4章
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屋敷の寝室は、厚いカーテンによって薄暗く、外の光はかすかな縁だけで滲んでいた。
涼しく保たれたはずの空気も、床まで届くほど垂れ下がった寝具の間では籠もり、レギュラスの肌を一層重く湿らせていた。
額には焼けつくような熱がこもり、浅く途切れる呼吸の合間に、何度も同じ光景が甦る。
――死の森。
闇と瘴気がせめぎ合うあの場所で、アランの姿がアリス・ブラックへと歪んだあの瞬間。
自分の腕が、その喉元へとナイフを押し当てた感触。
沼の底に沈めようとした時の水の抵抗、背を押し倒したときの肉の沈み、腹を殴った時に伝わった鈍い衝撃。
夢か、現実の記憶か、その境が熱に侵されてほどけていく。
胸の奥が次第に掻きむしられるように痛み、息をするのも苦しくなる。
「……お父さま、うなされてますわよ」
かすかな声が耳元に落ち、レギュラスは重い瞼をゆっくり開いた。
視界の端に、小柄な影――娘、セレナが立っていた。
美しい髪が、逆光の中で淡く揺れている。
「……戻ったんですか」
かろうじて出た声は少し掠れていた。
セレナは静かに頷き、枕元に腰を下ろす。
「ええ。お母さまから、お父さまが寝込んでいると聞きましたので」
気遣わしげな眼差しがこちらを覗き込む。
その視線から逃れようと、レギュラスは小さく息を整えてから言った。
「……大袈裟です」
言葉は淡々としていたが、その奥には幾つもの感情が混じっていた。
首筋から背中にかけて、汗がべったりと張り付き、不快で堪らない。
だがそれ以上に、熱に浮かされた顔や、うなされて呻く様子を――娘に見られたのではないかという思いが、胸を締め付けた。
あの森の悪夢に呑まれる自分の、どうしようもなく情けない姿。
守るべき存在に見せるべきではない、弱さそのもの。
セレナの横顔が、じっとこちらを見つめている。
レギュラスはゆっくりと視線を逸らし、枕に沈めた。
目を閉じれば熱はまだ続き、あの森の闇が、薄暗い寝室にも滲んでくる。
けれどその向こうで、娘の声が確かに響いていた。
――現実と夢を分かつ、唯一の音として。
セレナは、母からの手紙を広げて座っていた。
そこに綴られていた「お父さまが寝込んでいます」という一文は、今までにないほど重みを帯びていた。
ホグワーツでの生活の中でも、家族を案じることは時折あったが、
父が弱さを見せる――それを母がわざわざ知らせてきたことには、ただならぬものを感じた。
急ぎ休暇を申請し、屋敷へ戻ったセレナは、まず父と母の寝室へ向かった。
静かな薄暗がりのなか、寝台の上に、父――レギュラス・ブラック――が、
熱に浮かされたまま浅くうなされていた。
父は、いつだって誇り高かった。
魔法界の誰もが「最強」と呼ぶ背中は、セレナが幼い頃からずっと、
目標であり、盾であり、あらゆる憧れを一身に集めるものだった。
そんな父が、いま目の前で、苦しげに眉をよせ、時折母の名を呼んでいる。
母への思いが、眠りの中でも父の胸を縛り続けているのだろう。
愛することで、こうも弱さを晒してしまうものなのだろうか。
セレナは、その事実を目の当たりにするたび、不安で満たされた。
母がかつてシリウス・ブラックを愛し、
父が母を一途に、時に執念じみたまでに思い続けてきた――
その“愛”が父と母から何度も溢れ、何かに苦しむ姿さえ見てきた。
愛というものが、人をいかに強く、そして儚く脆くしてしまうか。
セレナは、これまで何度もその矛盾を見てきた。
だから、自分は「愛」を知らなくていい――そう静かに思った。
イングランド国王子との婚約が決まった今も、
その感情にすがる気も、すがられる気もなかった。
敬愛と誠実ささえあれば充分。それ以上の脆弱さは望まない。
父の枕元に腰を下ろすと、セレナは小さく笑みを浮かべる。
「……ゆっくり休んでくださいね」
優しく声をかけると、父は半ば夢と現の狭間で微かに応じた。
「ええ……アランは、どちらです?」
母の安否をすぐに気にする――その一途さもまた、幼いころから変わらない父の姿だった。
心身ともに消耗しきっている今でさえ、母を探し、母を案じる。
それこそが、レギュラス・ブラックなのだと、改めて胸に刻まれる。
「魔法薬を調合しているようですわ」
「そうですか……」
父は照れたような、けれど安心したような表情を見せる。
母がどこにいるのか。母が無事であるか。
その一点で、いまの自分の安心が決まる――
そんな男性を、セレナはずっと尊敬しつづけたし、
その背を、たとえ苦しみに染まっていても、見失いたくないと思った。
窓の外で、まだ明けきらぬ朝の光が静かに差し込む。
セレナは、父の寝息と母の気配を聞きながら、
自分の選んだ静かな未来をゆっくりと胸の奥で噛み締めていた。
愛に傷つくことなく、敬愛を込めて歩む人生。
その選択の正しさを、いまだけは確かめているようでもあった。
父はやがて、深い眠りに落ちていった。
セレナはそっと立ち上がり、枕元に静かな祈りを残して寝室を後にした。
寝室の静かな空気の中、扉を開けてアランが入ってきた。
手には、淡い琥珀色をした魔法薬の入ったカップ。
かすかな薬草の香りが、熱にうなされたレギュラスの枕元へ漂ってきた。
「レギュラス、具合はどうです?」
ベッド脇に腰を下ろすと、彼の額の汗に視線を落とし、そっとカップを差し出す。
レギュラスは半ば身を起こし、薬を受け取った。
一口含み、驚いたように瞬きをする。
「……苦味もないんですね」
口の中に残るのは、ほのかな甘味と爽やかな香りだけだった。
アランは小さく微笑む。
「子供たち向けに作ることに慣れていましたから」
その言葉に、枕元の空気が少しだけ和らいだ。
アランが空いた方の腕を静かに広げる。
その仕草はまるで、親が幼い子を「おいで」と迎え入れるようで。
けれど、レギュラスは眉をわずかに持ち上げ、その腕をそっと閉じさせた。
そして逆に、自らのほうへと彼女を引き寄せる。
熱のこもった胸に抱き寄せる動作は、無言のままでも、彼らしい誇り高さと独占欲の入り混じったものであった。
アランはその腕の中でクスリと笑みを洩らす。
息が触れ合い、抱擁の温かさが重なる。
「……セレナが戻ってきたそうですね」
ふとレギュラスが囁く。
「ええ、手紙を送りましたから」
アランの声は穏やかで、特別な説明を求めない柔らかさを帯びていた。
レギュラスは少し間を置き、低く呟く。
「……情けない姿を見せてしまいました」
アランはその言葉に、何も答えなかった。
ただ、さらに深く彼の腕の中に体を委ね、静かに目を閉じる。
レギュラスもまた、息を整えながらその温もりを確かめるように抱きしめ続けた。
部屋の中は、互いの鼓動と、ささやかな呼吸音だけが満ちていた。
外では、窓の隙間から淡い光が差し込み、昼への移ろいを告げていたが――
二人にとっては、それよりも大切な、静かなひとときがそこにあった。
闇の奥底、冷たく湿った石の床にデスイーターたちが片膝をついていた。
煤けた松明の炎が壁に長い影を揺らし、息をする音すら憚られる沈黙が広間を支配している。
壇上の玉座に腰掛けた闇の帝王――ヴォルデモート卿が、長く白い指を顎に寄せ、ゆっくりと視線を巡らせた。
その蛇のような目がレギュラス・ブラックを捉える。
「レギュラス・ブラック……お前は、本当によく働いてくれる」
鈍く響くその声に、レギュラスは静かに片膝をついたまま深くこうべを垂れた。
誇示も安堵もなく、ただ表情を押し殺す。
場に漂う緊張の匂いを、肺の奥でゆっくり呑み込みながら。
「……お前の妻が、魔法薬を得意としているようだな」
その一言で、心臓の奥に冷たい刃が差し込まれた。
アラン――
その名を、決してこの場に、あの口から上らせたくはなかった。
巻き込みたくない。
この汚泥のような現実から、出来うる限り遠ざけておきたい。
脳裏には、薬草の香りに包まれ、穏やかな手つきで薬を混ぜる妻の姿が一瞬だけよぎる。
その光景が、この陰湿な広間とはあまりにも遠く、守らなければならない世界のように感じられて苦しかった。
「お前の妻に、作らせたい薬がある……頼めるか?」
その声音は、問いというよりも命令に近く、拒絶など爪先ほどの余地も残してはいない。
この場で「NO」と告げる選択肢など最初から存在しないことを、レギュラスはよく知っていた。
喉の奥がひりつく。
声が震えぬよう、全身の筋肉で押しとどめ、
「……承知いたしました」
わずかに低く、かすれた肯定の言葉を紡ぐ。
ヴォルデモートの口元が、かすかに冷笑の色を帯びた。
松明の炎がその赤い瞳を照らし、ひややかな光がレギュラスのうつむく黒い髪をかすめる。
彼の胸の奥では、まだ冷たい刃が残響のように突き刺さったままだった。
屋敷の一室は、夜の帳が落ちてもしんと静まり返っていた。
重く引かれたカーテンの向こうでは、風が葉をかすかに揺らしている。
燭台のひとつの火が細く揺れ、長く落ちる影の中でレギュラスは立っていた。
胸の奥で、重く硬い塊が脈打つ。
ヴォルデモートの命。
アランに課せられたのは――分霊箱に触れた者の手を焼き、二度と近づけさせないための薬の調合だった。
それが分霊箱を囲む“結界”となり、誰も侵せない要塞と化す。
用心深さから生まれた命令だろう。
だが、なぜわざわざアランに作らせるのか。
分霊箱を扱う自分への人質とするためか――
あるいは、それ以上の、別の意図が潜んでいるのか。
その答えは見えないままだが、ひとつだけ確かなことがあった。
――この手を汚させてはならない。
これは違法な魔法薬だ。
表沙汰になれば、作った魔法使いは必ず罰を受ける。
痕跡を消す。何があっても守る。
それが、自分の唯一の選択肢だった。
アランは机に向かい、淡い灯りの下で書類を整理していた。
その横顔には、まだ何も知らない静けさがあった。
レギュラスは、喉が乾くのを感じながら、その正面に立った。
「……アラン」
声にわずか震えが乗った。
そのまま逃げるようには言いたくなかったが、言葉を吐き出すだけで支える心の柱がきしむ。
「……闇の帝王が、あなたに……薬を、頼みたいそうです……」
自分の口から出た音が、やけに冷たく、遠くに響いたように感じた。
返答を待つ間の数秒が、永遠にも思えた。
視線を上げれば――そこには、どんな目が向けられているのだろう。
驚きだろうか、困惑だろうか、それとも……失望か。
それを確かめるのが怖くて、レギュラスは一瞬、視線を床に落とした。
薬草の香りがかすかに漂う中、沈黙が二人を包む。
彼の胸の中では、ひとつの決意だけが固く燃えていた。
どんな形であれ、この命令の痕跡は――必ず自分が消す。
アランだけは、闇の鎖の外に連れ出すと。
アランは、手にしていた羊皮紙から視線をゆっくりと上げた。
灯りに照らされた瞳は、驚きにも怒りにも似つかない――ただ静かに、底の読めない深さをたたえていた。
「……薬、ですか」
その声は低く、少しの間を空けて重く落ちた。
レギュラスの指は、無意識に背の後ろで組まれていた。
その指先には、わずかな渇きと汗が混じっている。
目の奥で、アランの感情を探そうとしても、彼女は何も漏らさない。
「どんな薬なのです?」
焦らず、それでいて一歩も引かぬ問い。
その問いが、彼の胸の奥を鋭くなぞっていく。
――言えるわけがない。
違法で、触れれば罰され、そして使われれば分霊箱を護る鎖になる薬だと。
そんなもの、アランに正面から告げれば……彼女は迷わず背を向けるだろう。
そして、その選択は正しい。
だが、それでは済まない。
ヴォルデモートの命だ。逃げ場はなく、断りもない。
「……詳細は……これから知らせるそうです」
声音は努めて平静を装ったが、喉の奥にわずかな強ばりが滲んだ。
アランは一瞬だけ目を細め、それから視線を逸らし、机に置いた羊皮紙の端をなぞった。
「……わかりました」
それきり、彼女は何も言わなかった。
沈黙が長く居座る。
レギュラスは彼女の横顔を見つめながら、胸の内で同じ言葉を繰り返した。
――痕跡は必ず、自分が消す。
たとえこの手がどれほど汚れようと。
その決意だけが、二人の間を満たす静けさの下で、鋭く燃えていた。
灯りの乏しい地下の一室。
石壁に囲まれた空間は、魔法薬の残滓がしみついたかすかな薬品臭に満ちていた。
ほの暗い明かりの下、セブルス・スネイプは黒衣のまま窓辺に立ち、冷たい視線でレギュラス・ブラックを見た。
机上には何冊もの古い薬学書と、封蝋のかかった材料リスト。
そのどれもが難解に閉ざされた知識を主張し、息の詰まるほど静寂な空気を張り詰めていた。
「材料からして複雑だ。魔法省の認可がおりなければ――手に入らんぞ」
スネイプの声は低く、しかし皮肉よりも冷静な憂慮が滲んでいる。
レギュラスはその言葉に、ゆっくりと顎を引いた。
内心の焦燥を微塵も表に出さず、淡々と続ける。
「そこをどうにか出来ませんか。あなたなら」
曇りないまなざしで、真正面から頼む。
スネイプは一度細く目を細めると、肩をわずかにすくめた。
「……当たってはみるが、期待はしないでくれ」
仄暗い声と共に、机上のリストに視線を落とした。
「足が付かない方法は――あるんでしょうか」
レギュラスの問いは、懇願でも諦念でもない。ただ、確かな意志を刻むものだった。
スネイプは一度鼻で笑い、小さくため息をつく。
「――本当にあの女に作らせる気なのか」
その端正な顔には、苛立ちとも同情ともつかぬ色が浮かぶ。
レギュラスは微かに首を振り、小さく言葉を絞り出した。
「それ以外に、何か方法がありますか」
声は静かだが、底に決意と絶望の両方が滲んでいた。
沈黙がふたりの間を流れる。
各々が、それぞれの胸の奥に守るべきものを抱えている――
それを一切語ることはない。
だが、互いにだけはわずかばかり、その弱さを見せていい相手なのだと、どこかで察していた。
スネイプもまた、何かを守るため、この闇の陣営に身を沈めている。
レギュラスは、それを深く詮索しない。
けれど、セブルス・スネイプが偽りや感傷では動かないことを、誰よりも理解し、
その冷徹な誠実さにだけは、確かな信頼を置いている。
遠い雷鳴のように、心の奥で苦い不安が鳴り続けていた。
けれど二人の間には、それ以上多くを語らない、静かで透明な信頼だけが残された。
やがてスネイプは、暗がりの中で静かに一礼した。
「……方法は考える。だが、決して期待はするな」
闇の奥にその声は沈み、また石壁に吸い込まれていった。
レギュラスはほんの僅かだけ瞳を伏せ、
「……お願いします」とだけ低く伝えた。
底なしの夜の中で――
これは、弱きものたちがせめて手元につなぎとめようとする、ひそやかな誓いだった。
石造りの屋敷の奥、静かな魔法薬調合室には、薬草と乾いた羊皮紙の匂いが満ちていた。
窓は固く閉ざされ、外の風は一切入らない。
机の上には整然と並べられた材料のリストがあり、その一つ一つが重く意味を帯びている。
――黒檀の根皮
――ドラゴンの肝臓の乾燥粉末。
――バジリスクの毒嚢から抽出した結晶。
――数百年物のマンドレイクの精。
――銀製の皿で七日七晩かけて凝縮させたアコニート。
――影の羽 希少な魔法生物の死後すぐにしか採れない、魔力を遮断する黒い羽
どれも、魔法省の厳格な規制なしには入手不可能なものばかり。
そして、ほんのわずかでも過剰に用いれば、命を即座に奪うほど危険な劇薬。
レギュラスは、机の端に置かれたそのリストを見つめながら、胸の内が固く冷たく沈んでいくのを感じていた。
セブルス・スネイプに手配を頼みはしている――だが、問題はそこではない。
足がつくこと。
もしこれらの材料調達がアランの名で記録に残せば、その瞬間に全てが終わる。
魔法省の疑念は一度背負えば決して消えず、逃げ道も反論の余地も閉ざされる。
詰み――その言葉が頭の奥で重く響く。
「……わずか数滴で、命を奪えるほどの薬ですよ」
アランの声が、静かな部屋に落ちた。
その瞳には恐怖よりも、事実を見極めた者だけの冷たい沈着さがあった。
レギュラスは、言葉を返せない。
ヴォルデモートがわざわざ彼女に作らせる――その時点でただ事ではないと分かっていた。
だが、こうして具体的に、その効能を口にされると、胸の奥に冷たい針が突き刺さるようだった。
しばしの沈黙。
アランの視線は机の上に落ちたまま、低く息を吐く。
「これが、魔法省に知られれば……」
彼女の言葉は途中で途切れたが、その先は互いに理解していた。
終わりだ。全てが。
レギュラスはゆっくりと息を吸い込み、その声に揺るぎを宿す。
「――大丈夫です。手を回します」
その言葉は、まるで自分自身に誓いを立てるように、静かで確固とした響きを持っていた。
視線はまっすぐ、アランの瞳に。
この計画に手を染めても、最後には必ず彼女を安全な場所へ帰す――その一心だけが、彼の胸で確かに燃えていた。
静まり返ったブラック邸の一室に、重い足音が近づいてくる。
厚いドアが静かに開き、黒い外套を纏ったセブルス・スネイプが、古びた革の包みを抱えて立っていた。
包みからは、微かに土と薬草と金属が入り混じった匂いが漂い、部屋の空気に何か不吉な影を落とす。
「――材料の手配が整った」
低く抑えられた声が、石壁に柔らかく反響した。
アランは机の前に座っていたが、その言葉を聞いた瞬間、身体の奥を冷たい刃でなぞられたような感覚に襲われた。
顔色は変えまいと努めても、指先の感覚がじわりと薄れていく。
机の上に差し出された包みを、両手で受け取る。
革の重みと中身の硬質な手応え――その一つ一つが、今まさに自分が闇の深みに足を踏み入れる音のように感じられた。
自分を命懸けで救ってくれた男のために、何があっても支えると誓ったはずだった。
たとえ世界中が彼を疑い、責め立てても、盾となるつもりでいた。
けれど――
この包みに詰まっているのは、数滴で命を奪うほどの劇薬となる材料。
分霊箱の護りのために作らされる、恐ろしくも穢れた薬。
その現実が、心の奥の光を静かに、しかし確実に消していく。
シリウスの隣で感じた、あの正面から照らしてくるような力強い光は、
もうとうに、自分の中から掻き消されてしまったのだとわかる。
ヴォルデモートの分霊箱――
何のために、どれほど、自分の心を削らなければならないのか。
これから先も、レギュラスは一生、その護りを担わされ続けるのだろうか。
その未来を思うと、胸が崩れて呼吸が詰まりそうになった。
あの日、彼が自分を助けなければ…。
あのまま静かに死を受け入れてくれていたら――
こんな恐ろしい薬に自分の手を染め、闇の奥に沈むこともなかったのではないか。
その考えがよぎるたび、自分がこのまま生きていくことさえ正解なのかわからなくなる。
革包みを受け取った手の中に、ずしりと絶望が沈んでいく。
目の前のスネイプが何かを言い足そうとしたが、アランはわずかに首を横に振った。
言葉はこの場に似つかわしくなかった。
ただ包みの重みだけが、この先踏み入れる不可逆の一歩を告げていた。
部屋の空気は、薬草の匂いと途方もない暗さで満ちていた。
アランは視線を落とし、その重みに押し潰されるように、深く息を吐いた。
薄暗い調合室の空気は、乾いた薬草と金属の匂いで満ちていた。
煎じた液が小さな鍋の中で静かに泡立ち、淡くくすんだ色を帯びていく。
アランの細い指が木杓子を握り、一定のリズムでかき混ぜていたが――ふと、その動きが止まった。
脳裏に蘇るのは、ずっと昔の声。
「君は天才だ」
魔法薬の腕前を、心からの笑顔で褒めてくれたシリウス・ブラックの声。
疲れ切った彼に眠りやすい薬を調合し、そっと渡した夜。
「ありがとう」と目を細める、その温かな表情。
あの太陽のような人を、自分の作る薬で支えられることが、ただ嬉しかった。
胸の奥が、あの頃は確かに輝いていた。
けれど今――
鍋の中で煮えているのは、数滴で命を奪う劇薬。
ヴォルデモートの分霊箱を護る、冷酷な鎖。
誰を救うでも、誰の痛みを和らげるでもない。
ただ、触れようとする者を焼き払い、遠ざけるためだけの毒。
無念だった。無力だった。
そして、自分がこんなものを作れるほどの「闇」に、何の躊躇もなく手を伸ばしてしまえる事実が、恐ろしくてならなかった。
気づけば視界が滲んでいた。
涙は止めようもなく溢れ、鍋の表面に映る自分の影が揺れて崩れた。
杓子を置く音が、やけに大きく響く。
一瞬だけ、シリウスと夢見た世界がよぎった――
魔法使いもマグルも、肩を並べ、同じ陽だまりを歩ける世界。
あの儚くも力強い夢は、今となっては幻の中でしか触れられない。
嗚咽が、唇を噛んでも零れた。
「こんなもののために……」
言葉にならない声を飲み込んだ瞬間、背後から低い呼びかけが届く。
「……アラン? どうしました、アラン」
レギュラスの声。
アランは首を振るだけだった。
言えば、すぐにでもこの優しさに甘えてしまいそうで。
「少し休んでください」
真っ直ぐな眼差しが自分を見ていた。
その優しさは痛いほど沁みるのに、胸の亀裂は埋まらなかった。
――もう、終わりにしてしまわなければ。
その言葉が喉の奥まで込み上げた。
けれど、レギュラスを思うと……どうしても、声には出来なかった。
彼のために生きようとここにいる自分が、
同時に、彼を縛る鎖の一部になってしまっている――
その矛盾に、また新しい涙がこぼれ落ちた。
分霊箱の間は、不自然なまでに静まり返っていた。
完成した魔法薬は、見た目こそただの透明な液体だが、その周囲には形のない壁のような魔力が漂っている。
それは触れれば命を奪う盾――アランの手によって生み出された、恐ろしく冷たい護りだった。
これで、分霊箱に触れようとする者は必ずこの薬の影響を受ける。
一人で辿り着くことは不可能だろう。
もし触れようとすれば、必ず“犠牲”が必要となる。
その犠牲が、命であることを知っているからこそ、その静寂はなお重かった。
アランは魔法薬の小瓶を見つめたまま立ち尽くしていた。
胸の奥に、鋭い針で何度も貫かれるような感覚が広がる。
――この手で。
愛する人を抱きしめたこの手で。
我が子を抱いた、この温もりを知っている手で。
人の命を奪える薬を、作ってしまった。
それを思うだけで、視界が小さく波打つ。
虚無が、胸から溢れそうになる。
気づけば、傍らにレギュラスが立っていた。
そっと彼がアランの手を包み込む。
「何も気負わなくていい」――そう告げるような、静かで揺るぎない力で。
だが、アランはその手を、握り返すことができなかった。
握ってしまえば、またこの胸の奥を締めつける痛みに耐えなければならない。
守ろうとすることが、支えようとすることが、
こんなにも痛く、そして苦しいとは思わなかった。
沈黙が落ちた中で、レギュラスが静かに言った。
「……大丈夫です。ここに辿り着く者がいなければ、犠牲なんて出ません」
その言葉は、慰めというより、己への固い誓いのようだった。
彼は本気でそれを信じようとしている。
だからこそ、アランの胸はさらに締めつけられる。
薬が放つ見えない結界は、二人を包み込みながら、
同時に互いの心までも、別々の檻に閉じ込めていくようだった。
屋敷の寝室に、夜の静けさが深く落ちていた。
厚いカーテンが窓を覆い、外の冷たい空気を遮断している。
燭台のろうそくが一本だけ、穏やかな光を投げかけていた。
レギュラスは、久しぶりに心の奥で安堵を感じていた。
ヴォルデモートからの命令が一つ終わった――
死の森での試練、そして分霊箱を護る薬の完成まで、
夫婦で過ごす穏やかな時間は、ほとんど取れずにいた。
その緊張がようやく緩んだ今、彼の胸には別の欲求が静かに湧いている。
アランが窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
その背は細く、月明かりが肩の線をほのかに照らしている。
レギュラスはそっと近づき、後ろから彼女の肩を抱き寄せた。
「……」
言葉はなく、ただ温もりを分かち合うように。
手がゆっくりと、ローブの端に触れ、少しだけ脱がそうとしたその瞬間――
アランの手が、静かに彼の手に重ねられた。
制する力は強くないが、確かに止める意思があった。
「レギュラス……」
ただその名を呼ぶだけ。
けれど、その声の奥には、弱々しくも明確な拒絶が宿っていた。
レギュラスの手が、そこで動きを止める。
瞬時に胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
「……そうですよね。色々ありましたし……」
できるだけ軽やかに、気にしていないという風を装って言葉を紡ぐ。
この場の空気を壊してはいけない――そんな思いで、フォローを試みた。
だが、心の奥では別の感情が渦巻いている。
アランから、明確な拒絶を示されたのは――たぶん、初めてだった。
いつも彼女は、自分を受け入れてくれていた。
たとえそれが、激情に任せて強引に押し通すような夜であっても、
そこにアランからの拒絶が絡むことはなかった。
彼女の瞳には、時に戸惑いはあったかもしれないが、
最終的にはいつも、彼を包み込むような受容があった。
だからこそ、今夜のこの瞬間が――鋭く胸に刺さった。
レギュラスは腕を引き、そっとアランの隣に立った。
彼女はまだ、夜空を見上げたままだった。
横顔には、薄い光が静かに落ちているが、
その表情からは、何も読み取ることができない。
二人の間に、見えない距離が生まれていた。
それは物理的なものではなく、心の奥の、もっと深い場所での断絶。
分霊箱の護りを完成させたことで得られた安堵は、
いつの間にか、別の形の寂寥に変わっていた。
ホグワーツの最終学年――
アルタイル・ブラックはその最後の一年を、魔法省魔法法務部で研修として過ごしていた。
ホールの中には白い大理石の床が反射する光が満ち、行き交う職員たちの会話と羽ペンの走る音が絶え間なく続いている。
アランは、そんな忙しない空間の中で、彼を一目見ようと訪れていた。
遠目に見つけたアルタイルは、背筋を伸ばし、じっと資料に目を通していた。
時折、担当官から質問を受け、小さく頷きながらも迷いのない返答を返している。
その姿は、少年というよりもう一人前の魔法使いで、頼もしく、そして眩しかった。
優秀な成績で卒業を控えるアルタイルは、ホグワーツを出た後、そのまま法務部に就くことを願っている。
彼はきっと、多くの罪を目にし、それを見極め、判断し、裁く立場になるだろう。
「正義を選び取る者」であろうとする、その志は、アランにとって誇らしくもあった。
けれど――
先日、自らの手で作り上げてしまった魔法薬が、不意に脳裏をよぎる。
あの透明な液体。
わずか数滴で命を奪う、認可のおりていない劇薬。
ヴォルデモートの分霊箱を護るためだけに存在する、違法な魔法薬。
その事実が、胸の奥で重く響いた。
アルタイルの瞳は、裁きの場に立つ未来そのもののように澄んでいる。
絶対に歪ませたくない、
この手で汚すようなことは、決してしてはならない――
そう思うのに、真実は胸の奥に沈めるしかなかった。
知られたくない。
心の片隅からではなく、もっと深い場所から、はっきりとその感情が浮かび上がる。
それは息苦しくなるほど強く、アランの喉を塞いだ。
「母さん?」
不意に声をかけられ、アランははっと顔を上げた。
アルタイルが、少し不思議そうにこちらを見ている。
「あまりここに来ることないよね」
「……ええ、少し、顔を見たくなっただけ」
引きつらせないよう努めて笑うと、彼はわずかに微笑んだだけで、それ以上何も訊ねてこなかった。
その優しさが、かえって胸を締めつける。
アルタイルが信じている「母」を、守らなければならない。
真実を知ればきっと、彼は迷いなく正義の側に立つだろう。
だからこそ――言えなかった。
ただ、別れ際に軽く抱きしめた肩に、そっと指先の力を籠めた。
その温もりは、誇りと罪悪感、両方を混ぜこぜにして、アランの胸に深く沈んでいった。
石畳の路地に、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
任務を終え、屋敷へと戻る道すがら、レギュラスはふと足音の気配を察し、振り返る。
そこに立っていたのは、長身に成長した息子――アルタイルだった。
「父さん、さっき母さんが僕の姿を見に、法務部まで来てくれました」
足を止めたレギュラスの眉がわずかに上がる。
「……アランがですか?」
事前に聞いていなかったのだろう、その反応は素直な驚きに満ちていた。
ふたりは並んで歩き出す。
通りを抜ける風が、どこか湿った秋の匂いを運んでくる。
「母さん、元気がないようでした。……何か知ってますか?」
アルタイルは、さりげない調子を装いながらも、その瞳には確かな探りの色を浮かべている。
「疲れが出ているのかもしれませんね」
レギュラスの答えは短く、声の調子も変わらない。
それ以上を語らぬ壁を、長年の直感で悟る息子。
少しの沈黙のあと、アルタイルは目を細めて問いを重ねた。
「……母さんが杖を変えたことと、何か関係あるのですか?」
その言葉に、レギュラスは一瞬視線を逸らした。
しかし足は止めない。
返事はなかったが、沈黙の中に柔らかな圧が満ち、どこか「これ以上は踏み込むな」という無言の告げ口のようだった。
アルタイルは知っている。
母が、父と同じ杖芯を持つ杖に変えたことを――。
そんなことをわざわざするのは、何らかの理由があるからに違いない。
互いの杖が兄弟杖になるということは、互いへの攻撃呪文が成立しないということ。
……そうでもしなければ、避けられないほどに杖を向け合う可能性がある――ということなのか。
胸の奥で、疑念が音もなく広がる。
自分の知らぬところで、この夫婦にしかわからない過去や約束、あるいは傷があるのだろう。
そして、それはきっと決して軽いものではない。
だが当然、父の口から真実がもたらされることはなかった。
レギュラスはの門をくぐる直前、わずかに微笑みを形だけ見せただけで、
何事もなかったかのように歩を進めた。
アルタイルはその背中を見つめながら、
その笑みの向こうにある数えきれぬ沈黙を、
決して軽く考えてはいけないと――静かに悟った。
屋敷の食卓には、久しぶりに柔らかな賑わいが満ちていた。
夕餉の明かりが銀器を淡く照らし、スープから立ち上る湯気が、家の中に小さな温もりを満たしていく。
ここ数日――アランからあの柔らかな拒絶を受けてから、レギュラスはどう接していいのかわからなかった。
何気なく肩に触れること、手を取ることさえも、避けられる情景ばかりが頭をよぎる。
不用意に近づけば、またあの弱くも確かな拒絶を目にするのではないか――そんな悲観的な想像が、心に影を落としていた。
だからこそ、今夜の賑やかさは救いだった。
法務部の見習い研修に出ているアルタイルが、屋敷へ戻ってきている。
母と子のやりとりが自然に交わされることで、レギュラスは食卓の空気に身を委ねられる。
アランの様子ばかりを、ちらちらと盗み見る必要もない。
「アルタイル、立派だったわ」
アランの声は柔らかく、しかし誇らしげだった。
その微笑みは、久しく見ていなかった種類の光を帯びている。
「……母さんに見られてたなんて、恥ずかしいです」
箸先を少し落ち着きなく動かしながらも、どこか嬉しそうに笑うアルタイル。
テーブル越しに交わされる母子の会話を、レギュラスは静かに見守った。
そこに映る自分は、ごく自然な「父」だった。
特別な言葉を添える必要もない。ただこの光景の中に、自分の席があるという事実が、ひそやかな安堵となって胸を包んだ。
外の闇は窓越しに深まりゆくが、テーブルの上の光は変わらず温かい。
レギュラスはその食卓を前に、今夜だけは、小さな平穏の中に自分を置くことができた。
寝室はほの暗く、カーテンの隙間から射す月明かりが床に淡い影を描いていた。
レギュラスは先にベッドに身を横たえ、枕に頭を沈めたまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
眠気が波のように寄せてくるのを待ちながら、耳には微かな衣擦れの音と、髪を梳くブラシの規則正しい音が届く。
ドレッサーの前で支度を整えるアランの後ろ姿が、まぶたの裏に輪郭だけ浮かんでいた。
やがて、その音も止まり、空気がわずかに静まる。
ベッドの端が沈む感触――アランがシーツの中に身を滑り込ませたのが分かった。
まだ意識ははっきりしているから、そのわずかな振動や温度の移りが敏感に伝わってくる。
ふと、こちらの腕や脚に、柔らかくアランの四肢が触れる。
彼女はそれを特に意識するでもなく、そのままでいる。
――今日は拒む意志はない、ということなのか。
それとも、ただ偶然、寝姿の延長で触れているだけなのか。
答えの出ない問いが、静かな頭の中でゆるやかに渦を巻く。
「おやすみなさい、レギュラス」
短く、穏やかな声が闇に落ちる。
レギュラスはゆっくりと目を開いた。
その横顔は、闇に溶けるように白く柔らかい。
「……もう、寝ますか?」
自分でも、なぜそう問いかけたのか分からなかった。
まるで引き留めるような、あるいは話していたいと願うような声音。
問いの直後、胸の奥にじわりと情けなさが広がる。
彼女がどう答えるかよりも、この沈黙のひと呼吸の間に、
拒絶も受容も読み取れない距離感があった。
外では風がひときわ強くカーテンを揺らし、
二人の間の薄い空気が波立つように感じられた。
寝室の夜気は静まりきっていて、ふたりの呼吸の音だけが薄く重なっていた。
アランの「どうしてです?」という声は、驚きよりも、淡い探りの色を帯びていて――
レギュラスの胸に、ゆっくりと波紋を広げた。
返答の言葉が、すぐには浮かばない。
ただ近くに触れていたいだけなのか、抱き寄せてもいいのか、唇を重ねるくらいは許されるのか――
その境界線が判然とせず、息を潜めるように彼女の体温を感じていた。
拒絶されるのが怖くて、一歩を踏み込めない。
けれど、これは衝動に任せて欲望をぶつけるような粗雑な感情ではなかった。
ただ、求めていたい。
受け入れられる存在であると、確かめたい。
その思いを形にできれば、胸の重さも少しは解けるだろう。
だが、それを言葉にしてしまえば――
きっと、あまりにも直接的で、幼い独占欲のように響くだろう。
そう思うと、口の中で言葉が崩れ、喉の奥に押し戻された。
視線が短く絡み、また離れる。
彼女の手首の小さな動きにさえ、心が揺れた。
触れていた指をほんのわずか押し開き、吐息とともに
「……いえ……聞いてみただけです」
と、かすれるように紡ぐ。
その言い回しは、何事もなかったかのように装うための、ぎこちない覆い。
言えなかった本音だけが、胸の奥で膨らみ、重く滞っている。
アランは、それ以上追及しなかった。
その沈黙の中、ふたりの間には、触れられるほど近く、しかし決して踏み越えられない一筋の境界が、淡く、けれど確かに横たわっていた。
アランは、暗がりの中でそっと視線を落とした。
レギュラスの言葉は、軽く受け流したようでいて、どこか遠くの響きを持っていた。
ほんの一瞬――その奥に、もっと重たいものが隠れていることを感じ取っていた。
彼が何を言いかけ、何を飲み込んだのか。
それを問い質すことはできた。けれど、もし引き出してしまえば、互いの距離を測りあうためだけの言葉が宙に漂い、
かえって触れられない境界を鮮明にしてしまうような気がした。
だからアランもまた、口を閉ざした。
沈黙は、拒絶でも、許容でもなく――ただ、揺れる呼吸のあいだに漂う曖昧な温度を孕んでいた。
わずかに腕が触れ合い、シーツの下でその温もりが広がる。
それは確かに届いているはずなのに、どこか不安定で儚い。
境界を越えないまま触れ続けることは、案外難しい。
ほんの少し寄れば抱擁になり、離れれば孤独になる――そんな綱渡りのような近さ。
アランは目を閉じ、吐息を長く零した。
彼の求めるものと、自分のいま差し出せるものの間にある差を、はっきりと感じながら。
レギュラスはその小さな息づかいを耳にしながら、
やはり境界の向こう側には踏み込めないのだと悟った。
それでも離れたくはなく、ただシーツ越しの温もりをゆっくりと噛みしめる。
夜は深まっていく。
二人のあいだには、触れていながら触れきれないままの熱が、
静かに積もり続けていた。
――このまま、眠りが訪れるまで。
魔法省の一室は、昼下がりにもかかわらず薄暗かった。
壁際には背の高い書棚が並び、埃をかぶった帳簿や記録簿が静かに眠っている。
厚手のカーテン越しに差す光が、机の上の羊皮紙の端をかすかに照らしていた。
魔法省の役人が低い声を落とした。
「……この道具をご覧ください」
机の上に置かれたのは、小ぶりの銀製の溶解皿、複数の極細の撹拌棒、温度を一定に保つための魔力炉の一種、そして液体の滴下を精密に計測する水銀式の計量管――。
いずれも、ただの魔法薬の調合にも使えるが、組み合わせれば“ある特定の種類”の魔法薬を精製するための道具一式になる。
「この銀皿と計量管……違法な劇薬の調合以外で使う事はほとんどない。
入手者を調べたところ――アラン・ブラックの名がありました」
沈黙が、部屋全体を冷たく覆った。
役人はさらに声を潜める。
「もしかすると、レギュラス・ブラックの指示で動いていたのかもしれません。
もしそうなら――この一件は、彼を追い詰める糸口になる可能性がある」
ジェームズ・ポッターは椅子に深くもたれ、組んだ腕越しに視線を落とす。
机の端の銀製の器具は、何かを静かに物語っているようだった。
「……アランは……やっぱり、何かを隠してるんだろうね……」
その声には、確信というよりも、長く積み重ねた疑念の重みが滲んでいた。
視線を横へ向けると、そこにはシリウス・ブラックが立っている。
彼は口を開きかけ――しかし、言葉を失った。
揺れる炎のように微かに動く眼差し。その奥に、迷いと苛立ちと、言葉では表せぬ葛藤が混じっている。
アランが何をしているのか、本当のところを知る者は――今、この場には誰もいなかった。
けれど、銀の皿と計量管が映す光は、次第にふたりの思考を暗く深い闇の方向へと導いていく。
そして、シリウスは――最後まで何も言えなかった。
それが沈黙という拒絶なのか、それとも守ろうとする意志なのか、ジェームズにも分からなかった。
薄曇りの光が差し込む魔法省の一室。
机の上には布が広げられ、その上に証拠として並べられた小さな器具や薬草、乾いた粉末の入った小瓶が置かれていた。
銀製の溶解皿の縁は鈍い光を放ち、計量管には薬液の痕跡が淡く残っている――どれも、それだけで罪と断ずるには弱いが、闇の魔術に使われうる性質を持つものばかりだった。
シリウスは、それらをひとつひとつ視線でなぞりながら、胸の奥に鈍い痛みを感じていた。
これだけで“アランは何かを企んでいる”と判断されてしまう現実が、何よりも悲しかった。
魔法法廷に立たせるには、まだ証拠として脆い。
だが、魔法界の者なら誰もが、そこに潜む影を感じ取るだろう。
――アランが、何かしらの闇の魔術に関わってしまっている。
その可能性は、ほぼ否定できないほどに濃くなっていた。
それでも、シリウスは信じたかった。
かつての彼女を、鮮やかに記憶しているから。
優しく、聡明な少女だったアラン。
青空の下、川辺で笑い合った日もあった。
「愛している」と交わし合った声は、今も耳の奥で鮮明に響く。
共に生きていこうと手を差し出したあの日、柔らかな手がためらいなく自分の手を握り返した、その確かな温もり。
あの頃、アランは彼のすべてだった。
彼女を守るためなら、あらゆるものと戦えると本気で信じていた。
マグルの少女だったアリス――その彼女が、闇の中に沈んでいくなど、誰が想像できただろう。
泥濘に足を取られそうな魔法界で、彼女こそ一筋の光だと思っていたのに。
シリウスは並べられた小瓶から目を逸らした。
信じたい。けれど、この証拠の並びはあまりにも無情だ。
そして何より、自分が信じるだけでは、彼女を救い出せる保証はどこにもないということも、よく分かっていた。
胸の奥で、迷いと悔しさと、消えない面影が絡まり合い、ほどけずに沈んでいく。
――もし、もう二度とあの笑顔に触れられないのだとしたら。
その想像だけで、息が詰まりそうになった。
シリウスは机の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
視線は床に落ちたままで、銀皿の鈍い輝きが視界の隅で重く滲む。
乱暴に袖口で顔を拭うと、深く息を吸い込み、隣にいるジェームズをちらと見た。
ジェームズはまだ、証拠として並ぶ小瓶や器具を見下ろしている。
その目は鋭く、次の一手を探る捕食者のような光を帯びていた。
「……頼む、まだ動くな」
低く、押し殺した声がシリウスの口から落ちた。
ジェームズが目を上げる。
「シリウス、この状況で放っておく気か?」
「放っておくんじゃない」
言葉を切るたびに、シリウスの奥歯が鳴る。
「……まだ確証がない。これ以上、彼女を追い詰めるような真似はするな。やるなら、俺が……俺の手で確かめる」
その声音には、過去を背負いすぎた者だけが持つ、決して揺らがない頑なさがあった。
ジェームズはしばらく黙り込み、やがて短く息を吐くと、視線を道具から外した。
部屋の空気が冷えていく。
シリウスの胸には、疑念と信頼が綱引きしている感覚が絶えず続いていた。
信じたい――それが嘘でない限り、彼はまだ動けない。
だが、その信念が間違いだったとしたら……残るのは、もう取り返しのつかない喪失だけだ。
それでも、彼は決めていた。
真実を突きつけられるのは、自分でなければならない。
彼女がどちらの道に沈もうとも――最後まで目を逸らさない覚悟だけを、シリウスは静かに胸に刻んでいた。
涼しく保たれたはずの空気も、床まで届くほど垂れ下がった寝具の間では籠もり、レギュラスの肌を一層重く湿らせていた。
額には焼けつくような熱がこもり、浅く途切れる呼吸の合間に、何度も同じ光景が甦る。
――死の森。
闇と瘴気がせめぎ合うあの場所で、アランの姿がアリス・ブラックへと歪んだあの瞬間。
自分の腕が、その喉元へとナイフを押し当てた感触。
沼の底に沈めようとした時の水の抵抗、背を押し倒したときの肉の沈み、腹を殴った時に伝わった鈍い衝撃。
夢か、現実の記憶か、その境が熱に侵されてほどけていく。
胸の奥が次第に掻きむしられるように痛み、息をするのも苦しくなる。
「……お父さま、うなされてますわよ」
かすかな声が耳元に落ち、レギュラスは重い瞼をゆっくり開いた。
視界の端に、小柄な影――娘、セレナが立っていた。
美しい髪が、逆光の中で淡く揺れている。
「……戻ったんですか」
かろうじて出た声は少し掠れていた。
セレナは静かに頷き、枕元に腰を下ろす。
「ええ。お母さまから、お父さまが寝込んでいると聞きましたので」
気遣わしげな眼差しがこちらを覗き込む。
その視線から逃れようと、レギュラスは小さく息を整えてから言った。
「……大袈裟です」
言葉は淡々としていたが、その奥には幾つもの感情が混じっていた。
首筋から背中にかけて、汗がべったりと張り付き、不快で堪らない。
だがそれ以上に、熱に浮かされた顔や、うなされて呻く様子を――娘に見られたのではないかという思いが、胸を締め付けた。
あの森の悪夢に呑まれる自分の、どうしようもなく情けない姿。
守るべき存在に見せるべきではない、弱さそのもの。
セレナの横顔が、じっとこちらを見つめている。
レギュラスはゆっくりと視線を逸らし、枕に沈めた。
目を閉じれば熱はまだ続き、あの森の闇が、薄暗い寝室にも滲んでくる。
けれどその向こうで、娘の声が確かに響いていた。
――現実と夢を分かつ、唯一の音として。
セレナは、母からの手紙を広げて座っていた。
そこに綴られていた「お父さまが寝込んでいます」という一文は、今までにないほど重みを帯びていた。
ホグワーツでの生活の中でも、家族を案じることは時折あったが、
父が弱さを見せる――それを母がわざわざ知らせてきたことには、ただならぬものを感じた。
急ぎ休暇を申請し、屋敷へ戻ったセレナは、まず父と母の寝室へ向かった。
静かな薄暗がりのなか、寝台の上に、父――レギュラス・ブラック――が、
熱に浮かされたまま浅くうなされていた。
父は、いつだって誇り高かった。
魔法界の誰もが「最強」と呼ぶ背中は、セレナが幼い頃からずっと、
目標であり、盾であり、あらゆる憧れを一身に集めるものだった。
そんな父が、いま目の前で、苦しげに眉をよせ、時折母の名を呼んでいる。
母への思いが、眠りの中でも父の胸を縛り続けているのだろう。
愛することで、こうも弱さを晒してしまうものなのだろうか。
セレナは、その事実を目の当たりにするたび、不安で満たされた。
母がかつてシリウス・ブラックを愛し、
父が母を一途に、時に執念じみたまでに思い続けてきた――
その“愛”が父と母から何度も溢れ、何かに苦しむ姿さえ見てきた。
愛というものが、人をいかに強く、そして儚く脆くしてしまうか。
セレナは、これまで何度もその矛盾を見てきた。
だから、自分は「愛」を知らなくていい――そう静かに思った。
イングランド国王子との婚約が決まった今も、
その感情にすがる気も、すがられる気もなかった。
敬愛と誠実ささえあれば充分。それ以上の脆弱さは望まない。
父の枕元に腰を下ろすと、セレナは小さく笑みを浮かべる。
「……ゆっくり休んでくださいね」
優しく声をかけると、父は半ば夢と現の狭間で微かに応じた。
「ええ……アランは、どちらです?」
母の安否をすぐに気にする――その一途さもまた、幼いころから変わらない父の姿だった。
心身ともに消耗しきっている今でさえ、母を探し、母を案じる。
それこそが、レギュラス・ブラックなのだと、改めて胸に刻まれる。
「魔法薬を調合しているようですわ」
「そうですか……」
父は照れたような、けれど安心したような表情を見せる。
母がどこにいるのか。母が無事であるか。
その一点で、いまの自分の安心が決まる――
そんな男性を、セレナはずっと尊敬しつづけたし、
その背を、たとえ苦しみに染まっていても、見失いたくないと思った。
窓の外で、まだ明けきらぬ朝の光が静かに差し込む。
セレナは、父の寝息と母の気配を聞きながら、
自分の選んだ静かな未来をゆっくりと胸の奥で噛み締めていた。
愛に傷つくことなく、敬愛を込めて歩む人生。
その選択の正しさを、いまだけは確かめているようでもあった。
父はやがて、深い眠りに落ちていった。
セレナはそっと立ち上がり、枕元に静かな祈りを残して寝室を後にした。
寝室の静かな空気の中、扉を開けてアランが入ってきた。
手には、淡い琥珀色をした魔法薬の入ったカップ。
かすかな薬草の香りが、熱にうなされたレギュラスの枕元へ漂ってきた。
「レギュラス、具合はどうです?」
ベッド脇に腰を下ろすと、彼の額の汗に視線を落とし、そっとカップを差し出す。
レギュラスは半ば身を起こし、薬を受け取った。
一口含み、驚いたように瞬きをする。
「……苦味もないんですね」
口の中に残るのは、ほのかな甘味と爽やかな香りだけだった。
アランは小さく微笑む。
「子供たち向けに作ることに慣れていましたから」
その言葉に、枕元の空気が少しだけ和らいだ。
アランが空いた方の腕を静かに広げる。
その仕草はまるで、親が幼い子を「おいで」と迎え入れるようで。
けれど、レギュラスは眉をわずかに持ち上げ、その腕をそっと閉じさせた。
そして逆に、自らのほうへと彼女を引き寄せる。
熱のこもった胸に抱き寄せる動作は、無言のままでも、彼らしい誇り高さと独占欲の入り混じったものであった。
アランはその腕の中でクスリと笑みを洩らす。
息が触れ合い、抱擁の温かさが重なる。
「……セレナが戻ってきたそうですね」
ふとレギュラスが囁く。
「ええ、手紙を送りましたから」
アランの声は穏やかで、特別な説明を求めない柔らかさを帯びていた。
レギュラスは少し間を置き、低く呟く。
「……情けない姿を見せてしまいました」
アランはその言葉に、何も答えなかった。
ただ、さらに深く彼の腕の中に体を委ね、静かに目を閉じる。
レギュラスもまた、息を整えながらその温もりを確かめるように抱きしめ続けた。
部屋の中は、互いの鼓動と、ささやかな呼吸音だけが満ちていた。
外では、窓の隙間から淡い光が差し込み、昼への移ろいを告げていたが――
二人にとっては、それよりも大切な、静かなひとときがそこにあった。
闇の奥底、冷たく湿った石の床にデスイーターたちが片膝をついていた。
煤けた松明の炎が壁に長い影を揺らし、息をする音すら憚られる沈黙が広間を支配している。
壇上の玉座に腰掛けた闇の帝王――ヴォルデモート卿が、長く白い指を顎に寄せ、ゆっくりと視線を巡らせた。
その蛇のような目がレギュラス・ブラックを捉える。
「レギュラス・ブラック……お前は、本当によく働いてくれる」
鈍く響くその声に、レギュラスは静かに片膝をついたまま深くこうべを垂れた。
誇示も安堵もなく、ただ表情を押し殺す。
場に漂う緊張の匂いを、肺の奥でゆっくり呑み込みながら。
「……お前の妻が、魔法薬を得意としているようだな」
その一言で、心臓の奥に冷たい刃が差し込まれた。
アラン――
その名を、決してこの場に、あの口から上らせたくはなかった。
巻き込みたくない。
この汚泥のような現実から、出来うる限り遠ざけておきたい。
脳裏には、薬草の香りに包まれ、穏やかな手つきで薬を混ぜる妻の姿が一瞬だけよぎる。
その光景が、この陰湿な広間とはあまりにも遠く、守らなければならない世界のように感じられて苦しかった。
「お前の妻に、作らせたい薬がある……頼めるか?」
その声音は、問いというよりも命令に近く、拒絶など爪先ほどの余地も残してはいない。
この場で「NO」と告げる選択肢など最初から存在しないことを、レギュラスはよく知っていた。
喉の奥がひりつく。
声が震えぬよう、全身の筋肉で押しとどめ、
「……承知いたしました」
わずかに低く、かすれた肯定の言葉を紡ぐ。
ヴォルデモートの口元が、かすかに冷笑の色を帯びた。
松明の炎がその赤い瞳を照らし、ひややかな光がレギュラスのうつむく黒い髪をかすめる。
彼の胸の奥では、まだ冷たい刃が残響のように突き刺さったままだった。
屋敷の一室は、夜の帳が落ちてもしんと静まり返っていた。
重く引かれたカーテンの向こうでは、風が葉をかすかに揺らしている。
燭台のひとつの火が細く揺れ、長く落ちる影の中でレギュラスは立っていた。
胸の奥で、重く硬い塊が脈打つ。
ヴォルデモートの命。
アランに課せられたのは――分霊箱に触れた者の手を焼き、二度と近づけさせないための薬の調合だった。
それが分霊箱を囲む“結界”となり、誰も侵せない要塞と化す。
用心深さから生まれた命令だろう。
だが、なぜわざわざアランに作らせるのか。
分霊箱を扱う自分への人質とするためか――
あるいは、それ以上の、別の意図が潜んでいるのか。
その答えは見えないままだが、ひとつだけ確かなことがあった。
――この手を汚させてはならない。
これは違法な魔法薬だ。
表沙汰になれば、作った魔法使いは必ず罰を受ける。
痕跡を消す。何があっても守る。
それが、自分の唯一の選択肢だった。
アランは机に向かい、淡い灯りの下で書類を整理していた。
その横顔には、まだ何も知らない静けさがあった。
レギュラスは、喉が乾くのを感じながら、その正面に立った。
「……アラン」
声にわずか震えが乗った。
そのまま逃げるようには言いたくなかったが、言葉を吐き出すだけで支える心の柱がきしむ。
「……闇の帝王が、あなたに……薬を、頼みたいそうです……」
自分の口から出た音が、やけに冷たく、遠くに響いたように感じた。
返答を待つ間の数秒が、永遠にも思えた。
視線を上げれば――そこには、どんな目が向けられているのだろう。
驚きだろうか、困惑だろうか、それとも……失望か。
それを確かめるのが怖くて、レギュラスは一瞬、視線を床に落とした。
薬草の香りがかすかに漂う中、沈黙が二人を包む。
彼の胸の中では、ひとつの決意だけが固く燃えていた。
どんな形であれ、この命令の痕跡は――必ず自分が消す。
アランだけは、闇の鎖の外に連れ出すと。
アランは、手にしていた羊皮紙から視線をゆっくりと上げた。
灯りに照らされた瞳は、驚きにも怒りにも似つかない――ただ静かに、底の読めない深さをたたえていた。
「……薬、ですか」
その声は低く、少しの間を空けて重く落ちた。
レギュラスの指は、無意識に背の後ろで組まれていた。
その指先には、わずかな渇きと汗が混じっている。
目の奥で、アランの感情を探そうとしても、彼女は何も漏らさない。
「どんな薬なのです?」
焦らず、それでいて一歩も引かぬ問い。
その問いが、彼の胸の奥を鋭くなぞっていく。
――言えるわけがない。
違法で、触れれば罰され、そして使われれば分霊箱を護る鎖になる薬だと。
そんなもの、アランに正面から告げれば……彼女は迷わず背を向けるだろう。
そして、その選択は正しい。
だが、それでは済まない。
ヴォルデモートの命だ。逃げ場はなく、断りもない。
「……詳細は……これから知らせるそうです」
声音は努めて平静を装ったが、喉の奥にわずかな強ばりが滲んだ。
アランは一瞬だけ目を細め、それから視線を逸らし、机に置いた羊皮紙の端をなぞった。
「……わかりました」
それきり、彼女は何も言わなかった。
沈黙が長く居座る。
レギュラスは彼女の横顔を見つめながら、胸の内で同じ言葉を繰り返した。
――痕跡は必ず、自分が消す。
たとえこの手がどれほど汚れようと。
その決意だけが、二人の間を満たす静けさの下で、鋭く燃えていた。
灯りの乏しい地下の一室。
石壁に囲まれた空間は、魔法薬の残滓がしみついたかすかな薬品臭に満ちていた。
ほの暗い明かりの下、セブルス・スネイプは黒衣のまま窓辺に立ち、冷たい視線でレギュラス・ブラックを見た。
机上には何冊もの古い薬学書と、封蝋のかかった材料リスト。
そのどれもが難解に閉ざされた知識を主張し、息の詰まるほど静寂な空気を張り詰めていた。
「材料からして複雑だ。魔法省の認可がおりなければ――手に入らんぞ」
スネイプの声は低く、しかし皮肉よりも冷静な憂慮が滲んでいる。
レギュラスはその言葉に、ゆっくりと顎を引いた。
内心の焦燥を微塵も表に出さず、淡々と続ける。
「そこをどうにか出来ませんか。あなたなら」
曇りないまなざしで、真正面から頼む。
スネイプは一度細く目を細めると、肩をわずかにすくめた。
「……当たってはみるが、期待はしないでくれ」
仄暗い声と共に、机上のリストに視線を落とした。
「足が付かない方法は――あるんでしょうか」
レギュラスの問いは、懇願でも諦念でもない。ただ、確かな意志を刻むものだった。
スネイプは一度鼻で笑い、小さくため息をつく。
「――本当にあの女に作らせる気なのか」
その端正な顔には、苛立ちとも同情ともつかぬ色が浮かぶ。
レギュラスは微かに首を振り、小さく言葉を絞り出した。
「それ以外に、何か方法がありますか」
声は静かだが、底に決意と絶望の両方が滲んでいた。
沈黙がふたりの間を流れる。
各々が、それぞれの胸の奥に守るべきものを抱えている――
それを一切語ることはない。
だが、互いにだけはわずかばかり、その弱さを見せていい相手なのだと、どこかで察していた。
スネイプもまた、何かを守るため、この闇の陣営に身を沈めている。
レギュラスは、それを深く詮索しない。
けれど、セブルス・スネイプが偽りや感傷では動かないことを、誰よりも理解し、
その冷徹な誠実さにだけは、確かな信頼を置いている。
遠い雷鳴のように、心の奥で苦い不安が鳴り続けていた。
けれど二人の間には、それ以上多くを語らない、静かで透明な信頼だけが残された。
やがてスネイプは、暗がりの中で静かに一礼した。
「……方法は考える。だが、決して期待はするな」
闇の奥にその声は沈み、また石壁に吸い込まれていった。
レギュラスはほんの僅かだけ瞳を伏せ、
「……お願いします」とだけ低く伝えた。
底なしの夜の中で――
これは、弱きものたちがせめて手元につなぎとめようとする、ひそやかな誓いだった。
石造りの屋敷の奥、静かな魔法薬調合室には、薬草と乾いた羊皮紙の匂いが満ちていた。
窓は固く閉ざされ、外の風は一切入らない。
机の上には整然と並べられた材料のリストがあり、その一つ一つが重く意味を帯びている。
――黒檀の根皮
――ドラゴンの肝臓の乾燥粉末。
――バジリスクの毒嚢から抽出した結晶。
――数百年物のマンドレイクの精。
――銀製の皿で七日七晩かけて凝縮させたアコニート。
――影の羽 希少な魔法生物の死後すぐにしか採れない、魔力を遮断する黒い羽
どれも、魔法省の厳格な規制なしには入手不可能なものばかり。
そして、ほんのわずかでも過剰に用いれば、命を即座に奪うほど危険な劇薬。
レギュラスは、机の端に置かれたそのリストを見つめながら、胸の内が固く冷たく沈んでいくのを感じていた。
セブルス・スネイプに手配を頼みはしている――だが、問題はそこではない。
足がつくこと。
もしこれらの材料調達がアランの名で記録に残せば、その瞬間に全てが終わる。
魔法省の疑念は一度背負えば決して消えず、逃げ道も反論の余地も閉ざされる。
詰み――その言葉が頭の奥で重く響く。
「……わずか数滴で、命を奪えるほどの薬ですよ」
アランの声が、静かな部屋に落ちた。
その瞳には恐怖よりも、事実を見極めた者だけの冷たい沈着さがあった。
レギュラスは、言葉を返せない。
ヴォルデモートがわざわざ彼女に作らせる――その時点でただ事ではないと分かっていた。
だが、こうして具体的に、その効能を口にされると、胸の奥に冷たい針が突き刺さるようだった。
しばしの沈黙。
アランの視線は机の上に落ちたまま、低く息を吐く。
「これが、魔法省に知られれば……」
彼女の言葉は途中で途切れたが、その先は互いに理解していた。
終わりだ。全てが。
レギュラスはゆっくりと息を吸い込み、その声に揺るぎを宿す。
「――大丈夫です。手を回します」
その言葉は、まるで自分自身に誓いを立てるように、静かで確固とした響きを持っていた。
視線はまっすぐ、アランの瞳に。
この計画に手を染めても、最後には必ず彼女を安全な場所へ帰す――その一心だけが、彼の胸で確かに燃えていた。
静まり返ったブラック邸の一室に、重い足音が近づいてくる。
厚いドアが静かに開き、黒い外套を纏ったセブルス・スネイプが、古びた革の包みを抱えて立っていた。
包みからは、微かに土と薬草と金属が入り混じった匂いが漂い、部屋の空気に何か不吉な影を落とす。
「――材料の手配が整った」
低く抑えられた声が、石壁に柔らかく反響した。
アランは机の前に座っていたが、その言葉を聞いた瞬間、身体の奥を冷たい刃でなぞられたような感覚に襲われた。
顔色は変えまいと努めても、指先の感覚がじわりと薄れていく。
机の上に差し出された包みを、両手で受け取る。
革の重みと中身の硬質な手応え――その一つ一つが、今まさに自分が闇の深みに足を踏み入れる音のように感じられた。
自分を命懸けで救ってくれた男のために、何があっても支えると誓ったはずだった。
たとえ世界中が彼を疑い、責め立てても、盾となるつもりでいた。
けれど――
この包みに詰まっているのは、数滴で命を奪うほどの劇薬となる材料。
分霊箱の護りのために作らされる、恐ろしくも穢れた薬。
その現実が、心の奥の光を静かに、しかし確実に消していく。
シリウスの隣で感じた、あの正面から照らしてくるような力強い光は、
もうとうに、自分の中から掻き消されてしまったのだとわかる。
ヴォルデモートの分霊箱――
何のために、どれほど、自分の心を削らなければならないのか。
これから先も、レギュラスは一生、その護りを担わされ続けるのだろうか。
その未来を思うと、胸が崩れて呼吸が詰まりそうになった。
あの日、彼が自分を助けなければ…。
あのまま静かに死を受け入れてくれていたら――
こんな恐ろしい薬に自分の手を染め、闇の奥に沈むこともなかったのではないか。
その考えがよぎるたび、自分がこのまま生きていくことさえ正解なのかわからなくなる。
革包みを受け取った手の中に、ずしりと絶望が沈んでいく。
目の前のスネイプが何かを言い足そうとしたが、アランはわずかに首を横に振った。
言葉はこの場に似つかわしくなかった。
ただ包みの重みだけが、この先踏み入れる不可逆の一歩を告げていた。
部屋の空気は、薬草の匂いと途方もない暗さで満ちていた。
アランは視線を落とし、その重みに押し潰されるように、深く息を吐いた。
薄暗い調合室の空気は、乾いた薬草と金属の匂いで満ちていた。
煎じた液が小さな鍋の中で静かに泡立ち、淡くくすんだ色を帯びていく。
アランの細い指が木杓子を握り、一定のリズムでかき混ぜていたが――ふと、その動きが止まった。
脳裏に蘇るのは、ずっと昔の声。
「君は天才だ」
魔法薬の腕前を、心からの笑顔で褒めてくれたシリウス・ブラックの声。
疲れ切った彼に眠りやすい薬を調合し、そっと渡した夜。
「ありがとう」と目を細める、その温かな表情。
あの太陽のような人を、自分の作る薬で支えられることが、ただ嬉しかった。
胸の奥が、あの頃は確かに輝いていた。
けれど今――
鍋の中で煮えているのは、数滴で命を奪う劇薬。
ヴォルデモートの分霊箱を護る、冷酷な鎖。
誰を救うでも、誰の痛みを和らげるでもない。
ただ、触れようとする者を焼き払い、遠ざけるためだけの毒。
無念だった。無力だった。
そして、自分がこんなものを作れるほどの「闇」に、何の躊躇もなく手を伸ばしてしまえる事実が、恐ろしくてならなかった。
気づけば視界が滲んでいた。
涙は止めようもなく溢れ、鍋の表面に映る自分の影が揺れて崩れた。
杓子を置く音が、やけに大きく響く。
一瞬だけ、シリウスと夢見た世界がよぎった――
魔法使いもマグルも、肩を並べ、同じ陽だまりを歩ける世界。
あの儚くも力強い夢は、今となっては幻の中でしか触れられない。
嗚咽が、唇を噛んでも零れた。
「こんなもののために……」
言葉にならない声を飲み込んだ瞬間、背後から低い呼びかけが届く。
「……アラン? どうしました、アラン」
レギュラスの声。
アランは首を振るだけだった。
言えば、すぐにでもこの優しさに甘えてしまいそうで。
「少し休んでください」
真っ直ぐな眼差しが自分を見ていた。
その優しさは痛いほど沁みるのに、胸の亀裂は埋まらなかった。
――もう、終わりにしてしまわなければ。
その言葉が喉の奥まで込み上げた。
けれど、レギュラスを思うと……どうしても、声には出来なかった。
彼のために生きようとここにいる自分が、
同時に、彼を縛る鎖の一部になってしまっている――
その矛盾に、また新しい涙がこぼれ落ちた。
分霊箱の間は、不自然なまでに静まり返っていた。
完成した魔法薬は、見た目こそただの透明な液体だが、その周囲には形のない壁のような魔力が漂っている。
それは触れれば命を奪う盾――アランの手によって生み出された、恐ろしく冷たい護りだった。
これで、分霊箱に触れようとする者は必ずこの薬の影響を受ける。
一人で辿り着くことは不可能だろう。
もし触れようとすれば、必ず“犠牲”が必要となる。
その犠牲が、命であることを知っているからこそ、その静寂はなお重かった。
アランは魔法薬の小瓶を見つめたまま立ち尽くしていた。
胸の奥に、鋭い針で何度も貫かれるような感覚が広がる。
――この手で。
愛する人を抱きしめたこの手で。
我が子を抱いた、この温もりを知っている手で。
人の命を奪える薬を、作ってしまった。
それを思うだけで、視界が小さく波打つ。
虚無が、胸から溢れそうになる。
気づけば、傍らにレギュラスが立っていた。
そっと彼がアランの手を包み込む。
「何も気負わなくていい」――そう告げるような、静かで揺るぎない力で。
だが、アランはその手を、握り返すことができなかった。
握ってしまえば、またこの胸の奥を締めつける痛みに耐えなければならない。
守ろうとすることが、支えようとすることが、
こんなにも痛く、そして苦しいとは思わなかった。
沈黙が落ちた中で、レギュラスが静かに言った。
「……大丈夫です。ここに辿り着く者がいなければ、犠牲なんて出ません」
その言葉は、慰めというより、己への固い誓いのようだった。
彼は本気でそれを信じようとしている。
だからこそ、アランの胸はさらに締めつけられる。
薬が放つ見えない結界は、二人を包み込みながら、
同時に互いの心までも、別々の檻に閉じ込めていくようだった。
屋敷の寝室に、夜の静けさが深く落ちていた。
厚いカーテンが窓を覆い、外の冷たい空気を遮断している。
燭台のろうそくが一本だけ、穏やかな光を投げかけていた。
レギュラスは、久しぶりに心の奥で安堵を感じていた。
ヴォルデモートからの命令が一つ終わった――
死の森での試練、そして分霊箱を護る薬の完成まで、
夫婦で過ごす穏やかな時間は、ほとんど取れずにいた。
その緊張がようやく緩んだ今、彼の胸には別の欲求が静かに湧いている。
アランが窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
その背は細く、月明かりが肩の線をほのかに照らしている。
レギュラスはそっと近づき、後ろから彼女の肩を抱き寄せた。
「……」
言葉はなく、ただ温もりを分かち合うように。
手がゆっくりと、ローブの端に触れ、少しだけ脱がそうとしたその瞬間――
アランの手が、静かに彼の手に重ねられた。
制する力は強くないが、確かに止める意思があった。
「レギュラス……」
ただその名を呼ぶだけ。
けれど、その声の奥には、弱々しくも明確な拒絶が宿っていた。
レギュラスの手が、そこで動きを止める。
瞬時に胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
「……そうですよね。色々ありましたし……」
できるだけ軽やかに、気にしていないという風を装って言葉を紡ぐ。
この場の空気を壊してはいけない――そんな思いで、フォローを試みた。
だが、心の奥では別の感情が渦巻いている。
アランから、明確な拒絶を示されたのは――たぶん、初めてだった。
いつも彼女は、自分を受け入れてくれていた。
たとえそれが、激情に任せて強引に押し通すような夜であっても、
そこにアランからの拒絶が絡むことはなかった。
彼女の瞳には、時に戸惑いはあったかもしれないが、
最終的にはいつも、彼を包み込むような受容があった。
だからこそ、今夜のこの瞬間が――鋭く胸に刺さった。
レギュラスは腕を引き、そっとアランの隣に立った。
彼女はまだ、夜空を見上げたままだった。
横顔には、薄い光が静かに落ちているが、
その表情からは、何も読み取ることができない。
二人の間に、見えない距離が生まれていた。
それは物理的なものではなく、心の奥の、もっと深い場所での断絶。
分霊箱の護りを完成させたことで得られた安堵は、
いつの間にか、別の形の寂寥に変わっていた。
ホグワーツの最終学年――
アルタイル・ブラックはその最後の一年を、魔法省魔法法務部で研修として過ごしていた。
ホールの中には白い大理石の床が反射する光が満ち、行き交う職員たちの会話と羽ペンの走る音が絶え間なく続いている。
アランは、そんな忙しない空間の中で、彼を一目見ようと訪れていた。
遠目に見つけたアルタイルは、背筋を伸ばし、じっと資料に目を通していた。
時折、担当官から質問を受け、小さく頷きながらも迷いのない返答を返している。
その姿は、少年というよりもう一人前の魔法使いで、頼もしく、そして眩しかった。
優秀な成績で卒業を控えるアルタイルは、ホグワーツを出た後、そのまま法務部に就くことを願っている。
彼はきっと、多くの罪を目にし、それを見極め、判断し、裁く立場になるだろう。
「正義を選び取る者」であろうとする、その志は、アランにとって誇らしくもあった。
けれど――
先日、自らの手で作り上げてしまった魔法薬が、不意に脳裏をよぎる。
あの透明な液体。
わずか数滴で命を奪う、認可のおりていない劇薬。
ヴォルデモートの分霊箱を護るためだけに存在する、違法な魔法薬。
その事実が、胸の奥で重く響いた。
アルタイルの瞳は、裁きの場に立つ未来そのもののように澄んでいる。
絶対に歪ませたくない、
この手で汚すようなことは、決してしてはならない――
そう思うのに、真実は胸の奥に沈めるしかなかった。
知られたくない。
心の片隅からではなく、もっと深い場所から、はっきりとその感情が浮かび上がる。
それは息苦しくなるほど強く、アランの喉を塞いだ。
「母さん?」
不意に声をかけられ、アランははっと顔を上げた。
アルタイルが、少し不思議そうにこちらを見ている。
「あまりここに来ることないよね」
「……ええ、少し、顔を見たくなっただけ」
引きつらせないよう努めて笑うと、彼はわずかに微笑んだだけで、それ以上何も訊ねてこなかった。
その優しさが、かえって胸を締めつける。
アルタイルが信じている「母」を、守らなければならない。
真実を知ればきっと、彼は迷いなく正義の側に立つだろう。
だからこそ――言えなかった。
ただ、別れ際に軽く抱きしめた肩に、そっと指先の力を籠めた。
その温もりは、誇りと罪悪感、両方を混ぜこぜにして、アランの胸に深く沈んでいった。
石畳の路地に、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
任務を終え、屋敷へと戻る道すがら、レギュラスはふと足音の気配を察し、振り返る。
そこに立っていたのは、長身に成長した息子――アルタイルだった。
「父さん、さっき母さんが僕の姿を見に、法務部まで来てくれました」
足を止めたレギュラスの眉がわずかに上がる。
「……アランがですか?」
事前に聞いていなかったのだろう、その反応は素直な驚きに満ちていた。
ふたりは並んで歩き出す。
通りを抜ける風が、どこか湿った秋の匂いを運んでくる。
「母さん、元気がないようでした。……何か知ってますか?」
アルタイルは、さりげない調子を装いながらも、その瞳には確かな探りの色を浮かべている。
「疲れが出ているのかもしれませんね」
レギュラスの答えは短く、声の調子も変わらない。
それ以上を語らぬ壁を、長年の直感で悟る息子。
少しの沈黙のあと、アルタイルは目を細めて問いを重ねた。
「……母さんが杖を変えたことと、何か関係あるのですか?」
その言葉に、レギュラスは一瞬視線を逸らした。
しかし足は止めない。
返事はなかったが、沈黙の中に柔らかな圧が満ち、どこか「これ以上は踏み込むな」という無言の告げ口のようだった。
アルタイルは知っている。
母が、父と同じ杖芯を持つ杖に変えたことを――。
そんなことをわざわざするのは、何らかの理由があるからに違いない。
互いの杖が兄弟杖になるということは、互いへの攻撃呪文が成立しないということ。
……そうでもしなければ、避けられないほどに杖を向け合う可能性がある――ということなのか。
胸の奥で、疑念が音もなく広がる。
自分の知らぬところで、この夫婦にしかわからない過去や約束、あるいは傷があるのだろう。
そして、それはきっと決して軽いものではない。
だが当然、父の口から真実がもたらされることはなかった。
レギュラスはの門をくぐる直前、わずかに微笑みを形だけ見せただけで、
何事もなかったかのように歩を進めた。
アルタイルはその背中を見つめながら、
その笑みの向こうにある数えきれぬ沈黙を、
決して軽く考えてはいけないと――静かに悟った。
屋敷の食卓には、久しぶりに柔らかな賑わいが満ちていた。
夕餉の明かりが銀器を淡く照らし、スープから立ち上る湯気が、家の中に小さな温もりを満たしていく。
ここ数日――アランからあの柔らかな拒絶を受けてから、レギュラスはどう接していいのかわからなかった。
何気なく肩に触れること、手を取ることさえも、避けられる情景ばかりが頭をよぎる。
不用意に近づけば、またあの弱くも確かな拒絶を目にするのではないか――そんな悲観的な想像が、心に影を落としていた。
だからこそ、今夜の賑やかさは救いだった。
法務部の見習い研修に出ているアルタイルが、屋敷へ戻ってきている。
母と子のやりとりが自然に交わされることで、レギュラスは食卓の空気に身を委ねられる。
アランの様子ばかりを、ちらちらと盗み見る必要もない。
「アルタイル、立派だったわ」
アランの声は柔らかく、しかし誇らしげだった。
その微笑みは、久しく見ていなかった種類の光を帯びている。
「……母さんに見られてたなんて、恥ずかしいです」
箸先を少し落ち着きなく動かしながらも、どこか嬉しそうに笑うアルタイル。
テーブル越しに交わされる母子の会話を、レギュラスは静かに見守った。
そこに映る自分は、ごく自然な「父」だった。
特別な言葉を添える必要もない。ただこの光景の中に、自分の席があるという事実が、ひそやかな安堵となって胸を包んだ。
外の闇は窓越しに深まりゆくが、テーブルの上の光は変わらず温かい。
レギュラスはその食卓を前に、今夜だけは、小さな平穏の中に自分を置くことができた。
寝室はほの暗く、カーテンの隙間から射す月明かりが床に淡い影を描いていた。
レギュラスは先にベッドに身を横たえ、枕に頭を沈めたまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
眠気が波のように寄せてくるのを待ちながら、耳には微かな衣擦れの音と、髪を梳くブラシの規則正しい音が届く。
ドレッサーの前で支度を整えるアランの後ろ姿が、まぶたの裏に輪郭だけ浮かんでいた。
やがて、その音も止まり、空気がわずかに静まる。
ベッドの端が沈む感触――アランがシーツの中に身を滑り込ませたのが分かった。
まだ意識ははっきりしているから、そのわずかな振動や温度の移りが敏感に伝わってくる。
ふと、こちらの腕や脚に、柔らかくアランの四肢が触れる。
彼女はそれを特に意識するでもなく、そのままでいる。
――今日は拒む意志はない、ということなのか。
それとも、ただ偶然、寝姿の延長で触れているだけなのか。
答えの出ない問いが、静かな頭の中でゆるやかに渦を巻く。
「おやすみなさい、レギュラス」
短く、穏やかな声が闇に落ちる。
レギュラスはゆっくりと目を開いた。
その横顔は、闇に溶けるように白く柔らかい。
「……もう、寝ますか?」
自分でも、なぜそう問いかけたのか分からなかった。
まるで引き留めるような、あるいは話していたいと願うような声音。
問いの直後、胸の奥にじわりと情けなさが広がる。
彼女がどう答えるかよりも、この沈黙のひと呼吸の間に、
拒絶も受容も読み取れない距離感があった。
外では風がひときわ強くカーテンを揺らし、
二人の間の薄い空気が波立つように感じられた。
寝室の夜気は静まりきっていて、ふたりの呼吸の音だけが薄く重なっていた。
アランの「どうしてです?」という声は、驚きよりも、淡い探りの色を帯びていて――
レギュラスの胸に、ゆっくりと波紋を広げた。
返答の言葉が、すぐには浮かばない。
ただ近くに触れていたいだけなのか、抱き寄せてもいいのか、唇を重ねるくらいは許されるのか――
その境界線が判然とせず、息を潜めるように彼女の体温を感じていた。
拒絶されるのが怖くて、一歩を踏み込めない。
けれど、これは衝動に任せて欲望をぶつけるような粗雑な感情ではなかった。
ただ、求めていたい。
受け入れられる存在であると、確かめたい。
その思いを形にできれば、胸の重さも少しは解けるだろう。
だが、それを言葉にしてしまえば――
きっと、あまりにも直接的で、幼い独占欲のように響くだろう。
そう思うと、口の中で言葉が崩れ、喉の奥に押し戻された。
視線が短く絡み、また離れる。
彼女の手首の小さな動きにさえ、心が揺れた。
触れていた指をほんのわずか押し開き、吐息とともに
「……いえ……聞いてみただけです」
と、かすれるように紡ぐ。
その言い回しは、何事もなかったかのように装うための、ぎこちない覆い。
言えなかった本音だけが、胸の奥で膨らみ、重く滞っている。
アランは、それ以上追及しなかった。
その沈黙の中、ふたりの間には、触れられるほど近く、しかし決して踏み越えられない一筋の境界が、淡く、けれど確かに横たわっていた。
アランは、暗がりの中でそっと視線を落とした。
レギュラスの言葉は、軽く受け流したようでいて、どこか遠くの響きを持っていた。
ほんの一瞬――その奥に、もっと重たいものが隠れていることを感じ取っていた。
彼が何を言いかけ、何を飲み込んだのか。
それを問い質すことはできた。けれど、もし引き出してしまえば、互いの距離を測りあうためだけの言葉が宙に漂い、
かえって触れられない境界を鮮明にしてしまうような気がした。
だからアランもまた、口を閉ざした。
沈黙は、拒絶でも、許容でもなく――ただ、揺れる呼吸のあいだに漂う曖昧な温度を孕んでいた。
わずかに腕が触れ合い、シーツの下でその温もりが広がる。
それは確かに届いているはずなのに、どこか不安定で儚い。
境界を越えないまま触れ続けることは、案外難しい。
ほんの少し寄れば抱擁になり、離れれば孤独になる――そんな綱渡りのような近さ。
アランは目を閉じ、吐息を長く零した。
彼の求めるものと、自分のいま差し出せるものの間にある差を、はっきりと感じながら。
レギュラスはその小さな息づかいを耳にしながら、
やはり境界の向こう側には踏み込めないのだと悟った。
それでも離れたくはなく、ただシーツ越しの温もりをゆっくりと噛みしめる。
夜は深まっていく。
二人のあいだには、触れていながら触れきれないままの熱が、
静かに積もり続けていた。
――このまま、眠りが訪れるまで。
魔法省の一室は、昼下がりにもかかわらず薄暗かった。
壁際には背の高い書棚が並び、埃をかぶった帳簿や記録簿が静かに眠っている。
厚手のカーテン越しに差す光が、机の上の羊皮紙の端をかすかに照らしていた。
魔法省の役人が低い声を落とした。
「……この道具をご覧ください」
机の上に置かれたのは、小ぶりの銀製の溶解皿、複数の極細の撹拌棒、温度を一定に保つための魔力炉の一種、そして液体の滴下を精密に計測する水銀式の計量管――。
いずれも、ただの魔法薬の調合にも使えるが、組み合わせれば“ある特定の種類”の魔法薬を精製するための道具一式になる。
「この銀皿と計量管……違法な劇薬の調合以外で使う事はほとんどない。
入手者を調べたところ――アラン・ブラックの名がありました」
沈黙が、部屋全体を冷たく覆った。
役人はさらに声を潜める。
「もしかすると、レギュラス・ブラックの指示で動いていたのかもしれません。
もしそうなら――この一件は、彼を追い詰める糸口になる可能性がある」
ジェームズ・ポッターは椅子に深くもたれ、組んだ腕越しに視線を落とす。
机の端の銀製の器具は、何かを静かに物語っているようだった。
「……アランは……やっぱり、何かを隠してるんだろうね……」
その声には、確信というよりも、長く積み重ねた疑念の重みが滲んでいた。
視線を横へ向けると、そこにはシリウス・ブラックが立っている。
彼は口を開きかけ――しかし、言葉を失った。
揺れる炎のように微かに動く眼差し。その奥に、迷いと苛立ちと、言葉では表せぬ葛藤が混じっている。
アランが何をしているのか、本当のところを知る者は――今、この場には誰もいなかった。
けれど、銀の皿と計量管が映す光は、次第にふたりの思考を暗く深い闇の方向へと導いていく。
そして、シリウスは――最後まで何も言えなかった。
それが沈黙という拒絶なのか、それとも守ろうとする意志なのか、ジェームズにも分からなかった。
薄曇りの光が差し込む魔法省の一室。
机の上には布が広げられ、その上に証拠として並べられた小さな器具や薬草、乾いた粉末の入った小瓶が置かれていた。
銀製の溶解皿の縁は鈍い光を放ち、計量管には薬液の痕跡が淡く残っている――どれも、それだけで罪と断ずるには弱いが、闇の魔術に使われうる性質を持つものばかりだった。
シリウスは、それらをひとつひとつ視線でなぞりながら、胸の奥に鈍い痛みを感じていた。
これだけで“アランは何かを企んでいる”と判断されてしまう現実が、何よりも悲しかった。
魔法法廷に立たせるには、まだ証拠として脆い。
だが、魔法界の者なら誰もが、そこに潜む影を感じ取るだろう。
――アランが、何かしらの闇の魔術に関わってしまっている。
その可能性は、ほぼ否定できないほどに濃くなっていた。
それでも、シリウスは信じたかった。
かつての彼女を、鮮やかに記憶しているから。
優しく、聡明な少女だったアラン。
青空の下、川辺で笑い合った日もあった。
「愛している」と交わし合った声は、今も耳の奥で鮮明に響く。
共に生きていこうと手を差し出したあの日、柔らかな手がためらいなく自分の手を握り返した、その確かな温もり。
あの頃、アランは彼のすべてだった。
彼女を守るためなら、あらゆるものと戦えると本気で信じていた。
マグルの少女だったアリス――その彼女が、闇の中に沈んでいくなど、誰が想像できただろう。
泥濘に足を取られそうな魔法界で、彼女こそ一筋の光だと思っていたのに。
シリウスは並べられた小瓶から目を逸らした。
信じたい。けれど、この証拠の並びはあまりにも無情だ。
そして何より、自分が信じるだけでは、彼女を救い出せる保証はどこにもないということも、よく分かっていた。
胸の奥で、迷いと悔しさと、消えない面影が絡まり合い、ほどけずに沈んでいく。
――もし、もう二度とあの笑顔に触れられないのだとしたら。
その想像だけで、息が詰まりそうになった。
シリウスは机の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
視線は床に落ちたままで、銀皿の鈍い輝きが視界の隅で重く滲む。
乱暴に袖口で顔を拭うと、深く息を吸い込み、隣にいるジェームズをちらと見た。
ジェームズはまだ、証拠として並ぶ小瓶や器具を見下ろしている。
その目は鋭く、次の一手を探る捕食者のような光を帯びていた。
「……頼む、まだ動くな」
低く、押し殺した声がシリウスの口から落ちた。
ジェームズが目を上げる。
「シリウス、この状況で放っておく気か?」
「放っておくんじゃない」
言葉を切るたびに、シリウスの奥歯が鳴る。
「……まだ確証がない。これ以上、彼女を追い詰めるような真似はするな。やるなら、俺が……俺の手で確かめる」
その声音には、過去を背負いすぎた者だけが持つ、決して揺らがない頑なさがあった。
ジェームズはしばらく黙り込み、やがて短く息を吐くと、視線を道具から外した。
部屋の空気が冷えていく。
シリウスの胸には、疑念と信頼が綱引きしている感覚が絶えず続いていた。
信じたい――それが嘘でない限り、彼はまだ動けない。
だが、その信念が間違いだったとしたら……残るのは、もう取り返しのつかない喪失だけだ。
それでも、彼は決めていた。
真実を突きつけられるのは、自分でなければならない。
彼女がどちらの道に沈もうとも――最後まで目を逸らさない覚悟だけを、シリウスは静かに胸に刻んでいた。
