4章
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魔法省の審査部門の記録室。
白磁のように無機質な部屋の中で、一枚の報告書が静かに読み上げられていた。
「洞窟E-56、立ち入りには事前申請および上位査察官の許可が必要とされる――
にもかかわらず、アラン・ブラックおよびレギュラス・ブラック、ふたりの魔力反応が現場周辺および内部で確認されました。」
ざわり、と紙の擦れる音が空気を鋭く切る。
そこに漂う沈黙が重い。誰もが、口をつぐんだまま視線だけを交わす。
問題の洞窟は、魔法界でも最も“触れてはならない”とされる場所のひとつだった。
不自然な魔力の揺らぎ、消された記録、内部の構造さえ正確には記述されていない。その洞窟の存在自体が、ある種の“死に場所”とされていた。
自ら寄る者は稀で、多くは命を絶つ必要ある者の覚悟の地。
まさか、そこに―― アラン・ブラックの魔力が触れていたなど。
「……一体、あのふたりは何をしていたんだ」
低く、誰かの呟きが漏れた。
周囲にいた者たちの視線が、一方向を見やる。
そこに立っていたのは、黒衣のローブを羽織った男――シリウス・ブラックだった。
その表情は張り詰め、口元には強く唇が噛まれる跡が滲んでいた。
視線を落とせずに紙を見据えるその瞳に、焦りと戸惑い、そして苦しみが交錯していた。
アランを――
あの人を、悪くは言わせたくなかった。
「彼女は、そんな女じゃない」
喉の奥に押し込めた声が、それでもどうしても言葉になりそうだった。
けれど、その“証拠”が、それを許してはくれなかった。
魔力の痕跡。
ふたり分の波長。
内部にまで達した形跡。
そして――誰にも報告せず、事前許可も出されぬままの侵入。
それが意味するのは、“目的あって”その場所に赴いたという事実だった。
「闇の魔術が絡んでいるのでは――?」「何かを……隠そうとしていたのでは」
冷たい噂と推測が、静かに部屋を侵していく。
胸が、痛かった。
違う。そんなことはあり得ない。
彼女は、ただ静かで、優しくて――誰よりも清廉に生きようとしてきた人だ。
誰よりも不幸を背負いながらも、闇に染まることを望まなかった人なのだ。
だが。
世界は、証拠でしか裁かない。
人となりよりも、結果で物を言う。
そして――
誰よりも自分のそばにいたはずのアランの“奥底”すら、
シリウスには、今やどこか遠くのものに思えた。
“何があったのだ、あの中で”
そう心の底から叫びたかった。
でも、彼女から、レギュラスから、
何も語られぬ限り、自分には何も掴めない。
信じたい。信じている。
だけど、なにもできない――その事実が、刺すように、彼の胸を締めつけていた。
肩を落としたその背に、光はなく。
暗い静寂のなかで、ひとり、揺らぎ続ける信頼と不信とが、
曖昧に胸の奥で結びつかずにいた。
魔法省 高等聴取室――
石造りの壁には魔よけの呪文が刻まれ、静寂すら魔力のように張り詰めていた。
その空間の中に、ふたりの姿はなかった。
アラン・ブラックとレギュラス・ブラック、聴取は同日、同時刻。
けれど場所は別、部屋も違い、互いの証言が影響しあう余地は一切なかった。
それでも――
ふたりの証言は、寸分違わなかった。
•
レギュラス・ブラックは淡々と語った。
あの近辺で発生した魔法薬の異常流通事件の調査の一環として、現地入りしていたこと。
島を囲む海が急激に荒れ、想定していたルートでの帰還が不可能になったこと。
やむを得ず、岸に最も近い“洞窟”に一時立ち寄った、その事実のみ。
そして同行者――
魔法薬調合に関して高い見識と技量を有する妻、アラン・ブラックには、
必要な成分の特性を検査してもらうため同行を提案した、と。
洞窟で使用した魔力は、全て防御魔法である。
亡者たちとの戦闘は想定外で、命を守るために最低限の対応をしたまでだと。
一字一句、過不足ない説明。
声には曇りがなく、表情も一切乱れない。
アラン・ブラックの聴取は別室で行われた。
柔らかな口調で、静かに、しかし確かな自信を込めて同様の説明を述べた。
ただの巻き込まれだった。
思っていた以上に現地の環境が過酷で、魔力が乱れていたのは“亡者による突発的干渉”だと。
調合者としては珍しくない環境下の対応だったと穏やかに語り、
聴取官の鋭い問いにも、にじむ疲労を覆い隠しながら、まっすぐに答えていった。
その整合性は、魔法省の誰をも唸らせた。
調書に一文の矛盾も見つからなかった。
まるで計算されたように、ではなく——
“共に真実に到達していた者たちの語り口”だった。
どう取り繕っても短くなるはずの糸が、最後まで切れなかった。
聴取が終わったとき、部屋の空気には、半ば諦念にも似た沈黙が漂っていた。
「……これ以上、追えないな」
誰かが呟いた。
その言葉には、警戒よりもむしろ――敬意すら滲んでいた。
報告書に目を落としたまま、シリウス・ブラックは、拳をゆっくり握りしめていた。
追う者としてすでに敗北を予感していた耳で、
アランの証言も、レギュラスの言葉も、静かに全て聞いていた。
淡々と語られる理屈。
取り繕っているようにも見えない。それほど自然に、彼女は彼を“信じて”語っていた。
けれど、それが余計に――胸を抉った。
アラン。
なぜ、そんなふうにまでレギュラスを守るのか。
なにをその両手に握らされているのか。
命を差し出されたから?
恩義のためか、それとも――それ以上のものが、そこにあるのか。
自分にはもう、わからない。
彼女が、自分の人生そのものを丸ごと委ねている人間が、
よりによってレギュラス・ブラックであるということが、
胸を、あまりにも切なく締めつけた。
会議卓の上の報告書の上には、アラン・ブラックの名前が、整った書体で記されていた。
誰よりも聡明で、誰よりも澄んでいて、
それでも、今は決して“届かない”彼女の名前が。
その名の隣には、どこまでも冷静で、美しく、すべてを包み隠す男の名が並ぶ。
レギュラス・ブラック。
「——あの人は、もう戻ってこないのだろう」
シリウスは胸中で、ただ静かにそう呟いた。
その音なき祈りは、誰にも聞こえることなく、
魔法省の深い静けさの中に、ゆっくりと沈んでいった。
聴取を終えた魔法省の廊下には、午後の魔法灯が薄く灯りはじめていた。
青白く整った光が石の床に落ち、歩を進めるたびに足音が淡く響く。
その静けさの中で、アランはゆっくりと歩いていた。
疲労を覆い隠すように姿勢を正し、背は一点の歪みも見せていなかった。
そのときだった。
「…… アランさん……」
響いた声に歩みを止める。
振り返ると、少し離れた場所にアリス・ブラックが立っていた。
幼い頃の面影を残しながらも、よく鍛えられた身体と佇まいに、年月の重なりが見てとれた。
思いがけない再会だった。
短い沈黙の後、アランは穏やかに微笑んだ。
「まあ……アリス。久しぶりね」
その声は驚きよりも、懐かしさに満ちていた。
そして、あたたかく、まっすぐだった。
アリスの胸は苦しげに波打っていた。
再会は嬉しかった。会いたかった。
けれど、なぜあなたが今、この魔法省で――
なぜ“聴取”を終えた後に歩いてくるの――?
現実が美しい時間を突き崩すように胸を締めつけた。
「……アリス、本当に立派ね。あの頃から変わらないわ。
貴女をこうして見ると、私……とても誇らしいの」
アランの瞳は以前と少しも変わらなかった。
柔らかく、褪せることのない慈愛を湛えていて。
手を差し伸べてくれたあの日の“あの人”のままだった。
その瞳に触れただけで、
アリスの胸にどうしようもない感謝と、同じくらいの、深い恐れが込み上げてきた。
アランを握っているのは――
あの男なのだ。あの、レギュラス・ブラックが。
「アランさん……」
言葉が詰まりながら、それでもアリスは言った。
「お願い……だから、レギュラス・ブラックから離れて……。
あの人は、危険なの。そばにいると……いつか、あなたがあなたじゃなくなっちゃう……」
声が震えていた。
言葉は整っていなくて、焦点を失った矢のように空を彷徨っていた。
けれど、紛れもない本心だった。
ただただ、アランを、あの人の隣から遠ざけたかった。
それは嫉妬でも独占でもない。
祈るような願いだった。
もしも、彼女が自分の知っている「アランさん」であり続けてほしいと願うなら、
そのためには、あの人の隣ではいられない。
たとえ、その行き着く先がシリウスでなくともいい。
別の誰か、どんな場所でも構わない。
でも、レギュラスの隣にだけは、いてほしくなかった。
アランは、その言葉を遮らず静かに聞いていた。
一言も返さず、ただ真っすぐにアリスの目を見ていた。
揺れる瞳、必死に何かを伝えようとするその聲に、
どんなに矛盾があっても、アランは否定することをしない。
腕が伸びそうだった。
あの頃のように、ただ頭に手を置いて「大丈夫よ」と微笑みたかった。
けれど、それはもう――できないのだと、どこかでわかっていた。
だからアランはやわらかく微笑んだ、まるで涙のかわりのように。
アリスの訴えが、真実であればいいと願うことは、アランの胸にもあった。
だけど、それでも。
「……ありがとう、アリス。言ってくれて」
それだけを静かに告げ、
アランは再び魔法省の廊下を、背をまっすぐに伸ばして歩いていった。
後ろに、そっと残された香りは、
あの日のアランをよく知るアリスにとって――
どこか遠い場所へ消えていく気配のように感じられた。
魔法省の廊下を歩きながら、アランは重ねていたマントの端を指先でそっと握った。
静かな足音が石の床に響くたび、胸の奥に静かに沈んだ痛みが波紋のように広がる。
――アリスの瞳。
あの、まっすぐでどこまでも強い目が、ずっと記憶の中に離れなかった。
あれは、かつてのシリウスの目と同じだった。
強い光。
火の玉のような、息を呑むほどの正義。
あのとき、何も持たずに震えていたアリスを、シリウスに預けた。
あの人なら、大丈夫だと。
きっとアリスをまっすぐな光の中で、大人にしてくれると信じた。
――そのとおりになった。あの子は、望んだとおりに育ったのだ。
それが、こんなにも苦しいだなんて、どうして思わなかったのだろう。
アリスは今、己の正義でレギュラスを貫こうとしている。
あの冷たい光を帯びた魔術師を、揺らさずに見据えて、追い詰めようとしている。
それが正しいのだろう。
何かを守り、明るい未来を作るという意味では、この世界には間違いなく必要な視線なのだ。
――それでも。
アランの胸の中には、痛みが詰まっていた。奥から、じんと疼く鈍い痛み。
レギュラスを守らなければ。
彼がしてきたことすべてを知っていてもなお、守りたいと――心が、選んでしまったのだ。
その覚悟は、きっといつか、シリウスにもアリスにも、背を向ける瞬間を招くのだろう。
「……ごめんなさい、アリス……」
声にならなかった祈りが、唇の内側だけでかすかに呟かれた。
どうか、もう彼のことは追わないで。
もう十分でしょう? そう言いたかった。
そっとしておいてほしい、遠くから見逃してほしい。
彼をさばくのではなく、ただ静かに、見過ごすという自由を選んでくれたらと、
祈るような気持ちだった。
それはエゴだ。
正義でも、誠実さでもない。
ただひとつの、情だった。
それでも――自分にとって、レギュラスは“それほどの存在”になってしまったのだ。
正しさよりも、守りたい。
世界の秩序よりも、命の温もりを。
たとえ誰の理解も得られなくても、その背中に手を伸ばしていたかった。
窓の外には、西陽がゆっくりと傾いていた。
アランは足を止め、光が差し込む柱の陰でそっと目を閉じる。
水底のような静けさのなかで、願いのようにただ一つ思った。
――どうかこの先、アリスとレギュラスが、決して交わらぬままでいてくれるように。
どちらにも剣を向けさせずにすむ未来が、どこかにありますように、と。
魔法省の尋問室を出ると、廊下には一切の音がなかった。
扉が静かに閉まる音だけが、遠くまで響いていく。
レギュラスは僅かに背筋を伸ばしながら、無表情のまま歩き出した。
歩調は乱れず、呼吸も整っていて、あたかもこの時間全体が最初から彼の掌に乗っていたかのようだった。
「……おかえりいただいて構いません」
そう告げた尋問官の言葉が、耳にまだ残っている――礼を返した瞬間の自分の声まで、まるで他人のもののように冷静に思い出せた。
完璧だった。
どこまでも、疑いようのない論理。
矛盾の入り込む隙もなく、魔法的にも整合性が取れているストーリー。
そして、アランもまた――寸分違わず、それに応じてくれた。
まるで二重奏のようだった。
重なったふたつの旋律が、ひとつの“無実”を優雅に奏で終えた。
アランには口裏を合わせるよう、あらかじめ静かに指示を伝えてあった。
その指示が命令になるものかどうか、正直なところレギュラスの中でも半信半疑だった。
彼女がどれほどの覚悟を持って、自分と歩くと決めたのか――
あの夜、分霊箱の真実を知ったあとも、ただ寄り添うように、自分を責めることなくそばにいた彼女の意味を、それでも測りきれずにいた。
だが、今日。
その問いのすべてが、明確に答えに変わった。
全面的に、自分の味方に立ってくれている。
どんな危うさの上でも、確実に味方だと。
その事実が、何よりも嬉しかった。
それが、この冷たい世界の中で――己を「強く在れ」と支えてくれる唯一のものだった。
正直、分霊箱の件が知られたと知ったときには、一瞬思考が止まった。
この先、どうやって生き延びればいいのかと。
すべてを失う気がした。
だが、アランは違った。
問い詰めるのでもなく、拒絶するのでもなく、
彼女はただ、「一緒に持つ」と言ってくれた。
共に罪を背負うというその覚悟は、レギュラスの予想など遥かに越えていた。
この聴取も、魔法省の疑念も――
すべては形式だった。
本質は、それに向けて誰を味方につけ、誰を欺いていくかだった。
そして今回、自分たちはまた「勝った」。
「……完璧だ」
誰にともなく、吐き捨てるように呟いた。
それは事実を指していたが、同時に、自分たちの「結託」の強さそのものへの評価でもあった。
仕事を終えた仮面が薄く剥がれていく。
時の外れた陽光が差す廊下の先に、アランの気配があるのを感じながら、
レギュラスは静かに、しかし確かな歩みで彼女のもとへと向かっていった。
負けたことがない者の、静謐な足取りだった。
そして、その勝ち星をそっと支えてくれるただひとつの存在が、いまもなお自分の隣に立ってくれている――
それが、この世で一番、恐ろしくて甘美な力だった。
支度を整えていたレギュラスは、背後から静かに届いた声に、驚きを隠せなかった。
「では、ご一緒します」
それは、ごく当たり前のようなイントネーションだった。
けれどレギュラスの手は、その一瞬だけ止まった。
振り返ると、アランが凛とした表情でそこに立っていた。
落ち着いた瞳が、迷いなくこちらを見据えている。
「……今のは、そのままの意味ですか?」
意外にも、レギュラスの声にだけ、わずかな揺らぎが混じった。
これまで幾度となく短期の国外任務をこなしてきた。
戦闘があるわけでもなければ、護衛を必要とするような危険性もない。
当然、アランが同行を申し出ることなど、一度もなかった。
だからこそ、彼の中で生まれた違和感は、じわじわとまとまりのある疑問に変わっていった。
「いえ、単なる魔法生物の捕獲任務です。
指定区域も穏やかな土地ですし……早く終えて、戻ってきますよ」
ごく当たり前の調子で告げる。
本当に大したことはない、と淡く笑う素振りまで見せながら。
だが。
「それでも、私も行きます」
アランの返答は、想像以上に揺るぎなかった。
「邪魔はしません。……魔法生物が相手なら、魔法薬を用いたほうが効率も上がりますよ。多少のお手伝いなら、できると思います」
その声音には、遠慮の色はなく、けれど押し付けるような強さもなかった。
ただ理にかなった事実を、穏やかに差し出しているだけだった。
レギュラスは完全に言葉を失ったように、彼女の顔を眺めた。
普段であればこうしたやりとりに特別な驚きは覚えないはずなのに、なぜか――
このときばかりは、自分という存在が思考から取り残されているような感覚に包まれた。
アランが――譲らない。
少しの遠慮も、引き際も見せないというその姿勢が、彼には理解以上の衝撃だった。
「……どうしました?」
アランが首をかしげながら訊く。
いつものような穏やかさで。
そして、続けた。
「だって……あなたには今、いろんな疑惑がかかっているでしょう?
一人で動く時間があるほど、足元を狙われる可能性は大きくなるわ。
私がそばにいれば、観測魔法でも記録でも、堂々としたいようにさせられる」
レギュラスはその一言一言を、丁寧に飲み込んだ。
言っていることの意味はよくわかる。
正しいし、賢い。それに、彼女らしい。
けれど、自分はそんな風に、油断ひとつでしくじるような男ではない。
疑惑を向けられても、それすらも利用するだけの度量はあるつもりだった。
しかし――
目の前にいる女は、とにかく“隙”をつぶそうとしている。
第三者のためでもなく、自身の名誉のためでもない。
ただ“自分”のために、だ。
レギュラスの胸に、言葉にならないあたたかいものが滲んでいった。
庇おうとしてくれている。
何も咎めず、ただひたすらに、自分の隣に立とうとしてくれる。
たったそれだけの事実が、レギュラスをひどく静かに、しかし確かに強くさせた。
「……わかりました。ご同行を」
レギュラスはゆっくりと微笑み、頷いた。
その目には、ささやかな信頼と――言葉にできない感謝が灯っていた。
アランの静かな覚悟は、盾でも剣でもなく、
確かに彼の“根”になっていた。
そして彼は心の中でひとつだけ、思った。
――きっと、何があっても、彼女だけは、自分の側にいさせたい。
それが、初めて面と向かって願いと呼べるものだと、気づいた瞬間だった。
「……姿くらましで行くつもりだったんですが……」
レギュラスの声はやや迷いの色を含んでいた。
革の手袋を片手にはめながら、ふと横に立つアランへ目を向ける。
普段ならば、一人でその呪文を使って、空間を裂くように現地へ跳ぶのが彼の常だった。
けれど、今日は――違った。
体の弱い彼女が隣にいる。
それだけで、当たり前に行っていた強行移動が突如、ひどく無理のあることに思えた。
姿くらましの呪文は魔力を消費するだけでなく、肉体への負荷が大きい。
特に長距離になればなるほど、“引き裂かれる”ような不快感や内臓を巻かれるような酩酊が悪化する。
彼女に、耐えられるだろうか。
そう思った瞬間、アランが軽やかに言った。
「平気ですよ。強力な酔い止めを服用していますから」
あまりにもあっさりとした答えに、レギュラスは一瞬、言葉を失い、その顔にわずかな驚きを滲ませた。
なんと用意周到なことか。
こうなると、もはや自分以上に段取りは整っているのではないかという気さえする。
「……副作用とか、平気なんですか?」
念のため、確認するように尋ねると――
「ええ。……多分」
くすりと笑うようにして返されたその言葉に、レギュラスは呆れるでもなく、あたたかみのある眼差しを向けた。
なんとも言えない心もとなさと、同時に、その“気軽さ”がどこか心を軽くさせるのだった。
アランはどこまでもひとりで戦おうとはしない。
けれど、誰かのためなら、思いもよらぬところで強さを見せる。
多分、という言葉の裏にある覚悟を、レギュラスはそっと受け取る。
「さ、行きましょう」
アランはそう言わなかった。
だが、視線がそう語っていた。
晴れやかで誤魔化しのない眼差しが、真っすぐに彼を見ていた。
そして。
その柔らかな手が、ふいに彼の腕に添えられる。
掌の温かさが、薄いローブ越しに彼の感覚へと染み込んでくる。
驚くことではない。けれど、不思議と胸がわずかに高鳴った。
「……離さないでくださいね」と、アラン。
「こちらこそ」と、レギュラスは低く応える。
彼女との姿くらましは初めてだった。
たった一瞬の魔法であっても、短い旅であっても。
意思を重ね、身を重ねて向かうこの一歩が、どこまでも意味を持っている気がした。
レギュラスは静かに目を閉じる。
腕に添えられた温もりを確かめながら、その体を空間ごと裂け目へ委ねた。
音もなく、ふたりの影が空に溶けるように消えていった。
旅路の先に待つものが何であれ、ふたりの呼吸は今、確かにひと繋がりだった。
森の奥は静かだった。
風ひとつ吹かず、木々は深く息を潜め、鳥さえ声をひそめている。
葉の影が淡く揺れるたび、そこに何かが潜んでいる気配がしたが、それでもレギュラスの心は妙に落ち着いていた。
隣にアランがいる――それだけで、森の不気味さはどこか遠のいていた。
枝葉のざわめきすら、ふたりの呼吸の合間を縫う音のようで、恐怖ではなく静謐を連れてきてくれる。
彼女は歩きながら周囲に軽く感知魔法を散らし、魔法生物の痕跡を探っていた。
頼りなげな外見に似合わず、動きは洗練されていて、何も聞かずともすでに役割の一端を心得ているのが分かる。
そしてその背に視線を落としながら歩むレギュラスの耳に、やがてかすかな足音が届いた。
「やあやあ、これはこれは」
どこか芝居がかった軽やかな声。
ふたりの背後、木立を軽やかに掻き分けて現れたのは、バーテミウスだった。
濃紺のローブは神経質なほど整えられ、靴には片鱗ほどの泥もついていない。
この深い森の中にあっては明らかに浮いているのに、それをまるで気にした様子もない。
「セシール嬢……お久しゅうございますね」
言うが早いか、バーテミウスは振る舞いすぎるほどに深い一礼をしてみせた。
まるで王宮の舞踏会にでも招かれた貴族のような所作――
それがこの朽ちかけた根の上、森の奥という舞台にあまりに不似合いで、風景から音がひとつこぼれたようだった。
アランは一瞬面食らいながらも、ほんの少しだけ口角を上げ、極めて品のある動作で礼を返した。
「ごきげんよう、バーテミウス様」
丁寧な言葉づかいに、透き通るような声。
その響きもまた、木々に包まれるこの湿った静けさの中では異物のようで、
まるで森がその音の行き先を見つけられずに戸惑っているかのようだった。
「しかし、こんな深い森でこのような麗しいご挨拶を聞けるとは……」
バーテミウスはわざとらしく手を胸にあてて、感嘆の仕草をしてみせる。
レギュラスはその様子を見ながら小さく息を吐いた。
ともすれば場違いなはずのやりとりが、どこか馴染んでしまっていることに、
あるいはアランの在り方が状況すら自然と整えてしまうことに、彼は妙な納得を覚えていた。
不似合いなほど優雅なこの挨拶が、森のひとときに不思議な浮遊を与える。
この空間がふいに生き物のように静かに呼吸を始めたような、そんな錯覚。
だけれど――と、レギュラスは心のなかで思う。
あまりにも美しいものを、この森に持ち込みすぎてはならない。
強すぎる光は、時として闇の目印になってしまう。
彼は言葉にはせず、ふたりの間に流れた淡い一礼のやりとりを、横目に静かに見届けた。
そして再び足を踏み出す。
この任務の先にあるもの――
それが何であれ、今この瞬間の均衡だけは、できる限り丁寧に守ろうと、
レギュラスはふいにそう思った。
バーテミウスは軽やかに歩みながら、レギュラスの隣へと近づいた。
そして声をひそめて、わずかに耳元に囁きかける。
「なぜ、セシール嬢が同行を?」
その問いには好奇心と、微かな警戒が混じっていた。
これまで単独行動の多かったレギュラスが、突然妻を連れ立って現れたことに対する、自然な疑問だった。
レギュラスは一瞬、どう答えるべきか迷った。
建前を言うか、それとも――
「一人での行動は控えたほうがいい、とのことです」
結局、正直に答えることにした。
魔法省の聴取の件、そして周囲の視線が厳しくなっていることを、遠回しに示唆した言葉だった。
バーテミウスはその意味を瞬時に理解したようで、ふむふむと納得するように何度も頷いた。
「なるほど、賢明な判断だ」
そんな表情が、彼の顔に浮かんでいる。
そのとき、少し離れた場所からアランの声が響いた。
「この辺りに、わずかな魔力の痕跡がありますよ」
ふたりは振り返る。
アランは樹の根元にかがみ込み、土に触れながら周囲の空気を慎重に読み取っていた。
その集中した様子には、単なる知識ではない、実践に裏打ちされた技量が滲んでいる。
「さすが、魔法薬の天才だ」
バーテミウスが感嘆の声を上げた。
「これなら、サクッと終わりそうで助かるよ」
その言葉を聞いて、レギュラスの胸には複雑な感情が過った。
自分の妻を、まるで便利な道具のように語られることには心外な気持ちもあった。
だが同時に、バーテミウスの声には確かな敬意も込められていることを感じ取れた。
――彼女の能力を、素直に評価してくれている。
そのことが、レギュラスをひどく誇らしい気持ちにさせた。
アランは顔を上げ、ふたりに向かって小さく手招きをした。
「こちらへ。魔法生物の足跡が、はっきりと残っています」
その声は落ち着いていて、自信に満ちていた。
森の奥深く、不安定な魔力が渦巻く場所にあっても、彼女は自分の役割を確実に果たそうとしている。
レギュラスは静かに微笑んだ。
この任務に、彼女を連れてきて正解だった。
ただ守られるだけの存在ではなく、確かに力になってくれる――
そのことを、改めて実感していた。
「行きましょう」
彼はバーテミウスに声をかけ、アランのもとへ歩いていく。
この森の奥で、三人の役割がひとつずつ噛み合い始めていた。
しんと静まり返る樹々の狭間、空気がわずかに緊張に攫われていた。
苔むす大地の上に屈むアランが、薬瓶の細い口を指先で傾けると、透き通った淡い液体がぽたり、と重力に逆らうことなくゆっくりと地表に垂れていく。
その一滴ごとに、微かな芳香が漂い始めた。甘さと苦みが絶妙に混ざり合ったような、獣の嗅覚をくすぐる匂い。周囲の木々の気配さえ薄れて感じるその匂いに、静かに森全体が呼吸を止めたかのようだった。
「アラン、……注意を」
レギュラスの声が静かに届く。
少し離れた位置に立つ彼は、すでに杖を手にしており、片膝を低く構えて身の全神経を前へと集中させていた。
その瞳には決して衝動の影はなく、ただアランの身を万が一からでも守ろうとする、研ぎ澄まされた静かな意志があった。
木陰の奥。
枯葉を踏む音ひとつなく、森の表面をすべるようにして現れたのは、今回の任務対象である魔法生物だった。
《オルニルス・セレスタ》――
月の下でしか活動ができず、神経が非常に敏感な稀少種。
銀灰の毛並みを持ち、優美な身体の線とは裏腹に、ひとたび脅かされれば凶暴に変貌する“二面性”を持つ、極めて扱いの難しい生物である。
その獣は、アランが垂らした薬液の匂いに惹かれるように、ふわりと森の空気を震わせながら近づいてきた。
まだ警戒心があるのか、広がった瞳はぎらぎらとこちらを見据え、耳元の長いひれのような毛がわずかに揺れている。
アランは恐れるでも、立ちすくむでもなく、小さなケースの中からさらに別の密閉された布包みを取り出した。
封を開くと中から現れたのは、小さく丸められた薄銀色の錠状の魔法薬。
彼女はそれを、掌の上に静かに乗せたまま、獣の前に差し出す。
攻撃の意図が一切ないことを、不思議なほど柔らかな動作が伝えていた。
崇拝にも似た間が空き――
魔法生物は、ためらう様子なく、それをすっ、と口にした。
しばしの沈黙。
そして――
ぬるり、と身体の力が抜けたようにして、その場に横たわった。
まるで母の胸の鼓動に添って眠る子のように、静かに、穏やかに。
安楽な眠りと鎮静を完璧にもたらす魔法薬だった。
レギュラスは深く呼吸を吐いた。
自身が一度も杖を振るうことなく、
どれほど繊細な準備と計算がされていたかを間近で見届けたことで、
胸の奥には、ただ静かな驚嘆と、限りない誇らしさが広がっていた。
アランはその眠った獣の身体に優しく魔法をかけ、宙に浮かび上がらせる。
拡張魔法のかかった携帯式の仮設小屋の扉が開かれると、ゆったりと光に包まれるようにして濃い毛並みの獣が吸い込まれていく。
扉が閉じると同時に、任務は――完了だった。
「おお……これは、これは!!」
バーテミウスが後方からあからさまに拍手までしそうな様子で、浮かれ気味に口笛を吹く。
そして、やや大げさに両手を打ち鳴らしながら、にやにやと笑った。
「まったく見事! 一切の魔法戦なしでここまで完璧に制するとは……。いや、実にきもちいい仕事っぷりだ、セシール嬢!!」
彼なりの最大の称賛であるのは、レギュラスにも分かっていた。
それでも、その“少しうるさい賛美”に対してほんの一瞬だけ眉が動きかけたのは、
アランを道具のように算段に組み込まれたくない、そんな心のさざ波だった。
けれど、同時に理解もしていた。
バーテミウスの言葉の奥に、無意識ににじんでいた本物の敬意を。
その瞬間、アランが微笑んで振り返った。
林の光を受けたその顔には、穏やかな疲労と、それ以上の達成感がにじんでいた。
レギュラスの表情には、それ以上の言葉はいらなかった。
微かに目を細め、ゆるやかに頷く。
その目は静かに語っていた――
「心から、誇りに思う」と。
森には再び静寂が戻る。だがその静けさは、もう不気味ではなく、どこか満ち足りた余韻を孕んでいた。
任務後の冷たい空気のなかで、確かな灯りのように、アランの存在がそこにあった。
森での任務を終えた三人は、小さな集落の入り口まで戻ってきていた。
夕方の空気が頬を撫でていく中、バーテミウスが軽やかに提案する。
「早めに片付いたことですし、フランスの地のワインでも飲みに行きます?
この辺りには美味しいブラッスリーがいくつかあるんですよ」
バーテミウスの声は明るく、森での緊張を解くような親しみやすさがあった。
しかし、レギュラスは穏やかに首を振る。
「遠慮します」
短く、だが丁寧な断りだった。
バーテミウスは「つれないな」というような表情を見せながらも、特に食い下がることなく肩をすくめた。
彼なりに理解しているのだろう――夫婦の時間を邪魔すべきではないと。
やがて別れを告げ、レギュラスとアランはふたりで石畳の街路を歩いていた。
ロンドンとは全く違う風情の建物が両脇に並び、窓辺には色とりどりの花が飾られている。
どこか牧歌的で、穏やかな夕刻の香りが漂っていた。
「どこか回りますか?」
レギュラスが歩みを緩めて問いかけると、アランは微笑みながら答える。
「いえ、宿に戻りましょう」
疲労というより、むしろ二人の時間を大切にしたいという気持ちが込められた返事だった。
宿に着くと、レギュラスは少し戸惑った。
屋敷での生活に慣れきっていて、使用人のいない場所での勝手がわからない。
どこに何を置くべきか、何から始めるべきか――
そんな彼の様子を見て、アランがさらりとコートを受け取る。
無言の優しさだった。
「ありがとう……」
レギュラスの胸に、温かいものが染み渡っていく。
こんな些細な気遣いが、なぜこんなにも心を打つのだろう。
アランはそのまま、てきぱきと部屋を整え始めた。
荷物を適切な場所に配置し、明かりを調整し、旅の疲れを癒すための準備を進めていく。
使用人でもない、家事に慣れているわけでもないはずなのに、その動きには無駄がなかった。
レギュラスは、そんなアランの背中をそっと見つめていた。
今日一日のことを振り返りながら――森での彼女の見事な働きぶり、的確な判断力、そして今この瞬間の優しさに、胸が熱くなる。
気づくと、彼女の背後に近づいていた。
そして静かに、後ろからその身体を包み込むように抱きしめる。
アランの動きが止まる。
驚いたような、それでいて安らいだような小さな息づかいが聞こえた。
「……見事でした」
レギュラスの声は、耳元で優しく響いた。
「今日の任務……本当に素晴らしかった。あなたがいなければ、あんなに完璧には行かなかった」
抱きしめる腕に、自然と力が込もる。
誇らしさと、愛しさと、感謝の気持ちがすべて混ざり合って、言葉では表しきれないほどの想いが込み上げてきた。
アランは振り返らずに、ただ静かに彼の腕の中に身を委ねた。
二人だけの時間が、異国の小さな宿の部屋に、静かに流れていった。
白磁のように無機質な部屋の中で、一枚の報告書が静かに読み上げられていた。
「洞窟E-56、立ち入りには事前申請および上位査察官の許可が必要とされる――
にもかかわらず、アラン・ブラックおよびレギュラス・ブラック、ふたりの魔力反応が現場周辺および内部で確認されました。」
ざわり、と紙の擦れる音が空気を鋭く切る。
そこに漂う沈黙が重い。誰もが、口をつぐんだまま視線だけを交わす。
問題の洞窟は、魔法界でも最も“触れてはならない”とされる場所のひとつだった。
不自然な魔力の揺らぎ、消された記録、内部の構造さえ正確には記述されていない。その洞窟の存在自体が、ある種の“死に場所”とされていた。
自ら寄る者は稀で、多くは命を絶つ必要ある者の覚悟の地。
まさか、そこに―― アラン・ブラックの魔力が触れていたなど。
「……一体、あのふたりは何をしていたんだ」
低く、誰かの呟きが漏れた。
周囲にいた者たちの視線が、一方向を見やる。
そこに立っていたのは、黒衣のローブを羽織った男――シリウス・ブラックだった。
その表情は張り詰め、口元には強く唇が噛まれる跡が滲んでいた。
視線を落とせずに紙を見据えるその瞳に、焦りと戸惑い、そして苦しみが交錯していた。
アランを――
あの人を、悪くは言わせたくなかった。
「彼女は、そんな女じゃない」
喉の奥に押し込めた声が、それでもどうしても言葉になりそうだった。
けれど、その“証拠”が、それを許してはくれなかった。
魔力の痕跡。
ふたり分の波長。
内部にまで達した形跡。
そして――誰にも報告せず、事前許可も出されぬままの侵入。
それが意味するのは、“目的あって”その場所に赴いたという事実だった。
「闇の魔術が絡んでいるのでは――?」「何かを……隠そうとしていたのでは」
冷たい噂と推測が、静かに部屋を侵していく。
胸が、痛かった。
違う。そんなことはあり得ない。
彼女は、ただ静かで、優しくて――誰よりも清廉に生きようとしてきた人だ。
誰よりも不幸を背負いながらも、闇に染まることを望まなかった人なのだ。
だが。
世界は、証拠でしか裁かない。
人となりよりも、結果で物を言う。
そして――
誰よりも自分のそばにいたはずのアランの“奥底”すら、
シリウスには、今やどこか遠くのものに思えた。
“何があったのだ、あの中で”
そう心の底から叫びたかった。
でも、彼女から、レギュラスから、
何も語られぬ限り、自分には何も掴めない。
信じたい。信じている。
だけど、なにもできない――その事実が、刺すように、彼の胸を締めつけていた。
肩を落としたその背に、光はなく。
暗い静寂のなかで、ひとり、揺らぎ続ける信頼と不信とが、
曖昧に胸の奥で結びつかずにいた。
魔法省 高等聴取室――
石造りの壁には魔よけの呪文が刻まれ、静寂すら魔力のように張り詰めていた。
その空間の中に、ふたりの姿はなかった。
アラン・ブラックとレギュラス・ブラック、聴取は同日、同時刻。
けれど場所は別、部屋も違い、互いの証言が影響しあう余地は一切なかった。
それでも――
ふたりの証言は、寸分違わなかった。
•
レギュラス・ブラックは淡々と語った。
あの近辺で発生した魔法薬の異常流通事件の調査の一環として、現地入りしていたこと。
島を囲む海が急激に荒れ、想定していたルートでの帰還が不可能になったこと。
やむを得ず、岸に最も近い“洞窟”に一時立ち寄った、その事実のみ。
そして同行者――
魔法薬調合に関して高い見識と技量を有する妻、アラン・ブラックには、
必要な成分の特性を検査してもらうため同行を提案した、と。
洞窟で使用した魔力は、全て防御魔法である。
亡者たちとの戦闘は想定外で、命を守るために最低限の対応をしたまでだと。
一字一句、過不足ない説明。
声には曇りがなく、表情も一切乱れない。
アラン・ブラックの聴取は別室で行われた。
柔らかな口調で、静かに、しかし確かな自信を込めて同様の説明を述べた。
ただの巻き込まれだった。
思っていた以上に現地の環境が過酷で、魔力が乱れていたのは“亡者による突発的干渉”だと。
調合者としては珍しくない環境下の対応だったと穏やかに語り、
聴取官の鋭い問いにも、にじむ疲労を覆い隠しながら、まっすぐに答えていった。
その整合性は、魔法省の誰をも唸らせた。
調書に一文の矛盾も見つからなかった。
まるで計算されたように、ではなく——
“共に真実に到達していた者たちの語り口”だった。
どう取り繕っても短くなるはずの糸が、最後まで切れなかった。
聴取が終わったとき、部屋の空気には、半ば諦念にも似た沈黙が漂っていた。
「……これ以上、追えないな」
誰かが呟いた。
その言葉には、警戒よりもむしろ――敬意すら滲んでいた。
報告書に目を落としたまま、シリウス・ブラックは、拳をゆっくり握りしめていた。
追う者としてすでに敗北を予感していた耳で、
アランの証言も、レギュラスの言葉も、静かに全て聞いていた。
淡々と語られる理屈。
取り繕っているようにも見えない。それほど自然に、彼女は彼を“信じて”語っていた。
けれど、それが余計に――胸を抉った。
アラン。
なぜ、そんなふうにまでレギュラスを守るのか。
なにをその両手に握らされているのか。
命を差し出されたから?
恩義のためか、それとも――それ以上のものが、そこにあるのか。
自分にはもう、わからない。
彼女が、自分の人生そのものを丸ごと委ねている人間が、
よりによってレギュラス・ブラックであるということが、
胸を、あまりにも切なく締めつけた。
会議卓の上の報告書の上には、アラン・ブラックの名前が、整った書体で記されていた。
誰よりも聡明で、誰よりも澄んでいて、
それでも、今は決して“届かない”彼女の名前が。
その名の隣には、どこまでも冷静で、美しく、すべてを包み隠す男の名が並ぶ。
レギュラス・ブラック。
「——あの人は、もう戻ってこないのだろう」
シリウスは胸中で、ただ静かにそう呟いた。
その音なき祈りは、誰にも聞こえることなく、
魔法省の深い静けさの中に、ゆっくりと沈んでいった。
聴取を終えた魔法省の廊下には、午後の魔法灯が薄く灯りはじめていた。
青白く整った光が石の床に落ち、歩を進めるたびに足音が淡く響く。
その静けさの中で、アランはゆっくりと歩いていた。
疲労を覆い隠すように姿勢を正し、背は一点の歪みも見せていなかった。
そのときだった。
「…… アランさん……」
響いた声に歩みを止める。
振り返ると、少し離れた場所にアリス・ブラックが立っていた。
幼い頃の面影を残しながらも、よく鍛えられた身体と佇まいに、年月の重なりが見てとれた。
思いがけない再会だった。
短い沈黙の後、アランは穏やかに微笑んだ。
「まあ……アリス。久しぶりね」
その声は驚きよりも、懐かしさに満ちていた。
そして、あたたかく、まっすぐだった。
アリスの胸は苦しげに波打っていた。
再会は嬉しかった。会いたかった。
けれど、なぜあなたが今、この魔法省で――
なぜ“聴取”を終えた後に歩いてくるの――?
現実が美しい時間を突き崩すように胸を締めつけた。
「……アリス、本当に立派ね。あの頃から変わらないわ。
貴女をこうして見ると、私……とても誇らしいの」
アランの瞳は以前と少しも変わらなかった。
柔らかく、褪せることのない慈愛を湛えていて。
手を差し伸べてくれたあの日の“あの人”のままだった。
その瞳に触れただけで、
アリスの胸にどうしようもない感謝と、同じくらいの、深い恐れが込み上げてきた。
アランを握っているのは――
あの男なのだ。あの、レギュラス・ブラックが。
「アランさん……」
言葉が詰まりながら、それでもアリスは言った。
「お願い……だから、レギュラス・ブラックから離れて……。
あの人は、危険なの。そばにいると……いつか、あなたがあなたじゃなくなっちゃう……」
声が震えていた。
言葉は整っていなくて、焦点を失った矢のように空を彷徨っていた。
けれど、紛れもない本心だった。
ただただ、アランを、あの人の隣から遠ざけたかった。
それは嫉妬でも独占でもない。
祈るような願いだった。
もしも、彼女が自分の知っている「アランさん」であり続けてほしいと願うなら、
そのためには、あの人の隣ではいられない。
たとえ、その行き着く先がシリウスでなくともいい。
別の誰か、どんな場所でも構わない。
でも、レギュラスの隣にだけは、いてほしくなかった。
アランは、その言葉を遮らず静かに聞いていた。
一言も返さず、ただ真っすぐにアリスの目を見ていた。
揺れる瞳、必死に何かを伝えようとするその聲に、
どんなに矛盾があっても、アランは否定することをしない。
腕が伸びそうだった。
あの頃のように、ただ頭に手を置いて「大丈夫よ」と微笑みたかった。
けれど、それはもう――できないのだと、どこかでわかっていた。
だからアランはやわらかく微笑んだ、まるで涙のかわりのように。
アリスの訴えが、真実であればいいと願うことは、アランの胸にもあった。
だけど、それでも。
「……ありがとう、アリス。言ってくれて」
それだけを静かに告げ、
アランは再び魔法省の廊下を、背をまっすぐに伸ばして歩いていった。
後ろに、そっと残された香りは、
あの日のアランをよく知るアリスにとって――
どこか遠い場所へ消えていく気配のように感じられた。
魔法省の廊下を歩きながら、アランは重ねていたマントの端を指先でそっと握った。
静かな足音が石の床に響くたび、胸の奥に静かに沈んだ痛みが波紋のように広がる。
――アリスの瞳。
あの、まっすぐでどこまでも強い目が、ずっと記憶の中に離れなかった。
あれは、かつてのシリウスの目と同じだった。
強い光。
火の玉のような、息を呑むほどの正義。
あのとき、何も持たずに震えていたアリスを、シリウスに預けた。
あの人なら、大丈夫だと。
きっとアリスをまっすぐな光の中で、大人にしてくれると信じた。
――そのとおりになった。あの子は、望んだとおりに育ったのだ。
それが、こんなにも苦しいだなんて、どうして思わなかったのだろう。
アリスは今、己の正義でレギュラスを貫こうとしている。
あの冷たい光を帯びた魔術師を、揺らさずに見据えて、追い詰めようとしている。
それが正しいのだろう。
何かを守り、明るい未来を作るという意味では、この世界には間違いなく必要な視線なのだ。
――それでも。
アランの胸の中には、痛みが詰まっていた。奥から、じんと疼く鈍い痛み。
レギュラスを守らなければ。
彼がしてきたことすべてを知っていてもなお、守りたいと――心が、選んでしまったのだ。
その覚悟は、きっといつか、シリウスにもアリスにも、背を向ける瞬間を招くのだろう。
「……ごめんなさい、アリス……」
声にならなかった祈りが、唇の内側だけでかすかに呟かれた。
どうか、もう彼のことは追わないで。
もう十分でしょう? そう言いたかった。
そっとしておいてほしい、遠くから見逃してほしい。
彼をさばくのではなく、ただ静かに、見過ごすという自由を選んでくれたらと、
祈るような気持ちだった。
それはエゴだ。
正義でも、誠実さでもない。
ただひとつの、情だった。
それでも――自分にとって、レギュラスは“それほどの存在”になってしまったのだ。
正しさよりも、守りたい。
世界の秩序よりも、命の温もりを。
たとえ誰の理解も得られなくても、その背中に手を伸ばしていたかった。
窓の外には、西陽がゆっくりと傾いていた。
アランは足を止め、光が差し込む柱の陰でそっと目を閉じる。
水底のような静けさのなかで、願いのようにただ一つ思った。
――どうかこの先、アリスとレギュラスが、決して交わらぬままでいてくれるように。
どちらにも剣を向けさせずにすむ未来が、どこかにありますように、と。
魔法省の尋問室を出ると、廊下には一切の音がなかった。
扉が静かに閉まる音だけが、遠くまで響いていく。
レギュラスは僅かに背筋を伸ばしながら、無表情のまま歩き出した。
歩調は乱れず、呼吸も整っていて、あたかもこの時間全体が最初から彼の掌に乗っていたかのようだった。
「……おかえりいただいて構いません」
そう告げた尋問官の言葉が、耳にまだ残っている――礼を返した瞬間の自分の声まで、まるで他人のもののように冷静に思い出せた。
完璧だった。
どこまでも、疑いようのない論理。
矛盾の入り込む隙もなく、魔法的にも整合性が取れているストーリー。
そして、アランもまた――寸分違わず、それに応じてくれた。
まるで二重奏のようだった。
重なったふたつの旋律が、ひとつの“無実”を優雅に奏で終えた。
アランには口裏を合わせるよう、あらかじめ静かに指示を伝えてあった。
その指示が命令になるものかどうか、正直なところレギュラスの中でも半信半疑だった。
彼女がどれほどの覚悟を持って、自分と歩くと決めたのか――
あの夜、分霊箱の真実を知ったあとも、ただ寄り添うように、自分を責めることなくそばにいた彼女の意味を、それでも測りきれずにいた。
だが、今日。
その問いのすべてが、明確に答えに変わった。
全面的に、自分の味方に立ってくれている。
どんな危うさの上でも、確実に味方だと。
その事実が、何よりも嬉しかった。
それが、この冷たい世界の中で――己を「強く在れ」と支えてくれる唯一のものだった。
正直、分霊箱の件が知られたと知ったときには、一瞬思考が止まった。
この先、どうやって生き延びればいいのかと。
すべてを失う気がした。
だが、アランは違った。
問い詰めるのでもなく、拒絶するのでもなく、
彼女はただ、「一緒に持つ」と言ってくれた。
共に罪を背負うというその覚悟は、レギュラスの予想など遥かに越えていた。
この聴取も、魔法省の疑念も――
すべては形式だった。
本質は、それに向けて誰を味方につけ、誰を欺いていくかだった。
そして今回、自分たちはまた「勝った」。
「……完璧だ」
誰にともなく、吐き捨てるように呟いた。
それは事実を指していたが、同時に、自分たちの「結託」の強さそのものへの評価でもあった。
仕事を終えた仮面が薄く剥がれていく。
時の外れた陽光が差す廊下の先に、アランの気配があるのを感じながら、
レギュラスは静かに、しかし確かな歩みで彼女のもとへと向かっていった。
負けたことがない者の、静謐な足取りだった。
そして、その勝ち星をそっと支えてくれるただひとつの存在が、いまもなお自分の隣に立ってくれている――
それが、この世で一番、恐ろしくて甘美な力だった。
支度を整えていたレギュラスは、背後から静かに届いた声に、驚きを隠せなかった。
「では、ご一緒します」
それは、ごく当たり前のようなイントネーションだった。
けれどレギュラスの手は、その一瞬だけ止まった。
振り返ると、アランが凛とした表情でそこに立っていた。
落ち着いた瞳が、迷いなくこちらを見据えている。
「……今のは、そのままの意味ですか?」
意外にも、レギュラスの声にだけ、わずかな揺らぎが混じった。
これまで幾度となく短期の国外任務をこなしてきた。
戦闘があるわけでもなければ、護衛を必要とするような危険性もない。
当然、アランが同行を申し出ることなど、一度もなかった。
だからこそ、彼の中で生まれた違和感は、じわじわとまとまりのある疑問に変わっていった。
「いえ、単なる魔法生物の捕獲任務です。
指定区域も穏やかな土地ですし……早く終えて、戻ってきますよ」
ごく当たり前の調子で告げる。
本当に大したことはない、と淡く笑う素振りまで見せながら。
だが。
「それでも、私も行きます」
アランの返答は、想像以上に揺るぎなかった。
「邪魔はしません。……魔法生物が相手なら、魔法薬を用いたほうが効率も上がりますよ。多少のお手伝いなら、できると思います」
その声音には、遠慮の色はなく、けれど押し付けるような強さもなかった。
ただ理にかなった事実を、穏やかに差し出しているだけだった。
レギュラスは完全に言葉を失ったように、彼女の顔を眺めた。
普段であればこうしたやりとりに特別な驚きは覚えないはずなのに、なぜか――
このときばかりは、自分という存在が思考から取り残されているような感覚に包まれた。
アランが――譲らない。
少しの遠慮も、引き際も見せないというその姿勢が、彼には理解以上の衝撃だった。
「……どうしました?」
アランが首をかしげながら訊く。
いつものような穏やかさで。
そして、続けた。
「だって……あなたには今、いろんな疑惑がかかっているでしょう?
一人で動く時間があるほど、足元を狙われる可能性は大きくなるわ。
私がそばにいれば、観測魔法でも記録でも、堂々としたいようにさせられる」
レギュラスはその一言一言を、丁寧に飲み込んだ。
言っていることの意味はよくわかる。
正しいし、賢い。それに、彼女らしい。
けれど、自分はそんな風に、油断ひとつでしくじるような男ではない。
疑惑を向けられても、それすらも利用するだけの度量はあるつもりだった。
しかし――
目の前にいる女は、とにかく“隙”をつぶそうとしている。
第三者のためでもなく、自身の名誉のためでもない。
ただ“自分”のために、だ。
レギュラスの胸に、言葉にならないあたたかいものが滲んでいった。
庇おうとしてくれている。
何も咎めず、ただひたすらに、自分の隣に立とうとしてくれる。
たったそれだけの事実が、レギュラスをひどく静かに、しかし確かに強くさせた。
「……わかりました。ご同行を」
レギュラスはゆっくりと微笑み、頷いた。
その目には、ささやかな信頼と――言葉にできない感謝が灯っていた。
アランの静かな覚悟は、盾でも剣でもなく、
確かに彼の“根”になっていた。
そして彼は心の中でひとつだけ、思った。
――きっと、何があっても、彼女だけは、自分の側にいさせたい。
それが、初めて面と向かって願いと呼べるものだと、気づいた瞬間だった。
「……姿くらましで行くつもりだったんですが……」
レギュラスの声はやや迷いの色を含んでいた。
革の手袋を片手にはめながら、ふと横に立つアランへ目を向ける。
普段ならば、一人でその呪文を使って、空間を裂くように現地へ跳ぶのが彼の常だった。
けれど、今日は――違った。
体の弱い彼女が隣にいる。
それだけで、当たり前に行っていた強行移動が突如、ひどく無理のあることに思えた。
姿くらましの呪文は魔力を消費するだけでなく、肉体への負荷が大きい。
特に長距離になればなるほど、“引き裂かれる”ような不快感や内臓を巻かれるような酩酊が悪化する。
彼女に、耐えられるだろうか。
そう思った瞬間、アランが軽やかに言った。
「平気ですよ。強力な酔い止めを服用していますから」
あまりにもあっさりとした答えに、レギュラスは一瞬、言葉を失い、その顔にわずかな驚きを滲ませた。
なんと用意周到なことか。
こうなると、もはや自分以上に段取りは整っているのではないかという気さえする。
「……副作用とか、平気なんですか?」
念のため、確認するように尋ねると――
「ええ。……多分」
くすりと笑うようにして返されたその言葉に、レギュラスは呆れるでもなく、あたたかみのある眼差しを向けた。
なんとも言えない心もとなさと、同時に、その“気軽さ”がどこか心を軽くさせるのだった。
アランはどこまでもひとりで戦おうとはしない。
けれど、誰かのためなら、思いもよらぬところで強さを見せる。
多分、という言葉の裏にある覚悟を、レギュラスはそっと受け取る。
「さ、行きましょう」
アランはそう言わなかった。
だが、視線がそう語っていた。
晴れやかで誤魔化しのない眼差しが、真っすぐに彼を見ていた。
そして。
その柔らかな手が、ふいに彼の腕に添えられる。
掌の温かさが、薄いローブ越しに彼の感覚へと染み込んでくる。
驚くことではない。けれど、不思議と胸がわずかに高鳴った。
「……離さないでくださいね」と、アラン。
「こちらこそ」と、レギュラスは低く応える。
彼女との姿くらましは初めてだった。
たった一瞬の魔法であっても、短い旅であっても。
意思を重ね、身を重ねて向かうこの一歩が、どこまでも意味を持っている気がした。
レギュラスは静かに目を閉じる。
腕に添えられた温もりを確かめながら、その体を空間ごと裂け目へ委ねた。
音もなく、ふたりの影が空に溶けるように消えていった。
旅路の先に待つものが何であれ、ふたりの呼吸は今、確かにひと繋がりだった。
森の奥は静かだった。
風ひとつ吹かず、木々は深く息を潜め、鳥さえ声をひそめている。
葉の影が淡く揺れるたび、そこに何かが潜んでいる気配がしたが、それでもレギュラスの心は妙に落ち着いていた。
隣にアランがいる――それだけで、森の不気味さはどこか遠のいていた。
枝葉のざわめきすら、ふたりの呼吸の合間を縫う音のようで、恐怖ではなく静謐を連れてきてくれる。
彼女は歩きながら周囲に軽く感知魔法を散らし、魔法生物の痕跡を探っていた。
頼りなげな外見に似合わず、動きは洗練されていて、何も聞かずともすでに役割の一端を心得ているのが分かる。
そしてその背に視線を落としながら歩むレギュラスの耳に、やがてかすかな足音が届いた。
「やあやあ、これはこれは」
どこか芝居がかった軽やかな声。
ふたりの背後、木立を軽やかに掻き分けて現れたのは、バーテミウスだった。
濃紺のローブは神経質なほど整えられ、靴には片鱗ほどの泥もついていない。
この深い森の中にあっては明らかに浮いているのに、それをまるで気にした様子もない。
「セシール嬢……お久しゅうございますね」
言うが早いか、バーテミウスは振る舞いすぎるほどに深い一礼をしてみせた。
まるで王宮の舞踏会にでも招かれた貴族のような所作――
それがこの朽ちかけた根の上、森の奥という舞台にあまりに不似合いで、風景から音がひとつこぼれたようだった。
アランは一瞬面食らいながらも、ほんの少しだけ口角を上げ、極めて品のある動作で礼を返した。
「ごきげんよう、バーテミウス様」
丁寧な言葉づかいに、透き通るような声。
その響きもまた、木々に包まれるこの湿った静けさの中では異物のようで、
まるで森がその音の行き先を見つけられずに戸惑っているかのようだった。
「しかし、こんな深い森でこのような麗しいご挨拶を聞けるとは……」
バーテミウスはわざとらしく手を胸にあてて、感嘆の仕草をしてみせる。
レギュラスはその様子を見ながら小さく息を吐いた。
ともすれば場違いなはずのやりとりが、どこか馴染んでしまっていることに、
あるいはアランの在り方が状況すら自然と整えてしまうことに、彼は妙な納得を覚えていた。
不似合いなほど優雅なこの挨拶が、森のひとときに不思議な浮遊を与える。
この空間がふいに生き物のように静かに呼吸を始めたような、そんな錯覚。
だけれど――と、レギュラスは心のなかで思う。
あまりにも美しいものを、この森に持ち込みすぎてはならない。
強すぎる光は、時として闇の目印になってしまう。
彼は言葉にはせず、ふたりの間に流れた淡い一礼のやりとりを、横目に静かに見届けた。
そして再び足を踏み出す。
この任務の先にあるもの――
それが何であれ、今この瞬間の均衡だけは、できる限り丁寧に守ろうと、
レギュラスはふいにそう思った。
バーテミウスは軽やかに歩みながら、レギュラスの隣へと近づいた。
そして声をひそめて、わずかに耳元に囁きかける。
「なぜ、セシール嬢が同行を?」
その問いには好奇心と、微かな警戒が混じっていた。
これまで単独行動の多かったレギュラスが、突然妻を連れ立って現れたことに対する、自然な疑問だった。
レギュラスは一瞬、どう答えるべきか迷った。
建前を言うか、それとも――
「一人での行動は控えたほうがいい、とのことです」
結局、正直に答えることにした。
魔法省の聴取の件、そして周囲の視線が厳しくなっていることを、遠回しに示唆した言葉だった。
バーテミウスはその意味を瞬時に理解したようで、ふむふむと納得するように何度も頷いた。
「なるほど、賢明な判断だ」
そんな表情が、彼の顔に浮かんでいる。
そのとき、少し離れた場所からアランの声が響いた。
「この辺りに、わずかな魔力の痕跡がありますよ」
ふたりは振り返る。
アランは樹の根元にかがみ込み、土に触れながら周囲の空気を慎重に読み取っていた。
その集中した様子には、単なる知識ではない、実践に裏打ちされた技量が滲んでいる。
「さすが、魔法薬の天才だ」
バーテミウスが感嘆の声を上げた。
「これなら、サクッと終わりそうで助かるよ」
その言葉を聞いて、レギュラスの胸には複雑な感情が過った。
自分の妻を、まるで便利な道具のように語られることには心外な気持ちもあった。
だが同時に、バーテミウスの声には確かな敬意も込められていることを感じ取れた。
――彼女の能力を、素直に評価してくれている。
そのことが、レギュラスをひどく誇らしい気持ちにさせた。
アランは顔を上げ、ふたりに向かって小さく手招きをした。
「こちらへ。魔法生物の足跡が、はっきりと残っています」
その声は落ち着いていて、自信に満ちていた。
森の奥深く、不安定な魔力が渦巻く場所にあっても、彼女は自分の役割を確実に果たそうとしている。
レギュラスは静かに微笑んだ。
この任務に、彼女を連れてきて正解だった。
ただ守られるだけの存在ではなく、確かに力になってくれる――
そのことを、改めて実感していた。
「行きましょう」
彼はバーテミウスに声をかけ、アランのもとへ歩いていく。
この森の奥で、三人の役割がひとつずつ噛み合い始めていた。
しんと静まり返る樹々の狭間、空気がわずかに緊張に攫われていた。
苔むす大地の上に屈むアランが、薬瓶の細い口を指先で傾けると、透き通った淡い液体がぽたり、と重力に逆らうことなくゆっくりと地表に垂れていく。
その一滴ごとに、微かな芳香が漂い始めた。甘さと苦みが絶妙に混ざり合ったような、獣の嗅覚をくすぐる匂い。周囲の木々の気配さえ薄れて感じるその匂いに、静かに森全体が呼吸を止めたかのようだった。
「アラン、……注意を」
レギュラスの声が静かに届く。
少し離れた位置に立つ彼は、すでに杖を手にしており、片膝を低く構えて身の全神経を前へと集中させていた。
その瞳には決して衝動の影はなく、ただアランの身を万が一からでも守ろうとする、研ぎ澄まされた静かな意志があった。
木陰の奥。
枯葉を踏む音ひとつなく、森の表面をすべるようにして現れたのは、今回の任務対象である魔法生物だった。
《オルニルス・セレスタ》――
月の下でしか活動ができず、神経が非常に敏感な稀少種。
銀灰の毛並みを持ち、優美な身体の線とは裏腹に、ひとたび脅かされれば凶暴に変貌する“二面性”を持つ、極めて扱いの難しい生物である。
その獣は、アランが垂らした薬液の匂いに惹かれるように、ふわりと森の空気を震わせながら近づいてきた。
まだ警戒心があるのか、広がった瞳はぎらぎらとこちらを見据え、耳元の長いひれのような毛がわずかに揺れている。
アランは恐れるでも、立ちすくむでもなく、小さなケースの中からさらに別の密閉された布包みを取り出した。
封を開くと中から現れたのは、小さく丸められた薄銀色の錠状の魔法薬。
彼女はそれを、掌の上に静かに乗せたまま、獣の前に差し出す。
攻撃の意図が一切ないことを、不思議なほど柔らかな動作が伝えていた。
崇拝にも似た間が空き――
魔法生物は、ためらう様子なく、それをすっ、と口にした。
しばしの沈黙。
そして――
ぬるり、と身体の力が抜けたようにして、その場に横たわった。
まるで母の胸の鼓動に添って眠る子のように、静かに、穏やかに。
安楽な眠りと鎮静を完璧にもたらす魔法薬だった。
レギュラスは深く呼吸を吐いた。
自身が一度も杖を振るうことなく、
どれほど繊細な準備と計算がされていたかを間近で見届けたことで、
胸の奥には、ただ静かな驚嘆と、限りない誇らしさが広がっていた。
アランはその眠った獣の身体に優しく魔法をかけ、宙に浮かび上がらせる。
拡張魔法のかかった携帯式の仮設小屋の扉が開かれると、ゆったりと光に包まれるようにして濃い毛並みの獣が吸い込まれていく。
扉が閉じると同時に、任務は――完了だった。
「おお……これは、これは!!」
バーテミウスが後方からあからさまに拍手までしそうな様子で、浮かれ気味に口笛を吹く。
そして、やや大げさに両手を打ち鳴らしながら、にやにやと笑った。
「まったく見事! 一切の魔法戦なしでここまで完璧に制するとは……。いや、実にきもちいい仕事っぷりだ、セシール嬢!!」
彼なりの最大の称賛であるのは、レギュラスにも分かっていた。
それでも、その“少しうるさい賛美”に対してほんの一瞬だけ眉が動きかけたのは、
アランを道具のように算段に組み込まれたくない、そんな心のさざ波だった。
けれど、同時に理解もしていた。
バーテミウスの言葉の奥に、無意識ににじんでいた本物の敬意を。
その瞬間、アランが微笑んで振り返った。
林の光を受けたその顔には、穏やかな疲労と、それ以上の達成感がにじんでいた。
レギュラスの表情には、それ以上の言葉はいらなかった。
微かに目を細め、ゆるやかに頷く。
その目は静かに語っていた――
「心から、誇りに思う」と。
森には再び静寂が戻る。だがその静けさは、もう不気味ではなく、どこか満ち足りた余韻を孕んでいた。
任務後の冷たい空気のなかで、確かな灯りのように、アランの存在がそこにあった。
森での任務を終えた三人は、小さな集落の入り口まで戻ってきていた。
夕方の空気が頬を撫でていく中、バーテミウスが軽やかに提案する。
「早めに片付いたことですし、フランスの地のワインでも飲みに行きます?
この辺りには美味しいブラッスリーがいくつかあるんですよ」
バーテミウスの声は明るく、森での緊張を解くような親しみやすさがあった。
しかし、レギュラスは穏やかに首を振る。
「遠慮します」
短く、だが丁寧な断りだった。
バーテミウスは「つれないな」というような表情を見せながらも、特に食い下がることなく肩をすくめた。
彼なりに理解しているのだろう――夫婦の時間を邪魔すべきではないと。
やがて別れを告げ、レギュラスとアランはふたりで石畳の街路を歩いていた。
ロンドンとは全く違う風情の建物が両脇に並び、窓辺には色とりどりの花が飾られている。
どこか牧歌的で、穏やかな夕刻の香りが漂っていた。
「どこか回りますか?」
レギュラスが歩みを緩めて問いかけると、アランは微笑みながら答える。
「いえ、宿に戻りましょう」
疲労というより、むしろ二人の時間を大切にしたいという気持ちが込められた返事だった。
宿に着くと、レギュラスは少し戸惑った。
屋敷での生活に慣れきっていて、使用人のいない場所での勝手がわからない。
どこに何を置くべきか、何から始めるべきか――
そんな彼の様子を見て、アランがさらりとコートを受け取る。
無言の優しさだった。
「ありがとう……」
レギュラスの胸に、温かいものが染み渡っていく。
こんな些細な気遣いが、なぜこんなにも心を打つのだろう。
アランはそのまま、てきぱきと部屋を整え始めた。
荷物を適切な場所に配置し、明かりを調整し、旅の疲れを癒すための準備を進めていく。
使用人でもない、家事に慣れているわけでもないはずなのに、その動きには無駄がなかった。
レギュラスは、そんなアランの背中をそっと見つめていた。
今日一日のことを振り返りながら――森での彼女の見事な働きぶり、的確な判断力、そして今この瞬間の優しさに、胸が熱くなる。
気づくと、彼女の背後に近づいていた。
そして静かに、後ろからその身体を包み込むように抱きしめる。
アランの動きが止まる。
驚いたような、それでいて安らいだような小さな息づかいが聞こえた。
「……見事でした」
レギュラスの声は、耳元で優しく響いた。
「今日の任務……本当に素晴らしかった。あなたがいなければ、あんなに完璧には行かなかった」
抱きしめる腕に、自然と力が込もる。
誇らしさと、愛しさと、感謝の気持ちがすべて混ざり合って、言葉では表しきれないほどの想いが込み上げてきた。
アランは振り返らずに、ただ静かに彼の腕の中に身を委ねた。
二人だけの時間が、異国の小さな宿の部屋に、静かに流れていった。
