4章
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灰色の煙が空を覆い、崩落した壁の奥から、呻く声だけがかすかに響いていた。
血と焦げた魔力のにおい、それに焼け焦げた家具や書類と、誰が落としたかわからぬ玩具の破片が散乱していた。
ここは、混血の魔法使いが暴走した場所。
制御を失った激しい魔力の奔流に、マグルも――純血魔法使いさえも巻き込まれた。
肌を焼かれ、魔力によって神経すら崩された被害者たちは、もはや生きていられることさえ奇跡のようだった。
その場には数人の治癒師と救助派遣隊、そして――アリス・ブラックとジェームズ・ポッターの姿があった。
アリスの手元では、暴走の源となっていた混血の少年が魔法障壁の中で錯乱していた。
痙攣する手、視界も意識も曖昧なまま魔力が暴発する。
手を出せば、巻き込まれる。
…それでも、アリスは自分の体もかえりみずに結界を維持していた。
決して、〈死〉という結末を口に出さずに。
「おい、動かずに。大丈夫、今助けるから――」
背で声をかけているジェームズは、生き残ったマグルの子どもを抱きしめている。
その額からは汗が流れ、疲弊と責任の色が滲む。
けれど、その目はどこまでも優しかった。
その瞬間、空間の魔力がふ、と重く変わった。
アリスのすぐ後ろに、影が立った――
まるで、霧の裂け目から現れたかのように。
レギュラス・ブラック。
漆黒のローブに血も泥も付けぬままで立つその姿は、まるで異物だった。
戦場の荒れ地に、ただ整然と存在している。
鋭く冷たい瞳の先にあるのは、震える少年ではなかった。
――結界の中で必死に腕を伸ばし、命だけでも救おうとするアリスの姿だった。
その横顔をしばし無言で眺めたあとで、静かに、けれど吐き捨てるように言う。
「マグルだからでしょうね。あなたの魔力は所詮、その程度。」
凍りつくような沈黙が落ちた。
アリスの背中が、わずかに動いた。
でも振り返らなかった。
言い返す言葉を探す時間さえ許されず、両腕にはなお暴れる命が残っている。
けれど、レギュラスは構わず続ける。
「無様なだけですよ、アリス・ブラック。何も救えないのに正しさだけは一人前とは――実に滑稽です」
そして、ごく自然に一歩進み、結界の手前で腕を組むと、低く囁くように言った。
「……ジェームズ・ポッターと代わっては? その方が、よっぽど使えそうですよ」
ひどく冷たい声だった。
切れ味は氷のようで、けれど皮膚よりも内側を凍らせてくる声音だった。
アリスは結界の裂け目を覗きながら、歯を食いしばる――
震える手で魔力を抑え続けてきた意味を、
今この男がまるごと“無価値”と断じたことが、心の核に突き刺さった。
口には出さない。言ったところで、この男はなにひとつ聞かない。
そしてきっと、次の瞬間には呪文を唱えるだろう。――「アバダ・ケダブラ」。
それしか、この男の辞書には“片を付ける”手段が残されていない。
後ろから、ジェームズの声が飛ぶ。
「彼は……まだ呼吸してる! それだけで、生かす価値はあるはずだ!!」
けれど、レギュラスは、あくまで彼を見もしなかった。
試すようにアリスの瞳だけを見下ろしていた。
まるで彼女がそれでもこの命を守るというなら――
次の瞬間に、丸ごと“引き裂く許し”を与えてやるというような、静かな重圧とともに。
この一瞬は、あまりにも静かだった。
破壊よりも恐ろしいのは――
「諦めさせること」そのものなのだと、アリスは知っていた。
そして、だからなおのこと。
この男にだけは、絶対に負けられないと思った。
たとえ、眼差しひとつで命の価値が決められる世界で生きていたとしても――
この暗さに、光を。
誰もが刈り取られて当然とされる場所で、「それでも」と言える者にだけ、道が見えるのだと信じていた。
この戦いは、魔力の強さのためではなく。
魂をすり減らしてでも、誇りを失わない女の意地だった。
空気が揺れた。
誰にも聞こえぬほど微かな音とともに、レギュラス・ブラックの手が、アリス・ブラックの杖を握る指にそっと重ねられた。
その瞬間、彼女の背筋が硬くなった。
まるで、冷たい霧が皮膚ごと絡みつくような気配――
温もりとはまったく異なる静けさが、体の奥へと沈み込んでくる。
「……アリス」
囁くように、息を彼女の耳元に落とす。
「あなたの、その情けない意地と――無駄でしかない正義のせいで、どれだけ多くの…高貴な魔法族の血が、今日また流されるのでしょうね」
その声には怒りも憎しみも乗っていなかった。
冷徹なまでに整った言葉、鋭く磨かれた刃のような品格を湛えた声音だった。
眼前の混血の少年は、錯乱しながら魔力を放出し続けていた。
結界のなかで暴れ、ぶつかり、叫び、そして終わらざる苦しみに身を焼かれ続ける。
そして、その沈静が遅れれば遅れるほど――
瓦礫の向こうから救出されていた者たちの命が、確かに消えていく。
アリスは分かっていた。
この現場に時間の猶予などなかった。
けれど、それでも――
自分の手で「殺し」はたとえようなく避けたかった。
レギュラスの指が、彼女の手をより深く包み込んでいく。
その手から、明らかに異質な魔力が流れ込んできた。
強く、完璧に統制されていて、
なおかつ冷たいほど正確な意思をもって命令を染み込ませてくる、それは――
「やめて……離して……っ!」
アリスの声はかすれていた。
杖の先から放っていた守りの魔法が、
自分の意志ではありえない“威力”を帯び始めたことに気づいたのは、数秒後だった。
押さえ込むための楔の呪文が、
鋭利な光と衝動とともに――
刃に変わっていた。
混血の少年の胸元へ、鋼のように形を変えた魔法がゆっくりと伸びていく。
心臓へ向かって。
「やめてって言ってるのよ!!」
アリスが振りほどこうとしたその瞬間、
耳元にレギュラスの声が淡く響いた。
「……教えてあげましょう、アリス」
「死の呪文だけが、人を殺す方法ではないということを――
あなたが放ったその呪文でさえ、
私の魔力が重なれば、心臓を貫く刃となるのです」
その囁きは、どこまでも理知的で、痛みを持たぬ残酷だった。
「お願い……やめて、お願い……ッ!」
けれどレギュラスの手は動かない。
アリスが切ろうとしても、纏わりついた魔力の凍てついた意志が、それを許してくれなかった。
そして――
鋭く貫かれるような、少年の叫びが空気を裂いた。
胸を刺されたのではない。
魂を、止められたのだ。
呪文の暴走が一瞬にして静まった。
沈黙。
ほんの刹那の、圧倒的な終わり。
その瞬間、レギュラスがようやく手を離した。
アリスが一歩だけ膝を折り、杖を落としそうになる。
けれど、もう何もできなかった。
前にいた少年は膝から崩れ落ち、血ではなく魔力の名残をひとつ吐き出して倒れ伏していた。
死か、生か。
その判別すらすぐにはつかないほど、精妙に制御された“終末”だった。
レギュラスはふと横目にアリスを見たあと、
静かに、すべてを終わらせるように言った。
「……これが、“あなたと私の格の違い”というものです」
言い切る声には誇った色も誇示もない。
ただ、否応なしの差として刻まれた残酷な“事実”だけがそこにあった。
その様子を数歩離れた場所で見ていたジェームズ・ポッターは、
ただ、息を呑んだまま何も言えなかった。
最善でも最悪でもなく、
完璧な手段を以って、人の希望を押し潰している男。
そこには、戦っても届かない領域があった。
魔力でもなく、名誉でもなく――
孤高の完成度だった。
レギュラスは背を向ける。
振り返らず、一歩、また一歩、血も涙も踏まずにあの場を離れていった。
その足音だけが、魔力の嵐を超えた静けさの中を、恐ろしくも美しく、遠ざかっていった。
夜の帳が、騎士団の仮設詰所をひっそりと包みこんでいた。
石造りの壁にかすかに灯るランタンの光が、薄くオレンジ色の輪を作って揺れている。
その光の中、アリス・ブラックは椅子に座ったまま小さく身体を縮めていた。
ケープの裾が床に沿い、指先は握りしめられすぎて爪が手のひらに跡を残している。
何も言わず、ただ涙が静かに頬を伝っていた。
その頬を流れる一滴は、決して大声で泣く幼さの涙ではない。
抑えようとしても、どうしても滲み出てしまう――罪の色をした涙だった。
隣にはジェームズ・ポッターが、そしてその向かいには、
詫びるでもない、なだめるでもない静かな気配で――シリウス・ブラックがいた。
アリスの肩が、ひとつ震える。
胸の奥で繰り返されるのは、あの瞬間だった。
自分の手に重ねられたレギュラス・ブラックの冷ややかな指。
圧し掛かるように流れ込んだ魔力。
それはまるで体内を裏から塞ぎ、抗うすべもないまま自分の想いをねじ曲げてくる呪縛のようだった。
自分が放った呪文が――息をするひとつの命を、止めた。
その感覚が、今も手のひらに残っている。
「……あたしが……止めたのよ、彼を……」
掠れた呟きの中、アリスの声は芯まで震えていた。
ジェームズがそっと目を伏せ、口を開きかけるが言葉に詰まる。
それよりも早く、低く、けれど温かい声が届いた。
「……無事だっただけで、よかった」
シリウスの声だった。
彼は場所を詰めることもなく、ただその声だけをアリスに届けた。
責めるでもなく、慰めるでもない。
ただ、どこまでも彼らしい、静かで澄んだ言葉。
けれど――その優しさが。
その非難のない言葉こそが、アリスには何よりも胸を抉った。
「……そんなふうに言わないで」
震えながら、アリスが首を横に振る。
「無事なだけで、いいわけないじゃない。
私は、人を……自分の手で……」
指がもう一度震えた。
その手には、まだ血も返りもない。
けれど、最初の殺しの感覚が、深く刻まれていた。
意図的ではなかった。
それでも、《自分の呪文》が命を止めた、その現実は消えない。
なぜ――あの男は、あんなにも冷静に人の命を断ち切れるのか。
なぜ平然と、「正しさ」という顔で生きていられるのか。
その理不尽さが、アリスにはあまりにも恐ろしく思えた。
そして、そんな怪物に自分は抵抗すらできなかった――
自分の“正義”など、何の盾にもならなかった。
だが、シリウスはアリスの目を真正面から見つめながら、静かにもう一度言った。
「俺は、お前が生きてここまで戻ってきてくれたことだけで、もう十分だと思ってる」
そう言う声に嘘はなかった。
けれど、その優しさが、
アリス自身の“無力さ”を逆なでするように胸に刺さる。
彼が黙って理解しようとしてくれるのが、
今の自分にとっては、何より痛かった。
口を閉ざし、何も言えなくなったまま、アリスはただ両手を膝の上で握り締めた。
涙は、もう止めることも忘れたように流れていた。
ジェームズも何も言えず、ただそっと背に手を添えた。
誰も悪くない、誰も間違ってなんていない――
それでも、この世界は残酷で、正しさを持つ者すら、時に誰かを傷つける。
その哀しみに、三人の沈黙だけが、夜の中に溶けてゆくようだった。
魔法省の広いロビーは、無機質な大理石の床に無数の足音が重なっていた。
朝の光が高い天井から差し込み、整然とした空気にさえ、重たい咳ばらいひとつがよく響く。
その一角、訓練生と若き魔法使いたちのための書類窓口の前――
制服に身を包んだアルタイル・ブラックが、迷いなく歩いてきた。
今日は、魔法法制部への面談と、推薦延長手続きの提出。
ブラック家の長子としての名目以上に、彼自身の成績と態度が認められた上の任務参加だった。
その帰り際――
書類を鞄に入れようとしていたアルタイルの目の前に、ふと、ひとりの姿が視界に入る。
ローブの端を風に揺らしながら、廊下の角から出てきたのは――アリス・ブラックだった。
肩で呼吸をしていた彼女は、彼の立つ姿に気づいた途端――
ほんの一瞬、その顔に影を落とした。
息をするのを忘れたような表情。
まるで何かに本能的に怯えた生物のような、わずかな揺らぎ。
その微妙な揺れには気づかず、アルタイルはふっと笑顔を見せた。
「先生……お久しぶりです」
その一言に、アリスは硬直したように立ち止まる。
けれどすぐに笑顔を引き取ることができなかった。
――あまりにも、似ていたのだ。
仕立ての良いマントを無駄なく着こなす所作。
目元に宿る鋭さ。涼しげに尾を引く声。
表層に浮かぶ冷静さの奥にある、絶対の自負。
すべてが、レギュラス・ブラックそのものだった。
ほんの先日、自分の手の上から命を奪わせ、支配し、踏みにじったあの男を――
今まさに、目の前で見ている錯覚に陥った。
理性がそれは違うと告げても、心が一瞬、凍るのを止められなかった。
「先生がここにいるってことは……」
「シリウスも、今日はここでお仕事ですか?」
アルタイルは続ける。やわらかく、誠実に。
「僕……会いたくて」
その言葉が、アリスの中に小さな硬質の音を立てた。
それは、敵意だった――
それも、まぎれもなく“理不尽な感情”だった。
アリスは戸惑う。
彼は何も悪くない。滑らかで、丁寧な少年。
きっと本当に、シリウスに会いたいと思っているだけなのだ。
けれど――許せなかった。
自分を守ってくれたアランを、心から慕い続けてきた。
あの人の傍にいたいと願い、少女のように母と呼びたかった。
そして、シリウスは――父として、ずっと人生の導となってくれた存在だった。
けれどその両方が、彼によって遠ざけられたように思えたのだ。
アランはもはや、レギュラスの微笑の中で静かに暮らしている。
その隣にはセレナが、そして――この少年が、いる。
望んでも届かない“家族の光”を、彼は最初から持っている。
奪ったなどいうのは、感情論に過ぎない。それでも……
「シリウスまで、あなたの手で取らないで」
そう叫びたくなるほどに、胸の奥でぶつかった。
それが、嫉妬にも似た憎しみに形を変えようとした――
けれどその自分が、何より許しがたかった。
心から「嫌いになりたい」と思った少年に、
自分は今、心の奥でずっと揺れている。
アリスは、乱れた感情を切り取るように顔を戻し、できるかぎり穏やかな声で言った。
「……今日はいないわ」
たったそれだけ。
拒絶も肯定もしない。
ただ、在るものだけを静かに告げた、凛とした声だった。
アルタイルはあいまいに頷く。少し残念そうな視線を落としながら。
「あ、そうですか……また、どこかで。お願いします」
そして微笑み、静かにその場を去っていった。
足音は控えめで、背中には自信と、どこか柔らかさが同居していた。
アリスはその背を見送ったあと、誰にも見えぬように瞳を伏せた。
内側にあるのは、答えの出ない想いだった。
誰かを嫌いたいわけじゃない。
けれど、自分が手に入れられなかった幸福をまっすぐに歩くその姿が、時に眩しすぎた。
ふと、シリウスの言葉が蘇る。
「無事だっただけでいい」
本当は、それだけじゃ足りない。
でもそれでも――今日、怒りの言葉を向けなかった自分も、
また、ほんの少しずつ、強くなっているのかもしれない。
そんなふうに、思いたかった。
都会の午後は、冬よりも柔らかく差し込む春の光から始まっていた。
レンガ造りの舗道に金糸のような光が反射し、街路樹の枝先をそっと撫でている。
魔法界とマグルの通りがゆるやかに溶け合う交差点を、レギュラス・ブラックはひとりの少女に引かれるように歩いていた。
その少女は、当然――セレナだった。
深い緑のケープのすそを風に揺らし、白い指先でわずかにレギュラスの袖を引く。
まるで手綱を握るように、けれど一切の力みなく律しているあたり、なんとも彼女らしい。
「お父さま、こっちですわ。もう、お店いくつ目なのかしら……」
微笑みながら、セレナは通りの角でくるりと振り返る。
その顔には、純粋な楽しさと高揚が浮かんでいた。
レギュラスは、連れられるままに歩きながらも、ふと問いかけた。
「……で、誰と踊るんです?」
それを聞いたセレナは、まるで不思議なものを見るように、目をまたたいた。
「誰とも踊りませんわ」
「……え?」
あまりにも即答だったため、レギュラスは完全に面食らった。
てっきり。
娘がドレスをせがむほどなのだから、ダンスパーティにふさわしい相手がいるのかと思っていた。
「……それなら、なぜ着飾るんです?」
意味がわからない――というのではなかった。
ただ、純粋に疑問だった。
彼にとって、「装い」とは目的のための手段だった。
誰かの隣に立つ、あるいは家名に恥じぬ立場にあるために纏うべきもの。
なのに、セレナの振る舞いには、そこに“他者の目線”の必要性がまるで感じられない。
セレナは、にこっと唇の端を上げる。
「だって……せっかく美しく着飾れる日なんですもの」
「誰かに見てほしいからじゃなくて、自分自身が他の誰より綺麗でいたいのよ」
その声には強がりの響きも、媚びもなかった。
ただの事実として、天真爛漫に放たれたその言葉。
そうして、次のブティックの扉が開かれた。
中には色とりどりのドレスが整然と並び、飾られたマネキンたちが日の光を浴びてきらめいていた。
鏡の前で布地を選ぶセレナの横顔は、もはや“少女”というより、小さな“威厳”を身につけた誰かのようだった。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、わからないながらにも思った。
――「誰にも見せるためじゃない」装い、なんてあるものなのか。
たぶん、自分には永遠に理解しきれぬ世界だろう。
けれど、分からなくとも。
「……欲しいなら、買ってやればいい」
そのただ一つの想いだけが、レギュラスを今日ここに立たせていた。
セレナがクルリと鏡の前で回る。
淡青のドレスの裾がひらりと舞い、光と布地のかすかな陰影が彼女の肌に映る。
レギュラスは、彼女が笑うその姿を見て、小さく胸の隅が緩むような感覚を覚えた。
この娘が、自分の足で、誇りある選択をして生きていけるように。
美しいものを、美しいと自由に選べるように。
それが、父として願うただ一つの贈りものだったのかもしれない。
春風が店先の鈴を鳴らしていた。
その音の中で、レギュラスは静かにひとつ、小さく頷いた。
午後のやわらかな陽が、カフェの窓辺を琥珀色に染めていた。
街の喧騒からわずかに外れた通り、古い時計が壁に静かに時を刻み、テーブルには品のいい磁器のティーカップがいくつか並べられている。
その中、一角の席でレギュラス・ブラックとセレナ・ブラックは向かい合い、静かな時間を過ごしていた。
白磁のカップをそっと口元に運んだあと、セレナがふと窓外に視線を向けた。
花を纏った少女たちがダンスパーティ用のリボンを選んで歩く姿が目に入り、
その視線がわずかにやわらいだところで、セレナがぽつりと呟いた。
「……お兄さまも、たぶん、パーティはひとりで出るんじゃないかしら」
その言葉に、レギュラスはカップを置く手を止める。
だがまだ、すぐには返事をしなかった。
セレナは落ち着いた様子で、手に添えていたティースプーンをなぞりながら続けた。
「去年までは何人か、誘う女の子がいたみたいですけど……」
「今年は、ぜんぜん聞かないの。パートナーが」
なるほどと、レギュラスは目を細めた。
最終学年という立場もあれば、時間に余裕もないのは事実。
卒業を控えたアルタイルが、日々の勉学と責務に追われていることは理解していた。
それでも、少しの淋しさと静かな誇りが浮かぶのは、親として当然のことだった。
するとセレナは小さく微笑みながら、カップを片手に言った。
「お兄さま、自分が踊るってことが――イザベラ嬢の耳に入ったら、きっとあの方を不愉快にさせてしまうかもしれないって。だから踊らないって」
「……本当に、よくできてますわね。お兄さまって、そういうところ」
その言葉に、レギュラスは目を見開いた。
一息、思考が止まった。
まさか息子がそこまでして――
婚約者の心情を汲んで、自らのふるまいを律するまでになっているとは。
手紙のやり取りが続いているとは聞いていたが、そこに育つ”想い”までを、これほど大切にしていたとは思っていなかった。
それは、自分が16のときには持ちえなかった種類の優しさであり、
同時にどこか――嬉しくもあった。
静かに深呼吸ひとつおいて、レギュラスは湯気の立ちのぼるカップに目を戻しながら言った。
「……あなたは、まだ結婚も少し先ですからね。好きに踊っていいと思いますよ」
セレナはその言葉を聞いた瞬間、ちょっとだけ肩を揺らして笑った。
その笑みはとても年相応で、けれど小さな棘が光っている。
「もう、お父さまったら……」
「未来の王妃に、ダンスを申し込める男が――この国にいると思って?」
冗談めかしながらも、その瞳には確かな気高さと静かな誇りが宿っていた。
レギュラスは思わず、言葉を失った。
たしかに、そうだ。
この子はもう、そういう立場にある。
装うのではなく、そのまなざしに国が映る場所に。
自分が思っている以上に早く、大人になろうとしている少女。
彼女を導くためには、すでに“父親”という名だけでは足りなくなってきているのかもしれない――
そう思わせられる瞬間だった。
外では、鐘の音がひとつ響いた。
午後の終わりを告げる、街の音色。
カフェの中、磨かれたガラス越しに、一瞬ふたりの姿が鏡のように重なる。
静かな紅茶の香りが残るなかで、セレナは背筋を伸ばし、小さな金のスプーンを皿に戻した。
「さあ、もう一軒、お付き合いくださいますわね? お父さま」
言葉だけが軽やかに風を運び、
レギュラスはその背中を追うようにゆっくりと立ち上がった。
未来の王妃――そのまなざしの先にある輝きを、
父として、ひとりの敬礼者として、静かに見守るしかないのだと心に留めながら。
夜の食卓には、深い赤のワインが静かに開かれる音が響いていた。
銀の燭台に灯された炎は、ゆらゆらと揺れながら、磨かれた長テーブルの上に柔らかな陰影を落としている。
レギュラスはグラスにワインを注ぎ、その香りをわずかに含ませると、ふと口を開いた。
「……セレナのドレスを選ぶのを、手伝いましたよ」
向かいに座るアランが、興味を含んだ目を向ける。
「まあ。どうでした?」
レギュラスは軽く息を吐き、肩をわずかに落として答えた。
「長くて……」
その口調に、アランは堪えきれず声をあげて笑った。
その笑い声は、料理の湯気やワインの香りと一緒に、温かな空気を食卓いっぱいに満たしていく。
「……あなたと行けばよかったんじゃないかと思ったんですがね」
実際、あれほど時間をかけ、次々と荷物を押しつけられる様子を思えば、父を選んだ理由にも納得がいく。
レギュラスは苦笑を含ませながらも、どこか楽しげに続けた。
「それに……あの子、誰とも踊らないそうですよ」
「気の強さから……男の子が近づきにくいのかもしれませんね」
アランがワインをそっと傾けながら言う。その声音は、皮肉ではなく、娘をよく知る母親らしい微笑ましさを帯びていた。
今度は、レギュラスが笑った。
二人の間に交わされるこの種の笑いは、何よりも長く寄り添った歳月の証のようだった。
ふと、レギュラスの瞳がアランを見据える。
「……あなたは、たくさん誘われていたんでしょう?」
問いかけは軽やかだったが、その奥にはどこか昔を確かめるような響きがあった。
アランは一瞬だけ視線を宙に彷徨わせ、柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「いいえ。私、一度も誘われたことなんてないわ。……いつもあなた、だったじゃない」
その瞬間、レギュラスの胸の奥で、何かが静かに温まっていくのを感じた。
理由は、きっと他にもあっただろう。
ブラック家の婚約者というだけで、他の男たちはきっと近づきすらできなかった。
彼女がそう口にしなくても、そのくらい容易に推測はできる。
それでも――
「いつもあなただった」と、そう言われた事実が、レギュラスの心をやわらかくほどいた。
それは打算や家の名を含まない、純粋な「特別」だったのだと思える瞬間だった。
ワインの香りがふたたび漂う。
グラス越しに映るアランの横顔は、昔よりもずっと深みを増していて、けれどどこか少女のような気配も残している。
レギュラスはその姿を、少し長く視線に留めた。
そして心の中で――こうして共に重ねた年月こそが、何よりの誇りだと、静かに噛み締めていた。
夜は深く沈み、夫婦の寝室にはランプの柔らかな光だけが漂っていた。
カーテンの向こう、月明かりは薄く、部屋全体が静かな温もりに包まれている。
レギュラスは、アランをそっと抱き寄せ、音もなく唇を重ねた。
何度目かの優しい口づけ――
その流れのまま、彼女をベッドに横たえようと腰をかがめた、そのときだった。
ふいに、あの言葉が頭をよぎった。
医務魔女の忠告。
「あなたは、できる限り避妊を」
……まただ。
ほぼ毎回、この瞬間に思い出す。
そして「次こそ調べよう」と決意しながら、気づけば忘れている。
その繰り返し。
「……なんて厄介な癖だろう」
自分の記憶力のなさに嫌気が差す。
しかも、こうやって一番大切な触れ合いの直前に思い出すのだから――尚更タチが悪い。
わずかな間の空白を、アランは敏感に察したのだろう。
小首を傾げ、目を覗き込んでくる。
「……最近、どうしたのです?」
「いや……なにも……」
口に出しかけて、レギュラスは視線を外した。
彼女を戸惑わせたくなくて、なんとかやわらかく誤魔化そうとした。
だが、その響きが却って不器用に濁ってしまったのを、自分でも感じた。
アランの唇が、かすかに震えた。
「……私に、魅力がなくなってきているから……ですか?」
その言葉に、レギュラスはすぐに顔を上げた。
「――どうして、そうなるんです?」
思わず詰め寄る。
今まで変わらず、何年も注ぎ続けてきた愛情が、そんなふうに疑われるなんて――
軽々しく聞き流せる類いの台詞ではなかった。
一途であればあるほど、その推測は胸を貫く。
「違う」と言うより先に、必死に理由を弁明しなければという思いが湧いた。
短く息を整えてから、彼は正直に口を開いた。
「……医務魔女に言われていまして」
「――あなたの体のためにも、避妊をと。……恥ずかしながら、今まで意識したことがなかったもので……」
アランの瞳がわずかに瞬き、ゆっくりと揺れを孕む。
レギュラスは視線を逸らさなかった。
こんなことで、愛情が薄れたなどと誤解されるくらいなら――
この、取るに足らないプライドなどいくらでも折られて構わない。
だから言った。
隠し立てなく、胸の内をすべて。
短い沈黙のあと、アランはふっと眉を緩めた。
まるで、小さな棘がひとつ胸から抜け落ちたように。
ランプの灯りが、二人の間だけを温かく照らす。
まっすぐに繋がれた視線には、疑念も言い訳もなく――
そこにあるのは、確かな愛情の色だった。
屋敷には春の風がゆるやかに吹き込んでいた。
表庭の桜が咲き始め、軽やかな花弁がアーチ越しに影を落としていた午後――
アルタイルとセレナが揃ってホグワーツからの休暇で戻ってくるのは、久しぶりのことだった。
アルタイルは、玄関の靴を整えたかと思えば、つぎは廊下の埃を気にし、時計台の調整まで始めたかと思えば、書斎前の花瓶の位置まで直すといった忙しなさだった。
その姿を、階段の踊り場から眺めていたセレナが、腕を組んでぽつりと呟く。
「……お兄さま、なんだかとても忙しないですね」
その言葉に、ちょうどロビーに降りてきたレギュラスが聞き留めたように反応する。
「イザベラ嬢のお迎え前だ。緊張して当然でしょう」
そう聞いて、セレナはくすりと笑った。
「でも――お客様は、お兄さまのお部屋ではなく、客間にお泊まりするのでしょう?」
アランがキッチンから顔を見せた。
「ええ、一応そのつもりです」
その“曖昧な答え”に、セレナは小首をかしげて不思議そうに尋ねた。
「……お兄さまのお部屋だと、いけないのですか?」
ぽつりと、まるで「紅茶にお砂糖はいけないのですか?」と尋ねるような声音だった。
清らかで、悪意なく、ただ純粋に不思議を問うその問いに――
レギュラスとアランは、咄嗟に言葉を失った。
この年頃の若者が、たった一夜で向こう側へ踏み出してしまう可能性。
もし万一のことがあれば、残された一年の学問生活、
そしてなによりレインズフォード家との取り交わしの重大性を思えば、
取り返しのつかない事態にもなり得る。
だが――娘の問いの仕方は、あまりにも無垢だった。
“大人の前提”も、“良識”も、“暗黙の理解”すら通じないまま、
彼女はただ、論理をなぞるように目を見開いていた。
「……その、いろいろと……手続きが、煩雑で……」
レギュラスが返しかけたそのとき。
「だったら、避妊すれば良いのでは?」
あっけらかんと、セレナが自然に言った。
目を逸らすでもなく、少し考え込んだ後で、まるで“正しい鍵を見つけた”ような声音で――。
一瞬、時間が止まった。
レギュラスははっとセレナを見やり、横目にアランと視線が交わった。
アランは何とも言えない表情で口元を手で隠し、笑うのを必死に堪えているのが分かる。
セレナの言葉が無邪気でしかないのを知っていても、
よりにもよってその言葉が“娘の口”から出た衝撃は、想像以上に気まずかった。
「……まぁ、そうですね……避妊、というのも……手ですね……」
レギュラスは真顔でそう返すしかなかった。
いつも通り落ち着いているように見せかけながら、返答には目に見えて動揺が滲んでいた。
鋭く発される政治的な対話より
遥かに手強く、扱いになれぬこの“家庭内の自然体な無邪気さ”に――
いかに洗練された魔法使いも、たじろがされるのだと身をもって知る。
セレナは、といえば、父の反応に特段意味を見出している様子もなく、
もう次の話題に興味を向け始めていた。
気まぐれに浮かんだ枝葉のような笑顔が、春の光に舞ってゆく。
レギュラスは、その場をそっと離れながら、
「……どちらにしても、用意はしていた方がよいかもしれないな……」と、誰にともなく小さく呟いたのだった。
アランはその背中を見送りながら、唇に笑みを浮かべた。
賢く、強く育った娘――けれど、時として“率直さ”は、どんな鋼よりも鋭いものだと、久々に実感しているようだった。
玄関扉が静かに開かれた瞬間、屋敷いっぱいに豊かな香と緊張が漂った。
午後の光が差し込むエントランスで、澄んだ靴音が石畳を叩く。
今日、レインズフォード家の令嬢――イザベラが、正式にブラック家の屋敷を訪れた。
節度ある身のこなし、裾を払わぬよう抑えたドレスの歩み方。
そのすべてが育ちの良さを語っていたが、彼女の第一声は控えめでありながら確かな意志を秘めていた。
「王妃様、レギュラス様、アラン様――お迎えいただき、ありがとうございます」
深く腰を折って礼をするその所作には、傲りも過剰な気負いもなく、
ただ静かに、自らの名と誇りを纏っているようだった。
まさしく、代々続く純血一族の優雅な気品。
それは決して作られた“姿”ではなく、この少女の“在り方”そのものだった。
セレナは、ちゃんと微笑んで応えた。
彼女特有の冗談混じりの軽やかさこそなかったが、
少女として――そして同じ名を背負う者としての敬意が、確かにその眼差しに宿っていた。
次いでレギュラス、アランと挨拶を交わすなか、
イザベラの態度は終始変わらず、丁寧だった。
決して媚びてなどいない。
けれど、ここにいる“家族”たちを、その中に新たに迎え入れるにふさわしい、しとやかな敬意があった。
玄関の柱の前に立っていたアルタイルは、どこかぎこちない動きで一歩前へ踏み出した。
不自然に真っ直ぐすぎる背筋、無言のまま差し出された右手。
その手は、微かに震えていた。
見て取れるような、それでいて誰にも見抜かれたくない震え。
イザベラは、数拍のあと、ゆっくりとその手を取った。
それは、なんのためらいもない仕草だった。
静かに触れられたその手の温度が、
アルタイルの胸の深くに、一瞬にして広がった。
彼女の細い指が、自分の掌の中で少しだけ動いたような感覚。
そこには言葉よりも多くのことが宿っているようで――
アルタイルは、不意に胸の奥が熱くなるのを感じた。
その姿は、どこかに見覚えがあった。
ひとを迎え入れるために差し出した、固く緊張した手。
それをやんわりと包み返してくれた、かつての誰かの手。
――そうだ。
昔、自分が子供のころ、まだ恐れと遠慮の境目に腰掛けていた時、
アランが、自分に向かってそっと手を差し伸べてくれた日のことを、思い出したのだった。
差し出される手とは、きっと“許し”と“信頼”の象徴なのだと――
今、肌で思い知る。
玄関をゆっくりと抜ける光の中で、ふたつの影が並ぶ。
イザベラのドレスの裾が、屋内に差し込む春の風とともにふわりと舞い、
アルタイルの肩にかかった緊張を、微かに和らげていく。
レギュラスとアランは、振り返らずにそれを見守っていた。
息子が、いま静かに“自分の道”へと歩む音を、確かに聞いていた。
そしてその先にあるのは、初めて“ふたり”で紡ぐ、これからの時間の扉だった。
血と焦げた魔力のにおい、それに焼け焦げた家具や書類と、誰が落としたかわからぬ玩具の破片が散乱していた。
ここは、混血の魔法使いが暴走した場所。
制御を失った激しい魔力の奔流に、マグルも――純血魔法使いさえも巻き込まれた。
肌を焼かれ、魔力によって神経すら崩された被害者たちは、もはや生きていられることさえ奇跡のようだった。
その場には数人の治癒師と救助派遣隊、そして――アリス・ブラックとジェームズ・ポッターの姿があった。
アリスの手元では、暴走の源となっていた混血の少年が魔法障壁の中で錯乱していた。
痙攣する手、視界も意識も曖昧なまま魔力が暴発する。
手を出せば、巻き込まれる。
…それでも、アリスは自分の体もかえりみずに結界を維持していた。
決して、〈死〉という結末を口に出さずに。
「おい、動かずに。大丈夫、今助けるから――」
背で声をかけているジェームズは、生き残ったマグルの子どもを抱きしめている。
その額からは汗が流れ、疲弊と責任の色が滲む。
けれど、その目はどこまでも優しかった。
その瞬間、空間の魔力がふ、と重く変わった。
アリスのすぐ後ろに、影が立った――
まるで、霧の裂け目から現れたかのように。
レギュラス・ブラック。
漆黒のローブに血も泥も付けぬままで立つその姿は、まるで異物だった。
戦場の荒れ地に、ただ整然と存在している。
鋭く冷たい瞳の先にあるのは、震える少年ではなかった。
――結界の中で必死に腕を伸ばし、命だけでも救おうとするアリスの姿だった。
その横顔をしばし無言で眺めたあとで、静かに、けれど吐き捨てるように言う。
「マグルだからでしょうね。あなたの魔力は所詮、その程度。」
凍りつくような沈黙が落ちた。
アリスの背中が、わずかに動いた。
でも振り返らなかった。
言い返す言葉を探す時間さえ許されず、両腕にはなお暴れる命が残っている。
けれど、レギュラスは構わず続ける。
「無様なだけですよ、アリス・ブラック。何も救えないのに正しさだけは一人前とは――実に滑稽です」
そして、ごく自然に一歩進み、結界の手前で腕を組むと、低く囁くように言った。
「……ジェームズ・ポッターと代わっては? その方が、よっぽど使えそうですよ」
ひどく冷たい声だった。
切れ味は氷のようで、けれど皮膚よりも内側を凍らせてくる声音だった。
アリスは結界の裂け目を覗きながら、歯を食いしばる――
震える手で魔力を抑え続けてきた意味を、
今この男がまるごと“無価値”と断じたことが、心の核に突き刺さった。
口には出さない。言ったところで、この男はなにひとつ聞かない。
そしてきっと、次の瞬間には呪文を唱えるだろう。――「アバダ・ケダブラ」。
それしか、この男の辞書には“片を付ける”手段が残されていない。
後ろから、ジェームズの声が飛ぶ。
「彼は……まだ呼吸してる! それだけで、生かす価値はあるはずだ!!」
けれど、レギュラスは、あくまで彼を見もしなかった。
試すようにアリスの瞳だけを見下ろしていた。
まるで彼女がそれでもこの命を守るというなら――
次の瞬間に、丸ごと“引き裂く許し”を与えてやるというような、静かな重圧とともに。
この一瞬は、あまりにも静かだった。
破壊よりも恐ろしいのは――
「諦めさせること」そのものなのだと、アリスは知っていた。
そして、だからなおのこと。
この男にだけは、絶対に負けられないと思った。
たとえ、眼差しひとつで命の価値が決められる世界で生きていたとしても――
この暗さに、光を。
誰もが刈り取られて当然とされる場所で、「それでも」と言える者にだけ、道が見えるのだと信じていた。
この戦いは、魔力の強さのためではなく。
魂をすり減らしてでも、誇りを失わない女の意地だった。
空気が揺れた。
誰にも聞こえぬほど微かな音とともに、レギュラス・ブラックの手が、アリス・ブラックの杖を握る指にそっと重ねられた。
その瞬間、彼女の背筋が硬くなった。
まるで、冷たい霧が皮膚ごと絡みつくような気配――
温もりとはまったく異なる静けさが、体の奥へと沈み込んでくる。
「……アリス」
囁くように、息を彼女の耳元に落とす。
「あなたの、その情けない意地と――無駄でしかない正義のせいで、どれだけ多くの…高貴な魔法族の血が、今日また流されるのでしょうね」
その声には怒りも憎しみも乗っていなかった。
冷徹なまでに整った言葉、鋭く磨かれた刃のような品格を湛えた声音だった。
眼前の混血の少年は、錯乱しながら魔力を放出し続けていた。
結界のなかで暴れ、ぶつかり、叫び、そして終わらざる苦しみに身を焼かれ続ける。
そして、その沈静が遅れれば遅れるほど――
瓦礫の向こうから救出されていた者たちの命が、確かに消えていく。
アリスは分かっていた。
この現場に時間の猶予などなかった。
けれど、それでも――
自分の手で「殺し」はたとえようなく避けたかった。
レギュラスの指が、彼女の手をより深く包み込んでいく。
その手から、明らかに異質な魔力が流れ込んできた。
強く、完璧に統制されていて、
なおかつ冷たいほど正確な意思をもって命令を染み込ませてくる、それは――
「やめて……離して……っ!」
アリスの声はかすれていた。
杖の先から放っていた守りの魔法が、
自分の意志ではありえない“威力”を帯び始めたことに気づいたのは、数秒後だった。
押さえ込むための楔の呪文が、
鋭利な光と衝動とともに――
刃に変わっていた。
混血の少年の胸元へ、鋼のように形を変えた魔法がゆっくりと伸びていく。
心臓へ向かって。
「やめてって言ってるのよ!!」
アリスが振りほどこうとしたその瞬間、
耳元にレギュラスの声が淡く響いた。
「……教えてあげましょう、アリス」
「死の呪文だけが、人を殺す方法ではないということを――
あなたが放ったその呪文でさえ、
私の魔力が重なれば、心臓を貫く刃となるのです」
その囁きは、どこまでも理知的で、痛みを持たぬ残酷だった。
「お願い……やめて、お願い……ッ!」
けれどレギュラスの手は動かない。
アリスが切ろうとしても、纏わりついた魔力の凍てついた意志が、それを許してくれなかった。
そして――
鋭く貫かれるような、少年の叫びが空気を裂いた。
胸を刺されたのではない。
魂を、止められたのだ。
呪文の暴走が一瞬にして静まった。
沈黙。
ほんの刹那の、圧倒的な終わり。
その瞬間、レギュラスがようやく手を離した。
アリスが一歩だけ膝を折り、杖を落としそうになる。
けれど、もう何もできなかった。
前にいた少年は膝から崩れ落ち、血ではなく魔力の名残をひとつ吐き出して倒れ伏していた。
死か、生か。
その判別すらすぐにはつかないほど、精妙に制御された“終末”だった。
レギュラスはふと横目にアリスを見たあと、
静かに、すべてを終わらせるように言った。
「……これが、“あなたと私の格の違い”というものです」
言い切る声には誇った色も誇示もない。
ただ、否応なしの差として刻まれた残酷な“事実”だけがそこにあった。
その様子を数歩離れた場所で見ていたジェームズ・ポッターは、
ただ、息を呑んだまま何も言えなかった。
最善でも最悪でもなく、
完璧な手段を以って、人の希望を押し潰している男。
そこには、戦っても届かない領域があった。
魔力でもなく、名誉でもなく――
孤高の完成度だった。
レギュラスは背を向ける。
振り返らず、一歩、また一歩、血も涙も踏まずにあの場を離れていった。
その足音だけが、魔力の嵐を超えた静けさの中を、恐ろしくも美しく、遠ざかっていった。
夜の帳が、騎士団の仮設詰所をひっそりと包みこんでいた。
石造りの壁にかすかに灯るランタンの光が、薄くオレンジ色の輪を作って揺れている。
その光の中、アリス・ブラックは椅子に座ったまま小さく身体を縮めていた。
ケープの裾が床に沿い、指先は握りしめられすぎて爪が手のひらに跡を残している。
何も言わず、ただ涙が静かに頬を伝っていた。
その頬を流れる一滴は、決して大声で泣く幼さの涙ではない。
抑えようとしても、どうしても滲み出てしまう――罪の色をした涙だった。
隣にはジェームズ・ポッターが、そしてその向かいには、
詫びるでもない、なだめるでもない静かな気配で――シリウス・ブラックがいた。
アリスの肩が、ひとつ震える。
胸の奥で繰り返されるのは、あの瞬間だった。
自分の手に重ねられたレギュラス・ブラックの冷ややかな指。
圧し掛かるように流れ込んだ魔力。
それはまるで体内を裏から塞ぎ、抗うすべもないまま自分の想いをねじ曲げてくる呪縛のようだった。
自分が放った呪文が――息をするひとつの命を、止めた。
その感覚が、今も手のひらに残っている。
「……あたしが……止めたのよ、彼を……」
掠れた呟きの中、アリスの声は芯まで震えていた。
ジェームズがそっと目を伏せ、口を開きかけるが言葉に詰まる。
それよりも早く、低く、けれど温かい声が届いた。
「……無事だっただけで、よかった」
シリウスの声だった。
彼は場所を詰めることもなく、ただその声だけをアリスに届けた。
責めるでもなく、慰めるでもない。
ただ、どこまでも彼らしい、静かで澄んだ言葉。
けれど――その優しさが。
その非難のない言葉こそが、アリスには何よりも胸を抉った。
「……そんなふうに言わないで」
震えながら、アリスが首を横に振る。
「無事なだけで、いいわけないじゃない。
私は、人を……自分の手で……」
指がもう一度震えた。
その手には、まだ血も返りもない。
けれど、最初の殺しの感覚が、深く刻まれていた。
意図的ではなかった。
それでも、《自分の呪文》が命を止めた、その現実は消えない。
なぜ――あの男は、あんなにも冷静に人の命を断ち切れるのか。
なぜ平然と、「正しさ」という顔で生きていられるのか。
その理不尽さが、アリスにはあまりにも恐ろしく思えた。
そして、そんな怪物に自分は抵抗すらできなかった――
自分の“正義”など、何の盾にもならなかった。
だが、シリウスはアリスの目を真正面から見つめながら、静かにもう一度言った。
「俺は、お前が生きてここまで戻ってきてくれたことだけで、もう十分だと思ってる」
そう言う声に嘘はなかった。
けれど、その優しさが、
アリス自身の“無力さ”を逆なでするように胸に刺さる。
彼が黙って理解しようとしてくれるのが、
今の自分にとっては、何より痛かった。
口を閉ざし、何も言えなくなったまま、アリスはただ両手を膝の上で握り締めた。
涙は、もう止めることも忘れたように流れていた。
ジェームズも何も言えず、ただそっと背に手を添えた。
誰も悪くない、誰も間違ってなんていない――
それでも、この世界は残酷で、正しさを持つ者すら、時に誰かを傷つける。
その哀しみに、三人の沈黙だけが、夜の中に溶けてゆくようだった。
魔法省の広いロビーは、無機質な大理石の床に無数の足音が重なっていた。
朝の光が高い天井から差し込み、整然とした空気にさえ、重たい咳ばらいひとつがよく響く。
その一角、訓練生と若き魔法使いたちのための書類窓口の前――
制服に身を包んだアルタイル・ブラックが、迷いなく歩いてきた。
今日は、魔法法制部への面談と、推薦延長手続きの提出。
ブラック家の長子としての名目以上に、彼自身の成績と態度が認められた上の任務参加だった。
その帰り際――
書類を鞄に入れようとしていたアルタイルの目の前に、ふと、ひとりの姿が視界に入る。
ローブの端を風に揺らしながら、廊下の角から出てきたのは――アリス・ブラックだった。
肩で呼吸をしていた彼女は、彼の立つ姿に気づいた途端――
ほんの一瞬、その顔に影を落とした。
息をするのを忘れたような表情。
まるで何かに本能的に怯えた生物のような、わずかな揺らぎ。
その微妙な揺れには気づかず、アルタイルはふっと笑顔を見せた。
「先生……お久しぶりです」
その一言に、アリスは硬直したように立ち止まる。
けれどすぐに笑顔を引き取ることができなかった。
――あまりにも、似ていたのだ。
仕立ての良いマントを無駄なく着こなす所作。
目元に宿る鋭さ。涼しげに尾を引く声。
表層に浮かぶ冷静さの奥にある、絶対の自負。
すべてが、レギュラス・ブラックそのものだった。
ほんの先日、自分の手の上から命を奪わせ、支配し、踏みにじったあの男を――
今まさに、目の前で見ている錯覚に陥った。
理性がそれは違うと告げても、心が一瞬、凍るのを止められなかった。
「先生がここにいるってことは……」
「シリウスも、今日はここでお仕事ですか?」
アルタイルは続ける。やわらかく、誠実に。
「僕……会いたくて」
その言葉が、アリスの中に小さな硬質の音を立てた。
それは、敵意だった――
それも、まぎれもなく“理不尽な感情”だった。
アリスは戸惑う。
彼は何も悪くない。滑らかで、丁寧な少年。
きっと本当に、シリウスに会いたいと思っているだけなのだ。
けれど――許せなかった。
自分を守ってくれたアランを、心から慕い続けてきた。
あの人の傍にいたいと願い、少女のように母と呼びたかった。
そして、シリウスは――父として、ずっと人生の導となってくれた存在だった。
けれどその両方が、彼によって遠ざけられたように思えたのだ。
アランはもはや、レギュラスの微笑の中で静かに暮らしている。
その隣にはセレナが、そして――この少年が、いる。
望んでも届かない“家族の光”を、彼は最初から持っている。
奪ったなどいうのは、感情論に過ぎない。それでも……
「シリウスまで、あなたの手で取らないで」
そう叫びたくなるほどに、胸の奥でぶつかった。
それが、嫉妬にも似た憎しみに形を変えようとした――
けれどその自分が、何より許しがたかった。
心から「嫌いになりたい」と思った少年に、
自分は今、心の奥でずっと揺れている。
アリスは、乱れた感情を切り取るように顔を戻し、できるかぎり穏やかな声で言った。
「……今日はいないわ」
たったそれだけ。
拒絶も肯定もしない。
ただ、在るものだけを静かに告げた、凛とした声だった。
アルタイルはあいまいに頷く。少し残念そうな視線を落としながら。
「あ、そうですか……また、どこかで。お願いします」
そして微笑み、静かにその場を去っていった。
足音は控えめで、背中には自信と、どこか柔らかさが同居していた。
アリスはその背を見送ったあと、誰にも見えぬように瞳を伏せた。
内側にあるのは、答えの出ない想いだった。
誰かを嫌いたいわけじゃない。
けれど、自分が手に入れられなかった幸福をまっすぐに歩くその姿が、時に眩しすぎた。
ふと、シリウスの言葉が蘇る。
「無事だっただけでいい」
本当は、それだけじゃ足りない。
でもそれでも――今日、怒りの言葉を向けなかった自分も、
また、ほんの少しずつ、強くなっているのかもしれない。
そんなふうに、思いたかった。
都会の午後は、冬よりも柔らかく差し込む春の光から始まっていた。
レンガ造りの舗道に金糸のような光が反射し、街路樹の枝先をそっと撫でている。
魔法界とマグルの通りがゆるやかに溶け合う交差点を、レギュラス・ブラックはひとりの少女に引かれるように歩いていた。
その少女は、当然――セレナだった。
深い緑のケープのすそを風に揺らし、白い指先でわずかにレギュラスの袖を引く。
まるで手綱を握るように、けれど一切の力みなく律しているあたり、なんとも彼女らしい。
「お父さま、こっちですわ。もう、お店いくつ目なのかしら……」
微笑みながら、セレナは通りの角でくるりと振り返る。
その顔には、純粋な楽しさと高揚が浮かんでいた。
レギュラスは、連れられるままに歩きながらも、ふと問いかけた。
「……で、誰と踊るんです?」
それを聞いたセレナは、まるで不思議なものを見るように、目をまたたいた。
「誰とも踊りませんわ」
「……え?」
あまりにも即答だったため、レギュラスは完全に面食らった。
てっきり。
娘がドレスをせがむほどなのだから、ダンスパーティにふさわしい相手がいるのかと思っていた。
「……それなら、なぜ着飾るんです?」
意味がわからない――というのではなかった。
ただ、純粋に疑問だった。
彼にとって、「装い」とは目的のための手段だった。
誰かの隣に立つ、あるいは家名に恥じぬ立場にあるために纏うべきもの。
なのに、セレナの振る舞いには、そこに“他者の目線”の必要性がまるで感じられない。
セレナは、にこっと唇の端を上げる。
「だって……せっかく美しく着飾れる日なんですもの」
「誰かに見てほしいからじゃなくて、自分自身が他の誰より綺麗でいたいのよ」
その声には強がりの響きも、媚びもなかった。
ただの事実として、天真爛漫に放たれたその言葉。
そうして、次のブティックの扉が開かれた。
中には色とりどりのドレスが整然と並び、飾られたマネキンたちが日の光を浴びてきらめいていた。
鏡の前で布地を選ぶセレナの横顔は、もはや“少女”というより、小さな“威厳”を身につけた誰かのようだった。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、わからないながらにも思った。
――「誰にも見せるためじゃない」装い、なんてあるものなのか。
たぶん、自分には永遠に理解しきれぬ世界だろう。
けれど、分からなくとも。
「……欲しいなら、買ってやればいい」
そのただ一つの想いだけが、レギュラスを今日ここに立たせていた。
セレナがクルリと鏡の前で回る。
淡青のドレスの裾がひらりと舞い、光と布地のかすかな陰影が彼女の肌に映る。
レギュラスは、彼女が笑うその姿を見て、小さく胸の隅が緩むような感覚を覚えた。
この娘が、自分の足で、誇りある選択をして生きていけるように。
美しいものを、美しいと自由に選べるように。
それが、父として願うただ一つの贈りものだったのかもしれない。
春風が店先の鈴を鳴らしていた。
その音の中で、レギュラスは静かにひとつ、小さく頷いた。
午後のやわらかな陽が、カフェの窓辺を琥珀色に染めていた。
街の喧騒からわずかに外れた通り、古い時計が壁に静かに時を刻み、テーブルには品のいい磁器のティーカップがいくつか並べられている。
その中、一角の席でレギュラス・ブラックとセレナ・ブラックは向かい合い、静かな時間を過ごしていた。
白磁のカップをそっと口元に運んだあと、セレナがふと窓外に視線を向けた。
花を纏った少女たちがダンスパーティ用のリボンを選んで歩く姿が目に入り、
その視線がわずかにやわらいだところで、セレナがぽつりと呟いた。
「……お兄さまも、たぶん、パーティはひとりで出るんじゃないかしら」
その言葉に、レギュラスはカップを置く手を止める。
だがまだ、すぐには返事をしなかった。
セレナは落ち着いた様子で、手に添えていたティースプーンをなぞりながら続けた。
「去年までは何人か、誘う女の子がいたみたいですけど……」
「今年は、ぜんぜん聞かないの。パートナーが」
なるほどと、レギュラスは目を細めた。
最終学年という立場もあれば、時間に余裕もないのは事実。
卒業を控えたアルタイルが、日々の勉学と責務に追われていることは理解していた。
それでも、少しの淋しさと静かな誇りが浮かぶのは、親として当然のことだった。
するとセレナは小さく微笑みながら、カップを片手に言った。
「お兄さま、自分が踊るってことが――イザベラ嬢の耳に入ったら、きっとあの方を不愉快にさせてしまうかもしれないって。だから踊らないって」
「……本当に、よくできてますわね。お兄さまって、そういうところ」
その言葉に、レギュラスは目を見開いた。
一息、思考が止まった。
まさか息子がそこまでして――
婚約者の心情を汲んで、自らのふるまいを律するまでになっているとは。
手紙のやり取りが続いているとは聞いていたが、そこに育つ”想い”までを、これほど大切にしていたとは思っていなかった。
それは、自分が16のときには持ちえなかった種類の優しさであり、
同時にどこか――嬉しくもあった。
静かに深呼吸ひとつおいて、レギュラスは湯気の立ちのぼるカップに目を戻しながら言った。
「……あなたは、まだ結婚も少し先ですからね。好きに踊っていいと思いますよ」
セレナはその言葉を聞いた瞬間、ちょっとだけ肩を揺らして笑った。
その笑みはとても年相応で、けれど小さな棘が光っている。
「もう、お父さまったら……」
「未来の王妃に、ダンスを申し込める男が――この国にいると思って?」
冗談めかしながらも、その瞳には確かな気高さと静かな誇りが宿っていた。
レギュラスは思わず、言葉を失った。
たしかに、そうだ。
この子はもう、そういう立場にある。
装うのではなく、そのまなざしに国が映る場所に。
自分が思っている以上に早く、大人になろうとしている少女。
彼女を導くためには、すでに“父親”という名だけでは足りなくなってきているのかもしれない――
そう思わせられる瞬間だった。
外では、鐘の音がひとつ響いた。
午後の終わりを告げる、街の音色。
カフェの中、磨かれたガラス越しに、一瞬ふたりの姿が鏡のように重なる。
静かな紅茶の香りが残るなかで、セレナは背筋を伸ばし、小さな金のスプーンを皿に戻した。
「さあ、もう一軒、お付き合いくださいますわね? お父さま」
言葉だけが軽やかに風を運び、
レギュラスはその背中を追うようにゆっくりと立ち上がった。
未来の王妃――そのまなざしの先にある輝きを、
父として、ひとりの敬礼者として、静かに見守るしかないのだと心に留めながら。
夜の食卓には、深い赤のワインが静かに開かれる音が響いていた。
銀の燭台に灯された炎は、ゆらゆらと揺れながら、磨かれた長テーブルの上に柔らかな陰影を落としている。
レギュラスはグラスにワインを注ぎ、その香りをわずかに含ませると、ふと口を開いた。
「……セレナのドレスを選ぶのを、手伝いましたよ」
向かいに座るアランが、興味を含んだ目を向ける。
「まあ。どうでした?」
レギュラスは軽く息を吐き、肩をわずかに落として答えた。
「長くて……」
その口調に、アランは堪えきれず声をあげて笑った。
その笑い声は、料理の湯気やワインの香りと一緒に、温かな空気を食卓いっぱいに満たしていく。
「……あなたと行けばよかったんじゃないかと思ったんですがね」
実際、あれほど時間をかけ、次々と荷物を押しつけられる様子を思えば、父を選んだ理由にも納得がいく。
レギュラスは苦笑を含ませながらも、どこか楽しげに続けた。
「それに……あの子、誰とも踊らないそうですよ」
「気の強さから……男の子が近づきにくいのかもしれませんね」
アランがワインをそっと傾けながら言う。その声音は、皮肉ではなく、娘をよく知る母親らしい微笑ましさを帯びていた。
今度は、レギュラスが笑った。
二人の間に交わされるこの種の笑いは、何よりも長く寄り添った歳月の証のようだった。
ふと、レギュラスの瞳がアランを見据える。
「……あなたは、たくさん誘われていたんでしょう?」
問いかけは軽やかだったが、その奥にはどこか昔を確かめるような響きがあった。
アランは一瞬だけ視線を宙に彷徨わせ、柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「いいえ。私、一度も誘われたことなんてないわ。……いつもあなた、だったじゃない」
その瞬間、レギュラスの胸の奥で、何かが静かに温まっていくのを感じた。
理由は、きっと他にもあっただろう。
ブラック家の婚約者というだけで、他の男たちはきっと近づきすらできなかった。
彼女がそう口にしなくても、そのくらい容易に推測はできる。
それでも――
「いつもあなただった」と、そう言われた事実が、レギュラスの心をやわらかくほどいた。
それは打算や家の名を含まない、純粋な「特別」だったのだと思える瞬間だった。
ワインの香りがふたたび漂う。
グラス越しに映るアランの横顔は、昔よりもずっと深みを増していて、けれどどこか少女のような気配も残している。
レギュラスはその姿を、少し長く視線に留めた。
そして心の中で――こうして共に重ねた年月こそが、何よりの誇りだと、静かに噛み締めていた。
夜は深く沈み、夫婦の寝室にはランプの柔らかな光だけが漂っていた。
カーテンの向こう、月明かりは薄く、部屋全体が静かな温もりに包まれている。
レギュラスは、アランをそっと抱き寄せ、音もなく唇を重ねた。
何度目かの優しい口づけ――
その流れのまま、彼女をベッドに横たえようと腰をかがめた、そのときだった。
ふいに、あの言葉が頭をよぎった。
医務魔女の忠告。
「あなたは、できる限り避妊を」
……まただ。
ほぼ毎回、この瞬間に思い出す。
そして「次こそ調べよう」と決意しながら、気づけば忘れている。
その繰り返し。
「……なんて厄介な癖だろう」
自分の記憶力のなさに嫌気が差す。
しかも、こうやって一番大切な触れ合いの直前に思い出すのだから――尚更タチが悪い。
わずかな間の空白を、アランは敏感に察したのだろう。
小首を傾げ、目を覗き込んでくる。
「……最近、どうしたのです?」
「いや……なにも……」
口に出しかけて、レギュラスは視線を外した。
彼女を戸惑わせたくなくて、なんとかやわらかく誤魔化そうとした。
だが、その響きが却って不器用に濁ってしまったのを、自分でも感じた。
アランの唇が、かすかに震えた。
「……私に、魅力がなくなってきているから……ですか?」
その言葉に、レギュラスはすぐに顔を上げた。
「――どうして、そうなるんです?」
思わず詰め寄る。
今まで変わらず、何年も注ぎ続けてきた愛情が、そんなふうに疑われるなんて――
軽々しく聞き流せる類いの台詞ではなかった。
一途であればあるほど、その推測は胸を貫く。
「違う」と言うより先に、必死に理由を弁明しなければという思いが湧いた。
短く息を整えてから、彼は正直に口を開いた。
「……医務魔女に言われていまして」
「――あなたの体のためにも、避妊をと。……恥ずかしながら、今まで意識したことがなかったもので……」
アランの瞳がわずかに瞬き、ゆっくりと揺れを孕む。
レギュラスは視線を逸らさなかった。
こんなことで、愛情が薄れたなどと誤解されるくらいなら――
この、取るに足らないプライドなどいくらでも折られて構わない。
だから言った。
隠し立てなく、胸の内をすべて。
短い沈黙のあと、アランはふっと眉を緩めた。
まるで、小さな棘がひとつ胸から抜け落ちたように。
ランプの灯りが、二人の間だけを温かく照らす。
まっすぐに繋がれた視線には、疑念も言い訳もなく――
そこにあるのは、確かな愛情の色だった。
屋敷には春の風がゆるやかに吹き込んでいた。
表庭の桜が咲き始め、軽やかな花弁がアーチ越しに影を落としていた午後――
アルタイルとセレナが揃ってホグワーツからの休暇で戻ってくるのは、久しぶりのことだった。
アルタイルは、玄関の靴を整えたかと思えば、つぎは廊下の埃を気にし、時計台の調整まで始めたかと思えば、書斎前の花瓶の位置まで直すといった忙しなさだった。
その姿を、階段の踊り場から眺めていたセレナが、腕を組んでぽつりと呟く。
「……お兄さま、なんだかとても忙しないですね」
その言葉に、ちょうどロビーに降りてきたレギュラスが聞き留めたように反応する。
「イザベラ嬢のお迎え前だ。緊張して当然でしょう」
そう聞いて、セレナはくすりと笑った。
「でも――お客様は、お兄さまのお部屋ではなく、客間にお泊まりするのでしょう?」
アランがキッチンから顔を見せた。
「ええ、一応そのつもりです」
その“曖昧な答え”に、セレナは小首をかしげて不思議そうに尋ねた。
「……お兄さまのお部屋だと、いけないのですか?」
ぽつりと、まるで「紅茶にお砂糖はいけないのですか?」と尋ねるような声音だった。
清らかで、悪意なく、ただ純粋に不思議を問うその問いに――
レギュラスとアランは、咄嗟に言葉を失った。
この年頃の若者が、たった一夜で向こう側へ踏み出してしまう可能性。
もし万一のことがあれば、残された一年の学問生活、
そしてなによりレインズフォード家との取り交わしの重大性を思えば、
取り返しのつかない事態にもなり得る。
だが――娘の問いの仕方は、あまりにも無垢だった。
“大人の前提”も、“良識”も、“暗黙の理解”すら通じないまま、
彼女はただ、論理をなぞるように目を見開いていた。
「……その、いろいろと……手続きが、煩雑で……」
レギュラスが返しかけたそのとき。
「だったら、避妊すれば良いのでは?」
あっけらかんと、セレナが自然に言った。
目を逸らすでもなく、少し考え込んだ後で、まるで“正しい鍵を見つけた”ような声音で――。
一瞬、時間が止まった。
レギュラスははっとセレナを見やり、横目にアランと視線が交わった。
アランは何とも言えない表情で口元を手で隠し、笑うのを必死に堪えているのが分かる。
セレナの言葉が無邪気でしかないのを知っていても、
よりにもよってその言葉が“娘の口”から出た衝撃は、想像以上に気まずかった。
「……まぁ、そうですね……避妊、というのも……手ですね……」
レギュラスは真顔でそう返すしかなかった。
いつも通り落ち着いているように見せかけながら、返答には目に見えて動揺が滲んでいた。
鋭く発される政治的な対話より
遥かに手強く、扱いになれぬこの“家庭内の自然体な無邪気さ”に――
いかに洗練された魔法使いも、たじろがされるのだと身をもって知る。
セレナは、といえば、父の反応に特段意味を見出している様子もなく、
もう次の話題に興味を向け始めていた。
気まぐれに浮かんだ枝葉のような笑顔が、春の光に舞ってゆく。
レギュラスは、その場をそっと離れながら、
「……どちらにしても、用意はしていた方がよいかもしれないな……」と、誰にともなく小さく呟いたのだった。
アランはその背中を見送りながら、唇に笑みを浮かべた。
賢く、強く育った娘――けれど、時として“率直さ”は、どんな鋼よりも鋭いものだと、久々に実感しているようだった。
玄関扉が静かに開かれた瞬間、屋敷いっぱいに豊かな香と緊張が漂った。
午後の光が差し込むエントランスで、澄んだ靴音が石畳を叩く。
今日、レインズフォード家の令嬢――イザベラが、正式にブラック家の屋敷を訪れた。
節度ある身のこなし、裾を払わぬよう抑えたドレスの歩み方。
そのすべてが育ちの良さを語っていたが、彼女の第一声は控えめでありながら確かな意志を秘めていた。
「王妃様、レギュラス様、アラン様――お迎えいただき、ありがとうございます」
深く腰を折って礼をするその所作には、傲りも過剰な気負いもなく、
ただ静かに、自らの名と誇りを纏っているようだった。
まさしく、代々続く純血一族の優雅な気品。
それは決して作られた“姿”ではなく、この少女の“在り方”そのものだった。
セレナは、ちゃんと微笑んで応えた。
彼女特有の冗談混じりの軽やかさこそなかったが、
少女として――そして同じ名を背負う者としての敬意が、確かにその眼差しに宿っていた。
次いでレギュラス、アランと挨拶を交わすなか、
イザベラの態度は終始変わらず、丁寧だった。
決して媚びてなどいない。
けれど、ここにいる“家族”たちを、その中に新たに迎え入れるにふさわしい、しとやかな敬意があった。
玄関の柱の前に立っていたアルタイルは、どこかぎこちない動きで一歩前へ踏み出した。
不自然に真っ直ぐすぎる背筋、無言のまま差し出された右手。
その手は、微かに震えていた。
見て取れるような、それでいて誰にも見抜かれたくない震え。
イザベラは、数拍のあと、ゆっくりとその手を取った。
それは、なんのためらいもない仕草だった。
静かに触れられたその手の温度が、
アルタイルの胸の深くに、一瞬にして広がった。
彼女の細い指が、自分の掌の中で少しだけ動いたような感覚。
そこには言葉よりも多くのことが宿っているようで――
アルタイルは、不意に胸の奥が熱くなるのを感じた。
その姿は、どこかに見覚えがあった。
ひとを迎え入れるために差し出した、固く緊張した手。
それをやんわりと包み返してくれた、かつての誰かの手。
――そうだ。
昔、自分が子供のころ、まだ恐れと遠慮の境目に腰掛けていた時、
アランが、自分に向かってそっと手を差し伸べてくれた日のことを、思い出したのだった。
差し出される手とは、きっと“許し”と“信頼”の象徴なのだと――
今、肌で思い知る。
玄関をゆっくりと抜ける光の中で、ふたつの影が並ぶ。
イザベラのドレスの裾が、屋内に差し込む春の風とともにふわりと舞い、
アルタイルの肩にかかった緊張を、微かに和らげていく。
レギュラスとアランは、振り返らずにそれを見守っていた。
息子が、いま静かに“自分の道”へと歩む音を、確かに聞いていた。
そしてその先にあるのは、初めて“ふたり”で紡ぐ、これからの時間の扉だった。
