4章
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曇天の空が重く垂れ込める午后、レギュラスは屋敷の奥まった執務室に一人腰を下ろしていた。
黒い木目の机に並ぶ資料の上を、デスイーターの一人が恭しく一礼し、簡潔な報告を告げる。
「騎士団の連中、依然として貴方の“後消し”の呪文痕にすがって動いています。
何か別の証拠が出てくると信じて、あちこちで痕跡魔法を重ねているようですが……成果は全く上がっておりません。ほとんど詰んでいる状態です」
窓の外では風が木々を揺らしていた。
レギュラスは深く背に凭れ、ゆっくりとまぶたを伏せる。
「そうですか」
その声にはほのかな安堵が滲んでいた。
確かに――
後消しの呪文をあの距離で感知され、さらに自分の魔力がそこに紐づいてしまったことは、正直なところ誤算だった。
予想外だった。
けれど、致命的ではなかった。
彼は即座に軌道を修正し、まるでそれが別の任務に伴った偶発的な魔力反応であるかのように説明を整え、
すべてを「収束させる」方向へと、綿密に誘導した。
他の隙は一切見せていない。
現場に残されていた痕跡はすべて処理してある。
闇の帝王の魔力、デスイーターの存在を示すあらゆる証拠は、あの場所から跡形もなく取り除いてあった――
レギュラス自身の手で。
純血魔法使いの関与など、まったくの風聞だ。
それが、魔法界に浮かぶ“真実”となるように仕向けておいた。
彼の瞳がわずかに細められる。
騎士団がどれだけ血眼になって粗探しをしても、出てくるはずがない。
掘れば掘るほど空を切り、手応えのない霧の中を漂い続けるだけだ。
なぜなら――
最初から、出せる証拠など一つとして残してはいないのだから。
「……無駄ですよ」
誰にともなくつぶやくように口にしたその声音には、嘲笑にも似た余裕があった。
部屋の空気が少しだけ軽くなる。
あの男――シリウス・ブラックですら、レギュラスの嘘を打ち破ることはできなかった。
売り言葉と皮肉を交わし、静かな牽制と挑発が重なったあの日。
シリウスの正義がめらめらと燃え上がろうとも、
理性と整然とした理屈の中に隙を見せなかった自分が――勝ったのだ。
報告を終えた部下が静かに姿を引き、執務室には再び沈黙が戻る。
その静寂の中、レギュラスはゆっくりと立ち上がり、深くひとつ呼吸を吐いた。
“正しさ”は時に脆い。
だが、“整った構造”は、崩れない。
自分は後者を、慎重に、冷静に築き上げたのだ。
外の風の音を遠くに聞きながら、レギュラスは静かに目を閉じる。
胸の奥には確かに勝利の手応えがある――
それは、誰にも触れてはならない、闇の中の冷ややかな充足だった。
寝室には夜の余韻が静かに漂っていた。
重ねられた呼吸も徐々に穏やかになり、微かな灯りの下、レギュラスとアランは並んで横たわっていた。
天井の影が揺らめく。窓の外から微かに虫の声が忍び込み、静寂をさらに際立たせている。
そんな中、アランがそっと顔を向けて、囁くような声で尋ねた。
「レギュラス……なにか、私にしてほしいことはありませんか?」
その瞳は真剣だった。濁りも打算もなく、ただ心からの願いが、そっとそこに置かれていた。
レギュラスは一瞬、息を止める。
ありがたい提案だった。だが──そういうことではなかった。
彼にとって、アランが今もこの屋敷にいて、自分の帰りを待っていてくれること。
それだけで、奇跡のようだったから。
「何もありませんよ。ただ……そこにいてくだされば、それでいいです」
その言葉は静かで、しかし深い安堵を含むものだった。
すると、唐突に、アランが上体をガバッと起こし、レギュラスの顔を真剣に覗き込んだ。
「でも、なにか欲しいものくらい、ありませんか?」
少し熱を帯びたその声に、レギュラスは戸惑い、眉を寄せる。
「本当に、何も要りません。……どうして、そんなに何かをくれようとするんです?」
それは不思議だった。
彼女の差し伸べる手は、いつだって惜しみなく温かく、美しかった。
それでも、そんなふうに何もかもを与える覚悟を抱いているような彼女の行動は、どこか、恐ろしいとも感じてしまう。
あまりに深く、切実で、儚い。
アランは、まるで最初から答えが決まっていたかのように、静かに、しかしまっすぐに言った。
「だって……私の命はもう、あなたのものでしょう?」
その声音には、まるで当たり前のような平穏さがあった。
何ひとつ誇張せず、押しつけもない――ただ、そう信じているからそう言った、というような、あまりにも純粋な響きだった。
レギュラスは息を呑んだ。
究極の愛の言葉。
無垢な従順の極み。
そして、彼を深く沈黙させる響きを持っていた。
「あなたが望むのなら、私はこの命を……躊躇わず、差し出せます」
アランの目は揺れていなかった。あまりにもまっすぐで、悲しいほどに真実だった。
レギュラスは胸が締めつけられるのを感じた。
苦しかった。痛みと怒りが入り混じるような感情。
彼は視線を逸らして、彼女の手をそっと取った。
震えていた。指先が冷たくて、強く握ることができなかった。
「……そんなこと、望みませんよ」
それは、かすれたような声だった。
いつもの毅然とした語調ではなかった。
「わかってくださいアラン。あなたの命は、僕が……命懸けで守ったものなんです」
「たとえ、あなたがそれを僕に捧げようと願っても……僕は、そんな風に簡単に差し出してほしくなんて、ない」
「ただ、生きていてくれるだけで……いいんです」
二人の間に、沈黙が落ちた。
けれどそれは、拒絶や距離ではなく――
痛みと愛が、確かに混ざり合った証のような、やさしい沈黙だった。
アランはゆっくりと横になりなおし、レギュラスの肩に額を寄せる。
レギュラスは、その髪にそっと手を伸ばし、何も言わず、ただ彼女の温もりを確かめ続けた。
静かな夜の中で、二人の吐息だけが交錯していた。
何も問わず、何も与えさせず――
ただ、在り続けることが愛のすべてだと、確かめ合うように。
祝福の言葉と笑い声が、広間のクリスタルに反射して空間を華やかに彩っていた。
天井には高く金のシャンデリアが光を散らし、磨き込まれた大理石の床がその光を優しく受け止めていた。
アルタイル・ブラックとイザベラ・レインズフォード――
若き純血の二人の婚約は、社交界にとっても大きな話題だった。
今宵の宴はその正式な発表の場。まばゆい衣装に身を包んだ賓客たちが集い、両家の新たな繋がりを祝して杯を重ねていく。
アランは、その場にゆっくりと現れた。
そっと滑るようにフロアを歩む彼女の姿に、会場は一瞬、囁くような静寂に包まれる。
繊細に織られた深い銀青のドレスは、清冽な月光のように凛としていて、
病に臥せっていたとは信じられないほど、彼女の気配は美しかった。
上品に結い上げた漆黒の髪は白いうなじに添い、耳元で揺れるモスブルーのガーネットが意志の強さをそっと語っていた。
彼女の一挙手一投足には、慎ましさと威厳が共存していた。
そしてその奥に、何よりも揺るがない役割と誇りがあった。
――自分は、ブラック家に嫁いだ女なのだ。
レギュラスが示す血の威厳と、アルタイルが背負う未来。
そのどちらにも、絶対に影を落とすわけにはいかない。
自分という存在が、妻として、母として、今日という日の“美しさ”そのものに昇華されなければならなかった。
己を支えるのは、見せかけの贅沢ではない。
彼らの人生が一点の曇りなくあるための、覚悟と誇りだった。
「まったく……さすがはブラック家の奥方だ」
「以前よりも、むしろ気品が増したように思える」
「病床にあったという噂が広がっていたが、とても、そんな弱り切った様子には見えないな」
賓客たちは口々に、久方ぶりに姿を見せたアランを讃えた。
褒め言葉がひとつ、またひとつ流れていく。
けれどアランは、微笑むだけでそのすべてを受け流し、言葉には礼を尽くしても、決して驕らなかった。
今夜の主役は、彼女ではないのだから。
ふと横に立ったアルタイルが、静かに彼女に小声で囁く。
「母さん……とても綺麗です」
その言葉に、アランはふっと穏やかに微笑み、息を整えるようにして返した。
「アルタイル、その言葉は……イザベラ嬢へと向けなさいね」
そのやさしい声に、アルタイルは照れくさそうに視線を伏せ、
遠目に立つイザベラを見つめた。彼女はまだ緊張を隠しきれずにいるが、それでも品位を保ち続けようとする姿はけなげだった。
アランは静かに思う。
――この息子も、やがて自分から離れて、新たな家庭を築くのだろう。
その一歩に、この宴がつながっているのなら。
今夜は母として、その背中を見送り、影として彼の未来を照らし続ける。
どうかこの人生に、曇りは来ないと。
そう願いながら、アランは再び背筋を伸ばし、燭台の光の中に身を溶かしていった。
その姿はどこまでも静かで、
けれど、抗いがたい強さと気高さを宿していた。
煌めくシャンデリアの下で、レギュラスは次々と訪れる来賓たちの言葉を穏やかに受け止めていた。
「奥方様は本当に、以前にも増してお美しくいらっしゃいますな」
「これほど気品に満ちた女性は、そうそうお目にかかれるものではありません」
「ブラック家の誇りそのもののようでいらっしゃる」
一つひとつの賛辞に、レギュラスは優雅に微笑み、丁寧に礼を返していく。
その内心では、深い誇らしさが静かに広がっていた。
アランには無理をしなくてもいい、ゆっくり休んでいてくれればそれでいいと告げていたのに――
彼女は想像をはるかに超えた華やかさで現れた。
深い銀青のドレスに身を包み、優雅な仕草でフロアを歩むその姿は、
会場にいるすべての人を魅了していた。
レギュラス自身でさえ、彼女が現れた瞬間、息を止めてしまうほどだった。
病を患っていた面影など微塵も感じさせない、凛とした美しさが、そこにあった。
やがて、レインズフォード家の一行が、恭しく挨拶にやってきた。
イザベラ・レインズフォードもその中にいる。彼女は上品な淡い桃色のドレスを纏い、慎ましやかな表情で立っていた。
「この度は、お忙しい中このような盛大な宴をご準備いただき、ありがとうございます」
レインズフォード家の当主が深々と頭を下げると、レギュラスとアランも丁重に礼を返す。
「こちらこそ、素晴らしいお嬢様をアルタイルの伴侶に迎えていただき、心から感謝しております」
アランの声は穏やかで、母としての温かさに満ちていた。
イザベラは口数が少なく、時おり緊張で頬を染めながら控えめに微笑んでいる。
その隣に立つアルタイルもまた、普段の自信に満ちた様子とは打って変わって、
どこかぎこちない表情を浮かべていた。
二人の初々しい様子を見ながら、レギュラスの胸に懐かしい記憶が蘇る。
―― アランと初めて出会った時の自分も、きっとあんな風だったのだろう。
彼女の美しさと可愛らしさに一瞬で心を奪われ、
どう振る舞えばいいかわからず戸惑っていた少年の頃の自分。
「イザベラ嬢、お緊張なさっているようですが、どうぞお気になさらずに」
アランが優しく声をかけると、イザベラは安堵したように小さく頷いた。
「ありがとうございます。アラン様のお美しさに、圧倒されてしまっておりました」
その素直な言葉に、会場が温かい笑い声に包まれる。
レギュラスは静かに微笑みながら、この微笑ましい光景を心に刻んでいた。
息子の人生の新たな章が、今まさに始まろうとしていた。
燭台の光が優しく二人の若者を照らし、
未来への希望が静かに宴の空気に溶け込んでいった。
ホールの奥、祝宴のざわめきの中、アルタイルはふと視線を彷徨わせながら、そっと立ち止まった。
遠くにいる母の姿が目に入る。誰かと微笑を交わしながら、けれど決して浮ついた色ではなく、静かにその場に気品をもたらしていた。
――美しい。
思わず、そう呟きそうになる。
母は背筋をまっすぐに伸ばし、青銀のドレスの裾を静かに揺らしていた。
鋼のような凛とした佇まい。
それなのに柔らかさと優しさを失わず、光を纏うようにして、舞台の隅ではなく真っ直ぐに「家族の中心」に立っていた。
最後にホグワーツから帰省したその冬の日を思い出す。
母は深い眠りについていた――
医師の言葉では回復は見込めず、ただ安らかな時間を、と。
ベッドの隣で過ごした夜、冷たい母の手を握ったまま祈った。
もう一度だけでいい、目を覚ましてほしいと。
あのとき感じた喪失の予感と恐怖を、アルタイルは決して忘れはしなかった。
だから今夜、こんなにも美しく、堂々と父の隣に立っている姿を目の当たりにして、
安堵を越えた感情が胸を満たしていった。
「本当に母は……」
それは誇りでもあり、同時に痛みでもあった。
ブラック家に嫁いだ女性として、
父の伴侶として、
そして自分と妹の母親として――
母は誰よりも忠実に、この“家”を背負い続けてきてくれた。
それが伝わってくる。
ただそこに立っているだけなのに、
母自身が、どれほどの意思と決意をこの立ち姿に刻んできたのかが痛いほどに伝わってきた。
でも――
「母自身の人生って、いったい……?」
どこに、彼女自身の夢はあったのだろう。
誰が、母の心の声に耳を傾けてきただろう。
それを考えると、涙のように静かで重い切なさが胸に滲んできた。
自分たちのために無償で尽くしてきてくれたその時間が、ただ孤独の上に築かれていたのではないかと思うと、
どこか、申し訳のない気持ちにさえなる。
控えの間から歩み寄ってきたイザベラの姿を見て、アルタイルは少しだけ顔を上げた。
彼女の表情にはやはり緊張が残っており、けれど真剣な想いも見て取れた。
初めて会った時の印象――
静かで、あまり口を開かず、瞳も冷たく感じた。
臆病なほどの壁をまとった少女だと、ずっと思っていた。
けれど数回の対面の中で、少しずつ彼女の姿は変わって見え始めていた。
なにより、先日ふとした会話で、
「お母様、とても美しい方ですね」と、
イザベラがまっすぐな声で伝えてくれたあの言葉――
それが不思議なくらいに嬉しかった。
本心だった。取り繕う言葉ではなかった。
その一言で、彼女の中の見えなかった輪郭に、やさしい色を感じた。
今となっては、彼女が少し口下手でも、表情が硬くても、
緊張に頬を紅く染める姿に、ただ素直に「可愛らしい」と思える。
父が母を愛したように。
自分もまた、この少女を――
いつかきっと、恋や愛と呼べる気持ちで心から想えるようになればいい。
その小さな温もりのような期待が、
静かに、胸の奥に根を下ろし始めているのを、
アルタイルは確かに感じていた。
宴の喧騒が遠ざかり、夜の静寂が食卓を包み込んでいた。
ささやかな灯火のもと、二人は肩を並べて向かい合う。
長い夜を終えたばかりの空気が、どこか柔らかく、少しだけ名残惜しさも感じさせていた。
アランはすでにナイトドレスに着替えており、髪をゆるく結び直している。
深く息を吐きながら背もたれに身を預けるその姿には、晴れの舞台に立っていた時の緊張がすっかり解けていて、レギュラスにはそれが、何よりも安堵を与えていた。
絢爛なドレスを纏い、美しく張り詰めた時間の中に咲いていたアランも誇らしかった。
けれど、それがあまりにも完璧であればあるほど、彼女の内側――支えてきた痛みや苦しみが、そこに埋もれてしまいそうで、どこか怖かった。
だから今こうして、静かな食卓に寄り添う自然な姿こそが、
レギュラスにとっては何より彼女らしい気配だった。
小さく微笑んで、彼が言う。
「疲れたでしょう」
アランは首を傾け、微笑の奥にほんの少しの茶目っ気を滲ませながら返す。
「あなたこそ、囲まれていたものね。皆、ずいぶん息子のことを褒めていたわ」
頬に影が差すほどの数々の賛辞、その言葉を誇りにも思いながら、
レギュラスの心はやはり―― アランのいる場所でしか、落ち着かなかった。
ふと、彼が言った。
「……アルタイル、少し緊張していましたね」
アランはフフ、と喉の奥で小さく笑う。
「ええ、とても可愛らしい姿でした。まだ彼にも、守られたい顔があるのね」
レギュラスは遠くを見つめるような目をして、懐かしむように言葉を紡いだ。
「まるで、少年時代を思い出しますよ」
アランが少し首をかしげて――冗談めいた声で問い返す。
「あなたにも、そんな時代があったの?てっきり生まれた時から威厳に満ちていたのかと」
レギュラスは小さく目を細めて微笑んだ。
「ありましたよ。あなたは覚えていないでしょうが……」
ふと、胸の奥が静かに疼くような記憶が蘇る。
初めてこの屋敷に、あの“セシール家の少女”がやってきた日のこと――
兄、シリウスの婚約者として。
落ち着いた足取りで敷居を越え、微笑みながら兄の隣に立っていたあのアランの姿が、
彼の心の中に、永遠に焼きついてしまった。
隣にいるべき人は自分ではなかった。
叶わないことなど分かっていたはずだった。
それでも、たまらなかった。
少年だった自分が、手を伸ばしては指先で空を掴み、
決して届かない光を、ただただ恋い焦がれていた記憶が、
今もなお、どこかで小さく呼吸をしている。
「……アルタイルとイザベラは、これからどんな人生を歩んでいくのでしょうね」
アランがふと照明の揺らぎを見るように、遠くを見つめながら言った。
「アルタイルは僕に似たら、一途ですよ」
レギュラスが軽く肩をすくめるように言うと、彼女が少し口角を上げた。
「私に似たら、浮つくでしょうか?」
その絶妙な返しに、レギュラスは思わず息を漏らすように笑った。
アランもつられるように微笑み、ふと視線が交差する。
まるで何年もかけて磨きあげた仕草のように、
笑いのタイミングも、呼吸の深さも、心の揺らぎすらも、互いに読むまでもなく、ひとつになっていた。
「見事なカウンターでした」
「たまにはね」とアランが静かに返し、またふたりの間に、
優しく、穏やかな静寂が落ちた。
季節は移ろい、宴は去っても。
こうして寄り添い合う時間こそが、
きっとふたりの人生の最も確かな答えだった。
広い窓からあたたかな午前の日差しが差し込む中、ジェームズは無言で、開きっぱなしの新聞に目を落としていた。
真新しいインクの匂いが微かに空気に混じり、その隣ではシリウスが同じページをぼんやりと見つめていた。
魔法界の貴族たちの華やかな婚約宴を伝える記事。
中央には、紋章入りの高貴な幕を背に並ぶ三人の写真が大きく載っていた。
レギュラス・ブラック――変わらない、いや、むしろ以前よりもさらに凛然とした表情と佇まい。
一部の隙もない黒いローブは、彼の鋭さと冷たさすら引き立たせて際立たせていた。
そのすぐ隣にはアルタイル・ブラック。
少年の顔にほんのりと残る幼さの影と、それを塗りつぶすような真剣な眼差し。
まっすぐ前を見据える姿に、父に劣らぬ誇りと覚悟が滲んでいた。
そして、その二人の後ろで静かに、しかし圧倒的な存在感で立っているのが―― アラン・ブラック。
柔らかくまとめられた黒髪、淡く気品あるドレス、そしてどの写真よりも透明感を感じさせる目元。
決して主張するでもなく、ただ佇んでいるだけで、強さと美しさを同時に語るような存在だった。
ジェームズはそっと視線を横に向ける。
隣にいる親友は、この写真をどんな想いで見ているのだろう、と。
シリウスはほとんど顔を動かさず、目だけでじっとその頁を見つめていた。
瞬きひとつさえ惜しいように、何かを噛み締めるように――だけど、その横顔には、確かな敗北の影が滲んでいた。
手がかりは、もうほとんど存在していない。
唯一追いかけられる術があったはずの“後消し呪文”でさえ、もう理由付けと論理で綺麗に切り落とされている。
あらゆる隙を封じ、光の中を歩くように見せながら、レギュラス・ブラックは完全に『勝った』。
ジェームズは心のどこかで、それを認めざるを得なかった。悔しく、不快だったが、それでもなお「事実」として。
アリス・ブラック――
今やシリウスがその名を授け、家族とした少女もまた、レギュラスを追い詰めたかった。
あの出来事の中で初めて「守られた」と感じられた人。
母のように、姉のように、自分の世界に光を差してくれたアランという存在に、憧れのような、崇拝のような気持ちを抱いていた。
でも、そのアランもまた――
決して誰にも渡せないような形で、レギュラスの傍にいる。
レギュラスを“守る”ようにして隣に立ち、決して振り向かない。
どれほどの想いにも、どれだけの祈りにも、
決して応えてはくれないひとが、そこにいる。
ジェームズは思う。
この二人――シリウスと、アリスの、向け続ける想いは、いったいどこで終わるのだろう。
どこで「もう届かない」と言ってやるべきなのか。
どこまで「頑張れ」と言ってやるべきなのか。
正直、もうわからなかった。
慰めができるほど、軽くない。
肯定ができるほど、易しくない。
この写真はいっそ芸術的にさえ見えた。
破綻のない構図、欠けるもののない三人。
それに手を伸ばし、壊そうとするのは、おそらく、もう愚かに見えるだけなのだろう。
「届かないものを、持ち続けるのは……」
言葉にしかけて、ジェームズはやめた。
シリウスは、微動だにしないまま新聞を閉じ、静かに立ち上がった。
ジェームズは追いかける言葉を見つけられず、ただその背中を見送った。
自分にできることが、あるのか。
そして、あると言ってよかったのか――
友の沈黙と、その想いの深さだけが、やけに重く胸に残っていた。
黒い木目の机に並ぶ資料の上を、デスイーターの一人が恭しく一礼し、簡潔な報告を告げる。
「騎士団の連中、依然として貴方の“後消し”の呪文痕にすがって動いています。
何か別の証拠が出てくると信じて、あちこちで痕跡魔法を重ねているようですが……成果は全く上がっておりません。ほとんど詰んでいる状態です」
窓の外では風が木々を揺らしていた。
レギュラスは深く背に凭れ、ゆっくりとまぶたを伏せる。
「そうですか」
その声にはほのかな安堵が滲んでいた。
確かに――
後消しの呪文をあの距離で感知され、さらに自分の魔力がそこに紐づいてしまったことは、正直なところ誤算だった。
予想外だった。
けれど、致命的ではなかった。
彼は即座に軌道を修正し、まるでそれが別の任務に伴った偶発的な魔力反応であるかのように説明を整え、
すべてを「収束させる」方向へと、綿密に誘導した。
他の隙は一切見せていない。
現場に残されていた痕跡はすべて処理してある。
闇の帝王の魔力、デスイーターの存在を示すあらゆる証拠は、あの場所から跡形もなく取り除いてあった――
レギュラス自身の手で。
純血魔法使いの関与など、まったくの風聞だ。
それが、魔法界に浮かぶ“真実”となるように仕向けておいた。
彼の瞳がわずかに細められる。
騎士団がどれだけ血眼になって粗探しをしても、出てくるはずがない。
掘れば掘るほど空を切り、手応えのない霧の中を漂い続けるだけだ。
なぜなら――
最初から、出せる証拠など一つとして残してはいないのだから。
「……無駄ですよ」
誰にともなくつぶやくように口にしたその声音には、嘲笑にも似た余裕があった。
部屋の空気が少しだけ軽くなる。
あの男――シリウス・ブラックですら、レギュラスの嘘を打ち破ることはできなかった。
売り言葉と皮肉を交わし、静かな牽制と挑発が重なったあの日。
シリウスの正義がめらめらと燃え上がろうとも、
理性と整然とした理屈の中に隙を見せなかった自分が――勝ったのだ。
報告を終えた部下が静かに姿を引き、執務室には再び沈黙が戻る。
その静寂の中、レギュラスはゆっくりと立ち上がり、深くひとつ呼吸を吐いた。
“正しさ”は時に脆い。
だが、“整った構造”は、崩れない。
自分は後者を、慎重に、冷静に築き上げたのだ。
外の風の音を遠くに聞きながら、レギュラスは静かに目を閉じる。
胸の奥には確かに勝利の手応えがある――
それは、誰にも触れてはならない、闇の中の冷ややかな充足だった。
寝室には夜の余韻が静かに漂っていた。
重ねられた呼吸も徐々に穏やかになり、微かな灯りの下、レギュラスとアランは並んで横たわっていた。
天井の影が揺らめく。窓の外から微かに虫の声が忍び込み、静寂をさらに際立たせている。
そんな中、アランがそっと顔を向けて、囁くような声で尋ねた。
「レギュラス……なにか、私にしてほしいことはありませんか?」
その瞳は真剣だった。濁りも打算もなく、ただ心からの願いが、そっとそこに置かれていた。
レギュラスは一瞬、息を止める。
ありがたい提案だった。だが──そういうことではなかった。
彼にとって、アランが今もこの屋敷にいて、自分の帰りを待っていてくれること。
それだけで、奇跡のようだったから。
「何もありませんよ。ただ……そこにいてくだされば、それでいいです」
その言葉は静かで、しかし深い安堵を含むものだった。
すると、唐突に、アランが上体をガバッと起こし、レギュラスの顔を真剣に覗き込んだ。
「でも、なにか欲しいものくらい、ありませんか?」
少し熱を帯びたその声に、レギュラスは戸惑い、眉を寄せる。
「本当に、何も要りません。……どうして、そんなに何かをくれようとするんです?」
それは不思議だった。
彼女の差し伸べる手は、いつだって惜しみなく温かく、美しかった。
それでも、そんなふうに何もかもを与える覚悟を抱いているような彼女の行動は、どこか、恐ろしいとも感じてしまう。
あまりに深く、切実で、儚い。
アランは、まるで最初から答えが決まっていたかのように、静かに、しかしまっすぐに言った。
「だって……私の命はもう、あなたのものでしょう?」
その声音には、まるで当たり前のような平穏さがあった。
何ひとつ誇張せず、押しつけもない――ただ、そう信じているからそう言った、というような、あまりにも純粋な響きだった。
レギュラスは息を呑んだ。
究極の愛の言葉。
無垢な従順の極み。
そして、彼を深く沈黙させる響きを持っていた。
「あなたが望むのなら、私はこの命を……躊躇わず、差し出せます」
アランの目は揺れていなかった。あまりにもまっすぐで、悲しいほどに真実だった。
レギュラスは胸が締めつけられるのを感じた。
苦しかった。痛みと怒りが入り混じるような感情。
彼は視線を逸らして、彼女の手をそっと取った。
震えていた。指先が冷たくて、強く握ることができなかった。
「……そんなこと、望みませんよ」
それは、かすれたような声だった。
いつもの毅然とした語調ではなかった。
「わかってくださいアラン。あなたの命は、僕が……命懸けで守ったものなんです」
「たとえ、あなたがそれを僕に捧げようと願っても……僕は、そんな風に簡単に差し出してほしくなんて、ない」
「ただ、生きていてくれるだけで……いいんです」
二人の間に、沈黙が落ちた。
けれどそれは、拒絶や距離ではなく――
痛みと愛が、確かに混ざり合った証のような、やさしい沈黙だった。
アランはゆっくりと横になりなおし、レギュラスの肩に額を寄せる。
レギュラスは、その髪にそっと手を伸ばし、何も言わず、ただ彼女の温もりを確かめ続けた。
静かな夜の中で、二人の吐息だけが交錯していた。
何も問わず、何も与えさせず――
ただ、在り続けることが愛のすべてだと、確かめ合うように。
祝福の言葉と笑い声が、広間のクリスタルに反射して空間を華やかに彩っていた。
天井には高く金のシャンデリアが光を散らし、磨き込まれた大理石の床がその光を優しく受け止めていた。
アルタイル・ブラックとイザベラ・レインズフォード――
若き純血の二人の婚約は、社交界にとっても大きな話題だった。
今宵の宴はその正式な発表の場。まばゆい衣装に身を包んだ賓客たちが集い、両家の新たな繋がりを祝して杯を重ねていく。
アランは、その場にゆっくりと現れた。
そっと滑るようにフロアを歩む彼女の姿に、会場は一瞬、囁くような静寂に包まれる。
繊細に織られた深い銀青のドレスは、清冽な月光のように凛としていて、
病に臥せっていたとは信じられないほど、彼女の気配は美しかった。
上品に結い上げた漆黒の髪は白いうなじに添い、耳元で揺れるモスブルーのガーネットが意志の強さをそっと語っていた。
彼女の一挙手一投足には、慎ましさと威厳が共存していた。
そしてその奥に、何よりも揺るがない役割と誇りがあった。
――自分は、ブラック家に嫁いだ女なのだ。
レギュラスが示す血の威厳と、アルタイルが背負う未来。
そのどちらにも、絶対に影を落とすわけにはいかない。
自分という存在が、妻として、母として、今日という日の“美しさ”そのものに昇華されなければならなかった。
己を支えるのは、見せかけの贅沢ではない。
彼らの人生が一点の曇りなくあるための、覚悟と誇りだった。
「まったく……さすがはブラック家の奥方だ」
「以前よりも、むしろ気品が増したように思える」
「病床にあったという噂が広がっていたが、とても、そんな弱り切った様子には見えないな」
賓客たちは口々に、久方ぶりに姿を見せたアランを讃えた。
褒め言葉がひとつ、またひとつ流れていく。
けれどアランは、微笑むだけでそのすべてを受け流し、言葉には礼を尽くしても、決して驕らなかった。
今夜の主役は、彼女ではないのだから。
ふと横に立ったアルタイルが、静かに彼女に小声で囁く。
「母さん……とても綺麗です」
その言葉に、アランはふっと穏やかに微笑み、息を整えるようにして返した。
「アルタイル、その言葉は……イザベラ嬢へと向けなさいね」
そのやさしい声に、アルタイルは照れくさそうに視線を伏せ、
遠目に立つイザベラを見つめた。彼女はまだ緊張を隠しきれずにいるが、それでも品位を保ち続けようとする姿はけなげだった。
アランは静かに思う。
――この息子も、やがて自分から離れて、新たな家庭を築くのだろう。
その一歩に、この宴がつながっているのなら。
今夜は母として、その背中を見送り、影として彼の未来を照らし続ける。
どうかこの人生に、曇りは来ないと。
そう願いながら、アランは再び背筋を伸ばし、燭台の光の中に身を溶かしていった。
その姿はどこまでも静かで、
けれど、抗いがたい強さと気高さを宿していた。
煌めくシャンデリアの下で、レギュラスは次々と訪れる来賓たちの言葉を穏やかに受け止めていた。
「奥方様は本当に、以前にも増してお美しくいらっしゃいますな」
「これほど気品に満ちた女性は、そうそうお目にかかれるものではありません」
「ブラック家の誇りそのもののようでいらっしゃる」
一つひとつの賛辞に、レギュラスは優雅に微笑み、丁寧に礼を返していく。
その内心では、深い誇らしさが静かに広がっていた。
アランには無理をしなくてもいい、ゆっくり休んでいてくれればそれでいいと告げていたのに――
彼女は想像をはるかに超えた華やかさで現れた。
深い銀青のドレスに身を包み、優雅な仕草でフロアを歩むその姿は、
会場にいるすべての人を魅了していた。
レギュラス自身でさえ、彼女が現れた瞬間、息を止めてしまうほどだった。
病を患っていた面影など微塵も感じさせない、凛とした美しさが、そこにあった。
やがて、レインズフォード家の一行が、恭しく挨拶にやってきた。
イザベラ・レインズフォードもその中にいる。彼女は上品な淡い桃色のドレスを纏い、慎ましやかな表情で立っていた。
「この度は、お忙しい中このような盛大な宴をご準備いただき、ありがとうございます」
レインズフォード家の当主が深々と頭を下げると、レギュラスとアランも丁重に礼を返す。
「こちらこそ、素晴らしいお嬢様をアルタイルの伴侶に迎えていただき、心から感謝しております」
アランの声は穏やかで、母としての温かさに満ちていた。
イザベラは口数が少なく、時おり緊張で頬を染めながら控えめに微笑んでいる。
その隣に立つアルタイルもまた、普段の自信に満ちた様子とは打って変わって、
どこかぎこちない表情を浮かべていた。
二人の初々しい様子を見ながら、レギュラスの胸に懐かしい記憶が蘇る。
―― アランと初めて出会った時の自分も、きっとあんな風だったのだろう。
彼女の美しさと可愛らしさに一瞬で心を奪われ、
どう振る舞えばいいかわからず戸惑っていた少年の頃の自分。
「イザベラ嬢、お緊張なさっているようですが、どうぞお気になさらずに」
アランが優しく声をかけると、イザベラは安堵したように小さく頷いた。
「ありがとうございます。アラン様のお美しさに、圧倒されてしまっておりました」
その素直な言葉に、会場が温かい笑い声に包まれる。
レギュラスは静かに微笑みながら、この微笑ましい光景を心に刻んでいた。
息子の人生の新たな章が、今まさに始まろうとしていた。
燭台の光が優しく二人の若者を照らし、
未来への希望が静かに宴の空気に溶け込んでいった。
ホールの奥、祝宴のざわめきの中、アルタイルはふと視線を彷徨わせながら、そっと立ち止まった。
遠くにいる母の姿が目に入る。誰かと微笑を交わしながら、けれど決して浮ついた色ではなく、静かにその場に気品をもたらしていた。
――美しい。
思わず、そう呟きそうになる。
母は背筋をまっすぐに伸ばし、青銀のドレスの裾を静かに揺らしていた。
鋼のような凛とした佇まい。
それなのに柔らかさと優しさを失わず、光を纏うようにして、舞台の隅ではなく真っ直ぐに「家族の中心」に立っていた。
最後にホグワーツから帰省したその冬の日を思い出す。
母は深い眠りについていた――
医師の言葉では回復は見込めず、ただ安らかな時間を、と。
ベッドの隣で過ごした夜、冷たい母の手を握ったまま祈った。
もう一度だけでいい、目を覚ましてほしいと。
あのとき感じた喪失の予感と恐怖を、アルタイルは決して忘れはしなかった。
だから今夜、こんなにも美しく、堂々と父の隣に立っている姿を目の当たりにして、
安堵を越えた感情が胸を満たしていった。
「本当に母は……」
それは誇りでもあり、同時に痛みでもあった。
ブラック家に嫁いだ女性として、
父の伴侶として、
そして自分と妹の母親として――
母は誰よりも忠実に、この“家”を背負い続けてきてくれた。
それが伝わってくる。
ただそこに立っているだけなのに、
母自身が、どれほどの意思と決意をこの立ち姿に刻んできたのかが痛いほどに伝わってきた。
でも――
「母自身の人生って、いったい……?」
どこに、彼女自身の夢はあったのだろう。
誰が、母の心の声に耳を傾けてきただろう。
それを考えると、涙のように静かで重い切なさが胸に滲んできた。
自分たちのために無償で尽くしてきてくれたその時間が、ただ孤独の上に築かれていたのではないかと思うと、
どこか、申し訳のない気持ちにさえなる。
控えの間から歩み寄ってきたイザベラの姿を見て、アルタイルは少しだけ顔を上げた。
彼女の表情にはやはり緊張が残っており、けれど真剣な想いも見て取れた。
初めて会った時の印象――
静かで、あまり口を開かず、瞳も冷たく感じた。
臆病なほどの壁をまとった少女だと、ずっと思っていた。
けれど数回の対面の中で、少しずつ彼女の姿は変わって見え始めていた。
なにより、先日ふとした会話で、
「お母様、とても美しい方ですね」と、
イザベラがまっすぐな声で伝えてくれたあの言葉――
それが不思議なくらいに嬉しかった。
本心だった。取り繕う言葉ではなかった。
その一言で、彼女の中の見えなかった輪郭に、やさしい色を感じた。
今となっては、彼女が少し口下手でも、表情が硬くても、
緊張に頬を紅く染める姿に、ただ素直に「可愛らしい」と思える。
父が母を愛したように。
自分もまた、この少女を――
いつかきっと、恋や愛と呼べる気持ちで心から想えるようになればいい。
その小さな温もりのような期待が、
静かに、胸の奥に根を下ろし始めているのを、
アルタイルは確かに感じていた。
宴の喧騒が遠ざかり、夜の静寂が食卓を包み込んでいた。
ささやかな灯火のもと、二人は肩を並べて向かい合う。
長い夜を終えたばかりの空気が、どこか柔らかく、少しだけ名残惜しさも感じさせていた。
アランはすでにナイトドレスに着替えており、髪をゆるく結び直している。
深く息を吐きながら背もたれに身を預けるその姿には、晴れの舞台に立っていた時の緊張がすっかり解けていて、レギュラスにはそれが、何よりも安堵を与えていた。
絢爛なドレスを纏い、美しく張り詰めた時間の中に咲いていたアランも誇らしかった。
けれど、それがあまりにも完璧であればあるほど、彼女の内側――支えてきた痛みや苦しみが、そこに埋もれてしまいそうで、どこか怖かった。
だから今こうして、静かな食卓に寄り添う自然な姿こそが、
レギュラスにとっては何より彼女らしい気配だった。
小さく微笑んで、彼が言う。
「疲れたでしょう」
アランは首を傾け、微笑の奥にほんの少しの茶目っ気を滲ませながら返す。
「あなたこそ、囲まれていたものね。皆、ずいぶん息子のことを褒めていたわ」
頬に影が差すほどの数々の賛辞、その言葉を誇りにも思いながら、
レギュラスの心はやはり―― アランのいる場所でしか、落ち着かなかった。
ふと、彼が言った。
「……アルタイル、少し緊張していましたね」
アランはフフ、と喉の奥で小さく笑う。
「ええ、とても可愛らしい姿でした。まだ彼にも、守られたい顔があるのね」
レギュラスは遠くを見つめるような目をして、懐かしむように言葉を紡いだ。
「まるで、少年時代を思い出しますよ」
アランが少し首をかしげて――冗談めいた声で問い返す。
「あなたにも、そんな時代があったの?てっきり生まれた時から威厳に満ちていたのかと」
レギュラスは小さく目を細めて微笑んだ。
「ありましたよ。あなたは覚えていないでしょうが……」
ふと、胸の奥が静かに疼くような記憶が蘇る。
初めてこの屋敷に、あの“セシール家の少女”がやってきた日のこと――
兄、シリウスの婚約者として。
落ち着いた足取りで敷居を越え、微笑みながら兄の隣に立っていたあのアランの姿が、
彼の心の中に、永遠に焼きついてしまった。
隣にいるべき人は自分ではなかった。
叶わないことなど分かっていたはずだった。
それでも、たまらなかった。
少年だった自分が、手を伸ばしては指先で空を掴み、
決して届かない光を、ただただ恋い焦がれていた記憶が、
今もなお、どこかで小さく呼吸をしている。
「……アルタイルとイザベラは、これからどんな人生を歩んでいくのでしょうね」
アランがふと照明の揺らぎを見るように、遠くを見つめながら言った。
「アルタイルは僕に似たら、一途ですよ」
レギュラスが軽く肩をすくめるように言うと、彼女が少し口角を上げた。
「私に似たら、浮つくでしょうか?」
その絶妙な返しに、レギュラスは思わず息を漏らすように笑った。
アランもつられるように微笑み、ふと視線が交差する。
まるで何年もかけて磨きあげた仕草のように、
笑いのタイミングも、呼吸の深さも、心の揺らぎすらも、互いに読むまでもなく、ひとつになっていた。
「見事なカウンターでした」
「たまにはね」とアランが静かに返し、またふたりの間に、
優しく、穏やかな静寂が落ちた。
季節は移ろい、宴は去っても。
こうして寄り添い合う時間こそが、
きっとふたりの人生の最も確かな答えだった。
広い窓からあたたかな午前の日差しが差し込む中、ジェームズは無言で、開きっぱなしの新聞に目を落としていた。
真新しいインクの匂いが微かに空気に混じり、その隣ではシリウスが同じページをぼんやりと見つめていた。
魔法界の貴族たちの華やかな婚約宴を伝える記事。
中央には、紋章入りの高貴な幕を背に並ぶ三人の写真が大きく載っていた。
レギュラス・ブラック――変わらない、いや、むしろ以前よりもさらに凛然とした表情と佇まい。
一部の隙もない黒いローブは、彼の鋭さと冷たさすら引き立たせて際立たせていた。
そのすぐ隣にはアルタイル・ブラック。
少年の顔にほんのりと残る幼さの影と、それを塗りつぶすような真剣な眼差し。
まっすぐ前を見据える姿に、父に劣らぬ誇りと覚悟が滲んでいた。
そして、その二人の後ろで静かに、しかし圧倒的な存在感で立っているのが―― アラン・ブラック。
柔らかくまとめられた黒髪、淡く気品あるドレス、そしてどの写真よりも透明感を感じさせる目元。
決して主張するでもなく、ただ佇んでいるだけで、強さと美しさを同時に語るような存在だった。
ジェームズはそっと視線を横に向ける。
隣にいる親友は、この写真をどんな想いで見ているのだろう、と。
シリウスはほとんど顔を動かさず、目だけでじっとその頁を見つめていた。
瞬きひとつさえ惜しいように、何かを噛み締めるように――だけど、その横顔には、確かな敗北の影が滲んでいた。
手がかりは、もうほとんど存在していない。
唯一追いかけられる術があったはずの“後消し呪文”でさえ、もう理由付けと論理で綺麗に切り落とされている。
あらゆる隙を封じ、光の中を歩くように見せながら、レギュラス・ブラックは完全に『勝った』。
ジェームズは心のどこかで、それを認めざるを得なかった。悔しく、不快だったが、それでもなお「事実」として。
アリス・ブラック――
今やシリウスがその名を授け、家族とした少女もまた、レギュラスを追い詰めたかった。
あの出来事の中で初めて「守られた」と感じられた人。
母のように、姉のように、自分の世界に光を差してくれたアランという存在に、憧れのような、崇拝のような気持ちを抱いていた。
でも、そのアランもまた――
決して誰にも渡せないような形で、レギュラスの傍にいる。
レギュラスを“守る”ようにして隣に立ち、決して振り向かない。
どれほどの想いにも、どれだけの祈りにも、
決して応えてはくれないひとが、そこにいる。
ジェームズは思う。
この二人――シリウスと、アリスの、向け続ける想いは、いったいどこで終わるのだろう。
どこで「もう届かない」と言ってやるべきなのか。
どこまで「頑張れ」と言ってやるべきなのか。
正直、もうわからなかった。
慰めができるほど、軽くない。
肯定ができるほど、易しくない。
この写真はいっそ芸術的にさえ見えた。
破綻のない構図、欠けるもののない三人。
それに手を伸ばし、壊そうとするのは、おそらく、もう愚かに見えるだけなのだろう。
「届かないものを、持ち続けるのは……」
言葉にしかけて、ジェームズはやめた。
シリウスは、微動だにしないまま新聞を閉じ、静かに立ち上がった。
ジェームズは追いかける言葉を見つけられず、ただその背中を見送った。
自分にできることが、あるのか。
そして、あると言ってよかったのか――
友の沈黙と、その想いの深さだけが、やけに重く胸に残っていた。
