4章
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朝の光が大きな窓から差し込み、ブラック家の食卓を白く照らしていた。
磨き込まれた銀の食器、深い青のクロス、蒸気を立てる紅茶の香り――
しかし、その華やかさの中で、アランはほとんど手をつけることなく皿の前に座っていた。
ここ最近、食欲はさらに落ち込んでいた。
スプーンを動かす指先に、かすかな力の衰えを感じる。
胸の奥に薄く広がる疲れは、ただの寝不足や体調不良ではないことを、本人が一番わかっていた。
「……アラン」
正面に座るレギュラスが、紅茶を口にし、穏やかに続ける。
「アルタイルとイザベラの式の日取りや、アルタイルの衣装のこと……そろそろ手をつけ始めましょう」
「……ええ。準備を進めますね」
アランは、努めて微笑みを浮かべて応えた。
アルタイルは、もうすぐホグワーツを卒業する。
その後はすぐ、イザベラ・レインズフォードをこの屋敷に迎え入れる。
かつて自分とレギュラスがそうであったように――豪奢で優雅で、そして一片の隙もない式を。
それは、ブラック家の誇りとして当然のことだった。
けれど、体は日増しに言うことを聞かなくなっている。
いつもなら食後に手を伸ばしてつけるカーテン開閉の呪文や、花瓶の水を替える造花活性の呪文すら、魔力が足りず、途中でかすれて消えることが増えた。
杖に力を込めても、先端から飛び散るのは頼りなく揺れる光の雫だけ。
魔女でありながら、まともに魔法を紡げない――
情けなさと悲しみが混ざり、静かに胸を焦がす。
だが同時に、別の感情が顔を覗かせた。
“魔女であることを誇りに思う”――その誇りゆえに、できなくなることが屈辱に変わる。
それは、マグルよりも魔法族の方が優れているのだとする、選民思想とどれほど違うのだろう。
自分は……いつの間にか、そういう誇りを当然のように抱いていたのかもしれない――。
その気づきに、アランは静かに衝撃を受けた。
かつて、シリウスと夢見たことがあった。
マグルも魔法使いも関係なく、分け隔てなく手を取り合い、共に歩む世界。
それを信じ、誓い合い、未来を語ったはずだった。
けれど……自分の中にはすでに、純血主義に似た根が、深く、静かに根付いていたのだ。
ただ、その残酷さに気づかないよう、シリウスへの恋心という蓋をかぶせていただけだった――。
それは、自分の手でその夢を裏切っていた、あまりにも冷酷な事実だった。
アランは小さく息を吐き、視線を落とす。
カップの琥珀色が揺れ、その中に映る顔は、ほんの少し見慣れない他人のように見えた。
朝の光がカーテン越しにやわらかく差し込み、薄い絹のカーテンが揺れていた。
レギュラスは廊下を急ぎ足で進み、アランの部屋の前でノックもそこそこに扉を開けた。
任務へ向かう前のわずかな時間――だが、その足を止めさせたのは、使用人からの報告だった。
『奥様は以前にも増して食欲が落ち、昼間も伏せっておられます』
淡々と告げられた声が耳に残り、彼の胸の奥に鋭い違和感を残した。
部屋の中は、整えられたままの寝台と、窓辺に置かれたティーカップのかすかな香りが漂っている。
アランは椅子に腰掛け、薄いショールをかけていた。
その姿は一見いつも通りだが、頬の下にかすかな影が落ちている。
「……アラン。体調が優れないのなら、なぜ言わないんです?」
低く抑えた声だが、その奥には明らかな苛立ちと心配が混じっていた。
アランは振り返り、わずかに首を傾げながら微笑んだ。
「そこまで大袈裟なものじゃないわ」
「……そういうことではありません」
即座の切り返しは、彼女の軽さを否定するように冷ややかだった。
間を置き、アランは少し視線を泳がせた。
「……最近少し……夜が遅かったから。寝不足かもしれません」
その言葉と共に、柔らかく微笑む。
確かに――レギュラスは、夜遅く任務から戻った後でも、眠っている彼女を起こしてまで求めることが続いていた。
それを理由にされれば、答えを飲み込まざるを得ない。
けれど、それはあまりにも表面的な言い訳に思えた。
彼女がわざわざそのことを口にするのは、本当の不調の理由を上手く霞ませ、話を逸らすためではないのか――。
その意図を察した瞬間、レギュラスの胸に冷たい感触が広がった。
彼は一歩近づき、アランの視線を正面から受け止めた。
笑みを保とうとするその顔が、ほんの僅かに硬い。
窓からの光が、彼女の横顔を透かすように淡く照らし、その下に隠しきれない疲労の色を浮かび上がらせていた。
「……本当に、それだけなんですか」
そう問いかける声は、優しさと探る鋭さの境目で揺れていた。
応接間の窓から、午後のやわらかな陽が差し込み、テーブルクロスの白を温かく照らしていた。
アランは整然と並べられた書類の束を手元に置き、アルタイルの礼服の布地見本や、参列予定者の名簿を一枚ずつそっと広げていた。
その隣には椅子を並べて座るアルタイルとイザベラ。
柔らかな空気の中で、ふとアルタイルが母を見つめ、眉をひそめた。
「……母さん、顔色が悪いですが」
アランは小さく首を振り、微笑を薄く保つ。
「ちょっと……寝不足でして」
その答えは軽やかに見えたが、深く覗き込めば、指先や頬の色にはかすかな疲労と翳りがあった。
アランの視線は、自然にイザベラへと向く。
細い肩と真剣な瞳——その姿にかつての自分の若き日を重ねた。
この家に嫁ぎ、息が詰まるような日々を過ごした記憶が胸に疼く。
イザベラには、同じ苦しさを絶対に味わわせたくない。
アルタイルとともに、二人の歩みに自分たちの影は重ねず、自由に人生を進めてほしい。
生まれてくる子が男児であろうとなかろうと、誇りや義務ではなく、互いに支え合って生きてほしい。
アランはゆっくりと姿勢を正し、穏やかな声で呼びかけた。
「……イザベラ、よく聞いてください」
「はい、アラン様」
イザベラは背筋を伸ばし、真っ直ぐに返事をした。
「私はあなたたちに多くは望みません。……どうか、二人で支え合える夫婦になってほしいのです」
その言葉には、アラン自身の痛みが滲んでいた。
もしかしたら、アルタイルにもイザベラにも、それぞれ別に心を寄せる相手がいるかもしれない。
かつて自分がシリウスを思ったまま、この家に嫁いだように——。
そしてもしそうならば、かつての自分とレギュラスのように、疑念と猜疑が互いを蝕み、傷つけ合う日々が訪れるかもしれない。
それだけは、避けてほしかった。
「アラン様……ありがとうございます」
イザベラの声は、しっとりとした誠意を帯びていた。
「アルタイル様と一緒に、穏やかに支え合える日々を送っていけるよう、努力いたします」
アランは静かに頷き、柔らかく微笑む。
「……アルタイルを、私たちは大切に育ててきました。
どうか、あなたの手で、彼を支えてあげてください」
イザベラは深く礼をした。
長いまつげが伏せられ、仕草の中に真剣な決意が見える。
その横でアルタイルが母を真っ直ぐに見つめ、小さく頷いた。
陽光が三人をやわらかに包む。
その光の温もりが、この先も二人の上に降り注ぎ続けることを、アランは心の奥底で静かに祈っていた。
応接間を出た後も、アルタイルの胸の奥には、先ほど母がイザベラに語った言葉が柔らかく留まり続けていた。
「二人で支え合える夫婦になってほしい」――その響きは、温かな灯のように心の深いところを照らしている。
自分のために、そしてイザベラのために。母は本気でそう願ってくれているのだと、疑いの余地もなかった。
母は、きっとシリウス・ブラックをずっと心に思い続けてきたのだろう。
しかしその想いがありながら、父・レギュラスの隣に静かに立ち続けた。
自分とセレナの母として、そしてブラック家の一員として、長い年月その名と誇りを守り抜いてきたのだと思う。
それでも、父と母が時に、子どもたちの知らないところで激しくぶつかり合ってきたことも分かっている。
互いを試し、疑い、すれ違った年月が、きっと少なくなかったはずだ。
だからこそ――母は、自分たちには同じ道を歩ませたくないと願っているのだろう。
けれど……母の幸せはどこにあるのか。
アルタイルの心にその問いがひそやかに生まれる。
父の隣に立ち続けること、それが果たして母にとって本当の幸せと呼べるのだろうか。
時折その答えが、わからなくなる。
「自由になってもいい」――そう口にしたら、母は本当に、自分や父の前から姿を消してしまうかもしれない。
その想像があまりにも鮮やかに心へ迫り、言葉は喉の奥で固く凍りついた。
そして気づく。
結局のところ、自分も父と同じなのだ。
母という女性を、この屋敷に、このブラック家という檻に、必死に繋ぎ止めていたいと望んでしまっている。
その存在を、誰にも渡したくないと願ってしまう。
窓の外で陽が静かに傾き始め、長い影が廊下に伸びていた。
アルタイルはその影の中で立ち尽くし、胸に残る母の言葉の温もりと、自分の中のわずかな罪悪感を抱きしめるように、静かに息をついた。
夕暮れの色が、玄関ホールの窓ガラスを淡く染めていた。
任務から戻ったレギュラスはマントを外し、手袋を外す仕草も簡素に、廊下を進む。
その途中で、向かいから歩いてきたアルタイルと出会った。
「今日、式の準備を母とイザベラと共に進めていました」
息子の報告に、レギュラスは立ち止まり、視線を和らげる。
「そうですか。……なるべく、イザベラの希望を通してやるようにしてあげてください。
オリオンやヴァルブルガはかなり仕切り屋でしたから」
その名を聞いた瞬間、アルタイルは、なんとなく察した。
父と母の結婚式では、きっと母の意見や希望は一つも通らなかったのだろう。
どんな装飾も、どんな段取りも、祖父母の意のままに定められたはずだ。
そして母は、それに微笑んで頷きながら、全てを呑み込み、諦めてきたのだ。
胸の奥に小さな痛みが走る。
だからこそ、自分は違う夫になりたい――
イザベラの声をきちんと聞き、小さな願いも拾いあげられるように。
「母さんに言われました。……イザベラと支え合える夫婦になってほしいと」
その言葉を口にすると、レギュラスは一拍おいてから、静かに笑みを見せた。
「もちろん、僕もそう思っていますよ」
その声は穏やかだったが、アルタイルの胸には、次の問いが浮かんでいた。
――父さんは……今でも……。
あの件で。
シリウス・ブラックのことをめぐって、母を心の底からは許していないのではないか。
何年経っても消えないわずかな棘のような思いを、まだ抱えているのではないか。
だが、言葉は喉を越えなかった。
問いかけてしまえば、父と母の間にある埋められなかった溝を、改めて自分に突きつけることになる。
母の苦しみと、父の執念。
決して交わらず、互いに孤立したまま漂い続ける二つの想いが、自分の中に冷たい像として刻まれるのが、耐えられそうになかった。
だからアルタイルはただ、短く頷くだけに留めた。
廊下の奥から差し込む淡い光が、父の肩越しに滲み、二人の間にある言葉にできない距離を静かに映し出していた。
深夜の食堂には、暖炉の火のほかに灯りはなく、赤みを帯びた炎が食卓の銀器やグラス越しに柔らかくゆらめいていた。
レギュラスの前のグラスには、深紅のワインがゆったりと波を立てている。
「……あなたも飲みます?」
ワインを軽く揺らしながら問うと、アランは静かに首を横に振った。
その仕草の穏やかさの奥に、体調がいまだ快復していないことが滲む。
レギュラスは、胸の奥にじわりと広がる心配を、胃の底に沈む鈍い痛みに似た感覚として覚えた。
「ああ……アルタイルとイザベラとで、式の準備を進めてくれているそうですね」
言葉を選ぶように問いかけると、アランが微笑んだ。
「ええ。二人とも、一生懸命選んでいましたよ……愛らしい姿でした」
その微笑みは、穏やかで、温かくて――そしてどこか遠い。
それでもレギュラスは、その表情を見られたことが嬉しかった。
こんなにも長い年月を、彼女と共に歩むことができたのだと噛みしめる。
アルタイルはもう十七になり、間もなくホグワーツを卒業する。
彼とアランとで築いてきた年月も、それと同じだけ積み上がってきた。
「……長いようで、あっという間でしたね僕たち」
そう口にすると、アランはこくりと頷く。
「ええ、本当に……私も、随分と歳を取りました」
その言葉の内容とは裏腹に、彼女の佇まいからは年月の重みがほとんど感じられない。
惚れているからそう見えるのかもしれない。
けれど社交界に出れば、今でもアランは常に耳目を集め、称賛を浴びる存在だ。
その輝きが、自分の隣にあること――それは密やかな誇りだった。
「……相変わらず綺麗ですよ、あなたは」
レギュラスがそう告げると、アランは肩を揺らし、唇に小さな笑みを浮かべた。
「あなたはそれしか言わないものね」
欲目だと言うような口ぶりに、互いの間にほのかな温度が流れる。
本当に、自分でも驚くほどだ。
この女を生涯、変わらずに美しいと思い続けてこれたことを。
シリウスのものだったからではない。
振り向かないものを力ずくで手に入れたからでもない。
ただ――心の底から好きだった。
もし願いが叶うなら、シリウスの婚約者でもなく、彼女が彼を愛したこともない別の世界で出会いたかった。
最初から普通の男女として向き合い、アランの心にシリウスという影が棲むことなく、ただ真っ直ぐな恋を重ねられた世界で。
だが現実の彼女は、シリウスを愛したアランだった。
だからこそ、その愛しさは時に憎しみや嫉妬と絡み合い、自分を焦がし、彼女を傷つける日々もあった。
もし、その影がなければ――もっと澄んだ、美しいだけの愛情を、真っ直ぐに注ぐことができたのだろうか。
暖炉の炎が二人の横顔を温かく照らし、赤ワインの表面にわずかな光が跳ねた。
レギュラスはそれを見つめながら、胸の奥の甘さと苦さを、ひと息に飲み下すようにグラスを口に運んだ。
アランは、レギュラスがワインを口に運ぶその横顔を、静かに見つめていた。
炎の灯に縁取られた横顔は、昔から変わらぬ鋭さと、年月を経て増した静かな重さを携えている。
「……そんなにじっと見られると、飲みにくいですね」
レギュラスが僅かに視線を動かし、冗談めかした声で言う。
アランは小さく笑った。
「いいえ。ただ……あなたとこうして静かに過ごすのも、久しぶりだと思って」
その言葉に、レギュラスの胸の奥が微かに揺れた。
任務に出ている時間、家を空ける日々、すれ違いもあった。
だが今、この静けさは確かに二人だけのもので、その事実が甘く沁みてくる。
「……僕はですね、アラン」
ワインのグラスをそっと置き、彼はまっすぐに彼女を見た。
「何年経っても、あなたを綺麗だと思うし……同じだけ、愛しているつもりです」
アランは視線を受け止め、小さく瞬く。
その瞳には、感謝とも切なさともつかない光が揺れていた。
「……ありがとう。でも、私……あなたに何をお返しできているのかしら」
「そこにいてくれれば、それでいい」
即答する声には、迷いなど一つもなかった。
長く共に過ごす中で重ねられた傷や溝、それらは簡単に消えることはない。
それでも――この瞬間、レギュラスにとっては、ただこの女が自分の傍に座っていてくれることだけが、すべての価値だった。
アランはその静かな熱を肌で感じ、視線を炎へと移した。
語られぬ想いが重なり、二人の間に漂う空気は、甘やかで、それでいてほんの少し切なく締めつけるような温度を帯びていた。
レギュラスは、ワインのグラスを置くと、炎の前に座るアランの方へとゆっくり身を傾けた。
暖炉の光が木目に沿って揺れ、二人の影がテーブルの上で重なり合う。
「……あなたの手を、いいですか」
低く囁くように言って、その細い手をそっと取った。
アランの手は温かい――だが、その奥に微かな力の抜けを感じる。
それは体調の衰えなのか、それとも長い年月を重ねてきた今だから触れられる柔らかさなのか、彼自身にも判別できなかった。
指先を絡めたまま、しばらく何も言わず、その感触だけを確かめる。
アランは不思議そうに彼を見つめ、それから小さく微笑んだ。
「……こうしてあなたに手を握られると、歳月の長さを感じます」
レギュラスはほんのわずかに眉を和らげた。
「僕は逆です。……最初にあなたの手に触れた日のことを、今も全く忘れていません」
アランの視線が、彼の瞳を探るように静かに揺れる。
その奥に何が映っているのか――シリウスという影は、今も遠くに潜んでいるのか。
それでも、この手を握る今だけは、自分だけの温もりだと、レギュラスは信じたかった。
炎の爆ぜる音が、二人の沈黙を優しく包み込む。
夜は深まり、影はさらに近く寄り添い、やがて境目を失っていった。
レギュラスの指先に、確かな意志がこもる。
ただ握るだけではなく、逃がさぬよう、しかし決して痛みを与えぬよう、彼女の温もりを掌の奥に刻みつけるような、静かな力だった。
アランはその圧を感じ取り、わずかに瞳を伏せる。
拒むでも、応えるでもなく――ただ、その力を受け止める。
それは、長い年月の中で幾度も繰り返されたやり取りだった。
「行かないで」と言葉にせずに伝えてくる、この人の沈黙を知っている。
炎の明滅が彼の横顔を柔らかく削り出す。
目を細めたその表情には、愛情も、執着も、渇望も、全て同じ色で混じり合っていた。
それを見てしまうと、アランの胸には微かな疼きが走る。
――この人に繋ぎ止められている限り、どこにも行けない。
そして、自分もまた、完全に逃げることを望んではいない――その矛盾も、わかってしまっていた。
「……離しません」
炎の音に紛れるような低い声が、掌を伝って響く。
アランは顔を上げ、少しだけ微笑んだ。
「ええ……知っています」
それが慰めなのか、諦めなのか、はたまた約束なのか――レギュラスには判別できない。
だが、その言葉が落ちた瞬間、彼の掌の力は、ほんの僅かに強くなった。
夜はさらに深まり、外の世界から二人を切り離していく。
その隔たりの中で、互いの手は温もりを分かち合いながらも、
まるで互いの存在を鎖に変えるように、離れられずに絡み合っていた。
午後の光が弱まりかけた静かな室内。
薬瓶や秤が規則的に並ぶ作業台の向こうで、セブルス・スネイプは厚手のローブの袖を少し押し上げ、魔力を通す銀の匙を丁寧に拭っていた。
アランはその姿を黙って見ながら、一歩近づく。
「……先日は、魔法薬の材料を揃えていただいてありがとうございました」
深く礼をし、穏やかに告げる。
セブルスは手を止めずに、低い声で返した。
「騎士団からは……調合の器具の件で、疑いを向けられたらしいな」
アランは一瞬目を伏せ、静かに頷く。
「ええ……夫が色々と策を巡らせたそうです」
「さすがだ。寸分の矛盾もなく作り込まれたシナリオだった」
感嘆と皮肉の中間のような声音。
アランは小さく息をつき、ふっと笑う。
「……いいのか、悪いのか、果たしてわかりませんけど」
魔法薬研究会の有力者や製薬会社の重鎮まで巻き込み、
大掛かりで緻密な“善意の物語”を作って見せる――
それがすべて、騎士団や魔法省から自分への疑念を払うためだったことを、アランは知っている。
だから……きっと、あの日シリウスは屋敷に来たのだ。
真実を、直接この目で確かめたくて。
自分がどこまで闇に手を染めてしまったのか、見極めに来たのだ。
その人に、自分ははっきりと告げた。
――もう来ないでください、と。
かつてホグワーツで、最後に繋いだ手を涙と共に離したときとは違う。
今度は確固たる意志を持って、その手を取らなかった。
守るべきもののために。アルタイルやセレナ、そして……何よりレギュラスのために。
思い出すだけで胸の奥がきしみ、視界が滲みそうになる。
「……レギュラスはお前に、心底惚れ込んでいるようだ」
セブルスの声音は、淡々としているのに、どこか探るような響きを帯びていた。
アランはわずかに口角を上げた。
「私が……彼をあそこまで変えていったのかもしれません」
セブルスは目を細める。
「……お前は、あの男の強みでもあるが――弱みでもある」
その言葉が、思いのほか深く胸に残った。
確かに、そうだと思う。
誰よりも強く、冷徹に見えるあの人が――
時々、どうしようもなく情けないほど弱く、卑劣で、残酷で、恐ろしくなる瞬間がある。
かつての底抜けに優しかった少年レギュラス・ブラックを、
自分はどこまで歪めてしまったのか――そう考えると、胸が締めつけられた。
暖炉の小さな炎が、薬棚の硝子越しに赤く瞬いた。
アランはその揺れを見つめながら、静かに息を吸い、心の奥で何度目かの痛みをやり過ごした。
セブルスは、布で拭いていた銀の匙を作業台に置くと、視線だけをアランに向けた。
その黒い瞳は、相変わらず深い水面のように感情を読ませないが、その底では何かを確信している気配があった。
「……それでも、お前は彼の傍を離れないだろう」
その言葉は、問いではなく断定だった。
アランはわずかに息を呑み、すぐには返事をしなかった。
返すべき言葉が喉まで上ってきては、重さに押されて沈んでいく。
――そう、離れない。
理由は一つではない。
レギュラスを守るという約束、アルタイルやセレナの居場所を守るため、そして……
彼が自分を強く抱き寄せるときに感じる、奇妙な安堵と鎖の重さ、その両方を捨てきれないから。
愛情と支配、誇りと呪縛――そのどれが欠けても、自分と彼は今の形を保てない。
それを知っていながら、アランはこの場所から動く気にはなれなかった。
「……ええ。離れません」
ようやく搾り出したその声は、静かで、決意にも諦めにも似た響きを帯びていた。
セブルスは小さく鼻を鳴らし、それ以上は追及しなかった。
ただ背を向け、棚に薬草の瓶を戻す音が、重たい沈黙を引き裂く。
アランはその背中を見つめながら、自分でも確かめきれない感情を胸の奥に抱えたまま、
再び一歩、自分の望んだ牢の中へと足を踏み入れていく感覚を覚えていた。
春の陽光がやわらかに降り注ぐ庭園に、祝福のざわめきが満ちていた。
ホグワーツを卒業したばかりの兄――アルタイルが、ついにブラック家とレインズフォード家の未来を結ぶ式へと歩み出す日。
金と銀の装飾が施された式場には、厳かな魔法の光が流れ、客人たちの視線が一身に注がれていた。
その中心に立つ兄は、誰よりも輝いて見えた。
背筋は真っすぐ、眼差しは澄み渡り、黒の礼服がその凛々しさを際立たせている。
セレナは、胸の奥から熱が湧き上がるのを感じた。妹として、心から誇らしかった。
祭壇の向こう、父と母が並んで座り、兄を見つめている。
二人の瞳が、同じ色を帯びていることにセレナは気づいた。
それは、夫婦として長い年月を共に歩み、困難を越えてきた者だけが宿せる、深く温かな色だった。
――母の瞳には、今、シリウス・ブラックという影は映っていない。
そこには、間違いなくアルタイルを共に育て、背中で支え続けてきた父だけが映っている。
その確信が、セレナの胸を満たした。
「……かっこいいですわね、お兄さま」
思わず呟くように言うと、母が微笑む。
「ええ……王子様のようね」
セレナは少し首を傾げ、いたずらっぽく問いかけた。
「お父さまも、あんなにかっこよかったですか?」
母は迷いなく頷く。
「それはもちろんです」
その会話を、隣の父が静かに聞いて微笑んでいた。
その表情には、言葉にしない幸福がにじんでいて――絵に描いたような家族の姿が、そこにあった。
兄の背を見ながら、セレナは思う。
このまま、この家の誇りを胸に、どこまでも力強く、真っすぐに生きていってほしい。
父のように――この世界で最強の魔法使いとして、揺るがぬ存在になってほしい。
そして、シリウスへの愛を手放し、父の手を取った母の選択が、誰よりも正しかったのだと――
その生き方で、この上なく美しく証明してほしいと。
祝福の光が降るその場で、セレナの胸には、未来へと向かう確かな祈りが、静かに灯っていた。
白亜の大広間には、祝福と称賛の声が絶え間なく満ちていた。
「レギュラス様の時と同じく、素晴らしい式だ」
「まるで若き日の…」――そんな囁きがあちこちから聞こえ、笑みと拍手が交錯する。
兄、アルタイルは正面から賓客たちの視線を受け、その一つひとつを涼やかな礼で返していた。
父と比べられても遜色ない――むしろ肩を並べ、未来の家を背負うにふさわしいと讃えられる、その姿。
セレナは胸の奥に温かい炎が灯るような誇らしさを覚えた。
「お兄さま、立派ですわ」
声を掛けると、アルタイルはわずかに頬を緩めた。
「こう見えて、緊張してるんですよ」
その穏やかな響きに、幼い頃の面影がふっと零れる。
隣に立つイザベラに、セレナは裾を整えながら深く頭を下げた。
「イザベラ様……どうか私の兄を、支えてくださいませ」
イザベラはほんの一瞬驚いたように瞬きをし、それから丁寧に微笑み、深く礼を返した。
二人の間を満たす空気は、家同士の決めた婚姻の冷たさを微塵も感じさせなかった。
互いを見れば、その瞳の奥は温かく澄んでいる――本当に愛し合う者同士にしか生まれない、柔らかな光だ。
セレナの胸に、憧れに似た感情がそっと芽吹いた。
自分は――間もなくイングランド国の王子に嫁ぐ。
愛よりも何よりも、まずは尊敬が立つ関係を望んだ。
最も高貴な地位を持つ、このブラック家の女に相応しい相手。
張り合い、背を並べられるほどの力と品を持つ者。
なぜなら――愛などという揺らぐものが、この誇りを霞ませることのほうが、何よりも怖かったから。
脆く崩れ、弱さを生む愛よりも――美しく、揺るがぬ強さを選びたい。
ずっとそう思ってきた。
……けれど。
兄とイザベラが、互いを見つめ合いながら笑みを交わす、その一瞬を目にしたとき、
セレナの胸の奥で、迷いのようなものが小さくさざ波を立てた。
――自分も、嫁ぐ先で。
尊敬を超えた想いに、いつか満たされる日がくるのだろうか。
それは誇りを曇らせる弱さなのか、それとも……新たな強さになるのか。
祝福の光に包まれながら、セレナは黙って二人を見つめ続けた。
その眼差しは、誇りと憧れのあいだで静かに揺れていた。
祭壇に向かう誓約の言葉が、参列者の静寂の中で清らかに響き渡っていた。
真紅と純白の花々が揺れるたび、窓から射す淡い陽光が煌めきになって舞い込み、二人を祝福するようだった。
セレナは兄とイザベラの姿から目を離さずにいた。
その背筋の伸びた兄の横顔、その手を静かに包んでいるイザベラの指先――どちらも迷いなく、確かな未来のかたちを描いている。
ふと、視界の端に母の姿が映った。
アランは穏やかな微笑を浮かべながら二人を見つめている。
その眼差しの柔らかさに、セレナははっとする。
――まるで、自分と父の選択をこの瞬間に肯定し直し、安堵しているかのように。
アランの瞳と一瞬だけ合った。
母は何も言わなかったが、そこには「分かりますか」というような、静かに探る光が宿っていた気がした。
セレナは小さく微笑み返し、それ以上表情を崩さなかった。
胸の奥ではまだ、小さな疑問がくすぶっている。
兄とイザベラのように、尊敬を超えて愛へ至る道を、自分は歩めるのか――。
誇りと愛、その二つが相克せずに並び立つ世界が、果たして自分にも訪れるのだろうか。
誓いの口付けが交わされ、会場は大きな拍手と歓声に包まれた。
その音の中で、父と母が少しだけ互いを見る。
その瞳の色は、セレナがさきほど兄とイザベラに見た光と不思議なほど似ていた。
――いつか、自分も。
静かにそう思った瞬間、心の奥の迷いは、ほんの僅かに輪郭を失い、温かな期待のような色に変わっていった。
披露宴のざわめきの中、煌びやかな音楽とグラスの触れ合う音が広間を満たしていた。
豪奢な花々がテーブルを彩り、ゲストたちの談笑が途切れることなく続いている。
その片隅、庭園へと続くバルコニーに面した、小さな出入口の前で――アランはセレナに声をかけた。
「……少し、外の空気を吸いましょうか」
セレナは戸惑いながらも頷き、母の後についてバルコニーに出た。
夜風がふわりと髪を持ち上げ、室内の熱気をそっと拭う。
「……今日は、よく似合っていたわ。あなたのドレスも、表情も」
アランの声はやわらかく、けれどどこか探るようだった。
「ありがとうございます、母さま」
母はガラス越しに会場を振り返り、兄とイザベラが微笑みを交わす姿を目で追った。
「二人、綺麗でしょう」
セレナも同じ方向を見ながら、静かに答えた。
「ええ……本当に」
少しの沈黙の後、アランは娘に向き直った。
「……嫁ぐ先でね、尊敬できる人に出会えるのは、幸運なことです。
でも――もしその尊敬の中に、あなたの誇りを揺らすほどの想いが芽生えたとしても、恐れなくていいの」
セレナは思わず母を見つめた。
アランの瞳は、深い湖のように静かで、奥底には消せない過去の光と影が混ざっている。
「誇りと愛情は、相反するものじゃない。どちらかを捨てなければならないなんて、思わないで」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「……母さまも、そうしてきたのですか?」
慎重に投げた問いに、アランは微笑だけを返した。
「さあ、どうかしら。けれど――あなたには、私よりももっと上手くやってほしい」
胸の奥に、温かさと重みが同時に落ちる。
セレナは小さく頷き、母のこの言葉を胸深くにしまった。
遠くで兄とイザベラが歓談する声が聞こえる。
夜風の冷たさよりも、母の掌のぬくもりが確かに残っていた。
広間の扉が静かに開き、背の高い影がバルコニーへと差し込んだ。
レギュラスだった。
夜風に揺れるカーテンを背に、彼は一歩外へ出ると、二人のもとに歩み寄る。
「……こんな所にいたんですか」
低く穏やかな声。その目が、娘と妻を一度に捉える。
探るようでもなく、しかし二人の間に通った言葉の温度を嗅ぎ取るかのような、静かな視線だった。
アランは何事もなかったように振り返り、柔らかな微笑を見せる。
「少し外の空気を吸っていただけですわ」
セレナも姿勢を正し、「お父さま」と小さく頭を下げた。
レギュラスは娘の顔をじっと見つめ、その頬に残るわずかな紅潮と、目の奥の揺れを見逃さなかった。
「……寒くなります。中へお入りなさい」
そう言って、彼はセレナの肩を軽く押す。
娘が一礼してバルコニーの中へ消えていくと、夜風が一層冷たくなったように感じられた。
二人きりになり、レギュラスはアランの方へ身体を向ける。
「……娘に、何を話していたんです」
問いは穏やかに見えて、その底にわずかな張り詰めた糸が潜んでいる。
アランは夜空に目を向け、星を見上げたまま答える。
「未来のことを……少し」
レギュラスはその横顔をしばらく黙って見つめ、それから小さく息を吐く。
「……あなたの言葉は、不思議と人を縛るのか、解くのか……分からない」
「そうかしら」
アランは微笑んだ。けれどその笑みは、自分でも読み解けない複雑な色を帯びていた。
遠くから音楽と笑い声が流れてくる。
二人の間には、言葉にはしなかった思惑と感情が、夜の冷気の中で淡く絡み合っていた。
レギュラスは、室内へ戻ろうと一歩踏み出しかけたが、ふと足を止めた。
そのままアランの横に立ち、夜空を見上げる彼女の耳元へ、わずかに身を傾ける。
「……あなたは、どこへも行きませんよね」
低く、囁くような声。
問いかけの形をしていながら、それは確認ではなく宣言だった。
否を許さぬ響きに、アランは瞬きし、ゆっくりと顔を向ける。
「……ええ」
短く、静かに答える。その声には穏やかさと、どこか奥底に沈む諦めとが混じっていた。
レギュラスは視線を逸らさず、彼女の返事を胸の内で飲み込みながら、あえて何も言い足さない。
その沈黙には、言葉よりも濃い独占の意志が込められていた。
やがて、彼はアランの腰にそっと手を添えて、室内へと導く。
音楽の光と人々の賑わいが再び二人を包み込むが、夜風の中で交わした言葉と沈黙は、互いの胸に残り続けていた。
室内へ足を踏み入れると、途端に温かな光と人々の笑い声が二人を包み込んだ。
煌びやかなシャンデリアの下で、来賓たちはグラスを手に談笑を続け、音楽隊が柔らかな旋律を奏でている。
レギュラスは表情を穏やかに整え、完全な社交の微笑を口元に宿した。
しかし、アランの腕を支えるその手は、宴の喧騒の中でも決して離れようとはしない。
まるで、つい先ほど夜風の中で交わされた約束を、物理の形としてその手に刻み込むかのように。
アランは一瞬だけその力の込められた感触を意識した。
けれど視線は正面に向けたまま、同じく微笑を浮かべ、人々の会話に応じる。
彼の手の重さが、温もりであるのか、それとも鎖であるのかは――この場では誰にも、彼女にさえ分からない。
「レギュラス様、アラン様、こちらへ」
別の客人が声をかけ、二人は揃って歩き出す。
レギュラスは軽やかな足取りを装いながらも、腕を添えたままの手の位置を少しも緩めない。
賑やかな笑いの中、その掌から伝わる微かな緊張と独占の熱だけが、二人の間に密やかに流れ続けていた。
客人たちの輪の間をゆるやかに歩みながら、レギュラスは絶えず微笑を崩さなかった。
グラスを受け取り、軽く会釈を交わし、祝辞や冗談をさらりと受け流す――
その所作は完璧で、誰の目にも、愛情深く堂々とした当主と、その妻の姿にしか映らないだろう。
しかし、腰に添えられた彼の指先は、細かくわからぬほど僅かに力を込め、アランを確かめ続けていた。
それは見た者が誰も異変を覚えぬ程度の、ごくごく密やかな接触。
だが、当のアランにははっきりと、言葉にならぬ意思が伝わってくる。
人々が談笑する傍ら、レギュラスはゆるやかに顔を傾け、その声を誰にも届かせぬ深さに沈めた。
「……こうしていると、あなたがどこまでも僕のものである気がします」
吐息のような囁きは、祝宴のざわめきに溶けて消える。
アランは視線を正面に向けたまま、わずかに唇だけを動かした。
「……そう思えるなら、それでいいのではなくて?」
レギュラスは答えず、ただその手にさらに僅かな力を加える。
もはや逃れることは叶わないと、無言で告げるように。
笑みを交わす二人を見て、周囲は幸せな夫婦の姿だと疑わない。
しかし、その足元には、愛情と支配が絡み合った見えない鎖が、静かに音を立てず伸びていた。
披露宴の賑わいの中、アルタイルとイザベラがゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる姿が見えた。
もうとうに、自分の背を抜いて大きくなった息子。
その長身が、隣に立つイザベラの手を優しく引く様子は、ひとつひとつの仕草まで洗練されていて、そして何よりも優しかった。
――なんて立派になったのだろう。
胸の奥が温かさに満たされると同時に、堰を切ったように涙が込み上げてくる。
本当に、どこまでもレギュラスに似ている。
背筋を伸ばした姿も、相手を守るように寄り添う佇まいも。
けれど……その瞳は、もっと柔らかく、慈愛に満ちているように思えた。
レギュラスの瞳には、時折鋭く冷たい翳りが差すことがある。
その残酷さを、あの人に芽生えさせたのは――ほかでもない、自分だったのかもしれない。
だからこそ、アルタイルの中にはどうかそんな冷たさが宿りませんように、と祈らずにはいられなかった。
「……母さん」
呼びかけと同時に、アルタイルが両腕を伸ばす。
アランの胸に、あたたかな抱擁が包み込むように広がった。
その抱きしめ方は、ただの挨拶ではなく――今までのすべてに対する感謝を、言葉ではなく肌で伝えるためのものだった。
思わず、アランの目尻から涙が零れ落ちる。
「……アルタイル、こういう抱擁は……イザベラへしてください」
泣きながら、それでも笑みを浮かべてそう告げる。
アルタイルは少し頬を染め、照れくさそうに笑いながら腕をほどく。
傍らでイザベラが微笑み、そっと二人を見守っていた。
その光景を見つめながら、アランの胸の中には――未来への静かな安堵と、手放してはいけない絆への慈しみとが、複雑に絡まり合って温もりをつくっていた。
祝福のざわめきの中、その瞬間だけは、世界が三人だけの柔らかな時間に包まれていた。
祝宴の光とざわめきの中――
アルタイルは母の細い肩をそっと抱き寄せた。
触れた瞬間、思った。
……いつの間に、こんなに小さくなってしまったのだろう。
いや、自分が大きくなったのかもしれない。
けれど、その腕の中に感じる母の温もりは、かつての強さと同じだけ、どこかほのかな弱さを帯びていた。
胸の奥が、ふいに心細さで満ちる。
今日という日が――自分の晴れ舞台が――
この母の、長い間背負ってきたブラック家という名の重荷を、ほんの少しでも下ろさせることができただろうか。
そうであってほしいと、切に願った。
母が横でイザベラに優しく言葉をかけているあいだ、アルタイルはそっと父へと向き直った。
「……しっかり、妻を守れる男でいてくださいね」
レギュラスは片眉をわずかに上げ、それから面白そうに頷く。
「はい。父さんの血が入ってるから、心配はしていません」
「……へえ、それは頼もしい」
口元にくすくすと笑みが灯る。
そして、視線をゆっくりとイザベラへ向けた。
「……母アランの血も入ってますからね。どうか、アルタイルの手綱をしっかり握っておいてください」
突然向けられたその言葉に、イザベラは何と答えてよいのか分からず、一瞬視線を泳がせた。
微笑みかけようとして、けれどその形は少しだけ固い。
「……レギュラス、イザベラを困らせないでくださいませ。こんな晴れ舞台に……」
アランが苦笑まじりにたしなめるように声をかける。
「失礼。冗談が過ぎましたね」
レギュラスはあっさりと謝罪の言葉を口にし、軽やかに笑みを浮かべ直した。
そのやりとりの中にも、この家族として積み重ねてきた年月の呼吸が滲んでいる。
祝宴の明かりが三人を照らし、その影は長く、穏やかに寄り添っていた。
磨き込まれた銀の食器、深い青のクロス、蒸気を立てる紅茶の香り――
しかし、その華やかさの中で、アランはほとんど手をつけることなく皿の前に座っていた。
ここ最近、食欲はさらに落ち込んでいた。
スプーンを動かす指先に、かすかな力の衰えを感じる。
胸の奥に薄く広がる疲れは、ただの寝不足や体調不良ではないことを、本人が一番わかっていた。
「……アラン」
正面に座るレギュラスが、紅茶を口にし、穏やかに続ける。
「アルタイルとイザベラの式の日取りや、アルタイルの衣装のこと……そろそろ手をつけ始めましょう」
「……ええ。準備を進めますね」
アランは、努めて微笑みを浮かべて応えた。
アルタイルは、もうすぐホグワーツを卒業する。
その後はすぐ、イザベラ・レインズフォードをこの屋敷に迎え入れる。
かつて自分とレギュラスがそうであったように――豪奢で優雅で、そして一片の隙もない式を。
それは、ブラック家の誇りとして当然のことだった。
けれど、体は日増しに言うことを聞かなくなっている。
いつもなら食後に手を伸ばしてつけるカーテン開閉の呪文や、花瓶の水を替える造花活性の呪文すら、魔力が足りず、途中でかすれて消えることが増えた。
杖に力を込めても、先端から飛び散るのは頼りなく揺れる光の雫だけ。
魔女でありながら、まともに魔法を紡げない――
情けなさと悲しみが混ざり、静かに胸を焦がす。
だが同時に、別の感情が顔を覗かせた。
“魔女であることを誇りに思う”――その誇りゆえに、できなくなることが屈辱に変わる。
それは、マグルよりも魔法族の方が優れているのだとする、選民思想とどれほど違うのだろう。
自分は……いつの間にか、そういう誇りを当然のように抱いていたのかもしれない――。
その気づきに、アランは静かに衝撃を受けた。
かつて、シリウスと夢見たことがあった。
マグルも魔法使いも関係なく、分け隔てなく手を取り合い、共に歩む世界。
それを信じ、誓い合い、未来を語ったはずだった。
けれど……自分の中にはすでに、純血主義に似た根が、深く、静かに根付いていたのだ。
ただ、その残酷さに気づかないよう、シリウスへの恋心という蓋をかぶせていただけだった――。
それは、自分の手でその夢を裏切っていた、あまりにも冷酷な事実だった。
アランは小さく息を吐き、視線を落とす。
カップの琥珀色が揺れ、その中に映る顔は、ほんの少し見慣れない他人のように見えた。
朝の光がカーテン越しにやわらかく差し込み、薄い絹のカーテンが揺れていた。
レギュラスは廊下を急ぎ足で進み、アランの部屋の前でノックもそこそこに扉を開けた。
任務へ向かう前のわずかな時間――だが、その足を止めさせたのは、使用人からの報告だった。
『奥様は以前にも増して食欲が落ち、昼間も伏せっておられます』
淡々と告げられた声が耳に残り、彼の胸の奥に鋭い違和感を残した。
部屋の中は、整えられたままの寝台と、窓辺に置かれたティーカップのかすかな香りが漂っている。
アランは椅子に腰掛け、薄いショールをかけていた。
その姿は一見いつも通りだが、頬の下にかすかな影が落ちている。
「……アラン。体調が優れないのなら、なぜ言わないんです?」
低く抑えた声だが、その奥には明らかな苛立ちと心配が混じっていた。
アランは振り返り、わずかに首を傾げながら微笑んだ。
「そこまで大袈裟なものじゃないわ」
「……そういうことではありません」
即座の切り返しは、彼女の軽さを否定するように冷ややかだった。
間を置き、アランは少し視線を泳がせた。
「……最近少し……夜が遅かったから。寝不足かもしれません」
その言葉と共に、柔らかく微笑む。
確かに――レギュラスは、夜遅く任務から戻った後でも、眠っている彼女を起こしてまで求めることが続いていた。
それを理由にされれば、答えを飲み込まざるを得ない。
けれど、それはあまりにも表面的な言い訳に思えた。
彼女がわざわざそのことを口にするのは、本当の不調の理由を上手く霞ませ、話を逸らすためではないのか――。
その意図を察した瞬間、レギュラスの胸に冷たい感触が広がった。
彼は一歩近づき、アランの視線を正面から受け止めた。
笑みを保とうとするその顔が、ほんの僅かに硬い。
窓からの光が、彼女の横顔を透かすように淡く照らし、その下に隠しきれない疲労の色を浮かび上がらせていた。
「……本当に、それだけなんですか」
そう問いかける声は、優しさと探る鋭さの境目で揺れていた。
応接間の窓から、午後のやわらかな陽が差し込み、テーブルクロスの白を温かく照らしていた。
アランは整然と並べられた書類の束を手元に置き、アルタイルの礼服の布地見本や、参列予定者の名簿を一枚ずつそっと広げていた。
その隣には椅子を並べて座るアルタイルとイザベラ。
柔らかな空気の中で、ふとアルタイルが母を見つめ、眉をひそめた。
「……母さん、顔色が悪いですが」
アランは小さく首を振り、微笑を薄く保つ。
「ちょっと……寝不足でして」
その答えは軽やかに見えたが、深く覗き込めば、指先や頬の色にはかすかな疲労と翳りがあった。
アランの視線は、自然にイザベラへと向く。
細い肩と真剣な瞳——その姿にかつての自分の若き日を重ねた。
この家に嫁ぎ、息が詰まるような日々を過ごした記憶が胸に疼く。
イザベラには、同じ苦しさを絶対に味わわせたくない。
アルタイルとともに、二人の歩みに自分たちの影は重ねず、自由に人生を進めてほしい。
生まれてくる子が男児であろうとなかろうと、誇りや義務ではなく、互いに支え合って生きてほしい。
アランはゆっくりと姿勢を正し、穏やかな声で呼びかけた。
「……イザベラ、よく聞いてください」
「はい、アラン様」
イザベラは背筋を伸ばし、真っ直ぐに返事をした。
「私はあなたたちに多くは望みません。……どうか、二人で支え合える夫婦になってほしいのです」
その言葉には、アラン自身の痛みが滲んでいた。
もしかしたら、アルタイルにもイザベラにも、それぞれ別に心を寄せる相手がいるかもしれない。
かつて自分がシリウスを思ったまま、この家に嫁いだように——。
そしてもしそうならば、かつての自分とレギュラスのように、疑念と猜疑が互いを蝕み、傷つけ合う日々が訪れるかもしれない。
それだけは、避けてほしかった。
「アラン様……ありがとうございます」
イザベラの声は、しっとりとした誠意を帯びていた。
「アルタイル様と一緒に、穏やかに支え合える日々を送っていけるよう、努力いたします」
アランは静かに頷き、柔らかく微笑む。
「……アルタイルを、私たちは大切に育ててきました。
どうか、あなたの手で、彼を支えてあげてください」
イザベラは深く礼をした。
長いまつげが伏せられ、仕草の中に真剣な決意が見える。
その横でアルタイルが母を真っ直ぐに見つめ、小さく頷いた。
陽光が三人をやわらかに包む。
その光の温もりが、この先も二人の上に降り注ぎ続けることを、アランは心の奥底で静かに祈っていた。
応接間を出た後も、アルタイルの胸の奥には、先ほど母がイザベラに語った言葉が柔らかく留まり続けていた。
「二人で支え合える夫婦になってほしい」――その響きは、温かな灯のように心の深いところを照らしている。
自分のために、そしてイザベラのために。母は本気でそう願ってくれているのだと、疑いの余地もなかった。
母は、きっとシリウス・ブラックをずっと心に思い続けてきたのだろう。
しかしその想いがありながら、父・レギュラスの隣に静かに立ち続けた。
自分とセレナの母として、そしてブラック家の一員として、長い年月その名と誇りを守り抜いてきたのだと思う。
それでも、父と母が時に、子どもたちの知らないところで激しくぶつかり合ってきたことも分かっている。
互いを試し、疑い、すれ違った年月が、きっと少なくなかったはずだ。
だからこそ――母は、自分たちには同じ道を歩ませたくないと願っているのだろう。
けれど……母の幸せはどこにあるのか。
アルタイルの心にその問いがひそやかに生まれる。
父の隣に立ち続けること、それが果たして母にとって本当の幸せと呼べるのだろうか。
時折その答えが、わからなくなる。
「自由になってもいい」――そう口にしたら、母は本当に、自分や父の前から姿を消してしまうかもしれない。
その想像があまりにも鮮やかに心へ迫り、言葉は喉の奥で固く凍りついた。
そして気づく。
結局のところ、自分も父と同じなのだ。
母という女性を、この屋敷に、このブラック家という檻に、必死に繋ぎ止めていたいと望んでしまっている。
その存在を、誰にも渡したくないと願ってしまう。
窓の外で陽が静かに傾き始め、長い影が廊下に伸びていた。
アルタイルはその影の中で立ち尽くし、胸に残る母の言葉の温もりと、自分の中のわずかな罪悪感を抱きしめるように、静かに息をついた。
夕暮れの色が、玄関ホールの窓ガラスを淡く染めていた。
任務から戻ったレギュラスはマントを外し、手袋を外す仕草も簡素に、廊下を進む。
その途中で、向かいから歩いてきたアルタイルと出会った。
「今日、式の準備を母とイザベラと共に進めていました」
息子の報告に、レギュラスは立ち止まり、視線を和らげる。
「そうですか。……なるべく、イザベラの希望を通してやるようにしてあげてください。
オリオンやヴァルブルガはかなり仕切り屋でしたから」
その名を聞いた瞬間、アルタイルは、なんとなく察した。
父と母の結婚式では、きっと母の意見や希望は一つも通らなかったのだろう。
どんな装飾も、どんな段取りも、祖父母の意のままに定められたはずだ。
そして母は、それに微笑んで頷きながら、全てを呑み込み、諦めてきたのだ。
胸の奥に小さな痛みが走る。
だからこそ、自分は違う夫になりたい――
イザベラの声をきちんと聞き、小さな願いも拾いあげられるように。
「母さんに言われました。……イザベラと支え合える夫婦になってほしいと」
その言葉を口にすると、レギュラスは一拍おいてから、静かに笑みを見せた。
「もちろん、僕もそう思っていますよ」
その声は穏やかだったが、アルタイルの胸には、次の問いが浮かんでいた。
――父さんは……今でも……。
あの件で。
シリウス・ブラックのことをめぐって、母を心の底からは許していないのではないか。
何年経っても消えないわずかな棘のような思いを、まだ抱えているのではないか。
だが、言葉は喉を越えなかった。
問いかけてしまえば、父と母の間にある埋められなかった溝を、改めて自分に突きつけることになる。
母の苦しみと、父の執念。
決して交わらず、互いに孤立したまま漂い続ける二つの想いが、自分の中に冷たい像として刻まれるのが、耐えられそうになかった。
だからアルタイルはただ、短く頷くだけに留めた。
廊下の奥から差し込む淡い光が、父の肩越しに滲み、二人の間にある言葉にできない距離を静かに映し出していた。
深夜の食堂には、暖炉の火のほかに灯りはなく、赤みを帯びた炎が食卓の銀器やグラス越しに柔らかくゆらめいていた。
レギュラスの前のグラスには、深紅のワインがゆったりと波を立てている。
「……あなたも飲みます?」
ワインを軽く揺らしながら問うと、アランは静かに首を横に振った。
その仕草の穏やかさの奥に、体調がいまだ快復していないことが滲む。
レギュラスは、胸の奥にじわりと広がる心配を、胃の底に沈む鈍い痛みに似た感覚として覚えた。
「ああ……アルタイルとイザベラとで、式の準備を進めてくれているそうですね」
言葉を選ぶように問いかけると、アランが微笑んだ。
「ええ。二人とも、一生懸命選んでいましたよ……愛らしい姿でした」
その微笑みは、穏やかで、温かくて――そしてどこか遠い。
それでもレギュラスは、その表情を見られたことが嬉しかった。
こんなにも長い年月を、彼女と共に歩むことができたのだと噛みしめる。
アルタイルはもう十七になり、間もなくホグワーツを卒業する。
彼とアランとで築いてきた年月も、それと同じだけ積み上がってきた。
「……長いようで、あっという間でしたね僕たち」
そう口にすると、アランはこくりと頷く。
「ええ、本当に……私も、随分と歳を取りました」
その言葉の内容とは裏腹に、彼女の佇まいからは年月の重みがほとんど感じられない。
惚れているからそう見えるのかもしれない。
けれど社交界に出れば、今でもアランは常に耳目を集め、称賛を浴びる存在だ。
その輝きが、自分の隣にあること――それは密やかな誇りだった。
「……相変わらず綺麗ですよ、あなたは」
レギュラスがそう告げると、アランは肩を揺らし、唇に小さな笑みを浮かべた。
「あなたはそれしか言わないものね」
欲目だと言うような口ぶりに、互いの間にほのかな温度が流れる。
本当に、自分でも驚くほどだ。
この女を生涯、変わらずに美しいと思い続けてこれたことを。
シリウスのものだったからではない。
振り向かないものを力ずくで手に入れたからでもない。
ただ――心の底から好きだった。
もし願いが叶うなら、シリウスの婚約者でもなく、彼女が彼を愛したこともない別の世界で出会いたかった。
最初から普通の男女として向き合い、アランの心にシリウスという影が棲むことなく、ただ真っ直ぐな恋を重ねられた世界で。
だが現実の彼女は、シリウスを愛したアランだった。
だからこそ、その愛しさは時に憎しみや嫉妬と絡み合い、自分を焦がし、彼女を傷つける日々もあった。
もし、その影がなければ――もっと澄んだ、美しいだけの愛情を、真っ直ぐに注ぐことができたのだろうか。
暖炉の炎が二人の横顔を温かく照らし、赤ワインの表面にわずかな光が跳ねた。
レギュラスはそれを見つめながら、胸の奥の甘さと苦さを、ひと息に飲み下すようにグラスを口に運んだ。
アランは、レギュラスがワインを口に運ぶその横顔を、静かに見つめていた。
炎の灯に縁取られた横顔は、昔から変わらぬ鋭さと、年月を経て増した静かな重さを携えている。
「……そんなにじっと見られると、飲みにくいですね」
レギュラスが僅かに視線を動かし、冗談めかした声で言う。
アランは小さく笑った。
「いいえ。ただ……あなたとこうして静かに過ごすのも、久しぶりだと思って」
その言葉に、レギュラスの胸の奥が微かに揺れた。
任務に出ている時間、家を空ける日々、すれ違いもあった。
だが今、この静けさは確かに二人だけのもので、その事実が甘く沁みてくる。
「……僕はですね、アラン」
ワインのグラスをそっと置き、彼はまっすぐに彼女を見た。
「何年経っても、あなたを綺麗だと思うし……同じだけ、愛しているつもりです」
アランは視線を受け止め、小さく瞬く。
その瞳には、感謝とも切なさともつかない光が揺れていた。
「……ありがとう。でも、私……あなたに何をお返しできているのかしら」
「そこにいてくれれば、それでいい」
即答する声には、迷いなど一つもなかった。
長く共に過ごす中で重ねられた傷や溝、それらは簡単に消えることはない。
それでも――この瞬間、レギュラスにとっては、ただこの女が自分の傍に座っていてくれることだけが、すべての価値だった。
アランはその静かな熱を肌で感じ、視線を炎へと移した。
語られぬ想いが重なり、二人の間に漂う空気は、甘やかで、それでいてほんの少し切なく締めつけるような温度を帯びていた。
レギュラスは、ワインのグラスを置くと、炎の前に座るアランの方へとゆっくり身を傾けた。
暖炉の光が木目に沿って揺れ、二人の影がテーブルの上で重なり合う。
「……あなたの手を、いいですか」
低く囁くように言って、その細い手をそっと取った。
アランの手は温かい――だが、その奥に微かな力の抜けを感じる。
それは体調の衰えなのか、それとも長い年月を重ねてきた今だから触れられる柔らかさなのか、彼自身にも判別できなかった。
指先を絡めたまま、しばらく何も言わず、その感触だけを確かめる。
アランは不思議そうに彼を見つめ、それから小さく微笑んだ。
「……こうしてあなたに手を握られると、歳月の長さを感じます」
レギュラスはほんのわずかに眉を和らげた。
「僕は逆です。……最初にあなたの手に触れた日のことを、今も全く忘れていません」
アランの視線が、彼の瞳を探るように静かに揺れる。
その奥に何が映っているのか――シリウスという影は、今も遠くに潜んでいるのか。
それでも、この手を握る今だけは、自分だけの温もりだと、レギュラスは信じたかった。
炎の爆ぜる音が、二人の沈黙を優しく包み込む。
夜は深まり、影はさらに近く寄り添い、やがて境目を失っていった。
レギュラスの指先に、確かな意志がこもる。
ただ握るだけではなく、逃がさぬよう、しかし決して痛みを与えぬよう、彼女の温もりを掌の奥に刻みつけるような、静かな力だった。
アランはその圧を感じ取り、わずかに瞳を伏せる。
拒むでも、応えるでもなく――ただ、その力を受け止める。
それは、長い年月の中で幾度も繰り返されたやり取りだった。
「行かないで」と言葉にせずに伝えてくる、この人の沈黙を知っている。
炎の明滅が彼の横顔を柔らかく削り出す。
目を細めたその表情には、愛情も、執着も、渇望も、全て同じ色で混じり合っていた。
それを見てしまうと、アランの胸には微かな疼きが走る。
――この人に繋ぎ止められている限り、どこにも行けない。
そして、自分もまた、完全に逃げることを望んではいない――その矛盾も、わかってしまっていた。
「……離しません」
炎の音に紛れるような低い声が、掌を伝って響く。
アランは顔を上げ、少しだけ微笑んだ。
「ええ……知っています」
それが慰めなのか、諦めなのか、はたまた約束なのか――レギュラスには判別できない。
だが、その言葉が落ちた瞬間、彼の掌の力は、ほんの僅かに強くなった。
夜はさらに深まり、外の世界から二人を切り離していく。
その隔たりの中で、互いの手は温もりを分かち合いながらも、
まるで互いの存在を鎖に変えるように、離れられずに絡み合っていた。
午後の光が弱まりかけた静かな室内。
薬瓶や秤が規則的に並ぶ作業台の向こうで、セブルス・スネイプは厚手のローブの袖を少し押し上げ、魔力を通す銀の匙を丁寧に拭っていた。
アランはその姿を黙って見ながら、一歩近づく。
「……先日は、魔法薬の材料を揃えていただいてありがとうございました」
深く礼をし、穏やかに告げる。
セブルスは手を止めずに、低い声で返した。
「騎士団からは……調合の器具の件で、疑いを向けられたらしいな」
アランは一瞬目を伏せ、静かに頷く。
「ええ……夫が色々と策を巡らせたそうです」
「さすがだ。寸分の矛盾もなく作り込まれたシナリオだった」
感嘆と皮肉の中間のような声音。
アランは小さく息をつき、ふっと笑う。
「……いいのか、悪いのか、果たしてわかりませんけど」
魔法薬研究会の有力者や製薬会社の重鎮まで巻き込み、
大掛かりで緻密な“善意の物語”を作って見せる――
それがすべて、騎士団や魔法省から自分への疑念を払うためだったことを、アランは知っている。
だから……きっと、あの日シリウスは屋敷に来たのだ。
真実を、直接この目で確かめたくて。
自分がどこまで闇に手を染めてしまったのか、見極めに来たのだ。
その人に、自分ははっきりと告げた。
――もう来ないでください、と。
かつてホグワーツで、最後に繋いだ手を涙と共に離したときとは違う。
今度は確固たる意志を持って、その手を取らなかった。
守るべきもののために。アルタイルやセレナ、そして……何よりレギュラスのために。
思い出すだけで胸の奥がきしみ、視界が滲みそうになる。
「……レギュラスはお前に、心底惚れ込んでいるようだ」
セブルスの声音は、淡々としているのに、どこか探るような響きを帯びていた。
アランはわずかに口角を上げた。
「私が……彼をあそこまで変えていったのかもしれません」
セブルスは目を細める。
「……お前は、あの男の強みでもあるが――弱みでもある」
その言葉が、思いのほか深く胸に残った。
確かに、そうだと思う。
誰よりも強く、冷徹に見えるあの人が――
時々、どうしようもなく情けないほど弱く、卑劣で、残酷で、恐ろしくなる瞬間がある。
かつての底抜けに優しかった少年レギュラス・ブラックを、
自分はどこまで歪めてしまったのか――そう考えると、胸が締めつけられた。
暖炉の小さな炎が、薬棚の硝子越しに赤く瞬いた。
アランはその揺れを見つめながら、静かに息を吸い、心の奥で何度目かの痛みをやり過ごした。
セブルスは、布で拭いていた銀の匙を作業台に置くと、視線だけをアランに向けた。
その黒い瞳は、相変わらず深い水面のように感情を読ませないが、その底では何かを確信している気配があった。
「……それでも、お前は彼の傍を離れないだろう」
その言葉は、問いではなく断定だった。
アランはわずかに息を呑み、すぐには返事をしなかった。
返すべき言葉が喉まで上ってきては、重さに押されて沈んでいく。
――そう、離れない。
理由は一つではない。
レギュラスを守るという約束、アルタイルやセレナの居場所を守るため、そして……
彼が自分を強く抱き寄せるときに感じる、奇妙な安堵と鎖の重さ、その両方を捨てきれないから。
愛情と支配、誇りと呪縛――そのどれが欠けても、自分と彼は今の形を保てない。
それを知っていながら、アランはこの場所から動く気にはなれなかった。
「……ええ。離れません」
ようやく搾り出したその声は、静かで、決意にも諦めにも似た響きを帯びていた。
セブルスは小さく鼻を鳴らし、それ以上は追及しなかった。
ただ背を向け、棚に薬草の瓶を戻す音が、重たい沈黙を引き裂く。
アランはその背中を見つめながら、自分でも確かめきれない感情を胸の奥に抱えたまま、
再び一歩、自分の望んだ牢の中へと足を踏み入れていく感覚を覚えていた。
春の陽光がやわらかに降り注ぐ庭園に、祝福のざわめきが満ちていた。
ホグワーツを卒業したばかりの兄――アルタイルが、ついにブラック家とレインズフォード家の未来を結ぶ式へと歩み出す日。
金と銀の装飾が施された式場には、厳かな魔法の光が流れ、客人たちの視線が一身に注がれていた。
その中心に立つ兄は、誰よりも輝いて見えた。
背筋は真っすぐ、眼差しは澄み渡り、黒の礼服がその凛々しさを際立たせている。
セレナは、胸の奥から熱が湧き上がるのを感じた。妹として、心から誇らしかった。
祭壇の向こう、父と母が並んで座り、兄を見つめている。
二人の瞳が、同じ色を帯びていることにセレナは気づいた。
それは、夫婦として長い年月を共に歩み、困難を越えてきた者だけが宿せる、深く温かな色だった。
――母の瞳には、今、シリウス・ブラックという影は映っていない。
そこには、間違いなくアルタイルを共に育て、背中で支え続けてきた父だけが映っている。
その確信が、セレナの胸を満たした。
「……かっこいいですわね、お兄さま」
思わず呟くように言うと、母が微笑む。
「ええ……王子様のようね」
セレナは少し首を傾げ、いたずらっぽく問いかけた。
「お父さまも、あんなにかっこよかったですか?」
母は迷いなく頷く。
「それはもちろんです」
その会話を、隣の父が静かに聞いて微笑んでいた。
その表情には、言葉にしない幸福がにじんでいて――絵に描いたような家族の姿が、そこにあった。
兄の背を見ながら、セレナは思う。
このまま、この家の誇りを胸に、どこまでも力強く、真っすぐに生きていってほしい。
父のように――この世界で最強の魔法使いとして、揺るがぬ存在になってほしい。
そして、シリウスへの愛を手放し、父の手を取った母の選択が、誰よりも正しかったのだと――
その生き方で、この上なく美しく証明してほしいと。
祝福の光が降るその場で、セレナの胸には、未来へと向かう確かな祈りが、静かに灯っていた。
白亜の大広間には、祝福と称賛の声が絶え間なく満ちていた。
「レギュラス様の時と同じく、素晴らしい式だ」
「まるで若き日の…」――そんな囁きがあちこちから聞こえ、笑みと拍手が交錯する。
兄、アルタイルは正面から賓客たちの視線を受け、その一つひとつを涼やかな礼で返していた。
父と比べられても遜色ない――むしろ肩を並べ、未来の家を背負うにふさわしいと讃えられる、その姿。
セレナは胸の奥に温かい炎が灯るような誇らしさを覚えた。
「お兄さま、立派ですわ」
声を掛けると、アルタイルはわずかに頬を緩めた。
「こう見えて、緊張してるんですよ」
その穏やかな響きに、幼い頃の面影がふっと零れる。
隣に立つイザベラに、セレナは裾を整えながら深く頭を下げた。
「イザベラ様……どうか私の兄を、支えてくださいませ」
イザベラはほんの一瞬驚いたように瞬きをし、それから丁寧に微笑み、深く礼を返した。
二人の間を満たす空気は、家同士の決めた婚姻の冷たさを微塵も感じさせなかった。
互いを見れば、その瞳の奥は温かく澄んでいる――本当に愛し合う者同士にしか生まれない、柔らかな光だ。
セレナの胸に、憧れに似た感情がそっと芽吹いた。
自分は――間もなくイングランド国の王子に嫁ぐ。
愛よりも何よりも、まずは尊敬が立つ関係を望んだ。
最も高貴な地位を持つ、このブラック家の女に相応しい相手。
張り合い、背を並べられるほどの力と品を持つ者。
なぜなら――愛などという揺らぐものが、この誇りを霞ませることのほうが、何よりも怖かったから。
脆く崩れ、弱さを生む愛よりも――美しく、揺るがぬ強さを選びたい。
ずっとそう思ってきた。
……けれど。
兄とイザベラが、互いを見つめ合いながら笑みを交わす、その一瞬を目にしたとき、
セレナの胸の奥で、迷いのようなものが小さくさざ波を立てた。
――自分も、嫁ぐ先で。
尊敬を超えた想いに、いつか満たされる日がくるのだろうか。
それは誇りを曇らせる弱さなのか、それとも……新たな強さになるのか。
祝福の光に包まれながら、セレナは黙って二人を見つめ続けた。
その眼差しは、誇りと憧れのあいだで静かに揺れていた。
祭壇に向かう誓約の言葉が、参列者の静寂の中で清らかに響き渡っていた。
真紅と純白の花々が揺れるたび、窓から射す淡い陽光が煌めきになって舞い込み、二人を祝福するようだった。
セレナは兄とイザベラの姿から目を離さずにいた。
その背筋の伸びた兄の横顔、その手を静かに包んでいるイザベラの指先――どちらも迷いなく、確かな未来のかたちを描いている。
ふと、視界の端に母の姿が映った。
アランは穏やかな微笑を浮かべながら二人を見つめている。
その眼差しの柔らかさに、セレナははっとする。
――まるで、自分と父の選択をこの瞬間に肯定し直し、安堵しているかのように。
アランの瞳と一瞬だけ合った。
母は何も言わなかったが、そこには「分かりますか」というような、静かに探る光が宿っていた気がした。
セレナは小さく微笑み返し、それ以上表情を崩さなかった。
胸の奥ではまだ、小さな疑問がくすぶっている。
兄とイザベラのように、尊敬を超えて愛へ至る道を、自分は歩めるのか――。
誇りと愛、その二つが相克せずに並び立つ世界が、果たして自分にも訪れるのだろうか。
誓いの口付けが交わされ、会場は大きな拍手と歓声に包まれた。
その音の中で、父と母が少しだけ互いを見る。
その瞳の色は、セレナがさきほど兄とイザベラに見た光と不思議なほど似ていた。
――いつか、自分も。
静かにそう思った瞬間、心の奥の迷いは、ほんの僅かに輪郭を失い、温かな期待のような色に変わっていった。
披露宴のざわめきの中、煌びやかな音楽とグラスの触れ合う音が広間を満たしていた。
豪奢な花々がテーブルを彩り、ゲストたちの談笑が途切れることなく続いている。
その片隅、庭園へと続くバルコニーに面した、小さな出入口の前で――アランはセレナに声をかけた。
「……少し、外の空気を吸いましょうか」
セレナは戸惑いながらも頷き、母の後についてバルコニーに出た。
夜風がふわりと髪を持ち上げ、室内の熱気をそっと拭う。
「……今日は、よく似合っていたわ。あなたのドレスも、表情も」
アランの声はやわらかく、けれどどこか探るようだった。
「ありがとうございます、母さま」
母はガラス越しに会場を振り返り、兄とイザベラが微笑みを交わす姿を目で追った。
「二人、綺麗でしょう」
セレナも同じ方向を見ながら、静かに答えた。
「ええ……本当に」
少しの沈黙の後、アランは娘に向き直った。
「……嫁ぐ先でね、尊敬できる人に出会えるのは、幸運なことです。
でも――もしその尊敬の中に、あなたの誇りを揺らすほどの想いが芽生えたとしても、恐れなくていいの」
セレナは思わず母を見つめた。
アランの瞳は、深い湖のように静かで、奥底には消せない過去の光と影が混ざっている。
「誇りと愛情は、相反するものじゃない。どちらかを捨てなければならないなんて、思わないで」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「……母さまも、そうしてきたのですか?」
慎重に投げた問いに、アランは微笑だけを返した。
「さあ、どうかしら。けれど――あなたには、私よりももっと上手くやってほしい」
胸の奥に、温かさと重みが同時に落ちる。
セレナは小さく頷き、母のこの言葉を胸深くにしまった。
遠くで兄とイザベラが歓談する声が聞こえる。
夜風の冷たさよりも、母の掌のぬくもりが確かに残っていた。
広間の扉が静かに開き、背の高い影がバルコニーへと差し込んだ。
レギュラスだった。
夜風に揺れるカーテンを背に、彼は一歩外へ出ると、二人のもとに歩み寄る。
「……こんな所にいたんですか」
低く穏やかな声。その目が、娘と妻を一度に捉える。
探るようでもなく、しかし二人の間に通った言葉の温度を嗅ぎ取るかのような、静かな視線だった。
アランは何事もなかったように振り返り、柔らかな微笑を見せる。
「少し外の空気を吸っていただけですわ」
セレナも姿勢を正し、「お父さま」と小さく頭を下げた。
レギュラスは娘の顔をじっと見つめ、その頬に残るわずかな紅潮と、目の奥の揺れを見逃さなかった。
「……寒くなります。中へお入りなさい」
そう言って、彼はセレナの肩を軽く押す。
娘が一礼してバルコニーの中へ消えていくと、夜風が一層冷たくなったように感じられた。
二人きりになり、レギュラスはアランの方へ身体を向ける。
「……娘に、何を話していたんです」
問いは穏やかに見えて、その底にわずかな張り詰めた糸が潜んでいる。
アランは夜空に目を向け、星を見上げたまま答える。
「未来のことを……少し」
レギュラスはその横顔をしばらく黙って見つめ、それから小さく息を吐く。
「……あなたの言葉は、不思議と人を縛るのか、解くのか……分からない」
「そうかしら」
アランは微笑んだ。けれどその笑みは、自分でも読み解けない複雑な色を帯びていた。
遠くから音楽と笑い声が流れてくる。
二人の間には、言葉にはしなかった思惑と感情が、夜の冷気の中で淡く絡み合っていた。
レギュラスは、室内へ戻ろうと一歩踏み出しかけたが、ふと足を止めた。
そのままアランの横に立ち、夜空を見上げる彼女の耳元へ、わずかに身を傾ける。
「……あなたは、どこへも行きませんよね」
低く、囁くような声。
問いかけの形をしていながら、それは確認ではなく宣言だった。
否を許さぬ響きに、アランは瞬きし、ゆっくりと顔を向ける。
「……ええ」
短く、静かに答える。その声には穏やかさと、どこか奥底に沈む諦めとが混じっていた。
レギュラスは視線を逸らさず、彼女の返事を胸の内で飲み込みながら、あえて何も言い足さない。
その沈黙には、言葉よりも濃い独占の意志が込められていた。
やがて、彼はアランの腰にそっと手を添えて、室内へと導く。
音楽の光と人々の賑わいが再び二人を包み込むが、夜風の中で交わした言葉と沈黙は、互いの胸に残り続けていた。
室内へ足を踏み入れると、途端に温かな光と人々の笑い声が二人を包み込んだ。
煌びやかなシャンデリアの下で、来賓たちはグラスを手に談笑を続け、音楽隊が柔らかな旋律を奏でている。
レギュラスは表情を穏やかに整え、完全な社交の微笑を口元に宿した。
しかし、アランの腕を支えるその手は、宴の喧騒の中でも決して離れようとはしない。
まるで、つい先ほど夜風の中で交わされた約束を、物理の形としてその手に刻み込むかのように。
アランは一瞬だけその力の込められた感触を意識した。
けれど視線は正面に向けたまま、同じく微笑を浮かべ、人々の会話に応じる。
彼の手の重さが、温もりであるのか、それとも鎖であるのかは――この場では誰にも、彼女にさえ分からない。
「レギュラス様、アラン様、こちらへ」
別の客人が声をかけ、二人は揃って歩き出す。
レギュラスは軽やかな足取りを装いながらも、腕を添えたままの手の位置を少しも緩めない。
賑やかな笑いの中、その掌から伝わる微かな緊張と独占の熱だけが、二人の間に密やかに流れ続けていた。
客人たちの輪の間をゆるやかに歩みながら、レギュラスは絶えず微笑を崩さなかった。
グラスを受け取り、軽く会釈を交わし、祝辞や冗談をさらりと受け流す――
その所作は完璧で、誰の目にも、愛情深く堂々とした当主と、その妻の姿にしか映らないだろう。
しかし、腰に添えられた彼の指先は、細かくわからぬほど僅かに力を込め、アランを確かめ続けていた。
それは見た者が誰も異変を覚えぬ程度の、ごくごく密やかな接触。
だが、当のアランにははっきりと、言葉にならぬ意思が伝わってくる。
人々が談笑する傍ら、レギュラスはゆるやかに顔を傾け、その声を誰にも届かせぬ深さに沈めた。
「……こうしていると、あなたがどこまでも僕のものである気がします」
吐息のような囁きは、祝宴のざわめきに溶けて消える。
アランは視線を正面に向けたまま、わずかに唇だけを動かした。
「……そう思えるなら、それでいいのではなくて?」
レギュラスは答えず、ただその手にさらに僅かな力を加える。
もはや逃れることは叶わないと、無言で告げるように。
笑みを交わす二人を見て、周囲は幸せな夫婦の姿だと疑わない。
しかし、その足元には、愛情と支配が絡み合った見えない鎖が、静かに音を立てず伸びていた。
披露宴の賑わいの中、アルタイルとイザベラがゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる姿が見えた。
もうとうに、自分の背を抜いて大きくなった息子。
その長身が、隣に立つイザベラの手を優しく引く様子は、ひとつひとつの仕草まで洗練されていて、そして何よりも優しかった。
――なんて立派になったのだろう。
胸の奥が温かさに満たされると同時に、堰を切ったように涙が込み上げてくる。
本当に、どこまでもレギュラスに似ている。
背筋を伸ばした姿も、相手を守るように寄り添う佇まいも。
けれど……その瞳は、もっと柔らかく、慈愛に満ちているように思えた。
レギュラスの瞳には、時折鋭く冷たい翳りが差すことがある。
その残酷さを、あの人に芽生えさせたのは――ほかでもない、自分だったのかもしれない。
だからこそ、アルタイルの中にはどうかそんな冷たさが宿りませんように、と祈らずにはいられなかった。
「……母さん」
呼びかけと同時に、アルタイルが両腕を伸ばす。
アランの胸に、あたたかな抱擁が包み込むように広がった。
その抱きしめ方は、ただの挨拶ではなく――今までのすべてに対する感謝を、言葉ではなく肌で伝えるためのものだった。
思わず、アランの目尻から涙が零れ落ちる。
「……アルタイル、こういう抱擁は……イザベラへしてください」
泣きながら、それでも笑みを浮かべてそう告げる。
アルタイルは少し頬を染め、照れくさそうに笑いながら腕をほどく。
傍らでイザベラが微笑み、そっと二人を見守っていた。
その光景を見つめながら、アランの胸の中には――未来への静かな安堵と、手放してはいけない絆への慈しみとが、複雑に絡まり合って温もりをつくっていた。
祝福のざわめきの中、その瞬間だけは、世界が三人だけの柔らかな時間に包まれていた。
祝宴の光とざわめきの中――
アルタイルは母の細い肩をそっと抱き寄せた。
触れた瞬間、思った。
……いつの間に、こんなに小さくなってしまったのだろう。
いや、自分が大きくなったのかもしれない。
けれど、その腕の中に感じる母の温もりは、かつての強さと同じだけ、どこかほのかな弱さを帯びていた。
胸の奥が、ふいに心細さで満ちる。
今日という日が――自分の晴れ舞台が――
この母の、長い間背負ってきたブラック家という名の重荷を、ほんの少しでも下ろさせることができただろうか。
そうであってほしいと、切に願った。
母が横でイザベラに優しく言葉をかけているあいだ、アルタイルはそっと父へと向き直った。
「……しっかり、妻を守れる男でいてくださいね」
レギュラスは片眉をわずかに上げ、それから面白そうに頷く。
「はい。父さんの血が入ってるから、心配はしていません」
「……へえ、それは頼もしい」
口元にくすくすと笑みが灯る。
そして、視線をゆっくりとイザベラへ向けた。
「……母アランの血も入ってますからね。どうか、アルタイルの手綱をしっかり握っておいてください」
突然向けられたその言葉に、イザベラは何と答えてよいのか分からず、一瞬視線を泳がせた。
微笑みかけようとして、けれどその形は少しだけ固い。
「……レギュラス、イザベラを困らせないでくださいませ。こんな晴れ舞台に……」
アランが苦笑まじりにたしなめるように声をかける。
「失礼。冗談が過ぎましたね」
レギュラスはあっさりと謝罪の言葉を口にし、軽やかに笑みを浮かべ直した。
そのやりとりの中にも、この家族として積み重ねてきた年月の呼吸が滲んでいる。
祝宴の明かりが三人を照らし、その影は長く、穏やかに寄り添っていた。
