4章
name設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
全身が一瞬にして灼けるように熱くなり、同時に氷のような冷たさが背骨を走り抜けた。
全呼吸が浅く、喉の奥で何かが詰まったように声が出ない。
――なぜ、気づけなかった。
あの眼差しを。あの声を。あの手の温もりを。
幾万の幻影に惑わされても、最後まで見失ってはいけなかったはずの人を。
重く握られた二本の杖が、震えた。
指先から滑り落ちそうになる。
震えの中心は手ではない。胸の奥、魂そのものが揺さぶられている。
目の前の黒い沼は、なお静かに口を閉ざしている。
そこに沈んだ人は、もう戻らない――そう、この森の奥深くが告げていた。
レギュラスは膝をつき、二本の杖を抱えたまま、硬く目を閉じた。
暗闇の中で蘇るのは、森に入る前、ひたすら隣を歩いてくれたあの人の真っ直ぐな横顔だった。
その記憶は、今や二度と取り戻せない現実の証明でもあった。
沼の底からは何の返事も返らない。
返ってくるのは――自分という存在の、取り返しのない静寂だけだった。
沼の縁に立ったとき、空はすでに黒い水面に溶けていた。
遠く木々の囁きも消え入り、ただ湿った冷気と澱んだ気配が肌を撫でる。
禍々しい沼は、静けさのなかで重く息を潜めていた。
レギュラスの足先が、ゆっくりと泥に沈んでいく。
恐れる気持ちは――もう、なかった。
もしこのまま自分が沼に飲まれ、戻って来られないのだとしたら――それもまた、運命でいい。
不思議と、その思いには潔い静けさがあった。
ブラック家は、遠く安心を約束された。
アルタイルが血統を継ぎ、セレナはすでに王妃として歩みだした。
父としての役目は、もう十分果たされた。
これ以上、子供たちを操り、導き続ける意味はないのだ。
だからこそ、自分に残されるものは、たったひとり――アランだけでいい。
彼女の存在、それだけが、今も魂に揺るぎない灯火をくれる。
沼は、生き物のように粘り気を帯びて、レギュラスの身体をじわじわと飲み込み始める。
水とも泥とも呼べぬ重さが、服の裾をずるりと絡め、冷たく絡みついてくる。
足元が輪郭を失い、ついには膝まで、そして胸まで――静かに浸されていく。
死ぬなら、あなたの腕の中がいい――。
アランが残した言葉が、遠い記憶の底からそっと浮上する。
そのとき、レギュラスはほんの一瞬、微かに微笑んだ。
この沼に沈むことさえ、もはや彼女の腕で眠るような安らぎに近いのではないか、と。
どこまでも柔らかな眼差しが、自分たちに同じ終わりを許してくれるならば――
それは、残酷な闇よりも、甘やかな救いに思えた。
「あなたのあとを、追いかけてもいいですか?」
かつて自分が問うたとき、アランは微笑み、
「もちろん――」と、静かに返してくれた。
笑みが、波紋のごとく胸に広がる。
何もかも遠くなった今でも、その瞬間だけは、鮮やかに蘇る。
——遠い記憶。
魂に縫い付けられた、小さな幸福。
今、沼はすべてを抱え込むようにしずくを押し上げ、
レギュラスの身体を、静かに沈めてゆく。
すべてを終えても、なお残るもの――
それは、愛おしき人との一途な願いと、心のなかに光る微かな温もりだけだった。
やがて水面は沈み、
彼の心は、遠く優しい誰かの腕へと――静かに還っていった。
沼は、黒い鏡のようにひっそりと揺れ、
その奥底へと、愛しい人の身体をひたひたと飲み込んでいく。
アランは目を閉じ、胸元には――他ならぬ自分が押し込んだ分霊箱が、闇色の影のように張り付いていた。
その輪郭は、まるで鎖のように彼女を縛り、拒むように底へと引きずり込もうとしている。
嗚呼――。
遅すぎるほど遅くに、膝に力が入った。
濁った水に腕を差し入れ、必死に伸ばした手。
触れた感触は冷たく、しかし確かに、あの瞬間途切れさせてしまった手だった。
かつて、幻だと信じ込まされて払いのけてしまった手。
あれを離したのが、今の地獄を呼び寄せたとしか思えなかった。
「……アラン!」
喉が焼けそうに震え、声にはならない。
ただ唇が、その名を切実に形作る。
胸の奥から突き上げる痛みが、鼓動を殴り続ける。
指先は彼女の衣の裾を掴む。
片腕で必死に引き寄せようとするが、沼の水は異様に重かった。
水というより、生きた泥。
意思を持っていて、「渡さない」と言わんばかりに、身体の隙間に潜り込み、吸いつき、全てを底へと引こうとしてくる。
生き物の四肢のような粘り気が、腕を縛り、足を絡め取る。
その動きはゆっくりなのに、抗うほど確かに沈めてくる。
だが――離す訳にはいかない。
離せば、もう二度と届かない。
レギュラスは息を大きく吸い込み、杖を構えた。
魔力を歪めるこの森の中でも、迷っている暇はなかった。
それでも、選び取った呪文は――爆ぜるような力ではなく、「引き寄せる」ための術。
水面に淡い光が広がり、揺れる糸のような魔力が、アランの身体を包み込む。
その瞬間、沼が呻くように波立った。
抵抗する。必死に、底から腕を引き剥がそうと暴れる。
が、それは同時に、自分の脚さえずるりと奪ってくる。
水と泥と呪いが混ざった、この世で最も重たい重力が、二人を引き裂こうとする。
唇から噛み締めた吐息がこぼれる。
腕の筋が悲鳴をあげ、指先の感覚が薄れても――なお、彼は掴んで離さなかった。
そして、決断する。
背後に浮かび上がった浮力と引力を同時に操る複合の呪文が、二人の身体を包み、沼の圧力を押しのけるようにして上へと押し上げる。
水が裂けた。泥が弾け、水音の向こうの光がちらつく。
最後の瞬間、重い水膜を突き破り、冷たい風が顔を打った。
肺に空気が、一気に流れ込む。
腕の中には、ぐったりとしたアランの体温。
その重さは、命の重さだった。
夜の沼のほとり、濁った水が滴り落ちるたびに、震える命の気配がふたりの間に生まれていた。
レギュラスの腕の中、アランはぐったりとした体であらぬ方を見ていたが、身を揺さぶると、苦しそうに喉を鳴らし、
しぶき混じりに口から沼の水を吐き出した。
しばらくして、かすかな光がその瞳の底に宿る。
「アラン……!アラン!」
レギュラスは声を張り上げ、何度も名前を呼んだ。
その声は不安と罪悪感に掻き乱された哀しい叫び。
両腕で彼女を必死に支え、肩を抱く手が震える。
やっと瞳孔が動き、アランは一度だけまばたきをした。
「……戻ったのね、レギュラス。大丈夫なの?」
その声音には、責める色はなかった。
苦しげな息遣いの奥には、ひたすらレギュラスの身を案じる優しさしかなかった。
レギュラスは、何と言えばいいかわからなかった。
言葉が見つからない。
彼女の顔を見つめながら、声にならない言葉が唇の動きだけを生む。
何度口を開いても、吐き出せたのは、空気だけ。
沈黙のなかで、アランはもう一度、じっと彼を見つめる。
その瞳は、低い苦しみと、静かな心配だけを湛えている。
「……声が、出ないのですか?」
その問いに、レギュラスは必死で首を振った。
違う――声が出ないのではない。
言葉が、出ないのだ。
口を何度も動かすが、伝えるべきものは形にならなかった。
――容赦なく繰り返した攻撃。
――小さな身体を何度も蹴りつけたその記憶。
その悔い。その懺悔。その恐れ。
どうやってこの痛みを伝えればいいか、それすらわからない。
濡れた髪を撫でる手も、震えた唇も、
謝罪の言葉を探し続けていた。
けれど、アランは静かに――
睦まじさといたわりを込めてそっと、レギュラスの顔に手を添える。
「大丈夫よ、レギュラス。わたし、あなたが戻ってこれてよかった」
その声に涙も怒りもなかった。
ただ、すべての痛みと怖れを包み込むような、
「赦し」の温度だけが、闇夜の底に薄明かりのように灯っていた。
レギュラスはその手を両手で包みながら、
言葉の代わりに、深く、静かに頭を垂れた。
この夜の静けさが、ふたりの胸の中に、
永遠に記憶として刻まれていくのだと――そう思った。
沼のほとり、滴る水音だけが微かに響いていた。
全身を濡らし、肩で荒く息をするレギュラスの視線が、黙ってこちらを捉えている。
アランは、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
目に映ったのは――困り果てたように眉を寄せ、それでも必死に何かを伝えようとしている、愛しい人の顔。
それだけで、胸の奥に熱が広がった。
この人は、戻ってきてくれた。
たった今まで、森の闇と魔力の奔流に呑まれ、声も届かない場所にいた人が――
それでも抗い、這いあがり、再び自分の名を呼んでくれるところまで辿りついた。
やはり、この人は強い。
力とは、魔法の才だけを指すものではない。
どれほど心を引き裂かれても、自分を取り戻すために戦い抜くその意志――
アランは心の底からそう思った。
レギュラスは、何かを言おうとしていた。
唇が小さく動く。
詫びの言葉を探しているのだとわかる。
攻撃し、傷つけ、自分を沈めかけた行為――
その全てをどう口に替えれば良いのか、彼自身わからないのだ。
だからこそ、躊躇いと苦悩が、表情の中で交差していた。
アランはそっと身体を寄せた。
彼の濡れた衣の冷たさが、皮膚を通して伝わってくる。
戻ってきてくれた――それだけで十分。
その思いを込め、細い指で彼の手を包み込む。
「……もういいんです。あなたが、戻ってきてくれたから」
その囁きが、わずかでも彼の胸につかえていた罪の棘をやわらげればと願いながら。
けれど、現実は待ってはくれない。
この手の中には、ヴォルデモートの分霊箱――忌まわしい日記帳がある。
今は、自分たちの間の痛みよりも、これを確実に葬る方法を見出さなければならなかった。
胸元に感じるあの冷たい重み、その闇が、この場で二人を皮肉な形で結びつけている。
アランは視線を沼へ向け、低く息をつく。
「……どうやって、この奥底まで沈めるか……考えましょう」
深淵のような黒い水面は、何も答えないまま、ただふたりの姿を映して揺れていた。
その静けさの中で、二人の呼吸が、少しずつ同じリズムを刻み始めていた。
澱んだ水面が、わずかに月を映していた。
体中にまだ冷たい沼の泥が残る。ふたりは並んで膝を抱えたまま、沼の中央、静かに沈黙する闇を見つめていた。
レギュラスは、濡れた指に杖を絡めながら淡く首を振った。
「……やはり、魔法は弾き返されるようです。」
その声の奥に、苦い確信が滲む。
この森そのものが、魔力の流れを歪ませ、すべての呪文を乱雑な音に変えてしまう。
先ほどの泥から這い上がるときも、渾身の魔法はどこかで歪んで反発し、この場が“人の力”を拒んでいることを痛感した。
「森自体が、魔力を喰らうようですね……」
アランもまた、沼に手を触れながら呟いた。
指の先で、黒い水が静かにゆれる。
分霊箱。
その日記帳は、地を這うような低い魔力を今も発し続けている。
もしこのまま物理的に投げ込んでしまえば――
“浮いてくる”――沼の魔力と、分霊箱に封じられた闇の力が互いに干渉し、そこに根を張ることも、沈み続けることも叶わない。
「魔法が効かないなら、物理的に沈めるしか……」
アランの声が沈む。
だが、目の前の闇は容易に許してはくれない。
重しも意味をなさないかもしれない。
何より、もう一度沼の底まで潜ることは――
「……もう二度と、戻ってこれないと思う」
レギュラスの声は、ひどく静かだった。
さっきはまだ、運が味方したからこそ――底に到達するほど深く沈んではいなかった。
命の綱がわずかな偶然で結ばれただけ。
もし分霊箱を沈めきるために、再びふたりで底まで降りれば。
この沼の闇が、今度こそ光を許さず、ふたりを取り込んでしまうだろう。
沼のほとりで、ふたりは静かに思案を巡らせていた。
苦い夜気は肺の奥を冷やし、手はまだ泥の匂いを湛えている。
レギュラスの胸の奥では、愛しい人をまた死に脅かすことへの恐怖が、波となって打ち寄せている。
アランは、傷む太ももをかばいつつ、分霊箱の小さな重みを手の中で転がした。
どうやって、これを――
決して浮かぬように、沼の奥深くに、二度と誰にも届かぬ場所に、封じ込めることができるのだろう。
「……戻れなくなると思うと、怖いですね」
アランが吐息に乗せて言った時、
沼の水面は、微かに揺れた。
その揺らぎが、答えであるかのように、尚一層の静寂を広げていく。
そうして夜は、思案と愛と恐れが絡み合うなか――
ふたりを静かに包み込み続けていた。
沼のほとりには、湿った夜気と、土と水の匂いが満ちていた。
その静けさの中で、アランは膝を抱え、ほんの少しだけ視線を落としていた。
――この森に呑まれていた間、レギュラスは一体、何を見ていたのだろう。
あの、研ぎ澄まされた敵意を宿した瞳には、何が映っていたのだろう。
たとえ幻覚であっても、そこに自分はいたのか。
それとも、全く別の何かを……誰かを、見ていたのか。
胸の奥に問いが浮かびかけるたび、アランはそっと息をのみ込む。
聞いてしまえば――その答えは、きっと彼を傷つけると分かっていたから。
今、戻ってきたばかりの彼の目に、あんな冷たい焦点を二度と宿らせたくはなかった。
太ももには、まだ鈍い疼きがある。
みぞおちには、打ち据えられた衝撃の余韻がしこりのように残っている。
手の甲には、踏みつけられた感覚が、薄い痣となって張りついていた。
治癒魔法を使えば、すぐに痛みは消えるだろう。
杖を一振りし、呪文を唱えるだけで、痕跡など残さず元に戻せる。
それでも――アランは、杖を取らなかった。
その姿を見せれば、きっと彼に罪悪感を植え付けてしまう。
自分が何をしたか、どこをどう傷つけたか、形にして突きつけることになる。
それは、彼が再び自分を責め始めるきっかけになる。
そんなものは要らない。
彼に背負わせるには、あまりにも重たすぎる。
だから、痛む部位をそっと庇いながら、アランは膝を折って沼を見つめた。
胸元には、まだ分霊箱――あの黒い日記帳の重みがある。
禍々しい魔力が肌を通して伝わってきて、ひどく冷たい。
沈めなければならない。
けれど、魔法は弾き返される。
物理的に底へ運ぶのは、自分たちにとってあまりにも危険すぎる。
今度こそ帰って来られないと分かっている深さまで行くことになるから。
痛みを抱えた身体のまま、アランは頭の中でひたすら道を描く。
どうやれば、この闇の奥深くへ、鋭い魔力を宿したものを沈められるか。
浮き上がらないように、底と一体化させられるか。
ふと横を見ると、レギュラスが黙って同じ沼を見つめていた。
彼の目には、もう敵意も迷いもなかった。
ただ深く沈む水の向こうにあるべき結末を、共に探ろうとする気配があった。
それだけで、十分だった。
痛みも、まだ固まらぬ傷も、今は関係なかった。
――もう二度と、互いを見失わぬように。
そう誓いながら、アランは沼の黒い揺らぎに視線を戻した。
月明かりは泥の上に淡くゆれ、沼のほとりには眠るような静寂が漂っていた。
ふたりは、未だ沼の黒い水面を見つめながら、分霊箱――闇を孕んだ日記帳――を手の中で重く感じていた。
アランは、震える指先で巾着の奥からひとつの小瓶を取り出した。
ほのかに銀色を帯びた液体が、月光に照らされてきらめく。
「魔力の干渉を遮断する魔法薬です。この分霊箱の魔力が、沼に拡がらないように、“膜”を作れるはずです。」
背筋はまっすぐでも、声は静かに優しく響いた。
沼に沈めたその瞬間、魔力同士が争うことなく、底で安らかに“眠り”続けられるように――
そんな思いが一滴一滴の薬に込められていた。
レギュラスは、驚いたように眉をあげた。
傷だらけの顔に、ほんの少し安堵の色がさした。
「そんなものが……本当に効くんですか?」
「試したことはないんです。でも……これしか思いつきません。沼の魔力に分霊箱が“溶ける”ことなく、底に留まれるはずです。」
アランは、その小瓶から慎重に薬液を日記の表紙に垂らした。
冷たい液体が黒い革へと染み込んでいき、まるで新たな膜を纏うように分霊箱を包み込んだ。
瓶の蓋をし、アランは深呼吸をしてレギュラスに日記帳を差し出す。
「では……後は重しですね。」
レギュラスは、沼の岸辺、泥の中から手頃な石を選んでくる。
縄をローブの裾から裂いて、分霊箱に丁寧に巻き付ける。
アランもその手順を、静かに手伝う。
魔法薬に覆われた日記は、どこか以前よりも冷たく、そして静かになったように感じられた。
アランは石と縄と日記がひとつに結ばれる様子を見つめていた。
「これで、沼の底に沈めても……決して浮かび上がることはありません。」
静かな声が夜気に溶ける。
「行きましょう。あなたとふたりなら大丈夫です。」
アランの声に、レギュラスは深く頷いた。
分霊箱を両手で包み、一歩ずつ沼の縁へ近づく。
最後の瞬間、ふたりはゆっくりと日記帳を沼へと差し出す。
今宵の魔法薬に守られて、縄の重しに抱かれて、
分霊箱は静かに水面へ、そしてゆっくり、深く――
誰にも届かぬ闇へと、静かに沈んでいった。
沼の水に波紋が広がる。
二人の影が淡く揺らぎ、闇は少しだけ穏やかに、夜を包みこんだ。
手放したそのとき、互いの指先がそっと触れ合う。
「ありがとう、アラン」
レギュラスの声は、傷と安堵の間で柔らかく震えていた。
ふたりは並んで沼を見つめながら、やがて静かに息を吐いた。
沈めた影と、夜の深い魔力と、そして互いのぬくもり――
すべてを抱えながら、新しい夜の静けさの中へと歩みだしていた。
沼の黒い水面は、もう完全に静まり返っていた。
魔法薬に守られ、重しと共に底へと沈めた分霊箱は、浮き上がることなく深淵で息を潜めている。
ふたりはしばらくその様子を見守ったあと、互いに短くうなずき合った。
――任務は終わった。
けれど、何も終わってはいなかった。
レギュラスの視線は、沼ではなく、その先の闇へ向けられていた。
森の奥、来たときに抜けてきたあの禍々しい迷路のような樹々の群れ。
移動魔法が効かない以上、またあの中を歩いて戻らなければならない。
深く息をつく。
胸の奥にあるのは、安堵よりも鈍い重さ――恐怖だった。
再び幻覚に呑まれれば、今度は……
今度こそ、本当にアランを、この手で殺してしまうかもしれない。
その可能性が、喉をじわりと締め付けた。
「……幻覚に耐える薬……そんなものはないですか?」
声は低く、けれど縋るような響きを帯びていた。
頼ることを望まないはずのこの男が、今は必死に“何か”を求めている。
その表情を見て、アランは静かに首を振り、やわらかく答えた。
「大丈夫です。……あなたは強いですから」
その声には揺るぎない信頼があった。
だが――レギュラスの心には届かなかった。
「……いや……」
喉が詰まりそうになる。
強いはずがない。先ほどだって、自分を引き戻したのは意志の力ではなかった。
あの杖に刻まれた、彼女の名前――そのたった一つのきっかけがあったからこそ正気に戻れただけなのだ。
もし次に襲う幻覚が、そのきっかけすら奪ってしまったら?
そのとき、自分はもう、境目なく幻と現実を見失い――
今度こそ、取り返しのつかないことをしてしまうだろう。
その確信が、胸をきつく締め上げる。
アランは、そんな彼の内側の嵐を察しているようだった。
けれど、あえて何も問わない。
ただ、そっとそばに寄り添い、その視線を一緒に闇の奥へ向けた。
夜風がふたりの髪を揺らし、森のほうからは微かなざわめきが返ってくる。
その音は、次に挑む道がどれほど過酷かを告げる合図のように思えた。
レギュラスは唇を引き結び、アランの手を握った。
その手が、現実と幻覚の境界を示す唯一の印になるかもしれない――
そう思いながら。
沈みきらない恐怖を胸に、彼は静かに決意を固めた。
次に訪れる幻に呑まれても、二度と彼女を見失わない。
たとえそのために、爪を立ててでもこの手を離さないと。
そしてふたりは、再び森の闇へ向かって歩き出した。
森の闇は、生き物のようにぬめりとした手触りで、足先からじわじわと這い上がってくるようだった。
アランに手を引かれ、一歩、また一歩と、来た道を戻る。
けれど、その歩みを進めるほどに――
やはり、あの症状が忍び寄ってくる。
まず、喉が詰まったように声が出なくなる。
息は吸えているのに、呼びかけようとした音がまるで森に吸い込まれてしまう。
そして、次に――視界の中の「彼女」が変わった。
淡いローブの裾を揺らし、こちらの手を静かに引く女性。
その姿形は、もうアランではなかった。
薄い髪色、目尻の形、微かに挑むような光を帯びた瞳――
――アリス・ブラック。
胸の奥底に、瞬時に冷たい嫌悪がせり上がる。
心臓の鼓動が、一拍ごとに鋭く跳ねた。
分かっている。これは幻想だ。
森の魔力の歪みが見せる、作り物の像に過ぎない。
さっきと同じだ。
二度も、同じ罠にかかるほど愚かではない――そう、自分に言い聞かせる。
「レギュラス、大丈夫です……大丈夫ですから」
耳もとで、その女が言う。
声音はまぎれもなくアランのそれで、あの時のあたたかさすら含んでいる。
当たり前だ。中にいるのはアランなのだから。
それでも――
この憎い女の顔が、自分の手を引いて歩いているという事実が、耐え難いほどの生理的な反発を呼び起こす。
胸から喉元へと、爆ぜるように嫌悪感がこみ上げ、今にも手を振り払ってしまいそうになる。
だが――離せない。
一度でもこの手を離せば、また幻にのまれ、二度と現実へ戻れなくなる気がしてならなかった。
だから、堪える。
爪の先で皮膚を押しつけるほど、強く指を絡めている。
その内側で、湧き立つ嫌悪と闘う。
荒い息が、寒気を帯びて吐き出され、森の湿り気の中へ溶ける。
足元の腐葉土からは、染み付いた魔力の匂いが立ち上り、頭の奥を揺らす。
――これがアランなのだ。
姿がどう見えても、これはあの人なのだ。
幾度も言い聞かせ、脳裏でその名を呼び続ける。
そうしなければ、この闇はきっと、自分の心を裂いてしまうだろう。
足音が二つ、深い森へと吸い込まれていく。
握られた手の温もりだけが、現実と幻の境界に残された、最後の灯だった。
森は、相変わらず深く重たい闇に沈んでいた。
湿った土と腐葉の匂いが鼻腔を満たし、頭の奥をじわじわと鈍らせる。
歩みは一定のリズムを保っていたが、その度に膝の奥や肩の筋に疲労が溜まり、呼吸にも冷気が入り込んできていた。
「……この辺で、休憩しませんか?」
隣から聞こえた声は柔らかく、息を整える間をくれるような響きだった。
だがその声の主――目の前にいるのは、アリス・ブラックの顔をした女だった。
本当は、アランであると分かっている。
それを意識していなければ、今この場で激しい衝動に飲まれてしまいそうだった。
本心では、止まるよりも一刻も早くこの森を抜けたい。
歩き続け、闇の瘴気から離れることを優先したかった。
けれど、「これはアランだ」という意識が、なんとか足を止める衝動を抑え込んでいた。
できるだけ視線を合わせないよう、レギュラスは顔を逸らした。
アリスの顔――それは、彼にとってあまりにも強い拒絶を呼び起こす。
その女は、すべての不幸の象徴だった。
諸悪の根源そのものであり、思い出すだけで胃の奥が悪寒を帯びる。
頭の片隅では、ありえない思考さえよぎる。
――あの時、あの沼に沈めておけばよかった。
むしろ、沈められたなら、どれほど楽だったか……と。
意味をなさないはずの想像なのに、それを真剣に巡らせてしまうほど、この顔は自分にとって毒だった。
「レギュラス……寒いでしょう?」
その女――いや、アランが、マントを取り出して肩にかけようと近づいてくる。
けれど、伸ばされたその手も、視界に映るその表情も、どうしても「アリス」の顔だった。
芽吹くような優しさの裏に、無意識が冷たい拒絶を叩きつける。
レギュラスの足は、咄嗟に後ろへと下がっていた。
ほんの半歩、しかしその距離は、顔を視界から遠ざけるための必死の拒否だった。
自分の中で、確かにこれはアランだとわかっていても――
今は、その形をした「憎しみ」の化身を、正面から受け止めることができなかった。
呼吸だけが、湿った空気に溶けていく。
足元では、いつの間にか落ち葉が風もないのにわずかに揺れていた。
森は、彼の心の奥のざわめきを、静かに嗤うかのように見守っていた。
森の闇は、時間の感覚を奪うほど深く、重かった。
その静けさは耳を塞ぐようで、湿った空気が肺の奥にまで入り込み、体の芯をじわじわと冷やしていく。
アランは、背中に疲労と冷気をまとったまま膝を抱え、低く俯いた。
「……少し休みたい」
声に出したが、それは自分への言い訳のようでもあった。
本当は――少しどころではなかった。
このまま瞼を閉じて、すべての重さから逃れたかった。
ただ眠ってしまえば、この恐ろしい森も、幻覚も、後悔も、遠い夢の底で薄れてくれるのではないかと思えた。
けれど、その誘惑に身を預ければ――もう二度と目覚めないような気がした。
深淵の淀みが、そっとその命を包み取ってしまうような、そんな静かな死の予兆があった。
だからこそ、どうにか目を開けていたかった。
瞼の裏がじんわり温かく、重たく沈んでいくのに抗いながら。
膝を抱えたまま、視界がゆっくりと狭まっていく。
森の匂いが遠ざかり、足元の湿った感触も、肩に落ちる冷気も、すべてが薄い膜の向こう側になっていく。
――もう、いいかもしれない。
意識の底にそんな呟きがよぎり、抗う力がふっと途切れた。
その瞬間、瞼は完全に閉じ、漆黒の闇が世界を覆った。
――そして。
柔らかい声なき気配が、眠りの奥で揺れた。
耳の奥に届いたのは、遥かな懐かしさを伴う呼吸音。
「……アラン」
重たい瞼をゆっくりと持ち上げたとき、視界が淡く揺れる。
そして、そこに――
黒髪を無造作に乱し、その奥の灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている男がいた。
夜のように深く、それでいて少年のままの光を宿した瞳。
――シリウス・ブラック。
その姿は夢か現か、判別がつかないほど鮮烈で、胸奥に鋭い熱を灯した。
ぼんやりと霞む視界の中、ただその名を口の中で転がし、
アランは確かに「目覚めた」のだと理解した。
けれど、その場がまだ森の中なのか、あるいはもう別の場所なのか――
それを確かめるには、あまりに心臓の鼓動が早すぎた。
そうして――アランは、まだ上手く回らない思考のまま、その姿を凝視していた。
目の前にいるのは確かにシリウス・ブラック。
あの気位の高い灰色の瞳が、まっすぐ自分を捉えている。
けれど、その眼差しには、幼い頃から知っていた反抗的な光でも、甘い嘲りでもなく――ただ、深く案じるような色だけが揺れていた。
かすかに口が動き、自分の名を呼んでいる。
声が届いたのか、あるいは届きそうで届かない距離なのかは分からない。
音よりも、その唇の動きの記憶が胸を叩いた。
「……シリウス……本当に、あなた……?」
問うつもりだったのに、声はかすれて空気に溶けた。
それでも彼は微かに笑ってうなずいた――気がした。
その瞬間、冷たい風が頬を撫で、森の湿った匂いが急に濃くなった。
シリウスの姿が揺らぎ、輪郭が流れるように滲んでいく。
夢か、幻か、あるいは森が見せる新たな罠か――境界がほどけていく。
アランはひとつ小さく息を呑み、
「行かなきゃ……」と自分に言い聞かせるように、ゆっくりと両足に力を込めた。
すぐ傍に――彼女を探す誰かの足音が近づいている。
闇に沈んだ森の奥、その静けさの中で目を覚ましたアランは、夢か幻かの境界でシリウス・ブラックの姿を見つめていた。
夜のような髪と、あふれる光を宿した瞳。
おかしなくらい時間を遡るような錯覚に息が詰まった。
「……シリウス?どうしてここにいるの?」
掠れる声で問いかければ、彼は短く微笑み、迷いのない歩調で手を差し伸べてきた。
「こっちだ、こっちに来れば抜けられる」
頼もしいその声は、かつて何度も、絶望の淵からアランを引き上げてくれた日の太陽だった――
迷いなく腕を引いてくれる手。
その感触は懐かしくて、胸の奥に決して消えない灯がふっと蘇った。
本当なら。
――もう彼を振り返ることはないと、決めていたはずだった。
レギュラスに命を賭して生かされたあの日。
この人のためだけに、これからは生きる――
そう誓った自分の決意が、今や闇に沈んだ森の奥で脆く揺れていく。
太陽を背負う人の笑顔。
熱い掌。
手を引かれるたび、幼い頃、初めてその腕を頼りに幸せを感じていた日の記憶が、静かに胸に香っていった。
「シリウス、私、レギュラスと一緒に来ているの。……彼と休憩してたの。あの人も呼んできたいわ」
必死に言葉を重ねる。
レギュラスをこの森にひとり残すことなんて、考えられなかった。
シリウスは小さく首を振った。
「大丈夫だ。アイツは、もう外にいる」
さらりと告げられたその一言に、アランの心に静かな波紋が広がった。
――そんなことが、あるだろうか。
あの森の魔力、あの幻覚。
レギュラスがひとりで抜けられたなんて、信じられなかった。
けれどシリウスは微笑み、考え込む間も惜しむように、
「ほら、急いで」と手を引いて、闇の奥へと歩み出していく。
手の中で指が絡まる。
浅い息が少しずつ明るくなって、歩みが軽くなる。
引っ張られるその手は、幼いころ、初めて恋をしたあの人の手。
手のひらの温度、足元を照らす明るさが、心の奥で懐かしさと戸惑いを同時に揺らしていく。
けれど――
胸の奥では、レギュラスの名が小さく震えていた。
太陽を追いながらも、闇に残していく人への愛しさと、覚悟と、そのすべてがひとつになって。
アランは、手を引くシリウスに寄り添いながらも、
その歩みに、昔と今とを静かに重ねていた。
――愛した日々へ戻らないと決めたはずの心が、
この夜ばかりは、ほんのわずか揺らいだのだった。
森の空気は冷たく、湿り気を帯びて肌に絡みついていた。
足元には腐葉土の匂いが立ち込め、遠くで葉擦れもないのに木々が息をしているように感じられる。
目の前で、アリス・ブラックの顔をした女が、そっと膝を折り、顔を伏せていた。
膝に両腕を巻きつけ、そのまま顔を深く埋めている。
――その顔を見なくていい。
それだけが、今の自分にとって唯一の救いだった。
できることなら、このままずっと、彼女が顔を上げずにいてくれればとさえ思う。
自分の胸奥を蝕む嫌悪が、視線を遮ることでわずかに鎮まる気がした。
泥の冷たさが腰から伝わってくる。
沼から這い上がったときに削られた体力は戻っていない。
さらに、この森が放つ歪んだ魔力への抵抗を怠れば、また一瞬で幻覚に飲み込まれる――
だから、気を張ることだけに意識を注いでいた。
だが、張り詰めた糸は座った瞬間、そのままゆるむ。
重たい睡魔が急に肩へ降りかかり、瞼の裏がじんわりと熱を帯びる。
視界に黒がにじみ、意識が水底の方へ引かれていく。
――そして、目を開けたとき。
そこに、もうアリス・ブラックの姿はなかった。
一瞬、胸の奥に冷たい安堵が走る。
「……目障りだったから、ちょうどいい」
そう思う。
だが、次の瞬間、脳裏を閃光のように駆け抜けるものがあった。
――あれは、アリスではない。
あれは、アランだ。
眠気の残滓など一気に吹き飛ぶ。
慌てて辺りを見回す。
苔むした太い幹、湿った蔓、黒々とした土。
樹々の間を探しても、どこにも彼女の姿はない。
葉擦れも足音も聞こえない。
声を上げようとして、喉が詰まる。
ただ、湿った空気を押し出すだけで音にならない。
叫びたいのに、呼ばなければいけないのに――
それでも声は出ない。
指先に冷たい汗が滲む。
胸の奥がきつく締めつけられ、森のざわめきだけがやけに大きく響いていた。
まるで、森そのものが彼女をどこかに呑み込んだことを告げているかのように。
光の痕跡は、どこにもなかった。
アランの名を喉の奥で必死に呼ぼうとしても、声はやはり出なかった。
呼吸だけが荒く音を立て、胸の奥が押しつぶされるように苦しくなる。
――いない。
どこを探しても、いない。
焦燥が、少しずつ胸の内を蝕んでいく。
苛立ちが、それと同じ速さで血管を駆け上がる。
足を踏み出すごとに、地面のぬかるみに取られ、勢いをつけすぎた拍子に膝が崩れそうになる。
森は暗すぎた。
上を見上げれば、枝と障気が絡み合い、夜空どころか影すらも見せない。
ただ、永遠の闇が天から地までを繋ぎ、そこに自分を押し込めている。
杖を高く掲げ、囁くように灯りの呪文を唱える――が、
生まれた光は、まるで濃い霧に触れた小さな火花のように、一瞬でかき消される。
闇の中へ散るその儚さに、心まで削られる。
もう一度強く振るい、火炎を上げようとする。
だが、燃え上がった赤は薄く、次第に息を絞められる蝋燭のようにしぼみ、最後には煙にもならず闇に呑まれて消えた。
――やはり、ここでは魔法が正しく作動しない。
光も炎も、この森の意思に抗えるほど強くは響かない。
全てを歪ませ、奪い、ねじ曲げ、虚無に還すこの深淵の中で、
たったひとつの灯火——アランの姿——さえも、無惨に飲み込み隠してしまう。
闇は深く、そして密やかに残酷だった。
それを切り裂く術もなく、ただその中を、必死に、もがくしかなかった。
森の闇を抜けるように、シリウスの手が前へと導いていく。
力強く、ためらいのない歩調――けれど、その速度はアランには少し早すぎた。
土を踏む感触が重く、腰から下に疲労が溜まっていく。
「シリウス……どこまで歩くの?」
息を整えながら問いかければ、振り返らずに低い声が返る。
「もうちょっとだ、アラン」
その響きは懐かしいのに、何かが違った。
かつての彼なら、もっと歩幅を合わせてくれた。
並んで歩き、振り返り、疲れていないかと気遣ってくれたはずだ。
しかし今の彼は、ただ腕を引き、前だけを見て進んでいく。
わずかな違和感が、胸の奥にじくじくと広がっていく。
この背中は、本当にシリウスなのだろうか――そんな考えが、心の隙間に忍び込む。
「……着いたぞ」
足を止めた彼がそう言った瞬間、視界がひらけた。
息を呑む――木々が切れ、森の天蓋が途切れている。
湿った空気が急に軽くなり、開けた風の匂いが頬をかすめた。
だが、次に目に飛び込んできたのは、深い谷間を見下ろす崖だった。
足元からざらりと小石が落ち、音もなく闇の底へ消えていく。
その異様な高さに、思わず足がすくむ。
――ここが出口だと、彼は言ったのか。
信じてついて来た。
空気が広がる感覚に、希望を重ねてしまった。
なのに――目の前に広がるのは、地の果てではなく、森の果てと崖の断絶だった。
背中に冷たいものがつうっと走り落ちる。
思考が一瞬で硬直し、呼吸が浅くなる。
これは出口ではない。
それでも、彼は迷いなくここへ導いてきた。
その「迷いのなさ」こそが、底知れぬ違和感となって、アランの胸を締めつけていた。
崖の縁に立つシリウスの横顔を見つめながら、
心の奥で小さな警鐘が、静かに、確かに鳴っていた。
崖の縁に立つと、夜風が頬を撫でていく。
月明かりは薄く、足元の大地がどこまで続いているのかもわからないほど、深い闇が広がっていた。
隣には、変わらぬ太陽のような笑みを湛えるシリウス・ブラック。
それが本物か幻か、アランはもう見分ける自信を失いかけていた。
けれど、彼の眼差しだけは、どこまでも昔のまま、優しくて、力強かった。
「シリウス……」
声は震え、身体の奥底に残った不安が、言葉を濁す。
どうして?
なぜこんな崖に立たされているの。
――問いは空気の中に吸われていく。
シリウスはまっすぐアランを見つめて言った。
「俺を信じろ。ここを抜ければ、元に戻れる。」
その一言は、どこまでも慈しみに満ちていて、“いつも通り”だった。
アランは揺れる瞳で、その崖の下を見つめる。
「この……崖を? 降りるの?」
足元には、闇しかない。
冷たい地の底まで響くような静けさ。
正体もない風が、髪をばらばらと舞わせる。
あまりにも残酷だった。
この夜に、ここから身を投じよと告げられること――
“それを信じろ”と突きつけられること。
どこまで落ちるのかも、奈落の底に何があるのかも知れない。
それでも、答えはどこにも見当たらなかった。
――けれど。
シリウスが、自分に死をもたらそうとするとは、どうしても思えなかった。
かつて、陽だまりのような温もりで寄り添い続けてくれた人。
闇に手を伸ばし続けた日々、失われそうになるたび抱きしめてくれた人。
傷だらけの心ごと、まるで世界を赦してくれるような笑顔で、何度も導いてくれた人。
その彼が、今、アランを奈落へ沈めようとしているなどとは――
どれほど思考が巡っても、どうしても受け入れられなかった。
信じていいのだろうか。
信じた先に、本当に未来はあるのだろうか。
胸の奥が、言葉にならない叫びで満たされていく。
疑い、不安、恐怖。そして、どうしようもなく残る希望。
それでも、
信じたい気持ちが、確かに、心の奥に灯っていた。
息が浅くなっていく中、アランは静かに目を伏せる。
シリウスの手の温もりを感じながら、
この迷いの森の夜が、まだ自分に微かな勇気を残していることを確かめる。
崖の淵。
一歩踏み出すべきか、踏みとどまるべきか――
すべてを委ねられない空虚の中、それでも誰かを信じる手のぬくもりだけが、
彼女の身体をそっと支えていた。
月が雲間からこぼれ、闇の谷底へ儚い光を落とした。
そのとき、アランの瞳には、太陽よりも少しだけ淡い、見失っていない希望が静かに映っていた。
闇が深く、谷底は月明かりすら拒むように沈黙していた。
崖の縁から吹き上がる風が、アランの頬を撫で、長い髪を揺らす。
隣には――シリウス・ブラック。
かつて愛し、今もなお心の奥で大切に思い続けている人。
その横顔が視界の端にあるだけで、胸が詰まる。
「……シリウス……信じて……いいわよね……」
掠れた声は震え、不安の影が消えなかった。
それでも、疑いたくなかった。
この手の温もりを、裏切りの刃に変えたくなかった。
だが、もし、この先が全ての終わりだとしたら――。
そのときは、どうしても遺したいものがあった。
レギュラスに
この命を奪われかけたあの日、必死に掬い上げてくれた彼に。
自分の愚かさで、また無駄にしてしまったことを詫びたい。
それでも――ありがとう、と伝えたい。
あなたがいてくれたから、私は生きてこられた。
あなたがいてくれたから、子供たちの成長を見届けられた。
アルタイルも、セレナも。
もう母として思い残すことは何もない。
アルタイルは父の背を迷いなく追いかけ、セレナは強く、凛と咲く花となった。
あまりにも誇らしく、あまりにも愛おしい、私の子供たち。
そして――隣に立つ、シリウス・ブラック。
私の人生に華を添えてくれた人。
心に自由という翼を授け、希望という太陽を灯してくれた人。
愛していた。
心の底から、変わらず愛している。
たとえ今、その導きが闇の底へ続く道だったとしても、
この胸の奥の情は消せない。
アランは、怖れが勝って足をすくませぬよう、ゆっくりと目を閉じた。
見えない闇を否定するように、ただ掌の温もりだけを感じる。
すべての記憶が、最後の祈りと共に胸へと結晶していく。
風の音が強く耳をかすめ、遠くのどこかで、木々が低く鳴いた。
その音が合図のように、彼女は――静かに身を委ねようとしていた。
森の闇は、息を呑むほど濃かった。
それでも、レギュラスの手には一本の杖が握られている――アランの杖だ。
この森の魔力は、あらゆる呪文を歪め、術者の意志をねじ曲げる。
だが、杖の忠誠心だけは揺らがなかった。
持ち主を探し出す力は、深い呪いに汚されたこの森でも確かに生きている。
レギュラスは、その導きにすべてを懸けた。
杖先が空気を震わせ、かすかな方向を示す。
闇を裂くように、息をひそめて一歩また一歩と進んでいく。
間に合え――
ただその思いだけを胸に。
やがて、木々が途切れ、無数の影が左右に退いていく。
視界が大きく開けた。
黒い夜気の中――その向こうに、アランの姿があった。
それは幻ではなかった。
アリス・ブラックの顔ではなく、確かに、自分が知るアランの顔。
この目がはっきりと彼女を“アランだ”と捉えた瞬間、
ずっと喉奥にはりついて声を奪っていた石のような何かが、ぽろりと音もなく剥がれ落ちた。
「……アラン!」
自由になった喉が震え、名前が迸った。
それはほとんど祈りのような、必死で掬い上げる叫びだった。
けれど――彼女は、崖の縁にいた。
漆黒の奈落を前に、一人で手を伸ばしている。
誰かに導かれるように、あるいは引き寄せられるように、その手は空を探っていた。
そして、重心は――闇の底へ。
全身が粟立つ。
血の気が引くその光景は、あまりにも異様で、今にも現実が断ち切れそうだった。
レギュラスは無意識に杖を突き出していた。
空気が震える。
足元を固定し、彼女を手元へ引き寄せる呪文――
それを全力で放った。
だが、放たれたはずの魔法は、森の歪みに絡め取られた。
ざわりと空気が反転し、光はねじれた形へと変質し、別の方向へ逸れていく。
意志と力の間に、見えない手が割り込み、魔力を別の呪文にすり替えてしまう。
届かない。
掴もうとして伸ばした想いは、濁った闇に溶け、形を変えて消えていく。
レギュラスの心臓は、鎖で締めつけられるように痛んだ。
目の前には、いまにも闇に吸い込まれそうなアラン。
その足元の土が、わずかに――崩れ始めていた。
全呼吸が浅く、喉の奥で何かが詰まったように声が出ない。
――なぜ、気づけなかった。
あの眼差しを。あの声を。あの手の温もりを。
幾万の幻影に惑わされても、最後まで見失ってはいけなかったはずの人を。
重く握られた二本の杖が、震えた。
指先から滑り落ちそうになる。
震えの中心は手ではない。胸の奥、魂そのものが揺さぶられている。
目の前の黒い沼は、なお静かに口を閉ざしている。
そこに沈んだ人は、もう戻らない――そう、この森の奥深くが告げていた。
レギュラスは膝をつき、二本の杖を抱えたまま、硬く目を閉じた。
暗闇の中で蘇るのは、森に入る前、ひたすら隣を歩いてくれたあの人の真っ直ぐな横顔だった。
その記憶は、今や二度と取り戻せない現実の証明でもあった。
沼の底からは何の返事も返らない。
返ってくるのは――自分という存在の、取り返しのない静寂だけだった。
沼の縁に立ったとき、空はすでに黒い水面に溶けていた。
遠く木々の囁きも消え入り、ただ湿った冷気と澱んだ気配が肌を撫でる。
禍々しい沼は、静けさのなかで重く息を潜めていた。
レギュラスの足先が、ゆっくりと泥に沈んでいく。
恐れる気持ちは――もう、なかった。
もしこのまま自分が沼に飲まれ、戻って来られないのだとしたら――それもまた、運命でいい。
不思議と、その思いには潔い静けさがあった。
ブラック家は、遠く安心を約束された。
アルタイルが血統を継ぎ、セレナはすでに王妃として歩みだした。
父としての役目は、もう十分果たされた。
これ以上、子供たちを操り、導き続ける意味はないのだ。
だからこそ、自分に残されるものは、たったひとり――アランだけでいい。
彼女の存在、それだけが、今も魂に揺るぎない灯火をくれる。
沼は、生き物のように粘り気を帯びて、レギュラスの身体をじわじわと飲み込み始める。
水とも泥とも呼べぬ重さが、服の裾をずるりと絡め、冷たく絡みついてくる。
足元が輪郭を失い、ついには膝まで、そして胸まで――静かに浸されていく。
死ぬなら、あなたの腕の中がいい――。
アランが残した言葉が、遠い記憶の底からそっと浮上する。
そのとき、レギュラスはほんの一瞬、微かに微笑んだ。
この沼に沈むことさえ、もはや彼女の腕で眠るような安らぎに近いのではないか、と。
どこまでも柔らかな眼差しが、自分たちに同じ終わりを許してくれるならば――
それは、残酷な闇よりも、甘やかな救いに思えた。
「あなたのあとを、追いかけてもいいですか?」
かつて自分が問うたとき、アランは微笑み、
「もちろん――」と、静かに返してくれた。
笑みが、波紋のごとく胸に広がる。
何もかも遠くなった今でも、その瞬間だけは、鮮やかに蘇る。
——遠い記憶。
魂に縫い付けられた、小さな幸福。
今、沼はすべてを抱え込むようにしずくを押し上げ、
レギュラスの身体を、静かに沈めてゆく。
すべてを終えても、なお残るもの――
それは、愛おしき人との一途な願いと、心のなかに光る微かな温もりだけだった。
やがて水面は沈み、
彼の心は、遠く優しい誰かの腕へと――静かに還っていった。
沼は、黒い鏡のようにひっそりと揺れ、
その奥底へと、愛しい人の身体をひたひたと飲み込んでいく。
アランは目を閉じ、胸元には――他ならぬ自分が押し込んだ分霊箱が、闇色の影のように張り付いていた。
その輪郭は、まるで鎖のように彼女を縛り、拒むように底へと引きずり込もうとしている。
嗚呼――。
遅すぎるほど遅くに、膝に力が入った。
濁った水に腕を差し入れ、必死に伸ばした手。
触れた感触は冷たく、しかし確かに、あの瞬間途切れさせてしまった手だった。
かつて、幻だと信じ込まされて払いのけてしまった手。
あれを離したのが、今の地獄を呼び寄せたとしか思えなかった。
「……アラン!」
喉が焼けそうに震え、声にはならない。
ただ唇が、その名を切実に形作る。
胸の奥から突き上げる痛みが、鼓動を殴り続ける。
指先は彼女の衣の裾を掴む。
片腕で必死に引き寄せようとするが、沼の水は異様に重かった。
水というより、生きた泥。
意思を持っていて、「渡さない」と言わんばかりに、身体の隙間に潜り込み、吸いつき、全てを底へと引こうとしてくる。
生き物の四肢のような粘り気が、腕を縛り、足を絡め取る。
その動きはゆっくりなのに、抗うほど確かに沈めてくる。
だが――離す訳にはいかない。
離せば、もう二度と届かない。
レギュラスは息を大きく吸い込み、杖を構えた。
魔力を歪めるこの森の中でも、迷っている暇はなかった。
それでも、選び取った呪文は――爆ぜるような力ではなく、「引き寄せる」ための術。
水面に淡い光が広がり、揺れる糸のような魔力が、アランの身体を包み込む。
その瞬間、沼が呻くように波立った。
抵抗する。必死に、底から腕を引き剥がそうと暴れる。
が、それは同時に、自分の脚さえずるりと奪ってくる。
水と泥と呪いが混ざった、この世で最も重たい重力が、二人を引き裂こうとする。
唇から噛み締めた吐息がこぼれる。
腕の筋が悲鳴をあげ、指先の感覚が薄れても――なお、彼は掴んで離さなかった。
そして、決断する。
背後に浮かび上がった浮力と引力を同時に操る複合の呪文が、二人の身体を包み、沼の圧力を押しのけるようにして上へと押し上げる。
水が裂けた。泥が弾け、水音の向こうの光がちらつく。
最後の瞬間、重い水膜を突き破り、冷たい風が顔を打った。
肺に空気が、一気に流れ込む。
腕の中には、ぐったりとしたアランの体温。
その重さは、命の重さだった。
夜の沼のほとり、濁った水が滴り落ちるたびに、震える命の気配がふたりの間に生まれていた。
レギュラスの腕の中、アランはぐったりとした体であらぬ方を見ていたが、身を揺さぶると、苦しそうに喉を鳴らし、
しぶき混じりに口から沼の水を吐き出した。
しばらくして、かすかな光がその瞳の底に宿る。
「アラン……!アラン!」
レギュラスは声を張り上げ、何度も名前を呼んだ。
その声は不安と罪悪感に掻き乱された哀しい叫び。
両腕で彼女を必死に支え、肩を抱く手が震える。
やっと瞳孔が動き、アランは一度だけまばたきをした。
「……戻ったのね、レギュラス。大丈夫なの?」
その声音には、責める色はなかった。
苦しげな息遣いの奥には、ひたすらレギュラスの身を案じる優しさしかなかった。
レギュラスは、何と言えばいいかわからなかった。
言葉が見つからない。
彼女の顔を見つめながら、声にならない言葉が唇の動きだけを生む。
何度口を開いても、吐き出せたのは、空気だけ。
沈黙のなかで、アランはもう一度、じっと彼を見つめる。
その瞳は、低い苦しみと、静かな心配だけを湛えている。
「……声が、出ないのですか?」
その問いに、レギュラスは必死で首を振った。
違う――声が出ないのではない。
言葉が、出ないのだ。
口を何度も動かすが、伝えるべきものは形にならなかった。
――容赦なく繰り返した攻撃。
――小さな身体を何度も蹴りつけたその記憶。
その悔い。その懺悔。その恐れ。
どうやってこの痛みを伝えればいいか、それすらわからない。
濡れた髪を撫でる手も、震えた唇も、
謝罪の言葉を探し続けていた。
けれど、アランは静かに――
睦まじさといたわりを込めてそっと、レギュラスの顔に手を添える。
「大丈夫よ、レギュラス。わたし、あなたが戻ってこれてよかった」
その声に涙も怒りもなかった。
ただ、すべての痛みと怖れを包み込むような、
「赦し」の温度だけが、闇夜の底に薄明かりのように灯っていた。
レギュラスはその手を両手で包みながら、
言葉の代わりに、深く、静かに頭を垂れた。
この夜の静けさが、ふたりの胸の中に、
永遠に記憶として刻まれていくのだと――そう思った。
沼のほとり、滴る水音だけが微かに響いていた。
全身を濡らし、肩で荒く息をするレギュラスの視線が、黙ってこちらを捉えている。
アランは、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
目に映ったのは――困り果てたように眉を寄せ、それでも必死に何かを伝えようとしている、愛しい人の顔。
それだけで、胸の奥に熱が広がった。
この人は、戻ってきてくれた。
たった今まで、森の闇と魔力の奔流に呑まれ、声も届かない場所にいた人が――
それでも抗い、這いあがり、再び自分の名を呼んでくれるところまで辿りついた。
やはり、この人は強い。
力とは、魔法の才だけを指すものではない。
どれほど心を引き裂かれても、自分を取り戻すために戦い抜くその意志――
アランは心の底からそう思った。
レギュラスは、何かを言おうとしていた。
唇が小さく動く。
詫びの言葉を探しているのだとわかる。
攻撃し、傷つけ、自分を沈めかけた行為――
その全てをどう口に替えれば良いのか、彼自身わからないのだ。
だからこそ、躊躇いと苦悩が、表情の中で交差していた。
アランはそっと身体を寄せた。
彼の濡れた衣の冷たさが、皮膚を通して伝わってくる。
戻ってきてくれた――それだけで十分。
その思いを込め、細い指で彼の手を包み込む。
「……もういいんです。あなたが、戻ってきてくれたから」
その囁きが、わずかでも彼の胸につかえていた罪の棘をやわらげればと願いながら。
けれど、現実は待ってはくれない。
この手の中には、ヴォルデモートの分霊箱――忌まわしい日記帳がある。
今は、自分たちの間の痛みよりも、これを確実に葬る方法を見出さなければならなかった。
胸元に感じるあの冷たい重み、その闇が、この場で二人を皮肉な形で結びつけている。
アランは視線を沼へ向け、低く息をつく。
「……どうやって、この奥底まで沈めるか……考えましょう」
深淵のような黒い水面は、何も答えないまま、ただふたりの姿を映して揺れていた。
その静けさの中で、二人の呼吸が、少しずつ同じリズムを刻み始めていた。
澱んだ水面が、わずかに月を映していた。
体中にまだ冷たい沼の泥が残る。ふたりは並んで膝を抱えたまま、沼の中央、静かに沈黙する闇を見つめていた。
レギュラスは、濡れた指に杖を絡めながら淡く首を振った。
「……やはり、魔法は弾き返されるようです。」
その声の奥に、苦い確信が滲む。
この森そのものが、魔力の流れを歪ませ、すべての呪文を乱雑な音に変えてしまう。
先ほどの泥から這い上がるときも、渾身の魔法はどこかで歪んで反発し、この場が“人の力”を拒んでいることを痛感した。
「森自体が、魔力を喰らうようですね……」
アランもまた、沼に手を触れながら呟いた。
指の先で、黒い水が静かにゆれる。
分霊箱。
その日記帳は、地を這うような低い魔力を今も発し続けている。
もしこのまま物理的に投げ込んでしまえば――
“浮いてくる”――沼の魔力と、分霊箱に封じられた闇の力が互いに干渉し、そこに根を張ることも、沈み続けることも叶わない。
「魔法が効かないなら、物理的に沈めるしか……」
アランの声が沈む。
だが、目の前の闇は容易に許してはくれない。
重しも意味をなさないかもしれない。
何より、もう一度沼の底まで潜ることは――
「……もう二度と、戻ってこれないと思う」
レギュラスの声は、ひどく静かだった。
さっきはまだ、運が味方したからこそ――底に到達するほど深く沈んではいなかった。
命の綱がわずかな偶然で結ばれただけ。
もし分霊箱を沈めきるために、再びふたりで底まで降りれば。
この沼の闇が、今度こそ光を許さず、ふたりを取り込んでしまうだろう。
沼のほとりで、ふたりは静かに思案を巡らせていた。
苦い夜気は肺の奥を冷やし、手はまだ泥の匂いを湛えている。
レギュラスの胸の奥では、愛しい人をまた死に脅かすことへの恐怖が、波となって打ち寄せている。
アランは、傷む太ももをかばいつつ、分霊箱の小さな重みを手の中で転がした。
どうやって、これを――
決して浮かぬように、沼の奥深くに、二度と誰にも届かぬ場所に、封じ込めることができるのだろう。
「……戻れなくなると思うと、怖いですね」
アランが吐息に乗せて言った時、
沼の水面は、微かに揺れた。
その揺らぎが、答えであるかのように、尚一層の静寂を広げていく。
そうして夜は、思案と愛と恐れが絡み合うなか――
ふたりを静かに包み込み続けていた。
沼のほとりには、湿った夜気と、土と水の匂いが満ちていた。
その静けさの中で、アランは膝を抱え、ほんの少しだけ視線を落としていた。
――この森に呑まれていた間、レギュラスは一体、何を見ていたのだろう。
あの、研ぎ澄まされた敵意を宿した瞳には、何が映っていたのだろう。
たとえ幻覚であっても、そこに自分はいたのか。
それとも、全く別の何かを……誰かを、見ていたのか。
胸の奥に問いが浮かびかけるたび、アランはそっと息をのみ込む。
聞いてしまえば――その答えは、きっと彼を傷つけると分かっていたから。
今、戻ってきたばかりの彼の目に、あんな冷たい焦点を二度と宿らせたくはなかった。
太ももには、まだ鈍い疼きがある。
みぞおちには、打ち据えられた衝撃の余韻がしこりのように残っている。
手の甲には、踏みつけられた感覚が、薄い痣となって張りついていた。
治癒魔法を使えば、すぐに痛みは消えるだろう。
杖を一振りし、呪文を唱えるだけで、痕跡など残さず元に戻せる。
それでも――アランは、杖を取らなかった。
その姿を見せれば、きっと彼に罪悪感を植え付けてしまう。
自分が何をしたか、どこをどう傷つけたか、形にして突きつけることになる。
それは、彼が再び自分を責め始めるきっかけになる。
そんなものは要らない。
彼に背負わせるには、あまりにも重たすぎる。
だから、痛む部位をそっと庇いながら、アランは膝を折って沼を見つめた。
胸元には、まだ分霊箱――あの黒い日記帳の重みがある。
禍々しい魔力が肌を通して伝わってきて、ひどく冷たい。
沈めなければならない。
けれど、魔法は弾き返される。
物理的に底へ運ぶのは、自分たちにとってあまりにも危険すぎる。
今度こそ帰って来られないと分かっている深さまで行くことになるから。
痛みを抱えた身体のまま、アランは頭の中でひたすら道を描く。
どうやれば、この闇の奥深くへ、鋭い魔力を宿したものを沈められるか。
浮き上がらないように、底と一体化させられるか。
ふと横を見ると、レギュラスが黙って同じ沼を見つめていた。
彼の目には、もう敵意も迷いもなかった。
ただ深く沈む水の向こうにあるべき結末を、共に探ろうとする気配があった。
それだけで、十分だった。
痛みも、まだ固まらぬ傷も、今は関係なかった。
――もう二度と、互いを見失わぬように。
そう誓いながら、アランは沼の黒い揺らぎに視線を戻した。
月明かりは泥の上に淡くゆれ、沼のほとりには眠るような静寂が漂っていた。
ふたりは、未だ沼の黒い水面を見つめながら、分霊箱――闇を孕んだ日記帳――を手の中で重く感じていた。
アランは、震える指先で巾着の奥からひとつの小瓶を取り出した。
ほのかに銀色を帯びた液体が、月光に照らされてきらめく。
「魔力の干渉を遮断する魔法薬です。この分霊箱の魔力が、沼に拡がらないように、“膜”を作れるはずです。」
背筋はまっすぐでも、声は静かに優しく響いた。
沼に沈めたその瞬間、魔力同士が争うことなく、底で安らかに“眠り”続けられるように――
そんな思いが一滴一滴の薬に込められていた。
レギュラスは、驚いたように眉をあげた。
傷だらけの顔に、ほんの少し安堵の色がさした。
「そんなものが……本当に効くんですか?」
「試したことはないんです。でも……これしか思いつきません。沼の魔力に分霊箱が“溶ける”ことなく、底に留まれるはずです。」
アランは、その小瓶から慎重に薬液を日記の表紙に垂らした。
冷たい液体が黒い革へと染み込んでいき、まるで新たな膜を纏うように分霊箱を包み込んだ。
瓶の蓋をし、アランは深呼吸をしてレギュラスに日記帳を差し出す。
「では……後は重しですね。」
レギュラスは、沼の岸辺、泥の中から手頃な石を選んでくる。
縄をローブの裾から裂いて、分霊箱に丁寧に巻き付ける。
アランもその手順を、静かに手伝う。
魔法薬に覆われた日記は、どこか以前よりも冷たく、そして静かになったように感じられた。
アランは石と縄と日記がひとつに結ばれる様子を見つめていた。
「これで、沼の底に沈めても……決して浮かび上がることはありません。」
静かな声が夜気に溶ける。
「行きましょう。あなたとふたりなら大丈夫です。」
アランの声に、レギュラスは深く頷いた。
分霊箱を両手で包み、一歩ずつ沼の縁へ近づく。
最後の瞬間、ふたりはゆっくりと日記帳を沼へと差し出す。
今宵の魔法薬に守られて、縄の重しに抱かれて、
分霊箱は静かに水面へ、そしてゆっくり、深く――
誰にも届かぬ闇へと、静かに沈んでいった。
沼の水に波紋が広がる。
二人の影が淡く揺らぎ、闇は少しだけ穏やかに、夜を包みこんだ。
手放したそのとき、互いの指先がそっと触れ合う。
「ありがとう、アラン」
レギュラスの声は、傷と安堵の間で柔らかく震えていた。
ふたりは並んで沼を見つめながら、やがて静かに息を吐いた。
沈めた影と、夜の深い魔力と、そして互いのぬくもり――
すべてを抱えながら、新しい夜の静けさの中へと歩みだしていた。
沼の黒い水面は、もう完全に静まり返っていた。
魔法薬に守られ、重しと共に底へと沈めた分霊箱は、浮き上がることなく深淵で息を潜めている。
ふたりはしばらくその様子を見守ったあと、互いに短くうなずき合った。
――任務は終わった。
けれど、何も終わってはいなかった。
レギュラスの視線は、沼ではなく、その先の闇へ向けられていた。
森の奥、来たときに抜けてきたあの禍々しい迷路のような樹々の群れ。
移動魔法が効かない以上、またあの中を歩いて戻らなければならない。
深く息をつく。
胸の奥にあるのは、安堵よりも鈍い重さ――恐怖だった。
再び幻覚に呑まれれば、今度は……
今度こそ、本当にアランを、この手で殺してしまうかもしれない。
その可能性が、喉をじわりと締め付けた。
「……幻覚に耐える薬……そんなものはないですか?」
声は低く、けれど縋るような響きを帯びていた。
頼ることを望まないはずのこの男が、今は必死に“何か”を求めている。
その表情を見て、アランは静かに首を振り、やわらかく答えた。
「大丈夫です。……あなたは強いですから」
その声には揺るぎない信頼があった。
だが――レギュラスの心には届かなかった。
「……いや……」
喉が詰まりそうになる。
強いはずがない。先ほどだって、自分を引き戻したのは意志の力ではなかった。
あの杖に刻まれた、彼女の名前――そのたった一つのきっかけがあったからこそ正気に戻れただけなのだ。
もし次に襲う幻覚が、そのきっかけすら奪ってしまったら?
そのとき、自分はもう、境目なく幻と現実を見失い――
今度こそ、取り返しのつかないことをしてしまうだろう。
その確信が、胸をきつく締め上げる。
アランは、そんな彼の内側の嵐を察しているようだった。
けれど、あえて何も問わない。
ただ、そっとそばに寄り添い、その視線を一緒に闇の奥へ向けた。
夜風がふたりの髪を揺らし、森のほうからは微かなざわめきが返ってくる。
その音は、次に挑む道がどれほど過酷かを告げる合図のように思えた。
レギュラスは唇を引き結び、アランの手を握った。
その手が、現実と幻覚の境界を示す唯一の印になるかもしれない――
そう思いながら。
沈みきらない恐怖を胸に、彼は静かに決意を固めた。
次に訪れる幻に呑まれても、二度と彼女を見失わない。
たとえそのために、爪を立ててでもこの手を離さないと。
そしてふたりは、再び森の闇へ向かって歩き出した。
森の闇は、生き物のようにぬめりとした手触りで、足先からじわじわと這い上がってくるようだった。
アランに手を引かれ、一歩、また一歩と、来た道を戻る。
けれど、その歩みを進めるほどに――
やはり、あの症状が忍び寄ってくる。
まず、喉が詰まったように声が出なくなる。
息は吸えているのに、呼びかけようとした音がまるで森に吸い込まれてしまう。
そして、次に――視界の中の「彼女」が変わった。
淡いローブの裾を揺らし、こちらの手を静かに引く女性。
その姿形は、もうアランではなかった。
薄い髪色、目尻の形、微かに挑むような光を帯びた瞳――
――アリス・ブラック。
胸の奥底に、瞬時に冷たい嫌悪がせり上がる。
心臓の鼓動が、一拍ごとに鋭く跳ねた。
分かっている。これは幻想だ。
森の魔力の歪みが見せる、作り物の像に過ぎない。
さっきと同じだ。
二度も、同じ罠にかかるほど愚かではない――そう、自分に言い聞かせる。
「レギュラス、大丈夫です……大丈夫ですから」
耳もとで、その女が言う。
声音はまぎれもなくアランのそれで、あの時のあたたかさすら含んでいる。
当たり前だ。中にいるのはアランなのだから。
それでも――
この憎い女の顔が、自分の手を引いて歩いているという事実が、耐え難いほどの生理的な反発を呼び起こす。
胸から喉元へと、爆ぜるように嫌悪感がこみ上げ、今にも手を振り払ってしまいそうになる。
だが――離せない。
一度でもこの手を離せば、また幻にのまれ、二度と現実へ戻れなくなる気がしてならなかった。
だから、堪える。
爪の先で皮膚を押しつけるほど、強く指を絡めている。
その内側で、湧き立つ嫌悪と闘う。
荒い息が、寒気を帯びて吐き出され、森の湿り気の中へ溶ける。
足元の腐葉土からは、染み付いた魔力の匂いが立ち上り、頭の奥を揺らす。
――これがアランなのだ。
姿がどう見えても、これはあの人なのだ。
幾度も言い聞かせ、脳裏でその名を呼び続ける。
そうしなければ、この闇はきっと、自分の心を裂いてしまうだろう。
足音が二つ、深い森へと吸い込まれていく。
握られた手の温もりだけが、現実と幻の境界に残された、最後の灯だった。
森は、相変わらず深く重たい闇に沈んでいた。
湿った土と腐葉の匂いが鼻腔を満たし、頭の奥をじわじわと鈍らせる。
歩みは一定のリズムを保っていたが、その度に膝の奥や肩の筋に疲労が溜まり、呼吸にも冷気が入り込んできていた。
「……この辺で、休憩しませんか?」
隣から聞こえた声は柔らかく、息を整える間をくれるような響きだった。
だがその声の主――目の前にいるのは、アリス・ブラックの顔をした女だった。
本当は、アランであると分かっている。
それを意識していなければ、今この場で激しい衝動に飲まれてしまいそうだった。
本心では、止まるよりも一刻も早くこの森を抜けたい。
歩き続け、闇の瘴気から離れることを優先したかった。
けれど、「これはアランだ」という意識が、なんとか足を止める衝動を抑え込んでいた。
できるだけ視線を合わせないよう、レギュラスは顔を逸らした。
アリスの顔――それは、彼にとってあまりにも強い拒絶を呼び起こす。
その女は、すべての不幸の象徴だった。
諸悪の根源そのものであり、思い出すだけで胃の奥が悪寒を帯びる。
頭の片隅では、ありえない思考さえよぎる。
――あの時、あの沼に沈めておけばよかった。
むしろ、沈められたなら、どれほど楽だったか……と。
意味をなさないはずの想像なのに、それを真剣に巡らせてしまうほど、この顔は自分にとって毒だった。
「レギュラス……寒いでしょう?」
その女――いや、アランが、マントを取り出して肩にかけようと近づいてくる。
けれど、伸ばされたその手も、視界に映るその表情も、どうしても「アリス」の顔だった。
芽吹くような優しさの裏に、無意識が冷たい拒絶を叩きつける。
レギュラスの足は、咄嗟に後ろへと下がっていた。
ほんの半歩、しかしその距離は、顔を視界から遠ざけるための必死の拒否だった。
自分の中で、確かにこれはアランだとわかっていても――
今は、その形をした「憎しみ」の化身を、正面から受け止めることができなかった。
呼吸だけが、湿った空気に溶けていく。
足元では、いつの間にか落ち葉が風もないのにわずかに揺れていた。
森は、彼の心の奥のざわめきを、静かに嗤うかのように見守っていた。
森の闇は、時間の感覚を奪うほど深く、重かった。
その静けさは耳を塞ぐようで、湿った空気が肺の奥にまで入り込み、体の芯をじわじわと冷やしていく。
アランは、背中に疲労と冷気をまとったまま膝を抱え、低く俯いた。
「……少し休みたい」
声に出したが、それは自分への言い訳のようでもあった。
本当は――少しどころではなかった。
このまま瞼を閉じて、すべての重さから逃れたかった。
ただ眠ってしまえば、この恐ろしい森も、幻覚も、後悔も、遠い夢の底で薄れてくれるのではないかと思えた。
けれど、その誘惑に身を預ければ――もう二度と目覚めないような気がした。
深淵の淀みが、そっとその命を包み取ってしまうような、そんな静かな死の予兆があった。
だからこそ、どうにか目を開けていたかった。
瞼の裏がじんわり温かく、重たく沈んでいくのに抗いながら。
膝を抱えたまま、視界がゆっくりと狭まっていく。
森の匂いが遠ざかり、足元の湿った感触も、肩に落ちる冷気も、すべてが薄い膜の向こう側になっていく。
――もう、いいかもしれない。
意識の底にそんな呟きがよぎり、抗う力がふっと途切れた。
その瞬間、瞼は完全に閉じ、漆黒の闇が世界を覆った。
――そして。
柔らかい声なき気配が、眠りの奥で揺れた。
耳の奥に届いたのは、遥かな懐かしさを伴う呼吸音。
「……アラン」
重たい瞼をゆっくりと持ち上げたとき、視界が淡く揺れる。
そして、そこに――
黒髪を無造作に乱し、その奥の灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている男がいた。
夜のように深く、それでいて少年のままの光を宿した瞳。
――シリウス・ブラック。
その姿は夢か現か、判別がつかないほど鮮烈で、胸奥に鋭い熱を灯した。
ぼんやりと霞む視界の中、ただその名を口の中で転がし、
アランは確かに「目覚めた」のだと理解した。
けれど、その場がまだ森の中なのか、あるいはもう別の場所なのか――
それを確かめるには、あまりに心臓の鼓動が早すぎた。
そうして――アランは、まだ上手く回らない思考のまま、その姿を凝視していた。
目の前にいるのは確かにシリウス・ブラック。
あの気位の高い灰色の瞳が、まっすぐ自分を捉えている。
けれど、その眼差しには、幼い頃から知っていた反抗的な光でも、甘い嘲りでもなく――ただ、深く案じるような色だけが揺れていた。
かすかに口が動き、自分の名を呼んでいる。
声が届いたのか、あるいは届きそうで届かない距離なのかは分からない。
音よりも、その唇の動きの記憶が胸を叩いた。
「……シリウス……本当に、あなた……?」
問うつもりだったのに、声はかすれて空気に溶けた。
それでも彼は微かに笑ってうなずいた――気がした。
その瞬間、冷たい風が頬を撫で、森の湿った匂いが急に濃くなった。
シリウスの姿が揺らぎ、輪郭が流れるように滲んでいく。
夢か、幻か、あるいは森が見せる新たな罠か――境界がほどけていく。
アランはひとつ小さく息を呑み、
「行かなきゃ……」と自分に言い聞かせるように、ゆっくりと両足に力を込めた。
すぐ傍に――彼女を探す誰かの足音が近づいている。
闇に沈んだ森の奥、その静けさの中で目を覚ましたアランは、夢か幻かの境界でシリウス・ブラックの姿を見つめていた。
夜のような髪と、あふれる光を宿した瞳。
おかしなくらい時間を遡るような錯覚に息が詰まった。
「……シリウス?どうしてここにいるの?」
掠れる声で問いかければ、彼は短く微笑み、迷いのない歩調で手を差し伸べてきた。
「こっちだ、こっちに来れば抜けられる」
頼もしいその声は、かつて何度も、絶望の淵からアランを引き上げてくれた日の太陽だった――
迷いなく腕を引いてくれる手。
その感触は懐かしくて、胸の奥に決して消えない灯がふっと蘇った。
本当なら。
――もう彼を振り返ることはないと、決めていたはずだった。
レギュラスに命を賭して生かされたあの日。
この人のためだけに、これからは生きる――
そう誓った自分の決意が、今や闇に沈んだ森の奥で脆く揺れていく。
太陽を背負う人の笑顔。
熱い掌。
手を引かれるたび、幼い頃、初めてその腕を頼りに幸せを感じていた日の記憶が、静かに胸に香っていった。
「シリウス、私、レギュラスと一緒に来ているの。……彼と休憩してたの。あの人も呼んできたいわ」
必死に言葉を重ねる。
レギュラスをこの森にひとり残すことなんて、考えられなかった。
シリウスは小さく首を振った。
「大丈夫だ。アイツは、もう外にいる」
さらりと告げられたその一言に、アランの心に静かな波紋が広がった。
――そんなことが、あるだろうか。
あの森の魔力、あの幻覚。
レギュラスがひとりで抜けられたなんて、信じられなかった。
けれどシリウスは微笑み、考え込む間も惜しむように、
「ほら、急いで」と手を引いて、闇の奥へと歩み出していく。
手の中で指が絡まる。
浅い息が少しずつ明るくなって、歩みが軽くなる。
引っ張られるその手は、幼いころ、初めて恋をしたあの人の手。
手のひらの温度、足元を照らす明るさが、心の奥で懐かしさと戸惑いを同時に揺らしていく。
けれど――
胸の奥では、レギュラスの名が小さく震えていた。
太陽を追いながらも、闇に残していく人への愛しさと、覚悟と、そのすべてがひとつになって。
アランは、手を引くシリウスに寄り添いながらも、
その歩みに、昔と今とを静かに重ねていた。
――愛した日々へ戻らないと決めたはずの心が、
この夜ばかりは、ほんのわずか揺らいだのだった。
森の空気は冷たく、湿り気を帯びて肌に絡みついていた。
足元には腐葉土の匂いが立ち込め、遠くで葉擦れもないのに木々が息をしているように感じられる。
目の前で、アリス・ブラックの顔をした女が、そっと膝を折り、顔を伏せていた。
膝に両腕を巻きつけ、そのまま顔を深く埋めている。
――その顔を見なくていい。
それだけが、今の自分にとって唯一の救いだった。
できることなら、このままずっと、彼女が顔を上げずにいてくれればとさえ思う。
自分の胸奥を蝕む嫌悪が、視線を遮ることでわずかに鎮まる気がした。
泥の冷たさが腰から伝わってくる。
沼から這い上がったときに削られた体力は戻っていない。
さらに、この森が放つ歪んだ魔力への抵抗を怠れば、また一瞬で幻覚に飲み込まれる――
だから、気を張ることだけに意識を注いでいた。
だが、張り詰めた糸は座った瞬間、そのままゆるむ。
重たい睡魔が急に肩へ降りかかり、瞼の裏がじんわりと熱を帯びる。
視界に黒がにじみ、意識が水底の方へ引かれていく。
――そして、目を開けたとき。
そこに、もうアリス・ブラックの姿はなかった。
一瞬、胸の奥に冷たい安堵が走る。
「……目障りだったから、ちょうどいい」
そう思う。
だが、次の瞬間、脳裏を閃光のように駆け抜けるものがあった。
――あれは、アリスではない。
あれは、アランだ。
眠気の残滓など一気に吹き飛ぶ。
慌てて辺りを見回す。
苔むした太い幹、湿った蔓、黒々とした土。
樹々の間を探しても、どこにも彼女の姿はない。
葉擦れも足音も聞こえない。
声を上げようとして、喉が詰まる。
ただ、湿った空気を押し出すだけで音にならない。
叫びたいのに、呼ばなければいけないのに――
それでも声は出ない。
指先に冷たい汗が滲む。
胸の奥がきつく締めつけられ、森のざわめきだけがやけに大きく響いていた。
まるで、森そのものが彼女をどこかに呑み込んだことを告げているかのように。
光の痕跡は、どこにもなかった。
アランの名を喉の奥で必死に呼ぼうとしても、声はやはり出なかった。
呼吸だけが荒く音を立て、胸の奥が押しつぶされるように苦しくなる。
――いない。
どこを探しても、いない。
焦燥が、少しずつ胸の内を蝕んでいく。
苛立ちが、それと同じ速さで血管を駆け上がる。
足を踏み出すごとに、地面のぬかるみに取られ、勢いをつけすぎた拍子に膝が崩れそうになる。
森は暗すぎた。
上を見上げれば、枝と障気が絡み合い、夜空どころか影すらも見せない。
ただ、永遠の闇が天から地までを繋ぎ、そこに自分を押し込めている。
杖を高く掲げ、囁くように灯りの呪文を唱える――が、
生まれた光は、まるで濃い霧に触れた小さな火花のように、一瞬でかき消される。
闇の中へ散るその儚さに、心まで削られる。
もう一度強く振るい、火炎を上げようとする。
だが、燃え上がった赤は薄く、次第に息を絞められる蝋燭のようにしぼみ、最後には煙にもならず闇に呑まれて消えた。
――やはり、ここでは魔法が正しく作動しない。
光も炎も、この森の意思に抗えるほど強くは響かない。
全てを歪ませ、奪い、ねじ曲げ、虚無に還すこの深淵の中で、
たったひとつの灯火——アランの姿——さえも、無惨に飲み込み隠してしまう。
闇は深く、そして密やかに残酷だった。
それを切り裂く術もなく、ただその中を、必死に、もがくしかなかった。
森の闇を抜けるように、シリウスの手が前へと導いていく。
力強く、ためらいのない歩調――けれど、その速度はアランには少し早すぎた。
土を踏む感触が重く、腰から下に疲労が溜まっていく。
「シリウス……どこまで歩くの?」
息を整えながら問いかければ、振り返らずに低い声が返る。
「もうちょっとだ、アラン」
その響きは懐かしいのに、何かが違った。
かつての彼なら、もっと歩幅を合わせてくれた。
並んで歩き、振り返り、疲れていないかと気遣ってくれたはずだ。
しかし今の彼は、ただ腕を引き、前だけを見て進んでいく。
わずかな違和感が、胸の奥にじくじくと広がっていく。
この背中は、本当にシリウスなのだろうか――そんな考えが、心の隙間に忍び込む。
「……着いたぞ」
足を止めた彼がそう言った瞬間、視界がひらけた。
息を呑む――木々が切れ、森の天蓋が途切れている。
湿った空気が急に軽くなり、開けた風の匂いが頬をかすめた。
だが、次に目に飛び込んできたのは、深い谷間を見下ろす崖だった。
足元からざらりと小石が落ち、音もなく闇の底へ消えていく。
その異様な高さに、思わず足がすくむ。
――ここが出口だと、彼は言ったのか。
信じてついて来た。
空気が広がる感覚に、希望を重ねてしまった。
なのに――目の前に広がるのは、地の果てではなく、森の果てと崖の断絶だった。
背中に冷たいものがつうっと走り落ちる。
思考が一瞬で硬直し、呼吸が浅くなる。
これは出口ではない。
それでも、彼は迷いなくここへ導いてきた。
その「迷いのなさ」こそが、底知れぬ違和感となって、アランの胸を締めつけていた。
崖の縁に立つシリウスの横顔を見つめながら、
心の奥で小さな警鐘が、静かに、確かに鳴っていた。
崖の縁に立つと、夜風が頬を撫でていく。
月明かりは薄く、足元の大地がどこまで続いているのかもわからないほど、深い闇が広がっていた。
隣には、変わらぬ太陽のような笑みを湛えるシリウス・ブラック。
それが本物か幻か、アランはもう見分ける自信を失いかけていた。
けれど、彼の眼差しだけは、どこまでも昔のまま、優しくて、力強かった。
「シリウス……」
声は震え、身体の奥底に残った不安が、言葉を濁す。
どうして?
なぜこんな崖に立たされているの。
――問いは空気の中に吸われていく。
シリウスはまっすぐアランを見つめて言った。
「俺を信じろ。ここを抜ければ、元に戻れる。」
その一言は、どこまでも慈しみに満ちていて、“いつも通り”だった。
アランは揺れる瞳で、その崖の下を見つめる。
「この……崖を? 降りるの?」
足元には、闇しかない。
冷たい地の底まで響くような静けさ。
正体もない風が、髪をばらばらと舞わせる。
あまりにも残酷だった。
この夜に、ここから身を投じよと告げられること――
“それを信じろ”と突きつけられること。
どこまで落ちるのかも、奈落の底に何があるのかも知れない。
それでも、答えはどこにも見当たらなかった。
――けれど。
シリウスが、自分に死をもたらそうとするとは、どうしても思えなかった。
かつて、陽だまりのような温もりで寄り添い続けてくれた人。
闇に手を伸ばし続けた日々、失われそうになるたび抱きしめてくれた人。
傷だらけの心ごと、まるで世界を赦してくれるような笑顔で、何度も導いてくれた人。
その彼が、今、アランを奈落へ沈めようとしているなどとは――
どれほど思考が巡っても、どうしても受け入れられなかった。
信じていいのだろうか。
信じた先に、本当に未来はあるのだろうか。
胸の奥が、言葉にならない叫びで満たされていく。
疑い、不安、恐怖。そして、どうしようもなく残る希望。
それでも、
信じたい気持ちが、確かに、心の奥に灯っていた。
息が浅くなっていく中、アランは静かに目を伏せる。
シリウスの手の温もりを感じながら、
この迷いの森の夜が、まだ自分に微かな勇気を残していることを確かめる。
崖の淵。
一歩踏み出すべきか、踏みとどまるべきか――
すべてを委ねられない空虚の中、それでも誰かを信じる手のぬくもりだけが、
彼女の身体をそっと支えていた。
月が雲間からこぼれ、闇の谷底へ儚い光を落とした。
そのとき、アランの瞳には、太陽よりも少しだけ淡い、見失っていない希望が静かに映っていた。
闇が深く、谷底は月明かりすら拒むように沈黙していた。
崖の縁から吹き上がる風が、アランの頬を撫で、長い髪を揺らす。
隣には――シリウス・ブラック。
かつて愛し、今もなお心の奥で大切に思い続けている人。
その横顔が視界の端にあるだけで、胸が詰まる。
「……シリウス……信じて……いいわよね……」
掠れた声は震え、不安の影が消えなかった。
それでも、疑いたくなかった。
この手の温もりを、裏切りの刃に変えたくなかった。
だが、もし、この先が全ての終わりだとしたら――。
そのときは、どうしても遺したいものがあった。
レギュラスに
この命を奪われかけたあの日、必死に掬い上げてくれた彼に。
自分の愚かさで、また無駄にしてしまったことを詫びたい。
それでも――ありがとう、と伝えたい。
あなたがいてくれたから、私は生きてこられた。
あなたがいてくれたから、子供たちの成長を見届けられた。
アルタイルも、セレナも。
もう母として思い残すことは何もない。
アルタイルは父の背を迷いなく追いかけ、セレナは強く、凛と咲く花となった。
あまりにも誇らしく、あまりにも愛おしい、私の子供たち。
そして――隣に立つ、シリウス・ブラック。
私の人生に華を添えてくれた人。
心に自由という翼を授け、希望という太陽を灯してくれた人。
愛していた。
心の底から、変わらず愛している。
たとえ今、その導きが闇の底へ続く道だったとしても、
この胸の奥の情は消せない。
アランは、怖れが勝って足をすくませぬよう、ゆっくりと目を閉じた。
見えない闇を否定するように、ただ掌の温もりだけを感じる。
すべての記憶が、最後の祈りと共に胸へと結晶していく。
風の音が強く耳をかすめ、遠くのどこかで、木々が低く鳴いた。
その音が合図のように、彼女は――静かに身を委ねようとしていた。
森の闇は、息を呑むほど濃かった。
それでも、レギュラスの手には一本の杖が握られている――アランの杖だ。
この森の魔力は、あらゆる呪文を歪め、術者の意志をねじ曲げる。
だが、杖の忠誠心だけは揺らがなかった。
持ち主を探し出す力は、深い呪いに汚されたこの森でも確かに生きている。
レギュラスは、その導きにすべてを懸けた。
杖先が空気を震わせ、かすかな方向を示す。
闇を裂くように、息をひそめて一歩また一歩と進んでいく。
間に合え――
ただその思いだけを胸に。
やがて、木々が途切れ、無数の影が左右に退いていく。
視界が大きく開けた。
黒い夜気の中――その向こうに、アランの姿があった。
それは幻ではなかった。
アリス・ブラックの顔ではなく、確かに、自分が知るアランの顔。
この目がはっきりと彼女を“アランだ”と捉えた瞬間、
ずっと喉奥にはりついて声を奪っていた石のような何かが、ぽろりと音もなく剥がれ落ちた。
「……アラン!」
自由になった喉が震え、名前が迸った。
それはほとんど祈りのような、必死で掬い上げる叫びだった。
けれど――彼女は、崖の縁にいた。
漆黒の奈落を前に、一人で手を伸ばしている。
誰かに導かれるように、あるいは引き寄せられるように、その手は空を探っていた。
そして、重心は――闇の底へ。
全身が粟立つ。
血の気が引くその光景は、あまりにも異様で、今にも現実が断ち切れそうだった。
レギュラスは無意識に杖を突き出していた。
空気が震える。
足元を固定し、彼女を手元へ引き寄せる呪文――
それを全力で放った。
だが、放たれたはずの魔法は、森の歪みに絡め取られた。
ざわりと空気が反転し、光はねじれた形へと変質し、別の方向へ逸れていく。
意志と力の間に、見えない手が割り込み、魔力を別の呪文にすり替えてしまう。
届かない。
掴もうとして伸ばした想いは、濁った闇に溶け、形を変えて消えていく。
レギュラスの心臓は、鎖で締めつけられるように痛んだ。
目の前には、いまにも闇に吸い込まれそうなアラン。
その足元の土が、わずかに――崩れ始めていた。
