4章
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深い霧が立ち込める夜だった。潮の香りと重たい湿気が肌を刺すように絡みつき、洞窟の入り口を前にしたレギュラスは、しばし無言で立ち尽くしていた。
この場所に足を踏み入れるのは、二度目だった。
けれど、何度来たとしても、ここはやはり“地獄”にほど近い。
ただ息をしているだけで、冷たい指先が身体をこじ開けて、底へと引きずり込もうとする。この場所には、生きていること自体が不自然であるような、そんな異質な静けさと狂気が満ちていた。
ヴォルデモートから直々に与えられた任務だった。
分霊箱を「安全な場所に封じておけ」と――
裏を返せば、ヴォルデモートの“死”そのものを守る仕事でもある。
レギュラスは、それをためらわずに引き受けた。
いや――正確には、あの夜、アランの命を救う選択肢として、それを取らざるを得なかったのだ。
「不死」を差し出せば、「命」を取り戻せる。
そうして、ほんの一瞬だけでも、彼女の温もりをもう一度感じられるなら――
自ら助言した。
さらなる分霊箱を、と。
その瞬間から、後戻りなど叶わなくなった。
ヴォルデモートは嗤いながら受け入れた。
そして彼に分霊箱の“護り”を託した。
それは、信頼ではなかった。ただ、“便利な従僕”としての指名、それだけだった。
洞窟の中は、記憶よりも重たく、湿っていた。
岩壁には海風が滴り落ち、硬く尖った沈黙がレギュラスの背筋を撫でていく。
すでに何重もの魔法的障壁と感知呪文が張り巡らされており、そのひとつひとつを丁寧に解除しながら、彼は奥へと進む。
そして、問題の湖に辿り着いた。
鏡のように静まり返った水面。
その下に無数の亡者たちが眠っていることを、レギュラスは知っていた。
――一度目のとき。
その湖に分霊箱を沈めようと近づいたその瞬間、
水面がざわつき、白く朽ち果てた手が群れとなって彼の足を掴んだ。
引っ張られ、引きずり落とされ、暗く深い水底へ――
身体が冷たさで軋み、肺が空気を求めて絶叫する寸前、
レギュラスは死に物狂いで護身術を連打し、崩れ落ちるように湖の縁へ這い上がった。
あのときの痛みと恐怖は、いまだに身体のどこかに棘のように残っている。
そして今、ここにまた戻ってきた。
命を落としかけた地で、それでも任務を遂行しなければならない。
それが、“彼女”を救うために差し出した代償の先にある道だから。
息が浅くなっている。
けれど、止まることは許されなかった。
レギュラスは分霊箱を抱いたまま、静かに足を進める。
すでに心臓は恐怖で荒れ狂い、手のひらは汗ばんでいた。
分霊箱――それは手にした瞬間、冷たく震え、
まるで自分の中にある、浅く裂けた魂の傷と共鳴しているようだった。
この魔法は、取り返しがつかない。
犠牲が要る。それも、無垢な命の。
だからこそ、自分自身が感じていた重圧を、誰かに告げられることはなかった。
アランには、決して話すことはできない。
この選択の上に、彼女の微笑みがあることが、重すぎる。
「……こんな地獄に、また来ることになるとは思わなかった」
水面に自分の歪んだ影が映っている。 亡者たちはまだそこにいる――静かに、じっと機を待ちながら。
レギュラスは杖を構える。
罠は、破るためにある。
命は――守るために使う。
そう、自分に言い聞かせながら、
レギュラスは、過去と恐怖と冷たい水音が響くこの闇の中へ、再び深く踏み込んでいった。
二度目の失敗だった。
レギュラスは湖の縁で、息を荒げながら膝をついていた。
冷たい石の感触が肌を通して骨まで染み渡る。
またしても、あの湖に引きずり込まれた。
白骨のような手がまるで蔦のように足首に絡みつき、
深い水の底へと――生命から遠ざけるように、引っ張っていく。
杖を振ろうとしても、無数の亡者たちが腕に、肩に群がって、
自由など微塵も奪われてしまう。
杖を使わずにかけられる呪文では、あまりにも威力が弱すぎて、
それは死へのカウントダウンを少しだけ伸ばすに過ぎなかった。
肺が破裂しそうになるまで息を止め、
這いつくばって、ようやく湖の縁へと戻ってきた。
三度目など、もうごめんだった。
あの恐怖を、もう一度味わうなんて――
考えただけで全身が震えた。
今すぐ、アランのもとに帰りたい。
その一心で、レギュラスは分霊箱をローブの奥にしまい込み、洞窟を後にした。
ぞっとするような冷たさが背中を這い上がる。
この任務が果たせないことへの恐怖と、
ヴォルデモートに失敗を告げなければならない屈辱が、
胸の奥で重く絡み合っていた。
屋敷に戻ったレギュラスは、できるだけ平然を装おうとしたが、
鏡を見ずとも、それが成功していないことはわかった。
服は濡れ、髪も乱れている。
顔色は青白く、手の震えは止まらない。
何より――瞳の奥に宿った恐怖の色は、隠そうとしても滲み出てしまっていた。
階段を上がりきったところで、アランが振り返った。
その瞬間、彼女の表情が一変する。
「なに……何があったんです?」
アランは慌てたようにレギュラスに近寄り、その顔を覗き込んだ。
心配の色が瞳に宿り、震える手でそっと彼の頬に触れる。
「いえ、ちょっと……」
レギュラスは言いかけて、言葉に詰まった。
必死に頭の中で言葉を探すが、見つからない。
あの洞窟の恐怖を、どう説明すればいいのか。
湖の底から伸びてくる無数の手を、どう表現すればいいのか。
死の淵を何度もさまよった恐怖を、オブラートに包んで伝える方法など――
どこにも存在しなかった。
「任務で……少し、危険な場所に行っていたのですが……」
「うまく、いかなくて……」
それだけ言うのが精一杯だった。
アランの心配そうな視線を受けて、レギュラスは視線を逸らす。
彼女に心配をかけたくない。
だが、これ以上嘘を重ねることもできなかった。
身体が正直に、恐怖と疲労を告げている。
「座ってください」
アランの優しい声が、震える心にそっと響いた。
レギュラスは従うように椅子に身を預け、深く息を吐いた。
分霊箱は、まだローブの奥で冷たく脈打っている。
任務は失敗のまま。
だが今は、ただアランの温もりが欲しかった。
彼女の手がそっと肩に置かれる。
その瞬間、洞窟の悪夢が少しだけ遠のいていくのを感じた。
屋敷の静けさに包まれるようにして、レギュラスは帰ってきた。
その姿は、いつになく酷く傷ついていた。
濡れそぼったローブは重たく、肌に張りついたその生地の下、どれほど冷えきった身体なのだろうと想像するだけで胸が締めつけられる。
髪は乱れ、指先は白く、わずかに震えている。
それでも、「うまくいかなくて……」とただそれだけを言って、かすかに微笑交じりの声でごまかそうとした。
だが、もう言葉などいらなかった。
彼の震え、蒼白な肌、濁った瞳の底に宿る恐怖――それらすべてが、どれだけ過酷な任務だったかを、余すことなく物語っていた。
だからアランは、それ以上、何も聞かなかった。
聞いてはいけないと思った。
きっと、今はその傷に言葉を与えてしまうことさえ、彼を壊してしまいそうだった。
そっと彼の肩を支え、ゆっくりと椅子に座らせる。
レギュラスはすでに半ば目を閉じかけていて、自身の重みにさえ耐えられないような様子だった。
アランは杖を手に取り、濡れた衣服に優しい乾燥の魔法を施していく。
その間も、彼の額を濡らす冷たい汗が何滴か、喉元へと伝っていた。
「よく帰ってきてくれました」
そう口に出せば泣いてしまいそうで、
代わりにアランは、何も言わずにその小さな体を覆うように、そっと抱きしめた。
けれど、レギュラスの腕は動かなかった。
抱き返す力も、もう残っていないのだろう。
彼はただ、無言でアランに身を預けていた。
長い沈黙のあと――
椅子に凭れたまま、レギュラスの呼吸が穏やかになっていった。
まるで糸が切れるように、そのまま深い眠りへと落ちていく。
それは気を失ったのか、それとも疲弊しきった心がもう目を開けることを諦めたのか。
アランは慎重に彼の腕の中から身体をずらし、ふと、そのローブのポケットからわずかに覗く銀のチェーンに気づいた。
指先でそっと引き出したそれは、小さなロケットだった。
触れた瞬間、ひやりとした冷たさが肌を刺した。
まるで、命を失ったものがまだ熱を帯びることを拒んでいるように。
その感触ひとつで、アランは理解した。
――これが、分霊箱。
ほんの一瞬で、胸がつかえるように苦しくなった。
こんなもののために。
こんな、禍つく魔法のために。
レギュラスは、こんなにも――
その腕すら動かせないほどまでに、
命をすり減らすようにして、この闇と向き合っていた。
涙が止めどなくあふれた。
声を上げることもできないほどに。
ただ、静かに、そっと顔を伏せたまま、アランは泣いた。
悲しさと、無力さと、どうしようもない切なさが、心の奥から溢れ出し、
声にならぬ震えだけが、胸の内を満たしていく。
レギュラスの頬にかかる髪をそっと撫でる。
その指先に、もう冷たい魔法の気配はなかった。
ただ穏やかに眠るこの人を、
これ以上ひとりきりで闇の底に向かわせてはならないと、アランは密かに誓った。
どれほど過ちを重ねようとも、
この人の居場所だけは、光でありたい。
たとえ、それが自分の身をすり減らすことになっても――。
アランは静かな書斎のなか、レギュラスの杖を目の前に置いて、深く息を吐いた。
指先でその古びた木の感触にそっと触れる。杖は、まるで休んでいるように静かだったが、触れた瞬間に、冷たい震えのようなものが掌を走った。
レギュラスが、何に抗い、何を守ろうとしたか――
その軌跡を、アランは知りたかった。どうしても。
彼が持ち帰った分霊箱――
凍てつくように冷たく、ただ手にしているだけで意識の奥底に黒い靄が立ち込めるような、
言葉にはできない感覚の塊だった。
アランは慎重に、杖に記録された魔力の痕跡を読み取る魔法を施した。
時を遡り、杖が記憶している“瞬間”をひとつひとつ、魔力の糸のように引き出していく。
それは、まるで彼の魂の奥底と対話しているようだった。
見えてくる――
膨大な数の呪文の記録。
そのほとんどが、応戦と防御、そして光のない詠唱文。
ひとつの呪文が、執拗なまでに何度も何度も繰り返されていた。
防御、再生、排除、浮上、拘束解除――
混乱と錯乱のなかで振るわれた魔法たち。
それらがまるで、彼が死と恐怖の狭間で藻掻いてきたことを物語っていた。
アランの意識の奥へ、杖が“記録”していた感情が流れ込んでくる。
息苦しさ。
誰にも助けを求められない孤独。
水中に引きずり込まれそうな圧倒的な無力感。
そして――
生きなければ、帰らなければという、ただひとつの願い。
アランへと続く道を閉ざさないように。
名もなき黒い闇に奪われる前に。
その一心で、震える手で杖を振るっていた。
杖は感じ取っていたのだ。
レギュラス・ブラックという魔法使いの恐怖と痛み、すり減る意志と、
それでも抗おうとする命の火を。
アランは胸を押さえた。静かに、けれど確かに、涙がこぼれる。
どれだけの思いでこの杖にすがっていたのか。
それでも、分霊箱を湖に沈めるその任務を成し遂げることはできなかった。
レギュラスにとって、それは敗北ではない。
むしろ、決して抗えぬ人間としての限界――
彼が自分で自分を責める理由にも、数え切れないほどの恐怖にもなる。
けれど、アランは知っていた。
何よりも価値あることは、彼が命を繋ぎ、生きて帰ってきてくれたことだった。
杖から手を離し、アランはゆっくりと立ち上がる。
その視線は、今や分霊箱へと向けられていた。
どうすれば、この任務を彼でない誰か――
例えば、自分が、完遂できるのか。
彼の命をこれ以上削らせずに、済む方法はないのか。
分霊箱を、護るためではなく、終わらせるために。
そして、レギュラスを“自由にする”ために。
彼女は心を決める。
レギュラスが果たせなかったその任務を、自ら遂げる道を探すと。
闇に対して恐れているだけではいけない。
愛する人が、命を削って守ってきたその先へ――
自分が踏み出す番なのだと、胸の奥で静かに灯がともった。
湖の洞窟に辿り着いたとき、アランの吐く息はすでに白くなっていた。
魔法では防ぎきれないほどの冷えが肌を刺し、奥歯がかすかに鳴る。
水音はどこからともなく、絶え間なく響いていた。
ただそれだけなのに、心の奥まで蝕むような恐怖だった。
杖を持つ指がかすかに震える。
足は冷たい岩肌の上に立っているにもかかわらず、地面が揺れているように感じる。
それでも―― アランは進んだ。
レギュラスがかつてそうしたように、魔力で探知されぬよう慎重に、罠ひとつひとつを解いていく。
その数は膨大だったが、彼女は知っていた。杖の履歴に刻まれていたものを。
レギュラスが通った道のすべて、選んだ呪文の軌跡、叫ぶように振るわれた魔力のかすかな震えまでも。
驚きはなかった。けれど――
この場所が持つ、底なしの闇と冷気は想像を超えていた。
肌ではなく、心の内側を凍み渡っていく恐怖。
何か“おかしい”と、無意識に脳が警鐘を鳴らし始める。
こんな場所に、あの人はひとりで立ったのだ――
そのことを思っただけで、胸の奥が張り裂けそうになった。
誰よりも誇り高く、冷静であるはずのレギュラスが、
この洞窟で命を削りながら、『生き延びなければ』という執念で杖を振り続けた、その事実に。
アランは、足を進めた。
行き止まり――
そう思われる岩の裂け目に、アランはそっと足を踏み入れる。
その瞬間だった。
音もなく、湖の水面が揺れ始めた。
暗い水の揺らぎが、不気味な螺旋を描くように、小さなさざ波となって広がる。
一体、二体――
そして、数え切れないほどの黒く細長い影が、水中からゆらりと浮かび上がってくる。
白骨のように朽ちた手。
濁った目。
生も死もない、それでいて確かに“生きている”存在たちが、アランに向かって這い寄ってきた。
息が詰まる。
瞳がひとつ自分に向けられるたび、喉がきゅっと締まるようだった。
――けれど、逃げてはいけない。
アランは、手にした杖を高く掲げた。
記憶の中のレギュラス。彼が選んだ呪文。
杖が燃えるように震え、魔力が込み上げる。
「Depulso!」
「Bombarda Maxima!」
「Lumos Solem!」
繰り返す。
何度も、何度も、何度でも――
まるで命を噴き出すように、アランは魔法を連打する。
光が弾け、亡者を弾き、また新たな影がそれを乗り越えて来る。
崩れては、また迫る。
数が減らない。諦めない。意思がないからこそ、止まらない恐怖。
岩に足をとられ、膝が砕けそうになる。
それでも起き上がる。
「Depulso!」
レギュラスがそうしたように。
同じ道をたどり、同じようにこの闇の中で、生き延びようとする。
自分の命を懸けてでも――
彼を、この呪われた任務から自由にするために。
アランの魔力の先端には、目には見えない誓いが確かにあった。
それはまるで、彼女と彼を過去と現在でつなぐ、静かで強い光のようだった。
亡者たちの手が、アランの足元にまとわりつく。
冷たい指先が何本も、何重にもなって絡みつき、体の重さを奪っていく。
膝が落ち、腰が折れ、そしてとうとう、胸の下までを黒い湖水が覆った。
水面の温度はまるで生き物のように冷たく、じわじわと肺の奥へしみ入り、
ひとつごとに息を吸おうとするたび、濁った湖の水が喉を焼いて侵入してきた。
「――っ、ごほっ……!」
何度も杖を振った。
力がもう入りきらない腕を、それでも奮い立たせた。
けれど、まだレギュラスが使った半分にも満たない。まだ、届いていない。
この腕では、あの人のようには……。
悔しい。それでも本当に、どうしようもなかった。
もともと、アランは戦いに秀でた魔法使いではなかった。
知識はある。癒しの魔法も学んできた。
それでも、今この場で必要とされるのは、命の火花を叩きつけるような魔力の強度であり、
怯むことのない技量だった。
こればかりは、叶わなかった。
レギュラスの足元に立つことすら、自分には、難しかったのだ。
黒い水の中にずるずると引き込まれていく。
指先が痺れ、痛みではない麻痺がじわりと迫る。
このまま――沈んでいく。
おそらく、ヴォルデモートは、この“宿命”を理解したうえで、あの任務をレギュラスに命じたのだろう。
そう思った瞬間、背筋を貫くような冷たい答えが、アランの心に降り立った。
――沈め、と。
名指しでは命じない。
けれど、拒む術のない“任務”という名で、レギュラスをこの湖へ誘った。
あの人がこの場で死ねば、分霊箱もまた手の届かない墓場に永遠に封印される。
亡者たちがその遺体を抱き、骨に絡み、誰も奪えない“安全な場所”にそれを置く。
それが、きっとあの男の思惑だったのだ。
理解したくなかった。
けれど――今、この泥濘のような水のなかで引きずられ、ひたひたと死が近づいてくる体で、ようやくわかった。
こんなこと、どんな魔法使いでさえ成し遂げられるわけがない。
レギュラスは、きっと「できる」と思っているのだ。
彼なら、亡者たちの包囲を掻い潜り、不死の器をこの水底にだけ置いて、無事に帰る算段が立つと。
だから、何度も何度も試みるのだろう。
だけど、それは――
彼が強すぎるがゆえの誤信だった。
アランは知ってしまった。
自分のような魔力では、この海に耐えられないこと。
この“任務”は、生きては戻れないように仕組まれた、死の呪縛だったこと。
沈むその瞬間に、ほんの僅かでも、誰もが“気づく”のだ。
水が、唇を覆ってきた。
苦しい。冷たい。悲しい。悔しい。
けれど――それ以上に、
レギュラスが生きて戻って来てくれたことの尊さが胸を締めつける。
どうか。
もう、あの人に、この任務を繰り返させないでほしい。
アランは目を閉じた。
意識の彼方に、確かに感じる――
あの人の温もり。手の優しさ。
自分を間違いなく“守った”その背中の重み。
だからこそ、今度は。
この死の中に、真実を忘れずに刻みたかった。
レギュラスは、
生きて戻るべき人だった。
この湖に沈んではいけなかった人なのだ、と。
ひやりとした感覚が頬を撫でる。
レギュラスは目を覚ました瞬間、いつもの屋敷の天井を見上げていた。
けれどおかしい――すぐにそう思った。
静かすぎる。温もりがない。
アランが、いない。
それだけで、身体にしんしんと嫌な気配が湧き上がる。
慌てて身体を起こし、胸元のローブに手を伸ばす。
重くあるはずの“それ”が――ない。
分霊箱が、ない。
次に、傍らにあるはずの杖へと視線を落とす。
枕元ではなく、微妙にずれた場所に横たわる自分の杖。
訝しげに手に取り、魔力の痕跡を探ると……そこには、確かに“後を辿られた”痕跡が残っていた。
アランが、この杖の履歴を――読んだ。
全身が急に冷えたようだった。
洞窟の、冷たい黒い湖とは別の意味で震える恐怖が、胸の奥から這い上がってくる。
「……まさか」
声が、空気とともに揺れた。
アランは、あの場所にいる。
自分が命懸けで何とか帰還した、地獄のようなあの湖の前に。
姿くらましの呪文を唱える間も、心臓がすでに潰れそうな音を立てていた。
脈は速すぎて、胸の皮膚が破れそうだ。息が続かない。
肺が悲鳴をあげ、喉が焼けるような痛みを訴える。
怖い。眩暈がするほどに、恐ろしい。
間に合わなかったら。
その一言が、まるで刃のように頭の中をかすめていった。
命を賭して、守り抜いた人だった。
自分のすべてを捧げてでも、守ることを選んだ人だった。
そのアランの命が、こんなふうに、今、手のひらから零れるように消えてしまったら――
そんな光景が、脳裏に焼きついて消えなかった。
喉が締まり、震えが止まらない。
戦闘能力なんて皆無に等しいアラン。
杖を振るって亡者たちに抗い続けられるわけがない。
それは自分が一番よく知っている。
あれは――魔法の技量ではなく、執念でしか乗り越えられなかった場所だ。
その地に、アランが独りで足を踏み入れ、今まさに沈もうとしている――
そんな現実に、レギュラスの理性はぐらりと揺らぎそうになった。
「…… アラン……ッ!」
声が、裂けた。
姿くらましで空間を切り裂く。
それでも、足りない。動きが追いつかない。
少しでも早く――ほんの一瞬でも早く――
この手が再びあの人の頬に触れる前に
あたたかさが消えてしまうことだけは絶対に、絶対に許さない。
それだけを繰り返し胸の中で叫びながら、
レギュラスは、死よりも苛烈な恐怖の世界へ、もう一度自ら身体を投げ入れていった。
冷たい霧が渦巻くように空間を包むなか、黒い水面を裂くように姿を現したレギュラスの視線は、一点を捉えて離さなかった。
―― アラン。
湖の中、亡者たちに絡みつかれながら沈みかけているその姿があった。
細い手足が水中で不規則に揺れ、もはや自力ではなにも抗えないほどに力を失っていた。
瞳は閉じられ、顔色は濡れた水面の闇と同じ色をしていた。
心臓が、破裂しそうだった。
「アラン!!」
叫んだはずの声は、喉の痛みと熱に焼き切れて、言葉になりきれず宙に溶け落ちた。
それでもレギュラスは叫び続けながら、水の中へ身を投じた。
亡者たちは容易にそれを許さない。
白く朽ちた手が幾重にもまとわりつき、レギュラスの腕、足、背に這い上がってくる。
だが彼は躊躇わず、片腕を伸ばしてアランの、まだ温もりの残る体を強く引き寄せた。
その瞬間、まるで沈む石になったように――
自分自身も、水底へと引きずり込まれていくのを感じた。
片手しか使えない。
身体を切断されるような重みと苦しさの中、レギュラスは全身の力を込め、必死に水を蹴って浮力を探す。
自分一人のときより、遥かに困難だった。
それでも、彼は放さなかった。
一度も、アランの体から手を離さなかった。
「……っ、ぷはっ!」
アランが肺から水を吐き出した瞬間、レギュラスの胸に張りついた恐怖が一気に破れて空気のように逃げていった。
意識の縁で見開かれた彼女の瞳が、震えるように焦点を結ぶ。
「アラン……! アランッ!」
「レ、レギュラス……!」
二人の声が、暗い洞窟の中にかすかに重なり合って響いた。
力ない呼吸の合間から、ようやく交わせたその声に、レギュラスは深く、長く息を吐いた。
間に合った。ほんの僅か、それでも確かに――間に合ったのだ。
レギュラスはアランを守るように胸に抱えながら、湖の縁に這い上がる。
亡者たちはまだ水面の下で、次なる獲物を狙うようにざわついていた。
レギュラスは静かに、けれど決然と、杖を空高く掲げた。
「——Conflagratio Maxima.」
天井まで吹き上がるような炎の柱が、一瞬にして洞窟の空間全体を照らし出す。
炎はただ熱いのではない。そこには生命の力が宿っていた。
亡者たちは恐れ、後ずさるように水底へと退いていく。
うめくような声が、まるで湖そのもののうなりのように響いた。
ひときわ巨大な火球が空間の中央で爆ぜる。
その光と熱は、アランの魔力では決して生み出せないほどの強さだった。
それはレギュラスの、練磨された力と覚悟、そして―― アランを生かすための強烈な意思に突き動かされた魔法だった。
この魔法は長くはもたない。
燃え盛る炎の残り香と魔力の代償で、脚が震えているのが自分でもわかる。
だけど、いまこの瞬間だけ。
湖が沈黙し、亡者が後退し、息ができる、このわずかな時間だけ。
ふたりで、生きて洞窟を出るために。それだけのために。
レギュラスは、炎の縁でアランの手を強く握りしめた。
「……行こう。もうここは、終わりでいい」
命を削って灯された炎の中、アランは初めて、かすかに微笑んだ。
それは、泣く代わりに浮かべた、生への頷きだった。
そして二人は、燃える道を、もう一度前を向いて歩き出した。
洞窟の闇が、レギュラスの放った炎の光によって一変した。
さっきまで死の気配を孕んでいた水面は、今は揺らぐ炎に縁どられ、まるで命が差し込んだかのごとく淡く輝いていた。
アランは、息も苦しいまま、ふらつく足でその光景を静かに見上げていた。
それは呪文というより、ひとつの奇跡だった。
爆ぜた魔力はただ敵を退けるではなく、この空間そのものを凌駕し、
恐怖や絶望さえも振り払うように燃え上がっていた。
水辺に沈みかけた気配は一掃され、亡者たちは恐れを感じ取ったのか、
その影を水奥へと次々に引き下ろしていった。まるで逃げ惑うように。
忌まわしい腕が消えていくその様子は、まるで導かれるように神聖で――
道が、生まれていた。
自然と、陽炎のような揺らぎと共に、ふたりが進むべき路が、炎の海の中に開かれていく。
アランはただその背中を見つめ、目を見開いたまま立ち尽くした。
その瞳には恐怖ではなく、純粋な驚嘆と――深い感動が宿っていた。
「……すごいわ……」
思わずこぼれたその言葉は、震える声のまま、小さな空気の粒となって溶けてゆく。
さっきまで死にかけていた場所とは思えなかった。
あの冷たい水の感触も、肺を満たしかけた恐怖も、今はただ遠く感じられた。
目の前の男――レギュラス・ブラックが放った魔法の力に、
圧倒され、魅せられ、その場を動くことすら忘れてしまっていた。
「…… アラン」
彼の声が、炎の揺らぎの向こうから届いた。
「長くは持ちません、急ぎましょう」
その声音には焦りではなく、静かな決意があった。
アランはその言葉にようやく現実に引き戻される。
握られた手の温もりが、ただ確かだった。
彼は、私を生かすためにこれを放ったのだ――
その真実にようやく触れた気がして、胸の奥にやわらかい痛みが走った。
アランは小さく頷き、震える呼吸を整えながら、
レギュラスの背中を追って一歩を踏み出した。
咆哮する炎の道、そのただ中をふたりで並んで進み始める。
命を懸けた魔法の余熱が、まだ微かに肌を撫でていた。
夜の空気が、わずかに潮の香りを含んで肌を撫でていた。
月は雲間にかすかに覗き、灰色に濁った洞窟の口のあたりを、幽かに照らしていた。
アランとレギュラスは、ようやくの思いでそこから抜け出した。
出口の石の縁を跨いだ瞬間、レギュラスの腕がふっと下がる。
彼が長く掲げ続けた杖が、ようやく静かに下ろされた。
「――……っ」
その身体が微かに揺れる。
荒く浅い呼吸が彼の胸元を激しく上下させ、肩が大きく動いていた。
それまであの凄まじい炎の呪文を、どれほどの魔力と精神で支えていたのか。
洞窟の奥では、轟々と燃える炎の音でその声も息も掻き消されていたが、
今こうして静けさのなかに出てきて初めて、彼がどれほどの代償を強いられていたかが、痛いほど伝わってきた。
レギュラスはその場にへたり込むようにして、膝を折った。
その腕に支えられていたアランも、自然とそのまま傍に倒れ込んでしまう。
湿った草の感触が背に触れたとき、初めて「生きてここにいるのだ」と実感が追いついてきた。
「…… アラン、すみません……」
かすれた、しかし確かに優しさのある声だった。
自分のことより先に、アランの体調を気遣うのだ――
そんなレギュラスの不器用な思いやりが、どこまでも彼らしかった。
アランはすぐに返事をすることができなかった。
喉が詰まってしまって、なにか言えば泣きそうだった。
この人は――
あの洞窟で、あれほどの炎を燃やしながら、
恐怖に追われ、命を消費するようにして戦っていたというのに。
それでもまず、自分のことを心配してくれる。
胸がひどく痛むのは、
それが優しさゆえだとわかっているから余計に苦しかった。
ここで自分は、沈むつもりだった。
彼にすべてを任せ、自分の命と引き換えに、分霊箱を封じて任務を果たせたと思っていた。
少なくともあの洞窟に入った時の自分は、そう考えていたはずだった。
だけど――まんまと、助けられてしまった。
この人の、すべてを懸けた強さに、
何一つ返すこともできないままで。
誰が誰を救ったのか。
何を守るために命を使ったのか。
その答えが複雑に胸の奥で絡み合いながら、
アランは小さく目を伏せた。
「……ありがとう」
それだけが、今どうにか言葉にできた精一杯だった。
崩れるように、そっとその横に身を寄せる。
二人の吐息が夜に静かに溶ける。
それは、同じ地獄をくぐり抜けた者だけが知る、
言葉にならない安堵と再会の余韻だった。
湖の洞窟を抜けたあとの風は、まるで生ぬるい夜の吐息のようだった。
けれどそれすら、今の二人にはひどく遠く、別の世界の出来事のようだった。
湿った地面にしゃがみ込んだまま、二人はもう立ち上がる気力すらなかった。
魔力は、完全に使い切っていた。
炎を放つ時に燃やした意志も、抗い続けた心も、すべてが潮のように引いていく。
姿くらましを試みる気配もなく、レギュラスは荒く息を吐きながら目を閉じる。
「……動けそうにないです」
乾いた声で、そう呟いた。
沈黙を挟んで、アランも息を震わせながら微笑む。
「私もです」
どちらも、もう限界だった。
けれどその疲労の中には、確かな「生き延びた」という現実があって、
この無力ささえ、今だけはどこか心地よかった。
アランは、怖かった。
これほどのことをしてしまった自分を、きっとレギュラスは責めるだろう――と思った。
あの人の人生をまた危険に晒してしまった。
身体はもう動かないはずなのに、心の奥は震えていた。
でも。
レギュラスは、何も責めなかった。
ただ一言、ぽつりと口にした。
「……本当に、間に合ってよかった」
その声に、アランの心臓が静かに脈打った。
張り詰めていたものが、ふとほどけていく。
優しさだった。
哀しみでも怒りでもなく――
ただ、自分という存在がそこにいてくれたことを、喜ぶ声だった。
その温度に触れた瞬間、アランの瞳に涙が滲んだ。
一粒、また一粒と、頬を静かに伝って涙が零れた。
止まらなかった。
よかった――
本当に、よかった。
それは、レギュラスよりも、むしろ自分の方が口にしたかった言葉だった。
死を予感する恐怖よりも、
生きて彼がこの腕の届く場所にいてくれたことの方が――どれほど安心だったか。
けれど、言葉がみつからなかった。
この想いは、なんと声にすればいいのか。
抱きしめれば伝わるのか。
涙で映すしかないのか。
むしろ、どんな言葉を選んだところで、
胸にあふれた想いの半分すらも、きっと届かない気がした。
だから彼女は、ただ、そっと隣で泣いた。
声をあげることもせず、ただレギュラスを見つめながら、
頬に伝う涙が地に落ちていくままに、身を任せた。
レギュラスは何も言わずに、かすかに唇を緩めて微笑み、
疲れた肩でそっとアランの頭を自分の胸に引き寄せた。
互いの鼓動が、ひどく近くに響いていた。
闇と死を越えて、ようやく辿り着いたこの静けさの中で――
名もない想いだけが、確かに息づいていた。
夜がようやく静けさに包まれ、屋敷は息を殺すように眠っていた。
あの地獄のような洞窟から帰還してから、ふたりはほとんど言葉を交わすことなく、ただそっと互いを支えながら寝室への階段をのぼった。
倒れこむようにしてベッドに身体を横たえたあと、あらがう力も残されておらず、レギュラスとアランはそのまま眠りに落ちた。
それは、眠りというより――昏倒に近かった。
レギュラスの体には、かつて経験したことのない重さがしみついていた。
骨のひとつひとつが軋み、皮膚の奥で魔力の痕跡がまだじくじくと疼いている。
燃え上がるような炎の呪文を限界以上に放ち続けた代償は、深く肉体を蝕んでいた。
それでも彼は、逃げるようでもなく、苦悶の声を漏らすこともなく。
ただ、安らぐように、枕元のわずかな空間に身を預け、
腕の中で眠るアランの髪にそっと顔を埋めていた。
胸の鼓動が、彼女の耳元でゆったりと鳴っている。
微かに冷たい手が、アランの背を包み込むように抱えていた。
苦しかった。恐ろしかった。
かつてない死の気配が、その身に触れた。
魂そのものが剥がれ落ちそうになる瞬間を、何度も目の前に見た。
それでも、今。
こうして、生きて、アランとともにこの温かな場所に戻ってきた。
それだけで、全てが報われた気がした。
灯りは落とされていた。
けれど、窓から入り込む月の光が、カーテンの隙間から入って、静かにアランの髪を照らしていた。
レギュラスはそれを目にしながら、わずかに、深く息を吐いた。
安堵の、余韻の吐息だった。
すべてが終わったわけではない。
分霊箱はまだ存在している。任務も、生き方も、戦いも、終わりのない暗い渦の中にある。
けれど――今この一夜だけは、それらすべてを遠ざけていいだろうと、そう思えた。
限界の、そのさらに向こうに踏み込んでしまった身体は鉛のように重く、思うように指先も動かない。
けれどその不自由ささえも、今は妙に心地よかった。
重ねられた鼓動。
温かなぬくもり。
生きている確かな気配。
レギュラスは目を閉じ、アランの髪に静かに口づけた。
「……ありがとう、生きていてくれて」
ほとんど夢幻のようにかすれたその声は、夜の静寂に溶けていった。
やがて、ゆるやかな眠りが再び彼を包み込み――
アランの額に沿わせた指先と、彼女の呼吸の確かさだけを最後に感じながら、
レギュラスは深い安息へと、その身を沈めていった。
穏やかな午後の光が、窓辺に薄く差し込んでいた。
わずかに開かれた窓から風がカーテンを揺らす。静かな屋敷の一隅。
その陽だまりの中で、ようやく――ようやくふたりは向き合っていた。
数日前、命を賭して共に洞窟から生還したとは思えぬほどの沈黙の時間が流れていた。
言葉を交わさないまま寄り添い、ただ呼吸の音で互いの存在を確かめる日々だった。
そして今、その沈黙の終わりに、ようやく口火を切ろうとする瞬間が来た。
レギュラスは椅子のひじをなぞるようにして、目を伏せていた。
どう言えばいいのかわからない。
あれほど必死に隠し続けたことを、今さら正しく問いただす資格が、自分にあるのか。
けれど――確かめなければならなかった。
「…… アラン」
その名を呼ぶ声は低く、どこか痛々しかった。
探るような、不安を含んだ呼びかけに、アランは静かに目を上げる。
瞳と瞳が、やっと――真っすぐに交差した。
アランの視線は、ごまかさず、逸らさず、ただ静かにレギュラスを見つめ返していた。
その奥にあるのは怯えでも責めでもない、何かをずっと待っていたような、落ち着いた光だった。
まるで、「今こそ話してください」と、そのまなざしが言っているようだった。
レギュラスの胸の内には、いくつもの疑問が渦巻いていた。
分霊箱――あのロケット。
彼のローブに隠していたはずの、忌まわしく禍々しい残骸。
アランは、それを持って出た。
ということは、あれが何なのか、ただの魔具ではないことに気づいたということ。
誰のために作られ、どんな犠牲のうえで成されたものなのか。
それを知っているのか、それとも――その一部しか。
あれは、どうなったのか。
まだ、彼女が手元に持っているのか。
破壊したのか。
それとも、どこかへ――
思考が先走っていく。けれど、レギュラスは言葉にできない。
自ら閉ざしてきた秘密について、今さら何を問えば正解なのかが、わからなかった。
「……どこまで、知っているんです?」
そう叫びたかった。
「ロケットは、今、どこにあるんです?」と問いたかった。
けれど、すべての言葉を飲み込み、彼はまだ何も言わずにいた。
アランは、そんな彼の迷いをすべて読み取っているかのようだった。
柔らかい動きで手を組み、椅子の上で体をまっすぐに整えた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「知りたいことがあるなら、聞いてください。……全部、答えます」
その声は、責めるでもなく、拒むでもなかった。
ただ、真摯だった。
黙って耐えた日々ではなく、ようやく“ふたり”が向き合うための第一声だった。
レギュラスの胸に、苦しくなるほどの感情が押し寄せた。
自らを切り裂いた過去の魔法。
彼女の命と引き換えに手にした不死の代価。
そのすべてを、もう一人では抱えたくないと、ほんの少しだけ、思ってしまった自分がいた。
「……ありがとう」
それだけを、ようやく口にした。
短く、それでも心からの言葉だった。
扉は開きかけている――
長い沈黙の先、ふたりが本当の意味で同じ地平に立つために。
レギュラスはゆっくりと、息を整えた。
これが過去の告白になるのか、未来への約束になるのかはまだわからない。
けれど、すべてがここから始まることだけは、確かだった。
レギュラスが何も言えずにいた時間の分だけ、アランにはすべてが見えていた。
何を聞きたくて、何を恐れているのか。
その沈黙が、むしろ雄弁に語っていたのだから。
彼が気にしているのは――
どこまで知ったのか。
そして、あのロケット。
あれが今、どこにあるのか。
けれどそれらを、言葉にして問いかけることを彼はひどく躊躇していた。
あまりにも重たく、恐ろしく、そして何より――
この人にだけは知られたくないと長らく願っていたその闇に、もう一度踏み込まなければならないから。
そんな彼の迷いを、アランはそっと受け止めるように微笑んだ。
テーブルを挟んで、目と目がしっかりと結ばれる。
その静寂の中で、ようやくレギュラスがゆっくりと唇を動かす。
「……あのロケットの、意味をご存知で?」
その問いは、震えてはいなかった。
けれど、どこか少しだけ祈るように静かだった。
アランは、わずかに頷いて答える。
「はい。あれが――闇の帝王の分霊箱であることは知っています」
その瞬間、レギュラスの灰色の瞳がわずかに揺れた。
驚愕、とまではいかない。
けれど、胸の奥に仕舞われていた嘘や秘密がすっとほどけていくような――
そんな柔らかな動揺と、安堵の色が確かに滲んでいた。
「……ええ、その通りです」
静かに、絞るように告げるレギュラスの声。
痛みを隠したその認め方に、アランは穏やかに目を細めた。
もう、そうやって安心してくれていいのだと思った。
すべてを一人で背負う必要など、どこにもない。
傷も、罪も、不安も、愛も。
これからは、“ふたりで”抱えていく。
「……それは、今どこに?」
レギュラスが続けて問いかける。
息を詰めるような声音だった。
アランは、空気の張り詰めをそのまま受け止めるように、小さく答えた。
「……落としました。あの湖に」
沈黙が訪れた。
そして次の瞬間。
「……へ?」
まるで、何かの拍子に入れ替わってしまった空気のように。
鳩が豆鉄砲を食ったような、とはまさにこのことだった。
普段、誰より洗練され、感情を乱すことを許さない男のその表情が、
信じられないほど素朴で、人間味にあふれていた。
「お……落とした?」
レギュラスの声が素っ頓狂に跳ね上がる。
今の会話の流れ、それまでの緊張感とも余りにかけ離れた言葉が返ってきて、
彼の脳がそれを再解釈するのにわずかに時間がかかっていた。
聞き返しながら、自分でその言葉の意味をもう一度飲み込もうとするように――
口のなかで「落とした……?」と繰り返す。
アランは少し申し訳なさそうに、けれどいたって真剣に言葉を重ねた。
「ええ、亡者に引き込まれるときに。手から……滑ってしまって。
気づいたら、あの子は、湖に……沈んでいました」
その言葉のあまりの穏やかさに、レギュラスの思考が数秒止まり――
やがて静かな、けれど呆れと茫然がまざったため息が零れた。
それは、奇妙な空気だった。
悲壮でも絶望でもなく、どこか滑稽で、許されたような。
ふたりの間にあった重く凍えるものが、溶け始めるような、
思わず笑ってしまいそうになる小さな“人間らしさ”だった。
そしてその空気が、
この先どんな闇を進むとしても――
きっと、ふたりなら歩いていけるのだと、確かに語っていた。
洞窟での凍てつく死の気配を越え、あふれるほどの魔力と命とを削りながら、ようやくこの場所に辿り着いたふたりは――
いま、静けさのなかで言葉を交わしていた。
晩夏の空気はやわらかく、窓辺の風がカーテンの裾をさらりと撫でてゆく。
レギュラスはソファに深く腰を下ろし、アランの顔を正面から見ているようで、そうではなく少しだけ視線を伏せていた。
「……あれを沈めてくるように、との命令だったのならば、きっと――もう、それでいいのでは?」
アランのその言葉は、とても静かで、柔らかく、それでいて凛としていた。
レギュラスの眉がわずかに動いた。
その響きの意味を飲み込みながら、口を閉ざしたまま身体を深く預けた。
•
最奥に、確かに封じることはできなかった。
闇の帝王が望んだのは、おそらく”確実性”――亡者の巣の中心、誰の指も、魔力すらも届かない場所に永久封印すること。
けれど、今。
闇の水底のどこかへ、あのロケットは確かに沈んだ。
場所は確定できず、探す術もない。
誰ひとりとして――たとえ闇の帝王自身が望んだとしても――
もう取り出すことはできないだろう。
それは失敗ではないのか?
それでも、“到達”だったのではないか?
「そう……ですよね……」
レギュラスがそう呟いたときの声は、小さく、どこか彷徨っていた。
言葉を出しながら、自分に向かって問いかけるような。
確信ではなく、確認という名の自問の響きだった。
アランは何も言わなかった。
ただ、そっと彼の手を取る。
薄く骨ばった、けれど確かな重みがあるその手を、両手でしっかりと包み込んだ。
言葉よりも確かな意思で、ぐっと強く握った。
「大丈夫」
その気持ちが、彼女の手のひらからまっすぐに伝わっていった。
レギュラスはわずかに瞳を揺らし、ゆっくりと彼女を見つめた。
少し驚いたような、そしてふいに呼吸を緩めるような目をして。
生まれて以来、誰よりも冷静で、誰よりも優れてあらねばと過ごしてきた。
秘密は隠し、闇はひとりで飲み込むものだった。
けれど今、その指のあたたかさだけで、不思議と胸の奥が緩んでいく。
「僕の任務は……」
そこまで口にして、ふと言葉が切れる。
――もう、僕ひとりのものではない。
その真実に、やっと気づき始めた表情だった。
アランはただ真っすぐに彼を見つめていた。
その瞳には、不安も怒りもなくて。
ただ――信じて、委ねて、共に生きていく決意が灯っていた。
レギュラスの肩から、わずかに力が抜けた。
彼の手が、そっと指先でアランの指をなぞる。
多くを言葉にする必要などなかった。
ふたりのあいだを流れるこの静けさこそが、もう充分すぎる言葉だった。
任務は終わったのではない。
けれど、これからは――終わりのない道を、ひとりで歩む必要などないのだと。
レギュラスはようやく、そう思えるようになっていた。
この場所に足を踏み入れるのは、二度目だった。
けれど、何度来たとしても、ここはやはり“地獄”にほど近い。
ただ息をしているだけで、冷たい指先が身体をこじ開けて、底へと引きずり込もうとする。この場所には、生きていること自体が不自然であるような、そんな異質な静けさと狂気が満ちていた。
ヴォルデモートから直々に与えられた任務だった。
分霊箱を「安全な場所に封じておけ」と――
裏を返せば、ヴォルデモートの“死”そのものを守る仕事でもある。
レギュラスは、それをためらわずに引き受けた。
いや――正確には、あの夜、アランの命を救う選択肢として、それを取らざるを得なかったのだ。
「不死」を差し出せば、「命」を取り戻せる。
そうして、ほんの一瞬だけでも、彼女の温もりをもう一度感じられるなら――
自ら助言した。
さらなる分霊箱を、と。
その瞬間から、後戻りなど叶わなくなった。
ヴォルデモートは嗤いながら受け入れた。
そして彼に分霊箱の“護り”を託した。
それは、信頼ではなかった。ただ、“便利な従僕”としての指名、それだけだった。
洞窟の中は、記憶よりも重たく、湿っていた。
岩壁には海風が滴り落ち、硬く尖った沈黙がレギュラスの背筋を撫でていく。
すでに何重もの魔法的障壁と感知呪文が張り巡らされており、そのひとつひとつを丁寧に解除しながら、彼は奥へと進む。
そして、問題の湖に辿り着いた。
鏡のように静まり返った水面。
その下に無数の亡者たちが眠っていることを、レギュラスは知っていた。
――一度目のとき。
その湖に分霊箱を沈めようと近づいたその瞬間、
水面がざわつき、白く朽ち果てた手が群れとなって彼の足を掴んだ。
引っ張られ、引きずり落とされ、暗く深い水底へ――
身体が冷たさで軋み、肺が空気を求めて絶叫する寸前、
レギュラスは死に物狂いで護身術を連打し、崩れ落ちるように湖の縁へ這い上がった。
あのときの痛みと恐怖は、いまだに身体のどこかに棘のように残っている。
そして今、ここにまた戻ってきた。
命を落としかけた地で、それでも任務を遂行しなければならない。
それが、“彼女”を救うために差し出した代償の先にある道だから。
息が浅くなっている。
けれど、止まることは許されなかった。
レギュラスは分霊箱を抱いたまま、静かに足を進める。
すでに心臓は恐怖で荒れ狂い、手のひらは汗ばんでいた。
分霊箱――それは手にした瞬間、冷たく震え、
まるで自分の中にある、浅く裂けた魂の傷と共鳴しているようだった。
この魔法は、取り返しがつかない。
犠牲が要る。それも、無垢な命の。
だからこそ、自分自身が感じていた重圧を、誰かに告げられることはなかった。
アランには、決して話すことはできない。
この選択の上に、彼女の微笑みがあることが、重すぎる。
「……こんな地獄に、また来ることになるとは思わなかった」
水面に自分の歪んだ影が映っている。 亡者たちはまだそこにいる――静かに、じっと機を待ちながら。
レギュラスは杖を構える。
罠は、破るためにある。
命は――守るために使う。
そう、自分に言い聞かせながら、
レギュラスは、過去と恐怖と冷たい水音が響くこの闇の中へ、再び深く踏み込んでいった。
二度目の失敗だった。
レギュラスは湖の縁で、息を荒げながら膝をついていた。
冷たい石の感触が肌を通して骨まで染み渡る。
またしても、あの湖に引きずり込まれた。
白骨のような手がまるで蔦のように足首に絡みつき、
深い水の底へと――生命から遠ざけるように、引っ張っていく。
杖を振ろうとしても、無数の亡者たちが腕に、肩に群がって、
自由など微塵も奪われてしまう。
杖を使わずにかけられる呪文では、あまりにも威力が弱すぎて、
それは死へのカウントダウンを少しだけ伸ばすに過ぎなかった。
肺が破裂しそうになるまで息を止め、
這いつくばって、ようやく湖の縁へと戻ってきた。
三度目など、もうごめんだった。
あの恐怖を、もう一度味わうなんて――
考えただけで全身が震えた。
今すぐ、アランのもとに帰りたい。
その一心で、レギュラスは分霊箱をローブの奥にしまい込み、洞窟を後にした。
ぞっとするような冷たさが背中を這い上がる。
この任務が果たせないことへの恐怖と、
ヴォルデモートに失敗を告げなければならない屈辱が、
胸の奥で重く絡み合っていた。
屋敷に戻ったレギュラスは、できるだけ平然を装おうとしたが、
鏡を見ずとも、それが成功していないことはわかった。
服は濡れ、髪も乱れている。
顔色は青白く、手の震えは止まらない。
何より――瞳の奥に宿った恐怖の色は、隠そうとしても滲み出てしまっていた。
階段を上がりきったところで、アランが振り返った。
その瞬間、彼女の表情が一変する。
「なに……何があったんです?」
アランは慌てたようにレギュラスに近寄り、その顔を覗き込んだ。
心配の色が瞳に宿り、震える手でそっと彼の頬に触れる。
「いえ、ちょっと……」
レギュラスは言いかけて、言葉に詰まった。
必死に頭の中で言葉を探すが、見つからない。
あの洞窟の恐怖を、どう説明すればいいのか。
湖の底から伸びてくる無数の手を、どう表現すればいいのか。
死の淵を何度もさまよった恐怖を、オブラートに包んで伝える方法など――
どこにも存在しなかった。
「任務で……少し、危険な場所に行っていたのですが……」
「うまく、いかなくて……」
それだけ言うのが精一杯だった。
アランの心配そうな視線を受けて、レギュラスは視線を逸らす。
彼女に心配をかけたくない。
だが、これ以上嘘を重ねることもできなかった。
身体が正直に、恐怖と疲労を告げている。
「座ってください」
アランの優しい声が、震える心にそっと響いた。
レギュラスは従うように椅子に身を預け、深く息を吐いた。
分霊箱は、まだローブの奥で冷たく脈打っている。
任務は失敗のまま。
だが今は、ただアランの温もりが欲しかった。
彼女の手がそっと肩に置かれる。
その瞬間、洞窟の悪夢が少しだけ遠のいていくのを感じた。
屋敷の静けさに包まれるようにして、レギュラスは帰ってきた。
その姿は、いつになく酷く傷ついていた。
濡れそぼったローブは重たく、肌に張りついたその生地の下、どれほど冷えきった身体なのだろうと想像するだけで胸が締めつけられる。
髪は乱れ、指先は白く、わずかに震えている。
それでも、「うまくいかなくて……」とただそれだけを言って、かすかに微笑交じりの声でごまかそうとした。
だが、もう言葉などいらなかった。
彼の震え、蒼白な肌、濁った瞳の底に宿る恐怖――それらすべてが、どれだけ過酷な任務だったかを、余すことなく物語っていた。
だからアランは、それ以上、何も聞かなかった。
聞いてはいけないと思った。
きっと、今はその傷に言葉を与えてしまうことさえ、彼を壊してしまいそうだった。
そっと彼の肩を支え、ゆっくりと椅子に座らせる。
レギュラスはすでに半ば目を閉じかけていて、自身の重みにさえ耐えられないような様子だった。
アランは杖を手に取り、濡れた衣服に優しい乾燥の魔法を施していく。
その間も、彼の額を濡らす冷たい汗が何滴か、喉元へと伝っていた。
「よく帰ってきてくれました」
そう口に出せば泣いてしまいそうで、
代わりにアランは、何も言わずにその小さな体を覆うように、そっと抱きしめた。
けれど、レギュラスの腕は動かなかった。
抱き返す力も、もう残っていないのだろう。
彼はただ、無言でアランに身を預けていた。
長い沈黙のあと――
椅子に凭れたまま、レギュラスの呼吸が穏やかになっていった。
まるで糸が切れるように、そのまま深い眠りへと落ちていく。
それは気を失ったのか、それとも疲弊しきった心がもう目を開けることを諦めたのか。
アランは慎重に彼の腕の中から身体をずらし、ふと、そのローブのポケットからわずかに覗く銀のチェーンに気づいた。
指先でそっと引き出したそれは、小さなロケットだった。
触れた瞬間、ひやりとした冷たさが肌を刺した。
まるで、命を失ったものがまだ熱を帯びることを拒んでいるように。
その感触ひとつで、アランは理解した。
――これが、分霊箱。
ほんの一瞬で、胸がつかえるように苦しくなった。
こんなもののために。
こんな、禍つく魔法のために。
レギュラスは、こんなにも――
その腕すら動かせないほどまでに、
命をすり減らすようにして、この闇と向き合っていた。
涙が止めどなくあふれた。
声を上げることもできないほどに。
ただ、静かに、そっと顔を伏せたまま、アランは泣いた。
悲しさと、無力さと、どうしようもない切なさが、心の奥から溢れ出し、
声にならぬ震えだけが、胸の内を満たしていく。
レギュラスの頬にかかる髪をそっと撫でる。
その指先に、もう冷たい魔法の気配はなかった。
ただ穏やかに眠るこの人を、
これ以上ひとりきりで闇の底に向かわせてはならないと、アランは密かに誓った。
どれほど過ちを重ねようとも、
この人の居場所だけは、光でありたい。
たとえ、それが自分の身をすり減らすことになっても――。
アランは静かな書斎のなか、レギュラスの杖を目の前に置いて、深く息を吐いた。
指先でその古びた木の感触にそっと触れる。杖は、まるで休んでいるように静かだったが、触れた瞬間に、冷たい震えのようなものが掌を走った。
レギュラスが、何に抗い、何を守ろうとしたか――
その軌跡を、アランは知りたかった。どうしても。
彼が持ち帰った分霊箱――
凍てつくように冷たく、ただ手にしているだけで意識の奥底に黒い靄が立ち込めるような、
言葉にはできない感覚の塊だった。
アランは慎重に、杖に記録された魔力の痕跡を読み取る魔法を施した。
時を遡り、杖が記憶している“瞬間”をひとつひとつ、魔力の糸のように引き出していく。
それは、まるで彼の魂の奥底と対話しているようだった。
見えてくる――
膨大な数の呪文の記録。
そのほとんどが、応戦と防御、そして光のない詠唱文。
ひとつの呪文が、執拗なまでに何度も何度も繰り返されていた。
防御、再生、排除、浮上、拘束解除――
混乱と錯乱のなかで振るわれた魔法たち。
それらがまるで、彼が死と恐怖の狭間で藻掻いてきたことを物語っていた。
アランの意識の奥へ、杖が“記録”していた感情が流れ込んでくる。
息苦しさ。
誰にも助けを求められない孤独。
水中に引きずり込まれそうな圧倒的な無力感。
そして――
生きなければ、帰らなければという、ただひとつの願い。
アランへと続く道を閉ざさないように。
名もなき黒い闇に奪われる前に。
その一心で、震える手で杖を振るっていた。
杖は感じ取っていたのだ。
レギュラス・ブラックという魔法使いの恐怖と痛み、すり減る意志と、
それでも抗おうとする命の火を。
アランは胸を押さえた。静かに、けれど確かに、涙がこぼれる。
どれだけの思いでこの杖にすがっていたのか。
それでも、分霊箱を湖に沈めるその任務を成し遂げることはできなかった。
レギュラスにとって、それは敗北ではない。
むしろ、決して抗えぬ人間としての限界――
彼が自分で自分を責める理由にも、数え切れないほどの恐怖にもなる。
けれど、アランは知っていた。
何よりも価値あることは、彼が命を繋ぎ、生きて帰ってきてくれたことだった。
杖から手を離し、アランはゆっくりと立ち上がる。
その視線は、今や分霊箱へと向けられていた。
どうすれば、この任務を彼でない誰か――
例えば、自分が、完遂できるのか。
彼の命をこれ以上削らせずに、済む方法はないのか。
分霊箱を、護るためではなく、終わらせるために。
そして、レギュラスを“自由にする”ために。
彼女は心を決める。
レギュラスが果たせなかったその任務を、自ら遂げる道を探すと。
闇に対して恐れているだけではいけない。
愛する人が、命を削って守ってきたその先へ――
自分が踏み出す番なのだと、胸の奥で静かに灯がともった。
湖の洞窟に辿り着いたとき、アランの吐く息はすでに白くなっていた。
魔法では防ぎきれないほどの冷えが肌を刺し、奥歯がかすかに鳴る。
水音はどこからともなく、絶え間なく響いていた。
ただそれだけなのに、心の奥まで蝕むような恐怖だった。
杖を持つ指がかすかに震える。
足は冷たい岩肌の上に立っているにもかかわらず、地面が揺れているように感じる。
それでも―― アランは進んだ。
レギュラスがかつてそうしたように、魔力で探知されぬよう慎重に、罠ひとつひとつを解いていく。
その数は膨大だったが、彼女は知っていた。杖の履歴に刻まれていたものを。
レギュラスが通った道のすべて、選んだ呪文の軌跡、叫ぶように振るわれた魔力のかすかな震えまでも。
驚きはなかった。けれど――
この場所が持つ、底なしの闇と冷気は想像を超えていた。
肌ではなく、心の内側を凍み渡っていく恐怖。
何か“おかしい”と、無意識に脳が警鐘を鳴らし始める。
こんな場所に、あの人はひとりで立ったのだ――
そのことを思っただけで、胸の奥が張り裂けそうになった。
誰よりも誇り高く、冷静であるはずのレギュラスが、
この洞窟で命を削りながら、『生き延びなければ』という執念で杖を振り続けた、その事実に。
アランは、足を進めた。
行き止まり――
そう思われる岩の裂け目に、アランはそっと足を踏み入れる。
その瞬間だった。
音もなく、湖の水面が揺れ始めた。
暗い水の揺らぎが、不気味な螺旋を描くように、小さなさざ波となって広がる。
一体、二体――
そして、数え切れないほどの黒く細長い影が、水中からゆらりと浮かび上がってくる。
白骨のように朽ちた手。
濁った目。
生も死もない、それでいて確かに“生きている”存在たちが、アランに向かって這い寄ってきた。
息が詰まる。
瞳がひとつ自分に向けられるたび、喉がきゅっと締まるようだった。
――けれど、逃げてはいけない。
アランは、手にした杖を高く掲げた。
記憶の中のレギュラス。彼が選んだ呪文。
杖が燃えるように震え、魔力が込み上げる。
「Depulso!」
「Bombarda Maxima!」
「Lumos Solem!」
繰り返す。
何度も、何度も、何度でも――
まるで命を噴き出すように、アランは魔法を連打する。
光が弾け、亡者を弾き、また新たな影がそれを乗り越えて来る。
崩れては、また迫る。
数が減らない。諦めない。意思がないからこそ、止まらない恐怖。
岩に足をとられ、膝が砕けそうになる。
それでも起き上がる。
「Depulso!」
レギュラスがそうしたように。
同じ道をたどり、同じようにこの闇の中で、生き延びようとする。
自分の命を懸けてでも――
彼を、この呪われた任務から自由にするために。
アランの魔力の先端には、目には見えない誓いが確かにあった。
それはまるで、彼女と彼を過去と現在でつなぐ、静かで強い光のようだった。
亡者たちの手が、アランの足元にまとわりつく。
冷たい指先が何本も、何重にもなって絡みつき、体の重さを奪っていく。
膝が落ち、腰が折れ、そしてとうとう、胸の下までを黒い湖水が覆った。
水面の温度はまるで生き物のように冷たく、じわじわと肺の奥へしみ入り、
ひとつごとに息を吸おうとするたび、濁った湖の水が喉を焼いて侵入してきた。
「――っ、ごほっ……!」
何度も杖を振った。
力がもう入りきらない腕を、それでも奮い立たせた。
けれど、まだレギュラスが使った半分にも満たない。まだ、届いていない。
この腕では、あの人のようには……。
悔しい。それでも本当に、どうしようもなかった。
もともと、アランは戦いに秀でた魔法使いではなかった。
知識はある。癒しの魔法も学んできた。
それでも、今この場で必要とされるのは、命の火花を叩きつけるような魔力の強度であり、
怯むことのない技量だった。
こればかりは、叶わなかった。
レギュラスの足元に立つことすら、自分には、難しかったのだ。
黒い水の中にずるずると引き込まれていく。
指先が痺れ、痛みではない麻痺がじわりと迫る。
このまま――沈んでいく。
おそらく、ヴォルデモートは、この“宿命”を理解したうえで、あの任務をレギュラスに命じたのだろう。
そう思った瞬間、背筋を貫くような冷たい答えが、アランの心に降り立った。
――沈め、と。
名指しでは命じない。
けれど、拒む術のない“任務”という名で、レギュラスをこの湖へ誘った。
あの人がこの場で死ねば、分霊箱もまた手の届かない墓場に永遠に封印される。
亡者たちがその遺体を抱き、骨に絡み、誰も奪えない“安全な場所”にそれを置く。
それが、きっとあの男の思惑だったのだ。
理解したくなかった。
けれど――今、この泥濘のような水のなかで引きずられ、ひたひたと死が近づいてくる体で、ようやくわかった。
こんなこと、どんな魔法使いでさえ成し遂げられるわけがない。
レギュラスは、きっと「できる」と思っているのだ。
彼なら、亡者たちの包囲を掻い潜り、不死の器をこの水底にだけ置いて、無事に帰る算段が立つと。
だから、何度も何度も試みるのだろう。
だけど、それは――
彼が強すぎるがゆえの誤信だった。
アランは知ってしまった。
自分のような魔力では、この海に耐えられないこと。
この“任務”は、生きては戻れないように仕組まれた、死の呪縛だったこと。
沈むその瞬間に、ほんの僅かでも、誰もが“気づく”のだ。
水が、唇を覆ってきた。
苦しい。冷たい。悲しい。悔しい。
けれど――それ以上に、
レギュラスが生きて戻って来てくれたことの尊さが胸を締めつける。
どうか。
もう、あの人に、この任務を繰り返させないでほしい。
アランは目を閉じた。
意識の彼方に、確かに感じる――
あの人の温もり。手の優しさ。
自分を間違いなく“守った”その背中の重み。
だからこそ、今度は。
この死の中に、真実を忘れずに刻みたかった。
レギュラスは、
生きて戻るべき人だった。
この湖に沈んではいけなかった人なのだ、と。
ひやりとした感覚が頬を撫でる。
レギュラスは目を覚ました瞬間、いつもの屋敷の天井を見上げていた。
けれどおかしい――すぐにそう思った。
静かすぎる。温もりがない。
アランが、いない。
それだけで、身体にしんしんと嫌な気配が湧き上がる。
慌てて身体を起こし、胸元のローブに手を伸ばす。
重くあるはずの“それ”が――ない。
分霊箱が、ない。
次に、傍らにあるはずの杖へと視線を落とす。
枕元ではなく、微妙にずれた場所に横たわる自分の杖。
訝しげに手に取り、魔力の痕跡を探ると……そこには、確かに“後を辿られた”痕跡が残っていた。
アランが、この杖の履歴を――読んだ。
全身が急に冷えたようだった。
洞窟の、冷たい黒い湖とは別の意味で震える恐怖が、胸の奥から這い上がってくる。
「……まさか」
声が、空気とともに揺れた。
アランは、あの場所にいる。
自分が命懸けで何とか帰還した、地獄のようなあの湖の前に。
姿くらましの呪文を唱える間も、心臓がすでに潰れそうな音を立てていた。
脈は速すぎて、胸の皮膚が破れそうだ。息が続かない。
肺が悲鳴をあげ、喉が焼けるような痛みを訴える。
怖い。眩暈がするほどに、恐ろしい。
間に合わなかったら。
その一言が、まるで刃のように頭の中をかすめていった。
命を賭して、守り抜いた人だった。
自分のすべてを捧げてでも、守ることを選んだ人だった。
そのアランの命が、こんなふうに、今、手のひらから零れるように消えてしまったら――
そんな光景が、脳裏に焼きついて消えなかった。
喉が締まり、震えが止まらない。
戦闘能力なんて皆無に等しいアラン。
杖を振るって亡者たちに抗い続けられるわけがない。
それは自分が一番よく知っている。
あれは――魔法の技量ではなく、執念でしか乗り越えられなかった場所だ。
その地に、アランが独りで足を踏み入れ、今まさに沈もうとしている――
そんな現実に、レギュラスの理性はぐらりと揺らぎそうになった。
「…… アラン……ッ!」
声が、裂けた。
姿くらましで空間を切り裂く。
それでも、足りない。動きが追いつかない。
少しでも早く――ほんの一瞬でも早く――
この手が再びあの人の頬に触れる前に
あたたかさが消えてしまうことだけは絶対に、絶対に許さない。
それだけを繰り返し胸の中で叫びながら、
レギュラスは、死よりも苛烈な恐怖の世界へ、もう一度自ら身体を投げ入れていった。
冷たい霧が渦巻くように空間を包むなか、黒い水面を裂くように姿を現したレギュラスの視線は、一点を捉えて離さなかった。
―― アラン。
湖の中、亡者たちに絡みつかれながら沈みかけているその姿があった。
細い手足が水中で不規則に揺れ、もはや自力ではなにも抗えないほどに力を失っていた。
瞳は閉じられ、顔色は濡れた水面の闇と同じ色をしていた。
心臓が、破裂しそうだった。
「アラン!!」
叫んだはずの声は、喉の痛みと熱に焼き切れて、言葉になりきれず宙に溶け落ちた。
それでもレギュラスは叫び続けながら、水の中へ身を投じた。
亡者たちは容易にそれを許さない。
白く朽ちた手が幾重にもまとわりつき、レギュラスの腕、足、背に這い上がってくる。
だが彼は躊躇わず、片腕を伸ばしてアランの、まだ温もりの残る体を強く引き寄せた。
その瞬間、まるで沈む石になったように――
自分自身も、水底へと引きずり込まれていくのを感じた。
片手しか使えない。
身体を切断されるような重みと苦しさの中、レギュラスは全身の力を込め、必死に水を蹴って浮力を探す。
自分一人のときより、遥かに困難だった。
それでも、彼は放さなかった。
一度も、アランの体から手を離さなかった。
「……っ、ぷはっ!」
アランが肺から水を吐き出した瞬間、レギュラスの胸に張りついた恐怖が一気に破れて空気のように逃げていった。
意識の縁で見開かれた彼女の瞳が、震えるように焦点を結ぶ。
「アラン……! アランッ!」
「レ、レギュラス……!」
二人の声が、暗い洞窟の中にかすかに重なり合って響いた。
力ない呼吸の合間から、ようやく交わせたその声に、レギュラスは深く、長く息を吐いた。
間に合った。ほんの僅か、それでも確かに――間に合ったのだ。
レギュラスはアランを守るように胸に抱えながら、湖の縁に這い上がる。
亡者たちはまだ水面の下で、次なる獲物を狙うようにざわついていた。
レギュラスは静かに、けれど決然と、杖を空高く掲げた。
「——Conflagratio Maxima.」
天井まで吹き上がるような炎の柱が、一瞬にして洞窟の空間全体を照らし出す。
炎はただ熱いのではない。そこには生命の力が宿っていた。
亡者たちは恐れ、後ずさるように水底へと退いていく。
うめくような声が、まるで湖そのもののうなりのように響いた。
ひときわ巨大な火球が空間の中央で爆ぜる。
その光と熱は、アランの魔力では決して生み出せないほどの強さだった。
それはレギュラスの、練磨された力と覚悟、そして―― アランを生かすための強烈な意思に突き動かされた魔法だった。
この魔法は長くはもたない。
燃え盛る炎の残り香と魔力の代償で、脚が震えているのが自分でもわかる。
だけど、いまこの瞬間だけ。
湖が沈黙し、亡者が後退し、息ができる、このわずかな時間だけ。
ふたりで、生きて洞窟を出るために。それだけのために。
レギュラスは、炎の縁でアランの手を強く握りしめた。
「……行こう。もうここは、終わりでいい」
命を削って灯された炎の中、アランは初めて、かすかに微笑んだ。
それは、泣く代わりに浮かべた、生への頷きだった。
そして二人は、燃える道を、もう一度前を向いて歩き出した。
洞窟の闇が、レギュラスの放った炎の光によって一変した。
さっきまで死の気配を孕んでいた水面は、今は揺らぐ炎に縁どられ、まるで命が差し込んだかのごとく淡く輝いていた。
アランは、息も苦しいまま、ふらつく足でその光景を静かに見上げていた。
それは呪文というより、ひとつの奇跡だった。
爆ぜた魔力はただ敵を退けるではなく、この空間そのものを凌駕し、
恐怖や絶望さえも振り払うように燃え上がっていた。
水辺に沈みかけた気配は一掃され、亡者たちは恐れを感じ取ったのか、
その影を水奥へと次々に引き下ろしていった。まるで逃げ惑うように。
忌まわしい腕が消えていくその様子は、まるで導かれるように神聖で――
道が、生まれていた。
自然と、陽炎のような揺らぎと共に、ふたりが進むべき路が、炎の海の中に開かれていく。
アランはただその背中を見つめ、目を見開いたまま立ち尽くした。
その瞳には恐怖ではなく、純粋な驚嘆と――深い感動が宿っていた。
「……すごいわ……」
思わずこぼれたその言葉は、震える声のまま、小さな空気の粒となって溶けてゆく。
さっきまで死にかけていた場所とは思えなかった。
あの冷たい水の感触も、肺を満たしかけた恐怖も、今はただ遠く感じられた。
目の前の男――レギュラス・ブラックが放った魔法の力に、
圧倒され、魅せられ、その場を動くことすら忘れてしまっていた。
「…… アラン」
彼の声が、炎の揺らぎの向こうから届いた。
「長くは持ちません、急ぎましょう」
その声音には焦りではなく、静かな決意があった。
アランはその言葉にようやく現実に引き戻される。
握られた手の温もりが、ただ確かだった。
彼は、私を生かすためにこれを放ったのだ――
その真実にようやく触れた気がして、胸の奥にやわらかい痛みが走った。
アランは小さく頷き、震える呼吸を整えながら、
レギュラスの背中を追って一歩を踏み出した。
咆哮する炎の道、そのただ中をふたりで並んで進み始める。
命を懸けた魔法の余熱が、まだ微かに肌を撫でていた。
夜の空気が、わずかに潮の香りを含んで肌を撫でていた。
月は雲間にかすかに覗き、灰色に濁った洞窟の口のあたりを、幽かに照らしていた。
アランとレギュラスは、ようやくの思いでそこから抜け出した。
出口の石の縁を跨いだ瞬間、レギュラスの腕がふっと下がる。
彼が長く掲げ続けた杖が、ようやく静かに下ろされた。
「――……っ」
その身体が微かに揺れる。
荒く浅い呼吸が彼の胸元を激しく上下させ、肩が大きく動いていた。
それまであの凄まじい炎の呪文を、どれほどの魔力と精神で支えていたのか。
洞窟の奥では、轟々と燃える炎の音でその声も息も掻き消されていたが、
今こうして静けさのなかに出てきて初めて、彼がどれほどの代償を強いられていたかが、痛いほど伝わってきた。
レギュラスはその場にへたり込むようにして、膝を折った。
その腕に支えられていたアランも、自然とそのまま傍に倒れ込んでしまう。
湿った草の感触が背に触れたとき、初めて「生きてここにいるのだ」と実感が追いついてきた。
「…… アラン、すみません……」
かすれた、しかし確かに優しさのある声だった。
自分のことより先に、アランの体調を気遣うのだ――
そんなレギュラスの不器用な思いやりが、どこまでも彼らしかった。
アランはすぐに返事をすることができなかった。
喉が詰まってしまって、なにか言えば泣きそうだった。
この人は――
あの洞窟で、あれほどの炎を燃やしながら、
恐怖に追われ、命を消費するようにして戦っていたというのに。
それでもまず、自分のことを心配してくれる。
胸がひどく痛むのは、
それが優しさゆえだとわかっているから余計に苦しかった。
ここで自分は、沈むつもりだった。
彼にすべてを任せ、自分の命と引き換えに、分霊箱を封じて任務を果たせたと思っていた。
少なくともあの洞窟に入った時の自分は、そう考えていたはずだった。
だけど――まんまと、助けられてしまった。
この人の、すべてを懸けた強さに、
何一つ返すこともできないままで。
誰が誰を救ったのか。
何を守るために命を使ったのか。
その答えが複雑に胸の奥で絡み合いながら、
アランは小さく目を伏せた。
「……ありがとう」
それだけが、今どうにか言葉にできた精一杯だった。
崩れるように、そっとその横に身を寄せる。
二人の吐息が夜に静かに溶ける。
それは、同じ地獄をくぐり抜けた者だけが知る、
言葉にならない安堵と再会の余韻だった。
湖の洞窟を抜けたあとの風は、まるで生ぬるい夜の吐息のようだった。
けれどそれすら、今の二人にはひどく遠く、別の世界の出来事のようだった。
湿った地面にしゃがみ込んだまま、二人はもう立ち上がる気力すらなかった。
魔力は、完全に使い切っていた。
炎を放つ時に燃やした意志も、抗い続けた心も、すべてが潮のように引いていく。
姿くらましを試みる気配もなく、レギュラスは荒く息を吐きながら目を閉じる。
「……動けそうにないです」
乾いた声で、そう呟いた。
沈黙を挟んで、アランも息を震わせながら微笑む。
「私もです」
どちらも、もう限界だった。
けれどその疲労の中には、確かな「生き延びた」という現実があって、
この無力ささえ、今だけはどこか心地よかった。
アランは、怖かった。
これほどのことをしてしまった自分を、きっとレギュラスは責めるだろう――と思った。
あの人の人生をまた危険に晒してしまった。
身体はもう動かないはずなのに、心の奥は震えていた。
でも。
レギュラスは、何も責めなかった。
ただ一言、ぽつりと口にした。
「……本当に、間に合ってよかった」
その声に、アランの心臓が静かに脈打った。
張り詰めていたものが、ふとほどけていく。
優しさだった。
哀しみでも怒りでもなく――
ただ、自分という存在がそこにいてくれたことを、喜ぶ声だった。
その温度に触れた瞬間、アランの瞳に涙が滲んだ。
一粒、また一粒と、頬を静かに伝って涙が零れた。
止まらなかった。
よかった――
本当に、よかった。
それは、レギュラスよりも、むしろ自分の方が口にしたかった言葉だった。
死を予感する恐怖よりも、
生きて彼がこの腕の届く場所にいてくれたことの方が――どれほど安心だったか。
けれど、言葉がみつからなかった。
この想いは、なんと声にすればいいのか。
抱きしめれば伝わるのか。
涙で映すしかないのか。
むしろ、どんな言葉を選んだところで、
胸にあふれた想いの半分すらも、きっと届かない気がした。
だから彼女は、ただ、そっと隣で泣いた。
声をあげることもせず、ただレギュラスを見つめながら、
頬に伝う涙が地に落ちていくままに、身を任せた。
レギュラスは何も言わずに、かすかに唇を緩めて微笑み、
疲れた肩でそっとアランの頭を自分の胸に引き寄せた。
互いの鼓動が、ひどく近くに響いていた。
闇と死を越えて、ようやく辿り着いたこの静けさの中で――
名もない想いだけが、確かに息づいていた。
夜がようやく静けさに包まれ、屋敷は息を殺すように眠っていた。
あの地獄のような洞窟から帰還してから、ふたりはほとんど言葉を交わすことなく、ただそっと互いを支えながら寝室への階段をのぼった。
倒れこむようにしてベッドに身体を横たえたあと、あらがう力も残されておらず、レギュラスとアランはそのまま眠りに落ちた。
それは、眠りというより――昏倒に近かった。
レギュラスの体には、かつて経験したことのない重さがしみついていた。
骨のひとつひとつが軋み、皮膚の奥で魔力の痕跡がまだじくじくと疼いている。
燃え上がるような炎の呪文を限界以上に放ち続けた代償は、深く肉体を蝕んでいた。
それでも彼は、逃げるようでもなく、苦悶の声を漏らすこともなく。
ただ、安らぐように、枕元のわずかな空間に身を預け、
腕の中で眠るアランの髪にそっと顔を埋めていた。
胸の鼓動が、彼女の耳元でゆったりと鳴っている。
微かに冷たい手が、アランの背を包み込むように抱えていた。
苦しかった。恐ろしかった。
かつてない死の気配が、その身に触れた。
魂そのものが剥がれ落ちそうになる瞬間を、何度も目の前に見た。
それでも、今。
こうして、生きて、アランとともにこの温かな場所に戻ってきた。
それだけで、全てが報われた気がした。
灯りは落とされていた。
けれど、窓から入り込む月の光が、カーテンの隙間から入って、静かにアランの髪を照らしていた。
レギュラスはそれを目にしながら、わずかに、深く息を吐いた。
安堵の、余韻の吐息だった。
すべてが終わったわけではない。
分霊箱はまだ存在している。任務も、生き方も、戦いも、終わりのない暗い渦の中にある。
けれど――今この一夜だけは、それらすべてを遠ざけていいだろうと、そう思えた。
限界の、そのさらに向こうに踏み込んでしまった身体は鉛のように重く、思うように指先も動かない。
けれどその不自由ささえも、今は妙に心地よかった。
重ねられた鼓動。
温かなぬくもり。
生きている確かな気配。
レギュラスは目を閉じ、アランの髪に静かに口づけた。
「……ありがとう、生きていてくれて」
ほとんど夢幻のようにかすれたその声は、夜の静寂に溶けていった。
やがて、ゆるやかな眠りが再び彼を包み込み――
アランの額に沿わせた指先と、彼女の呼吸の確かさだけを最後に感じながら、
レギュラスは深い安息へと、その身を沈めていった。
穏やかな午後の光が、窓辺に薄く差し込んでいた。
わずかに開かれた窓から風がカーテンを揺らす。静かな屋敷の一隅。
その陽だまりの中で、ようやく――ようやくふたりは向き合っていた。
数日前、命を賭して共に洞窟から生還したとは思えぬほどの沈黙の時間が流れていた。
言葉を交わさないまま寄り添い、ただ呼吸の音で互いの存在を確かめる日々だった。
そして今、その沈黙の終わりに、ようやく口火を切ろうとする瞬間が来た。
レギュラスは椅子のひじをなぞるようにして、目を伏せていた。
どう言えばいいのかわからない。
あれほど必死に隠し続けたことを、今さら正しく問いただす資格が、自分にあるのか。
けれど――確かめなければならなかった。
「…… アラン」
その名を呼ぶ声は低く、どこか痛々しかった。
探るような、不安を含んだ呼びかけに、アランは静かに目を上げる。
瞳と瞳が、やっと――真っすぐに交差した。
アランの視線は、ごまかさず、逸らさず、ただ静かにレギュラスを見つめ返していた。
その奥にあるのは怯えでも責めでもない、何かをずっと待っていたような、落ち着いた光だった。
まるで、「今こそ話してください」と、そのまなざしが言っているようだった。
レギュラスの胸の内には、いくつもの疑問が渦巻いていた。
分霊箱――あのロケット。
彼のローブに隠していたはずの、忌まわしく禍々しい残骸。
アランは、それを持って出た。
ということは、あれが何なのか、ただの魔具ではないことに気づいたということ。
誰のために作られ、どんな犠牲のうえで成されたものなのか。
それを知っているのか、それとも――その一部しか。
あれは、どうなったのか。
まだ、彼女が手元に持っているのか。
破壊したのか。
それとも、どこかへ――
思考が先走っていく。けれど、レギュラスは言葉にできない。
自ら閉ざしてきた秘密について、今さら何を問えば正解なのかが、わからなかった。
「……どこまで、知っているんです?」
そう叫びたかった。
「ロケットは、今、どこにあるんです?」と問いたかった。
けれど、すべての言葉を飲み込み、彼はまだ何も言わずにいた。
アランは、そんな彼の迷いをすべて読み取っているかのようだった。
柔らかい動きで手を組み、椅子の上で体をまっすぐに整えた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「知りたいことがあるなら、聞いてください。……全部、答えます」
その声は、責めるでもなく、拒むでもなかった。
ただ、真摯だった。
黙って耐えた日々ではなく、ようやく“ふたり”が向き合うための第一声だった。
レギュラスの胸に、苦しくなるほどの感情が押し寄せた。
自らを切り裂いた過去の魔法。
彼女の命と引き換えに手にした不死の代価。
そのすべてを、もう一人では抱えたくないと、ほんの少しだけ、思ってしまった自分がいた。
「……ありがとう」
それだけを、ようやく口にした。
短く、それでも心からの言葉だった。
扉は開きかけている――
長い沈黙の先、ふたりが本当の意味で同じ地平に立つために。
レギュラスはゆっくりと、息を整えた。
これが過去の告白になるのか、未来への約束になるのかはまだわからない。
けれど、すべてがここから始まることだけは、確かだった。
レギュラスが何も言えずにいた時間の分だけ、アランにはすべてが見えていた。
何を聞きたくて、何を恐れているのか。
その沈黙が、むしろ雄弁に語っていたのだから。
彼が気にしているのは――
どこまで知ったのか。
そして、あのロケット。
あれが今、どこにあるのか。
けれどそれらを、言葉にして問いかけることを彼はひどく躊躇していた。
あまりにも重たく、恐ろしく、そして何より――
この人にだけは知られたくないと長らく願っていたその闇に、もう一度踏み込まなければならないから。
そんな彼の迷いを、アランはそっと受け止めるように微笑んだ。
テーブルを挟んで、目と目がしっかりと結ばれる。
その静寂の中で、ようやくレギュラスがゆっくりと唇を動かす。
「……あのロケットの、意味をご存知で?」
その問いは、震えてはいなかった。
けれど、どこか少しだけ祈るように静かだった。
アランは、わずかに頷いて答える。
「はい。あれが――闇の帝王の分霊箱であることは知っています」
その瞬間、レギュラスの灰色の瞳がわずかに揺れた。
驚愕、とまではいかない。
けれど、胸の奥に仕舞われていた嘘や秘密がすっとほどけていくような――
そんな柔らかな動揺と、安堵の色が確かに滲んでいた。
「……ええ、その通りです」
静かに、絞るように告げるレギュラスの声。
痛みを隠したその認め方に、アランは穏やかに目を細めた。
もう、そうやって安心してくれていいのだと思った。
すべてを一人で背負う必要など、どこにもない。
傷も、罪も、不安も、愛も。
これからは、“ふたりで”抱えていく。
「……それは、今どこに?」
レギュラスが続けて問いかける。
息を詰めるような声音だった。
アランは、空気の張り詰めをそのまま受け止めるように、小さく答えた。
「……落としました。あの湖に」
沈黙が訪れた。
そして次の瞬間。
「……へ?」
まるで、何かの拍子に入れ替わってしまった空気のように。
鳩が豆鉄砲を食ったような、とはまさにこのことだった。
普段、誰より洗練され、感情を乱すことを許さない男のその表情が、
信じられないほど素朴で、人間味にあふれていた。
「お……落とした?」
レギュラスの声が素っ頓狂に跳ね上がる。
今の会話の流れ、それまでの緊張感とも余りにかけ離れた言葉が返ってきて、
彼の脳がそれを再解釈するのにわずかに時間がかかっていた。
聞き返しながら、自分でその言葉の意味をもう一度飲み込もうとするように――
口のなかで「落とした……?」と繰り返す。
アランは少し申し訳なさそうに、けれどいたって真剣に言葉を重ねた。
「ええ、亡者に引き込まれるときに。手から……滑ってしまって。
気づいたら、あの子は、湖に……沈んでいました」
その言葉のあまりの穏やかさに、レギュラスの思考が数秒止まり――
やがて静かな、けれど呆れと茫然がまざったため息が零れた。
それは、奇妙な空気だった。
悲壮でも絶望でもなく、どこか滑稽で、許されたような。
ふたりの間にあった重く凍えるものが、溶け始めるような、
思わず笑ってしまいそうになる小さな“人間らしさ”だった。
そしてその空気が、
この先どんな闇を進むとしても――
きっと、ふたりなら歩いていけるのだと、確かに語っていた。
洞窟での凍てつく死の気配を越え、あふれるほどの魔力と命とを削りながら、ようやくこの場所に辿り着いたふたりは――
いま、静けさのなかで言葉を交わしていた。
晩夏の空気はやわらかく、窓辺の風がカーテンの裾をさらりと撫でてゆく。
レギュラスはソファに深く腰を下ろし、アランの顔を正面から見ているようで、そうではなく少しだけ視線を伏せていた。
「……あれを沈めてくるように、との命令だったのならば、きっと――もう、それでいいのでは?」
アランのその言葉は、とても静かで、柔らかく、それでいて凛としていた。
レギュラスの眉がわずかに動いた。
その響きの意味を飲み込みながら、口を閉ざしたまま身体を深く預けた。
•
最奥に、確かに封じることはできなかった。
闇の帝王が望んだのは、おそらく”確実性”――亡者の巣の中心、誰の指も、魔力すらも届かない場所に永久封印すること。
けれど、今。
闇の水底のどこかへ、あのロケットは確かに沈んだ。
場所は確定できず、探す術もない。
誰ひとりとして――たとえ闇の帝王自身が望んだとしても――
もう取り出すことはできないだろう。
それは失敗ではないのか?
それでも、“到達”だったのではないか?
「そう……ですよね……」
レギュラスがそう呟いたときの声は、小さく、どこか彷徨っていた。
言葉を出しながら、自分に向かって問いかけるような。
確信ではなく、確認という名の自問の響きだった。
アランは何も言わなかった。
ただ、そっと彼の手を取る。
薄く骨ばった、けれど確かな重みがあるその手を、両手でしっかりと包み込んだ。
言葉よりも確かな意思で、ぐっと強く握った。
「大丈夫」
その気持ちが、彼女の手のひらからまっすぐに伝わっていった。
レギュラスはわずかに瞳を揺らし、ゆっくりと彼女を見つめた。
少し驚いたような、そしてふいに呼吸を緩めるような目をして。
生まれて以来、誰よりも冷静で、誰よりも優れてあらねばと過ごしてきた。
秘密は隠し、闇はひとりで飲み込むものだった。
けれど今、その指のあたたかさだけで、不思議と胸の奥が緩んでいく。
「僕の任務は……」
そこまで口にして、ふと言葉が切れる。
――もう、僕ひとりのものではない。
その真実に、やっと気づき始めた表情だった。
アランはただ真っすぐに彼を見つめていた。
その瞳には、不安も怒りもなくて。
ただ――信じて、委ねて、共に生きていく決意が灯っていた。
レギュラスの肩から、わずかに力が抜けた。
彼の手が、そっと指先でアランの指をなぞる。
多くを言葉にする必要などなかった。
ふたりのあいだを流れるこの静けさこそが、もう充分すぎる言葉だった。
任務は終わったのではない。
けれど、これからは――終わりのない道を、ひとりで歩む必要などないのだと。
レギュラスはようやく、そう思えるようになっていた。
