4章
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厚い扉で隔てられたブラック邸の書斎は、外の静けさとは裏腹に、張り詰めた空気で満ちていた。
遮光カーテンの隙間から差す陽が、机の上の革張りの書類束を鋭く切り裂くように照らしている。
レギュラスは深く椅子に腰を下ろし、指先で机の縁をゆっくりと叩いていた。
そのリズムはいつもよりわずかに早く、不規則で、胸の奥に渦巻く苛立ちを隠しきれていない。
魔法省が――アランが仕入れた魔法薬調合の器具を掴んでいる。
それが何を意味するか、想像するのは容易かった。
材料はセブルスに頼み、足がつかないよう綿密に手配した。
だが――器具の入手は盲点だった。
わかる者が見れば、あの組み合わせが違法魔法薬の調合に用いられることは明らか。
実際、今ごろ魔法省の中では、アランの背に複数の疑念が掛かっているだろう。
「……抜かった」
低く、自分にだけ聞こえる声で吐き出す。
それは失態を責める声というより、彼女を危険から遠ざけられなかったことへの焦燥だった。
どう守る――。
アラン自身に疑惑が掛かった時点で、ただ否定するだけでは足りない。
証拠を摘み取り、噂の芽を踏み潰し、必要ならば証人すら消す……。
けれど、それらはすべて綱渡りだ。
ひとつでも踏み外せば、彼女も、自分も、一瞬で奈落へ落ちる。
右手が無意識に握られ、指先の関節が白くなる。
深呼吸を試みても、胸の奥の熱は冷えない。
アランには、まだ何も悟らせるわけにはいかない。
無用な不安を与えれば、それこそ魔法省の目を引く結果になる。
彼女にはただ、いつも通り――疑念の刃が背後まで迫っていることなど知らずにいてほしい。
窓辺の影が伸び、書斎の壁に彼の横顔を鋭く映し出す。
その黒い瞳の奥には、感情を押し殺そうとする冷たさと、愛ゆえの苛烈な闘志が同居していた。
――守る。必ず。
どんな形であれ、彼女の名が裁きの場に上がることは、この手で阻む。
ペン先が羊皮紙に音を立てた。
その動きは、もう迷いではなく、具体的な手順を描くためのものだった。
彼の瞼は一度も瞬かず、ただ紙面に、彼だけが知る防衛策が静かに記されていった。
書斎の扉が、ためらうような音を立てて開いた。
そこに立っていたのはアランだった。
ほの暗い室内に差し込む廊下の灯りが、彼女の髪と肩をやわらかく縁取っている。
レギュラスは反射的に、机上の羊皮紙をさっと裏返した。
インクの香りが一層強く立ち上り、その仕草の急さを自分でも悟る。
「……まだ寝ないのですか?」
アランの声は静かで、責める色よりも案じる響きが強かった。
「あっ……ああ、ええ。少し片付けたい仕事がありまして」
瞬きを一つし、あくまで平坦な口調で返す。
彼女の視線が、机と彼の間を行き来するのを敏感に感じながら。
アランはそっと歩み寄り、距離を詰めすぎぬ場所で立ち止まった。
その瞳には、眠る時間を失ってまで机に向かう夫へのほんの少しの憂いが宿っている。
「……でも、もう遅いです」
声は柔らかく、促す調子。
レギュラスは一瞬視線を伏せ、それから笑みを作った。
「すぐに片付けていきますね」
その笑みは、彼女を安心させるためのものだった。
けれど胸の奥では、別の痛みが鈍く疼いていた。
――あの夜、アランに緩やかに拒絶された感触は、まだ消えない。
自分の手を制し、名前だけを呼んだあの声。
以降、触れ合い一つにも僅かな迷いが生まれた。
だからこそ、今こうして寝室に呼びに来てくれたことは、思いがけない嬉しさだった。
まだ自分を気にかけ、立ち上がらせようとしてくれる――その事実が、心の底で確かに温かく光を灯す。
だが同時に、その温もりよりも優先せねばならない事が、この目の前に広げられている。
守らねばならない。
彼女の名と未来を、この羊皮紙の上の策で守る――今は、それだけが自分の使命だった。
「……本当にすぐ終わらせます」
小さくそう繰り返すと、アランは短く頷き、廊下の明かりを残して静かに扉を閉じた。
残された書斎には、インクの匂いと、置いていった温もりの境界が、はっきりと空気の中に残っていた。
書斎の空気は、夜が更けてもなお重く澱んでいた。
机の上には、魔法省が疑いをかけたあの魔法薬調合の道具の写し絵と、羊皮紙に細かく書き込まれた新たな計画案が広がっている。
レギュラスは、片手でこめかみを押さえ、もう片方の手でペンを走らせた。
――全てを別の用途へとすり替える。
これらの器具は違法魔法薬ではなく、「希少薬草保存用の魔力調律液」の制作に使った、というシナリオ。
銀製の溶解皿は、高温で反応しやすい薬草の水分を飛ばす「保存処理」に。
温度を一定に保つ魔力炉は、保存液の魔力濃度を安定させるため。
精密な水銀式計量管は、保存液の滴下速度を正確に測るため――。
さらに、これらの器具が屋敷に届いた目的は「魔法植物学の研究用」という名目に置き換えた。
その研究は、魔法植物の保護と希少種の再生計画に関わる慈善活動の一環という、美しい外殻を与える。
だが、ただ作り話をでっち上げても意味はない。
この物語は、別のものの口から流れる必要がある。
レギュラスは周到に、魔法植物学に名を持つ小規模な研究会を通じ、この話を通しておいた。
そこから、彼らの古くからの「協力者」にあたる商人の口に乗せ、偶然を装って騎士団の耳へと入るように。
「そういえばブラック夫人、あの珍しい保存液を作るために器具を揃えたらしい」
「そうだ、この前研究会でその話をしていた」
――そんな自然な会話の断片が、騎士団の情報屋の網に引っかかるよう仕向けられていた。
やがて、数日も経たぬうちに、騎士団内で噂は回り始めた。
だが、情報を受け取った者ほど苛立ちを覚える結果になった。
「……そんなはずはない。絶対に違法魔法薬を作成するために、この道具を揃えたんだ」
「またレギュラス・ブラックは逃げるつもりか」
彼らが睨みを強めても、レギュラス側のシナリオは傷一つない。
器具の用途は書類でも説明可能、協力者も実在、物証も全て筋書き通りにそろっている。
取り調べに呼び出す正当な理由を積み上げられなくなり、アランを魔法法廷へと引きずり出すことは、より一層難しくなった。
窓辺に立つレギュラスは、闇の外を静かに見つめていた。
彼の手の中で踊るのは事実ではない――けれど、騎士団すら噛み切れないほどの“物語”だった。
その物語こそが、今もアランの名を刃から遠ざけている。
たとえ真実が、誰の手からもこぼれ落ちる闇の底に沈んでいようとも。
書斎の窓から淡く夕陽が差し込み、机の上の羊皮紙に橙色の縁取りを落としていた。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、静かに組んだ指の上から視線を上げる。
目の前にはアランが立っている。
彼女の表情にはまだ張り詰めたものが残っていたが、その奥に探るような光も宿っていた。
「――今回、あなたが揃えてくれた魔法薬の道具ですが」
レギュラスは声の調子をあくまで柔らかく保ちながら続けた。
「表向きは、魔法植物の保護と希少種の再生計画のため、という形にします。
その活動の一環として、研究会や魔法製薬会社とも協力をし合っていく。そういう体で進めます」
机の端の羊皮紙には、既にそのための参加者リストや協賛者の名が丁寧に記されていた。
「そこで……研究会の魔法使いたちや、製薬会社の関係者を集めたパーティを開きます。
あなたには……ただ、その場にいていただければ、それで構いません」
少しの間をおいて、レギュラスはふと微笑み、低く呼びかけた。
「……アラン。というわけで……出席していただけませんか」
アランは視線を逸らすようにして、小さく答える。
「……それは……かまいませんけど……」
言葉の奥に、ゆるりとした疑問の色が滲む。
なぜこんなにも急に、これほど手の込んだことを始めるのか――
その理由に薄々勘づき始めているのだろう。
けれど、レギュラスはそこを見せないようにした。
ただ、真っ直ぐに彼女を見つめながら、静かに言葉を置く。
「……何も心配しなくて大丈夫ですから」
その声音は、壁のように堅い。
優しく包む響きの中に、これ以上は踏み込めないという確かな境界線がひそんでいた。
アランはその視線を一瞬だけ受け止め、それ以上は何も尋ねなかった。
部屋の中には、差し込む夕陽と、互いに語られなかった言葉の気配だけが、静かに満ちていた。
ブラック家の屋敷――
厚いカーテンが光を遮り、午後であるはずなのに室内はほの暗かった。
暖炉の奥の熾火だけが、低く、くすぶるように赤い光を落としている。
アランは深く椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねていた。
その前に、シリウス・ブラックが立っている。
彼の存在が部屋の空気をわずかに震わせる。
かつてなら、その灰色の瞳を真正面から見れば、胸の奥に火がつくような感情が湧いた。
けれど今、アランの心に広がるのは――懺悔、後悔、そして懇願にも似た感情ばかり。
彼の口から発せられるかもしれない言葉を予想するのが、ただ怖かった。
「……アラン。レギュラスに何をさせられてるんだ」
低く、鋭く突き刺さる声。
彼がここまで足を運んだ理由はわかっていた。
確かめに来たのだ――疑念を、その目で。
胸の奥がきゅっと締まる。
違法魔法薬を作ってしまったことは紛れもない事実。
騎士団の耳にも届いているに決まっている。
もし正直に認め、自分だけの罪として抱えられるなら――。
けれど、それをしてしまえば……レギュラスを守れなくなる。
それだけは、許されなかった。
シリウスは二歩、近づいた。
「杖も、レギュラスと同じものに変えただろ」
その声には、静かな追及の温度が滲んでいる。
「あれは……どういう意味なんだ。そうしろって言われたからなのか」
肩を掴まれ、そのまま力を込められて揺すられる。
彼の手から伝わる熱が、胸の奥の痛みに拍車をかける。
――答えられない。
喉が動かない。
嗚咽が指先からせり上がり、涙が視界を曇らせた。
何も言えず、ただ頬を伝う涙を止められなかった。
唇は固く閉じられ、罪を告白する言葉さえも重く喉に張り付いたままだった。
「……アラン……」
シリウスの声が揺れる。
けれど、その響きに縋りたくても、縋ってはいけなかった。
――許してほしい。
そう願うには、背負ったものはあまりにも深く、暗い。
ただ、涙だけがその場で全てを語り、二人の間の空気を、どうしようもない沈黙で満たしていった。
暖炉の赤い光が、揺れる影を壁に落としていた。
アランはその温もりの中に居ながら、足元から冷え込むような感覚に包まれていた。
目の前に立つシリウスは、あまりにも変わらない――十数年前、太陽のように笑って見せた青年のまま。
燃えるような熱と光を宿した瞳で、今はただ真っ直ぐに彼女を見ている。
けれど、その光はもはや恋ではなく、矢のように鋭く、容赦なく胸を射抜いた。
苦しかった。
かつて誰よりも愛した人が、今この瞬間、誰よりも恐ろしかった。
――この人はレギュラスを許さない。
その正義は、真っ直ぐ過ぎるがゆえに、躊躇なく刃となって、
自分が今抱き締めて守りたいすべてを切り裂いてしまう。
シリウスの正義では、レギュラスは救えない。
だから、何も言えなかった。
レギュラスに命を賭けて守られてしまったから。
母として、アルタイルとセレナを守らねばならないから。
そして妻として――レギュラス・ブラックという人間を最後まで支え抜くために、
この男の前では決して折れてはいけなかった。
「……シリウス……ごめんなさい……」
その声は、小さく震えていた。
「アラン、俺は……お前を救いたいんだ」
シリウスの声は切実で、迷いがなかった。
アランは首を振る。
救われたいわけではない――むしろ、救われてはならない。
自分は救われる側ではなく、救う側でいなければならない。
レギュラスを守らなければならない。
許されなくてもいい。そこに救いがなくていい。
ただ――レギュラス・ブラックという男の人生を、護り、支え、愛していたい。
「……もう、ここには来ないで……」
シリウスの瞳が驚きに見開かれる。
その奥に、衝撃と、言葉にできない絶望の色が混じる。
それでも、アランは続けた。
声は震えていたが、その意思は揺らがなかった。
「きっと私は……あなたの想う私では、いられなくなったの……
だから……もう……あなたには会えない」
沈黙が、二人の間に重く落ちた。
暖炉の火がぱちりと音を立て、その瞬間だけ影が揺らぐ。
シリウスは何か言おうとしたが、声にならなかった。
赤い炎の光が、彼の瞳の中で小さく滲み、
それが涙なのか、ただの光の反射なのか、アランにはもう確かめる勇気がなかった。
彼女は静かに視線を落とし、もう一度、ほんのわずかに首を横に振った。
それは、長い物語に終止符を打つ、小さな動きだった。
暖炉の炎はまだゆっくりと瞬きを繰り返し、赤くくすぶる光が広い客間の壁を揺らしていた。
シリウスはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
アランの最後の言葉が、頭の奥にこだまして離れない。
もう、あなたには会えない。
その響きは拒絶であり、終わりを告げる鐘の音のようでもあった。
胸の奥から熱と冷気が同時にせり上がり、呼吸がうまくできない。
しかし、彼女の表情は揺らがなかった。
涙の痕を残しながらも、決して覆らない決意の色があった。
それは、彼女が誰を守り、そしてどこに立ち続けるのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
シリウスは唇を噛み、ゆっくりと背を向けた。
その動きひとつとっても、引き裂かれるように重かった。
足音が絨毯に吸い込まれ、ドアの取っ手に触れると、背中にまだ暖炉の熱がじんわりと残っているのを感じた。
振り返れば、きっと彼女は微動だにせず自分を見送るだろう。
それでも――振り返らなかった。
見てしまえば、二度とこの場を去れなくなると分かっていたから。
ドアが静かに閉じ、廊下の薄闇が彼を包む。
その背中には、愛情と悔恨と、もう取り戻せないものの重みがひっそりと乗っていた。
客間にはアランだけが残された。
シリウスの足音が遠ざかるにつれ、室内の静けさが増していく。
ふと、胸の奥が痛み、呼吸が詰まる。
――これでいい。
そう自分に言い聞かせても、肌の内側に残ったシリウスの体温や、揺らぐ灰色の瞳の残像が消えてくれない。
守りたい人のために切り捨てたはずのものが、まだ心の奥底で疼き続けていた。
しかし、それを抱えたままでも、自分は歩ける。
歩かなければならない――レギュラスの傍で。
アランは暖炉の炎を見つめ、涙を拭わず、ただ背筋を静かに伸ばした。
屋敷の重厚な門が音もなく開き、シリウスは外の冷たい空気の中へ足を踏み出した。
夜の空気は透き通っているのに、胸の内は霞のように重たく、息を吸い込むたび痛みを伴う。
冬を告げる風がマントの裾を揺らし、少し遅れて長い髪を頬にかけた。
背後には、もう光のこぼれないブラック邸の窓。
そこにアランが立って、自分を見送っているかもしれない――そう考えるだけで、足が止まりそうになった。
けれど、振り返らなかった。振り返れば、この別れが完全に終わらないまま残ってしまうと分かっていたから。
駆け寄って、もう一度問い詰めたい気持ちは胸の奥で燻っていた。
“レギュラスに何をさせられているんだ”――答えを聞けなかった悔しさ。
そして、それ以上に、もう二度とあのまっすぐな瞳で自分を見ないと告げた彼女の言葉が、耳の奥で刺さり続ける。
アランは決めたのだ。
レギュラス・ブラックの隣に立つための生き方を選んだ。
たとえそれが闇に沈む道でも、彼女は迷わない。
それを止められない自分の無力さが、胸を締めつけた。
街道に出ると、遠くで犬の遠吠えが響いた。
懐かしい響きに似ている気がして、一瞬だけ足が鈍る。
だが、それもすぐに硬い靴音にかき消された。
――救えないのなら、少なくとも見届ける。
それが自分に残された唯一の役割だと、シリウスは心の奥で呟く。
星明りの下、彼の背中は黙して闇へと溶けていった。
その背に、アランの声も、暖炉の光も、もう届くことはなかった。
アランは、しばらく暖炉の前から動けなかった。
指先には、さっきまで肩を掴まれていた感触がかすかに残っている。
それが痛みなのか、温もりなのか、自分でも判別できなかった。
ふと視線を上げると、客間のカーテンの隙間から、外の闇が覗いていた。
吸い寄せられるように立ち上がり、重い布をそっと開く。
外の石畳の道――
シリウスの背中が、夜の中へと遠ざかっていくのが見えた。
迷いも振り返りもしないその歩みは、まるで彼自身が決別を選び取った証のように揺るぎない。
アランは、唇を強く噛んだ。
胸の奥からせり上がるものを必死で堪えながら、ただその背中を見送る。
今、ここで呼び止めてしまえば、全てが崩れる――そう分かっていた。
だからこそ、声は出せなかった。
去っていく影はやがて角を曲がり、完全に夜に溶けた。
その瞬間、窓ガラスに映る自分の顔が、思っていたよりもずっと硬く、冷たいものに見えて、
アランはそっと布を閉じた。
背を向け、暖炉の前に戻る。
炎は弱まり始めていたが、その残り火の赤が、小さな心の芯だけを温めてくれる気がした。
――これでいい。
守りたい人のために切り捨てたのだ。
哀しみも後悔も、この胸だけで抱えればいい。
アランは瞼を閉じ、深く息を吸った。
その吐息は静かに揺れる火に溶け、客間は再び、炎の小さな音だけを響かせていた。
夜も更け、ブラック邸の玄関ドアが重く音を立てて閉まる。
外の冷え切った空気を背中に残したまま、レギュラスはマントを脱ぎ、足早に廊下を進んだ。
出迎えたのは、どこか気まずげな顔のクリーチャーだった。
「……お帰りなさいませ、旦那様。――先ほど、シリウス様がお見えになっておりました」
その言葉は、短くとも鋭利な刃のように鼓膜を打った。
一瞬、呼吸が詰まり、胸の奥で熱が爆ぜる。
焦燥と苛立ちが一気にせり上がる。
――この状況で、アランがシリウスと接触するとは。
騎士団や魔法省の疑念からアランを外すために、今日までどれほど慎重に策を巡らせてきたか。
それを、わざわざ揺らがせるような真似を。
何を話したのか。何を聞かれたのか。
まさか――互いの過去を持ち出すような会話まで。
そう思うと、胸に灯った苛立ちの火はさらに勢いを増した。
居間に入ると、アランは静かに立っていた。
暖炉の光が彼女の頬を柔らかく照らし、その表情を半ば影に沈めている。
「……アラン。シリウスが来たんですね」
できるだけ平坦に保とうとした声に、しかし微かに鋭さが滲む。
「……ええ」
それだけ。短く、触れるだけの返答。
その淡白さが、火に油を注ぐ。
今この時に、もっと言うべきことがあるだろう――
その感情が、体の芯から込み上げてきた。
一歩踏み寄り、低く問う。
「……何を話したんです」
自分の声が、思ったよりも冷たく震えているのに気づく。
シリウスの来訪が、これほどまでに神経を逆撫でしたのは――
それが、自分の計画を崩しかねない脅威であり、焦燥の根であると同時に、
彼女の心の奥の、たとえ僅かでも自分に向かぬ温度を見せられることへの恐れだった。
暖炉の炎が静かに爆ぜる音だけが、二人の間に横たわっていた。
暖炉の炎が低く燻り、壁に揺れる影が二人の距離をさらに濃く浮かび上がらせていた。
アランは椅子に腰を下ろし、膝の上で組んだ手を軽く重ねたまま、視線だけをレギュラスに向ける。
「……シリウスたち騎士団は、何か勘付いているようですね……」
その声音は、事実をただ告げるだけの淡々とした調子だった。
危機を共有する場面としてはあまりにも人事めいていて、そこに焦りや恐怖は滲まない。
むしろ、あけすけなその冷静さが、レギュラスの胸を逆なでしていく。
「だから、こうして僕が動いているんです」
低く切り返す声に、鋭い熱が混じった。
「その疑いが、別のシナリオにすり替わるよう、抜け目なく整えている。――ここまで綿密に練った計画も、あなたがシリウスに何を話したのか次第では台無しですが?」
最後の一文は、もう棘などという柔らかなものではなかった。
真新しい刃のように、はっきりとした鋭さでアランの胸元へ押し当てられる。
「……何も話していません」
アランは少しも動じないように見えた。
「では――何を話したんです」
レギュラスの声はさらに冷たく、低く沈む。
心の奥では、答えなど信じる気はなかった。
何も話していないわけがない――相手がシリウスであり、アランなのだから。
この二人がかつて、どれほど深く思い合っていたのか。
それを誰よりも痛いほど知っている。
何度、その事実に胸を焦がし、嫉妬の炎で焼き尽くされそうになったことか。
「……もう二度と、ここには来ないことを約束していただきました」
アランが静かに告げたその言葉に、レギュラスは思わず鼻で短く笑った。
「……そんなわけがない」
声の奥に、冷ややかな確信が滲む。
アランから、あのシリウスを完全に拒絶しきれるはずがない。
十数年の間、隣に立ち続けながら、決して心の奥で彼を手放しきれなかった――その様を、レギュラスは見てきた。
だからこそ、その嘘を見破ることなど、息をするより容易かった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てて弾ける。
その一瞬の明滅が、二人の間に漂う疑念と嫉妬の色を、いっそう際立たせていた。
暖炉の炎が壁に長く揺れる影を落としていた。
重たい沈黙の中、アランはゆっくりと立ち上がり、ためらいなくレギュラスの手を取った。
その手の温もりは、冬の夜気に冷えた指先に深く染み込んでいく。
「……レギュラス。私が必ずあなたを守ります。だから、心配しないで」
その声音は穏やかで、震えるほどに胸を揺らす言葉だった。
一音一音が優しく、決意を帯びて響く――はずだった。
けれど、耳に届きながらも心の奥底には届かない。
そこには、どうしても拭えない影があった。
アランの中には、絶対にシリウスがいる。
ずっとそうだった。
それを分かっているから、その言葉がまるで何かを隠すための、白々しい覆いにしか聞こえなかった。
嘘ではないかもしれない。それでも真実のすべてではない――そう思えてならない。
ここで「ありがとう」と言って彼女を抱きしめ、
すべてを見なかったことにしてしまえたら、どれほど楽か。
だが、そうできるほど自分は鈍感でも、従順でもなかった。
飲み込めないものが、まだ喉元に鋭く詰まっている。
「……何を持って、それを証明できるんです?」
低く、冷ややかに吐き出したその言葉は、決定的だった。
曖昧な態度や無難な慰めをすべて排除し、明確な答えを突きつけろと迫る。
逃げ道は与えない。
アランの瞳が悲しげに震える。
だがその奥に――もしや、まだシリウスの影が揺らめいているのではないか。
そう思うと、レギュラスは睨むように視線を合わせた。
炎の色が二人の間に漂う緊迫を赤く染め、
互いの呼吸すら、その場の空気をさらに硬くしていった。
アランは、レギュラスの言葉を受けてしばし口を開けなかった。
暖炉の火がぱちりと弾け、その小さな音だけが二人の間に割り込む。
証明――それはあまりにも直線的で、あまりにも重たい要求だった。
心の奥底で、何を差し出せば彼の疑いを払えるのかを必死に探る。
抱擁か、口づけか、それとももっと目に見える何かか。
けれど、彼が求めているのは行為ではなく、揺るぎのない確信だ。
そのことを理解しているからこそ、言葉が見つからない。
「……私には……」
かすれる声が、そこで途切れた。
喉元まで上った言葉を飲み込み、視線が床へと逸れていく。
真っすぐに彼を見つめられない――見れば、自分の瞳の奥にまだ影を探そうとする彼の視線に、何もかも見透かされそうだから。
それでも、沈黙は逃避だと分かっている。
答えなければ、このままでは疑いは深まる一方だ。
レギュラスは微動だにせず、冷たく澄んだ眼差しで彼女を見据えていた。
そこには怒りもあるが、それ以上に、信じきりたいのに信じられない苛立ちが渦巻いている。
――結局、彼女は何も示せないのか。
そんな想いが胸に広がり、さらに視線を鋭くさせる。
「レギュラス……」
ようやく彼の名がか細く呼ばれる。
その瞬間、レギュラスは一歩踏み出し、アランとの距離を詰めた。
その距離は触れられるほど近いが、なお遠い。
炎の赤が二人の間で揺れ、証明を求める言葉は消えないまま、
重く息苦しい沈黙が、またしても二人を包み込んでいった。
暖炉の赤い炎が、二人の影を長く揺らしていた。
アランの手が、レギュラスの手をしっかりと包み込んでいる。
その温もりは確かで、指先のわずかな震えさえも切実さを伝えてきた。
――信じたい。
胸の奥でそう思う気持ちは確かにある。
だが、その信頼に完全に身を委ね、もしも見過ごしてはならないものまで盲目にしてしまったら――。
その恐れが、鋭い棘のように心を締めつけていた。
「……この手を離せと言えば、離しますか?」
低く、抑えた声で問いかける。
「――いいえ。離しません。絶対に」
アランの返事は迷いがなかった。
その言い切る調子が、かえって胸をざらつかせる。
ならば、と考えた。
彼女が語る“守る”という言葉の真の温度を、確かめたくなった。
あまりにも卑しい試みだという自覚はあった。
けれど、そうでもしなければ、この胸に募る猜疑の霧は晴れない。
レギュラスにとって、“シリウス”という名は、全てが許され難いものだった。
その存在がこの世から跡形も無く消え去る――それほどの事が起きなければ、安堵という感覚には一歩も近づけそうになかった。
だからこそ、その口から放たれた。
「――なら、あなたの手で……シリウス・ブラックを殺せますか」
沈黙が、炎よりも熱く肌を焼いた。
問われた意味は明白だった。
その声は決して強くはないのに、確実に鋼のような重みを帯びていた。
アランの瞳が大きく揺らぐ。
それは恐れか、怒りか、あるいは絶望か――判別のつかない感情が、炎の赤を映して複雑に揺れている。
それでもレギュラスは視線を逸らさなかった。
その瞳の奥に、シリウスの影が一片たりとも残っていないことを、今、この瞬間に確かめたかった。
呼吸すら忘れた沈黙の中、燃える薪の音だけが、静かに二人の心を切り裂いていた。
レギュラスは、短く放たれたアランの「……わかりました」という声を、静かに胸の奥で噛みしめた。
その響きは、承諾の形をしていながら、温度をほとんど伴っていない。
同意なのか、諦めなのか――あるいは、ただ自分を安心させようとしただけの方便なのか。
黒い瞳の奥で疑念と安堵がぶつかり合い、どちらも相手を押し退けきれずに渦を巻く。
“信じたい”という欲望と、“信じきれない”という恐怖が、胸の奥でせめぎ合っていた。
「……そうですか」
吐き出された言葉は異様に静かで、微かな感情すら削り落としたようだった。
握られたままの手に視線を落とす。
その細い指は確かに熱を持ち、力強く自分を掴んでいる。
けれど、その温もりですら、まだ底の底まで自分のものだとは言い切れない。
――どこまで沈めば、本当にこの手の奥を掴めるのだろう。
レギュラスはゆっくりと彼女の手を包み返した。
だが、それは抱擁ではなかった。
むしろ、その手の中の僅かな緩みや迷いを探るための、静かで硬い確かめだった。
「……その覚悟、近いうちに証明してもらいます」
低く響くその言葉は、未来の試練の予告であり、逃げ道を塞ぐ鎖だった。
炎がぱちりと弾け、二人の影が一瞬だけ重なって揺れる。
アランはその視線の重さを正面から受けながらも、指先の力を決して緩めなかった。
たとえその先に待つものが、どれほど険しいものであったとしても――。
会場の喧騒は変わらず、笑い声と杯が触れ合う音が華やかに響いていた。
けれど、アランの耳にはそれらが水の底で聞くように遠く、鈍く感じられた。
腰に回されたレギュラスの手は、人前のそれらしい優しさを装いながらも、その掌の奥に別の温度を隠している。
終盤、円卓に並んだ料理の香りが満ちる中、レギュラスは笑顔のまま、アランを次の客人のもとへと導いた。
周囲から見れば、気遣い深い伴侶が妻を伴って歩く姿にしか映らないだろう。
だが――近づいたその横顔から、低く抑えた声が耳元へ滑り込む。
「……この笑顔を、最後まで崩さずにいてください」
囁きは甘やかに聞こえながら、その底には確信を試すような硬さがあった。
まるで「その強さを見せ続けられるのか」と問いかけられているようだった。
アランは咄嗟に視線を上げ、横顔を見た。
レギュラスの青白い光を宿した目は、微笑みの形を保ちながらも、一点の油断も許さない緊張を帯びている。
胸の奥に、あの日の会話が甦る――
シリウス・ブラックを、殺せますか。
張り詰めた弦がまた軋む。
それでも、アランは息を殺し、指先に力をこめて首肯いた。
微笑を一切崩さずに。
彼の試しに応えるように。
会場の灯りは煌々と二人を照らし、人々の視線は絶え間なく注がれている。
心は遠くに置かれたまま、アランは社交的な笑みという仮面を、さらに硬く結わえた。
――たとえ、その裏で何を握りつぶされようとも。
宴のざわめきがようやく薄れ、最後の客人の背が会場の扉へと消えていった。
残されたのは、まだ熱を帯びた空気と、テーブルの上に並ぶ飲み残しのグラス、ひしゃげたナプキンの白。
アランは、ようやく笑みを解き、深く息を吐いた。
その吐息には、長時間張り詰め続けた体中の筋肉の緊張が混じっている。
腰に添えられていたレギュラスの手も離れ、しばし自由になった感覚に肩がわずかに落ちた。
背後でカチリと扉が閉まり、会場は二人きりになる。
振り返ると、レギュラスが静かにグラスを指でなぞっていた。
笑みは完全に消えていて、その視線は濁りなく真っ直ぐにアランだけを射抜いてくる。
「……最後まで、よくやりましたね」
声は柔らかいが、その奥に漂う温度は測りかねる。
褒め言葉のようでいて、試験の結果を淡々と告げられているようにも思える響きだった。
アランは視線を合わせたまま、小さく頷く。
「……約束しましたから」
短い返答に、レギュラスの唇が僅かに弧を描く。が、それは安堵よりも観察の色が強い。
「ええ……そして、その約束をあなたが本当に守れるのか――僕はまだ、確かめなければならない」
暖炉の火が静かに爆ぜ、その言葉に区切りを与えた。
アランは目を伏せ、その音にしばらく耳を預けた。
覚悟はしている。けれど、この人が次に何を差し出させようとするのか――胸の奥がひそやかに疼いた。
夜半近く、宴の喧騒が完全に遠のいた寝室は、厚いカーテンに遮られ、かすかなランプの灯りだけが漂っていた。
華やいだ声と笑顔を貼り付け続けた数時間の後、その静けさは耳に沁みるほど深い。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろすなり、背後にいるアランを振り返った。
視線が重なった刹那、胸の奥に溜まり続けていた渇きが疼いて、ためらいなく彼女を抱き寄せる。
そのまま押し倒し、確かにそこにある温もりを、貪るように求めた。
軽く開いた唇が応じ、細い指が背に触れる感触に安堵が滲む。
当然のように許容される――その自然さが、ひどく甘く、そして危うい。
口付けの間に、アランの声が掠れた。
「……レギュラス……」
泣きそうな響きだった。
息を吸い込み、彼は舌先でその名を含みながら、唇を離す。
瞳を覗き込み、低く問いかけた。
「――何に、泣きそうなんです?」
答えはまだ返らない。
その沈黙の中で、レギュラスの脳裏にはあまりにも鮮やかな疑念がよぎる。
溢れ出しそうなその感情は――自分への愛なのか。
それとも、シリウス・ブラックという影に向けられた想いなのか。
手に入れたと思っては揺らぐ。
アランという女は、本当に――その繰り返しだった。
絡め取っても、繋ぎ止めても、網の目からこぼれていく水のように掴みきれず、苛立ちと焦燥ばかりが胸を満たす。
闇の帝王の前で彼女を救ったときの決死。
分霊箱の秘密を差し出して得た一瞬の命の猶予。
亡者の湖も、死の森の沼も共にくぐり抜けた日々。
“守る”と告げた彼女の震える声――あれは確かに幸福の証だった。
長く片思いを続け、ようやく掴んだと思えた愛だった。
……だが、シリウスが接触した瞬間、やはり揺れた。
姿を見なくても分かる。
それを打ち払うために、「シリウスを殺せ」と試すしかなかった。
シリウスが生きている限り、自分に安寧は訪れない――そう思えば、あれは必然の言葉だった。
アランの頬を手で包み、再び口付けを落とす。
その唇の温かさの奥に、何が潜んでいるのか。
祈るように確かめながらも、胸の内で渦巻く問いは消えてくれなかった。
騎士団の詰所の一隅。
黄ばんだランプが静かに唸り、剥き出しの木の机の上には羊皮紙と半分飲み残したコーヒーが転がっていた。
ジェームズ・ポッターは、隣の椅子に深く腰を下ろしているシリウスを横目に見た。
机上の報告には、錬金用の銀皿、温度安定炉、精密計量管——アラン・ブラックが揃えた魔法薬の道具の詳細。
それは、違法魔法薬を作るための典型的な組み合わせであり、その背後にはレギュラス・ブラックと闇の陣営の影がちらついていると示唆する内容だった。
「……確証がないうちは、責められない」
シリウスは低く、短くそう言った。
それは理屈というより、叫びだった。
ジェームズは、その声音の奥にあるものを知っていた。
この男はアラン・セシールを愛し続けてきた。
彼女が、闇の魔術に手をかけたかもしれないと、自分の口で断じなければならない事実が——耐え難い苦痛になることを、理解しすぎるほど理解していた。
だから、何も言えなかった。
日々が過ぎる間に、ジェームズの目にもはっきりと映った。
レギュラス・ブラックの手際の速さと狡猾さ。
彼はすぐさま魔法薬製薬会社や研究会と繋がり、アランが揃えた道具を「希少薬草の保護・研究のため」という活動に書き換え、それを世間に定着させてしまった。
美しい物語と書類と証言が揃えば、もう追い詰める糸口はない。
——また逃げられた。
そう思っても、不思議と隣の友を責める気持ちは湧かなかった。
幾年経とうと、シリウスの人生はアランという女の影で彩られ、絡みつき続けてきた。
彼は、かつてアランに託されたアリス・ブラックを立派に一人で育て上げた。
そして、アランとレギュラスとの間の二人の子供を、ホグワーツの教師として導いてきた。
笑顔を見せる子供たちの後ろには、いつも彼女の面影があった。
ジェームズは、それを痛いほど見てきた。
だからこそ——正義が何か、正しさとは何かをここで説くことは、彼の胸にはあまりにも酷だった。
視線を落としながら、ジェームズはただランプの灯りが揺れるのを見つめていた。
沈黙は、理解と哀惜を包み込み、二人の間に野暮な言葉を許さなかった。
魔法省の廊下は昼の喧騒を少し外れ、足音が響けばすぐに遠くまで届くほど静かだった。
磨き上げられた大理石の床に、背の高い窓から吹き込む淡い光が長く落ちている。
レギュラスは、革張りのファイルを片手に歩いていた。
中には、魔法薬研究の成果として体裁よくまとめた報告書が収められている。
実際の成果など重要ではない――必要なのは、アランが製薬会社や研究会と共に行った活動が「確かに」価値あるものであったと、公式に、そして説得力をもって印象付けることだった。
そのための舞台装置にすぎない紙束を、彼は何気なく抱えていた。
廊下の曲がり角で、ジェームズ・ポッターとすれ違った。
ジェームズは片手をポケットに突っ込み、足を止め、薄く笑う。
「見事だったよ。君は……本当に、いつも完璧すぎるほどに出来てる」
その声音は軽やかにも聞こえるが、瞳の奥は笑っていなかった。
冷えた光が、ほんの一拍だけ、レギュラスの目を射抜く。
レギュラスは立ち止まり、柔らかな表情を崩さずに首を傾げる。
「……何のことでしょう」
ジェームズの口角が僅かに上がる。
「君のその完璧な切り口で――そろそろシリウスに、アラン・セシールを本気で諦めさせてやってくれないかと思ってね」
淡々とした物言い。だが内側には火照りとは別の熱――刺すような棘が潜んでいることを、レギュラスはすぐに察した。
「……ポッターさん。アラン・セシールではなく……アラン・ブラックですので」
さらりと修正する声は低く、言外に境界を突きつける冷たさを孕んでいた。
一瞬、空気の温度が下がる。
見えない火花が、互いの間でじりじりと散る。
どちらも声を荒らすことはなく、それでいて歩み寄る余地を与える気配もなかった。
レギュラスはわずかに頭を下げ、姿勢正しく礼をしてから、そのまま歩を進めた。
視線はもう、ジェームズの肩越しの奥を見据えている。
――シリウスに、アランを「諦めさせる」つもりはない。
そんな生ぬるい終わり方を与える気もない。
もし手放しきれない想いだというのなら――その想いごと、永遠に沈めればいい。
廊下の先へと遠ざかる背中には、研ぎ澄まされた意思だけが、無音の刃のように張り詰めていた。
ジェームズは、その背中が廊下の向こうへ小さくなっていくのを、しばらく無言で見送っていた。
革靴が石床を打つ乾いた音が、徐々に遠ざかり、やがて消える。
静寂が戻った瞬間、胸の奥に鈍いものが沈んだ。
――やはり、あの男は手強い。
切り返しひとつ、視線ひとつにしても、一切の隙を与えない。
そして、そうして守ろうとしているのは紛れもなくアランだ。
それが彼個人の執着か、夫としての誇りか、あるいはもっと深い闇なのか――掴み切れないまま、事態だけが形を変えていく。
ジェームズは肩で小さく息をつき、歩き出した。
足取りは穏やかだが、思考は重たく絡まっている。
シリウスの顔が思い浮かんだ。
親友は、どれほど時を経てもアランを諦められずにいて――それを見抜き、さらに深く沈めようとしているのが、あのレギュラス・ブラックだ。
まるで感情と記憶を氷の底に閉じ込め、蓋の上から鎖を幾重にも巻きつけるように。
解くには、正面からぶつかるだけでは足りないだろう。
――このままでは、シリウスはまた傷つく。
その予感が喉の奥に重く残った。
けれど、それを口にすれば、彼の誇りを踏み荒らすだけになると分かっている。
だから、ジェームズは何も言わない。
今はただ、嵐のような二人の関係がどう流れ着くのかを、目を逸らさずに見届けるしかなかった。
廊下の窓から差し込む陽光が、彼の横顔を淡く照らす。
けれど、その視線の先にあるのは光ではなく、これから訪れるであろう、長い影だった。
遮光カーテンの隙間から差す陽が、机の上の革張りの書類束を鋭く切り裂くように照らしている。
レギュラスは深く椅子に腰を下ろし、指先で机の縁をゆっくりと叩いていた。
そのリズムはいつもよりわずかに早く、不規則で、胸の奥に渦巻く苛立ちを隠しきれていない。
魔法省が――アランが仕入れた魔法薬調合の器具を掴んでいる。
それが何を意味するか、想像するのは容易かった。
材料はセブルスに頼み、足がつかないよう綿密に手配した。
だが――器具の入手は盲点だった。
わかる者が見れば、あの組み合わせが違法魔法薬の調合に用いられることは明らか。
実際、今ごろ魔法省の中では、アランの背に複数の疑念が掛かっているだろう。
「……抜かった」
低く、自分にだけ聞こえる声で吐き出す。
それは失態を責める声というより、彼女を危険から遠ざけられなかったことへの焦燥だった。
どう守る――。
アラン自身に疑惑が掛かった時点で、ただ否定するだけでは足りない。
証拠を摘み取り、噂の芽を踏み潰し、必要ならば証人すら消す……。
けれど、それらはすべて綱渡りだ。
ひとつでも踏み外せば、彼女も、自分も、一瞬で奈落へ落ちる。
右手が無意識に握られ、指先の関節が白くなる。
深呼吸を試みても、胸の奥の熱は冷えない。
アランには、まだ何も悟らせるわけにはいかない。
無用な不安を与えれば、それこそ魔法省の目を引く結果になる。
彼女にはただ、いつも通り――疑念の刃が背後まで迫っていることなど知らずにいてほしい。
窓辺の影が伸び、書斎の壁に彼の横顔を鋭く映し出す。
その黒い瞳の奥には、感情を押し殺そうとする冷たさと、愛ゆえの苛烈な闘志が同居していた。
――守る。必ず。
どんな形であれ、彼女の名が裁きの場に上がることは、この手で阻む。
ペン先が羊皮紙に音を立てた。
その動きは、もう迷いではなく、具体的な手順を描くためのものだった。
彼の瞼は一度も瞬かず、ただ紙面に、彼だけが知る防衛策が静かに記されていった。
書斎の扉が、ためらうような音を立てて開いた。
そこに立っていたのはアランだった。
ほの暗い室内に差し込む廊下の灯りが、彼女の髪と肩をやわらかく縁取っている。
レギュラスは反射的に、机上の羊皮紙をさっと裏返した。
インクの香りが一層強く立ち上り、その仕草の急さを自分でも悟る。
「……まだ寝ないのですか?」
アランの声は静かで、責める色よりも案じる響きが強かった。
「あっ……ああ、ええ。少し片付けたい仕事がありまして」
瞬きを一つし、あくまで平坦な口調で返す。
彼女の視線が、机と彼の間を行き来するのを敏感に感じながら。
アランはそっと歩み寄り、距離を詰めすぎぬ場所で立ち止まった。
その瞳には、眠る時間を失ってまで机に向かう夫へのほんの少しの憂いが宿っている。
「……でも、もう遅いです」
声は柔らかく、促す調子。
レギュラスは一瞬視線を伏せ、それから笑みを作った。
「すぐに片付けていきますね」
その笑みは、彼女を安心させるためのものだった。
けれど胸の奥では、別の痛みが鈍く疼いていた。
――あの夜、アランに緩やかに拒絶された感触は、まだ消えない。
自分の手を制し、名前だけを呼んだあの声。
以降、触れ合い一つにも僅かな迷いが生まれた。
だからこそ、今こうして寝室に呼びに来てくれたことは、思いがけない嬉しさだった。
まだ自分を気にかけ、立ち上がらせようとしてくれる――その事実が、心の底で確かに温かく光を灯す。
だが同時に、その温もりよりも優先せねばならない事が、この目の前に広げられている。
守らねばならない。
彼女の名と未来を、この羊皮紙の上の策で守る――今は、それだけが自分の使命だった。
「……本当にすぐ終わらせます」
小さくそう繰り返すと、アランは短く頷き、廊下の明かりを残して静かに扉を閉じた。
残された書斎には、インクの匂いと、置いていった温もりの境界が、はっきりと空気の中に残っていた。
書斎の空気は、夜が更けてもなお重く澱んでいた。
机の上には、魔法省が疑いをかけたあの魔法薬調合の道具の写し絵と、羊皮紙に細かく書き込まれた新たな計画案が広がっている。
レギュラスは、片手でこめかみを押さえ、もう片方の手でペンを走らせた。
――全てを別の用途へとすり替える。
これらの器具は違法魔法薬ではなく、「希少薬草保存用の魔力調律液」の制作に使った、というシナリオ。
銀製の溶解皿は、高温で反応しやすい薬草の水分を飛ばす「保存処理」に。
温度を一定に保つ魔力炉は、保存液の魔力濃度を安定させるため。
精密な水銀式計量管は、保存液の滴下速度を正確に測るため――。
さらに、これらの器具が屋敷に届いた目的は「魔法植物学の研究用」という名目に置き換えた。
その研究は、魔法植物の保護と希少種の再生計画に関わる慈善活動の一環という、美しい外殻を与える。
だが、ただ作り話をでっち上げても意味はない。
この物語は、別のものの口から流れる必要がある。
レギュラスは周到に、魔法植物学に名を持つ小規模な研究会を通じ、この話を通しておいた。
そこから、彼らの古くからの「協力者」にあたる商人の口に乗せ、偶然を装って騎士団の耳へと入るように。
「そういえばブラック夫人、あの珍しい保存液を作るために器具を揃えたらしい」
「そうだ、この前研究会でその話をしていた」
――そんな自然な会話の断片が、騎士団の情報屋の網に引っかかるよう仕向けられていた。
やがて、数日も経たぬうちに、騎士団内で噂は回り始めた。
だが、情報を受け取った者ほど苛立ちを覚える結果になった。
「……そんなはずはない。絶対に違法魔法薬を作成するために、この道具を揃えたんだ」
「またレギュラス・ブラックは逃げるつもりか」
彼らが睨みを強めても、レギュラス側のシナリオは傷一つない。
器具の用途は書類でも説明可能、協力者も実在、物証も全て筋書き通りにそろっている。
取り調べに呼び出す正当な理由を積み上げられなくなり、アランを魔法法廷へと引きずり出すことは、より一層難しくなった。
窓辺に立つレギュラスは、闇の外を静かに見つめていた。
彼の手の中で踊るのは事実ではない――けれど、騎士団すら噛み切れないほどの“物語”だった。
その物語こそが、今もアランの名を刃から遠ざけている。
たとえ真実が、誰の手からもこぼれ落ちる闇の底に沈んでいようとも。
書斎の窓から淡く夕陽が差し込み、机の上の羊皮紙に橙色の縁取りを落としていた。
レギュラスは椅子に腰を下ろし、静かに組んだ指の上から視線を上げる。
目の前にはアランが立っている。
彼女の表情にはまだ張り詰めたものが残っていたが、その奥に探るような光も宿っていた。
「――今回、あなたが揃えてくれた魔法薬の道具ですが」
レギュラスは声の調子をあくまで柔らかく保ちながら続けた。
「表向きは、魔法植物の保護と希少種の再生計画のため、という形にします。
その活動の一環として、研究会や魔法製薬会社とも協力をし合っていく。そういう体で進めます」
机の端の羊皮紙には、既にそのための参加者リストや協賛者の名が丁寧に記されていた。
「そこで……研究会の魔法使いたちや、製薬会社の関係者を集めたパーティを開きます。
あなたには……ただ、その場にいていただければ、それで構いません」
少しの間をおいて、レギュラスはふと微笑み、低く呼びかけた。
「……アラン。というわけで……出席していただけませんか」
アランは視線を逸らすようにして、小さく答える。
「……それは……かまいませんけど……」
言葉の奥に、ゆるりとした疑問の色が滲む。
なぜこんなにも急に、これほど手の込んだことを始めるのか――
その理由に薄々勘づき始めているのだろう。
けれど、レギュラスはそこを見せないようにした。
ただ、真っ直ぐに彼女を見つめながら、静かに言葉を置く。
「……何も心配しなくて大丈夫ですから」
その声音は、壁のように堅い。
優しく包む響きの中に、これ以上は踏み込めないという確かな境界線がひそんでいた。
アランはその視線を一瞬だけ受け止め、それ以上は何も尋ねなかった。
部屋の中には、差し込む夕陽と、互いに語られなかった言葉の気配だけが、静かに満ちていた。
ブラック家の屋敷――
厚いカーテンが光を遮り、午後であるはずなのに室内はほの暗かった。
暖炉の奥の熾火だけが、低く、くすぶるように赤い光を落としている。
アランは深く椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねていた。
その前に、シリウス・ブラックが立っている。
彼の存在が部屋の空気をわずかに震わせる。
かつてなら、その灰色の瞳を真正面から見れば、胸の奥に火がつくような感情が湧いた。
けれど今、アランの心に広がるのは――懺悔、後悔、そして懇願にも似た感情ばかり。
彼の口から発せられるかもしれない言葉を予想するのが、ただ怖かった。
「……アラン。レギュラスに何をさせられてるんだ」
低く、鋭く突き刺さる声。
彼がここまで足を運んだ理由はわかっていた。
確かめに来たのだ――疑念を、その目で。
胸の奥がきゅっと締まる。
違法魔法薬を作ってしまったことは紛れもない事実。
騎士団の耳にも届いているに決まっている。
もし正直に認め、自分だけの罪として抱えられるなら――。
けれど、それをしてしまえば……レギュラスを守れなくなる。
それだけは、許されなかった。
シリウスは二歩、近づいた。
「杖も、レギュラスと同じものに変えただろ」
その声には、静かな追及の温度が滲んでいる。
「あれは……どういう意味なんだ。そうしろって言われたからなのか」
肩を掴まれ、そのまま力を込められて揺すられる。
彼の手から伝わる熱が、胸の奥の痛みに拍車をかける。
――答えられない。
喉が動かない。
嗚咽が指先からせり上がり、涙が視界を曇らせた。
何も言えず、ただ頬を伝う涙を止められなかった。
唇は固く閉じられ、罪を告白する言葉さえも重く喉に張り付いたままだった。
「……アラン……」
シリウスの声が揺れる。
けれど、その響きに縋りたくても、縋ってはいけなかった。
――許してほしい。
そう願うには、背負ったものはあまりにも深く、暗い。
ただ、涙だけがその場で全てを語り、二人の間の空気を、どうしようもない沈黙で満たしていった。
暖炉の赤い光が、揺れる影を壁に落としていた。
アランはその温もりの中に居ながら、足元から冷え込むような感覚に包まれていた。
目の前に立つシリウスは、あまりにも変わらない――十数年前、太陽のように笑って見せた青年のまま。
燃えるような熱と光を宿した瞳で、今はただ真っ直ぐに彼女を見ている。
けれど、その光はもはや恋ではなく、矢のように鋭く、容赦なく胸を射抜いた。
苦しかった。
かつて誰よりも愛した人が、今この瞬間、誰よりも恐ろしかった。
――この人はレギュラスを許さない。
その正義は、真っ直ぐ過ぎるがゆえに、躊躇なく刃となって、
自分が今抱き締めて守りたいすべてを切り裂いてしまう。
シリウスの正義では、レギュラスは救えない。
だから、何も言えなかった。
レギュラスに命を賭けて守られてしまったから。
母として、アルタイルとセレナを守らねばならないから。
そして妻として――レギュラス・ブラックという人間を最後まで支え抜くために、
この男の前では決して折れてはいけなかった。
「……シリウス……ごめんなさい……」
その声は、小さく震えていた。
「アラン、俺は……お前を救いたいんだ」
シリウスの声は切実で、迷いがなかった。
アランは首を振る。
救われたいわけではない――むしろ、救われてはならない。
自分は救われる側ではなく、救う側でいなければならない。
レギュラスを守らなければならない。
許されなくてもいい。そこに救いがなくていい。
ただ――レギュラス・ブラックという男の人生を、護り、支え、愛していたい。
「……もう、ここには来ないで……」
シリウスの瞳が驚きに見開かれる。
その奥に、衝撃と、言葉にできない絶望の色が混じる。
それでも、アランは続けた。
声は震えていたが、その意思は揺らがなかった。
「きっと私は……あなたの想う私では、いられなくなったの……
だから……もう……あなたには会えない」
沈黙が、二人の間に重く落ちた。
暖炉の火がぱちりと音を立て、その瞬間だけ影が揺らぐ。
シリウスは何か言おうとしたが、声にならなかった。
赤い炎の光が、彼の瞳の中で小さく滲み、
それが涙なのか、ただの光の反射なのか、アランにはもう確かめる勇気がなかった。
彼女は静かに視線を落とし、もう一度、ほんのわずかに首を横に振った。
それは、長い物語に終止符を打つ、小さな動きだった。
暖炉の炎はまだゆっくりと瞬きを繰り返し、赤くくすぶる光が広い客間の壁を揺らしていた。
シリウスはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
アランの最後の言葉が、頭の奥にこだまして離れない。
もう、あなたには会えない。
その響きは拒絶であり、終わりを告げる鐘の音のようでもあった。
胸の奥から熱と冷気が同時にせり上がり、呼吸がうまくできない。
しかし、彼女の表情は揺らがなかった。
涙の痕を残しながらも、決して覆らない決意の色があった。
それは、彼女が誰を守り、そしてどこに立ち続けるのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
シリウスは唇を噛み、ゆっくりと背を向けた。
その動きひとつとっても、引き裂かれるように重かった。
足音が絨毯に吸い込まれ、ドアの取っ手に触れると、背中にまだ暖炉の熱がじんわりと残っているのを感じた。
振り返れば、きっと彼女は微動だにせず自分を見送るだろう。
それでも――振り返らなかった。
見てしまえば、二度とこの場を去れなくなると分かっていたから。
ドアが静かに閉じ、廊下の薄闇が彼を包む。
その背中には、愛情と悔恨と、もう取り戻せないものの重みがひっそりと乗っていた。
客間にはアランだけが残された。
シリウスの足音が遠ざかるにつれ、室内の静けさが増していく。
ふと、胸の奥が痛み、呼吸が詰まる。
――これでいい。
そう自分に言い聞かせても、肌の内側に残ったシリウスの体温や、揺らぐ灰色の瞳の残像が消えてくれない。
守りたい人のために切り捨てたはずのものが、まだ心の奥底で疼き続けていた。
しかし、それを抱えたままでも、自分は歩ける。
歩かなければならない――レギュラスの傍で。
アランは暖炉の炎を見つめ、涙を拭わず、ただ背筋を静かに伸ばした。
屋敷の重厚な門が音もなく開き、シリウスは外の冷たい空気の中へ足を踏み出した。
夜の空気は透き通っているのに、胸の内は霞のように重たく、息を吸い込むたび痛みを伴う。
冬を告げる風がマントの裾を揺らし、少し遅れて長い髪を頬にかけた。
背後には、もう光のこぼれないブラック邸の窓。
そこにアランが立って、自分を見送っているかもしれない――そう考えるだけで、足が止まりそうになった。
けれど、振り返らなかった。振り返れば、この別れが完全に終わらないまま残ってしまうと分かっていたから。
駆け寄って、もう一度問い詰めたい気持ちは胸の奥で燻っていた。
“レギュラスに何をさせられているんだ”――答えを聞けなかった悔しさ。
そして、それ以上に、もう二度とあのまっすぐな瞳で自分を見ないと告げた彼女の言葉が、耳の奥で刺さり続ける。
アランは決めたのだ。
レギュラス・ブラックの隣に立つための生き方を選んだ。
たとえそれが闇に沈む道でも、彼女は迷わない。
それを止められない自分の無力さが、胸を締めつけた。
街道に出ると、遠くで犬の遠吠えが響いた。
懐かしい響きに似ている気がして、一瞬だけ足が鈍る。
だが、それもすぐに硬い靴音にかき消された。
――救えないのなら、少なくとも見届ける。
それが自分に残された唯一の役割だと、シリウスは心の奥で呟く。
星明りの下、彼の背中は黙して闇へと溶けていった。
その背に、アランの声も、暖炉の光も、もう届くことはなかった。
アランは、しばらく暖炉の前から動けなかった。
指先には、さっきまで肩を掴まれていた感触がかすかに残っている。
それが痛みなのか、温もりなのか、自分でも判別できなかった。
ふと視線を上げると、客間のカーテンの隙間から、外の闇が覗いていた。
吸い寄せられるように立ち上がり、重い布をそっと開く。
外の石畳の道――
シリウスの背中が、夜の中へと遠ざかっていくのが見えた。
迷いも振り返りもしないその歩みは、まるで彼自身が決別を選び取った証のように揺るぎない。
アランは、唇を強く噛んだ。
胸の奥からせり上がるものを必死で堪えながら、ただその背中を見送る。
今、ここで呼び止めてしまえば、全てが崩れる――そう分かっていた。
だからこそ、声は出せなかった。
去っていく影はやがて角を曲がり、完全に夜に溶けた。
その瞬間、窓ガラスに映る自分の顔が、思っていたよりもずっと硬く、冷たいものに見えて、
アランはそっと布を閉じた。
背を向け、暖炉の前に戻る。
炎は弱まり始めていたが、その残り火の赤が、小さな心の芯だけを温めてくれる気がした。
――これでいい。
守りたい人のために切り捨てたのだ。
哀しみも後悔も、この胸だけで抱えればいい。
アランは瞼を閉じ、深く息を吸った。
その吐息は静かに揺れる火に溶け、客間は再び、炎の小さな音だけを響かせていた。
夜も更け、ブラック邸の玄関ドアが重く音を立てて閉まる。
外の冷え切った空気を背中に残したまま、レギュラスはマントを脱ぎ、足早に廊下を進んだ。
出迎えたのは、どこか気まずげな顔のクリーチャーだった。
「……お帰りなさいませ、旦那様。――先ほど、シリウス様がお見えになっておりました」
その言葉は、短くとも鋭利な刃のように鼓膜を打った。
一瞬、呼吸が詰まり、胸の奥で熱が爆ぜる。
焦燥と苛立ちが一気にせり上がる。
――この状況で、アランがシリウスと接触するとは。
騎士団や魔法省の疑念からアランを外すために、今日までどれほど慎重に策を巡らせてきたか。
それを、わざわざ揺らがせるような真似を。
何を話したのか。何を聞かれたのか。
まさか――互いの過去を持ち出すような会話まで。
そう思うと、胸に灯った苛立ちの火はさらに勢いを増した。
居間に入ると、アランは静かに立っていた。
暖炉の光が彼女の頬を柔らかく照らし、その表情を半ば影に沈めている。
「……アラン。シリウスが来たんですね」
できるだけ平坦に保とうとした声に、しかし微かに鋭さが滲む。
「……ええ」
それだけ。短く、触れるだけの返答。
その淡白さが、火に油を注ぐ。
今この時に、もっと言うべきことがあるだろう――
その感情が、体の芯から込み上げてきた。
一歩踏み寄り、低く問う。
「……何を話したんです」
自分の声が、思ったよりも冷たく震えているのに気づく。
シリウスの来訪が、これほどまでに神経を逆撫でしたのは――
それが、自分の計画を崩しかねない脅威であり、焦燥の根であると同時に、
彼女の心の奥の、たとえ僅かでも自分に向かぬ温度を見せられることへの恐れだった。
暖炉の炎が静かに爆ぜる音だけが、二人の間に横たわっていた。
暖炉の炎が低く燻り、壁に揺れる影が二人の距離をさらに濃く浮かび上がらせていた。
アランは椅子に腰を下ろし、膝の上で組んだ手を軽く重ねたまま、視線だけをレギュラスに向ける。
「……シリウスたち騎士団は、何か勘付いているようですね……」
その声音は、事実をただ告げるだけの淡々とした調子だった。
危機を共有する場面としてはあまりにも人事めいていて、そこに焦りや恐怖は滲まない。
むしろ、あけすけなその冷静さが、レギュラスの胸を逆なでしていく。
「だから、こうして僕が動いているんです」
低く切り返す声に、鋭い熱が混じった。
「その疑いが、別のシナリオにすり替わるよう、抜け目なく整えている。――ここまで綿密に練った計画も、あなたがシリウスに何を話したのか次第では台無しですが?」
最後の一文は、もう棘などという柔らかなものではなかった。
真新しい刃のように、はっきりとした鋭さでアランの胸元へ押し当てられる。
「……何も話していません」
アランは少しも動じないように見えた。
「では――何を話したんです」
レギュラスの声はさらに冷たく、低く沈む。
心の奥では、答えなど信じる気はなかった。
何も話していないわけがない――相手がシリウスであり、アランなのだから。
この二人がかつて、どれほど深く思い合っていたのか。
それを誰よりも痛いほど知っている。
何度、その事実に胸を焦がし、嫉妬の炎で焼き尽くされそうになったことか。
「……もう二度と、ここには来ないことを約束していただきました」
アランが静かに告げたその言葉に、レギュラスは思わず鼻で短く笑った。
「……そんなわけがない」
声の奥に、冷ややかな確信が滲む。
アランから、あのシリウスを完全に拒絶しきれるはずがない。
十数年の間、隣に立ち続けながら、決して心の奥で彼を手放しきれなかった――その様を、レギュラスは見てきた。
だからこそ、その嘘を見破ることなど、息をするより容易かった。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てて弾ける。
その一瞬の明滅が、二人の間に漂う疑念と嫉妬の色を、いっそう際立たせていた。
暖炉の炎が壁に長く揺れる影を落としていた。
重たい沈黙の中、アランはゆっくりと立ち上がり、ためらいなくレギュラスの手を取った。
その手の温もりは、冬の夜気に冷えた指先に深く染み込んでいく。
「……レギュラス。私が必ずあなたを守ります。だから、心配しないで」
その声音は穏やかで、震えるほどに胸を揺らす言葉だった。
一音一音が優しく、決意を帯びて響く――はずだった。
けれど、耳に届きながらも心の奥底には届かない。
そこには、どうしても拭えない影があった。
アランの中には、絶対にシリウスがいる。
ずっとそうだった。
それを分かっているから、その言葉がまるで何かを隠すための、白々しい覆いにしか聞こえなかった。
嘘ではないかもしれない。それでも真実のすべてではない――そう思えてならない。
ここで「ありがとう」と言って彼女を抱きしめ、
すべてを見なかったことにしてしまえたら、どれほど楽か。
だが、そうできるほど自分は鈍感でも、従順でもなかった。
飲み込めないものが、まだ喉元に鋭く詰まっている。
「……何を持って、それを証明できるんです?」
低く、冷ややかに吐き出したその言葉は、決定的だった。
曖昧な態度や無難な慰めをすべて排除し、明確な答えを突きつけろと迫る。
逃げ道は与えない。
アランの瞳が悲しげに震える。
だがその奥に――もしや、まだシリウスの影が揺らめいているのではないか。
そう思うと、レギュラスは睨むように視線を合わせた。
炎の色が二人の間に漂う緊迫を赤く染め、
互いの呼吸すら、その場の空気をさらに硬くしていった。
アランは、レギュラスの言葉を受けてしばし口を開けなかった。
暖炉の火がぱちりと弾け、その小さな音だけが二人の間に割り込む。
証明――それはあまりにも直線的で、あまりにも重たい要求だった。
心の奥底で、何を差し出せば彼の疑いを払えるのかを必死に探る。
抱擁か、口づけか、それとももっと目に見える何かか。
けれど、彼が求めているのは行為ではなく、揺るぎのない確信だ。
そのことを理解しているからこそ、言葉が見つからない。
「……私には……」
かすれる声が、そこで途切れた。
喉元まで上った言葉を飲み込み、視線が床へと逸れていく。
真っすぐに彼を見つめられない――見れば、自分の瞳の奥にまだ影を探そうとする彼の視線に、何もかも見透かされそうだから。
それでも、沈黙は逃避だと分かっている。
答えなければ、このままでは疑いは深まる一方だ。
レギュラスは微動だにせず、冷たく澄んだ眼差しで彼女を見据えていた。
そこには怒りもあるが、それ以上に、信じきりたいのに信じられない苛立ちが渦巻いている。
――結局、彼女は何も示せないのか。
そんな想いが胸に広がり、さらに視線を鋭くさせる。
「レギュラス……」
ようやく彼の名がか細く呼ばれる。
その瞬間、レギュラスは一歩踏み出し、アランとの距離を詰めた。
その距離は触れられるほど近いが、なお遠い。
炎の赤が二人の間で揺れ、証明を求める言葉は消えないまま、
重く息苦しい沈黙が、またしても二人を包み込んでいった。
暖炉の赤い炎が、二人の影を長く揺らしていた。
アランの手が、レギュラスの手をしっかりと包み込んでいる。
その温もりは確かで、指先のわずかな震えさえも切実さを伝えてきた。
――信じたい。
胸の奥でそう思う気持ちは確かにある。
だが、その信頼に完全に身を委ね、もしも見過ごしてはならないものまで盲目にしてしまったら――。
その恐れが、鋭い棘のように心を締めつけていた。
「……この手を離せと言えば、離しますか?」
低く、抑えた声で問いかける。
「――いいえ。離しません。絶対に」
アランの返事は迷いがなかった。
その言い切る調子が、かえって胸をざらつかせる。
ならば、と考えた。
彼女が語る“守る”という言葉の真の温度を、確かめたくなった。
あまりにも卑しい試みだという自覚はあった。
けれど、そうでもしなければ、この胸に募る猜疑の霧は晴れない。
レギュラスにとって、“シリウス”という名は、全てが許され難いものだった。
その存在がこの世から跡形も無く消え去る――それほどの事が起きなければ、安堵という感覚には一歩も近づけそうになかった。
だからこそ、その口から放たれた。
「――なら、あなたの手で……シリウス・ブラックを殺せますか」
沈黙が、炎よりも熱く肌を焼いた。
問われた意味は明白だった。
その声は決して強くはないのに、確実に鋼のような重みを帯びていた。
アランの瞳が大きく揺らぐ。
それは恐れか、怒りか、あるいは絶望か――判別のつかない感情が、炎の赤を映して複雑に揺れている。
それでもレギュラスは視線を逸らさなかった。
その瞳の奥に、シリウスの影が一片たりとも残っていないことを、今、この瞬間に確かめたかった。
呼吸すら忘れた沈黙の中、燃える薪の音だけが、静かに二人の心を切り裂いていた。
レギュラスは、短く放たれたアランの「……わかりました」という声を、静かに胸の奥で噛みしめた。
その響きは、承諾の形をしていながら、温度をほとんど伴っていない。
同意なのか、諦めなのか――あるいは、ただ自分を安心させようとしただけの方便なのか。
黒い瞳の奥で疑念と安堵がぶつかり合い、どちらも相手を押し退けきれずに渦を巻く。
“信じたい”という欲望と、“信じきれない”という恐怖が、胸の奥でせめぎ合っていた。
「……そうですか」
吐き出された言葉は異様に静かで、微かな感情すら削り落としたようだった。
握られたままの手に視線を落とす。
その細い指は確かに熱を持ち、力強く自分を掴んでいる。
けれど、その温もりですら、まだ底の底まで自分のものだとは言い切れない。
――どこまで沈めば、本当にこの手の奥を掴めるのだろう。
レギュラスはゆっくりと彼女の手を包み返した。
だが、それは抱擁ではなかった。
むしろ、その手の中の僅かな緩みや迷いを探るための、静かで硬い確かめだった。
「……その覚悟、近いうちに証明してもらいます」
低く響くその言葉は、未来の試練の予告であり、逃げ道を塞ぐ鎖だった。
炎がぱちりと弾け、二人の影が一瞬だけ重なって揺れる。
アランはその視線の重さを正面から受けながらも、指先の力を決して緩めなかった。
たとえその先に待つものが、どれほど険しいものであったとしても――。
会場の喧騒は変わらず、笑い声と杯が触れ合う音が華やかに響いていた。
けれど、アランの耳にはそれらが水の底で聞くように遠く、鈍く感じられた。
腰に回されたレギュラスの手は、人前のそれらしい優しさを装いながらも、その掌の奥に別の温度を隠している。
終盤、円卓に並んだ料理の香りが満ちる中、レギュラスは笑顔のまま、アランを次の客人のもとへと導いた。
周囲から見れば、気遣い深い伴侶が妻を伴って歩く姿にしか映らないだろう。
だが――近づいたその横顔から、低く抑えた声が耳元へ滑り込む。
「……この笑顔を、最後まで崩さずにいてください」
囁きは甘やかに聞こえながら、その底には確信を試すような硬さがあった。
まるで「その強さを見せ続けられるのか」と問いかけられているようだった。
アランは咄嗟に視線を上げ、横顔を見た。
レギュラスの青白い光を宿した目は、微笑みの形を保ちながらも、一点の油断も許さない緊張を帯びている。
胸の奥に、あの日の会話が甦る――
シリウス・ブラックを、殺せますか。
張り詰めた弦がまた軋む。
それでも、アランは息を殺し、指先に力をこめて首肯いた。
微笑を一切崩さずに。
彼の試しに応えるように。
会場の灯りは煌々と二人を照らし、人々の視線は絶え間なく注がれている。
心は遠くに置かれたまま、アランは社交的な笑みという仮面を、さらに硬く結わえた。
――たとえ、その裏で何を握りつぶされようとも。
宴のざわめきがようやく薄れ、最後の客人の背が会場の扉へと消えていった。
残されたのは、まだ熱を帯びた空気と、テーブルの上に並ぶ飲み残しのグラス、ひしゃげたナプキンの白。
アランは、ようやく笑みを解き、深く息を吐いた。
その吐息には、長時間張り詰め続けた体中の筋肉の緊張が混じっている。
腰に添えられていたレギュラスの手も離れ、しばし自由になった感覚に肩がわずかに落ちた。
背後でカチリと扉が閉まり、会場は二人きりになる。
振り返ると、レギュラスが静かにグラスを指でなぞっていた。
笑みは完全に消えていて、その視線は濁りなく真っ直ぐにアランだけを射抜いてくる。
「……最後まで、よくやりましたね」
声は柔らかいが、その奥に漂う温度は測りかねる。
褒め言葉のようでいて、試験の結果を淡々と告げられているようにも思える響きだった。
アランは視線を合わせたまま、小さく頷く。
「……約束しましたから」
短い返答に、レギュラスの唇が僅かに弧を描く。が、それは安堵よりも観察の色が強い。
「ええ……そして、その約束をあなたが本当に守れるのか――僕はまだ、確かめなければならない」
暖炉の火が静かに爆ぜ、その言葉に区切りを与えた。
アランは目を伏せ、その音にしばらく耳を預けた。
覚悟はしている。けれど、この人が次に何を差し出させようとするのか――胸の奥がひそやかに疼いた。
夜半近く、宴の喧騒が完全に遠のいた寝室は、厚いカーテンに遮られ、かすかなランプの灯りだけが漂っていた。
華やいだ声と笑顔を貼り付け続けた数時間の後、その静けさは耳に沁みるほど深い。
レギュラスはベッドの端に腰を下ろすなり、背後にいるアランを振り返った。
視線が重なった刹那、胸の奥に溜まり続けていた渇きが疼いて、ためらいなく彼女を抱き寄せる。
そのまま押し倒し、確かにそこにある温もりを、貪るように求めた。
軽く開いた唇が応じ、細い指が背に触れる感触に安堵が滲む。
当然のように許容される――その自然さが、ひどく甘く、そして危うい。
口付けの間に、アランの声が掠れた。
「……レギュラス……」
泣きそうな響きだった。
息を吸い込み、彼は舌先でその名を含みながら、唇を離す。
瞳を覗き込み、低く問いかけた。
「――何に、泣きそうなんです?」
答えはまだ返らない。
その沈黙の中で、レギュラスの脳裏にはあまりにも鮮やかな疑念がよぎる。
溢れ出しそうなその感情は――自分への愛なのか。
それとも、シリウス・ブラックという影に向けられた想いなのか。
手に入れたと思っては揺らぐ。
アランという女は、本当に――その繰り返しだった。
絡め取っても、繋ぎ止めても、網の目からこぼれていく水のように掴みきれず、苛立ちと焦燥ばかりが胸を満たす。
闇の帝王の前で彼女を救ったときの決死。
分霊箱の秘密を差し出して得た一瞬の命の猶予。
亡者の湖も、死の森の沼も共にくぐり抜けた日々。
“守る”と告げた彼女の震える声――あれは確かに幸福の証だった。
長く片思いを続け、ようやく掴んだと思えた愛だった。
……だが、シリウスが接触した瞬間、やはり揺れた。
姿を見なくても分かる。
それを打ち払うために、「シリウスを殺せ」と試すしかなかった。
シリウスが生きている限り、自分に安寧は訪れない――そう思えば、あれは必然の言葉だった。
アランの頬を手で包み、再び口付けを落とす。
その唇の温かさの奥に、何が潜んでいるのか。
祈るように確かめながらも、胸の内で渦巻く問いは消えてくれなかった。
騎士団の詰所の一隅。
黄ばんだランプが静かに唸り、剥き出しの木の机の上には羊皮紙と半分飲み残したコーヒーが転がっていた。
ジェームズ・ポッターは、隣の椅子に深く腰を下ろしているシリウスを横目に見た。
机上の報告には、錬金用の銀皿、温度安定炉、精密計量管——アラン・ブラックが揃えた魔法薬の道具の詳細。
それは、違法魔法薬を作るための典型的な組み合わせであり、その背後にはレギュラス・ブラックと闇の陣営の影がちらついていると示唆する内容だった。
「……確証がないうちは、責められない」
シリウスは低く、短くそう言った。
それは理屈というより、叫びだった。
ジェームズは、その声音の奥にあるものを知っていた。
この男はアラン・セシールを愛し続けてきた。
彼女が、闇の魔術に手をかけたかもしれないと、自分の口で断じなければならない事実が——耐え難い苦痛になることを、理解しすぎるほど理解していた。
だから、何も言えなかった。
日々が過ぎる間に、ジェームズの目にもはっきりと映った。
レギュラス・ブラックの手際の速さと狡猾さ。
彼はすぐさま魔法薬製薬会社や研究会と繋がり、アランが揃えた道具を「希少薬草の保護・研究のため」という活動に書き換え、それを世間に定着させてしまった。
美しい物語と書類と証言が揃えば、もう追い詰める糸口はない。
——また逃げられた。
そう思っても、不思議と隣の友を責める気持ちは湧かなかった。
幾年経とうと、シリウスの人生はアランという女の影で彩られ、絡みつき続けてきた。
彼は、かつてアランに託されたアリス・ブラックを立派に一人で育て上げた。
そして、アランとレギュラスとの間の二人の子供を、ホグワーツの教師として導いてきた。
笑顔を見せる子供たちの後ろには、いつも彼女の面影があった。
ジェームズは、それを痛いほど見てきた。
だからこそ——正義が何か、正しさとは何かをここで説くことは、彼の胸にはあまりにも酷だった。
視線を落としながら、ジェームズはただランプの灯りが揺れるのを見つめていた。
沈黙は、理解と哀惜を包み込み、二人の間に野暮な言葉を許さなかった。
魔法省の廊下は昼の喧騒を少し外れ、足音が響けばすぐに遠くまで届くほど静かだった。
磨き上げられた大理石の床に、背の高い窓から吹き込む淡い光が長く落ちている。
レギュラスは、革張りのファイルを片手に歩いていた。
中には、魔法薬研究の成果として体裁よくまとめた報告書が収められている。
実際の成果など重要ではない――必要なのは、アランが製薬会社や研究会と共に行った活動が「確かに」価値あるものであったと、公式に、そして説得力をもって印象付けることだった。
そのための舞台装置にすぎない紙束を、彼は何気なく抱えていた。
廊下の曲がり角で、ジェームズ・ポッターとすれ違った。
ジェームズは片手をポケットに突っ込み、足を止め、薄く笑う。
「見事だったよ。君は……本当に、いつも完璧すぎるほどに出来てる」
その声音は軽やかにも聞こえるが、瞳の奥は笑っていなかった。
冷えた光が、ほんの一拍だけ、レギュラスの目を射抜く。
レギュラスは立ち止まり、柔らかな表情を崩さずに首を傾げる。
「……何のことでしょう」
ジェームズの口角が僅かに上がる。
「君のその完璧な切り口で――そろそろシリウスに、アラン・セシールを本気で諦めさせてやってくれないかと思ってね」
淡々とした物言い。だが内側には火照りとは別の熱――刺すような棘が潜んでいることを、レギュラスはすぐに察した。
「……ポッターさん。アラン・セシールではなく……アラン・ブラックですので」
さらりと修正する声は低く、言外に境界を突きつける冷たさを孕んでいた。
一瞬、空気の温度が下がる。
見えない火花が、互いの間でじりじりと散る。
どちらも声を荒らすことはなく、それでいて歩み寄る余地を与える気配もなかった。
レギュラスはわずかに頭を下げ、姿勢正しく礼をしてから、そのまま歩を進めた。
視線はもう、ジェームズの肩越しの奥を見据えている。
――シリウスに、アランを「諦めさせる」つもりはない。
そんな生ぬるい終わり方を与える気もない。
もし手放しきれない想いだというのなら――その想いごと、永遠に沈めればいい。
廊下の先へと遠ざかる背中には、研ぎ澄まされた意思だけが、無音の刃のように張り詰めていた。
ジェームズは、その背中が廊下の向こうへ小さくなっていくのを、しばらく無言で見送っていた。
革靴が石床を打つ乾いた音が、徐々に遠ざかり、やがて消える。
静寂が戻った瞬間、胸の奥に鈍いものが沈んだ。
――やはり、あの男は手強い。
切り返しひとつ、視線ひとつにしても、一切の隙を与えない。
そして、そうして守ろうとしているのは紛れもなくアランだ。
それが彼個人の執着か、夫としての誇りか、あるいはもっと深い闇なのか――掴み切れないまま、事態だけが形を変えていく。
ジェームズは肩で小さく息をつき、歩き出した。
足取りは穏やかだが、思考は重たく絡まっている。
シリウスの顔が思い浮かんだ。
親友は、どれほど時を経てもアランを諦められずにいて――それを見抜き、さらに深く沈めようとしているのが、あのレギュラス・ブラックだ。
まるで感情と記憶を氷の底に閉じ込め、蓋の上から鎖を幾重にも巻きつけるように。
解くには、正面からぶつかるだけでは足りないだろう。
――このままでは、シリウスはまた傷つく。
その予感が喉の奥に重く残った。
けれど、それを口にすれば、彼の誇りを踏み荒らすだけになると分かっている。
だから、ジェームズは何も言わない。
今はただ、嵐のような二人の関係がどう流れ着くのかを、目を逸らさずに見届けるしかなかった。
廊下の窓から差し込む陽光が、彼の横顔を淡く照らす。
けれど、その視線の先にあるのは光ではなく、これから訪れるであろう、長い影だった。
