1章
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夏の夜、ブラック邸の重厚な書斎には、静寂が満ちていた。
レギュラスは、窓の外に広がる闇を見つめながら、背筋を伸ばして椅子に座っていた。
手元には、セシール家から届いた一通のふいの手紙。
それは、アランが「レギュラスに会いに行く」と言って家を出たまま、夜になっても戻らないという知らせだった。
「レギュラス様のところにいらっしゃるのでしょうか?」
そう問う文面に、レギュラスは迷いなく「はい」と答えた。
アランを守るために。
彼女がどこにいても、誰といても、少なくとも“家の名”に傷がつかないように。
それが自分の役目だと、そう思った。
だが、心の奥では、別の感情が静かに渦巻いていた。
アランは、自分に会いに来ると言って家を出た。
けれど、彼女はここにはいない。
そして――シリウスもまた、朝から屋敷を出たまま、戻ってきていなかった。
「こんな偶然が、あるだろうか。」
レギュラスは、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。
アランとシリウス。
自分の兄と、自分が想いを告げた少女。
そのふたりが、同じ日に姿を消し、同じ夜に戻らない。
考えたくない。
けれど、考えずにはいられなかった。
「ふたりは一緒にいるのかもしれない。」
そう思った瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。
それは嫉妬でも、怒りでもない。
もっと深く、もっとどうしようもない、憎しみに似た感情だった。
自分がどれほど真剣に想いを伝えたか。
どれほど彼女のために心を尽くしてきたか。
それでも、アランの心が向かう先が兄であるのなら――
自分は、いったい何だったのだろう。
レギュラスは、拳をそっと握りしめた。
その手は震えていた。
感情を押し殺すように、静かに目を閉じる。
外では、夏の虫がかすかに鳴いていた。
その音が、妙に遠く、哀しく響いた。
彼女の笑顔も、声も、すべてが今は遠い。
そしてその隣に、自分ではない誰かがいるかもしれないという現実が、
胸の奥を静かに、しかし確実に裂いていった。
レギュラスは、静まり返ったブラック家の屋敷の一室で、クリーチャーを呼び寄せた。
重厚なカーテンの隙間から差し込む月明かりが、古びた絨毯の上に淡い模様を描いている。
クリーチャーは、いつものように小さな体を縮こまらせて、レギュラスの前にひざまずいた。
「クリーチャー、兄上――シリウスの行方を探してほしい。」
レギュラスの声は低く、しかしその奥には抑えきれない切実さが滲んでいた。
クリーチャーは主の命令に従うことを誇りとしている。けれど、その目にはどこか戸惑いが浮かんでいる。
「どこにいるのか、まったく見当もつかないんだ。」
レギュラスは、拳をそっと膝の上で握りしめた。
シリウスを追えば、きっとアランに辿り着ける――
悲しいけれど、そう確信していた。
二人だけの秘密。自分には決して触れさせてくれない、遠い場所。
「……まるで、二人だけの世界を作っているみたいだ。」
そう思うと、胸の奥がじくじくと痛む。
自分がどれだけ願っても、どれだけ手を伸ばしても、
アランの心は、シリウスとだけ分かち合う何かに満たされているのかもしれない。
「頼んだよ、クリーチャー。兄上を……見つけてくれ。」
クリーチャーは、静かにうなずき、闇の中へと消えていく。
レギュラスはその背中を見送りながら、どうしようもない孤独と、
抑えきれない苛立ちを胸に抱えた。
夜の静けさが、彼の心のざわめきをいっそう際立たせていた。
窓の外では、月が雲間に隠れ、世界はますます深い闇に包まれていく。
レギュラスはただ、アランとシリウスの秘密に手が届かないことの苦しさを、
静かに噛みしめていた。
アランと過ごす一日は、まるで夢のように静かに、そしてあっという間に過ぎていった。
夏の光がやわらかく街を包み、マグルの世界はどこまでも穏やかで、自由だった。
シリウスは、あらかじめジェームズから聞いていたおすすめのスポットをいくつかピックアップしていた。
カフェ、書店、静かな公園、そして小さな美術館。
どれも騒がしすぎず、けれどどこか温かくて、アランと並んで歩くにはぴったりの場所ばかりだった。
「さすがは親友だな」
そう思わずにはいられなかった。
ジェームズは、シリウスのことも、そしてアランのことも、よくわかっている。
ふたりがどんな時間を求めているのか、まるで見透かしていたかのようだった。
街の雑踏の中、ふとした瞬間にアランの手がシリウスの手に触れた。
自然と指先が絡まり、何も言わずとも、その温もりがふたりの距離を縮めていく。
マグルの街では、誰も彼らを知らない。
名家の息子でも、誰かの婚約者でもない。
ただの「シリウス」と「アラン」でいられる、かけがえのない時間だった。
夕暮れが近づく頃、静かな路地の片隅で、シリウスはアランの頬に手を添え、そっと唇を重ねた。
それは、言葉よりも深く、確かに想いを伝えるキスだった。
アランの瞳がそっと閉じられ、ふたりの世界が静かに重なった。
その瞬間、シリウスの胸に、どうしようもない愛しさが込み上げた。
この少女を、かつて自分は手放したのだ――
自由を選んだ代償として、彼女の隣に立つ資格を失った。
けれど今、こうして隣にいる。
その事実が、どれほど奇跡のように思えたことか。
「本当に、大切なものを、失っていたのかもしれない。」
そう思わずにはいられなかった。
アランは、シリウスにとって、ただの懐かしい人ではなかった。
今も、変わらず、いや、以前よりももっと――たまらなく、愛おしい存在だった。
夜の帳が静かに降り始める頃、ふたりの影はひとつに重なり、
その日が終わることを惜しむように、手を離さずにいた。
夜の街が静かに色を変え、ネオンの灯りが柔らかく瞬く頃、シリウスはアランと並んで歩いていた。
手を繋いだまま、言葉少なに過ごすその時間は、昼間の喧騒とは違って、どこかしっとりとした温もりに満ちていた。
本当は――
今日という日を、もっと特別な夜にしたらいい。
そう、親友のジェームズからは軽く背中を押されていた。
「せっかくの夏の夜なんだ、思いきってみろよ」
そんな言葉を、冗談めかして笑いながら言われたのを、シリウスは思い出していた。
けれど、実際にアランと向き合ってみると、そんな思いはすぐに遠のいていった。
彼女は、あまりにも綺麗だった。
ただ外見の美しさだけではない。
ふとした仕草、言葉の選び方、笑うときの目元の揺らぎ――
そのすべてが、どこまでも無垢で、静かに人の心に触れてくるようだった。
「こんな彼女を、自分の欲望で汚すようなことはしたくない」
そう思った。
触れることすら、どこか慎重になってしまう。
彼女の心に、余計な影を落としたくなかった。
だから、結局、キスを交わすだけに留めた。
それも、何度もためらいながら、そっと、そっと触れるようなキスだった。
きっと、ジェームズに話せば笑われる。
「意気地なし」と、肩を叩いてくる顔が目に浮かぶ。
でも、シリウスにとっては、それでよかった。
アランの隣にいること。
彼女の笑顔を見て、手を繋いで、同じ景色を見ていること。
それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
夜風が、アランの髪をやさしく揺らす。
その横顔を見つめながら、シリウスは心の中でそっと願った。
「この時間が、どうか壊れずに続いてほしい」
欲よりも、深く、静かな愛しさが、胸の奥で確かに灯っていた。
それは、誰にも話さず、自分の中だけに大切にしまっておきたい、
そんな特別な想いだった。
朝の光がゆっくりとマグルの街を照らし始めるころ、アランとシリウスはまだ人気の少ない通りを歩いていた。
夜通し過ごしたカフェを出たばかりのふたりの間には、言葉のいらない静かな余韻が漂っていた。
そんな空気を裂くように、遠くから聞き慣れた声が響いた。
「アラン。」
その声に、アランの足が止まった。
振り向くと、そこにはレギュラスが立っていた。
隣には、ブラック家に仕える屋敷しもべ妖精――クリーチャーの姿もある。
まさか、こんなところまで追ってこられるとは――
アランも、シリウスも、思わず息を呑んだ。
マグルの街、魔法の届かない場所。
そう思っていた。
未成年の魔法使いは魔法省に感知されると聞いていたが、それはあくまで魔法界の話だと信じていた。
だが、どうやらそれは甘い考えだったらしい。
クリーチャーの鋭い感覚が、ふたりの「におい」を辿ってここまで来たのだと、シリウスはすぐに察した。
そして、レギュラスもまた、迷いなくここに現れた――その事実が、何よりも重くのしかかる。
アランは、レギュラスの瞳を直視できなかった。
彼の目が自分を見つめているのがわかるのに、顔を上げることができない。
胸の奥に、重たい罪悪感がじわじわと広がっていく。
レギュラスからの告白を受け入れた、あの夜のことが鮮明に蘇る。
「向き合っていきたい」と、自分の口で伝えた。
彼の想いに応えたいと、そう思ったはずだった。
それなのに――
今、自分はシリウスとふたりで、誰にも言わずにマグルの街にいる。
どうしても、レギュラスの顔を見られなかった。
彼の瞳に映る自分が、どれほど裏切りに満ちているのかと思うと、足元がすくむようだった。
シリウスの手が、そっとアランの手を握り直す。
その温もりが、かえって胸を締めつける。
守られているのに、逃げている気がした。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、静かにアランを見つめていた。
その瞳の奥にある感情を、アランはどうしても読み取ることができなかった。
朝の光が、三人の間に淡く差し込んでいた。
それはまるで、夜の夢から現実へと引き戻す、冷たくも優しい幕引きのようだった。
朝の光が、まだ静かに街を包んでいる。
アランは、レギュラスの前に立ちながら、どうしても目を上げられなかった。
胸の奥で「ごめんなさい」と何度も繰り返しているのに、
その言葉は唇の先で震えるばかりで、声にならなかった。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、静かに彼女を見つめていた。
責めるでも、問いただすでもなく、
けれどその沈黙が、アランには何よりも苦しかった。
やがて、レギュラスは淡々とした声で言った。
「セシール家の夫人が、ご心配されてましたよ。」
その一言に、アランの心臓が強く脈打った。
――母だ。
自分は、レギュラスに会いに行くと言って家を出た。
その言葉を信じて、母はきっと何も疑わずに送り出してくれたはずだ。
では、レギュラスは――
その母に、なんと答えたのだろう。
アランが恐る恐る顔を上げたとき、レギュラスはただ一言、静かに言った。
「安心してください。一緒にいることにしてきます。」
その言葉に、アランの胸がふっと緩んだ。
安堵と同時に、深い感謝が心に広がっていく。
彼は、何も聞かず、何も責めず、
ただ自分を守るために、嘘をついてくれた。
それがどれほどの重みを持つことか、アランには痛いほどわかっていた。
「……ありがとう」
ようやくその一言だけが、かすかに声になった。
レギュラスは、それにも何も返さなかった。
けれど、その沈黙の中には、彼なりの優しさと、
そして言葉にできない想いが、確かに宿っていた。
朝の光が、三人の間に静かに降り注いでいた。
その光は、やさしくも残酷に、現実を照らしていた。
アランは、自分が守られたことを知りながら、
その代償として、レギュラスの沈黙を胸に刻み込んでいた。
朝の光が街を照らし始めたというのに、空気はどこか重く、冷えていた。
マグルの街角、まだ人通りの少ない路地で、アランとシリウス、そしてレギュラスは向かい合っていた。
その場に漂う沈黙を破ったのは、レギュラスの静かな、けれど鋭い声だった。
「……母さんが知ったら、また発狂してしまいますよ。」
その言葉は、怒りというよりも、疲れたような響きを帯びていた。
アランは思わず息を飲む。
その声の奥にある、長年の諦めと倦みを感じ取ったからだった。
シリウスは、すぐに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「……あのババアの言うことなんか、知るかよ。」
その言い方はあまりに無遠慮で、アランの胸がきゅっと痛んだ。
けれど、レギュラスは表情を変えず、静かに返す。
「あなたはそうでも、母がヒステリックに叫んで、屋敷の空気が悪くなるのが嫌なんですよ。」
その言葉には、感情を押し殺すような冷静さがあった。
それがかえって、二人の間に深い溝を感じさせた。
シリウスは、苛立ちを隠そうともせず、レギュラスに向かって吐き捨てる。
「ガキは部屋にでも篭ってろよ。母さんがいなきゃ眠れないってか?」
その言葉は、明らかに喧嘩を売るような口調だった。
アランは、そのやり取りをただ見つめることしかできなかった。
胸が痛んだ。
シリウスの言葉の裏にある、どうしようもない孤独と怒りが、痛いほど伝わってきたから。
ブラック家の中で、シリウスの立場がどんどん悪くなってきていることを、アランは知っていた。
彼の居場所は、もう家の中にはない。
それでもまだ、レギュラスとこうして言葉を交わせるうちは、完全に失われたわけではないと、どこかで願っていた。
けれど今、シリウスの言葉は、まるで自らその絆を断ち切ろうとしているようだった。
アランは、シリウスの横顔を見つめながら、胸の奥で静かに恐れていた。
――このまま、彼が本当に消えてしまうのではないかと。
怒りに任せて放たれる言葉のひとつひとつが、
彼自身を孤独の深みに追いやっているように思えた。
アランは、そっとシリウスの袖を掴んだ。
その手には、言葉にならない願いが込められていた。
どうか、これ以上、自分を壊さないで。
どうか、まだ誰かを信じていて――と。
朝の光は、そんな三人の影を長く引き伸ばしながら、静かに街を照らしていた。
その光はどこまでも優しく、けれど容赦なく、現実を浮かび上がらせていた。
レギュラスは、窓の外に広がる闇を見つめながら、背筋を伸ばして椅子に座っていた。
手元には、セシール家から届いた一通のふいの手紙。
それは、アランが「レギュラスに会いに行く」と言って家を出たまま、夜になっても戻らないという知らせだった。
「レギュラス様のところにいらっしゃるのでしょうか?」
そう問う文面に、レギュラスは迷いなく「はい」と答えた。
アランを守るために。
彼女がどこにいても、誰といても、少なくとも“家の名”に傷がつかないように。
それが自分の役目だと、そう思った。
だが、心の奥では、別の感情が静かに渦巻いていた。
アランは、自分に会いに来ると言って家を出た。
けれど、彼女はここにはいない。
そして――シリウスもまた、朝から屋敷を出たまま、戻ってきていなかった。
「こんな偶然が、あるだろうか。」
レギュラスは、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。
アランとシリウス。
自分の兄と、自分が想いを告げた少女。
そのふたりが、同じ日に姿を消し、同じ夜に戻らない。
考えたくない。
けれど、考えずにはいられなかった。
「ふたりは一緒にいるのかもしれない。」
そう思った瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。
それは嫉妬でも、怒りでもない。
もっと深く、もっとどうしようもない、憎しみに似た感情だった。
自分がどれほど真剣に想いを伝えたか。
どれほど彼女のために心を尽くしてきたか。
それでも、アランの心が向かう先が兄であるのなら――
自分は、いったい何だったのだろう。
レギュラスは、拳をそっと握りしめた。
その手は震えていた。
感情を押し殺すように、静かに目を閉じる。
外では、夏の虫がかすかに鳴いていた。
その音が、妙に遠く、哀しく響いた。
彼女の笑顔も、声も、すべてが今は遠い。
そしてその隣に、自分ではない誰かがいるかもしれないという現実が、
胸の奥を静かに、しかし確実に裂いていった。
レギュラスは、静まり返ったブラック家の屋敷の一室で、クリーチャーを呼び寄せた。
重厚なカーテンの隙間から差し込む月明かりが、古びた絨毯の上に淡い模様を描いている。
クリーチャーは、いつものように小さな体を縮こまらせて、レギュラスの前にひざまずいた。
「クリーチャー、兄上――シリウスの行方を探してほしい。」
レギュラスの声は低く、しかしその奥には抑えきれない切実さが滲んでいた。
クリーチャーは主の命令に従うことを誇りとしている。けれど、その目にはどこか戸惑いが浮かんでいる。
「どこにいるのか、まったく見当もつかないんだ。」
レギュラスは、拳をそっと膝の上で握りしめた。
シリウスを追えば、きっとアランに辿り着ける――
悲しいけれど、そう確信していた。
二人だけの秘密。自分には決して触れさせてくれない、遠い場所。
「……まるで、二人だけの世界を作っているみたいだ。」
そう思うと、胸の奥がじくじくと痛む。
自分がどれだけ願っても、どれだけ手を伸ばしても、
アランの心は、シリウスとだけ分かち合う何かに満たされているのかもしれない。
「頼んだよ、クリーチャー。兄上を……見つけてくれ。」
クリーチャーは、静かにうなずき、闇の中へと消えていく。
レギュラスはその背中を見送りながら、どうしようもない孤独と、
抑えきれない苛立ちを胸に抱えた。
夜の静けさが、彼の心のざわめきをいっそう際立たせていた。
窓の外では、月が雲間に隠れ、世界はますます深い闇に包まれていく。
レギュラスはただ、アランとシリウスの秘密に手が届かないことの苦しさを、
静かに噛みしめていた。
アランと過ごす一日は、まるで夢のように静かに、そしてあっという間に過ぎていった。
夏の光がやわらかく街を包み、マグルの世界はどこまでも穏やかで、自由だった。
シリウスは、あらかじめジェームズから聞いていたおすすめのスポットをいくつかピックアップしていた。
カフェ、書店、静かな公園、そして小さな美術館。
どれも騒がしすぎず、けれどどこか温かくて、アランと並んで歩くにはぴったりの場所ばかりだった。
「さすがは親友だな」
そう思わずにはいられなかった。
ジェームズは、シリウスのことも、そしてアランのことも、よくわかっている。
ふたりがどんな時間を求めているのか、まるで見透かしていたかのようだった。
街の雑踏の中、ふとした瞬間にアランの手がシリウスの手に触れた。
自然と指先が絡まり、何も言わずとも、その温もりがふたりの距離を縮めていく。
マグルの街では、誰も彼らを知らない。
名家の息子でも、誰かの婚約者でもない。
ただの「シリウス」と「アラン」でいられる、かけがえのない時間だった。
夕暮れが近づく頃、静かな路地の片隅で、シリウスはアランの頬に手を添え、そっと唇を重ねた。
それは、言葉よりも深く、確かに想いを伝えるキスだった。
アランの瞳がそっと閉じられ、ふたりの世界が静かに重なった。
その瞬間、シリウスの胸に、どうしようもない愛しさが込み上げた。
この少女を、かつて自分は手放したのだ――
自由を選んだ代償として、彼女の隣に立つ資格を失った。
けれど今、こうして隣にいる。
その事実が、どれほど奇跡のように思えたことか。
「本当に、大切なものを、失っていたのかもしれない。」
そう思わずにはいられなかった。
アランは、シリウスにとって、ただの懐かしい人ではなかった。
今も、変わらず、いや、以前よりももっと――たまらなく、愛おしい存在だった。
夜の帳が静かに降り始める頃、ふたりの影はひとつに重なり、
その日が終わることを惜しむように、手を離さずにいた。
夜の街が静かに色を変え、ネオンの灯りが柔らかく瞬く頃、シリウスはアランと並んで歩いていた。
手を繋いだまま、言葉少なに過ごすその時間は、昼間の喧騒とは違って、どこかしっとりとした温もりに満ちていた。
本当は――
今日という日を、もっと特別な夜にしたらいい。
そう、親友のジェームズからは軽く背中を押されていた。
「せっかくの夏の夜なんだ、思いきってみろよ」
そんな言葉を、冗談めかして笑いながら言われたのを、シリウスは思い出していた。
けれど、実際にアランと向き合ってみると、そんな思いはすぐに遠のいていった。
彼女は、あまりにも綺麗だった。
ただ外見の美しさだけではない。
ふとした仕草、言葉の選び方、笑うときの目元の揺らぎ――
そのすべてが、どこまでも無垢で、静かに人の心に触れてくるようだった。
「こんな彼女を、自分の欲望で汚すようなことはしたくない」
そう思った。
触れることすら、どこか慎重になってしまう。
彼女の心に、余計な影を落としたくなかった。
だから、結局、キスを交わすだけに留めた。
それも、何度もためらいながら、そっと、そっと触れるようなキスだった。
きっと、ジェームズに話せば笑われる。
「意気地なし」と、肩を叩いてくる顔が目に浮かぶ。
でも、シリウスにとっては、それでよかった。
アランの隣にいること。
彼女の笑顔を見て、手を繋いで、同じ景色を見ていること。
それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
夜風が、アランの髪をやさしく揺らす。
その横顔を見つめながら、シリウスは心の中でそっと願った。
「この時間が、どうか壊れずに続いてほしい」
欲よりも、深く、静かな愛しさが、胸の奥で確かに灯っていた。
それは、誰にも話さず、自分の中だけに大切にしまっておきたい、
そんな特別な想いだった。
朝の光がゆっくりとマグルの街を照らし始めるころ、アランとシリウスはまだ人気の少ない通りを歩いていた。
夜通し過ごしたカフェを出たばかりのふたりの間には、言葉のいらない静かな余韻が漂っていた。
そんな空気を裂くように、遠くから聞き慣れた声が響いた。
「アラン。」
その声に、アランの足が止まった。
振り向くと、そこにはレギュラスが立っていた。
隣には、ブラック家に仕える屋敷しもべ妖精――クリーチャーの姿もある。
まさか、こんなところまで追ってこられるとは――
アランも、シリウスも、思わず息を呑んだ。
マグルの街、魔法の届かない場所。
そう思っていた。
未成年の魔法使いは魔法省に感知されると聞いていたが、それはあくまで魔法界の話だと信じていた。
だが、どうやらそれは甘い考えだったらしい。
クリーチャーの鋭い感覚が、ふたりの「におい」を辿ってここまで来たのだと、シリウスはすぐに察した。
そして、レギュラスもまた、迷いなくここに現れた――その事実が、何よりも重くのしかかる。
アランは、レギュラスの瞳を直視できなかった。
彼の目が自分を見つめているのがわかるのに、顔を上げることができない。
胸の奥に、重たい罪悪感がじわじわと広がっていく。
レギュラスからの告白を受け入れた、あの夜のことが鮮明に蘇る。
「向き合っていきたい」と、自分の口で伝えた。
彼の想いに応えたいと、そう思ったはずだった。
それなのに――
今、自分はシリウスとふたりで、誰にも言わずにマグルの街にいる。
どうしても、レギュラスの顔を見られなかった。
彼の瞳に映る自分が、どれほど裏切りに満ちているのかと思うと、足元がすくむようだった。
シリウスの手が、そっとアランの手を握り直す。
その温もりが、かえって胸を締めつける。
守られているのに、逃げている気がした。
レギュラスは何も言わなかった。
ただ、静かにアランを見つめていた。
その瞳の奥にある感情を、アランはどうしても読み取ることができなかった。
朝の光が、三人の間に淡く差し込んでいた。
それはまるで、夜の夢から現実へと引き戻す、冷たくも優しい幕引きのようだった。
朝の光が、まだ静かに街を包んでいる。
アランは、レギュラスの前に立ちながら、どうしても目を上げられなかった。
胸の奥で「ごめんなさい」と何度も繰り返しているのに、
その言葉は唇の先で震えるばかりで、声にならなかった。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、静かに彼女を見つめていた。
責めるでも、問いただすでもなく、
けれどその沈黙が、アランには何よりも苦しかった。
やがて、レギュラスは淡々とした声で言った。
「セシール家の夫人が、ご心配されてましたよ。」
その一言に、アランの心臓が強く脈打った。
――母だ。
自分は、レギュラスに会いに行くと言って家を出た。
その言葉を信じて、母はきっと何も疑わずに送り出してくれたはずだ。
では、レギュラスは――
その母に、なんと答えたのだろう。
アランが恐る恐る顔を上げたとき、レギュラスはただ一言、静かに言った。
「安心してください。一緒にいることにしてきます。」
その言葉に、アランの胸がふっと緩んだ。
安堵と同時に、深い感謝が心に広がっていく。
彼は、何も聞かず、何も責めず、
ただ自分を守るために、嘘をついてくれた。
それがどれほどの重みを持つことか、アランには痛いほどわかっていた。
「……ありがとう」
ようやくその一言だけが、かすかに声になった。
レギュラスは、それにも何も返さなかった。
けれど、その沈黙の中には、彼なりの優しさと、
そして言葉にできない想いが、確かに宿っていた。
朝の光が、三人の間に静かに降り注いでいた。
その光は、やさしくも残酷に、現実を照らしていた。
アランは、自分が守られたことを知りながら、
その代償として、レギュラスの沈黙を胸に刻み込んでいた。
朝の光が街を照らし始めたというのに、空気はどこか重く、冷えていた。
マグルの街角、まだ人通りの少ない路地で、アランとシリウス、そしてレギュラスは向かい合っていた。
その場に漂う沈黙を破ったのは、レギュラスの静かな、けれど鋭い声だった。
「……母さんが知ったら、また発狂してしまいますよ。」
その言葉は、怒りというよりも、疲れたような響きを帯びていた。
アランは思わず息を飲む。
その声の奥にある、長年の諦めと倦みを感じ取ったからだった。
シリウスは、すぐに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「……あのババアの言うことなんか、知るかよ。」
その言い方はあまりに無遠慮で、アランの胸がきゅっと痛んだ。
けれど、レギュラスは表情を変えず、静かに返す。
「あなたはそうでも、母がヒステリックに叫んで、屋敷の空気が悪くなるのが嫌なんですよ。」
その言葉には、感情を押し殺すような冷静さがあった。
それがかえって、二人の間に深い溝を感じさせた。
シリウスは、苛立ちを隠そうともせず、レギュラスに向かって吐き捨てる。
「ガキは部屋にでも篭ってろよ。母さんがいなきゃ眠れないってか?」
その言葉は、明らかに喧嘩を売るような口調だった。
アランは、そのやり取りをただ見つめることしかできなかった。
胸が痛んだ。
シリウスの言葉の裏にある、どうしようもない孤独と怒りが、痛いほど伝わってきたから。
ブラック家の中で、シリウスの立場がどんどん悪くなってきていることを、アランは知っていた。
彼の居場所は、もう家の中にはない。
それでもまだ、レギュラスとこうして言葉を交わせるうちは、完全に失われたわけではないと、どこかで願っていた。
けれど今、シリウスの言葉は、まるで自らその絆を断ち切ろうとしているようだった。
アランは、シリウスの横顔を見つめながら、胸の奥で静かに恐れていた。
――このまま、彼が本当に消えてしまうのではないかと。
怒りに任せて放たれる言葉のひとつひとつが、
彼自身を孤独の深みに追いやっているように思えた。
アランは、そっとシリウスの袖を掴んだ。
その手には、言葉にならない願いが込められていた。
どうか、これ以上、自分を壊さないで。
どうか、まだ誰かを信じていて――と。
朝の光は、そんな三人の影を長く引き伸ばしながら、静かに街を照らしていた。
その光はどこまでも優しく、けれど容赦なく、現実を浮かび上がらせていた。
