4章
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書斎の灯りのもと、アランは資料の束に囲まれていた。
ウェストモアランドの死の森に関する文書は古びており、文字は淡く掠れ、かすかに魔力の気配が漂っている。
彼女は白い指でページをめくりながら、深く熟読していた。
そこにはこう記されていた。
この森一帯は魔力の奔流に満ちており、特に魔力の強い者は影響を受けやすい。
魔力が強い者ほど、自然と力が増幅され、やがてはその森の魔力に取り込まれ、浸食される運命にあるという。
また、「惑わされぬもの」だけがこの森を生きて抜けられるとも記されているが、その意味は曖昧で、何が惑わされぬものなのかは記されていなかった。
情報は断片的で、読み進めても正確な対処法は分からない。
焦る気持ちは募るばかりだったが、最低限できる準備として、彼女はあらゆる有効とされる魔法薬を持参することを決めた。
取り急ぎ、入手可能な限りの魔法薬を収集し、薬箱に詰め込む。
常備薬から特別な護符、精神を保つ薬まで、ありとあらゆる手段を尽くすつもりであった。
アランの瞳は静かに鋭く光り、不確かな情報のなかでも、必ずこの試練に打ち勝つ覚悟が伝わってきた。
彼女の決意は、愛する者を守るため、恐怖を上回っていた。
森の空気は、まるで地の底から立ち昇る霧のようだった。
ひと息ごとに、胸の奥へじわじわと沈んでくるような、重苦しく濁った気配。
どこからともなく耳鳴りのような音がして――けれど、それが風の音なのか、森の囁きなのか、もう分からなかった。
先ほどまでの姿くらましの感覚が、まだわずかに残る足元。
けれど、ここから先は魔力の流れが大きく歪んでいて、転移は通じなかった。
魔力の強い者ほど、その流れに干渉される。
“自分の魔力に自分が喰われる”場所。
それが、この死の森だった。
「……行きましょう」
アランが、ためらわずにそう言った。
その声には震えがなかった。
まるで日々の散歩の途中で、まだ道が続いているから進むだけ――そんな静けさがあった。
「……ええ」
レギュラスは短く答え、そっとアランの手を取った。
落ちついた手だった。温もりが、確かにそこにあった。
森の入り口。
漆黒の枝々がうねるように空を絡め取り、地には名も知れぬ草葉がじわりと魔力を吐いている。
何かの気配があるようで、何もいない。
けれど、確かに“揺れて”いる。
空間が、生きているようだった。
一歩、足を踏み出す。
その瞬間、全身がぎり、と圧し潰されるような感覚に襲われた。
空気が少し重くなるのではない。
内側、骨のきしみと、魔力の波がぶつかる重圧がじわりと来る。
レギュラスは、アランの指をぎゅっと握る。
「……大丈夫です」
アランの言葉が並ぶ。その声に、風の雑音が絡みそうになる。
でも、不思議とそれが灯のように静かに響いた。
歩くごとに周囲の木々が視界の奥でうごめき、
ひとつ進むごとに、心のどこかが引っ張られる。
「戻るな」「振り返るな」「考えすぎるな」――
長く戦場で自らに課してきた言葉たちが、今日ほど頼りなく感じたことはない。
だけど、自分はひとりではなかった。
今、その手がある。
この手に触れている限り、自分は“惑わされぬもの”でいられる。
自分の魔力に、引きずり込まれる前に。
深く息を吸う。
腐葉土のにおいと、なにか古い血のような匂いがまじる空気。
けれどそれごと、踏み越えるしかなかった。
二人の足音は、森の中に吸い込まれるようにして、
まだ見えぬ『沼』の気配を目指して、静かに沈んでゆく。
そして――闇の中で、たしかに寄り添いつづけていた。
死の森の空気は、肌にしっとり纏わりつくような湿り気と、目に見えぬ圧力を帯びていた。
森は生きていた。
歩くごとに、あちこちから枝がふるえ、幹が押し黙った息を漏らすように軋んだ。
けれど、彼――レギュラス・ブラックの足取りは、どこまでも軽かった。
いや――軽すぎた。
アランは、気づいたのだった。
いつの間にか、手が離れていた。
先ほどまでは確かに、やわらかな体温が掌にあった。
互いを保つように手を引かれて、重ねられて、森の内側でもつながっていられたのに――
今は、その手がない。
前を行くレギュラスは、一歩、また一歩と進むごとに――まるで何かを振り切るように、急ぎ足になってゆく。
迷いのない足取り。だが、それは静けさではなく 焦燥 だった。
アランの目に映る後ろ姿は、あまりにも違和感に満ちていた。
背筋は過剰なまでに伸び、首筋から肩へかけて、何かに食いしばるような緊張が絶えず張り付いている。
どこかで苛立っている。
どこかに怯えている。
どこかに――追い詰められている。
それが何なのか、アランには分からなかった。
けれど確実に、「何か」が彼を狂わせようとしているのが分かった。
「……レギュラス」
そっと名前を呼ぶ。
けれど彼の足は止まらない。
「レギュラス……!」
もう一度。
もっと強く呼ぶ。
けれど、その声は届かない。
何度呼んでも、レギュラスはアランの方を見なかった。
耳が聞こえていないかのように。
呼ばれている事実すら認識できていないかのように。
まるで今この場所に、アランなど存在していないかのように。
アランは、ほんの瞬きの間に、猛烈な孤独に飲み込まれた。
この森に入るとき、支えあうと言った。
一人ではないと信じていた。
けれど、今――
前を行く背中は、まるで自分ではない“何か”に憑かれているような気配さえあった。
あれは――本当に、レギュラスなのか。
足が止まりかける。
怖かった。
何に苛立っているの?
何が、あなたを追い詰めているの?
何から逃げようとしているの……?
そう問いかけたくて叫びたくて、それでも声にならなかった。
アランの一歩ごとに、森は深くなる。
足元の土までが、何かを這わせるように「ふたりの間」を裂いてゆく。
けれど、脳裏によぎる。
文献に記されていた言葉。
――“惑わされぬものが、生きて戻れる”。
これはきっとその始まりなのだ。
“何かに取り込まれる”ということの、兆しなのだ。
そう直感したとき、アランは一つ、深く息を吸った。
静かな決意が胸に灯る。
彼を失わないために、進まねばならない。
置いていかれたくないだけではない。
――彼を、連れ戻すために、進むのだ。
名前を呼ぶ声に応えられないレギュラスが、
自分を忘れることなど、決してあるはずがないのだから。
そして、その祈りのような想いを、彼女はもう一度、震えなく握りしめた。
森の奥へ進むごとに、木々はより密に絡み合い、空はとうに見えなくなっていた。
ぬかるんだ地面が足元を掴み、風もないのに枝がざわめく——まるで森そのものに試されているかのようだった。
アランの息はすでに浅く、喉の奥で熱を帯びていた。
身体は軽く震えていて、それが寒さなのか息切れなのか、もはや自分でも分からない。
それでも足を動かし続ける。
前を行く、あの背中を見失わないために。
けれどその背はひどく遠かった。まるで、手の届かない、別の世界にいるように。
「……レ、ギュラス……」
呼びかける声が、乾いた空気に溶けていく。何の反応も返ってこない。
「レギュラス………!」
声を強めても、レギュラスはぴくりともせず、ただ前を、前をと進み続ける。
その足取りは早く、確信すら帯びていて、アランを振り返る気配は一切なかった。
息が詰まりそうだった。
心臓が胸の奥で警鐘のように高鳴る。
なぜ?
どうして、手を離していったの?
なぜ、こちらを見てくれないの?
ひたすらに問いが浮かぶ。でも、答えはどこにもない。
一歩、また一歩。
足元の土がぬかるみ、転びそうになる。呼吸も整わず、喉が裂けるように熱い。
それでも、進んだ。
けれど、どうしても溢れてしまう。
「……お願い……レギュラス……!」
その叫びに、森はなにも応えなかった。
涙がにじむのを感じた。
呼吸の乱れも、体の痛みも、もう震える声も――全部、どうでもよかった。
ただ、その背中に触れられないことが、
何より苦しくて、切なくて、悲しかった。
レギュラスの背中はあまりにも遠く、冷たく感じられた。
これまで、一度だって感じたことのない〈拒絶〉のようなものが、あの姿から漂っていた。
彼はいつだって、困難のときほどそばにいてくれた。
決してアランを置き去りにしない人だった。
何かを隠しても、決して「目を逸らしたまま」ではなかった。
……それなのに。
なぜ今回に限って、迷わずに置いていくの?
まるで、“孤独の中”に自分を閉じ込めるように。
アランは、はじめて――「見送る側の孤独」というものを実感していた。
力尽きそうな足をぎり、と踏みしめる。
森の根に爪先をとられても、手は岩をつかみ、衣を汚しても、追うしかなかった。
涙を堪える理由は、ただひとつ。
今、彼が自分自身では自分を止められないなら。自分が止めなければいけない。
そう思った。
苛立ち、焦燥、恐怖。
それらに突き動かされて進もうとする彼の背を、
自分だけは知っているはずだった。
だから、とめられるはずだと、信じていた。
この道の先がどれほど深く、暗いとしても。
——その背中には、まだ触れられると信じたかった。
そうでなければ、すべてが、崩れてしまうから。
死の森の空気はますます深く沈み、木々が耳に届かぬ呼吸をひそめながら、地の奥底から音なき圧力を立ち上らせていた。
喘ぐような空気の中、アランは杖を震える手でローブの内から抜き取った。
ほんの一瞬――ほんの少しでいい。
彼の足元に軽い足留めの呪文をかけるだけ。
その勢いを緩めたい。それだけでいい。
走り去っていくように思える背中を、せめて“一度だけ”立ち止まらせたかった。
「レギュラス……」
言葉にならぬ想いを込めて、杖先にわずかな魔力を集めた。
けれど――そのときだった。
風が切り裂かれる音と同時に、目の前のレギュラスが突然振り返った。
「Expelliarmus(エクスペリアームス)」
瞬間、鋭い閃光が森の空気を切り裂き、アランの手から杖が音もなく離れた。
まるで宙に吸い込まれるように飛んだそれは、
次の瞬間にはレギュラスの掌の中に、吸い寄せられていた。
轟く衝撃ではなかった。
静かだった。
けれど、だからこそ――あまりに痛かった。
アランの指は空を握ったまま、動けなかった。
そしてその視線の先で立ち尽くす男を見る。
レギュラス・ブラック。
彼の眼差しに、明らかに――敵意が宿っていた。
それは無意識ではなかった。
咄嗟の反応ではない。
一時の迷いでもなく、正確に「的」としてアランの動きを封じにきた確信だった。
言葉が出なかった。
ようやく絞り出せた声は、ささやきにも満たなかった。
「……レギュラス……?」
呼びかけは、自分でも信じられないほど弱かった。
答えてほしかった。
いつものように静かに目を伏せて、優しく手を伸ばしてほしかった。
けれど、目の前の彼は――違っていた。
眉は静かに寄せられ、
唇は歯を隠しながらも、わずかに緊張で引き結ばれている。
何かに脅かされるように、追い立てられるように、
そしてそれを「誰にも邪魔させてはならない」と思い込む者の、張り詰めた剣の顔だった。
それでも、どうして。
どうして――私に向かって。
私があなたを留めることが、
それほどまでに、許されないことだったの…?
力ではなく、愛でつながってきたはずの年月。
その深くにあったはずの信頼が、
掌ひとつで切り落とされるような感覚。
森の闇は変わらず辺りを包んでいた。
けれど、アランの胸の内に沈み込んだ影の方が、
ただの魔力よりも、ずっと深く抗いがたいもののように思えた。
杖を奪われた手は、まだ宙に彷い。
届かぬ温もりを求めるように震えている。
そして、どちらからも何も言葉が出ないまま、
ただ、息の合わない沈黙だけがふたりを分かち続けていた。
森は静かに喘いでいた。
枝葉の揺れる音さえ、まるで耳元に囁くような低さで、不穏な音の粒となって漂う。
濃密な魔力がこの地一帯に沈んでいて――それが、地に、空に、そして“人の心”に染み込もうとしていた。
アランは、ひとり――立ち尽くしていた。
両手の指先がかすかに震える。
心臓が一定の速さで打っているはずなのに、どうしてか胸の中心が凍えるように冷たかった。
レギュラスが“振り返り”、自分に敵意を向けたあの瞬間。
鋭く、正確で、一切の逡巡を許さぬ動きだった。
――それは戦場でしか見たことのない彼の顔だった。
アランが知る、愛しい夫であるはずの顔には、自分の影ひとつ映っていなかった。
彼はきっと――何かを見ている。
それは、森に踏み入れた瞬間から始まっていたのだと、ようやく思い至る。
手を引いてくれていたはずの人が、ふと、何かに急かされるようにその手を離したあのときから。
名前を呼んだ声も、届かなかった。
「惑わされぬ者だけが…生きてこの森を出られる」
——あの文献の一節が、アランの中に静かに蘇る。
引っかかり続けていたその言葉に、今、ようやく手触りが伴い始めていた。
惑わされている――レギュラスが。
そしてもうひとつ。
思考の奥から、肌に刻まれたような記述がよみがえる。
魔力の強いものほど、この森では“呑まれる可能性が高い”。
アランの心に、静かに冷たい確信が生まれた。
レギュラスは――魔法界でも群を抜いた才能を持つ魔法使い。
その力ゆえに、人より深く、人より強く、瘴気や幻に“干渉されてしまう”可能性が高いということ。
そうだ、だから――彼の方こそが、この森に呑まれているのだ。
自分には、まだ正気がある。
けれど、その彼に杖を奪われた今――自分にはもう、何もできない。
名前を呼んでも、届かない。
情を説いても、届かない。
愛を語っても、その瞳に自分はいないのだから。
それは、終わりを予感させるほどの絶望だった。
それでも。
それでも、アランは少しずつ、自分の心に言い聞かせ始めた。
――これは、置いていかれたのではない。
これは、忘れられたのではない。
これは、彼が“見えない何か”に奪われているということ。
「だったら……まだ、間に合うはず……」
震えた心の奥で、思った。
愛が届かないのなら、言葉では足りないのだ。
まだ、何かあるはず。
何か、彼を取り戻すための、方法が。
たとえ杖がなくても、
たとえ魔法が使えなくても。
“自分だけは、惑わされない”と信じ続けることで、
彼の光を引き戻すことができるかもしれない。
それはあまりに頼りなく、幼い希望だった。
でも――希望は、最後の呪文だ。
アランは息を吸い、森の奥で遠ざかる背に向かって、また一歩を踏み出した。
小さくても、歩みだけは止めずに。
いつかきっと、あの眼差しがまた、自分を見つけてくれると信じながら。
森の空気は、なおも静かに揺れていた。
けれどその沈黙は、命のない冷たさではなかった。
――生きている。
この森が、何かを試すように、ひたすら息を潜めて二人を見つめている。
アランの声が震えた喉の奥から、吐息のように零れた。
「……杖は、あなたの手の中にあるわ」
湿った風が、言葉をさらって枝葉の裂け間へと消えていく。
レギュラスの背にはまだ、一切の返答も気配もない。
わずかにきつく握られた手の中に、アランの杖が収まっている。
「私には、もう……なにもない」
「――何もしないわ」
アランは、静かに両手を上げた。
まるで、戦場で敵意のないことを証明するように。
手のひらをひらき、武器も、意志すらも隠していないことを、ただひたむきに示す。
その姿には、恐怖もあった。
無防備さは、同時に命をさらすことでもある。
けれど――それでも、今はこの人に向けて――
自分は“敵ではない”のだと伝えなければならなかったのだ。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、一瞬、アランを見るように瞳を伏せたかと思えば――
そのまま、くるりと背を向けた。
そして、ふたたび歩き始めた。
幾分、先ほどよりもゆっくりと。
けれど確かに、彼はもうアランには注意を払っていなかった。
見透かした、あるいは――「もう無害」と判断されたのだろう。
背中はどこまでも冷たくて、遠い。
けれどその冷たさは、もはや攻撃の刃ではなかった。
肩の力が、すうっと抜けた。
「……よかった……」
アランの唇から、吐息のようにつぶやきが漏れた。
力が抜けて、膝が崩れてしまいそうになる。
本当に、ほんの一歩の差で生き延びたのだ。
今の彼なら、十分に殺せた。
迷いもない。ためらいもなかった。
一度向けられた敵意は、きっと次は躊躇なく命を奪う一撃に変わっていた。
でも、それでも。
“無力だ”と示すことで、命だけは奪われなかった。
それは、恐ろしいまでの正しさだった。
命を奪わせないために、自分は自分のすべてを――いったん、差し出さなければならなかったのだと。
それでも、アランは踏み出した。
ゆっくりと、肩に息をのせながら。
今は、ただその背を見失わぬように添い続けるしかない。
自分がまだ“彼に何もできていない”のだとしても――
それでも、あの眼差しの奥にかつてあった「レギュラス」の光は、きっとまだ……どこかに、残っているはずだから。
足元で朽ち葉が小さく鳴いた。
それだけが、風の代わりに彼女の健気な一歩を見守っていた。
死の森の奥深く、重く沈む霧の中で、レギュラス・ブラックは唐突に立ち止まった。
湿った土に根を張るように、微動だにせず、まるで風景の一部になったかのようだった。
足を止めたその姿は、どこか虚ろで、目の焦点は遠くを見ているような、それでいて身体は張り詰めていた。
アランは、息を殺すようにしてすぐ後ろまで近づいた。
ようやく、ようやく声音が届いたのかと――
あれだけ呼んでも何も返らなかった夫が立ち止まっていることに、希望が微かに芽吹いた。
「……レギュラス……?」
そっと名前を呼ぶ。
けれど、返答はなかった。
振り向かない。ただ佇んでいるだけ。
その沈黙の中に慣れつつあるとはいえ、それでもなお、胸の奥が静かに傷つく。
彼の右手には、杖が2本あった。
1本は自らのもの、そしてもう1本は奪われたままだったアランの杖。
細く、白に近い木肌が、れき然とレギュラスの手の中に握られていた。
アランは慎重に、そっと――まるで凍てつく動物に近づくように――前へ足を踏み出した。
動かないなら、いまが唯一の機会かもしれない。
攻撃するつもりなどなかった。ただ、自分の杖を手に戻したい、それだけ。
だって、私は――
あなたに害を為したいわけじゃない。
ほんの指先を伸ばす。
レギュラスの手に揺れる、自分の杖の柄に、皮膚が触れた――その瞬間だった。
風を裂く音もなく、アランの身体は突然、地面に叩きつけられた。
受け身を取る間もない。
背中が弾けるように冷たい泥にたたきつけられ、空気が一気に肺を抜けた。
視界が揺れる。
世界が歪む。
呼吸がすっと通らずに、一瞬視界が白く霞んだ。
何が起きたのか、わからなかった。
そして数秒遅れて、じわり、と痛みが浮かび上がる。
「……あ……っ」
太もも。
その場所から、湿ったぬるりとした感触が広がっている。
痛んでいる。けれど、ただの打撲ではなかった。
怖さに手を伸ばして触れたとき、ぬるりと濡れた指に張りついたのは、血だった。
見下ろすと、細く鋭い儀式用のナイフらしきものが、太ももの外側に深く突き立ったままだった。
ぐら、と視界が揺れた。
残響のように、遅れて痛みが広がっていく。
肌の奥で神経がざわつく。
骨に届くような冷たい痛みが、脈を打っていた。
息が漏れた。呻き声が、喉からにじみ出た。
「う……ぐ……っ……!」
地面に顔を伏せながら、片目をどうにか開けると、そこには――
こちらを見下ろすレギュラスの瞳があった。
けれど、それはもうアランの知る彼の目ではなかった。
光が消えている。
洗練も、確信も、怒りすらもない。
ただ、空虚で冷たい、底なしの中立の中に漂う“何者か”の目だった。
声も発さなかった。
ただ、「近づくな」、「敵だと見なす」――
その沈黙だけが、確かに敵意を語っていた。
アランは、地を掴みながら、折れるようにして呼吸を繰り返した。
傷の痛みに、心の痛みが被さる。
まるで、あの人自身に突き刺されたような衝撃だった。
私を傷つけようなどと、思ったことはなかったはずなのに。
こんなふうに刺される日が来るなんて――夢にも、思わなかったのに。
けれど、それでも。
アランは、涙を零さなかった。
視界が滲んでも、心が軋んでも、
彼が“帰ってこられる場所”であることだけは、手放したくなかった。
死の森の中で、手も魔法も奪われ、血を流しながら、
それでもひとつ確かな想いを胸に残していた。
――まだ終わりではない。
これが、終わりであってはならない。
夜を飲み込んだような森の奥、空気はなお重く、湿った腐葉土の匂いが呼吸のたび胸を圧した。
アランは血に滲む視界の中、震える手でローブの内を探った。その奥には、ずっと肌身離さず持ち歩いていた小さな巾着――拡張魔法がかけられた、非常時の薬包。
指先がそれを掴んだとき、安堵に肩が震えた。これさえあれば応急の止血ができる。
懐から、巾着の紐を必死に解き、一包みの薬を取り出そうとした、その――瞬間だった。
ぐしゃり
鋭く、容赦のない重みが――手の甲に落ちた。
目の前に立つ男の足が、無慈悲にその手を地面に踏みつけたのだ。
乾ききっていない土に手のひらがめり込み、爪の間に泥が沈み込むような感触。
骨がきしむほど押し込まれる痛みに、思わず息が詰まり、そして――
「……ああっ……!」
低く、喉の奥から悲鳴にも似た声が漏れた。
その痛み以上に、心の奥を引き裂くように突き刺さったのは――
この足を向けてきたのが、愛するはずの男だという現実だった。
見上げた先にいたのは、確かにレギュラス・ブラックの姿をした誰か。
けれど――その瞳に、自分はもう映っていない。
その動きに、ためらいも迷いも宿っていない。
攻撃という意図をすら意識していないのに、自動人形のように、アランという存在を「排除」しようとしていた。
これはもう、「彼」ではない。
レギュラスという形を借りた、何か別の魔力の影が、
いま、彼の中から前面に溢れ出している。
直感だった。でも確信だった。
「……あなたではない……」
かすれた息の中、アランはそう呟いた。
呻きとともに。
「あなたじゃない……こんなこと……するはずない……」
けれど足は退かぬまま。
杖を2本握った右手はすこしも震えず、ただ、息をしているかどうかも怪しいほど静かだった。
じゃあ、どうすれば戻れるの――?
アランの思考が、のたうつ痛みと恐怖のなかで必死に巡る。
杖はまだ奪われたまま。
痛みで意識が揺らぎながらも、唯一残されていたのは理解しようとする力だった。
「……魔力の強い者ほど、影響を受けやすい」
あの文献の一節が、胸を焼くように浮かび上がる。
レギュラスの魔力――それは、確かに天賦の才。
けれど今や、その力が自らの意志を飲み込み、
森の瘴気と混ざり合って、“狂い”を生んでいるのではないか。
惑い。
恐れ。
孤独。
それらが複雑に絡み、形となって、レギュラスの中を塗り替えているのだ。
ならば――!
アランの胸に、ひとつの答えが灯りかけた。
押し付けるような「言葉」でも、
振り回すような「力」でも、彼は戻らない。
それを超える記憶――“真実”を見せなければ届かないのだ。
この人が、何を信じていたか。誰と、どんな日々を生きてきたか。
その「記憶」を――この森の幻よりも強く、彼の“確かな輪郭”として呼び起こさねば。
そうでなければ、彼は森の中で本当に失われてしまう。
もう一度、会いたい。
本当のあなたに。
私の手を取ってくれた、あなたに。
アランの目に、静かに涙が溜まった。
それでも声を失わないように、焼けつくような痛みのなかで、必死に言葉を探し始めていた。
森に足を踏み入れたのは、正確な記憶では夕刻だったはずだ。だが、木々の影と漂う魔力の膜が空の色を飲み込み、時刻の輪郭さえ曖昧にしていった。
レギュラスは静かにアランの手を引いていた。
確かに、手のひらに感じていたぬくもり。
過去幾度も、その手と共に道を歩んできた――戦場も、宮殿も、何もない日々も。
けれど、ふと振り返ったその瞬間――
そこにいたのは、アリス・ブラックだった。
白い肌、浅い眉の影、感情の深さを隠す瞳――
名も顔も、決して忘れるはずなどない、汚れた血の娘。
魔法族の名を持ちながら、同胞ではない者。
アランが命がけで庇い、逃がした“忌まわしき女”。
彼女が、笑いもせず、何も言わず、ただ自分の手を――握っていた。
レギュラスの心臓が、鋭く跳ねた。
「……っ!」
反射的に、ざり、と地面を蹴って手を振り払った。
嫌悪と恐怖と、何より抑え難い拒絶。
ただの幻だと分かっていても、その肉体の感触に背筋が凍った。
「なぜ、この女がここにいる――」
思い出したのは、出発前にアランが調べた文献の言葉。
「惑わされぬものが、生きてこの森を出られる。」
この森が、「迷わせる者」であることを。
幻覚。幻視。魔力の深い者ほど、影響を受ける――
それを理解していたからこそ、惑わされまいと歯を噛み締めた。
自身の中に噴き上がる本能的な憎悪。
それは呪文にも似たこの森の毒の一部。
だが、理解など心を守ってはくれない。
怒りの余波が呼吸に混じり、心ばかりが荒れた海のようにざわめいていく。
それでも歩き出すしかなかった。
アランがいない。
彼女の気配も姿も、見当たらない。
ひたすらに前に出る。早足で森の中を縫うように、静かに、けれど内心は叫びに近い魂の高鳴りで――アランの姿を探し続けた。
声を出そうとした。何度も。
けれど、どれほど喉に力を入れても、風ばかりが吐息を攫っていく。
声が出せない。
叫びたいのに、呼びたいのに。自分の声が枯れ枝の奥に吸い込まれては、帰ってこなかった。
背後には、気配がある。
何度距離を取っても、アリス・ブラックはそこにいた。
近づけば遠ざかり、遠ざかれば追ってくる。
幻のはずなのに、まるで意志を持つ影のように、こちらをなじるように、後をついてくる。
その奥に――杖を構える気配を感じ取った。
その瞬間、反応は早かった。
振り返るより先、鋭く杖を振るった。
アリスの手から、杖が空を裂いてこちらの手の中に吸い寄せられる。
敵意などあるはずがないと思いながらも、動きにはもう容赦を持たせなかった。
無力に両手をあげるその姿は、まるで悲劇の演技のように見えた。
ならばどうというのだ。
敵か否かなど、もはや問題ではない。
この森そのものが牙を向けている限り、“信じられるものは、ひとつもない”――
そう思いながら、再び背を向けて歩いた。
レギュラスの眼差しは霞んでいた。
森の色に塗られた視界の奥で、幻と記憶と怒りがゆっくり溶け合っていく。
この奥にいるはずの、たったひとりの灯火――アランの姿が、再び見えるその瞬間までは、
自分の心に力を入れて立ち続けるしかなかった。
牙を食いしばり、魂を閉じ込めて。
惑わされまい、自分を喰われまい――と、
黙々と、歩き続けていた。
森の奥、枝の擦れ合うような低い音とともに、冷たい気が指先にまで絡みつく。
レギュラスは、ふと――一瞬、足を止めた。
まるで霧の合間に灯のように差した声が、淡く耳の奥で揺れた気がしたのだ。
〈レギュラス〉
確かに、誰かが呼んだ――いや、アランが呼んだかのような。
そこに柔らかく重なる声音が、久遠に知っている響きであったような、気がした。
しかしそれは、次の瞬間には霧の奥に溶け、何が真実で何が幻だったか、またわからなくなった。
けれど、その“かすかな声”のために、レギュラスは背筋を伸ばし、呼吸を整えて立ち止まった。
そのことが、すべての引き金だった。
少しして、背後に気配が近づいてくる。
草を踏みしめる細い足音。
視界の端に絡むような白い指。
それは、あの女――アリス・ブラックの姿だった。
また来たか、と胸が冷たくなった。
執拗に、何度距離をあけようとも追いついてくる“影”。
目障りで仕方がなかった。
その手が、自分の右手――握られた二本の杖にそっと伸びたのを感じた瞬間、
レギュラスの思考は冷たく研がれる。
また、奪おうとするつもりか。
這い寄り、まるで権利があるかのように魔法を使おうとするつもりか。
瞬時に、仕込んでいたナイフを左手で抜き、迷いなく振るう。
ナイフの刃は、まるで水を掻くように滑らかに、確実に、彼女の太ももを切った。
鈍い音はしなかった。
けれど衝撃とともに、彼女がくずおれた。
見ていられなかった。
崩れていく姿に、ほんのわずかなためらいが胸をかすめたが、それすらすぐに霧にまぎれる。
せめてこれで、歩けなくなればいい――そう思った。
もがきながら、それでも何か――小さな薬包を握り出そうとした手を、
レギュラスは足で容赦なく踏んだ。
踏み込んだ足の感触が、骨の硬さを伝えてくる。
手が、土にねじ込まれるように沈んでいく。
呻く声が空気を掠めた。
けれど、聞く気はなかった。目に映してはいけなかった。
このまま、ここで――死の呪文でも放ってしまえば終わるのだ。
いっそ、そうしてしまおうかと脳裏によぎった。
けれど、森の気配が揺らぐのを感じた。
「魔力を歪まされる」
あの文献の言葉が、頭の奥で小さく蘇る。
この森で不用意に魔法を放てば、返るかもしれない。別の形となって、自分に牙を剥くかもしれない。
だからこそ――
死の呪文は振るわなかった。
魔法ではなく、肉体に、痛みで“沈黙”を与えた。
剣ではなく、針のような恨み。
脅しでもなく、追い払うための、結界のような突き刺し。
そして、またレギュラスは歩み出す。
何も言わず、何も解かず、
怒りすら捨て、ただ――前へ、前へ進む。
そうでもしなければ、
この森に、自分すら、のまれてしまうのだから。
声が聞こえたなどという“希望”など、
今の彼の中では、もうどこにも残っていなかった。
沼は静かだった。
森の奥深く、生き物の気配も立ち消えたような場所に、そこだけがぽっかりと口を開けていた。
水面は鏡のようで、風ひとつなく、深緑の濁りを抱えたままぴくりとも動かない。
それなのに、確かに、「生きている」と感じられた――
じっと人の気配を見上げて、何かを飲み込もうと息を潜めているような、不気味な静けさだった。
アランはやっとの思いで追いついていた。
引き裂かれる痛みに脚を引きずり、どれほど呼びかけても振り向いてもくれなかった人の背を信じて、
ただ、ただ、その一歩を重ねてきた。
その足がふいに止まる。
「……また、どうして……」
問いかける余裕もなく、アランの視線はその先――
開けた湿地にぽつりと広がる、《沼》の存在に息を呑んだ。
深く禍々しい色をした水が、どこまで底があるのかも分からないほどに沈黙している。
ひと目見てわかる。ここは、“普通の水”ではない。
そしてその沼へ向かい、レギュラスはゆっくりと、ローブの内からあの黒い日記帳を取り出した。
――分霊箱。
その帳面に宿る気配すらも、今は何も語らなかった。
だが、この沼の底にそれを沈めよという命を、ヴォルデモートから受けている。
レギュラスの手元には、その命令書のような凄絶な重みが、現実としてある。
「……どうやって、沈めるの……?」
アランは、わずかに問いかけるような目を向けた。
一歩も踏み出せぬまま、吐息ばかりが浅く揺れている。
足を沼に入れた者がどうなるのか。
この森の魔力に満ちた水の中が、どれほどの脅威を抱えているのか――分からない。
それでもきっと、危険の度合いは想像に難くない。
そのとき、レギュラスがこちらを振り返った。
「……レギュラス?」
名を、呼んだ。
淡く、しかし確かな祈りのような声だった。
ようやく、正気が戻ってくれたのか。
あの人の意識が、よみがえったのではないか。
一瞬、本当に信じた。
けれど――
その次の瞬間だった。
ドスッ
息を呑むよりも先に、鈍い衝撃がみぞおちに響いた。
「……っ…!」
思いっきり拳で打ち込まれた身体は、その場に崩れ落ちて地に伏した。
目の前の景色が大きく揺れ、呼吸が詰まり、喉の奥にひゅう、と冷たい空気が流れ込む。
何が起きたか、一瞬わからなかった。
だけど次に、レギュラスの重みある足が――アランの身体を仰向けに転がした。
驚きも、言葉も出なかった。ただ、冷たくて重い感触が背中と地面のあいだを埋めていく。
そして――
その胸元に、分霊箱が、滑り込まされた。
日記帳。
闇を宿す、凶気の記録が。
それが、アランのローブの中に、きちんと収められたのを感じた。
「……なぜ……?」
声にならない疑問。もう声にすらならなかった。
けれど、レギュラスの動作は止まらない。
無言のまま、直立し、そのまま――足でアランの身体を、沼のほうへと押し始めた。
ずるっ、ずるっ、と不規則な音が、湿った泥の上を這う。
石を滑らせるように、血を引いた動物の骸をかき寄せるように、
その足は、容赦なくアランの体を押し、引き摺り――沼の底へと運ぼうとしている。
ようやく、気づく。
彼は、自分を――沈めようとしている。
分霊箱ごと。
すべてを“ここ”に、消そうとしているのだ。
「――いや」
内から突き上げるような声が、声にならなかった。
ただ、惨めな呼吸と恐怖と、熱い痛みと。
全身の神経の端から、何かがぶち切れる音すらするようだった。
目の前にあるのは、沼――何もかもを無に帰す黒い水。
そこへ、自分を“押し込む者”の顔が、一番愛おしかったはずの、レギュラス・ブラックという男の顔であることが――あまりにも、恐ろしくてたまらなかった。
その恐怖は、ただ死ぬことの痛みではない。
愛した人に、自分が死に追いやられるという現実のあまりの絶望にあった。
声が出ない。涙も出ない。ただ、心が裂けていく。
そして、それでもなお、ぬかるんだ身体を動かそうと、アランは必死に何かを探ろうとしていた。
自分を、取り戻せていないこの人を。
たとえこの身が沈んでも、本当に永遠に見失う前に――
どうか、まだ間に合って……そう願いながら。
森の奥、冷たい瘴気をまとった沼が、ついに姿を現した。
澱んだ水面は、空までも沈めるような深黒に染まり、風も寄せつけず、ただ、ぴたりと沈黙を守っていた。
見つけた――
けれど、それは終わりではなかった。
そこにどうやって、分霊箱を沈めるのか。
それがすべての鍵だった。
レギュラスは、静かに辺りを見回しながら、怪しくも澄んだ思考の只中にいた。
手には、すでに紺色の革表紙で綴じられた日記。
汚れひとつないその分霊箱の重みが、手のひらから心臓へと沁みこむように伝ってくる。
――どこまで沈めば、誰の手にも届かない。
確実に、この世に存在しない場所へと埋葬するには、何を犠牲にすべきか?
そのとき、ふと視界の端に動く影があった。
例の女――“アリス・ブラック”。
どれほど退けても、何度追い払っても、まだ己の背を追ってくる厄介な影。
どこまでも食らいついてきて、情を振りかざし、掴まえようとする、鬱陶しい・弱き・獣。
「ちょうどいい」
レギュラスの内に、冷ややかな思考が立ち上がった。
この女ごと――沈めてしまえばいいのだ。
忌まわしき血、分霊箱を守る盾、そして厄介な憐れみの象徴。
すべてが静かに、一度で――封じられる。
拳を握った。
肌を殴るのは、生まれてこのかた一度たりともなかった。
とりわけ、女の顔に手を挙げたことなどない。
けれど、その感覚は今の彼を止めなかった。
「この女は、もうすぐ死ぬ。この沼に沈めば、戻ることすら適わない」
ならば――情も、礼も、意味がない。
ごく自然な動作のように、鳩尾へ拳を打ち込んだ。
ゴッ、と音がして、女の身体がくずおれ、地に打ちつけられる。
呻きも涙も聞こえなかった。ただ、衝撃と土の擦れる音だけが曇った空気に滲んだ。
そのまま、彼女の身体を仰向けに転がす。
黒いローブが乱れた胸元に、分霊箱である日記帳を、何のためらいもなく押し込む。
それはまるで埋葬の儀式だった。
人の温もりのなかへ、冷たい怨念の書を絡めとるように――丁寧に、確実に。
あとは、沈めるだけだ。
レギュラスの足が、躊躇なくアリスの脇腹を押し、背を転がし、ズリズリと沼へと足元を向かわせる。
苦しむように体をねじられるたびに、レギュラスは無表情に、足でもう一度蹴った。
背中が泥に沈む。
白い肌に傷がいくつもつく。
それでも言葉はなかった。
彼女の声は風に変わり、ただ、沈黙だけが広がっていった。
「これが一番、最善の方法なのだ」
どんな魔法よりも確かで、どんな言葉よりも強い結界になる。
選ばれし者の力には、阻む者がいてはならない。
ならば己は今、任務を完遂する兵士であると――信じていた。
……そのときだった。
遥か遠くから、声がした。
か細くて、けれど魂の奥に記憶があった。
その声は――“アラン”。
遠い森を縫うように、息のように不確かに、それでも確実な想いの音だった。
レギュラスは足を止めた。
「アラン……?」
視界に霞が射す。
背を押していた足をわずかに緩める。
そうだ。そうだった。
アランを探さねば。この森に入った時、手を握ってくれたのはアリスではない。
この沼に自分が帰ってくる理由は、アランに連なっていた。
胸に、生まれるはずの優しさが、一滴、一筋だけ差し込んだ気がした。
けれど視線の先には、すでに半分、泥に沈みかけた肉体。
――それが誰なのかさえ、半ば曖昧なまま。
レギュラスは、一度瞼を伏せた。
「これが済んだら、アランを探そう。ちゃんと迎えに行こう」
その思いを抱いて、
彼は再び、沈黙の水面を見つめた。
これこそが正しさだと思いながら、
自分の心すら、静かに眠らせながら。
沼の水面は、なおも不気味なほど静まり返っていた。
足元から這い上がる湿気が、皮膚の下にまで染み込み、骨のひんやりした感触を呼び覚ます。
アラン──いや、レギュラスの目にはそう映っていないその女の白い腕が、ほんのわずかにもがいた。
泥がはね、濁流ではなく重みをもって、彼女の体半分をゆっくりと呑み込んでいく。
水ではない。これは森そのものの血管だ。
一度深部に触れれば、そこから生きて還れる者はいないだろう――そう、確信していた。
彼はその光景を、ただ兵士の眼差しで見下ろしていた。
「これで終わる」
心の中で呟くその声は、冷たくも確かな任務完遂の響きを持っていた。
しかし──。
まただ。
耳の奥で、かすかにあの声がした。
幻聴などではないと思いたい。
異様な魔力に掻き消されながらも、確かに脳裏を叩く音色だった。
〈レギュラス〉
遠く、霧の向こうから。息を切らし、それでも真っすぐこちらへ向かってくるような呼び声。
頭をもたげそうになった瞬間、胸の奥にこびりついた命令が、その衝動を抑えつけた。
沼の縁に沈みかけた肉体が、水泡とともに微かに揺れた。
その動きが、妙に現実感を帯びる。
……この顔は誰だ? 本当にアリス・ブラックなのか?
それとも――。
一瞬、抑え込んできた何かが、脳裏で軋んだ。
「アランを……探すんだろう?」
幻か、真か、その言葉が自分自身の中で反響した。
足が止まった。
沼の闇は、言葉を持たぬまま深く沈黙する。
押し込むべき身体の下で、ぬるりとした冷たさがズボリと重く引こうとする力を伝えてくる。
このまま離せば――一息で飲まれ、跡形もなくなるだろう。
だが、あの声が頭から離れない。
振り払えば済むのに、振り払えない。
沼は、もう微動だにしなかった。
黒い水面は一片の波紋もなく、わずか前までそこにあった命を、音もなく呑み込んでいた。
まるで初めから何もなかったかのように、ただ禍々しい静けさだけが漂っている。
レギュラスはしばらくその水底を見つめていた。
心臓の音も、森のざわめきも、遠い世界の出来事のようで、自分の内側にあるのは硬質な空白だけだった。
やがて、視線を落とす。
手には、自分の杖と――あの女から奪った杖が握られていた。
「……餞にでも返してやるか」
低く、誰に告げるでもない声を心の中で呟く。
たかがマグル風情。
偶然にも宿ったわずかばかりの魔力を頼りに、この世界へ踏み込んできた女。
杖を握る資格など本来ないはずの女。
そんな女の杖を、これ以上持っている意味などない――そう思った。
重く沈む思考のまま、ふと指の間の杖を見やった。
そこには、古い刻印があった。
使い込まれた木肌の奥に、細く流れるように彫られた文字。
「(アラン・セシール)」
息が凍った。
脳裏で、何かが激しくきしみを上げ、そして一瞬で正しい位置に組み直される。
――森に入った瞬間からのすべての記憶。
手を繋いで歩いた人の顔。
呼び続けてきた声。
杖を奪った時の、混乱と哀しみが入り混じった眼差し。
太ももを刺した時の、声にならぬ痛みの吐息。
手を踏みつけ、立ち上がらせまいと力を込めたあの足の感触。
鳩尾へ拳を叩き込み、蹴り飛ばしたとき。
そしていま――この手で、沼の底へ突き落とした女。
……アリス・ブラックではない。
アラン――だった。
ウェストモアランドの死の森に関する文書は古びており、文字は淡く掠れ、かすかに魔力の気配が漂っている。
彼女は白い指でページをめくりながら、深く熟読していた。
そこにはこう記されていた。
この森一帯は魔力の奔流に満ちており、特に魔力の強い者は影響を受けやすい。
魔力が強い者ほど、自然と力が増幅され、やがてはその森の魔力に取り込まれ、浸食される運命にあるという。
また、「惑わされぬもの」だけがこの森を生きて抜けられるとも記されているが、その意味は曖昧で、何が惑わされぬものなのかは記されていなかった。
情報は断片的で、読み進めても正確な対処法は分からない。
焦る気持ちは募るばかりだったが、最低限できる準備として、彼女はあらゆる有効とされる魔法薬を持参することを決めた。
取り急ぎ、入手可能な限りの魔法薬を収集し、薬箱に詰め込む。
常備薬から特別な護符、精神を保つ薬まで、ありとあらゆる手段を尽くすつもりであった。
アランの瞳は静かに鋭く光り、不確かな情報のなかでも、必ずこの試練に打ち勝つ覚悟が伝わってきた。
彼女の決意は、愛する者を守るため、恐怖を上回っていた。
森の空気は、まるで地の底から立ち昇る霧のようだった。
ひと息ごとに、胸の奥へじわじわと沈んでくるような、重苦しく濁った気配。
どこからともなく耳鳴りのような音がして――けれど、それが風の音なのか、森の囁きなのか、もう分からなかった。
先ほどまでの姿くらましの感覚が、まだわずかに残る足元。
けれど、ここから先は魔力の流れが大きく歪んでいて、転移は通じなかった。
魔力の強い者ほど、その流れに干渉される。
“自分の魔力に自分が喰われる”場所。
それが、この死の森だった。
「……行きましょう」
アランが、ためらわずにそう言った。
その声には震えがなかった。
まるで日々の散歩の途中で、まだ道が続いているから進むだけ――そんな静けさがあった。
「……ええ」
レギュラスは短く答え、そっとアランの手を取った。
落ちついた手だった。温もりが、確かにそこにあった。
森の入り口。
漆黒の枝々がうねるように空を絡め取り、地には名も知れぬ草葉がじわりと魔力を吐いている。
何かの気配があるようで、何もいない。
けれど、確かに“揺れて”いる。
空間が、生きているようだった。
一歩、足を踏み出す。
その瞬間、全身がぎり、と圧し潰されるような感覚に襲われた。
空気が少し重くなるのではない。
内側、骨のきしみと、魔力の波がぶつかる重圧がじわりと来る。
レギュラスは、アランの指をぎゅっと握る。
「……大丈夫です」
アランの言葉が並ぶ。その声に、風の雑音が絡みそうになる。
でも、不思議とそれが灯のように静かに響いた。
歩くごとに周囲の木々が視界の奥でうごめき、
ひとつ進むごとに、心のどこかが引っ張られる。
「戻るな」「振り返るな」「考えすぎるな」――
長く戦場で自らに課してきた言葉たちが、今日ほど頼りなく感じたことはない。
だけど、自分はひとりではなかった。
今、その手がある。
この手に触れている限り、自分は“惑わされぬもの”でいられる。
自分の魔力に、引きずり込まれる前に。
深く息を吸う。
腐葉土のにおいと、なにか古い血のような匂いがまじる空気。
けれどそれごと、踏み越えるしかなかった。
二人の足音は、森の中に吸い込まれるようにして、
まだ見えぬ『沼』の気配を目指して、静かに沈んでゆく。
そして――闇の中で、たしかに寄り添いつづけていた。
死の森の空気は、肌にしっとり纏わりつくような湿り気と、目に見えぬ圧力を帯びていた。
森は生きていた。
歩くごとに、あちこちから枝がふるえ、幹が押し黙った息を漏らすように軋んだ。
けれど、彼――レギュラス・ブラックの足取りは、どこまでも軽かった。
いや――軽すぎた。
アランは、気づいたのだった。
いつの間にか、手が離れていた。
先ほどまでは確かに、やわらかな体温が掌にあった。
互いを保つように手を引かれて、重ねられて、森の内側でもつながっていられたのに――
今は、その手がない。
前を行くレギュラスは、一歩、また一歩と進むごとに――まるで何かを振り切るように、急ぎ足になってゆく。
迷いのない足取り。だが、それは静けさではなく 焦燥 だった。
アランの目に映る後ろ姿は、あまりにも違和感に満ちていた。
背筋は過剰なまでに伸び、首筋から肩へかけて、何かに食いしばるような緊張が絶えず張り付いている。
どこかで苛立っている。
どこかに怯えている。
どこかに――追い詰められている。
それが何なのか、アランには分からなかった。
けれど確実に、「何か」が彼を狂わせようとしているのが分かった。
「……レギュラス」
そっと名前を呼ぶ。
けれど彼の足は止まらない。
「レギュラス……!」
もう一度。
もっと強く呼ぶ。
けれど、その声は届かない。
何度呼んでも、レギュラスはアランの方を見なかった。
耳が聞こえていないかのように。
呼ばれている事実すら認識できていないかのように。
まるで今この場所に、アランなど存在していないかのように。
アランは、ほんの瞬きの間に、猛烈な孤独に飲み込まれた。
この森に入るとき、支えあうと言った。
一人ではないと信じていた。
けれど、今――
前を行く背中は、まるで自分ではない“何か”に憑かれているような気配さえあった。
あれは――本当に、レギュラスなのか。
足が止まりかける。
怖かった。
何に苛立っているの?
何が、あなたを追い詰めているの?
何から逃げようとしているの……?
そう問いかけたくて叫びたくて、それでも声にならなかった。
アランの一歩ごとに、森は深くなる。
足元の土までが、何かを這わせるように「ふたりの間」を裂いてゆく。
けれど、脳裏によぎる。
文献に記されていた言葉。
――“惑わされぬものが、生きて戻れる”。
これはきっとその始まりなのだ。
“何かに取り込まれる”ということの、兆しなのだ。
そう直感したとき、アランは一つ、深く息を吸った。
静かな決意が胸に灯る。
彼を失わないために、進まねばならない。
置いていかれたくないだけではない。
――彼を、連れ戻すために、進むのだ。
名前を呼ぶ声に応えられないレギュラスが、
自分を忘れることなど、決してあるはずがないのだから。
そして、その祈りのような想いを、彼女はもう一度、震えなく握りしめた。
森の奥へ進むごとに、木々はより密に絡み合い、空はとうに見えなくなっていた。
ぬかるんだ地面が足元を掴み、風もないのに枝がざわめく——まるで森そのものに試されているかのようだった。
アランの息はすでに浅く、喉の奥で熱を帯びていた。
身体は軽く震えていて、それが寒さなのか息切れなのか、もはや自分でも分からない。
それでも足を動かし続ける。
前を行く、あの背中を見失わないために。
けれどその背はひどく遠かった。まるで、手の届かない、別の世界にいるように。
「……レ、ギュラス……」
呼びかける声が、乾いた空気に溶けていく。何の反応も返ってこない。
「レギュラス………!」
声を強めても、レギュラスはぴくりともせず、ただ前を、前をと進み続ける。
その足取りは早く、確信すら帯びていて、アランを振り返る気配は一切なかった。
息が詰まりそうだった。
心臓が胸の奥で警鐘のように高鳴る。
なぜ?
どうして、手を離していったの?
なぜ、こちらを見てくれないの?
ひたすらに問いが浮かぶ。でも、答えはどこにもない。
一歩、また一歩。
足元の土がぬかるみ、転びそうになる。呼吸も整わず、喉が裂けるように熱い。
それでも、進んだ。
けれど、どうしても溢れてしまう。
「……お願い……レギュラス……!」
その叫びに、森はなにも応えなかった。
涙がにじむのを感じた。
呼吸の乱れも、体の痛みも、もう震える声も――全部、どうでもよかった。
ただ、その背中に触れられないことが、
何より苦しくて、切なくて、悲しかった。
レギュラスの背中はあまりにも遠く、冷たく感じられた。
これまで、一度だって感じたことのない〈拒絶〉のようなものが、あの姿から漂っていた。
彼はいつだって、困難のときほどそばにいてくれた。
決してアランを置き去りにしない人だった。
何かを隠しても、決して「目を逸らしたまま」ではなかった。
……それなのに。
なぜ今回に限って、迷わずに置いていくの?
まるで、“孤独の中”に自分を閉じ込めるように。
アランは、はじめて――「見送る側の孤独」というものを実感していた。
力尽きそうな足をぎり、と踏みしめる。
森の根に爪先をとられても、手は岩をつかみ、衣を汚しても、追うしかなかった。
涙を堪える理由は、ただひとつ。
今、彼が自分自身では自分を止められないなら。自分が止めなければいけない。
そう思った。
苛立ち、焦燥、恐怖。
それらに突き動かされて進もうとする彼の背を、
自分だけは知っているはずだった。
だから、とめられるはずだと、信じていた。
この道の先がどれほど深く、暗いとしても。
——その背中には、まだ触れられると信じたかった。
そうでなければ、すべてが、崩れてしまうから。
死の森の空気はますます深く沈み、木々が耳に届かぬ呼吸をひそめながら、地の奥底から音なき圧力を立ち上らせていた。
喘ぐような空気の中、アランは杖を震える手でローブの内から抜き取った。
ほんの一瞬――ほんの少しでいい。
彼の足元に軽い足留めの呪文をかけるだけ。
その勢いを緩めたい。それだけでいい。
走り去っていくように思える背中を、せめて“一度だけ”立ち止まらせたかった。
「レギュラス……」
言葉にならぬ想いを込めて、杖先にわずかな魔力を集めた。
けれど――そのときだった。
風が切り裂かれる音と同時に、目の前のレギュラスが突然振り返った。
「Expelliarmus(エクスペリアームス)」
瞬間、鋭い閃光が森の空気を切り裂き、アランの手から杖が音もなく離れた。
まるで宙に吸い込まれるように飛んだそれは、
次の瞬間にはレギュラスの掌の中に、吸い寄せられていた。
轟く衝撃ではなかった。
静かだった。
けれど、だからこそ――あまりに痛かった。
アランの指は空を握ったまま、動けなかった。
そしてその視線の先で立ち尽くす男を見る。
レギュラス・ブラック。
彼の眼差しに、明らかに――敵意が宿っていた。
それは無意識ではなかった。
咄嗟の反応ではない。
一時の迷いでもなく、正確に「的」としてアランの動きを封じにきた確信だった。
言葉が出なかった。
ようやく絞り出せた声は、ささやきにも満たなかった。
「……レギュラス……?」
呼びかけは、自分でも信じられないほど弱かった。
答えてほしかった。
いつものように静かに目を伏せて、優しく手を伸ばしてほしかった。
けれど、目の前の彼は――違っていた。
眉は静かに寄せられ、
唇は歯を隠しながらも、わずかに緊張で引き結ばれている。
何かに脅かされるように、追い立てられるように、
そしてそれを「誰にも邪魔させてはならない」と思い込む者の、張り詰めた剣の顔だった。
それでも、どうして。
どうして――私に向かって。
私があなたを留めることが、
それほどまでに、許されないことだったの…?
力ではなく、愛でつながってきたはずの年月。
その深くにあったはずの信頼が、
掌ひとつで切り落とされるような感覚。
森の闇は変わらず辺りを包んでいた。
けれど、アランの胸の内に沈み込んだ影の方が、
ただの魔力よりも、ずっと深く抗いがたいもののように思えた。
杖を奪われた手は、まだ宙に彷い。
届かぬ温もりを求めるように震えている。
そして、どちらからも何も言葉が出ないまま、
ただ、息の合わない沈黙だけがふたりを分かち続けていた。
森は静かに喘いでいた。
枝葉の揺れる音さえ、まるで耳元に囁くような低さで、不穏な音の粒となって漂う。
濃密な魔力がこの地一帯に沈んでいて――それが、地に、空に、そして“人の心”に染み込もうとしていた。
アランは、ひとり――立ち尽くしていた。
両手の指先がかすかに震える。
心臓が一定の速さで打っているはずなのに、どうしてか胸の中心が凍えるように冷たかった。
レギュラスが“振り返り”、自分に敵意を向けたあの瞬間。
鋭く、正確で、一切の逡巡を許さぬ動きだった。
――それは戦場でしか見たことのない彼の顔だった。
アランが知る、愛しい夫であるはずの顔には、自分の影ひとつ映っていなかった。
彼はきっと――何かを見ている。
それは、森に踏み入れた瞬間から始まっていたのだと、ようやく思い至る。
手を引いてくれていたはずの人が、ふと、何かに急かされるようにその手を離したあのときから。
名前を呼んだ声も、届かなかった。
「惑わされぬ者だけが…生きてこの森を出られる」
——あの文献の一節が、アランの中に静かに蘇る。
引っかかり続けていたその言葉に、今、ようやく手触りが伴い始めていた。
惑わされている――レギュラスが。
そしてもうひとつ。
思考の奥から、肌に刻まれたような記述がよみがえる。
魔力の強いものほど、この森では“呑まれる可能性が高い”。
アランの心に、静かに冷たい確信が生まれた。
レギュラスは――魔法界でも群を抜いた才能を持つ魔法使い。
その力ゆえに、人より深く、人より強く、瘴気や幻に“干渉されてしまう”可能性が高いということ。
そうだ、だから――彼の方こそが、この森に呑まれているのだ。
自分には、まだ正気がある。
けれど、その彼に杖を奪われた今――自分にはもう、何もできない。
名前を呼んでも、届かない。
情を説いても、届かない。
愛を語っても、その瞳に自分はいないのだから。
それは、終わりを予感させるほどの絶望だった。
それでも。
それでも、アランは少しずつ、自分の心に言い聞かせ始めた。
――これは、置いていかれたのではない。
これは、忘れられたのではない。
これは、彼が“見えない何か”に奪われているということ。
「だったら……まだ、間に合うはず……」
震えた心の奥で、思った。
愛が届かないのなら、言葉では足りないのだ。
まだ、何かあるはず。
何か、彼を取り戻すための、方法が。
たとえ杖がなくても、
たとえ魔法が使えなくても。
“自分だけは、惑わされない”と信じ続けることで、
彼の光を引き戻すことができるかもしれない。
それはあまりに頼りなく、幼い希望だった。
でも――希望は、最後の呪文だ。
アランは息を吸い、森の奥で遠ざかる背に向かって、また一歩を踏み出した。
小さくても、歩みだけは止めずに。
いつかきっと、あの眼差しがまた、自分を見つけてくれると信じながら。
森の空気は、なおも静かに揺れていた。
けれどその沈黙は、命のない冷たさではなかった。
――生きている。
この森が、何かを試すように、ひたすら息を潜めて二人を見つめている。
アランの声が震えた喉の奥から、吐息のように零れた。
「……杖は、あなたの手の中にあるわ」
湿った風が、言葉をさらって枝葉の裂け間へと消えていく。
レギュラスの背にはまだ、一切の返答も気配もない。
わずかにきつく握られた手の中に、アランの杖が収まっている。
「私には、もう……なにもない」
「――何もしないわ」
アランは、静かに両手を上げた。
まるで、戦場で敵意のないことを証明するように。
手のひらをひらき、武器も、意志すらも隠していないことを、ただひたむきに示す。
その姿には、恐怖もあった。
無防備さは、同時に命をさらすことでもある。
けれど――それでも、今はこの人に向けて――
自分は“敵ではない”のだと伝えなければならなかったのだ。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、一瞬、アランを見るように瞳を伏せたかと思えば――
そのまま、くるりと背を向けた。
そして、ふたたび歩き始めた。
幾分、先ほどよりもゆっくりと。
けれど確かに、彼はもうアランには注意を払っていなかった。
見透かした、あるいは――「もう無害」と判断されたのだろう。
背中はどこまでも冷たくて、遠い。
けれどその冷たさは、もはや攻撃の刃ではなかった。
肩の力が、すうっと抜けた。
「……よかった……」
アランの唇から、吐息のようにつぶやきが漏れた。
力が抜けて、膝が崩れてしまいそうになる。
本当に、ほんの一歩の差で生き延びたのだ。
今の彼なら、十分に殺せた。
迷いもない。ためらいもなかった。
一度向けられた敵意は、きっと次は躊躇なく命を奪う一撃に変わっていた。
でも、それでも。
“無力だ”と示すことで、命だけは奪われなかった。
それは、恐ろしいまでの正しさだった。
命を奪わせないために、自分は自分のすべてを――いったん、差し出さなければならなかったのだと。
それでも、アランは踏み出した。
ゆっくりと、肩に息をのせながら。
今は、ただその背を見失わぬように添い続けるしかない。
自分がまだ“彼に何もできていない”のだとしても――
それでも、あの眼差しの奥にかつてあった「レギュラス」の光は、きっとまだ……どこかに、残っているはずだから。
足元で朽ち葉が小さく鳴いた。
それだけが、風の代わりに彼女の健気な一歩を見守っていた。
死の森の奥深く、重く沈む霧の中で、レギュラス・ブラックは唐突に立ち止まった。
湿った土に根を張るように、微動だにせず、まるで風景の一部になったかのようだった。
足を止めたその姿は、どこか虚ろで、目の焦点は遠くを見ているような、それでいて身体は張り詰めていた。
アランは、息を殺すようにしてすぐ後ろまで近づいた。
ようやく、ようやく声音が届いたのかと――
あれだけ呼んでも何も返らなかった夫が立ち止まっていることに、希望が微かに芽吹いた。
「……レギュラス……?」
そっと名前を呼ぶ。
けれど、返答はなかった。
振り向かない。ただ佇んでいるだけ。
その沈黙の中に慣れつつあるとはいえ、それでもなお、胸の奥が静かに傷つく。
彼の右手には、杖が2本あった。
1本は自らのもの、そしてもう1本は奪われたままだったアランの杖。
細く、白に近い木肌が、れき然とレギュラスの手の中に握られていた。
アランは慎重に、そっと――まるで凍てつく動物に近づくように――前へ足を踏み出した。
動かないなら、いまが唯一の機会かもしれない。
攻撃するつもりなどなかった。ただ、自分の杖を手に戻したい、それだけ。
だって、私は――
あなたに害を為したいわけじゃない。
ほんの指先を伸ばす。
レギュラスの手に揺れる、自分の杖の柄に、皮膚が触れた――その瞬間だった。
風を裂く音もなく、アランの身体は突然、地面に叩きつけられた。
受け身を取る間もない。
背中が弾けるように冷たい泥にたたきつけられ、空気が一気に肺を抜けた。
視界が揺れる。
世界が歪む。
呼吸がすっと通らずに、一瞬視界が白く霞んだ。
何が起きたのか、わからなかった。
そして数秒遅れて、じわり、と痛みが浮かび上がる。
「……あ……っ」
太もも。
その場所から、湿ったぬるりとした感触が広がっている。
痛んでいる。けれど、ただの打撲ではなかった。
怖さに手を伸ばして触れたとき、ぬるりと濡れた指に張りついたのは、血だった。
見下ろすと、細く鋭い儀式用のナイフらしきものが、太ももの外側に深く突き立ったままだった。
ぐら、と視界が揺れた。
残響のように、遅れて痛みが広がっていく。
肌の奥で神経がざわつく。
骨に届くような冷たい痛みが、脈を打っていた。
息が漏れた。呻き声が、喉からにじみ出た。
「う……ぐ……っ……!」
地面に顔を伏せながら、片目をどうにか開けると、そこには――
こちらを見下ろすレギュラスの瞳があった。
けれど、それはもうアランの知る彼の目ではなかった。
光が消えている。
洗練も、確信も、怒りすらもない。
ただ、空虚で冷たい、底なしの中立の中に漂う“何者か”の目だった。
声も発さなかった。
ただ、「近づくな」、「敵だと見なす」――
その沈黙だけが、確かに敵意を語っていた。
アランは、地を掴みながら、折れるようにして呼吸を繰り返した。
傷の痛みに、心の痛みが被さる。
まるで、あの人自身に突き刺されたような衝撃だった。
私を傷つけようなどと、思ったことはなかったはずなのに。
こんなふうに刺される日が来るなんて――夢にも、思わなかったのに。
けれど、それでも。
アランは、涙を零さなかった。
視界が滲んでも、心が軋んでも、
彼が“帰ってこられる場所”であることだけは、手放したくなかった。
死の森の中で、手も魔法も奪われ、血を流しながら、
それでもひとつ確かな想いを胸に残していた。
――まだ終わりではない。
これが、終わりであってはならない。
夜を飲み込んだような森の奥、空気はなお重く、湿った腐葉土の匂いが呼吸のたび胸を圧した。
アランは血に滲む視界の中、震える手でローブの内を探った。その奥には、ずっと肌身離さず持ち歩いていた小さな巾着――拡張魔法がかけられた、非常時の薬包。
指先がそれを掴んだとき、安堵に肩が震えた。これさえあれば応急の止血ができる。
懐から、巾着の紐を必死に解き、一包みの薬を取り出そうとした、その――瞬間だった。
ぐしゃり
鋭く、容赦のない重みが――手の甲に落ちた。
目の前に立つ男の足が、無慈悲にその手を地面に踏みつけたのだ。
乾ききっていない土に手のひらがめり込み、爪の間に泥が沈み込むような感触。
骨がきしむほど押し込まれる痛みに、思わず息が詰まり、そして――
「……ああっ……!」
低く、喉の奥から悲鳴にも似た声が漏れた。
その痛み以上に、心の奥を引き裂くように突き刺さったのは――
この足を向けてきたのが、愛するはずの男だという現実だった。
見上げた先にいたのは、確かにレギュラス・ブラックの姿をした誰か。
けれど――その瞳に、自分はもう映っていない。
その動きに、ためらいも迷いも宿っていない。
攻撃という意図をすら意識していないのに、自動人形のように、アランという存在を「排除」しようとしていた。
これはもう、「彼」ではない。
レギュラスという形を借りた、何か別の魔力の影が、
いま、彼の中から前面に溢れ出している。
直感だった。でも確信だった。
「……あなたではない……」
かすれた息の中、アランはそう呟いた。
呻きとともに。
「あなたじゃない……こんなこと……するはずない……」
けれど足は退かぬまま。
杖を2本握った右手はすこしも震えず、ただ、息をしているかどうかも怪しいほど静かだった。
じゃあ、どうすれば戻れるの――?
アランの思考が、のたうつ痛みと恐怖のなかで必死に巡る。
杖はまだ奪われたまま。
痛みで意識が揺らぎながらも、唯一残されていたのは理解しようとする力だった。
「……魔力の強い者ほど、影響を受けやすい」
あの文献の一節が、胸を焼くように浮かび上がる。
レギュラスの魔力――それは、確かに天賦の才。
けれど今や、その力が自らの意志を飲み込み、
森の瘴気と混ざり合って、“狂い”を生んでいるのではないか。
惑い。
恐れ。
孤独。
それらが複雑に絡み、形となって、レギュラスの中を塗り替えているのだ。
ならば――!
アランの胸に、ひとつの答えが灯りかけた。
押し付けるような「言葉」でも、
振り回すような「力」でも、彼は戻らない。
それを超える記憶――“真実”を見せなければ届かないのだ。
この人が、何を信じていたか。誰と、どんな日々を生きてきたか。
その「記憶」を――この森の幻よりも強く、彼の“確かな輪郭”として呼び起こさねば。
そうでなければ、彼は森の中で本当に失われてしまう。
もう一度、会いたい。
本当のあなたに。
私の手を取ってくれた、あなたに。
アランの目に、静かに涙が溜まった。
それでも声を失わないように、焼けつくような痛みのなかで、必死に言葉を探し始めていた。
森に足を踏み入れたのは、正確な記憶では夕刻だったはずだ。だが、木々の影と漂う魔力の膜が空の色を飲み込み、時刻の輪郭さえ曖昧にしていった。
レギュラスは静かにアランの手を引いていた。
確かに、手のひらに感じていたぬくもり。
過去幾度も、その手と共に道を歩んできた――戦場も、宮殿も、何もない日々も。
けれど、ふと振り返ったその瞬間――
そこにいたのは、アリス・ブラックだった。
白い肌、浅い眉の影、感情の深さを隠す瞳――
名も顔も、決して忘れるはずなどない、汚れた血の娘。
魔法族の名を持ちながら、同胞ではない者。
アランが命がけで庇い、逃がした“忌まわしき女”。
彼女が、笑いもせず、何も言わず、ただ自分の手を――握っていた。
レギュラスの心臓が、鋭く跳ねた。
「……っ!」
反射的に、ざり、と地面を蹴って手を振り払った。
嫌悪と恐怖と、何より抑え難い拒絶。
ただの幻だと分かっていても、その肉体の感触に背筋が凍った。
「なぜ、この女がここにいる――」
思い出したのは、出発前にアランが調べた文献の言葉。
「惑わされぬものが、生きてこの森を出られる。」
この森が、「迷わせる者」であることを。
幻覚。幻視。魔力の深い者ほど、影響を受ける――
それを理解していたからこそ、惑わされまいと歯を噛み締めた。
自身の中に噴き上がる本能的な憎悪。
それは呪文にも似たこの森の毒の一部。
だが、理解など心を守ってはくれない。
怒りの余波が呼吸に混じり、心ばかりが荒れた海のようにざわめいていく。
それでも歩き出すしかなかった。
アランがいない。
彼女の気配も姿も、見当たらない。
ひたすらに前に出る。早足で森の中を縫うように、静かに、けれど内心は叫びに近い魂の高鳴りで――アランの姿を探し続けた。
声を出そうとした。何度も。
けれど、どれほど喉に力を入れても、風ばかりが吐息を攫っていく。
声が出せない。
叫びたいのに、呼びたいのに。自分の声が枯れ枝の奥に吸い込まれては、帰ってこなかった。
背後には、気配がある。
何度距離を取っても、アリス・ブラックはそこにいた。
近づけば遠ざかり、遠ざかれば追ってくる。
幻のはずなのに、まるで意志を持つ影のように、こちらをなじるように、後をついてくる。
その奥に――杖を構える気配を感じ取った。
その瞬間、反応は早かった。
振り返るより先、鋭く杖を振るった。
アリスの手から、杖が空を裂いてこちらの手の中に吸い寄せられる。
敵意などあるはずがないと思いながらも、動きにはもう容赦を持たせなかった。
無力に両手をあげるその姿は、まるで悲劇の演技のように見えた。
ならばどうというのだ。
敵か否かなど、もはや問題ではない。
この森そのものが牙を向けている限り、“信じられるものは、ひとつもない”――
そう思いながら、再び背を向けて歩いた。
レギュラスの眼差しは霞んでいた。
森の色に塗られた視界の奥で、幻と記憶と怒りがゆっくり溶け合っていく。
この奥にいるはずの、たったひとりの灯火――アランの姿が、再び見えるその瞬間までは、
自分の心に力を入れて立ち続けるしかなかった。
牙を食いしばり、魂を閉じ込めて。
惑わされまい、自分を喰われまい――と、
黙々と、歩き続けていた。
森の奥、枝の擦れ合うような低い音とともに、冷たい気が指先にまで絡みつく。
レギュラスは、ふと――一瞬、足を止めた。
まるで霧の合間に灯のように差した声が、淡く耳の奥で揺れた気がしたのだ。
〈レギュラス〉
確かに、誰かが呼んだ――いや、アランが呼んだかのような。
そこに柔らかく重なる声音が、久遠に知っている響きであったような、気がした。
しかしそれは、次の瞬間には霧の奥に溶け、何が真実で何が幻だったか、またわからなくなった。
けれど、その“かすかな声”のために、レギュラスは背筋を伸ばし、呼吸を整えて立ち止まった。
そのことが、すべての引き金だった。
少しして、背後に気配が近づいてくる。
草を踏みしめる細い足音。
視界の端に絡むような白い指。
それは、あの女――アリス・ブラックの姿だった。
また来たか、と胸が冷たくなった。
執拗に、何度距離をあけようとも追いついてくる“影”。
目障りで仕方がなかった。
その手が、自分の右手――握られた二本の杖にそっと伸びたのを感じた瞬間、
レギュラスの思考は冷たく研がれる。
また、奪おうとするつもりか。
這い寄り、まるで権利があるかのように魔法を使おうとするつもりか。
瞬時に、仕込んでいたナイフを左手で抜き、迷いなく振るう。
ナイフの刃は、まるで水を掻くように滑らかに、確実に、彼女の太ももを切った。
鈍い音はしなかった。
けれど衝撃とともに、彼女がくずおれた。
見ていられなかった。
崩れていく姿に、ほんのわずかなためらいが胸をかすめたが、それすらすぐに霧にまぎれる。
せめてこれで、歩けなくなればいい――そう思った。
もがきながら、それでも何か――小さな薬包を握り出そうとした手を、
レギュラスは足で容赦なく踏んだ。
踏み込んだ足の感触が、骨の硬さを伝えてくる。
手が、土にねじ込まれるように沈んでいく。
呻く声が空気を掠めた。
けれど、聞く気はなかった。目に映してはいけなかった。
このまま、ここで――死の呪文でも放ってしまえば終わるのだ。
いっそ、そうしてしまおうかと脳裏によぎった。
けれど、森の気配が揺らぐのを感じた。
「魔力を歪まされる」
あの文献の言葉が、頭の奥で小さく蘇る。
この森で不用意に魔法を放てば、返るかもしれない。別の形となって、自分に牙を剥くかもしれない。
だからこそ――
死の呪文は振るわなかった。
魔法ではなく、肉体に、痛みで“沈黙”を与えた。
剣ではなく、針のような恨み。
脅しでもなく、追い払うための、結界のような突き刺し。
そして、またレギュラスは歩み出す。
何も言わず、何も解かず、
怒りすら捨て、ただ――前へ、前へ進む。
そうでもしなければ、
この森に、自分すら、のまれてしまうのだから。
声が聞こえたなどという“希望”など、
今の彼の中では、もうどこにも残っていなかった。
沼は静かだった。
森の奥深く、生き物の気配も立ち消えたような場所に、そこだけがぽっかりと口を開けていた。
水面は鏡のようで、風ひとつなく、深緑の濁りを抱えたままぴくりとも動かない。
それなのに、確かに、「生きている」と感じられた――
じっと人の気配を見上げて、何かを飲み込もうと息を潜めているような、不気味な静けさだった。
アランはやっとの思いで追いついていた。
引き裂かれる痛みに脚を引きずり、どれほど呼びかけても振り向いてもくれなかった人の背を信じて、
ただ、ただ、その一歩を重ねてきた。
その足がふいに止まる。
「……また、どうして……」
問いかける余裕もなく、アランの視線はその先――
開けた湿地にぽつりと広がる、《沼》の存在に息を呑んだ。
深く禍々しい色をした水が、どこまで底があるのかも分からないほどに沈黙している。
ひと目見てわかる。ここは、“普通の水”ではない。
そしてその沼へ向かい、レギュラスはゆっくりと、ローブの内からあの黒い日記帳を取り出した。
――分霊箱。
その帳面に宿る気配すらも、今は何も語らなかった。
だが、この沼の底にそれを沈めよという命を、ヴォルデモートから受けている。
レギュラスの手元には、その命令書のような凄絶な重みが、現実としてある。
「……どうやって、沈めるの……?」
アランは、わずかに問いかけるような目を向けた。
一歩も踏み出せぬまま、吐息ばかりが浅く揺れている。
足を沼に入れた者がどうなるのか。
この森の魔力に満ちた水の中が、どれほどの脅威を抱えているのか――分からない。
それでもきっと、危険の度合いは想像に難くない。
そのとき、レギュラスがこちらを振り返った。
「……レギュラス?」
名を、呼んだ。
淡く、しかし確かな祈りのような声だった。
ようやく、正気が戻ってくれたのか。
あの人の意識が、よみがえったのではないか。
一瞬、本当に信じた。
けれど――
その次の瞬間だった。
ドスッ
息を呑むよりも先に、鈍い衝撃がみぞおちに響いた。
「……っ…!」
思いっきり拳で打ち込まれた身体は、その場に崩れ落ちて地に伏した。
目の前の景色が大きく揺れ、呼吸が詰まり、喉の奥にひゅう、と冷たい空気が流れ込む。
何が起きたか、一瞬わからなかった。
だけど次に、レギュラスの重みある足が――アランの身体を仰向けに転がした。
驚きも、言葉も出なかった。ただ、冷たくて重い感触が背中と地面のあいだを埋めていく。
そして――
その胸元に、分霊箱が、滑り込まされた。
日記帳。
闇を宿す、凶気の記録が。
それが、アランのローブの中に、きちんと収められたのを感じた。
「……なぜ……?」
声にならない疑問。もう声にすらならなかった。
けれど、レギュラスの動作は止まらない。
無言のまま、直立し、そのまま――足でアランの身体を、沼のほうへと押し始めた。
ずるっ、ずるっ、と不規則な音が、湿った泥の上を這う。
石を滑らせるように、血を引いた動物の骸をかき寄せるように、
その足は、容赦なくアランの体を押し、引き摺り――沼の底へと運ぼうとしている。
ようやく、気づく。
彼は、自分を――沈めようとしている。
分霊箱ごと。
すべてを“ここ”に、消そうとしているのだ。
「――いや」
内から突き上げるような声が、声にならなかった。
ただ、惨めな呼吸と恐怖と、熱い痛みと。
全身の神経の端から、何かがぶち切れる音すらするようだった。
目の前にあるのは、沼――何もかもを無に帰す黒い水。
そこへ、自分を“押し込む者”の顔が、一番愛おしかったはずの、レギュラス・ブラックという男の顔であることが――あまりにも、恐ろしくてたまらなかった。
その恐怖は、ただ死ぬことの痛みではない。
愛した人に、自分が死に追いやられるという現実のあまりの絶望にあった。
声が出ない。涙も出ない。ただ、心が裂けていく。
そして、それでもなお、ぬかるんだ身体を動かそうと、アランは必死に何かを探ろうとしていた。
自分を、取り戻せていないこの人を。
たとえこの身が沈んでも、本当に永遠に見失う前に――
どうか、まだ間に合って……そう願いながら。
森の奥、冷たい瘴気をまとった沼が、ついに姿を現した。
澱んだ水面は、空までも沈めるような深黒に染まり、風も寄せつけず、ただ、ぴたりと沈黙を守っていた。
見つけた――
けれど、それは終わりではなかった。
そこにどうやって、分霊箱を沈めるのか。
それがすべての鍵だった。
レギュラスは、静かに辺りを見回しながら、怪しくも澄んだ思考の只中にいた。
手には、すでに紺色の革表紙で綴じられた日記。
汚れひとつないその分霊箱の重みが、手のひらから心臓へと沁みこむように伝ってくる。
――どこまで沈めば、誰の手にも届かない。
確実に、この世に存在しない場所へと埋葬するには、何を犠牲にすべきか?
そのとき、ふと視界の端に動く影があった。
例の女――“アリス・ブラック”。
どれほど退けても、何度追い払っても、まだ己の背を追ってくる厄介な影。
どこまでも食らいついてきて、情を振りかざし、掴まえようとする、鬱陶しい・弱き・獣。
「ちょうどいい」
レギュラスの内に、冷ややかな思考が立ち上がった。
この女ごと――沈めてしまえばいいのだ。
忌まわしき血、分霊箱を守る盾、そして厄介な憐れみの象徴。
すべてが静かに、一度で――封じられる。
拳を握った。
肌を殴るのは、生まれてこのかた一度たりともなかった。
とりわけ、女の顔に手を挙げたことなどない。
けれど、その感覚は今の彼を止めなかった。
「この女は、もうすぐ死ぬ。この沼に沈めば、戻ることすら適わない」
ならば――情も、礼も、意味がない。
ごく自然な動作のように、鳩尾へ拳を打ち込んだ。
ゴッ、と音がして、女の身体がくずおれ、地に打ちつけられる。
呻きも涙も聞こえなかった。ただ、衝撃と土の擦れる音だけが曇った空気に滲んだ。
そのまま、彼女の身体を仰向けに転がす。
黒いローブが乱れた胸元に、分霊箱である日記帳を、何のためらいもなく押し込む。
それはまるで埋葬の儀式だった。
人の温もりのなかへ、冷たい怨念の書を絡めとるように――丁寧に、確実に。
あとは、沈めるだけだ。
レギュラスの足が、躊躇なくアリスの脇腹を押し、背を転がし、ズリズリと沼へと足元を向かわせる。
苦しむように体をねじられるたびに、レギュラスは無表情に、足でもう一度蹴った。
背中が泥に沈む。
白い肌に傷がいくつもつく。
それでも言葉はなかった。
彼女の声は風に変わり、ただ、沈黙だけが広がっていった。
「これが一番、最善の方法なのだ」
どんな魔法よりも確かで、どんな言葉よりも強い結界になる。
選ばれし者の力には、阻む者がいてはならない。
ならば己は今、任務を完遂する兵士であると――信じていた。
……そのときだった。
遥か遠くから、声がした。
か細くて、けれど魂の奥に記憶があった。
その声は――“アラン”。
遠い森を縫うように、息のように不確かに、それでも確実な想いの音だった。
レギュラスは足を止めた。
「アラン……?」
視界に霞が射す。
背を押していた足をわずかに緩める。
そうだ。そうだった。
アランを探さねば。この森に入った時、手を握ってくれたのはアリスではない。
この沼に自分が帰ってくる理由は、アランに連なっていた。
胸に、生まれるはずの優しさが、一滴、一筋だけ差し込んだ気がした。
けれど視線の先には、すでに半分、泥に沈みかけた肉体。
――それが誰なのかさえ、半ば曖昧なまま。
レギュラスは、一度瞼を伏せた。
「これが済んだら、アランを探そう。ちゃんと迎えに行こう」
その思いを抱いて、
彼は再び、沈黙の水面を見つめた。
これこそが正しさだと思いながら、
自分の心すら、静かに眠らせながら。
沼の水面は、なおも不気味なほど静まり返っていた。
足元から這い上がる湿気が、皮膚の下にまで染み込み、骨のひんやりした感触を呼び覚ます。
アラン──いや、レギュラスの目にはそう映っていないその女の白い腕が、ほんのわずかにもがいた。
泥がはね、濁流ではなく重みをもって、彼女の体半分をゆっくりと呑み込んでいく。
水ではない。これは森そのものの血管だ。
一度深部に触れれば、そこから生きて還れる者はいないだろう――そう、確信していた。
彼はその光景を、ただ兵士の眼差しで見下ろしていた。
「これで終わる」
心の中で呟くその声は、冷たくも確かな任務完遂の響きを持っていた。
しかし──。
まただ。
耳の奥で、かすかにあの声がした。
幻聴などではないと思いたい。
異様な魔力に掻き消されながらも、確かに脳裏を叩く音色だった。
〈レギュラス〉
遠く、霧の向こうから。息を切らし、それでも真っすぐこちらへ向かってくるような呼び声。
頭をもたげそうになった瞬間、胸の奥にこびりついた命令が、その衝動を抑えつけた。
沼の縁に沈みかけた肉体が、水泡とともに微かに揺れた。
その動きが、妙に現実感を帯びる。
……この顔は誰だ? 本当にアリス・ブラックなのか?
それとも――。
一瞬、抑え込んできた何かが、脳裏で軋んだ。
「アランを……探すんだろう?」
幻か、真か、その言葉が自分自身の中で反響した。
足が止まった。
沼の闇は、言葉を持たぬまま深く沈黙する。
押し込むべき身体の下で、ぬるりとした冷たさがズボリと重く引こうとする力を伝えてくる。
このまま離せば――一息で飲まれ、跡形もなくなるだろう。
だが、あの声が頭から離れない。
振り払えば済むのに、振り払えない。
沼は、もう微動だにしなかった。
黒い水面は一片の波紋もなく、わずか前までそこにあった命を、音もなく呑み込んでいた。
まるで初めから何もなかったかのように、ただ禍々しい静けさだけが漂っている。
レギュラスはしばらくその水底を見つめていた。
心臓の音も、森のざわめきも、遠い世界の出来事のようで、自分の内側にあるのは硬質な空白だけだった。
やがて、視線を落とす。
手には、自分の杖と――あの女から奪った杖が握られていた。
「……餞にでも返してやるか」
低く、誰に告げるでもない声を心の中で呟く。
たかがマグル風情。
偶然にも宿ったわずかばかりの魔力を頼りに、この世界へ踏み込んできた女。
杖を握る資格など本来ないはずの女。
そんな女の杖を、これ以上持っている意味などない――そう思った。
重く沈む思考のまま、ふと指の間の杖を見やった。
そこには、古い刻印があった。
使い込まれた木肌の奥に、細く流れるように彫られた文字。
「(アラン・セシール)」
息が凍った。
脳裏で、何かが激しくきしみを上げ、そして一瞬で正しい位置に組み直される。
――森に入った瞬間からのすべての記憶。
手を繋いで歩いた人の顔。
呼び続けてきた声。
杖を奪った時の、混乱と哀しみが入り混じった眼差し。
太ももを刺した時の、声にならぬ痛みの吐息。
手を踏みつけ、立ち上がらせまいと力を込めたあの足の感触。
鳩尾へ拳を叩き込み、蹴り飛ばしたとき。
そしていま――この手で、沼の底へ突き落とした女。
……アリス・ブラックではない。
アラン――だった。
