4章
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夜更けの静寂に包まれた寝室に、魔法の灯りがやわらかく揺れていた。
長い一日の終わり。宴の余韻と満足感が、空気にほんのりと残っている。
レギュラスは、ベッドの背もたれに身体を預けながら、後ろからアランを抱きしめていた。
その腕の中に、彼女の温もりと重みがやさしく収まっている。
ふたりの呼吸が、静かに重なり合っていた。
清々しい思いで、宴を締めくくることができた。
セレナは、最後の最後まで、凛としていた。
どれほど多くの御曹司たちが彼女に心を奪われようと、
どれほど視線と期待と憧憬を向けられようと、
一度たりとも動揺することなく、その中心で光を放ち続けた。
参列した男たちが、まるでひれ伏すように礼をして帰る姿――
それは、我が娘ながら驚かされるほど堂々としたものだった。
レギュラスの胸には、遠い記憶がよみがえる。
セレナが生まれたあの日。オリオンとヴァルブルガが、第二子が女児だと知った瞬間に見せた、あからさまな落胆。
あの時の冷ややかな空気を、今でもよく覚えている。
ふたりは今夜の宴には姿を見せなかった。
けれど、もしもあの場にいたならば――
この立派で、力強く、ブラック家の色を濃く身に纏った少女の姿を目にしたならば、
きっと言葉を失っただろう。
「スペインの王子と、セレナが流暢に話していましたね」
アランの声が、静かに夜の空気を揺らした。
その響きには、母としての驚きと誇らしさが込められていた。
レギュラスは微かに笑みを浮かべる。
「スペイン語なんて……あの子は、あんなに話せるんですね」
自分でも驚いていた。
いつの間に、あそこまで習得したのか。
思えば、自分自身のスペイン語は、もうほとんど忘れかけている。
何年も使う機会がなく、いつしか翻訳の呪文に頼る癖がついてしまった。
今では、かつて流暢に操れていたはずの言葉も、口をついて出てこない。
だからこそ、娘のあの姿は――
もはや自分をも凌駕していく存在として映った。
「……あの子は、きっと私たちが想像している以上に、遠くまで羽ばたいていくのでしょうね」
レギュラスの声は、感慨深げだった。
腕に抱いたアランの髪に、そっと頬を寄せながら。
「ええ……本当に」アランが静かに応える。
ふたりの間に流れる時間は、過去への感謝と未来への期待で満たされていた。
セレナという存在が、どれほど多くの可能性を秘めているか。
そして、その可能性を支える強さと誇りを、確かに受け継いでくれていること。
レギュラスは目を閉じながら、ゆっくりと息を吸った。
今夜という日が、家族にとってどれほど特別な意味を持つ夜だったかを、静かに胸に刻み込みながら。
アランの重みが腕の中にあること。
子どもたちが健やかに育っていること。
そして、この瞬間に、何ひとつ曇りのない幸福を感じていること。
それらすべてが、奇跡のように尊く思えた。
夜は深く、静かに更けていった。
ふたりを包む温もりの中で、セレナ・ブラックという名の少女の未来が、
希望に満ちた光として、そっと息づいていた。
寝室の灯りはすでに落とされ、窓のカーテンの隙間から、夜の月明かりだけが静かに差し込んでいた。
互いの温もりに微かにうとうとし始めていた頃。
そのとき、アランが突然、ぱたりと身を起こした。
まるで何かが胸の奥から湧き上がってしまったかのように、勢いよく身体を起こして振り返る。
レギュラスの方を見つめたその目に――年少女のような、とびきりの輝きが宿っていた。
「もしっ……もしもですよ?」
小声とは思えないほど弾む声。
そして、両の手を軽く胸の前で組んだその仕草があまりにも愛らしくて、レギュラスはつい不意打ちを食らったような気分になる。
「セレナが、あのスペインの王子と……一緒になったら……」
言葉を区切りながら、アランは目をらんらんと輝かせて笑みを深める。
そして、まるで信じがたい夢を語る少女のように、ちょっとだけ肩を跳ねさせて続けた。
「セレナは……スペインの王妃、ってことになりますか!?」
その瞬間だった。
レギュラスは堪えきれず、声を漏らして吹き出してしまった。
「……ふっ……!」
「いや……」
思わず口元を押さえるようにして、笑みを抑えようとするが、どうにも無理だった。
「ええ、そう……なりますね。王朝が続けばの話ですけど……」
レギュラスは背中を震わせながらも、なんとか形式ばった口調で答える。
礼儀正しく答えたつもりなのに、その言葉尻がどうにも可笑しくて、さらに堪えるように唇を噛んだ。
「じゃあ……もしも!」
アランは再び身を乗り出す。
布団の上で身体を起こしたまま、声をひそめながらも勢いは止まらない。
「もしもですよ、セレナが男児を産んだら……それって、スペイン国の――国母、ってことですよね……?」
顔をほんの少しだけレギュラスに近づけ、ひどく真剣そうな顔つきで問いかけるその様子が、もはや夢見る夜を象徴する風景だった。
けれどあまりの勢いに、レギュラスはもう耐えきれなかった。
「……ぷっ……あははっ……!」
とうとう、声に出して笑ってしまった。
深い夜の静けさにひびく、あのレギュラス・ブラックの笑い声。
滅多に見られるものではないその姿に、アランもつられて口元を緩める。
「…… アラン、気が早すぎますよ……」
ようやく笑みを収めかけながら、けれど顔にはまだ愉しげな色が残ったまま、レギュラスは目を細めた。
「本人が何も言っていないうちから、そんなに未来を飛ばしてしまって……」
アランは、まだ頬を紅く染めたまま、いたずらっぽく笑った。
「だって……夢くらい見たっていいでしょう?
まさか、本当にあの子が、王族と流暢に話してるなんて思わなくて」
その想いに、レギュラスは静かに相槌を打った。
未来はまだ遠い。
けれど娘の歩みが、どれほど大きなものを織り成していくか、ふたりともよく知っていた。
そして今夜、ここにはただひとつのしあわせがあった。
ふたりして、ひとつの夢を笑いながら眺められる――
そのかけがえのない時間に包まれながら、アランはレギュラスの胸にするりと身を預けた。
そのあたたかな寝台に、小さな夢と笑いの余韻が、長く長く香っていた。
朝の光がゆっくりと白磁のカップに射し込んでいた。
ブラック家の食卓は、いつも通り整然として、静かな始まりを迎えていた。
銀のポットから紅茶が注がれ、香ばしいパンの香りが漂うなか――
突然、その音が響いた。
「……ふっ」
静けさを破ったのは、父のレギュラスだった。
最初はほんの小さな吐息のようなもので、けれど次の瞬間には、
我慢など放棄したように、くく、と笑い声が漏れた。
食卓に並んだカトラリーの間に、ほんのひとしずくの柔らかい音が落ちる。
「……どうしたんです? 父さん」
アルタイルがすかさず問いかける。
その声はどこか半ば冗談めいていたが、あまりにも突然だった父の笑みに、少々心配も混じっていた。
あまりに予兆もなく笑い出したものだから、
“何か変なものでも召し上がったのでは?”――と、本気で思ったほどだ。
レギュラスはナプキンを取って口元を軽く覆いながら、苦笑まじりに言う。
「……失礼。思い出し笑いを」
それだけの言葉。
けれど、それに続くように――今度は、母が笑い出した。
アランは、苦い紅茶を飲んだあとのような小さな咳払いをしたあとで、
唇を引き結んだ笑みをこぼしながら父に向かって言う。
「……レギュラス、ちょっと……やめてくださる?」
その言葉に含まれる柔らかい抗議は、怒りでも困惑ですらなく――
何年も連れ添った者だけが持つ、“分かってしまう”感情からくるものだった。
レギュラスの苦笑と、アランの笑み。
ふたりの間には、言葉にもならない会話が流れていた。
きっと、あれは二人だけに通じる何か。
共に過ごした夜の記憶か、かつての若い日々か――
あるいは他愛もない囁きが、今になって腹の底から笑えることに変わったのかもしれない。
セレナはスプーンを持つ手を止めて、
「なにがそんなに楽しいのかしら」とでも言いたげな顔で首を傾げたけれど、
具体的に尋ねようとはしなかった。
理由を知らなくたって、それを眺めているだけで、じゅうぶん幸福だったから。
ふたりの笑いが、それほど自然で――眩しくて――
この家を確かにあたためてくれていると、そう思えた。
朝日が静かにテーブルに滲み、
湯気のあがる紅茶と一緒に、穏やかな余韻がふわりと漂っていた。
ほんの些細な、けれど何よりも強い結びつきがそこに在った。
それは「夫婦としての景色」の最もやさしい在り方で、
子どもたちの目には、ほのかに愛という色すらついて映っていた。
薄暮の光がバルコニーに長く細く差し込み、伝統ある石の欄干に影を落としていた。
風は穏やかで、どこか高貴な静けさが空気の隅々にまで行き渡っている。
そんななか、セレナ・ブラックは、外の空気を注ぐように開かれたドアの向こうに立つ父の背に、ゆっくりと歩み寄った。
あの夜の宴も終わり――
人々のざわめきも沈み、屋敷はすでに静寂を取り戻しつつあった。
「お父さま」
その声に、レギュラスは緩やかに振り向く。
光が横から射して、灰銀の瞳に淡く陰影を落としていた。
セレナは、石の床を軽くすくように歩み寄り、そんな父の横に立つ。
「さっき、食卓で……ふと笑ってましたよね」
「……何を思い出していらしたの?」
何気ない問い。けれど、ほんの少しだけ探るような視線。
それを受けて、レギュラスの口元が、自然とほころんでいく。
まるでその問いかけ自体が再び記憶を呼び戻したかのように。
「…… アランがですね、あなたがスペインの王子と一緒になれば……王妃になるじゃないかって、そんな話をね」
その声には苦笑と微かな感嘆が入り混じっていて、
最後の方は、もう笑いを押しとどめきれず、細く、消え入るような笑みへと溶けていった。
思い出しただけで、またおかしくなってしまうのだろう。
「まぁ……お母さまがそんなことを?」
セレナの眉がわずかに上がる。
あの母が。
名声や贅沢、家柄だけに囚われず、
どこか涼やかに物事を見ているような印象を持っていたからこそ、
そんな夢見る少女のような空想を語ったということに、意外の色が隠せなかった。
「……お母さまって、意外と野心家なのね!」
思わずくすっと笑いながら、セレナは大きな声で屋敷の中――まだ食卓にいる母に向かって言う。
バルコニー越しに届く声に、アランのやわらかな返事が返ってくる。
「……なんの話ですの?」
優雅に装うような、けれど少しだけ動揺も混じった声音だったが、
セレナもレギュラスも、それには答えなかった。
ただ顔を見合わせて――声をひそめて、ふたり、笑い合う。
胸の中に、こそばゆくて、あたたかい何かが灯っていた。
風がセレナの髪を後ろに払い、その目元に月の色を落としていく。
スペインの王妃なんて、そんなの、突拍子もないと思っていたはずだったのに――
父の瞳に映る自分と、母の夢に棲んでいた自分が、こうして優しく交わるのなら、
それも案外、悪くない未来かもしれないと、そう思えた。
静かな甘噛みのような朝の風が、石の欄干を撫でる。
ふたりの笑みはそのまま、ふわりと宵闇のなかへ、遠く流れていった。
医務室の静けさは、いつになく耳にしみるほどだった。
魔道具の棚の角にだけ光が反射し、絹の帳のように午後の陽が薄く染み込んでいる。
定期的に訪れる“健診”という名の儀礼的行事にも、幾度目かとなると、レギュラスはごく自然な身のこなしで耳を傾けていた。
「……特に、大きな変わりはありません」
医務魔女の声は丁寧で、柔らかかった。
どこまでも穏やかで、日常の延長にある診断のようだった。
だが次のひと言――そのまなざしを少しだけ伏せ気味にしながら、
彼女がやや遠回しに付け加えた言葉だけが、空気の質を変えた。
「ただ……ご夫婦のご関係のある際には、念のため、避妊の処置を心がけていただけると……安心かと存じます」
その言葉は、今にもどこかへ消えてしまいそうなほどやさしい響きを纏っていたが――
レギュラスの内心には、静かに鋭い光のようなものを落としていった。
何か――
そう、心の奥深く、誰にも見せたことのないところにある感情の、
そっと扉を叩かれたような、そんな感覚だった。
避妊。
その言葉が、自分たち夫婦の間において、医務室という“外”から提示されることになるとは、不思議な――いや、妙に現実的な落差として胸に落ちた。
今まで――
アランとそういう言葉にならない夜を交わすたびに、
具体的に「命を望む」という意識はなかった。
むしろ、ないはずだった。
ふたりはとうに三十を過ぎ、
これから新しい命を育てることに焦がれるような年齢でも、状況でもない。
アランの体は、セレナを授かったあのときから決して本調子ではなかったし、
これ以上の妊娠や出産に耐えられないことも、医療者から何度となく告げられてきた。
だから、避妊をしなかったのは――その必要がないと思っていたから。
もはや可能性そのものが現実とは思えなかった。
そう、自分にも言い聞かせてきた。
けれど、違ったのだ。
たとえごく僅かだとしても、「可能性」は存在していて、
誰かが明確にその懸念を口にしたことで――
その“見過ごされていた領域”が一気に現実の肌へと触れたように思えた。
ああ、自分たちは、まだ“そういう人たち”なのだ、と。
ふたりの間に交わされる温もりも、体温も、確かな現実の中にある“行為”の延長として存在している。
だからこそ。“避妊”とは、まさに、
その優しさや慈しみの延長線上にある、とても現実的な選択だった。
魔女の説明は、それ以上詳しくはなされなかった。
それがまた、レギュラスには救いであり同時に苦悩でもあった。
――知らない。
どうすればいいのか、わからなかった。
薬なのか、魔法処置なのか、あるいは呪具か。
普段耳にすることのない知識――
けれど、それを目の前のこの魔女に訊ねることは、
どこか、自尊と羞恥とがまざりあって、言葉にすることなどできなかった。
たとえば、
「出す場所を間違えなければいいのだろうか」
そんな途方もなく稚拙で、そして卑俗に過ぎる問いを、
このきちんと着込んだ医務魔女に向けるなど、このレギュラス・ブラックには、到底できなかった。
だから――
「……心得ます」
それだけ簡潔に、理解と了承を装って、静かに頷いた。
内心のざらつきを押し込めたまま、その場を深く波立たせることなくやり過ごした。
医務室を出て廊下を歩きながら、レギュラスの指はローブの内ポケットをさぐる仕草をした。
何もないことが分かっているのに、そこに逃げ道を探しているようだった。
一歩ごとに音のない問いが足元を追いかける。
――避妊とは、どうすればいいのか。
――どう向き合えば、互いを傷つけずに済むのか。
けれど、医務魔女の落としたその一石は、
どこかで、「ふたりがそうしてまだ、触れ合い続けている」という事実を、
静かに肯定してくれていた。
その事実だけが、彼にとって、
今のところ掴んで離したくない“答え”でもあったのだった。
宴の数日後――
ブラック家には、まるで春の花が咲き乱れるように、色とりどりの手紙や贈り物が届き始めていた。
セレナ・ブラックという名の少女の、あの夜の輝きに魅了された御曹司たちからの、熱烈な求婚の印だった。
サロンのテーブルには、様々な国の封印が押された羊皮紙が山積みになり、宝石や真珠で飾られた小箱が美しく並んでいる。
「……すごい数ですね」
アルタイルがその光景を見て、感嘆とも苦笑ともつかない声を上げた。
だが、当の本人であるセレナは、それらの煌びやかな宝石には一瞥もくれなかった。
代わりに、真っ直ぐ父レギュラスに視線を向ける。
「お父さまから見て……『この方』というような人は、いらっしゃいますか?」
その問いには、どこか大人びた冷静さがあった。
まるで商談をするかのように、淡々と、しかし核心を突く調子だった。
レギュラスは、手に持った手紙の差出人を確認しながら答える。
「イタリアの王子からの求婚が届いているようですよ」
だが、セレナはためらいなく首を振った。
「イタリアはやめておきましょう、お父さま」
「ローマ教皇との対立に苦しみそうだわ。わざわざしなくていい苦労をするものじゃありませんもの」
その言葉に、レギュラスは思わず声を出して笑った。
的確すぎる判断に、感服さえ覚える。
本当に、どこまでいっても狡猾で、愛らしくて、利口な娘だった。
政治的な嗅覚といい、現実的な思考力といい、
もう十二歳とは思えないほど成熟した思慮深さを持っている。
そのとき、アルタイルが一つの小箱を手に取った。
「これ……母さんの瞳の色ですね」
それは、スタンフォード家の嫡子が贈ってきた、美しい翡翠のペンダントだった。
アランも顔を近づけて見る。
「ほんとね……でも、どうしてこの色にしたのかしら?」
確かに、セレナの瞳は母譲りではなく、父譲りの深い灰色だった。
翡翠の緑など、彼女には一ミリも入っていない色だ。
セレナが、いたずらっぽく笑いながら言う。
「お母さまへの求婚だったりして」
その軽やかな冗談に、レギュラスは淡々と、しかしどこか愉快そうに応える。
「意図の読めない者は、候補から外しましょう」
その場に、明るい笑い声が響いた。
まずアルタイルが吹き出し、セレナも重ねるように笑う。
セレナの嫁ぎ先を巡る”商談”は、いつの間にか家族の笑いの種になり、
そしてこの家に流れる愛情の深さを、静かに証明していた。
煌びやかな贈り物に囲まれたサロンで、
ブラック家の強い絆が、またひとつ輝きを増していた。
午後の陽光が、ブラック家の私邸サロンを黄金に染めていた。
大理石のテーブルには、今朝届いたばかりの封書がいくつも重ねられていたが、
そのうちの一通に、レギュラス・ブラックの手がふと止まった。
封蝋は深紅の銀糸、紋章は――
イングランド王家。
彼の指がわずかに止まった。
ほとんど感情を揺らすことのない男の視線が、
その封の美しさと重みに、ごくわずかに沈黙する。
「……セレナ」
レギュラスが呼ぶ声に、サロンの書架の近くにいたセレナがゆっくりと振り返った。
黒曜の髪がゆるやかに揺れ、その瞳に真剣な光が差す。
父が差し出した封書を見て、セレナの目がすこし開かれた。
手紙の上に燦然と輝いていたのは――
イングランドの王家の紋章。
それだけで、内容を読み取るにはじゅうぶんだった。
国王直々の、婚姻を望む正式な縁談の申し出。
この国、この大陸の中心にして、全魔法界を統べる王家の嫡男との縁が、
今、まさに自分の眼下に届いているという現実。
セレナは一瞬だけ身を引き、僅かに深呼吸する。
けれど次に父と視線を交わした時には、もうその目に迷いは一切なかった。
レギュラスは言葉を発さず、ただ眼差しだけで娘を問う。
「どうです?」
――そう語るような無言。
彼の瞳は何より冷静で、けれど底に微かに灯る誇りと期待の気配があった。
セレナもまた、ゆっくりと一歩進み、父の差し出す視線をまっすぐに受け止め――
静かに、しかし確かな肯定のまなざしを返した。
そのうえで。
「……お父さま。ひとつだけ、条件がありますの」
淡い声であった。穏やかでさえあった。
けれど、その奥に流れるものはあまりに強く、明確だった。
「その条件を受け入れてくださるのならば」
「私は生涯、イングランドの王子に忠誠を尽くすことをこの場で誓いましょう」
レギュラスの細い目がわずかに細まり、沈黙が空間を満たす。
アルタイルとアランも思わず動きを止め、次に続く言葉に思考を凝らす。
セレナが明確に“条件”を口にすること自体、容易いことではない。
それほどの場であることを、全員が理解していた。
そして、彼女は真っ直ぐに言った。
「もし、私が産んだ子が――たとえ女児であったとしても」
「王位継承権を必ず与えていただくこと。これが条件ですわ」
一瞬で、空気が凍るようだった。
そのひと言が、どれほどの重みを持っているか。
この国の君主制と長い継承の歴史の中で、あまりにも明白であった“暗黙の掟”を――
その少女は、今、堂々と正面から打ち破る姿勢を見せた。
誰もが骨の奥をすくわれたように静まり返るなか、
父であるレギュラスだけは、すぐには答えなかった。
答えない、代わりに。
彼は、「ほぉ……」と低く、奥の響きで息を漏らすように呟いた。
静かに、深く――愉快とも驚嘆とも言わないその口調が、
逆に彼の印象を際立たせた。
アルタイルは、こめかみが引きつるのも忘れ、目を見開いて押し黙っていた。
アランにいたっては、口を開けたまま、それを閉じる術すら失っていた。
だが、セレナは表情ひとつ変えずに、父を見ていた。
挑むようでも、求めるようでもなく――
ただ、自分の価値を“正しく”示すためだけに、そこに立っていた。
レギュラス・ブラックは、娘のその目に、
かつての自分と、そして自分をも超えていく意志の轍を見た。
この子は、ただ王家へ嫁いでいくのではない。
その制度と歴史を背に、王そのものを“変えよう”としている。
愛する相手に仕えるだけの伴侶ではなく、自らもまた王に匹敵する器として――
新たな“時代の起点”となろうとしている娘。
その静けさが、まぎれもなく誇りだった。
その場は、しばらく沈黙に包まれたまま、
言葉ではなく、英気のような何かだけが、淡く、ゆるやかに、空間に流れていた。
風がカーテンをわずかに揺らし、
太陽が、翡翠色のような光をひとすじ、セレナの肩のラインに差した。
日の傾き始めた午後のサロン。
淡い光が刺繍入りのカーテンをやわらかく透かして、部屋の隅へ静かな影を落としていた。
セレナの言葉が落ち着いた声色で部屋を満たしたあと、最初に反応したのはアランだった。
「セレナ……」
いつになく低い調子の声で言葉を続ける。
「そんな大きなこと、口にするものじゃありません。――失礼に値するわ」
その声音には、心からの懸念、そして母としての慎ましさが込められていた。
世の理をわきまえる者としての警鐘だった。
セレナはそんな母の言葉をじっと聞きながらも、わずかに顎を引いたまま一歩も退かない表情をしていた。
続けて、アルタイルがその場の空気を和らげようと穏やかに口を開いた。
「そうですよ、セレナ」
「このご縁談が来ているというだけでも、信じられないほど光栄なことなんですから」
溜息のような想いが声の奥にありつつも、兄として“妹の逸脱”をどこか理解もしていた。
けれど、その過ぎた要求が何を引き起こすかも正しく読んでいたからこそ、あえて抑えめの口調を選んでいた。
だが、その中で――父・レギュラスだけは、何も言わなかった。
ひとつも表情を歪めることなく、感情の色を濁らせることもないまま、
彼はただ、沈黙を選んで娘を見つめていた。
その空気のなか、セレナはまっすぐ父の方へ顔を向けて静かに、言った。
「どうしてです?」
「ブラック家の正統な血を引き、貴い魔力の系譜を受け継いだ私が、
正妻として王家に嫁いで――それでもなお、その子が“次の王”として認められないなら、
一体、何のために王子に嫁ぐのか――わかりませんわ」
その声音には一切の刺々しさも、激情もなかった。
逆にその“理路整然とした正義感”こそが、不思議な迫力となってその場に充満した。
アランもアルタイルも、セレナの語る言葉の中に――
漠然と“傲慢”では断じきれない、確かな《誇り》と《筋》を感じ取らずにはいられなかった。
たしかに――その通りだった。
セレナが今持っているものを思えば、
荒唐無稽な主張とは到底言い切れなかった。
イングランドの王でさえ、戦略として結ぼうとするこのブラック家の娘。
彼女が望む地位は決して「上を踏みにじる」ことではなく、
「本当に釣り合う峰に、自らを位置づけている」だけだった。
その瞬間、レギュラスの心にわずかに走った確信があった。
――交渉する価値はある。
これは駆け引きではない。
見栄や虚勢ではない。
この娘の内にあるものは、ただ「生まれに恥じない誇り」だったのだと。
「……いいでしょう」
レギュラスの声が、次第に染まる夕光の中で静かに響いた。
「……先方に、手紙を書いておきましょう。それを条件として、申し入れてみます」
固く、冷たすぎず――しかし芯には揺るぎのない決意を帯びていた。
ブラック家が誇る当主の言葉として、最も端正な重みを持っていた。
その瞬間、セレナの顔がぱっと明るくなった。
さきほどまでの厳然とした毅然さとは打って変わり、
花びらが舞うように、喜びが表情の奥から広がっていく。
「やったぁ――! さすがはお父さまだわ!」
その声に、アランとアルタイルは驚いたように目を見開いた。
つい今しがたまで淡々と“歴史を変えよう”としていた少女の姿は、
まるで褒められた子どものような軽やかさで喜び弾けていた。
レギュラスは、胸の奥でかすかに息をついた。
はしゃぎすぎて見えるほどのその歓喜。
けれど、それが決して“無邪気なだけ”ではないことを、
誰よりよくわかっているのも――この父だった。
あの娘は、わかって使っている。
その無邪気さすら計算の内に収め、“見せるべき姿”を完璧に選び取るだけの利口さと狡猾さ。
屈しない誇りと意志を秘めながらも、他人の心をその声ひとつで和らげてしまう、
その才と策。
レギュラス・ブラックは静かに頷いた。
この娘は、いずれ――
王妃と呼ばれるだけでは終わらない。
国の制度そのものを動かし、
《歴史に名を刻む女》になる。
それは、もはや幻想ではなかった。
父の直観に息づく、静かで確かなる予感だった。
屋敷の廊下に、わずかな足音が重なる――
長く敷かれた絨毯の上を、アランは焦るように駆けていた。
夕陽が射す窓辺のアーチにレギュラスの背が遠ざかっていくのが見える。
その背を追いかけるように、声が漏れる。
「レギュラス……。待って……」
微かに息を切らせながら、袖を掴んだその手には、
止めるようでいて、縋るような揺れがあった。
レギュラスは、一度足を止める。
振り返るその動きも、どこか静かな決意に満ちていた。
「……あまりにも、度を越してるわ」
アランがそう言った時、声には確かな恐れがにじんでいた。
娘の未来、名家の誇り、それらを賭けてでも勝ち得ようとする交渉。
それがどれほどの重圧と危うさを伴い、どれほどの反動を受ける可能性があるかを――
アランは、生まれながらに“理解してしまう”人だった。
慎ましさと、沈黙の美徳で育った人。
立てることに徹し、「望む」ことを遠ざけて生きてきた人。
その彼女からすれば、セレナのような真っすぐな願いは――
美しさと紙一重で、どこか破滅の兆しのように見えたのだろう。
レギュラスは一度、その掴まれた手を静かに外した。
けれど拒むのではない。
自分のやり方で、より深く、確かに――その手を握り返すためだった。
「あの子の未来に、あの子自身が命を懸けようとしているのです」
低く、あたたかい声。
広げすぎぬように、しかし曖昧でもないように。
「言いたいことは、分かります」
「けれど……賭けてみましょう。あの子の可能性に」
そう言ってアランの手を包みながら、
そっと彼女の頬に指を滑らせる。
その肌の小さな震えに、抑えきれぬ迷いと戸惑いを感じ取っていた。
アランはまだ何かを言いたげだった。
けれど、言葉は形をなさず、ためらいとなって唇の上に留まる。
――それを、レギュラスは知っていた。
言葉にされてしまう前に、
答えの重さで傷つけてしまう前に、
そっと――唇を重ねる。
最初は静かな接触だった。
迷いをふわりと包み込むように。
けれど、次第に押し殺された呻きもろとも溶かすように、
口づけは徐々に深さを増していった。
アランの唇が、力を抜く。
喉奥にあった息が、ため息のようにすうっと抜けていく。
そうなれば、彼女はもう言葉を手放すことを選ぶだろうと、レギュラスは理解していた。
唇が離れるわずか前。
アランは、瞳を閉じたまま、指先だけでレギュラスの胸元に触れた。
その手の震えはまだ消えていない。
けれど口に出されるべき不安はもう、消えていた。
レギュラスは静かに彼女を抱きしめる。
語らぬ代わりに、腕で包む。
古の屋敷の長い廊下に、大人ふたりの沈黙の重なりだけが残っていた。
やがて風が通り抜け、遠くで誰かが笑うような気配がした。
それは、未来がまだ見ぬ「可能性」の音だった。
夕暮れの廊下は、橙の光に満たされていた。
ステンドグラスをくぐった柔らかな陽が、壁の古い装飾に模様を投げかけている。
アルタイルはその廊下を、静かに――けれど内心は、確かな意思と少しの怒りを抱えて歩いていた。
手には、何も持たない。
けれどその足取りは固く、これまで幾度となく父の背に向けてきた尊敬とは別の、兄としての気概が混ざっていた。
セレナは、ああ言っていた。
だが、“あまりにも大胆すぎる”と、彼は思っている。
王位継承権を条件とするような、常識を越えた申し出――
それは時に、家を守るべき責任すら傾かすものであると理解していたからこそ、
それを静かに押しとどめなければならない。
その思いで、一歩、一歩、進んでいた。
けれど、角を曲がりかけたその一瞬――
視界の端に、ふたりの姿が見えた。
父と母が、肩を寄せている。
そして――次の瞬間には、深く唇を重ねていた。
「……っ」
アルタイルの足が、咄嗟に止まった。
体がぴたりと動かなくなり、反射的に柱の影に身を滑り込ませる。
心臓が、ひどく煩わしく暴れていた。
見てはいけないものを――
胸の奥の、深いところを、やすやすとかき乱すような光景を――
今、目にしてしまった。
初めてだった。
あんな空気の中にいる両親を見たのは、初めてだった。
言葉では伝わらないなにか――
どこまでも親密で、静かに積み上げられた想いが、無言のうちに交わされていた。
不思議だった。
見てはいけない。そう思いながらも、
どこか、むずがゆくて、くすぐったい。
それでいて……どこか、嬉しかった。
ああ、もう――きっと母が、先に話をしたのだろう。
セレナのことを。
あの条件の是非を。
きっと母は、父の傍でそれを受け止めたのだろう。
ふたりの間にある沈黙が、すべてを物語っていた。
自分の出る幕は、もうない。
そう悟ったとき、不思議と悔しさよりも、安堵の方が勝っていた。
アルタイルは、そっと廊下を引き返した。
背後で父と母の気配は、まだ小さく息をしている。
それには、そっと幕を引くように、音ひとつ立てず立ち去る。
振り返らない。
けれど胸の中で、灯るようにひとつ、あたたかな光が生まれていた。
それは、家としての安らぎに近いもの。
決して声にはしないけれど、確かに「愛されている」という静かな証として、彼の背を支えていた。
歩きながら、アルタイルはほんの少し目を細めた。
この家は――
きっと今日も、静かに正しく、未来へと歩いているのだと。
夜の食卓に灯る蝋燭の炎が、静寂を深く染めていた。
銀の燭台から立ち上る光は、いつもより控えめに揺れ、家族四人の顔を淡く照らしている。
レギュラスの手には、王家の厳格な封蝋が解かれた羊皮紙があった。
その内容を読み上げたあと、彼は一瞬の間を置いてから、娘へと視線を向けた。
「どうです、セレナ」
その問いかけには、父としての慈しみと、政治家としての冷静さが等しく込められていた。
イングランド王家からの返答――
セレナが望んだ条件は受け入れられた。
王位継承権を、性別に関係なく与えるという、前例のない約束。
けれど、当然ながら王家もまた条件を提示してきた。
万が一、王の名に泥を塗る不義があれば、その時は粛清を。
その言葉の重みに、アランの手がカップの取っ手で止まり、アルタイルは咽に運ぼうとしたスープのスプーンを宙に浮かせたまま動きを止めていた。
だが、その沈黙の中で――セレナだけが、にこりと微笑んだ。
まるで春の花が咲くような、自然で屈託のない笑み。
その表情には、恐れも迷いも一切見えなかった。
「不義だなんて……ありえませんわね」
涼やかな声で、彼女は言った。
「お母さまにも、ありませんでしたでしょう?私も、そんなお母さまの娘ですもの」
そして、静かに、しかし確信を込めて続けた。
「心配は無用です。私は生涯、この王にお仕えすることをお約束できますわ」
その瞬間―― アランの動きが、ほんのわずかに止まった。
娘の言葉。
自分を「揺るぎなき忠誠の証」として語ったその声に、
胸の奥で何かが軽く引きつるような感覚があった。
レギュラスは、その微細な変化を見逃さなかった。
妻の表情に走った、ほんの一瞬の影を確かに捉えて――
申し訳なさそうに、静かに目を伏せた。
セレナは、アランの過去をどこまで知っているのだろう。
シリウス・ブラックへの想いを長年抱き続けてきたことを。
その禁忌の部屋で、ひとり涙を流していた夜々のことを。
それとも何も知らず、ただ母を理想の女性として見つめているだけなのか。
レギュラスには、分からなかった。
けれど、もしも――
娘の目に映る母アランが、「完璧に夫を愛し続けた女性」だったとすれば。
それは、レギュラスにとって何よりの救いだった。
真実がどうあれ、もう過去を掘り起こすつもりはない。
今、確かに感じているのは―― アランの想いが、間違いなく自分に向いているということ。
それで十分だった。
それだけで、すべてが報われていた。
やがてアランが、そっと紅茶のカップを口元へと運んだ。
その仕草は穏やかで、先ほどの微かな動揺はもう見えなかった。
アルタイルも手を動かし始め、静寂だった食卓に小さな音が戻ってくる。
セレナは変わらず微笑んでいた。
その笑顔は、粛清という重い言葉すら軽やかに受け流すほどに、自信と誇りに満ちていた。
外では夜風が窓を軽く叩き、
蝋燭の炎がゆらゆらと踊っていた。
この家族の間に流れる愛情と信頼の深さを、
炎の光がそっと照らし続けていた。
どんな過去があったとしても、
今この瞬間の幸せだけは、誰にも奪われることのない真実だった。
騎士団の基地は、戦いの気配が絶えず漂う場所だったが、この日の空気はいつもとは違っていた。
重く、沈黙に包まれ、言葉を選ぶことがためらわれるような――そんな、静かな“敗北”のような気配があった。
壁際の長机。その上に置かれた魔法新聞には、大きな見出しが踊っていた。
《イングランド王家とブラック家が正式な婚姻関係へ――未来の王妃、セレナ・ブラック》
セレナが、たおやかに微笑む写真。
その背後には、イングランド王家の紋章がしっかりと掲げられ、レギュラス・ブラックと並び立つ姿が誇らしげに写っていた。
明らかに、王家が彼女を“国の顔”として提示している。
それは、前例なき融合。
魔法界と国家の、歴史的な結びつきの成立だった。
新聞を読みながら、ジェームズ・ポッターは言葉を失っていた。
ただ、ページの写真越しに、ブラック家一同の隙のなく整った姿を見つめていた。
「……これが、現実か」
そうつぶやく声。そのひとことが、まるですべてを照らしていた。
ブラック家は、もはや“純血主義の名門”では済まされない存在になった。
魔法界と王室。それぞれの権威の最高位を結ぶ家系――
法律も、思想も、戦う場所を超えてしまった相手。
軽々しく「悪を暴く」などという行為、その対象としてすら扱えぬほどに、
彼らは「象徴」に成りつつあった。
その隣で、アリス・ブラックもまた沈黙の中にいた。
近くの椅子に腰掛けたまま動かず、薄く乾いた口元に指先を添えていたが、
何かを言い出せる気力はなかった。
新聞の中、微笑むセレナには、かつて自分の中で確信していた“正義に対する憧れの構図”が、かき消されたような違和があった。
彼女はその美しさと聡明さで、正しく世界の中心に選ばれた。
反論の余地はない。
明確な閃きと、堂々たる軌跡。
これ以上、かける言葉も持てなかった。
「……レギュラス・ブラックの仮面を剥がし、デスイーターの本質を世界に示す」
ジェームズは以前そう誓った。
だが――その「仮面」が、いまや王家の栄誉そのものとして認められ、歓迎され、
王家自身がその仮面の上に王冠を掲げたという、この現実。
この誤魔化しのない風景。
敗れたなどと、軽率に思いたくはない。
けれど確かに、何かが手の届かない場所へと移動してしまったような感覚があった。
遠ざかったのは、理想だったのだろうか。
それとも――世界そのものが、もう“変わり始めた”のか。
アリスは、小さく息を吸って、ようやく新聞から顔をそらした。
テーブルの端に視線を落とし、ジェームズの隣でぽつりと呟く。
「……ねえ。この現実のなにが、本当に“悪”だと言えるのかしら」
その声には、戦いの鋭さではない、遠く褪せた問いが込められていた。
ジェームズは答えなかった。
ただ、唇を結び、テーブルに置かれたページの上。
セレナの微笑を――
その「揺るぎない選択」を、言葉のない痛みで静かに見つめていた。
夜が更けた寝室に、小さな明かりがひとつ灯っていた。
ドレッサーの鏡に映る蝋燭の炎が、静かに揺れている。
その光の中で、アランは小さなきらめきたちと向き合っていた。
テーブルの上には、セレナのもとに送られてきた宝石たちが丁寧に並べられている。
ダイヤモンド、ルビー、エメラルド――
それぞれが異なる輝きを放ち、小さな虹のように光を散らしていた。
アランは時折、指先でそっと宝石に触れては、その煌めきに見とれている。
「……何をしているんです?」
レギュラスが、ベッドの端に腰かけたまま静かに問いかけた。
その声には、穏やかな好奇心と微かな愛しさが込められていた。
「美しいなって……思いまして」
アランの答えは素直で、どこか夢見るような響きがあった。
鏡に映る彼女の表情は、まるで少女のようにうっとりとしていた。
レギュラスは、その光景に軽い驚きを覚えていた。
これまでアランは、どれほど美しい宝石を贈られても、興味を示すことはほとんどなかった。
「素敵ですね」と礼儀正しく微笑むだけで、心から魅了される様子は見せなかった。
それが今、セレナのために送られてきた宝石を前に、こんなふうに時を忘れて眺めている。
「そんなに……好きでしたっけ?」
もしもアランが宝石を愛するのなら、娘が一顧だにしなかった贈り物ではなく、
自分が彼女のためだけに選んだものを、いくらでも贈りたかった。
アランは小さく笑いながら答える。
「歳をとったんでしょうね。昔は気にもならなかったのに……今は心を奪われます」
そして、遠い目をして続けた。
「母もそうでした。歳を重ねるごとに、両手にたくさんつけるようになって」
その言葉に、レギュラスも思わず笑みを浮かべた。
セシール家の夫人が、指にごろごろと宝石をつけている姿を思い出したのだ。
「まるで……手放していく美しさを補うかのように、宝石に夢中になるんですね」
アランがそう呟いた時、レギュラスの表情が変わった。
眉をわずかにひそめ、真剣な眼差しで妻を見つめる。
「誰が美しさを手放しているんです?」
その声には、驚きと、そして確信が込められていた。
レギュラスにとって、アランはいつまでも変わらず美しかった。
年を重ねても、疲れを見せても、どんな時でも――
彼女は永遠に輝く美しさを放ち続けている。
どんな宝石も、彼女の美しさには及ばない。
そのことに、一片の疑いも持ったことはなかった。
宝石が美しく見えるのは、彼女が手に取るからであって、
彼女自身の輝きを補うためではない。
アランは鏡の中でレギュラスの視線と出会い、頬を僅かに染めた。
その表情には、照れと喜びが混ざっていた。
蝋燭の炎がゆらゆらと踊り、宝石たちがきらめく中で、
夫婦の間に流れる愛情が、どんな宝石よりも美しく輝いていた。
夜は深く、静かに更けていく。
けれど寝室には、永遠に色褪せることのない愛の光が満ちていた。
夜の静寂と、寝室に満ちる淡い灯り。
すべてがやわらかく整えられたその部屋に、余計な音は一つもなかった――二人の呼吸を除いては。
椅子にかけたままのアランの手を、レギュラスが自然な流れで取って、そっと立ち上がらせた。
何も言わなくとも、アランはその意図を察し、戸惑う素振りもなく歩みを預けてくれた。
ベッドの端に腰を下ろし、そのままゆっくりと身を倒れるように導かれる。
視線と肌が交わる。触れる寸前に、息が揃う。
そして、唇が重なる。
最初のキスは、浅く。少しずつ深まり、自然とアランの唇がわずかに開かれていく。
それは受け入れるという合図。言葉ではなく、確かな信頼の証。
レギュラスの胸の内に、ゆっくりと熱が満ちていく。
愛しさが指先に宿り、手が髪に触れ、背をなぞり、優しさと欲の境目を滲ませていく。
長く張りつめていた感情――
守ることに疲れていた日々の端々――
すべてを、いまひととき、彼女に預けるようにして。
身体を重ねながら、心の奥からこぼれていくものを、ゆるやかに、けれど確かにぶつけていた。
それなのに――
ふと、頭の片隅に沈んでいたはずの記憶が、突然、艶を引いて浮かび上がる。
避妊。
そういえば、医務魔女に言われていた。
アランの身体に負荷はかけられない。
子を授かることが、もう現実ではない――そう思い込んでいたくせに、実際はほんの僅かでも想定の範囲に入れていただろうか。
言われて、そのままにしていた。
セレナの婚約のことで心を占め尽くされ、イングランド王家との交渉に神経をすり減らしていた。
任務、書簡、対応、式の準備――
気を配ってはいながら、「今度調べよう」と決めたまま、それすら忘れていた。
いまになって、何もかもが手遅れのように押し寄せてきて、思考の輪が絡まり始める。
それが原因だった――
一瞬、レギュラスの動きが止まった。
アランは、その変化にすぐ気づいた。
彼女の身体の下で、レギュラスがふと固くなったのを感じて、そっと上目づかいで見上げてくる。
まるで、何か大ごとを隠されているように不安げに。
けれど、その瞳はどこまでも柔らかく、ただ夫の顔を信頼とともに確かめているだけだった。
「……ぼーっとしないで」
小さくそう囁きながら、アランの方からそっと唇を重ねてくる。
どこか子供のような仕草で、けれど確かな意志と想いのこもった口づけ。
その瞬間――レギュラスはふっと力を抜いた。
いままで考えていたこと――すべてが遠のいていった。
今日、今この瞬間は、すべてを後回しにしてしまおう――
そんな逃げ道を、彼の心は即座に用意してしまう。
アランの温もりは、何もかもを包み込んでくれる。
不安も、責任も、ほんの短い猶予のなかでだけは忘れてよいと許してくれるような。
レギュラスはもう一度、深くキスを返した。
名前を呼ばなくても、想いは通っていた。
そして二人は、蝋燭の炎が壁に映す影の中で
静かに、確かに――
「夫婦」としての時間を、いま此処に、重ねようとしていた。
長い一日の終わり。宴の余韻と満足感が、空気にほんのりと残っている。
レギュラスは、ベッドの背もたれに身体を預けながら、後ろからアランを抱きしめていた。
その腕の中に、彼女の温もりと重みがやさしく収まっている。
ふたりの呼吸が、静かに重なり合っていた。
清々しい思いで、宴を締めくくることができた。
セレナは、最後の最後まで、凛としていた。
どれほど多くの御曹司たちが彼女に心を奪われようと、
どれほど視線と期待と憧憬を向けられようと、
一度たりとも動揺することなく、その中心で光を放ち続けた。
参列した男たちが、まるでひれ伏すように礼をして帰る姿――
それは、我が娘ながら驚かされるほど堂々としたものだった。
レギュラスの胸には、遠い記憶がよみがえる。
セレナが生まれたあの日。オリオンとヴァルブルガが、第二子が女児だと知った瞬間に見せた、あからさまな落胆。
あの時の冷ややかな空気を、今でもよく覚えている。
ふたりは今夜の宴には姿を見せなかった。
けれど、もしもあの場にいたならば――
この立派で、力強く、ブラック家の色を濃く身に纏った少女の姿を目にしたならば、
きっと言葉を失っただろう。
「スペインの王子と、セレナが流暢に話していましたね」
アランの声が、静かに夜の空気を揺らした。
その響きには、母としての驚きと誇らしさが込められていた。
レギュラスは微かに笑みを浮かべる。
「スペイン語なんて……あの子は、あんなに話せるんですね」
自分でも驚いていた。
いつの間に、あそこまで習得したのか。
思えば、自分自身のスペイン語は、もうほとんど忘れかけている。
何年も使う機会がなく、いつしか翻訳の呪文に頼る癖がついてしまった。
今では、かつて流暢に操れていたはずの言葉も、口をついて出てこない。
だからこそ、娘のあの姿は――
もはや自分をも凌駕していく存在として映った。
「……あの子は、きっと私たちが想像している以上に、遠くまで羽ばたいていくのでしょうね」
レギュラスの声は、感慨深げだった。
腕に抱いたアランの髪に、そっと頬を寄せながら。
「ええ……本当に」アランが静かに応える。
ふたりの間に流れる時間は、過去への感謝と未来への期待で満たされていた。
セレナという存在が、どれほど多くの可能性を秘めているか。
そして、その可能性を支える強さと誇りを、確かに受け継いでくれていること。
レギュラスは目を閉じながら、ゆっくりと息を吸った。
今夜という日が、家族にとってどれほど特別な意味を持つ夜だったかを、静かに胸に刻み込みながら。
アランの重みが腕の中にあること。
子どもたちが健やかに育っていること。
そして、この瞬間に、何ひとつ曇りのない幸福を感じていること。
それらすべてが、奇跡のように尊く思えた。
夜は深く、静かに更けていった。
ふたりを包む温もりの中で、セレナ・ブラックという名の少女の未来が、
希望に満ちた光として、そっと息づいていた。
寝室の灯りはすでに落とされ、窓のカーテンの隙間から、夜の月明かりだけが静かに差し込んでいた。
互いの温もりに微かにうとうとし始めていた頃。
そのとき、アランが突然、ぱたりと身を起こした。
まるで何かが胸の奥から湧き上がってしまったかのように、勢いよく身体を起こして振り返る。
レギュラスの方を見つめたその目に――年少女のような、とびきりの輝きが宿っていた。
「もしっ……もしもですよ?」
小声とは思えないほど弾む声。
そして、両の手を軽く胸の前で組んだその仕草があまりにも愛らしくて、レギュラスはつい不意打ちを食らったような気分になる。
「セレナが、あのスペインの王子と……一緒になったら……」
言葉を区切りながら、アランは目をらんらんと輝かせて笑みを深める。
そして、まるで信じがたい夢を語る少女のように、ちょっとだけ肩を跳ねさせて続けた。
「セレナは……スペインの王妃、ってことになりますか!?」
その瞬間だった。
レギュラスは堪えきれず、声を漏らして吹き出してしまった。
「……ふっ……!」
「いや……」
思わず口元を押さえるようにして、笑みを抑えようとするが、どうにも無理だった。
「ええ、そう……なりますね。王朝が続けばの話ですけど……」
レギュラスは背中を震わせながらも、なんとか形式ばった口調で答える。
礼儀正しく答えたつもりなのに、その言葉尻がどうにも可笑しくて、さらに堪えるように唇を噛んだ。
「じゃあ……もしも!」
アランは再び身を乗り出す。
布団の上で身体を起こしたまま、声をひそめながらも勢いは止まらない。
「もしもですよ、セレナが男児を産んだら……それって、スペイン国の――国母、ってことですよね……?」
顔をほんの少しだけレギュラスに近づけ、ひどく真剣そうな顔つきで問いかけるその様子が、もはや夢見る夜を象徴する風景だった。
けれどあまりの勢いに、レギュラスはもう耐えきれなかった。
「……ぷっ……あははっ……!」
とうとう、声に出して笑ってしまった。
深い夜の静けさにひびく、あのレギュラス・ブラックの笑い声。
滅多に見られるものではないその姿に、アランもつられて口元を緩める。
「…… アラン、気が早すぎますよ……」
ようやく笑みを収めかけながら、けれど顔にはまだ愉しげな色が残ったまま、レギュラスは目を細めた。
「本人が何も言っていないうちから、そんなに未来を飛ばしてしまって……」
アランは、まだ頬を紅く染めたまま、いたずらっぽく笑った。
「だって……夢くらい見たっていいでしょう?
まさか、本当にあの子が、王族と流暢に話してるなんて思わなくて」
その想いに、レギュラスは静かに相槌を打った。
未来はまだ遠い。
けれど娘の歩みが、どれほど大きなものを織り成していくか、ふたりともよく知っていた。
そして今夜、ここにはただひとつのしあわせがあった。
ふたりして、ひとつの夢を笑いながら眺められる――
そのかけがえのない時間に包まれながら、アランはレギュラスの胸にするりと身を預けた。
そのあたたかな寝台に、小さな夢と笑いの余韻が、長く長く香っていた。
朝の光がゆっくりと白磁のカップに射し込んでいた。
ブラック家の食卓は、いつも通り整然として、静かな始まりを迎えていた。
銀のポットから紅茶が注がれ、香ばしいパンの香りが漂うなか――
突然、その音が響いた。
「……ふっ」
静けさを破ったのは、父のレギュラスだった。
最初はほんの小さな吐息のようなもので、けれど次の瞬間には、
我慢など放棄したように、くく、と笑い声が漏れた。
食卓に並んだカトラリーの間に、ほんのひとしずくの柔らかい音が落ちる。
「……どうしたんです? 父さん」
アルタイルがすかさず問いかける。
その声はどこか半ば冗談めいていたが、あまりにも突然だった父の笑みに、少々心配も混じっていた。
あまりに予兆もなく笑い出したものだから、
“何か変なものでも召し上がったのでは?”――と、本気で思ったほどだ。
レギュラスはナプキンを取って口元を軽く覆いながら、苦笑まじりに言う。
「……失礼。思い出し笑いを」
それだけの言葉。
けれど、それに続くように――今度は、母が笑い出した。
アランは、苦い紅茶を飲んだあとのような小さな咳払いをしたあとで、
唇を引き結んだ笑みをこぼしながら父に向かって言う。
「……レギュラス、ちょっと……やめてくださる?」
その言葉に含まれる柔らかい抗議は、怒りでも困惑ですらなく――
何年も連れ添った者だけが持つ、“分かってしまう”感情からくるものだった。
レギュラスの苦笑と、アランの笑み。
ふたりの間には、言葉にもならない会話が流れていた。
きっと、あれは二人だけに通じる何か。
共に過ごした夜の記憶か、かつての若い日々か――
あるいは他愛もない囁きが、今になって腹の底から笑えることに変わったのかもしれない。
セレナはスプーンを持つ手を止めて、
「なにがそんなに楽しいのかしら」とでも言いたげな顔で首を傾げたけれど、
具体的に尋ねようとはしなかった。
理由を知らなくたって、それを眺めているだけで、じゅうぶん幸福だったから。
ふたりの笑いが、それほど自然で――眩しくて――
この家を確かにあたためてくれていると、そう思えた。
朝日が静かにテーブルに滲み、
湯気のあがる紅茶と一緒に、穏やかな余韻がふわりと漂っていた。
ほんの些細な、けれど何よりも強い結びつきがそこに在った。
それは「夫婦としての景色」の最もやさしい在り方で、
子どもたちの目には、ほのかに愛という色すらついて映っていた。
薄暮の光がバルコニーに長く細く差し込み、伝統ある石の欄干に影を落としていた。
風は穏やかで、どこか高貴な静けさが空気の隅々にまで行き渡っている。
そんななか、セレナ・ブラックは、外の空気を注ぐように開かれたドアの向こうに立つ父の背に、ゆっくりと歩み寄った。
あの夜の宴も終わり――
人々のざわめきも沈み、屋敷はすでに静寂を取り戻しつつあった。
「お父さま」
その声に、レギュラスは緩やかに振り向く。
光が横から射して、灰銀の瞳に淡く陰影を落としていた。
セレナは、石の床を軽くすくように歩み寄り、そんな父の横に立つ。
「さっき、食卓で……ふと笑ってましたよね」
「……何を思い出していらしたの?」
何気ない問い。けれど、ほんの少しだけ探るような視線。
それを受けて、レギュラスの口元が、自然とほころんでいく。
まるでその問いかけ自体が再び記憶を呼び戻したかのように。
「…… アランがですね、あなたがスペインの王子と一緒になれば……王妃になるじゃないかって、そんな話をね」
その声には苦笑と微かな感嘆が入り混じっていて、
最後の方は、もう笑いを押しとどめきれず、細く、消え入るような笑みへと溶けていった。
思い出しただけで、またおかしくなってしまうのだろう。
「まぁ……お母さまがそんなことを?」
セレナの眉がわずかに上がる。
あの母が。
名声や贅沢、家柄だけに囚われず、
どこか涼やかに物事を見ているような印象を持っていたからこそ、
そんな夢見る少女のような空想を語ったということに、意外の色が隠せなかった。
「……お母さまって、意外と野心家なのね!」
思わずくすっと笑いながら、セレナは大きな声で屋敷の中――まだ食卓にいる母に向かって言う。
バルコニー越しに届く声に、アランのやわらかな返事が返ってくる。
「……なんの話ですの?」
優雅に装うような、けれど少しだけ動揺も混じった声音だったが、
セレナもレギュラスも、それには答えなかった。
ただ顔を見合わせて――声をひそめて、ふたり、笑い合う。
胸の中に、こそばゆくて、あたたかい何かが灯っていた。
風がセレナの髪を後ろに払い、その目元に月の色を落としていく。
スペインの王妃なんて、そんなの、突拍子もないと思っていたはずだったのに――
父の瞳に映る自分と、母の夢に棲んでいた自分が、こうして優しく交わるのなら、
それも案外、悪くない未来かもしれないと、そう思えた。
静かな甘噛みのような朝の風が、石の欄干を撫でる。
ふたりの笑みはそのまま、ふわりと宵闇のなかへ、遠く流れていった。
医務室の静けさは、いつになく耳にしみるほどだった。
魔道具の棚の角にだけ光が反射し、絹の帳のように午後の陽が薄く染み込んでいる。
定期的に訪れる“健診”という名の儀礼的行事にも、幾度目かとなると、レギュラスはごく自然な身のこなしで耳を傾けていた。
「……特に、大きな変わりはありません」
医務魔女の声は丁寧で、柔らかかった。
どこまでも穏やかで、日常の延長にある診断のようだった。
だが次のひと言――そのまなざしを少しだけ伏せ気味にしながら、
彼女がやや遠回しに付け加えた言葉だけが、空気の質を変えた。
「ただ……ご夫婦のご関係のある際には、念のため、避妊の処置を心がけていただけると……安心かと存じます」
その言葉は、今にもどこかへ消えてしまいそうなほどやさしい響きを纏っていたが――
レギュラスの内心には、静かに鋭い光のようなものを落としていった。
何か――
そう、心の奥深く、誰にも見せたことのないところにある感情の、
そっと扉を叩かれたような、そんな感覚だった。
避妊。
その言葉が、自分たち夫婦の間において、医務室という“外”から提示されることになるとは、不思議な――いや、妙に現実的な落差として胸に落ちた。
今まで――
アランとそういう言葉にならない夜を交わすたびに、
具体的に「命を望む」という意識はなかった。
むしろ、ないはずだった。
ふたりはとうに三十を過ぎ、
これから新しい命を育てることに焦がれるような年齢でも、状況でもない。
アランの体は、セレナを授かったあのときから決して本調子ではなかったし、
これ以上の妊娠や出産に耐えられないことも、医療者から何度となく告げられてきた。
だから、避妊をしなかったのは――その必要がないと思っていたから。
もはや可能性そのものが現実とは思えなかった。
そう、自分にも言い聞かせてきた。
けれど、違ったのだ。
たとえごく僅かだとしても、「可能性」は存在していて、
誰かが明確にその懸念を口にしたことで――
その“見過ごされていた領域”が一気に現実の肌へと触れたように思えた。
ああ、自分たちは、まだ“そういう人たち”なのだ、と。
ふたりの間に交わされる温もりも、体温も、確かな現実の中にある“行為”の延長として存在している。
だからこそ。“避妊”とは、まさに、
その優しさや慈しみの延長線上にある、とても現実的な選択だった。
魔女の説明は、それ以上詳しくはなされなかった。
それがまた、レギュラスには救いであり同時に苦悩でもあった。
――知らない。
どうすればいいのか、わからなかった。
薬なのか、魔法処置なのか、あるいは呪具か。
普段耳にすることのない知識――
けれど、それを目の前のこの魔女に訊ねることは、
どこか、自尊と羞恥とがまざりあって、言葉にすることなどできなかった。
たとえば、
「出す場所を間違えなければいいのだろうか」
そんな途方もなく稚拙で、そして卑俗に過ぎる問いを、
このきちんと着込んだ医務魔女に向けるなど、このレギュラス・ブラックには、到底できなかった。
だから――
「……心得ます」
それだけ簡潔に、理解と了承を装って、静かに頷いた。
内心のざらつきを押し込めたまま、その場を深く波立たせることなくやり過ごした。
医務室を出て廊下を歩きながら、レギュラスの指はローブの内ポケットをさぐる仕草をした。
何もないことが分かっているのに、そこに逃げ道を探しているようだった。
一歩ごとに音のない問いが足元を追いかける。
――避妊とは、どうすればいいのか。
――どう向き合えば、互いを傷つけずに済むのか。
けれど、医務魔女の落としたその一石は、
どこかで、「ふたりがそうしてまだ、触れ合い続けている」という事実を、
静かに肯定してくれていた。
その事実だけが、彼にとって、
今のところ掴んで離したくない“答え”でもあったのだった。
宴の数日後――
ブラック家には、まるで春の花が咲き乱れるように、色とりどりの手紙や贈り物が届き始めていた。
セレナ・ブラックという名の少女の、あの夜の輝きに魅了された御曹司たちからの、熱烈な求婚の印だった。
サロンのテーブルには、様々な国の封印が押された羊皮紙が山積みになり、宝石や真珠で飾られた小箱が美しく並んでいる。
「……すごい数ですね」
アルタイルがその光景を見て、感嘆とも苦笑ともつかない声を上げた。
だが、当の本人であるセレナは、それらの煌びやかな宝石には一瞥もくれなかった。
代わりに、真っ直ぐ父レギュラスに視線を向ける。
「お父さまから見て……『この方』というような人は、いらっしゃいますか?」
その問いには、どこか大人びた冷静さがあった。
まるで商談をするかのように、淡々と、しかし核心を突く調子だった。
レギュラスは、手に持った手紙の差出人を確認しながら答える。
「イタリアの王子からの求婚が届いているようですよ」
だが、セレナはためらいなく首を振った。
「イタリアはやめておきましょう、お父さま」
「ローマ教皇との対立に苦しみそうだわ。わざわざしなくていい苦労をするものじゃありませんもの」
その言葉に、レギュラスは思わず声を出して笑った。
的確すぎる判断に、感服さえ覚える。
本当に、どこまでいっても狡猾で、愛らしくて、利口な娘だった。
政治的な嗅覚といい、現実的な思考力といい、
もう十二歳とは思えないほど成熟した思慮深さを持っている。
そのとき、アルタイルが一つの小箱を手に取った。
「これ……母さんの瞳の色ですね」
それは、スタンフォード家の嫡子が贈ってきた、美しい翡翠のペンダントだった。
アランも顔を近づけて見る。
「ほんとね……でも、どうしてこの色にしたのかしら?」
確かに、セレナの瞳は母譲りではなく、父譲りの深い灰色だった。
翡翠の緑など、彼女には一ミリも入っていない色だ。
セレナが、いたずらっぽく笑いながら言う。
「お母さまへの求婚だったりして」
その軽やかな冗談に、レギュラスは淡々と、しかしどこか愉快そうに応える。
「意図の読めない者は、候補から外しましょう」
その場に、明るい笑い声が響いた。
まずアルタイルが吹き出し、セレナも重ねるように笑う。
セレナの嫁ぎ先を巡る”商談”は、いつの間にか家族の笑いの種になり、
そしてこの家に流れる愛情の深さを、静かに証明していた。
煌びやかな贈り物に囲まれたサロンで、
ブラック家の強い絆が、またひとつ輝きを増していた。
午後の陽光が、ブラック家の私邸サロンを黄金に染めていた。
大理石のテーブルには、今朝届いたばかりの封書がいくつも重ねられていたが、
そのうちの一通に、レギュラス・ブラックの手がふと止まった。
封蝋は深紅の銀糸、紋章は――
イングランド王家。
彼の指がわずかに止まった。
ほとんど感情を揺らすことのない男の視線が、
その封の美しさと重みに、ごくわずかに沈黙する。
「……セレナ」
レギュラスが呼ぶ声に、サロンの書架の近くにいたセレナがゆっくりと振り返った。
黒曜の髪がゆるやかに揺れ、その瞳に真剣な光が差す。
父が差し出した封書を見て、セレナの目がすこし開かれた。
手紙の上に燦然と輝いていたのは――
イングランドの王家の紋章。
それだけで、内容を読み取るにはじゅうぶんだった。
国王直々の、婚姻を望む正式な縁談の申し出。
この国、この大陸の中心にして、全魔法界を統べる王家の嫡男との縁が、
今、まさに自分の眼下に届いているという現実。
セレナは一瞬だけ身を引き、僅かに深呼吸する。
けれど次に父と視線を交わした時には、もうその目に迷いは一切なかった。
レギュラスは言葉を発さず、ただ眼差しだけで娘を問う。
「どうです?」
――そう語るような無言。
彼の瞳は何より冷静で、けれど底に微かに灯る誇りと期待の気配があった。
セレナもまた、ゆっくりと一歩進み、父の差し出す視線をまっすぐに受け止め――
静かに、しかし確かな肯定のまなざしを返した。
そのうえで。
「……お父さま。ひとつだけ、条件がありますの」
淡い声であった。穏やかでさえあった。
けれど、その奥に流れるものはあまりに強く、明確だった。
「その条件を受け入れてくださるのならば」
「私は生涯、イングランドの王子に忠誠を尽くすことをこの場で誓いましょう」
レギュラスの細い目がわずかに細まり、沈黙が空間を満たす。
アルタイルとアランも思わず動きを止め、次に続く言葉に思考を凝らす。
セレナが明確に“条件”を口にすること自体、容易いことではない。
それほどの場であることを、全員が理解していた。
そして、彼女は真っ直ぐに言った。
「もし、私が産んだ子が――たとえ女児であったとしても」
「王位継承権を必ず与えていただくこと。これが条件ですわ」
一瞬で、空気が凍るようだった。
そのひと言が、どれほどの重みを持っているか。
この国の君主制と長い継承の歴史の中で、あまりにも明白であった“暗黙の掟”を――
その少女は、今、堂々と正面から打ち破る姿勢を見せた。
誰もが骨の奥をすくわれたように静まり返るなか、
父であるレギュラスだけは、すぐには答えなかった。
答えない、代わりに。
彼は、「ほぉ……」と低く、奥の響きで息を漏らすように呟いた。
静かに、深く――愉快とも驚嘆とも言わないその口調が、
逆に彼の印象を際立たせた。
アルタイルは、こめかみが引きつるのも忘れ、目を見開いて押し黙っていた。
アランにいたっては、口を開けたまま、それを閉じる術すら失っていた。
だが、セレナは表情ひとつ変えずに、父を見ていた。
挑むようでも、求めるようでもなく――
ただ、自分の価値を“正しく”示すためだけに、そこに立っていた。
レギュラス・ブラックは、娘のその目に、
かつての自分と、そして自分をも超えていく意志の轍を見た。
この子は、ただ王家へ嫁いでいくのではない。
その制度と歴史を背に、王そのものを“変えよう”としている。
愛する相手に仕えるだけの伴侶ではなく、自らもまた王に匹敵する器として――
新たな“時代の起点”となろうとしている娘。
その静けさが、まぎれもなく誇りだった。
その場は、しばらく沈黙に包まれたまま、
言葉ではなく、英気のような何かだけが、淡く、ゆるやかに、空間に流れていた。
風がカーテンをわずかに揺らし、
太陽が、翡翠色のような光をひとすじ、セレナの肩のラインに差した。
日の傾き始めた午後のサロン。
淡い光が刺繍入りのカーテンをやわらかく透かして、部屋の隅へ静かな影を落としていた。
セレナの言葉が落ち着いた声色で部屋を満たしたあと、最初に反応したのはアランだった。
「セレナ……」
いつになく低い調子の声で言葉を続ける。
「そんな大きなこと、口にするものじゃありません。――失礼に値するわ」
その声音には、心からの懸念、そして母としての慎ましさが込められていた。
世の理をわきまえる者としての警鐘だった。
セレナはそんな母の言葉をじっと聞きながらも、わずかに顎を引いたまま一歩も退かない表情をしていた。
続けて、アルタイルがその場の空気を和らげようと穏やかに口を開いた。
「そうですよ、セレナ」
「このご縁談が来ているというだけでも、信じられないほど光栄なことなんですから」
溜息のような想いが声の奥にありつつも、兄として“妹の逸脱”をどこか理解もしていた。
けれど、その過ぎた要求が何を引き起こすかも正しく読んでいたからこそ、あえて抑えめの口調を選んでいた。
だが、その中で――父・レギュラスだけは、何も言わなかった。
ひとつも表情を歪めることなく、感情の色を濁らせることもないまま、
彼はただ、沈黙を選んで娘を見つめていた。
その空気のなか、セレナはまっすぐ父の方へ顔を向けて静かに、言った。
「どうしてです?」
「ブラック家の正統な血を引き、貴い魔力の系譜を受け継いだ私が、
正妻として王家に嫁いで――それでもなお、その子が“次の王”として認められないなら、
一体、何のために王子に嫁ぐのか――わかりませんわ」
その声音には一切の刺々しさも、激情もなかった。
逆にその“理路整然とした正義感”こそが、不思議な迫力となってその場に充満した。
アランもアルタイルも、セレナの語る言葉の中に――
漠然と“傲慢”では断じきれない、確かな《誇り》と《筋》を感じ取らずにはいられなかった。
たしかに――その通りだった。
セレナが今持っているものを思えば、
荒唐無稽な主張とは到底言い切れなかった。
イングランドの王でさえ、戦略として結ぼうとするこのブラック家の娘。
彼女が望む地位は決して「上を踏みにじる」ことではなく、
「本当に釣り合う峰に、自らを位置づけている」だけだった。
その瞬間、レギュラスの心にわずかに走った確信があった。
――交渉する価値はある。
これは駆け引きではない。
見栄や虚勢ではない。
この娘の内にあるものは、ただ「生まれに恥じない誇り」だったのだと。
「……いいでしょう」
レギュラスの声が、次第に染まる夕光の中で静かに響いた。
「……先方に、手紙を書いておきましょう。それを条件として、申し入れてみます」
固く、冷たすぎず――しかし芯には揺るぎのない決意を帯びていた。
ブラック家が誇る当主の言葉として、最も端正な重みを持っていた。
その瞬間、セレナの顔がぱっと明るくなった。
さきほどまでの厳然とした毅然さとは打って変わり、
花びらが舞うように、喜びが表情の奥から広がっていく。
「やったぁ――! さすがはお父さまだわ!」
その声に、アランとアルタイルは驚いたように目を見開いた。
つい今しがたまで淡々と“歴史を変えよう”としていた少女の姿は、
まるで褒められた子どものような軽やかさで喜び弾けていた。
レギュラスは、胸の奥でかすかに息をついた。
はしゃぎすぎて見えるほどのその歓喜。
けれど、それが決して“無邪気なだけ”ではないことを、
誰よりよくわかっているのも――この父だった。
あの娘は、わかって使っている。
その無邪気さすら計算の内に収め、“見せるべき姿”を完璧に選び取るだけの利口さと狡猾さ。
屈しない誇りと意志を秘めながらも、他人の心をその声ひとつで和らげてしまう、
その才と策。
レギュラス・ブラックは静かに頷いた。
この娘は、いずれ――
王妃と呼ばれるだけでは終わらない。
国の制度そのものを動かし、
《歴史に名を刻む女》になる。
それは、もはや幻想ではなかった。
父の直観に息づく、静かで確かなる予感だった。
屋敷の廊下に、わずかな足音が重なる――
長く敷かれた絨毯の上を、アランは焦るように駆けていた。
夕陽が射す窓辺のアーチにレギュラスの背が遠ざかっていくのが見える。
その背を追いかけるように、声が漏れる。
「レギュラス……。待って……」
微かに息を切らせながら、袖を掴んだその手には、
止めるようでいて、縋るような揺れがあった。
レギュラスは、一度足を止める。
振り返るその動きも、どこか静かな決意に満ちていた。
「……あまりにも、度を越してるわ」
アランがそう言った時、声には確かな恐れがにじんでいた。
娘の未来、名家の誇り、それらを賭けてでも勝ち得ようとする交渉。
それがどれほどの重圧と危うさを伴い、どれほどの反動を受ける可能性があるかを――
アランは、生まれながらに“理解してしまう”人だった。
慎ましさと、沈黙の美徳で育った人。
立てることに徹し、「望む」ことを遠ざけて生きてきた人。
その彼女からすれば、セレナのような真っすぐな願いは――
美しさと紙一重で、どこか破滅の兆しのように見えたのだろう。
レギュラスは一度、その掴まれた手を静かに外した。
けれど拒むのではない。
自分のやり方で、より深く、確かに――その手を握り返すためだった。
「あの子の未来に、あの子自身が命を懸けようとしているのです」
低く、あたたかい声。
広げすぎぬように、しかし曖昧でもないように。
「言いたいことは、分かります」
「けれど……賭けてみましょう。あの子の可能性に」
そう言ってアランの手を包みながら、
そっと彼女の頬に指を滑らせる。
その肌の小さな震えに、抑えきれぬ迷いと戸惑いを感じ取っていた。
アランはまだ何かを言いたげだった。
けれど、言葉は形をなさず、ためらいとなって唇の上に留まる。
――それを、レギュラスは知っていた。
言葉にされてしまう前に、
答えの重さで傷つけてしまう前に、
そっと――唇を重ねる。
最初は静かな接触だった。
迷いをふわりと包み込むように。
けれど、次第に押し殺された呻きもろとも溶かすように、
口づけは徐々に深さを増していった。
アランの唇が、力を抜く。
喉奥にあった息が、ため息のようにすうっと抜けていく。
そうなれば、彼女はもう言葉を手放すことを選ぶだろうと、レギュラスは理解していた。
唇が離れるわずか前。
アランは、瞳を閉じたまま、指先だけでレギュラスの胸元に触れた。
その手の震えはまだ消えていない。
けれど口に出されるべき不安はもう、消えていた。
レギュラスは静かに彼女を抱きしめる。
語らぬ代わりに、腕で包む。
古の屋敷の長い廊下に、大人ふたりの沈黙の重なりだけが残っていた。
やがて風が通り抜け、遠くで誰かが笑うような気配がした。
それは、未来がまだ見ぬ「可能性」の音だった。
夕暮れの廊下は、橙の光に満たされていた。
ステンドグラスをくぐった柔らかな陽が、壁の古い装飾に模様を投げかけている。
アルタイルはその廊下を、静かに――けれど内心は、確かな意思と少しの怒りを抱えて歩いていた。
手には、何も持たない。
けれどその足取りは固く、これまで幾度となく父の背に向けてきた尊敬とは別の、兄としての気概が混ざっていた。
セレナは、ああ言っていた。
だが、“あまりにも大胆すぎる”と、彼は思っている。
王位継承権を条件とするような、常識を越えた申し出――
それは時に、家を守るべき責任すら傾かすものであると理解していたからこそ、
それを静かに押しとどめなければならない。
その思いで、一歩、一歩、進んでいた。
けれど、角を曲がりかけたその一瞬――
視界の端に、ふたりの姿が見えた。
父と母が、肩を寄せている。
そして――次の瞬間には、深く唇を重ねていた。
「……っ」
アルタイルの足が、咄嗟に止まった。
体がぴたりと動かなくなり、反射的に柱の影に身を滑り込ませる。
心臓が、ひどく煩わしく暴れていた。
見てはいけないものを――
胸の奥の、深いところを、やすやすとかき乱すような光景を――
今、目にしてしまった。
初めてだった。
あんな空気の中にいる両親を見たのは、初めてだった。
言葉では伝わらないなにか――
どこまでも親密で、静かに積み上げられた想いが、無言のうちに交わされていた。
不思議だった。
見てはいけない。そう思いながらも、
どこか、むずがゆくて、くすぐったい。
それでいて……どこか、嬉しかった。
ああ、もう――きっと母が、先に話をしたのだろう。
セレナのことを。
あの条件の是非を。
きっと母は、父の傍でそれを受け止めたのだろう。
ふたりの間にある沈黙が、すべてを物語っていた。
自分の出る幕は、もうない。
そう悟ったとき、不思議と悔しさよりも、安堵の方が勝っていた。
アルタイルは、そっと廊下を引き返した。
背後で父と母の気配は、まだ小さく息をしている。
それには、そっと幕を引くように、音ひとつ立てず立ち去る。
振り返らない。
けれど胸の中で、灯るようにひとつ、あたたかな光が生まれていた。
それは、家としての安らぎに近いもの。
決して声にはしないけれど、確かに「愛されている」という静かな証として、彼の背を支えていた。
歩きながら、アルタイルはほんの少し目を細めた。
この家は――
きっと今日も、静かに正しく、未来へと歩いているのだと。
夜の食卓に灯る蝋燭の炎が、静寂を深く染めていた。
銀の燭台から立ち上る光は、いつもより控えめに揺れ、家族四人の顔を淡く照らしている。
レギュラスの手には、王家の厳格な封蝋が解かれた羊皮紙があった。
その内容を読み上げたあと、彼は一瞬の間を置いてから、娘へと視線を向けた。
「どうです、セレナ」
その問いかけには、父としての慈しみと、政治家としての冷静さが等しく込められていた。
イングランド王家からの返答――
セレナが望んだ条件は受け入れられた。
王位継承権を、性別に関係なく与えるという、前例のない約束。
けれど、当然ながら王家もまた条件を提示してきた。
万が一、王の名に泥を塗る不義があれば、その時は粛清を。
その言葉の重みに、アランの手がカップの取っ手で止まり、アルタイルは咽に運ぼうとしたスープのスプーンを宙に浮かせたまま動きを止めていた。
だが、その沈黙の中で――セレナだけが、にこりと微笑んだ。
まるで春の花が咲くような、自然で屈託のない笑み。
その表情には、恐れも迷いも一切見えなかった。
「不義だなんて……ありえませんわね」
涼やかな声で、彼女は言った。
「お母さまにも、ありませんでしたでしょう?私も、そんなお母さまの娘ですもの」
そして、静かに、しかし確信を込めて続けた。
「心配は無用です。私は生涯、この王にお仕えすることをお約束できますわ」
その瞬間―― アランの動きが、ほんのわずかに止まった。
娘の言葉。
自分を「揺るぎなき忠誠の証」として語ったその声に、
胸の奥で何かが軽く引きつるような感覚があった。
レギュラスは、その微細な変化を見逃さなかった。
妻の表情に走った、ほんの一瞬の影を確かに捉えて――
申し訳なさそうに、静かに目を伏せた。
セレナは、アランの過去をどこまで知っているのだろう。
シリウス・ブラックへの想いを長年抱き続けてきたことを。
その禁忌の部屋で、ひとり涙を流していた夜々のことを。
それとも何も知らず、ただ母を理想の女性として見つめているだけなのか。
レギュラスには、分からなかった。
けれど、もしも――
娘の目に映る母アランが、「完璧に夫を愛し続けた女性」だったとすれば。
それは、レギュラスにとって何よりの救いだった。
真実がどうあれ、もう過去を掘り起こすつもりはない。
今、確かに感じているのは―― アランの想いが、間違いなく自分に向いているということ。
それで十分だった。
それだけで、すべてが報われていた。
やがてアランが、そっと紅茶のカップを口元へと運んだ。
その仕草は穏やかで、先ほどの微かな動揺はもう見えなかった。
アルタイルも手を動かし始め、静寂だった食卓に小さな音が戻ってくる。
セレナは変わらず微笑んでいた。
その笑顔は、粛清という重い言葉すら軽やかに受け流すほどに、自信と誇りに満ちていた。
外では夜風が窓を軽く叩き、
蝋燭の炎がゆらゆらと踊っていた。
この家族の間に流れる愛情と信頼の深さを、
炎の光がそっと照らし続けていた。
どんな過去があったとしても、
今この瞬間の幸せだけは、誰にも奪われることのない真実だった。
騎士団の基地は、戦いの気配が絶えず漂う場所だったが、この日の空気はいつもとは違っていた。
重く、沈黙に包まれ、言葉を選ぶことがためらわれるような――そんな、静かな“敗北”のような気配があった。
壁際の長机。その上に置かれた魔法新聞には、大きな見出しが踊っていた。
《イングランド王家とブラック家が正式な婚姻関係へ――未来の王妃、セレナ・ブラック》
セレナが、たおやかに微笑む写真。
その背後には、イングランド王家の紋章がしっかりと掲げられ、レギュラス・ブラックと並び立つ姿が誇らしげに写っていた。
明らかに、王家が彼女を“国の顔”として提示している。
それは、前例なき融合。
魔法界と国家の、歴史的な結びつきの成立だった。
新聞を読みながら、ジェームズ・ポッターは言葉を失っていた。
ただ、ページの写真越しに、ブラック家一同の隙のなく整った姿を見つめていた。
「……これが、現実か」
そうつぶやく声。そのひとことが、まるですべてを照らしていた。
ブラック家は、もはや“純血主義の名門”では済まされない存在になった。
魔法界と王室。それぞれの権威の最高位を結ぶ家系――
法律も、思想も、戦う場所を超えてしまった相手。
軽々しく「悪を暴く」などという行為、その対象としてすら扱えぬほどに、
彼らは「象徴」に成りつつあった。
その隣で、アリス・ブラックもまた沈黙の中にいた。
近くの椅子に腰掛けたまま動かず、薄く乾いた口元に指先を添えていたが、
何かを言い出せる気力はなかった。
新聞の中、微笑むセレナには、かつて自分の中で確信していた“正義に対する憧れの構図”が、かき消されたような違和があった。
彼女はその美しさと聡明さで、正しく世界の中心に選ばれた。
反論の余地はない。
明確な閃きと、堂々たる軌跡。
これ以上、かける言葉も持てなかった。
「……レギュラス・ブラックの仮面を剥がし、デスイーターの本質を世界に示す」
ジェームズは以前そう誓った。
だが――その「仮面」が、いまや王家の栄誉そのものとして認められ、歓迎され、
王家自身がその仮面の上に王冠を掲げたという、この現実。
この誤魔化しのない風景。
敗れたなどと、軽率に思いたくはない。
けれど確かに、何かが手の届かない場所へと移動してしまったような感覚があった。
遠ざかったのは、理想だったのだろうか。
それとも――世界そのものが、もう“変わり始めた”のか。
アリスは、小さく息を吸って、ようやく新聞から顔をそらした。
テーブルの端に視線を落とし、ジェームズの隣でぽつりと呟く。
「……ねえ。この現実のなにが、本当に“悪”だと言えるのかしら」
その声には、戦いの鋭さではない、遠く褪せた問いが込められていた。
ジェームズは答えなかった。
ただ、唇を結び、テーブルに置かれたページの上。
セレナの微笑を――
その「揺るぎない選択」を、言葉のない痛みで静かに見つめていた。
夜が更けた寝室に、小さな明かりがひとつ灯っていた。
ドレッサーの鏡に映る蝋燭の炎が、静かに揺れている。
その光の中で、アランは小さなきらめきたちと向き合っていた。
テーブルの上には、セレナのもとに送られてきた宝石たちが丁寧に並べられている。
ダイヤモンド、ルビー、エメラルド――
それぞれが異なる輝きを放ち、小さな虹のように光を散らしていた。
アランは時折、指先でそっと宝石に触れては、その煌めきに見とれている。
「……何をしているんです?」
レギュラスが、ベッドの端に腰かけたまま静かに問いかけた。
その声には、穏やかな好奇心と微かな愛しさが込められていた。
「美しいなって……思いまして」
アランの答えは素直で、どこか夢見るような響きがあった。
鏡に映る彼女の表情は、まるで少女のようにうっとりとしていた。
レギュラスは、その光景に軽い驚きを覚えていた。
これまでアランは、どれほど美しい宝石を贈られても、興味を示すことはほとんどなかった。
「素敵ですね」と礼儀正しく微笑むだけで、心から魅了される様子は見せなかった。
それが今、セレナのために送られてきた宝石を前に、こんなふうに時を忘れて眺めている。
「そんなに……好きでしたっけ?」
もしもアランが宝石を愛するのなら、娘が一顧だにしなかった贈り物ではなく、
自分が彼女のためだけに選んだものを、いくらでも贈りたかった。
アランは小さく笑いながら答える。
「歳をとったんでしょうね。昔は気にもならなかったのに……今は心を奪われます」
そして、遠い目をして続けた。
「母もそうでした。歳を重ねるごとに、両手にたくさんつけるようになって」
その言葉に、レギュラスも思わず笑みを浮かべた。
セシール家の夫人が、指にごろごろと宝石をつけている姿を思い出したのだ。
「まるで……手放していく美しさを補うかのように、宝石に夢中になるんですね」
アランがそう呟いた時、レギュラスの表情が変わった。
眉をわずかにひそめ、真剣な眼差しで妻を見つめる。
「誰が美しさを手放しているんです?」
その声には、驚きと、そして確信が込められていた。
レギュラスにとって、アランはいつまでも変わらず美しかった。
年を重ねても、疲れを見せても、どんな時でも――
彼女は永遠に輝く美しさを放ち続けている。
どんな宝石も、彼女の美しさには及ばない。
そのことに、一片の疑いも持ったことはなかった。
宝石が美しく見えるのは、彼女が手に取るからであって、
彼女自身の輝きを補うためではない。
アランは鏡の中でレギュラスの視線と出会い、頬を僅かに染めた。
その表情には、照れと喜びが混ざっていた。
蝋燭の炎がゆらゆらと踊り、宝石たちがきらめく中で、
夫婦の間に流れる愛情が、どんな宝石よりも美しく輝いていた。
夜は深く、静かに更けていく。
けれど寝室には、永遠に色褪せることのない愛の光が満ちていた。
夜の静寂と、寝室に満ちる淡い灯り。
すべてがやわらかく整えられたその部屋に、余計な音は一つもなかった――二人の呼吸を除いては。
椅子にかけたままのアランの手を、レギュラスが自然な流れで取って、そっと立ち上がらせた。
何も言わなくとも、アランはその意図を察し、戸惑う素振りもなく歩みを預けてくれた。
ベッドの端に腰を下ろし、そのままゆっくりと身を倒れるように導かれる。
視線と肌が交わる。触れる寸前に、息が揃う。
そして、唇が重なる。
最初のキスは、浅く。少しずつ深まり、自然とアランの唇がわずかに開かれていく。
それは受け入れるという合図。言葉ではなく、確かな信頼の証。
レギュラスの胸の内に、ゆっくりと熱が満ちていく。
愛しさが指先に宿り、手が髪に触れ、背をなぞり、優しさと欲の境目を滲ませていく。
長く張りつめていた感情――
守ることに疲れていた日々の端々――
すべてを、いまひととき、彼女に預けるようにして。
身体を重ねながら、心の奥からこぼれていくものを、ゆるやかに、けれど確かにぶつけていた。
それなのに――
ふと、頭の片隅に沈んでいたはずの記憶が、突然、艶を引いて浮かび上がる。
避妊。
そういえば、医務魔女に言われていた。
アランの身体に負荷はかけられない。
子を授かることが、もう現実ではない――そう思い込んでいたくせに、実際はほんの僅かでも想定の範囲に入れていただろうか。
言われて、そのままにしていた。
セレナの婚約のことで心を占め尽くされ、イングランド王家との交渉に神経をすり減らしていた。
任務、書簡、対応、式の準備――
気を配ってはいながら、「今度調べよう」と決めたまま、それすら忘れていた。
いまになって、何もかもが手遅れのように押し寄せてきて、思考の輪が絡まり始める。
それが原因だった――
一瞬、レギュラスの動きが止まった。
アランは、その変化にすぐ気づいた。
彼女の身体の下で、レギュラスがふと固くなったのを感じて、そっと上目づかいで見上げてくる。
まるで、何か大ごとを隠されているように不安げに。
けれど、その瞳はどこまでも柔らかく、ただ夫の顔を信頼とともに確かめているだけだった。
「……ぼーっとしないで」
小さくそう囁きながら、アランの方からそっと唇を重ねてくる。
どこか子供のような仕草で、けれど確かな意志と想いのこもった口づけ。
その瞬間――レギュラスはふっと力を抜いた。
いままで考えていたこと――すべてが遠のいていった。
今日、今この瞬間は、すべてを後回しにしてしまおう――
そんな逃げ道を、彼の心は即座に用意してしまう。
アランの温もりは、何もかもを包み込んでくれる。
不安も、責任も、ほんの短い猶予のなかでだけは忘れてよいと許してくれるような。
レギュラスはもう一度、深くキスを返した。
名前を呼ばなくても、想いは通っていた。
そして二人は、蝋燭の炎が壁に映す影の中で
静かに、確かに――
「夫婦」としての時間を、いま此処に、重ねようとしていた。
