4章
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レギュラスが書き物に軽く筆を置いたちょうどその時――
部屋の扉が、ひそやかに、けれどためらいなくノックされた。
「お父さま」
声の主は、わかっていた。
返事を待たずとも、ゆっくりと姿を現したのは、艶のある黒髪をたなびかせた娘、セレナ・ブラック。
その足取りには少女らしい軽やかさがありながらも、どこか意図の込められた慎重さがあった。
いつからこんなふうになったのだろう――と、レギュラスはふと、静かに娘を見る。
確かに、誰が見てもこの娘には「ブラックの血」が濃く流れている。
あの灰色の瞳、研ぎ澄まされた佇まい、時折覗かせる理性と策の鋭さ。
それは代々続く名家に生まれた者が、自然と宿してしまう色だ。
誇り高く、冷静で、美しく――そして何より、手強い。
「どうしました? セレナ」
レギュラスの声は淡々としていたが、内心ではすでに構えていた。
この娘が、一対一で「書斎」に訪れるなど、そう頻繁なことではない。
セレナは一歩踏み入り、いつものように柔らかく椅子へと腰を下ろすことはせず、
そのまま真っ直ぐ父の前に立ってから、上目遣いで首を傾げた。
「……お願いが、あるの」
まるで子供のような甘え方――その仕草に対して、
レギュラスは顔には出さぬまま、少しだけ息を止める。
その仕草は可愛らしくもあり、しかし恐ろしく計算されていた。
この娘はもう、ただ幼い少女ではない。
己が“女”であることの力を、すでに手にし始めている。
一体、誰の真似をして覚えた仕草か。
思わず苦笑しそうになりながら──例の「あの日の食卓」を思い出す。
「……みんな、私に夢中よ」
天真爛漫にそう断言してみせたあのとき。
あの言葉は、案外、本気だったのかもしれない――そう思わずにはいられなかった。
「私ね……お父さま」
少しだけ空気を変えるように、セレナが視線をまっすぐに合わせてくる。
「私の、嫁ぎ先のことなんだけど」
レギュラスは、言葉の意味を確かめるように瞬きをひとつした。
そして、小さく目元を緩ませながら、少し遅れて問い返す。
「……まさか、あなたの口からその話が出るとは思いませんでした」
これまでその話題は、あくまで“外”から持ち込まれる形だけだった。
オリオンやヴァルブルガ、あるいは周囲の名家たちからの名指し、母アランの心配。
そしてレギュラス自身も、あの子の心が恋も知らずにいるならば、
せめてもう少し時を与えたいと思ってきた。
「誰か候補の……目ぼしい人でもいるのですか?」
そう訊ねたとたん、セレナは朗らかに笑って、首を横に振った。
「いいえ。いたら、きっと先にそっちから動くでしょ?
でもね……私はお父さまの娘なのよ?
その辺の、ちょっとした王子様くらいじゃ振り向きませんわ」
涼やかな口ぶり。自信に満ちた瞳。
からかっているようでいて、根底には「自分の価値」をしっかりと理解している重みがある。
やはりこの子は、自分の中にある“高貴”というものを、とてもよく分かっているのだ。
それを騒がず、ゆっくりと器用に使いこなそうとしている。
まったく、手強い。
本当に……ブラック家の娘だ。
レギュラスはふと視線を逸らし、書きかけの羊皮紙へ目を落とす。
そして、わずかに笑みを浮かべたまま、おどけたように言葉を落とした。
「――それならいっそ、このまま嫁には出さず、屋敷でずっと暮らしますか?」
茶化すようでいて、どこか本気の色も混じっていた。
だが、セレナは肩をすくめて笑いながら答える。
「だめよ。さすがにそれは。
ブラック家の娘が“何も成し遂げず”にこの屋敷の中にだけいるなんて、面白くないもの」
その目はすでに遠くを見ていた。
自分の未来に、明確な輪郭を持ち始めている少女の眼差しだった。
レギュラスはそれを見つめながら、ほんの少しだけまぶたを閉じる。
――この子なら、大丈夫だ。
名家の娘として生まれながらも、自らをただの装飾にはしない。
誇りを肌に纏いながら、背筋を伸ばして選ぶべき道を歩いていくだろう。
そしてその道を、きっと自分よりもしたたかに。
自分よりも、ずっと美しく。
それが……セレナ・ブラックだった。
静かな書斎に、ふたりの笑いが微かに響いていた。
年を重ねても消えない誇りと、それを受け継ぐ次世代の耀きが、
今宵、静かに重なった瞬間だった。
書斎の空気は凛としており、音ひとつない静寂がレギュラスとセレナの間に流れていた。
柔らかな灯りが石壁に反射し、長い帳が小さく揺れていた。
先ほどまでの冗談混じりの空気が、娘の口からふとつむがれた一言で、その場を不思議な緊張感へと導いていた。
「私が嫁ぐ先は……お父さまを超えようとしてくださる方でないと、」
レギュラスは眉を静かに僅かに上げた。
それは、明確な拒絶や驚きではなく――迷いだった。
その言葉の“真意”が、まだ読み切れなかった。
「…………と言うと?」
問う声は穏やかで、けれど確かに探るような響きを帯びていた。
父親として娘の気持ちを受け止めたいという想いと、頭のどこかで警戒にも似た思考がわずかに渦巻いていた。
セレナは、笑むでもなく、特別な芝居も挟まず――まっすぐに言った。
「お兄様には、レインズフォード家のイザベラ様をお迎えになるのでしょう?」
透き通るような声で紡がれるその名前には、品と知性が込められていた。
名門中の名門。由緒正しい家系。
それを持ち出した娘の言葉には、讃えるような響きと同時に、確かな自負と競うような火があった。
「申し分のないお家柄ですし、魔法の才能も気品も、何ひとつ欠けていない。素晴らしい選択だと誰もが認めるはずですわ」
そして、そこからはっきりと本音が続いた。
「それならば――私にも。それに“見合うだけ”の方を探していただきたいのです」
その言葉には、微笑すらなかった。
まなざしだけが燐光のようにきらめいていた。
レギュラスは無言のまま、娘の顔を見つめた。
美しい娘だった。
けれどその内奥にあるものは、ただの温室育ちの令嬢には決して宿りえぬ強さだった。
兄アルタイルの影に沈むつもりは微塵もないのだと、
彼女のひとつひとつの言葉が示していた。
その本質は、横並びになりたいわけでも、ただ名家に嫁ぎたいという憧れでもない。
「兄と同じならば、私も――」
そんな言葉のなかに見えたのは、それ以上の競争心であり誇りだった。
男であったならば。
あるいは、娘でなく息で生まれていたなら――
この子は、間違いなくブラック家を東西両断してでも、王座に立とうとしたに違いない。
ほんの一瞬、レギュラスの唇の端にわずかな笑みが浮かんだ。
それは嘲笑でも困惑でもなく、感服に限りなく近いもの。
――あまりにも、この家の血を濃く受け継いでいる。
父として、名家の当主として、そして長年“清廉さ”と“誇り”の帳を背負ってきた男として、
彼の中にある感情が、何重にも折り重なっていた。
今そこで、自分に求婚者の格付けを持ちだす娘は、
決して華美なドレスや宝石を欲しがっているわけではない。
求めているのは、“対等に誇り合える”立ち位置。
決して誰の影として生きないための、確固たる未来。
レギュラスは静かに椅子に戻り、背を預けて目を伏せた。
「……その辺の王子では、到底振り向かせられない――か」
ぼそりと呟かれたその言葉には、諦めでも皮肉でもなく、ごく僅かな感動がにじんでいた。
そして、再びゆっくり娘を見上げる。
「では……あなたが本当に望む未来の形を、もう少し率直に聞かせてくれませんか?」
その声は、もうただの父のものではなかった。
ひとりの“同族”として、“後継ぎ以上の才覚”と向かい合う口調だった。
セレナは一歩、躊躇なく前に進み、その灰銀の瞳でまっすぐ父を捉える。
その瞬間ーー親子に流れたのは、名門の血を引く者どうしの、静かで濃密な対話だった。
何よりも強く、何よりも美しい家名の誇りを背負った者たちが交わす、稀にしか生まれぬ真正な「継承」のはじまりだった。
晩春の陽が傾くころ、セレナ・ブラックは書斎を出たあとの長い回廊をひとり歩いていた。
石畳に伸びるその影はまっすぐで揺るぎなく、どこまでも孤高で美しかった。
彼女の中には、燃えるような感情も、優しげな夢想もなかった。
ただ静かな確信があった。
その体を、血を、名を、運命を、自分が確かに受け取っているということ――
それだけが彼女を歩かせていた。
兄アルタイルには、すでに定められた婚約者がいる。
あの高名なレインズフォード家。魔法界の中でも指折りの家柄、秩序、誇り、伝統すべてを兼ね備えた家の令嬢。
申し分のない選択だと心から思う。
誰よりも優れた兄にふさわしい、周囲が納得する組み合わせだ。
ならば――
自分もまた、それに匹敵するだけの未来を手にするべきだった。
いや、手に入れるのではない。用意されて然るべきなのだ。
自分は「選ばれる側」であり、誰とでもつり合うわけではないから。
恋も知らない。
甘い情動に身を預けたこともない。
セレナにとって、それは「無知」ではなく、むしろ「選択」だった。
恋や愛と呼ばれるものが、魅力あるものであることは知っている。
けれど、それらはあまりにも不確かで、一度誤れば人生を狂わせかねない。
……だから、知りたくないと思った。
母を、見てきた。
唯一無二であったはずの、誇り高く気品に満ちた母が――
その心の一角を、決して報われぬ思慕で埋め尽くしていたことを。
屋敷の誰も近づけなかったあの部屋で、
もう成り立たない過去に何度も指を伸ばすように、項垂れ泣いていたことを。
シリウス・ブラック。
母の想いが向いていた、あの自由な獣のような男。
決して父ではなかった。
あの、誰よりも偉大な父ではなかった。
そして、その重みを知ってなお、父は母を責めることなく、変わらず守り続けていた。
――それが、余計に苦しかったのだ。
惨めになるのは、死ぬよりも嫌だ。
セレナはそう強く思う。
ブラック家に生まれ、
誰よりも誇らしく、孤高に、その血を体に宿している自分が――
“成らぬ相手”を想って心を乱し、報われない希望にすがる――
そんな未来など、あってはならない。
愛してもいい。
けれど、その愛は尊敬の上にこそ咲くものであるべきだ。
自分が誇りを置くに値する人。
自分と釣り合うだけの能力と意志、品格、魔法の本質に至る深さを持った者だけが、
人生の隣を歩むに値する。
それ以外は、どれほど美辞麗句で飾っても、ただの甘えに過ぎない。
「目ぼしい人がいるのか」
そう訊かれた。
父も、母も、思慮深く温かかった。
けれど、その問いは、まるでどこか“よその家”の会話のように思えた。
それは庶民の言葉だ。
そこらの感情にうつつを抜かすような、名前の軽い家のやり取りだ。
セレナ・ブラックにとっては、何よりも“似合わない”言葉だった。
自らをそう語れるだけの矜持が、セレナにはあった。
それは傲慢ではない。
与えられたこの名、この家、この血。そして彼女の育ってきた沈黙と誇りの証だった。
だから思うのだ。
いつか決まるその相手は、単なる結びではなく――
運命の先にある「選」を重ねるものであるべきだと。
誇りと誇りを結ぶ契約でなくては、
この人生は終始に値しない。
扉の向こうから春風が吹き込む。
セレナは立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。
その目は凛と澄み切り、何ひとつ迷いを映していなかった。
その一歩は、愛ですらも誇りの名のもとで選び抜く――
唯一無二の“セレナ・ブラック”としての女の歩みであった。
魔法省から下された任務は、ある意味で定型的なものだった。
魔力の暴走によって周囲に被害を与えている魔法使いの制圧――ただそれだけ。
だが問題は、その暴走の性質だった。
制御不可能な魔力を抱えた魔法使い、《オブスキュラス》。
苦しみのなかで静かに壊れながら、なお存在する者。
その存在に、いまだ“救済”という手段は見つかっていなかった。
それを鎮める術はひとつしかない――命を断つこと。
レギュラス・ブラックは、その現場に立っていた。
背中には、アラン・セシールの気配があった。
彼女は今回の任務への同行を強く願い出た。
本来ならば――いや、本音を言えば、連れて行くべきではなかった。
傷が癒えきったとは言えない身体。
加えて、任務そのものが非情なものであることを、レギュラス自身がよく知っていたからこそ。
けれど、彼女は言い出したら聞かなかった。
控えめな声音の奥に、決して折れない芯を持っていることを、レギュラスは誰よりもよく知っている。
結果として、アランは彼のすぐ後ろ――指先がそっと伸ばせば触れられる距離に立ち、杖を構えていた。
敵は少数のデスイーター、そして一点を破壊されたように暴走を続ける幼いオブスキュラスの少年だった。
戦闘そのものは、レギュラスにとって難しくなかった。
合理的に状況を整理し、即座に殺気と判断を狙い一閃に収めてゆく。
その洗練された動きは、感情を一切含まないほどに淡々としていた。
だが――その背中越しに、彼女が今、何を見ているのか。
そのことが頭をよぎると、胸の奥に小さな重みが残った。
無力とは言わぬまでも、“救えなかった”命。
マグル生まれであるがゆえに疎まれ、封じ、否定し、内側で力を歪ませた子供。
まだ何者にもなれなかった存在を、ただ静かに“処理”する任務。
何も知らない者ならば、それを“必要な選択”と認識するかもしれない。
だが、彼女は違った。
かつて、命を賭してマグルの少女を逃がしたアラン。
誰ひとり知らぬ場所で、たった一人、正義よりも手を差し延べることを選んだ人。
その彼女が、今この光景を見て、何を思うのか――
それを考えずにはいられなかった。
戦いが終わり、瓦礫が静まり返る。
そこには、もう動かない小さな影が横たわっていた。
光も風も音も吸い込まれるような空白。
レギュラスは杖を静かに下ろし、呼吸を整えた。
背後に立つアランの気配が、一歩だけ近づいた。
振り返らなかった。
ただ、それでも、彼女の視線が静かに届いていた。
声もない沈黙のなかで、何かを問うように。
レギュラスは、ただ一つのことを自問していた。
彼女の目に、今の自分はどう映っているのだろう。
冷たい殺し屋か。
必要悪に徹した職務人か。
それとも――大切な何かを、守るために手を汚したただの男か。
それでも、問わずに終わるだろう。
彼女は、きっと何も言わず黙って隣を歩く。
理解はせずとも、否定だけはしない――
そんな人だということを、レギュラスは知っていた。
それでも。
彼が流した命のぶんだけ、遅れて心が鈍痛を覚える。
そしてそれを、アランの近くで感じられることに、ひどく救われてしまう自分がいることを、
誰よりも悔しいと思っていた。
風が通り抜ける――
すでに沈黙しか残らなくなった現場で、ふたりは背中合わせに、しばらく立ち尽くしていた。
魔力の余韻がまだ場に残り、空気の密度がわずかに震えていた。
焦げた草と石の匂い、静まり返った森の暗がり。
ほんの数分前までオブスキュラスの暴走が嵐のように吹き荒れていたとは思えない静寂が、重たく周囲を包んでいた。
その沈黙を破ったのは、再び現場に降り立った一人の女だった。
黒のローブが風にたなびく。
後処理部隊として派遣されてきたその姿を見て、レギュラスはほんの一瞬、時の皮肉を感じた。
まさかこんな場所で、こんな“終わり”の瞬間に、再会することになろうとは。
アリス・ブラック。
「アランさん!」
感情に突き動かされるように放たれたその声が、広がるように現場に響いた。
声の主が走り寄ろうとした瞬間、アランの背中がわずかに揺れた。
その名を、こんなふうに呼ぶ女。
昔話でも、夢でもない。今という現実で、レギュラスの傍にいる妻に、その名で呼びかける人間がいるという現実。
レギュラスは、冷えるような沈黙の中でゆっくりと振り向いた。
「これはこれは、ブラック嬢」
低く、ひどく丁寧に言葉を口にする。
それ以上、何も語るつもりはなかった。
けれど、皮肉の一つも言ってやらねば気が済まなかった。
アリスの双眸は涙に滲み、怒りと悔しさで燃えていた。
押し殺しようのない激情が、魔力とともに全身から立ち上っている。
そして彼女は、叫ぶように言った。
「レギュラス・ブラック……私は、あなたを、必ず討つ!」
その声は、悲鳴だった。 正義の名を掲げるようでいて、誰よりも傷ついた、哀しみの叫び。
マグル生まれのオブスキュラスを――
あの小さな命を、救うことができなかったという事実。
その無力が、怒りへと姿を変え、向かう先を探していた。
それが、任務を“完了”させたレギュラスに向いたこと――
この男なら止めなかった。
この男は、いつもどこまでも冷徹に“正解”を選び取ってしまった。
けれど。
レギュラスは、その叫びを、“痛み”としては受け取らなかった。
それは彼にとって、遠くの揺れでしかなかった。
静かに、そして確かな優越と冷笑を重ねるように、彼はふっと鼻で笑った。
「その弱さで、私に立ち向かおうとするとは……」
「身の程知らずにも程がある」
言葉は淡々としていた。
けれど、それ以上に研ぎ澄まされた“事実”として、彼の口から零れ落ちた。
アリスの背後で風が強まり、魔力が波紋のように舞い上がる。彼女の顔は悔しさに紅潮し、唇を噛みしめる。
カリスマでも激情でもない――
ただ圧倒的な実力の差で断ち切られる瞬間。
それでも、アリスは杖を離さなかった。
そんな彼女に、レギュラスは淡く微笑む。
「……その勇気と覚悟だけは、たしかに認めましょう」
そして次の言葉は、遺すように――
静かなる宣告を下すように響いた。
「ですが、引き際を見失わないように――」
低い声。
誰よりも冷静に組み立てられた、一人の魔法使いによる最大限の忠告だった。
風がとまり、空気が戻ってくる。
アリスはその場から動けず、声さえも返さなかった。
すべてを知りながらなお、目を逸らさず立っていたのは、彼女なりの“誇り”の証だったかもしれない。
その横で、アランは一歩も動かず。
ただ、夫とアリスのあいだに何があったのか――
静かに黙して、眼差しだけで見届けていた。
それぞれの答えが、誰の言葉も許さず、ひとつの夜に深く刻まれていく。
レギュラスの黒衣が、風を巻いて静かに揺れた。
告げられた終わりの言葉だけが、森のなかにいつまでも消えずに残っていた。
空気があまりに静かだった。
まるで音を飲んでしまったかのように、あの三人が向き合った場の気配は、ひとときの風さえも止めていた。
アリスが去ったあと、誰も何も言わなかった。
ただ、夕闇の中で、レギュラス・ブラックは横に立つアランの顔をそっと見た。
彼女の瞳には、光を湛えた涙が浮かんでいた。
流れてしまえば、いっそ楽だったかもしれない。
けれど、こぼれる寸前で止まったままのそれは、言葉以上の重さでレギュラスの胸に落ちた。
彼は何も言わなかった。
そうすると決めていたのだ。
彼女があの夜、自分の腕のなかで静かに言った――
「私はあなたと共に、何があっても正しい選択をしていきたい」
――あの言葉を信じると、選んだのだから。
だから聞かない。責めない。詮索もしない。
彼女がかつて何を守り、いま何を想っているのか、それらすべてを問わずに進むと決めた。
ただ、手だけを握った。強く、あたたかく、拒絶ではなく繋がりの印として。
けれど――その指先から、否応なく伝わってくるものがあった。
かつてアランが必死に逃がしたひとりのマグルの少女、アリス。
あの少女が、大人へと成長し、自らの信じた正義のもとに杖を向けて立つようになった。
そして彼女を育てたのは、シリウスだった。
それが意味する重さ。
アリスという存在が、シリウスの意志であり、希望であり――
そして、いまだにアランの胸に残る“何か”そのものかもしれないという予感が、
握った手の温度の奥に静かに脈打っていた。
理解したくなかった。
けれど、わかってしまった。
見ようとせずとも、触れた体温から、言葉にされずとも、
その“痛み”ばかりが、恐ろしいほど鮮明に届いてきた。
でも、それでもレギュラスは、指を離さなかった。
過去の想いが残ることを許せるわけじゃない。
しかし、それすらもすべて彼女の中に受け入れて、
それでも今、自分を選んだ手のぬくもりを――信じようと決めたから。
沈黙の中、アランがそっとこちらを見あげる。
涙はまだ、瞳の縁に馴染んだまま。
レギュラスはただ、目を細めて静かに頷いた。
その視線はまるで、「わかってる。わかってるから……それ以上言わない」と告げるようだった。
アランの指が、わずかに強く彼の手を握り返した。
言葉など、もう何もいらなかった。
信じ、背負い、選び抜く。
そうしてふたりで重ねていく未来が、どれほど静かで険しくても——
今はただ、この手を放さぬ限り、それでよかった。
レギュラスはその想いを、心の奥にそっと抱きしめるように、目を閉じた。
夜が豪奢に華ひらく頃――
ブラック家の広い晩餐の間では、温かな光が細やかな銀器に揺れ、すでに多くの賓客たちがざわめきとともに集い、煌びやかな夜の幕開けを迎えていた。
セレナ・ブラック、十二歳。
その誕生日を記念する宴が、父レギュラスの名によって正式に催された。
一歩、フロアへ踏み出す前の控えの間。
アランはそっと娘の横顔に目を向けた。
額に宝石が添えられ、肩を撫でる黒髪は丁寧にまとめられている。
セレナの着るドレスは、今までのどんな日よりも華やかで、それでいて決して派手ではなく。
その布地の奥に、堂々とした血統の影と、少女の端正な精神が織り込まれていた。
アランは、小さく微笑んだ。
「緊張してますか?セレナ」
問いかける声には、母としてのやさしさよりも、どこか問いを請うような思いが滲んでいた。
娘がどのようにこの夜を迎えるのか、それを知りたかった。
けれど、セレナは迷いなくほほえんだ。
「いいえ。お父さまが、わたしのために用意してくださったお祝いですもの。
……恥じないようにしたいわ」
その言葉の響きは、まるでダイヤモンドのように揺るがず澄んでいた。
アランは静かに目を伏せた。
――強い子だ、と思う。
凛としていて、真っ直ぐで、それでいてどこか楽しむ余裕すら見せている。
どれだけの視線や期待がこの夜に向けられていても、内なる芯がふらつく様子は微塵もなかった。
父レギュラスを思わせる毅然とした姿。
ゆらぎ、迷い、感情と記憶の海に呑まれたこともある自分とは違う、その確かな足取り。
その孤高の強さは、まぎれもなくブラックの血がなせる気高さだった。
だから、ほんの少し、ほっとした。
この娘が、自分にはない強さを受け継いでくれたことに。
「お兄様!」
会場へ向かおうとしたその時、セレナが明るい声を上げた。
目前に、アルタイルがいた。
背筋を正して黒の正装に身を包んだその姿に、
今夜とても美しい妹が、一層の輝きをまとって声をかける。
「今夜のわたくし、いかがですか?」
首を傾げて、答えを促すその仕草は、無策の愛らしさではなかった。
ほしい言葉をきちんと手元に引き寄せるだけの、可憐な狡猾さ。
それは、まさしく “セレナ・ブラック”らしい妙味だった。
しかし、兄は――その変容に、ほんとうに目を見張っていた。
面差しを大人びさせ、紅を差した唇と聡明な目元が、いまや名家の令嬢としての格式と美しさを語っていた。
「……とても綺麗ですよ、セレナ。
どんな御曹司も、きっと心を奪われます」
少し照れながらも真摯に贈られた兄の言葉に、
セレナは満足げに笑った。
そのやり取りをそばで見守っていたアランの胸に、じんわりと静かなものが広がった。
ふたりの間にある健やかさ。
支え合うように、敬い合うように在る兄妹の距離が、何よりも誇らしくて、美しくて。
そして、思った。
――この子たちは、レギュラスが自分に与えてくれた命だった。
迷いなく強く、まっすぐに生きるふたりの姿は、
まるで世界の中にそっと灯された純粋な光のように思えた。
アランは、グラスをそっと手に、遠く会場の入り口に見えるレギュラスの姿を見つめた。
ありがとう、あなた。
その横顔に言葉にはしない感謝を込めて、小さく息を吸った。
この夜が、ふたりの子への祝福であると同時に――
静かに続いてゆく家族の物語の、ひとつの光になることを願って。
扉が開かれる。
セレナ・ブラック――
その名にふさわしい、輝きと未来をたずさえて、誕生日の祝宴が幕を開ける。
宴のさなか、煌びやかなシャンデリアの光が広間に瞬いていた。
そこに浮かび上がるようにして、セレナ・ブラックの存在があった。
まるで自然と、磁力でも宿しているかのように――
国中の名家から集まった御曹司たちが、彼女のまわりを埋めるように囲んでいた。
その中心で、セレナは少しも臆せず、正しい距離感を保ちながらほほ笑んでいた。
否――笑って“使い分けて”いた。
その姿は、姫、という言葉では足りないほどに、品に満ち、主導権を握る輝きを放っていた。
それは、混じりけのない誇りそのものの輪郭だった。
「……セレナを見ていると、まるで――」
アランがふっと息を吐く声で言った。
「まるで、少女になったあなたを見ているようです」
隣に立つレギュラスが静かに微笑む。
彼の視線もまた、センターのドレスのなかに立つ娘を、少し距離をおいて見つめていた。
「ええ。中身は……あまりにも僕に似ています」
「自分でも驚くくらい、きれいに」
その声音には、湧き上がるような誇りと、どこか諦めにも似た感情が混ざっていた。
アランはこっそりと、ひとつ小さく頷いた。
思えば、セレナはアルタイルのようには育てられなかった。
第一子である彼には、早くから多くの視線が注がれた。
将来の家の柱として、あらゆる期待と誉れが向けられていた。
それは当然で、彼が「望まれて生まれた男児」であったからだ。
対してセレナは、比較的静かに、父と母によって“守られるようにして”育てられた。
世間に名前も姿も、過度に晒すことなく、品と節を大切に保ちつづけながら。
その育て方が雑だとは、思いたくなかった。
けれど、ほんの少し昔――
誰の目にもつかないように遠ざけられていく娘の背に、
ほのかな悲しみを感じることがあった。
この子の可能性を、誰かが「女」だからというだけで勝手に決めてしまわないか、と。
でも、それでよかったのかもしれない。
騒がず育てられてきたからこそ、真っすぐに灯しきった“誇り”が、
いまひときわ、美しく耀いているのだから。
「……けれど」アランは思わずつぶやいた。
「どうして、急に……宴を?」
レギュラスは肩越しに、少し困ったように笑みを洩らして答えた。
「セレナに、頼まれたんですよ。
兄アルタイルに並ぶ御曹司を自分にも用意してくれって」
その答えには、背筋が凍るような衝撃があった。
「……そんな話を……あなたと?」
驚きが追いつくより早く、アランは思ってしまった――
その話を、母である自分が初めてここで知るという現実に。
胸がゆっくりと、痛みに絞られる。
セレナが、何を大切に生きているのか。
何を望み、どんな選択をし、どんな立場で未来を見ようとしているのか。
それを――知らなかった。
自由とか、愛とか。
この娘もきっと、そういうものを求めていつか揺れるのだろうと、
どこかで勝手に想っていた。
でも、違った。
彼女はもっと早く、もっと奥深くに、“自分というもの”を確立していた。
セレナの中にあるのは、自由よりも“尊厳”だった。
家の名、家の誇り、そして自分自身が持って生まれた高貴さ。
それが揺らいだり、誰かに値踏みされることは、彼女にとって“侮辱”でしかないのだ。
だから彼女は、“自由な相手”を選ぶのではなく、
自分に値する者だけが、その隣に立てるという在り方を、迷いなく選択している。
それは、アラン・セシールの生き方とはあまりにも違った。
心が優先するまま、感情に苦しみ、愛に迷いながら生きてしまった母とは――
重なるどころか、正反対に進もうとする道なのだと思った。
その誇り高さが、眩しかった。
凛としていて、どこか手の届かない光だった。
けれど、アランの胸の奥に、不思議とあたたかなものがゆっくり湧き上がっていく。
あの娘は、そういう子なのだ。
そうであってほしかった。
かつて守ることしかできなかった自分の代わりに、
誇りを掲げて歩ける、誰より強い娘。
その強さを知った今、母として不甲斐ないという想いよりも、
むしろ底知れぬ「ありがたさ」と「愛おしさ」で、胸が満たされていた。
この子が、自分の娘で、よかった。
その隣に立つ兄と、そのすべてを受けとめた父を見ながら――
アランは、袖の内側でそっと手を結び、小さく祈るように目を閉じた。
どうかこの娘の未来が、
誇りにおいて決して曇りなく照らされますようにと。
賑やかな室内楽が響く宴席の片隅――
石造りの柱の影、さりげなく静けさの集まる場所に、親子三人の影が集まっていた。
アルタイル・ブラックは、ほどけるような柔らかい笑みを湛えて、現れた。
微かに紅茶の香りが残る空気をまといながら、姿勢の良い歩き方で、すっと父と母のもとへ近づいてくる。
「父さん、母さんも、セレナを見ましたか?」
そう問いかける声には、少しわざとらしく自慢げな含みがあって、しかしそれがまた、穿ったところのない親しさだった。
その響きには、兄としての誇りが、ごく自然に滲んでいた。
妹を賞賛することに何の迷いもない。
愛情も、称賛も、何ひとつ隠さず。
現実をただ肯定するように告げる兄のまなざしには、もう“少年”の影はなく、どこまでも頼もしい“統率者”としての矜持があった。
レギュラスは静かに微笑みながら、目を細める。
「ええ……あの子は本当に、強くて美しい子です」
そのひと言には、父としての深い愛情と、
それでもどこか娘を“独立した一人の魔法使い”として見ている理性のような境界線があった。
アルタイルはそれを聞いて、ふと顔を少し傾ける。
「父さんみたいですよ――セレナ」
その言葉に、アランはわずかに目を細め、息を呑むほどではない感情が、小さな波紋となって胸に広がった。
セレナを語るとき、自分の名前は一度も出てこなかった。
けれど、それが寂しいとは思わなかった。
むしろ――面白い、とさえ思えた。
あの娘は、やっぱりレギュラス・ブラックの娘なのだと。
生まれながらにして呼吸のように正しさと誇りをまとい、誰にも屈せず真っ直ぐに、理性と意志の上に歩くあの姿。
そこに“ アラン・セシール”の色は、意外なほど感じられない。
淡く、線を引いたように、世界を違える距離にある娘。
そんな不思議な繋がりさえ、今日という日は妙に愛おしく思える。
「ドイツやフランスからも……御曹司を招いているんでしょう?」
会場の様子を見渡しながら訊ねるアルタイルに、レギュラスは口元をわずかに緩ませた。
「ええ、いずれ近い将来――諸外国が、このブラック家の…そうですね、〈領土〉になる日も近いかもしれません」
冗談交じりに告げる父の声音に、アランも思わず笑う。
それはただの大言壮語ではなかった。
セレナが、今やその可能性さえも現実として思わせる力を持ちつつある、という確かな実感がそこにあった。
遠目に――
美しい月光色のドレスに包まれたセレナは、
言葉も仕草も、まるで舞うように洗練されていた。
ドイツの名家の跡取りとフランス貴族家の嫡男。
それぞれが異なる言葉で問いかければ、各国の言葉を使い分け、流れるように答える娘。
あの子は、国境も家名も選ばない。
選ぶのは、常に〈自分にふさわしい相手かどうか〉だけ。
――誇らしかった。
ただそれだけだった。
今までは、こうした場が、緊張や不安で胸を落ち着かなくさせたものだった。
けれど、今夜は違った。
誇りと誠実な知性が、光を纏って踏みしめる姿を眺めているだけで、
その生まれてきた意味に、胸がいっぱいになった。
アランはそっと、レギュラスの左手に自分の指先を重ねる。
知らぬうちに、自然とそうしていた。
レギュラスは顔を動かさずに、その手に微かに力をこめて応えた。
――このふたりが命を繋ぎ、生まれてくれた子どもたち。
その源にいくつもの痛みがあっても、いま確かに、〈美しさ〉と〈誇り〉として形を成している。
そんな真実を、この夜は静かに教えてくれていた。
この瞬間だけは、どんな呪いにも届かせたくないほどに、幸せだった。
宴も深まり、室内の灯りが夜の重さを優しく受け止める頃。
音楽はより柔らかな音色をまとい、客人たちの声もどこか落ち着いた余韻を纏い始めていた。
そのなかで、アルタイル・ブラックは、妹セレナの姿に目を細めていた。
光の中心で微笑み、言葉を交わし、世界を引き寄せるように立つ彼女。
その強さ、美しさ、気高さ。
それらはまぎれもなく誇らしく、自分の妹であることに、胸がきゅうと痛むほどだった。
けれど、それ以上に――
ふと視線を向けた先。
両親が、並んでいた。
白く長いテーブルの傍、あるいは石柱の影を回るたびに、レギュラスとアランの姿が変わらず肩を揃えて現れる。
それが、たまらなく微笑ましく映った。
レギュラスはアランの腰に、控えめにけれど迷いなく手を添え、
アランはふいに背をのばして耳元に顔を寄せ、なにか小さな――ふたりだけの言葉を囁いていた。
まるで、ほんとうにはじめて愛し合っているかのように、
どこにも滲まない、静かな「ふたり」の世界がそこにあった。
この頃、屋敷に戻るたびに感じていた。
両親の間にかつて在った微細な隙間――
距離ではなく、温度でもなく、触れようとすると退いてしまいそうな、あの繊細な“空白”が、目に見えない静けさで埋まってきていることを。
それが今夜、誰の目にも確かな情景として現れていたことに、アルタイルはただ、心の底から安堵していた。
思えば、幼いころから抱えていた小さな痛みがあった。
父は、母を深く思っていた。
それは“情”の域をとうに超えた、どこまでも真っ直ぐで、時にどこか狂おしいとさえ思えるほどの愛。
けれど――母の眼差しは、それを真正面から受け取らずにいた。
いつも少しだけ遠いものを見ていた。
その向こうにいたのは、シリウス・ブラックという男だったことを、アルタイルは子どものころから、何となく知っていた。
知ったことを、誰かに告げようと思ったことはない。
けれど、それが心の奥でひとつの影を落としていた。
自分という存在、そして妹という命さえも、
“誰かの我慢と忍耐”の上に成り立っているような気がしていた。
幼いながらに、それはいつも身体の奥を冷やした。
揺るがぬ誇りを胸に持てるはずの家庭という場所が、
どこか不確かな礎にのっているのではないかと思わせた。
けれど、いま――
二人は、誰にも邪魔されず、ただ寄り添っていた。
父が微かに母の背に触れるその手は、
所有でも拘束でもなく、ただ、導きも護りも担う優しさで添えられていた。
母は遠いどこかではなく、きちんと“隣”に在る人へと顔を向けていた。
時折耳打ちするように口を寄せ、
それに応じる父の口元に、穏やかな弧が静かに広がる。
それらはとても些細なことのようで、けれど今まで見たどんな家族の姿より、“ほんもの”に見えた。
アルタイルはゆっくりと目を伏せた。
今、確かに思う。
あのふたりのあいだには――かつて言葉では語れなかった“愛”というものが、
時間を越えて、静かに芽吹き、育まれ、いま、こうして“証明”されているのだと。
それ以上、何も要らなかった。
その姿ひとつで、自分が生まれてきてよかったのだと、はじめて深く思えた。
この夜を包む音楽が優しく流れるなかで、
息子として、ただ心から――
あのふたりの幸せを、祝福していた。
部屋の扉が、ひそやかに、けれどためらいなくノックされた。
「お父さま」
声の主は、わかっていた。
返事を待たずとも、ゆっくりと姿を現したのは、艶のある黒髪をたなびかせた娘、セレナ・ブラック。
その足取りには少女らしい軽やかさがありながらも、どこか意図の込められた慎重さがあった。
いつからこんなふうになったのだろう――と、レギュラスはふと、静かに娘を見る。
確かに、誰が見てもこの娘には「ブラックの血」が濃く流れている。
あの灰色の瞳、研ぎ澄まされた佇まい、時折覗かせる理性と策の鋭さ。
それは代々続く名家に生まれた者が、自然と宿してしまう色だ。
誇り高く、冷静で、美しく――そして何より、手強い。
「どうしました? セレナ」
レギュラスの声は淡々としていたが、内心ではすでに構えていた。
この娘が、一対一で「書斎」に訪れるなど、そう頻繁なことではない。
セレナは一歩踏み入り、いつものように柔らかく椅子へと腰を下ろすことはせず、
そのまま真っ直ぐ父の前に立ってから、上目遣いで首を傾げた。
「……お願いが、あるの」
まるで子供のような甘え方――その仕草に対して、
レギュラスは顔には出さぬまま、少しだけ息を止める。
その仕草は可愛らしくもあり、しかし恐ろしく計算されていた。
この娘はもう、ただ幼い少女ではない。
己が“女”であることの力を、すでに手にし始めている。
一体、誰の真似をして覚えた仕草か。
思わず苦笑しそうになりながら──例の「あの日の食卓」を思い出す。
「……みんな、私に夢中よ」
天真爛漫にそう断言してみせたあのとき。
あの言葉は、案外、本気だったのかもしれない――そう思わずにはいられなかった。
「私ね……お父さま」
少しだけ空気を変えるように、セレナが視線をまっすぐに合わせてくる。
「私の、嫁ぎ先のことなんだけど」
レギュラスは、言葉の意味を確かめるように瞬きをひとつした。
そして、小さく目元を緩ませながら、少し遅れて問い返す。
「……まさか、あなたの口からその話が出るとは思いませんでした」
これまでその話題は、あくまで“外”から持ち込まれる形だけだった。
オリオンやヴァルブルガ、あるいは周囲の名家たちからの名指し、母アランの心配。
そしてレギュラス自身も、あの子の心が恋も知らずにいるならば、
せめてもう少し時を与えたいと思ってきた。
「誰か候補の……目ぼしい人でもいるのですか?」
そう訊ねたとたん、セレナは朗らかに笑って、首を横に振った。
「いいえ。いたら、きっと先にそっちから動くでしょ?
でもね……私はお父さまの娘なのよ?
その辺の、ちょっとした王子様くらいじゃ振り向きませんわ」
涼やかな口ぶり。自信に満ちた瞳。
からかっているようでいて、根底には「自分の価値」をしっかりと理解している重みがある。
やはりこの子は、自分の中にある“高貴”というものを、とてもよく分かっているのだ。
それを騒がず、ゆっくりと器用に使いこなそうとしている。
まったく、手強い。
本当に……ブラック家の娘だ。
レギュラスはふと視線を逸らし、書きかけの羊皮紙へ目を落とす。
そして、わずかに笑みを浮かべたまま、おどけたように言葉を落とした。
「――それならいっそ、このまま嫁には出さず、屋敷でずっと暮らしますか?」
茶化すようでいて、どこか本気の色も混じっていた。
だが、セレナは肩をすくめて笑いながら答える。
「だめよ。さすがにそれは。
ブラック家の娘が“何も成し遂げず”にこの屋敷の中にだけいるなんて、面白くないもの」
その目はすでに遠くを見ていた。
自分の未来に、明確な輪郭を持ち始めている少女の眼差しだった。
レギュラスはそれを見つめながら、ほんの少しだけまぶたを閉じる。
――この子なら、大丈夫だ。
名家の娘として生まれながらも、自らをただの装飾にはしない。
誇りを肌に纏いながら、背筋を伸ばして選ぶべき道を歩いていくだろう。
そしてその道を、きっと自分よりもしたたかに。
自分よりも、ずっと美しく。
それが……セレナ・ブラックだった。
静かな書斎に、ふたりの笑いが微かに響いていた。
年を重ねても消えない誇りと、それを受け継ぐ次世代の耀きが、
今宵、静かに重なった瞬間だった。
書斎の空気は凛としており、音ひとつない静寂がレギュラスとセレナの間に流れていた。
柔らかな灯りが石壁に反射し、長い帳が小さく揺れていた。
先ほどまでの冗談混じりの空気が、娘の口からふとつむがれた一言で、その場を不思議な緊張感へと導いていた。
「私が嫁ぐ先は……お父さまを超えようとしてくださる方でないと、」
レギュラスは眉を静かに僅かに上げた。
それは、明確な拒絶や驚きではなく――迷いだった。
その言葉の“真意”が、まだ読み切れなかった。
「…………と言うと?」
問う声は穏やかで、けれど確かに探るような響きを帯びていた。
父親として娘の気持ちを受け止めたいという想いと、頭のどこかで警戒にも似た思考がわずかに渦巻いていた。
セレナは、笑むでもなく、特別な芝居も挟まず――まっすぐに言った。
「お兄様には、レインズフォード家のイザベラ様をお迎えになるのでしょう?」
透き通るような声で紡がれるその名前には、品と知性が込められていた。
名門中の名門。由緒正しい家系。
それを持ち出した娘の言葉には、讃えるような響きと同時に、確かな自負と競うような火があった。
「申し分のないお家柄ですし、魔法の才能も気品も、何ひとつ欠けていない。素晴らしい選択だと誰もが認めるはずですわ」
そして、そこからはっきりと本音が続いた。
「それならば――私にも。それに“見合うだけ”の方を探していただきたいのです」
その言葉には、微笑すらなかった。
まなざしだけが燐光のようにきらめいていた。
レギュラスは無言のまま、娘の顔を見つめた。
美しい娘だった。
けれどその内奥にあるものは、ただの温室育ちの令嬢には決して宿りえぬ強さだった。
兄アルタイルの影に沈むつもりは微塵もないのだと、
彼女のひとつひとつの言葉が示していた。
その本質は、横並びになりたいわけでも、ただ名家に嫁ぎたいという憧れでもない。
「兄と同じならば、私も――」
そんな言葉のなかに見えたのは、それ以上の競争心であり誇りだった。
男であったならば。
あるいは、娘でなく息で生まれていたなら――
この子は、間違いなくブラック家を東西両断してでも、王座に立とうとしたに違いない。
ほんの一瞬、レギュラスの唇の端にわずかな笑みが浮かんだ。
それは嘲笑でも困惑でもなく、感服に限りなく近いもの。
――あまりにも、この家の血を濃く受け継いでいる。
父として、名家の当主として、そして長年“清廉さ”と“誇り”の帳を背負ってきた男として、
彼の中にある感情が、何重にも折り重なっていた。
今そこで、自分に求婚者の格付けを持ちだす娘は、
決して華美なドレスや宝石を欲しがっているわけではない。
求めているのは、“対等に誇り合える”立ち位置。
決して誰の影として生きないための、確固たる未来。
レギュラスは静かに椅子に戻り、背を預けて目を伏せた。
「……その辺の王子では、到底振り向かせられない――か」
ぼそりと呟かれたその言葉には、諦めでも皮肉でもなく、ごく僅かな感動がにじんでいた。
そして、再びゆっくり娘を見上げる。
「では……あなたが本当に望む未来の形を、もう少し率直に聞かせてくれませんか?」
その声は、もうただの父のものではなかった。
ひとりの“同族”として、“後継ぎ以上の才覚”と向かい合う口調だった。
セレナは一歩、躊躇なく前に進み、その灰銀の瞳でまっすぐ父を捉える。
その瞬間ーー親子に流れたのは、名門の血を引く者どうしの、静かで濃密な対話だった。
何よりも強く、何よりも美しい家名の誇りを背負った者たちが交わす、稀にしか生まれぬ真正な「継承」のはじまりだった。
晩春の陽が傾くころ、セレナ・ブラックは書斎を出たあとの長い回廊をひとり歩いていた。
石畳に伸びるその影はまっすぐで揺るぎなく、どこまでも孤高で美しかった。
彼女の中には、燃えるような感情も、優しげな夢想もなかった。
ただ静かな確信があった。
その体を、血を、名を、運命を、自分が確かに受け取っているということ――
それだけが彼女を歩かせていた。
兄アルタイルには、すでに定められた婚約者がいる。
あの高名なレインズフォード家。魔法界の中でも指折りの家柄、秩序、誇り、伝統すべてを兼ね備えた家の令嬢。
申し分のない選択だと心から思う。
誰よりも優れた兄にふさわしい、周囲が納得する組み合わせだ。
ならば――
自分もまた、それに匹敵するだけの未来を手にするべきだった。
いや、手に入れるのではない。用意されて然るべきなのだ。
自分は「選ばれる側」であり、誰とでもつり合うわけではないから。
恋も知らない。
甘い情動に身を預けたこともない。
セレナにとって、それは「無知」ではなく、むしろ「選択」だった。
恋や愛と呼ばれるものが、魅力あるものであることは知っている。
けれど、それらはあまりにも不確かで、一度誤れば人生を狂わせかねない。
……だから、知りたくないと思った。
母を、見てきた。
唯一無二であったはずの、誇り高く気品に満ちた母が――
その心の一角を、決して報われぬ思慕で埋め尽くしていたことを。
屋敷の誰も近づけなかったあの部屋で、
もう成り立たない過去に何度も指を伸ばすように、項垂れ泣いていたことを。
シリウス・ブラック。
母の想いが向いていた、あの自由な獣のような男。
決して父ではなかった。
あの、誰よりも偉大な父ではなかった。
そして、その重みを知ってなお、父は母を責めることなく、変わらず守り続けていた。
――それが、余計に苦しかったのだ。
惨めになるのは、死ぬよりも嫌だ。
セレナはそう強く思う。
ブラック家に生まれ、
誰よりも誇らしく、孤高に、その血を体に宿している自分が――
“成らぬ相手”を想って心を乱し、報われない希望にすがる――
そんな未来など、あってはならない。
愛してもいい。
けれど、その愛は尊敬の上にこそ咲くものであるべきだ。
自分が誇りを置くに値する人。
自分と釣り合うだけの能力と意志、品格、魔法の本質に至る深さを持った者だけが、
人生の隣を歩むに値する。
それ以外は、どれほど美辞麗句で飾っても、ただの甘えに過ぎない。
「目ぼしい人がいるのか」
そう訊かれた。
父も、母も、思慮深く温かかった。
けれど、その問いは、まるでどこか“よその家”の会話のように思えた。
それは庶民の言葉だ。
そこらの感情にうつつを抜かすような、名前の軽い家のやり取りだ。
セレナ・ブラックにとっては、何よりも“似合わない”言葉だった。
自らをそう語れるだけの矜持が、セレナにはあった。
それは傲慢ではない。
与えられたこの名、この家、この血。そして彼女の育ってきた沈黙と誇りの証だった。
だから思うのだ。
いつか決まるその相手は、単なる結びではなく――
運命の先にある「選」を重ねるものであるべきだと。
誇りと誇りを結ぶ契約でなくては、
この人生は終始に値しない。
扉の向こうから春風が吹き込む。
セレナは立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。
その目は凛と澄み切り、何ひとつ迷いを映していなかった。
その一歩は、愛ですらも誇りの名のもとで選び抜く――
唯一無二の“セレナ・ブラック”としての女の歩みであった。
魔法省から下された任務は、ある意味で定型的なものだった。
魔力の暴走によって周囲に被害を与えている魔法使いの制圧――ただそれだけ。
だが問題は、その暴走の性質だった。
制御不可能な魔力を抱えた魔法使い、《オブスキュラス》。
苦しみのなかで静かに壊れながら、なお存在する者。
その存在に、いまだ“救済”という手段は見つかっていなかった。
それを鎮める術はひとつしかない――命を断つこと。
レギュラス・ブラックは、その現場に立っていた。
背中には、アラン・セシールの気配があった。
彼女は今回の任務への同行を強く願い出た。
本来ならば――いや、本音を言えば、連れて行くべきではなかった。
傷が癒えきったとは言えない身体。
加えて、任務そのものが非情なものであることを、レギュラス自身がよく知っていたからこそ。
けれど、彼女は言い出したら聞かなかった。
控えめな声音の奥に、決して折れない芯を持っていることを、レギュラスは誰よりもよく知っている。
結果として、アランは彼のすぐ後ろ――指先がそっと伸ばせば触れられる距離に立ち、杖を構えていた。
敵は少数のデスイーター、そして一点を破壊されたように暴走を続ける幼いオブスキュラスの少年だった。
戦闘そのものは、レギュラスにとって難しくなかった。
合理的に状況を整理し、即座に殺気と判断を狙い一閃に収めてゆく。
その洗練された動きは、感情を一切含まないほどに淡々としていた。
だが――その背中越しに、彼女が今、何を見ているのか。
そのことが頭をよぎると、胸の奥に小さな重みが残った。
無力とは言わぬまでも、“救えなかった”命。
マグル生まれであるがゆえに疎まれ、封じ、否定し、内側で力を歪ませた子供。
まだ何者にもなれなかった存在を、ただ静かに“処理”する任務。
何も知らない者ならば、それを“必要な選択”と認識するかもしれない。
だが、彼女は違った。
かつて、命を賭してマグルの少女を逃がしたアラン。
誰ひとり知らぬ場所で、たった一人、正義よりも手を差し延べることを選んだ人。
その彼女が、今この光景を見て、何を思うのか――
それを考えずにはいられなかった。
戦いが終わり、瓦礫が静まり返る。
そこには、もう動かない小さな影が横たわっていた。
光も風も音も吸い込まれるような空白。
レギュラスは杖を静かに下ろし、呼吸を整えた。
背後に立つアランの気配が、一歩だけ近づいた。
振り返らなかった。
ただ、それでも、彼女の視線が静かに届いていた。
声もない沈黙のなかで、何かを問うように。
レギュラスは、ただ一つのことを自問していた。
彼女の目に、今の自分はどう映っているのだろう。
冷たい殺し屋か。
必要悪に徹した職務人か。
それとも――大切な何かを、守るために手を汚したただの男か。
それでも、問わずに終わるだろう。
彼女は、きっと何も言わず黙って隣を歩く。
理解はせずとも、否定だけはしない――
そんな人だということを、レギュラスは知っていた。
それでも。
彼が流した命のぶんだけ、遅れて心が鈍痛を覚える。
そしてそれを、アランの近くで感じられることに、ひどく救われてしまう自分がいることを、
誰よりも悔しいと思っていた。
風が通り抜ける――
すでに沈黙しか残らなくなった現場で、ふたりは背中合わせに、しばらく立ち尽くしていた。
魔力の余韻がまだ場に残り、空気の密度がわずかに震えていた。
焦げた草と石の匂い、静まり返った森の暗がり。
ほんの数分前までオブスキュラスの暴走が嵐のように吹き荒れていたとは思えない静寂が、重たく周囲を包んでいた。
その沈黙を破ったのは、再び現場に降り立った一人の女だった。
黒のローブが風にたなびく。
後処理部隊として派遣されてきたその姿を見て、レギュラスはほんの一瞬、時の皮肉を感じた。
まさかこんな場所で、こんな“終わり”の瞬間に、再会することになろうとは。
アリス・ブラック。
「アランさん!」
感情に突き動かされるように放たれたその声が、広がるように現場に響いた。
声の主が走り寄ろうとした瞬間、アランの背中がわずかに揺れた。
その名を、こんなふうに呼ぶ女。
昔話でも、夢でもない。今という現実で、レギュラスの傍にいる妻に、その名で呼びかける人間がいるという現実。
レギュラスは、冷えるような沈黙の中でゆっくりと振り向いた。
「これはこれは、ブラック嬢」
低く、ひどく丁寧に言葉を口にする。
それ以上、何も語るつもりはなかった。
けれど、皮肉の一つも言ってやらねば気が済まなかった。
アリスの双眸は涙に滲み、怒りと悔しさで燃えていた。
押し殺しようのない激情が、魔力とともに全身から立ち上っている。
そして彼女は、叫ぶように言った。
「レギュラス・ブラック……私は、あなたを、必ず討つ!」
その声は、悲鳴だった。 正義の名を掲げるようでいて、誰よりも傷ついた、哀しみの叫び。
マグル生まれのオブスキュラスを――
あの小さな命を、救うことができなかったという事実。
その無力が、怒りへと姿を変え、向かう先を探していた。
それが、任務を“完了”させたレギュラスに向いたこと――
この男なら止めなかった。
この男は、いつもどこまでも冷徹に“正解”を選び取ってしまった。
けれど。
レギュラスは、その叫びを、“痛み”としては受け取らなかった。
それは彼にとって、遠くの揺れでしかなかった。
静かに、そして確かな優越と冷笑を重ねるように、彼はふっと鼻で笑った。
「その弱さで、私に立ち向かおうとするとは……」
「身の程知らずにも程がある」
言葉は淡々としていた。
けれど、それ以上に研ぎ澄まされた“事実”として、彼の口から零れ落ちた。
アリスの背後で風が強まり、魔力が波紋のように舞い上がる。彼女の顔は悔しさに紅潮し、唇を噛みしめる。
カリスマでも激情でもない――
ただ圧倒的な実力の差で断ち切られる瞬間。
それでも、アリスは杖を離さなかった。
そんな彼女に、レギュラスは淡く微笑む。
「……その勇気と覚悟だけは、たしかに認めましょう」
そして次の言葉は、遺すように――
静かなる宣告を下すように響いた。
「ですが、引き際を見失わないように――」
低い声。
誰よりも冷静に組み立てられた、一人の魔法使いによる最大限の忠告だった。
風がとまり、空気が戻ってくる。
アリスはその場から動けず、声さえも返さなかった。
すべてを知りながらなお、目を逸らさず立っていたのは、彼女なりの“誇り”の証だったかもしれない。
その横で、アランは一歩も動かず。
ただ、夫とアリスのあいだに何があったのか――
静かに黙して、眼差しだけで見届けていた。
それぞれの答えが、誰の言葉も許さず、ひとつの夜に深く刻まれていく。
レギュラスの黒衣が、風を巻いて静かに揺れた。
告げられた終わりの言葉だけが、森のなかにいつまでも消えずに残っていた。
空気があまりに静かだった。
まるで音を飲んでしまったかのように、あの三人が向き合った場の気配は、ひとときの風さえも止めていた。
アリスが去ったあと、誰も何も言わなかった。
ただ、夕闇の中で、レギュラス・ブラックは横に立つアランの顔をそっと見た。
彼女の瞳には、光を湛えた涙が浮かんでいた。
流れてしまえば、いっそ楽だったかもしれない。
けれど、こぼれる寸前で止まったままのそれは、言葉以上の重さでレギュラスの胸に落ちた。
彼は何も言わなかった。
そうすると決めていたのだ。
彼女があの夜、自分の腕のなかで静かに言った――
「私はあなたと共に、何があっても正しい選択をしていきたい」
――あの言葉を信じると、選んだのだから。
だから聞かない。責めない。詮索もしない。
彼女がかつて何を守り、いま何を想っているのか、それらすべてを問わずに進むと決めた。
ただ、手だけを握った。強く、あたたかく、拒絶ではなく繋がりの印として。
けれど――その指先から、否応なく伝わってくるものがあった。
かつてアランが必死に逃がしたひとりのマグルの少女、アリス。
あの少女が、大人へと成長し、自らの信じた正義のもとに杖を向けて立つようになった。
そして彼女を育てたのは、シリウスだった。
それが意味する重さ。
アリスという存在が、シリウスの意志であり、希望であり――
そして、いまだにアランの胸に残る“何か”そのものかもしれないという予感が、
握った手の温度の奥に静かに脈打っていた。
理解したくなかった。
けれど、わかってしまった。
見ようとせずとも、触れた体温から、言葉にされずとも、
その“痛み”ばかりが、恐ろしいほど鮮明に届いてきた。
でも、それでもレギュラスは、指を離さなかった。
過去の想いが残ることを許せるわけじゃない。
しかし、それすらもすべて彼女の中に受け入れて、
それでも今、自分を選んだ手のぬくもりを――信じようと決めたから。
沈黙の中、アランがそっとこちらを見あげる。
涙はまだ、瞳の縁に馴染んだまま。
レギュラスはただ、目を細めて静かに頷いた。
その視線はまるで、「わかってる。わかってるから……それ以上言わない」と告げるようだった。
アランの指が、わずかに強く彼の手を握り返した。
言葉など、もう何もいらなかった。
信じ、背負い、選び抜く。
そうしてふたりで重ねていく未来が、どれほど静かで険しくても——
今はただ、この手を放さぬ限り、それでよかった。
レギュラスはその想いを、心の奥にそっと抱きしめるように、目を閉じた。
夜が豪奢に華ひらく頃――
ブラック家の広い晩餐の間では、温かな光が細やかな銀器に揺れ、すでに多くの賓客たちがざわめきとともに集い、煌びやかな夜の幕開けを迎えていた。
セレナ・ブラック、十二歳。
その誕生日を記念する宴が、父レギュラスの名によって正式に催された。
一歩、フロアへ踏み出す前の控えの間。
アランはそっと娘の横顔に目を向けた。
額に宝石が添えられ、肩を撫でる黒髪は丁寧にまとめられている。
セレナの着るドレスは、今までのどんな日よりも華やかで、それでいて決して派手ではなく。
その布地の奥に、堂々とした血統の影と、少女の端正な精神が織り込まれていた。
アランは、小さく微笑んだ。
「緊張してますか?セレナ」
問いかける声には、母としてのやさしさよりも、どこか問いを請うような思いが滲んでいた。
娘がどのようにこの夜を迎えるのか、それを知りたかった。
けれど、セレナは迷いなくほほえんだ。
「いいえ。お父さまが、わたしのために用意してくださったお祝いですもの。
……恥じないようにしたいわ」
その言葉の響きは、まるでダイヤモンドのように揺るがず澄んでいた。
アランは静かに目を伏せた。
――強い子だ、と思う。
凛としていて、真っ直ぐで、それでいてどこか楽しむ余裕すら見せている。
どれだけの視線や期待がこの夜に向けられていても、内なる芯がふらつく様子は微塵もなかった。
父レギュラスを思わせる毅然とした姿。
ゆらぎ、迷い、感情と記憶の海に呑まれたこともある自分とは違う、その確かな足取り。
その孤高の強さは、まぎれもなくブラックの血がなせる気高さだった。
だから、ほんの少し、ほっとした。
この娘が、自分にはない強さを受け継いでくれたことに。
「お兄様!」
会場へ向かおうとしたその時、セレナが明るい声を上げた。
目前に、アルタイルがいた。
背筋を正して黒の正装に身を包んだその姿に、
今夜とても美しい妹が、一層の輝きをまとって声をかける。
「今夜のわたくし、いかがですか?」
首を傾げて、答えを促すその仕草は、無策の愛らしさではなかった。
ほしい言葉をきちんと手元に引き寄せるだけの、可憐な狡猾さ。
それは、まさしく “セレナ・ブラック”らしい妙味だった。
しかし、兄は――その変容に、ほんとうに目を見張っていた。
面差しを大人びさせ、紅を差した唇と聡明な目元が、いまや名家の令嬢としての格式と美しさを語っていた。
「……とても綺麗ですよ、セレナ。
どんな御曹司も、きっと心を奪われます」
少し照れながらも真摯に贈られた兄の言葉に、
セレナは満足げに笑った。
そのやり取りをそばで見守っていたアランの胸に、じんわりと静かなものが広がった。
ふたりの間にある健やかさ。
支え合うように、敬い合うように在る兄妹の距離が、何よりも誇らしくて、美しくて。
そして、思った。
――この子たちは、レギュラスが自分に与えてくれた命だった。
迷いなく強く、まっすぐに生きるふたりの姿は、
まるで世界の中にそっと灯された純粋な光のように思えた。
アランは、グラスをそっと手に、遠く会場の入り口に見えるレギュラスの姿を見つめた。
ありがとう、あなた。
その横顔に言葉にはしない感謝を込めて、小さく息を吸った。
この夜が、ふたりの子への祝福であると同時に――
静かに続いてゆく家族の物語の、ひとつの光になることを願って。
扉が開かれる。
セレナ・ブラック――
その名にふさわしい、輝きと未来をたずさえて、誕生日の祝宴が幕を開ける。
宴のさなか、煌びやかなシャンデリアの光が広間に瞬いていた。
そこに浮かび上がるようにして、セレナ・ブラックの存在があった。
まるで自然と、磁力でも宿しているかのように――
国中の名家から集まった御曹司たちが、彼女のまわりを埋めるように囲んでいた。
その中心で、セレナは少しも臆せず、正しい距離感を保ちながらほほ笑んでいた。
否――笑って“使い分けて”いた。
その姿は、姫、という言葉では足りないほどに、品に満ち、主導権を握る輝きを放っていた。
それは、混じりけのない誇りそのものの輪郭だった。
「……セレナを見ていると、まるで――」
アランがふっと息を吐く声で言った。
「まるで、少女になったあなたを見ているようです」
隣に立つレギュラスが静かに微笑む。
彼の視線もまた、センターのドレスのなかに立つ娘を、少し距離をおいて見つめていた。
「ええ。中身は……あまりにも僕に似ています」
「自分でも驚くくらい、きれいに」
その声音には、湧き上がるような誇りと、どこか諦めにも似た感情が混ざっていた。
アランはこっそりと、ひとつ小さく頷いた。
思えば、セレナはアルタイルのようには育てられなかった。
第一子である彼には、早くから多くの視線が注がれた。
将来の家の柱として、あらゆる期待と誉れが向けられていた。
それは当然で、彼が「望まれて生まれた男児」であったからだ。
対してセレナは、比較的静かに、父と母によって“守られるようにして”育てられた。
世間に名前も姿も、過度に晒すことなく、品と節を大切に保ちつづけながら。
その育て方が雑だとは、思いたくなかった。
けれど、ほんの少し昔――
誰の目にもつかないように遠ざけられていく娘の背に、
ほのかな悲しみを感じることがあった。
この子の可能性を、誰かが「女」だからというだけで勝手に決めてしまわないか、と。
でも、それでよかったのかもしれない。
騒がず育てられてきたからこそ、真っすぐに灯しきった“誇り”が、
いまひときわ、美しく耀いているのだから。
「……けれど」アランは思わずつぶやいた。
「どうして、急に……宴を?」
レギュラスは肩越しに、少し困ったように笑みを洩らして答えた。
「セレナに、頼まれたんですよ。
兄アルタイルに並ぶ御曹司を自分にも用意してくれって」
その答えには、背筋が凍るような衝撃があった。
「……そんな話を……あなたと?」
驚きが追いつくより早く、アランは思ってしまった――
その話を、母である自分が初めてここで知るという現実に。
胸がゆっくりと、痛みに絞られる。
セレナが、何を大切に生きているのか。
何を望み、どんな選択をし、どんな立場で未来を見ようとしているのか。
それを――知らなかった。
自由とか、愛とか。
この娘もきっと、そういうものを求めていつか揺れるのだろうと、
どこかで勝手に想っていた。
でも、違った。
彼女はもっと早く、もっと奥深くに、“自分というもの”を確立していた。
セレナの中にあるのは、自由よりも“尊厳”だった。
家の名、家の誇り、そして自分自身が持って生まれた高貴さ。
それが揺らいだり、誰かに値踏みされることは、彼女にとって“侮辱”でしかないのだ。
だから彼女は、“自由な相手”を選ぶのではなく、
自分に値する者だけが、その隣に立てるという在り方を、迷いなく選択している。
それは、アラン・セシールの生き方とはあまりにも違った。
心が優先するまま、感情に苦しみ、愛に迷いながら生きてしまった母とは――
重なるどころか、正反対に進もうとする道なのだと思った。
その誇り高さが、眩しかった。
凛としていて、どこか手の届かない光だった。
けれど、アランの胸の奥に、不思議とあたたかなものがゆっくり湧き上がっていく。
あの娘は、そういう子なのだ。
そうであってほしかった。
かつて守ることしかできなかった自分の代わりに、
誇りを掲げて歩ける、誰より強い娘。
その強さを知った今、母として不甲斐ないという想いよりも、
むしろ底知れぬ「ありがたさ」と「愛おしさ」で、胸が満たされていた。
この子が、自分の娘で、よかった。
その隣に立つ兄と、そのすべてを受けとめた父を見ながら――
アランは、袖の内側でそっと手を結び、小さく祈るように目を閉じた。
どうかこの娘の未来が、
誇りにおいて決して曇りなく照らされますようにと。
賑やかな室内楽が響く宴席の片隅――
石造りの柱の影、さりげなく静けさの集まる場所に、親子三人の影が集まっていた。
アルタイル・ブラックは、ほどけるような柔らかい笑みを湛えて、現れた。
微かに紅茶の香りが残る空気をまといながら、姿勢の良い歩き方で、すっと父と母のもとへ近づいてくる。
「父さん、母さんも、セレナを見ましたか?」
そう問いかける声には、少しわざとらしく自慢げな含みがあって、しかしそれがまた、穿ったところのない親しさだった。
その響きには、兄としての誇りが、ごく自然に滲んでいた。
妹を賞賛することに何の迷いもない。
愛情も、称賛も、何ひとつ隠さず。
現実をただ肯定するように告げる兄のまなざしには、もう“少年”の影はなく、どこまでも頼もしい“統率者”としての矜持があった。
レギュラスは静かに微笑みながら、目を細める。
「ええ……あの子は本当に、強くて美しい子です」
そのひと言には、父としての深い愛情と、
それでもどこか娘を“独立した一人の魔法使い”として見ている理性のような境界線があった。
アルタイルはそれを聞いて、ふと顔を少し傾ける。
「父さんみたいですよ――セレナ」
その言葉に、アランはわずかに目を細め、息を呑むほどではない感情が、小さな波紋となって胸に広がった。
セレナを語るとき、自分の名前は一度も出てこなかった。
けれど、それが寂しいとは思わなかった。
むしろ――面白い、とさえ思えた。
あの娘は、やっぱりレギュラス・ブラックの娘なのだと。
生まれながらにして呼吸のように正しさと誇りをまとい、誰にも屈せず真っ直ぐに、理性と意志の上に歩くあの姿。
そこに“ アラン・セシール”の色は、意外なほど感じられない。
淡く、線を引いたように、世界を違える距離にある娘。
そんな不思議な繋がりさえ、今日という日は妙に愛おしく思える。
「ドイツやフランスからも……御曹司を招いているんでしょう?」
会場の様子を見渡しながら訊ねるアルタイルに、レギュラスは口元をわずかに緩ませた。
「ええ、いずれ近い将来――諸外国が、このブラック家の…そうですね、〈領土〉になる日も近いかもしれません」
冗談交じりに告げる父の声音に、アランも思わず笑う。
それはただの大言壮語ではなかった。
セレナが、今やその可能性さえも現実として思わせる力を持ちつつある、という確かな実感がそこにあった。
遠目に――
美しい月光色のドレスに包まれたセレナは、
言葉も仕草も、まるで舞うように洗練されていた。
ドイツの名家の跡取りとフランス貴族家の嫡男。
それぞれが異なる言葉で問いかければ、各国の言葉を使い分け、流れるように答える娘。
あの子は、国境も家名も選ばない。
選ぶのは、常に〈自分にふさわしい相手かどうか〉だけ。
――誇らしかった。
ただそれだけだった。
今までは、こうした場が、緊張や不安で胸を落ち着かなくさせたものだった。
けれど、今夜は違った。
誇りと誠実な知性が、光を纏って踏みしめる姿を眺めているだけで、
その生まれてきた意味に、胸がいっぱいになった。
アランはそっと、レギュラスの左手に自分の指先を重ねる。
知らぬうちに、自然とそうしていた。
レギュラスは顔を動かさずに、その手に微かに力をこめて応えた。
――このふたりが命を繋ぎ、生まれてくれた子どもたち。
その源にいくつもの痛みがあっても、いま確かに、〈美しさ〉と〈誇り〉として形を成している。
そんな真実を、この夜は静かに教えてくれていた。
この瞬間だけは、どんな呪いにも届かせたくないほどに、幸せだった。
宴も深まり、室内の灯りが夜の重さを優しく受け止める頃。
音楽はより柔らかな音色をまとい、客人たちの声もどこか落ち着いた余韻を纏い始めていた。
そのなかで、アルタイル・ブラックは、妹セレナの姿に目を細めていた。
光の中心で微笑み、言葉を交わし、世界を引き寄せるように立つ彼女。
その強さ、美しさ、気高さ。
それらはまぎれもなく誇らしく、自分の妹であることに、胸がきゅうと痛むほどだった。
けれど、それ以上に――
ふと視線を向けた先。
両親が、並んでいた。
白く長いテーブルの傍、あるいは石柱の影を回るたびに、レギュラスとアランの姿が変わらず肩を揃えて現れる。
それが、たまらなく微笑ましく映った。
レギュラスはアランの腰に、控えめにけれど迷いなく手を添え、
アランはふいに背をのばして耳元に顔を寄せ、なにか小さな――ふたりだけの言葉を囁いていた。
まるで、ほんとうにはじめて愛し合っているかのように、
どこにも滲まない、静かな「ふたり」の世界がそこにあった。
この頃、屋敷に戻るたびに感じていた。
両親の間にかつて在った微細な隙間――
距離ではなく、温度でもなく、触れようとすると退いてしまいそうな、あの繊細な“空白”が、目に見えない静けさで埋まってきていることを。
それが今夜、誰の目にも確かな情景として現れていたことに、アルタイルはただ、心の底から安堵していた。
思えば、幼いころから抱えていた小さな痛みがあった。
父は、母を深く思っていた。
それは“情”の域をとうに超えた、どこまでも真っ直ぐで、時にどこか狂おしいとさえ思えるほどの愛。
けれど――母の眼差しは、それを真正面から受け取らずにいた。
いつも少しだけ遠いものを見ていた。
その向こうにいたのは、シリウス・ブラックという男だったことを、アルタイルは子どものころから、何となく知っていた。
知ったことを、誰かに告げようと思ったことはない。
けれど、それが心の奥でひとつの影を落としていた。
自分という存在、そして妹という命さえも、
“誰かの我慢と忍耐”の上に成り立っているような気がしていた。
幼いながらに、それはいつも身体の奥を冷やした。
揺るがぬ誇りを胸に持てるはずの家庭という場所が、
どこか不確かな礎にのっているのではないかと思わせた。
けれど、いま――
二人は、誰にも邪魔されず、ただ寄り添っていた。
父が微かに母の背に触れるその手は、
所有でも拘束でもなく、ただ、導きも護りも担う優しさで添えられていた。
母は遠いどこかではなく、きちんと“隣”に在る人へと顔を向けていた。
時折耳打ちするように口を寄せ、
それに応じる父の口元に、穏やかな弧が静かに広がる。
それらはとても些細なことのようで、けれど今まで見たどんな家族の姿より、“ほんもの”に見えた。
アルタイルはゆっくりと目を伏せた。
今、確かに思う。
あのふたりのあいだには――かつて言葉では語れなかった“愛”というものが、
時間を越えて、静かに芽吹き、育まれ、いま、こうして“証明”されているのだと。
それ以上、何も要らなかった。
その姿ひとつで、自分が生まれてきてよかったのだと、はじめて深く思えた。
この夜を包む音楽が優しく流れるなかで、
息子として、ただ心から――
あのふたりの幸せを、祝福していた。
