4章
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月のない夜だった。
冷たい霧が地面を這い、森の奥にひっそりと建つ屋敷の屋根に、影が滲んでいた。
重く閉ざされた鉄扉の奥に広がるのは、永劫のような沈黙と、息を潜める“忠誠”の気配。
闇の帝王の屋敷。
その奥の集会室に、口をつぐんだ仮面たちが集っていた。
黒一色に染め上げられたローブと、息を殺すような沈黙の中――
ヴォルデモートの声だけが、空気の芯を刺すように響いていた。
「――マグルの手に、魔法族の子が堕ちるなどという、滑稽な構図が続くならば」
「その血を滅ぼせ。名と根を断ち切れ。彼らが考えるべきは、“私たちの存在に怯える”ことでしかあり得ない」
目を細めるヴォルデモートのまなざしに、誰もが声を返さぬまま頭を垂れていた。
ただ、その中でひとつの影――
レギュラス・ブラックは、静かに目を伏せ、淡く息を吸い込んでいた。
怒りに共鳴するつもりはなかった。
激情であの場に身を置いているわけでもない。
けれど、今回ばかりは――
ヴォルデモートの言葉に、理があると、どこか静かに納得している自分がいた。
魔法族。それも、純血の血脈。
その魔法が、「力を持たぬ者たち」に奪われ、縛られ、
子どもが“人質”という名の下に冒涜されていく――
そんな世界を黙って見ていられるほど、自分は甘くない。
生き残る者が “誇り” を持たぬのであれば、
魔法族全体が緩やかに滅びるのと同じだ。
魔法に選ばれし血。
その力と系譜には、それを守る責任がある。
それが長い時を生きるブラックの家の教えであり、
今や国王の名のもとに結ばれた娘セレナの立場も、
次代を率いるアルタイルの歩む道も、
すべてはその“誇り”によって支えられていた。
だから、レギュラスは思う。
――あの女が、同じ「ブラック」の名を名乗っているなど、もはや許しがたい。
アリス・ブラック。
かつて、マグルの少女をアランが自らの手で救って逃がした女。
いまやその思想は騎士団へと繋がり、
マグル生まれの魔法族と徒党を組み、魔法界の秩序そのものを脅かし始めている。
かつての少女だった彼女は、信念に殉じて恋の名残を追い、
あのシリウス・ブラックの意志を、生きたまま継いでしまった。
それは滑稽でありながら、致命的だった。
「アリス・ブラック」という名が、
ブラック家と同等の名誉や思想をもつ名だと捉えられるような未来だけは、
絶対に許せない。
世界が、融合を美徳とするならば、
レギュラス・ブラックは、誇りをもって“圧倒的に隔てる者”であろう。
その隔たりの中にこそ、秩序はある。
その距離こそが、正統性と威厳を守るのだ。
だから――
命じられた処理任務の中のひとつに。
レギュラス・ブラックは、自ら”名を刻まずに遂行すべき影の任務”を滑り込ませた。
標的:アリス・ブラック。
誰にも言うことはなかった。
復讐でさえない。執念だけが原動力だ。
王妃となったセレナ。
王座を継ぐにふさわしき器を育つアルタイル。
このふたりの名の背後に、“決して汚れてはならぬ影”が自分によって消されるなら――
それこそが、レギュラスが “父” として、
“魔法族の支柱” としてなすべき行いに他ならない。
館に戻れば、アランが佇んでいるだろう。
翡翠よりも深く、静かに想いを受け取る眼差し。
告げはしない。
あの優しい頬の上に、血の責任を乗せるわけにはいかないから。
だが――
自分は迷いなく行く。
冷たく、確実に。
そして誇らしく。
息ひとつ漏らさず、ブラック家の血と名を守るために。
それが、「闇」としての天秤にすら、確かな重みを与えるのだと信じているから。
夜はすでに深く、
騎士団の詰所の窓から差し込む月明かりが、紙の上に静かに影を落としていた。
アリス・ブラックはその光の下、新聞も書簡も手につかないまま、椅子に身体を沈めていた。
部屋の空気は冷たく、静かだった。
けれどその沈黙の中で、心の内だけは嵐のように揺れ続けている。
マグル生まれの魔法使いたちが、
純血の子どもをさらう事件が増えている――こと実際、現場に立てば否応なく突きつけられる事実だった。
憤りながら熱に浮かされたように罪を犯すその姿を、アリスは何度も見てきた。
「今さら」ではなく、ようやく走り出してしまった彼らの長い憎悪と、覚悟。
確かに、間違っている。
子どもに罪はないのだから。
けれど――
それを「正すべき間違い」と言い切るには、あまりにも彼らの背景は、深く長く、痛みに満ちすぎていた。
彼らは、失ってきた。
家を、名前を、言葉を。
目に見えるものも、そうでない繋がりも、何も持たずに生きてきた。
そして、ようやく得た力を――
“ただ耐えるためにではなく、戦うために使っている”。
誤った手段なのかもしれない。
でもその気持ちまでが誤りだと、アリスに言い切ることが、どうしてもできなかった。
一方で、デスイーターたちは容赦がなかった。
現場に間に合えば、なんとか鎮められる。
けれど、たった一歩遅れれば、戻ってくるのは死体だけだった。
命の軽さに泣いて、怒るよりも先に、言葉すら出てこなくなった。
味方であるはずの正義が、その手に剣を持っている限り、誰かの血でしか裁かれない。
どうして、こんなにも世界は歪んだままなのか。
どうして正しさが、こんなにも歪みやすいのか。
「過去の恨みを忘れろ」と言うことが、
果たして“正しい”のか。
それを口にするとき、
アリスの心の奥にはいつも、自分自身の傷が反響した。
あの痛みを「なかったことにしろ」と命じられれば、人は簡単に壊れるのだ。
それでも彼らは、壊れるよりも怒りを選んだだけだ。
――でも、だからといって。
だからといって、“語らなかったほうの誇り”を踏みにじっていい理由にはならない。
この世界には、確かに守られるべき暮らしがある。
騎士団の制服を脱ぎ、家に帰れば、待つ家族がいる者たちがいる。
どれだけ制度が歪んでいても、人の暮らしには灯りを点けておく権利がある。
そのためにアリスは、戦ってきたはずだった。
均衡を壊さず、怒りを支えにせず――
“手を取り合える未来”を諦めなかったつもりだった。
けれど、今。
それがどれほど難しく、繊細な願いだったのかを痛いほど知ってしまった。
頭を抱えるように膝を抱え込みながら、ふと―― アランの顔が浮かぶ。
かつて、自分を救ってくれた人。
誰にも見つからない夜に、暗がりの中で杖を差し出してくれた、唯一の人。
幼い自分にとって、母のように、姉のように、永遠に手の届かない星のような人だった。
その人はいま、穏やかな光の中で、レギュラス・ブラックの隣に立っている。
もう“守られる”側ではなく、“共に支える”者として、静かに、まっすぐに。
アランが産んだ子どもたち、アルタイル。セレナ。
あの子たちにとって、自分という存在は――
父と母を引き裂こうとする、ただの“無粋な存在”にしか映らないのだろう。
自分は、“何も知らないマグル生まれ”という小さなラベルひとつで、
あの輝かしい家族の「対極」に立たされているのかもしれない。
アリスの胸の奥で、何かがぽたりと崩れる音がした。
「何が、正しいんだろう……」
誰に向けたわけでもない、吐息のような声が、ただ小さく宙に溶けた。
眉を寄せ、手を重ねたその眼差しに映っていたのは、
終わりなき問いと、正しさが見失われた未来だった。
両者が手を取り合って生きていく世界。
それを願うことが、あまりにも遠すぎる星の光のように感じられた夜だった。
屋敷の図書室は朝の光を柔らかく取り込み、アルタイルの机の上に広げられた羊皮紙に、静かに金色の灯りを落としていた。
手紙は、昨夜のうちに届いていた。
レインズフォード家の封蝋。端正な筆記。くっきりとした、ためらいのない字――
イザベラからの便りだった。
“アルタイル様、その後もお変わりなくお過ごしでしょうか。
お母様のご体調が安定されていること、心より安堵いたしました。”
何度読んでも、その文章からは同じ温度が届く。
彼女の筆跡はきれいで、端正すぎて、どこか彫刻のようだった。
けれど、その中にそっと添えられた「アラン夫人」の体調への気遣いが、
アルタイルの胸に温かな灯をともすようで――
それが何より心に沁みた。
はじめて会った時、
イザベラ・レインズフォードという少女は冷たく見えた。
瞳は鋭く、言葉は少なく、華美なドレスにも体温を乗せない印象で――
まるで“他人に触れないように育てられた氷”のようだった。
けれど、手紙の中では、別の顔をしていた。
自分の学校での授業のこと、
あまり得意ではない魔法薬の話でこぼすように笑う句読点、
妹のセレナの婚約が話題になったときの「とても素敵なことですね」と結ぶ静かな祝福。
その一つ一つが、“壁の向こう”に誰かが確かに座っていると知らせてくれる。
文字が、彼女の声に思えるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そして、今回の手紙の最後に綴られていた一節。
“もしご都合がよろしければ、次の休暇、美しいご屋敷にお伺いしてもよろしいでしょうか。”
その一文に、アルタイルの心は跳ねた。
穴があくほど読み込んでしまい、次の言葉にいまだ筆先が届いていない。
招くこと自体に、断る理由などない。
イザベラが来てくれるのは、名家の婚約者としても極めて自然な流れだ。
父も母もきっと歓迎してくれる。セレナだって。
けれど――「自分が」「彼女に」どう接するべきなのかが、
まるで霧の中だった。
母と妹以外の女性に、親しい距離で言葉をかけたことがない。
物理的に手を取ることもなければ、名前を呼ぶ声すら、学校ではいつも堅かった。
“屋敷に迎える”と、おそらくそれは
「ただ行儀よく紅茶を振る舞う」ことでは終わらないのだろう。
本当は何を話すべきなのか、
どんな眼差しで、どんな距離で、彼女を見るべきなのか――
それが分からない。
けれど、分からないなりに抱いている思いはある。一つだけ。
彼女の手紙が嬉しい。
それが、いちばん大事なことだった。
心がほんの少し、ほどけるようになる。
その変化を、自分の中で見つけつつある。
だからこそ、愚かにはなりたくなかった。
彼女を退屈させたくないし、見せるべき誠意だけは間違いたくない。
机に向かって、手紙をしたためようとする。
けれど、羊皮紙の一枚目には何も書けず、そのまま手を止めた。
すぐに返事を書くべきか、
少し、練習すべきか――。
そうして、アルタイル・ブラックはふと窓の外に視線を向けた。
遠く風が揺らす中庭の木々に、少女の冷たい瞳と、それに宿りはじめたやわらかなぬくもりが重なる。
言葉にするのがこんなにも難しいのは、
もしかして、それを大切だと思っている証なのだろうか――そう思いながら、彼は、また静かにペン先を羊皮紙に迷わせた。
夜、アルタイル・ブラックの書斎にはペンのかすかな音だけが響いていた。
天井の高い部屋に満ちる静寂のなかで、彼が手を止めることなく綴っているのは――父への手紙だった。
普段、こうして誰かに気持ちを綴るとすれば、それはほとんどが母へのものだった。
アラン宛の手紙はいつも言葉が自然と流れ出て、筆先も迷うことがない。
けれど今日、彼が静かに差出人欄に書いたのは、「父上へ」という宛て名だった。
これは、母のように〈聞いてくれる人〉ではなく、
男として答えを示してくれる存在にだけ向けた問いだった。
便箋は二つの折り目で慎重にたたまれていた。
インクは滲みもなく、けれど言葉選びには何度も戸惑いの跡があった。
「イザベラから、次の休暇に“屋敷へ訪れたい”と知らせが届きました。」
この報告をするだけでも、アルタイルには不思議な緊張があった。
何かが変わり始めている。けれど、それが何を意味するのかわからない。
ただ、大事にしたいと思っている気持ちが確かにある。それだけは間違いなかった。
「正直に申し上げると、どう迎えてやればよいかわかりません。」
握りしめるように、そうも書いた。
「笑わせるにも間合いを知らず、華やかに飾ることも気後れいたします。
それでも――この訪問を、嬉しく思っている自分に気づきました。」
言葉にしてはじめて、彼は「想っていたこと」に輪郭が生まれるのを感じた。
イザベラが笑う声を知らない。
けれど、その筆跡の行間には、笑いたがっている気配が星の数ほどに散らばっている。
それを汲める男になりたかった。
そして、そっと一行、添えるように記した。
「父上にも、同じ年頃がありましたよね。
今の私のような時、誰かを迎えるとき、心の置き所はどこにあったのでしょうか。
……もしよろしければ、教えていただけませんか。」
それは、「教えてください」というよりも、
「あなたを知りたい」と願う言葉だった。
たった今、フェンリル・グレイバックを前にした剣のような父ではなく、
母へ向けた微笑を静かに下ろす夜の父でもなく――
若き日のあなたは、どんな顔をしていたのですか?
という、敬意と淡い憧れを込めた問いだった。
封を閉じたあと、アルタイルはしばらくその手紙を机の上に置いたまま、息をつめた。
それは不思議な行為だった。
まるで、父の手に渡る前に、自分の何かが見透かされそうだったから。
けれど、ふと空を見上げた時。
月灯りの入り込む窓辺に、ふっと風が通り――
彼は静かに立ち上がり、呼び出した梟の足に、手紙を結んだ。
音のない羽ばたきとともに、父への手紙は闇へと消えていった。
その背に、何も言わず、けれど確かに――
息子としての最初の問いが託されていた。
書斎の窓辺には薄曇りの午後の光が差し込んでいた。重厚な机の上には、封蝋が剥がされたばかりの便箋。
レギュラス・ブラックは、それに目を通したまま、しばし言葉も動きもなく座っていた。
羊皮紙に刻まれた筆跡は、いつもよりわずかに丸みを帯びていた。
緊張と迷い、そして誠意と誇り――。一文字一文字に、息子であるアルタイルの“揺れ”が滲んでいた。
「……まったく、生真面目にもほどがある」
そう呟きながら、微かに唇の端が緩んだ。
こそばゆいような愛しさが、胸の内に広がっていた。
年齢でいえば、アルタイルはいま十六歳。
あの年頃の自分は、何を見ていたか……と、レギュラスは懐かしさと共に記憶の奥を辿った。
すぐに浮かぶのは、アラン・セシールの声、横顔、背。
ただその存在だけを必死に見つめていた記憶ばかりだった。
その年の冬。
卒業を控えた最終学年のクリスマス休暇――
両家からの許しを得たあと、アランと初めて一夜を共にした。
雪の降る晩だった。
けれど、アルタイルはまだ違う。
まだホグワーツの生徒。
あと一年、魔法界の規律と学びのうちにいるべき年齢だ。
もし招いた屋敷の中で少女と過ごし、
その時間が踏み込む先で“何か”を越えてしまったとしたら――
思わず、肩にわずかな重みが落ちてくる。
妊娠という現実。
未来にかかる重さ。
それはまだ、ほんの少しだけ早い、そう思った。
「避妊……ね」
低く呟いて、レギュラスは苦笑する。
あの医務魔女に言われた記憶が蘇る。
気にしなければならない、とわかっている。
だが、自分自身、どこまで“正しく”理解できていたわけではなかった。
この歳になっても、その分野に明るいとはとても言えず、
息子に教え示せる知識も、正直なところ――ない。
それでいて、「父と息子揃って魔法薬や避妊呪文を調べる」などという想像をするだけで、
いたたまれなくなるような滑稽さを覚えて、レギュラスは思わず小さく笑ってしまった。
「……やめておこう、さすがに――それは」
そのかわり――
書くことにした。
言葉にするなら、過剰な助言でも押し付けでもなく、
ただ正直な気持ちとして。
「心得ておけば、心の準備はできる。けれどすべてを急ぐ必要はない。
屋敷に招くことは構わない。自然体で過ごせばいい。
そうだな――キスの一つやハグくらいはしてもいい年齢だと、私は思いますよ」
筆が止まったとき、レギュラスはふと、窓の向こうに目をやった。
屋敷の庭に、まだ青さの残る木々と、風に舞い上がる白鳩がいた。
そのまっすぐさも、初々しさも、希望にあふれている。
だからこそ傷つけたくないし、縛りたくもない。
優しく、ただ背を押してやれたら――それが父としてできる、唯一で最も誠実な助言なのだと思った。
手紙を封じる。封蝋を押す手元に刻まれる、ブラックの紋章。
“アルタイルが迷わぬように。”
そして、“彼の選ぶ誠実が、報われるように。”
そう願いながら、レギュラスは手紙を淡く揺れる蝋燭の火に照らして見つめ、
それを自らの鴉に預けて送り出した。
蝋の香りが微かに残る書斎に、静かであたたかな沈黙だけが残った。
朝の光が薄くカーテン越しに差し込む空間。
まだ空気に温度が乗りきらない時間のなかで、ティーカップに注がれた香りだけが、ふたりの間をやわらかく結んでいた。
レギュラスとアランは、静かな余白のような朝を共有していた。
何気ない会話の延長にふと、アランがそう言った。
「アルタイルから手紙が来ていたのでしょう?」
レギュラスは頷きながら、カップ越しに視線を向ける。
「ええ。……イザベラ嬢が、休暇中にうちに来るそうです」
その瞬間、アランの瞳が明らかに開かれた。
「……まぁ……!」
声として出なかったものの、その表情には、十分すぎる驚きと、母親としての動揺が浮かんでいる。
思わず、それがあまりに真っ直ぐでかわいらしく――
レギュラスは静かに笑みをこぼした。
「そんなに驚かなくても」
「……いえ、だって……」
アランはうわずった声を押しとどめるように視線を外すが、その頬にはほんのり紅が差していた。
まるで、「息子にガールフレンドができた」とでも言われたかのような戸惑いと、誇らしさの入り混じった仕種だった。
レギュラスは手紙の内容――とくにアルタイルが抱えていた不安や迷い、
女性への距離や接し方について、父にだけ告白してきたことは口にはしなかった。
あの手紙は「母には言いたくない」という、少年なりのけじめだった。
だからこそ、その意志はきちんと尊重したかった。
けれど、母親は母親で、息子を想う心配を、きちんと胸に抱いていた。
「……大丈夫かしら。まだアルタイルは16ですし……イザベラ嬢も、ね。ふたりとも来年まで学生でしょう?」
その言葉に頷きながら、レギュラスはまた笑った。
静かに。愛しくて、おかしくて仕方がないように。
アランが不思議そうにこちらを見やる。
「……なに? どうして急に、そんなふうに笑うの?」
レギュラスは少しだけ視線を上げて、目を細めた。
「……16歳の頃の僕のこと、覚えてます?」
問いかけはやわらかく、少し照れくさげで――
記憶の奥、ふたりだけが知る、とある季節をそっとなぞるようだった。
アランは目を伏せ、にこやかに返す。
「ええ、覚えてるわ。……大人びてた」
その言葉に、レギュラスは息の奥で小さく笑いながらも、どこか遠くを思い出すように言葉を付け加える。
「……でもたぶん、キスくらいはしてましたよね。僕ら」
さも過去の事実を確認するように――
けれど、自分の口からその言葉が出た瞬間、どこか妙に恥ずかしくなって、レギュラスは喉の奥で笑いを堪えた。
本当は、大人びていたなんてものじゃない。
当時の自分の内心は、常に“ アランでいっぱい”だった。
どうすれば触れられるのか、
これ以上は待つべきなのか、
距離を詰めていいのか、まだ早いのか――
なにもかもがぎこちなくて、熱くて、眩しかった。
あのひとつひとつの夜が、まるで手の届く祈りのように大切だった。
そんな日々を、いま息子も同じように歩こうとしている。
――ならば、たとえ不器用でも、彼なりの距離の測り方で構わない。
不意に笑った父の言葉の奥にある記憶に、アランもまたふっと笑みを返した。
ふたりに流れる静かな午前の光は、ひとつの時代を見送り、
次の季節が遠くから近づいてきていることを、静かに知らせていた。
談話室の午後は、やわらかな陽がカーテン越しに差し込み、部屋全体を淡い琥珀色に包んでいた。
壁際の本棚の影が床に伸び、重厚なソファの一角に兄妹の気配が柔らかく重なっていた。
アルタイル・ブラックは、整った姿勢で一通の手紙を読んでいた。
手には、香りの微かに移った薄い羊皮紙。
レインズフォード家から届いた、イザベラの筆跡だった。
真摯な文字で綴られた敬意と配慮――
彼女らしい、控えめであたたかな文面が、アルタイルの目を静かに泳がせていた。
そんな時だった。
座っていたアルタイルの手元から、その手紙が一瞬で抜き取られた。
「……セレナ、ちょっと……!」
あわてて身を乗り出す兄に、セレナはくすりと微笑みながら、手紙の一節を目でなぞった。
「やめてくださいよ、返してください――」
「ごめんなさい、お兄さま」
「でも、あまりに素敵なお手紙だったから」
朗らかに言いながら、セレナは器用にひととおり目を通していた。
その瞳に、心からの微笑ましさが滲んでいる。
手紙には、兄への礼を尽くす丁寧な言葉が綴られていた。
互いの生活の近況、今度の休暇のこと。
そして一節には、アラン――彼らの母への体調を気遣う言葉。
そう綴られているのを目にした時、セレナの声が少しだけやわらいだ。
「……イザベラ様、お母さまのことも気にかけてくださるのね。お優しい方だわ」
その言葉のあとで手紙をそっと閉じ、セレナはアルタイルに手渡した。
真顔には戻らず、まだ微笑みの名残を携えたまま。
イザベラ・レインズフォード。
その少女に初めて挨拶した日を、セレナは覚えていた。
品があり、聡明で、けれど少しだけ目の奥にためらいを残すような――
言葉少なで内に閉じこもるような雰囲気を持っていた。
そんな少女が、手紙ではこれほど饒舌に語っている。
それが不思議で、どこかあたたかかった。
きっと、兄がおそるおそる伸ばした手を、イザベラはきちんと両手で受け取ろうとしているのだ。
守られてきた妹としての立場は、何度も肌で感じてきた。
けれど今、この手紙を通して――
セレナは、自分が心から兄を“祝福できる側”に立っている気がした。
これから兄が歩む道に、自分が何かを言葉にせずとも、心から信じられる女性がいるのなら――
何も心配はいらないのだと、
小さな葉がすっと春風に乗るように、その不安は胸の中から抜けていった。
「……ふふ、でも……お兄さま、手紙なんて交換してらっしゃるのね」
「……あまりからかわないでください、セレナ」
本気で困ったような兄の表情に、セレナは悪戯っ気たっぷりに笑いながらも、心の底ではとても、ひとつの優しさに包まれていた。
父と母がそうであったように。
いつしか兄もまた、自分だけの“誓い”を見つけてゆく。
その始まりを、こうして隣で見届けられる喜びを、
セレナ・ブラックは誰よりも静かに、誇りを持って受け止めていた。
談話室の薄明かりの中、手紙を取り戻したアルタイルは不格好に咳払いをひとつして、目をそらした。
けれど頬の赤みはどうにも隠せない。
自覚しているのが、なおさら恥ずかしかった。
こんなふうに、妹にからかわれたくらいで――
「照れ顔一つで追い詰められる」自分が、情けなくさえ思える。
それでも言葉を返すにも返せず、低く視線を落としたまま本の背表紙を眺めていた。
なのに、相手はあのセレナだ。
愛らしく笑いながら、兄の戸惑いをしっかりと掌の上で転がしている。
そして何より――もう知ってしまった。
イザベラが休暇中に屋敷に来ることを。
もはや隠しようもない。
妹のことだ、当日まで言葉には出さなくとも、視線ひとつで愉快そうに観察しているに違いない。
そんな様子を思い浮かべるだけで、気が遠くなるようだった。
「……何をして差し上げたら……イザベラ嬢を、喜ばせられるんでしょうか」
ぽつりと漏れたその問いは、取り繕う気配すらなく、ごくまっすぐに落ちていった。
ただ優しく迎えたいだけなのに、それがどれほど難しいか。
華やかにも、雄弁にもなれない自分が悔しいほどによく分かっているから。
セレナは、ほんのわずかに驚いたように兄を見やった。
けれど、ほんの一拍のあいだを置いた後で、穏やかに微笑んだ。
「……その手紙のように、たくさんお話ししたらいいですわよ」
語るでもなく――導くように。
さっきまで兄をからかっていたのが嘘のようだった。
あの人懐こい笑みの裏に、うんと落ち着いた目をしていた。
「話す」という行為が、少女にとってどれほど大切かを、
セレナはきっと、女性としてもう知っていたのだ。
手紙の中で、イザベラは確かに雄弁だった。
不器用に、でもまっすぐに、自分の想いと言葉で世界を組み立てていた。
きっと、それを返してやること――それが彼女にとって何より嬉しいことなのだろう。
アルタイルはしばらく無言のまま頷いていた。
認めることが少し照れくさくて、けれど、正面から頷いた。
ああ、やっぱり妹は年下なのに、どうしてこうも時折「大人の顔」をして見せるのだろう。
窓の外では風が庭の木々を撫でていた。
何かがゆっくりと、新しい季節へ移ろおうとしている。
その静かな気配の中で、アルタイルは手紙を胸元に戻し、
ごく小さく、はにかんだような笑みを返した。
そしてそれを見た妹もまた――
何も言わずに、そっと微笑みを返したのだった。
春風が校庭の芝を撫でていた。
柔らかな陽射しがホグワーツの城壁を金色に染め、遠く湖面さえも光の粒を散らしている。
最終学年を迎えた生徒たちのあいだから、どこかしら少しずつ「別れ」の気配が始まりかけていた。
その空気の中で、アルタイル・ブラックは一人、古びた中庭に立っていた。
いつもなら課外の防衛術が行われていた場所――
かつて、彼が何度も胸を熱くした「シリウス先生」の時間のための場所だった。
けれど、今日はそこには誰もいない。
もう、シリウス・ブラックは教壇に立たない。
騎士団の任務が増え、これまでのようにはホグワーツに足を運べなくなるのだという知らせをアルタイルは受け取っていた。
「……寂しいです、シリウス」
そう口に出した声は、思ったよりも小さかった。
その言葉に応えるように、すぐ隣で肩をすくめて微笑んだ顔――
ほんの少し髪に白いものが混じり始めたその男は、
けれど相変わらず、目だけは少年のように澄んでいた。
「思い出が、ここにあるだろ?」
そう言って、胸に手を当てる仕草をしてみせた。
それは、どこか茶化すようでいて、本気の静けさを帯びたものだった。
長い人生を「思い出だけ」で生きてきた人間の言葉。
その軽やかさに宿る重さを、アルタイルは確かに感じていた。
ああ――
母が、どれほど深くこの人を愛したのか、今ならよくわかる。
「また……会えますか?」
そう言わずにはいられなかった。
言ってしまったあとでさえ、アルタイルはその言葉が子供っぽく聞こえはしなかったかと不安になる。
けれど、シリウスは笑いながら即座に言った。
「いつでもいい。手紙でも、何でもよこしてくれ」
「そうしたら――すぐに会いに行く」
さらりと言われた「すぐに会いに行く」という声。
その言葉運びに込められた軽やかな優しさと、曇りのない真摯が、アルタイルの胸に深く残った。
だからこの人は、母の心を引き寄せた。
だからこそ、レギュラスという影の濃さがあっても、母の記憶の中から消えなかったのだと思えた。
そのそばで、淡く陽の差す階段から、セレナが歩み寄ってくる。
漆黒のローブが風を含んでひらりと揺れ、彼女は一歩一歩、まっすぐな目でシリウスを見上げた。
「先生。……お世話になりました」
敬意を忘れずに差し出された手と、それにつられるような穏やかな笑み。
けれどシリウスは握手を避けるようにして、茶化すようにその手ごと少女をぐっと引き寄せ、軽く抱きしめた。
「――ああ。未来の王妃様に教えられて、光栄だったよ」
腕の中で、セレナが小さく息を呑む。
いつも通りの距離を保っていたつもりが、思いがけず崩れた瞬間だった。
けれどなぜか、嫌ではなかった。
それどころか、胸の奥で小さく、何か嬉しいような灯が孕んでいた。
どこまで行っても、シリウス・ブラックは「シリウス・ブラック」だった。
強引で、不器用で、けれど決して人を不快にさせない。
それがきっと、人を惹きつけてやまない理由なのだろう。
それを見ていたアルタイルは、あたたかな気配のなかで、どうしようもなく胸が詰まっていた。
この日が来ることは分かっていた。
騎士団に戻るなら、もう以前ほど気軽に会えないのも分かっていた。
けれどそれでも――
いま、実際に「別れ」が迫ったその瞬間、
感情は思ったよりも、とても小さなことで崩れていく。
喉元まであふれそうなものをぐっと飲み込んで、
彼は芯からの尊敬と寂しさを込めて、最後に頭を下げた。
そのときだった。
母・アランがかつて、どれほどの思いでこの人の手を離すことを選んだのか――
その「苦しみの深さ」を少しだけ、実感できた気がした。
手放すこともまた、愛のかたちなのだと。
「またな、アルタイル」
そう言って、シリウスは背を向けた。
歩き出す背中に、誰も言葉を投げなかった。
風がひとすじ、彼のローブを払っただけだった。
それでも、背中からはいくつもの記憶がこぼれていた。
きっとずっと、この胸の中に残り続けていく。
あのとき、笑ってくれた師の声と、教えてくれた愛の重さが、明日を歩く道標になっていくのだと、アルタイルは静かに信じていた。
シリウス・ブラックの背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
あの軽やかな足取りも、くしゃっと笑う横顔も、もう彼女の視界から見えなくなろうとしていた。
セレナ・ブラックは、ただその背を見つめていた。
スカートの裾が風を受けて揺れることさえ気づかないように――
まるで時が一瞬、止まったかのように。
「……これで、よかったのよ」
胸の中でそっと呟く。
それは誰にも聞かせる必要のない、自らへの宣言だった。
陽の差す空の下、あの人のそばに長くいるには、あまりにも多くのものが――ゆらぎすぎる。
彼はあまりに無垢で、あまりに真っ直ぐだった。
こちらの理屈も、誇りも、生きてきた分別さえ、気にとめることなく笑ってくる。
理不尽で、自由で、ずっと誰かの光になれるような、そんな存在。
そしてたぶん、母の心に、誰より深く根を張った男――シリウス・ブラック。
セレナは目だけを動かして横を見る。
涙を堪えきれないような顔で、シリウスの背中を見送っている兄。
ついさっきまで、堂々としていたアルタイルの目に触れたその影に、
彼女は内部をきつく締めつけられるような痛みを感じた。
でも、口にはしなかった。
代わりに――
「……どうか、強くあって」
「誇りを、忘れないで」
心の中でそっと、兄にだけ言葉を投げかける。
それは半ば、彼のためであり、自分自身への誓いにも似た。
セレナ自身が一番恐れているのは、
きっと――いつか、この胸の何処かに、あの男が宿ってしまうことだった。
ほんの一瞬にしてすら、それは起こりうると思った。
あの声の響き。
腕の中に抱かれたときの体温。
言葉よりも、存在そのもので“愛”という概念を見せてくるその在り方。
もし、あれがもう少し続いてしまったら――
自分もまた、母がそうであったように、
触れてはならないものに引き寄せられてしまうのかもしれない。
それが、怖かった。
セレナ・ブラックは、自分が母にはなれないと知っていた。
あれほどに揺れ、あれほどにひとりを信じ、受け入れられずとも愛し続ける人生など――
自分には到底、生きられない。
このセレナは、王となる男の隣に立つ者だ。
ブラック家の名は引き継がずとも、その血と矜持を宿し、
王国の未来を担う魂の核になるべき存在だ。
そのために、涙を流す場所を決めてはいけない。
報われぬ物語など、人生に差し込ませてはならない。
王妃になろうとする人間は、
“信じれば叶う”という幻ではなく、
“叶えるために信じる”という覚悟を持たなければならない。
それが、自分に課した誇りだった。
けれど――
ほんのひとときの接触の中で、
セレナは確かに、“愛”というものの片鱗を見た気がした。
誰かに抱きしめられ、言葉ひとつで力をもらうという経験。
奪いも押しつけもせず、ただそこに在ることで、心の奥に何かを灯すような不思議さ。
――ああ、これが、母が愛した男。
納得ではない。理解でもない。
ただ、その輝きに、懐かしさにも似た怖れを覚えた。
『それで、もう……十分。』
そう思った。
痕を残さず、遺さず。
愛しもせずに、憧れて終える――
それが、セレナ・ブラックにとって、正しさのすべてだった。
中庭には風が吹き抜け、
やがてその背中も完全に角を曲がって見えなくなった。
それでもセレナは、数秒そこに立ち続けた。
まるで、それでもなお残る何かに、静かに手を振るように。
そして、静かに踵を返した。
明確に前だけを見る、覚悟を携えたあの歩き方で。
書斎には明かりが灯っていた。
外の世界が夜の帳に包まれてゆく中、窓辺のレース越しに揺れる光と、インクの匂いだけがこの部屋を満たしている。
レギュラス・ブラックは、漆黒のインクを吸わせた羽根ペンを走らせていた。
その手元に積み上げられた書類たちは、どれも同じような文面――魔法省からの諮問書、報告要請、抗議文、それに対する彼の返答案。
「また……随分と、多いのね…」
深く吐息をつきながら、が書斎にそっと足を踏み入れる。
その手に湯気立つティーカップをひとつ。
ふと見下ろした机の上にぎっしりと埋まった羊皮紙たちに、思わず顔をしかめた。
「……気にしなくて構いませんよ。いつものことです」
背を向けたまま、どこか淡々として、けれど皮肉もなくそう言うレギュラスの声。
魔法省が問題視し、苛立ちをぶつけてくるのはいつものことだった。
近頃、マグルの魔法使いたちが犠牲になる事件が続きすぎていた。
実行犯はデスイーター。だが――背景には「純血の子どもが攫われた」「命を脅かされた」という正義の看板が掲げられている。
人が死んだ。では、なぜそうなったのか?
レギュラスはいつも「正しさ」という鈍利な剣を使う。
対話ではなく、整えられた事実の羅列、抜けのない帳簿、証言、記録。
それらの辻褄は、彼の手によって完璧なまでに織り直されていた。
どれだけ理不尽を感じていても、掴むすべもなく魔法省は沈黙する。
それがお決まりの、いつもの流れだった。
けれど――アランには、その「いつものこと」が、どうしようもなく重く見えた。
「……それなら尚更。あなたの心が……すり減らないか心配で」
優しく置かれた声。
そのたった一言で、レギュラスの手が――静かに、止まった。
羽根ペンの先から、一滴だけ静かにインクが零れ落ち、羊皮紙に淡く滲んだ。
その間に、アランはそっと彼の背後に近づき、机越しにその横顔を見つめていた。
振り返ったレギュラスの表情には、疲労ではなく、満ちた静けさがあった。
それは、やり場のない責任や怒りに心を喰われながらも、それでもやれる自分であろうとする――あまりにも人間らしい沈黙だった。
「……それを、あなたが言ってくれるだけで良いんです」
その声は、何よりも真摯だった。
シンプルで短い返答。けれどその中には、言葉にできぬほど多くの感情が詰まっていた。
この家に戻るたび、アランがそこにいてくれる。
無機質な意志のやりとりの中で、誰の言葉もうわべにしか届かないと分かっていても――
「レギュラス」としての生を、ただ黙って見つめてくれる人がいる。
たったそれだけで、彼の人生は立っていられる。
アランがそっと微笑んだ。
そして静かにティーカップを机の隅に置くと、積まれた書類には目をやらず、優しくレギュラスの肩に触れた。
「……じゃあ。あなたがすり減る前に、ひと息いれましょうか」
その触れかたは、言葉よりも剣をやわらかく包み込んでいくようだった。
部屋の中の時間が、ほんのひと時だけ緩やかになった。
乱さずとも、壊さずとも――
確かにここには、日常に埋もれた名もなき幸福が息づいていた。
それは、どんな法にも記されていない「慰め」のかたちだった。
曇天が続く午後、騎士団本部の作戦室には、何度目かになる沈痛な沈黙が満ちていた。
机の上には厚手の封筒がいくつも並び、そのすべてに、淡く吸い込まれるような流麗なサインが踊っている――
“Regulus Arcturus Black”
封筒の端にわずかに残る蝋の香りにすら、冷たい品格の気配があった。
ジェームズ・ポッターはその完璧に整った筆跡を見ながら、ただ深く息を吐くことしかできなかった。
何度目だろう。
こうして魔法省の抗議文を送り、その返答として届くのは、毎度、完全に整えられた反証と理屈、そしてこの男の署名だった。
法の抜け目はない。
証拠も、証言も、すべてが一糸のほころびもなく整えられてくる。
いかに殺戮が発生していようとも、「やむをえぬ正当処置」として見事に画が完成されている。
その“冷たい正しさ”の総和が、レギュラス・ブラックなのだ。
「……ほんとに、恐ろしく完璧だな。あの男は」
呟くように漏らしたジェームズの声に、向かいに座るアリスは返事をしなかった。
ただじっと、サインの載った返信文の束を見つめ、そのまなざしに揺るぎない怒気が滲んでいた。
ふいに――アリスがぽつりと呟いた。
「……私、この男を殺したいわ」
その言葉に、ジェームズの目元がわずかに動いた。
一瞬、何かを聞き間違えたのではないかとさえ思った。
けれど、彼女の口元は確かに動いたままで――
今まで一度として口にしなかった“激情の死”という語が、彼女の口から、はっきりと現れたのだ。
少女だった頃を、ジェームズは思い出す。
光のまなざしで、シリウスを『導き』として敬い、
怒りというよりその先にある“正しさ”に惹かれていた、あのアリス・ブラックを――
「アリス、それは……危険な感情だ」
低く、重く、ジェームズは告げる。
「そんなふうに、正義の名前のもとに人を殺そうとするなら――
それはもう、デスイーターと、なんにも変わらない」
息を潜めるような沈黙のあと、アリスは顔を上げた。
その瞳には、ひるむことのない強さがあった。
「……違うわ。私は、違うのよ」
「無差別になんて、殺したりしない」
そう言ったアリスの声は、悲鳴にも似た悲痛な叫びだった。
「私は、憎んでる。それは本物だけど……」
「それでも“巻き込みたくない人”くらい、私だって、ちゃんとわかってる」
けれど――ジェームズは続けた。
「……でも、考えてみてくれ。デスイーターも……無差別にじゃないんだ」
「彼らは、騙しきっている。あくまでも、“事件に関わった者”に制裁を下しているという建前で、
死の呪文をふるっている。言葉を選んで、正当化する手練手管なら山ほどある」
その一言に――アリスの肩が、うっすら震えた。
でも、それは怒りではなかった。
むしろ、血の奥までえぐるような失望のようだった。
彼女の指先は静かに握られ、こんなにも凍てつくような声が漏れた。
「……あの人は、違う」
「レギュラス・ブラックは――“ただの実行者”じゃない」
「彼は、アラン・セシールを…人生ごと縛ってるの」
「私の、大切な人を……抱えたまま、あくまでも“幸せな家庭”を維持して、
まるで誰にも責められない位置に飛び続けてる」
掠れるような声の奥に、幼いアリスの面影がこぼれた気がした。
「自分の手で殺したりはしない代わりに、“全員に諦めろと思わせるように”完璧に整えた世界で君臨してるの」
「それが――私は、耐えられない」
声の先に、魔法界の法の綻びではなく、“幸福の仮面”を張りつづけながら誰もを黙らせる者への怒りがあった。
それは、正しさへの憎しみではない。
失われた正義と光を、そのまま“封じ込められた家族の姿”として見続けている少女の叫びだった。
ジェームズは何も言わなかった。
ただ、サインの載った書類を静かに伏せた。
震える彼女の拳とは別に、机越しの空気だけが、氷のように張り詰めていた。
冷たい霧が地面を這い、森の奥にひっそりと建つ屋敷の屋根に、影が滲んでいた。
重く閉ざされた鉄扉の奥に広がるのは、永劫のような沈黙と、息を潜める“忠誠”の気配。
闇の帝王の屋敷。
その奥の集会室に、口をつぐんだ仮面たちが集っていた。
黒一色に染め上げられたローブと、息を殺すような沈黙の中――
ヴォルデモートの声だけが、空気の芯を刺すように響いていた。
「――マグルの手に、魔法族の子が堕ちるなどという、滑稽な構図が続くならば」
「その血を滅ぼせ。名と根を断ち切れ。彼らが考えるべきは、“私たちの存在に怯える”ことでしかあり得ない」
目を細めるヴォルデモートのまなざしに、誰もが声を返さぬまま頭を垂れていた。
ただ、その中でひとつの影――
レギュラス・ブラックは、静かに目を伏せ、淡く息を吸い込んでいた。
怒りに共鳴するつもりはなかった。
激情であの場に身を置いているわけでもない。
けれど、今回ばかりは――
ヴォルデモートの言葉に、理があると、どこか静かに納得している自分がいた。
魔法族。それも、純血の血脈。
その魔法が、「力を持たぬ者たち」に奪われ、縛られ、
子どもが“人質”という名の下に冒涜されていく――
そんな世界を黙って見ていられるほど、自分は甘くない。
生き残る者が “誇り” を持たぬのであれば、
魔法族全体が緩やかに滅びるのと同じだ。
魔法に選ばれし血。
その力と系譜には、それを守る責任がある。
それが長い時を生きるブラックの家の教えであり、
今や国王の名のもとに結ばれた娘セレナの立場も、
次代を率いるアルタイルの歩む道も、
すべてはその“誇り”によって支えられていた。
だから、レギュラスは思う。
――あの女が、同じ「ブラック」の名を名乗っているなど、もはや許しがたい。
アリス・ブラック。
かつて、マグルの少女をアランが自らの手で救って逃がした女。
いまやその思想は騎士団へと繋がり、
マグル生まれの魔法族と徒党を組み、魔法界の秩序そのものを脅かし始めている。
かつての少女だった彼女は、信念に殉じて恋の名残を追い、
あのシリウス・ブラックの意志を、生きたまま継いでしまった。
それは滑稽でありながら、致命的だった。
「アリス・ブラック」という名が、
ブラック家と同等の名誉や思想をもつ名だと捉えられるような未来だけは、
絶対に許せない。
世界が、融合を美徳とするならば、
レギュラス・ブラックは、誇りをもって“圧倒的に隔てる者”であろう。
その隔たりの中にこそ、秩序はある。
その距離こそが、正統性と威厳を守るのだ。
だから――
命じられた処理任務の中のひとつに。
レギュラス・ブラックは、自ら”名を刻まずに遂行すべき影の任務”を滑り込ませた。
標的:アリス・ブラック。
誰にも言うことはなかった。
復讐でさえない。執念だけが原動力だ。
王妃となったセレナ。
王座を継ぐにふさわしき器を育つアルタイル。
このふたりの名の背後に、“決して汚れてはならぬ影”が自分によって消されるなら――
それこそが、レギュラスが “父” として、
“魔法族の支柱” としてなすべき行いに他ならない。
館に戻れば、アランが佇んでいるだろう。
翡翠よりも深く、静かに想いを受け取る眼差し。
告げはしない。
あの優しい頬の上に、血の責任を乗せるわけにはいかないから。
だが――
自分は迷いなく行く。
冷たく、確実に。
そして誇らしく。
息ひとつ漏らさず、ブラック家の血と名を守るために。
それが、「闇」としての天秤にすら、確かな重みを与えるのだと信じているから。
夜はすでに深く、
騎士団の詰所の窓から差し込む月明かりが、紙の上に静かに影を落としていた。
アリス・ブラックはその光の下、新聞も書簡も手につかないまま、椅子に身体を沈めていた。
部屋の空気は冷たく、静かだった。
けれどその沈黙の中で、心の内だけは嵐のように揺れ続けている。
マグル生まれの魔法使いたちが、
純血の子どもをさらう事件が増えている――こと実際、現場に立てば否応なく突きつけられる事実だった。
憤りながら熱に浮かされたように罪を犯すその姿を、アリスは何度も見てきた。
「今さら」ではなく、ようやく走り出してしまった彼らの長い憎悪と、覚悟。
確かに、間違っている。
子どもに罪はないのだから。
けれど――
それを「正すべき間違い」と言い切るには、あまりにも彼らの背景は、深く長く、痛みに満ちすぎていた。
彼らは、失ってきた。
家を、名前を、言葉を。
目に見えるものも、そうでない繋がりも、何も持たずに生きてきた。
そして、ようやく得た力を――
“ただ耐えるためにではなく、戦うために使っている”。
誤った手段なのかもしれない。
でもその気持ちまでが誤りだと、アリスに言い切ることが、どうしてもできなかった。
一方で、デスイーターたちは容赦がなかった。
現場に間に合えば、なんとか鎮められる。
けれど、たった一歩遅れれば、戻ってくるのは死体だけだった。
命の軽さに泣いて、怒るよりも先に、言葉すら出てこなくなった。
味方であるはずの正義が、その手に剣を持っている限り、誰かの血でしか裁かれない。
どうして、こんなにも世界は歪んだままなのか。
どうして正しさが、こんなにも歪みやすいのか。
「過去の恨みを忘れろ」と言うことが、
果たして“正しい”のか。
それを口にするとき、
アリスの心の奥にはいつも、自分自身の傷が反響した。
あの痛みを「なかったことにしろ」と命じられれば、人は簡単に壊れるのだ。
それでも彼らは、壊れるよりも怒りを選んだだけだ。
――でも、だからといって。
だからといって、“語らなかったほうの誇り”を踏みにじっていい理由にはならない。
この世界には、確かに守られるべき暮らしがある。
騎士団の制服を脱ぎ、家に帰れば、待つ家族がいる者たちがいる。
どれだけ制度が歪んでいても、人の暮らしには灯りを点けておく権利がある。
そのためにアリスは、戦ってきたはずだった。
均衡を壊さず、怒りを支えにせず――
“手を取り合える未来”を諦めなかったつもりだった。
けれど、今。
それがどれほど難しく、繊細な願いだったのかを痛いほど知ってしまった。
頭を抱えるように膝を抱え込みながら、ふと―― アランの顔が浮かぶ。
かつて、自分を救ってくれた人。
誰にも見つからない夜に、暗がりの中で杖を差し出してくれた、唯一の人。
幼い自分にとって、母のように、姉のように、永遠に手の届かない星のような人だった。
その人はいま、穏やかな光の中で、レギュラス・ブラックの隣に立っている。
もう“守られる”側ではなく、“共に支える”者として、静かに、まっすぐに。
アランが産んだ子どもたち、アルタイル。セレナ。
あの子たちにとって、自分という存在は――
父と母を引き裂こうとする、ただの“無粋な存在”にしか映らないのだろう。
自分は、“何も知らないマグル生まれ”という小さなラベルひとつで、
あの輝かしい家族の「対極」に立たされているのかもしれない。
アリスの胸の奥で、何かがぽたりと崩れる音がした。
「何が、正しいんだろう……」
誰に向けたわけでもない、吐息のような声が、ただ小さく宙に溶けた。
眉を寄せ、手を重ねたその眼差しに映っていたのは、
終わりなき問いと、正しさが見失われた未来だった。
両者が手を取り合って生きていく世界。
それを願うことが、あまりにも遠すぎる星の光のように感じられた夜だった。
屋敷の図書室は朝の光を柔らかく取り込み、アルタイルの机の上に広げられた羊皮紙に、静かに金色の灯りを落としていた。
手紙は、昨夜のうちに届いていた。
レインズフォード家の封蝋。端正な筆記。くっきりとした、ためらいのない字――
イザベラからの便りだった。
“アルタイル様、その後もお変わりなくお過ごしでしょうか。
お母様のご体調が安定されていること、心より安堵いたしました。”
何度読んでも、その文章からは同じ温度が届く。
彼女の筆跡はきれいで、端正すぎて、どこか彫刻のようだった。
けれど、その中にそっと添えられた「アラン夫人」の体調への気遣いが、
アルタイルの胸に温かな灯をともすようで――
それが何より心に沁みた。
はじめて会った時、
イザベラ・レインズフォードという少女は冷たく見えた。
瞳は鋭く、言葉は少なく、華美なドレスにも体温を乗せない印象で――
まるで“他人に触れないように育てられた氷”のようだった。
けれど、手紙の中では、別の顔をしていた。
自分の学校での授業のこと、
あまり得意ではない魔法薬の話でこぼすように笑う句読点、
妹のセレナの婚約が話題になったときの「とても素敵なことですね」と結ぶ静かな祝福。
その一つ一つが、“壁の向こう”に誰かが確かに座っていると知らせてくれる。
文字が、彼女の声に思えるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そして、今回の手紙の最後に綴られていた一節。
“もしご都合がよろしければ、次の休暇、美しいご屋敷にお伺いしてもよろしいでしょうか。”
その一文に、アルタイルの心は跳ねた。
穴があくほど読み込んでしまい、次の言葉にいまだ筆先が届いていない。
招くこと自体に、断る理由などない。
イザベラが来てくれるのは、名家の婚約者としても極めて自然な流れだ。
父も母もきっと歓迎してくれる。セレナだって。
けれど――「自分が」「彼女に」どう接するべきなのかが、
まるで霧の中だった。
母と妹以外の女性に、親しい距離で言葉をかけたことがない。
物理的に手を取ることもなければ、名前を呼ぶ声すら、学校ではいつも堅かった。
“屋敷に迎える”と、おそらくそれは
「ただ行儀よく紅茶を振る舞う」ことでは終わらないのだろう。
本当は何を話すべきなのか、
どんな眼差しで、どんな距離で、彼女を見るべきなのか――
それが分からない。
けれど、分からないなりに抱いている思いはある。一つだけ。
彼女の手紙が嬉しい。
それが、いちばん大事なことだった。
心がほんの少し、ほどけるようになる。
その変化を、自分の中で見つけつつある。
だからこそ、愚かにはなりたくなかった。
彼女を退屈させたくないし、見せるべき誠意だけは間違いたくない。
机に向かって、手紙をしたためようとする。
けれど、羊皮紙の一枚目には何も書けず、そのまま手を止めた。
すぐに返事を書くべきか、
少し、練習すべきか――。
そうして、アルタイル・ブラックはふと窓の外に視線を向けた。
遠く風が揺らす中庭の木々に、少女の冷たい瞳と、それに宿りはじめたやわらかなぬくもりが重なる。
言葉にするのがこんなにも難しいのは、
もしかして、それを大切だと思っている証なのだろうか――そう思いながら、彼は、また静かにペン先を羊皮紙に迷わせた。
夜、アルタイル・ブラックの書斎にはペンのかすかな音だけが響いていた。
天井の高い部屋に満ちる静寂のなかで、彼が手を止めることなく綴っているのは――父への手紙だった。
普段、こうして誰かに気持ちを綴るとすれば、それはほとんどが母へのものだった。
アラン宛の手紙はいつも言葉が自然と流れ出て、筆先も迷うことがない。
けれど今日、彼が静かに差出人欄に書いたのは、「父上へ」という宛て名だった。
これは、母のように〈聞いてくれる人〉ではなく、
男として答えを示してくれる存在にだけ向けた問いだった。
便箋は二つの折り目で慎重にたたまれていた。
インクは滲みもなく、けれど言葉選びには何度も戸惑いの跡があった。
「イザベラから、次の休暇に“屋敷へ訪れたい”と知らせが届きました。」
この報告をするだけでも、アルタイルには不思議な緊張があった。
何かが変わり始めている。けれど、それが何を意味するのかわからない。
ただ、大事にしたいと思っている気持ちが確かにある。それだけは間違いなかった。
「正直に申し上げると、どう迎えてやればよいかわかりません。」
握りしめるように、そうも書いた。
「笑わせるにも間合いを知らず、華やかに飾ることも気後れいたします。
それでも――この訪問を、嬉しく思っている自分に気づきました。」
言葉にしてはじめて、彼は「想っていたこと」に輪郭が生まれるのを感じた。
イザベラが笑う声を知らない。
けれど、その筆跡の行間には、笑いたがっている気配が星の数ほどに散らばっている。
それを汲める男になりたかった。
そして、そっと一行、添えるように記した。
「父上にも、同じ年頃がありましたよね。
今の私のような時、誰かを迎えるとき、心の置き所はどこにあったのでしょうか。
……もしよろしければ、教えていただけませんか。」
それは、「教えてください」というよりも、
「あなたを知りたい」と願う言葉だった。
たった今、フェンリル・グレイバックを前にした剣のような父ではなく、
母へ向けた微笑を静かに下ろす夜の父でもなく――
若き日のあなたは、どんな顔をしていたのですか?
という、敬意と淡い憧れを込めた問いだった。
封を閉じたあと、アルタイルはしばらくその手紙を机の上に置いたまま、息をつめた。
それは不思議な行為だった。
まるで、父の手に渡る前に、自分の何かが見透かされそうだったから。
けれど、ふと空を見上げた時。
月灯りの入り込む窓辺に、ふっと風が通り――
彼は静かに立ち上がり、呼び出した梟の足に、手紙を結んだ。
音のない羽ばたきとともに、父への手紙は闇へと消えていった。
その背に、何も言わず、けれど確かに――
息子としての最初の問いが託されていた。
書斎の窓辺には薄曇りの午後の光が差し込んでいた。重厚な机の上には、封蝋が剥がされたばかりの便箋。
レギュラス・ブラックは、それに目を通したまま、しばし言葉も動きもなく座っていた。
羊皮紙に刻まれた筆跡は、いつもよりわずかに丸みを帯びていた。
緊張と迷い、そして誠意と誇り――。一文字一文字に、息子であるアルタイルの“揺れ”が滲んでいた。
「……まったく、生真面目にもほどがある」
そう呟きながら、微かに唇の端が緩んだ。
こそばゆいような愛しさが、胸の内に広がっていた。
年齢でいえば、アルタイルはいま十六歳。
あの年頃の自分は、何を見ていたか……と、レギュラスは懐かしさと共に記憶の奥を辿った。
すぐに浮かぶのは、アラン・セシールの声、横顔、背。
ただその存在だけを必死に見つめていた記憶ばかりだった。
その年の冬。
卒業を控えた最終学年のクリスマス休暇――
両家からの許しを得たあと、アランと初めて一夜を共にした。
雪の降る晩だった。
けれど、アルタイルはまだ違う。
まだホグワーツの生徒。
あと一年、魔法界の規律と学びのうちにいるべき年齢だ。
もし招いた屋敷の中で少女と過ごし、
その時間が踏み込む先で“何か”を越えてしまったとしたら――
思わず、肩にわずかな重みが落ちてくる。
妊娠という現実。
未来にかかる重さ。
それはまだ、ほんの少しだけ早い、そう思った。
「避妊……ね」
低く呟いて、レギュラスは苦笑する。
あの医務魔女に言われた記憶が蘇る。
気にしなければならない、とわかっている。
だが、自分自身、どこまで“正しく”理解できていたわけではなかった。
この歳になっても、その分野に明るいとはとても言えず、
息子に教え示せる知識も、正直なところ――ない。
それでいて、「父と息子揃って魔法薬や避妊呪文を調べる」などという想像をするだけで、
いたたまれなくなるような滑稽さを覚えて、レギュラスは思わず小さく笑ってしまった。
「……やめておこう、さすがに――それは」
そのかわり――
書くことにした。
言葉にするなら、過剰な助言でも押し付けでもなく、
ただ正直な気持ちとして。
「心得ておけば、心の準備はできる。けれどすべてを急ぐ必要はない。
屋敷に招くことは構わない。自然体で過ごせばいい。
そうだな――キスの一つやハグくらいはしてもいい年齢だと、私は思いますよ」
筆が止まったとき、レギュラスはふと、窓の向こうに目をやった。
屋敷の庭に、まだ青さの残る木々と、風に舞い上がる白鳩がいた。
そのまっすぐさも、初々しさも、希望にあふれている。
だからこそ傷つけたくないし、縛りたくもない。
優しく、ただ背を押してやれたら――それが父としてできる、唯一で最も誠実な助言なのだと思った。
手紙を封じる。封蝋を押す手元に刻まれる、ブラックの紋章。
“アルタイルが迷わぬように。”
そして、“彼の選ぶ誠実が、報われるように。”
そう願いながら、レギュラスは手紙を淡く揺れる蝋燭の火に照らして見つめ、
それを自らの鴉に預けて送り出した。
蝋の香りが微かに残る書斎に、静かであたたかな沈黙だけが残った。
朝の光が薄くカーテン越しに差し込む空間。
まだ空気に温度が乗りきらない時間のなかで、ティーカップに注がれた香りだけが、ふたりの間をやわらかく結んでいた。
レギュラスとアランは、静かな余白のような朝を共有していた。
何気ない会話の延長にふと、アランがそう言った。
「アルタイルから手紙が来ていたのでしょう?」
レギュラスは頷きながら、カップ越しに視線を向ける。
「ええ。……イザベラ嬢が、休暇中にうちに来るそうです」
その瞬間、アランの瞳が明らかに開かれた。
「……まぁ……!」
声として出なかったものの、その表情には、十分すぎる驚きと、母親としての動揺が浮かんでいる。
思わず、それがあまりに真っ直ぐでかわいらしく――
レギュラスは静かに笑みをこぼした。
「そんなに驚かなくても」
「……いえ、だって……」
アランはうわずった声を押しとどめるように視線を外すが、その頬にはほんのり紅が差していた。
まるで、「息子にガールフレンドができた」とでも言われたかのような戸惑いと、誇らしさの入り混じった仕種だった。
レギュラスは手紙の内容――とくにアルタイルが抱えていた不安や迷い、
女性への距離や接し方について、父にだけ告白してきたことは口にはしなかった。
あの手紙は「母には言いたくない」という、少年なりのけじめだった。
だからこそ、その意志はきちんと尊重したかった。
けれど、母親は母親で、息子を想う心配を、きちんと胸に抱いていた。
「……大丈夫かしら。まだアルタイルは16ですし……イザベラ嬢も、ね。ふたりとも来年まで学生でしょう?」
その言葉に頷きながら、レギュラスはまた笑った。
静かに。愛しくて、おかしくて仕方がないように。
アランが不思議そうにこちらを見やる。
「……なに? どうして急に、そんなふうに笑うの?」
レギュラスは少しだけ視線を上げて、目を細めた。
「……16歳の頃の僕のこと、覚えてます?」
問いかけはやわらかく、少し照れくさげで――
記憶の奥、ふたりだけが知る、とある季節をそっとなぞるようだった。
アランは目を伏せ、にこやかに返す。
「ええ、覚えてるわ。……大人びてた」
その言葉に、レギュラスは息の奥で小さく笑いながらも、どこか遠くを思い出すように言葉を付け加える。
「……でもたぶん、キスくらいはしてましたよね。僕ら」
さも過去の事実を確認するように――
けれど、自分の口からその言葉が出た瞬間、どこか妙に恥ずかしくなって、レギュラスは喉の奥で笑いを堪えた。
本当は、大人びていたなんてものじゃない。
当時の自分の内心は、常に“ アランでいっぱい”だった。
どうすれば触れられるのか、
これ以上は待つべきなのか、
距離を詰めていいのか、まだ早いのか――
なにもかもがぎこちなくて、熱くて、眩しかった。
あのひとつひとつの夜が、まるで手の届く祈りのように大切だった。
そんな日々を、いま息子も同じように歩こうとしている。
――ならば、たとえ不器用でも、彼なりの距離の測り方で構わない。
不意に笑った父の言葉の奥にある記憶に、アランもまたふっと笑みを返した。
ふたりに流れる静かな午前の光は、ひとつの時代を見送り、
次の季節が遠くから近づいてきていることを、静かに知らせていた。
談話室の午後は、やわらかな陽がカーテン越しに差し込み、部屋全体を淡い琥珀色に包んでいた。
壁際の本棚の影が床に伸び、重厚なソファの一角に兄妹の気配が柔らかく重なっていた。
アルタイル・ブラックは、整った姿勢で一通の手紙を読んでいた。
手には、香りの微かに移った薄い羊皮紙。
レインズフォード家から届いた、イザベラの筆跡だった。
真摯な文字で綴られた敬意と配慮――
彼女らしい、控えめであたたかな文面が、アルタイルの目を静かに泳がせていた。
そんな時だった。
座っていたアルタイルの手元から、その手紙が一瞬で抜き取られた。
「……セレナ、ちょっと……!」
あわてて身を乗り出す兄に、セレナはくすりと微笑みながら、手紙の一節を目でなぞった。
「やめてくださいよ、返してください――」
「ごめんなさい、お兄さま」
「でも、あまりに素敵なお手紙だったから」
朗らかに言いながら、セレナは器用にひととおり目を通していた。
その瞳に、心からの微笑ましさが滲んでいる。
手紙には、兄への礼を尽くす丁寧な言葉が綴られていた。
互いの生活の近況、今度の休暇のこと。
そして一節には、アラン――彼らの母への体調を気遣う言葉。
そう綴られているのを目にした時、セレナの声が少しだけやわらいだ。
「……イザベラ様、お母さまのことも気にかけてくださるのね。お優しい方だわ」
その言葉のあとで手紙をそっと閉じ、セレナはアルタイルに手渡した。
真顔には戻らず、まだ微笑みの名残を携えたまま。
イザベラ・レインズフォード。
その少女に初めて挨拶した日を、セレナは覚えていた。
品があり、聡明で、けれど少しだけ目の奥にためらいを残すような――
言葉少なで内に閉じこもるような雰囲気を持っていた。
そんな少女が、手紙ではこれほど饒舌に語っている。
それが不思議で、どこかあたたかかった。
きっと、兄がおそるおそる伸ばした手を、イザベラはきちんと両手で受け取ろうとしているのだ。
守られてきた妹としての立場は、何度も肌で感じてきた。
けれど今、この手紙を通して――
セレナは、自分が心から兄を“祝福できる側”に立っている気がした。
これから兄が歩む道に、自分が何かを言葉にせずとも、心から信じられる女性がいるのなら――
何も心配はいらないのだと、
小さな葉がすっと春風に乗るように、その不安は胸の中から抜けていった。
「……ふふ、でも……お兄さま、手紙なんて交換してらっしゃるのね」
「……あまりからかわないでください、セレナ」
本気で困ったような兄の表情に、セレナは悪戯っ気たっぷりに笑いながらも、心の底ではとても、ひとつの優しさに包まれていた。
父と母がそうであったように。
いつしか兄もまた、自分だけの“誓い”を見つけてゆく。
その始まりを、こうして隣で見届けられる喜びを、
セレナ・ブラックは誰よりも静かに、誇りを持って受け止めていた。
談話室の薄明かりの中、手紙を取り戻したアルタイルは不格好に咳払いをひとつして、目をそらした。
けれど頬の赤みはどうにも隠せない。
自覚しているのが、なおさら恥ずかしかった。
こんなふうに、妹にからかわれたくらいで――
「照れ顔一つで追い詰められる」自分が、情けなくさえ思える。
それでも言葉を返すにも返せず、低く視線を落としたまま本の背表紙を眺めていた。
なのに、相手はあのセレナだ。
愛らしく笑いながら、兄の戸惑いをしっかりと掌の上で転がしている。
そして何より――もう知ってしまった。
イザベラが休暇中に屋敷に来ることを。
もはや隠しようもない。
妹のことだ、当日まで言葉には出さなくとも、視線ひとつで愉快そうに観察しているに違いない。
そんな様子を思い浮かべるだけで、気が遠くなるようだった。
「……何をして差し上げたら……イザベラ嬢を、喜ばせられるんでしょうか」
ぽつりと漏れたその問いは、取り繕う気配すらなく、ごくまっすぐに落ちていった。
ただ優しく迎えたいだけなのに、それがどれほど難しいか。
華やかにも、雄弁にもなれない自分が悔しいほどによく分かっているから。
セレナは、ほんのわずかに驚いたように兄を見やった。
けれど、ほんの一拍のあいだを置いた後で、穏やかに微笑んだ。
「……その手紙のように、たくさんお話ししたらいいですわよ」
語るでもなく――導くように。
さっきまで兄をからかっていたのが嘘のようだった。
あの人懐こい笑みの裏に、うんと落ち着いた目をしていた。
「話す」という行為が、少女にとってどれほど大切かを、
セレナはきっと、女性としてもう知っていたのだ。
手紙の中で、イザベラは確かに雄弁だった。
不器用に、でもまっすぐに、自分の想いと言葉で世界を組み立てていた。
きっと、それを返してやること――それが彼女にとって何より嬉しいことなのだろう。
アルタイルはしばらく無言のまま頷いていた。
認めることが少し照れくさくて、けれど、正面から頷いた。
ああ、やっぱり妹は年下なのに、どうしてこうも時折「大人の顔」をして見せるのだろう。
窓の外では風が庭の木々を撫でていた。
何かがゆっくりと、新しい季節へ移ろおうとしている。
その静かな気配の中で、アルタイルは手紙を胸元に戻し、
ごく小さく、はにかんだような笑みを返した。
そしてそれを見た妹もまた――
何も言わずに、そっと微笑みを返したのだった。
春風が校庭の芝を撫でていた。
柔らかな陽射しがホグワーツの城壁を金色に染め、遠く湖面さえも光の粒を散らしている。
最終学年を迎えた生徒たちのあいだから、どこかしら少しずつ「別れ」の気配が始まりかけていた。
その空気の中で、アルタイル・ブラックは一人、古びた中庭に立っていた。
いつもなら課外の防衛術が行われていた場所――
かつて、彼が何度も胸を熱くした「シリウス先生」の時間のための場所だった。
けれど、今日はそこには誰もいない。
もう、シリウス・ブラックは教壇に立たない。
騎士団の任務が増え、これまでのようにはホグワーツに足を運べなくなるのだという知らせをアルタイルは受け取っていた。
「……寂しいです、シリウス」
そう口に出した声は、思ったよりも小さかった。
その言葉に応えるように、すぐ隣で肩をすくめて微笑んだ顔――
ほんの少し髪に白いものが混じり始めたその男は、
けれど相変わらず、目だけは少年のように澄んでいた。
「思い出が、ここにあるだろ?」
そう言って、胸に手を当てる仕草をしてみせた。
それは、どこか茶化すようでいて、本気の静けさを帯びたものだった。
長い人生を「思い出だけ」で生きてきた人間の言葉。
その軽やかさに宿る重さを、アルタイルは確かに感じていた。
ああ――
母が、どれほど深くこの人を愛したのか、今ならよくわかる。
「また……会えますか?」
そう言わずにはいられなかった。
言ってしまったあとでさえ、アルタイルはその言葉が子供っぽく聞こえはしなかったかと不安になる。
けれど、シリウスは笑いながら即座に言った。
「いつでもいい。手紙でも、何でもよこしてくれ」
「そうしたら――すぐに会いに行く」
さらりと言われた「すぐに会いに行く」という声。
その言葉運びに込められた軽やかな優しさと、曇りのない真摯が、アルタイルの胸に深く残った。
だからこの人は、母の心を引き寄せた。
だからこそ、レギュラスという影の濃さがあっても、母の記憶の中から消えなかったのだと思えた。
そのそばで、淡く陽の差す階段から、セレナが歩み寄ってくる。
漆黒のローブが風を含んでひらりと揺れ、彼女は一歩一歩、まっすぐな目でシリウスを見上げた。
「先生。……お世話になりました」
敬意を忘れずに差し出された手と、それにつられるような穏やかな笑み。
けれどシリウスは握手を避けるようにして、茶化すようにその手ごと少女をぐっと引き寄せ、軽く抱きしめた。
「――ああ。未来の王妃様に教えられて、光栄だったよ」
腕の中で、セレナが小さく息を呑む。
いつも通りの距離を保っていたつもりが、思いがけず崩れた瞬間だった。
けれどなぜか、嫌ではなかった。
それどころか、胸の奥で小さく、何か嬉しいような灯が孕んでいた。
どこまで行っても、シリウス・ブラックは「シリウス・ブラック」だった。
強引で、不器用で、けれど決して人を不快にさせない。
それがきっと、人を惹きつけてやまない理由なのだろう。
それを見ていたアルタイルは、あたたかな気配のなかで、どうしようもなく胸が詰まっていた。
この日が来ることは分かっていた。
騎士団に戻るなら、もう以前ほど気軽に会えないのも分かっていた。
けれどそれでも――
いま、実際に「別れ」が迫ったその瞬間、
感情は思ったよりも、とても小さなことで崩れていく。
喉元まであふれそうなものをぐっと飲み込んで、
彼は芯からの尊敬と寂しさを込めて、最後に頭を下げた。
そのときだった。
母・アランがかつて、どれほどの思いでこの人の手を離すことを選んだのか――
その「苦しみの深さ」を少しだけ、実感できた気がした。
手放すこともまた、愛のかたちなのだと。
「またな、アルタイル」
そう言って、シリウスは背を向けた。
歩き出す背中に、誰も言葉を投げなかった。
風がひとすじ、彼のローブを払っただけだった。
それでも、背中からはいくつもの記憶がこぼれていた。
きっとずっと、この胸の中に残り続けていく。
あのとき、笑ってくれた師の声と、教えてくれた愛の重さが、明日を歩く道標になっていくのだと、アルタイルは静かに信じていた。
シリウス・ブラックの背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
あの軽やかな足取りも、くしゃっと笑う横顔も、もう彼女の視界から見えなくなろうとしていた。
セレナ・ブラックは、ただその背を見つめていた。
スカートの裾が風を受けて揺れることさえ気づかないように――
まるで時が一瞬、止まったかのように。
「……これで、よかったのよ」
胸の中でそっと呟く。
それは誰にも聞かせる必要のない、自らへの宣言だった。
陽の差す空の下、あの人のそばに長くいるには、あまりにも多くのものが――ゆらぎすぎる。
彼はあまりに無垢で、あまりに真っ直ぐだった。
こちらの理屈も、誇りも、生きてきた分別さえ、気にとめることなく笑ってくる。
理不尽で、自由で、ずっと誰かの光になれるような、そんな存在。
そしてたぶん、母の心に、誰より深く根を張った男――シリウス・ブラック。
セレナは目だけを動かして横を見る。
涙を堪えきれないような顔で、シリウスの背中を見送っている兄。
ついさっきまで、堂々としていたアルタイルの目に触れたその影に、
彼女は内部をきつく締めつけられるような痛みを感じた。
でも、口にはしなかった。
代わりに――
「……どうか、強くあって」
「誇りを、忘れないで」
心の中でそっと、兄にだけ言葉を投げかける。
それは半ば、彼のためであり、自分自身への誓いにも似た。
セレナ自身が一番恐れているのは、
きっと――いつか、この胸の何処かに、あの男が宿ってしまうことだった。
ほんの一瞬にしてすら、それは起こりうると思った。
あの声の響き。
腕の中に抱かれたときの体温。
言葉よりも、存在そのもので“愛”という概念を見せてくるその在り方。
もし、あれがもう少し続いてしまったら――
自分もまた、母がそうであったように、
触れてはならないものに引き寄せられてしまうのかもしれない。
それが、怖かった。
セレナ・ブラックは、自分が母にはなれないと知っていた。
あれほどに揺れ、あれほどにひとりを信じ、受け入れられずとも愛し続ける人生など――
自分には到底、生きられない。
このセレナは、王となる男の隣に立つ者だ。
ブラック家の名は引き継がずとも、その血と矜持を宿し、
王国の未来を担う魂の核になるべき存在だ。
そのために、涙を流す場所を決めてはいけない。
報われぬ物語など、人生に差し込ませてはならない。
王妃になろうとする人間は、
“信じれば叶う”という幻ではなく、
“叶えるために信じる”という覚悟を持たなければならない。
それが、自分に課した誇りだった。
けれど――
ほんのひとときの接触の中で、
セレナは確かに、“愛”というものの片鱗を見た気がした。
誰かに抱きしめられ、言葉ひとつで力をもらうという経験。
奪いも押しつけもせず、ただそこに在ることで、心の奥に何かを灯すような不思議さ。
――ああ、これが、母が愛した男。
納得ではない。理解でもない。
ただ、その輝きに、懐かしさにも似た怖れを覚えた。
『それで、もう……十分。』
そう思った。
痕を残さず、遺さず。
愛しもせずに、憧れて終える――
それが、セレナ・ブラックにとって、正しさのすべてだった。
中庭には風が吹き抜け、
やがてその背中も完全に角を曲がって見えなくなった。
それでもセレナは、数秒そこに立ち続けた。
まるで、それでもなお残る何かに、静かに手を振るように。
そして、静かに踵を返した。
明確に前だけを見る、覚悟を携えたあの歩き方で。
書斎には明かりが灯っていた。
外の世界が夜の帳に包まれてゆく中、窓辺のレース越しに揺れる光と、インクの匂いだけがこの部屋を満たしている。
レギュラス・ブラックは、漆黒のインクを吸わせた羽根ペンを走らせていた。
その手元に積み上げられた書類たちは、どれも同じような文面――魔法省からの諮問書、報告要請、抗議文、それに対する彼の返答案。
「また……随分と、多いのね…」
深く吐息をつきながら、が書斎にそっと足を踏み入れる。
その手に湯気立つティーカップをひとつ。
ふと見下ろした机の上にぎっしりと埋まった羊皮紙たちに、思わず顔をしかめた。
「……気にしなくて構いませんよ。いつものことです」
背を向けたまま、どこか淡々として、けれど皮肉もなくそう言うレギュラスの声。
魔法省が問題視し、苛立ちをぶつけてくるのはいつものことだった。
近頃、マグルの魔法使いたちが犠牲になる事件が続きすぎていた。
実行犯はデスイーター。だが――背景には「純血の子どもが攫われた」「命を脅かされた」という正義の看板が掲げられている。
人が死んだ。では、なぜそうなったのか?
レギュラスはいつも「正しさ」という鈍利な剣を使う。
対話ではなく、整えられた事実の羅列、抜けのない帳簿、証言、記録。
それらの辻褄は、彼の手によって完璧なまでに織り直されていた。
どれだけ理不尽を感じていても、掴むすべもなく魔法省は沈黙する。
それがお決まりの、いつもの流れだった。
けれど――アランには、その「いつものこと」が、どうしようもなく重く見えた。
「……それなら尚更。あなたの心が……すり減らないか心配で」
優しく置かれた声。
そのたった一言で、レギュラスの手が――静かに、止まった。
羽根ペンの先から、一滴だけ静かにインクが零れ落ち、羊皮紙に淡く滲んだ。
その間に、アランはそっと彼の背後に近づき、机越しにその横顔を見つめていた。
振り返ったレギュラスの表情には、疲労ではなく、満ちた静けさがあった。
それは、やり場のない責任や怒りに心を喰われながらも、それでもやれる自分であろうとする――あまりにも人間らしい沈黙だった。
「……それを、あなたが言ってくれるだけで良いんです」
その声は、何よりも真摯だった。
シンプルで短い返答。けれどその中には、言葉にできぬほど多くの感情が詰まっていた。
この家に戻るたび、アランがそこにいてくれる。
無機質な意志のやりとりの中で、誰の言葉もうわべにしか届かないと分かっていても――
「レギュラス」としての生を、ただ黙って見つめてくれる人がいる。
たったそれだけで、彼の人生は立っていられる。
アランがそっと微笑んだ。
そして静かにティーカップを机の隅に置くと、積まれた書類には目をやらず、優しくレギュラスの肩に触れた。
「……じゃあ。あなたがすり減る前に、ひと息いれましょうか」
その触れかたは、言葉よりも剣をやわらかく包み込んでいくようだった。
部屋の中の時間が、ほんのひと時だけ緩やかになった。
乱さずとも、壊さずとも――
確かにここには、日常に埋もれた名もなき幸福が息づいていた。
それは、どんな法にも記されていない「慰め」のかたちだった。
曇天が続く午後、騎士団本部の作戦室には、何度目かになる沈痛な沈黙が満ちていた。
机の上には厚手の封筒がいくつも並び、そのすべてに、淡く吸い込まれるような流麗なサインが踊っている――
“Regulus Arcturus Black”
封筒の端にわずかに残る蝋の香りにすら、冷たい品格の気配があった。
ジェームズ・ポッターはその完璧に整った筆跡を見ながら、ただ深く息を吐くことしかできなかった。
何度目だろう。
こうして魔法省の抗議文を送り、その返答として届くのは、毎度、完全に整えられた反証と理屈、そしてこの男の署名だった。
法の抜け目はない。
証拠も、証言も、すべてが一糸のほころびもなく整えられてくる。
いかに殺戮が発生していようとも、「やむをえぬ正当処置」として見事に画が完成されている。
その“冷たい正しさ”の総和が、レギュラス・ブラックなのだ。
「……ほんとに、恐ろしく完璧だな。あの男は」
呟くように漏らしたジェームズの声に、向かいに座るアリスは返事をしなかった。
ただじっと、サインの載った返信文の束を見つめ、そのまなざしに揺るぎない怒気が滲んでいた。
ふいに――アリスがぽつりと呟いた。
「……私、この男を殺したいわ」
その言葉に、ジェームズの目元がわずかに動いた。
一瞬、何かを聞き間違えたのではないかとさえ思った。
けれど、彼女の口元は確かに動いたままで――
今まで一度として口にしなかった“激情の死”という語が、彼女の口から、はっきりと現れたのだ。
少女だった頃を、ジェームズは思い出す。
光のまなざしで、シリウスを『導き』として敬い、
怒りというよりその先にある“正しさ”に惹かれていた、あのアリス・ブラックを――
「アリス、それは……危険な感情だ」
低く、重く、ジェームズは告げる。
「そんなふうに、正義の名前のもとに人を殺そうとするなら――
それはもう、デスイーターと、なんにも変わらない」
息を潜めるような沈黙のあと、アリスは顔を上げた。
その瞳には、ひるむことのない強さがあった。
「……違うわ。私は、違うのよ」
「無差別になんて、殺したりしない」
そう言ったアリスの声は、悲鳴にも似た悲痛な叫びだった。
「私は、憎んでる。それは本物だけど……」
「それでも“巻き込みたくない人”くらい、私だって、ちゃんとわかってる」
けれど――ジェームズは続けた。
「……でも、考えてみてくれ。デスイーターも……無差別にじゃないんだ」
「彼らは、騙しきっている。あくまでも、“事件に関わった者”に制裁を下しているという建前で、
死の呪文をふるっている。言葉を選んで、正当化する手練手管なら山ほどある」
その一言に――アリスの肩が、うっすら震えた。
でも、それは怒りではなかった。
むしろ、血の奥までえぐるような失望のようだった。
彼女の指先は静かに握られ、こんなにも凍てつくような声が漏れた。
「……あの人は、違う」
「レギュラス・ブラックは――“ただの実行者”じゃない」
「彼は、アラン・セシールを…人生ごと縛ってるの」
「私の、大切な人を……抱えたまま、あくまでも“幸せな家庭”を維持して、
まるで誰にも責められない位置に飛び続けてる」
掠れるような声の奥に、幼いアリスの面影がこぼれた気がした。
「自分の手で殺したりはしない代わりに、“全員に諦めろと思わせるように”完璧に整えた世界で君臨してるの」
「それが――私は、耐えられない」
声の先に、魔法界の法の綻びではなく、“幸福の仮面”を張りつづけながら誰もを黙らせる者への怒りがあった。
それは、正しさへの憎しみではない。
失われた正義と光を、そのまま“封じ込められた家族の姿”として見続けている少女の叫びだった。
ジェームズは何も言わなかった。
ただ、サインの載った書類を静かに伏せた。
震える彼女の拳とは別に、机越しの空気だけが、氷のように張り詰めていた。
