4章
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晴れた日の大広間は、天窓から降る魔法の陽光に照らされ、暖かな色に満ちていた。
長テーブルの上には大小さまざまなパンや果物、スープが整然と並び、あちらこちらから笑い声と談笑が響いている。
そのなかで、アルタイル・ブラックは一つの役割を担っていた――というより、そう在るべきだと自然に受け止めていた。
「お兄様、あのあたりにあるパン……、食べたいです」
淡く微笑みながら言ったのは、妹のセレナだった。
白い制服に身を包み、膝の上に手を揃えて控えめに座っている。
声にわがままは滲んでいない。それでも、兄であるアルタイルにとって、それは即座に動くに値する小さな願いだった。
「少々お待ちを」
柔らかく返して立ち上がり、パンの置かれたバスケットに向かって歩き出した。
その中間あたりで――彼女はいた。
アリス・ブラック。
防衛術の補佐としてホグワーツに滞在している、教師でもあり、シリウス・ブラックの養子である女性。
正規の教壇ではない補助者の立場でありながら、凜とした立ち姿にはどこか目を引く気配があった。
まさか、その場で視線が交錯するとは思わなかった。
すれ違う寸前、アリスが振り返るようにして歩き出すタイミングと、アルタイルが道を譲るように脇に避けるタイミングが重なった。
その瞬間、ふたりの視線が真っ直ぐに交わる。
一拍の静止。
アルタイルは、咄嗟に丁重に頭を下げた。
挨拶というより、何かもっと深い“けじめ”のように――礼を尽くしているようだった。
アリスは驚いたように眼を見開き、そのまま目を逸らさず、アルタイルのことを凝視した。
沈黙のなかに、何かを静かに確かめるような眼差し。
それに気づいたアルタイルは、何も言わないことの方が不誠実に思えた。
だから、言葉を選びながら口を開いた。
「……先生。アルタイル・ブラックです」
一歩踏み出し、右手を丁寧に差し出す。
握手を求めたその仕草には、どこか礼節に満ちた“応答”の意思が込められていた。
アリスは差し出された手を見て、まるで異なる風景を見ているように一瞬だけ固まった。
揺れも、拒絶もないのに、何かを深く探しているようで――彼女の指先は扇のようにわずかに動きかけた。
そのとき、後ろから軽やかな足どりと声が届く。
「お兄様、パンはまだです?」
にこやかに、笑うようにそう言って現れたのはセレナだった。
彼女はまっすぐアリスとアルタイルの間に近づき、視線を交わすふたりの様子を一瞬だけ不思議そうに眺めた。
それから兄の姿を見て、はっと何かを感じ取ったのだろう。
彼の姿勢に倣うように、アリスへ向き直って、明るく自分を名乗る。
「こんにちは、先生。セレナ・ブラックです!」
その言葉は、どこまでも天真爛漫だった。
小さく、けれど柔らかく手を差し出すその動作は、まるで“兄の真似をしなければ”と律する気持ちが込められているようでもあった。
アリスはその視線に完全に飲まれていた。
――目の前にいるのは、あのレギュラス・ブラックの、“ふたりの子供”。
名を受け継ぎ、血を受け継ぎ、何一つ濁らず、自信に満ちた澄んだ光を持った、ふたり。
そして、彼らは今、目の前で当たり前のように手を差し出して、笑いかけてくるのだった。
「……は」
微かに、言葉にならなかった吐息がアリスの喉を震わせた。
頭の中に空白が生まれたような感覚。
言葉を返さなければ、手を取らなければ――と思うのに、身体がどう反応すべきか迷いの中にいた。
アルタイルの目。
セレナの笑顔。
どちらにも、敵意はなかった。
けれど、彼女が抱えてしまった記憶と感情は、ひとつ返事で消えるような単純なものではなかった。
気まずさが、空気を微かに冷たく染めていくなかで――
アルタイルは、ただ静かに立っていた。
彼自身も、この空気をどう割って良いかを迷っていた。
彼らの間に流れているのは、言葉にならない何かだ。
ただの挨拶や、名乗りのための握手では済まされないほどに、何か深く、複雑なものがそこにあった。
そして、彼はその“何か”に気づいていたからこそ、
――ほんのわずかに、息を詰めていたのである。
アリスは、差し出されたアルタイルの手とそれに続いて伸ばされたセレナの小さな手を交互に見つめていた。
その瞳には、明らかに困惑――いや、動揺すら浮かんでいた。
丁寧に差し出された手は、ただの礼節ではなかった。
それ以上のもの――壁を越えようとする誠意と、
血筋という揺れにくい境界線に触れながらも、自らの名前を正しく届けようとする正当な意識が、そこにはあった。
なのに、どうして、自分はこんなにも戸惑っているのだろう。
手を取らなければいけない。そう思った。
教師として、秩序を守る者として、それは当然の応答だった。
けれど、心が追いつかなかった。
目の前にある名前“ブラック”。
あの人の子供たち。
セレナは、何も知らない無垢な目でこちらを見つめていた。
けれどその純粋さが、じわりとアリスの胸に沁みて痛かった。
ああ、この子たちは、
これからもきっと、全き「家名」の中で育っていくのだ。
守られ、讃えられ、疑うことなくその深い血筋を“誇り”として歩んでいく。
そしてその軌跡に、自分は決して、影すら足跡として残すことはできなかった。
――そのことに、思いのほか、胸が軋んだ。
けれど――その場に沈黙を長く残すことはできなかった。
アリスは軽くまばたきをして、感情を押し込めるように呼吸を整えた。
そして――表情を持ち上げるようにして、ゆっくり手を差し出す。
まずはアルタイルへ。
彼女の手が触れた瞬間、アルタイルの掌はほんの僅かに温かかった。
“敵対”でも、“敬遠”でもなく、たしかに血筋を理解した者同士の深い節度の上に置かれた礼だった。
「……はじめまして、アルタイルくん」
言葉は硬くなく、むしろそっと、砕けるようなやわらかさがあった。
そして、次にそっとセレナの方へ視線を移す。
少女の左右に揺れる黒髪が、小さな月光の粒のように揺れた。
「こんにちは、セレナさん」
今度は、微かに笑うように――けれど確かに、微笑みだった。
セレナはぱっと顔を明るくさせ、しっかりと彼女の手を握った。
まるで何か嬉しいことを見つけたかのように。
ほんの短い数秒のやりとり。
けれど、そこにはいくつもの感情が、表に出ぬまま渡されていた。
アルタイルにとっては、どこまでも複雑な空気だった。
礼を交わすだけのはずが、
そこに絡んでいた数多の想いに、
自分自身が一歩踏み入れてしまったのだと、どこかで悟っていた。
しかしだからこそ、彼は静かに、
アリスという人物に向けて、目に見えない敬意を抱いた気がした。
差し出された手は――受け取られたのだ。
不器用でも、傷だらけでも、それは確かに伸ばされた想いとして届いたのだから。
「パンを、お待たせしましたよ」
アルタイルは、そう言って初めて声に微笑みを乗せた。
セレナは「ありがとう」とにこっと笑い、ようやく兄らしい穏やかさが兄妹の間に戻ってきた。
アリスは二人の背中を見送りながら、手に残る温もりを、そっと指先でなぞった。
それはまるで、過去でも未来でもない、
「今この瞬間」だけに灯った、ささやかな灯火のようだった。
大広間を出たあとも、石畳の廊下にはまだ、昼食のざわめきの余熱が残っていた。
空は冬の光をうっすらと抱き、窓の外では冷たい風が通り抜けようとしていたが、アルタイルとセレナの歩みはいつもどおり穏やかだった。
兄妹は並んで歩いていた。
時々会話を交わしながら、それでもお互いの呼吸を把握するように同じリズムを刻んでいる――そんな自然さだった。
「ねえ……さっきの人、あの人がアリス・ブラック?」
セレナがぽつりと口にした。
柔らかな声だったが、言葉にはどこか鋭敏な観察眼が宿っている。
名を知っていたことに、アルタイルは内心驚いていた。
「……先生ですからね、セレナ」
嗜めるように言いながらも、その目は妹を横目にそっと見ていた。
どうして、彼女がアリス・ブラックの名前を知っていたのか。
父はアリスについて、何も語らない。
けれども、妹は知っていた。しかも、一目で彼女を“それ”と見抜いたのだ。
アルタイルの心が、静かに波打った。
セレナもまた、自分と同じようにアリス・ブラックという存在に
どこか理屈のつかない、形にならない感情を持っているのではないか――
そんな予感に似た感覚があった。
「お父さまと対立しないと良いわね、あの方」
セレナの言葉は、ごく飄々としていた。
けれどその中には、奇妙な正確さと含みがあった。
「……別に、接点もないでしょうし、大丈夫じゃないですかね」
アルタイルは淡々と返したが、内心では少しだけ釘を刺された気持ちだった。
「でも何かの拍子で会ったりしたら、杖を向け合いかねないと思うわ」
さらりとした声音。
怖いことを何でもないように言ってのける、セレナらしい無邪気さ。
けれどその裏にある想像力の鋭さに、アルタイルは一瞬言葉を失った。
「……恐ろしいことを言うもんじゃないですよ」
ようやく口にした声には、わずかに苦笑が混ざっていた。
「だってお父さま、潔癖でしょう?
ああいうの、絶対に許すはずないもの」
セレナは小さく肩を竦めた。
そう言ってから、廊下の先にある陽だまりに目を向ける。
その横顔が、あまりにもさらりとしていて――だからこそ、真実味があった。
アルタイルは黙って頷いた。
セレナの口ぶりはあっけらかんとしていて、どこか子どもらしくさえある。
けれど、彼女は本質をたまに驚くほど深く見抜く。
まるで、ひとつも迷わずに目的地へ杖を向けるように。
その観察力と直感には、時折ぞくりとするほどの鋭さがあった。
アリスという名前すら出したことのない父に対して、
「それでも、あの人は絶対に許さないはず」と言い切ったその目は、どこまでも真っ直ぐだった。
それが事実であることを、アルタイルは否定できなかった。
「……羨ましいですね、セレナは」
ポツリと落としたその言葉に、セレナが首を傾げる。
アルタイルは微笑みをこぼしながら、そのまま続けた。
「何かを考えるより先に、見るべきものがちゃんと見えている。
そんなふうに言葉が出てくるの、僕には到底できないので」
セレナはくすくすと笑った。
「兄様が考えすぎるだけです」
返ってきたのは、何の悪意もない――けれど非常に的確な言葉だった。
冬の廊下を渡る光は、窓辺の石に反射して、やわらかく兄妹の足元を照らしていた。
その光の中でふたりの影が静かに並び、言葉以上の繋がりを携えながら、前へと歩いていった。
大広間の中央。
魔法の光が天井から柔らかく降り注ぎ、生徒たちの笑い声がこだまするそのなか――
アリス・ブラックは、小さな気配の変化にふと振り返った。
彼女が目を向けた先に立っていたのは、
ひとりの――けれど、ただのひとりではない――少女だった。
セレナ・ブラック。
漆黒の光をほどくように柔らかく揺れる髪、
明るさと天真爛漫さを包み込んだような無垢な笑顔。
けれどその瞳に、アリスは出会った瞬間、息をひとつ飲んだ。
あの目。
まっすぐ、真正面から、何も纏わずにこちらを見ていた。
けれど――その内側で、何かを冷静に図っている気配が確かに在った。
無意識のうちに向けられた視線ではない。
“誰といるべきか”“何を言うべきか”“なにを感じられても構わないのか”——
それらをすでに見透かし、納得した上で表情を選んでいるような眼差しだった。
明るくて、あどけない。
けれどその微笑みに、どこか取り返しのつかないほどの“選別”の鋭さが潜む。
あの少女は、ただの愛される存在ではない。
いざとなったら、もっとも正しい道を選んで、必要とあれば誰よりも冷徹に切り捨てることもできてしまう――
そんな選択の重さに耐えうる覚悟を、その小さな背中はすでに持っている。
その確信を抱かせるだけの“何か”が、あの目にはあった。
それは、間違いなくレギュラス・ブラックの目だった。
灰色の瞳。
けれど、それは決してシリウスの光とは違った。
同じ色に見えて、まったく違う。
レギュラスの瞳は、濁らないままに奥で渦を巻き、
冷たく、静かに、世界の輪郭を選別していく。
セレナの瞳は、その在り方によく似ていた。
あの人の血が、確かに引き継がれている。
アルタイルもそうだった。けれど、セレナはあまりに鮮やかに、それを隠さない。
それはかえって、無垢な仮面を纏った“別のレギュラス”のようにすら思えた。
アリスは、ぞくりとした。
肌を這うような寒気ではなく――心のもっと芯の方へ、音もなく触れてくる冷やかな手つき。
まさか、こんなに若くして。
もう、ここまで“似る”ものなのか。
けれど、ひとつだけ――
アリスの胸を締めつけたその想いがあった。
セレナにも、アルタイルにも。
そのどちらにも、アラン・セシールの面影が不思議と見当たらなかった。
あの人がもつ、あたたかく包み込むような、
色彩を宥めるように柔らかく広がる魔力の在り方。
言葉よりも静かな慈しみの重なり。
それらはどこにもなかった。
子どもに受け継がれるはずのその柔らかさが、跡形もなく消えていた。
まるで、レギュラス・ブラックという圧倒的な存在が、
彼女のやわらかい色をすべて塗りつぶしてしまったかのように。
思わず、アリスの胸に、静かな悲しみのような感情が広がった。
アランは――
たしかにその人生に差し出したものが多すぎた。
その寄りかかる先が、今の娘と息子の姿へとつながっているのだとすれば。
こちらへ背を向けて幸せになった女性の姿が、
いま、強い純血の結晶として形を成しているのだとすれば。
もう、取り戻せるものなど、最初からなかったのだと。
アリスは微かに目を伏せ、
自分の手のひらに残っていたはずの、さっきの握手の感触をそっと思い返した。
あの瞬間に触れた“未来”の輪郭は、静かに遠ざかっていくように思えた。
石畳を歩くリズムが、冬の冷たい空気のなかに柔らかく響いていた。
日の影が差す廊下の角に差し掛かったところで、セレナ・ブラックはそっと立ち止まる。
手にしていた古代魔法史の書を閉じ、思考の続きを静かに心の奥に沈めていた。
彼女の内では、あるひとりの人物の名が今日も小さな波紋となって揺れていた。
アリス・ブラック――
ホグワーツでその姿を目にした日のことを、セレナはよく覚えている。
兄の隣に立ち、明るく天真な顔で、ごく自然に教師としてそこに在った女。
けれど、セレナにとっては、彼女は“ただの先生”では到底なかった。
現れる前から、名前は知っていた。調べていた。
なんの因果か、ブラックの名を持つ者のひとりとして、知っておかねばならないと思ったのだ。
マグルの家に生まれ、
なにもしなくても自然と与えられる“魔力”の祝福など受けずに育った少女。
けれど、なぜか“ブラック家”の名を冠している。
当然ながら、血縁があるわけではない。
養子として迎えられただけ。
あのシリウス・ブラックに手を引かれ、名を与えられ、
記録に残る歴史にも、重鎮の名簿にもその姿が刻まれるようになった。
それでも、彼女は“ブラック”と呼ばれている。
マグルであることを、とくに否定したいとは思わなかった。
そんなこと、わざわざ声を大にして言うようなことではない。
そもそも、自分たちは比肩などされ得ない場所にいる。
ブラック家は、純血一族の中でも際立って古く、由緒ある血統。
そこにセシール家の血が加わって、自分たちは生まれてきた。
その“血筋”というものは、積み重ねられた歴史が終わりなく続く魔力の流れであり、
それ自体が尊い。比べる必要さえないのだ。
それでも――
彼女の名に“ブラック”という言葉があるたびに、わずかに胸が揺れる。
たかだか偶然、たかだか情にすぎなかった繋がりで、
その重い名を背負っているということが――
まるで“誰にでもなり得る”かのように錯覚されていく構造そのものに、納得がいかなかったのだ。
それは差別ではない。
ただ、線引きにすぎない。
マグルの世界にも優れたものはあると知っている。
魔法がない彼らの文明は、ある意味では魔法以上に魅力的なものさえ持ち合わせている。
だからこそ、その“素晴らしさ”が魔法と融合していく未来には夢を見る。
けれど、“混ざり合う”ことと“混じりきってしまう”ことは違うのだと、彼女は強く信じていた。
曖昧にしたままにすることで、削り取られていく側の重さを知っている。
純血の魔法使いとして生まれてきたことは、ただ運命ではない。
選ばれ、継がれ、守られてきたものだ。
セレナは、その流れの果てに自分が在るということを、
誇りとして、信じているからこそ――譲れなかった。
アリス・ブラック。
彼女が尊敬に値する人物であることを、セレナ自身も理解している。
不死鳥の騎士団の一員であるという経歴、シリウスの片腕として育てられ、いくつもの現場に立ってきたこと。
それでも――その生き方に、どんな信念があったにせよ。
「ブラック」の名にふさわしいかどうかは、
ただの記録や功績では測れないと、セレナは思った。
そして、父はたぶん――
そのことを誰より静かに、深く、認めていないのだろうと、
言葉ひとつなくとも、彼の背中が教えていた。
セレナはそっと歩き出す。
巻物が揺れ、光がその髪に反射してきらめく。
その足取りは明るく、周囲には何の影も落とさない。
けれど胸の奥では、ごく静かに、自分が持つ“立ち位置”の冷たい感覚を、
確かに誰より知っている少女を――彼女自身が認めていた。
冬風に吹かれて舞う黄の落ち葉が、まだ人けの少ない中庭に音もなく散っていた。
静かな午後だった。ホグワーツの石造りの階段をひとり歩きながら、セレナ・ブラックは、胸の奥に深くしまい込んできた記憶にふと触れていた。
母、アラン・セシールのこと。
兄と違って――
自分は、母にあまり抱かれることのない幼い日々を送ってきた。
思い返しても、柔らかな膝の上で笑った記憶や、眠る前に読んでもらった童話の音色は、どこか他人の夢の中のようで、指先の実感に乏しい。
記憶の中の母は、いつも静かにベッドに伏していた。声は優しいのに、触れ合いが妙に薄く遠かった。
けれど、セレナはそれを恨もうとは思わなかった。
二人目の子供である自分を産み落とすとき、母はその命すら危ぶまれるほどに身体を痛めたのだと、ずいぶん大きくなってから教えられた。
「お前は……命がけでこの世に来たのですよ」
そう言ったのは父だった。
その声がどこまでも静かで、けれど濃密な想いが滲むように深かったのを、セレナはまだ忘れられない。
兄も同じことを口にしていた。
母がどれほどに身体を削って、自分の命を繋ぎ、この世に送ってくれたか。
だからこそ、セレナは感謝していた。
無言の頑張りで、ただ生まれてくることを許された命に。
自分という存在を、最初から支えていた見えない手に。
けれど――そこまでして生きて、自分を産んでくれた母を――
どうしても“理解できなかった”ことが、ひとつだけあった。
それは、母が――おそらく一度も、父を愛さなかったということ。
そのことに気づいた日のことを、セレナは今でもはっきりと覚えている。
胸が張り裂けるような痛みだった。
これほどまでに偉大で、孤高で、そして尽くしていた父を。
あの誇らしい気高さを纏う人を。
誰よりも、母を守っていた唯一の男を――
母は、心の奥底のどこかで、
その優しさにただ感謝をしても、
“恋してはいなかった”のだと。
ふたりの関係には、どこかいつも隙間があった。
静かな距離、対話のなさ、触れ合わない視線。
まるで壊れてしまうと分かっていながら、それを修理することを誰ひとりとして敢えて選ばなかったような――繊細すぎる沈黙の時間が、家中に敷かれていた。
幼い自分がその温度を感じていたことすら、誰も気づいていなかったけれど、
セレナはずっと、その脆さとともに暮らしてきた。
だからこそ、いつしか“明るく、朗らか”な《ブラック家の姫》を演じる術を、自然と覚えていった。
悲しみを誰にも見せぬように。
この家のどこにも、哀しみの匂いを漂わせたくなくて。
だったら自分が、すべてから目を逸らす光になればいいのだと。
兄が背筋を真っ直ぐにする横で、自分は日差しのようにいればよかった。
けれど……それでも。
真実は、どこにも姿を隠してなどいなかった。
母アランは――
愛していたのは、シリウス・ブラックだった。
それは確信に近かった。
引き出しの奥にしまわれた、古びた写真。
たしかにそこに写っていた、若き日のシリウス。
微笑んでいた――けれど、その光景よりもずっと深く胸に刻まれているのは別の記憶だった。
母がときおり、深夜――誰にも知られぬ書斎に入り込んでいた。
父ですら開けぬようにしていた、かつての“禁忌”の空間。
あの重い扉の向こうで、何度も、何度も押し殺すように泣いていた姿を、セレナは見てしまっていた。
幼すぎて理解できなかったその涙の意味が、
年月を重ねるほどに鮮明になっていったとき――
それは、まるで自分の心そのものの根が裂かれるような痛みに変わった。
美しい父。
正しさの中に佇む母。
そして、その間に存在した“決して届かない本当”。
セレナの胸には、今でも確かなひびが残っている。
けれど、同時にそういう地層の上に立っている自分を、
どこかで静かに、誇りにも思っていた。
明るさの奥で、本質を見抜いていく瞳を持つのはきっと、
そうやって幾度となく、誰よりも真実に触れてきたから――
彼女は、それを誰にも知られないように笑っていた。
シリウス・ブラックとは、いったいどんな人なのだろう――。
セレナ・ブラックがその問いに引き込まれるようになったのは、おそらく、心のどこかで母という存在を正しく理解しようとしていたのかもしれない。
そうせずには、何かがずっと心に棘のまま、残り続けると知っていた。
けれど同時に、自分では見たくない領域でもあった。
母が心の底で愛し続けていた男。
家名に背き、血から離れ、正統としてのブラック家を自ら捨てた“裏切り者”。
その人が――父から母を奪ったのだと信じていた。
信じなければ、傷として受け止められなかった。
だからこそ。
その日初めて、兄アルタイルと共に「シリウス・ブラック」という人物に引き合わされた時――
セレナの心には、すでに形を決められた像があった。
眩しすぎる光など見たくなかった。
母の心を今なお縛る相手など、理解したくなかった。
けれど――
出会って最初の、たった一瞥で、その想いはすべて瓦解した。
シリウス・ブラックの瞳は、真っ直ぐだった。
揺れも飾りもなく、それでいて、どこまでも深く、あたたかかった。
その人は名乗りも高らかにせず、ただ静かに笑って手を差し伸べてくれた。
「君が……セレナ?」と言って微笑んだその笑顔には、構えも詮索もなく、
ただ人ひとりを真摯に迎えるやわらかさがあった。
どこか、まるで――
「大切な人の娘」としてではなく、
「君というひとりの存在」をそのまま認めてくれるような、不思議な眼差しだった。
そしてセレナの中の何かが、確かに一瞬、音もなく“ほどけた”。
魔法の杖について話してくれた。
ホグワーツ時代の話を、まるで秘密の宝物のように教えてくれた。
時折、横で少し困ったように微笑むアルタイルに目をやりながら、
小さな魔法の手遊びをして笑わせてくれた。
“自由”という言葉の表面にある強さではなく、
その奥底でじわじわとたゆたっている“優しさ”に触れて、
セレナは思わず惹かれてしまった。
理解したくない母の想いが、
その瞬間、すぐ足元に届くほどの現実になった。
――この人なら、母が愛してしまったことに、何の不思議もない。
でも、それを認めた瞬間、
張り詰めていたものが、激しく自分を揺さぶった。
これは、父を裏切ることではないのか。
自分が今、心の奥のほんの一部をこの人に許してしまうことが、
「父」という自分の原点を損なうことになるのではないかと――
胸がぐらりと、崩れていくようだった。
レギュラス・ブラック。
この世で誰よりも尊く、強く、賢く、誇り高くある人。
母を、命がけで守ってきた真っすぐな人。
自分の父であり、常に守るべき正義の側に立つと信じた人。
――その父の影を、あのシリウス・ブラックが自然と越えていくように見えて、
セレナの胸は張り裂けそうだった。
シリウスの笑顔に心から惹かれてしまったこと、
その瞳をまっすぐ返したくなるほどに、ただの“自由人”ではなかったこと。
それでも目を背けたい。
父の正しさを、上書きしてほしくなかった。
決して、母の選んだ“想い”を、肯定してしまいたくはなかった。
帰り道、誰よりも明るく振る舞った。
シリウスの手品のような魔法を「すごいですね」と笑った。
兄に「ちゃんと挨拶して偉かったな」と言われて「当然でしょ」と言ってみせた。
でも、胸の奥はずっと静かに滲んでいた。
自分の中に新しい色が入り込んでしまったことを、
どうしても消すことができなかった。
そして――
「なぜ、母は父を愛さなかったのだろう」
その問いが、また静かに胸に戻ってきた。
それを許すためには、セレナはまだ、ほんの少し、大人にならなければならなかった。
春の訪れを感じさせる穏やかな午後。
ホグワーツからの休暇で、久しぶりにアルタイルとセレナが屋敷へと帰ってきた。
深窓の重厚な廊下にも、笑い声が舞い戻り、庭に咲き始めたロセリアの花が、どこか嬉しそうに陽に透けていた。
いつもは粛然とした屋敷に、明るく活気ある空気が流れ込み、アランは静かな微笑みを浮かべながら、その様子を眺めていた。
娘の声。息子の背。空気を弾ませるような若さと、彼らが持ち込んでくれる幸福の匂い。
――これが、家庭というものなのだろうと、胸の奥に静かに沁み込んでいく。
それゆえに、その話が出たとき――胸の底で、ゆっくりと冷たい水が染みていくような感覚があった。
「セレナにも、そろそろ縁談の話を……ねえ」
かつてこの家を治めていた、オリオンとヴァルブルガ、
その引退した「元」当主たちからの軽やかな提案は、
日当たりの良いサロンには、あまりにも“現実的”すぎる響きを連れてきた。
「まだ、あの子は幼いわ」
アランは、思わずそう口にしていた。
静かに、けれど、はっきりとした拒絶の色を含む声だった。
レギュラスは、対してわずかに間を置いてから、柔らかく答えた。
「――ええ、でも……アルタイルも、もう決まったことですし」
確かに、長男であるアルタイルの婚約はすでに定まっていた。
家の名を継ぐ者として、生まれた時からその未来はある程度見越されていたのも事実。
だからこそ、セレナにも同じ道を――というのも、筋としてはごく自然だった。
けれど、アランは、どうしても心の中でその“自然”が、
娘という存在には少しだけ酷に響いてしまった。
セレナは、明るくて、素直で無邪気だ。
それでいて鋭く、本質を見抜く力がある。
そして、まっすぐに未来を見ている少女だった。
まだ、命をどこに向けるのか、自分の芯で選び取る自由があるはずの年齢で、
“嫁ぐべき相手”を定められてしまうことが、本当にこの子を幸せにするのか。
アランには、ひとりの母として、それが――痛かった。
娘は、男児ではない。
ゆえに家名を継ぐことはない。
だからこそ、彼女自身の“幸せ”の軸は、
誰よりも彼女自身のものであってほしい、と心から願っていた。
他の家の血のために従わされるのではなく、
誰かの政の駒として扱われるのでもなく、
彼女自身の意思で歩く人生を、アランは与えてやりたいのだと、静かに思っていた。
「……あの子には、もう少し、好きに笑っていて欲しいのよ」
アランは小さく囁くように言った。
サロンの窓の向こう、庭の陽だまりの中で、
セレナがレース編みの布をひるがえしながら兄に何かを話しかけていた。
その笑い声が風に紛れて聞こえてくる。
あれほど、無邪気で美しい笑顔。
あの笑顔を、見知らぬ“未来”に押し込めてはいけない――
ただ、それだけが母の切実な想いだった。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、椅子の肘に添えた指に、僅かに力がこもった。
彼もまた、分かっているのだろう。
けれど、家の名を守り、家を導く者として背負う風は、
一個人の想いだけではどうにも支えきれないものなのかもしれなかった。
その日、陽は長く、セレナの笑い声はよく響いた。
そしてアランは、胸の奥でそっとひとつ祈る。
願わくば、この娘が自ら選ぶ未来が、
どうか誰かの手で書き換えられてしまいませんようにと。
――たとえ、この名の下にある限り、それがどれほど難しい願いであったとしても。
夕食の卓は暖かな灯りに包まれていた。
長い昼の光がすっと薄れていく時間。屋敷の食堂には、家族がそろって囲む食卓の、どこか柔らかな幸福が漂っていた。
陶器を鳴らす音、グラスの水のきらめき、そして静かに流れる会話。
何より、久しぶりに帰ってきた兄妹二人が加わることで、この屋敷にも鮮やかな命の気配が戻ってきていた。
そんな時間の中、レギュラスがふと手元を離し、セレナに視線を向けた。
言葉を選びかねるように一瞬間を置き、やや硬い声音で口を開く。
「……セレナ。ホグワーツには……仲良くしている男の子は、いるんです?」
その途端、アルタイルのグラスがかすかに揺れる。
「ぶっ」と噴き出さんばかりの動きで水をむせかけ、必死に手元を整えた。
アランは苦笑を隠し切れず、ナイフを置いたまま肩をすくめて笑みを漏らした。
恐らく父なりに――不慣れな話題を真剣に持ち出したつもりなのだろう。
そのぎこちない誠実さが、逆に食卓に柔らかな笑いの波紋を広げていた。
当の問いを受けたセレナはというと、自信に満ちた笑顔をたたえながら軽やかに答えた。
「もちろん、みんな私に夢中よ。
みんなと仲良くしてるわ。特別じゃなくって、全員仲良し」
その無邪気さと、堂々たる響きに、今度はレギュラスが思わず吹き出しそうになり、目元を崩した。
まさかそう返ってくるとは思ってもいなかったのだろう。
苦笑を深めるというより、むしろ微笑ましさが勝っていた。
その場の空気が完全に和らぐのに、アルタイルがとどめを刺した。
「母さんにそっくりなんですよ、セレナは。
今のスリザリンで“姫”って呼ばれてるくらいで……たぶん、父さんが思ってるよりずっと手強いですよ」
「まあ」アランが控えめに笑う。
「それは……母譲りではなく、ブラック家の血のせいです」
レギュラスが淡く応じて、家族の中に笑いが小さく、けれど確かに満ちていった。
やわらかな時間だった。
肩の力の抜けた、誰もが心のどこかを解いているような、心からの“家族の音”。
アランはグラスの縁を指先でなぞりながら、そっとセレナに目を向けた。
今こうして、何気なく笑いの中心にいるこの娘の姿を見ながら、思う。
――この子は、どこにいても光になる。
だからこそ、願う。
この明るさを誰にも歪めさせないように、
ずっと、セレナが自然に笑える場所にいてくれるように。
嫁ぐという言葉にはあまりに多くの“手放し”が含まれているけれど。
それならせめて――
娘の未来を照らし続けてくれるような男のもとであってほしい。
振り返らずに、冗談を言いながら歩いていけるような、
セレナの“らしさ”が守られる場所へと、どうかつながっていくように。
そんな思いが、アランの胸にそっと灯っていた。
それは、祈りであり、一母としての小さな願いでもあった。
夜の静寂に包まれた寝室で、魔法の灯りが優しく微笑んでいた。
一日の終わり、家族の笑い声の余韻がまだ空気のどこかに残っているような、そんな穏やかな時間だった。
レギュラスは椅子の背にもたれながら、まだ先ほどの食卓での出来事を思い返すように、小さく口元を緩めている。
「……あの子は、本当に……手強そうですね」
その声には、娘への愛しさと、どこか感嘆の色が混ざっていた。
あのセレナの無邪気で堂々たる宣言を思い出しているのだろう。
アランもまた、手に取った夜着をそっと畳みながら微笑む。
「みんなあの子に夢中、ですって?
その中からたった一人を選ぶなんて、きっと難しいでしょうね」
どこまでが事実でどこからが少女らしい誇張なのか、それは分からない。
けれど、なんとなく――その光景が目に浮かぶようだった。
セレナなら確かに、周囲を明るく照らし、多くの人から愛されているのだろうと、自然に想像できる。
レギュラスは、その時ふと思い出したように言った。
「あの頃……あなたも、姫でしたね。懐かしい」
その言葉に、アランの手が一瞬だけ止まる。
頬が、ほんの少し熱を帯びた。
「昔の話はやめてください……」
くすぐったいような、恥ずかしいような。
けれど同時に、胸の奥が微かに痛むような、複雑な想いが心を過ぎていく。
ホグワーツ時代――。
振り返ると、自分の記憶のほとんどが、シリウス・ブラックで埋め尽くされているように思えた。
彼の笑顔、彼の声、彼の背中。
いつも追いかけて、いつも想って、けれど決して手の届かない存在として――。
その想いにすべてを捧げて、他のものが見えなくなってしまっていた自分。
けれど、今になって思う。
あの頃から――もうすでに、レギュラスはいつも、自分のことを見てくれていたのだ。
静かに、一途に、変わることなく。
兄への想いに夢中になっていた自分の隣で、決して諦めることなく、ただ待ち続けてくれていた。
もしも、もしもあの時――
シリウスへの想いにすべてを奪われる前に、
レギュラスという人の真摯さに、もっと心を向けることができていたなら。
彼の想いの深さを、もっと早くに理解できていたなら。
そうすれば、もっと違う形で――もっと自然に、彼と歩んでいくことができたのかもしれない。
今、こうして彼の隣にいる。
その現実は間違いなく幸せだ。
けれど同時に、過去の自分への小さな後悔も、どうしても胸に滲んでしまう。
「……あの頃の私は、本当に何も見えていませんでした」
ぽつりと、アランが呟いた。
「でも……」
レギュラスは静かに微笑んだ。
「今、ここにいてくださる。それで十分です」
その優しさが、かえって胸を痛くさせる。
こんなにも長い間、変わらない想いを抱き続けてくれた人に、
自分は本当に見合うだけのものを返せているのだろうか。
夜風が窓を軽く叩き、二人の間に静かな時間が流れた。
過去への想いと、今への感謝が、複雑に胸の中で絡み合いながら――
それでも確かに、この瞬間の穏やかさを、アランは大切に思っていた。
夕暮れの光が屋敷を包み込む頃、アルタイルは石造りの階段に腰かけていた。
不意に耳に届いたのは、控えめに開かれる扉の音と、ふたつの足音。
父と母が連れ立って帰ってきたのだと、すぐに分かった。
春めいた風に乗って届いてくるふたりの声が、どこか穏やかだった。
言葉の内容は聞こえなかったけれど、何か確かに“よく馴染んだ空気”がそこには在った。
最近、任務に母が同行することが増えていた。
体調の悪化を知らされた日から、すぐにまた現地へ向かう姿を見たときは驚きもしたけれど、
今日のふたりのようすを見ていると、不思議と胸が温かくなる。
ただ、その胸の奥にふと浮かんだ疑問を、アルタイルは隠さず訊ねることにした。
「……大丈夫なんですか? 母さんが、あんなに出歩いていて」
それは責めではなかった。
心配と、ほんの少しの恐れ――また倒れてしまうのではないかという、息子としての純粋な不安だった。
レギュラスは、一瞬だけ視線を遠くの夕焼けに向け、それから静かに頷いた。
「……無理はしないように、してもらってます」
「……任務も、きちんと調整済みです。それに、同行というより、“隣にいる”ことが、いちばんの助けになると……彼女が思ってくれているのでしょう」
その声には張りつめたものはなく、そっと抱きしめるようなぬくもりがあった。
アルタイルはその響きに、静かに目を伏せた。
思えば――
ほんの少し前まで、レギュラスがどれほど母に優しく接しようと、そこに“応え”のようなものが見えたことは、あまりなかった。
父の愛情は一方通行のように感じていた。
鋭く誇り高いあの人が、母の身体を気遣い、言葉を選び、行動を調整する様子に、
どこか触れてはいけない痛みのようなものを感じたこともあった。
けれど今は違う。
母のまとう空気のなかに、父に向けた“意志”のような光が確かにあった。
遠巻きにふたりを見たとき、あるいは何気ない言葉を交わす姿にふと滲んでくる、あたたかな静けさ。
知らない時間が、ふたりの間にあった。
見届いていない日々のなかで、ふたりは少しずつ距離を詰めて、
きっと言葉では足りない想いを、手のひらや時間で伝え合ってきたのだろう。
それがいま、こうして目に見える形になっている。
アルタイルは胸の奥に、言葉にできない安堵を感じていた。
ずっと願っていた幸せが、ようやく育ち始めているのかもしれない。
望んでも得られなかったものが、静かに、正しい未来の形をとり始めている。
それを何にも声にしないまま、アルタイルはじっとその背中を見送った。
父の隣に並ぶ母が、迷いなくその歩調を合わせている気がして、それだけで本当に嬉しかった。
屋敷の玄関ホールの扉が静かに開いた。
午後の遅い陽光が大理石の床に差し込み、そこに長くふたつの影が落ちる。
父と母が、並んで帰ってきた。
使用人が扉を閉める音。
マントの裾が揺れて、ふたりの間に交わされる微かな言葉。
「お疲れさまです、お父さま、お母さま」
セレナは、少しだけ遠くから、二人に向かって声をかけた。
いつものように明るい調子で――けれど、胸の内は不意に揺れていた。
父が穏やかに答え、母が楽しげに笑う。
何でもないようなやり取り。ありふれていて、さりげない――それだけのことなのに、
セレナは立ち尽くしたまま、目の前の景色に奇妙な感動を覚えていた。
たとえば、どこにでもあるような家庭の光景。
誰かが帰宅し、誰かが出迎え、言葉を交わし、笑みを交換する。
だというのに、これほど長く自分が渇望してきた光景が、いま、たしかにそこにあった。
父が母に話しかけていた。
淡く低い声で、「あの子が元気そうで安心しましたね」と漏らし、
母は微笑みながら「ええ、本当に」と応えていた。
ただそれだけのやり取り。
なのに、セレナは深く息を呑んでいた。
「お父さま、お母さま、どこに行ってたんです?」
ふっと浮かんで、出た言葉だった。
けれど、それはただのきっかけにすぎなかった。
問いには意味はなかった。ただ――
“この空気に触れていたかった”――それだけだった。
言葉が交わされるたび、その背中に浮かぶやわらかな関係の気配が、セレナの胸を満たしていく。
ずっと欲しかったものが、そこにあった。
いつから願っていたのかも分からない何かが、いま手のひらに灯されていた気がした。
そして、彼女はふと気づく。
この光景のすべての起点に立っていたのは、やはり――父だった。
母の揺れる心を、長い時間をかけて支え、守り、何も奪わず、ただ応えてきた。
あまりにも静かで強いその愛が、この瞬間をつくり出していた。
シリウス・ブラック。
母が一度、心から愛した男。
かつて、自分にとって“母の想い”そのものを象徴するような存在だったあの名前を、
いま思い出しても、不思議と胸が痛まなかった。
ただ、思った。
父が、勝ったのだ。
あの威風と自由を纏ったシリウスでさえ、
父という人を超えることは、とうとう叶わなかったのだと。
奪うのではなく、忍び、寄り添い、真っすぐに在り続けることで、
母の想いを「取り戻した」のは――レギュラス・ブラックという男だった。
それが、こんなにも静かで、力強い真実として、セレナの胸に残った。
何も言わずに歩く父の背中に――
そっと微笑む母の姿に、セレナは己の核心を見出す。
やはり父は、すべてにおいて絶対なのだ。
誇り。強さ。愛。選び方も、守り方も――セレナが信じるすべては、やはりこの人のなかにある。
優れていて、遠くて、けれど確かに「帰るべき場所」。
彼の娘であることを、ただもう誇らしくてたまらなかった。
夕陽は廊下を照らし、ふたりの影を、そっとひとつに重ねていた。
セレナはその光景を、胸に深く――静かに刻んだ。
長テーブルの上には大小さまざまなパンや果物、スープが整然と並び、あちらこちらから笑い声と談笑が響いている。
そのなかで、アルタイル・ブラックは一つの役割を担っていた――というより、そう在るべきだと自然に受け止めていた。
「お兄様、あのあたりにあるパン……、食べたいです」
淡く微笑みながら言ったのは、妹のセレナだった。
白い制服に身を包み、膝の上に手を揃えて控えめに座っている。
声にわがままは滲んでいない。それでも、兄であるアルタイルにとって、それは即座に動くに値する小さな願いだった。
「少々お待ちを」
柔らかく返して立ち上がり、パンの置かれたバスケットに向かって歩き出した。
その中間あたりで――彼女はいた。
アリス・ブラック。
防衛術の補佐としてホグワーツに滞在している、教師でもあり、シリウス・ブラックの養子である女性。
正規の教壇ではない補助者の立場でありながら、凜とした立ち姿にはどこか目を引く気配があった。
まさか、その場で視線が交錯するとは思わなかった。
すれ違う寸前、アリスが振り返るようにして歩き出すタイミングと、アルタイルが道を譲るように脇に避けるタイミングが重なった。
その瞬間、ふたりの視線が真っ直ぐに交わる。
一拍の静止。
アルタイルは、咄嗟に丁重に頭を下げた。
挨拶というより、何かもっと深い“けじめ”のように――礼を尽くしているようだった。
アリスは驚いたように眼を見開き、そのまま目を逸らさず、アルタイルのことを凝視した。
沈黙のなかに、何かを静かに確かめるような眼差し。
それに気づいたアルタイルは、何も言わないことの方が不誠実に思えた。
だから、言葉を選びながら口を開いた。
「……先生。アルタイル・ブラックです」
一歩踏み出し、右手を丁寧に差し出す。
握手を求めたその仕草には、どこか礼節に満ちた“応答”の意思が込められていた。
アリスは差し出された手を見て、まるで異なる風景を見ているように一瞬だけ固まった。
揺れも、拒絶もないのに、何かを深く探しているようで――彼女の指先は扇のようにわずかに動きかけた。
そのとき、後ろから軽やかな足どりと声が届く。
「お兄様、パンはまだです?」
にこやかに、笑うようにそう言って現れたのはセレナだった。
彼女はまっすぐアリスとアルタイルの間に近づき、視線を交わすふたりの様子を一瞬だけ不思議そうに眺めた。
それから兄の姿を見て、はっと何かを感じ取ったのだろう。
彼の姿勢に倣うように、アリスへ向き直って、明るく自分を名乗る。
「こんにちは、先生。セレナ・ブラックです!」
その言葉は、どこまでも天真爛漫だった。
小さく、けれど柔らかく手を差し出すその動作は、まるで“兄の真似をしなければ”と律する気持ちが込められているようでもあった。
アリスはその視線に完全に飲まれていた。
――目の前にいるのは、あのレギュラス・ブラックの、“ふたりの子供”。
名を受け継ぎ、血を受け継ぎ、何一つ濁らず、自信に満ちた澄んだ光を持った、ふたり。
そして、彼らは今、目の前で当たり前のように手を差し出して、笑いかけてくるのだった。
「……は」
微かに、言葉にならなかった吐息がアリスの喉を震わせた。
頭の中に空白が生まれたような感覚。
言葉を返さなければ、手を取らなければ――と思うのに、身体がどう反応すべきか迷いの中にいた。
アルタイルの目。
セレナの笑顔。
どちらにも、敵意はなかった。
けれど、彼女が抱えてしまった記憶と感情は、ひとつ返事で消えるような単純なものではなかった。
気まずさが、空気を微かに冷たく染めていくなかで――
アルタイルは、ただ静かに立っていた。
彼自身も、この空気をどう割って良いかを迷っていた。
彼らの間に流れているのは、言葉にならない何かだ。
ただの挨拶や、名乗りのための握手では済まされないほどに、何か深く、複雑なものがそこにあった。
そして、彼はその“何か”に気づいていたからこそ、
――ほんのわずかに、息を詰めていたのである。
アリスは、差し出されたアルタイルの手とそれに続いて伸ばされたセレナの小さな手を交互に見つめていた。
その瞳には、明らかに困惑――いや、動揺すら浮かんでいた。
丁寧に差し出された手は、ただの礼節ではなかった。
それ以上のもの――壁を越えようとする誠意と、
血筋という揺れにくい境界線に触れながらも、自らの名前を正しく届けようとする正当な意識が、そこにはあった。
なのに、どうして、自分はこんなにも戸惑っているのだろう。
手を取らなければいけない。そう思った。
教師として、秩序を守る者として、それは当然の応答だった。
けれど、心が追いつかなかった。
目の前にある名前“ブラック”。
あの人の子供たち。
セレナは、何も知らない無垢な目でこちらを見つめていた。
けれどその純粋さが、じわりとアリスの胸に沁みて痛かった。
ああ、この子たちは、
これからもきっと、全き「家名」の中で育っていくのだ。
守られ、讃えられ、疑うことなくその深い血筋を“誇り”として歩んでいく。
そしてその軌跡に、自分は決して、影すら足跡として残すことはできなかった。
――そのことに、思いのほか、胸が軋んだ。
けれど――その場に沈黙を長く残すことはできなかった。
アリスは軽くまばたきをして、感情を押し込めるように呼吸を整えた。
そして――表情を持ち上げるようにして、ゆっくり手を差し出す。
まずはアルタイルへ。
彼女の手が触れた瞬間、アルタイルの掌はほんの僅かに温かかった。
“敵対”でも、“敬遠”でもなく、たしかに血筋を理解した者同士の深い節度の上に置かれた礼だった。
「……はじめまして、アルタイルくん」
言葉は硬くなく、むしろそっと、砕けるようなやわらかさがあった。
そして、次にそっとセレナの方へ視線を移す。
少女の左右に揺れる黒髪が、小さな月光の粒のように揺れた。
「こんにちは、セレナさん」
今度は、微かに笑うように――けれど確かに、微笑みだった。
セレナはぱっと顔を明るくさせ、しっかりと彼女の手を握った。
まるで何か嬉しいことを見つけたかのように。
ほんの短い数秒のやりとり。
けれど、そこにはいくつもの感情が、表に出ぬまま渡されていた。
アルタイルにとっては、どこまでも複雑な空気だった。
礼を交わすだけのはずが、
そこに絡んでいた数多の想いに、
自分自身が一歩踏み入れてしまったのだと、どこかで悟っていた。
しかしだからこそ、彼は静かに、
アリスという人物に向けて、目に見えない敬意を抱いた気がした。
差し出された手は――受け取られたのだ。
不器用でも、傷だらけでも、それは確かに伸ばされた想いとして届いたのだから。
「パンを、お待たせしましたよ」
アルタイルは、そう言って初めて声に微笑みを乗せた。
セレナは「ありがとう」とにこっと笑い、ようやく兄らしい穏やかさが兄妹の間に戻ってきた。
アリスは二人の背中を見送りながら、手に残る温もりを、そっと指先でなぞった。
それはまるで、過去でも未来でもない、
「今この瞬間」だけに灯った、ささやかな灯火のようだった。
大広間を出たあとも、石畳の廊下にはまだ、昼食のざわめきの余熱が残っていた。
空は冬の光をうっすらと抱き、窓の外では冷たい風が通り抜けようとしていたが、アルタイルとセレナの歩みはいつもどおり穏やかだった。
兄妹は並んで歩いていた。
時々会話を交わしながら、それでもお互いの呼吸を把握するように同じリズムを刻んでいる――そんな自然さだった。
「ねえ……さっきの人、あの人がアリス・ブラック?」
セレナがぽつりと口にした。
柔らかな声だったが、言葉にはどこか鋭敏な観察眼が宿っている。
名を知っていたことに、アルタイルは内心驚いていた。
「……先生ですからね、セレナ」
嗜めるように言いながらも、その目は妹を横目にそっと見ていた。
どうして、彼女がアリス・ブラックの名前を知っていたのか。
父はアリスについて、何も語らない。
けれども、妹は知っていた。しかも、一目で彼女を“それ”と見抜いたのだ。
アルタイルの心が、静かに波打った。
セレナもまた、自分と同じようにアリス・ブラックという存在に
どこか理屈のつかない、形にならない感情を持っているのではないか――
そんな予感に似た感覚があった。
「お父さまと対立しないと良いわね、あの方」
セレナの言葉は、ごく飄々としていた。
けれどその中には、奇妙な正確さと含みがあった。
「……別に、接点もないでしょうし、大丈夫じゃないですかね」
アルタイルは淡々と返したが、内心では少しだけ釘を刺された気持ちだった。
「でも何かの拍子で会ったりしたら、杖を向け合いかねないと思うわ」
さらりとした声音。
怖いことを何でもないように言ってのける、セレナらしい無邪気さ。
けれどその裏にある想像力の鋭さに、アルタイルは一瞬言葉を失った。
「……恐ろしいことを言うもんじゃないですよ」
ようやく口にした声には、わずかに苦笑が混ざっていた。
「だってお父さま、潔癖でしょう?
ああいうの、絶対に許すはずないもの」
セレナは小さく肩を竦めた。
そう言ってから、廊下の先にある陽だまりに目を向ける。
その横顔が、あまりにもさらりとしていて――だからこそ、真実味があった。
アルタイルは黙って頷いた。
セレナの口ぶりはあっけらかんとしていて、どこか子どもらしくさえある。
けれど、彼女は本質をたまに驚くほど深く見抜く。
まるで、ひとつも迷わずに目的地へ杖を向けるように。
その観察力と直感には、時折ぞくりとするほどの鋭さがあった。
アリスという名前すら出したことのない父に対して、
「それでも、あの人は絶対に許さないはず」と言い切ったその目は、どこまでも真っ直ぐだった。
それが事実であることを、アルタイルは否定できなかった。
「……羨ましいですね、セレナは」
ポツリと落としたその言葉に、セレナが首を傾げる。
アルタイルは微笑みをこぼしながら、そのまま続けた。
「何かを考えるより先に、見るべきものがちゃんと見えている。
そんなふうに言葉が出てくるの、僕には到底できないので」
セレナはくすくすと笑った。
「兄様が考えすぎるだけです」
返ってきたのは、何の悪意もない――けれど非常に的確な言葉だった。
冬の廊下を渡る光は、窓辺の石に反射して、やわらかく兄妹の足元を照らしていた。
その光の中でふたりの影が静かに並び、言葉以上の繋がりを携えながら、前へと歩いていった。
大広間の中央。
魔法の光が天井から柔らかく降り注ぎ、生徒たちの笑い声がこだまするそのなか――
アリス・ブラックは、小さな気配の変化にふと振り返った。
彼女が目を向けた先に立っていたのは、
ひとりの――けれど、ただのひとりではない――少女だった。
セレナ・ブラック。
漆黒の光をほどくように柔らかく揺れる髪、
明るさと天真爛漫さを包み込んだような無垢な笑顔。
けれどその瞳に、アリスは出会った瞬間、息をひとつ飲んだ。
あの目。
まっすぐ、真正面から、何も纏わずにこちらを見ていた。
けれど――その内側で、何かを冷静に図っている気配が確かに在った。
無意識のうちに向けられた視線ではない。
“誰といるべきか”“何を言うべきか”“なにを感じられても構わないのか”——
それらをすでに見透かし、納得した上で表情を選んでいるような眼差しだった。
明るくて、あどけない。
けれどその微笑みに、どこか取り返しのつかないほどの“選別”の鋭さが潜む。
あの少女は、ただの愛される存在ではない。
いざとなったら、もっとも正しい道を選んで、必要とあれば誰よりも冷徹に切り捨てることもできてしまう――
そんな選択の重さに耐えうる覚悟を、その小さな背中はすでに持っている。
その確信を抱かせるだけの“何か”が、あの目にはあった。
それは、間違いなくレギュラス・ブラックの目だった。
灰色の瞳。
けれど、それは決してシリウスの光とは違った。
同じ色に見えて、まったく違う。
レギュラスの瞳は、濁らないままに奥で渦を巻き、
冷たく、静かに、世界の輪郭を選別していく。
セレナの瞳は、その在り方によく似ていた。
あの人の血が、確かに引き継がれている。
アルタイルもそうだった。けれど、セレナはあまりに鮮やかに、それを隠さない。
それはかえって、無垢な仮面を纏った“別のレギュラス”のようにすら思えた。
アリスは、ぞくりとした。
肌を這うような寒気ではなく――心のもっと芯の方へ、音もなく触れてくる冷やかな手つき。
まさか、こんなに若くして。
もう、ここまで“似る”ものなのか。
けれど、ひとつだけ――
アリスの胸を締めつけたその想いがあった。
セレナにも、アルタイルにも。
そのどちらにも、アラン・セシールの面影が不思議と見当たらなかった。
あの人がもつ、あたたかく包み込むような、
色彩を宥めるように柔らかく広がる魔力の在り方。
言葉よりも静かな慈しみの重なり。
それらはどこにもなかった。
子どもに受け継がれるはずのその柔らかさが、跡形もなく消えていた。
まるで、レギュラス・ブラックという圧倒的な存在が、
彼女のやわらかい色をすべて塗りつぶしてしまったかのように。
思わず、アリスの胸に、静かな悲しみのような感情が広がった。
アランは――
たしかにその人生に差し出したものが多すぎた。
その寄りかかる先が、今の娘と息子の姿へとつながっているのだとすれば。
こちらへ背を向けて幸せになった女性の姿が、
いま、強い純血の結晶として形を成しているのだとすれば。
もう、取り戻せるものなど、最初からなかったのだと。
アリスは微かに目を伏せ、
自分の手のひらに残っていたはずの、さっきの握手の感触をそっと思い返した。
あの瞬間に触れた“未来”の輪郭は、静かに遠ざかっていくように思えた。
石畳を歩くリズムが、冬の冷たい空気のなかに柔らかく響いていた。
日の影が差す廊下の角に差し掛かったところで、セレナ・ブラックはそっと立ち止まる。
手にしていた古代魔法史の書を閉じ、思考の続きを静かに心の奥に沈めていた。
彼女の内では、あるひとりの人物の名が今日も小さな波紋となって揺れていた。
アリス・ブラック――
ホグワーツでその姿を目にした日のことを、セレナはよく覚えている。
兄の隣に立ち、明るく天真な顔で、ごく自然に教師としてそこに在った女。
けれど、セレナにとっては、彼女は“ただの先生”では到底なかった。
現れる前から、名前は知っていた。調べていた。
なんの因果か、ブラックの名を持つ者のひとりとして、知っておかねばならないと思ったのだ。
マグルの家に生まれ、
なにもしなくても自然と与えられる“魔力”の祝福など受けずに育った少女。
けれど、なぜか“ブラック家”の名を冠している。
当然ながら、血縁があるわけではない。
養子として迎えられただけ。
あのシリウス・ブラックに手を引かれ、名を与えられ、
記録に残る歴史にも、重鎮の名簿にもその姿が刻まれるようになった。
それでも、彼女は“ブラック”と呼ばれている。
マグルであることを、とくに否定したいとは思わなかった。
そんなこと、わざわざ声を大にして言うようなことではない。
そもそも、自分たちは比肩などされ得ない場所にいる。
ブラック家は、純血一族の中でも際立って古く、由緒ある血統。
そこにセシール家の血が加わって、自分たちは生まれてきた。
その“血筋”というものは、積み重ねられた歴史が終わりなく続く魔力の流れであり、
それ自体が尊い。比べる必要さえないのだ。
それでも――
彼女の名に“ブラック”という言葉があるたびに、わずかに胸が揺れる。
たかだか偶然、たかだか情にすぎなかった繋がりで、
その重い名を背負っているということが――
まるで“誰にでもなり得る”かのように錯覚されていく構造そのものに、納得がいかなかったのだ。
それは差別ではない。
ただ、線引きにすぎない。
マグルの世界にも優れたものはあると知っている。
魔法がない彼らの文明は、ある意味では魔法以上に魅力的なものさえ持ち合わせている。
だからこそ、その“素晴らしさ”が魔法と融合していく未来には夢を見る。
けれど、“混ざり合う”ことと“混じりきってしまう”ことは違うのだと、彼女は強く信じていた。
曖昧にしたままにすることで、削り取られていく側の重さを知っている。
純血の魔法使いとして生まれてきたことは、ただ運命ではない。
選ばれ、継がれ、守られてきたものだ。
セレナは、その流れの果てに自分が在るということを、
誇りとして、信じているからこそ――譲れなかった。
アリス・ブラック。
彼女が尊敬に値する人物であることを、セレナ自身も理解している。
不死鳥の騎士団の一員であるという経歴、シリウスの片腕として育てられ、いくつもの現場に立ってきたこと。
それでも――その生き方に、どんな信念があったにせよ。
「ブラック」の名にふさわしいかどうかは、
ただの記録や功績では測れないと、セレナは思った。
そして、父はたぶん――
そのことを誰より静かに、深く、認めていないのだろうと、
言葉ひとつなくとも、彼の背中が教えていた。
セレナはそっと歩き出す。
巻物が揺れ、光がその髪に反射してきらめく。
その足取りは明るく、周囲には何の影も落とさない。
けれど胸の奥では、ごく静かに、自分が持つ“立ち位置”の冷たい感覚を、
確かに誰より知っている少女を――彼女自身が認めていた。
冬風に吹かれて舞う黄の落ち葉が、まだ人けの少ない中庭に音もなく散っていた。
静かな午後だった。ホグワーツの石造りの階段をひとり歩きながら、セレナ・ブラックは、胸の奥に深くしまい込んできた記憶にふと触れていた。
母、アラン・セシールのこと。
兄と違って――
自分は、母にあまり抱かれることのない幼い日々を送ってきた。
思い返しても、柔らかな膝の上で笑った記憶や、眠る前に読んでもらった童話の音色は、どこか他人の夢の中のようで、指先の実感に乏しい。
記憶の中の母は、いつも静かにベッドに伏していた。声は優しいのに、触れ合いが妙に薄く遠かった。
けれど、セレナはそれを恨もうとは思わなかった。
二人目の子供である自分を産み落とすとき、母はその命すら危ぶまれるほどに身体を痛めたのだと、ずいぶん大きくなってから教えられた。
「お前は……命がけでこの世に来たのですよ」
そう言ったのは父だった。
その声がどこまでも静かで、けれど濃密な想いが滲むように深かったのを、セレナはまだ忘れられない。
兄も同じことを口にしていた。
母がどれほどに身体を削って、自分の命を繋ぎ、この世に送ってくれたか。
だからこそ、セレナは感謝していた。
無言の頑張りで、ただ生まれてくることを許された命に。
自分という存在を、最初から支えていた見えない手に。
けれど――そこまでして生きて、自分を産んでくれた母を――
どうしても“理解できなかった”ことが、ひとつだけあった。
それは、母が――おそらく一度も、父を愛さなかったということ。
そのことに気づいた日のことを、セレナは今でもはっきりと覚えている。
胸が張り裂けるような痛みだった。
これほどまでに偉大で、孤高で、そして尽くしていた父を。
あの誇らしい気高さを纏う人を。
誰よりも、母を守っていた唯一の男を――
母は、心の奥底のどこかで、
その優しさにただ感謝をしても、
“恋してはいなかった”のだと。
ふたりの関係には、どこかいつも隙間があった。
静かな距離、対話のなさ、触れ合わない視線。
まるで壊れてしまうと分かっていながら、それを修理することを誰ひとりとして敢えて選ばなかったような――繊細すぎる沈黙の時間が、家中に敷かれていた。
幼い自分がその温度を感じていたことすら、誰も気づいていなかったけれど、
セレナはずっと、その脆さとともに暮らしてきた。
だからこそ、いつしか“明るく、朗らか”な《ブラック家の姫》を演じる術を、自然と覚えていった。
悲しみを誰にも見せぬように。
この家のどこにも、哀しみの匂いを漂わせたくなくて。
だったら自分が、すべてから目を逸らす光になればいいのだと。
兄が背筋を真っ直ぐにする横で、自分は日差しのようにいればよかった。
けれど……それでも。
真実は、どこにも姿を隠してなどいなかった。
母アランは――
愛していたのは、シリウス・ブラックだった。
それは確信に近かった。
引き出しの奥にしまわれた、古びた写真。
たしかにそこに写っていた、若き日のシリウス。
微笑んでいた――けれど、その光景よりもずっと深く胸に刻まれているのは別の記憶だった。
母がときおり、深夜――誰にも知られぬ書斎に入り込んでいた。
父ですら開けぬようにしていた、かつての“禁忌”の空間。
あの重い扉の向こうで、何度も、何度も押し殺すように泣いていた姿を、セレナは見てしまっていた。
幼すぎて理解できなかったその涙の意味が、
年月を重ねるほどに鮮明になっていったとき――
それは、まるで自分の心そのものの根が裂かれるような痛みに変わった。
美しい父。
正しさの中に佇む母。
そして、その間に存在した“決して届かない本当”。
セレナの胸には、今でも確かなひびが残っている。
けれど、同時にそういう地層の上に立っている自分を、
どこかで静かに、誇りにも思っていた。
明るさの奥で、本質を見抜いていく瞳を持つのはきっと、
そうやって幾度となく、誰よりも真実に触れてきたから――
彼女は、それを誰にも知られないように笑っていた。
シリウス・ブラックとは、いったいどんな人なのだろう――。
セレナ・ブラックがその問いに引き込まれるようになったのは、おそらく、心のどこかで母という存在を正しく理解しようとしていたのかもしれない。
そうせずには、何かがずっと心に棘のまま、残り続けると知っていた。
けれど同時に、自分では見たくない領域でもあった。
母が心の底で愛し続けていた男。
家名に背き、血から離れ、正統としてのブラック家を自ら捨てた“裏切り者”。
その人が――父から母を奪ったのだと信じていた。
信じなければ、傷として受け止められなかった。
だからこそ。
その日初めて、兄アルタイルと共に「シリウス・ブラック」という人物に引き合わされた時――
セレナの心には、すでに形を決められた像があった。
眩しすぎる光など見たくなかった。
母の心を今なお縛る相手など、理解したくなかった。
けれど――
出会って最初の、たった一瞥で、その想いはすべて瓦解した。
シリウス・ブラックの瞳は、真っ直ぐだった。
揺れも飾りもなく、それでいて、どこまでも深く、あたたかかった。
その人は名乗りも高らかにせず、ただ静かに笑って手を差し伸べてくれた。
「君が……セレナ?」と言って微笑んだその笑顔には、構えも詮索もなく、
ただ人ひとりを真摯に迎えるやわらかさがあった。
どこか、まるで――
「大切な人の娘」としてではなく、
「君というひとりの存在」をそのまま認めてくれるような、不思議な眼差しだった。
そしてセレナの中の何かが、確かに一瞬、音もなく“ほどけた”。
魔法の杖について話してくれた。
ホグワーツ時代の話を、まるで秘密の宝物のように教えてくれた。
時折、横で少し困ったように微笑むアルタイルに目をやりながら、
小さな魔法の手遊びをして笑わせてくれた。
“自由”という言葉の表面にある強さではなく、
その奥底でじわじわとたゆたっている“優しさ”に触れて、
セレナは思わず惹かれてしまった。
理解したくない母の想いが、
その瞬間、すぐ足元に届くほどの現実になった。
――この人なら、母が愛してしまったことに、何の不思議もない。
でも、それを認めた瞬間、
張り詰めていたものが、激しく自分を揺さぶった。
これは、父を裏切ることではないのか。
自分が今、心の奥のほんの一部をこの人に許してしまうことが、
「父」という自分の原点を損なうことになるのではないかと――
胸がぐらりと、崩れていくようだった。
レギュラス・ブラック。
この世で誰よりも尊く、強く、賢く、誇り高くある人。
母を、命がけで守ってきた真っすぐな人。
自分の父であり、常に守るべき正義の側に立つと信じた人。
――その父の影を、あのシリウス・ブラックが自然と越えていくように見えて、
セレナの胸は張り裂けそうだった。
シリウスの笑顔に心から惹かれてしまったこと、
その瞳をまっすぐ返したくなるほどに、ただの“自由人”ではなかったこと。
それでも目を背けたい。
父の正しさを、上書きしてほしくなかった。
決して、母の選んだ“想い”を、肯定してしまいたくはなかった。
帰り道、誰よりも明るく振る舞った。
シリウスの手品のような魔法を「すごいですね」と笑った。
兄に「ちゃんと挨拶して偉かったな」と言われて「当然でしょ」と言ってみせた。
でも、胸の奥はずっと静かに滲んでいた。
自分の中に新しい色が入り込んでしまったことを、
どうしても消すことができなかった。
そして――
「なぜ、母は父を愛さなかったのだろう」
その問いが、また静かに胸に戻ってきた。
それを許すためには、セレナはまだ、ほんの少し、大人にならなければならなかった。
春の訪れを感じさせる穏やかな午後。
ホグワーツからの休暇で、久しぶりにアルタイルとセレナが屋敷へと帰ってきた。
深窓の重厚な廊下にも、笑い声が舞い戻り、庭に咲き始めたロセリアの花が、どこか嬉しそうに陽に透けていた。
いつもは粛然とした屋敷に、明るく活気ある空気が流れ込み、アランは静かな微笑みを浮かべながら、その様子を眺めていた。
娘の声。息子の背。空気を弾ませるような若さと、彼らが持ち込んでくれる幸福の匂い。
――これが、家庭というものなのだろうと、胸の奥に静かに沁み込んでいく。
それゆえに、その話が出たとき――胸の底で、ゆっくりと冷たい水が染みていくような感覚があった。
「セレナにも、そろそろ縁談の話を……ねえ」
かつてこの家を治めていた、オリオンとヴァルブルガ、
その引退した「元」当主たちからの軽やかな提案は、
日当たりの良いサロンには、あまりにも“現実的”すぎる響きを連れてきた。
「まだ、あの子は幼いわ」
アランは、思わずそう口にしていた。
静かに、けれど、はっきりとした拒絶の色を含む声だった。
レギュラスは、対してわずかに間を置いてから、柔らかく答えた。
「――ええ、でも……アルタイルも、もう決まったことですし」
確かに、長男であるアルタイルの婚約はすでに定まっていた。
家の名を継ぐ者として、生まれた時からその未来はある程度見越されていたのも事実。
だからこそ、セレナにも同じ道を――というのも、筋としてはごく自然だった。
けれど、アランは、どうしても心の中でその“自然”が、
娘という存在には少しだけ酷に響いてしまった。
セレナは、明るくて、素直で無邪気だ。
それでいて鋭く、本質を見抜く力がある。
そして、まっすぐに未来を見ている少女だった。
まだ、命をどこに向けるのか、自分の芯で選び取る自由があるはずの年齢で、
“嫁ぐべき相手”を定められてしまうことが、本当にこの子を幸せにするのか。
アランには、ひとりの母として、それが――痛かった。
娘は、男児ではない。
ゆえに家名を継ぐことはない。
だからこそ、彼女自身の“幸せ”の軸は、
誰よりも彼女自身のものであってほしい、と心から願っていた。
他の家の血のために従わされるのではなく、
誰かの政の駒として扱われるのでもなく、
彼女自身の意思で歩く人生を、アランは与えてやりたいのだと、静かに思っていた。
「……あの子には、もう少し、好きに笑っていて欲しいのよ」
アランは小さく囁くように言った。
サロンの窓の向こう、庭の陽だまりの中で、
セレナがレース編みの布をひるがえしながら兄に何かを話しかけていた。
その笑い声が風に紛れて聞こえてくる。
あれほど、無邪気で美しい笑顔。
あの笑顔を、見知らぬ“未来”に押し込めてはいけない――
ただ、それだけが母の切実な想いだった。
レギュラスは、何も言わなかった。
ただ、椅子の肘に添えた指に、僅かに力がこもった。
彼もまた、分かっているのだろう。
けれど、家の名を守り、家を導く者として背負う風は、
一個人の想いだけではどうにも支えきれないものなのかもしれなかった。
その日、陽は長く、セレナの笑い声はよく響いた。
そしてアランは、胸の奥でそっとひとつ祈る。
願わくば、この娘が自ら選ぶ未来が、
どうか誰かの手で書き換えられてしまいませんようにと。
――たとえ、この名の下にある限り、それがどれほど難しい願いであったとしても。
夕食の卓は暖かな灯りに包まれていた。
長い昼の光がすっと薄れていく時間。屋敷の食堂には、家族がそろって囲む食卓の、どこか柔らかな幸福が漂っていた。
陶器を鳴らす音、グラスの水のきらめき、そして静かに流れる会話。
何より、久しぶりに帰ってきた兄妹二人が加わることで、この屋敷にも鮮やかな命の気配が戻ってきていた。
そんな時間の中、レギュラスがふと手元を離し、セレナに視線を向けた。
言葉を選びかねるように一瞬間を置き、やや硬い声音で口を開く。
「……セレナ。ホグワーツには……仲良くしている男の子は、いるんです?」
その途端、アルタイルのグラスがかすかに揺れる。
「ぶっ」と噴き出さんばかりの動きで水をむせかけ、必死に手元を整えた。
アランは苦笑を隠し切れず、ナイフを置いたまま肩をすくめて笑みを漏らした。
恐らく父なりに――不慣れな話題を真剣に持ち出したつもりなのだろう。
そのぎこちない誠実さが、逆に食卓に柔らかな笑いの波紋を広げていた。
当の問いを受けたセレナはというと、自信に満ちた笑顔をたたえながら軽やかに答えた。
「もちろん、みんな私に夢中よ。
みんなと仲良くしてるわ。特別じゃなくって、全員仲良し」
その無邪気さと、堂々たる響きに、今度はレギュラスが思わず吹き出しそうになり、目元を崩した。
まさかそう返ってくるとは思ってもいなかったのだろう。
苦笑を深めるというより、むしろ微笑ましさが勝っていた。
その場の空気が完全に和らぐのに、アルタイルがとどめを刺した。
「母さんにそっくりなんですよ、セレナは。
今のスリザリンで“姫”って呼ばれてるくらいで……たぶん、父さんが思ってるよりずっと手強いですよ」
「まあ」アランが控えめに笑う。
「それは……母譲りではなく、ブラック家の血のせいです」
レギュラスが淡く応じて、家族の中に笑いが小さく、けれど確かに満ちていった。
やわらかな時間だった。
肩の力の抜けた、誰もが心のどこかを解いているような、心からの“家族の音”。
アランはグラスの縁を指先でなぞりながら、そっとセレナに目を向けた。
今こうして、何気なく笑いの中心にいるこの娘の姿を見ながら、思う。
――この子は、どこにいても光になる。
だからこそ、願う。
この明るさを誰にも歪めさせないように、
ずっと、セレナが自然に笑える場所にいてくれるように。
嫁ぐという言葉にはあまりに多くの“手放し”が含まれているけれど。
それならせめて――
娘の未来を照らし続けてくれるような男のもとであってほしい。
振り返らずに、冗談を言いながら歩いていけるような、
セレナの“らしさ”が守られる場所へと、どうかつながっていくように。
そんな思いが、アランの胸にそっと灯っていた。
それは、祈りであり、一母としての小さな願いでもあった。
夜の静寂に包まれた寝室で、魔法の灯りが優しく微笑んでいた。
一日の終わり、家族の笑い声の余韻がまだ空気のどこかに残っているような、そんな穏やかな時間だった。
レギュラスは椅子の背にもたれながら、まだ先ほどの食卓での出来事を思い返すように、小さく口元を緩めている。
「……あの子は、本当に……手強そうですね」
その声には、娘への愛しさと、どこか感嘆の色が混ざっていた。
あのセレナの無邪気で堂々たる宣言を思い出しているのだろう。
アランもまた、手に取った夜着をそっと畳みながら微笑む。
「みんなあの子に夢中、ですって?
その中からたった一人を選ぶなんて、きっと難しいでしょうね」
どこまでが事実でどこからが少女らしい誇張なのか、それは分からない。
けれど、なんとなく――その光景が目に浮かぶようだった。
セレナなら確かに、周囲を明るく照らし、多くの人から愛されているのだろうと、自然に想像できる。
レギュラスは、その時ふと思い出したように言った。
「あの頃……あなたも、姫でしたね。懐かしい」
その言葉に、アランの手が一瞬だけ止まる。
頬が、ほんの少し熱を帯びた。
「昔の話はやめてください……」
くすぐったいような、恥ずかしいような。
けれど同時に、胸の奥が微かに痛むような、複雑な想いが心を過ぎていく。
ホグワーツ時代――。
振り返ると、自分の記憶のほとんどが、シリウス・ブラックで埋め尽くされているように思えた。
彼の笑顔、彼の声、彼の背中。
いつも追いかけて、いつも想って、けれど決して手の届かない存在として――。
その想いにすべてを捧げて、他のものが見えなくなってしまっていた自分。
けれど、今になって思う。
あの頃から――もうすでに、レギュラスはいつも、自分のことを見てくれていたのだ。
静かに、一途に、変わることなく。
兄への想いに夢中になっていた自分の隣で、決して諦めることなく、ただ待ち続けてくれていた。
もしも、もしもあの時――
シリウスへの想いにすべてを奪われる前に、
レギュラスという人の真摯さに、もっと心を向けることができていたなら。
彼の想いの深さを、もっと早くに理解できていたなら。
そうすれば、もっと違う形で――もっと自然に、彼と歩んでいくことができたのかもしれない。
今、こうして彼の隣にいる。
その現実は間違いなく幸せだ。
けれど同時に、過去の自分への小さな後悔も、どうしても胸に滲んでしまう。
「……あの頃の私は、本当に何も見えていませんでした」
ぽつりと、アランが呟いた。
「でも……」
レギュラスは静かに微笑んだ。
「今、ここにいてくださる。それで十分です」
その優しさが、かえって胸を痛くさせる。
こんなにも長い間、変わらない想いを抱き続けてくれた人に、
自分は本当に見合うだけのものを返せているのだろうか。
夜風が窓を軽く叩き、二人の間に静かな時間が流れた。
過去への想いと、今への感謝が、複雑に胸の中で絡み合いながら――
それでも確かに、この瞬間の穏やかさを、アランは大切に思っていた。
夕暮れの光が屋敷を包み込む頃、アルタイルは石造りの階段に腰かけていた。
不意に耳に届いたのは、控えめに開かれる扉の音と、ふたつの足音。
父と母が連れ立って帰ってきたのだと、すぐに分かった。
春めいた風に乗って届いてくるふたりの声が、どこか穏やかだった。
言葉の内容は聞こえなかったけれど、何か確かに“よく馴染んだ空気”がそこには在った。
最近、任務に母が同行することが増えていた。
体調の悪化を知らされた日から、すぐにまた現地へ向かう姿を見たときは驚きもしたけれど、
今日のふたりのようすを見ていると、不思議と胸が温かくなる。
ただ、その胸の奥にふと浮かんだ疑問を、アルタイルは隠さず訊ねることにした。
「……大丈夫なんですか? 母さんが、あんなに出歩いていて」
それは責めではなかった。
心配と、ほんの少しの恐れ――また倒れてしまうのではないかという、息子としての純粋な不安だった。
レギュラスは、一瞬だけ視線を遠くの夕焼けに向け、それから静かに頷いた。
「……無理はしないように、してもらってます」
「……任務も、きちんと調整済みです。それに、同行というより、“隣にいる”ことが、いちばんの助けになると……彼女が思ってくれているのでしょう」
その声には張りつめたものはなく、そっと抱きしめるようなぬくもりがあった。
アルタイルはその響きに、静かに目を伏せた。
思えば――
ほんの少し前まで、レギュラスがどれほど母に優しく接しようと、そこに“応え”のようなものが見えたことは、あまりなかった。
父の愛情は一方通行のように感じていた。
鋭く誇り高いあの人が、母の身体を気遣い、言葉を選び、行動を調整する様子に、
どこか触れてはいけない痛みのようなものを感じたこともあった。
けれど今は違う。
母のまとう空気のなかに、父に向けた“意志”のような光が確かにあった。
遠巻きにふたりを見たとき、あるいは何気ない言葉を交わす姿にふと滲んでくる、あたたかな静けさ。
知らない時間が、ふたりの間にあった。
見届いていない日々のなかで、ふたりは少しずつ距離を詰めて、
きっと言葉では足りない想いを、手のひらや時間で伝え合ってきたのだろう。
それがいま、こうして目に見える形になっている。
アルタイルは胸の奥に、言葉にできない安堵を感じていた。
ずっと願っていた幸せが、ようやく育ち始めているのかもしれない。
望んでも得られなかったものが、静かに、正しい未来の形をとり始めている。
それを何にも声にしないまま、アルタイルはじっとその背中を見送った。
父の隣に並ぶ母が、迷いなくその歩調を合わせている気がして、それだけで本当に嬉しかった。
屋敷の玄関ホールの扉が静かに開いた。
午後の遅い陽光が大理石の床に差し込み、そこに長くふたつの影が落ちる。
父と母が、並んで帰ってきた。
使用人が扉を閉める音。
マントの裾が揺れて、ふたりの間に交わされる微かな言葉。
「お疲れさまです、お父さま、お母さま」
セレナは、少しだけ遠くから、二人に向かって声をかけた。
いつものように明るい調子で――けれど、胸の内は不意に揺れていた。
父が穏やかに答え、母が楽しげに笑う。
何でもないようなやり取り。ありふれていて、さりげない――それだけのことなのに、
セレナは立ち尽くしたまま、目の前の景色に奇妙な感動を覚えていた。
たとえば、どこにでもあるような家庭の光景。
誰かが帰宅し、誰かが出迎え、言葉を交わし、笑みを交換する。
だというのに、これほど長く自分が渇望してきた光景が、いま、たしかにそこにあった。
父が母に話しかけていた。
淡く低い声で、「あの子が元気そうで安心しましたね」と漏らし、
母は微笑みながら「ええ、本当に」と応えていた。
ただそれだけのやり取り。
なのに、セレナは深く息を呑んでいた。
「お父さま、お母さま、どこに行ってたんです?」
ふっと浮かんで、出た言葉だった。
けれど、それはただのきっかけにすぎなかった。
問いには意味はなかった。ただ――
“この空気に触れていたかった”――それだけだった。
言葉が交わされるたび、その背中に浮かぶやわらかな関係の気配が、セレナの胸を満たしていく。
ずっと欲しかったものが、そこにあった。
いつから願っていたのかも分からない何かが、いま手のひらに灯されていた気がした。
そして、彼女はふと気づく。
この光景のすべての起点に立っていたのは、やはり――父だった。
母の揺れる心を、長い時間をかけて支え、守り、何も奪わず、ただ応えてきた。
あまりにも静かで強いその愛が、この瞬間をつくり出していた。
シリウス・ブラック。
母が一度、心から愛した男。
かつて、自分にとって“母の想い”そのものを象徴するような存在だったあの名前を、
いま思い出しても、不思議と胸が痛まなかった。
ただ、思った。
父が、勝ったのだ。
あの威風と自由を纏ったシリウスでさえ、
父という人を超えることは、とうとう叶わなかったのだと。
奪うのではなく、忍び、寄り添い、真っすぐに在り続けることで、
母の想いを「取り戻した」のは――レギュラス・ブラックという男だった。
それが、こんなにも静かで、力強い真実として、セレナの胸に残った。
何も言わずに歩く父の背中に――
そっと微笑む母の姿に、セレナは己の核心を見出す。
やはり父は、すべてにおいて絶対なのだ。
誇り。強さ。愛。選び方も、守り方も――セレナが信じるすべては、やはりこの人のなかにある。
優れていて、遠くて、けれど確かに「帰るべき場所」。
彼の娘であることを、ただもう誇らしくてたまらなかった。
夕陽は廊下を照らし、ふたりの影を、そっとひとつに重ねていた。
セレナはその光景を、胸に深く――静かに刻んだ。
