4章
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夕暮れの光が、ゆっくりと屋敷の蔦の影を伸ばしていくころ。
ダイニングには穏やかな静けさが満ちていた。
アランが「何か甘いものを」と言って、キッチンへと向かったのはつい先ほどのこと。
鉢に摘まれたばかりのローズマリーが香り立ち、銀のポットからティーが薄く湯気を立てている。
食卓には、レギュラスとセレナの二人だけ。
まどろむような、質の違う沈黙が流れていた。
「……お兄さま、ちゃんとお話しできているといいですわね」
セレナがふわりと頬杖をつきながら、ティーカップの縁を指先でなぞるように言った。
その声音は、心配というより、一歩下がった妹の静かな優しさを帯びていた。
レギュラスはグラス越しに娘を見やって、ふと目を細める。
「……セレナは、そういう緊張とは無縁そうですね」
言葉には皮肉も響きもなく、ただ率直な感想としてのため息まじり。
確かにこの娘は、どこにいても堂々としていた。
誰の前でも物怖じせず、その口調も目線も変わることがない。
貴族の令嬢としての品位と、母から受け継いだ静けさ。
さらには、少しばかりの父への批評精神。
──どんな場でも、彼女は自分で自分を立てて歩いて行ける。
けれどもしも、未来の王子の前に立つ日が来たとしたら――
セレナはそのとき、果たしてどのように振る舞うだろうか。
父として密かに気になるのは、そんな瞬間だった。
すると、セレナがカップを持ち上げもせずに、ぽつりと言った。
「緊張せずに誰とでも話せるようになったのは、幼い頃――たくさんのご令嬢たちと一緒に、屋敷で過ごしたからですわ」
言葉の意味を理解した瞬間、ティーカップを傾けかけたレギュラスの手が、微かに止まった。
短くはぎ取られるような沈黙のあと、彼はその言葉を胸の内で反響させる。
……ああ、そうか。
その「ご令嬢たち」という言い回しは――
その昔、父オリオンと母ヴァルブルガが世継ぎを増やすという名目で屋敷に迎え入れた、複数の「女性たち」のことを、婉曲に指しているのだとすぐにわかった。
セレナは、その彼女たちと何ら隔たりなく育っていた。
いや、表面上はまるで垣根もなく、物おじひとつ見せなかった。
それでも、子供というのは、時に大人よりもよく知っているのだ。
何が正しく、何が見ないふりをされているのかを。
そして今、自分の目の前でその話題をこうして運んでくるというのは……
決して責めるでも、問うでもない。
ただひとつ、「今も覚えていますよ」と、静かに伝えてきたのだと、レギュラスは思った。
「……そうでしたね」
それ以上、何も言えなかった。
あの時、セレナの髪を梳いてくれていたひとりの令嬢に、父として何も思わなかったわけではない。
けれど、それよりも、あの頃のセレナの心の奥を、きちんと見てやれなかったのだという痛み――
それが今、遅れて胸に差し込んできた。
「けれど」
セレナは言う。柔らかく、けれど芯のある声で。
「私は、お父さまたちの選択を責めたことはありませんわ。誰を守るか知っていたからこそ……私は、誰ともちゃんと話せるようになったのですもの」
その笑みは、もう娘ではなく、
「王となる誰かの隣で生きる覚悟」を持った女性の顔だった。
レギュラスは、ただ視線を伏せ、ワインに一筋の光を落とした。
言葉では言い表せない感情が、ひとつ、胸の奥で解けていくのを感じながら――
この娘は、どこまでも強く、美しいと思った。
夕暮れの光が、カーテンごしに淡く寝室の絨毯を照らしていた。
食卓で交わされた会話は静かに終わり、ティーカップの揺らぎも今はもうない。
けれど、セレナの胸の中は、その静けさとは対照的に、微かにざわめいていた。
父が機微に気づいたあのとき、
食卓で交わされた言葉のすべてが、ただの談笑ではなかったことに――
父も、気づいてしまったはずだった。
「幼いころたくさんの令嬢たちと過ごしたから」と言ったあの言葉。
それはただの事実として紡いだわけではない。
あの頃の、自分にはどうしようもなかった揺らぎと、ずっと抱えてきた胸の内と――
それらすべてを、ほんのわずかに滲ませた、精一杯の棘だった。
セレナは、よく覚えていた。
色とりどりのドレスをまとい、紅茶の香りに包まれて優雅に微笑む、幾人もの令嬢たちの姿を。
――彼女たちはみな、「側室になるかもしれない女性たち」だった。
幼い自分にはもちろんそんな言葉は知らなかった。
けれど、“どこか違う”、という空気だけは肌で感じ取っていた。
その時、母はただ静かだった。
怒るでも、拒むでもなく。
祖父母の決めたことに、声一つ上げず、
ただやわらかく微笑んで――令嬢たちを、家族のように迎えていた。
その姿を見るたび、
セレナの胸は締めつけられるような気持ちで満ちていった。
そして、笑った。
苦しかった。
けれど、母が笑うから、娘である自分も笑うしかなかった。
――もし、母の中に心の拠り所があるとすれば。
それは、シリウス・ブラックという名の男なのではないか――
少女でしかなかったあの頃のセレナですら、なんとなくそう思ってしまった。
だから、母は、若く美しい令嬢たちが父のもとに遣わされても、
嫉妬や焦燥を微塵も見せなかったのではないか。
どれだけ静かでも、どれだけ穏やかでも――
その安定は「諦めの上」に築かれたものではないかと、
まだ子供だった自分は、あまりに感情に寄りすぎた想像で怯えていた。
もしも母が、
父という存在を「愛していない」のだとしたら。
父が、その愛に報われないまま、すべてを諦めてしまったとしたら。
その物語の先には、両親が両親でなくなる未来が待っている。
怖かった。
とても怖かった。
だからこそ、セレナは明るくふるまった。
読み聞かせをしてくれる令嬢にも、髪を優しく解いてくれる令嬢にも、
自然に笑って礼を言い、仲良く過ごせるように努めた。
母のように、誰にも負けない品と、しなやかさを装って。
だけど忘れられない。
ある日、
ごく偶然知ってしまった父のこと――
「父が、あの令嬢たちの部屋を数度、訪れたらしい」と。
その瞬間、セレナの中で、
何かが音を立てて割れるのを感じた。
まるで、氷の下に閉じ込めていた“父と母の関係”というものが、
ほんのすこしの熱で一気に溶けていったようだった。
父が、母のことを――
ついに「諦めた」のだと思った。
もし本当に、その心を手放してしまったのだとしたら。
もう母は、愛されないまま、淡々と自分たちを育てることになるかもしれない。
それが、何よりも恐ろしかった。
両親を失う、というのは、
どちらかがいなくなることではなく、
どちらかの心がもう、相手にないということなのだと――
セレナは、ようやくそのとき知ったのだった。
だから。
今日、あの食卓で、
やんわり嫌味のようにその時のことを口にしたのは――
ほんの少しでも、 あの頃の娘の気持ちを分かっていてほしいと思ったからだった。
幼い自分が、どうにも拭えなかった不安と、
それでも必死に保とうとした家族への誇りを、
いつか誰かに伝えたかった。
たとえ、それが父自身に向けた、少しばかりの皮肉だったとしても――
あのときの会話を反芻しながら、
セレナはカップの底に光る紅茶の雫を、静かに見つめていた。
そして、心の中でひとつだけ、そっと願った。
「どうか、許して」
その奥にあったのは、
愛されていたいと思った、幼い日の祈りだった。
王室宮殿は祝賀の華々しさで満たされていた。
煌びやかな燭光がシャンデリアから細やかに落ち、美しく磨かれた床に金の光として反射している。
宮殿の扉が大きく開かれたとき、すべての視線が、ひとりの少女に注がれた。
セレナ・ブラック。
その姿はまるで、夜空の星を閉じ込めたようだった。
高貴な深紅のドレスには繊細な金糸が編み込まれ、裾から肩口まで一続きの光を纏っている。
細く伸びた首筋、瞼に落ちる影のひとつひとつに、並ぶ誰もが息を呑んだ。
その装いを整えたのは――アラン。
自らの手で、娘の一縫い一縫いを整えるように、愛おしみと誇りを込めて仕立てた。
どこまでも優美で凛として、どの瞬間にも“芸術”と呼ぶべき精緻な仕上がりだった。
母であり、ひとりの女性として――
アランは今、この娘の背中を誇りと共に見つめている。
王子の前に立つセレナは、一歩も退かず臆さず、確かな気迫をたたえていた。
その立ち姿に、幼き日の面影はなかった。
アランの柔らかさとは異なる、
燃えるような意志と、眉目に宿る冷静な強さ。
王という存在を前にしても、何も失わぬ気高さと熟れゆく王妃としての貫禄が、自然ににじんでいた。
王子は、そんなセレナの手をとり、深く一礼を捧げた。
その手を受け取ったまま、セレナがごく自然に笑んだとき――
この場は確かに、彼女が照らしたのだと誰もが息を呑んだ。
そして、会場の奥、格式ある長テーブルの端にはレギュラス・ブラックの姿があった。
暗いローブに金のラインを重ねた正装は、まさに純血一族の威厳を体現している。
その眼差しはいつになく柔らかく、けれど芯に強い光を持っていた。
今日、この祝賀は娘の婚約を祝うだけのものではない――
レギュラスにとって、それは歴史の一節を刻むための場だった。
今やブラック家の娘が未来の王妃としてこの国の中心に立つ。
そしてレギュラスは娘の背に、この婚姻を通じて新たなる法を結びつけようとしていた。
——純血魔法使い保護法。
この祝宴の裏で成文が進められ、イングランド王国の名において、その法が国の全土を覆う道筋を得た。
王家もまた、その理念――“純血の血は文化であり誇りである”という基本に強く賛同したため、交渉は実に円滑だった。
レギュラスは、ワイングラスをそっと傾ける。
金線の入った深紅の液体は、まるで結ばれた血の契りのように感じられた。
この日という刻が、
セレナのためだけでなく――
これからも続く、魔法族の誇りを担う血族たちの未来までもを守るための“礎”になったという実感が、
確かな幸福と、満たされた静けさを、胸いっぱいに広げていた。
誰がなんと言おうと、これは純血一族にとってひとつの黄金の門出だった。
そしてレギュラスは、その未来の風景を、
自らの手で、この瞬間に結びつけたのだ。
娘の凛とした横顔――
王室の微笑みのとなりに差す、確かな影のない光。
その姿を見つめるレギュラスの表情は、
今夜、誰よりも深く、愛と誇りに満ちていた。
イングランド王国の中央議会塔に、厳かなる音が鳴らされた。
王家の印を刻む重厚な鐘の音が、魔法界へもマグル界へも等しく響き渡るように――
その音は、「時代の転換」を告げる合図だった。
「純血魔法使い保護法」――
その名を冠された新たなる法案が、国の名において正式に可決されたのだ。
厳しい顔つきの魔法族たちが、薄紫の文書を手に記された法文を読み上げる。
その文面は、美辞麗句に隠れることのない、明確な意志を持っていた。
「マグルが魔法族を害した場合、その者および一族は極刑に処される」
「正当な理由をもって魔法族が杖を振るい、マグルの死に至らしめた場合、罪は問われない」
「マグルとの関わりにおいて、婚姻や往来には申請または審査を義務とする」
これらすべては、魔法族の尊厳と生命を守るための壁だった。
そしてそれは、かつての暗い歴史――
魔法族が“異端”とされ、火刑に処され、村から追われ、人知れず命を失った時代への断固たる終止符でもあった。
誰かが言った。
「これは、蘇った誇りだ」と。
法制可決の背景には、王家の支持と、セレナ・ブラックの婚姻にまつわる影響力があった。
未来の王妃となる魔法族の娘、その父であるレギュラス・ブラックの政治的手腕と統率力。
彼が背負い、導いたこの法は――ただの秩序ではない。抑制と“選別”の色合いが練り込まれていた。
かつて多くの純血魔法族が願い続けた「守られる世界」は、この法の施行によって初めて国家の枠に組み込まれたのだ。
街中の掲示板には、その翌日から小さな羽根をつけた法令の号外が張り出された。
人々はそれを見上げ、「ようやく」と呟き、安堵に肩をなで下ろした。
「これで、もう純血の子供が……マグルに攫われることもない」
「誇り高き血が、血として守られる……!」
そんな声の数々。
それらが生む響きは、恐怖や排斥ではなく――
むしろ“正しさ”という仮面をかぶった、確固たる自衛の色のようだった。
当然、異を唱える声もあった。
とくに魔法族とマグルの“融合”に命を懸けてきた騎士団や穏健派の一部にとっては、
この法は分断の象徴であり、魔力を持たぬ者への差別の始まりだと受け取られた。
しかし、国は動じなかった。
未来の王妃の面影を国中が見守る今――
その「光」に沿う者だけが、新しい国家の“正義”とされた。
正当化という名のもとに、選別された“守るべき命”が明記された。
魔法族の血を尊ぶ者たちは、この法の成立をこぞって歓迎した。
「この法こそ、我らが未来の布石」
そう語る一族の老人がいた。
その瞳には、甘美な確信と清浄なる誤解に満ちた“守られた幸福”が、静かに映っていた。
こうして、「純血魔法使い保護法」は国中に広まった。
法の壁は静かに立ちはだかりながら、
まるで祝福のように――
尊い魔法族たちの暮らしに、そっと満ちていった。
窓辺に射し込む月明かりは静かで、夜はどこまでも穏やかだった。
けれどアランの胸のうちには、その穏やかさとは裏腹に、言葉にできないさざ波が広がっていた。
晩餐を終えた寝室、控えめな灯りのもとでレギュラスが脱いだローブを丁寧に掛けている姿を、アランは横目に見つめていた。
何も問わなければ、何も崩れない。
そんな沈黙の均衡を保ちながら――それでも思いは、募っていく。
《純血魔法使い保護法》
あの日、国王と並んで発布に立ち会ったレギュラスの姿は、誰よりも正しく見えた。
冷静で、威厳に満ちて、誇りと意思をまっすぐに貫いた横顔。
それを胸を張って美しいと思う自分が確かにいた。
けれど――一方で、アランの心の奥には、誰にも明かせぬ痛みがあった。
あの法の文面を目にしたとき、アランは静かに本を閉じた。
確かに理解はできる。
魔法族を守りたいという気持ちも、もっともだと認められる。
けれど、その法のすき間からこぼれ落ちてゆく小さな灯たちの顔が、どうしても浮かんでしまった。
かつて、シリウスに誘われて訪れたマグルの街。
狭い通りの先に広がる市が、夜の風とマグルの音楽でにぎわっていた忘れがたい景色。
それは、“魔法かマグルか”という境界を、何ひとつ意識しなくてよかった世界だった。
もう、あの世界に――自由には戻れないのだ。
それが、とても、寂しかった。
アリス・ブラック。
あの子のことが、ふと脳裏をよぎった。
マグル生まれでありながら魔法を信じて立ち向かおうとしている彼女が……
これからは“誰かに許可をもらってからでないと、向かえない場所”が生まれてしまう。
誰が見張り、誰が裁くのか。
それすらまだ不透明な始まりなのに。
どこにも、自由がないと感じた。
守るための境界が、誰かにとってそのまま“生きにくさ”になっていく。
「これが、本当に……正しさなのかしら」
そんな言葉が、胸の奥で膨れていく。
それでも、アランは知っていた。
レギュラスがこの法に込めた思いの深さも、
純血の一族を守るために、幾つもの戦火を越えて道を築いてきたことも――
かけがえのない人を守る術を探し続けた年月も。
あの時、瀕死となった自分を抱きしめた手。
その手に込められた命と引き換えの祈り。
“共にあるために、ここにいる”という誓い。
だからこそ、アランは今夜もレギュラスの隣にいる。
遠くを見る目を、強さだけで飾られた影を、
そっと背後から支えるのが、自分の誓いだと胸に刻んでいるから。
この身はあなたに救われた。
ならば、同じ重さの決意で、あなたを支えたい。
法を疑う心と、レギュラスへの深い誠実が複雑に絡まりながらも、
その思いは穏やかな決意として、胸の奥で静かに燃えていた。
レギュラスがふとこちらを振り返る。
アランは微笑み、何も言わずにその手を取った。
自分の願いをすべて言葉にすることはできない。
それでも、触れ合う手と手のあいだには、いくつもの“誓い”が生きている。
どんな法がこの国を変えようとも、
自分たちの間に流れるものまで変えてしまうことは、決してないのだと。
アランはただ、静かに寄り添った。
それが、何よりの忠誠であり、
誰より深い愛の証だった。
王冠が頭上に置かれた瞬間、セレナ・ブラックの胸は言葉にならない何かで満たされた。
金の冠は思ったよりも軽く、けれどそれを支える首筋には、小さな震えが確かに宿っていた。
重みはなかった――ではなく、その重さに慣れていた。
いつのまにか、自分の中に沁み込んでいた「選ばれる者としての意志」。
そして今、ようやくそれが王国の名をもって認められたのだ。
父が交渉し、王と結び、国が制定した新たな法。
――「純血魔法使い保護法」
純血魔法族が虐げられた過去へ、鋭く切り込んだこの宣言は、
誰よりも誇り高く歩いてきたレギュラス・ブラックの正義そのものだった。
娘として、セレナはそれを知っている。
あの背中を見て育った。
あれほどまで強く、厳格に、そして誇りを失わぬ人間がこの世にいるのかと、
幼い心に刻まれた絶対の存在だった。
自分にとって、父の正しさはすべてだった。
その正しさが、「この国」で認められたという事実。
それは体の奥から滲み出すように、静かで確かな涙となりそうだった。
この法と共に、王妃として国に立つ意味を思えば、
この瞬間の震えは、恐れではなく――歓びの純度だった。
けれど、王座の光の中にいながら、ふと脳裏をよぎる顔がある。
母、アラン。
優しい人。
強さを口にせず、それでも誰よりしなやかに、どんな場面でも人の痛みに寄り添える人。
母は思うだろうか。
この法律が、マグル生まれの魔法使いたちを閉ざす壁になることを。
大切な人や場所に簡単に歩み寄れないという「見えない鎖」になることを、心苦しく思うだろうか。
アリス・ブラックのような人の肩を、またそっと抱いてやろうとするだろうか。
思わず、胸がきゅっと痛んだ。
それでは、母にとって自分は――
父と共に冷酷を選んだ、哀れな“権威”になってしまうのではないか。
否応なく芽吹きかける問い。
答えをもたぬまま、思考の隙間に漂う苦さだった。
そして、もう一人の影が脳裏に差す。
シリウス・ブラック――母がかつて心を交わした男。
かつてホグワーツで、誰よりも自由を愛し、
自分にも魔法の本質を教えてくれた教師だった男。
そして、母と共にあの“境界のない世界”を夢見た人。
きっと今の自分を見たら、彼は何を思うだろう――
名を呼ばなくなった王妃。
父の法に殉じ、国家と共に封じようとする若い女。
「自由」を語った彼女が、
今この場所で「隔てる側」として王冠を戴いている姿を、
恐ろしい女だと呟くのかもしれない――
微かに、胸の奥が軋んだ。
誰にも言えない、ひとりの少女としての揺らぎがそこにあった。
そして、さらにもう一人。
アリス・ブラック。
あの女には、確かに言いたいことがあった。
“ブラック”という名を冠していながら、
平等や融合をまっすぐに信じる魔女。
シリウスの理想に肩を並べ、マグルも混血も同じ命だと掲げる騎士団の志。
その在り方が、今やどれほど時代の反意と重なっているのか、彼女は本当に分かっているのだろうか。
むしろ問いたかった。
「それでもあなたは、私と同じ『ブラック』だと言えるのか?」
確かに彼女も、名を継いだ。
けれどそれは、ただの“養子”だった。
思想も血も違うその名を、軽々と背負っているように見えてならなかった。
血がつなぐもの、名が守るもの、罪を背負うこと、誇りを継ぐこと――
それらのすべてを、彼女は“善意”ひとつで抱えきれると思っているのか。
こんなにも時代が分かれてゆくというのに――。
けれど、それでも。
セレナは、心のどこかでまだ知っていた。
彼女たちの“善”が本当に嘘ではないことを。
母の優しさも、シリウスの無謀でまっすぐな理想も、
アリスの目の奥の痛みも。みんな、きっと本物で――
それでもなお、自分は“父の道”を選ぶことに震えるほどの誇りを感じてしまったことが、
何よりの答えになってしまっていた。
王冠の光が、ゆっくりと静寂に沈んでいく。
新たな王国の律として、刻まれた日。
涙は流れないまま、
セレナ・ブラックの中で「誰にも問えぬ問い」が
静かに――そして永遠に、揺らぎ始めていた。
王宮の大広間には、金糸の刺繍が施された天蓋が高く掲げられていた。
純白の花と光の粒が舞うなか、長い緋色の絨毯をゆっくりと歩くセレナの姿が、
まばゆいほどにこの日の空気を引き締めていた。
その頭上に、王家より授けられた王妃の冠が置かれた瞬間――
場内が静かに、そして確かに沸き立った。
一歩下がった来賓席の列で、アルタイル・ブラックは胸の奥に、
言葉にならない誇りの高鳴りを抱えてそれを見届けていた。
妹は美しかった。
凛として、まっすぐに、少しの濁りもない眼差し。
大きな国の象徴を戴いたその姿は、
かつて家の廊下を駆けて回っていた少女とはまるで別人のようにも見えたけれど――
それでも、自分の妹であるということが誇らしくてならなかった。
「……本当に、立派な方ですわね。セレナ様」
隣に座るイザベラが、柔らかく囁いた。
声は静かで、けれど真摯に心からの賞賛を含んでいた。
アルタイルは横目にその横顔を見た。
端正な輪郭の中に、惜しみない敬意を灯している――その穏やかな強さ。
イザベラは、母にも、セレナにも、父にも。
家族に対して、常に敬意を忘れない。
彼女のその在り方に、はじめて強く心を寄せた時のことを思い出す。
力でも、誇示でもなく――
彼女は、どの人の名にも、静かな敬意をそっと重ねられる人だった。
それを“美しい”と感じた。
たぶんそこが、一番に惹かれた部分だったのだと、いまになって確かに思う。
そして、ふと視線を泳がせ――
アルタイルは、そこに立つ母の顔へと目を遣った。
金の光のなかに立つ母・アランは、笑っていた。
けれどその笑みの奥に、微かに揺れるような影を見た気がした。
わかっているつもりだった。
わかりたかった。
もしかすると今この瞬間――
母の心には、かつて手を取り合って歩んだシリウス・ブラックの姿が浮かんでいるのかもしれない。
マグルとも魔法族とも隔たりなく、ともに生きる未来を信じていた、優しい理想を灯した男。
その夢は、今日という日――
娘の戴冠式に、父が国と定めた法律によって、明白に否定された。
母はきっと、その誰よりも、この“祝福の裏”にある温度差を知っている。
それでも、泣かず、怒らず――
ただ、美しい姿で横に立ち続けている。
また、アリス・ブラックのことも思い浮かべる。
マグル生まれで、けれど誰よりも誇り高く生きる魔女。
母が少女だったころに命をかけて救った、大切な存在。
そのアリスの生きる世界にも、
もう自由はない。
申請と許可と、境界の線が何重にも引かれてゆく――。
母はそのことをきっと知っていて、
今夜、それも抱えてここに立っているのだ。
「母の味方でいたい」と思うのに、
アルタイルは、どうしても思ってしまう。
「でも、やはり、父の考えのほうが正しい」と。
魔法族を守るために。家族を守るために。
そのためには線引きも、強い法も必要だったのだと。
理想では、命は救えないのだと。
けれど――
そう信じる自分が、今ここで微かに微笑む母の背に触れることができない。
抱きとめたいのに、心が追いつけない。
そのことが、苦しくて、たまらなかった。
会場には音楽が鳴り始めていた。
祝福と歓声の華やかな空気のなかで、
アルタイルはじっと己の胸の鼓動に、静かに耳を傾けていた。
母のために、間違ってしまいたくなかった。
けれど父を信じる心もまた、嘘ではなかった。
そのふたつの真実の狭間で、
彼は初めて「己の立場」を重たく感じていた。
そして、あの美しく冠を戴いた妹のように、
“揺れながらも信じて立ち続ける”ということ――
それを、自分も覚えなければならないのだと、深く胸に刻んでいた。
魔法省のホールはいつもと変わらず、人々が無言のまま歩く。
その足音のすべてが整然としていて、まるで誰もが決して立ち止まらぬよう、心を鎧で覆っているかのようだった。
アリス・ブラックは、その冷たい空気のなかにそっと立っていた。
細く息を吸い、記入済みの申請書を手に持って――
今日、マグル界へ渡るための「許可」を得るためだった。
かつてはただ外套を羽織り、通りを抜け、花を買い、墓前に座っていつものように母のことを話した。
たったそれだけのことが、今では書類を通し、審査を受け、許可を待たねばならない。
両親の墓に行きたいだけなのに。
そう思えば思うほど、胸の奥が裂けるように痛んだ。
少しでも未来が違っていたなら、と願ってしまう。
かつて孤児院の瓦礫の中、命だけ喰らい残ったあの夜。
アランという女性が、自分を見つけ、抱き起こしたその瞬間――
あそこで終わっていればよかったのではないか、とさえ、今は思ってしまう。
「助けられること」が、こんなにも生きづらさを背負わせるとは思わなかった。
階段の向こうからふたつの足音が近づいてきた。
アリスの心臓が、瞬間凍るように音を立てた。
薄く、そして洗練された制服姿の魔法使いたち――
ひとりはセレナ・ブラック。そしてもうひとりは、アルタイルだった。
法務部見習いとして魔法省に通うアルタイルと、彼に寄り添うようにして、王妃としての所作を崩さぬセレナ。
そして対面した、その一瞬。
アリスの中に積み上がっていた――そう、ほとんど沈殿していたはずの憎悪が、
ガラス細工のように割れて噴き出しそうになった。
「こんにちは、ブラック先生」
セレナがそう言った。
口元に微笑を添えて、丁寧な声。
それはまったく「非の打ちどころのない少女」が放つ、日常の挨拶だった。
だが――アリスの耳には、あの「ブラック」という姓が、まるで痛みの棘のように響いた。
わざわざ姓で呼ぶ。
魂や肌の温度を知る間柄でありながら、あえてそうするのだとしたら。
それは、この女が、
〈血に基づく名前の違い〉を、いまだに“使い分ける人間である”ことを示すものだと――アリスは思ってしまった。
アルタイルは言葉を添えず、無言で深く一礼した。
その所作には、余計な色がなかったぶんだけ、逆に距離がはっきり感じられた。
初めて会った日、どこか針のように胸を刺した“違和感”が、今になって確信に変わった。
この女――セレナ・ブラックは、
静かすぎるほどのまなざしでいつも「何かを測っている」。
善意や正義をすぐに口にせず、かわいい笑顔の奥から、
世界を「純血」と「それ以外」に色分けしている――
そんな気配を、アリスは未だに彼女から感じ取っていた。
戴冠式のときもそうだった。
誇り高く、気高く、民の前に立つ姿。
どこかで眩しいとも感じたその姿が、
まるで「選ばれた血筋の娘である」ことの正しさを、世界に証するためのもののように見えてしまった。
アリスの心は叫んでいた。
「何が偉いの。あなたたちは名前と家系で戦わずとも、もう守ってもらえる世界に生きているじゃないか」と。
名前だけで、見下される。
血一滴で、秩序の外とされる。
どこまでも冷たい――
そして、決して彼女たちには気づけない「弱さの側」の感覚。
セレナの挨拶に、アリスは返せなかった。
口が開かなかったのではない。
言葉にするには、感情が多すぎたのだ。
その沈黙にも、セレナは何も言わず、ただ静かに通り過ぎていった。
深く礼をすることも、顔色を変えることもなく。
だから余計に、アリスの胸には鋭く残った。
この女はきっと、一生“自分の正しさの中だけ”で生きていくのだと。
そしてその中心にあるのは、あの父――レギュラス・ブラックであり、制定された新たな法であり――
自分たちを塵のように切り捨てた、あの《時代そのもの》だった。
静寂が戻る大理石の廊下。
アリスは申請書を握りしめたまま、ただその場に立ち尽くしていた。
眉を伏せ、何も言わず、目だけが涙すら許されない痛みで曇っていた。
けれどその唇だけは、決して震えなかった。
まだ――諦めるには早い。
その怒りも信念も、抗ってきた日々も。
自分という存在が、この世界に確かに「異分子」とされても、
それでも立っている。
まだ、立っている――と。
大広間の奥、空気は冷たく重く、蝋燭の灯りだけが淡くゆらめいていた。
高位のデスイーターたちの気配が遠巻きにひしめくなかで、ひときわ深く沈んだ闇の中心に ――
ヴォルデモート卿は静かに佇んでいた。
彼の前に進み出たのは、ほかでもない、レギュラス・ブラックだった。
その姿勢は端正で、礼に欠けるところは何ひとつない。
けれど足音ひとつすら音を立てぬよう制された動きには、わずかな震えが確かに含まれていた。
「よく来た、レギュラス」
氷のような声音だった。
「お前は、実によく働いてくれた。湖の底に…ロケットを、しかと隠し終えたことも聞いている」
ヴォルデモートの唇がわずかに釣り上がる。
その笑みに喜びの色はない。
ただ、何かを“よし”と見なした者の、無感情な満足だった。
レギュラスは膝を折り、その前で静かに頭を下げた。
「光栄に存じます、我が主」
そして、次の言葉が告げられる。
「だからこそ——再び、お前に託したい」
低く滑るように発されたその声の調子には、
まるで撫でるような“頼りにしている”響きがあった。
けれど、レギュラスは息を飲んだ。
「託したい」——
その穏やかそうに見える選び方の裏には、決して抗えぬ強制の圧が染みついていた。
己自身の命ではない。
アランの命と引き換えに、この任務を受け入れたという記憶が、骨の奥にまで染みている。
問いただすことなど、できるはずがなかった。
「かしこまりました」
レギュラスは答えた。
完璧な礼儀の声。乱れのない所作。
けれど胸の内には、また……あの湖の底の恐怖が、ひたひたと這い戻ってきていた。
水底に沈む、闇と死の気配。
触れるたびに傷つく岩の壁。
生きたまま腐りかけた亡者たちが手を伸ばしてきた、あの冷たい指――
振り返ればあの夜、目を閉じることさえできなかった。
「次は……どのような地を」と、問うことさえ躊躇われた。
だが、ヴォルデモートはゆっくりと背を向け、
闇の奥にある魔導書のページを一つめくるように、口を開いた。
「沼だ」
「不浄の魔力が古代から染みついた土地……ウェストモアランドの“死せる森”の奥、魔力を持たぬ者は深く立ち入れぬ沼の底だ」
「そこに、また一つ……“あれ”を眠らせる」
レギュラスは一瞬、まばたきを忘れた。
その名を、まだ聞いていない。
けれど“あれ”が何を意味するかは、分かりきっている。
また、分霊箱なのだ。
また、命に近づき、死に触れ、何かを生贄に捧げさせられる。
また、自分という存在のどこかを――確かに削られる。
それでも、迷いの素振りには一寸たりとも出さなかった。
「……承知いたしました。準備が整い次第、向かいます」
その声に震えはなかった。
しかし、心の内で、レギュラスは深く、息を詰めていた。
自分の選んだ忠誠は、今やほかの誰のためでもない。
唯一人――沈黙のなかで生きてくれているあの人の命を守るため。
それだけが、唯一の動機であり、罪の赦しでもあった。
ヴォルデモートの背には低く闇が集まり、
そのまま言葉もなく、姿を奥へと消した。
審問も、追及もない。
ただ一言の「託そう」という響きに、命も理性も巻き取られていく。
レギュラスはその場に膝をついたまま、
指先にだけ、わずかに力をこめた。
——沼の底。
次は、どこまで堕ちなければならないのか。
けれどこの命がまだ仕える理由に、ひとつの光がある限り。
彼は、また足を踏み出す。
恐れを呑み込んだまま、沈黙の忠誠を携えて――。
屋敷に戻った夜は、やけに静かだった。
湿った春の風が中庭の枝葉を揺らし、窓辺のカーテンがわずかに波打っている。
部屋の中には誰の声もないのに、どこか音が重いように感じるのは――きっと、自分の胸がいまも音を立てているからだろう。
レギュラス・ブラックは、書斎の窓際にひとり腰を下ろしていた。
掌にあるのは、重厚な装丁の黒い手帳。手に取ってみれば、ただの古い革の日記のはずだった。
けれど、今それを握るこの手には、はっきりと“何か”が入り込んでいることがわかる。
凍りつくような気配。
静かで、しかし尋常ではない微かな痛み。
濁った叫びのような感情が、この無機質な日記には確かに宿っている。
分霊箱。
それが、今、自分の腕の中にある。
けれど、言葉にできぬまま日記をただ見つめるレギュラスの肩に――
そっ…と指が伸びた。
「……レギュラス」
やわらかな声がする。
アランだった。寝衣のまま、気配を殺してそばに来ていたのだろう。
そっと背後から回り込み、レギュラスが持つその日記に視線を落とす。
触れないまでも、わかったのだ。
それが“普通のものではない”ということを。
自分の夫が、また〈あの場所〉から何かを持ち帰ってきたことを。
レギュラスは日記に添えられた自分の手に、アランの白い指が静かに触れたことで、初めて肌を通して現実の重さを感じた。
「……すみません……」
かすれた声が口からこぼれた。
守るために始めたことだった。
けれど、今や自分がこうして持ち帰るたびに、アランの瞳に傷を刻ませてはいないか。
そう思うだけで、胸が軋む。
「次は、どこですか?」
アランが静かに問いかけた。
責めるでもなければ、動揺も滲ませない。
ただ、その問いには痛いほどの誠実さがあった。
“また、ついていくつもりです”
その意思を、すでに言葉に背負っているような声音だった。
レギュラスは口を開き、返した。
「……聞いたことも、ない地でした」
「ウェストモアランドの、死せる森。……その中にある、魔力に満ちた沼の底だそうです」
アランの指が、微かに強くなったのがわかった。
けれど、何も言わない。
泣かず、抗わず、ただじっと、彼の隣にいた。
「連れて行きたくない」
そう言いたかった。喉の奥まで込み上げていた。
でもそれを口にしてしまえばきっと、アランは静かに微笑んでから――それでもついてくると返すだろう。
だから言わない。
何も、もう言葉にはしなかった。
ただ、ぐっと拳を握る。
日記が、一瞬小さく熱を帯びたような気がした。
「こんなもの……なぜ、こんなものを、この手で」
――けれど、自分にはもう、拒む自由はない。
同じ人を生かしておくために。
同じ人に、心臓の鼓動が伝わるこの時間を続けるために。
それだけのために、また死の底へと沈むのだ。
アランは日記から手を離し、そっとレギュラスの膝の上に自分の手を重ねた。
「あなたが何のために身体を削っているのか――私が一番、知っています」
夜の切れ間から漏れる星の光が、ふたりの沈黙をやさしく照らした。
そしてその沈黙こそが、深く静かな対話だった。
胸に刺さる重さを分け合いながら、
ふたりは言葉にならぬまま、同じ闇の手前に、並んで立っていた。
夜は更けて、屋敷の空気もすっかり静まり返っていた。
書斎の奥で灯されたランプのかすかな明かりが、レギュラスとアランの影を壁に映している。
机の上には、地図と草のような資料が広げられていた。
ウェストモアランド――“死の森”と呼ばれる地の、かすれた魔法書の断片。
そして、その奥に潜む沼。
ヴォルデモートが次なる分霊箱の隠し場所として告げた、未知の土地。
「まずは、調べましょう」
「……その土地ならではの、魔力に適応する草木や、効く薬も作れるかもしれません」
アランの声は、淡くて落ち着いていた。
希望にすがるのではなく、淡々とすべき準備を積み重ねる、その懸命さが声に宿っていた。
けれど――レギュラスは、口を閉ざしたまま。
やがて、絞るようにして言葉を口にする。
「……ですが、それだけでは……」
淡く揺れた瞳が、地図の一点を見つめる。
紙に記された“死の森”という黒々とした印字。
闇が棲みつき、魔力の流れさえ歪むとされるその沼の底。
「事前にできる用意くらいで、抗えるとは限らない。
“あの場所”が持つ恐ろしさに、どこまで抗えるかすら……分かりません」
声に、冷えた恐怖が滲んでいた。
理知ではなく、記憶と感覚が告げる恐れだった。
あの洞窟の夜――死者の手に引きずられそうになったあの闇の深さが、再び体中を蝕んでいた。
それでも、と、アランは返す。
強くもない。優しすぎもしない。
ただその芯には、揺るぎのない“伴侶の覚悟”があった。
「だからこそ——できることは、していきましょう」
まるで自分自身に言い聞かせるように、でも確かに。
小さな光があればそれだけで足場になるのだと、教えるみたいに。
レギュラスは、答えなかった。
答えられなかった。
言葉を発したら、崩れてしまいそうだった。
静けさのなかで、やっと保たれている理性が、声一つで崩れてしまいそうだった。
それを察してか、アランがそっと、言った。
「……私は、あなたほどの腕などありません。
でも……それでも絶対に、あなたの“支え”にはなってみせます」
次の瞬間には、アランはその手を伸ばしていた。
レギュラスの背へ、そっと腕を回す。
何も急かさず、拒まれることも恐れず、ただ静かに。
ぐしりと音すらしないほどやさしく、彼女は彼を包み込んだ。
レギュラスの体が、小さく、震えていた。
魔力にも、呪文にも、政治にも怯えたことなどなかった男が。
今、愛するたったひとりを前にして、深く小刻みに震えていた。
そしてようやく、こぼれるように囁いた。
「……怖いんです」
「……あなたを失いそうで、それが……それだけが、本当に、怖いんです」
初めて聞くほど深い声音だった。
アランは何も言わず、しばらくその背に手を当てていた。
そして、ぽつりと微笑むように囁いた。
「大丈夫です」
「その時は、きっと――一緒でしょう?」
その言葉は、不思議なくらいにすとんと胸に落ちた。
悲しみよりも先に、安堵が広がっていくようだった。
“死ぬ時は一緒”
それは甘美な約束だった。
罪深くて、愛しくて、そして何より、温かい。
その言葉さえあれば、自分はどこへでも行ける。
心の底に沈む闇さえも、この人がいれば越えられると思えた。
•
震えは、いつしか止まっていた。
闇の夜に、小さな心臓の音だけが、寄せては返していた。
その音を、彼女は黙って、胸の奥でもう一度受け止めていた。
ダイニングには穏やかな静けさが満ちていた。
アランが「何か甘いものを」と言って、キッチンへと向かったのはつい先ほどのこと。
鉢に摘まれたばかりのローズマリーが香り立ち、銀のポットからティーが薄く湯気を立てている。
食卓には、レギュラスとセレナの二人だけ。
まどろむような、質の違う沈黙が流れていた。
「……お兄さま、ちゃんとお話しできているといいですわね」
セレナがふわりと頬杖をつきながら、ティーカップの縁を指先でなぞるように言った。
その声音は、心配というより、一歩下がった妹の静かな優しさを帯びていた。
レギュラスはグラス越しに娘を見やって、ふと目を細める。
「……セレナは、そういう緊張とは無縁そうですね」
言葉には皮肉も響きもなく、ただ率直な感想としてのため息まじり。
確かにこの娘は、どこにいても堂々としていた。
誰の前でも物怖じせず、その口調も目線も変わることがない。
貴族の令嬢としての品位と、母から受け継いだ静けさ。
さらには、少しばかりの父への批評精神。
──どんな場でも、彼女は自分で自分を立てて歩いて行ける。
けれどもしも、未来の王子の前に立つ日が来たとしたら――
セレナはそのとき、果たしてどのように振る舞うだろうか。
父として密かに気になるのは、そんな瞬間だった。
すると、セレナがカップを持ち上げもせずに、ぽつりと言った。
「緊張せずに誰とでも話せるようになったのは、幼い頃――たくさんのご令嬢たちと一緒に、屋敷で過ごしたからですわ」
言葉の意味を理解した瞬間、ティーカップを傾けかけたレギュラスの手が、微かに止まった。
短くはぎ取られるような沈黙のあと、彼はその言葉を胸の内で反響させる。
……ああ、そうか。
その「ご令嬢たち」という言い回しは――
その昔、父オリオンと母ヴァルブルガが世継ぎを増やすという名目で屋敷に迎え入れた、複数の「女性たち」のことを、婉曲に指しているのだとすぐにわかった。
セレナは、その彼女たちと何ら隔たりなく育っていた。
いや、表面上はまるで垣根もなく、物おじひとつ見せなかった。
それでも、子供というのは、時に大人よりもよく知っているのだ。
何が正しく、何が見ないふりをされているのかを。
そして今、自分の目の前でその話題をこうして運んでくるというのは……
決して責めるでも、問うでもない。
ただひとつ、「今も覚えていますよ」と、静かに伝えてきたのだと、レギュラスは思った。
「……そうでしたね」
それ以上、何も言えなかった。
あの時、セレナの髪を梳いてくれていたひとりの令嬢に、父として何も思わなかったわけではない。
けれど、それよりも、あの頃のセレナの心の奥を、きちんと見てやれなかったのだという痛み――
それが今、遅れて胸に差し込んできた。
「けれど」
セレナは言う。柔らかく、けれど芯のある声で。
「私は、お父さまたちの選択を責めたことはありませんわ。誰を守るか知っていたからこそ……私は、誰ともちゃんと話せるようになったのですもの」
その笑みは、もう娘ではなく、
「王となる誰かの隣で生きる覚悟」を持った女性の顔だった。
レギュラスは、ただ視線を伏せ、ワインに一筋の光を落とした。
言葉では言い表せない感情が、ひとつ、胸の奥で解けていくのを感じながら――
この娘は、どこまでも強く、美しいと思った。
夕暮れの光が、カーテンごしに淡く寝室の絨毯を照らしていた。
食卓で交わされた会話は静かに終わり、ティーカップの揺らぎも今はもうない。
けれど、セレナの胸の中は、その静けさとは対照的に、微かにざわめいていた。
父が機微に気づいたあのとき、
食卓で交わされた言葉のすべてが、ただの談笑ではなかったことに――
父も、気づいてしまったはずだった。
「幼いころたくさんの令嬢たちと過ごしたから」と言ったあの言葉。
それはただの事実として紡いだわけではない。
あの頃の、自分にはどうしようもなかった揺らぎと、ずっと抱えてきた胸の内と――
それらすべてを、ほんのわずかに滲ませた、精一杯の棘だった。
セレナは、よく覚えていた。
色とりどりのドレスをまとい、紅茶の香りに包まれて優雅に微笑む、幾人もの令嬢たちの姿を。
――彼女たちはみな、「側室になるかもしれない女性たち」だった。
幼い自分にはもちろんそんな言葉は知らなかった。
けれど、“どこか違う”、という空気だけは肌で感じ取っていた。
その時、母はただ静かだった。
怒るでも、拒むでもなく。
祖父母の決めたことに、声一つ上げず、
ただやわらかく微笑んで――令嬢たちを、家族のように迎えていた。
その姿を見るたび、
セレナの胸は締めつけられるような気持ちで満ちていった。
そして、笑った。
苦しかった。
けれど、母が笑うから、娘である自分も笑うしかなかった。
――もし、母の中に心の拠り所があるとすれば。
それは、シリウス・ブラックという名の男なのではないか――
少女でしかなかったあの頃のセレナですら、なんとなくそう思ってしまった。
だから、母は、若く美しい令嬢たちが父のもとに遣わされても、
嫉妬や焦燥を微塵も見せなかったのではないか。
どれだけ静かでも、どれだけ穏やかでも――
その安定は「諦めの上」に築かれたものではないかと、
まだ子供だった自分は、あまりに感情に寄りすぎた想像で怯えていた。
もしも母が、
父という存在を「愛していない」のだとしたら。
父が、その愛に報われないまま、すべてを諦めてしまったとしたら。
その物語の先には、両親が両親でなくなる未来が待っている。
怖かった。
とても怖かった。
だからこそ、セレナは明るくふるまった。
読み聞かせをしてくれる令嬢にも、髪を優しく解いてくれる令嬢にも、
自然に笑って礼を言い、仲良く過ごせるように努めた。
母のように、誰にも負けない品と、しなやかさを装って。
だけど忘れられない。
ある日、
ごく偶然知ってしまった父のこと――
「父が、あの令嬢たちの部屋を数度、訪れたらしい」と。
その瞬間、セレナの中で、
何かが音を立てて割れるのを感じた。
まるで、氷の下に閉じ込めていた“父と母の関係”というものが、
ほんのすこしの熱で一気に溶けていったようだった。
父が、母のことを――
ついに「諦めた」のだと思った。
もし本当に、その心を手放してしまったのだとしたら。
もう母は、愛されないまま、淡々と自分たちを育てることになるかもしれない。
それが、何よりも恐ろしかった。
両親を失う、というのは、
どちらかがいなくなることではなく、
どちらかの心がもう、相手にないということなのだと――
セレナは、ようやくそのとき知ったのだった。
だから。
今日、あの食卓で、
やんわり嫌味のようにその時のことを口にしたのは――
ほんの少しでも、 あの頃の娘の気持ちを分かっていてほしいと思ったからだった。
幼い自分が、どうにも拭えなかった不安と、
それでも必死に保とうとした家族への誇りを、
いつか誰かに伝えたかった。
たとえ、それが父自身に向けた、少しばかりの皮肉だったとしても――
あのときの会話を反芻しながら、
セレナはカップの底に光る紅茶の雫を、静かに見つめていた。
そして、心の中でひとつだけ、そっと願った。
「どうか、許して」
その奥にあったのは、
愛されていたいと思った、幼い日の祈りだった。
王室宮殿は祝賀の華々しさで満たされていた。
煌びやかな燭光がシャンデリアから細やかに落ち、美しく磨かれた床に金の光として反射している。
宮殿の扉が大きく開かれたとき、すべての視線が、ひとりの少女に注がれた。
セレナ・ブラック。
その姿はまるで、夜空の星を閉じ込めたようだった。
高貴な深紅のドレスには繊細な金糸が編み込まれ、裾から肩口まで一続きの光を纏っている。
細く伸びた首筋、瞼に落ちる影のひとつひとつに、並ぶ誰もが息を呑んだ。
その装いを整えたのは――アラン。
自らの手で、娘の一縫い一縫いを整えるように、愛おしみと誇りを込めて仕立てた。
どこまでも優美で凛として、どの瞬間にも“芸術”と呼ぶべき精緻な仕上がりだった。
母であり、ひとりの女性として――
アランは今、この娘の背中を誇りと共に見つめている。
王子の前に立つセレナは、一歩も退かず臆さず、確かな気迫をたたえていた。
その立ち姿に、幼き日の面影はなかった。
アランの柔らかさとは異なる、
燃えるような意志と、眉目に宿る冷静な強さ。
王という存在を前にしても、何も失わぬ気高さと熟れゆく王妃としての貫禄が、自然ににじんでいた。
王子は、そんなセレナの手をとり、深く一礼を捧げた。
その手を受け取ったまま、セレナがごく自然に笑んだとき――
この場は確かに、彼女が照らしたのだと誰もが息を呑んだ。
そして、会場の奥、格式ある長テーブルの端にはレギュラス・ブラックの姿があった。
暗いローブに金のラインを重ねた正装は、まさに純血一族の威厳を体現している。
その眼差しはいつになく柔らかく、けれど芯に強い光を持っていた。
今日、この祝賀は娘の婚約を祝うだけのものではない――
レギュラスにとって、それは歴史の一節を刻むための場だった。
今やブラック家の娘が未来の王妃としてこの国の中心に立つ。
そしてレギュラスは娘の背に、この婚姻を通じて新たなる法を結びつけようとしていた。
——純血魔法使い保護法。
この祝宴の裏で成文が進められ、イングランド王国の名において、その法が国の全土を覆う道筋を得た。
王家もまた、その理念――“純血の血は文化であり誇りである”という基本に強く賛同したため、交渉は実に円滑だった。
レギュラスは、ワイングラスをそっと傾ける。
金線の入った深紅の液体は、まるで結ばれた血の契りのように感じられた。
この日という刻が、
セレナのためだけでなく――
これからも続く、魔法族の誇りを担う血族たちの未来までもを守るための“礎”になったという実感が、
確かな幸福と、満たされた静けさを、胸いっぱいに広げていた。
誰がなんと言おうと、これは純血一族にとってひとつの黄金の門出だった。
そしてレギュラスは、その未来の風景を、
自らの手で、この瞬間に結びつけたのだ。
娘の凛とした横顔――
王室の微笑みのとなりに差す、確かな影のない光。
その姿を見つめるレギュラスの表情は、
今夜、誰よりも深く、愛と誇りに満ちていた。
イングランド王国の中央議会塔に、厳かなる音が鳴らされた。
王家の印を刻む重厚な鐘の音が、魔法界へもマグル界へも等しく響き渡るように――
その音は、「時代の転換」を告げる合図だった。
「純血魔法使い保護法」――
その名を冠された新たなる法案が、国の名において正式に可決されたのだ。
厳しい顔つきの魔法族たちが、薄紫の文書を手に記された法文を読み上げる。
その文面は、美辞麗句に隠れることのない、明確な意志を持っていた。
「マグルが魔法族を害した場合、その者および一族は極刑に処される」
「正当な理由をもって魔法族が杖を振るい、マグルの死に至らしめた場合、罪は問われない」
「マグルとの関わりにおいて、婚姻や往来には申請または審査を義務とする」
これらすべては、魔法族の尊厳と生命を守るための壁だった。
そしてそれは、かつての暗い歴史――
魔法族が“異端”とされ、火刑に処され、村から追われ、人知れず命を失った時代への断固たる終止符でもあった。
誰かが言った。
「これは、蘇った誇りだ」と。
法制可決の背景には、王家の支持と、セレナ・ブラックの婚姻にまつわる影響力があった。
未来の王妃となる魔法族の娘、その父であるレギュラス・ブラックの政治的手腕と統率力。
彼が背負い、導いたこの法は――ただの秩序ではない。抑制と“選別”の色合いが練り込まれていた。
かつて多くの純血魔法族が願い続けた「守られる世界」は、この法の施行によって初めて国家の枠に組み込まれたのだ。
街中の掲示板には、その翌日から小さな羽根をつけた法令の号外が張り出された。
人々はそれを見上げ、「ようやく」と呟き、安堵に肩をなで下ろした。
「これで、もう純血の子供が……マグルに攫われることもない」
「誇り高き血が、血として守られる……!」
そんな声の数々。
それらが生む響きは、恐怖や排斥ではなく――
むしろ“正しさ”という仮面をかぶった、確固たる自衛の色のようだった。
当然、異を唱える声もあった。
とくに魔法族とマグルの“融合”に命を懸けてきた騎士団や穏健派の一部にとっては、
この法は分断の象徴であり、魔力を持たぬ者への差別の始まりだと受け取られた。
しかし、国は動じなかった。
未来の王妃の面影を国中が見守る今――
その「光」に沿う者だけが、新しい国家の“正義”とされた。
正当化という名のもとに、選別された“守るべき命”が明記された。
魔法族の血を尊ぶ者たちは、この法の成立をこぞって歓迎した。
「この法こそ、我らが未来の布石」
そう語る一族の老人がいた。
その瞳には、甘美な確信と清浄なる誤解に満ちた“守られた幸福”が、静かに映っていた。
こうして、「純血魔法使い保護法」は国中に広まった。
法の壁は静かに立ちはだかりながら、
まるで祝福のように――
尊い魔法族たちの暮らしに、そっと満ちていった。
窓辺に射し込む月明かりは静かで、夜はどこまでも穏やかだった。
けれどアランの胸のうちには、その穏やかさとは裏腹に、言葉にできないさざ波が広がっていた。
晩餐を終えた寝室、控えめな灯りのもとでレギュラスが脱いだローブを丁寧に掛けている姿を、アランは横目に見つめていた。
何も問わなければ、何も崩れない。
そんな沈黙の均衡を保ちながら――それでも思いは、募っていく。
《純血魔法使い保護法》
あの日、国王と並んで発布に立ち会ったレギュラスの姿は、誰よりも正しく見えた。
冷静で、威厳に満ちて、誇りと意思をまっすぐに貫いた横顔。
それを胸を張って美しいと思う自分が確かにいた。
けれど――一方で、アランの心の奥には、誰にも明かせぬ痛みがあった。
あの法の文面を目にしたとき、アランは静かに本を閉じた。
確かに理解はできる。
魔法族を守りたいという気持ちも、もっともだと認められる。
けれど、その法のすき間からこぼれ落ちてゆく小さな灯たちの顔が、どうしても浮かんでしまった。
かつて、シリウスに誘われて訪れたマグルの街。
狭い通りの先に広がる市が、夜の風とマグルの音楽でにぎわっていた忘れがたい景色。
それは、“魔法かマグルか”という境界を、何ひとつ意識しなくてよかった世界だった。
もう、あの世界に――自由には戻れないのだ。
それが、とても、寂しかった。
アリス・ブラック。
あの子のことが、ふと脳裏をよぎった。
マグル生まれでありながら魔法を信じて立ち向かおうとしている彼女が……
これからは“誰かに許可をもらってからでないと、向かえない場所”が生まれてしまう。
誰が見張り、誰が裁くのか。
それすらまだ不透明な始まりなのに。
どこにも、自由がないと感じた。
守るための境界が、誰かにとってそのまま“生きにくさ”になっていく。
「これが、本当に……正しさなのかしら」
そんな言葉が、胸の奥で膨れていく。
それでも、アランは知っていた。
レギュラスがこの法に込めた思いの深さも、
純血の一族を守るために、幾つもの戦火を越えて道を築いてきたことも――
かけがえのない人を守る術を探し続けた年月も。
あの時、瀕死となった自分を抱きしめた手。
その手に込められた命と引き換えの祈り。
“共にあるために、ここにいる”という誓い。
だからこそ、アランは今夜もレギュラスの隣にいる。
遠くを見る目を、強さだけで飾られた影を、
そっと背後から支えるのが、自分の誓いだと胸に刻んでいるから。
この身はあなたに救われた。
ならば、同じ重さの決意で、あなたを支えたい。
法を疑う心と、レギュラスへの深い誠実が複雑に絡まりながらも、
その思いは穏やかな決意として、胸の奥で静かに燃えていた。
レギュラスがふとこちらを振り返る。
アランは微笑み、何も言わずにその手を取った。
自分の願いをすべて言葉にすることはできない。
それでも、触れ合う手と手のあいだには、いくつもの“誓い”が生きている。
どんな法がこの国を変えようとも、
自分たちの間に流れるものまで変えてしまうことは、決してないのだと。
アランはただ、静かに寄り添った。
それが、何よりの忠誠であり、
誰より深い愛の証だった。
王冠が頭上に置かれた瞬間、セレナ・ブラックの胸は言葉にならない何かで満たされた。
金の冠は思ったよりも軽く、けれどそれを支える首筋には、小さな震えが確かに宿っていた。
重みはなかった――ではなく、その重さに慣れていた。
いつのまにか、自分の中に沁み込んでいた「選ばれる者としての意志」。
そして今、ようやくそれが王国の名をもって認められたのだ。
父が交渉し、王と結び、国が制定した新たな法。
――「純血魔法使い保護法」
純血魔法族が虐げられた過去へ、鋭く切り込んだこの宣言は、
誰よりも誇り高く歩いてきたレギュラス・ブラックの正義そのものだった。
娘として、セレナはそれを知っている。
あの背中を見て育った。
あれほどまで強く、厳格に、そして誇りを失わぬ人間がこの世にいるのかと、
幼い心に刻まれた絶対の存在だった。
自分にとって、父の正しさはすべてだった。
その正しさが、「この国」で認められたという事実。
それは体の奥から滲み出すように、静かで確かな涙となりそうだった。
この法と共に、王妃として国に立つ意味を思えば、
この瞬間の震えは、恐れではなく――歓びの純度だった。
けれど、王座の光の中にいながら、ふと脳裏をよぎる顔がある。
母、アラン。
優しい人。
強さを口にせず、それでも誰よりしなやかに、どんな場面でも人の痛みに寄り添える人。
母は思うだろうか。
この法律が、マグル生まれの魔法使いたちを閉ざす壁になることを。
大切な人や場所に簡単に歩み寄れないという「見えない鎖」になることを、心苦しく思うだろうか。
アリス・ブラックのような人の肩を、またそっと抱いてやろうとするだろうか。
思わず、胸がきゅっと痛んだ。
それでは、母にとって自分は――
父と共に冷酷を選んだ、哀れな“権威”になってしまうのではないか。
否応なく芽吹きかける問い。
答えをもたぬまま、思考の隙間に漂う苦さだった。
そして、もう一人の影が脳裏に差す。
シリウス・ブラック――母がかつて心を交わした男。
かつてホグワーツで、誰よりも自由を愛し、
自分にも魔法の本質を教えてくれた教師だった男。
そして、母と共にあの“境界のない世界”を夢見た人。
きっと今の自分を見たら、彼は何を思うだろう――
名を呼ばなくなった王妃。
父の法に殉じ、国家と共に封じようとする若い女。
「自由」を語った彼女が、
今この場所で「隔てる側」として王冠を戴いている姿を、
恐ろしい女だと呟くのかもしれない――
微かに、胸の奥が軋んだ。
誰にも言えない、ひとりの少女としての揺らぎがそこにあった。
そして、さらにもう一人。
アリス・ブラック。
あの女には、確かに言いたいことがあった。
“ブラック”という名を冠していながら、
平等や融合をまっすぐに信じる魔女。
シリウスの理想に肩を並べ、マグルも混血も同じ命だと掲げる騎士団の志。
その在り方が、今やどれほど時代の反意と重なっているのか、彼女は本当に分かっているのだろうか。
むしろ問いたかった。
「それでもあなたは、私と同じ『ブラック』だと言えるのか?」
確かに彼女も、名を継いだ。
けれどそれは、ただの“養子”だった。
思想も血も違うその名を、軽々と背負っているように見えてならなかった。
血がつなぐもの、名が守るもの、罪を背負うこと、誇りを継ぐこと――
それらのすべてを、彼女は“善意”ひとつで抱えきれると思っているのか。
こんなにも時代が分かれてゆくというのに――。
けれど、それでも。
セレナは、心のどこかでまだ知っていた。
彼女たちの“善”が本当に嘘ではないことを。
母の優しさも、シリウスの無謀でまっすぐな理想も、
アリスの目の奥の痛みも。みんな、きっと本物で――
それでもなお、自分は“父の道”を選ぶことに震えるほどの誇りを感じてしまったことが、
何よりの答えになってしまっていた。
王冠の光が、ゆっくりと静寂に沈んでいく。
新たな王国の律として、刻まれた日。
涙は流れないまま、
セレナ・ブラックの中で「誰にも問えぬ問い」が
静かに――そして永遠に、揺らぎ始めていた。
王宮の大広間には、金糸の刺繍が施された天蓋が高く掲げられていた。
純白の花と光の粒が舞うなか、長い緋色の絨毯をゆっくりと歩くセレナの姿が、
まばゆいほどにこの日の空気を引き締めていた。
その頭上に、王家より授けられた王妃の冠が置かれた瞬間――
場内が静かに、そして確かに沸き立った。
一歩下がった来賓席の列で、アルタイル・ブラックは胸の奥に、
言葉にならない誇りの高鳴りを抱えてそれを見届けていた。
妹は美しかった。
凛として、まっすぐに、少しの濁りもない眼差し。
大きな国の象徴を戴いたその姿は、
かつて家の廊下を駆けて回っていた少女とはまるで別人のようにも見えたけれど――
それでも、自分の妹であるということが誇らしくてならなかった。
「……本当に、立派な方ですわね。セレナ様」
隣に座るイザベラが、柔らかく囁いた。
声は静かで、けれど真摯に心からの賞賛を含んでいた。
アルタイルは横目にその横顔を見た。
端正な輪郭の中に、惜しみない敬意を灯している――その穏やかな強さ。
イザベラは、母にも、セレナにも、父にも。
家族に対して、常に敬意を忘れない。
彼女のその在り方に、はじめて強く心を寄せた時のことを思い出す。
力でも、誇示でもなく――
彼女は、どの人の名にも、静かな敬意をそっと重ねられる人だった。
それを“美しい”と感じた。
たぶんそこが、一番に惹かれた部分だったのだと、いまになって確かに思う。
そして、ふと視線を泳がせ――
アルタイルは、そこに立つ母の顔へと目を遣った。
金の光のなかに立つ母・アランは、笑っていた。
けれどその笑みの奥に、微かに揺れるような影を見た気がした。
わかっているつもりだった。
わかりたかった。
もしかすると今この瞬間――
母の心には、かつて手を取り合って歩んだシリウス・ブラックの姿が浮かんでいるのかもしれない。
マグルとも魔法族とも隔たりなく、ともに生きる未来を信じていた、優しい理想を灯した男。
その夢は、今日という日――
娘の戴冠式に、父が国と定めた法律によって、明白に否定された。
母はきっと、その誰よりも、この“祝福の裏”にある温度差を知っている。
それでも、泣かず、怒らず――
ただ、美しい姿で横に立ち続けている。
また、アリス・ブラックのことも思い浮かべる。
マグル生まれで、けれど誰よりも誇り高く生きる魔女。
母が少女だったころに命をかけて救った、大切な存在。
そのアリスの生きる世界にも、
もう自由はない。
申請と許可と、境界の線が何重にも引かれてゆく――。
母はそのことをきっと知っていて、
今夜、それも抱えてここに立っているのだ。
「母の味方でいたい」と思うのに、
アルタイルは、どうしても思ってしまう。
「でも、やはり、父の考えのほうが正しい」と。
魔法族を守るために。家族を守るために。
そのためには線引きも、強い法も必要だったのだと。
理想では、命は救えないのだと。
けれど――
そう信じる自分が、今ここで微かに微笑む母の背に触れることができない。
抱きとめたいのに、心が追いつけない。
そのことが、苦しくて、たまらなかった。
会場には音楽が鳴り始めていた。
祝福と歓声の華やかな空気のなかで、
アルタイルはじっと己の胸の鼓動に、静かに耳を傾けていた。
母のために、間違ってしまいたくなかった。
けれど父を信じる心もまた、嘘ではなかった。
そのふたつの真実の狭間で、
彼は初めて「己の立場」を重たく感じていた。
そして、あの美しく冠を戴いた妹のように、
“揺れながらも信じて立ち続ける”ということ――
それを、自分も覚えなければならないのだと、深く胸に刻んでいた。
魔法省のホールはいつもと変わらず、人々が無言のまま歩く。
その足音のすべてが整然としていて、まるで誰もが決して立ち止まらぬよう、心を鎧で覆っているかのようだった。
アリス・ブラックは、その冷たい空気のなかにそっと立っていた。
細く息を吸い、記入済みの申請書を手に持って――
今日、マグル界へ渡るための「許可」を得るためだった。
かつてはただ外套を羽織り、通りを抜け、花を買い、墓前に座っていつものように母のことを話した。
たったそれだけのことが、今では書類を通し、審査を受け、許可を待たねばならない。
両親の墓に行きたいだけなのに。
そう思えば思うほど、胸の奥が裂けるように痛んだ。
少しでも未来が違っていたなら、と願ってしまう。
かつて孤児院の瓦礫の中、命だけ喰らい残ったあの夜。
アランという女性が、自分を見つけ、抱き起こしたその瞬間――
あそこで終わっていればよかったのではないか、とさえ、今は思ってしまう。
「助けられること」が、こんなにも生きづらさを背負わせるとは思わなかった。
階段の向こうからふたつの足音が近づいてきた。
アリスの心臓が、瞬間凍るように音を立てた。
薄く、そして洗練された制服姿の魔法使いたち――
ひとりはセレナ・ブラック。そしてもうひとりは、アルタイルだった。
法務部見習いとして魔法省に通うアルタイルと、彼に寄り添うようにして、王妃としての所作を崩さぬセレナ。
そして対面した、その一瞬。
アリスの中に積み上がっていた――そう、ほとんど沈殿していたはずの憎悪が、
ガラス細工のように割れて噴き出しそうになった。
「こんにちは、ブラック先生」
セレナがそう言った。
口元に微笑を添えて、丁寧な声。
それはまったく「非の打ちどころのない少女」が放つ、日常の挨拶だった。
だが――アリスの耳には、あの「ブラック」という姓が、まるで痛みの棘のように響いた。
わざわざ姓で呼ぶ。
魂や肌の温度を知る間柄でありながら、あえてそうするのだとしたら。
それは、この女が、
〈血に基づく名前の違い〉を、いまだに“使い分ける人間である”ことを示すものだと――アリスは思ってしまった。
アルタイルは言葉を添えず、無言で深く一礼した。
その所作には、余計な色がなかったぶんだけ、逆に距離がはっきり感じられた。
初めて会った日、どこか針のように胸を刺した“違和感”が、今になって確信に変わった。
この女――セレナ・ブラックは、
静かすぎるほどのまなざしでいつも「何かを測っている」。
善意や正義をすぐに口にせず、かわいい笑顔の奥から、
世界を「純血」と「それ以外」に色分けしている――
そんな気配を、アリスは未だに彼女から感じ取っていた。
戴冠式のときもそうだった。
誇り高く、気高く、民の前に立つ姿。
どこかで眩しいとも感じたその姿が、
まるで「選ばれた血筋の娘である」ことの正しさを、世界に証するためのもののように見えてしまった。
アリスの心は叫んでいた。
「何が偉いの。あなたたちは名前と家系で戦わずとも、もう守ってもらえる世界に生きているじゃないか」と。
名前だけで、見下される。
血一滴で、秩序の外とされる。
どこまでも冷たい――
そして、決して彼女たちには気づけない「弱さの側」の感覚。
セレナの挨拶に、アリスは返せなかった。
口が開かなかったのではない。
言葉にするには、感情が多すぎたのだ。
その沈黙にも、セレナは何も言わず、ただ静かに通り過ぎていった。
深く礼をすることも、顔色を変えることもなく。
だから余計に、アリスの胸には鋭く残った。
この女はきっと、一生“自分の正しさの中だけ”で生きていくのだと。
そしてその中心にあるのは、あの父――レギュラス・ブラックであり、制定された新たな法であり――
自分たちを塵のように切り捨てた、あの《時代そのもの》だった。
静寂が戻る大理石の廊下。
アリスは申請書を握りしめたまま、ただその場に立ち尽くしていた。
眉を伏せ、何も言わず、目だけが涙すら許されない痛みで曇っていた。
けれどその唇だけは、決して震えなかった。
まだ――諦めるには早い。
その怒りも信念も、抗ってきた日々も。
自分という存在が、この世界に確かに「異分子」とされても、
それでも立っている。
まだ、立っている――と。
大広間の奥、空気は冷たく重く、蝋燭の灯りだけが淡くゆらめいていた。
高位のデスイーターたちの気配が遠巻きにひしめくなかで、ひときわ深く沈んだ闇の中心に ――
ヴォルデモート卿は静かに佇んでいた。
彼の前に進み出たのは、ほかでもない、レギュラス・ブラックだった。
その姿勢は端正で、礼に欠けるところは何ひとつない。
けれど足音ひとつすら音を立てぬよう制された動きには、わずかな震えが確かに含まれていた。
「よく来た、レギュラス」
氷のような声音だった。
「お前は、実によく働いてくれた。湖の底に…ロケットを、しかと隠し終えたことも聞いている」
ヴォルデモートの唇がわずかに釣り上がる。
その笑みに喜びの色はない。
ただ、何かを“よし”と見なした者の、無感情な満足だった。
レギュラスは膝を折り、その前で静かに頭を下げた。
「光栄に存じます、我が主」
そして、次の言葉が告げられる。
「だからこそ——再び、お前に託したい」
低く滑るように発されたその声の調子には、
まるで撫でるような“頼りにしている”響きがあった。
けれど、レギュラスは息を飲んだ。
「託したい」——
その穏やかそうに見える選び方の裏には、決して抗えぬ強制の圧が染みついていた。
己自身の命ではない。
アランの命と引き換えに、この任務を受け入れたという記憶が、骨の奥にまで染みている。
問いただすことなど、できるはずがなかった。
「かしこまりました」
レギュラスは答えた。
完璧な礼儀の声。乱れのない所作。
けれど胸の内には、また……あの湖の底の恐怖が、ひたひたと這い戻ってきていた。
水底に沈む、闇と死の気配。
触れるたびに傷つく岩の壁。
生きたまま腐りかけた亡者たちが手を伸ばしてきた、あの冷たい指――
振り返ればあの夜、目を閉じることさえできなかった。
「次は……どのような地を」と、問うことさえ躊躇われた。
だが、ヴォルデモートはゆっくりと背を向け、
闇の奥にある魔導書のページを一つめくるように、口を開いた。
「沼だ」
「不浄の魔力が古代から染みついた土地……ウェストモアランドの“死せる森”の奥、魔力を持たぬ者は深く立ち入れぬ沼の底だ」
「そこに、また一つ……“あれ”を眠らせる」
レギュラスは一瞬、まばたきを忘れた。
その名を、まだ聞いていない。
けれど“あれ”が何を意味するかは、分かりきっている。
また、分霊箱なのだ。
また、命に近づき、死に触れ、何かを生贄に捧げさせられる。
また、自分という存在のどこかを――確かに削られる。
それでも、迷いの素振りには一寸たりとも出さなかった。
「……承知いたしました。準備が整い次第、向かいます」
その声に震えはなかった。
しかし、心の内で、レギュラスは深く、息を詰めていた。
自分の選んだ忠誠は、今やほかの誰のためでもない。
唯一人――沈黙のなかで生きてくれているあの人の命を守るため。
それだけが、唯一の動機であり、罪の赦しでもあった。
ヴォルデモートの背には低く闇が集まり、
そのまま言葉もなく、姿を奥へと消した。
審問も、追及もない。
ただ一言の「託そう」という響きに、命も理性も巻き取られていく。
レギュラスはその場に膝をついたまま、
指先にだけ、わずかに力をこめた。
——沼の底。
次は、どこまで堕ちなければならないのか。
けれどこの命がまだ仕える理由に、ひとつの光がある限り。
彼は、また足を踏み出す。
恐れを呑み込んだまま、沈黙の忠誠を携えて――。
屋敷に戻った夜は、やけに静かだった。
湿った春の風が中庭の枝葉を揺らし、窓辺のカーテンがわずかに波打っている。
部屋の中には誰の声もないのに、どこか音が重いように感じるのは――きっと、自分の胸がいまも音を立てているからだろう。
レギュラス・ブラックは、書斎の窓際にひとり腰を下ろしていた。
掌にあるのは、重厚な装丁の黒い手帳。手に取ってみれば、ただの古い革の日記のはずだった。
けれど、今それを握るこの手には、はっきりと“何か”が入り込んでいることがわかる。
凍りつくような気配。
静かで、しかし尋常ではない微かな痛み。
濁った叫びのような感情が、この無機質な日記には確かに宿っている。
分霊箱。
それが、今、自分の腕の中にある。
けれど、言葉にできぬまま日記をただ見つめるレギュラスの肩に――
そっ…と指が伸びた。
「……レギュラス」
やわらかな声がする。
アランだった。寝衣のまま、気配を殺してそばに来ていたのだろう。
そっと背後から回り込み、レギュラスが持つその日記に視線を落とす。
触れないまでも、わかったのだ。
それが“普通のものではない”ということを。
自分の夫が、また〈あの場所〉から何かを持ち帰ってきたことを。
レギュラスは日記に添えられた自分の手に、アランの白い指が静かに触れたことで、初めて肌を通して現実の重さを感じた。
「……すみません……」
かすれた声が口からこぼれた。
守るために始めたことだった。
けれど、今や自分がこうして持ち帰るたびに、アランの瞳に傷を刻ませてはいないか。
そう思うだけで、胸が軋む。
「次は、どこですか?」
アランが静かに問いかけた。
責めるでもなければ、動揺も滲ませない。
ただ、その問いには痛いほどの誠実さがあった。
“また、ついていくつもりです”
その意思を、すでに言葉に背負っているような声音だった。
レギュラスは口を開き、返した。
「……聞いたことも、ない地でした」
「ウェストモアランドの、死せる森。……その中にある、魔力に満ちた沼の底だそうです」
アランの指が、微かに強くなったのがわかった。
けれど、何も言わない。
泣かず、抗わず、ただじっと、彼の隣にいた。
「連れて行きたくない」
そう言いたかった。喉の奥まで込み上げていた。
でもそれを口にしてしまえばきっと、アランは静かに微笑んでから――それでもついてくると返すだろう。
だから言わない。
何も、もう言葉にはしなかった。
ただ、ぐっと拳を握る。
日記が、一瞬小さく熱を帯びたような気がした。
「こんなもの……なぜ、こんなものを、この手で」
――けれど、自分にはもう、拒む自由はない。
同じ人を生かしておくために。
同じ人に、心臓の鼓動が伝わるこの時間を続けるために。
それだけのために、また死の底へと沈むのだ。
アランは日記から手を離し、そっとレギュラスの膝の上に自分の手を重ねた。
「あなたが何のために身体を削っているのか――私が一番、知っています」
夜の切れ間から漏れる星の光が、ふたりの沈黙をやさしく照らした。
そしてその沈黙こそが、深く静かな対話だった。
胸に刺さる重さを分け合いながら、
ふたりは言葉にならぬまま、同じ闇の手前に、並んで立っていた。
夜は更けて、屋敷の空気もすっかり静まり返っていた。
書斎の奥で灯されたランプのかすかな明かりが、レギュラスとアランの影を壁に映している。
机の上には、地図と草のような資料が広げられていた。
ウェストモアランド――“死の森”と呼ばれる地の、かすれた魔法書の断片。
そして、その奥に潜む沼。
ヴォルデモートが次なる分霊箱の隠し場所として告げた、未知の土地。
「まずは、調べましょう」
「……その土地ならではの、魔力に適応する草木や、効く薬も作れるかもしれません」
アランの声は、淡くて落ち着いていた。
希望にすがるのではなく、淡々とすべき準備を積み重ねる、その懸命さが声に宿っていた。
けれど――レギュラスは、口を閉ざしたまま。
やがて、絞るようにして言葉を口にする。
「……ですが、それだけでは……」
淡く揺れた瞳が、地図の一点を見つめる。
紙に記された“死の森”という黒々とした印字。
闇が棲みつき、魔力の流れさえ歪むとされるその沼の底。
「事前にできる用意くらいで、抗えるとは限らない。
“あの場所”が持つ恐ろしさに、どこまで抗えるかすら……分かりません」
声に、冷えた恐怖が滲んでいた。
理知ではなく、記憶と感覚が告げる恐れだった。
あの洞窟の夜――死者の手に引きずられそうになったあの闇の深さが、再び体中を蝕んでいた。
それでも、と、アランは返す。
強くもない。優しすぎもしない。
ただその芯には、揺るぎのない“伴侶の覚悟”があった。
「だからこそ——できることは、していきましょう」
まるで自分自身に言い聞かせるように、でも確かに。
小さな光があればそれだけで足場になるのだと、教えるみたいに。
レギュラスは、答えなかった。
答えられなかった。
言葉を発したら、崩れてしまいそうだった。
静けさのなかで、やっと保たれている理性が、声一つで崩れてしまいそうだった。
それを察してか、アランがそっと、言った。
「……私は、あなたほどの腕などありません。
でも……それでも絶対に、あなたの“支え”にはなってみせます」
次の瞬間には、アランはその手を伸ばしていた。
レギュラスの背へ、そっと腕を回す。
何も急かさず、拒まれることも恐れず、ただ静かに。
ぐしりと音すらしないほどやさしく、彼女は彼を包み込んだ。
レギュラスの体が、小さく、震えていた。
魔力にも、呪文にも、政治にも怯えたことなどなかった男が。
今、愛するたったひとりを前にして、深く小刻みに震えていた。
そしてようやく、こぼれるように囁いた。
「……怖いんです」
「……あなたを失いそうで、それが……それだけが、本当に、怖いんです」
初めて聞くほど深い声音だった。
アランは何も言わず、しばらくその背に手を当てていた。
そして、ぽつりと微笑むように囁いた。
「大丈夫です」
「その時は、きっと――一緒でしょう?」
その言葉は、不思議なくらいにすとんと胸に落ちた。
悲しみよりも先に、安堵が広がっていくようだった。
“死ぬ時は一緒”
それは甘美な約束だった。
罪深くて、愛しくて、そして何より、温かい。
その言葉さえあれば、自分はどこへでも行ける。
心の底に沈む闇さえも、この人がいれば越えられると思えた。
•
震えは、いつしか止まっていた。
闇の夜に、小さな心臓の音だけが、寄せては返していた。
その音を、彼女は黙って、胸の奥でもう一度受け止めていた。
