を傾げた。
「……あなたといると、景色ばかりは見ていられないから」
整えられた返し。しかし、それはアランのような迷いなき冗談ではなく、
どこか台本めいた響きがあった。
レギュラスは短く笑い、もうそれ以上は追及しなかった。
追い詰めすぎては、真意が隠れてしまうことを知っている。
それよりも――こうして小さな針を何本か刺し、反応の揺らぎを確かめる方がいい。
「……では、もう少しだけ景色を楽しみましょう」
そう言って視線を外したが、その目尻の奥には、
疑念という名の小さな焔が絶えず灯っていた。
彼の中で積み重なりつつある違和感は、
もはや無視できない重さを帯び始めていた。
レギュラスはしばらく景色を眺めていたが、やがて紅茶を飲み干し、ゆるやかに立ち上がった。
「少し、手を洗ってきます」
ごく自然な口調。だがその動きと同時に、外套のポケットが揺れ、小さな重みが布越しに形を見せる。
アリスの鼓動が、急に速くなった。
――今だ。
これ以上の、長い隙はないかもしれない。
彼が背を向けるほんの動作の間に、思考が一気に研ぎ澄まされる。
視線は笑顔のままテーブルのカップや皿を掃っているが、意識のすべては、その胸ポケットへと釘付けだった。
足音が遠ざかり、テラスを吹き抜ける風が一瞬だけ音を独占する。
アリスは、膝の上で静かに両手を組んだまま、次の瞬間の動きを心の中で反芻する。
――外套を椅子の背から外し、ポケットの中身を抜き取る。
所要時間は、三秒。
戻ってきた時、座り位置も表情も完璧に整えておく。
けれど、その計画の裏に、もう一つの声が囁く。
(もし、バレたら……?)
レギュラス・ブラックの疑念は、すでに何層にも積み重なっている。
この一度の手元の揺れを、彼は見逃さないかもしれない――そんな恐怖が背筋を冷たくする。
それでも、やるしかない。
小切手さえ手に入れれば、今日ここに来た目的は果たされるのだ。
アリスはゆっくりと視線を落とし、ふっと唇を緩めた。
カップを手に取ったその姿の裏で、
指先にはすでに、外套の端を掴むための、ほんの僅かな緊張が宿っていた。
――次に風が吹く瞬間、動く。
カップの淵に残った紅茶の香りを胸の奥へ沈めながら、アリスは視線を落としたまま耳を澄ませていた。
――レギュラスの足音は、まだ遠ざかっている。
その間にも、塔の上を吹き抜ける一陣の風が、テラス席のクロスをふわりと持ち上げた。
紙ナプキンが宙を舞い、銀のカトラリーが軽く音を立てて転がる。
その一瞬。
アリスは自然な仕草で腰を浮かせ、背後の椅子に掛けられた外套へ手を伸ばした。
指先が布をつまみ、その奥の、硬い紙片の感触を確かめる。
心臓の鼓動が、指先へと直接伝わるほど速い。
――これだ。
深呼吸ひとつ分の間に、紙片を滑らかに引き抜く。
同時に、外套を乱さぬようポケットの形を整え、椅子へそっと戻す。
視線をテーブルへ戻し、カップを持ち直す。まるで何もなかったかのように。
だが、膝の上では、スカートの影に隠した手がしっかりと小切手を握り締めている。
薄くて軽いはずのそれが、今は鉛のように重たく感じられた。
遠くで扉が開閉する音。
レギュラスの足取りが、再びこちらへ戻ってくる。
アリスはひとつ、静かに息を吸った。
――落ち着け。これは、まだ終わっていない。
ポケットから宝を抜き取った達成感と、
次の瞬間にすべてが崩れるかもしれない恐怖が、
冷たい刃と温い血のように胸の中で交じり合っていた。
レギュラスの足音が、ゆっくりとテラス席へと近づいてくる。
その一定のリズムが、アリスの鼓動と奇妙に重なって聞こえた。
「お待たせしました」
低く穏やかな声と共に、彼は席に腰を下ろす。
外套の位置も、ポケットも――乱れはない。
だが、それを確認するような仕草が一瞬だけあったことを、アリスは見逃さなかった。
「紅茶、まだ温かいですね」
何気なくそう言って、カップを手に取るレギュラス。
微笑んだ横顔の奥で、黒曜石のような瞳がちらりとこちらを探る。
アリスは、視線を受け止め過ぎぬように気を配る。
「ええ、待っている間にも、良い香りが立っていましたから」
アランらしい調子を意識して、やや柔らかく言葉を返す。
だが、頬の筋肉は思うようにほぐれず、笑みにはわずかな緊張が滲んでしまう。
――見られている。
話題は何げないはずなのに、レギュラスの視線はまるで表情の奥を覗き込む鏡のようだ。
小切手が膝に触れる感触が、ますます重く、存在感を増していく。
「……今日は、なんだか一層落ち着きがないように見えます」
静かに告げられたその言葉は、からかいとも、探りとも取れた。
アリスは、短く笑って首を振る。
「高い場所は、やっぱり少し緊張しますの」
レギュラスはうっすらと笑みを返したが、その目の奥の光が揺れなかったことに、アリスの心拍はさらに速まった。
この会話の端々に、小さな刃が潜んでいる。
一歩でも踏み違えれば、その刃は確実に自分の正体へ届く――
そんな確信を抱きながら、アリスは笑顔を保ち続けた。
レギュラスは軽く紅茶を口に含み、視線を外の空へ流す。
しかし、その仕草はわずかに間を挟んで、再びアリス――アランの姿をした彼女――へと戻ってきた。
「……そういえば、覚えていますか」
不意に落とされた声は穏やかで、それゆえに油断を誘う。
アリスの指がカップの取っ手で一瞬止まった。
「何を、ですの?」
「去年のこの時期ですよ。北の別荘で……夜通し、オーロラを見るために外にいたことがありましたよね」
外套の下の膝が、わずかに硬くなるのをアリス自身が感じ取った。
——そんな出来事は、知らない。
だが、知らないとは言えない。
「ええ……とても寒くて……でも綺麗だったわ」
微笑みを作り、あたかもその景色が脳裏に浮かんでいるように語る。
レギュラスは薄く笑みを返したが、その瞳は氷のように澄んで、返答の奥を計るようにじっと見つめていた。
「そうですね。……ただ、あの時は雲が厚くて、結局ほとんど見えなかったでしょう?」
アリスの喉が小さく鳴った。
反射的に「そうだったかしら」と返す前に、息を飲み、
「……ええ、でも、待っている時間も悪くなかったと思うわ」
と、柔らかく言葉を継ぐ。
一見、すれ違わずに会話は成立している。
だが、レギュラスの中では確信の輪郭が、じわりと濃くなっていた。
——やはり、何かが違う。
カップをソーサーに戻しながらも、その目は決して獲物を逃さない猛禽のように、相手の全身を見張っていた。
レギュラスは、ゆるやかに身を乗り出した。
カウンター席の狭さが、その距離をさらに縮める。
視線が真正面から絡まり、アリスは逃げ場を失ったような感覚に襲われた。
「……今日は、本当に面白いですね」
低く呟きながら、彼は肘をつき、一層その瞳を近づけてくる。
「何が、ですの?」
喉がわずかに詰まりそうになりながらも、アリスは笑みを保つ。
「あなたが——少し違って見える」
言葉は柔らかいが、その奥に潜む探究の刃は鋭い。
ふと、レギュラスはアリスの手に自分の手を重ね、その温度を確かめるようにゆっくり指を絡めた。
そのまま離さず、低く囁く。
「こうして手を握られると、どんな気分です?」
膝の上で小切手の存在を感じる指先が、わずかに震える。
「……落ち着くわ」
なんとか声を絞り出したが、その響きが自分でも薄いことをアリスは悟っていた。
レギュラスはうなずき、唇の端だけで微笑む。
「なら、良かった」
だが、その視線は明らかに表面の笑顔だけを見てはいなかった。
脈の速さ、息の深さ――些細な変化を、彼は一つ残らず拾い上げている。
沈黙の間に、テラスを渡る風が二人の影を揺らす。
アリスは、わずかに身を退きたい衝動を必死にこらえながら、
——ここで崩れれば終わりだ、と自分に言い聞かせた。
レギュラスの手のひらはまだ、自分の手を包み込んだままだった。
レギュラスは指を絡めたまま、視線を逸らさずに言葉を落とした。
「……そういえば、朝の紅茶は、いつもローズヒップにしていましたよね」
唐突な、そのはずのない何気ない話題。
アリスの瞳が一瞬だけ揺れた――ほんの瞬きよりも短い時間。
しかし、それは熟練の観察者から逃れられるものではなかった。
「ええ……最近は、その日の気分で少し変えてますけれど」
笑みを整え、軽やかに返す。
だが、レギュラスの目はそれだけですぐには笑みを深めない。
「気分で変える? ……ふむ、あなたがそう言ったのは、たしか去年の春以来ですね」
彼の声はあくまで柔らかいが、その裏に潜む探る意図をアリスは感じ取る。
胸の奥がきゅっと縮む。
彼の言葉は、まるで遠回しに「本当にあなたはアランなのか」と問うように絡みついてくる。
「覚えているのね……そう、あの時もあなたに指摘されて、笑った気がするわ」
アランらしく、視線を和らげて返す。
レギュラスは、ひどく穏やかな笑みを返した。
しかしその笑みは、疑惑に形を与えるための覆いでもあった。
外見も声も完璧に“妻”であるはずなのに、
少しずつ積もっていく違和感が、彼の中で確かな輪郭を持ちはじめている――。
アリスはその視線を避けずに受け止めながら、
膝の上の小切手の存在を意識し続けていた。
ここで崩れれば、すべてが台無しになる。
だから――笑う。
そして、演じきる。
カップの縁に揺れる紅茶の波紋を眺めるふりをして、アリスは呼吸を整えていた。
指先の力は、膝の上に隠した“小切手”にすべて注がれている。
この紙切れ一枚が、彼を傷つける武器となり得る。
その時、静かに落とされる声。
「……何か隠していることがあるなら、早めに相談してください」
探るようでいて、あくまで優しげな響き。
しかし、その奥にあるのは、やはり鋭利な刃だった。
アリスは咄嗟に顔を上げ、アランの仮面をかぶった笑みを浮かべる。
「……何もないわ」
嘘の温度を乗せぬよう、声の揺れを務めて抑える。
けれど、レギュラスが本当に何を察しているのかはわからない。
全てを見抜いたうえで、ただ掌の上で弄ぶようにこの状況を楽しんでいるだけなのかもしれない。
その可能性を考えるたび、胸の奥に冷たいものが広がる。
この男はいつだってそうだ――真実を見逃すことはなく、表情一つで人の防御を崩しにかかる。
小切手はもう手中にある。
それがアリスを僅かに支えていたが、それでも今すぐにでも、この男の視界から抜け出したかった。
やはり、嫌いだ――レギュラス・ブラック。
何もかもを見透かすような黒い瞳。
こちらの正義を、子供が拾った石ころのように価値のないものとして掌から零し落とす、その嘲りを帯びた空気。
そして、完璧すぎるまでに整った外見と態度に、隙一つ与えぬ鋭い攻撃性。
それらすべてが、アリスの心を苛立ちと焦燥で締めつける。
仮面を被って向かい合っていても、その奥底では、本能的な敵意が静かに燃え続けていた。
「なら、いいんです」
そう言って緩やかに微笑むその表情の中に、どこまでが本心でどこからが試しなのか――アリスには判別できなかった。
ただ、早く立ち上がってここを去る理由を作らなければならない。
このまま彼の目の奥に、さらに深く覗き込まれる前に。
アリスは、握りしめた膝の上の手に力を込めた。
この場から離れられる、自然な理由を――それが今すぐにでも欲しい。
「……少し、外の空気を吸ってきてもいいかしら」
あくまで柔らかく、アランらしい調子を保ちながら声を掛ける。
感情のざらつきを、表情に一切出さぬように。
レギュラスはカップを口に運び、淡く笑った。
「ここは十分、風通しのいい場所ですよ」
一瞬、軽くいなされた感覚に胸が固くなる。
それでもアリスは視線を外し、手すりの方へと首を傾けた。
「でも……窓辺まで行きたいの。下の景色、もう少し近くで見てみたくて」
わずかな沈黙――そして、レギュラスは椅子に背を預け、手を引くような素振りもなく言った。
「……ええ、ではご一緒しましょう」
その言葉は優しいが、同時に“ひとりにはさせない”という意味を含んでいた。
逃げ道を、正面からふさがれるような感覚。
アリスは小さく笑って「頼もしいわね」と返す。
だが胸の奥では、持ち出しかけた口実が無意味になった事実が、じわりと冷えて広がっていた。
少しでも距離を取ろうとしたのに、逆にさらに近い位置で並び立たねばならない――
しかも、膝の上の小切手を守ったまま。
螺旋を描くように続く心理戦の中で、
ただ一度でも優位を得られる隙を、今度こそ見つけなければならない。
カウンター席を離れ、二人はゆっくりと窓辺へ歩みを進めた。
塔の外壁に沿って大きく設けられた硝子窓は、真下に広がる魔法省の街路と、その先の河川までを一望できる。
薄い雲の切れ間から光が降り、遠くの屋根瓦を鈍く光らせていた。
レギュラスはアリスの横に並び、手すりへと片肘をかける。
距離は近い――肩と肩の間に、ほんのわずかな空気しか残されていない。
「……こうして見ると、下界の騒がしさも別の世界の出来事みたいですね」
穏やかに、景色を眺めながら言葉を落とす。
アリスは視線を遥か下へ向けたまま、短く息を整えた。
「ええ……上からだと、全部がゆっくりに見えるわ」
表情は穏やかに装っても、内心の鼓動は耳の奥で激しく響いている。
レギュラスは横顔をわずかにこちらへ向けた。
「……あなたが何を考えているのか、時々まったく読めなくなる」
微笑は崩さず、けれどその声音の奥にわずかな圧が宿る。
「本当に――何も隠していませんか?」
アリスの掌の中、小切手の存在が熱を持って脈を打った。
膝の上から移したその重みが、まるで咎の証のように思える。
「……ええ」
アランの調子を守って短く、しかしくぐもった声で返す。
レギュラスの黒い瞳は、まっすぐにアリスを射抜く。
そこには疑念と、ほんのわずかな愉悦の色が混じっていた。
相手の動揺を感じ取りながら、それを確かめるように視線で追う。
吹き抜ける風が、アリスの髪と魔法で仕立てた衣の端を揺らす。
だが、その涼しさとは裏腹に、胸の奥では熱く、息苦しい緊張が張り詰め続けていた。
この状況から抜け出す方法を探しながらも、
アリスはわかっていた――レギュラスは、一度捕らえた獲物を決して簡単には放さない男だということを。
レギュラスは、ゆっくりと体の向きを変えた。
肩と肩が触れ合う微妙な距離から、さらに半歩近づく。
アリスは反射的に息を飲み、その音が自分の耳にもはっきり届いた。
「……こんな高い場所、少し足がすくみませんか?」
そう言いながら、彼は軽く背後から腕を回し、腰を支えるように手を置いた。
その動きは親密で、守るようでいて、逃げ道をふさぐ鎖にも思える。
温かな掌の重みが、魔法で変えた外見の下の自分を直撃する。
アリスは、心臓がまた早まるのをどうにか押し殺し、
「……あなたが支えていてくださるから平気よ」と、アランらしい微笑みを見せた。
レギュラスはその言葉に、何かを測るような眼差しを向けた。
そして――
彼の指先が、そっとアリスの髪に触れる。
風で乱れた一筋を耳にかける、その何気ない行為。
だがそれは、彼にとっては“妻”に幾度となくしてきた、ごく馴染み深い仕草だった。
それを受ける相手の反応ひとつで、すべての答えを読み取る自信がある――そんな静かな確信を宿した動き。
アリスの背筋がわずかに硬直する。
――しまった、と心の奥で声が響く。
頬を染めるのも、視線を逸らすのも、反応が過ぎれば怪しまれる。
だからこそ彼女は、ほんの一瞬だけ目を細め、
「ありがとう」と低く穏やかに言った。
レギュラスは口元だけで微笑みを返す。
その笑みは、信じたようにも見えるし、試した結果を心に仕舞い込んだようにも見えた。
ガラス越しの景色は広がっているのに、
アリスには、この距離の近さと視線の深さしか感じられなかった。
膝の上、小切手の存在が鋭く意識に刺さり続ける。
このままでは長くはもたない――
そんな焦燥が、胸の奥で静かに渦を巻いた。
胸ポケットに添えた指先が、そこにあるはずの感触の違いを伝えてきた。
――抜かれている。
一瞬で、確信は形を成す。
目の前でアランを装っているこの女は、アランではない。
ならばその中身は誰なのか――考えるまでもない。
おそらくは、騎士団の誰かが彼女に接近し、何らかの手段で姿を借りているのだろう。
おかしなことに、腹が立つよりも先に、むしろ愉快だと思った。
――やはり、こういうことも起こり得ると踏んでおいて正解だった。
この胸に入れていた小切手の控えは、初めから本物ではない。
見た目こそ精緻に作られた銀行発行の小切手そのものだが、
実際には古い契約書を縮小し、インクと魔法で額面や署名部分を巧妙に偽装したもの。
裏面には、変化の魔法で隠した自分の署名を崩した筆跡がほんの一行――
覗いた瞬間に、偽りだと理解できる「落とし穴」を仕込んである。
それがいま、この女の懐にあるのだ。
胸の奥で、微かな笑いが熱とも冷たさともつかぬ感覚を連れて広がった。
視線をゆるやかに上げる。
わずかに緊張を滲ませた女の顔。
その仮面の下を想像するのは容易かった。
「……そろそろ、そのしらけた芝居はおやめになりませんか?」
声は低く、柔らかく――けれども、その下に潜むのは疑いではなく、確信。
まるで舞台の幕を、自らの手でゆっくり引き裂く役者のように、
レギュラスは静かに、そして容赦なくその“瞬間”を作り出していった。
この言葉を、この距離で、こういう声音で投げかけられた時、
どれほどの者が微笑を保ち続けられるだろうか――
そんな興味が、黒い瞳の奥で淡い光を灯していた。
レギュラスの声が落ちた瞬間、テラスの空気がひやりと冷えたように感じた。
アリスは、表情を変えないよう唇の端をわずかに上げる。
「何のことかしら」
アランの声色を崩さず、ゆったりと紅茶に手を伸ばした。
だが、カップに触れる指の先が、わずかに震える。
それを見逃すはずもなく、レギュラスの瞳が細められた。
「……その中に入っているでしょう」
顎をわずかに示した先は、アリスの膝の上――
布の下に隠した、小切手の“控え”がそこにあると、言外に告げている。
「わざと置いておいたんですよ。
あなた方がこういう真似をしてくるかもしれないと、最初から思っていましたから」
アリスの胸の奥に、氷が突き刺さる。
――わかっていた? 最初から罠だったというの?
「中身を見てみるといいですよ。
……いや、もう見なくてもいいでしょう。あなたは私の妻ではない」
その言葉は、宣告というより事実の確認だった。
逃げ場を塞ぐような柔らかさで、しかし絶対に覆せぬ確信を帯びた声。
アリスの喉が乾き、呼吸が浅くなる。
仮面を維持しようとする意識が、レギュラスの黒い瞳に吸い込まれるように削られていく。
次に彼がゆっくり口角を上げた。
「……さて、その顔の下には、一体誰がいるんです?」
心臓が一拍、大きく跳ねた。
その瞬間、アリスはもう、自分の中の仮面がひび割れていく音を確かに聞いていた。
問いかけというよりは、すでに答えを知った人間が、形式だけ整えて告げる言葉だった。
レギュラスの黒い瞳は、逃げ場のない夜空のように深く、冷たく、アリスを覆い尽くす。
アリスは、必死に口元の笑みを保とうとした。
――まだ、崩せない。
そのはずだった。
しかし、心臓の早鐘が全身に響き、指先の感覚がじわりと遠のいていく。
〝もうバレている〟
その事実だけが、鋭く胸を締めつけた。
「……何のことかしら」
アランの声色を装ったまま言い返すが、声の端にひそかな震えが混じる。
レギュラスは、唇にうっすらと笑みを残したまま懐から杖を取り出した。
軽く一振り――魔法の波紋がアリスを包み、肌が、髪が、輪郭がゆっくりとかき消される。
その瞳は、目の前の変化を一瞬も見逃さない。
アラン色の髪は縮み、金色にも銀色にも属さない曖昧な光を帯びた短い髪へ。
白い肌は色をわずかに失い、瞳は鮮やかな緑を取り戻す。
外套の下のシルエットも、アランのものではなく、アリス本人の線へと戻っていく。
完全に変化が解けたとき、そこに立っていたのは――騎士団の若き魔女、アリスだった。
沈黙が落ちた。
アリスは息を詰め、視線を逸らさなかった。
その眼には、敗北を認める痛みと、なおも消えない敵意が同居している。
レギュラスはその顔をじっと見つめ、低く囁いた。
「……やはり、あなたでしたか」
声は穏やかだが、底には捕食者が獲物を見つめる静かな愉悦が潜んでいる。
「私の妻を真似て、よくもここまで――大胆なことを」
その言い方に非難の色は薄く、むしろ面白がっている響きがあった。
アリスは言い返そうと口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。
その沈黙を、レギュラスは逃さない。
ゆっくりと身を寄せ、耳元で囁く。
「……“本物”の奥までは、どうあっても演じきれない」
その一言に、アリスは初めて視線を落とした。
小切手の偽物の重さが、今になって全身にのしかかる。
風が、塔の上のテラスを冷たく渡っていく。
変身の魔法が解け、もう隠すべき仮面もないアリスの髪と肌を、その風は容赦なく撫でた。
「……随分と手の込んだ真似をしましたね」
レギュラスの声は低く抑えられ、それでいて妙に澄んでいた。
アリスは唇を噛み、何も答えない。
声に出せば動揺も悔しさも全て滲み出てしまう気がした。
「魔法法務大臣と私の間に、何らかの取引があると踏んで来たのでしょう。
膝の上にある紙切れを、戦利品だと思って……」
視線が一瞬だけアリスの膝へ落ちる。
その目が、もう全てを知っていると告げていた。
「でもあれは、本物とそっくりに作った偽造書類です。
形だけは小切手に見えるが、中身は……古びた船舶保険の契約書ですよ。
わざわざ保険会社の印章まで残してね」
アリスの瞳に、悔しさの色が差した。
レギュラスはその表情を見逃さず、ゆっくりと一歩近づく。
「僕があなた方の動きを知らないとでも?」
その声音は、静かな愉悦と確信に満ちていた。
「おそらく……あなたは騎士団の誰かと接触した。
学校設立案、混血のための墓の計画――そのどちらかに僕が関与している証拠を引き出そうとしたのでしょう。
そして、アランの姿を借り、最も近いこの場に踏み込んだ」
アリスは視線を逸らし、握る拳に力を込めた。
しかし、その仕草さえも彼に読み取られていることは、はっきりとわかった。
レギュラスは口元の笑みを消さずに、最後の一言を静かに告げる。
「残念でしたね――僕の懐に、あなたが求める“証拠”など初めからなかった」
その声の響きは、冷たい石壁のように逃げ場を与えず、
同時に、追い詰められた者だけが感じる底知れぬ威圧を孕んでいた。
アリスは、この場で自分が完全に形勢を失ったことを理解していた。
それでも、視線の奥に宿した炎だけは消さなかった。
たとえ、この男の掌の上に完全に転がされていたとしても――。
胸の奥に刺さるのは怒りではなかった。
別に、アランの姿を借りられたこと自体など、どうでもよかった。
そんなことは、誰にでもできる戯れに過ぎない。
だが――この女。
マグル生まれの、忌まわしきアリス・ブラック。
自分がアランだと信じて、ほんの一瞬でも心を緩めてしまった、その時の姿を、この女に見られていた。
何の疑いもなく、いつものように、腕を回し、腰に触れ、首筋に顔を寄せ、唇を這わせ――
そして、キスまで。
アランだと信じたからこそしてしまった行為。
だが、中身はこの女だった。
その事実が、背中を冷やし、胃の奥をひどく荒らしていく。
とんでもなく、不愉快だ。
思わず、長く深いため息がこぼれた。
もしここが法も騎士団も届かぬ場所であれば――跡形もなく、この手で葬ってやったかもしれない。
黒い瞳が、ゆっくりとアリスを射抜く。
静かな声が、刃のように形を成す。
「……どこまでも目障りな女ですね、あなたという人は」
言葉の端に感情を乗せる必要はなかった。
低く、滑らかに、それなのに息苦しいほどの圧力を伴った声音は、
とっくに彼女の胸奥まで届いている。
アリスは口を開きかけてやめた。
何かを言い返せば、余計に呑み込まれると本能で悟っているのだろう。
肩のわずかな強張りと、呼吸の浅さが、その沈黙を雄弁に物語っていた。
レギュラスは微動だにせず、ただその沈黙を楽しむように視線を放つ。
そこには、侮蔑と冷笑、そして静かに沸き立つ因縁の熱が混じり合っていた。
アリスは唇をわずかに噛み、俯いた。
返す言葉が見つからない――いや、見つけても、この男の前で吐けば必ず足元をすくわれる。
そんな確信が、喉を締めつけて動きを奪っていた。
彼の「目障りな女」という一言は、冷たく突きつけられた刃のようだった。
鮮やかに研がれた言葉ほど痛みは鋭く、
その鋭利さは皮膚より深く、心の芯を抉る。
沈黙が塔の上に降りた。
遠くの鳥の羽音や街のざわめきさえ、この距離では別世界の戯れのようだ。
アリスは、ただその場から視線を逸らさず、耐えるしかなかった。
だが――耐えることと、屈することは違う。
屈辱を呑み込むほど、胸の奥の熱は冷えず、逆に密かに膨れ上がっていく。
この男の前で涙も怒声も見せるものか。
それは自分にとって、敗北よりも大きな恥になる。
レギュラスの瞳には、明らかに勝者の余裕があった。
その黒い視線は、すでにアリスの思考も感情も、
掌の上にあると信じて疑っていない。
……だからこそ、忘れない。
この瞬間を、この屈辱を、必ず返す日を。
そう心の奥底に焼き付けたとき、アリスはわずかに顎を上げ、
それ以上は何も言わずにその視線を受け止め返した。
彼女の中で、静かで冷たい炎が灯ったのを――レギュラスが気づいたのかどうかは、わからなかった。
塔の上を渡る風が、一瞬だけぴたりと止んだように感じられた。
その静けさの中、階段側の扉が軽く開き、小さな軋みが響く。
足音――聞き慣れた、しかしここには似つかわしくない急ぎ足。
振り返らずとも、アリスにはわかった。
アランだった。
彼女の歩みは迷いなく、そしていつもより速い。
きっと、アリスの戻りが予想より遅いことを案じ、塔の上のカフェにいると聞きつけて駆け上がってきたのだろう。
視界の中に姿を認めた瞬間、アランの瞳がわずかに見開かれる。
――魔法はすでに解け、アリスは本来の姿に戻っていた。
その立ち位置と、背後に立つレギュラスの影。
それを一目で理解したのだろう。
「……!」
言葉を選ぶより早く、アランはその場に歩み寄り、
二人の間へ自然に身体を滑り込ませた。
その動きは、盾のようでもあった。
高価な布地の衣がふわりと揺れ、アリスの視界からレギュラスの黒い瞳を切り離す。
間近に感じるアランの背中は、やわらかな布越しでも芯の通った温もりを持っている。
アリスは、無意識に肺へ溜まっていた重い息を吐き出していた。
レギュラスの視線は変わらず鋭いままだったが、
その間に立つアランの姿が、その鋭さを押しとどめる壁となっていた。
淡い光が、三人の間に複雑な影を落としている。
アリスにとっては、不意に訪れた救いの一瞬。
アランにとっては、ためらいなく踏み込むべき理由があった。
その二人を、レギュラスは冷ややかに見やりながらも、
小さく息を吐き――そして何も言わずに、ほんの半歩だけ距離を取った。
塔の上の風が、またゆっくりと流れはじめた。
まるで、この束の間の均衡をそっと撫でるように。
「……アリス、話したいことは話せたのかしら」
アランの声は、柔らかくけれども奥に張り詰めた響きを隠しきれていなかった。
アリスは一瞬その瞳を見つめ、ほんのわずかに笑みを作る。
「はい。確信を得ることができたので……それで十分です」
息に混じる安堵と、胸の底に沈殿する悔しさ。
小切手の控えは手に入らなかった――それでも、真実は掴んだ。
オブスキュラスの少年を弔うための墓。
あの計画を葬ったのは、紛れもなくレギュラス・ブラック。
金で魔法法務大臣を沈黙させたのだという事実。
それを知っただけで、十分な収穫だった。
「そう……それなら、もう行って」
その一言に、アリスは小さく瞬いた。
レギュラスの側から離してくれる――それが、この言葉の本当の意味。
きっと、これからアランはあの男に問い詰められるのだ。
『なぜ自分と接触し、こんな馬鹿げたことに手を貸したのか』と。
分かっていながら、この人は行けと言ってくれる。
それは逃がすためであり、守るためでもあった。
胸の奥に、鋭くも温かい感情が湧き上がる。
また守られてしまった――その優しさに。
自分の無力さを痛いほど嘆きながら、
それでも、年月がどれほど過ぎてもなお、こうして庇ってくれるアランの存在が、どうしようもなく嬉しかった。
こんなことをしてくれるのは、きっとアランと……そして、シリウスだけだろう。
声に出してその名を呼ばずとも分かっている。
命を救ってもらった、あの日から――
アリスにとって、アランは紛れもなく母そのものだった。
風が塔の上を通り抜け、アランの背を柔らかく揺らす。
その背は、何年経っても変わらず、自分の前に立ち続けてくれる壁なのだと、アリスは痛感していた。
塔の風が、緊張にざわめく空気をかき混ぜていた。
互いを見据える視線は鋭く、それでいて足元には静かな均衡が保たれている。
「……どういうつもりです?」
レギュラスの声は、冷ややかでありながら、深く溜め込んだ怒りを押し隠していた。
人目がある。
この場所では、たとえレギュラスでも声を荒げる真似はしない――
その確信があるからこそ、アランは一歩も退かずにいられた。
「あなたと話したい、とあの子が言っていたんです」
まっすぐに告げるアランの声音は、揺るぎない。
レギュラスの黒い瞳がわずかに細くなる。
「……だから、あなたは自分の姿を貸したと?」
「あなたは……私の姿でないと、
何かを話すほどの距離に、人を入れないでしょう?」
その言葉と共に、アランはふっと表情をやわらげた。
この場にそぐわないほど穏やかで、包み込むような微笑。
その笑みには、挑発でも反抗でもない、確かな理解があった。
――レギュラスが自分に注ぐ想いを、深く知っている顔。
この上なく愛され、受け入れられていることを、疑いなく理解している眼差し。
だが同時に、その柔らかさの奥には、自らの意思で境界を引く強さがあった。
愛情を知っているからこそ、踏み越えられたくない一線がある。
そして、その境界を守るために、あえて微笑みを選ぶことができる女の強さが。
レギュラスはその視線を受け止め、言葉を継がなかった。
風が二人の間を通り抜ける音だけが、しばし世界のすべてを満たしていた。
アランの微笑は、相変わらず柔らかく揺るがなかった。
その笑みに込められた意味――レギュラスは理解していた。
自分がどれほど彼女を愛し、受け入れているかを知ったうえで、それを利用し、境界線を保っている。
愛情を緩衝材のように使いこなし、決して押し切らせない巧みさ。
それが、苛立ちを呼んだ。
目の前でこちらを見つめるその瞳は、信頼も確かに含んでいるが、同時に「ここから先は決して踏み込めない」という拒絶の灯を奥底に宿している。
レギュラスは、そのことに気づけば気づくほど、胸の奥に冷たい水と熱い炎が同時に広がっていくのを感じた。
奪いたくなる――
その境界ごと。
「……あなたは本当に、人の手を焼かせる」
声だけは低く静かだが、そこには押し殺した感情が混じっている。
アランは受け止めるように視線を合わせたまま、何も言わない。
その沈黙すら、挑発のように感じられた。
レギュラスはふっと息を吐き、周囲の視線があることを再確認した。
ここでこれ以上踏み込むわけにはいかない――
分かっている。それでも、指先は彼女の肩に触れたい衝動をかすかに覚えていた。
「……この話は、後でゆっくりにしましょう」
そう告げる時、その視線には約束よりも予告に近い色が宿っていた。
アランにしか分からない、静かな圧と独占欲。
そして、ただ一瞬だけ彼は視線を横に逸らし、未だ近くにいるアリスの姿を見やった。
その黒い瞳に、ほんの刹那、別の鋭い光がきらめいた。
嵐は、まだ終わらない。
塔の上から吹き抜けてくる風は少し冷たかった。
アランは欄干越しに遠ざかっていくアリスの背を見送りながら、静かに言葉を投げかける。
「……アリス、あまりあの人に関わろうとしてはいけません」
声は柔らかいが、その奥底には深い確信があった。
レギュラスの残酷さも、ひとたび標的を定めたときの執念も――アランは誰よりも知っている。
だからこそ、守るために口にできる忠告でもあった。
アリスは一度振り返り、少し照れたような笑みを浮かべる。
「アランさん……私、マグル生まれの魔法使いたちが、ちゃんと魔法を学べる施設をつくりたいという夢……叶いそうです」
その言葉に、アランはわずかに目を見開いた。
胸の奥が、何か温かい光に照らされるように揺れる。
どれほどの困難があったことか。
特に、純血魔法使い保護法が制定されてからというもの、マグルの魔法使いたちへの風当たりは激しさを増し、
夢など握り潰されるかのような日々が続いていたのに――
この子は、やってのけたのだ。
目の前の少女がまとう強さに、アランはふと胸を打たれる。
もう、孤児院の薄暗い部屋で、死を恐れて小さな肩を震わせていたあの子ではない。
未来を掴もうと、真っ直ぐに歩み出したアリスは、
どこまでも眩しく、かつてのシリウスの姿に重なって見えた。
あの人も、いつだって太陽のように光を放ち、
その光で人を導き、温めていた――。
「……アリス、立派だわ。シリウスの子ね」
頬に微笑を浮かべながら告げるその声には、誇りが滲んでいた。
――そうだ、この子は、自分がシリウスに託し、そして彼が育て上げた子。
彼の背中を、父を仰ぐように見つめて育ってくれた。
だから、あの光を宿すことはきっと必然だった。
そして……本当は、自分もそんな未来を望んでいたことを、今さら思い出す。
この子の瞳に映る光は、あの日、自分が信じて預けた“太陽”の輝きと同じものだった。
風が二人の間を渡り、アランの胸に深い温もりを残した。
アリスの後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるまで目で追い、その場に残された空気ごと深く息をつく。
アランは踵を返し、ゆっくりとレギュラスのもとへと戻った。
案の定――いや、予想以上だった。
組んだ腕越しに伝わってくる頑なな気配と、口元に宿る硬さ。
機嫌の悪さは隠すことすら放棄していて、まるで「誰も近寄るな」と無言で告げているようだった。
アランは、その表情を見た瞬間、思わずため息を漏らしそうになった。
屋敷に戻ってからも、このままの空気を引きずるのだろう。
そうなれば、アルタイルやイザベラ夫婦にまで気を遣わせることになる。
――それだけは避けたい。
「……今日はもう、おしまいですか?」
柔らかく投げた問いかけにも、レギュラスは何も返さなかった。
ほんの数拍の沈黙。
アランはそれを、肯定の意と受け取った。
「では、一件だけ……お付き合い頂きたいところがあります」
あえて明るく、空気を塗り替えるように微笑む。
その笑顔は、彼の視線をやんわりと絡め取り、張りつめた空気を少しでも緩めようとするものだった。
そして、ためらいなくレギュラスの手を取った。
その瞬間、指先に伝わるわずかな緊張と体温。
氷を溶かそうと湯を注ぐように、自分の掌でその冷たさを包み込む。
「ね?」と穏やかに促す声音に、拒絶の刃はもうなかった。
ただまだ、深い水の底に沈んだままの機嫌が、ゆっくりと浮かび上がるのを待つばかりだった。
小さな鈴の音と共に、重い硝子扉が開いた。
夕暮れの路地から一歩入れば、そこは柔らかなランプの明かりに包まれた、ナイトドレスの専門店だった。
淡い香料の匂いが漂い、壁沿いに並ぶマネキンは、赤や黒、生成りのレースを纏い、静かにこちらを見ている。
アランは、まだわずかに硬い表情を残すレギュラスの手を握ったまま、一歩、二歩と奥へ進んだ。
自分でも滑稽だと思う――こんな安っぽい機嫌の取り方で、この男の不機嫌が解けるはずがないかもしれない。
それでも、拒まれはしないと知っているからこそ、ここに来た。
縋るような思いで。
「あなたのものも、そろそろ古くなっていたでしょう? 新しい生地にすれば、きっと眠りも安定します」
心なしかいつもより軽い調子で、そう話しかける。
レギュラスは商品棚に流し目をやるだけで、興味のない素振りを崩さなかった。
それでも、アランはその手を決して離さず、華やかな色味の並ぶ一角へと導いていく。
真紅のサテン。
深紅のレースをふんだんに用いたもの。
艶やかな漆黒に銀糸を刺したもの――
壁を彩るドレスたちの前で足を止め、振り返る。
「……どれにしましょう?」
「お好きなものを、どうぞ」
短く返された言葉の奥に、先ほどまでの張り詰めた空気がわずかにほぐれているようにも感じられた。
もう、ここまで来ればきっと伝わっているのだ。この場が、どんな形の“機嫌取り”であるのか。
アランは唇に小さな笑みを浮かべ、彼の目を覗き込む。
「赤と黒、どちらがいいです?」
「……」
「レースとリボンは、どちらかしら?」
「……」
「サテン生地と、透ける生地……どちらを選びます?」
ひとつひとつの選択を、あえてすべて彼に委ねる。
まるで会話を少しでも長く引き延ばしたいかのように。
その間だけは、不機嫌や沈黙の理由から彼を引き離しておきたかった。
レギュラスの指先が、無造作に一枚の黒いサテン地の袖口を摘んだ。
「……これで」
その声は落ち着いているのに、不思議と先ほどの刺々しさは薄れていた。
アランは小さく頷き、その横顔を見ながら、ほんのわずかに胸の奥の緊張を緩めた。
――今日のところは、それで十分だった。
レギュラスはそう確信していた。
たかが口づけ程度で、ここまで露骨に揺らぐものだろうか。
普段のアランなら、確かに恥じらいや柔らかい笑みを見せることはあっても、
今のように、視線の揺れや呼吸の浅さまで滲み出すことはない。
塔の上のカフェに昇ってきてからというもの、
目の前にいる“妻”は、どこかウブな少女のような素振りを崩さなかった。
だが――それは、あまりにも不自然だった。
カップを置く音が小さく響いたあと、レギュラスは何気なく低く尋ねた。
「……どうしました? 落ち着きませんね」
わずかに肩を揺らした“アラン”が、こちらを見上げる。
「そんなことないわ。……高いところに来たから、少し興奮してしまって」
少女が秘密を打ち明けるような柔らかさで告げられたその声は、
確か
に耳に心地よくもあった。
しかし、それと同時に、どこかぎこちない。
音の端々に、作られた温度が混じっていた。
――可愛らしい、だが違う。
塔の上の景色ごときで、アランがこうも無邪気に頬を染めることはない。
高所の眺めなど、何度も共にしてきたはずだ。
それを理由に心を躍らせる素振りは、どう考えても“らしく”なかった。
レギュラスは表情を崩さずに、紅茶を一口含む。
その瞳は、薄く笑みを讃えながらも、
目の前の女の中に潜む何かを探るように、深く、静かに彼女を見据えていた。
僅かな違和感が、またひとつ積み重なっていく――
それは、胸奥の疑念の形を、ゆっくりと確かなものへと変えていった。
レギュラスは、笑みを崩さぬままカップをソーサーに戻した。
小さな音が、妙に澄んで響く。
「……そうですか。高いところに来るのは、何度目でしたっけ?」
何気ない問いのように口にする。
目の前の“アラン”は、一瞬だけ視線を泳がせた。
そのわずかな間を、レギュラスは逃さない。
彼にとっては、こうした細部こそが答えを示す裂け目だった。
「ええと……たしか、何度か一緒に……」
淀みなく言い切ろうとする声に、ほんの震えが混じる。
「覚えていないのですか?」
穏やかに、けれど微かに間を詰めるような声。
視線が絡め取るように“妻”の瞳を覗き込む。
アリスは、笑顔を保ったまま小首を傾げた。
「……あなたといると、景色ばかりは見ていられないから」
整えられた返し。しかし、それはアランのような迷いなき冗談ではなく、
どこか台本めいた響きがあった。
レギュラスは短く笑い、もうそれ以上は追及しなかった。
追い詰めすぎては、真意が隠れてしまうことを知っている。
それよりも――こうして小さな針を何本か刺し、反応の揺らぎを確かめる方がいい。
「……では、もう少しだけ景色を楽しみましょう」
そう言って視線を外したが、その目尻の奥には、
疑念という名の小さな焔が絶えず灯っていた。
彼の中で積み重なりつつある違和感は、
もはや無視できない重さを帯び始めていた。
レギュラスはしばらく景色を眺めていたが、やがて紅茶を飲み干し、ゆるやかに立ち上がった。
「少し、手を洗ってきます」
ごく自然な口調。だがその動きと同時に、外套のポケットが揺れ、小さな重みが布越しに形を見せる。
アリスの鼓動が、急に速くなった。
――今だ。
これ以上の、長い隙はないかもしれない。
彼が背を向けるほんの動作の間に、思考が一気に研ぎ澄まされる。
視線は笑顔のままテーブルのカップや皿を掃っているが、意識のすべては、その胸ポケットへと釘付けだった。
足音が遠ざかり、テラスを吹き抜ける風が一瞬だけ音を独占する。
アリスは、膝の上で静かに両手を組んだまま、次の瞬間の動きを心の中で反芻する。
――外套を椅子の背から外し、ポケットの中身を抜き取る。
所要時間は、三秒。
戻ってきた時、座り位置も表情も完璧に整えておく。
けれど、その計画の裏に、もう一つの声が囁く。
(もし、バレたら……?)
レギュラス・ブラックの疑念は、すでに何層にも積み重なっている。
この一度の手元の揺れを、彼は見逃さないかもしれない――そんな恐怖が背筋を冷たくする。
それでも、やるしかない。
小切手さえ手に入れれば、今日ここに来た目的は果たされるのだ。
アリスはゆっくりと視線を落とし、ふっと唇を緩めた。
カップを手に取ったその姿の裏で、
指先にはすでに、外套の端を掴むための、ほんの僅かな緊張が宿っていた。
――次に風が吹く瞬間、動く。
カップの淵に残った紅茶の香りを胸の奥へ沈めながら、アリスは視線を落としたまま耳を澄ませていた。
――レギュラスの足音は、まだ遠ざかっている。
その間にも、塔の上を吹き抜ける一陣の風が、テラス席のクロスをふわりと持ち上げた。
紙ナプキンが宙を舞い、銀のカトラリーが軽く音を立てて転がる。
その一瞬。
アリスは自然な仕草で腰を浮かせ、背後の椅子に掛けられた外套へ手を伸ばした。
指先が布をつまみ、その奥の、硬い紙片の感触を確かめる。
心臓の鼓動が、指先へと直接伝わるほど速い。
――これだ。
深呼吸ひとつ分の間に、紙片を滑らかに引き抜く。
同時に、外套を乱さぬようポケットの形を整え、椅子へそっと戻す。
視線をテーブルへ戻し、カップを持ち直す。まるで何もなかったかのように。
だが、膝の上では、スカートの影に隠した手がしっかりと小切手を握り締めている。
薄くて軽いはずのそれが、今は鉛のように重たく感じられた。
遠くで扉が開閉する音。
レギュラスの足取りが、再びこちらへ戻ってくる。
アリスはひとつ、静かに息を吸った。
――落ち着け。これは、まだ終わっていない。
ポケットから宝を抜き取った達成感と、
次の瞬間にすべてが崩れるかもしれない恐怖が、
冷たい刃と温い血のように胸の中で交じり合っていた。
レギュラスの足音が、ゆっくりとテラス席へと近づいてくる。
その一定のリズムが、アリスの鼓動と奇妙に重なって聞こえた。
「お待たせしました」
低く穏やかな声と共に、彼は席に腰を下ろす。
外套の位置も、ポケットも――乱れはない。
だが、それを確認するような仕草が一瞬だけあったことを、アリスは見逃さなかった。
「紅茶、まだ温かいですね」
何気なくそう言って、カップを手に取るレギュラス。
微笑んだ横顔の奥で、黒曜石のような瞳がちらりとこちらを探る。
アリスは、視線を受け止め過ぎぬように気を配る。
「ええ、待っている間にも、良い香りが立っていましたから」
アランらしい調子を意識して、やや柔らかく言葉を返す。
だが、頬の筋肉は思うようにほぐれず、笑みにはわずかな緊張が滲んでしまう。
――見られている。
話題は何げないはずなのに、レギュラスの視線はまるで表情の奥を覗き込む鏡のようだ。
小切手が膝に触れる感触が、ますます重く、存在感を増していく。
「……今日は、なんだか一層落ち着きがないように見えます」
静かに告げられたその言葉は、からかいとも、探りとも取れた。
アリスは、短く笑って首を振る。
「高い場所は、やっぱり少し緊張しますの」
レギュラスはうっすらと笑みを返したが、その目の奥の光が揺れなかったことに、アリスの心拍はさらに速まった。
この会話の端々に、小さな刃が潜んでいる。
一歩でも踏み違えれば、その刃は確実に自分の正体へ届く――
そんな確信を抱きながら、アリスは笑顔を保ち続けた。
レギュラスは軽く紅茶を口に含み、視線を外の空へ流す。
しかし、その仕草はわずかに間を挟んで、再びアリス――アランの姿をした彼女――へと戻ってきた。
「……そういえば、覚えていますか」
不意に落とされた声は穏やかで、それゆえに油断を誘う。
アリスの指がカップの取っ手で一瞬止まった。
「何を、ですの?」
「去年のこの時期ですよ。北の別荘で……夜通し、オーロラを見るために外にいたことがありましたよね」
外套の下の膝が、わずかに硬くなるのをアリス自身が感じ取った。
——そんな出来事は、知らない。
だが、知らないとは言えない。
「ええ……とても寒くて……でも綺麗だったわ」
微笑みを作り、あたかもその景色が脳裏に浮かんでいるように語る。
レギュラスは薄く笑みを返したが、その瞳は氷のように澄んで、返答の奥を計るようにじっと見つめていた。
「そうですね。……ただ、あの時は雲が厚くて、結局ほとんど見えなかったでしょう?」
アリスの喉が小さく鳴った。
反射的に「そうだったかしら」と返す前に、息を飲み、
「……ええ、でも、待っている時間も悪くなかったと思うわ」
と、柔らかく言葉を継ぐ。
一見、すれ違わずに会話は成立している。
だが、レギュラスの中では確信の輪郭が、じわりと濃くなっていた。
——やはり、何かが違う。
カップをソーサーに戻しながらも、その目は決して獲物を逃さない猛禽のように、相手の全身を見張っていた。
レギュラスは、ゆるやかに身を乗り出した。
カウンター席の狭さが、その距離をさらに縮める。
視線が真正面から絡まり、アリスは逃げ場を失ったような感覚に襲われた。
「……今日は、本当に面白いですね」
低く呟きながら、彼は肘をつき、一層その瞳を近づけてくる。
「何が、ですの?」
喉がわずかに詰まりそうになりながらも、アリスは笑みを保つ。
「あなたが——少し違って見える」
言葉は柔らかいが、その奥に潜む探究の刃は鋭い。
ふと、レギュラスはアリスの手に自分の手を重ね、その温度を確かめるようにゆっくり指を絡めた。
そのまま離さず、低く囁く。
「こうして手を握られると、どんな気分です?」
膝の上で小切手の存在を感じる指先が、わずかに震える。
「……落ち着くわ」
なんとか声を絞り出したが、その響きが自分でも薄いことをアリスは悟っていた。
レギュラスはうなずき、唇の端だけで微笑む。
「なら、良かった」
だが、その視線は明らかに表面の笑顔だけを見てはいなかった。
脈の速さ、息の深さ――些細な変化を、彼は一つ残らず拾い上げている。
沈黙の間に、テラスを渡る風が二人の影を揺らす。
アリスは、わずかに身を退きたい衝動を必死にこらえながら、
——ここで崩れれば終わりだ、と自分に言い聞かせた。
レギュラスの手のひらはまだ、自分の手を包み込んだままだった。
レギュラスは指を絡めたまま、視線を逸らさずに言葉を落とした。
「……そういえば、朝の紅茶は、いつもローズヒップにしていましたよね」
唐突な、そのはずのない何気ない話題。
アリスの瞳が一瞬だけ揺れた――ほんの瞬きよりも短い時間。
しかし、それは熟練の観察者から逃れられるものではなかった。
「ええ……最近は、その日の気分で少し変えてますけれど」
笑みを整え、軽やかに返す。
だが、レギュラスの目はそれだけですぐには笑みを深めない。
「気分で変える? ……ふむ、あなたがそう言ったのは、たしか去年の春以来ですね」
彼の声はあくまで柔らかいが、その裏に潜む探る意図をアリスは感じ取る。
胸の奥がきゅっと縮む。
彼の言葉は、まるで遠回しに「本当にあなたはアランなのか」と問うように絡みついてくる。
「覚えているのね……そう、あの時もあなたに指摘されて、笑った気がするわ」
アランらしく、視線を和らげて返す。
レギュラスは、ひどく穏やかな笑みを返した。
しかしその笑みは、疑惑に形を与えるための覆いでもあった。
外見も声も完璧に“妻”であるはずなのに、
少しずつ積もっていく違和感が、彼の中で確かな輪郭を持ちはじめている――。
アリスはその視線を避けずに受け止めながら、
膝の上の小切手の存在を意識し続けていた。
ここで崩れれば、すべてが台無しになる。
だから――笑う。
そして、演じきる。
カップの縁に揺れる紅茶の波紋を眺めるふりをして、アリスは呼吸を整えていた。
指先の力は、膝の上に隠した“小切手”にすべて注がれている。
この紙切れ一枚が、彼を傷つける武器となり得る。
その時、静かに落とされる声。
「……何か隠していることがあるなら、早めに相談してください」
探るようでいて、あくまで優しげな響き。
しかし、その奥にあるのは、やはり鋭利な刃だった。
アリスは咄嗟に顔を上げ、アランの仮面をかぶった笑みを浮かべる。
「……何もないわ」
嘘の温度を乗せぬよう、声の揺れを務めて抑える。
けれど、レギュラスが本当に何を察しているのかはわからない。
全てを見抜いたうえで、ただ掌の上で弄ぶようにこの状況を楽しんでいるだけなのかもしれない。
その可能性を考えるたび、胸の奥に冷たいものが広がる。
この男はいつだってそうだ――真実を見逃すことはなく、表情一つで人の防御を崩しにかかる。
小切手はもう手中にある。
それがアリスを僅かに支えていたが、それでも今すぐにでも、この男の視界から抜け出したかった。
やはり、嫌いだ――レギュラス・ブラック。
何もかもを見透かすような黒い瞳。
こちらの正義を、子供が拾った石ころのように価値のないものとして掌から零し落とす、その嘲りを帯びた空気。
そして、完璧すぎるまでに整った外見と態度に、隙一つ与えぬ鋭い攻撃性。
それらすべてが、アリスの心を苛立ちと焦燥で締めつける。
仮面を被って向かい合っていても、その奥底では、本能的な敵意が静かに燃え続けていた。
「なら、いいんです」
そう言って緩やかに微笑むその表情の中に、どこまでが本心でどこからが試しなのか――アリスには判別できなかった。
ただ、早く立ち上がってここを去る理由を作らなければならない。
このまま彼の目の奥に、さらに深く覗き込まれる前に。
アリスは、握りしめた膝の上の手に力を込めた。
この場から離れられる、自然な理由を――それが今すぐにでも欲しい。
「……少し、外の空気を吸ってきてもいいかしら」
あくまで柔らかく、アランらしい調子を保ちながら声を掛ける。
感情のざらつきを、表情に一切出さぬように。
レギュラスはカップを口に運び、淡く笑った。
「ここは十分、風通しのいい場所ですよ」
一瞬、軽くいなされた感覚に胸が固くなる。
それでもアリスは視線を外し、手すりの方へと首を傾けた。
「でも……窓辺まで行きたいの。下の景色、もう少し近くで見てみたくて」
わずかな沈黙――そして、レギュラスは椅子に背を預け、手を引くような素振りもなく言った。
「……ええ、ではご一緒しましょう」
その言葉は優しいが、同時に“ひとりにはさせない”という意味を含んでいた。
逃げ道を、正面からふさがれるような感覚。
アリスは小さく笑って「頼もしいわね」と返す。
だが胸の奥では、持ち出しかけた口実が無意味になった事実が、じわりと冷えて広がっていた。
少しでも距離を取ろうとしたのに、逆にさらに近い位置で並び立たねばならない――
しかも、膝の上の小切手を守ったまま。
螺旋を描くように続く心理戦の中で、
ただ一度でも優位を得られる隙を、今度こそ見つけなければならない。
カウンター席を離れ、二人はゆっくりと窓辺へ歩みを進めた。
塔の外壁に沿って大きく設けられた硝子窓は、真下に広がる魔法省の街路と、その先の河川までを一望できる。
薄い雲の切れ間から光が降り、遠くの屋根瓦を鈍く光らせていた。
レギュラスはアリスの横に並び、手すりへと片肘をかける。
距離は近い――肩と肩の間に、ほんのわずかな空気しか残されていない。
「……こうして見ると、下界の騒がしさも別の世界の出来事みたいですね」
穏やかに、景色を眺めながら言葉を落とす。
アリスは視線を遥か下へ向けたまま、短く息を整えた。
「ええ……上からだと、全部がゆっくりに見えるわ」
表情は穏やかに装っても、内心の鼓動は耳の奥で激しく響いている。
レギュラスは横顔をわずかにこちらへ向けた。
「……あなたが何を考えているのか、時々まったく読めなくなる」
微笑は崩さず、けれどその声音の奥にわずかな圧が宿る。
「本当に――何も隠していませんか?」
アリスの掌の中、小切手の存在が熱を持って脈を打った。
膝の上から移したその重みが、まるで咎の証のように思える。
「……ええ」
アランの調子を守って短く、しかしくぐもった声で返す。
レギュラスの黒い瞳は、まっすぐにアリスを射抜く。
そこには疑念と、ほんのわずかな愉悦の色が混じっていた。
相手の動揺を感じ取りながら、それを確かめるように視線で追う。
吹き抜ける風が、アリスの髪と魔法で仕立てた衣の端を揺らす。
だが、その涼しさとは裏腹に、胸の奥では熱く、息苦しい緊張が張り詰め続けていた。
この状況から抜け出す方法を探しながらも、
アリスはわかっていた――レギュラスは、一度捕らえた獲物を決して簡単には放さない男だということを。
レギュラスは、ゆっくりと体の向きを変えた。
肩と肩が触れ合う微妙な距離から、さらに半歩近づく。
アリスは反射的に息を飲み、その音が自分の耳にもはっきり届いた。
「……こんな高い場所、少し足がすくみませんか?」
そう言いながら、彼は軽く背後から腕を回し、腰を支えるように手を置いた。
その動きは親密で、守るようでいて、逃げ道をふさぐ鎖にも思える。
温かな掌の重みが、魔法で変えた外見の下の自分を直撃する。
アリスは、心臓がまた早まるのをどうにか押し殺し、
「……あなたが支えていてくださるから平気よ」と、アランらしい微笑みを見せた。
レギュラスはその言葉に、何かを測るような眼差しを向けた。
そして――
彼の指先が、そっとアリスの髪に触れる。
風で乱れた一筋を耳にかける、その何気ない行為。
だがそれは、彼にとっては“妻”に幾度となくしてきた、ごく馴染み深い仕草だった。
それを受ける相手の反応ひとつで、すべての答えを読み取る自信がある――そんな静かな確信を宿した動き。
アリスの背筋がわずかに硬直する。
――しまった、と心の奥で声が響く。
頬を染めるのも、視線を逸らすのも、反応が過ぎれば怪しまれる。
だからこそ彼女は、ほんの一瞬だけ目を細め、
「ありがとう」と低く穏やかに言った。
レギュラスは口元だけで微笑みを返す。
その笑みは、信じたようにも見えるし、試した結果を心に仕舞い込んだようにも見えた。
ガラス越しの景色は広がっているのに、
アリスには、この距離の近さと視線の深さしか感じられなかった。
膝の上、小切手の存在が鋭く意識に刺さり続ける。
このままでは長くはもたない――
そんな焦燥が、胸の奥で静かに渦を巻いた。
胸ポケットに添えた指先が、そこにあるはずの感触の違いを伝えてきた。
――抜かれている。
一瞬で、確信は形を成す。
目の前でアランを装っているこの女は、アランではない。
ならばその中身は誰なのか――考えるまでもない。
おそらくは、騎士団の誰かが彼女に接近し、何らかの手段で姿を借りているのだろう。
おかしなことに、腹が立つよりも先に、むしろ愉快だと思った。
――やはり、こういうことも起こり得ると踏んでおいて正解だった。
この胸に入れていた小切手の控えは、初めから本物ではない。
見た目こそ精緻に作られた銀行発行の小切手そのものだが、
実際には古い契約書を縮小し、インクと魔法で額面や署名部分を巧妙に偽装したもの。
裏面には、変化の魔法で隠した自分の署名を崩した筆跡がほんの一行――
覗いた瞬間に、偽りだと理解できる「落とし穴」を仕込んである。
それがいま、この女の懐にあるのだ。
胸の奥で、微かな笑いが熱とも冷たさともつかぬ感覚を連れて広がった。
視線をゆるやかに上げる。
わずかに緊張を滲ませた女の顔。
その仮面の下を想像するのは容易かった。
「……そろそろ、そのしらけた芝居はおやめになりませんか?」
声は低く、柔らかく――けれども、その下に潜むのは疑いではなく、確信。
まるで舞台の幕を、自らの手でゆっくり引き裂く役者のように、
レギュラスは静かに、そして容赦なくその“瞬間”を作り出していった。
この言葉を、この距離で、こういう声音で投げかけられた時、
どれほどの者が微笑を保ち続けられるだろうか――
そんな興味が、黒い瞳の奥で淡い光を灯していた。
レギュラスの声が落ちた瞬間、テラスの空気がひやりと冷えたように感じた。
アリスは、表情を変えないよう唇の端をわずかに上げる。
「何のことかしら」
アランの声色を崩さず、ゆったりと紅茶に手を伸ばした。
だが、カップに触れる指の先が、わずかに震える。
それを見逃すはずもなく、レギュラスの瞳が細められた。
「……その中に入っているでしょう」
顎をわずかに示した先は、アリスの膝の上――
布の下に隠した、小切手の“控え”がそこにあると、言外に告げている。
「わざと置いておいたんですよ。
あなた方がこういう真似をしてくるかもしれないと、最初から思っていましたから」
アリスの胸の奥に、氷が突き刺さる。
――わかっていた? 最初から罠だったというの?
「中身を見てみるといいですよ。
……いや、もう見なくてもいいでしょう。あなたは私の妻ではない」
その言葉は、宣告というより事実の確認だった。
逃げ場を塞ぐような柔らかさで、しかし絶対に覆せぬ確信を帯びた声。
アリスの喉が乾き、呼吸が浅くなる。
仮面を維持しようとする意識が、レギュラスの黒い瞳に吸い込まれるように削られていく。
次に彼がゆっくり口角を上げた。
「……さて、その顔の下には、一体誰がいるんです?」
心臓が一拍、大きく跳ねた。
その瞬間、アリスはもう、自分の中の仮面がひび割れていく音を確かに聞いていた。
問いかけというよりは、すでに答えを知った人間が、形式だけ整えて告げる言葉だった。
レギュラスの黒い瞳は、逃げ場のない夜空のように深く、冷たく、アリスを覆い尽くす。
アリスは、必死に口元の笑みを保とうとした。
――まだ、崩せない。
そのはずだった。
しかし、心臓の早鐘が全身に響き、指先の感覚がじわりと遠のいていく。
〝もうバレている〟
その事実だけが、鋭く胸を締めつけた。
「……何のことかしら」
アランの声色を装ったまま言い返すが、声の端にひそかな震えが混じる。
レギュラスは、唇にうっすらと笑みを残したまま懐から杖を取り出した。
軽く一振り――魔法の波紋がアリスを包み、肌が、髪が、輪郭がゆっくりとかき消される。
その瞳は、目の前の変化を一瞬も見逃さない。
アラン色の髪は縮み、金色にも銀色にも属さない曖昧な光を帯びた短い髪へ。
白い肌は色をわずかに失い、瞳は鮮やかな緑を取り戻す。
外套の下のシルエットも、アランのものではなく、アリス本人の線へと戻っていく。
完全に変化が解けたとき、そこに立っていたのは――騎士団の若き魔女、アリスだった。
沈黙が落ちた。
アリスは息を詰め、視線を逸らさなかった。
その眼には、敗北を認める痛みと、なおも消えない敵意が同居している。
レギュラスはその顔をじっと見つめ、低く囁いた。
「……やはり、あなたでしたか」
声は穏やかだが、底には捕食者が獲物を見つめる静かな愉悦が潜んでいる。
「私の妻を真似て、よくもここまで――大胆なことを」
その言い方に非難の色は薄く、むしろ面白がっている響きがあった。
アリスは言い返そうと口を開いたが、何も言葉が出てこなかった。
その沈黙を、レギュラスは逃さない。
ゆっくりと身を寄せ、耳元で囁く。
「……“本物”の奥までは、どうあっても演じきれない」
その一言に、アリスは初めて視線を落とした。
小切手の偽物の重さが、今になって全身にのしかかる。
風が、塔の上のテラスを冷たく渡っていく。
変身の魔法が解け、もう隠すべき仮面もないアリスの髪と肌を、その風は容赦なく撫でた。
「……随分と手の込んだ真似をしましたね」
レギュラスの声は低く抑えられ、それでいて妙に澄んでいた。
アリスは唇を噛み、何も答えない。
声に出せば動揺も悔しさも全て滲み出てしまう気がした。
「魔法法務大臣と私の間に、何らかの取引があると踏んで来たのでしょう。
膝の上にある紙切れを、戦利品だと思って……」
視線が一瞬だけアリスの膝へ落ちる。
その目が、もう全てを知っていると告げていた。
「でもあれは、本物とそっくりに作った偽造書類です。
形だけは小切手に見えるが、中身は……古びた船舶保険の契約書ですよ。
わざわざ保険会社の印章まで残してね」
アリスの瞳に、悔しさの色が差した。
レギュラスはその表情を見逃さず、ゆっくりと一歩近づく。
「僕があなた方の動きを知らないとでも?」
その声音は、静かな愉悦と確信に満ちていた。
「おそらく……あなたは騎士団の誰かと接触した。
学校設立案、混血のための墓の計画――そのどちらかに僕が関与している証拠を引き出そうとしたのでしょう。
そして、アランの姿を借り、最も近いこの場に踏み込んだ」
アリスは視線を逸らし、握る拳に力を込めた。
しかし、その仕草さえも彼に読み取られていることは、はっきりとわかった。
レギュラスは口元の笑みを消さずに、最後の一言を静かに告げる。
「残念でしたね――僕の懐に、あなたが求める“証拠”など初めからなかった」
その声の響きは、冷たい石壁のように逃げ場を与えず、
同時に、追い詰められた者だけが感じる底知れぬ威圧を孕んでいた。
アリスは、この場で自分が完全に形勢を失ったことを理解していた。
それでも、視線の奥に宿した炎だけは消さなかった。
たとえ、この男の掌の上に完全に転がされていたとしても――。
胸の奥に刺さるのは怒りではなかった。
別に、アランの姿を借りられたこと自体など、どうでもよかった。
そんなことは、誰にでもできる戯れに過ぎない。
だが――この女。
マグル生まれの、忌まわしきアリス・ブラック。
自分がアランだと信じて、ほんの一瞬でも心を緩めてしまった、その時の姿を、この女に見られていた。
何の疑いもなく、いつものように、腕を回し、腰に触れ、首筋に顔を寄せ、唇を這わせ――
そして、キスまで。
アランだと信じたからこそしてしまった行為。
だが、中身はこの女だった。
その事実が、背中を冷やし、胃の奥をひどく荒らしていく。
とんでもなく、不愉快だ。
思わず、長く深いため息がこぼれた。
もしここが法も騎士団も届かぬ場所であれば――跡形もなく、この手で葬ってやったかもしれない。
黒い瞳が、ゆっくりとアリスを射抜く。
静かな声が、刃のように形を成す。
「……どこまでも目障りな女ですね、あなたという人は」
言葉の端に感情を乗せる必要はなかった。
低く、滑らかに、それなのに息苦しいほどの圧力を伴った声音は、
とっくに彼女の胸奥まで届いている。
アリスは口を開きかけてやめた。
何かを言い返せば、余計に呑み込まれると本能で悟っているのだろう。
肩のわずかな強張りと、呼吸の浅さが、その沈黙を雄弁に物語っていた。
レギュラスは微動だにせず、ただその沈黙を楽しむように視線を放つ。
そこには、侮蔑と冷笑、そして静かに沸き立つ因縁の熱が混じり合っていた。
アリスは唇をわずかに噛み、俯いた。
返す言葉が見つからない――いや、見つけても、この男の前で吐けば必ず足元をすくわれる。
そんな確信が、喉を締めつけて動きを奪っていた。
彼の「目障りな女」という一言は、冷たく突きつけられた刃のようだった。
鮮やかに研がれた言葉ほど痛みは鋭く、
その鋭利さは皮膚より深く、心の芯を抉る。
沈黙が塔の上に降りた。
遠くの鳥の羽音や街のざわめきさえ、この距離では別世界の戯れのようだ。
アリスは、ただその場から視線を逸らさず、耐えるしかなかった。
だが――耐えることと、屈することは違う。
屈辱を呑み込むほど、胸の奥の熱は冷えず、逆に密かに膨れ上がっていく。
この男の前で涙も怒声も見せるものか。
それは自分にとって、敗北よりも大きな恥になる。
レギュラスの瞳には、明らかに勝者の余裕があった。
その黒い視線は、すでにアリスの思考も感情も、
掌の上にあると信じて疑っていない。
……だからこそ、忘れない。
この瞬間を、この屈辱を、必ず返す日を。
そう心の奥底に焼き付けたとき、アリスはわずかに顎を上げ、
それ以上は何も言わずにその視線を受け止め返した。
彼女の中で、静かで冷たい炎が灯ったのを――レギュラスが気づいたのかどうかは、わからなかった。
塔の上を渡る風が、一瞬だけぴたりと止んだように感じられた。
その静けさの中、階段側の扉が軽く開き、小さな軋みが響く。
足音――聞き慣れた、しかしここには似つかわしくない急ぎ足。
振り返らずとも、アリスにはわかった。
アランだった。
彼女の歩みは迷いなく、そしていつもより速い。
きっと、アリスの戻りが予想より遅いことを案じ、塔の上のカフェにいると聞きつけて駆け上がってきたのだろう。
視界の中に姿を認めた瞬間、アランの瞳がわずかに見開かれる。
――魔法はすでに解け、アリスは本来の姿に戻っていた。
その立ち位置と、背後に立つレギュラスの影。
それを一目で理解したのだろう。
「……!」
言葉を選ぶより早く、アランはその場に歩み寄り、
二人の間へ自然に身体を滑り込ませた。
その動きは、盾のようでもあった。
高価な布地の衣がふわりと揺れ、アリスの視界からレギュラスの黒い瞳を切り離す。
間近に感じるアランの背中は、やわらかな布越しでも芯の通った温もりを持っている。
アリスは、無意識に肺へ溜まっていた重い息を吐き出していた。
レギュラスの視線は変わらず鋭いままだったが、
その間に立つアランの姿が、その鋭さを押しとどめる壁となっていた。
淡い光が、三人の間に複雑な影を落としている。
アリスにとっては、不意に訪れた救いの一瞬。
アランにとっては、ためらいなく踏み込むべき理由があった。
その二人を、レギュラスは冷ややかに見やりながらも、
小さく息を吐き――そして何も言わずに、ほんの半歩だけ距離を取った。
塔の上の風が、またゆっくりと流れはじめた。
まるで、この束の間の均衡をそっと撫でるように。
「……アリス、話したいことは話せたのかしら」
アランの声は、柔らかくけれども奥に張り詰めた響きを隠しきれていなかった。
アリスは一瞬その瞳を見つめ、ほんのわずかに笑みを作る。
「はい。確信を得ることができたので……それで十分です」
息に混じる安堵と、胸の底に沈殿する悔しさ。
小切手の控えは手に入らなかった――それでも、真実は掴んだ。
オブスキュラスの少年を弔うための墓。
あの計画を葬ったのは、紛れもなくレギュラス・ブラック。
金で魔法法務大臣を沈黙させたのだという事実。
それを知っただけで、十分な収穫だった。
「そう……それなら、もう行って」
その一言に、アリスは小さく瞬いた。
レギュラスの側から離してくれる――それが、この言葉の本当の意味。
きっと、これからアランはあの男に問い詰められるのだ。
『なぜ自分と接触し、こんな馬鹿げたことに手を貸したのか』と。
分かっていながら、この人は行けと言ってくれる。
それは逃がすためであり、守るためでもあった。
胸の奥に、鋭くも温かい感情が湧き上がる。
また守られてしまった――その優しさに。
自分の無力さを痛いほど嘆きながら、
それでも、年月がどれほど過ぎてもなお、こうして庇ってくれるアランの存在が、どうしようもなく嬉しかった。
こんなことをしてくれるのは、きっとアランと……そして、シリウスだけだろう。
声に出してその名を呼ばずとも分かっている。
命を救ってもらった、あの日から――
アリスにとって、アランは紛れもなく母そのものだった。
風が塔の上を通り抜け、アランの背を柔らかく揺らす。
その背は、何年経っても変わらず、自分の前に立ち続けてくれる壁なのだと、アリスは痛感していた。
塔の風が、緊張にざわめく空気をかき混ぜていた。
互いを見据える視線は鋭く、それでいて足元には静かな均衡が保たれている。
「……どういうつもりです?」
レギュラスの声は、冷ややかでありながら、深く溜め込んだ怒りを押し隠していた。
人目がある。
この場所では、たとえレギュラスでも声を荒げる真似はしない――
その確信があるからこそ、アランは一歩も退かずにいられた。
「あなたと話したい、とあの子が言っていたんです」
まっすぐに告げるアランの声音は、揺るぎない。
レギュラスの黒い瞳がわずかに細くなる。
「……だから、あなたは自分の姿を貸したと?」
「あなたは……私の姿でないと、
何かを話すほどの距離に、人を入れないでしょう?」
その言葉と共に、アランはふっと表情をやわらげた。
この場にそぐわないほど穏やかで、包み込むような微笑。
その笑みには、挑発でも反抗でもない、確かな理解があった。
――レギュラスが自分に注ぐ想いを、深く知っている顔。
この上なく愛され、受け入れられていることを、疑いなく理解している眼差し。
だが同時に、その柔らかさの奥には、自らの意思で境界を引く強さがあった。
愛情を知っているからこそ、踏み越えられたくない一線がある。
そして、その境界を守るために、あえて微笑みを選ぶことができる女の強さが。
レギュラスはその視線を受け止め、言葉を継がなかった。
風が二人の間を通り抜ける音だけが、しばし世界のすべてを満たしていた。
アランの微笑は、相変わらず柔らかく揺るがなかった。
その笑みに込められた意味――レギュラスは理解していた。
自分がどれほど彼女を愛し、受け入れているかを知ったうえで、それを利用し、境界線を保っている。
愛情を緩衝材のように使いこなし、決して押し切らせない巧みさ。
それが、苛立ちを呼んだ。
目の前でこちらを見つめるその瞳は、信頼も確かに含んでいるが、同時に「ここから先は決して踏み込めない」という拒絶の灯を奥底に宿している。
レギュラスは、そのことに気づけば気づくほど、胸の奥に冷たい水と熱い炎が同時に広がっていくのを感じた。
奪いたくなる――
その境界ごと。
「……あなたは本当に、人の手を焼かせる」
声だけは低く静かだが、そこには押し殺した感情が混じっている。
アランは受け止めるように視線を合わせたまま、何も言わない。
その沈黙すら、挑発のように感じられた。
レギュラスはふっと息を吐き、周囲の視線があることを再確認した。
ここでこれ以上踏み込むわけにはいかない――
分かっている。それでも、指先は彼女の肩に触れたい衝動をかすかに覚えていた。
「……この話は、後でゆっくりにしましょう」
そう告げる時、その視線には約束よりも予告に近い色が宿っていた。
アランにしか分からない、静かな圧と独占欲。
そして、ただ一瞬だけ彼は視線を横に逸らし、未だ近くにいるアリスの姿を見やった。
その黒い瞳に、ほんの刹那、別の鋭い光がきらめいた。
嵐は、まだ終わらない。
塔の上から吹き抜けてくる風は少し冷たかった。
アランは欄干越しに遠ざかっていくアリスの背を見送りながら、静かに言葉を投げかける。
「……アリス、あまりあの人に関わろうとしてはいけません」
声は柔らかいが、その奥底には深い確信があった。
レギュラスの残酷さも、ひとたび標的を定めたときの執念も――アランは誰よりも知っている。
だからこそ、守るために口にできる忠告でもあった。
アリスは一度振り返り、少し照れたような笑みを浮かべる。
「アランさん……私、マグル生まれの魔法使いたちが、ちゃんと魔法を学べる施設をつくりたいという夢……叶いそうです」
その言葉に、アランはわずかに目を見開いた。
胸の奥が、何か温かい光に照らされるように揺れる。
どれほどの困難があったことか。
特に、純血魔法使い保護法が制定されてからというもの、マグルの魔法使いたちへの風当たりは激しさを増し、
夢など握り潰されるかのような日々が続いていたのに――
この子は、やってのけたのだ。
目の前の少女がまとう強さに、アランはふと胸を打たれる。
もう、孤児院の薄暗い部屋で、死を恐れて小さな肩を震わせていたあの子ではない。
未来を掴もうと、真っ直ぐに歩み出したアリスは、
どこまでも眩しく、かつてのシリウスの姿に重なって見えた。
あの人も、いつだって太陽のように光を放ち、
その光で人を導き、温めていた――。
「……アリス、立派だわ。シリウスの子ね」
頬に微笑を浮かべながら告げるその声には、誇りが滲んでいた。
――そうだ、この子は、自分がシリウスに託し、そして彼が育て上げた子。
彼の背中を、父を仰ぐように見つめて育ってくれた。
だから、あの光を宿すことはきっと必然だった。
そして……本当は、自分もそんな未来を望んでいたことを、今さら思い出す。
この子の瞳に映る光は、あの日、自分が信じて預けた“太陽”の輝きと同じものだった。
風が二人の間を渡り、アランの胸に深い温もりを残した。
アリスの後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるまで目で追い、その場に残された空気ごと深く息をつく。
アランは踵を返し、ゆっくりとレギュラスのもとへと戻った。
案の定――いや、予想以上だった。
組んだ腕越しに伝わってくる頑なな気配と、口元に宿る硬さ。
機嫌の悪さは隠すことすら放棄していて、まるで「誰も近寄るな」と無言で告げているようだった。
アランは、その表情を見た瞬間、思わずため息を漏らしそうになった。
屋敷に戻ってからも、このままの空気を引きずるのだろう。
そうなれば、アルタイルやイザベラ夫婦にまで気を遣わせることになる。
――それだけは避けたい。
「……今日はもう、おしまいですか?」
柔らかく投げた問いかけにも、レギュラスは何も返さなかった。
ほんの数拍の沈黙。
アランはそれを、肯定の意と受け取った。
「では、一件だけ……お付き合い頂きたいところがあります」
あえて明るく、空気を塗り替えるように微笑む。
その笑顔は、彼の視線をやんわりと絡め取り、張りつめた空気を少しでも緩めようとするものだった。
そして、ためらいなくレギュラスの手を取った。
その瞬間、指先に伝わるわずかな緊張と体温。
氷を溶かそうと湯を注ぐように、自分の掌でその冷たさを包み込む。
「ね?」と穏やかに促す声音に、拒絶の刃はもうなかった。
ただまだ、深い水の底に沈んだままの機嫌が、ゆっくりと浮かび上がるのを待つばかりだった。
小さな鈴の音と共に、重い硝子扉が開いた。
夕暮れの路地から一歩入れば、そこは柔らかなランプの明かりに包まれた、ナイトドレスの専門店だった。
淡い香料の匂いが漂い、壁沿いに並ぶマネキンは、赤や黒、生成りのレースを纏い、静かにこちらを見ている。
アランは、まだわずかに硬い表情を残すレギュラスの手を握ったまま、一歩、二歩と奥へ進んだ。
自分でも滑稽だと思う――こんな安っぽい機嫌の取り方で、この男の不機嫌が解けるはずがないかもしれない。
それでも、拒まれはしないと知っているからこそ、ここに来た。
縋るような思いで。
「あなたのものも、そろそろ古くなっていたでしょう? 新しい生地にすれば、きっと眠りも安定します」
心なしかいつもより軽い調子で、そう話しかける。
レギュラスは商品棚に流し目をやるだけで、興味のない素振りを崩さなかった。
それでも、アランはその手を決して離さず、華やかな色味の並ぶ一角へと導いていく。
真紅のサテン。
深紅のレースをふんだんに用いたもの。
艶やかな漆黒に銀糸を刺したもの――
壁を彩るドレスたちの前で足を止め、振り返る。
「……どれにしましょう?」
「お好きなものを、どうぞ」
短く返された言葉の奥に、先ほどまでの張り詰めた空気がわずかにほぐれているようにも感じられた。
もう、ここまで来ればきっと伝わっているのだ。この場が、どんな形の“機嫌取り”であるのか。
アランは唇に小さな笑みを浮かべ、彼の目を覗き込む。
「赤と黒、どちらがいいです?」
「……」
「レースとリボンは、どちらかしら?」
「……」
「サテン生地と、透ける生地……どちらを選びます?」
ひとつひとつの選択を、あえてすべて彼に委ねる。
まるで会話を少しでも長く引き延ばしたいかのように。
その間だけは、不機嫌や沈黙の理由から彼を引き離しておきたかった。
レギュラスの指先が、無造作に一枚の黒いサテン地の袖口を摘んだ。
「……これで」
その声は落ち着いているのに、不思議と先ほどの刺々しさは薄れていた。
アランは小さく頷き、その横顔を見ながら、ほんのわずかに胸の奥の緊張を緩めた。
――今日のところは、それで十分だった。
