4章
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レギュラスは、躊躇なく駆けた。
森を抜け、闇を裂き、転びそうになる泥だらけの岩場さえ、踏み越えて――それでも間に合えと、ただ一心で走り抜けた。
指先は冷たく痺れていた。
“魔法が届かないなら、この手で掴むしかない”。
心は、ひたすらその衝動だけで動いていた。
崖の縁――その危うい場所に佇むアランの姿。
まるで夢遊病者のように、虚ろな瞳で奈落を覗き込む彼女が、
今にも闇へ導かれそうに腕を伸ばしていた。
「アラン!」
噛み裂くような大声を上げ、最後の踏み込みで、
レギュラスはその腕を乱暴なほどの力で捕らえた。
骨と筋が軋む。
そのまま、重心ごと引き倒すようにしてアランを地へ引き寄せた。
崖際の石が、二人のすぐ横からゴロゴロと転がり、
やがて吸い込まれるように真暗な谷へ消えていく。
アランは、ようやくその場に崩れ落ちた。
白い指先が冷たく震え、瞳は見開かれたまま――
「信じられないもの」を見てしまったかのように、ただレギュラスを見つめている。
「アラン……アラン、何が見えているんです」
震える息を押し殺すように掴んだその声は、
怒りとも苦しみとも区別がつかないほどだった。
アランの唇が微かに動く。
「レギュラス……どうして……?」
まるで、自分がここにいることが奇跡でもあるかのような、その声。
「――聞きたいのは、こっちです!」
抑えきれない熱が、声に乗った。
どこに向かっていたのか。
誰が君をここに誘い、何を信じたのか。
どうして――崖の下に身を投げようとしたのか。
いくつもの問いが、一気にあふれ出し、
怒りと悲しみと、それと説明しきれぬ恐怖が、
言葉の端々でごちゃまぜになってぶつかる。
「一体、この崖の下に何があるというんです?
誰に……何のために……!
こんなことをして……!」
レギュラスの指はまだ、アランの腕を離せずにいる。
必死に、この現実の温度をたしかめている。
自分の叫びは、激情と悲哀が幾重にも重なり、
夜風に溶けていく。
唯一確かなのは――この手の中で脈打つ、アランという命だけだった。
崩れかけた足元、落ちていく石の音が遠ざかり、
森の闇がふたりを静かに包み込み直す。
崖の上には、夜風が冷たく吹き抜けていた。
森を抜けることなく、ただここだけが異様に開けた空間のように、闇と空気が広がっている。
背後の森からは未だ湿った魔力の圧が押し寄せてくる。
その歪んだ力は、さっきまで確かにアランをも絡め取り、何か別の幻を見せていたのだろう――と、レギュラスは思った。
自分に見えていたのは、アリス・ブラック。
忌まわしくも忘れがたい、あのマグル生まれの女。
幻だとわかっていても、生理的な嫌悪と怒りを呼び覚まし、何度も意識を乱そうと仕掛けてきた存在だった。
では――アランも同じだったのだろうか。
彼女の瞳には、誰が映っていたのだろう。
アリス・ブラックが、あの手を握っていたのだろうか。
そして、そのままこの崖から奈落へ身を投げようとしていたのか。
胸の奥が、ぎり、と締め付けられる。
かつてアラン自身が守ってやった少女に、手を引かれて。
その命を手放すことに、ほんの一瞬でも「いい」と思ってしまったというのか。
――じゃあ、自分がこの手で守り続け、命を懸け、
どれほどの犠牲を積み上げてきた意味は何だったのだ。
崇高なものでも、誇れるものでもなかったのか。
たった一人、愛し続けた存在に否応なく告げられた“否定”のようで、
レギュラスは、胸が張り裂けそうになった。
「……あなたには、何が見えていたんですか」
掠れる声で、けれど逃げ場のない問いだった。
アランは、黙ってうつむいていた。
瞳から涙は落ちない。けれど、その沈黙そのものが、凍り付く悲しみの形だった。
静かに。深く。
その様子に、レギュラスの心の内側も同じように泣いていた。
吐き出すように、彼は告げる。
「……僕には、あなたの姿が……ずっと――アリス・ブラックとして映っていました」
その声は、怒りでも責めでもなかった。
ただ、告白のように、罪を懺悔するように、
疲れ果てた魂から落ちる言葉だった。
夜風が二人の間を抜けていく。
崖の下の底知れぬ闇が、静かにその言葉を呑み込み、森がまたざわめいた。
レギュラスは、その闇に向かって、もう一度だけ問いかけたかった――
「あなたの目には、何が映っていたのか」と。
けれど、アランはまだ答えず、ただ静かにその場に留まり続けた。
そして二人の影だけが、月のない夜に細く揺れていた。
崖の縁、冷たい風が頬を裂くように吹き抜けたその瞬間――
アランの腕は、不意に強く引かれた。
重心が乱れ、膝が崩れ、視界がぐらりと揺れる。
倒れ込むようにして地に手をついたそのとき、
――すぐそばにあったはずのシリウス・ブラックの姿は、
煙のように儚く、音ひとつ立てずに消えていた。
代わりにそこにいたのは、荒く息をつきながらこちらを覗き込むレギュラス。
黒い瞳の奥に、安堵と怒り、そして抗いがたい必死さが渦巻いていた。
理解は、遅れてやってきた。
今まで自分の手を握り、出口だと信じさせて導いていたシリウスは――
やはり、この森が見せた幻覚だったのだ。
その事実が脊髄を走り抜ける。
恐ろしい……
もしあのまま信じて、奈落へ身を投げていたら――
そこが“永遠の終わり”であったことは間違いない。
底知れぬ虚無が目の前まで迫っていたのだと、今さらにして悟る。
そして、その奈落の縁からまたもや自分を引き戻したのは、
皮肉にもレギュラスだった。
感謝すべきはずなのに――胸に湧き上がるのは違った。
溢れたのは、不甲斐なさと、どうしようもない罪悪感。
自分はまた、守られてしまった。
命を救われてしまった。
あの人が、どれほどのものを背負って自分を守ってきたのか、知っているのに。
「……僕には、あなたの姿が、ずっとアリス・ブラックとして映っていました」
そう告げるレギュラスの声が、耳の奥に重く落ちる。
返す言葉が――ない。
本当は、自分にはシリウス・ブラックが見えていたなんて。
かつて愛した人に、この森の幻の中で再び手を引かれていたなんて。
そんなこと、彼に言えるはずがなかった。
言えばきっと彼を傷つける。
その表情を曇らせてしまう。
だから――言わない。言えない。
喉が詰まり、代わりに滲んだのは涙だった。
ごめんなさい、の一言すら形にできない。
ただ溢れてくる熱を零し、崖の冷たい風の中で、
アランは唇を固く噛みしめた。
風音だけが二人の間を往復し、
レギュラスの手はまだ、強く自分の腕を掴んだままだった。
その手の温もりは、救われた証であり、
同時に、言えない真実が作った痛みの証でもあった。
崖の上、闇に包まれた空気はほとんど沈殿した水のように重く、ふたりの胸に冷たい重圧としてのしかかっている。
風が吹いても、頬を切るだけで温度を運んではこない。
魔力を歪ませ、心の奥で見たくない痛みを容赦なく増幅させるこの森は、ただ沈黙だけを差し出していた。
レギュラスは、ふと力尽きたように呟いた。
「どうしたらいいんでしょう……」
その声は、心の奥から零れ落ちた小さな問いだった。
自分だけでなく、隣にいるアランも、同じ絶望に立ち尽くしている――そう分かっていた。
幻覚だと意識していても、その毒はあまりにも深い場所に根を張り、
普段は隠してきた傷や弱さを、えぐるように暴き出してくる。
どれほど抗う術を探しても、
その幻は、まるで粘りつく闇となって、離れようとしない。
耳元で囁き、心に淀みを残し、視界の隅に消えない孤独を植え付ける。
ふたりを奈落へ落とそうとするこの森の魔力は、
ただ「幻です」と言い切るだけでは遠ざけられないほどに――狡猾だった。
どうしたら、真っ直ぐこの森を抜けていけるのか。
傷つけ合うことなく、二人で生きて外へ出ることができるのか――
アランは静かにうつむき、答えを探した。
けれど、もはやわからなかった。
その問いを繰り返すだけで、胸の奥はさらに深い淀みへ沈んでいく。
その淀みの中で、ふと浮かんだ思いがあった。
いっそ、このままふたりで、
何もかもから逃げてしまえたなら。
眠るように、痛みも後悔も、すべて持たずに、静かに死ねてしまえたなら――と。
森の闇の中でさえ、
ふたりきりでいるのならば、
それだけが救いになるのではないかとさえ思った。
それでも、隣にいる手の温もりと、細く刻まれた息遣いだけが、
わずかな現実の灯を残していた。
この森から抜け出す術を探しながら、
もう一度だけ、お互いを見失わないように、
擦り切れそうな信頼だけを頼りにしていた。
風が止み、夜が静かにふたりを包み込む。
弱さも痛みも曝け出したまま、
ふたりは闇の中で、
ただ静かに、寄り添って座ることしかできなかった。
森の奥、湿った空気がまだ肌に貼りつくなか、
レギュラスは無言で自分のローブの裾を掴み、ためらいなく裂いた。
布地が裂ける低い音が、静まり返った闇の中で微かに響く。
その切れ端を手に取り、彼はアランのほっそりとした手首にそっと巻きつけた。
次いで、自分の左手にも同じように巻く。
黒い布は二人の手首をひとつの線で結び、
目に見える確かな繋がりとなった。
「……これではぐれはしないでしょう」
その声は、静かでありながら、何かを祈るような張り詰めた響きを含んでいた。
それからレギュラスは、自分の手の中にまだ温もりを残すアランの杖を握り、
代わりに自分の杖をアランの手へと差し出す。
「互いのものを持っておいたほうがいい」
耳慣れない策の理由を、彼は短く告げた。
――杖には必ず持ち主への忠誠がある。
その忠誠心は、この森の魔力にさえ歪められない。
ゆえに、互いの杖を持ち合えば、幻覚に呑まれても、
この手で互いを殺す呪文だけは決して放たれない。
ほんの小さな工夫。
だが、それでも幾ばくか、この歪んだ森に抗えるのではないか――
そんな、ほとんど祈りにも似た思いを込めて。
布で結んだ手首と、互いの杖の重み。
そのどちらも、たとえ幻が形を変えて襲ってきても切れない絆であってほしかった。
そのとき、不意にアランが小さな声で言った。
「……レギュラス。森を出られたら……私は、杖をあなたの杖の芯と同じものに変えようと思います」
漆黒の闇の中で、その言葉はほんのりと温かく揺らめき、
レギュラスの胸の奥深くに沁みていった。
少しの間、彼は言葉を失い――そして力の抜けた笑みを見せた。
「……兄弟杖ですか」
互いを決して傷つけ合わない、同じ芯を持つ杖。
夫婦であり、兄弟杖にもなるという未来を、
アランが自ら口にしたことが――
この荒れ果てた森のただ中で、何よりも彼の心を温かく満たした。
闇はまだ深く、森の魔力はなお二人を試そうとしている。
それでも、手首を結ぶ布と、温もりを抱いた杖と、
そして約束された未来が――
レギュラスの胸に、小さな確信の灯を宿していた。
布でつながれた手首は、互いの脈動を静かに伝え合っていた。
歩き出せば、そのわずかな引きと押しが、呼吸の代わりに合図となる。
湿った土を踏みしめる音が、森の奥に吸い込まれていく。
闇は変わらず濃く、頭上の樹々は天を覆い隠したまま。
それでも、もうはぐれる心配はない――視線を奪われても、姿を見失っても、手首の締めつけが「ここにいる」と告げてくれる。
互いに握るのは、もう自分のものではない杖。
その重みは、頼もしさよりもむしろ不思議な安心を与えていた。
幻に囚われても、この杖は相手を殺すための呪文だけは放たない。
その約束のような仕組みが、わずかながら胸の奥の緊張をやわらげている。
レギュラスは、前を見据えたまま深く息を吐いた。
死の気配ばかり満ちるこの森の中で、わずかでも抗う術を手に入れた。
それが本当に出口まで守ってくれる保証はない。
それでも、何もないよりははるかに良い。
アランもまた、横顔を上げていた。
彼の背はぶれず、腕の力も確かに強い。
さっきまであの崖の上で揺らいだ自分の足元を、今こうして引き戻し、支えてくれている。
ローブの布が、物理的なつながり以上の意味を持っていることを、痛いほど感じた。
「……行きましょう」
アランの声が、暗がりの中でもはっきり届いた。
レギュラスは頷き、足を踏み出す。
森はまた、低く唸るようにざわめきを増した。
そのざわめきは、二人の決意を試すようであり、同時に、出口の方角すら隠そうとしているかのようだった。
それでも、二人を繋ぐ布切れはたるむことなく、
脈打つように、かすかな未来の希望を伝えていた。
――この手を離さなければ、まだ抜けられる。
暗闇の奥でそう信じ合いながら、二人は足を止めず前へ進み続けた。
森の奥へ進むほど、空気がじりじりと重くなっていった。
布で結ばれた手首が互いの存在を確かに伝えているはずなのに、その温もりさえ遠のくような感覚が忍び寄る。
ふいに、レギュラスの視界がかすみ始めた。
何かが静かに眼前の暗闇に溶け込み、形を変えていく。
アランの背を見ていたはずが――いつのまにか、それはアリス・ブラックの姿をしていた。
まただ、と思う。歯を食いしばって、「これは幻覚だ」と自分に叩き込む。
しかし、その女の瞳が愚弄するように細く笑った瞬間、胸の奥で憎悪がぶわりと燃え上がった。
同時に、アランの方にも影が忍び寄っていた。
彼女の視界では、隣を歩くはずのレギュラスが、いつのまにかシリウス・ブラックへ変わっていた。
柔らかな声、懐かしい笑顔――すべてが記憶にあるものと寸分違わぬ。
心の奥で封じたはずの感情を、幻は容赦なく引きずり出す。
”手を握って出口へ”――その甘い囁きが足を引かせ、意識をどこか別の方向へ引き込んでいく。
互いの視界には、もう本当の顔は映っていなかった。
にもかかわらず、布で結ばれた手首は温もりを伝え、互いがまだ現実にいることを教えてくる。
その唯一の証がなければ、今頃はもう相手を幻として突き飛ばし、深い闇へ落としていたかもしれない。
森は低く唸り、足元の土が湿った呼吸を吐き出す。
幻はさらに鮮明になり、二人の耳に別々の声を囁き続ける。
「こっちへ――」「ついていけば楽になる」
その声は、決して同じ人物ではない。互いの弱点を正確に抉る、異なる存在の声だった。
レギュラスは歯を噛み、確かめるように布を握りしめた。
アランもまた、震える指で同じ布を辿って、その先にある命を確かめた。
互いを信じる術は、もはやこの一本の布切れと、交換した杖だけ。
森は二人をじわじわと引き裂こうとする。
布が切れるか、心が折れるか――どちらが先か分からない緊張の中、
二人は闇の中で、幻を押し返しながら歩みを続けた。
――闇の森は、なおも幻覚の圧力を高めていった。
レギュラスの視界には、アリス・ブラックの顔が鮮明に浮かんでいる。
その女は、手をつないで歩くごとに、皮肉な笑みを浮かべてこちらを挑発しようとする。
喉元まで込み上げる憎悪。指が震え、杖――アランのものを握る手に力が入る。
幻だと何度も自分に言い聞かせても、本能は、その憎い女を排除しろと叫んでいた。
杖を振り上げて呪文を放ちそうになる。その刹那。
一方、アランの視界では、隣を歩くレギュラスがシリウス・ブラックの面影に変わっている。
その笑顔はあまりにも懐かしく、目を合わすだけで心が惑いそうになる。
けれど、その手の温度が、過去に置いてきたはずの幸福をもう一度差し出す。
この誘惑にもし飲まれたら――自分はまた、レギュラスのことを忘れてしまうかもしれない。
無意識にレギュラス――彼の杖を握りしめ、シリウスの幻に向けて腕を振り上げそうになる。
その瞬間。
ふたりの手首に巻かれた黒い布が、静かに引き合った。
かすかな痛みと体温――現実の証。
その一瞬の感覚が、感情の暴走にブレーキをかけた。
レギュラスは、咄嗟に手首の布へ視線を落とす。
幻覚のアリスではなく、今隣にいる――愛しい人の手を自分は掴んでいるのだと、
その物理的な存在だけを必死に見つめる。
杖を振ろうとした手が震え、空間に呪文は溶けて消えた。
アランもまた、布の感触を確かに握り締める。
レギュラスの名を胸に呼び、シリウスの幻がささやく誘惑を打ち消すように、掌に力をこめる。
杖を振り上げた腕が、そこで止まった。
森は沈黙した。
二人の呼吸だけが、闇の奥で脈打つ。
幻影が激しく渦巻き、破壊の衝動を煽ったが――
最後に残ったのは、互いを信じるための、ただの小さな布切れと、交換した杖の重みだけだった。
ふたりはお互いの顔すら見えないほど深い闇の中で、
それぞれ自分と相手を傷つけそうになる寸前の手を下げ、膝が震える思いで歩みを止めた。
「アラン……」
「レギュラス……」
声は掠れ、涙と恐怖が混ざり合う。
それでも、現実の手首の感触が、最後の境界線となってふたりを守った。
夜の森は、ふたりの葛藤を見下ろしながら、
その先に続く細い出口の道を、わずかにわずかに、許すように静かに開放し始めていた。
森の圧はまだ衰えてはいなかった。
手首を結ぶ布切れが、互いの鼓動を伝え合うたびに、二人はそのわずかなぬくもりにしがみつくようにして息を整えた。
足元には湿った落ち葉が層をなし、踏みしめるたびに水気を帯びた音が深く沈むように響く。
視界の隅では、まだ幻の残像がくすぶっていた。
アランの瞳の端には、時折シリウスの姿がちらつき、レギュラスの胸の奥には攻撃衝動を誘うアリス・ブラックの影が潜んでいる。
完全には払えてなどいない。
それでも――布の感触と、交換した杖の重みが、幻と現実の境界を繋ぎ止めていた。
「……動けますか」
レギュラスの声は低く、けれど震えを押し殺していた。
アランは小さく頷き、唇を固く結ぶ。
これ以上、幻に心を揺らさせはしない――そう誓うように。
遠くに、風の通る音が聞こえた。
森全体が生きて息をしているかのような、重く湿ったざわめきの中に、それとは違う乾いた風の音。
出口へと続くわずかな兆しにも思えるその音に、二人の足が自然と前に出る。
森はまだ諦めてはいなかった。
時折、低い囁き声が背後から追いかけてくる。
「置いていけ」「手を離せ」「ひとりの方が軽い」――
そんな言葉を、互いのもっとも弱いところを突くように吹き込んでくる。
布越しに伝わるわずかな力で、二人は踏みとどまった。
もはや言葉を交わす余裕もなく、ただ同じ歩幅で、一歩一歩前へ。
前方の闇が、ほんのわずか――色を薄くしていく。
その先に、本当に出口があるのか、それともまた森の幻なのかは分からない。
だが、この手を繋いだままなら――答えが何であれ、一緒に辿り着ける。
そう信じて、二人は再び、沈黙のまま歩みを早めた。
森の深い闇は、出口の兆しをにじませながらも、
最後の力を振り絞るように二人の心を踏みにじってきた。
ローブの切れ端――互いの手首を結ぶ細い布の、その先で、
レギュラスの視界にはシリウス・ブラックがいた。
その灰色の瞳は、かつての無邪気な光を失い、
代わりに研ぎ澄まされた言葉でレギュラスを刺し込んでくる。
「アランは、俺を愛していた」
「今なお、愛しているのはお前じゃない」
言葉は一つひとつが罠のように絡みつき、
耳から胸へ、鈍い棘を打ち込んでくる。
「ブラック家という檻に閉じ込めたお前を、アランは恨んでいる」
「アランを抱いたのは、この俺だ」
低く、甘く、それでいて切り裂くような残酷さでシリウスは畳みかける。
思考を握り潰すように、レギュラスの内側で黒い熱が沸き上がった。
黙らせたい――消したい――憎くて堪らない。
心臓が怒りで脈動し、手首に結ばれた布が震える。
一本の杖を握る指は、幻を貫く呪文を解き放つ寸前まで、白くこわばっていた。
同じ布の反対側――アランの視界にもまた、別の地獄が広がっていた。
そこに立っているのは、アリス・ブラック。
かつて、命を拾い上げられたあの日のままの笑みで、
彼女は静かに、しかし途切れなく言葉を紡ぐ。
「助けてもらった日から……本当は、ずっと母のように思ってきたの」
「遠くへ行ってしまわないで。ずっと、シリウスの隣にいてほしかった」
胸を抉るような優しさで、逃れられない理想を差し出してくる。
「シリウスが父で、あなたが母――そんな家庭が、夢だった」
「マグルを傷つけない世界を、あなたに選んでほしかった」
叶えられない未来が、音となって押し寄せるたびに、胸が焼ける。
涙が出るほどに、胸が張り裂けそうになる。
もう聞きたくない。これ以上、耳を奪われたくない。
目を閉じ、両手で塞いでしまいたい――そう思った瞬間、
手首に結ばれた布が、その衝動を封じるかのように引いた。
だが、その感触は同時に、耐えがたい欲求をも呼び起こす。
――離してしまいたい。
この布を引き裂いて、声も顔も届かない距離へ逃れたい。
互いに見ているものは違う。
互いに突きつけられている言葉も違う。
だけれど、胸を突き刺す痛みは、同じ深さで迫っていた。
布切れひとつ――
それが現実と幻を繋ぐ最後の細い橋だった。
その橋を渡れず、折ってしまえば、奈落が口を開けるだけだとわかっていながらも、
二人は今、限界の縁で踏みとどまっていた。
森は、まるで“ここで手を離せ”と言わんばかりに、
闇を濃くし、声を甘く、幻を鮮明にしていく。
そして――布の結び目が、微かに軋んだ音を立てた。
森の闇は、意識の奥までじわりと染み込んでいた。
幻の声が耳元に囁き、脳裏に焼き付く過去と、叶わぬ未来が幾重にも重なる。
痛みが限界に達したその瞬間、ふたりの心はほとんど言葉もなく引き裂かれそうになっていた。
レギュラスの指は、手首に巻かれた布に執拗なほどの力を込めている。
シリウスの幻がさらに追い込む声を響かせ、怒りと嫉妬が胸を焼く。
「お前には愛されていない」
「アランは俺を夢見て生きている」
その声音に、現実の境界が溶けそうになる。
アランもまた、幻のアリスに心を裂かれていた。
「あなたは母だった」
「あなたが選ばなかった世界こそが、私の望みだった」
その言葉の温度――かつての憧れ、今は叶わない切望、魂を抉る痛み。
涙で滲みそうな視界の先で、布の感触も遠くなっていく。
互いに限界だった。
手を離したい――
布を引き裂いて、痛みも幻も、全部沈めてしまいたい。
心の中の衝動が、ひびを入れるように体を震わせる。
その瞬間、
レギュラスは無意識に布へと爪を立てた。
憎悪と悲嘆が手に集まり、引きちぎろうと力を込める。
「黙れ……黙れ、黙れ!」
抑え切れない、内なる叫びが声になって零れる。
アランも、布の結び目を掴んだ指に力が入り、
指先が白くなっていく。
「もう、耐えられない……お願い、消えて……」
その言葉は、幻にも現実にも届かず宙に溶ける。
――僅かな瞬間。
がさり、と布がひきつれる音が森に響いた。
その音に二人とも固まった。
引き裂けば、きっとすべては奈落へ転げ落ちる。
その刹那の予感が、ふたりの指先を止める。
布のわずかな温度――互いの命の証。
手を離せば、傷つけ合い、幻に沈み、取り返しのつかないものだけが残る。
寸前で、レギュラスは目を閉じる。
幻のシリウスの声は闇の奥へと遠ざかり、
布の先にいる――本当のアランを思い出した。
アランも、涙を閉じ込めて、心の底から叫びを抑え込む。
目を覆って、けれど布切れだけは手放さなかった。
その結び目が、脆い命の境界線になっていた。
布は、引き裂かれそうで、けれど――まだ繋がっている。
ふたりは、そのきわに立ち尽くしながら、互いの名を心の内で呼ぶ。
そのわずかな声こそが、闇に抗う最後の意志だった。
森の静けさが一瞬、ふたりの共鳴する鼓動に支配された。
布が繋ぐ命の証だけが、幻の闇を押し返していた――
これ以上離れてはいけないという、切々たる祈りと共に。
森の湿気は、未だ肌にまとわりつくように重く、
吐く息がじっとりと熱を帯びて頬をなでていった。
そのとき、アランがふいに低く息を吐き、片膝をついてしゃがみ込む。
長いローブの裾が湿った土を吸い、黒ずんだ水を含んで沈んだ。
「……っ」
太ももに手を当てる彼女の指先が、小さく震えていた。
止血の呪文が甘かったのだろう。
裂けた傷口がふたたび開き、赤がじわじわと溢れて布地を染めている。
アランが立ち止まったことで、手首を結ぶ布が引かれ、
レギュラスも引き寄せられるようによろめいた。
その物理的な衝撃――ほんの一瞬の揺さぶりが、
あれほど容赦なく続いていた幻覚をぴたりと止めた。
幻が途切れた安堵と同時に、目の前で苦しげに顔をゆがめるアランの姿が、
何の濁りもなく視界いっぱいに広がっていた。
レギュラスはすぐにその傷へ手を伸ばし、掌で包むように押さえた。
一度触れただけで、すぐに理解する。
――これは、自分が与えた傷だ。
アリス・ブラックの幻覚に心を奪われた、その刹那に
ナイフをアランに向けた時の…あの、許し難い傷。
喉に詰まるような後悔が、声を重くし搾り出す。
「……すみません」
「大丈夫」
アランは、傷口の痛みを堪えながらも、落ち着いた声で言った。
「ここを出て、ちゃんと止血できれば…大したことないですから」
けれど、彼の手のひらには、彼女の血がしっかりと付着していた。
濡れた感触と温もりが、じわじわと皮膚の奥まで沁み込んでいく。
再び歩き出したアランは、時おり手を宙へ煽るように動かし、
何か目には見えないものを払いのける仕草を繰り返していた。
――戦っているのだ。
今も、闇の森が見せる幻や囁き声と。
その細い背中が、想像以上の重圧に耐えていることを告げていた。
不思議だった。
先ほどまで、レギュラス自身も一瞬ごとに幻覚に覆われ、
正気と悪夢を何度も行き来していたはずなのに――
今は、ただ隣にいるアランの姿が、鮮明に見えている。
一度も、幻が戻ってこない。
その理由がわからず、頭の奥で思考を巡らせる。
そして――気づいた。
自分の手に、まだ乾ききらないアランの血液が沁みついていることに。
これだ。
この血が、自分の感覚をこの現実に繋ぎ止めているのだ――と。
その確信は、冷たい森の空気の中で、かすかな灯火のように胸の奥に灯った。
森はなおも深い闇と湿気を湛え、
そこに住まうかのような魔力が、あらゆる感覚を歪ませようと押し寄せていた。
だが――血までは、支配できない。
さきほどからずっと、アランの血が自分の手に触れている間だけは、
幻も囁きも、影のように遠ざかっていくのをレギュラスは感じていた。
この森の中で、正気を保たせる唯一のもの――
それは、きっと彼女の血なのだと確信した。
レギュラスはふと、片方の掌を自らの爪で裂く。
痛みと共に、温かいものがじわりと滲む。
その血を、アランの杖を握る方の手に染み込ませ、
それからその手を固く握った。
結んだ布越しに、二人の鼓動と血の温度がゆっくりと混じる。
――これ以上、アランを惑わせない。
この森に、彼女の心を奪わせない。
その一心だった。
「……怪我をしているの? レギュラス……」
隣から、かすかな息づかいとともに声が届く。
「……少し……」
短く答えながら、彼は彼女の表情をそっと窺った。
目に迷いはないか。視線がどこか遠くへ逸れていないか。
もう、何も見えていない――幻に囚われていないかを、
必死に、その瞳の奥に確かめる。
アランは軽く瞬きをして、彼の視線をまっすぐに受け止めた。
その中には、シリウスでもアリスでもない、ただの「レギュラス」を見つめる光があった。
その瞬間、胸の奥で細く張り詰めていた糸が、わずかにほどけるのを感じた。
彼はまだ、そして彼女もまだ――
この森の中で、確かに現実を共有できていた。
森の奥はまだ、抜け出す兆しを見せない。
だが、レギュラスの手は確かにアランの手を包み、その間に脈打つ温もりが途切れることはなかった。
互いの血の温度が、布越しにも漂い伝わってくる。
その熱が、闇の囁きを遮断する壁のように、ふたりを現実へと繋ぎ止めていた。
レギュラスは歩幅を落とし、アランの呼吸を乱さないよう静かに森を進む。
湿った地面に踏み込むたび、かすかな水音と、靴底に吸い付く泥の感触だけが続いた。
不気味な森のざわめきは相変わらず背後から追いすがってくるが――
今は、不思議とふたりの視界を奪おうとはしてこない。
アランは何度も、レギュラスの顔を確かめるように視線を向けた。
その表情に混じるのは、恐れではなく、わずかな安堵だった。
「……見えてます。……ちゃんと」
かすれた声でも、その言葉は彼の胸に深く沁み込んだ。
レギュラスは小さく息を吐く。
「もう少しです。このまま行きましょう」
祈るような気持ちを込め、さらに強く手を握った。
森の奥から、ふっと乾いた風が吹いた。
それはじめじめした瘴気の中では異質で、
初めて、外の空気を思わせる匂いを運んできた。
二人の足取りに、ほんのわずかな希望が混ざる。
しかし同時に、森全体がゆるやかに蠢くような気配が広がる。
最後の関門を用意する者のように、
出口を前にして立ち塞がろうとする意思があった。
レギュラスは布の結び目を確かめ、アランの血と自分の血を握ったまま、
闇がもし牙を剥いてきても離さぬ覚悟で、一歩を踏み出した。
ようやく、森の出口が見えた。
灰色と黒に沈んでいた世界の端が、微かに淡い青みを帯びはじめている。
その瞬間、緊張の糸がぷつりと切れたように、二人の足が同時に止まった。
布で結んだ手首は互いの血で湿り、もうじき乾ききろうとしている。
それでも、ここまで来られた証だけが、確かに掌の中に残っていた。
アランはふらりと膝を落とし、そのまま草の上に横たわった。
「もう、一ミリも動けない……」
声に出す余裕さえなく、閉じたまぶたから寝息がゆっくりと溢れ出す。
闘いにさいなまれた体は、今はただ、無垢な静けさに包まれていた。
レギュラスはその隣で、自分もゆっくりと腰を下ろした。
震える手で、アランの背中を優しく撫でる。
指先がなぞるのは、ただの線ではない。
「本当によく頑張った」
「無事でいてくれて――ありがとう」
言葉にならない感情が、掌から温かな熱となって彼女に伝わっていく。
空は白みはじめていた。
森の奥でどれほど夜を生きぬいたのか、もうわからない。
けれど、朝日の第一の光が遠くから木々のてっぺんを撫で、
薄明の空気を優しく染めはじめている。
アランはすでに眠りの深みに沈み、その背中は静かに上下している。
レギュラスはそっと自分の頭を、彼女の背中に預けた。
まだ乾ききらない血のにおいと、土と朝の風が交じるひととき。
上下する背中、その確かな熱――
「もう大丈夫」
胸の奥で、静かにそう呟いた。
目を閉じれば、自分の世界が、同じ熱で守られていると感じられた。
森の恐怖も、幻覚の爪痕も、
これから照らす朝日の下では、もう何も脅かすことはなかった。
優しい寝息と、あたたかな体温の中で――
ふたりは、初めてほんとうに、安らかな眠りへと落ちていった。
魔法省の白い石造りの正面玄関は、朝の光を受けて淡く輝いていた。
その広い階段を、レギュラスとアランが並んで上っていく。
久しぶりに、正式な正装に身を包んだブラック夫妻の姿は、行き交う魔法使いたちの視線を集めずにはおかなかった。
ほんの一瞬すれ違うだけの人間でさえ、好奇と興味を隠そうともせず、視線を追いかけてくる。
けれど、二人の表情に揺れはない。
屋敷を出たときから、互いの歩調はぴたりと揃っていた。
役所の一室、書類の匂いと古いインクの気配が満ちている。
アランは窓口の前で、差し出された申請書を受け取り、すらりと名前を書き込んだ。
署名欄に走る一筆一筆は、白い紙に確かな意志を刻みつけていく。
レギュラスは、そのペン先を見つめながら、あの森での会話を思い出していた。
――杖を同じに、と。
互いを傷つけ合わないために、兄弟杖にしようと。
あの時の言葉が、いま現実となって、この机の上で形になっている。
役人が判を押す乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
「申請は許可されました。この証明書を提示すれば、杖作りの職人が新しい杖の作成に応じます。
変更後は、必ず再登録をお願いいたします」
手渡された申請証を、アランは静かに受け取った。
その手元に、レギュラスの視線が柔らかく落ちる。
「また急に、どうしてこのような申請を?」
事務的な声と共に顔を上げた役人が問う。
レギュラスは一瞬微笑み、淀みない声で答えた。
「妻の杖の芯を、私のものと同じにしようと思いまして」
役人はほんのわずか眉を上げ、首を傾げる。
「ほぉ……変わっていらっしゃる……」と、探るような声音。
しかしレギュラスは、まるでその言葉すら軽い風のように受け流し、
品のある微笑みで怪訝さをやわらかく包み込む。
その笑みには、理由を深く追及させない威厳と、
同時に一歩も揺らがない確信が宿っていた。
アランは黙ってその横顔を見つめた。
魔法省の乾いた空気の中で、森の闇を抜けたあの日の手のぬくもりが確かによみがえる。
杖の芯を同じくする――
それは、互いを守るための、小さくても決してほどけない絆の証でもあった。
杖職人の店は、魔法省の建物からそう遠くなかった。
路地を抜けると、小さな木製の看板が風に揺れ、扉を押して中に入ると、ふわりと乾いた木の香りが出迎えた。
室内には長い磨き木の作業台と、棚一面に整然と並ぶ細長い箱。
深い色合いの床板は、幾重にも杢目が走り、時を重ねた艶を帯びていた。
レギュラスはその空気を胸いっぱいに吸い込み、懐から自分の杖を取り出す。
それは黒檀で出来ており、芯にはドラゴンの心臓の琴線と、少量のフェニックスの羽毛が織り込まれている――長年彼の手に馴染んできた、信頼の象徴でもあった。
杖職人は、年季の入った布の前掛けを締め、静かな眼差しでその杖を受け取る。
光の下でゆっくりと回し、指先で材と芯の組み合わせを確かめるように撫でる。
「……こちらと同じ芯で作られた杖を、一振りいただきたい」
レギュラスの声は静かだったが、芯まで揺らぎのない響きを持っていた。
職人は顔を上げ、「どなたがお使いになられますか?」と問う。
ほんの一瞬、レギュラスは隣に立つアランに目をやる。
光の差し込みで少し柔らかく見える横顔に、森で血を握り合った時の記憶が重なる。
あの絆を、もう二度と途切れさせないために――
「……妻です」
その一言を置いたあと、店内は少しの間だけ静まった。
木の香りが濃く漂い、職人は頷きながらゆっくりと箱を選び出す。
その瞬間、アランは視線を下げ、指先でローブの裾を軽く握った。
それは、言葉ではなくても、嬉しさと安堵を隠しきれない仕草だった。
レギュラスはそれを見て、何も言わず、ただ柔らかく唇の端を上げた。
彼にとって、これから仕上げられる杖は――森の闇をくぐり抜けた二人の、新たな誓いの証だった。
店内の奥、柔らかな光が射し込む作業台の上に、杖職人は何本かの木材の束を置いた。
それぞれ異なる色と香りを持ち、触れるだけで微かな魔力の気配を放っている。
「では……奥方に合う木材を試していきましょう。芯はご主人と同じく、ドラゴンの心臓の琴線とフェニックスの羽毛を組み合わせます」
職人は眼鏡越しにアランを見やり、温和な声でそう告げた。
アランは小さく頷き、一歩前に出る。
レギュラスはその後ろに立ち、黙って見守る。木の香りと、古い道具の鉄の匂いが入り混じる空気の中、彼の黒い瞳は一瞬も妻から離れなかった。
一本目。
細身のクルミ材を手渡されたアランは、試しに軽く構えるが、木は静かに沈黙していた。
杖先に魔力を流しても反応は鈍く、職人はそっと首を振る。
二本目。
赤みを帯びたローズウッドは、握った途端、かすかに温もりを返したが、波長が合わないのか、その感触はすぐに消えた。
三本目――黒檀。
レギュラスの杖と同じ深い色合いを持つその木を、アランの掌が包んだ瞬間、
杖の奥で何かがふっと呼吸をはじめたように見えた。
空気が微かに震える。
金色の火花が杖先から一つ、静かに舞い落ち、消えた。
職人はゆっくりとうなずく。
「……どうやら、この木ですね。芯との相性も素晴らしい。
ご夫婦で同じ材、同じ芯を持つ杖――滅多にないことです」
レギュラスは微笑み、わずかに肩の力を抜いた。
森を抜けた日の約束が、いま、確かに形をとっている。
アランは杖を胸の前に抱き、そっと目を閉じる。
その手の中にあるのは、ただの道具ではない――互いを二度と見失わないと誓った証そのものだった。
レギュラスは横に立つ彼女の側頭に視線を落とし、低く囁くように言う。
「これで、もう迷いません」
アランは小さく笑みを返し、その言葉を胸の奥で確かに受け止めた。
魔法省管理部の保管室は、無機質な沈黙に包まれていた。
壁一面に無数の杖が収められた細長い引き出しが並び、そのひとつの奥にアラン・セシールと金文字で記された杖が、ひっそりと横たわっていた。
ガラス越しに柔らかなランプの光が落ちる。
棚の前には、ジェームズ・ポッターの姿がある。
彼の指先が、一度も使い込まれた様子のない手袋越しに、そっとその杖を持ち上げた。
細身で、艶やかな黒褐色の杖。
魔法省の処理を経て、すでに調書も履歴も一切消去されている。
復元呪文を幾度重ねても、杖はまるで石のように頑なで、過去の名残を一粒も吐き出そうとはしなかった。
「まるで、持ち主だけにしか心を開かないみたいだね……」
手の中で微かに重みの中心を探るようにジェームズは呟いた。
もうこの杖は、誰のことも思い出さない。
誰の記憶も、魔力も、過去も抱かず、ただ淡々と眠っている。
アラン・ブラックがレギュラス・ブラックの杖芯と同じものに杖を変えた――
それだけで、魔法界には様々な憶測が渦巻いている。
“究極の愛”だと持ち上げる声。
“お揃いで素敵だ”と華やぐ好奇。
一方で”何か企みがある”と、眉をひそめる警戒の囁き。
そのすべてが、静かな深流のようにこの杖の周りで渦を巻く。
それでも杖は、何ひとつ語らない。
隣に立つシリウス・ブラックは、無言のままただその様子を見つめていた。
彼の横顔には、普段の快活さや皮肉すら影もない。
アランの考えや理由――
その動機も、ここしばらくはもう手の中で零れ落ちてしまったように感じられる。
ジェームズは、しばし黙したまま杖を見つめ、
やがてため息混じりに言葉を吐き出した。
「……今度は何を考えてるんだろうね、アランは」
答えはもちろん返ってこない。
それでも、二人の沈黙は、かつて彼女の言葉を読み解こうとした幾夜の静寂と、どこか似ていた。
ガラス越しの杖はただ静かに横たわり、
再び誰にも開かれることなく、時間の中で眠り続けている。
森を抜け、闇を裂き、転びそうになる泥だらけの岩場さえ、踏み越えて――それでも間に合えと、ただ一心で走り抜けた。
指先は冷たく痺れていた。
“魔法が届かないなら、この手で掴むしかない”。
心は、ひたすらその衝動だけで動いていた。
崖の縁――その危うい場所に佇むアランの姿。
まるで夢遊病者のように、虚ろな瞳で奈落を覗き込む彼女が、
今にも闇へ導かれそうに腕を伸ばしていた。
「アラン!」
噛み裂くような大声を上げ、最後の踏み込みで、
レギュラスはその腕を乱暴なほどの力で捕らえた。
骨と筋が軋む。
そのまま、重心ごと引き倒すようにしてアランを地へ引き寄せた。
崖際の石が、二人のすぐ横からゴロゴロと転がり、
やがて吸い込まれるように真暗な谷へ消えていく。
アランは、ようやくその場に崩れ落ちた。
白い指先が冷たく震え、瞳は見開かれたまま――
「信じられないもの」を見てしまったかのように、ただレギュラスを見つめている。
「アラン……アラン、何が見えているんです」
震える息を押し殺すように掴んだその声は、
怒りとも苦しみとも区別がつかないほどだった。
アランの唇が微かに動く。
「レギュラス……どうして……?」
まるで、自分がここにいることが奇跡でもあるかのような、その声。
「――聞きたいのは、こっちです!」
抑えきれない熱が、声に乗った。
どこに向かっていたのか。
誰が君をここに誘い、何を信じたのか。
どうして――崖の下に身を投げようとしたのか。
いくつもの問いが、一気にあふれ出し、
怒りと悲しみと、それと説明しきれぬ恐怖が、
言葉の端々でごちゃまぜになってぶつかる。
「一体、この崖の下に何があるというんです?
誰に……何のために……!
こんなことをして……!」
レギュラスの指はまだ、アランの腕を離せずにいる。
必死に、この現実の温度をたしかめている。
自分の叫びは、激情と悲哀が幾重にも重なり、
夜風に溶けていく。
唯一確かなのは――この手の中で脈打つ、アランという命だけだった。
崩れかけた足元、落ちていく石の音が遠ざかり、
森の闇がふたりを静かに包み込み直す。
崖の上には、夜風が冷たく吹き抜けていた。
森を抜けることなく、ただここだけが異様に開けた空間のように、闇と空気が広がっている。
背後の森からは未だ湿った魔力の圧が押し寄せてくる。
その歪んだ力は、さっきまで確かにアランをも絡め取り、何か別の幻を見せていたのだろう――と、レギュラスは思った。
自分に見えていたのは、アリス・ブラック。
忌まわしくも忘れがたい、あのマグル生まれの女。
幻だとわかっていても、生理的な嫌悪と怒りを呼び覚まし、何度も意識を乱そうと仕掛けてきた存在だった。
では――アランも同じだったのだろうか。
彼女の瞳には、誰が映っていたのだろう。
アリス・ブラックが、あの手を握っていたのだろうか。
そして、そのままこの崖から奈落へ身を投げようとしていたのか。
胸の奥が、ぎり、と締め付けられる。
かつてアラン自身が守ってやった少女に、手を引かれて。
その命を手放すことに、ほんの一瞬でも「いい」と思ってしまったというのか。
――じゃあ、自分がこの手で守り続け、命を懸け、
どれほどの犠牲を積み上げてきた意味は何だったのだ。
崇高なものでも、誇れるものでもなかったのか。
たった一人、愛し続けた存在に否応なく告げられた“否定”のようで、
レギュラスは、胸が張り裂けそうになった。
「……あなたには、何が見えていたんですか」
掠れる声で、けれど逃げ場のない問いだった。
アランは、黙ってうつむいていた。
瞳から涙は落ちない。けれど、その沈黙そのものが、凍り付く悲しみの形だった。
静かに。深く。
その様子に、レギュラスの心の内側も同じように泣いていた。
吐き出すように、彼は告げる。
「……僕には、あなたの姿が……ずっと――アリス・ブラックとして映っていました」
その声は、怒りでも責めでもなかった。
ただ、告白のように、罪を懺悔するように、
疲れ果てた魂から落ちる言葉だった。
夜風が二人の間を抜けていく。
崖の下の底知れぬ闇が、静かにその言葉を呑み込み、森がまたざわめいた。
レギュラスは、その闇に向かって、もう一度だけ問いかけたかった――
「あなたの目には、何が映っていたのか」と。
けれど、アランはまだ答えず、ただ静かにその場に留まり続けた。
そして二人の影だけが、月のない夜に細く揺れていた。
崖の縁、冷たい風が頬を裂くように吹き抜けたその瞬間――
アランの腕は、不意に強く引かれた。
重心が乱れ、膝が崩れ、視界がぐらりと揺れる。
倒れ込むようにして地に手をついたそのとき、
――すぐそばにあったはずのシリウス・ブラックの姿は、
煙のように儚く、音ひとつ立てずに消えていた。
代わりにそこにいたのは、荒く息をつきながらこちらを覗き込むレギュラス。
黒い瞳の奥に、安堵と怒り、そして抗いがたい必死さが渦巻いていた。
理解は、遅れてやってきた。
今まで自分の手を握り、出口だと信じさせて導いていたシリウスは――
やはり、この森が見せた幻覚だったのだ。
その事実が脊髄を走り抜ける。
恐ろしい……
もしあのまま信じて、奈落へ身を投げていたら――
そこが“永遠の終わり”であったことは間違いない。
底知れぬ虚無が目の前まで迫っていたのだと、今さらにして悟る。
そして、その奈落の縁からまたもや自分を引き戻したのは、
皮肉にもレギュラスだった。
感謝すべきはずなのに――胸に湧き上がるのは違った。
溢れたのは、不甲斐なさと、どうしようもない罪悪感。
自分はまた、守られてしまった。
命を救われてしまった。
あの人が、どれほどのものを背負って自分を守ってきたのか、知っているのに。
「……僕には、あなたの姿が、ずっとアリス・ブラックとして映っていました」
そう告げるレギュラスの声が、耳の奥に重く落ちる。
返す言葉が――ない。
本当は、自分にはシリウス・ブラックが見えていたなんて。
かつて愛した人に、この森の幻の中で再び手を引かれていたなんて。
そんなこと、彼に言えるはずがなかった。
言えばきっと彼を傷つける。
その表情を曇らせてしまう。
だから――言わない。言えない。
喉が詰まり、代わりに滲んだのは涙だった。
ごめんなさい、の一言すら形にできない。
ただ溢れてくる熱を零し、崖の冷たい風の中で、
アランは唇を固く噛みしめた。
風音だけが二人の間を往復し、
レギュラスの手はまだ、強く自分の腕を掴んだままだった。
その手の温もりは、救われた証であり、
同時に、言えない真実が作った痛みの証でもあった。
崖の上、闇に包まれた空気はほとんど沈殿した水のように重く、ふたりの胸に冷たい重圧としてのしかかっている。
風が吹いても、頬を切るだけで温度を運んではこない。
魔力を歪ませ、心の奥で見たくない痛みを容赦なく増幅させるこの森は、ただ沈黙だけを差し出していた。
レギュラスは、ふと力尽きたように呟いた。
「どうしたらいいんでしょう……」
その声は、心の奥から零れ落ちた小さな問いだった。
自分だけでなく、隣にいるアランも、同じ絶望に立ち尽くしている――そう分かっていた。
幻覚だと意識していても、その毒はあまりにも深い場所に根を張り、
普段は隠してきた傷や弱さを、えぐるように暴き出してくる。
どれほど抗う術を探しても、
その幻は、まるで粘りつく闇となって、離れようとしない。
耳元で囁き、心に淀みを残し、視界の隅に消えない孤独を植え付ける。
ふたりを奈落へ落とそうとするこの森の魔力は、
ただ「幻です」と言い切るだけでは遠ざけられないほどに――狡猾だった。
どうしたら、真っ直ぐこの森を抜けていけるのか。
傷つけ合うことなく、二人で生きて外へ出ることができるのか――
アランは静かにうつむき、答えを探した。
けれど、もはやわからなかった。
その問いを繰り返すだけで、胸の奥はさらに深い淀みへ沈んでいく。
その淀みの中で、ふと浮かんだ思いがあった。
いっそ、このままふたりで、
何もかもから逃げてしまえたなら。
眠るように、痛みも後悔も、すべて持たずに、静かに死ねてしまえたなら――と。
森の闇の中でさえ、
ふたりきりでいるのならば、
それだけが救いになるのではないかとさえ思った。
それでも、隣にいる手の温もりと、細く刻まれた息遣いだけが、
わずかな現実の灯を残していた。
この森から抜け出す術を探しながら、
もう一度だけ、お互いを見失わないように、
擦り切れそうな信頼だけを頼りにしていた。
風が止み、夜が静かにふたりを包み込む。
弱さも痛みも曝け出したまま、
ふたりは闇の中で、
ただ静かに、寄り添って座ることしかできなかった。
森の奥、湿った空気がまだ肌に貼りつくなか、
レギュラスは無言で自分のローブの裾を掴み、ためらいなく裂いた。
布地が裂ける低い音が、静まり返った闇の中で微かに響く。
その切れ端を手に取り、彼はアランのほっそりとした手首にそっと巻きつけた。
次いで、自分の左手にも同じように巻く。
黒い布は二人の手首をひとつの線で結び、
目に見える確かな繋がりとなった。
「……これではぐれはしないでしょう」
その声は、静かでありながら、何かを祈るような張り詰めた響きを含んでいた。
それからレギュラスは、自分の手の中にまだ温もりを残すアランの杖を握り、
代わりに自分の杖をアランの手へと差し出す。
「互いのものを持っておいたほうがいい」
耳慣れない策の理由を、彼は短く告げた。
――杖には必ず持ち主への忠誠がある。
その忠誠心は、この森の魔力にさえ歪められない。
ゆえに、互いの杖を持ち合えば、幻覚に呑まれても、
この手で互いを殺す呪文だけは決して放たれない。
ほんの小さな工夫。
だが、それでも幾ばくか、この歪んだ森に抗えるのではないか――
そんな、ほとんど祈りにも似た思いを込めて。
布で結んだ手首と、互いの杖の重み。
そのどちらも、たとえ幻が形を変えて襲ってきても切れない絆であってほしかった。
そのとき、不意にアランが小さな声で言った。
「……レギュラス。森を出られたら……私は、杖をあなたの杖の芯と同じものに変えようと思います」
漆黒の闇の中で、その言葉はほんのりと温かく揺らめき、
レギュラスの胸の奥深くに沁みていった。
少しの間、彼は言葉を失い――そして力の抜けた笑みを見せた。
「……兄弟杖ですか」
互いを決して傷つけ合わない、同じ芯を持つ杖。
夫婦であり、兄弟杖にもなるという未来を、
アランが自ら口にしたことが――
この荒れ果てた森のただ中で、何よりも彼の心を温かく満たした。
闇はまだ深く、森の魔力はなお二人を試そうとしている。
それでも、手首を結ぶ布と、温もりを抱いた杖と、
そして約束された未来が――
レギュラスの胸に、小さな確信の灯を宿していた。
布でつながれた手首は、互いの脈動を静かに伝え合っていた。
歩き出せば、そのわずかな引きと押しが、呼吸の代わりに合図となる。
湿った土を踏みしめる音が、森の奥に吸い込まれていく。
闇は変わらず濃く、頭上の樹々は天を覆い隠したまま。
それでも、もうはぐれる心配はない――視線を奪われても、姿を見失っても、手首の締めつけが「ここにいる」と告げてくれる。
互いに握るのは、もう自分のものではない杖。
その重みは、頼もしさよりもむしろ不思議な安心を与えていた。
幻に囚われても、この杖は相手を殺すための呪文だけは放たない。
その約束のような仕組みが、わずかながら胸の奥の緊張をやわらげている。
レギュラスは、前を見据えたまま深く息を吐いた。
死の気配ばかり満ちるこの森の中で、わずかでも抗う術を手に入れた。
それが本当に出口まで守ってくれる保証はない。
それでも、何もないよりははるかに良い。
アランもまた、横顔を上げていた。
彼の背はぶれず、腕の力も確かに強い。
さっきまであの崖の上で揺らいだ自分の足元を、今こうして引き戻し、支えてくれている。
ローブの布が、物理的なつながり以上の意味を持っていることを、痛いほど感じた。
「……行きましょう」
アランの声が、暗がりの中でもはっきり届いた。
レギュラスは頷き、足を踏み出す。
森はまた、低く唸るようにざわめきを増した。
そのざわめきは、二人の決意を試すようであり、同時に、出口の方角すら隠そうとしているかのようだった。
それでも、二人を繋ぐ布切れはたるむことなく、
脈打つように、かすかな未来の希望を伝えていた。
――この手を離さなければ、まだ抜けられる。
暗闇の奥でそう信じ合いながら、二人は足を止めず前へ進み続けた。
森の奥へ進むほど、空気がじりじりと重くなっていった。
布で結ばれた手首が互いの存在を確かに伝えているはずなのに、その温もりさえ遠のくような感覚が忍び寄る。
ふいに、レギュラスの視界がかすみ始めた。
何かが静かに眼前の暗闇に溶け込み、形を変えていく。
アランの背を見ていたはずが――いつのまにか、それはアリス・ブラックの姿をしていた。
まただ、と思う。歯を食いしばって、「これは幻覚だ」と自分に叩き込む。
しかし、その女の瞳が愚弄するように細く笑った瞬間、胸の奥で憎悪がぶわりと燃え上がった。
同時に、アランの方にも影が忍び寄っていた。
彼女の視界では、隣を歩くはずのレギュラスが、いつのまにかシリウス・ブラックへ変わっていた。
柔らかな声、懐かしい笑顔――すべてが記憶にあるものと寸分違わぬ。
心の奥で封じたはずの感情を、幻は容赦なく引きずり出す。
”手を握って出口へ”――その甘い囁きが足を引かせ、意識をどこか別の方向へ引き込んでいく。
互いの視界には、もう本当の顔は映っていなかった。
にもかかわらず、布で結ばれた手首は温もりを伝え、互いがまだ現実にいることを教えてくる。
その唯一の証がなければ、今頃はもう相手を幻として突き飛ばし、深い闇へ落としていたかもしれない。
森は低く唸り、足元の土が湿った呼吸を吐き出す。
幻はさらに鮮明になり、二人の耳に別々の声を囁き続ける。
「こっちへ――」「ついていけば楽になる」
その声は、決して同じ人物ではない。互いの弱点を正確に抉る、異なる存在の声だった。
レギュラスは歯を噛み、確かめるように布を握りしめた。
アランもまた、震える指で同じ布を辿って、その先にある命を確かめた。
互いを信じる術は、もはやこの一本の布切れと、交換した杖だけ。
森は二人をじわじわと引き裂こうとする。
布が切れるか、心が折れるか――どちらが先か分からない緊張の中、
二人は闇の中で、幻を押し返しながら歩みを続けた。
――闇の森は、なおも幻覚の圧力を高めていった。
レギュラスの視界には、アリス・ブラックの顔が鮮明に浮かんでいる。
その女は、手をつないで歩くごとに、皮肉な笑みを浮かべてこちらを挑発しようとする。
喉元まで込み上げる憎悪。指が震え、杖――アランのものを握る手に力が入る。
幻だと何度も自分に言い聞かせても、本能は、その憎い女を排除しろと叫んでいた。
杖を振り上げて呪文を放ちそうになる。その刹那。
一方、アランの視界では、隣を歩くレギュラスがシリウス・ブラックの面影に変わっている。
その笑顔はあまりにも懐かしく、目を合わすだけで心が惑いそうになる。
けれど、その手の温度が、過去に置いてきたはずの幸福をもう一度差し出す。
この誘惑にもし飲まれたら――自分はまた、レギュラスのことを忘れてしまうかもしれない。
無意識にレギュラス――彼の杖を握りしめ、シリウスの幻に向けて腕を振り上げそうになる。
その瞬間。
ふたりの手首に巻かれた黒い布が、静かに引き合った。
かすかな痛みと体温――現実の証。
その一瞬の感覚が、感情の暴走にブレーキをかけた。
レギュラスは、咄嗟に手首の布へ視線を落とす。
幻覚のアリスではなく、今隣にいる――愛しい人の手を自分は掴んでいるのだと、
その物理的な存在だけを必死に見つめる。
杖を振ろうとした手が震え、空間に呪文は溶けて消えた。
アランもまた、布の感触を確かに握り締める。
レギュラスの名を胸に呼び、シリウスの幻がささやく誘惑を打ち消すように、掌に力をこめる。
杖を振り上げた腕が、そこで止まった。
森は沈黙した。
二人の呼吸だけが、闇の奥で脈打つ。
幻影が激しく渦巻き、破壊の衝動を煽ったが――
最後に残ったのは、互いを信じるための、ただの小さな布切れと、交換した杖の重みだけだった。
ふたりはお互いの顔すら見えないほど深い闇の中で、
それぞれ自分と相手を傷つけそうになる寸前の手を下げ、膝が震える思いで歩みを止めた。
「アラン……」
「レギュラス……」
声は掠れ、涙と恐怖が混ざり合う。
それでも、現実の手首の感触が、最後の境界線となってふたりを守った。
夜の森は、ふたりの葛藤を見下ろしながら、
その先に続く細い出口の道を、わずかにわずかに、許すように静かに開放し始めていた。
森の圧はまだ衰えてはいなかった。
手首を結ぶ布切れが、互いの鼓動を伝え合うたびに、二人はそのわずかなぬくもりにしがみつくようにして息を整えた。
足元には湿った落ち葉が層をなし、踏みしめるたびに水気を帯びた音が深く沈むように響く。
視界の隅では、まだ幻の残像がくすぶっていた。
アランの瞳の端には、時折シリウスの姿がちらつき、レギュラスの胸の奥には攻撃衝動を誘うアリス・ブラックの影が潜んでいる。
完全には払えてなどいない。
それでも――布の感触と、交換した杖の重みが、幻と現実の境界を繋ぎ止めていた。
「……動けますか」
レギュラスの声は低く、けれど震えを押し殺していた。
アランは小さく頷き、唇を固く結ぶ。
これ以上、幻に心を揺らさせはしない――そう誓うように。
遠くに、風の通る音が聞こえた。
森全体が生きて息をしているかのような、重く湿ったざわめきの中に、それとは違う乾いた風の音。
出口へと続くわずかな兆しにも思えるその音に、二人の足が自然と前に出る。
森はまだ諦めてはいなかった。
時折、低い囁き声が背後から追いかけてくる。
「置いていけ」「手を離せ」「ひとりの方が軽い」――
そんな言葉を、互いのもっとも弱いところを突くように吹き込んでくる。
布越しに伝わるわずかな力で、二人は踏みとどまった。
もはや言葉を交わす余裕もなく、ただ同じ歩幅で、一歩一歩前へ。
前方の闇が、ほんのわずか――色を薄くしていく。
その先に、本当に出口があるのか、それともまた森の幻なのかは分からない。
だが、この手を繋いだままなら――答えが何であれ、一緒に辿り着ける。
そう信じて、二人は再び、沈黙のまま歩みを早めた。
森の深い闇は、出口の兆しをにじませながらも、
最後の力を振り絞るように二人の心を踏みにじってきた。
ローブの切れ端――互いの手首を結ぶ細い布の、その先で、
レギュラスの視界にはシリウス・ブラックがいた。
その灰色の瞳は、かつての無邪気な光を失い、
代わりに研ぎ澄まされた言葉でレギュラスを刺し込んでくる。
「アランは、俺を愛していた」
「今なお、愛しているのはお前じゃない」
言葉は一つひとつが罠のように絡みつき、
耳から胸へ、鈍い棘を打ち込んでくる。
「ブラック家という檻に閉じ込めたお前を、アランは恨んでいる」
「アランを抱いたのは、この俺だ」
低く、甘く、それでいて切り裂くような残酷さでシリウスは畳みかける。
思考を握り潰すように、レギュラスの内側で黒い熱が沸き上がった。
黙らせたい――消したい――憎くて堪らない。
心臓が怒りで脈動し、手首に結ばれた布が震える。
一本の杖を握る指は、幻を貫く呪文を解き放つ寸前まで、白くこわばっていた。
同じ布の反対側――アランの視界にもまた、別の地獄が広がっていた。
そこに立っているのは、アリス・ブラック。
かつて、命を拾い上げられたあの日のままの笑みで、
彼女は静かに、しかし途切れなく言葉を紡ぐ。
「助けてもらった日から……本当は、ずっと母のように思ってきたの」
「遠くへ行ってしまわないで。ずっと、シリウスの隣にいてほしかった」
胸を抉るような優しさで、逃れられない理想を差し出してくる。
「シリウスが父で、あなたが母――そんな家庭が、夢だった」
「マグルを傷つけない世界を、あなたに選んでほしかった」
叶えられない未来が、音となって押し寄せるたびに、胸が焼ける。
涙が出るほどに、胸が張り裂けそうになる。
もう聞きたくない。これ以上、耳を奪われたくない。
目を閉じ、両手で塞いでしまいたい――そう思った瞬間、
手首に結ばれた布が、その衝動を封じるかのように引いた。
だが、その感触は同時に、耐えがたい欲求をも呼び起こす。
――離してしまいたい。
この布を引き裂いて、声も顔も届かない距離へ逃れたい。
互いに見ているものは違う。
互いに突きつけられている言葉も違う。
だけれど、胸を突き刺す痛みは、同じ深さで迫っていた。
布切れひとつ――
それが現実と幻を繋ぐ最後の細い橋だった。
その橋を渡れず、折ってしまえば、奈落が口を開けるだけだとわかっていながらも、
二人は今、限界の縁で踏みとどまっていた。
森は、まるで“ここで手を離せ”と言わんばかりに、
闇を濃くし、声を甘く、幻を鮮明にしていく。
そして――布の結び目が、微かに軋んだ音を立てた。
森の闇は、意識の奥までじわりと染み込んでいた。
幻の声が耳元に囁き、脳裏に焼き付く過去と、叶わぬ未来が幾重にも重なる。
痛みが限界に達したその瞬間、ふたりの心はほとんど言葉もなく引き裂かれそうになっていた。
レギュラスの指は、手首に巻かれた布に執拗なほどの力を込めている。
シリウスの幻がさらに追い込む声を響かせ、怒りと嫉妬が胸を焼く。
「お前には愛されていない」
「アランは俺を夢見て生きている」
その声音に、現実の境界が溶けそうになる。
アランもまた、幻のアリスに心を裂かれていた。
「あなたは母だった」
「あなたが選ばなかった世界こそが、私の望みだった」
その言葉の温度――かつての憧れ、今は叶わない切望、魂を抉る痛み。
涙で滲みそうな視界の先で、布の感触も遠くなっていく。
互いに限界だった。
手を離したい――
布を引き裂いて、痛みも幻も、全部沈めてしまいたい。
心の中の衝動が、ひびを入れるように体を震わせる。
その瞬間、
レギュラスは無意識に布へと爪を立てた。
憎悪と悲嘆が手に集まり、引きちぎろうと力を込める。
「黙れ……黙れ、黙れ!」
抑え切れない、内なる叫びが声になって零れる。
アランも、布の結び目を掴んだ指に力が入り、
指先が白くなっていく。
「もう、耐えられない……お願い、消えて……」
その言葉は、幻にも現実にも届かず宙に溶ける。
――僅かな瞬間。
がさり、と布がひきつれる音が森に響いた。
その音に二人とも固まった。
引き裂けば、きっとすべては奈落へ転げ落ちる。
その刹那の予感が、ふたりの指先を止める。
布のわずかな温度――互いの命の証。
手を離せば、傷つけ合い、幻に沈み、取り返しのつかないものだけが残る。
寸前で、レギュラスは目を閉じる。
幻のシリウスの声は闇の奥へと遠ざかり、
布の先にいる――本当のアランを思い出した。
アランも、涙を閉じ込めて、心の底から叫びを抑え込む。
目を覆って、けれど布切れだけは手放さなかった。
その結び目が、脆い命の境界線になっていた。
布は、引き裂かれそうで、けれど――まだ繋がっている。
ふたりは、そのきわに立ち尽くしながら、互いの名を心の内で呼ぶ。
そのわずかな声こそが、闇に抗う最後の意志だった。
森の静けさが一瞬、ふたりの共鳴する鼓動に支配された。
布が繋ぐ命の証だけが、幻の闇を押し返していた――
これ以上離れてはいけないという、切々たる祈りと共に。
森の湿気は、未だ肌にまとわりつくように重く、
吐く息がじっとりと熱を帯びて頬をなでていった。
そのとき、アランがふいに低く息を吐き、片膝をついてしゃがみ込む。
長いローブの裾が湿った土を吸い、黒ずんだ水を含んで沈んだ。
「……っ」
太ももに手を当てる彼女の指先が、小さく震えていた。
止血の呪文が甘かったのだろう。
裂けた傷口がふたたび開き、赤がじわじわと溢れて布地を染めている。
アランが立ち止まったことで、手首を結ぶ布が引かれ、
レギュラスも引き寄せられるようによろめいた。
その物理的な衝撃――ほんの一瞬の揺さぶりが、
あれほど容赦なく続いていた幻覚をぴたりと止めた。
幻が途切れた安堵と同時に、目の前で苦しげに顔をゆがめるアランの姿が、
何の濁りもなく視界いっぱいに広がっていた。
レギュラスはすぐにその傷へ手を伸ばし、掌で包むように押さえた。
一度触れただけで、すぐに理解する。
――これは、自分が与えた傷だ。
アリス・ブラックの幻覚に心を奪われた、その刹那に
ナイフをアランに向けた時の…あの、許し難い傷。
喉に詰まるような後悔が、声を重くし搾り出す。
「……すみません」
「大丈夫」
アランは、傷口の痛みを堪えながらも、落ち着いた声で言った。
「ここを出て、ちゃんと止血できれば…大したことないですから」
けれど、彼の手のひらには、彼女の血がしっかりと付着していた。
濡れた感触と温もりが、じわじわと皮膚の奥まで沁み込んでいく。
再び歩き出したアランは、時おり手を宙へ煽るように動かし、
何か目には見えないものを払いのける仕草を繰り返していた。
――戦っているのだ。
今も、闇の森が見せる幻や囁き声と。
その細い背中が、想像以上の重圧に耐えていることを告げていた。
不思議だった。
先ほどまで、レギュラス自身も一瞬ごとに幻覚に覆われ、
正気と悪夢を何度も行き来していたはずなのに――
今は、ただ隣にいるアランの姿が、鮮明に見えている。
一度も、幻が戻ってこない。
その理由がわからず、頭の奥で思考を巡らせる。
そして――気づいた。
自分の手に、まだ乾ききらないアランの血液が沁みついていることに。
これだ。
この血が、自分の感覚をこの現実に繋ぎ止めているのだ――と。
その確信は、冷たい森の空気の中で、かすかな灯火のように胸の奥に灯った。
森はなおも深い闇と湿気を湛え、
そこに住まうかのような魔力が、あらゆる感覚を歪ませようと押し寄せていた。
だが――血までは、支配できない。
さきほどからずっと、アランの血が自分の手に触れている間だけは、
幻も囁きも、影のように遠ざかっていくのをレギュラスは感じていた。
この森の中で、正気を保たせる唯一のもの――
それは、きっと彼女の血なのだと確信した。
レギュラスはふと、片方の掌を自らの爪で裂く。
痛みと共に、温かいものがじわりと滲む。
その血を、アランの杖を握る方の手に染み込ませ、
それからその手を固く握った。
結んだ布越しに、二人の鼓動と血の温度がゆっくりと混じる。
――これ以上、アランを惑わせない。
この森に、彼女の心を奪わせない。
その一心だった。
「……怪我をしているの? レギュラス……」
隣から、かすかな息づかいとともに声が届く。
「……少し……」
短く答えながら、彼は彼女の表情をそっと窺った。
目に迷いはないか。視線がどこか遠くへ逸れていないか。
もう、何も見えていない――幻に囚われていないかを、
必死に、その瞳の奥に確かめる。
アランは軽く瞬きをして、彼の視線をまっすぐに受け止めた。
その中には、シリウスでもアリスでもない、ただの「レギュラス」を見つめる光があった。
その瞬間、胸の奥で細く張り詰めていた糸が、わずかにほどけるのを感じた。
彼はまだ、そして彼女もまだ――
この森の中で、確かに現実を共有できていた。
森の奥はまだ、抜け出す兆しを見せない。
だが、レギュラスの手は確かにアランの手を包み、その間に脈打つ温もりが途切れることはなかった。
互いの血の温度が、布越しにも漂い伝わってくる。
その熱が、闇の囁きを遮断する壁のように、ふたりを現実へと繋ぎ止めていた。
レギュラスは歩幅を落とし、アランの呼吸を乱さないよう静かに森を進む。
湿った地面に踏み込むたび、かすかな水音と、靴底に吸い付く泥の感触だけが続いた。
不気味な森のざわめきは相変わらず背後から追いすがってくるが――
今は、不思議とふたりの視界を奪おうとはしてこない。
アランは何度も、レギュラスの顔を確かめるように視線を向けた。
その表情に混じるのは、恐れではなく、わずかな安堵だった。
「……見えてます。……ちゃんと」
かすれた声でも、その言葉は彼の胸に深く沁み込んだ。
レギュラスは小さく息を吐く。
「もう少しです。このまま行きましょう」
祈るような気持ちを込め、さらに強く手を握った。
森の奥から、ふっと乾いた風が吹いた。
それはじめじめした瘴気の中では異質で、
初めて、外の空気を思わせる匂いを運んできた。
二人の足取りに、ほんのわずかな希望が混ざる。
しかし同時に、森全体がゆるやかに蠢くような気配が広がる。
最後の関門を用意する者のように、
出口を前にして立ち塞がろうとする意思があった。
レギュラスは布の結び目を確かめ、アランの血と自分の血を握ったまま、
闇がもし牙を剥いてきても離さぬ覚悟で、一歩を踏み出した。
ようやく、森の出口が見えた。
灰色と黒に沈んでいた世界の端が、微かに淡い青みを帯びはじめている。
その瞬間、緊張の糸がぷつりと切れたように、二人の足が同時に止まった。
布で結んだ手首は互いの血で湿り、もうじき乾ききろうとしている。
それでも、ここまで来られた証だけが、確かに掌の中に残っていた。
アランはふらりと膝を落とし、そのまま草の上に横たわった。
「もう、一ミリも動けない……」
声に出す余裕さえなく、閉じたまぶたから寝息がゆっくりと溢れ出す。
闘いにさいなまれた体は、今はただ、無垢な静けさに包まれていた。
レギュラスはその隣で、自分もゆっくりと腰を下ろした。
震える手で、アランの背中を優しく撫でる。
指先がなぞるのは、ただの線ではない。
「本当によく頑張った」
「無事でいてくれて――ありがとう」
言葉にならない感情が、掌から温かな熱となって彼女に伝わっていく。
空は白みはじめていた。
森の奥でどれほど夜を生きぬいたのか、もうわからない。
けれど、朝日の第一の光が遠くから木々のてっぺんを撫で、
薄明の空気を優しく染めはじめている。
アランはすでに眠りの深みに沈み、その背中は静かに上下している。
レギュラスはそっと自分の頭を、彼女の背中に預けた。
まだ乾ききらない血のにおいと、土と朝の風が交じるひととき。
上下する背中、その確かな熱――
「もう大丈夫」
胸の奥で、静かにそう呟いた。
目を閉じれば、自分の世界が、同じ熱で守られていると感じられた。
森の恐怖も、幻覚の爪痕も、
これから照らす朝日の下では、もう何も脅かすことはなかった。
優しい寝息と、あたたかな体温の中で――
ふたりは、初めてほんとうに、安らかな眠りへと落ちていった。
魔法省の白い石造りの正面玄関は、朝の光を受けて淡く輝いていた。
その広い階段を、レギュラスとアランが並んで上っていく。
久しぶりに、正式な正装に身を包んだブラック夫妻の姿は、行き交う魔法使いたちの視線を集めずにはおかなかった。
ほんの一瞬すれ違うだけの人間でさえ、好奇と興味を隠そうともせず、視線を追いかけてくる。
けれど、二人の表情に揺れはない。
屋敷を出たときから、互いの歩調はぴたりと揃っていた。
役所の一室、書類の匂いと古いインクの気配が満ちている。
アランは窓口の前で、差し出された申請書を受け取り、すらりと名前を書き込んだ。
署名欄に走る一筆一筆は、白い紙に確かな意志を刻みつけていく。
レギュラスは、そのペン先を見つめながら、あの森での会話を思い出していた。
――杖を同じに、と。
互いを傷つけ合わないために、兄弟杖にしようと。
あの時の言葉が、いま現実となって、この机の上で形になっている。
役人が判を押す乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
「申請は許可されました。この証明書を提示すれば、杖作りの職人が新しい杖の作成に応じます。
変更後は、必ず再登録をお願いいたします」
手渡された申請証を、アランは静かに受け取った。
その手元に、レギュラスの視線が柔らかく落ちる。
「また急に、どうしてこのような申請を?」
事務的な声と共に顔を上げた役人が問う。
レギュラスは一瞬微笑み、淀みない声で答えた。
「妻の杖の芯を、私のものと同じにしようと思いまして」
役人はほんのわずか眉を上げ、首を傾げる。
「ほぉ……変わっていらっしゃる……」と、探るような声音。
しかしレギュラスは、まるでその言葉すら軽い風のように受け流し、
品のある微笑みで怪訝さをやわらかく包み込む。
その笑みには、理由を深く追及させない威厳と、
同時に一歩も揺らがない確信が宿っていた。
アランは黙ってその横顔を見つめた。
魔法省の乾いた空気の中で、森の闇を抜けたあの日の手のぬくもりが確かによみがえる。
杖の芯を同じくする――
それは、互いを守るための、小さくても決してほどけない絆の証でもあった。
杖職人の店は、魔法省の建物からそう遠くなかった。
路地を抜けると、小さな木製の看板が風に揺れ、扉を押して中に入ると、ふわりと乾いた木の香りが出迎えた。
室内には長い磨き木の作業台と、棚一面に整然と並ぶ細長い箱。
深い色合いの床板は、幾重にも杢目が走り、時を重ねた艶を帯びていた。
レギュラスはその空気を胸いっぱいに吸い込み、懐から自分の杖を取り出す。
それは黒檀で出来ており、芯にはドラゴンの心臓の琴線と、少量のフェニックスの羽毛が織り込まれている――長年彼の手に馴染んできた、信頼の象徴でもあった。
杖職人は、年季の入った布の前掛けを締め、静かな眼差しでその杖を受け取る。
光の下でゆっくりと回し、指先で材と芯の組み合わせを確かめるように撫でる。
「……こちらと同じ芯で作られた杖を、一振りいただきたい」
レギュラスの声は静かだったが、芯まで揺らぎのない響きを持っていた。
職人は顔を上げ、「どなたがお使いになられますか?」と問う。
ほんの一瞬、レギュラスは隣に立つアランに目をやる。
光の差し込みで少し柔らかく見える横顔に、森で血を握り合った時の記憶が重なる。
あの絆を、もう二度と途切れさせないために――
「……妻です」
その一言を置いたあと、店内は少しの間だけ静まった。
木の香りが濃く漂い、職人は頷きながらゆっくりと箱を選び出す。
その瞬間、アランは視線を下げ、指先でローブの裾を軽く握った。
それは、言葉ではなくても、嬉しさと安堵を隠しきれない仕草だった。
レギュラスはそれを見て、何も言わず、ただ柔らかく唇の端を上げた。
彼にとって、これから仕上げられる杖は――森の闇をくぐり抜けた二人の、新たな誓いの証だった。
店内の奥、柔らかな光が射し込む作業台の上に、杖職人は何本かの木材の束を置いた。
それぞれ異なる色と香りを持ち、触れるだけで微かな魔力の気配を放っている。
「では……奥方に合う木材を試していきましょう。芯はご主人と同じく、ドラゴンの心臓の琴線とフェニックスの羽毛を組み合わせます」
職人は眼鏡越しにアランを見やり、温和な声でそう告げた。
アランは小さく頷き、一歩前に出る。
レギュラスはその後ろに立ち、黙って見守る。木の香りと、古い道具の鉄の匂いが入り混じる空気の中、彼の黒い瞳は一瞬も妻から離れなかった。
一本目。
細身のクルミ材を手渡されたアランは、試しに軽く構えるが、木は静かに沈黙していた。
杖先に魔力を流しても反応は鈍く、職人はそっと首を振る。
二本目。
赤みを帯びたローズウッドは、握った途端、かすかに温もりを返したが、波長が合わないのか、その感触はすぐに消えた。
三本目――黒檀。
レギュラスの杖と同じ深い色合いを持つその木を、アランの掌が包んだ瞬間、
杖の奥で何かがふっと呼吸をはじめたように見えた。
空気が微かに震える。
金色の火花が杖先から一つ、静かに舞い落ち、消えた。
職人はゆっくりとうなずく。
「……どうやら、この木ですね。芯との相性も素晴らしい。
ご夫婦で同じ材、同じ芯を持つ杖――滅多にないことです」
レギュラスは微笑み、わずかに肩の力を抜いた。
森を抜けた日の約束が、いま、確かに形をとっている。
アランは杖を胸の前に抱き、そっと目を閉じる。
その手の中にあるのは、ただの道具ではない――互いを二度と見失わないと誓った証そのものだった。
レギュラスは横に立つ彼女の側頭に視線を落とし、低く囁くように言う。
「これで、もう迷いません」
アランは小さく笑みを返し、その言葉を胸の奥で確かに受け止めた。
魔法省管理部の保管室は、無機質な沈黙に包まれていた。
壁一面に無数の杖が収められた細長い引き出しが並び、そのひとつの奥にアラン・セシールと金文字で記された杖が、ひっそりと横たわっていた。
ガラス越しに柔らかなランプの光が落ちる。
棚の前には、ジェームズ・ポッターの姿がある。
彼の指先が、一度も使い込まれた様子のない手袋越しに、そっとその杖を持ち上げた。
細身で、艶やかな黒褐色の杖。
魔法省の処理を経て、すでに調書も履歴も一切消去されている。
復元呪文を幾度重ねても、杖はまるで石のように頑なで、過去の名残を一粒も吐き出そうとはしなかった。
「まるで、持ち主だけにしか心を開かないみたいだね……」
手の中で微かに重みの中心を探るようにジェームズは呟いた。
もうこの杖は、誰のことも思い出さない。
誰の記憶も、魔力も、過去も抱かず、ただ淡々と眠っている。
アラン・ブラックがレギュラス・ブラックの杖芯と同じものに杖を変えた――
それだけで、魔法界には様々な憶測が渦巻いている。
“究極の愛”だと持ち上げる声。
“お揃いで素敵だ”と華やぐ好奇。
一方で”何か企みがある”と、眉をひそめる警戒の囁き。
そのすべてが、静かな深流のようにこの杖の周りで渦を巻く。
それでも杖は、何ひとつ語らない。
隣に立つシリウス・ブラックは、無言のままただその様子を見つめていた。
彼の横顔には、普段の快活さや皮肉すら影もない。
アランの考えや理由――
その動機も、ここしばらくはもう手の中で零れ落ちてしまったように感じられる。
ジェームズは、しばし黙したまま杖を見つめ、
やがてため息混じりに言葉を吐き出した。
「……今度は何を考えてるんだろうね、アランは」
答えはもちろん返ってこない。
それでも、二人の沈黙は、かつて彼女の言葉を読み解こうとした幾夜の静寂と、どこか似ていた。
ガラス越しの杖はただ静かに横たわり、
再び誰にも開かれることなく、時間の中で眠り続けている。
