4章
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夕暮れの草原を背に、小高い丘の上に建てられた古い校舎の陰で、アルタイルとシリウスは並んで腰かけていた。
課外授業を終えた帰り道、人の気配の少ない時間帯に、ふたりだけの静かな対話の空気が流れていた。
風が頬をやわらかく撫でてゆく。
遠くから鳥の羽ばたく音が微かに重なっただけで、あとはとても静かだった。
「…… アランは、今どんなだ?」
不意に、シリウスがそう訊ねた。
声音はごく自然だった。
けれど、どこか言葉の奥に、過去の記憶をなぞるような、かすかな揺らぎがあった。
答える前に、ほんの一瞬だけ言葉を選ぶ時間が必要だった。
アルタイルは唇を引き結び、そっと口を開いた。
「……母は今、父と一緒に国外に出ているそうです。
一時的な任務ですが……元気にしていると聞いています」
それを言った瞬間だった。
隣でシリウスの表情がわずかに動いた。
驚いたように見える目――そして、その奥には明らかに戸惑いの色が灯っていた。
その顔を見たとき、アルタイルははっと胸を締められる思いがした。
言わない方がよかった、と。
母を、ずっと心に留めてきたであろうこの男の前で、
その“想い”を打ち砕くように、父と母が仲睦まじく過ごす姿を想像させてしまった自分の言葉が急に重くなる。
けれど──それでも。
母は今、しっかりと生きていて、外の世界を歩いている。
長い間、体の不調と静かな屋敷の中に閉じこもるような日々を送っていた彼女が、
こうして“光の中”にあることを、誰よりも肯定してあげたかった。
だから、あえて本当のことを話したのだ。
たとえ誰かの胸を刺してしまうとしても。
「……そうか」
シリウスが、静かに言った。
「……ちゃんと元気でいてくれて、よかったよ」
穏やかな笑みだった。
けれどその輪郭には、どこか翳りが混じっている。
自分に言い聞かせるように、心の奥で何かを抱き締めるように――そんな表情だった。
陽の傾きが彼の半身を照らし、もう片方に長い影を落としていた。
その影までもが、どこか寂しげに見えた。
やはり、言わなければよかったのかもしれないと、アルタイルの心に遅れて波打つ想いが広がる。
父と母の距離が近くあることは、息子として、嬉しいことだった。
父のそばで母が優しく笑っている姿を想像するだけで、胸の奥がほどけた。
そうあるべきだと思った。
家族として。
夫婦として。
だが一方で──
今隣に座るこの人の存在を思うと、それだけでは喜べなかった。
母という存在に、父とは異なる種類の深い想いを抱き、
けれど決してその手が届くことはなかった男。
その人に、母の今と、父と過ごす時間を伝えてしまうことの重みを――
アルタイルは、骨の奥で感じていた。
満ちる幸福の裏で、きっと同じだけの空白ができてしまう。
誰か一人の安らぎの裏に、
誰か一人の思いが静かに閉じ込められてゆく。
それが“均衡”だと分かっていたとしても、
自分にはそのどちらの側にも立ちきれないことが、残酷なくらい苦しかった。
「……先生、本当は、ずっと……母のこと——」
そこまで言いかけて、アルタイルはやめた。
それ以上言葉にするには、あまりにも繊細な感情だった。
シリウスは静かに笑うだけだった。
「元気なら、それでいい。……本当に、それでいいんだよ」
その言葉を信じるには、あまりにも目が痛かった。
夕暮れの風が、ふたりのあいだを通りすぎていく。
葉のない枝が音もなく揺れて、落ちていったひとつひとつの感情を、そっと受け止めるようにささやいた。
ホグワーツの空は、静かに雪を孕んだ雲に覆われていた。
季節は初冬。校庭の端の地面が霜をうっすらと噛んで白く染まるなか、防衛術の課外授業が正門裏の訓練場で静かに進められていた。
アリス・ブラックがその場にいたのは、特別な日だった。
シリウスからの要請で、いくつかの高度な防御術を補助するために――
生徒たちの魔力の動きを読み取り、言葉に頼らず魔法を運ぶ術を少しでも教えるために。
けれど、その目的とは別に、彼女の視線がふと一箇所に、鋭く縫いつけられた。
少年がいた。
ひときわ姿勢が正しく、他の生徒たちに比べて妙に落ち着いた雰囲気を纏っている。
シリウスの隣に腰を下ろし、何かを言葉少なに交わしている最中だった。
髪、顔の彫り、佇まい、仕草の一つにいたるまで――
一目で、アリスは分かってしまった。
あれは、レギュラス・ブラックの息子だ。
胸の奥が、ひどく軋んだ。
理屈など必要ない。
名を知らなくても、その存在が身体のどこかと響きあって、「わかってしまった」。
あの男の血を引く者。
声を荒げたこともないのに、肌に怯えを刷り込むような存在だったレギュラス。
その”彼”によく似た――いや、もはや“彼そのもの”に見えてしまうその少年を目前にして、
アリスの心は静かに崩れ始めていた。
「……息が、少し、詰まる」
それほど静かに、怖いくらいに、胸が苦しかった。
少し前まで封じていたはずの、深い感情が形を持ち始める。
少年は何も知らない。
それでも、その小さな背に貼りついた「名前」が、
あまりにも残酷な影を連れてくる。
黒い家系の誇りの中心に立つような、あの名前。
レギュラス・ブラック――そしてその子、アルタイル・ブラック。
父と同じように。
未来において、彼もまた闇を選ぶのだろうか。
選ばされるのだろうか。
アリスは自分でも信じられないほど、静かな怒りを抱いてしまっていた。
その怒りの矛先が、無垢なはずの少年へと向くことに、自分自身で驚き、嫌悪していた。
それでも、どうしても否定できなかった。
――この子がいなければ。
この思いが頭をかすめたとき、すぐにアリスはその考えに震えるような罪悪感を覚えた。
それなのに、どうしてこんな言葉が浮かんでしまうのだろう。
この子がいなければ、アランは……
あんな男の隣に、あんな魔法に、縛られた日々から離れてくれるのだろうか?
光を歩くべきだった人が、自らを闇においてしまった、その根に――
この少年がいるのではないかと、どこかで思ってしまう自分がいた。
「最低だ」と、心の中で自分を詰る。
それでも、胸の中では止まらなかった。
アルタイルがレギュラスに似すぎていること、
その血筋があまりにも“美しく整いすぎて”いることが、
この上なく恐ろしく、皮膚の下に鋭く刺さるようだった。
ひとつ息を吸い、アリスは背筋を伸ばした。
少年が悪いのではない。
わかっている。
それでも――追い詰められた正義の宿る場所には、
そんな綻びすらも、必ず影になるのだ。
そのことを、噛みしめるように。
彼女は、少年のほうから視線を静かに外した。
ホグワーツの広々とした中庭に冬の冷たい風が通り抜け、雲一つない空には光の輪郭のような静寂が広がっていた。
アルタイル・ブラックは、防衛術の課外授業の見学に訪れた生徒たちの中に混じっていた。
その視線は、一人の女性に自然と向けられた。
アリス・ブラック。
彼女はシリウス・ブラックの隣に立ち、教師の補佐役として生徒たちに穏やかな言葉をかけていた。
動きは静かで慎み深く、けれど、その周囲には揺るぎない落ち着きが漂っている。
整えられた髪、無駄のない所作。
教壇の横に立たされた意図ではなく、自らの意志でそこに立つ人の、自然な風格があった。
アルタイルは、その姿を目にした瞬間、奇妙な思いに包まれていた。
かつて――
この人は、ただのマグルの少女だったのだ。
魔法を持たない世界から来た、血筋にも力にも守られることのなかった存在。
けれども、父の兄、シリウス・ブラックが養子として迎え入れたことで、彼女は“ブラック”の名を持つようになった。
それが、どれほど異質なことか。
どれほど”黒の家系”を知る者にとって異例なことか。
その違和感がアルタイルの中を静かに、けれど深く流れていた。
おそらく、父はこの人を“許していない”。
何かを口にしたことも明言したことも一度もない。
けれど、背後の沈黙の重さは、アルタイルにも伝わっていた。
レギュラス・ブラックという男が、どこまでも冷静で、何も曝け出さない人であるがゆえに――
その沈黙の内にある強い敵意は、より濃く感じられたのかもしれない。
アルタイル自身に、マグル生まれへの憎悪はなかった。
ただ、「違うものは、違う」――そう思っていた。
ブラックの血は誇りだ。
何代にもわたって続く純血の系譜は、誇示すべきものではなく、自分という存在の“深み”を形づくる根だと思っている。
さらに、母はセシール家の血筋を継ぎ、古くから魔法薬学に通じていた由緒ある家系の出身。
――そんなふたりの間に生まれた自分たちは、“紛れもない純血”だった。
誇りというのは、誰かを見下すためではなく、
「何者として立っているのか」を見失わぬための灯だ。
けれど、たとえばアリス・ブラックのような人が、それと同じ位置に立つとなると――
心に静かな齟齬が生まれるのを、アルタイルは抑えることができなかった。
差別ではない。
そう強く思う。
だが、「何かは違う」のだ。
それを曖昧にしたまま、“全て同じだ”と包み込んでしまう社会が、
はたして本当に希望なのか――そう思う自分もいた。
「……そのままでは、自分の考えが何者かも分からなくなる」
アルタイルはふと息を吐いてそう思った。
アリス・ブラックは、人として立派だ。
それには疑いようがない。
シリウスのそばできちんと役割を果たし、生徒たちに魔法を伝え、時折笑顔さえ見せている。
それでも――
この人が“ブラック”の名を持っていることが、自分の中の何かを引き裂くように揺らすのだ。
父の敵なのか、母の歪められた過去の象徴なのか――
それとも、ただ知識では割り切れない“血の意識”がまだ自分にも在るのか。
何か答えなど出るはずがないその複雑さを胸に抱えながら、
アルタイルは黙って視線を逸らした。
まだ、彼にはこの気持ちの正体を語ることも、人に伝えることもできなかった。
けれど、それが確かに“ある”ということだけは、どうしようもなく胸に刻まれていた。
夕暮れの光が薄く差し込むダイニング。
細やかに整えられた食卓には温かな香りたつ料理が並べられていた。
ささやかな任務の合間にふたりが共に囲む夕食――一見、なんの変哲もない、穏やかな時間だった。
けれどその席に座るアランの指先は、僅かに震えていた。
ナイフを持つ手の力が入らず、パンをちぎる動作すら脳の奥で鈍く滲む痛みとして響いてくる。
食欲は、最初から一滴も湧いていなかった。
けれど――口にできなかった。
この身体の不調を、レギュラスに知られてはいけなかった。
言えばきっと、彼は任務から自分を外す。
守ることしか選ぼうとしない彼のことだから、遠くへ連れていくことをやめてしまう。
それだけはどうしても避けたかった。
だから、薬を使った。
痛みと吐き気を鈍らせる処方を、自ら調合して服用した。
魔法薬の知識があることは、時として便利で、時として――あまりに皮肉だった。
「アラン……食べてます?」
レギュラスの声がやわらかく問いかける。
その瞳には、さりげないけれど鋭い注意深さが宿っていた。
アランは微かに笑って、しらばくれるように首をかしげる。
「もちろん……少し胃の調子が優れないだけで」
言い淀むことなく口にしたつもりだった。
けれど、きっとそれは“無理をしている声”として響いていたのだろう。
レギュラスは皿の上の肉を静かに見つめると、ナイフとフォークを手に取った。
何の言葉もなく、アランの皿側へ手を伸ばし、細かく、一口に食べやすく切り分けていく。
下心も押しつけもなく、ただ丁寧に。
「ちゃんと食べないと……」
その声音には、命をくれる魔法のようなやさしさがあった。
追いつめるような強さではなく、ただ大切なものにきちんと生きていてほしいという、あたたかさだけでできた言葉だった。
だからこそ、アランは――断れなかった。
皿の上の整えられた肉を、無理にでも口へ運ぶ。
咀嚼して、飲み込んで、笑顔を絶やさぬように微笑む。
中からじっとり汗がにじむのを、笑みに隠して。
その夜――
食器の片付けを申し出て、アランはひとり台所へと立った。
小さな音も立てたくないほどに静かな室内。
食器を洗っている途中で、ふいに胃の奥に鈍い波がぶつかってきた。
瞬間、意識が霞んだ。
身体がきゅうっと縮む。
器に触れていた手がふらつき、慌てて流しの縁に身体を支えた瞬間、
込み上げるような強い吐き気に襲われた。
感情すらついてこないほどの、衝動的な苦しさ。
喉がうねる。
胃が拒絶するように、すべてを外に押し出そうとする。
食べたばかりのものが一気に逆流し、器に響く胃液の音と、止まらない咳と涙。
冷や汗が肌を這う。
髪が頬に張りつき、視界が揺れてにじむ。
こんなはずじゃなかった――
誤魔化せると思った。
乗り越えられると思った。
けれど、体はもうとっくに限界を知っていた。
アランは深く息を吸おうとするが、肺が圧迫されるほどに狭まっていた。
床に手をついて、その場にゆっくりと崩れ込む。
吐き戻しにまだ震える身体を抱えながら、喉の奥に残る焼けつくような感触を、ただ黙って耐えた。
気づかれてはいけない。
知られてはいけない。
けれど、その思いを支えるだけの力が、
今はもう、自分の中に残っているのだろうかと――
微かに差し込む冷たい月明かりを見つめながら、静かに思った。
台所に響く水音がぴたりと止み、次の瞬間、異変に気づいた使用人が慌てて扉を押し開けてきた。
「奥様……いかがなさいました?」
その声は、今まで耳にした中で一番緊迫していた。
かすかな陶器の揺れる音、匂い、わずかに立ち上る薬の香。
使用人は、すべてを一瞬で察した。
皿を洗おうとしたことそのものが、異様だった。
いつもなら「結構です」と微笑んで手を引いてくださる奥方が、
今夜に限っては――食後、ひとりで静かに片づけを申し出た。
まさか、そんな理由があったとは。
視線の先。
流しの端に寄りかかるようにしゃがみ込み、
崩れるような姿勢で床に這いつくばるアランの細い背中があった。
「奥様……っ」
使用人は駆け寄ると、そっと彼女の肩に手を添えた。
肌が熱を持っていた。
その感触に、瞬時に判断する。尋常ではない。
意識がこちらにあるのかも定かではない。
細く、美しく保たれていた身体に宿るべき魔力の輪郭そのものが、いまにも溶けてしまいそうだった。
「医務官を……すぐ呼びます」
使用人がそう告げたそのとき、アランの唇がわずかに震える。
――だめ。
そう言いたかった。
お願いだから、そうしないで。
大袈裟なことにはしたくない。
レギュラスに知られたくない。
せめて、少しだけ時間を稼いで。
けれど、声は出なかった。
喉の奥に泥のような重さが詰まり、焦るほどに言葉が遠のいていく。
かすれた吐息しか出ない。
指先も動かせない。
自分の意思が身体のどこにも届かないまま、意識の境界線がにじみ始めていく。
冷えた床が頬を支えた。
硬いのに、ひどく柔らかく、それが逆に怖かった。
目の奥が暗く揺れて、視界が収束する――
閉じるような意志もなく、自然と世界が狭まっていく。
使用人は、すぐさま背後に身を返し声を上げた。
駆け出して廊下へ、誰かを――医務官を求めて。
けれどアランは、その声も遠く、まるでガラス越しの音のようにしか聞こえなかった。
ただ深く深く意識が沈んでいく。
このまま、静かな湖底まで落ちるように、揺れもせず、吸い込まれていく――
そんな感覚だった。
それでも心のどこかで、ひとつだけ願っていた。
「どうか……レギュラスには、まだ……知られたくない」
その一念だけが、最後まで、胸の奥でゆるく燃えていた。
台所の扉が開け放たれたまま、空気は冷気を帯び、奥から漂ってくる夜の風がアランの髪をかすかに揺らしていた。
その頬はうっすらと汗ばみ、血の気が引いていた。
床に伏したままの身体には力が入らず、ただ視界の隅に、差し込む淡い灯りと人影が揺れているのが見えた。
遠くで誰かの足音、急ぎ駆けていく衣擦れ――そのすべてが夢の外側のように遠く、現実と乖離していた。
「アラン…… アラン、聞こえますか」
静かだが、どこか鋭く震える声が耳元に落ちた。
意識の水面が揺れる。切実なその響きを、どこかで知っていた。
レギュラス――
呼ばれてもいないのに、彼の声が身体を包み込んでくるような感覚があって。
どこにも触れられていないはずなのに、胸の奥が深く沈んでいたものごとが、一気に浮かびあがりそうでこわかった。
やめて。今は、知らないで。
そう叫ぼうとしても、唇は動かない。
声は出ない。手のひらも、腕も――動かせなかった。
それでも、部屋の空気が変わったのがわかった。
「どいてください」
凛とした、そして冷ややかな音色。
それはもう、紛れもなくレギュラス・ブラックの声だった。
聞き慣れたはずなのに、今この場に響いているそれは、どこか異様だった。
怒りと恐れと焦り――それらすべてを押し殺すようにして、凍てついた氷のように静かだった。
彼がしゃがみ込み、そっと手を差し伸べる気配があった。
指が腕に触れただけで、その手が震えているのが伝わる。
こんなにも冷静なはずの彼の掌に、こんな冷たい熱が宿っているなんて―― アランでなければ、きっと、気づかなかった。
「……なぜ、黙っていたんですか」
問いかけるように、しかし問わずにいられない声。
それは責めではない。
叫びでもない。
ただ、自分では持ちえなかった“恐れ”が、初めて彼という人の輪郭に現れた瞬間だった。
なにも答えられないまま、アランは彼の胸元に背を預けるように抱きかかえられた。
その体温が、自分よりも低いことに、どこか痛みを覚えた。
「もう、隠さないでください」
それは、命令ではなかった。
懇願でも哀願とも違った。
けれど――それよりも重たく、響いた声だった。
衣擦れひとつ、空気の揺れひとつが、唇に触れるよりも優しくて切なかった。
アランは閉じた瞼の下で、静かに涙をひとすじだけ流した。
それは、自分の不調のゆえではなく。
この人の手に、こうして包まれてしまった瞬間に――
自分の中の「もう大丈夫」と言い切るためのすべてが、
あまりにも脆く崩れ去ってしまったからだった。
寝室の空間には、奇妙な静けさが漂っていた。
カーテン越しに差し込む午後の光は淡く滲み、風の届かない部屋の空気がほの白く霞んで見える。
その真ん中で、淡々と医務官の声が響いていた。
「体力の著しい消耗と、長期的な魔法薬の使用による内臓への負荷。――おそらく、かなり以前から続いていたものでしょう」
専門用語をともなう説明は、冷静で、無機質にすら聞こえる。
それが事実だからこそ、レギュラスの胸に突き刺さった。
彼は黙っていた。
けれどその横顔は、いつもの凛とした冷静の仮面を保つにはあまりにも歪んでいた。
目尻がわずかに赤く、喉の奥に無言の痛みを抱え込むように、肩がほんの少し震えている。
泣く寸前だった。
アランはその顔を見つめて、視線を逸らしたくなった。
けれど逸らすことはできなかった。
――なんて顔をするの。
そう言って、黙らせてしまいたくなるほどに、
レギュラスのその苦しげな顔は、アランの胸を締めつけた。
だが、本当にアランが胸を痛めていたのは、自分の身体のことではなかった。
そうではない。違うのだ。
アランが何よりも怖れていたのは、
このことで彼が「もうあなたは連れて行けない」と判断することだった。
たとえ自分の体が壊れていったとしても、
ただ遠ざけられてしまうことが――生きるより、苦しかった。
レギュラスは、また一人で進んでしまう。
どんな任務も、どんな地獄も、自分を守ろうとするあまり独りで背負い込んでしまう。
あの人はそういう性質を、根の奥に持っている。
あの日――
闇の帝王の前で、命と引き換えに分霊箱の秘密を暴き、アランの命を救おうとした。
あの凍るような取引の場でさえ、ただアランを“守る”ことだけを選択した。
それほどまでに、誰より真っ直ぐな人だった。
守ろうとする意思が、あまりにも純粋で、研ぎ澄まされていて――
だからこそ、危ういのだった。
だからこそ、アランはそばにいたいと願った。
ただ”彼の隣にいたい”のではない。
隣で、手を添えたい。
そのあまりにも真っすぐな選択に、時として新しい視点を渡せるようでありたい。
魔法省でも、任務の地でも、あの日の洞窟の中でも。
彼が一人きりで、「これでいい」と思って突き進んでしまう前に、
そっとその袖を引いて、「それでも、私がいる」と伝えられる距離にいたかった。
けれど。
けれど、もう二度と許されないだろう。
この身体は、“連れていくには脆すぎる”という烙印を、いま押されてしまった。
「お願いだから、離さないで」
声にこそ出せなかったけれど、アランの心はそう必死に叫んでいた。
レギュラスの手は、ずっとそばにあった。
けれど、それがこれからどんどん、任務の名の下に引き剥がされていく未来を想像してしまう。
だから今、アランは押し寄せる不安のなかで、ただ一つを確かに願っていた。
――この人が、これから彼自身よりもこの身を守ろうとしてくれたその時、
せめて傍で、違う答えを差し出せる存在でありたい。
そのために、生きなければならないのだと。
そして、弱った身体に代われるだけの意志を、今は持ち続けなければならないと。
微かな痛みと、静かな祈りが、アランの胸に、しんと燃えていた。
レギュラスは、医務官の説明が終わるや否や、その場を崩れる寸前の意志で立ち尽くした。
手は握られていたが、力が入っておらず、指先から体温が抜け落ちているようだった。
アランは、そんな彼の姿を見上げていた。
ベッドに横たわる自分の目線から見上げるレギュラスは、いつもよりどこか小さく、そしてひどく遠く感じられた。
彼はまだ、言葉をひとつも発していなかった。
けれど、沈黙は重く語っていた。
責めるわけではない。ただ、あまりに痛ましく、あまりに深い感情が、その瞳の奥で言葉の迷路になって彷徨っていた。
それでも彼はようやく、小さく息を吸い、低い声で言った。
「どうして……ここまで……」
その問いが向けられているのが誰なのか、答える必要があるのか、アランにはわからなかった。
けれど、目をそらすことなく、視線で応えた。
きっと、彼はこれから遠ざけるだろう――自分を。
「守るために使うべき力だ」と、またそう言って、ひとりで全てを引き受けようとする。
あの獣のような静けさを抱えて。
でも、今のレギュラスがこの場に立っているのは、自分がいたから。
誰かに命を賭けてでも守りたいと思わせたから、彼はここまで生き延びてきた――
それを、彼自身は忘れているのではないか。
アランは、震える右手をそっと上げた。
少しだけベッドの端に座り直したレギュラスの手へ、ゆっくりと、それを重ねる。
細くて冷たい指。
けれどしっかりと、その指を絡めとるように握った。
「私は、あなたのそばにいるために生きていたんです。
ただ生き延びるためじゃありません」
かすれた声。
言葉よりも手の温もりの方が伝わったかもしれない。
けれど、レギュラスの肩がふわりと揺れる。
「あなたが何度でも私を守ろうとするなら、
私は何度でも――あなたを支える方法を見つけます」
その宣言は、力強いものではなかった。
ただ穏やかで、けれど揺るがない。芯だけをしっかりと残した言葉だった。
レギュラスはうつむいたまま、何かをこらえるようにわずかに目を閉じた。
その横顔はまだ晴れず、むしろ新たな迷いを受け止めているようにも見えた。
だが、その手は── アランの手を、少しだけ握り返していた。
ほんの重なりのような小さな力。
それでも、確かに“そこにいたい”という意思が感じられた。
アランは、何も言わなかった。
この一瞬が、彼に届いていればいい。
次に何を選び、どこへ向かっても、
ふたりの間には“選び続ける理由”があると、ただ静かに伝わってほしかった。
冬の冷え込む空気の中、
薄く結ばれた手と沈黙のあいだに、言葉にならない約束がひとつゆっくりと息をした。
それは、傷つきながらも優しく寄り添うふたりだけが紡げる強さのかたちだった。
室内には深夜の静けさが漂っていた。
魔灯は落とされ、窓の向こうには銀の月が、雲の切れ間からそっと顔を覗かせていた。
その穏やかな光のなか、ふたりは、肩を並べて静かに横たわっていた。
アランの手は、そっとレギュラスの手に添えられている。
指と指が、互いを確かめるように結ばれ、誰も割り込めない静かな橋を架けていた。
ただそのぬくもりがあるだけで、夜の冷え込みも不安も、少しだけ遠ざかってくれるようだった。
レギュラスの胸の奥には、満ちる想いが静かに溢れていた。
アランが、言ってくれた。
――「私は何度でも、あなたを支える方法を見つけます」と。
それは決して、大きな声ではなかった。
けれど、過去の記憶のどれとも似ていないほど――深く深く、沁みた。
たぶんこれから先、ふとした瞬間にも思い出してしまうだろう。
任務の最中にも、寂しさの中にも、あるいは死の境に立たされたときにも。
彼女の声が、温もりが、胸に焼きついて離れない言葉として息をし続けるのだろう。
その言葉が、生きる理由にも、死なない決意にもなる。
そんな予感があった。
「ねえ、レギュラス」
枕元でアランの声がした。
遠くを見つめるようなまなざしのまま、目を閉じずにぽつりと続ける。
「私がいつか、また“死”を受け入れなきゃならない時が来るなら――」
「レギュラス、それはあなたの腕の中がいいです」
その一言は、重くもなく、淡く透き通るくらいに静かだった。
それだけに、レギュラスの心の奥に、深く深く沈んでいった。
魂の芯を震わすような、あたたかく、そしてひたむきな願い。
受け止めた瞬間、心が軋んだような気がした。
そんな未来など、来なければいいと願いながらも、
彼女がそれを想像するほどの意志を持って、今ここにいてくれている、ということの切実さに、胸が熱を帯びる。
レギュラスは何も言わずに、手を強く握り返した。
それが自分に出来る唯一の答えだった。
そして、少しの沈黙の後、彼が口を開いた。
「……そのあとすぐに、追いかけてもいいですか?」
言葉の調子を軽く整えるようにして、けれどその響きは切実で、真面目だった。
愛情も悲しみも、全部を無言のうちに含みながら――それでも、自然に、優しく届いた。
アランが、少し仰向けを向いて彼を見た。
やや呆れたような微笑を浮かべて、小さな声で言う。
「ええ、あなたなら、きっとそうしそうですね」
まるでそれが決まりきった未来かのように、彼女は言った。
自惚れとも皮肉ともつかない、けれど確かに、彼を知っていなければ出せない言葉。
レギュラスはその声音に、微かに笑った。
目も口元も、久しく見せなかったやわらかさを取り戻している。
まるで少しだけ、昔の少年の顔に戻ったかのような、穏やかな表情。
「……絶対なんてない、って」
そう続けた彼の声は、ほんの少し、震えていた。
「そういうことは知っている。言葉も誓いも、たったひとつで何かを守れるなんて、幻想だって」
それでも――と、彼は静かに言った。
「それでも、出来る限り……あなたと一緒に、そうでありたいと思ってます」
一流の魔法使いとして、無数の任務を抱え、出生と血と覚悟の上に立って生きてきた彼が、
今この場で、ひとりの人間としての願いを、やっと、ようやく口にしていた。
もう、強くあることだけがすべてではなかった。
今隣にいるアランに、それが教えられたのだ。
鍵を開けるように、アランの手がわずかに彼の手を撫で、
ふたりの指先が、もう一度しっかりと結ばれる。
時計は何の音も立てず、人の息づかいだけが夜の空間を満たしていた。
ふたりで眠りにつく夜には、
絶対ではないものたちが、確かなあたたかさをくれると――
静かに信じられるだけの、やさしい時間が流れていた。
課外授業を終えた帰り道、人の気配の少ない時間帯に、ふたりだけの静かな対話の空気が流れていた。
風が頬をやわらかく撫でてゆく。
遠くから鳥の羽ばたく音が微かに重なっただけで、あとはとても静かだった。
「…… アランは、今どんなだ?」
不意に、シリウスがそう訊ねた。
声音はごく自然だった。
けれど、どこか言葉の奥に、過去の記憶をなぞるような、かすかな揺らぎがあった。
答える前に、ほんの一瞬だけ言葉を選ぶ時間が必要だった。
アルタイルは唇を引き結び、そっと口を開いた。
「……母は今、父と一緒に国外に出ているそうです。
一時的な任務ですが……元気にしていると聞いています」
それを言った瞬間だった。
隣でシリウスの表情がわずかに動いた。
驚いたように見える目――そして、その奥には明らかに戸惑いの色が灯っていた。
その顔を見たとき、アルタイルははっと胸を締められる思いがした。
言わない方がよかった、と。
母を、ずっと心に留めてきたであろうこの男の前で、
その“想い”を打ち砕くように、父と母が仲睦まじく過ごす姿を想像させてしまった自分の言葉が急に重くなる。
けれど──それでも。
母は今、しっかりと生きていて、外の世界を歩いている。
長い間、体の不調と静かな屋敷の中に閉じこもるような日々を送っていた彼女が、
こうして“光の中”にあることを、誰よりも肯定してあげたかった。
だから、あえて本当のことを話したのだ。
たとえ誰かの胸を刺してしまうとしても。
「……そうか」
シリウスが、静かに言った。
「……ちゃんと元気でいてくれて、よかったよ」
穏やかな笑みだった。
けれどその輪郭には、どこか翳りが混じっている。
自分に言い聞かせるように、心の奥で何かを抱き締めるように――そんな表情だった。
陽の傾きが彼の半身を照らし、もう片方に長い影を落としていた。
その影までもが、どこか寂しげに見えた。
やはり、言わなければよかったのかもしれないと、アルタイルの心に遅れて波打つ想いが広がる。
父と母の距離が近くあることは、息子として、嬉しいことだった。
父のそばで母が優しく笑っている姿を想像するだけで、胸の奥がほどけた。
そうあるべきだと思った。
家族として。
夫婦として。
だが一方で──
今隣に座るこの人の存在を思うと、それだけでは喜べなかった。
母という存在に、父とは異なる種類の深い想いを抱き、
けれど決してその手が届くことはなかった男。
その人に、母の今と、父と過ごす時間を伝えてしまうことの重みを――
アルタイルは、骨の奥で感じていた。
満ちる幸福の裏で、きっと同じだけの空白ができてしまう。
誰か一人の安らぎの裏に、
誰か一人の思いが静かに閉じ込められてゆく。
それが“均衡”だと分かっていたとしても、
自分にはそのどちらの側にも立ちきれないことが、残酷なくらい苦しかった。
「……先生、本当は、ずっと……母のこと——」
そこまで言いかけて、アルタイルはやめた。
それ以上言葉にするには、あまりにも繊細な感情だった。
シリウスは静かに笑うだけだった。
「元気なら、それでいい。……本当に、それでいいんだよ」
その言葉を信じるには、あまりにも目が痛かった。
夕暮れの風が、ふたりのあいだを通りすぎていく。
葉のない枝が音もなく揺れて、落ちていったひとつひとつの感情を、そっと受け止めるようにささやいた。
ホグワーツの空は、静かに雪を孕んだ雲に覆われていた。
季節は初冬。校庭の端の地面が霜をうっすらと噛んで白く染まるなか、防衛術の課外授業が正門裏の訓練場で静かに進められていた。
アリス・ブラックがその場にいたのは、特別な日だった。
シリウスからの要請で、いくつかの高度な防御術を補助するために――
生徒たちの魔力の動きを読み取り、言葉に頼らず魔法を運ぶ術を少しでも教えるために。
けれど、その目的とは別に、彼女の視線がふと一箇所に、鋭く縫いつけられた。
少年がいた。
ひときわ姿勢が正しく、他の生徒たちに比べて妙に落ち着いた雰囲気を纏っている。
シリウスの隣に腰を下ろし、何かを言葉少なに交わしている最中だった。
髪、顔の彫り、佇まい、仕草の一つにいたるまで――
一目で、アリスは分かってしまった。
あれは、レギュラス・ブラックの息子だ。
胸の奥が、ひどく軋んだ。
理屈など必要ない。
名を知らなくても、その存在が身体のどこかと響きあって、「わかってしまった」。
あの男の血を引く者。
声を荒げたこともないのに、肌に怯えを刷り込むような存在だったレギュラス。
その”彼”によく似た――いや、もはや“彼そのもの”に見えてしまうその少年を目前にして、
アリスの心は静かに崩れ始めていた。
「……息が、少し、詰まる」
それほど静かに、怖いくらいに、胸が苦しかった。
少し前まで封じていたはずの、深い感情が形を持ち始める。
少年は何も知らない。
それでも、その小さな背に貼りついた「名前」が、
あまりにも残酷な影を連れてくる。
黒い家系の誇りの中心に立つような、あの名前。
レギュラス・ブラック――そしてその子、アルタイル・ブラック。
父と同じように。
未来において、彼もまた闇を選ぶのだろうか。
選ばされるのだろうか。
アリスは自分でも信じられないほど、静かな怒りを抱いてしまっていた。
その怒りの矛先が、無垢なはずの少年へと向くことに、自分自身で驚き、嫌悪していた。
それでも、どうしても否定できなかった。
――この子がいなければ。
この思いが頭をかすめたとき、すぐにアリスはその考えに震えるような罪悪感を覚えた。
それなのに、どうしてこんな言葉が浮かんでしまうのだろう。
この子がいなければ、アランは……
あんな男の隣に、あんな魔法に、縛られた日々から離れてくれるのだろうか?
光を歩くべきだった人が、自らを闇においてしまった、その根に――
この少年がいるのではないかと、どこかで思ってしまう自分がいた。
「最低だ」と、心の中で自分を詰る。
それでも、胸の中では止まらなかった。
アルタイルがレギュラスに似すぎていること、
その血筋があまりにも“美しく整いすぎて”いることが、
この上なく恐ろしく、皮膚の下に鋭く刺さるようだった。
ひとつ息を吸い、アリスは背筋を伸ばした。
少年が悪いのではない。
わかっている。
それでも――追い詰められた正義の宿る場所には、
そんな綻びすらも、必ず影になるのだ。
そのことを、噛みしめるように。
彼女は、少年のほうから視線を静かに外した。
ホグワーツの広々とした中庭に冬の冷たい風が通り抜け、雲一つない空には光の輪郭のような静寂が広がっていた。
アルタイル・ブラックは、防衛術の課外授業の見学に訪れた生徒たちの中に混じっていた。
その視線は、一人の女性に自然と向けられた。
アリス・ブラック。
彼女はシリウス・ブラックの隣に立ち、教師の補佐役として生徒たちに穏やかな言葉をかけていた。
動きは静かで慎み深く、けれど、その周囲には揺るぎない落ち着きが漂っている。
整えられた髪、無駄のない所作。
教壇の横に立たされた意図ではなく、自らの意志でそこに立つ人の、自然な風格があった。
アルタイルは、その姿を目にした瞬間、奇妙な思いに包まれていた。
かつて――
この人は、ただのマグルの少女だったのだ。
魔法を持たない世界から来た、血筋にも力にも守られることのなかった存在。
けれども、父の兄、シリウス・ブラックが養子として迎え入れたことで、彼女は“ブラック”の名を持つようになった。
それが、どれほど異質なことか。
どれほど”黒の家系”を知る者にとって異例なことか。
その違和感がアルタイルの中を静かに、けれど深く流れていた。
おそらく、父はこの人を“許していない”。
何かを口にしたことも明言したことも一度もない。
けれど、背後の沈黙の重さは、アルタイルにも伝わっていた。
レギュラス・ブラックという男が、どこまでも冷静で、何も曝け出さない人であるがゆえに――
その沈黙の内にある強い敵意は、より濃く感じられたのかもしれない。
アルタイル自身に、マグル生まれへの憎悪はなかった。
ただ、「違うものは、違う」――そう思っていた。
ブラックの血は誇りだ。
何代にもわたって続く純血の系譜は、誇示すべきものではなく、自分という存在の“深み”を形づくる根だと思っている。
さらに、母はセシール家の血筋を継ぎ、古くから魔法薬学に通じていた由緒ある家系の出身。
――そんなふたりの間に生まれた自分たちは、“紛れもない純血”だった。
誇りというのは、誰かを見下すためではなく、
「何者として立っているのか」を見失わぬための灯だ。
けれど、たとえばアリス・ブラックのような人が、それと同じ位置に立つとなると――
心に静かな齟齬が生まれるのを、アルタイルは抑えることができなかった。
差別ではない。
そう強く思う。
だが、「何かは違う」のだ。
それを曖昧にしたまま、“全て同じだ”と包み込んでしまう社会が、
はたして本当に希望なのか――そう思う自分もいた。
「……そのままでは、自分の考えが何者かも分からなくなる」
アルタイルはふと息を吐いてそう思った。
アリス・ブラックは、人として立派だ。
それには疑いようがない。
シリウスのそばできちんと役割を果たし、生徒たちに魔法を伝え、時折笑顔さえ見せている。
それでも――
この人が“ブラック”の名を持っていることが、自分の中の何かを引き裂くように揺らすのだ。
父の敵なのか、母の歪められた過去の象徴なのか――
それとも、ただ知識では割り切れない“血の意識”がまだ自分にも在るのか。
何か答えなど出るはずがないその複雑さを胸に抱えながら、
アルタイルは黙って視線を逸らした。
まだ、彼にはこの気持ちの正体を語ることも、人に伝えることもできなかった。
けれど、それが確かに“ある”ということだけは、どうしようもなく胸に刻まれていた。
夕暮れの光が薄く差し込むダイニング。
細やかに整えられた食卓には温かな香りたつ料理が並べられていた。
ささやかな任務の合間にふたりが共に囲む夕食――一見、なんの変哲もない、穏やかな時間だった。
けれどその席に座るアランの指先は、僅かに震えていた。
ナイフを持つ手の力が入らず、パンをちぎる動作すら脳の奥で鈍く滲む痛みとして響いてくる。
食欲は、最初から一滴も湧いていなかった。
けれど――口にできなかった。
この身体の不調を、レギュラスに知られてはいけなかった。
言えばきっと、彼は任務から自分を外す。
守ることしか選ぼうとしない彼のことだから、遠くへ連れていくことをやめてしまう。
それだけはどうしても避けたかった。
だから、薬を使った。
痛みと吐き気を鈍らせる処方を、自ら調合して服用した。
魔法薬の知識があることは、時として便利で、時として――あまりに皮肉だった。
「アラン……食べてます?」
レギュラスの声がやわらかく問いかける。
その瞳には、さりげないけれど鋭い注意深さが宿っていた。
アランは微かに笑って、しらばくれるように首をかしげる。
「もちろん……少し胃の調子が優れないだけで」
言い淀むことなく口にしたつもりだった。
けれど、きっとそれは“無理をしている声”として響いていたのだろう。
レギュラスは皿の上の肉を静かに見つめると、ナイフとフォークを手に取った。
何の言葉もなく、アランの皿側へ手を伸ばし、細かく、一口に食べやすく切り分けていく。
下心も押しつけもなく、ただ丁寧に。
「ちゃんと食べないと……」
その声音には、命をくれる魔法のようなやさしさがあった。
追いつめるような強さではなく、ただ大切なものにきちんと生きていてほしいという、あたたかさだけでできた言葉だった。
だからこそ、アランは――断れなかった。
皿の上の整えられた肉を、無理にでも口へ運ぶ。
咀嚼して、飲み込んで、笑顔を絶やさぬように微笑む。
中からじっとり汗がにじむのを、笑みに隠して。
その夜――
食器の片付けを申し出て、アランはひとり台所へと立った。
小さな音も立てたくないほどに静かな室内。
食器を洗っている途中で、ふいに胃の奥に鈍い波がぶつかってきた。
瞬間、意識が霞んだ。
身体がきゅうっと縮む。
器に触れていた手がふらつき、慌てて流しの縁に身体を支えた瞬間、
込み上げるような強い吐き気に襲われた。
感情すらついてこないほどの、衝動的な苦しさ。
喉がうねる。
胃が拒絶するように、すべてを外に押し出そうとする。
食べたばかりのものが一気に逆流し、器に響く胃液の音と、止まらない咳と涙。
冷や汗が肌を這う。
髪が頬に張りつき、視界が揺れてにじむ。
こんなはずじゃなかった――
誤魔化せると思った。
乗り越えられると思った。
けれど、体はもうとっくに限界を知っていた。
アランは深く息を吸おうとするが、肺が圧迫されるほどに狭まっていた。
床に手をついて、その場にゆっくりと崩れ込む。
吐き戻しにまだ震える身体を抱えながら、喉の奥に残る焼けつくような感触を、ただ黙って耐えた。
気づかれてはいけない。
知られてはいけない。
けれど、その思いを支えるだけの力が、
今はもう、自分の中に残っているのだろうかと――
微かに差し込む冷たい月明かりを見つめながら、静かに思った。
台所に響く水音がぴたりと止み、次の瞬間、異変に気づいた使用人が慌てて扉を押し開けてきた。
「奥様……いかがなさいました?」
その声は、今まで耳にした中で一番緊迫していた。
かすかな陶器の揺れる音、匂い、わずかに立ち上る薬の香。
使用人は、すべてを一瞬で察した。
皿を洗おうとしたことそのものが、異様だった。
いつもなら「結構です」と微笑んで手を引いてくださる奥方が、
今夜に限っては――食後、ひとりで静かに片づけを申し出た。
まさか、そんな理由があったとは。
視線の先。
流しの端に寄りかかるようにしゃがみ込み、
崩れるような姿勢で床に這いつくばるアランの細い背中があった。
「奥様……っ」
使用人は駆け寄ると、そっと彼女の肩に手を添えた。
肌が熱を持っていた。
その感触に、瞬時に判断する。尋常ではない。
意識がこちらにあるのかも定かではない。
細く、美しく保たれていた身体に宿るべき魔力の輪郭そのものが、いまにも溶けてしまいそうだった。
「医務官を……すぐ呼びます」
使用人がそう告げたそのとき、アランの唇がわずかに震える。
――だめ。
そう言いたかった。
お願いだから、そうしないで。
大袈裟なことにはしたくない。
レギュラスに知られたくない。
せめて、少しだけ時間を稼いで。
けれど、声は出なかった。
喉の奥に泥のような重さが詰まり、焦るほどに言葉が遠のいていく。
かすれた吐息しか出ない。
指先も動かせない。
自分の意思が身体のどこにも届かないまま、意識の境界線がにじみ始めていく。
冷えた床が頬を支えた。
硬いのに、ひどく柔らかく、それが逆に怖かった。
目の奥が暗く揺れて、視界が収束する――
閉じるような意志もなく、自然と世界が狭まっていく。
使用人は、すぐさま背後に身を返し声を上げた。
駆け出して廊下へ、誰かを――医務官を求めて。
けれどアランは、その声も遠く、まるでガラス越しの音のようにしか聞こえなかった。
ただ深く深く意識が沈んでいく。
このまま、静かな湖底まで落ちるように、揺れもせず、吸い込まれていく――
そんな感覚だった。
それでも心のどこかで、ひとつだけ願っていた。
「どうか……レギュラスには、まだ……知られたくない」
その一念だけが、最後まで、胸の奥でゆるく燃えていた。
台所の扉が開け放たれたまま、空気は冷気を帯び、奥から漂ってくる夜の風がアランの髪をかすかに揺らしていた。
その頬はうっすらと汗ばみ、血の気が引いていた。
床に伏したままの身体には力が入らず、ただ視界の隅に、差し込む淡い灯りと人影が揺れているのが見えた。
遠くで誰かの足音、急ぎ駆けていく衣擦れ――そのすべてが夢の外側のように遠く、現実と乖離していた。
「アラン…… アラン、聞こえますか」
静かだが、どこか鋭く震える声が耳元に落ちた。
意識の水面が揺れる。切実なその響きを、どこかで知っていた。
レギュラス――
呼ばれてもいないのに、彼の声が身体を包み込んでくるような感覚があって。
どこにも触れられていないはずなのに、胸の奥が深く沈んでいたものごとが、一気に浮かびあがりそうでこわかった。
やめて。今は、知らないで。
そう叫ぼうとしても、唇は動かない。
声は出ない。手のひらも、腕も――動かせなかった。
それでも、部屋の空気が変わったのがわかった。
「どいてください」
凛とした、そして冷ややかな音色。
それはもう、紛れもなくレギュラス・ブラックの声だった。
聞き慣れたはずなのに、今この場に響いているそれは、どこか異様だった。
怒りと恐れと焦り――それらすべてを押し殺すようにして、凍てついた氷のように静かだった。
彼がしゃがみ込み、そっと手を差し伸べる気配があった。
指が腕に触れただけで、その手が震えているのが伝わる。
こんなにも冷静なはずの彼の掌に、こんな冷たい熱が宿っているなんて―― アランでなければ、きっと、気づかなかった。
「……なぜ、黙っていたんですか」
問いかけるように、しかし問わずにいられない声。
それは責めではない。
叫びでもない。
ただ、自分では持ちえなかった“恐れ”が、初めて彼という人の輪郭に現れた瞬間だった。
なにも答えられないまま、アランは彼の胸元に背を預けるように抱きかかえられた。
その体温が、自分よりも低いことに、どこか痛みを覚えた。
「もう、隠さないでください」
それは、命令ではなかった。
懇願でも哀願とも違った。
けれど――それよりも重たく、響いた声だった。
衣擦れひとつ、空気の揺れひとつが、唇に触れるよりも優しくて切なかった。
アランは閉じた瞼の下で、静かに涙をひとすじだけ流した。
それは、自分の不調のゆえではなく。
この人の手に、こうして包まれてしまった瞬間に――
自分の中の「もう大丈夫」と言い切るためのすべてが、
あまりにも脆く崩れ去ってしまったからだった。
寝室の空間には、奇妙な静けさが漂っていた。
カーテン越しに差し込む午後の光は淡く滲み、風の届かない部屋の空気がほの白く霞んで見える。
その真ん中で、淡々と医務官の声が響いていた。
「体力の著しい消耗と、長期的な魔法薬の使用による内臓への負荷。――おそらく、かなり以前から続いていたものでしょう」
専門用語をともなう説明は、冷静で、無機質にすら聞こえる。
それが事実だからこそ、レギュラスの胸に突き刺さった。
彼は黙っていた。
けれどその横顔は、いつもの凛とした冷静の仮面を保つにはあまりにも歪んでいた。
目尻がわずかに赤く、喉の奥に無言の痛みを抱え込むように、肩がほんの少し震えている。
泣く寸前だった。
アランはその顔を見つめて、視線を逸らしたくなった。
けれど逸らすことはできなかった。
――なんて顔をするの。
そう言って、黙らせてしまいたくなるほどに、
レギュラスのその苦しげな顔は、アランの胸を締めつけた。
だが、本当にアランが胸を痛めていたのは、自分の身体のことではなかった。
そうではない。違うのだ。
アランが何よりも怖れていたのは、
このことで彼が「もうあなたは連れて行けない」と判断することだった。
たとえ自分の体が壊れていったとしても、
ただ遠ざけられてしまうことが――生きるより、苦しかった。
レギュラスは、また一人で進んでしまう。
どんな任務も、どんな地獄も、自分を守ろうとするあまり独りで背負い込んでしまう。
あの人はそういう性質を、根の奥に持っている。
あの日――
闇の帝王の前で、命と引き換えに分霊箱の秘密を暴き、アランの命を救おうとした。
あの凍るような取引の場でさえ、ただアランを“守る”ことだけを選択した。
それほどまでに、誰より真っ直ぐな人だった。
守ろうとする意思が、あまりにも純粋で、研ぎ澄まされていて――
だからこそ、危ういのだった。
だからこそ、アランはそばにいたいと願った。
ただ”彼の隣にいたい”のではない。
隣で、手を添えたい。
そのあまりにも真っすぐな選択に、時として新しい視点を渡せるようでありたい。
魔法省でも、任務の地でも、あの日の洞窟の中でも。
彼が一人きりで、「これでいい」と思って突き進んでしまう前に、
そっとその袖を引いて、「それでも、私がいる」と伝えられる距離にいたかった。
けれど。
けれど、もう二度と許されないだろう。
この身体は、“連れていくには脆すぎる”という烙印を、いま押されてしまった。
「お願いだから、離さないで」
声にこそ出せなかったけれど、アランの心はそう必死に叫んでいた。
レギュラスの手は、ずっとそばにあった。
けれど、それがこれからどんどん、任務の名の下に引き剥がされていく未来を想像してしまう。
だから今、アランは押し寄せる不安のなかで、ただ一つを確かに願っていた。
――この人が、これから彼自身よりもこの身を守ろうとしてくれたその時、
せめて傍で、違う答えを差し出せる存在でありたい。
そのために、生きなければならないのだと。
そして、弱った身体に代われるだけの意志を、今は持ち続けなければならないと。
微かな痛みと、静かな祈りが、アランの胸に、しんと燃えていた。
レギュラスは、医務官の説明が終わるや否や、その場を崩れる寸前の意志で立ち尽くした。
手は握られていたが、力が入っておらず、指先から体温が抜け落ちているようだった。
アランは、そんな彼の姿を見上げていた。
ベッドに横たわる自分の目線から見上げるレギュラスは、いつもよりどこか小さく、そしてひどく遠く感じられた。
彼はまだ、言葉をひとつも発していなかった。
けれど、沈黙は重く語っていた。
責めるわけではない。ただ、あまりに痛ましく、あまりに深い感情が、その瞳の奥で言葉の迷路になって彷徨っていた。
それでも彼はようやく、小さく息を吸い、低い声で言った。
「どうして……ここまで……」
その問いが向けられているのが誰なのか、答える必要があるのか、アランにはわからなかった。
けれど、目をそらすことなく、視線で応えた。
きっと、彼はこれから遠ざけるだろう――自分を。
「守るために使うべき力だ」と、またそう言って、ひとりで全てを引き受けようとする。
あの獣のような静けさを抱えて。
でも、今のレギュラスがこの場に立っているのは、自分がいたから。
誰かに命を賭けてでも守りたいと思わせたから、彼はここまで生き延びてきた――
それを、彼自身は忘れているのではないか。
アランは、震える右手をそっと上げた。
少しだけベッドの端に座り直したレギュラスの手へ、ゆっくりと、それを重ねる。
細くて冷たい指。
けれどしっかりと、その指を絡めとるように握った。
「私は、あなたのそばにいるために生きていたんです。
ただ生き延びるためじゃありません」
かすれた声。
言葉よりも手の温もりの方が伝わったかもしれない。
けれど、レギュラスの肩がふわりと揺れる。
「あなたが何度でも私を守ろうとするなら、
私は何度でも――あなたを支える方法を見つけます」
その宣言は、力強いものではなかった。
ただ穏やかで、けれど揺るがない。芯だけをしっかりと残した言葉だった。
レギュラスはうつむいたまま、何かをこらえるようにわずかに目を閉じた。
その横顔はまだ晴れず、むしろ新たな迷いを受け止めているようにも見えた。
だが、その手は── アランの手を、少しだけ握り返していた。
ほんの重なりのような小さな力。
それでも、確かに“そこにいたい”という意思が感じられた。
アランは、何も言わなかった。
この一瞬が、彼に届いていればいい。
次に何を選び、どこへ向かっても、
ふたりの間には“選び続ける理由”があると、ただ静かに伝わってほしかった。
冬の冷え込む空気の中、
薄く結ばれた手と沈黙のあいだに、言葉にならない約束がひとつゆっくりと息をした。
それは、傷つきながらも優しく寄り添うふたりだけが紡げる強さのかたちだった。
室内には深夜の静けさが漂っていた。
魔灯は落とされ、窓の向こうには銀の月が、雲の切れ間からそっと顔を覗かせていた。
その穏やかな光のなか、ふたりは、肩を並べて静かに横たわっていた。
アランの手は、そっとレギュラスの手に添えられている。
指と指が、互いを確かめるように結ばれ、誰も割り込めない静かな橋を架けていた。
ただそのぬくもりがあるだけで、夜の冷え込みも不安も、少しだけ遠ざかってくれるようだった。
レギュラスの胸の奥には、満ちる想いが静かに溢れていた。
アランが、言ってくれた。
――「私は何度でも、あなたを支える方法を見つけます」と。
それは決して、大きな声ではなかった。
けれど、過去の記憶のどれとも似ていないほど――深く深く、沁みた。
たぶんこれから先、ふとした瞬間にも思い出してしまうだろう。
任務の最中にも、寂しさの中にも、あるいは死の境に立たされたときにも。
彼女の声が、温もりが、胸に焼きついて離れない言葉として息をし続けるのだろう。
その言葉が、生きる理由にも、死なない決意にもなる。
そんな予感があった。
「ねえ、レギュラス」
枕元でアランの声がした。
遠くを見つめるようなまなざしのまま、目を閉じずにぽつりと続ける。
「私がいつか、また“死”を受け入れなきゃならない時が来るなら――」
「レギュラス、それはあなたの腕の中がいいです」
その一言は、重くもなく、淡く透き通るくらいに静かだった。
それだけに、レギュラスの心の奥に、深く深く沈んでいった。
魂の芯を震わすような、あたたかく、そしてひたむきな願い。
受け止めた瞬間、心が軋んだような気がした。
そんな未来など、来なければいいと願いながらも、
彼女がそれを想像するほどの意志を持って、今ここにいてくれている、ということの切実さに、胸が熱を帯びる。
レギュラスは何も言わずに、手を強く握り返した。
それが自分に出来る唯一の答えだった。
そして、少しの沈黙の後、彼が口を開いた。
「……そのあとすぐに、追いかけてもいいですか?」
言葉の調子を軽く整えるようにして、けれどその響きは切実で、真面目だった。
愛情も悲しみも、全部を無言のうちに含みながら――それでも、自然に、優しく届いた。
アランが、少し仰向けを向いて彼を見た。
やや呆れたような微笑を浮かべて、小さな声で言う。
「ええ、あなたなら、きっとそうしそうですね」
まるでそれが決まりきった未来かのように、彼女は言った。
自惚れとも皮肉ともつかない、けれど確かに、彼を知っていなければ出せない言葉。
レギュラスはその声音に、微かに笑った。
目も口元も、久しく見せなかったやわらかさを取り戻している。
まるで少しだけ、昔の少年の顔に戻ったかのような、穏やかな表情。
「……絶対なんてない、って」
そう続けた彼の声は、ほんの少し、震えていた。
「そういうことは知っている。言葉も誓いも、たったひとつで何かを守れるなんて、幻想だって」
それでも――と、彼は静かに言った。
「それでも、出来る限り……あなたと一緒に、そうでありたいと思ってます」
一流の魔法使いとして、無数の任務を抱え、出生と血と覚悟の上に立って生きてきた彼が、
今この場で、ひとりの人間としての願いを、やっと、ようやく口にしていた。
もう、強くあることだけがすべてではなかった。
今隣にいるアランに、それが教えられたのだ。
鍵を開けるように、アランの手がわずかに彼の手を撫で、
ふたりの指先が、もう一度しっかりと結ばれる。
時計は何の音も立てず、人の息づかいだけが夜の空間を満たしていた。
ふたりで眠りにつく夜には、
絶対ではないものたちが、確かなあたたかさをくれると――
静かに信じられるだけの、やさしい時間が流れていた。
