4章
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夜の帳がすっかり落ち、広い寝室は暖炉の炎だけが淡い光を投げていた。
レギュラスはドレッサーの前に座るアランの後ろ姿を見つめることもなく、ただ寝台から低く名を呼ぶ。
その声に応えようと振り向く間もなく――彼は立ち上がり、迷いのない手つきで彼女の手首を捕らえた。
「――待ってください、レギュラス!」
抗議とも戸惑いともつかぬ声が、柔らかなカーテンの間にこぼれる。
「アルタイルも、きっと今頃……頑張ってるところですし」
ベッドへ引き寄せながら、彼は唇の端をわずかに吊り上げた。
「僕らも負けていられないでしょう」
我ながら、何を張り合っているのか分からない。
それでも、その衝動はあまりに鮮やかで、止まる気配を見せなかった。
「……なんてこと言うんです」
アランの瞳がわずかに丸くなる。
次の言葉を紡がせまいと、レギュラスはその唇を掠め奪うように塞いだ。
ナイトドレスの合わせ目へと伸ばした指先は、いつもより僅かに乱暴だった。
布地がわずかに擦れる音が、夜の静けさに溶けていく。
胸の奥で燃え広がる何かに焚きつけられたように、求めたい思いが堰を切って溢れ出す。
唇が離れた瞬間、アランの瞳が揺れ、光を孕んでとろんと溶ける。
その目に捕らわれた途端、思考のすべてが情欲の色に染まってゆく。
理性など一瞬で炎に溶かされ、残るのはただ、この温もりを逃さぬという執念に近い熱だけ。
炎の灯りが、絡み合う影をゆらゆらと壁に映し出していた。
その影は、寄り添い、むさぼり、やがて輪郭をなくすまで――夜に深く沈んでいった。
レギュラスは、深く重なる吐息の合間に、ふと自分の手がどこまで彼女を求めているのかを意識した。
愛している――それは疑いようのない真実だ。
けれど、この熱の奥底には、それだけではないかすかな棘が潜んでいるのを感じる。
まるで「離さない」という意志がそのまま形を変え、愛と同じ顔をした鎖になっているようだった。
アランの指先が、背にそっとすがるように沈む。
その温もりが、自分を許しているのか、それとも諦めなのか――判別できずに、むしろ余計に欲しくなる。
「……愛しています」
唇を彼女の耳元に寄せ、吐き出すように囁く。
答えはない。けれど、長く絡んだ視線の奥に、その沈黙ごと受け入れられているような気がした。
外では風が窓をゆらし、炎がぱちりと爆ぜる。
この部屋と、この瞬間だけが、世界のすべて――そう錯覚してしまうほど、互いの温度に溺れていった。
静寂がゆっくりと降りてきた。
暖炉の火がまだかすかに揺れ、その光が寝台に横たわる二人の輪郭をやわらかくなぞっている。
レギュラスは仰向けのまま、肩越しにアランを見た。
彼女は枕に頬を預け、微かに乱れた髪が頬を隠している。
呼吸は穏やかで、閉じかけた瞳に炎の明かりが淡く映っていた。
触れればほどけてしまいそうに思えて、手を伸ばすのを一瞬ためらう。
だが結局、胸元のシーツ越しに指先でそっと輪郭をなぞった。
まだ肌には熱が残っていて、その確かさが胸を刺す。
――こんなにも近くにいるのに。
時折、彼女が遠くへ行ってしまう気配を感じるのはなぜだろう。
頭の奥に、その問いが淡く残る。
「……眠れそうですか」
低く抑えて尋ねると、アランは視線だけこちらに動かし、小さく笑った。
「少し……ね」
その微笑みの意味を深く探れば、きっと眠れなくなる。
だからレギュラスはそれ以上何も問わず、彼女を自分の腕の中へ引き寄せた。
胸に感じる重みと鼓動。
それが今夜だけのものではないと信じるように、腕に力をこめる。
外の風は冷たいはずなのに、この部屋は息が詰まるほどの温度を孕んでいた。
炎の爆ぜる音が消えれば、互いの心音が響くだけになってしまう――
そんな夜の終わりを、彼らはしばらく黙って抱き締め合いながらやり過ごした。
アランの瞼が、炎の光を受けてゆっくりと降りていく。
まどろみの淵で、レギュラスの腕の重みと温もりだけが確かなものとして残っていた。
――この腕は、時に鎖のように感じられる。
けれど同時に、何度も自分を守ってきた場所でもある。
その矛盾ごと抱えたまま、もう長い年月をここで過ごしてきたのだ、と薄く笑みが漏れる。
頬を動かすだけで、彼の鼓動が耳に触れる。
アルタイルの晴れ姿、セレナの微笑、今日の祝宴のざわめきが遠くに霞んでいく。
そのすべてが、とりあえずは無事に終わった安堵と共に、静かに胸の底に沈んでいく。
――この先、どこまで一緒に歩けるのだろう。
答えを出すにはまだ早い、けれど明日もきっと、この腕の中で目を覚ますのだろう、とわかってしまう。
レギュラスの指先が、半ば無意識のように背をゆっくりなぞる。
その動きに眠気が絡まり、思考の輪郭がぼやけていく。
最後に小さく息を吐き、アランは完全に力を預けた。
暖炉の火がぱちりと爆ぜ、その音に包まれながら――彼女は静かに夢の中へ沈んでいった。
朝の空気はまだ涼しく、窓から射す光が寝室と廊下の境を淡く染めていた。
レギュラスは外套を羽織りながら、机に並べた書類や封筒を順に鞄へ収め、杖の位置を確かめる。
その背後から、控えめな足音と、ふっとやわらかな匂いが近づいてきた。
「……任務の用意ですか?」
アランがそう言いながら、彼の肩に外套の襟を整えてやる。
その動きは自然で、長年の癖のように迷いがない。
「少し体調も戻りましたし――そろそろまた、ご一緒します」
レギュラスは、その言葉を聞いた瞬間、手を止めた。
封を切ろうとしていた封筒を机に置き、ゆっくりと顔を向ける。
「今回は……魔法法廷でのジャッジですよ。なにも分霊箱が絡むような、危険な任務じゃない。だから大丈夫です」
アランはほんの一歩近づき、まっすぐに視線を重ねてくる。
「でも……あなたは止めてくれる人がいないと、いつも無理をするでしょう?」
短い沈黙のあと、レギュラスの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「……それでも、毎回こうして帰ってきているじゃないですか」
彼はそっと手を伸ばし、アランの頬へ指先をすべらせる。
ひと撫でで形をなぞるように、その輪郭を確かめる。
「……だめですか?」
その声音と、見上げる瞳の色が、胸の奥の防御をすっと溶かしていく。
“だめか”――そんな言い方をされて、明確に拒絶できるわけがない。
一緒に来たいという願いは、愛らしくて、そして確かに心強かった。
彼のためだと信じて差し伸べられるその手が、たまらなく愛おしい。
レギュラスは小さく息を飲み、肩の力を抜いた。
「……では、お願いできますか?」
その声には、同意と同時に、半ば諦めにも似た柔らかい響きが滲んでいた。
アランは微笑み、整えた彼の襟に手を置いたまま、そっと頷いた。
重厚な魔法法廷の審議室。
高い天井から垂れるシャンデリアが、白大理石の壁を柔らかく照らし出す。
銀縁の机を挟み、各陣営の代表者たちが整然と並び、その視線は今まさに下ろされようとしている判決の一筆に注がれていた。
紙の上でペン先が小さく鳴る。
――レギュラス・ブラック、その名が賛成欄に記された瞬間、空気がわずかに揺れた。
予想外だったのだろう。
騎士団側の席から、驚きと探る色が入り混じった視線が一斉に突き刺さる。
その眼差しは「何が狙いだ」と問いかけているようでもあった。
けれど、レギュラスはそれらをただ淡々と受け流し、書き終えたペンを静かに置く。
審議を締めくくる魔法法務官の声が、朗々と響く。
「――マグル生まれの魔法使いのための学校設立案、可決」
瞬間、騎士団側の席に喜びが広がった。
肩を叩き合い、笑みを交わし、目を輝かせる者すらいる。
勝ち取った正義を誇らしげに掲げるかのような、その姿。
レギュラスの瞳は、その様子をひどく冷ややかに見ていた。
――学び舎? とんでもない。
それは、ホグワーツと同じ机につく権利を持たない者たちを、
見えない場所へと押し込み、周囲から隔離するための囲いに過ぎない。
臭いものには蓋を――その蓋をもっともらしい理想の言葉で飾り立てただけの、
目を背けたい現実のための“隔離所”だ。
そして、今、力のない者たちはそれを“祝福”だと信じて疑わない。
何も知らぬ笑顔で、自ら狭い檻へ歩み入っていく。
――滑稽だ。
レギュラスは視線をわずかに伏せ、薄い笑みとも冷笑ともつかぬ表情を浮かべた。
騎士団たちの歓声を背に、椅子を静かに引き、誰とも目を合わせぬまま立ち上がる。
決定の瞬間を見届けた彼の黒いローブが、議場の出口へと音もなく消えていくさまは、
喜びに浮かれる人々の中で、ひときわ異質で冷ややかな影だった。
審議の終了後、議場のざわめきが廊下へと溢れ出す。
磨き上げられた大理石の床に、無数の靴音と低い会話が反響していた。
その中で、一人の騎士団員がレギュラスに歩み寄ってきた。
銀色の騎士章が胸元で光り、声にはわずかな探る響きが混じっている。
「……なぜ、賛成にサインを?」
レギュラスは歩みを緩め、しかし足を止めずに微笑みを浮かべたまま答える。
「素晴らしい提案でしたから」
その口調は端正で、表情は一片も崩れない。
応えるというより、相手の問いごと軽やかに受け流すような響きだった。
騎士団員は眉をわずかに寄せた。
「……あなたらしくない」
その言葉に、レギュラスはほんのわずかに口角を上げる。
形の整った笑みは崩れることなく、むしろ深まった。
「――ブラック家からの支援金もお出ししましょう。
ぜひ学校建設に、お役立てください」
さらりと告げられた、その金額の重みを知る者なら息を呑むはずだった。
しかし彼は、一切の気負いも見せず、まるで社交の場で交わされる取り留めのない話のように涼やかに言ってのける。
廊下の両脇からは、すれ違う者たちがちらちらとレギュラスを見やる。
純血魔法使いの保護法を制定したばかりの男が、その口でマグル生まれ魔法使いのための学校建設に賛同し、さらに寄付まで申し出る――
その事実だけで、世間の視線は大きく揺れ、彼の名は“公平な指導者”として輝きを増すだろう。
それこそが、彼の狙いだった。
足音高く歩き去る背は、笑みをまとったまま決して本心を見せない。
その笑みの奥に、計算と意志が静かに研がれていることを、気づく者はほとんどいなかった。
灰色の雲が低く垂れこめ、魔法法廷の尖塔がその中に溶け込むようにそびえていた。
レギュラスは通りの片隅に立ち、外套の襟を指先で整えながら、心の奥に沈殿した思いを確かめていた。
今日、彼にはもう一つ――いや、むしろこちらこそが本題と言える用事があった。
少し前のこと。
アリス・ブラックが、暴走寸前のオブスキュラスの少年を「抑えてやろう」としていたその場へ、自分も居合わせた。
彼女の手に自らの魔力を流し込み、そのまま少年の命を断った――必要な処置として。
あの力は、生かしておけば必ず周囲を破壊する。
時間の問題だった。
しかし、アリスはその後、あたかも尊い犠牲であったかのように世間へ語り、大々的な追悼行事まで催した。
今度は墓を建て、人々が花を手向け、涙する場をつくろうとしている――その意図を耳にした時、レギュラスは静かに、しかし確固たる怒りを覚えた。
オブスキュラスなど――本来、生き延びる術など持たぬ存在だ。
魔力をまともに操れず、それでも不釣り合いなほどの力を偶然宿してしまったがために、やがてその力に呑み込まれ、死へ至る。
それは宿命であり、報いである。
しかも純血でもない。
魔力の繊細な制御など、到底望めぬ血統。
そんな存在に立派な墓を建て、その死を“教訓”として美化しようとする愚かさ。
――それが、いずれは「同じ無駄な犠牲を減らそう」という甘い幻想を魔法界に広めるだろう。
レギュラスは、その芽を潰さずにおくことこそ危険だと考えていた。
あの事件の結末は、何度やり直そうとも同じだったはずだ。
必要な処置――冷徹に見れば、それだけのこと。
それを覆し、哀悼という名の美談にすり替えようとする行為こそ、彼には許しがたかった。
彼の瞳は冷たく光り、唇にわずかな弧を描く。
その笑みは感情ではなく、決意の輪郭だった。
――ならば阻止するまでだ。
あの少年に、死後すら居場所など与えはしない。
外套の裾を翻すと、冷たい風の中へ踏み出した。
石畳に響く足音は、すでにその行動の方向を決めていた。
魔法法廷の奥まった廊下は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
厚い扉の向こう、別室には厚手の絨毯が敷かれ、魔法灯が金色の光を淡く漂わせている。
レギュラスはためらいのない足取りでその部屋へ入り、応接用の机の向こうに座る魔法法務大臣と視線を交わした。
形式的な挨拶の後、彼は懐から羊皮紙を取り出す。
「……こちら、アリス・ブラックの計画に対する反対署名です」
机の上に、それを静かに置く。
大臣の視線が封蝋に一瞬とどまり、すぐにレギュラスに戻った。
続けて、彼は上着の内ポケットから細長い封筒を取り出し、無言で差し出す。
それは極上の紙に包まれた小切手。
微笑みを崩さずに言う。
「……お好きな数字をどうぞ」
その声音は穏やかでいて、拒否の余地を与えぬ確信を孕んでいた。
魔法法務大臣は、わずかに眉を上げてから、恐縮するような笑みを浮かべる。
そして、羽ペンを手に取り、何の迷いもなく数字の桁を重ねていく。
インクが羊皮紙に吸い込まれ、鮮明な数字が静かに刻まれた。
レギュラスはその様子を、感情を波立たせぬまま見守り、署名の隣に小切手が置かれるのを確認すると、わずかに頷いた。
「……では、あとはお願いしますね」
魔法法務大臣は、その声に即座に頷き、恭しく言葉を返す。
「――任せてくださいませ、ブラック卿」
短いやり取りの中で、すでに結論は揺るがぬものとなっていた。
この部屋で交わされたことは、誰にも知られることなく、しかし確実に外の世界へ影響を及ぼしていく。
レギュラスは椅子を立ち、外套の襟を正すと、柔らかな笑みを残したまま部屋を後にした。
背後で扉が音もなく閉まり、重い沈黙が再び別室を満たした。
朝の光が斜めから差し込む魔法法廷のテラスは、石畳の隙間に小さなハーブが芽を出し、風がそれらをかすかに揺らしていた。
磨かれた手すり越しに中庭が一望でき、噴水の水音がせわしない議場の空気を遠くに感じさせる。
その日、アリスの手の中には一通の羊皮紙。
――魔法法務大臣からの、たった一行の否決通知。
筆跡を目にした瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
レギュラス・ブラック。
今日は別件で魔法法廷に来ているはず。
おそらくそのついでに――いや、それこそを目的に――法務大臣と会い、何らかの「取引」を済ませたのだろう。
頭の奥に熱がこみ上げる。
立ち止まっていることはできなかった。
次の瞬間、アリスは躊躇なく姿くらましをし、空間が歪む音と共に法廷前の石畳へ現れた。
広いエントランスの外は午前の光に包まれ、行き交う魔法使いたちの中に、見慣れた背を探す。
しかしそこにレギュラスの姿はなく、その代わり――視界の端に、白いカップを持つ女性が映った。
テラスのカフェ席。
薄いアイボリー色のクロスが風にそよぎ、その端にアラン・ブラックが座っていた。
落ち着いた佇まいで、何かを待つように席を温めている。
前の方には開きかけた本と、半分ほど減った紅茶。
アリスの足が、自然とそちらへ向かう。
自分でも理由はわかっている――彼女のすぐそばに、今日の答えがあると確信していたからだ。
噴水の水音と、カップが皿に触れる澄んだ音。
アリスは一度だけ深く息を吸い、テラスの入り口で足を止めた。
アランはまだこちらに気づいていない。
けれど、その横顔には不思議な静けさと、わずかな警戒が混じっているように見えた。
――やはり、レギュラス・ブラックの動きのすべてを知っているのは、この人だ。
陽光の下、二人の視線が交わるまでのわずかな間に、アリスの中で確信は鋼のように固まっていった。
テラスには、やわらかな午前の陽が差し込んでいた。
噴水の水音と、風に揺れるクロスの微かなざわめきだけが、静かな時間を刻んでいる。
「……アランさん」
低く、けれど切実さを押し隠せない声でアリスが呼びかけた。
アランは顔を上げ、つい無意識のように彼女の手を握り返していた。
その自然さが、あまりにもアランらしかった。
人を前にすると、まず触れてしまう――それは慰めの仕草でもあり、寄り添うための無意識でもあった。
アランの視線がアリスをとらえた瞬間、驚きがその瞳に広がった。
けれど、それはすぐにふわりとした笑みに変わる。
その笑みは、かつて幾度もアリスの心を支えてくれた――迷いや痛みを少しだけ軽くしてくれる、そんな温もりを帯びていた。
「レギュラス・ブラックは……まだ法廷にいますか?」
息を詰めるような問いに、アランは首を静かに横に振る。
「私は入れなかったから……中の様子は分からないの」
言葉と共に、その手の温もりがわずかに強くなった。
「……お願いです、アランさん」
アリスは一歩、彼女の方へ踏み出した。
その眼差しは揺れながらも、揺るぎのない決意を秘めている。
「私……レギュラス・ブラックに会わないといけないんです。
でも、この姿では……まともに話も聞いてもらえないと思うから……」
一拍の間が落ちる。
アランは目を見開いたまま、続きを待っている。
「――アランさんの姿を……借りてもいいですか」
その言葉は、かすかな震えを持っていた。
ポリジュース薬を使わせて欲しい――それは、信頼を懇願することでもあり、
同時に相手の世界へ深く入り込むことを許してほしいという、重い願いでもあった。
二人の間を、風がひとつ抜けてゆく。
アランは握りしめたアリスの手を離さないまま、ただその瞳を真っ直ぐに見返していた。
どちらもまだ、頷くことも、首を振ることもできなかったが、
その沈黙には、互いの覚悟を探り合うような張り詰めた温度があった。
テラスを撫でる風が、二人の間に置かれたカップの紅茶をわずかに揺らした。
空の青さの下、アランの瞳には深い影が宿っている。
「……それは危険よ、アリス。あの人は、姿形を変えたくらいではすぐに見破ります」
緩やかに告げられたその声には、断固とした拒絶よりも、むしろ痛みを伴う警告の色があった。
しかし、アリスは一歩も退かなかった。
「今回は……うまくやります。もう、前のようにご迷惑はかけませんから――お願いします」
言葉を選ぶようにして、それでも最後は押し出すように小さく息を継ぐ。
「……少しだけ、どうしても確かめたいことがあるんです」
その表情には切実さと危うさが同居していた。
アランはじっと彼女を見つめる。
きっと――今、脳裏をよぎっているのは、あの十数年前の出来事だ。
まだ子供だったアリスが、会いたさ一心でブラック家の屋敷に忍び込み、メイドに姿を変えて自分の前に現れたあの日。
手際も幼稚で、瞳の輝きは隠し切れず、
そして――あの人、レギュラス・ブラックは、容赦なく真実を暴き立てた。
その代償は、子供だった彼女の心と身体に、忘れがたい烙印として残ったはずだ。
しばし、二人の間を沈黙が覆う。
噴水の水音がやけに遠く、ゆるやかに時の流れを引き延ばしている。
……けれど、目の前のアリスはもうあの頃の子供ではない。
頬の線も、瞳の色も、十年以上の歳月が与えた強さで形作られている。
かつての無謀な衝動とは違い、今回は冷静さと技量をもって臨もうとしている――
そう、彼女自身がわかっている限り、同じ失敗は繰り返さないつもりなのだ。
アランはゆっくりと息を吐いた。
その吐息には、諦めとも信頼ともつかない温度が混じっている。
「……あなたは、本当に変わったのかもしれないわね、アリス」
微かな微笑とともに、その瞳が問いかける――
「けれど、本当にその覚悟で立ち向かえるの?」と。
アリスは、その視線をまっすぐに受け止めた。
もう逃げも隠れもしないという強さを、その瞳いっぱいに湛えて。
午前の光が、テラスの白いテーブルクロスに柔らかく広がっていた。
アランは椅子を引き、その場を立ち去る準備をしながら、向かいに座るアリスをじっと見つめている。
「……じゃあ、私は別の場所で、適当に時間を潰しているわ」
アリスは短く頷き、ポケットから小さな瓶を取り出した。
その中で琥珀色の液体がとろりと揺れ、光を受けて微かにきらめく。
彼女は迷いなくそれを一口含み、喉を通す。
たちまち、髪が流れるように伸び、色が変わり、顔立ちの輪郭が整っていく。
姿見もないのに、その変化は指先や視界の端にまで確かに感じられた。
魔法をかけ、着ていた服もアランが纏っていたものと寸分違わぬ姿に整える。
「アリス……くれぐれも危ないことはしないで」
アランの声は低く、真剣だった。
変わりきったその外見を見つめながらも、視線の奥にある表情は変わらない。
それは相手を諭す大人のそれであり、心配をどうしても隠しきれない人の目だった。
アリスは、その目をまっすぐに見返す。
「はい。……アランさんに、何度も救われたこの命ですから。無茶はしません」
その瞬間、胸の奥に不意に熱が満ちた。
――この目、その声、その心配げな色が、ずっと恋しかった。
幼い頃から、自分にはいなかった“母”という存在。
優しさや温もりを手に入れることができる場所を知らぬまま育った自分にとって、
アランは、間違いなく母そのものだった。
心配され、見守られることが、こんなにも甘く、嬉しいものだと――今、素直に思う。
これが、ずっと欲しかったものなのだ、と。
アランはしばらくアリスの瞳を探り、それから小さく頷いて背を向けた。
離れていくその後ろ姿を目で追いながら、アリスはひとつ深く息を吸った。
外見は同じでも、この感情だけは変わることがない――
そんな確信と共に、彼女は静かに歩き出した。
魔法法廷の奥へと続く石畳の回廊は、人の往来も多く、魔法灯に照らされた壁面に淡い影が流れていた。
アリス――いや、外見だけは完璧にアラン・ブラックとなった“彼女”は、その中を迷いなく歩いていく。
しかし胸の奥では、心臓の鼓動がひとつごとに熱を帯びていくのを感じていた。
見慣れない衣擦れの感触。足取りの軽ささえも、アランのものを真似ている。
けれど、こればかりは真似のしようがない——奥底にある自分の気持ちは、どうしても抑えきれないのだ。
角を曲がった先、開け放たれた重厚な扉の向こうに、黒い外套の背が見えた。
紛れもなく、レギュラス・ブラック。
何人かの法務官たちと短く言葉を交わし、ゆるやかに歩みを進めている。
アリスの喉が、不意に乾く。
——前の失敗の記憶が、嫌でも蘇る。
あの時は、ほんの数秒で正体を見抜かれ、言葉を尽くす間もなく打ち砕かれた。
しかし今回は違う。十年以上を経て、準備も、覚悟も、すべて整えてきた。
彼がこちらに気づくまでの、ほんの数歩。
魔法法廷のざわめきが遠ざかり、世界が二人だけに収束していくようだった。
——アランの姿として、彼の瞳を真正面から受け止めなければ。
そうでなければ、この一歩のために積み重ねた時間も、勇気も、すべて意味を失う。
レギュラスの視線が、ゆっくりとこちらに向く。
黒曜石のようなその目が“妻”を認めた瞬間、微かに柔らぐのを見て、アリスの胸に緊張と別種の痛みが同時に走った。
大理石の床に反響する靴音が、近づくたびに静かな振動となってアリスの足元を揺らした。
やがて、その黒い外套の主――レギュラス・ブラックが立ち止まり、柔らかな声を落とす。
「……アラン、カフェで待っていると思いましたが。遅くなりましたね」
その声音には、驚くほどの棘のなさがあった。
まるで、長い任務から帰宅し、そっと妻を気遣う夫のような――優しさだけを滲ませた響き。
――こんな風に話す人だっただろうか。
アリスは戸惑いと違和感を押し殺し、微笑を浮かべる。
「ええ……少し、心配で」
アランなら、きっとこう言うだろうと想像し、そのまま言葉にした。
レギュラスは軽く頷き、視線をわずかに外へ向けながら、ゆっくりとジャケットの内ポケットに手をやった。
布地の下で指が何かを確かめ、するりと差し入れ、再び整える。
一瞬――その所作だけで、アリスの全身に稲妻のような確信が走った。
――あれは、小切手。
それも、魔法法務大臣と交わした取引の控えに違いない。
あの羊皮紙を、この手にさえ収めることができれば……
世間に公表できれば、今回の決定を覆せる。
そして同時に、レギュラス・ブラックという完璧な名声に、深い傷を刻むことができる。
息を整え、アリスは視線を彼の瞳から逸らさぬようにした。
笑みを保ちながら、脳裏ではすでに手順を組み立てている。
わずかな隙――ほんの瞬間でいい。
その機をどう作るか。どう奪うか。
柔らかな会話の裏で、言葉に乗らない緊張が、二人の間に音もなく立ちのぼっていた。
彼の指が再びポケットから離れるまで、アリスは心臓の高鳴りを意識し続けていた。
大理石の廊下に並ぶ魔法灯が、二人の影を長く伸ばしていた。
アリス――外見は完璧にアラン・ブラックとして――は、わずかに上目遣いでレギュラスを見上げる。
「……少し、どこか寄りませんか?」
レギュラスは一瞬だけこちらを見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「ずいぶんカフェで待たせたでしょうに。……まだ飲めます?」
不審に思われてはいけない。
あくまで自然に、夫婦の何気ない会話の形で。
――けれど胸の奥では、レギュラスのジャケットの内ポケットに忍ぶ“小さな羊皮紙”の存在が脈打つように意識の中心にあった。
魔法法務大臣との取引の証。それを奪うための隙を、どう作るか。
返答を探している間に、レギュラスがそっとアリスの腰に手を添えた。
何のためらいもなく、自然に。
アランという妻に向ける、ごく当たり前の仕草なのだろう。
しかしアリスにとっては――その温もりすら、肌にざらつく。
男にこんな風に触れられた経験などなく、それが甘い情の形だと知っていても、胸の奥に生理的なむず痒さと違和感が広がっていく。
彼の指先から伝わる重みが、妙に生々しい。
この距離感の中で、平然と会話を続けることがこんなにも難しいとは――
「……では、塔の上のカフェに行きますか」
レギュラスの提案は柔らかく、まるで彼女の望みを汲み取ったかのようだった。
アリスは、わずかに唇を上げた。
「ええ……そうしましょう」
その言葉を口にした瞬間、心の奥で別の声が呟く。
――そこなら、きっと隙ができる。
石造りの螺旋階段の先に待つ高台のカフェ。
二人の歩調が揃い、腰に添えられた手の圧がわずかに強まるたび、アリスの中では緊張と計算が静かに絡まり合っていった。
塔の上へと向かう魔法エレベーターが、静かに上昇を始めた。
磨き込まれた真鍮の扉が閉まる寸前、数名の魔法使いが乗り込んでくる。
その顔ぶれは――おそらく、ブラック夫妻をよく知る者たち。
「アラン様、ご機嫌よう」
「レギュラス卿、お久しぶりです」
視線がこちらに集まる瞬間、アリスは胸の奥で息を飲み込み、微笑を浮かべた。
――アランなら、どう答える?
その所作を想像し、声を震わせぬよう努力する。
「ご機嫌よう。先日はありがとうございました」
自然を装い、柔らかく会釈を交わす。
心臓は速く打っているのに、その鼓動を表に出さぬよう、手指の動きを最小限に抑えた。
短い世間話のやり取りを重ね、他愛のない笑みを浮かべながらも、
頭の中では一刻も早くこの場から逃れる算段を組み立てる。
やがて、相手が降車階を迎え、軽い別れの言葉と共にエレベーターから降りていった。
わずかな安堵が胸を撫でる。
静寂が戻ったその瞬間、レギュラスがわずかに身を寄せた。
耳元に落とされた声は、低く、それでいて柔らかい。
「……あの人、数ヶ月前に会った時は、もう少し髪の毛ありましたよね」
ふ、と笑う息が耳のすぐそばでこぼれ、目尻が優しく細められる。
アリスは、首筋から耳の奥にかけて、ぞわりとした感覚に捕らわれた。
――こんな風に、自然に笑って会話をするレギュラス・ブラックを、自分は知らない。
これまで思い描いていた彼は、鋭く、支配的で、
大切なアランを雁字搦めに縛る存在だった。
なのに今、目の前にいるのは――どこにでもいる、ありふれた夫婦の姿。
互いにだけわかる冗談を交わし、小さく笑い合う。
ぎこちなさを隠すように、アリスも口元を緩めた。
合わせて笑う。その形は真似られても、胸の奥までは、うまく真似できない。
笑みの裏で、どこか定まらない痛みが胸を締めつけていた。
それは嫉妬とも、戸惑いとも名のつかない――ただ、途方に暮れるような感覚だった。
エレベーターは、なお静かに上昇を続けていた。
扉の向こうに待つ景色よりも、隣に立つ男の横顔から目を逸らす方が、今のアリスには難しかった。
魔法エレベーターが静かな音を立てて停止し、扉が左右に開いた。
外の光が差し込み、石で組まれた塔の最上階の回廊が目の前に広がる。
吹き抜けからは、遥か下の街並みと、きらめく川面まで見渡せた。
レギュラスは何事もなかったかのように、アリス――いやアランの姿をした彼女――の腰に手を添えたまま、
エレベーターから降りて回廊へと歩き出す。
その所作の自然さに、アリスの背筋がじわりとこわばる。
「……あちらですよ」
彼が示した先には、塔の縁に設けられたカフェテラス。
黒いアイアンの手すりと丸いテーブルが整然と並び、空の蒼さを背景に涼やかな風が通り抜けていく。
案内された席に腰を下ろすと、レギュラスは店員に何か短く注文を告げ、外套を椅子の背にかけた。
そしてそのまま、胸ポケットに触れる一瞬の仕草――
アリスの視線がそこに吸い寄せられる。
確かに、あの内側に――小切手がある。
魔法法務大臣との取引の証、今回の決定を覆し、彼の名声ごと引きずり落とせる鍵。
アリスは深く息を吸い、心の中でタイミングを計った。
笑顔を保ちながら、カップやナプキン、あるいはテーブル越しのやり取りで彼の意識を一瞬逸らせる――その隙をつくるために。
その時、レギュラスがふと窓の外を見やり、
「今日は空がよく晴れている。……下界の喧騒もここまで届かない」
と、何気ない調子で呟いた。
ごく普通の夫婦の会話。
しかしアリスの耳には、まるでその穏やかさが罠のように響く。
この穏やかで隙のない男から、本当に奪えるのか――そんな不安と焦燥が胸の奥でせめぎ合っていた。
それでも、来たのだ。
この瞬間のために。
アリスは小さく笑って相槌を打ち、テーブルの中央に手を伸ばしながら、
――次の一手を、密かに準備した。
レギュラスがカフェの店員と短く言葉を交わし、二人のテーブルに紅茶と軽い菓子を運ばせる。
銀のポットから湯気が立ちのぼり、カップに注がれる香りが一瞬、緊張にこわばるアリスの神経を緩めそうになる。
「どうぞ」
差し出されたカップを受け取り、アリスは微笑で応える。
だがその胸の奥では、意識の半分以上がまだ――彼の胸ポケットに向けられている。
レギュラスはふと席を立ち、テラスの手すりまで数歩歩を進めた。
眼下には魔法省の街路が広がり、魔女や魔法使いたちが蟻のように行き交っている。
「……ここからだと、本当に世界が遠く見える」
そんな小さな独り言が風に溶けた。
今だ――。
アリスは膝の上のカップをそっと置き、
何気ないふりで席を回り込み、彼の外套の背に掛けられたジャケットの胸元へと手を伸ばす。
指先が布の縁にかかり、目指す内ポケットの感触が近づく。
あと一呼吸で――
「……アラン」
名を呼ばれ、アリスの動きが瞬間的に止まった。
振り返ったレギュラスの表情は、柔らかい。
だがその瞳の奥に、一瞬、探る光がきらりと走った。
「どうかしましたか?」
微笑を崩さず問いかけるその声が、妙に耳に冷たく響く。
アリスは咄嗟にカフェの景色へ視線を向け、
「ええ……ちょっと、景色をよく見たくて」と取り繕った。
指先から、わずかに冷や汗が滲む。
彼は何事もなかったように再び視線を外し、テーブルへ戻った。
だが――アリスにはわかる。
今の一瞬で、隙を作る難易度は幾分か上がったのだと。
それでも、諦める気はなかった。
紅茶を口に運びながら、アリスは再び計算を練り始めた。
この穏やかな空気の裏にある、見えない駆け引きの火花を悟られぬままに。
塔の上のカフェ、その一角にある半円形のカウンター席は、二人の肩を自然と触れ合わせるほどの近さしか許さなかった。
背後には高い窓、目の前には真鍮のカウンタートップ――けれど、アリスにはその景色すら視界の端に霞んでいた。
レギュラスがふと身を寄せ、アランの姿をした彼女の首筋へと顔を埋める。
次の瞬間、そこに温かく湿った感触が落ちた。
生理的な嫌悪感が、鋭く背骨を走り抜ける。
憎くて仕方のないレギュラス・ブラックの唇が、自分の肌を「這う」。
しかも、それはアランに向けた仕草のはずなのに――中身である自分は別人だと知っているのに――決して耐えられるものではなかった。
「……レギュラス、人前だわ……」
精一杯、アランらしく穏やかに、けれど一歩退くような声で抗議する。
「誰も見ませんよ」
甘さを混ぜた低い声。
しかし、そういう問題ではない――今すぐにでも、この男の腕を振りほどきたかった。
「……レギュラス……」
名を呼ぶことさえ、拭えない嫌悪のせいで喉が震えそうになる。
もう一度はっきりと拒もうとした――その瞬間だった。
唇が、不意に重なる。
拒絶の言葉を押し戻すように、逃げ場を塞ぐ強引な口づけ。
初めてだった。
男という存在と、自分の唇が触れ合うことが。
胸の奥が、不意にひどく痛む。
この瞬間を、初めては――本当に愛した人としたい、と淡く思い描いてきたのに。
夢に描いた初めての口づけは、もっと優しく、もっと心を温めるはずだったのに。
今、与えられているのは、生々しくて、重たくて、恐ろしくて、心を削るばかりの現実。
唇に触れる感触が、まるで引き剥がせない鎖のように思え、涙が込み上げそうになる。
彼の影が覆いかぶさる中、アリスは必死に表情を保つ。
アランの外見を崩さぬように――けれど、中の自分は震えながらその時をやり過ごしていた。
自分の意思と無関係に奪われた初めてが、こんな形で刻まれてしまったという痛みだけが、唇に残った。
「……嫌でした?」
低く落ち着いた声だった。
唇が離れた直後、レギュラスは短くそう問いかける。
アリスは、反射的に、慌てて首を振った。
悟られるわけにはいかなかったから。
この中身が“アラン”ではないことなど、一片たりとも気取られてはいけない。
微笑を作る――それが自分を守る唯一の盾だった。
けれど、その小さな仕草の奥で、レギュラスの瞳には薄く影が差していた。
どこか、違う。
一つひとつは取るに足らない違和感。
笑みの温度、言葉の間、手の置き方。
だが、その些細なずれが幾十にも積み重なった先に、確かな「異物感」がある。
そして――先ほどのキスの時。
あの固く唇を閉ざした反応は、これまでのアランにはなかった。
これまで何度も確かめてきたはずの感触から、決定的に外れていた。
レギュラスは、その瞬間の感覚を引っ張り出すように心の内で反芻してしまう。
何か――テラスのカフェで、見聞きしたのだろうか。
あるいは、誰かに会って、面倒なことを吹き込まれたか。
今日の出来事が頭をよぎる。
マグル生まれの魔法使いのための学校設立案が可決されたこと。
混血のオブスキュラスのための墓の建設計画について、自分が否認を通したこと。
そのどちらも、アランにはできる限り踏み込ませたくない領域だった。
だからこそ、彼女が何かを知り、それが今の態度に影を落としているのでは、と考えてしまう。
レギュラスは視線を逸らし、ふっと息をついた。
言葉にはしない疑念が、静かに胸の底に沈殿していく。
だがテーブルに置かれた彼の手は、あくまで自然にアランのそれへと重なったままだった。
あたかも何も変わっていないかのように――けれど、その掌には探るような僅かな圧がこもっていた。
キスが終わった後の空気が、やけに濃く感じられた。
自分の頬が、すでに熱で染まっているのがわかる。
――たぶん、隠せていない。動揺が、顔に出てしまっている。
恋人がいれば、きっと誰もが一度は経験するものなのだろう。
けれど自分は、まだ知らない世界だった。
だから想像もできない。
世の恋人や夫婦たちは、このあとはどんな表情をし、どんな言葉を交わすのか。
笑うのか、それとも静かに見つめ合うのか――それさえもわからない。
現実は、そんな甘い絵のどこにもなかった。
唇にはまだ、レギュラス・ブラックの生々しい感触が残っている。
本当は今すぐ、指先で拭い去ってしまいたい。
この皮膚から、熱ごと抹消してしまいたい。
けれど、そんな素振りを少しでも見せたら終わりだ。
精一杯、外見だけは何事もなかったかのように振る舞う。
それが、今この場で生き残るための唯一の術だった。
心臓は、さっきからずっと早鐘を打っている。
どく、どく、と、耳の奥で鼓動が大きく響き、
息の仕方まで忘れそうになる。
レギュラスが手を動かすだけで、その気配がすぐに全身の筋肉をこわばらせる。
視線を向ければ、その黒い瞳は相変わらず柔らかく微笑んでいて――
そのギャップこそが、いちばん危うい罠に見えた。
構えてしまう。
ほんの指先の動きも、声の抑揚も、呼吸の間合いまで。
すべて、次に来るかもしれない行動への予兆として無意識に読み取ってしまう。
アランの顔をして座っているけれど、
内側の自分は、獣の前の小動物のように張り詰め切っていた。
その緊張は、紅茶の湯気や午後の光さえ届かぬ場所で、
じわじわと胸を締めつけ続けていた。
レギュラスはドレッサーの前に座るアランの後ろ姿を見つめることもなく、ただ寝台から低く名を呼ぶ。
その声に応えようと振り向く間もなく――彼は立ち上がり、迷いのない手つきで彼女の手首を捕らえた。
「――待ってください、レギュラス!」
抗議とも戸惑いともつかぬ声が、柔らかなカーテンの間にこぼれる。
「アルタイルも、きっと今頃……頑張ってるところですし」
ベッドへ引き寄せながら、彼は唇の端をわずかに吊り上げた。
「僕らも負けていられないでしょう」
我ながら、何を張り合っているのか分からない。
それでも、その衝動はあまりに鮮やかで、止まる気配を見せなかった。
「……なんてこと言うんです」
アランの瞳がわずかに丸くなる。
次の言葉を紡がせまいと、レギュラスはその唇を掠め奪うように塞いだ。
ナイトドレスの合わせ目へと伸ばした指先は、いつもより僅かに乱暴だった。
布地がわずかに擦れる音が、夜の静けさに溶けていく。
胸の奥で燃え広がる何かに焚きつけられたように、求めたい思いが堰を切って溢れ出す。
唇が離れた瞬間、アランの瞳が揺れ、光を孕んでとろんと溶ける。
その目に捕らわれた途端、思考のすべてが情欲の色に染まってゆく。
理性など一瞬で炎に溶かされ、残るのはただ、この温もりを逃さぬという執念に近い熱だけ。
炎の灯りが、絡み合う影をゆらゆらと壁に映し出していた。
その影は、寄り添い、むさぼり、やがて輪郭をなくすまで――夜に深く沈んでいった。
レギュラスは、深く重なる吐息の合間に、ふと自分の手がどこまで彼女を求めているのかを意識した。
愛している――それは疑いようのない真実だ。
けれど、この熱の奥底には、それだけではないかすかな棘が潜んでいるのを感じる。
まるで「離さない」という意志がそのまま形を変え、愛と同じ顔をした鎖になっているようだった。
アランの指先が、背にそっとすがるように沈む。
その温もりが、自分を許しているのか、それとも諦めなのか――判別できずに、むしろ余計に欲しくなる。
「……愛しています」
唇を彼女の耳元に寄せ、吐き出すように囁く。
答えはない。けれど、長く絡んだ視線の奥に、その沈黙ごと受け入れられているような気がした。
外では風が窓をゆらし、炎がぱちりと爆ぜる。
この部屋と、この瞬間だけが、世界のすべて――そう錯覚してしまうほど、互いの温度に溺れていった。
静寂がゆっくりと降りてきた。
暖炉の火がまだかすかに揺れ、その光が寝台に横たわる二人の輪郭をやわらかくなぞっている。
レギュラスは仰向けのまま、肩越しにアランを見た。
彼女は枕に頬を預け、微かに乱れた髪が頬を隠している。
呼吸は穏やかで、閉じかけた瞳に炎の明かりが淡く映っていた。
触れればほどけてしまいそうに思えて、手を伸ばすのを一瞬ためらう。
だが結局、胸元のシーツ越しに指先でそっと輪郭をなぞった。
まだ肌には熱が残っていて、その確かさが胸を刺す。
――こんなにも近くにいるのに。
時折、彼女が遠くへ行ってしまう気配を感じるのはなぜだろう。
頭の奥に、その問いが淡く残る。
「……眠れそうですか」
低く抑えて尋ねると、アランは視線だけこちらに動かし、小さく笑った。
「少し……ね」
その微笑みの意味を深く探れば、きっと眠れなくなる。
だからレギュラスはそれ以上何も問わず、彼女を自分の腕の中へ引き寄せた。
胸に感じる重みと鼓動。
それが今夜だけのものではないと信じるように、腕に力をこめる。
外の風は冷たいはずなのに、この部屋は息が詰まるほどの温度を孕んでいた。
炎の爆ぜる音が消えれば、互いの心音が響くだけになってしまう――
そんな夜の終わりを、彼らはしばらく黙って抱き締め合いながらやり過ごした。
アランの瞼が、炎の光を受けてゆっくりと降りていく。
まどろみの淵で、レギュラスの腕の重みと温もりだけが確かなものとして残っていた。
――この腕は、時に鎖のように感じられる。
けれど同時に、何度も自分を守ってきた場所でもある。
その矛盾ごと抱えたまま、もう長い年月をここで過ごしてきたのだ、と薄く笑みが漏れる。
頬を動かすだけで、彼の鼓動が耳に触れる。
アルタイルの晴れ姿、セレナの微笑、今日の祝宴のざわめきが遠くに霞んでいく。
そのすべてが、とりあえずは無事に終わった安堵と共に、静かに胸の底に沈んでいく。
――この先、どこまで一緒に歩けるのだろう。
答えを出すにはまだ早い、けれど明日もきっと、この腕の中で目を覚ますのだろう、とわかってしまう。
レギュラスの指先が、半ば無意識のように背をゆっくりなぞる。
その動きに眠気が絡まり、思考の輪郭がぼやけていく。
最後に小さく息を吐き、アランは完全に力を預けた。
暖炉の火がぱちりと爆ぜ、その音に包まれながら――彼女は静かに夢の中へ沈んでいった。
朝の空気はまだ涼しく、窓から射す光が寝室と廊下の境を淡く染めていた。
レギュラスは外套を羽織りながら、机に並べた書類や封筒を順に鞄へ収め、杖の位置を確かめる。
その背後から、控えめな足音と、ふっとやわらかな匂いが近づいてきた。
「……任務の用意ですか?」
アランがそう言いながら、彼の肩に外套の襟を整えてやる。
その動きは自然で、長年の癖のように迷いがない。
「少し体調も戻りましたし――そろそろまた、ご一緒します」
レギュラスは、その言葉を聞いた瞬間、手を止めた。
封を切ろうとしていた封筒を机に置き、ゆっくりと顔を向ける。
「今回は……魔法法廷でのジャッジですよ。なにも分霊箱が絡むような、危険な任務じゃない。だから大丈夫です」
アランはほんの一歩近づき、まっすぐに視線を重ねてくる。
「でも……あなたは止めてくれる人がいないと、いつも無理をするでしょう?」
短い沈黙のあと、レギュラスの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「……それでも、毎回こうして帰ってきているじゃないですか」
彼はそっと手を伸ばし、アランの頬へ指先をすべらせる。
ひと撫でで形をなぞるように、その輪郭を確かめる。
「……だめですか?」
その声音と、見上げる瞳の色が、胸の奥の防御をすっと溶かしていく。
“だめか”――そんな言い方をされて、明確に拒絶できるわけがない。
一緒に来たいという願いは、愛らしくて、そして確かに心強かった。
彼のためだと信じて差し伸べられるその手が、たまらなく愛おしい。
レギュラスは小さく息を飲み、肩の力を抜いた。
「……では、お願いできますか?」
その声には、同意と同時に、半ば諦めにも似た柔らかい響きが滲んでいた。
アランは微笑み、整えた彼の襟に手を置いたまま、そっと頷いた。
重厚な魔法法廷の審議室。
高い天井から垂れるシャンデリアが、白大理石の壁を柔らかく照らし出す。
銀縁の机を挟み、各陣営の代表者たちが整然と並び、その視線は今まさに下ろされようとしている判決の一筆に注がれていた。
紙の上でペン先が小さく鳴る。
――レギュラス・ブラック、その名が賛成欄に記された瞬間、空気がわずかに揺れた。
予想外だったのだろう。
騎士団側の席から、驚きと探る色が入り混じった視線が一斉に突き刺さる。
その眼差しは「何が狙いだ」と問いかけているようでもあった。
けれど、レギュラスはそれらをただ淡々と受け流し、書き終えたペンを静かに置く。
審議を締めくくる魔法法務官の声が、朗々と響く。
「――マグル生まれの魔法使いのための学校設立案、可決」
瞬間、騎士団側の席に喜びが広がった。
肩を叩き合い、笑みを交わし、目を輝かせる者すらいる。
勝ち取った正義を誇らしげに掲げるかのような、その姿。
レギュラスの瞳は、その様子をひどく冷ややかに見ていた。
――学び舎? とんでもない。
それは、ホグワーツと同じ机につく権利を持たない者たちを、
見えない場所へと押し込み、周囲から隔離するための囲いに過ぎない。
臭いものには蓋を――その蓋をもっともらしい理想の言葉で飾り立てただけの、
目を背けたい現実のための“隔離所”だ。
そして、今、力のない者たちはそれを“祝福”だと信じて疑わない。
何も知らぬ笑顔で、自ら狭い檻へ歩み入っていく。
――滑稽だ。
レギュラスは視線をわずかに伏せ、薄い笑みとも冷笑ともつかぬ表情を浮かべた。
騎士団たちの歓声を背に、椅子を静かに引き、誰とも目を合わせぬまま立ち上がる。
決定の瞬間を見届けた彼の黒いローブが、議場の出口へと音もなく消えていくさまは、
喜びに浮かれる人々の中で、ひときわ異質で冷ややかな影だった。
審議の終了後、議場のざわめきが廊下へと溢れ出す。
磨き上げられた大理石の床に、無数の靴音と低い会話が反響していた。
その中で、一人の騎士団員がレギュラスに歩み寄ってきた。
銀色の騎士章が胸元で光り、声にはわずかな探る響きが混じっている。
「……なぜ、賛成にサインを?」
レギュラスは歩みを緩め、しかし足を止めずに微笑みを浮かべたまま答える。
「素晴らしい提案でしたから」
その口調は端正で、表情は一片も崩れない。
応えるというより、相手の問いごと軽やかに受け流すような響きだった。
騎士団員は眉をわずかに寄せた。
「……あなたらしくない」
その言葉に、レギュラスはほんのわずかに口角を上げる。
形の整った笑みは崩れることなく、むしろ深まった。
「――ブラック家からの支援金もお出ししましょう。
ぜひ学校建設に、お役立てください」
さらりと告げられた、その金額の重みを知る者なら息を呑むはずだった。
しかし彼は、一切の気負いも見せず、まるで社交の場で交わされる取り留めのない話のように涼やかに言ってのける。
廊下の両脇からは、すれ違う者たちがちらちらとレギュラスを見やる。
純血魔法使いの保護法を制定したばかりの男が、その口でマグル生まれ魔法使いのための学校建設に賛同し、さらに寄付まで申し出る――
その事実だけで、世間の視線は大きく揺れ、彼の名は“公平な指導者”として輝きを増すだろう。
それこそが、彼の狙いだった。
足音高く歩き去る背は、笑みをまとったまま決して本心を見せない。
その笑みの奥に、計算と意志が静かに研がれていることを、気づく者はほとんどいなかった。
灰色の雲が低く垂れこめ、魔法法廷の尖塔がその中に溶け込むようにそびえていた。
レギュラスは通りの片隅に立ち、外套の襟を指先で整えながら、心の奥に沈殿した思いを確かめていた。
今日、彼にはもう一つ――いや、むしろこちらこそが本題と言える用事があった。
少し前のこと。
アリス・ブラックが、暴走寸前のオブスキュラスの少年を「抑えてやろう」としていたその場へ、自分も居合わせた。
彼女の手に自らの魔力を流し込み、そのまま少年の命を断った――必要な処置として。
あの力は、生かしておけば必ず周囲を破壊する。
時間の問題だった。
しかし、アリスはその後、あたかも尊い犠牲であったかのように世間へ語り、大々的な追悼行事まで催した。
今度は墓を建て、人々が花を手向け、涙する場をつくろうとしている――その意図を耳にした時、レギュラスは静かに、しかし確固たる怒りを覚えた。
オブスキュラスなど――本来、生き延びる術など持たぬ存在だ。
魔力をまともに操れず、それでも不釣り合いなほどの力を偶然宿してしまったがために、やがてその力に呑み込まれ、死へ至る。
それは宿命であり、報いである。
しかも純血でもない。
魔力の繊細な制御など、到底望めぬ血統。
そんな存在に立派な墓を建て、その死を“教訓”として美化しようとする愚かさ。
――それが、いずれは「同じ無駄な犠牲を減らそう」という甘い幻想を魔法界に広めるだろう。
レギュラスは、その芽を潰さずにおくことこそ危険だと考えていた。
あの事件の結末は、何度やり直そうとも同じだったはずだ。
必要な処置――冷徹に見れば、それだけのこと。
それを覆し、哀悼という名の美談にすり替えようとする行為こそ、彼には許しがたかった。
彼の瞳は冷たく光り、唇にわずかな弧を描く。
その笑みは感情ではなく、決意の輪郭だった。
――ならば阻止するまでだ。
あの少年に、死後すら居場所など与えはしない。
外套の裾を翻すと、冷たい風の中へ踏み出した。
石畳に響く足音は、すでにその行動の方向を決めていた。
魔法法廷の奥まった廊下は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
厚い扉の向こう、別室には厚手の絨毯が敷かれ、魔法灯が金色の光を淡く漂わせている。
レギュラスはためらいのない足取りでその部屋へ入り、応接用の机の向こうに座る魔法法務大臣と視線を交わした。
形式的な挨拶の後、彼は懐から羊皮紙を取り出す。
「……こちら、アリス・ブラックの計画に対する反対署名です」
机の上に、それを静かに置く。
大臣の視線が封蝋に一瞬とどまり、すぐにレギュラスに戻った。
続けて、彼は上着の内ポケットから細長い封筒を取り出し、無言で差し出す。
それは極上の紙に包まれた小切手。
微笑みを崩さずに言う。
「……お好きな数字をどうぞ」
その声音は穏やかでいて、拒否の余地を与えぬ確信を孕んでいた。
魔法法務大臣は、わずかに眉を上げてから、恐縮するような笑みを浮かべる。
そして、羽ペンを手に取り、何の迷いもなく数字の桁を重ねていく。
インクが羊皮紙に吸い込まれ、鮮明な数字が静かに刻まれた。
レギュラスはその様子を、感情を波立たせぬまま見守り、署名の隣に小切手が置かれるのを確認すると、わずかに頷いた。
「……では、あとはお願いしますね」
魔法法務大臣は、その声に即座に頷き、恭しく言葉を返す。
「――任せてくださいませ、ブラック卿」
短いやり取りの中で、すでに結論は揺るがぬものとなっていた。
この部屋で交わされたことは、誰にも知られることなく、しかし確実に外の世界へ影響を及ぼしていく。
レギュラスは椅子を立ち、外套の襟を正すと、柔らかな笑みを残したまま部屋を後にした。
背後で扉が音もなく閉まり、重い沈黙が再び別室を満たした。
朝の光が斜めから差し込む魔法法廷のテラスは、石畳の隙間に小さなハーブが芽を出し、風がそれらをかすかに揺らしていた。
磨かれた手すり越しに中庭が一望でき、噴水の水音がせわしない議場の空気を遠くに感じさせる。
その日、アリスの手の中には一通の羊皮紙。
――魔法法務大臣からの、たった一行の否決通知。
筆跡を目にした瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
レギュラス・ブラック。
今日は別件で魔法法廷に来ているはず。
おそらくそのついでに――いや、それこそを目的に――法務大臣と会い、何らかの「取引」を済ませたのだろう。
頭の奥に熱がこみ上げる。
立ち止まっていることはできなかった。
次の瞬間、アリスは躊躇なく姿くらましをし、空間が歪む音と共に法廷前の石畳へ現れた。
広いエントランスの外は午前の光に包まれ、行き交う魔法使いたちの中に、見慣れた背を探す。
しかしそこにレギュラスの姿はなく、その代わり――視界の端に、白いカップを持つ女性が映った。
テラスのカフェ席。
薄いアイボリー色のクロスが風にそよぎ、その端にアラン・ブラックが座っていた。
落ち着いた佇まいで、何かを待つように席を温めている。
前の方には開きかけた本と、半分ほど減った紅茶。
アリスの足が、自然とそちらへ向かう。
自分でも理由はわかっている――彼女のすぐそばに、今日の答えがあると確信していたからだ。
噴水の水音と、カップが皿に触れる澄んだ音。
アリスは一度だけ深く息を吸い、テラスの入り口で足を止めた。
アランはまだこちらに気づいていない。
けれど、その横顔には不思議な静けさと、わずかな警戒が混じっているように見えた。
――やはり、レギュラス・ブラックの動きのすべてを知っているのは、この人だ。
陽光の下、二人の視線が交わるまでのわずかな間に、アリスの中で確信は鋼のように固まっていった。
テラスには、やわらかな午前の陽が差し込んでいた。
噴水の水音と、風に揺れるクロスの微かなざわめきだけが、静かな時間を刻んでいる。
「……アランさん」
低く、けれど切実さを押し隠せない声でアリスが呼びかけた。
アランは顔を上げ、つい無意識のように彼女の手を握り返していた。
その自然さが、あまりにもアランらしかった。
人を前にすると、まず触れてしまう――それは慰めの仕草でもあり、寄り添うための無意識でもあった。
アランの視線がアリスをとらえた瞬間、驚きがその瞳に広がった。
けれど、それはすぐにふわりとした笑みに変わる。
その笑みは、かつて幾度もアリスの心を支えてくれた――迷いや痛みを少しだけ軽くしてくれる、そんな温もりを帯びていた。
「レギュラス・ブラックは……まだ法廷にいますか?」
息を詰めるような問いに、アランは首を静かに横に振る。
「私は入れなかったから……中の様子は分からないの」
言葉と共に、その手の温もりがわずかに強くなった。
「……お願いです、アランさん」
アリスは一歩、彼女の方へ踏み出した。
その眼差しは揺れながらも、揺るぎのない決意を秘めている。
「私……レギュラス・ブラックに会わないといけないんです。
でも、この姿では……まともに話も聞いてもらえないと思うから……」
一拍の間が落ちる。
アランは目を見開いたまま、続きを待っている。
「――アランさんの姿を……借りてもいいですか」
その言葉は、かすかな震えを持っていた。
ポリジュース薬を使わせて欲しい――それは、信頼を懇願することでもあり、
同時に相手の世界へ深く入り込むことを許してほしいという、重い願いでもあった。
二人の間を、風がひとつ抜けてゆく。
アランは握りしめたアリスの手を離さないまま、ただその瞳を真っ直ぐに見返していた。
どちらもまだ、頷くことも、首を振ることもできなかったが、
その沈黙には、互いの覚悟を探り合うような張り詰めた温度があった。
テラスを撫でる風が、二人の間に置かれたカップの紅茶をわずかに揺らした。
空の青さの下、アランの瞳には深い影が宿っている。
「……それは危険よ、アリス。あの人は、姿形を変えたくらいではすぐに見破ります」
緩やかに告げられたその声には、断固とした拒絶よりも、むしろ痛みを伴う警告の色があった。
しかし、アリスは一歩も退かなかった。
「今回は……うまくやります。もう、前のようにご迷惑はかけませんから――お願いします」
言葉を選ぶようにして、それでも最後は押し出すように小さく息を継ぐ。
「……少しだけ、どうしても確かめたいことがあるんです」
その表情には切実さと危うさが同居していた。
アランはじっと彼女を見つめる。
きっと――今、脳裏をよぎっているのは、あの十数年前の出来事だ。
まだ子供だったアリスが、会いたさ一心でブラック家の屋敷に忍び込み、メイドに姿を変えて自分の前に現れたあの日。
手際も幼稚で、瞳の輝きは隠し切れず、
そして――あの人、レギュラス・ブラックは、容赦なく真実を暴き立てた。
その代償は、子供だった彼女の心と身体に、忘れがたい烙印として残ったはずだ。
しばし、二人の間を沈黙が覆う。
噴水の水音がやけに遠く、ゆるやかに時の流れを引き延ばしている。
……けれど、目の前のアリスはもうあの頃の子供ではない。
頬の線も、瞳の色も、十年以上の歳月が与えた強さで形作られている。
かつての無謀な衝動とは違い、今回は冷静さと技量をもって臨もうとしている――
そう、彼女自身がわかっている限り、同じ失敗は繰り返さないつもりなのだ。
アランはゆっくりと息を吐いた。
その吐息には、諦めとも信頼ともつかない温度が混じっている。
「……あなたは、本当に変わったのかもしれないわね、アリス」
微かな微笑とともに、その瞳が問いかける――
「けれど、本当にその覚悟で立ち向かえるの?」と。
アリスは、その視線をまっすぐに受け止めた。
もう逃げも隠れもしないという強さを、その瞳いっぱいに湛えて。
午前の光が、テラスの白いテーブルクロスに柔らかく広がっていた。
アランは椅子を引き、その場を立ち去る準備をしながら、向かいに座るアリスをじっと見つめている。
「……じゃあ、私は別の場所で、適当に時間を潰しているわ」
アリスは短く頷き、ポケットから小さな瓶を取り出した。
その中で琥珀色の液体がとろりと揺れ、光を受けて微かにきらめく。
彼女は迷いなくそれを一口含み、喉を通す。
たちまち、髪が流れるように伸び、色が変わり、顔立ちの輪郭が整っていく。
姿見もないのに、その変化は指先や視界の端にまで確かに感じられた。
魔法をかけ、着ていた服もアランが纏っていたものと寸分違わぬ姿に整える。
「アリス……くれぐれも危ないことはしないで」
アランの声は低く、真剣だった。
変わりきったその外見を見つめながらも、視線の奥にある表情は変わらない。
それは相手を諭す大人のそれであり、心配をどうしても隠しきれない人の目だった。
アリスは、その目をまっすぐに見返す。
「はい。……アランさんに、何度も救われたこの命ですから。無茶はしません」
その瞬間、胸の奥に不意に熱が満ちた。
――この目、その声、その心配げな色が、ずっと恋しかった。
幼い頃から、自分にはいなかった“母”という存在。
優しさや温もりを手に入れることができる場所を知らぬまま育った自分にとって、
アランは、間違いなく母そのものだった。
心配され、見守られることが、こんなにも甘く、嬉しいものだと――今、素直に思う。
これが、ずっと欲しかったものなのだ、と。
アランはしばらくアリスの瞳を探り、それから小さく頷いて背を向けた。
離れていくその後ろ姿を目で追いながら、アリスはひとつ深く息を吸った。
外見は同じでも、この感情だけは変わることがない――
そんな確信と共に、彼女は静かに歩き出した。
魔法法廷の奥へと続く石畳の回廊は、人の往来も多く、魔法灯に照らされた壁面に淡い影が流れていた。
アリス――いや、外見だけは完璧にアラン・ブラックとなった“彼女”は、その中を迷いなく歩いていく。
しかし胸の奥では、心臓の鼓動がひとつごとに熱を帯びていくのを感じていた。
見慣れない衣擦れの感触。足取りの軽ささえも、アランのものを真似ている。
けれど、こればかりは真似のしようがない——奥底にある自分の気持ちは、どうしても抑えきれないのだ。
角を曲がった先、開け放たれた重厚な扉の向こうに、黒い外套の背が見えた。
紛れもなく、レギュラス・ブラック。
何人かの法務官たちと短く言葉を交わし、ゆるやかに歩みを進めている。
アリスの喉が、不意に乾く。
——前の失敗の記憶が、嫌でも蘇る。
あの時は、ほんの数秒で正体を見抜かれ、言葉を尽くす間もなく打ち砕かれた。
しかし今回は違う。十年以上を経て、準備も、覚悟も、すべて整えてきた。
彼がこちらに気づくまでの、ほんの数歩。
魔法法廷のざわめきが遠ざかり、世界が二人だけに収束していくようだった。
——アランの姿として、彼の瞳を真正面から受け止めなければ。
そうでなければ、この一歩のために積み重ねた時間も、勇気も、すべて意味を失う。
レギュラスの視線が、ゆっくりとこちらに向く。
黒曜石のようなその目が“妻”を認めた瞬間、微かに柔らぐのを見て、アリスの胸に緊張と別種の痛みが同時に走った。
大理石の床に反響する靴音が、近づくたびに静かな振動となってアリスの足元を揺らした。
やがて、その黒い外套の主――レギュラス・ブラックが立ち止まり、柔らかな声を落とす。
「……アラン、カフェで待っていると思いましたが。遅くなりましたね」
その声音には、驚くほどの棘のなさがあった。
まるで、長い任務から帰宅し、そっと妻を気遣う夫のような――優しさだけを滲ませた響き。
――こんな風に話す人だっただろうか。
アリスは戸惑いと違和感を押し殺し、微笑を浮かべる。
「ええ……少し、心配で」
アランなら、きっとこう言うだろうと想像し、そのまま言葉にした。
レギュラスは軽く頷き、視線をわずかに外へ向けながら、ゆっくりとジャケットの内ポケットに手をやった。
布地の下で指が何かを確かめ、するりと差し入れ、再び整える。
一瞬――その所作だけで、アリスの全身に稲妻のような確信が走った。
――あれは、小切手。
それも、魔法法務大臣と交わした取引の控えに違いない。
あの羊皮紙を、この手にさえ収めることができれば……
世間に公表できれば、今回の決定を覆せる。
そして同時に、レギュラス・ブラックという完璧な名声に、深い傷を刻むことができる。
息を整え、アリスは視線を彼の瞳から逸らさぬようにした。
笑みを保ちながら、脳裏ではすでに手順を組み立てている。
わずかな隙――ほんの瞬間でいい。
その機をどう作るか。どう奪うか。
柔らかな会話の裏で、言葉に乗らない緊張が、二人の間に音もなく立ちのぼっていた。
彼の指が再びポケットから離れるまで、アリスは心臓の高鳴りを意識し続けていた。
大理石の廊下に並ぶ魔法灯が、二人の影を長く伸ばしていた。
アリス――外見は完璧にアラン・ブラックとして――は、わずかに上目遣いでレギュラスを見上げる。
「……少し、どこか寄りませんか?」
レギュラスは一瞬だけこちらを見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「ずいぶんカフェで待たせたでしょうに。……まだ飲めます?」
不審に思われてはいけない。
あくまで自然に、夫婦の何気ない会話の形で。
――けれど胸の奥では、レギュラスのジャケットの内ポケットに忍ぶ“小さな羊皮紙”の存在が脈打つように意識の中心にあった。
魔法法務大臣との取引の証。それを奪うための隙を、どう作るか。
返答を探している間に、レギュラスがそっとアリスの腰に手を添えた。
何のためらいもなく、自然に。
アランという妻に向ける、ごく当たり前の仕草なのだろう。
しかしアリスにとっては――その温もりすら、肌にざらつく。
男にこんな風に触れられた経験などなく、それが甘い情の形だと知っていても、胸の奥に生理的なむず痒さと違和感が広がっていく。
彼の指先から伝わる重みが、妙に生々しい。
この距離感の中で、平然と会話を続けることがこんなにも難しいとは――
「……では、塔の上のカフェに行きますか」
レギュラスの提案は柔らかく、まるで彼女の望みを汲み取ったかのようだった。
アリスは、わずかに唇を上げた。
「ええ……そうしましょう」
その言葉を口にした瞬間、心の奥で別の声が呟く。
――そこなら、きっと隙ができる。
石造りの螺旋階段の先に待つ高台のカフェ。
二人の歩調が揃い、腰に添えられた手の圧がわずかに強まるたび、アリスの中では緊張と計算が静かに絡まり合っていった。
塔の上へと向かう魔法エレベーターが、静かに上昇を始めた。
磨き込まれた真鍮の扉が閉まる寸前、数名の魔法使いが乗り込んでくる。
その顔ぶれは――おそらく、ブラック夫妻をよく知る者たち。
「アラン様、ご機嫌よう」
「レギュラス卿、お久しぶりです」
視線がこちらに集まる瞬間、アリスは胸の奥で息を飲み込み、微笑を浮かべた。
――アランなら、どう答える?
その所作を想像し、声を震わせぬよう努力する。
「ご機嫌よう。先日はありがとうございました」
自然を装い、柔らかく会釈を交わす。
心臓は速く打っているのに、その鼓動を表に出さぬよう、手指の動きを最小限に抑えた。
短い世間話のやり取りを重ね、他愛のない笑みを浮かべながらも、
頭の中では一刻も早くこの場から逃れる算段を組み立てる。
やがて、相手が降車階を迎え、軽い別れの言葉と共にエレベーターから降りていった。
わずかな安堵が胸を撫でる。
静寂が戻ったその瞬間、レギュラスがわずかに身を寄せた。
耳元に落とされた声は、低く、それでいて柔らかい。
「……あの人、数ヶ月前に会った時は、もう少し髪の毛ありましたよね」
ふ、と笑う息が耳のすぐそばでこぼれ、目尻が優しく細められる。
アリスは、首筋から耳の奥にかけて、ぞわりとした感覚に捕らわれた。
――こんな風に、自然に笑って会話をするレギュラス・ブラックを、自分は知らない。
これまで思い描いていた彼は、鋭く、支配的で、
大切なアランを雁字搦めに縛る存在だった。
なのに今、目の前にいるのは――どこにでもいる、ありふれた夫婦の姿。
互いにだけわかる冗談を交わし、小さく笑い合う。
ぎこちなさを隠すように、アリスも口元を緩めた。
合わせて笑う。その形は真似られても、胸の奥までは、うまく真似できない。
笑みの裏で、どこか定まらない痛みが胸を締めつけていた。
それは嫉妬とも、戸惑いとも名のつかない――ただ、途方に暮れるような感覚だった。
エレベーターは、なお静かに上昇を続けていた。
扉の向こうに待つ景色よりも、隣に立つ男の横顔から目を逸らす方が、今のアリスには難しかった。
魔法エレベーターが静かな音を立てて停止し、扉が左右に開いた。
外の光が差し込み、石で組まれた塔の最上階の回廊が目の前に広がる。
吹き抜けからは、遥か下の街並みと、きらめく川面まで見渡せた。
レギュラスは何事もなかったかのように、アリス――いやアランの姿をした彼女――の腰に手を添えたまま、
エレベーターから降りて回廊へと歩き出す。
その所作の自然さに、アリスの背筋がじわりとこわばる。
「……あちらですよ」
彼が示した先には、塔の縁に設けられたカフェテラス。
黒いアイアンの手すりと丸いテーブルが整然と並び、空の蒼さを背景に涼やかな風が通り抜けていく。
案内された席に腰を下ろすと、レギュラスは店員に何か短く注文を告げ、外套を椅子の背にかけた。
そしてそのまま、胸ポケットに触れる一瞬の仕草――
アリスの視線がそこに吸い寄せられる。
確かに、あの内側に――小切手がある。
魔法法務大臣との取引の証、今回の決定を覆し、彼の名声ごと引きずり落とせる鍵。
アリスは深く息を吸い、心の中でタイミングを計った。
笑顔を保ちながら、カップやナプキン、あるいはテーブル越しのやり取りで彼の意識を一瞬逸らせる――その隙をつくるために。
その時、レギュラスがふと窓の外を見やり、
「今日は空がよく晴れている。……下界の喧騒もここまで届かない」
と、何気ない調子で呟いた。
ごく普通の夫婦の会話。
しかしアリスの耳には、まるでその穏やかさが罠のように響く。
この穏やかで隙のない男から、本当に奪えるのか――そんな不安と焦燥が胸の奥でせめぎ合っていた。
それでも、来たのだ。
この瞬間のために。
アリスは小さく笑って相槌を打ち、テーブルの中央に手を伸ばしながら、
――次の一手を、密かに準備した。
レギュラスがカフェの店員と短く言葉を交わし、二人のテーブルに紅茶と軽い菓子を運ばせる。
銀のポットから湯気が立ちのぼり、カップに注がれる香りが一瞬、緊張にこわばるアリスの神経を緩めそうになる。
「どうぞ」
差し出されたカップを受け取り、アリスは微笑で応える。
だがその胸の奥では、意識の半分以上がまだ――彼の胸ポケットに向けられている。
レギュラスはふと席を立ち、テラスの手すりまで数歩歩を進めた。
眼下には魔法省の街路が広がり、魔女や魔法使いたちが蟻のように行き交っている。
「……ここからだと、本当に世界が遠く見える」
そんな小さな独り言が風に溶けた。
今だ――。
アリスは膝の上のカップをそっと置き、
何気ないふりで席を回り込み、彼の外套の背に掛けられたジャケットの胸元へと手を伸ばす。
指先が布の縁にかかり、目指す内ポケットの感触が近づく。
あと一呼吸で――
「……アラン」
名を呼ばれ、アリスの動きが瞬間的に止まった。
振り返ったレギュラスの表情は、柔らかい。
だがその瞳の奥に、一瞬、探る光がきらりと走った。
「どうかしましたか?」
微笑を崩さず問いかけるその声が、妙に耳に冷たく響く。
アリスは咄嗟にカフェの景色へ視線を向け、
「ええ……ちょっと、景色をよく見たくて」と取り繕った。
指先から、わずかに冷や汗が滲む。
彼は何事もなかったように再び視線を外し、テーブルへ戻った。
だが――アリスにはわかる。
今の一瞬で、隙を作る難易度は幾分か上がったのだと。
それでも、諦める気はなかった。
紅茶を口に運びながら、アリスは再び計算を練り始めた。
この穏やかな空気の裏にある、見えない駆け引きの火花を悟られぬままに。
塔の上のカフェ、その一角にある半円形のカウンター席は、二人の肩を自然と触れ合わせるほどの近さしか許さなかった。
背後には高い窓、目の前には真鍮のカウンタートップ――けれど、アリスにはその景色すら視界の端に霞んでいた。
レギュラスがふと身を寄せ、アランの姿をした彼女の首筋へと顔を埋める。
次の瞬間、そこに温かく湿った感触が落ちた。
生理的な嫌悪感が、鋭く背骨を走り抜ける。
憎くて仕方のないレギュラス・ブラックの唇が、自分の肌を「這う」。
しかも、それはアランに向けた仕草のはずなのに――中身である自分は別人だと知っているのに――決して耐えられるものではなかった。
「……レギュラス、人前だわ……」
精一杯、アランらしく穏やかに、けれど一歩退くような声で抗議する。
「誰も見ませんよ」
甘さを混ぜた低い声。
しかし、そういう問題ではない――今すぐにでも、この男の腕を振りほどきたかった。
「……レギュラス……」
名を呼ぶことさえ、拭えない嫌悪のせいで喉が震えそうになる。
もう一度はっきりと拒もうとした――その瞬間だった。
唇が、不意に重なる。
拒絶の言葉を押し戻すように、逃げ場を塞ぐ強引な口づけ。
初めてだった。
男という存在と、自分の唇が触れ合うことが。
胸の奥が、不意にひどく痛む。
この瞬間を、初めては――本当に愛した人としたい、と淡く思い描いてきたのに。
夢に描いた初めての口づけは、もっと優しく、もっと心を温めるはずだったのに。
今、与えられているのは、生々しくて、重たくて、恐ろしくて、心を削るばかりの現実。
唇に触れる感触が、まるで引き剥がせない鎖のように思え、涙が込み上げそうになる。
彼の影が覆いかぶさる中、アリスは必死に表情を保つ。
アランの外見を崩さぬように――けれど、中の自分は震えながらその時をやり過ごしていた。
自分の意思と無関係に奪われた初めてが、こんな形で刻まれてしまったという痛みだけが、唇に残った。
「……嫌でした?」
低く落ち着いた声だった。
唇が離れた直後、レギュラスは短くそう問いかける。
アリスは、反射的に、慌てて首を振った。
悟られるわけにはいかなかったから。
この中身が“アラン”ではないことなど、一片たりとも気取られてはいけない。
微笑を作る――それが自分を守る唯一の盾だった。
けれど、その小さな仕草の奥で、レギュラスの瞳には薄く影が差していた。
どこか、違う。
一つひとつは取るに足らない違和感。
笑みの温度、言葉の間、手の置き方。
だが、その些細なずれが幾十にも積み重なった先に、確かな「異物感」がある。
そして――先ほどのキスの時。
あの固く唇を閉ざした反応は、これまでのアランにはなかった。
これまで何度も確かめてきたはずの感触から、決定的に外れていた。
レギュラスは、その瞬間の感覚を引っ張り出すように心の内で反芻してしまう。
何か――テラスのカフェで、見聞きしたのだろうか。
あるいは、誰かに会って、面倒なことを吹き込まれたか。
今日の出来事が頭をよぎる。
マグル生まれの魔法使いのための学校設立案が可決されたこと。
混血のオブスキュラスのための墓の建設計画について、自分が否認を通したこと。
そのどちらも、アランにはできる限り踏み込ませたくない領域だった。
だからこそ、彼女が何かを知り、それが今の態度に影を落としているのでは、と考えてしまう。
レギュラスは視線を逸らし、ふっと息をついた。
言葉にはしない疑念が、静かに胸の底に沈殿していく。
だがテーブルに置かれた彼の手は、あくまで自然にアランのそれへと重なったままだった。
あたかも何も変わっていないかのように――けれど、その掌には探るような僅かな圧がこもっていた。
キスが終わった後の空気が、やけに濃く感じられた。
自分の頬が、すでに熱で染まっているのがわかる。
――たぶん、隠せていない。動揺が、顔に出てしまっている。
恋人がいれば、きっと誰もが一度は経験するものなのだろう。
けれど自分は、まだ知らない世界だった。
だから想像もできない。
世の恋人や夫婦たちは、このあとはどんな表情をし、どんな言葉を交わすのか。
笑うのか、それとも静かに見つめ合うのか――それさえもわからない。
現実は、そんな甘い絵のどこにもなかった。
唇にはまだ、レギュラス・ブラックの生々しい感触が残っている。
本当は今すぐ、指先で拭い去ってしまいたい。
この皮膚から、熱ごと抹消してしまいたい。
けれど、そんな素振りを少しでも見せたら終わりだ。
精一杯、外見だけは何事もなかったかのように振る舞う。
それが、今この場で生き残るための唯一の術だった。
心臓は、さっきからずっと早鐘を打っている。
どく、どく、と、耳の奥で鼓動が大きく響き、
息の仕方まで忘れそうになる。
レギュラスが手を動かすだけで、その気配がすぐに全身の筋肉をこわばらせる。
視線を向ければ、その黒い瞳は相変わらず柔らかく微笑んでいて――
そのギャップこそが、いちばん危うい罠に見えた。
構えてしまう。
ほんの指先の動きも、声の抑揚も、呼吸の間合いまで。
すべて、次に来るかもしれない行動への予兆として無意識に読み取ってしまう。
アランの顔をして座っているけれど、
内側の自分は、獣の前の小動物のように張り詰め切っていた。
その緊張は、紅茶の湯気や午後の光さえ届かぬ場所で、
じわじわと胸を締めつけ続けていた。
